烏が鳴くから
帰りましょ

鉛と硫黄のお話

 取り立てて用件が無いのなら、旅はゆるりと行くべきであろう。正直なところ村雨は、自分達の健脚を過小評価しすぎていたのだ。 当初の予定であれば、京の都に着くまでに、三月程を費やす計画であった。ところが、いざ歩き始めてみれば、川止めさえ受けたというのに、島田宿を立ったのが、出発から十日目の事。のこり三十と一の宿場を超えるのに、このままでは一月と掛かるまい。
 その様な訳で、一向は少しばかり――いや、かなり――歩みを遅くした上で、朝も寝坊をする事に決めた。
 島田宿を立ち、金谷、日坂を過ぎ、掛川で一泊。袋井、見付と来て、浜松宿で一泊。翌日は、道中を半ばまで踏破した事を祝い、各人好きな様に、町で一日を過ごす事になった。
 出立から十三日目。既に町の雰囲気は、多分に西洋の風を孕んだものとなっていた。



 酒食は娯楽の最たるものである。美酒さえあれば、未開の文明一つを滅ぼす事さえ可能なのだ。
 浜松城下町に、一軒の小洒落た酒屋が、洋風建築に似合わぬ暖簾を掲げている。その広い事は格技道場の様であり、畳は一つも無く、草鞋履きのままで店に上がる。日の本では馴染み薄い椅子に腰かけ、丸机を囲んで酒を飲み、肴を食らう作法だ。酒屋と呼ぶよりはむしろ、酒場と称する方が適切であろうか。

「……止めた方がいいのか、放っておいていいのか」

 故郷の酒に比べれば弱い――かと言って自分にはやはり強すぎる、酒精の香りにあてられながら、村雨は額を抑えて項垂れた。彼女がこうして悩まされる場合、元凶はほぼ間違いなく、その雇い主の桜である。

「いいや、女の方が有利であろう!」

「それは無いわい、間違いなく男の方が恵まれている!」

 桜は、たまたま同席した西洋人の男と、侃々諤々激論をぶつけ合っていた。内容は子供の戯れ程度で、男と女ではどちらが恵まれているかというものである。

「まず女はだな、生まれ付いて男より見た目が良く出来ている! 柳腰に掛かる艶の髪から、はらりと除く背、肩の儚さ……男では到底真似など出来まい!」

 空になった器の底で、木の机をがんと殴りつける桜。厚いギヤマンのジョッキは、強い蒸留酒を一合半も注げるのだが、既に四杯は空けている。

「なにおう!? 男は頑強に出来とるわい! 女の細腕、華奢な拳では、いくら殴りつけようが堪えもせん。身一つで荒野に生き新天地を開拓する、そのロマンは女には分かりはせんだろうの!」

 向かい合う男も同じだ。達磨の様に丸く大きな目玉をぎろぎろ巡らせて、まだ潰れる様子は無い。図体のでかい男だ、酔いの回りも遅いのだろう。
 そう、この男、でかいのである。背丈はと言えば、決して飛び抜けて大きい訳ではなく、せいぜいが六尺をやや過ぎる程度。しかし、肩から腹から腰から足から、全てが太く出来ているのだ。短くも丸太の様な首からは、釣鐘紛いの大音声。逆立った金髪、金の無精髭は、やはり異国の風来坊と言った風情である。

「ならばその華奢な拳、一撃喰らってみるか!?」

「おうおう、食わせてみい! つまみが切れて腹が減ったわ! 店主!」

 ともすれば、一触即発かと身を凍りつかせかねない状況――然し、村雨は慌てふためくどころか、呆れたように溜息を零し、干し肉を噛み千切るだけ。

「……すいませーん、お代わりお願いしまーす」

 なにせこのやり取り、もう三週目なのである。桜も西洋男も、顔がまるで赤くならないからそうは見えないのだが、すっかり頭は酒に毒されているのだ。こうなればスサノオに倣い、飲むだけ飲ませて潰してしまえ。酔人を相手には出来ぬと、村雨は匙を投げていた。

「ほりゃさ、お代わりお待ち。凍死するなら、うちから離れたところで頼むよ」

「大丈夫、殺しても死なないから、これ」

 赤茶けた熊髭の店主が、空のジョッキに酒を注いで戻っていく。呆れ顔だが、強く咎めてはいない。面白い見世物にはなっているからだ。
 店の中心でのこの騒動も、一歩引いた目で見てみれば、柱の様な偉丈夫と、黒備えの女侍の飲み比べ。野次馬どもなど小銭を出しあい、どちらが先に倒れるかで博打を始める始末だ。盛り上がっているから全て良し。店主は中々、鷹揚にして茫洋とした人物であるらしい。

「ん、ん――っぷはぁ、おう!」

「ぬが、早いのぅ貴様……!」

 ジョッキを空にしたのは、桜が一拍だけ早い――が、遅かった男の方も、十を数えるよりは先に飲み干している。五杯目、と呟いて、村雨は左手の指を全て畳んだ。

「なーにやってんだかねー、もう。私を見習ってほしい、本当にもう」

 昼間から穀潰しと甲斐性無しが集まるこの酒場だが、村雨もただ、無為に時間を過ごしている訳ではない。早朝の内に、自分自身の用事は済ませていた。
 浜松城下程の大きな宿場町ともなれば、『錆釘』の支店も有る。そこへ赴いて、現在の京の事情を記す資料を、片っ端から漁った。瓦版から、構成員が直接見聞きした事を綴った反故まで、借出せるものは粗方全て。

「……なんかおかしいんだよねー……」

 京は今、開国を迫られた五十年前に巻き戻ったかの様な情勢に有るらしい。何でも深夜になると、刀を構えた武士崩れが、揃いの着物で徒党を組み、町を練り歩くのだそうな。
 だが、彼らが何をするかと問えば、別段人斬りをする訳ではない。寺社、神社に乗り込み、建物を散々に打ち壊すのだと言う。
 刃向った僧侶や信徒は酷く打ち据えられるが、然し命は取られない事が多い――多いと言うのは、やはり不幸な例外は幾つか存在するという事だ。峰打ちも、所詮は金属塊での殴打。人を殺すなど、そう難しい事ではない。
 地方の一部ならば兎も角、広い目で見れば平和になった筈のこの日の本での狼藉。しかも、新政府の本拠である京の都ともなれば、忽ちに暴力集団は捕えられてしかるべきであろう。だが、誰一人捕縛されていないと言うのだ。
 動かないのは新政府ばかりではない。政府直下の治安維持・司法・軍事を司る組織――つまりは幕府も、まるで動こうとしない。と言うよりは、適切に動かない。むやみやたらと町を歩きはするが、その行動が、狼藉者の拿捕に繋がっていないというのだ。
 一般庶民は、義憤に駆られて首を突っ込まなければ、今のところは安全であるからして、信心深い者の他は大騒ぎをしていない。だが、僅かずつ、京の町から人が減っているのも事実。堺や大津へ転居する者が、後を絶たないのだと言う。

「楽しい観光とはいかないのかな……って、桜は――」

 誰が聞いてもきな臭さを感じるだろう話ばかりが見つかって、村雨は気分が重かった。だと言うのに桜は、楽しそうに飲んだくれている。

「おうおう、なら女に出来て男に出来ない、得しか無い事を上げてみい!」

「有るぞ、それならば有る! いいかよく聞け、女はな――堂々と女湯に入れる!」

「――!? な、なんだとぉう……!? ぐ、ぐおおおおおおお……!!」

 不毛な論争は、どうやら決着を見た様だった。両者が飲み干した蒸留酒は、実に七合半ずつ。横から見れば、僅かに腹が膨らんでいる様にさえ思えた。

「日によっては絶景だぞ、白魚の様な指が黒髪を梳く、二色の対比に加えて絹の肌を伝う湯の玉! ふっはははははは、どうだ悔しいか、羨ましいか!」

「ぐお、おおおお……! そうか、それが有ったかぁ……!! おのれ、おのれ、悔しくなど無いぞぉおおおおおお!」

「……あ、駄目だこいつら。完全に壊れてる」

 未だに呂律が回っている事が、もう奇跡なのかも知れない。無駄に有る胸を無駄に張り勝ち誇る桜と、床を拳で叩き涙を流す男と、何れも最早、理性が窺えない。早々に感情を済ませ、宿まで引きずって行こうと決めて、村雨が立ちあがったその矢先であった。

