烏が鳴くから
帰りましょ

最初のお話

「おじさーん、お蕎麦おかわりー!」

「あいよっ、替え玉一丁!」

 太陽がカンカンと照りつける真夏日でもお江戸の町は平常運航で、日の本一の活気を吹きあげていた。
 大八車がガラガラと駆けていくのに飛びつこうとした悪ガキが、母親のげんこつを貰ってしょぼくれる。そんな平穏な日常風景が暖簾の向こうにある蕎麦屋。一人の少女が威勢良く、空のセイロを突き出していた。
 禿頭にねじり鉢巻きの店主が、氷水で冷やした麺を大盛りにしてつっ返す。受け取った少女はすぐさま麺をつゆにひたし、景気良くずるずると音を立ててすすった。
 店内に居並ぶ客は、どいつもこいつも図体のでかい、むさくるしい男ばかり。仕事の合間をぬって腹を膨らましに来た為か、むせるような汗の臭いすらある。そんな連中の横に座っているこの少女は、背丈は五尺(150cm)前後の色白の、そして細っこい娘であった。

「ぷはー……ごちそうさま! お代はいつもの所ねー!」

「はいはい、『錆釘(さびくぎ)』にツケておくよ」

 ものの二分か三分。セイロはすっかり空になり、麺つゆも随分薄まってしまっている。脇に座る大男が一杯平らげる間に、少女は二杯の蕎麦を食べ終わり、町の喧騒に負けぬ高い声を張り上げた。
 この店の常連にしてみれば、この光景はもはや夏の風物詩と言っても良い。三年前、外来船と共にこの江戸に流れ着いた少女は、今ではいい歳をした男どもの娘扱い、癒しとなっているのである。
 どこの生まれかは誰も知らない。灰色の髪と、目鼻立ちのはっきりした顔は、日の本の生まれではないとだけ予想がついた。
 十四になっても人懐っこさと愛嬌を失わないこの少女は、気難しい年頃の子どもを抱えた父親連中には、確かに心の慰めとなるのだろう。

「それじゃ、行ってくるねー!」

「えぇ、おいおい、気が早いじゃねえか! 急ぎの用でも有るのかい?」

「用もそうだけど喧嘩! 速くしないと終わっちゃうじゃない!」

 さあとやってきてさあと立ち去る、にわか雨にも似た有り様。名残惜しげな男どもの声を背に、少女は通りへ飛び出していく。

「……うーし野郎ども、見に行くぞ!」

「おうっ!!」

 遅れること二十数え。店主以下九名が、少女の後を追って走りだす。
 火事と喧嘩は江戸の華。花は桜木、人は江戸っ子、武士なぞ物の数でなし。開国より五十年、江戸の町の気風は何も変わらず、寧ろ庶民を中心に、より『粋』を好む風潮が広がっていた。


 そも遡れば吉宗公の御世、日の本は、国をひっくり返さんばかりの大騒動に見舞われた。東の海より江戸に辿り着いた巨大黒船と、その船員達の持つ摩訶不思議な力に、である。
 指先から火を起こし、生身で空を飛び、空の器を水で満たす。いかな奇術大道芸よりも珍妙で、かつ種も仕掛けも見受けられない技に、人々はおそれおののいた。その力を盾に迫った列強が開国を要求したのは、今は別な話として置いておく。
 人が生まれながらに持つ『魔力』をよろずの用途に使う、算術にも武術にも似た新たな学問、『魔術』。それは勤勉な日の本の住人には、非常にしっくりくる分野であったらしい。
 十年で、全ての藩に、魔術を扱う専門の藩校が作られた。更に十年で、庶民の中の富裕層が、教養として魔術学を修めるに至る。その後三十年の間には、魔術は庶民の一般常識として、母親が子供に教える程にまで広がったのだ。
 天下泰平の江戸の世、悪さに魔術を使う輩はあれど、与力お奉行十手持ちに至るまでも、やはり魔術を身につけている。全員が力を持っているから、なんやかんやで釣り合いは取れているのだった。

「やっほー、私にお仕事が入ったんだって?」

「受付前で騒がんでおくれ……ああ、そうそう、あんたをご指名だとさ」

 さて、また話は変わって、喧嘩見物も済んでの事である。
 少女の職場は『錆釘』と呼ばれる人材派遣業だった。
 カタログと呼ばれる冊子に顔写真(これも黒船から伝わった舶来物)と名前、得手とする分野を記述し、無料であちらこちらに配る。何らかの人材を必要とする者はそれを見て連絡を取り、一定期間の雇用契約を結ぶのだ。
 先に語った魔術が関係してくるのもこのあたりからで、『錆釘』は魔術の指導に力を入れているのだ。
 即戦力に出来ない人間であろうとも、教育次第では優秀な術者になり得る。そして、教育に掛かった費用は、後々に色々な名目で中抜きをして回収する、という寸法である。
 中にはこの少女の様に、魔術の心得が薄い者もいるのだが、その場合はまず確実に、常人では持たぬ何らかの技術を身につけているのが通例だ。
 以上の様に、派遣する人材の質の高さから、『錆釘』の評判はすこぶる良い。短期間の子守りから、場合によっては長期にわたる大店の番頭代理まで引き受けている。
 洋風御殿の玄関ホール、片手間に縫物をする受付のおかみさんから、少女は辞令を受け取った。

「ええと、何々? 品川宿は達磨屋二階……岡場所の宿じゃない。え、本気?」

「うちは身を売れなんて無茶は言わないよぉ、そこのお客さんが呼んでるのさ。なんでも探し物だそうでね、ならあんただろうって話が決まったわけ」

「ああ、びっくりした……でもあの町、空気が馴染まないんだよねー。ま、行くけどさ。日時とか内容は?」

「それが、なぁんも聞かされてない。使いを走らせてきて、『来られる時によこせ。見てから細かい事は決める』だそうな」

「結構無茶苦茶だね、その人」

「無茶苦茶だろう? だったらあんたの領分だ」

『錆釘』での辞令は、石灰で板に文字を書いただけのもの。令を受けた本人が閲覧すれば消され、また受付の壁にぶら下がる。

「おもいっきり景気よく行っておいで。最初の挨拶が肝心だ、いいね!」

「らじゃー!」

 西洋被れと揶揄される事もある挨拶で、弾けるように駆けだしていく少女。自慢の健脚、目的の宿まで四半刻とかかるまい。結いもしない灰色の髪が、夏の暑さを緩和するようにそよいだ。








「さ・て・と。こーいうところは、あんまり慣れてないんだけどなあ。臭いもキツいし」

 行き交う人の数は、先程の通りに比べれば少ない。だが、それも日中だけの事。ここは岡場所品川宿、夕暮れから夜に掛けて賑わう町だ。
 蕎麦屋の通りは汗や煙の臭いがするが、この町は白粉やお香の匂いが、宿の柱にまでしみついている。深呼吸などしようものなら咳き込みそうだ。
 地図はなくとも、近隣の町の屋号くらいは覚えている。中でも達磨屋といえば、ひときわ大きな宿。探さずともすぐに見つかった。

「いらっしゃー……い? おいおい嬢ちゃん、ここは普通の宿じゃないぜ、他を当たんな」

 客寄せの男が、宿の看板を見上げる少女に、気取った声を掛けてくる。

「知ってるってば! あのね、お仕事で来たの」

「仕事ォ!? ぶったまげたぜあんた、んな若さでここまで身を落とさんでも」

「ちーがーう!」

 客寄せの男も、分かって言っているのだろう。芝居がかった動作で顔を覆い、世の不条理を嘆くように首を振る。飄々とした態度に、思わず彼の頭をひっ叩いてしまう少女。

「あのね、私は『錆釘』の人間なの!」

「おー痛ぇ……で、二階の御大尽様のおよびだろう? 話は聞いてるさ、上がって上がって」

「……なんだ、知ってるんじゃない。それじゃお邪魔しまーす!」

 叩かれた場所を撫でさすりながらも、客寄せの男は少女を招き入れ、丁寧に階段の下まで案内してやった。

「一番奥の襖だぞ、部屋ぁ間違えんなよー……いやまあ、今はお客人は他にいねえけどよ」

「そりゃ良かった、ありがとう。只今まいりますよお客様ー」

 とんとんとん、小気味良い音と共に、少女は二階へ上がっていく。


 照明器具など夜間にしか使わない。灯り取りの窓は有れど、やはり薄暗い。立地条件は良いようで、真夏日の今日も風が入り、達磨屋の中は非常に涼しかった。
 左右に襖の並ぶ廊下の最奥―――障子を使わないのは、影が映るからだろうか――の前に、少女は行儀よく両膝を付いて、