「おっ、とと……危ないな、もう」

 空の酒瓶が、村雨の頭目掛けて、突如飛来した。首を横に傾げ、危なげなく回避しながらも、その元凶に不快感の籠った目を向ける。

「てめえコラ! おうコラ! やんのか!?」

「あぁ!? やんのかてめえコラ、おう!?」

 そこでは、すっかり酔ってしまった結果、言語能力さえ失った若い男二人が、互いに額をくっ付けて睨み合っていた。酒瓶はどうやら、相手を殴りつけようとした際、手が滑ってすっぽ抜けたものであるらしい。ちなみに、片方は古風に髷を結い、片方は女の様に髪を伸ばしている。
 髷の方の男が、中身入りの酒瓶を掴む。長髪の男はそれに応じ、空になったジョッキを振り回す。やんややんやと客が野次馬に転ずる中、店主が頭を抱えながら、村雨の方に歩いてきた。

「はーぁあ、また始まった……二日に一度はこれだ。嬢ちゃん、危ないから早い所、宿に戻った方がいいよ」

「うん、危ないね……何処ぞの物好きが首を突っ込みかねない。ほら帰るよー、飲み過ぎにも程が有るってば――っ!?」

 両者の案ずる所は少々ずれているが、この場に長居するべきではない、というのは同感である。早くも飛び入りをしたそうな顔を見せる桜の肩に指を引っかける。ぐいと引いたその瞬間、耳の横で鳴った爆発音二つに、村雨は思わず身を竦ませた。
 爆発音と言っても、大筒をぶっ放す様な大それた物ではない。村雨は具体的な事例こそ上げられなかったが、敢えていうなら故郷の雪原に住んでいた時、人里の方角から稀に聞こえた音に良く似ていた。

「……あ、りゃ、りゃ……?」

「あん? ……あれ、ねえぞ、酒瓶がねえ……!?」

 若い男二人が振り上げた凶器は、爆発音を境として、完全に砕け散っていた。髷を結った男など、飛び散った酒で羽織が濡れて、痩せ犬の様なみすぼらしさになっている。瞬き一つより早い、まさに瞬間の出来事、豪快な笑いが酒場に響いた。

「ぐっははははは、喧嘩はいかんの、酒が不味くなる! こら坊主ども、とっとと帰れ帰れ!」

 果たして小爆発の元凶は、あの太い男が両手に持つ短筒であった。先端に空いた口から煙をもうと立ちあげて、一度嗅げば忘れられない、火薬の香りを漂わせる。
 短筒は、火薬の力で鉛玉を打ちだし、硝子製の瓶もジョッキも粉砕したのだ。

「ほう、拳銃とやらだな。ついこの間も見たばかりだが……」

「おう、いかにも……っと、名乗りを忘れとったな、ウワバミ娘」

 先程までの酔いはどこへやら、桜は童女の様な無邪気さで、短筒に顔を近づける。腰を抜かしほうほうの体で逃げ去る若い男達を背に、西洋男は、裂けた岩の様にごつい笑顔を見せた。

「G・G・F――ギブソンズ・ガン・ファイヤーワークス社長、ジョージ・ギブソン。何丁か買うか? 弾丸たまは安くしとくぞう」








 豪放磊落を地で行く笑い声を、桜はどうも気に入ってしまったらしい。勘定を終えて郊外へ向かうジョージの横を、上機嫌で歩いていく。
 ジョージは、遥か東の新大陸の、開拓者集団の一員であるらしい。ともすれば無法地帯になりがちな新都市、原住民や猛獣の多い地域での生活の為に、魔術に頼らない武器を作り、提供しているのだそうだ。
 酒場で使って見せたのは、新型の中折れ式単発短銃。火薬と弾丸を同時に包んだ薬包紙を装填、爆発の威力で弾丸を射出する。弾込めが迅速に行える上に威力も中々高く、命中率が良い。作った端から飛ぶように売れて、笑いが止まらない程だとか。

「……ふむふむ。それで、遠路はるばる商売に?」

「おう、此処は良い市場じゃからの……が、理由は他に有る!」

 そんなジョージが、自ら日の元を訪れたのは、鉱山資源と技術の為である。
 鎖国している間は知られていなかったが、日の元は実は、魔術的な性質を持つ鉱石が大量に産出する。その上に、それを加工する技術が、古来から伝わっているのだ。
 例えば、通常の鉄に似ているが、高温では無く低温で融解するという奇妙な金属。例えば、粉末にして水に溶かす事で、粘性の高い泥の様に変化する金属。諸外国は、この貴重な鉱山資源を、喉から手が出る程に欲しがっている。
 そして、ここ浜松とその周辺は、希少金属が産出する鉱山が、特に集中している地域なのだ。ジョージの会社、GGFが、それを見逃す手は無い。

「山を十も纏めて買って行こうと思ったんだがのぉ、どうにも地主がぐずってぐずって敵わんのだと。仕方なしに、儂が直々に出向いたという訳よ」

「ぐずる、か。金額を吊り上げていると?」

「いんにゃ。どうしても売れない訳が有るとか……儂も細かい事は知らん、聞いとらんからのぉ」

 顎髭をばりばりと引っ掻きながら、やや呑気な口調でジョージは語る。言葉を終えて息継ぎ一つ、また徐に口を開くには、

「……それに、ちと愉快な奴も来とるそうでな。挨拶もしておきたいという事よ」

 どうにも、旧友を訪ねる悪餓鬼の様な面構えであった。

「で、今向かってるのはどこ?」

 二人から一歩下がって村雨が、酔人どもの目的地を尋ねた。火薬の臭いが苦手なのか、鼻を左手で覆っている為、声がややくぐもってしまう。

「近隣の大地主とやらよ、儂が直々に話を付ける。なあに、いざとなれば札束で頬を張ってやるわい」

「……この国だと、お札より小判の方が印象は強いと思うけどねー」

 銀行という近代的施設が作られながら、旧態依然とした貨幣制度も残る日の元。大陸育ちの村雨は、やや引いた視線を保っていた。








 さて、目的の屋敷である。屋根が高く、瓦が整然と美しく積み上げられていて、まさに裕福な家なのだろうという雰囲気を醸し出している。完全に日の元風の建物で有るのに、玄関には不思議と、西洋風のドアが付けられていた。

「どうしてこの国のドアは、外の人間が引かねばならんのじゃ……おおう、たのもー!」

「靴は脱げよ、私も最初は良く忘れたものだが」

 ジョージの大声は、屋敷の奥まで届いた筈である。返事が来る前にドアを開け、玄関に上がり込んだ。これだけの屋敷、使用人の迎えも無いのはおかしな事で有ると、僅かながら疑問も抱いたが、

「売れぬだと!? 私自らにまで足を運ばせておきながらどういう料簡なのだ貴様は!」

 おそらくは地主の私室が有るだろう方角から、神経質そうな叫びが聞こえてきた。桜と村雨は顔を見合わせたが、声に殺意の様な物は感じなかったので、取り立てて足を速める事も無い。先客がいるらしい。

「取り込み中の様だが」

「構わんわい、儂は迎えが無い程度で機嫌など損ねんぞ?」

「向こうが構うんじゃないかなー……忙しそうだし」

 家人、使用人などは、その先客の接待に掛かりきりなのだろうか。成程、厄介な人間だというのは、聞こえてくる声だけで窺える。が、それで思いとどまり踵を返すジョージでは無い。声の発生源である部屋は、真っ直ぐに歩いていけば直ぐに見つかった。

「おお、やはり居ったなぁ。あいかわらず喧しい奴よ、邪魔するぞーう!」

 襖をがらりと開け、敷居を大跨ぎに部屋へ入ったジョージは、幾つもの視線を同時に浴びる事となった。
 まずは使用人が三人。何れもこぎれいな洋装をしているが、顔立ちは田舎の娘といえば思い描きやすいだろう。狼狽が浮いた顔で、思いがけぬ乱入者に、縋る様な目を向けている。

「わわ、わ……そ、そこの人、頼むから助けて、ひいい……!」

 それから、地主なのだろうと思われる、やや太り気味の男。口調の軽さから、威厳などはあまり感じられない人物だが、両肩を掴まれて前後に揺す振られている様は、更に情けなくも思えた。
 そして、地主の頭を前後にがたがたと揺す振っている元凶は、レンズの向こうで慳貪に目を細めた。この国ではあまり見かけない、眼鏡を掛けた男だ。

「む、貴様は……! おのれ、貴様も嗅ぎつけたか!」

「よーうレオポルド、相変わらずだのぉお前は。こら、放してやらんかい」

 どうにも旧知の仲であるらしい二人。レオポルドと呼ばれた男は、漸く地主を揺さぶる手を止め、代わりに警戒心も露わに、細まった目を更に糸の様に細める。
 ジョージの印象は太い男だったが、このレオポルドという男は、兎角細長い。背丈は桜とそう変わらないのだが、腕と足が、常人より拳一つか二つは長いのだ。その上に痩せ形である為、遠目に見ていると、実際の背丈より随分長身に感じられる。