「『錆釘』よりお呼びに預かりまして、村雨、只今参りました!」

 定形の口上と名乗り。廊下に声がくわんと響き、また静けさが数瞬。

「入れ」

 たった一言を返したのは、吹きこむ風のように涼しげな、女の声だった。

「失礼します。さっそくですが、雇用条件についての説め―――」

 灰色の髪の少女――村雨は、こうべを垂れたまま襖を開け、深く一礼する。顔を上げ、職務内容である雇用契約の締結を行おうとした村雨は、口を半開きにしたまま表情を凍りつかせた。
 知識として理解していた事ではあったが、そういう実例を目にした事はない。そして、目にしたとしてすぐに納得出来る程には、村雨は柔軟な頭をしていなかった。もう少し世慣れた者であったのなら、驚愕を表に出す事もなく、ただ目を伏せるに留めただろう。
 端的に言うならば村雨は、この町を訪れるにあたり、少々覚悟が足りなかったのである。


「……ああら、もうお仕事でありんすか……? もう、数日は泊まると言ってくださいましたのに……」

 暗い八畳部屋の中央には、布団が一揃いだけ敷かれていた。そこに、人の影が二つ。
 寝乱れた緋絹を引っかけただけの女が、男を絆す猫撫での甘え声で、もう一つの影に纏わりついている。禿童が髪結いをせぬまま育った様な長い髪は、露わになった肩や胸に被さり、肌を覆い隠していた。
 だが、その麗しの黒髪さえ、『彼女』と比べれば劣っただろう―――『彼女』だ、『彼』ではない。
 美しい黒髪を、烏の濡れ羽色と呼ぶ。『彼女』の髪は、まさしく若烏が水を浴びた後の、闇との境目さえ知れぬ黒だった。上体を起こして尚、敷布団の上に広がる程に長く。指に取れば水のように零れ落ちるだろうと信じられる程に、三尺の髪に一つのクセもない。

「すまんな、今日は外へ出る。……なあに、明日の夜にはまた来るとも。それでよかろう?」

「いいえ、許しんせん。嘘つきの主様でありんす、明日もわっちは待ちぼうけでありんしょう」

「そうむくれるな高松、私も夜明けが憎らしい。だが、もう日は高いのだ」

「言い訳など聞きたくありんせん、やはり主様は――――――、あ、ん……」

 両肩に乗せた黒襦袢と己の長髪で、『彼女』は、高松と呼ばれた女――言葉遣いから知れるだろう。遊女である。岡場所の安遊女にしては堂に入ったものだ――を胸に掻き抱き、長かむろの髪に指を通す。そっぽを向いた高松の顎に指を引っかけ、上を向かせ、不平零す口を唇で塞いだ。

 村雨は、まず目を擦って、眼前の光景が真実かを確認した。間違いない、人の体温はそこにあるし、生きている人間の匂いがする。だから次は、この光景に理屈をつけようと、知識を可能な限り並べて、筋道を立てようとした。
 そうすればする程に、暗い部屋の中で睦言を交わす女達を、目に刻まれる。見るまいと思えども、眼球が横へ動かず、瞼が降りようとしない。ぽかんと口を開けたままで、村雨は、二人の黒髪が重なり合うのを見ているしかなかった。
 男と女がそうしていたのならば、村雨はこうまで思考を痺れさせ、身を硬直させずに居られただろう。片方が醜女か、そうでなくとも平凡な顔立ちであったのなら、目をそむけて事務的な態度に徹する事ができた筈だ。
 高松という遊女は、少女の目から見ても鮮やかな、色香の漂う女だった。細くしなやかな腕、括れた腹、舐る様な言葉回しは、同性の村雨をして赤面させる程である。
 だが、それ以上に村雨を惑わせたのは、塗れ羽烏の髪の『彼女』だった。

「どうした、説明をするのではなかったか?」

「――え、ぁ……あ、はい! 説明させていただきます! まず私ども『錆釘』は……―――」

 言葉を続けるよう促す『彼女』に、答えた村雨の声は裏返っていた。咳払いも出来ず、常よりも早口に、少女は頭の中に用意した台本を読み上げていく。その間も『彼女』の顔が、目が、村雨の心を萎縮させ、同時に惑乱させてもいた。
 意思が強く、キツそうな目だ。柳眉に沿って目尻は上がり、目を身開くだけで何かを睨みつけているようにさえ感じられる。然し、不思議と恐怖心はない。表情は薄く、だからこそ高松に向けた僅かな笑みさえ、多大な慈愛の発露に思えた。
 説明を聞いている間、『彼女』は一度も、村雨から視線を外さなかった。氷像の如き面貌は、心中に抱いた思いを僅かにさえ零さない。

「……成程、良く分かった」

「はい……以上で、説明は終了でございます、ます……」

 『彼女』が言葉を発するまで、村雨は、自分が語るべき全てを語り終えた事にさえ気づかなかった。
 ただ、部屋が暗いな、と。その為に、『彼女』の黒髪が良く見えないと残念がった事だけ、後に思い出せた。

「よし、立て。気を付け」

「は、はいっ!」

 村雨は火が付いた栗のように立ち上がり、両手を伸ばし、直立する。『彼女』が高松を布団に下ろし、すうと立ちあがった。

「動くなよ」

「は、ひ? え、わわ、わっ!?」

 『彼女』が肩に掛けた黒の襦袢は、その肩と背だけを覆う。肌の殆どを隠すのは、長く伸びた彼女自身の黒髪だ。五尺七寸の背の腰を過ぎるまで。それは、烏の羽のようにも見えた。
 襖を開けたまま敷居の前に留まっていた村雨の前に、『彼女』は音もなく歩み寄った。古傷に塗れた無骨な手が、村雨の肩を、膝を、首を掴む。

「ふむ……腕、良し。脚、良し。首も頑丈……腹はどうだ、それから……」

「ひゃ、くすぐった、やめ、止めて! 止めてくださいー!」

 懇願虚しく、腹、脇腹、胸、二の腕、腿、脹脛……衣服の上からとは言え、村雨は体の殆どの部位に触れられた。痛みを覚悟して強張らせた体は、予想外の擽ったさに驚き、逃げようにも雇用主の命令が―――いや、『彼女』の命が有った。
 腹を抱えて笑い転げる事も出来ないのは、きっと中々に苦しい事だったに違いない。

「……悪くないな。少し細いが、育てば骨も太くなるか……? 良し、最後に一つ確認させろ」

「ぜー、はー……。 あ、か、確認ですか?」

 呼吸を整える村雨。橙黄色の村雨の瞳を、『彼女』の黒い瞳が見下ろす。


「誰かを殺した事はあるか?」

 それは、本当に簡単な問いだった。

「……必要なだけの生き物を、食べる為に殺しました」

 これだけの答えが、生き方を変える理由になるなど、誰が思っただろうか。


「……雪月(ゆづき) (さくら)だ、暫く私の仕事に付き合ってもらう。昼食は済ませたか?」

「はい。 ……つまり、契約成立という事で構いませんね?」

「それでいい。もう少し口調は崩しても構わんぞ、固っ苦しい。半刻で外へ出る」

「畏まりまし―――うん、分かりました!」

 雇い主は『錆釘』と派遣された者に金銭を支払い、雇われる側は契約の範囲内でその指示に従う。この時、村雨と桜の間に交わされた契約は、『とある刀の行方を捜す』というものだった。
 雇い主の意向に従い、可能な限り普段の調子を取り戻そうとした村雨だったが、

「ああそうだ、晒を巻くのを手伝ってくれんか? 一人では少々面倒で―――」

「そこの人に頼んでください!」

 この程度の命令無視は、契約違反にはならない筈。そう思い、後ろ手に襖を閉じたのであった。








「あーびっくりした! びっくりした! 本気でびっくりしたー……!」

 階段を逃げるように駆け降りた村雨は、ここまで抑えていた思いをそのまま言葉にして吐き出した。今もまだ、あの艶やかな絵が目の前をチラついている気がしている。首を強く左右に振って、雑念を振り落とそうとした。

「はっは、そうなるわなぁ。たまーに来るのよ、ああいうお客人はよ」

「ああいうって、その……女の人に会いに来る、女の人?」

「おう、そういうお客人。いやぁ、男なら陰間茶屋にでも行きゃいいんだろうがねぇ、そりゃ女好きの女は困るだろうよ」

 何があったか察しているぞと言わんばかりの表情で、宿の客引きの男が、村雨の肩をばしばしと叩く。直接的な言葉を避けようとしている村雨に対し、客引きの男はあけすけもいいところだ。

「ここはデカい宿だし、何より置いてる女の数が多い。そうなりゃ中には変わった趣味の奴もいてなあ、その手のお客人達にゃ喜ばれるって訳なのよ。
 ……んだが、あのお客人は別格だ! まーさか男客に混じって真正面から来るたあ思わなかったぜ、大概はコソコソ隠れるように来るってのによぉ?」