「知りあい……なのは確かだな。なんだ、友人か? それとも仇敵か?」

「いんにゃ、商売仇じゃい。くそ融通の聞かん奴でのぉ……」

「本当だね……ええと、大丈夫?」

 レオポルドがいきなり手を放した為、地主は仰向けにすてんと倒れ込む。あまりと言えばあまりに哀れだった為、村雨が助け起こしに向かうと、同じ行動に移っていた少女がもう一人いた。

「……あれ、地主さんの? って違うよね、髪の色とか……」

「いえ、父がご迷惑おかけしております、申し訳ありません。私はルシア、ルシア・バラーダ=Ⅷと申します、以後お見知りおきを」

「あ、えーと……これはこれはご丁寧に、どうも」

 腰を直角に折り曲げてから、平静を保った表情のままで地主を引き起こしている少女は、十一か十二歳くらいの外見に合わず、落ち着いて大人びた挨拶をした。思わず、同じように直角に頭を下げてしまう村雨。

「ルシアちゃん、でいいのかな。あなたのお父さん、何をしてるの?」

「当地一体の鉱山を、山ごと買い上げる為の交渉――いえ、あのように掴みかかって叫ぶのが交渉だとは思いませんが、父の悪い癖でして申し訳ありません。とにかく、商談の最中です」

 よほど詫び慣れているのか、会話の中に謝罪の文言を織り交ぜる事に淀みが無い。ブラウンの髪の小柄な少女は、むしろその父親より、よほど老長けている様にさえ、村雨には感じられた。

「と、申し訳ありません、少々お力添え願えますか? 父の頭を冷やさなくては、この屋敷に数日は滞在する事になりかねませんので」

「……なんだか、苦労してるんだね」

 地主を座らせ落ち付かせ、レオポルドの方に目を向けて見れば、今度はジョージに食って掛かっている。商売仇への敵愾心とひいき目に見た所で、娘がいる良い大人のやる事にしては、やはり子供じみているという感想は隠しようが無い。年齢に比べて精神面で完成されたルシアに、なんとなくという程度だが、村雨は同類の雰囲気を感じ取った。

「はっは、中々に見物だな。おう、殴り合いを始めるなら歓迎だぞ、むしろ積極的に始めんか」

「あんたは煽るな、あんたは……ああもう、何なのよこれ」

 そしてやはりと言うべきか、桜の酔いは醒めきっていない様である。厄介さんが二人、細かい事を気にしそうに無いのが一人。この状況に何処から手を付け、何処へ運べば良いのやら、村雨は途方に暮れてしまった。
 ……最大の迷惑を被っているのは、この屋敷の家人達であるのは明白だが、それに言及する常識人はいないのであった。








「えぇ、ではですね……うぅ、なんでこんな事に……」

「……あなたが悪いんだからね」

「ぐぬぬぬ、面目ない……」

 地主が半べそを掻き始めた辺りで、村雨もついに実力行使におよび、レオポルドを引きはがして座らせた。慣れぬ畳の上の正座に、居心地悪そうにしながらも、頭が冷えた彼は反省したそぶりを見せていた。
 順を追って説明すると、このレオポルドという男は、銃器製造業を営むルシア・バラーダ社の社長。つまり、ジョージとは同業で競合他社となる。来日の目的は商談と、そして希少金属を算出する鉱山の確保である。
 三百年以上の歴史を誇り、また新技術の特許などで潤沢な資金を集めているレオポルドは、浜松周辺の鉱山を、連なる山ごと纏めて買い上げようとしていた。提示した金額は、それこそ天文学的な数値にもなっているのだが、然し地主がそれに応じないのである。
 金銭の不足を訴えている訳ではない。金額の問題では無く、どうしても山を売れない理由が、地主には有ると言うのだが――

「――法師が、枕元に立つのです。腹が減った、腹が減ったと……おお、恐ろしい」

 なんでも、この地主が所有する山々には、一つの言い伝えが有るという。
 昔、一人の法師が修行の為に山を訪れ、洞窟で雨宿りをしていた所、崩落事故に巻き込まれた。助けを求めたが山中の事、誰も気付きはしない。そこで、岩の隙間から降りてきた蜘蛛に、どうか助けを呼んでくれと願ったのだとか。
 信心深い蜘蛛は、仏様の助けもあり、無事に人里に辿り着いた。そして、村の長に助けを求めようとしたが――所詮は蜘蛛、呆気なく踏みつぶされてしまった。

「結局、その法師も崩れた洞窟の中、餓えて死んでしまったと言うのですな。それ以来あの山には、蜘蛛と法師の怨念がこびりついて……」

「……なんて救いの無い話なんだろう」

 登場人物の誰も得をしなかった昔話に嘆息しながらも、村雨は首を傾げる。そんな逸話付きの山が高値で売れるのなら、寧ろ厄介払いが出来たと喜ぶ所では無いのか?
 その点を指摘すると、地主はまた、泣きそうな顔をする。

「ひえぇ、とんでもない……お祓いしようと徳の高い僧を呼ぶとですね、必ずその夜に法師が現れ、私に延々と恨みごとを……。おまけに、天井にも壁にも、化け物のように巨大な蜘蛛が張り付いて巣を作っていくので、朝には部屋の中でも立ち上がれぬようになるのですよ? そんな山を人に売り渡せば、果たしてどんな事になりますやら……」

 聞いている限り、不憫な地主である。が、その話を聞いていた村雨には――そしておそらく、表情を見る限りはレオポルド、ジョージの両名とも、思い当る節が有ったのだ。

「……ふふん、成程な。何を恐れているかと思えば、所詮は『女帝蜘蛛』如きではないか! 全く極東の田舎者は……」

「珍しいのぉ、こんな国にまで住み着いておったようじゃわい。奴らめ、海を泳げるのか?」

 神妙な顔をして聞き入っていた二人は、途端晴れやかな顔つきとなり、飛び跳ねんばかりの勢いで立ち上がった。合理主義の西洋人達は、どうやら解決策を見つけた様であるらしい。

「おい、地主! ならばこの私が、その法師とやらを退治してくれよう! それならば貴様も、山を売る事に意義は唱えるまい?」

「ひええ、いやあのその、その様な事をしては法師の祟りが恐ろしく」

「居たか居ないかも分からん人間の祟りなぞ恐るるに足りんわ馬鹿が! いくぞルシア、弾薬を持て!」

「はい、お父様……それでは皆様、お騒がせして申し訳ありません」

 地主はやはり気乗りしない様子なのだが、レオポルドは聞く耳を持たない。足音も粗く襖を開けて廊下へ出ていき、その後ろをルシアが小走りで付いて行く。室内に残された一同に、頭を下げたのも、やはりルシアだけであった。

「せわしない奴だな。そんなに座っているのが苦手なのか?」

「うむ、全く。もう少し気を抜いて生きられんかのぉあいつ」

 桜の言葉は、立ち上がった二人――つまりはジョージにも向けられているものだったが、この太い男は、その様には受け取らなかったらしい。他人事のように言いながらも、のそりのそりと動き始める。

「おう、地主よ。すまんが、儂もあの山は欲しいのでのぅ。蜘蛛は全て散らしてくる故、あの男ではなく儂に売ってくれれば助かる……では、暫しの後に!」

 商売仇にばかり、希少な資源を渡すまいという商売人根性もしっかりと見せる。村雨や桜からすれば、寧ろ鷹揚なジョージの方が、神経質なレオポルドより賢い様にも思われた。
 取り残された桜は、家人に出された茶を啜っていたが、湯のみを卓袱台に置くと、首だけを村雨の方に向ける。何やら合点の行っていた三人とは異なり、聞き慣れぬ単語が、会話の中に有ったのだ。

「なぁ、村雨。女帝蜘蛛とは何だ? 女郎蜘蛛の親戚か?」

「ん? ああ、まぁ……女郎蜘蛛の何十倍も大きな親戚? 背中の模様が人に似てて、弱いけど幻覚を見る様な毒が牙に有って、とにかく長生きする女郎蜘蛛の親戚」

「それはまた、傍迷惑な生き物だな……ふむ、ふむ」

 大陸の、西の方にしか住まない筈の珍生物。大方、ろくでもない密輸品に紛れ込んだものであろう。村雨はその程度の認識だったが、然し桜は目を輝かせ、

「で、それは楽しめる程度には強いのか?」

 答えを聞く前に、既に歩き始めていた。やはり、首を突っ込むつもりになってしまったらしい。

「……期待外れになると思うんだけどなぁ……ま、いいけどさ」

 皆が動くのでは、一人で見知らぬ屋敷に居座る訳にも行くまい。地主に一言詫びを入れて、村雨もまた、坑道へと向かったのであった。








 浜松城下の中心から離れた地主の家、そこから更に四半刻。目的の坑道は、そう遠くは無かった。
 比較的最近までは使われていた場所であるらしく、崩落を防ぐ為に差し巡らされた支え木に、朽ちた様子は見受けられない。松明を置く為の燭台も、比較的狭い間隔で用意されていた。

「……ふん、所詮は辺境の小国か。なんとも効率の悪い採掘だな!」

 レオポルドは、先進国に住む者としての優越を存分に振りまきながら、魔力生成した光源を自走させ、その後を歩いていた。すぐ隣には娘のルシアが、箱型の鞄を持って供をしている。
 常に何かに腹を立てておらねば気が収まらないレオポルドは、細長い腕を懐に入れて、一丁の短筒を取り出す。銃口を坑道の天井に向け、引き金に掛けた指に力を込め――火薬の小爆発、銃声。成人男性の掌二つよりまだ大きな蜘蛛が、仰向けに落下して息絶えた。

「大方、外来種が地方の迷信と結びついただけの妄言であろう……ふん、こんなつまらぬ事の為に私を煩わせるとは、あの地主めが……!」

 短筒――新式単発拳銃を放り投げ、蜘蛛の亡骸を踏みにじる。その横で、投げ捨てられた銃、排出された薬莢をルシアが拾い上げた。薬莢は腰に付けた袋に放り込み、新たな銃弾を取り出し拳銃に装填、父親に投げ返す。投げ渡された拳銃をまた懐に戻して、然しまだ、レオポルドは苛立ちが収まらない。

「……ええい、何故着いてくるか貴様達は!?」

 それもその筈である。彼の直ぐ後ろには、商売仇であるジョージの姿が。そして更にその後ろには、部外者である桜と村雨の姿が有ったのだ。

「何故と言うがのぉ、一本道じゃぜ? 真っ直ぐ歩いていればこうなるのも無理は無いわい」

「いやはや、やはり銃という物は面白いな。見事な腕前だ、そこの娘も」

 すっかり物見遊山の体で歩いている、この二人。馬鹿げて巨大な蜘蛛を見ても、焦りを覚えた様子は無い。

「……変わった銃だな、お前の作品か?」

 むしろ桜の興味は、レオポルドが鮮やかな抜き打ちを見せた銃の方へと注がれていた。飛び道具は弓矢以外は手にした事も無い桜であるが、どうにも気になる事が有ったのだ。あの銃は、つい最近――そう、確か杉根 智江が使っていた物と同じではないだろうか?

「ほほう、ただの無骨なサムライかと思えば、中々に目が高いな?」

 桜の言葉には、決して称賛の意図は含まれていなかったのだが、レオポルドはどう受け取ったものだろう。鼻高々に再び銃を取り出し、わざわざ移動光源も引き寄せる。

「如何にも! これこそは我が社が開発した最新最強の拳銃、A・Ma1793! 紙薬包などと言う黴の生えた技術を捨て去り、新たな世代へとシフトした画期的にして革命的な――」

「うむ、技術的な話はまるで分からんが、とにかく新型なのだな?」

 レオポルドの高揚の仕方は、美術品を見せびらかす富豪の様でも有り、建築美を誇る大工の様でもある。自分がそれを持っている事、自分がそれを作った事を自慢したいという、兎角子供の様な発想から来た言動であった。

「おうおう、L・Bの社長御自らが説明してくれるとは、こりゃ滅多に無い機会だわい。で? その弾薬の作りはどうなっとる?」

「――!? 誰が貴様などに教えてやるか愚か者がっ!」

 然しながら、直ぐ近くには、商売仇の技術者がいるのである。自社製品の詳細に関して語り、他者に利を与える事は出来ない。まこと悔しげな顔をしてレオポルドは押し黙り、桜達に背を向けた。

「ふん、行くぞルシア! 早々に蜘蛛の巣を見つけ掃討してくれる!」

 靴の踵を地面に打ち付ける、恐ろしくけたたましい歩き方で、坑道の奥へと向かうレオポルド――彼は一つ、大きな失敗をしでかした。



 やや話は前後するのだが、レオポルドが足を止め、桜に自慢を始める直前の事である。
 村雨は、踏みつぶされた蜘蛛の亡骸に近づき、その臭いを確認して記憶していた。坑道内に充満している臭いと、蜘蛛の亡骸の臭いが一致したのなら、蜘蛛の数と行動範囲は相当な物になると推測できるからだ。
 顔を地面に近づけずとも、膝を曲げる程度で、蜘蛛の体液の臭いは十分に嗅ぎ取れた。間違いない、確かにこの坑道の臭いは、そっくりそのまま『女帝蜘蛛』の体臭と同じである。
 しかし、濃度がおかしい。眼前で潰れている亡骸の臭いは、かなり強烈な部類である筈だ。だが、周囲から漂ってくる蜘蛛の臭いは、人の鼻ならそれに慣らされ、他の臭いを忘れてしまう程に強いものである。

「……何十、いや何百匹? おかしいな、そんな餌が有る様には思えないんだけど……」

 普通の蜘蛛の数十倍の体積、それを支え得る外殻。女帝蜘蛛がその体を維持する為には、かなり大量の栄養を必要となる。坑道に救う蜘蛛達に、そんな栄養源など集められる筈が無いと思えたが――それはさておき、問題は、村雨とレオポルド、そしてルシアの位置関係であった。
 桜に対して自分の技術を誇り、そして背を向けるまでの間、レオポルドの視線は自身の胸より下がらなかった。村雨はしゃがみ込んだままであり、頭は彼の腰程度の高さに有った。
 そしてまた、蜘蛛の臭いを記憶する為に移動した時、細かい事に気が聞くルシアは、すうと身を引いて、村雨の為に空間を確保したのである。その動きを、レオポルドは把握していない。
 故に、ルシアの腕が有った筈の場所へ手を伸ばしたレオポルドは、目的の物を掴めずに終わったのだ。

「……桜」

「良い旅を」

 視線が交錯した刹那、桜は村雨に、西洋軍隊風の敬礼を送った。どうして良いものかと案が纏まる前に、村雨は坑道の奥へ、手を引かれたまま歩いていくのであった。

「……父が近眼で申し訳ありません……はぁ」

 娘を置き去りにして気付かぬ親に、ルシアは大人びた溜息を零す。駄目な親の下に生まれてしまった為に、この程度の事では、もはや驚きも戸惑いもしないのだろう。

「ひょっとしてあの男、相当な馬鹿か?」

「馬鹿も馬鹿よ、技術馬鹿だわい。あればかりは、きっと死ぬまで治らんの……追うか」

 あまりの事に、桜もジョージも追う事を忘れていたが、光源がこれ以上遠ざかるのは困るのだ。桜は魔術の心得など皆無だし、ジョージも決して器用な方ではない。周囲を照らす程度の事は出来るが、明度の調節が下手なのだと言う。また、銃弾を所持するルシアが居ないでは、レオポルドとて蜘蛛退治もままなるまい。
 だが、桜は走り出す事が出来なかった。険しい顔をして脇差に右手を掛け、左手でルシアの肩を掴み、自分の方へ引き寄せる。

「……どうした、ウワバミ娘」

「天井だ。覚悟を決めてから見上げろ」

 ただならぬ様子に、同じく走り出せずに居たジョージは、促されるままに天井を見上げ――あまりにばかばかし過ぎるそれの姿に、快を一切覚えぬままに笑った。
 八つの緑の玉が浮かんでいる。宝玉かとさえ思える程に透き通り、本当に緑柱石であったのならば、国の宝にもなろう頭蓋大の球。
 それが、目だ。確かに彼らの目は大きいが、それでも眼球の直径は、体長の二十分の一という所であろう。即ち、直径が一尺にも及ぶ眼球から想像し得る、この怪物の体躯は、優に二丈ともなろうか。

「かっはは、まっこと化けもんじゃわい……!!」

 牛よりも尚重たき体を、鋼の爪で岩天井に留め、女帝蜘蛛は桜達を見下ろしていた。針毛を総身に纏う、全き異形であった。








「ひぃい……なんまんだぶなんまんだぶ、どうか成仏してください……!」

 暴風の様な来訪者達が去ってからも、地主は畳に額を擦り付け、手を合わせて仏を拝んでいた。
 この地主は、坑道に何が住み着いているかを知っていた。常識外れの巨体を持つ蜘蛛達が、慢性的に飢えている事も知っていた。だから、出来るならばあの坑道に、人を入れたくは無かったのだ。
 然し一方でこの地主は、非常に臆病な性質でもあった。例えば、部屋に女帝蜘蛛の子が紛れこんだだけでも、伝承に残る法師の夢を見てしまう程に、だ。蜘蛛達を大人しくさせておけるなら、それで自分の心の安寧が得られるなら、多少の外道は躊躇いながらも実行してしまう。
 この地主はたった今、近くの若者に金を握らせて、坑道の入り口を塞ぎに向かわせた所であった。勿論、永久に閉ざそうとしたならば、蜘蛛の祟りが恐ろしい。旅人五名が食いつくされ、骨になるまでの間、逃がさない為の小細工だ。
 あの巨体の蜘蛛達も、人間をそれだけ食ったならば、数か月は満ち足りたままであるだろうと、希望的観測を抱いたのだ。