「……あー、そうなんだ」

 客引きの男の陽気さを適当に受け流しながら、さもありなんと内心では首を縦に振っていた。あの女性、いや我が雇い主にそのような慎みや恥じらい、後ろめたさという概念は存在しないのだろうと、村雨は短時間の邂逅で確信していたのだ。

「ま、着替えて降りてきて飯食って……あっという間だろうさ。嬢ちゃん、昼飯は?」

「お蕎麦食べてきたから大丈夫、ありがと」

「そうかい、んじゃ適当なところに掛けて―――ああ駄目だ、表から見えないところに掛けときな。うちの宿の女と間違われる」

「私、そんな派手な格好してないけど?」

 派手ではないが地味でもない。開国以来、僅かにだが浸透し始めた洋服を、村雨は着ている。

「地味な田舎娘風、っての好む旦那方もいるのよ。ついでに言うと、外国女は大人気だ」

「……ご忠告感謝します」

 男の勧めに従って、通りから見えない奥まった位置の畳に腰掛ける。
 ふう、と一息、胸に手をやった。拍動は、未だに平常の三割増しの速さで、一回一回の強さも段違いだ。
 自分の常識がいかに狭かったか、これまでの雇い主がいかに真っ当な人間だったかを、村雨は思い知らされていた。少なくとも、上下とも服を着て待ってくれているだけで、今の雇い主よりは上等だろう。牛や豚の肉を確かめるように手足を掴まれたのも、当たり前だが初めての経験だ。
 にも関わらず、恐怖や嫌悪といった負の感情が起こらないのは、やはり驚愕で頭が塗りつぶされているからだった。岡場所がそういう行為に及ぶ場所だとは知っているし、行為自体をふとした拍子に見てしまった事もある。書物を読み漁るのは好きな部類で、同性間での交愛についての記述より、知識だけは得ていた。
 それらの要素を全て流してしまう程に、濡れ羽烏の髪の女は生身の体温を感じさせた。遊女の髪を梳く指、薄い笑みしか映さなかったかんばせ、汗に濡れた肌。自分の目で見なければきっと、女の体がああも熱い、火のようなものだとは知らなかったに違いない。
 だが、村雨を何よりも驚かせたのは、それを知った自分が彼女に目を奪われ、しばし言葉を失う程に心を飛ばしてしまったという事だった。
 恐怖で身を縛られた訳ではない。何らかの魔術的要素で、目を離せなくなった訳でもない。敢えて理由を求めるならば、それは自分自身に終始するだろうと、村雨自身が分かっている。分かっているからこそ、何故そうなったのかが分からないのだ。
 両目を手で覆えば、暗転した視界に映るのは、唇同士が重ねあわされたあの一瞬。呼吸を阻害され苦しみながら喜悦に浸る遊女の声が、未だに耳にこびりついている。

「あああああ、もうー……!」

 髪をかきむしった。少女の雇い主のものとは違う、短い髪だ。裸体に蛇のごとく絡み付き、暗室に白く肌を浮かび上がらせるような力は、灰色の髪には無い。

「喧しいな、病気持ちか? 困るぞ、肝心な時にそうなられては」

「ひゃあっ!? あ、降りてきてたなら言ってくださいよ……!」

 草履を脱ぎすて畳の上に仰向けになった村雨を、いつの間にか近づいてきていた雇い主、雪月 桜が見下ろしていた。

「少し待て、飯を食ってから出る……おうい、白米と肉だけでいい!」

 宿の厨房へ、村雨のものよりは何段も低く、だが声量ならば劣らない声が向けられる。事前に用意はしてあったのだろう、程なくして山盛り飯がどんぶり一つと、更に鶏を焼いた肉がでんと一つ乗って、箸と共に出てきた。
 かつかつと飯を食う桜の姿を、村雨はまじまじと見ていた。
 黒の小袖、黒の袴。模様の一つもない真黒の布を、黒の糸で縫い合わせた、夜ならば顔だけが浮いて見えそうな程の黒。墨が生きている様だ。
 座っていても背筋はすうと伸び、箸使いは粗いが持ち方自体は正しい。大口を開けて飯を流し込む様子は、とても美しいとは言い難いが。
 袴の帯に刺さるのは大小一組の刀。これもまた、鞘も柄も鍔も黒塗り。意図的に飾りを排除したような、おかしな刀であった。

「……刀?」

「んぐ、ん……ごくん。ああ、珍しいか?」

「うん……です、ね。最近は、脇差一本しか差してない人ばっかりですし」

 魔術という学問が民衆に浸透してからというもの、刀はこれまでよりもなお、象徴以外の意味を薄める事となった。
 何せ、刀は近づかねば切れないが、魔術は数間離れていようが十分に届き、その気になれば殺傷力も劣らない。切り捨て御免などいう制度は、少なくともこのお江戸の町では風化し、刀を抜けば相応の罰則を受ける世の中になった。そうなれば、腰に邪魔者を二つもぶら下げて歩く理由は薄いのだ。
「二本なくては落ち付かん、それだけの事だ……うむ、ごちそうさま」

 空になったどんぶりと皿を、桜は直接厨房まで運んでいった。
 その時に村雨は気付いたが、桜は歩く時、頭と肩が一切上下しない。幽霊が追ってくる時など、こんな具合ですすと滑る様にやってくるのだろうか。

「体力に自信は?」

「そこそこなら、ですけど」

「十分だ。今日は徹夜だ、いいな」

 未だに活気が薄い岡場所の通りへ、桜はふらりと出ていく。その直ぐ後ろを村雨は、身長差の為にほんの少しだけ、急ぎ足で追いかけた。








「……で、探し物でしたっけ。刀、って?」

「ああ、私のものではないがな。そもそもの話、これを持ちこんだのは……」

 道中、何を探さなければならないのかを、村雨は改めて確認する。歩きながら桜が言う事には、以下の通りだった。
 町外れに、子を一人抱えた母親が住んでいる。夫は既に亡くなったが、生前は下級武士だったのだそうだ。現在は母親が女手一つで働き、生計を立てているとか。
 その家に二日前、盗人が入り込んだらしい。家は酷く荒らされ、その時に、夫の形見だった刀が盗まれてしまったのだとか。
 丁度その日は遠地で仕事があり、母子ともども町にまで出ていた事もあって、気付いたのは昨日の昼だという。

「無銘、切れ味は良いらしい。が、このご時世だ、そう人を斬る機会もあるまいな」

「高く売れそうなものなんですか?」

「いいや、二束三文だろう、と言っていたな。そんな上等な刀を持つ様な家なら、ああも貧乏暮らしはしておるまいに……とまあそういうわけで、通りがかった私が取り返してやろうと安請け合いを―――」

「もうちょっと考えて行動してください……」

 二日前に盗まれた刀を取り返す、中々難しい話だと村雨は感じた。盗人が仕事をするのは夜だろうから、刀もその時間に盗まれたのだと仮定する。盗品は基本的に、長く手元に置かれる事はない。昨日の朝から昼間に掛けて、もう売却処分されてしまっているのではないか。そう結論付けるのに、時間は掛からない。

「そうは言うがなあ、ああもぎゃんぎゃん泣き喚かれたのでは放っておけんだろう。美人だったし」

「手は出すなよ。 ……あれ、でもちょっと待ってください。謝礼は?」

「茶屋で焼き餅を食う程度の銭なら払いそうだな。まあ気にするな、お前の給金は払うとも」

 話を聞く限り、盗難被害者は貧乏らしい。そこから謝礼を受け取るのは、とても期待できそうにない……が、村雨への給金は支払われるという。

「……自腹? 何か恩でも有ったんですか?」

 一つ、示しておくべき事がある。『錆釘』の料金は、決して安くない。『錆釘』に支払う紹介料と、雇われた者への時間給と、合わせれば少なくとも一町人では、気軽に数日雇うという事はできないのだ。

「だからな、あれが美人だったからつい、と言っておるだろうが」

「良く分かりました……分かるかー」

 得られる礼金は無に近く、出費は高級宿場で一日過ごす程にもなりかねない。あまりにも収支が合わない行動に、村雨は他人事ながらボヤいた。人助けに散財出来るのは金銭の有り余る人間だけだろう。金持ちに妬みを覚えてしまう程度には、この少女もすれているのだった。

「……はーあ、つまり私は、その刀を探せばいいって事ですか?」

「そうだ、だからまず、盗品が流れそうな質屋町へ……」

「行き先変更、その親子の家に案内してください」

 ぴたり、桜の足が止まる。

「……何か思いついたのか?」

 そもそも何処へ向かうかも口にしていなかったが、桜は質屋を一軒一軒巡り、刀を探すつもりでいたのだろう。それでは効率が悪すぎる。最悪の場合、見つかる前に店の奥へ仕舞い込まれかねない。ほとぼりが冷めるまで隠しておくのは、悪い奴らの常套手段だ。

「思い付くっていうより、基本。盗品探しはこっちの方が早いの」








 町の中央から外れ、人の波の薄い方へ。次第に周囲の光景に、田畑が混ざるようになってきた。農耕用の牛の糞の臭い、夏草の匂い、川の水のせせらぎ。大路のせわしなさから切り放された場所である。
 盗難被害に遭った家は、確かに裕福である様には見えないが、さりとて極端なぼろ屋でもなかった

「ほれ、あの家だ。戸も何も開け放していては、盗人に入られるのも無理は無いなぁ」

「そうかも知れませんね……ん、家の人には会わなくていいです。この辺りからで」

 今は家人が外出中なのか、近づいても誰も出てくる様子がない。村雨は、問題の家の軒先に立つと、何もない地面に目を落とした。

「足跡か? それは無理だと思うが……踏み固められた土だぞ」

「ううん、違う……ええとね、こっちですこっち」

 下を向いたまま、何かに引っ張られるように歩いていく村雨。田んぼ道を進んで、細い農道へ。はるばる案内してきて、そこに一分も留まらないという行動に、桜もややめんくらった様子を見せた。

「何をしている、虫でも見つけたか?」

「蟻の巣を掘り返す趣味はないですって……次は、あっちかな。山の方へ進んでるみたい」

 農道をしばらく進むと、小さな山が有った。ここから見ても分かるが、針葉樹ばかり生えていて、木の実を取る目的で入る者は少ないだろう。山の向こうに行くなら、平地を歩いてぐるりと回りこんだ方が早い程度の高さは有る。

「ここ、かな……もう少し奥の方」

「おい待て、何処へ行く。歩くのは構わんが目的地を言え」

「貴女が言うかなー、それ。……刀を探すのは無理。盗んだ奴らを探した方がいいですよ」

 入る者の少ない山は、道が無いに等しい。だと言うのに村雨は、誰かに案内されているかの様に、木の枝を掻き分け山へ入り込んだ。

「盗んだ奴ら? 誰がやったか分かるのか……いや、複数なのか?」

「多分ね、少なくとも四人。男が三人、女が一人、もしかしたらもう少し増えるかも」

「……まるで分からん」

「『臭い』です」

「……ぉ、おう?」

 山へ入ってから三分、麓が木々で見えなくなった頃、村雨は地面に両手を着けた。這うのではない、四足歩行だ。手も足と同じ様に使い、村雨は斜面を登っていく。
 邂逅の時とは逆に、今度は桜が驚かされた。村雨の手の指は、靴を履いた足と同等以上に、山の斜面を掴んで体を支えている。顔を地面に近づけ、鼻をひくひくと動かし、何かを見つけては四足歩行でそちらへ跳ねて追いかける。
 人間の脚は腕の三倍の力を持つというが、それは常に自分自身の体重を支えているからだ。逆に言うならば、脚の三分の一しか力がない腕では、人間はまともに自重を支えて動けない。腕力を鍛えた人間なら、逆立ちで歩く事も出来ようが、獣の真似をするには腕の短さが仇になる。
 村雨は、手足の長さの違いを全く苦にしていなかった。腕と脚を完全に連動させて斜面を駆け上がり、立ち止まって臭いを追う時も、体を起こそうとしない。

「……犬か、お前は」

「失礼な、私は人間です……ほら、当たりでしょ?」

 脚で生んだ加速を両手で殺す急制動。くるりと前転して立ちあがった村雨は、近くの木を指差した。

「ほう、これは……鉈、だな」

 木の実もなければ獣もあまり住まない、だが高さだけは有る、人の訪れない山。だというのに、そこに有った木の枝は、刃物で切断された形跡が有ったのだ。桜は、それが鉈で叩き斬ったもの。つまり、人が通る際に道を作る行為の産物、と判断した。

「多分そうでしょうね、鉄の臭いがする。あの家の周りから続いてた臭いと同じです」

「……農具の臭い、とは考えなかったのか?」

「鉄の臭いが濃すぎる。鉄の上に、別な鉄の臭いがするものを掛けたみたいな臭い……」

「血、か?」

「しかも人の、ね」

 周囲を見渡し、斬りおとされた枝を拾う。断面には生木の臭いと、僅かだが鉄の臭いが有った―――らしい。村雨はそう言い、桜は真似をして鼻を近づけたが、何も分からなかった。

「この辺りからは、遠慮なく道を作って歩いてる。隠す気は薄れてるのかな……どうせ誰も入ってこない、って思ってるのかも。……あ、この辺りから向きを変えて……こっち。登りながら、ちょっとずつ水の方に近付いてる」

「水場の臭いまで分かるのか……呆れたものだな」

「苔とか、他の草と臭いが違いますから」

 方位磁針も地図もない。村雨は嗅覚だけを頼りに、獣の様に山を渡っていく。やがて、木々の合間から、断崖にぽっかりと口を開けた洞窟が見えてきた。

「……あちゃー、たくさんいそう。少なくとも十二、いや、十三……」

 目に見えない盗人を数える村雨は、眉間に皺を寄せている。待ち伏せされてはどうにもならない数だ、正面突破などもっての外。

「どうします? 仕事に出たところで入れ違いに忍び込めば、留守番を締め上げるくらい……」

 村雨の計画は、盗みを働いた本人を捕まえ、刀をどうしたのか白状させるという事だった。四人くらいなら、不意を打てば勝てない人数ではない、そういう自信はあった。
 が、洞窟という砦に籠られていると、どうしても背後から接近するのに比べ、迎撃される可能性が高くなる。まして人数は、最初に予想していた数の三倍で、こちらはたったの二人。

「……あれ?」

 雇い主に意見を求めようと隣を見た村雨は、そこに誰もいない事に気づいた。後ろを振り返る。逃げた訳ではなさそうだ、あの黒い姿は山でも目立つ。
 冷や汗が背を伝うのを感じながら、恐る恐る正面に目を向ければ、

「よおーし、なんだか分からんがあそこが拠点か!」

「あ、ちょ、馬鹿ーっ!?」

 雪月 桜は自分の存在を全く隠蔽する事なく、がさがさと騒音を立てながら、洞窟へと突っ走っていたのだった。








「お、お前はだ、ぎゃっ!」

「誰か、誰か……うげっ!」

「……あああああ、完全に見つかった……」

 先に突っ込んでいってしまった雇い主、桜を追い掛けていく村雨の耳に、洞窟から悲鳴が二つ聞こえた。その内容を以て村雨は、こっそりと忍び込んで一網打尽という計画が、無残にも完全粉砕された事を知った。
 洞窟に十分近づいてから分かった事だが、入口から入ってすぐの場所には、二人の見張りが立っていたらしい。誰かが近づいてきた事を逸早く察知し、中にいる者達に戦闘の用意をする猶予を与える為だ。
 ここで『いたらしい』と過去推量の形にしたのは、村雨が洞窟に踏み込んだ時、既にその二人はひっくり返っていたからである。

「お前やるなぁ、大当たりではないか。ほれ、数打ちに鉈に、この悪そうな面構え。これが盗人に違いない」

 顔面に大きな痣を作った見張り盗賊と対照的に、髪も乱れていない桜は、のんきに村雨を褒めていた。

「あ……あんた馬鹿だ、筋金入りの馬鹿だ……! どうして暗くなるまで待たないんですかー!」

「退屈だからだ! あんな何もない所で日没を待つなど耐えられん! 酒も美女も無いではないか」

 早くも洞窟の奥からは、武装した人間が歩き回る金属音―――村雨の耳は、それが具足を着込んだ人間のものだと教えていた―――が、反響と共に聞こえてくる。

「さあて、ああだこうだと言っても始まらん、こうなったら全員仕留めるぞ」

「多勢に無勢って言葉が……」

 桜は刀二振りの内、左手に脇差だけを抜いた。洞窟の狭さでは、打刀を振り回す訳にはいかないのだろう。まるで散歩にでも行くかの様に、桜は無造作に歩き始め、

「……念には念を、だな」

 すぐさま踵を返し、昏倒している見張り二人の顔面を、それぞれ一回ずつ強く踏みつけた。見張りの後頭部が洞窟の石に打ちつけられ、ごん、と鈍い音がする。
 見張りの片方は、意識を失って動かないまま。だがもう片方は、一瞬体が浮く程に背を逸らした後、耳から血を零し、『完全に』動きを止めた―――胸の上下さえ、だ。

「ぇ、ちょっと……?」

 鉄の臭いが石床を濡らす。村雨は、呼吸さえ止まってしまった男の胸に耳を当てた。体温は有るが、心音が聞こえない。
 奥へ進む桜を余所に、村雨は膝を下ろし、男の頬を叩く。反応はない。腕を掴んでゆすぶってみた、反応はない。耳たぶを強く噛んでやる、どうしても反応は見えない。