「……成程、思ったより悪党でしたね」

「ひいっ!?」

 その希望が、恐怖一色に塗りつぶされる。人払いを済ませた筈の自室に、突如、女の声が聞こえたからだ。
 姿は見えぬながらそこに居たのは、他でもない、ウルスラである。旅の同行者二人が、町の中心部から離れていくのを見て追いかけたは良いが、姿を現す機を失していた。仕方なしに消えたままで居た所、地主の様子がおかしかった為、そのまま監視をしていたのである。

「人を遠ざけようとしたり、逆に餌として与えようとしたり……貴方の考える事は、正直理解できません。が、見過ごしておく事もまた出来ません……彼女達は、私の連れですから」

「ど、どこに……!? 誰か、だれ――んぐっ!?」

 人を呼ぼうとした地主の口に、手拭いが強引に押し込まれた。間髪入れず、喉に触れる冷たい感触。ただの扇子の骨であったのだが、今の地主には、切れ味鋭い短刀の刃とさえ錯覚を引き起こす。

「お静かに。殺しは好きではありませんが、比較的慣れています……知っている事をお話しくださるなら、今回は悪行を見逃しましょう。答えは?」

 否、と答える事など、出来よう筈が無い。地主は顔の皺を倍に増やしながら、涙が飛び散る程強く、首を縦に振った。
 余人であれば、地主にかかずらっている暇も惜しみ、坑道を塞ぎに向かった若者たちを止めに向かったかも知れない。然し、彼女の思考は、その様に働かない。
 ウルスラは暗殺者であり魔術師なのだ。敵の巣に踏み込むならば、事前に情報を得て、相応の武器を用意していきたいと考える人種だ。

「……それでは、質問を始めます。件の坑道に潜む蜘蛛と言うのは――」

 喉から扇子の骨が離れた頃には、地主の皺面は汗と涙と鼻水で、とても見られたものでは無くなっていた。未だに畳に伏している地主には目もくれず、ウルスラは全速力で、坑道の有る山へと走り出す。
 常の様に、複雑な思考を伴っていない事が表に出ている面構えではあったが、それは単純に、心が一つの感情に塗りつぶされていたからであった。
 今回ばかりは、流石に急がなければならない。超人的な強さの桜に、全てを任せておける状況ではない、と。








「ええい、忌々しい……どこまで続いておるのだこの坑道はっ!!」

 やはりと言うべきか、レオポルドは万物に当たり散らしていた。進んでも進んでも進んでも、一本道の坑道が、行き止まりにならないのだ。
 住み着いている筈の蜘蛛も、一匹を撃ち殺して以降、全く遭遇していない。さては徒労であったかと思うと、更に苛立ちが募り――いや、彼の場合は特に理由が無くとも、常に腹を立てているようなものだが。
 無形である光を、強引に球に形作った様な浮遊物が、レオポルドの数歩手前を進んでいる。松明よりは明るく、何より火傷の心配が無い光源は、この様に狭い空間では重宝する。どうやら魔術の腕前も、銃撃に負けず劣らずであるらしい。

「全く、さっさと本国へ戻りたいと言うに……島国は何もかも狭苦しくてかなわんぞ!」

「あれ、ここで採掘していくんじゃなかったの?」

「そんな事は人足を雇ってやらせるわ! 設備もないこの国で何ができるか!」

 足元の石を、見えなくなるまで蹴り飛ばし、レオポルドはひたすら突き進む。その途中に向けられた問いには、語調を一切和らげぬままに答えた。
 彼が日の本を訪れたのは、魔術強化を経ずして火薬の爆発に耐えうる頑丈な銃を作るに当たり、良質な金属が必要であったからだ。生国である都市国家ティエラ・ロッサで条件が満たせるならば、各種設備の整った開発環境から離れるなど、そも考えもしなかっただろう。
 一刻一秒でも早く本国に戻り、慣れ親しんだ工房に籠りたい。新型弾薬をより効率良く射出する機構の案が、頭の中に三つか四つは有るのだ。それを形に出来ないという不満は、この男を更に苛立たせ、ぎしぎしと奥歯を鳴らす程であった。

 三百年の月日を誇るルシア・バラーダ(L・B)社の歴史の中でも、このレオポルド・バラーダという男は、極めて異質である。
 一つに、L・B社は本来、長女が代々の社長を務めるという慣習が有るのだ。七代目ルシアが、子供を男児一人しか設けず、また養子も取らなかった結果ではあるが、伝統を重んじる一族経営の会社では異例の事態であった。
 然しながら、古い石頭を押し切って彼を社長たらしめたの才も、やはり彼の異質たる点である。
 彼は幼いころから、魔術を用いる事に長けていながら、然し魔術を全く愛さなかった。自分自身が使える技術を、まるで無価値な物と見下していた。それは、『他の誰もが同様に使えない』からである。
 自分だけが使えて、他人が使えない魔術。他人だけが使えて、自分が使えない魔術。術者によっては、発動させる事さえ出来ない技術など、存在する意味が無いのではないか。技術とは、万人が同様に、単純な操作だけで扱えるものであるべきなのではないか。
 その様な考えを持っていたレオポルドには、『引き金を引けば弾が飛ぶ』拳銃は、極めて合理的で分かりやすく、かつ理想的な技術の塊に感じられた。そして、この道具の性能を引き上げる事に、ただならぬ喜びを覚えるようになったのだ。
 齢十五にして狙撃銃の命中率を三割以上引き上げ、二十を過ぎて社長に就任してからは、片手で扱える拳銃に着目する。十年以上の開発を経て、ついに完成させたのは、誰もが容易く扱える新型弾薬『カートリッジ』であった。
 紙で火薬と弾丸を包み装填する従来のやり方を捨てて、金属の筒に火薬と弾丸を詰めておき、その筒を銃身に装填する。ひっくり返そうが振り回そうが、新型弾薬から火薬が零れる事はなく、また多少の湿気であれば、火薬が湿気る心配はない。
 零す事を恐れずに済む分だけ、使う火薬も強力なものに出来る為、とりまわしの利便性ばかりではなく威力も高い。この技術は、銃器の歴史を五十年は早めたとさえ評価される代物だ。

 技術革新という一点にのみ着眼点を置くならば、レオポルドは極めて優秀な男である――が、それでさえ補えない程に、彼は欠点だらけの人間でもある。
 常に何かに腹を立て、拳を強く握っているが為に、爪が押しつぶされて丸く短く変形した指。歯軋りのし過ぎで、奥歯は少しばかり擦り減っている。暗い部屋に閉じこもる事が多いからか、眼鏡が無くては、人の顔をさえまともに認識できない。
 常に吠える様な大声を上げているのは、火薬の爆発音を聞き続けて聴力が衰えているからだ。意識しなければ際限なしに声量が上がり、喉の疲労で漸く、己の無礼に気付く。
 だが、その何れにもまして大きな欠点と呼べるのは、思考の視野の狭さであろうか。何か一つに専念すると、他の重要な事項の一切に配慮が回らない。蜘蛛の掃討という事だけに意識が向いている現在、それ以外の本当に重要な事を見落としていると、ここまで全く気付きもしていないのだ。

「む……! やーっと二匹目か、出て来るのが遅い!」

 近眼ではありながらも、こと射撃に関しては正確無比。流れる様な動作で銃弾を放ち、天井に張り付いていた蜘蛛――人の上半身より巨大であったーーを撃ち落とす。機械染みた規則正しさで、拳銃を右斜め後方へ投げる。右肩越しに左手を翳し――

「……おい。おい! 早く寄こさんか!」

 ――怒鳴りつけたが返事は無く、気まずそうな沈黙が漂うばかり。苛立ちも露わに(常の事ではあるが)、レオポルドは靴音荒く振り向いた。

「あは、あはは……ええと、どーもー……」

 そこに居たのは、投げ寄こされた拳銃をどうして良いものかと途方に暮れる村雨で、

「んな――んで貴様がここにおるかあぁっ!? ああルシア、ルシアッ、何処に行ったぁ!?」

「えー!? 連れてきた本人がそれー!?」

 二人分の叫び声は、狭苦しい坑道にやたら良く響いた。



 レオポルドがひとしきり叫んで疲労を覚えると、その反響も掠れて消えていく。荒く肩を上下させながらも、変わらず荒い足取りは、元来た道をずかずかと戻り始めた。

「……くそ、くそ、くそ……よりによって同行があの粗暴な連中だとは……!」

「否定はしないよ、しないけど……言い方って物がさ?」

 両の足が同時に地面を離れないから、走っているとは表現しづらいが、レオポルドの歩行速度は、村雨の歩幅で追いつくのに多少の難儀を強いられる程であった。そこまであの二人――ジョージはまだ兎も角、自分の連れである桜まで信用されていないのかと、村雨が棘のある声を出す。
 それに対する答えはなく、歩く速度がやや早くなったばかり。

「ちょっとー……――」

 振り回される事には慣れてきている自覚が有った村雨だが、やはりこの男に対する良感情を持つ事は出来ない。此処まで引きずって来られた事に対し、一言だけでも詫びを求めようと掴みやすい腰のベルトを掴んだ――ら、先へ進もうとしたレオポルドの上半身は、激しく折れて眼鏡を床に落とした。

「ぐぉうっ!? ……っぐ、ぬ」

「――あ、ごめ……ぁ、れ?」

 流石にこれはやり過ぎたと詫びたが、レオポルドの怒りの矛先は、予想された方向には向かわない。何も言わずに眼鏡を拾い、また速度を上げて歩いていくだけだ。

「ねぇ、ねえ……ごめんってば」

 彼の事だから、天井から岩も落ちんばかりに吠えたてられるかと身構えていた村雨は、寧ろ拍子抜けさえして、遠ざかる背を小走りで追う。その様を、レオポルドは一顧だにしなかった。

 さて、天才肌の人間は、自分の理だけに従うものである。レオポルド・バラーダという男は、それを分かりやすく体現している男であった。自分の事に関しては感情的、その他の事に関しては合理的という自己中心思考。身の回りを固める部下も、縁故採用などはせず、徹底的に能力主義で選別している。
 大方の人間には公平と、そして親族には非常と評されるその思想には、然したった二例だけ例外が有った。一つが娘のルシアであり、もう一つが――今は亡き、と冠が被せられる女性――ルシア・バラーダ=Ⅶ。先代の〝ルシア〟にして、L・B社の社長になる筈だった人。そして、レオポルドの妻だった女性だ。
 彼女はレオポルドに劣らず聡明で、だが彼とは正反対に、誰にも愛される優しい人間だった。そんな彼女が彼に惹かれた理由は定かではない。
 だが、二人は仲睦まじい夫婦だった。学生の頃より連れ添い、成人後直ぐに婚姻を結んだ。無愛想な夫に対して妻は良く報いたし、献身的な妻に対して、上手いやり方とはいえずとも、夫もまた愛情を示していた。然し二人の結婚生活は、僅か四年で終わりを迎える。
 産褥熱が悪化し、彼女が天に召されるまで、僅かに五日。元より健康ではない彼女であったが、それを踏まえても、あまりと言えばあまりな夭折であった。
 以降、妻に向けられていた愛情はそっくりそのまま、寧ろ幾らかの変質を経て、娘に向けられるようになった。決して手放すまい、遠ざけるまい。片時と離れる事は我慢ならぬ、毛ほどの傷さえ許してはおけぬ。完全に、彼女を失った年まで守り抜かん、と。
 遥か極東の小国を訪れるのにさえ同行させる様な、安全確保とはやや方向性の異なる保護欲求も、それが原因だ。娘と引き離されている状態とは、レオポルドにとっては、家族が目の前で死に続けるにも等しい恐怖を覚えるものなのだ。

 何時しか、レオポルドの両足は、同時に地面を踏まないように変わっていった――走り始めていた、という事だ。予想以上に進んでしまった道のりを、来た時の倍近い速度で引き返していく。

「……あれ、ええと、この辺りの臭いが……んん?」

 その過程で、同行している村雨は気付いた。丁度その瞬間に通過した場所は、桜達から引きはがされたあの時に立っていた場所の筈だ。レオポルドが撃ち落とした蜘蛛の死骸が有る、間違いない。
 だとすると、ここまでは一本道、桜達に出会わない筈が無い。仮にその様な事が有るとすれば、それは彼女達が来た道を引き返していた時だ。桜が自分に何も言わず戻る様な事が、果たして彼女の性格からして有り得るか――?

「あ――ねえ、ちょっと、それ!」

「ん? ……む、これは――!?」

 レオポルドの魔術光源が照らすより先、夜目の利く村雨が異変を察知する。蜘蛛の死体が有った場所から更に数歩奥――坑道入口に近い方向――の通路が、巨大な岩に埋め立てられていた。当然だが、坑道を訪れた時には、この様な物は存在しなかった。
 足の裏で押し込む様に、レオポルドが岩に蹴りを打ち込む。ほんの一寸さえ、動く様子は無い。天井が丸ごと崩れて落ちた様なものだ。岩だけではなく、上に覆いかぶさる土砂の重量にも耐えられなければ、これを撤去する事は出来ないのだろう。

「ぐぬ、ぬぅ……! ルシア、聞こえるか、ルシアッ!!」

 岩の向こうに叫び続けるが、返答は無い。背後から反響と、木々のざわめきに似た音が聞こえてくるだけだ。
 そして、草の一本も生えていない坑道に、樹木など存在する道理は無く、葉擦れ音は葉擦れ音である筈が無い。

「ごめん、そっちばかり気にしてると……うん、ヤバいかもだから、ちょっとこっちね」

 既に村雨の鼻は異常を感知して、レオポルドの袖を引き、背後を振り向かせようとしていた。彼がそれに従った時には、既に状況は、収集の付け様がまるで見えなくなっていた。
 其処には、人の腰程までの高さが有る蜘蛛が、およそ二十も集まっていたのだ。どれも、宝石の様に美しい目をした、針毛の蜘蛛達であった。








「おう、向こうは楽しそうだったのう! 混ざりたいのう!」

 太い体に見合った太い笑いは、然し些か冷や汗を伴っている。銃を握るジョージの手は、事実、僅かだが震えていた。
 先に進んだ反響は動けず居ると言うのに、こちらの三人は、先程から後退を続けていた。

「そうか? こちらも中々だろうが。見ろこの歓迎ぶりを、もう何匹潰したかも分からんぞ」

 桜は、脇差を鞘に納めたまま、打撃武器の様に使っていた。総金属の鞘は、桜の力で叩き付けられても、へし折れない程度の強度は備えていた。
 何故この様な使い方をしているかは、足元に転がる無数の骸が答えている。蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛――何十とも付かぬ、巨大な蜘蛛だ。
 巨大とは言うが、桜の手より幾らか大きい程度。天井に控える化け物とは比較にもならない――などと考えたのなら、神経が麻痺している。女郎蜘蛛を十数倍した様な怪物が、脚を縮めて腹を破裂させ、茶色掛かった体液を零して息絶えている様は、中々に見ていて気味が悪い。それが数十も転がっていて、更に数倍するだけの数が、まだ奥から奥から湧きだしてきているのも、見逃せない点だ。
 天井からぶら下がる一体に補足された次の瞬間には、坑道の岩壁の隙間から、この連中は這い出してきた。牙に毒を持つ蜘蛛の群れだ、全く存在を度外視して進む訳には行かなかった。
 そして、数歩ばかり後退したを好機と見たか、天井の蜘蛛はその鋼の様な爪を持って、天井を〝抉り抜いた〟。先へ進んだ獲物を奪われぬ為、そして自らの巣に余計な敵を入り込ませない為。外骨格の生物にしては、腹が立つ程に賢いやり口だ。

「弾は有りますが銃が有りません、申し訳ありません……退きますか?」

 ルシアは、戦闘手段を持ち合わせない為、桜の背後に隠れていた。弾丸だけなら大量に所持しているが、然しそれは、L・B社の新式銃専用の物。一般的に普及している、例えばジョージが持つ旧式銃には対応していない。

「同感じゃのう、こっちは弾が無いわい! あいつらにはすまんが、此処は一度退いた方が――」

「駄目だ、置いていける訳が無かろうが」

 進む術は無い、それは桜も十分に理解している。だが、理屈で分かっているからと言って、感情を納得させるには足りない。道を塞ぐ岩は巨大だが、自分なら斬って道を作れる筈だ。ここで引く訳にはいかないのだ、と。
 だが然し、足元を埋める程の蜘蛛の群れとなれば、桜とて迂闊には踏み出せない。壁や天井を走る程、器用な技は身につけていないのだ――壁を蹴って飛ぶ程度なら出来ようが。
 そして、『眼』も使えない。この狭苦しい坑道で炎を起こそうものなら、人間の蒸し焼きが完成してしまう。止むを得ず桜は、只管に打撃を以て蜘蛛を潰し続けていた。
 足に飛びつこうとする蜘蛛を、壁へと蹴り飛ばして潰す。腰に張りつこうと飛びかかる蜘蛛を、刀の鞘で押し潰す。側面から来ても潰す、天井から落ちて来ても潰す。切りが無く、寧ろ蜘蛛の数は増えてはいないだろうかとさえ感じられる。