「……死ん、だ?」

 洋装、ズボンなどと呼ばれる服に、男の血が染み込んでいた。村雨が上げた悲鳴は、洞窟の奥から聞こえる怒声に、そして絶叫にかき消された。



 村雨は走った。外へ逃げるのではなく、奥へ進むため。桜の凶行を止める為に。
 人の死体を見た事はある。人の尊厳とは、死体には適用されないものだ。自分の顔を保つという権利すら失った、無残な肉の塊を見た事がある。
 だが、人が死体になる瞬間は、初めて見せられたものだった。つい数十秒前まで、その男は生きていた。
 男がどういう人間だったのかは知らない。盗人の片棒を担ぐのなら、相応の悪人だろう。身に着けていた刀には脂の臭いが残っていた、もしかしたら人を斬ったことさえあるのかも知れない。
 それでも人間が目の前で、別な人間に殺されたというのは、村雨を恐怖させるのに十分な出来事だった。その事実に被害者の善悪、加害者の善悪は介在の余地がない。
 虫を潰すように、桜は人の命を終わらせた。それは取りも直さず、他者と虫を同列にしか感じていない事の表れではないのか。
 村雨は、自分の隣を歩いていた女が、自分を虫のように見ていたかも知れないという事。そして、自分が虫のように潰されていたかも知れないと、他者の死を以て見せつけられたのだ。

『ぶっ殺せえェッ! どうせ一人だ、ぶった切れ!』

『勘弁してくれぇ、俺は逃げ―――あぁ、あ、来るな、来るなァッ!!』

『もう嫌だ、なんで俺が、嫌だあああああっ!?』

 一本道の洞窟の奥からは、盗賊達のものだろう叫びが、壁に反響しながら聞こえてくる。

「止めて、もう止めて……!」

 見えずとも分かる。それはただ、一方的な虐殺だった。



 広くもない洞窟だ、村雨が実際に走ったのは二十秒というところだろうか。黒一色で塗りつぶされた桜は、やや開けた空間に立っていた。
 彼女の足元には屍が四つ。仰向けに倒れたのが一つで、後は逃げようとして背中を斬られたか、うつ伏せになっている。
 暗く狭い洞窟において、確実に一度の斬撃で命を絶っている。桜の剣の技量は、その道を知らぬ村雨でさえ背筋の凍る、空恐ろしいものだった。
「おお、何をしていた、半分は終わったぞ。後は六か、七か?」
 揺れるように振り向いた桜は、氷の顔を刃同様、赤々と染めている。四人を斬って浴びた血は、桶でぶちまけた様な有り様だ。

「ぁ……た、は……」

「……ん?」

 数に単位を付けない、桜の数え方。斬った相手を、これから斬る筈の相手を、一人と数えない。それに腹を立てて殴りかかる程には、村雨は度胸がなかった。他人の命を尊重する事を知らない桜を、人だとさえ今は思えなかった。
 だが、村雨は口をつつしめなかった。怖いのに、こいつと言葉を交わすさえおぞましいというのに。

「ぁ、あんたは……何を考えてんの!? こんな、人を、何人も……」

「……なんだ、死体を見るのは初めてか? 直ぐに慣れる、気にするな」

「誰がそんな事を言った!? あんたはなんで、―――」

 なんで簡単に、同族を殺せるんだ。言葉が喉に詰まる。逃げたかった。逃げたら、桜は他の盗賊も斬り殺すと分かっていた。
 赤の他人が殺される、それが許せない正義の味方でもない。自分の目の前で、誰かが誰かを殺す事に耐えられなかったのだろう。人間が人間に対してこうも無情になれると、村雨は知りたくなかったのだ。
 気付けば村雨は、先へ進もうとする桜の前に、手足を広げて立ちふさがっていた。

「何の真似だ」

「刀を収めて……殺さないって、約束しろ」

 桜との距離は二歩。一歩詰められ、無意識に一歩、村雨は引きさがる。

「……理由は?」

「私が嫌だ、文句があるか!」

 二歩詰められて、一歩だけ引きさがる。返り血を拭おうともしない桜の頬からは、赤い水が滴り落ちている。

「死ぬぞ、お前」

「……やってみなよ」

 更に一歩。血濡れの小袖がシャツに触れて、赤の色を移していく。鉄臭さに喉が痛くなり、村雨は吐き気を堪え、奥歯をギリと噛み締めた。

 桜の手が、村雨の頭へと伸びる。あの手はきっと凶器で、触れられれば自分は死ぬか、良くて重症を負うのだろうと村雨は思った。

 ぎりぎりまで引きつけて避け、顎を狙って意識を刈る。もう盗賊も怯えて追ってこないだろう、その内に引きずって逃げよう。ほら、もうすぐ髪に触れる、もう直ぐで皮膚に――

 いざ、と行動に移そうとした村雨は、桜の右腕に抱きかかえられ、立ち位置を入れ替えられていた。知覚より早く入れ替わった世界。きん、きん、きん。どこかで金属音が三つ。

「はぁ……だから死ぬぞと言ったのだ、馬鹿。この馬鹿」

 桜の刀は、洞窟の奥から飛来した矢を三本、全て鏃を捉えて叩き落としていた。矢の落ちた位置、先程の立ち位置からして、もしもあのまま村雨が立ちふさがっていれば――その背に、首に、矢が突き刺さっていた筈だ。

「……ぇ、……わ、あっ……!?」

「全く、鈍い! 弱い! 根性だけは買うがまるでなっとらんぞ!」

 状況を村雨が把握する頃には、桜は村雨を片手に抱いたまま走り出していた。四の矢、五の矢が飛んでくる。事もなげに斬りおとし、射手に肉薄した。

「あ、駄目、殺しちゃ――」

「ああ煩い、舌を噛むぞ!」

 弓を捨てて逃げようとした射手の背に蹴りを入れ、地面に這い蹲らせた桜。立ちあがる前に回り込み、顎を蹴りあげ昏倒させた。

「聞こえているか盗人ども! 得物を捨てておとなしく出てくれば良し、さもなくば皆殺しだ! 逃げようなどと思うなよ、地の果てまでも追いつめるぞ!」

 ぱら、と天井から土くれが落ちてくる程の大音声。洞窟を震えさせ、桜は奥に隠れ潜む盗賊達を怯えさせる。そこに正義の矜持などはなく、ただ殺戮者が恐怖で弱者を律する、単純な上下関係が有るだけだった。








 戦意を失った盗賊達は、武器を捨てて洞窟の最奥に並んでいた。その数六人。桜は丁寧に一人ずつを気絶させた上で、それぞれの腕と足を結び付ける、縛られた側が決して解けない拘束を施した。
 その縄はどこから出てきたのかと言えば、洞窟の本当に奥の方は、一か所だけ分かれ道が有ったのだ。その奥は居住空間になり、更に宝物庫の様な状態にもなっていた。縄はおそらく仕事道具として備えてあったのだろう。
 洞窟入り口でひっくり返っていた見張りと弓の射手も、やはり縛り上げて他の盗賊と合わせて転がしておき、桜は盗品の山を検分していた。

「取りも取ったり、これだけ積み重ねれば大したものだ。ただの盗人呼ばわりするも惜しいな」

「……うそー、これって……ひいふうみいよお、千両箱まで何個も何個も……」

 村雨は目を丸くしていた。ケチな盗賊風情の隠れ家だと思っていたら、その盗品の数は、おそらく数件の大店が破産する程の金額はあるのではないか。千両箱、上等の反物、金の延べ棒やら銀貨の詰まった袋やら、何やら高級そうな壺、茶碗……。

「まさか、こいつら……『久賀の山猿』?」

「かも知れんな、そこの箱の紋は麻木屋のものだ。確かあそこが襲われたのは一月前……二日前も、何処かの反物屋がやられていた筈だ」

 『久賀の山猿』は、ここ数カ月ばかりで名を広めた盗賊集団である。構成員の人数不明、棟梁の名前も不明、周防(山口県)から流れてきたと言われている。不確定な事ばかり並ぶのは、この連中の仕事振りが原因だ。
 顔を見られれば必ず殺す。目が醒めていたなら必ず殺す。この連中が押し入って生きていたのは、運良く眠りが深かった子供くらいのものだという。
 問答無用で全員を斬り殺すのではなく、半端に情けを掛けるやり口が寧ろ恐ろしい。慈悲は有るくせに、その恩恵を誰かに与える事をしないで、一切合財を奪っていく盗人達。被害に遭った店は十七、殺された者は三十人を数えるという。

「通りすがりで入り込んだだけなのかも知れんな、あの家にも。盗むものもないから、安刀でも盗み出したか……ああ、これだこれ。本当に安物だな」

 重ねられた盗品に圧倒される村雨を後目に、桜は一本の刀を引きずりだした。柄巻もほどけかけ、目抜きは弛み。きっと持ち主の死後、手入れができる者などいなかったのだろう。桜の見立てではその刀は、質屋もろくに引き取りはしないような有り様だった。

「……ふむ、後は役人の管轄だろう、私達の仕事は終わりだ。いや、思っていたより数倍も早く片付いたな、しかも余分なものまで釣れおった」

 ボロ刀一振りを手に、桜は洞窟の外へと向かっていく。村雨は、小走りにその後を追った。








 盗品に圧倒されていて忘れていたというよりは、あの光景に没頭して忘れようとしていた、という方が正しかったのだろう。

「……う、ぅ……」

 収まっていた胸のむかつきがぶり返す。来た道をただ戻るだけなのに、脚が思うように動かない。差し迫る危険が何もないからこそ、村雨の背を押して走らせてくれる者もいなかったのだ。
 死んでいる。胴体を、きっと肋骨を斬られて心臓にまで刃が達し、一瞬で出血多量に陥って、死んでいる。仰向けの死体が一つ、うつ伏せの死体が三つ。
 踏みつけないように、足元を見る。仰向けの死体と目が合い、泣きそうになりながらも顔を上げた。恐る恐る足を進めると、四人分の血の池を踏み越える事になる。何時の間にやら飛んできた蝿が、死体の傷口に集まり始めている。
 洞窟の入り口では、やはり一人、死んでいる。傷口は後頭部のものだけだろう。顔を潰された圧力で鼓膜が破れたか、出血は耳からのものの方がよほど多い。
 村雨は、死体を見ないようにして、洞窟の外へ逃げた。光の当たる場所へ出れば、死に囲まれている恐怖から離れられると思ったのだ。実際に夏の日の光は眩し過ぎて、冷え切った体を暖めてくれた。

「帰る前に、服を洗うぞ。これではとても町を歩けん、水場はどこだ?」
「……あっち、です……って、わ、わ」

「暴れるな、落とすぞ。落としてまた拾い直すぞ」

 脚の力が抜け、ぺたんと地面にへたり込む。立ち上がれないまま村雨は、自分の鼻が嗅ぎ付けた水苔の方角を指差した。良く耳を澄ませてみれば、確かに清流のせせらぎも聞こえてくる。
 すると、桜は村雨をひょいと肩へ担ぎ、示された方角へと歩き始めた。細身とは言っても人間一人、その重さを苦にもしていない様で、足取りに一切のよどみはない。持ち上げられて揺す振られるのが、村雨は少しだけ苦しかった。








「うむ、悪くないな。もう少し広ければ、なお良かったが」

 川は浅く、桜達が見つけた場所は、流れも穏やかだった。村雨を適当な場所へ下ろし、取り返した刀と、自分の刀二振りをその近くに置く。
 小袖の帯を解き、袴の紐を緩め、桜はあっという間に衣服から逃れ、裸体を水に曝した。
 血に染まっていた顔を洗えば、赤は流れ落ち、また氷の面貌が戻る。袖から入り込んで体を濡らした血が、川の水に薄められ、下流へ流れていく。
 べっとりと汚れた小袖を洗い始めた桜を、村雨はぼうっと見ながら、過ぎてしまった光景に思いを巡らした。
 きっとあの盗人達は大悪党だ。縄に掛けられれば磔は免れまい、或いは首を晒されるのだろうか。だがそれは、法の下に定められた刑罰の執行として、だ。
 一介の人間が、いかなる理由があれど、別な人間を殺害し――こうも清々しい顔をして、血を洗い流すような事が有っていいのだろうか。
 自分は一人も殺していない。もしかしたら、殺される筈だった人間を助けられたのかも知れない。だが、それを誇れるか? 人殺しの盗賊が殺されるのを止めた、それは誇るべきことなのか?
 本当に人を助けたとふんぞり返りたいのなら、そもそも盗賊が殺した人間達を助けるべきだったのでは――

「お前、小難しい事を考えてはおらんか?」

「……え?」

 村雨の思索は、桜の声に中断された。袴と小袖は、おおざっぱにしみ込んだ血を絞り、洗い流して赤を落としただけ。元が黒い上下は、乾けば然程血も目立たなくなるだろう。両手が空いた桜は、適当な岩に片肘を着き、もう片手で体を浮かせて、脚で水を跳ねさせていた。

「何を考えているかは知らんが、あいつらは人殺しだ。放っておけばまた何人も、あれの盗みの為に殺されただろう。ねぐらを見つけたお前は、大手柄を上げたのだぞ?」

「……見張りを見た時に、もうその事は分かってたの?」

「いいや、人を斬った刀だとは思ったが、『久賀の山猿』だとは知らなかった。全くの偶然だな」

「じゃあ同じじゃない! 後から理由を付けたって、あんたは人間を殺したんだ! 何人も、虫か野良犬みたいにあっさりと――」

「ふむ、では虫や野良犬は殺してもいいのか?」

「っ……そういう問題じゃないでしょ!?」

 揶揄するかの言葉に、村雨は声を詰まらせる。

「はて、どうだかな。私が虫を潰しただけなら、確かにお前は何も言わなかっただろう。では、野良犬を斬った場合は?」

「それは……止めさせようとはしたよ、多分」

「だろうな、だが私の前に立ちはだかるまではしたか? 刀を持った血まみれの女の前に徒手で立ちふさがってまで、野良犬の命を救おうとしたか?」

 岸で座り激する村雨に対し、桜は、なかば屁理屈のような言葉をを冷静に返していく。返り血が完全に流れ落ちた己の髪を手で掬い、肘を掛けた岩の上に広げた。

「私が殺さずとも、役人があいつらを殺すのだ。結果からすれば同じ事だ」

「役人は……そういう法の下に、正当な裁きとして殺すんだ、あんたみたいに……」

「いきなり殺しはしない、か? 法を作ったのも人間だぞ、執行するのも人間だ。人間の意思で人間が人間を殺すのだ、私だけが大きく外れている訳でもあるまい」

「人間は動物じゃない、ただ群れて生きる動物じゃない! 知恵がある、その知恵が作った規則がある、だから――」

 刑罰による殺害と、一個人による他者の殺害が、同列である筈がない。前者は社会の制度であり、後者は社会の良識から大きく逸脱する行為だ。村雨は理屈としてそれを分かっていたから、尚更、桜の言葉に反論せざるを得なかった。
 村雨の言葉が止まったのは、桜が川から上がり、隣に腰を下ろした時だった。

「……なあ。何故、ああできたのだ?」

「何がさ……あんたを止めた事?」

 村雨の衣類は、未だに血の赤に染まったまま。染み込んだ血は肌に触れ、鉄の臭いは鼻を刺す。それと全く対照的な姿になった桜を、村雨は横目で見た。
 濡れ羽の黒は流水に触れ、その名の通りの潤いを湛える。指を通したならば一度も引っ掛かる事なく、根元から毛先まで三尺、手櫛を通せるだろう。
 水と戯れていた手足は、肉食の獣のように、余分な肉を捨てて引締まっている
 腕は、脇腹は、古傷だらけだった。刃物の傷か獣の牙か、幾度の死地を超えたのだろう。薄くなった皮膚の上を水滴が転げ落ちていく。
 何故だろうか。零れる水を掬いあげたくなり、村雨はそっと、膝を抱えていた手を伸ばした。

「ああ、それだ。お前、自分で気づいていたかは知らんが、泣いていたぞ?」

「っ……! あーそーですか、すいませんね!」

 言葉が続けられて、村雨は、自分が質問を受けていた事を思い出す。桜の肌に触れる前に、ばね仕掛けのように手を引っ込めた。

「……お前だけではないさ、私が人を斬るのを止めようとしたのは。大概はお前と同じ様に理屈をこねるし、立ちはだかったりもしたな。肝の据わった奴などは、『そうまでするなら私を斬れ』などと言いだした。面倒だから殴って気絶させたが」

「……何人にも言われるくらいあんたがおかしい、って事でしょうが」

「黙って聞け。……それでもな、怖くて泣きながら脚を震わせながら、聞き取れもしない様な声で立ちふさがったのは……お前が初めてだ。ああも頼りない壁など見たことが無いぞ」

「悪うございました」

 指摘され、初めて村雨は、己の頬にある、乾いた涙の痕に気付いた。
 そうだ、あの時は怖かった。万が一に備えて勝つ算段は練っていたが、そんなものは無駄なあがきだと、本当は何処かで気付いていたのだ。桜が気まぐれを起こせば自分は死ぬ。そういう場面で村雨は、人が人を殺す場面を見たくないというだけで、人斬りの前に立ちふさがったのだ。

「……ん、ありゃ?」

 弱さを改めて教えられ、さりとて否定も出来ず、村雨は膝を抱える様に俯く――と、なぜか視界が青空に切り替わった。肩に手を掛けられ、仰向けに引き倒されたのだ。
 少し体を丸め、受け身を取る。自分が川辺で仰向けになっている理由を探そうと、村雨の脳はしばし麻痺した。