「おうい、ウワバミ娘! もう弾が切れたぞぉ!」

「知るか! 無理なら走って下がれ、私は戻らんぞ!」

 ジョージの所持する弾丸は、どうやら全て撃ち尽くしてしまったらしく、銃声は完全に途絶えた。体格の良い男であるからして、飛びかかって来る所を素手で叩き落としたりグリップで殴りつけたり、それなりには抵抗しているが、おそらくは体力が持たないだろう。
 こうなれば仕方が無い。自分だけでどうにかする、と桜は決めて、ジョージとルシアを逃がそうとする。だが、ルシアは桜の背から離れようとせず、冷静に一つ、咳払いをした。

「……申し訳ありません。私の勘違いでなければ、つい先程から坑道の空気に、流れが感じられなくなりました」

「それは、どういう事だ?」

 蜘蛛の群れの中で、少し他より大きい一体を、脇差での居合で両断する。ほんの数泊、蜘蛛の攻め手が緩んだ所で、桜はその言の真意を確認する。

「おそらく、入口を何かで塞がれたのかと。理由はさておき、私達が此処を抜け出す事を快く思わない誰かが居るのでしょう……申し訳ありませんが、飽く迄推測です」

 ルシアの言葉は、最後の方は声が擦れ、殆ど聞き取れない程度になっていた。それでも鼻がつまった涙声にならないのは、生来の芯の強さ故か。

「……こうなれば、一匹残らず殺しつくすまでだ……!」

 桜が潰した蜘蛛は、既に二百を超えている筈。しかし、新手は未だに止まず、次から次へと湧きだしてきていた。








 坑道入口を塞いでいた地主の手先は、喧嘩の腕前はそれ程でもなく、ウルスラは無傷で全員を拘束した。
 然し、掻き集められた岩やつっかえ棒を取り除こうとはしない。逆に、近くの石や土を使って隙間を完全に埋め、山を駆け上がっていく。
 何も知らぬ者からすれば、何を目的としているかも定かではない、正気を疑われる行為だろう。
 だが、ウルスラは、自分の行為の正しさを確信していた。

「……地主の話の通りでしたね」

 ウルスラが立っているのは、山中の湖の畔。本来なら生物を育む筈の水の周囲には、然し草木の一本たりと存在していなかった。
 生物の死骸なら、幾つかは落ちている。だがそれは、肉が一欠片も残らない、完全な白骨である。その骨さえも、幾らか食われた痕跡が有り、形を全うしている物は存在しない。
 虫の気配も、鳥の羽音も無い。湖の水は、異常な程に済み渡っていて、数間先の水底が見える程。湖底にもやはり、獣の骨が横たわっている。

「これでは、手放した方が良いでしょうに……」

 この山の死骸は全て、あの蜘蛛達に食われた獣のそれなのだ。地中に帰り栄養となる筈の僅かな腐肉さえ食いつくし、木に取り付き、樹皮を刻んで中の虫を抉り出し、一木一草残さず枯れ死にさせた末が、この山なのだ。
 湖面には、白糸で編まれた網が、枯葉を張りつけて浮いていた。女帝蜘蛛が仕掛けた罠には、もはや掛かる獣の一匹たりと存在しない。
 やがて蜘蛛達は、自らの塒を捨て、周囲の山へと移り住む事になるだろう。その山々でも獣を喰いつくし、山を枯れ殺していくだろう。別段、それを止めねばならぬと義憤に駆られるウルスラではないが――

「……このやり方が、一番でしょうか」

 と、と軽く地面を蹴って、頭から湖へと落下する。両足を揃えて鯨の様にくねらせ、ウルスラは湖底へと沈んでいった。








 細長い坑道は、女帝蜘蛛の巨大固体に切り崩された大岩によって分断されていた。
 手前側には、桜達三人が、後退を続けながらも蜘蛛の駆逐を続けている。
 そして片一方、村雨とレオポルドにも、蜘蛛の群れはまた迫り来ているのだ。

「えーい、やぁっ! 二匹目ぇ!」

 相手が人の形をしていないならば、村雨は、己の狩猟本能に枷を設ける必要を感じない。小さな体で壁を床を蹴って跳ね回り、巨大な蜘蛛を相手に暴れまわる。
 こちらの二人が幸運だったのは、相手が巨大ではあるが、数が二十程と少なかった事だろうか。また、図体のでかさで身動きが取りづらくばっているのも、付け込む要素であったに違いない。
 真っ先に襲いかかってきた一体を、靴の踵で頭を潰し、一撃。続いて寄ってきた一体は、爪先で緑の眼球を貫き、体内を掻き回してこれも一撃。所詮は外骨格生物、装甲一枚貫けば弱いものだ。

「ええい邪魔くさいっ、どけどけどけぇっ! 道を開けろ蜘蛛風情がァッ!」

 翻ってレオポルドは、威勢こそ良いが、一発撃つごとに弾込めが必要。既存の弾丸に比べて『カートリッジ』は装填が楽だが、然し時間が掛かる事は否めない。ようやく一匹射殺して、次の一匹に銃口を向けた所であった。
 どうやらこの蜘蛛達、統率は取れているが、一匹一匹の知能は高くないらしい。仲間が殺されて怯えを見せるでもなく、かと言って怒るでもなく、何事も無かったかの様に距離を詰めてくる。そしてまた、先に飛び込んだ仲間と同じ様に、目を貫かれて果てていくのだ。

「ねえ、どうするの?」

「何がだ!?」

「こいつらを倒した後!」

 村雨がまた一体、レオポルドも一体。此処までで合計五体の蜘蛛を仕留めて、僅かに会話の余地が生まれる。その隙に村雨は、此処から先にどう行動するかを尋ねた。
 後方は岩で道を塞がれていて、前方は道が有るのか無いのかも分からない。選択肢は三つ、進むか無理に戻るか留まるか、だ。留まっていれば、桜達が岩をどうにかするかも知れないと、希望的観測も持てる。

「愚問だろう、先へ進む! 何処の馬の骨とも知れぬ連中に、ルシアを預けておけるか!」

「……片方は知り合いだったよね」

 選択肢が最初から一つしか無かったとでも言わんばかりに、レオポルドは先へ進む事の他は考えていない。装填が終わらない内から、近づいてきた蜘蛛の頭を何度か蹴りつけて後退させようとしていた。
 とはいえ、レオポルドの蹴りは、素人のやり方である事を差し引いても非力なものであり、一撃で蜘蛛を仕留めるには至らない。軽量の村雨の方が、例え人外の優位性が有るにせよ、よほど威力が有る様子だ。

「ぐぬぅ……いっそ炸裂弾の一つも持ってくれば良かったか……!」

 相手が人間ならば、そして少数ならば、きっとレオポルドの銃の方が脅威となっただろう。自分の力だけでこの局面を打開できない事に、彼の苛立ちは愈々募る一方である。
 村雨の背後に回って装填、進み出て銃撃、また舞い戻る。自分より明らかに小柄な少女、娘と数歳しか違わない子供を盾にしなくてはまともに戦えない。自分が情けなく、だが他にどうしようも無く、気付けば釣り上がった目の端に涙さえ浮かべていた。
 坑道の奥から、巨大な何かがのそりと進み出たのは、その時であった。始めは、ただ坑道の暗さが増しただけかと錯覚する程、それは黒かった。他の蜘蛛達が茶褐色から黒の折り混ざった体色を持つ中で、『それ』だけは真に黒かった。

「また出た――ぇ、うぇっ!?」

「うぉ……!? なんだ、なんだこの醜い化け物は!?」

 ただ一点だけ他の色を持つ部位が有ったが、然しその部位は本来、蜘蛛には存在しない筈の物。人間の上半身が、蜘蛛の胴体から生えているのだ。
 周囲の巨大な蜘蛛より更に二回りも巨大な化け蜘蛛――いや、もはやこれが蜘蛛なのか、村雨の鼻さえ判断が出来なかった。

「オオオォオォォ…… ォオオオオ……!!」

 藍の綿服、袈裟、ずたずたに擦り切れてぼろ布になった衣服が、人の上半身に引っ掛かっている。髪も髭も伸び放題に伸びて、人の身の丈よりまだ長い。地鳴りとも紛う奇声は、だが然し悲歎に打ち沈んでもいる様であった。

「オオォ、ォ――ォォ、アアァ……」

 両手で顔を覆い、嘆く。八つの足が体を浮かせ、村雨とレオポルドへ向けて前進する。人の体と蜘蛛の体は、互いに互いを慮る事無く、己の思うように動いていた。

「――っ、しぃっ!」

 他の蜘蛛と、明らかに違う。先手を打って、村雨は、爪先で押し込む様な蹴りを放つ。蹴りは何に防がれる事も無く、その化け物の蜘蛛腹に命中し、そしてあえなく弾き返された。