「いい女だ、欲しいな」

 その胸に、人の重さが重なった。影が顔に掛かる。あまりにも近くに、黒い瞳が並んでいる。起き上がろうと頭を浮かせた瞬間、唇への濡れた感触とともに、村雨はまた川辺に押し戻された。桜の唇が、村雨に重ねられていた。

「……っ!? んー、んー……!」

 引きはがそうと、顔に手を掛けた。手首を掴まれ、手の甲が地面に触れる。少しだけ浮かせて出来た隙間が、また潰される。顔を背けても逃げられない。蹴りあげようとすれば、器用に脚で脚を抑え込まれた。
 抜け出そうと暴れて、口では息を吸えなくて、村雨の視界は涙で滲む。濡れて歪んだ景色の中に、桜の目を見てしまった。
 桜の目は、どこか壊れていた。人を斬り悔みもしない、だが理性を失えなかった、破綻した人格の発露した瞳。村雨は、その瞳から目を逸らせなかった。桜は壊れていて、なのに――とても愛おしげな眼差しを、村雨に向けていたからだった。
 どうしてそんな目が出来る、抑え込まれた体を引き抜いて言葉の限り(なじ)ってやりたいと思った。誰かを殺したばかりの体で、それを良しとする言葉を綴った唇で、触れるんじゃないと突き飛ばしたかった。村雨は、そう出来る筈だった。
 真夏日の太陽の下では、川の水で冷えた体が心地よい。言葉使いに似合わず桜の胸は、女らしさを主張する豊かな曲線を描いている。村雨の薄い胸に押しつけられて、近づいた二つの心音は、共に鼓の早打ちの様に鳴らされた。
 動けないまま貪られる。おなじ女に蹂躙されているのに――背が撓む。体の芯から震えが起きる、触れあった唇は暖かい。
 力が抜けていく。手首は解放され、桜の両手は村雨の頭を抱く。身を縛る枷が一つ消えた、逃げられるのだ。
 のしかかる女を押し退ける代わり、その背に腕を回すと、翼のように広がった髪に手が触れた。

「……んむっ、ぅ……っぁ、あ……――」

 口内に熱い塊が踊りこむ。桜の舌が村雨に、蛇のように絡みついた。舌を噛まないように、口を開いて迎え入れる。自分がなぜこうしているのか、村雨は考えようとしなくなった。頬の裏を這う蛇を、己の舌で捉えようとするばかりだった。
 口移される唾液は蛇の毒液か。二匹の蛇が掛けた橋を伝い、組み敷かれた村雨の咥内へ、混ざり合った毒が流れこむ。霞む意識の中、村雨はそれを貪婪に嚥下して――

 全てが暗転する。体がそこにあるという感覚が消えていく。夜に床に就くように、村雨は意識を手放した。









「おーい、起きろー。日が沈むぞー」

 体が揺さぶられている。頭がぐうんぐうんと振り回されているせいで、眠気が一秒刻みで薄れていく。心地よい眠りから引き上げられる。目を擦りながらも、瞼を開けた。

「んー……んあ、ここ何処……?」

 村雨は、山のふもとに居た。太陽は大きく傾いて、茜色の光で田畑を照らしている。先程までは確か、日中だったような気がしたが。
 奇妙に思ったが、それよりもおかしいと思ったのは、自分が誰かに背負われていた事だった。先程の揺れは、子供をあやすようにされたものらしい。

「やっと起きたか、手間を掛けさせおって。次は顔をひっ叩こうかと思っていたところだぞ?」

「あ……!」

 自分を背負っていたのが桜だと、気付くのに時間は掛からない。目の前に広がった黒の色だけで、そうと知るには十分だった。離れようとしたが、足は地面を踏みつけていない。膝から先がじたばたと暴れるだけで、体の位置は変わらなかった。

「……降ろしてよ」

「構わんぞ。もう十分に連れ回した」

「はあ?」

 桜が抱えていた脚を離すと、村雨は跳ねるようにして距離を取る。無愛想、ふくれ面、可愛げの無い顔である。

「案内をしろ、お前でなくては道が分からん。あの洞窟だ」

「どういう事?」

「ああいう事だ、ほれ。同心の詰所まで出向いてな、岡っ引き連中を借りてきたのだ」

 桜が指を指した方向、山の入り口には、いずれ劣らぬ人相の悪い連中が、房のつかない十手を持って集まっていた。どいつもこいつも、脛に傷のありそうな身。上は四十前後、下はまだ十代だろうか、年齢層も様々である。

「中々気前の良い同心だった、あれは出世するな……とそれはどうでもよいか」

「…………あんたは、さ」

「ん?」

 夏の日は長いが、それも限度がある。盗賊を縛り上げた洞窟まで戻ろうと歩きだした桜に対し、桜は険しい表情を変えない侭、歩を進めようとしない。両手をぎゅっと握って、根を張ったように立っていた。

「……どーいうつもりよ! あんな、あんな……酷い事して!」

「ん、酷いか? 可能な限り優しくしたつもりではあるのだが」

「どこがよ!? あんな目に遭わされたの初めてだよ!」

「ほう、初物か……それはそれは、運が良かった。悪くはなかっただろう?」

「この……!」

 あんまりに軽い口調で返されて、殴りかかる機を逃し、拳を振り上げたはいいがやり場がない。そんな訳あるかと言いきって、頬でも鼻でも殴ってやればよかったのだろうか。

「やれ、そう怒るな。私も苦労したのだぞ? その服を洗って、お前を担いで山を下りて、そのまま同心の詰所へ行き、お前を背負ったまま人を借り受ける算段を……」

「全部あんたが原因でしょうが……――待て、待った、待って。服?」

 怒りやら何やら整理のつかない感情で頭が煮えていた村雨だが、急に冷静になり、目を自分の服へ向けた。返り血を浴びた桜に抱きかかえられ、上下とも血にまみれていた筈の衣服は、少なくともあの時より赤が薄くなっている。
 成程、川の水で手荒いでも、そこそこには汚れを落とせたのだろう。夏のこと故、服は直ぐに乾く。湿っぽさもなく、仄かに残る血の香りの他は不快さもない。少々の皺は、まあ仕方がないと目を瞑れる事だ。
 が、肝心なのは服に汚れが残ってしまった事ではなく、『服を洗う為に必要な行為』である。

「あ、あ、ああ、あんたひょっとして」

「うむ、身は引き締まっているが痩せ過ぎだな。もう少し太れ、抱き心地が悪い」

「―――っ、このバカーッ! 三回くらいくたばっちまえー!!」

 自分が『引っぺがされた』と知って、頭が沸点を軽く突破した村雨は、子供の様に腕を振り回して桜に殴りかかった―――全部、軽く受け止められているのだが。

「あの~……すいません、姐さんにお嬢さん」

 二十回程も拳を振るって村雨の息が上がってきた頃、見るに見かねたか、岡っ引きの集団から一人、腰の低い少年がやってきた。

「お楽しみの所まっこと申し訳ねえんですが、あたしらも日が沈むまでに山は降りたいんでさ。出来れば、そろそろ案内をしていただきたく……」

「あ、うん……ごめんなさい」

 しきりに頭を下げながら、そして少々ずれた気遣いをしながらも、本当にすまなそうな声、表情。反射的に詫びてしまった村雨の背を、桜の無遠慮な手が叩く。

「よおし、さっさと行くか。何処かのねぼすけのせいで時間を喰ったからな」

「あんたはちょっとは悪びれろこのやろー!」





 その日、『久賀の山猿』―――盗賊集団・構成員十三名は、町方同心傘原(かさはら)平三郎(へいざぶろう)の手の者に捉えられる。うち五名は既に死んでいたが、のこり八名への厳しい取り調べの末、悪事の数々が露見―――のち、市中引き回しの末に打ち首獄門となった。
 盗賊団の隠れ家を見つけ、同心に伝えた『善意ある町人二人』については、当人達の希望も有って内密に、だが丁寧に謝礼が支払われたという。
 人の噂は七十五日、生き馬の目を抜く江戸じゃあその半分も持つかどうか。『久賀の山猿』の名も、一月も後には忘れられているのだろう。





 結局、日付が変わってしまった。盗賊を抱えて山を降り、詰め所では形式的という事で事情聴取を受けた。
 何故、見つけた。あの死体は何か。その他もろもろ、一般的には被疑者にでも聞きそうな事まで。疑いが完全に晴れたころにはもう夜で、そこから一転して感謝と歓迎の攻勢を受けたのだ。凶悪な盗賊をお縄に掛けたのだから、一夜くらいは羽目を外しても良いだろうとの、傘原同心の心遣いである。

「おーい、酒が足りんぞー、ついで回れー! ああ、そこのお前は駄目だむさくるしい、そこの娘が来い」

「……なんで私達までこんな場所に」

 宴会騒ぎに集まっているのは、どれも岡っ引きや目明し――正式に役人として抱えられている訳ではない、町人や犯罪者崩ればかり。そいつらに混ざって、一番上等の席を占領した桜は、同心の娘に酒を注がせていた。
 居心地が悪いのは村雨である。あまり酒は飲めないし、周りは知らない顔ばかり。

「そこの嬢ちゃん、一杯やんな!」

「あ、ありがとー……んく、んく……っぷはー!」

「こっちにゃ兎もあるぜ、秘伝のタレでガッツリ焼いてある」

「美味しー、取ってきたの? ちょっと生なのがいいね」

「おいおい、生肉を喰うなよ嬢ちゃん……」

 それでも、根が明るい性格ではあり、声を掛ければ愛想を振りまき、酒食を勧められれば断りもしない。本人の内心とは裏腹に、ごつい男たちに馴染んでしまっていた。気付けば村雨の前には、空になった皿が積み上げられている。

「まさか一日で解決するとは思わなかったのでなあ、今日は宿に戻らん予定でいたのだ。いっそ朝まで飲み明かそう」

「絶対二日酔いになるからやだ。私はご飯だけ食べる」

 言った先から、別な岡っ引きが酒を持ってくる。猪口に注がせ、一口で飲み干し、また注がせ、飲み……

「そうは言うが、もう随分飲んでいるではないか。顔も赤いぞ」

「酔ってないよ。ぜーんぜん酔ってません。ご飯おかわりー」

 空になった茶碗を、飯盛り当番にされた不運な男へ。すぐに山盛りの白米が返り、みるみる内に平らげていく。
「……待て。お前、箸を噛み砕いているぞ」

 水のように酒を飲む桜は、がじがじと何かをへし折る様な音を聞いた。見てみれば、村雨が箸の先を口に入れ、いともたやすくへし折り、紙の様に平たくなるまで噛み潰していたのだった。

「酔わなくてやってられますかー、もっと注げー! 桜のあほー!」

「誰が阿呆だ馬鹿」

「うるせーこの鬼ー、悪魔ー、強姦魔ー」

「まだそこまではしとらんわ、嫌いではないが」

「乙女の純情を弄ぶとは、およよ……」

 差しだされる酒を一切断らず飲み続ければ、飲みなれていない者が潰れるのに、そう時間は掛からない。酔っ払い特有の聞き取り難い声で騒ぐ村雨を、桜は呆れたようにいなしている。

「責任とれこのばかー、人でなしー! せきにんー!」

「……お前、後で飲んだ事を後悔する性質だな?」

「いいじゃねえですか、何をしでかしたかは知りませんが。それも男の、いや女の甲斐性でしょう?」

「そっちもそっちで煽るな」

 周りの岡っ引き連中も、程良く酔って上機嫌。二人の会話を聞いて無駄に盛り上がっている者もちらほら見受けられる。火に酒という燃料を注ぐ奴がいたせいで、愈々酔っ払いの管巻きは限度を超えて、

「ぅー……さくらのばかー……」

「……まあ、こうなるだろうなあ。お前ら、飲ませすぎだ」

「はは、すいません、いい飲みっぷりだったもんで」

 ぺしゃ、と畳の上に、うつ伏せに潰れてしまった。茹でたタコの様な顔色になった村雨は、もう物が見えているのかどうかすら定かではない。

「……はあ。誰か布団でも敷いてやってくれ。私は出かける」

「おや、どちらに?」

「頼まれたものを返しに行く。少し遠いかもな」

「へえ、ならば提灯と供をします」

「すまんな、礼を言うぞ」

 酒を注いでまわっていた同心の娘が、村雨を引っ張って隣の部屋へ運んでいく。おそらくはそこで寝かせるつもりなのだろう。
 寝て起きて、数刻で酔いつぶれて。一日の半分も目を覚ましていないではないかと、桜は思わず吹きだした。








「……ぅあー、頭ががんがんする……」

 結局村雨は朝方目を醒まし、桜の伝言を受けて、『錆釘』へ戻った。所属する者の為、仮眠を取る為の部屋はある。そこで横になり、頭痛が収まるまで待とうとした。
 伝言の内容は、『これで仕事は終わりだ』である。仕事の完了、すなわち契約の終了。あの傍若無人の女を、雇用主と呼ぶ必要はなくなったのだ。
 今頃はもう、取り返した刀をあの家に届け、また宿の二階で堕落した生活でも送っている事だろう。そういえば、刀を盗まれたという母子にはついぞ会わず仕舞いだった。
 僅か半日ばかりの付き合いで、良い思い出は特にない。最後の方など、そもそも記憶すら定かではない。明らかに飲み過ぎた。次の仕事の為に、頭を切り替えなければならない。仰向けになり、皺と赤色の残ったシャツを、着たまま手で伸ばそうとする。
 やっと終わった、すっぱりと忘れよう、忘れたい。出来るなら頭の中身を真っ白に塗りつぶしたい。ばりばりと髪を掻き毟ったら、頭痛が少し増した気がしたので止める。二日酔いの辛さまであの女のせいではないかと、理不尽な八つ当たりもしたくなった。
 受付の方では、おかみさんと誰かが話している様だ。
 大方、料金の支払いだろう、と村雨は思った。開国以来、この国には銀行というものができた。大金を持ち歩かずとも、高額の取引が簡単に行える。おかみさんが騒いでいるのは、きっと大口の雇用が来たからだ。十人とか二十人とか、もしくは十日単位で一人貸せ、とか。

「ちょっと、村雨ちゃん! 出ておいでな! ちょっと!」

「……ぅうー、頭に響く……聞こえてるからー……」

 横になったばかりでまた立ちあがり、受付へ。おかみさんは、一枚の証文から、熱心に何枚も写しを作っているところだった。

「んー、何? 私、戻ってきたばっかりなんだけど……」

「お仕事だよ、あんたをご指名だ! 驚いたねえ、どこのお大尽様を捕まえてきたんだい? 大儲けだよあんた!」

「……あー、聞きたくない」

 回れ右をして逃げようとする。がっしりと襟を掴まれ引き戻された。

「あたしらも長いことやってるから、いろんなお客さんは見たさ。だがねぇ、個人でまさか、一人を二年借りうけようなんて事をする人は初めてさ。良くやったよ、長期就業手当やらなにやらでがっぽがっぽ……」

「おかみさーん。私、すっごく嫌な予感がしてるんだけどなー」

「そうかい、あたしからすりゃ良い事尽くめさ。ほれ、辞令だ、ちゃんと読んでおきな」

 おかみさんは白墨で、壁に掛けられた板にさらさらと字を書きこんでいく。その内容は、曰く―――『期間:二年』『業務内容:身の回りの世話等』『特記事項:無し』。中々端的な辞令である。村雨の抱いた悪い予感は、尚更膨れ上がる。
 『雇用者連絡先:品川宿達磨屋二階』―――たった今終わらせた仕事と、まったく同じ場所。

「料金は全額前払いで頂いてるんだ、しっかり働いてきな!」

「……そ、そんな―――」

 そんな馬鹿な。言い切る前に、村雨は外へ出て、体の重さも忘れて走り始めていた。
 この内容の契約なら自分もかなりの収入を得るとか、長期就労に当たって『錆釘』に証明書の発行を要求しなくてはとか、考える事は多々あった。が、今はこれを問い詰めなければならない。



「おお、早かったな。説明はもういらんぞ、前ので十分だ」

「……どうしてこうなるのよ」

 果たして、達磨屋の二階には、雪月桜が滞在していた。遊女高松の膝を枕にし、浮世草子など片手に読んでいた。村雨の二日酔いの苦労も知らず、昨日と全く変わらぬ生き生きとした面である。

「あれで仕事は終わりでしょ?これ以上、私になんの用事があるのさ?」

「幾らでもあるだろう? 旅は道連れ世は情け、あと数日で江戸を立つ。一人旅は寂しかろうさ、なあ?」

「旅……」

 江戸を立つ、と桜は言った。村雨を雇ったのは宿の部屋ではなく、目の前の女だという事も理解している。つまり、この女が付いてこいと言ったのなら、村雨は問答無用で連れ回される事となり、

「……やだ、帰る」

「あのおかみは話が分かる人物だな? どうしてもお前をと頼み込んだら、快く引き受けてくれた。少しばかり多めの請求だった事も、まあ気にするまい」

 『錆釘』も商売である以上、大口の顧客は逃がそうとするまい。ましてあのおかみさんはやり手である、受け取ってしまった金を返すような事、認める筈がない。仮に認めさせようとするならば、その時は村雨が職を失う覚悟すら必要になる――

「私はな、欲しいものは我慢せんのだ。美酒も美食も、美少女も、な」

 こうして『錆釘』の探し物屋、村雨は、雪月桜に買い上げられたのである。