「痛……! 硬い、これ……」

 周囲のただ巨大なだけの蜘蛛に比べ、人を交えたこの一体は、恐ろしく頑強に出来ていた。外皮が鉄板で補強されているかの様な感触と重量は、とても尋常の生物の物とは思えず――いや。
 そも、尋常でないと言うならば、人の上半身を張りつけた蜘蛛という存在が、尋常ではない。蜘蛛の胴が蹴りを受けてようやく、ざんばら髪の人体は、顔を覆う手を除けた。

「オオオォ、ォ――死にたくない、死にたくない、死にたくない……! 儂は、死にたくないィ……!!」

 やせ衰えて、骨の上に皮膚が張り付くばかりの顔。死相浮かぶ面を醜怪に捻じ曲げ、僧形の人体は血を吐く様に叫ぶ。それに伴い、八本の足のうち四本が、轟と風を巻いて薙ぎ払われた。

「うわっ――!? あ、あぶな、っと!」

 頭を狙った二つ、余裕を持って回避したと思えば、続けざまに胴体を狙う二本の脚。何れもが岩盤を抉り、巨躯を天井に張り付けるだけの力と強度を秘めた爪を備える。己の細腕で受け止めきれる物とは見えず、村雨は狭い坑道を、限界まで使って逃げる事に徹した。

「おのれ、おのれ亡者めがぁっ!!」

 レオポルドもまた、この化け物にただならぬ恐怖を覚えたものと見えて、躊躇なく銃弾を、僧形の額に叩きこむ。人の上半身が大きく仰け反って――血の涙を流しながら、直ぐに姿勢を立て直した。

「死にたくない、死なぬ、生きて外へ……外へ、外へぇええエッ!!」

 口角泡を飛ばし、坑道の岩を削りながら、滅茶苦茶に蜘蛛脚を振り回す化け物。痩せているという言葉では不足になる、必要な肉さえ削ぎ落した様な人体に、村雨は一種の確信めいたものがよぎる。

「まさか……地主が言ってた法師って……!?」

 化け蜘蛛の爪は、岩壁も周囲の蜘蛛も、無差別に微塵に還し続けた。








 三百も蜘蛛を潰した辺りで、桜の数の感覚は完全に麻痺した。機械的に刀の鞘を振るっているが、子蜘蛛の群れの終わりは見えず、足元はおろか岩壁まで蜘蛛に埋まっていく。気付けば三人は、坑道の入り口近くまで後退していた。

「ふんっ、ぬうぅ……! 駄目じゃあ、さっぱり動かんわい! 腰が壊れる!」

「年寄りが無理をするな、蜘蛛だけ踏みつぶせ!」

 坑道入口は、岩と土で塗りかためられていた。ジョージの体格で無理に押し込んでも動かない。

「四十前の男に何を言うか――おう、小煩い蜘蛛じゃあ!」

 こう何匹も相手にしていれば、鋼の様な体毛を踏まずに蜘蛛を潰す方法も見えてくる。やはり、目の辺りを狙うのが良いのだ。他の部位より脆く出来ている上に、暗い坑道でも緑に光り、狙いを付けやすい。
 だがそれは、人の手足で対処できる数であって、初めて意味のある事だ。

「く、ぬ――多いな、今更だが……っ!」

 潰した子蜘蛛の死体の上を、別の子蜘蛛が這ってくる。いつの間にか、桜の脚に辿り着いた子蜘蛛が、腹の辺りまでよじ登っていた。肌に張りつかない和服は、子蜘蛛の牙を通さずに済んだが、然し危なかった事に変わりは無い。袖で払い落し、強く踏みつぶして、確実に殺す。

「きゃっ!? いや――!」

 然し、それも間に合わない。桜の刀から逃れた子蜘蛛の一匹は、とうとうルシアの脚に辿り着いた。多脚の外骨格生物が体を這いあがるおぞましさは、少女が到底耐えられるものではない。寧ろ、今まで悲鳴を上げなかった事が奇跡に近いのだ。

「おう、拙い……! 嬢ちゃん、乗れ!」

 言うが早いか、ジョージは素手で蜘蛛を引きはがしながら、ルシアを肩に担ぎあげた。地面が遠くなれば、蜘蛛からも遠ざかるだろうか――いいや、蜘蛛は壁も天井も歩きまわる。何処へ逃げようが、ここは四方――いやさ六方を囲まれた坑道、逃げ場など無いのだ。

「こうなれば、もはや――」

――『眼』を使うしかないか。桜も追いつめられていた。
 炎を起こせば、岩壁の坑道は、天然の竈と化すだろう。だが、熱で焼け死ぬのは、体の小さい子蜘蛛が先になる筈だ。大火傷を負ってでも、蜘蛛の餌にならずに外へ出るならば、それが最善の策ではないか?
 だが、駄目だ。閉じ込められたのが自分だけならば、その選択も出来ただろう。だが、此処には体の小さな子供が一人。それに、更に奥では村雨が閉じ込められている。酸素が何処まで持つかも分からないのだ、炎など使って居られようものか?

「……いや、然し。然し……!」

 どうにもならぬのか。諦めはせねど、結果は無慈悲に突き付けられる。焼いて、自分の生き延びる可能性を上げるか。或いは焼かず、村雨とレオポルドの生き延びる可能性を上げるか。



「遅くなりました、桜」

「――っ、水……!? お前、ウルスラ!」

 解答として与えられたのは、その何れよりも或る面では粗っぽいやり方であった。
 岩の天井を貫き、一本の腕が付きだされる。それに僅かに遅れ、間欠泉を逆様にした様な大量の水が、坑道に流れ込んだ。
 高圧の水流は、天井に張り付いていた巨大蜘蛛の腹を強かに打ち据え、地面に仰向けに叩き落とす。天井に空いた穴は見る見る内に広がり、人が一人通り抜けられる程度の幅になる。
 そして、其処から上半身を覗かせたのは、髪も衣服も皿屋敷の幽霊の様に濡れそぼったウルスラであった。

「うぅお! 豪勢なシャワーじゃのう、髪でも洗いたいわい!」

「申し訳ありません、石鹸は持参しておりません。父に借りて来ましょうか?」

 忽ちの内に、坑道に水が満ちていく。足元を張っていた蜘蛛達は慌てふためき壁へ非難する。ここへ来て獲物に食いつこうという、食に狂った貪欲な蜘蛛はいないのだろう。
 水源が無限であるかの様に、忽ちに水は、桜の足首までを埋める。それもその筈だ、ウルスラが此処へ引き込んだ水は――

「山中の湖底に穴を開け、此処まで繋ぎました。程なくこの坑道は水没します、こちらから抜け出してください」

 周囲に生命の気配が無い、あの無生物の湖から引っ張った水だ。身体操作の魔術に長けたウルスラであれば、己の手足を掘削機械の様に扱い、土を掘り進むなど訳は無い。とはいえ、やはり辿り着くまでに相当な時間は掛かり、手の爪も何枚か剥がれてしまっていたが、彼女の表情は普段の通り、何も考えていない茫としたものであった。
 水が高地に有り、低地には閉鎖された空間と多数の敵。水没させて殺すのは、決して珍しい手段では無い。思考を極めて苦手とするウルスラでさえ、容易く辿り着ける案だ。
 肝心なのは、実行に移せるかどうか。数十間の土を抉り、岩を砕き、合間合間に水面へ戻って息継ぎをし、また湖底へ戻る。体温は奪われ、酸素の欠乏と僅かな時間の呼吸を繰り返し、爪は圧し折れ指から剥がれる。斯様な苦行を苦と思わぬ者にのみ可能な、単騎による蜘蛛の牙城への水攻めであった。

「……おかしいですね、水の溜まりが早い。計算ではもう少しゆっくりになる筈で……」

「蜘蛛が天井を崩した、途中で坑道が塞がっている! 村雨とあと一人――あー、細い男が閉じ込められている!」

 地主を脅迫して図面を確保し、湖の水量を図り、どの程度で坑道が水没するかは、ウルスラも計算していた。問題は、坑道のほぼ中心で、大岩と土砂が完全に道を塞いでいた事である。
 水は、桜の腰まで届く。子蜘蛛は必至で天井まで逃げ、ウルスラが開けた穴から逃げていこうとして――湖の水に叩かれ、坑道にまた落ちる。

「……仕方がないですね。本当なら、此処から貴女達を引き上げる算段だったのですが……桜、やはり最後は貴女に託します」

 それは、思考が伴ったかも怪しい程――彼女に関して言えば、否と断言できる――僅かな逡巡。ウルスラもまた、坑道を埋めていく水に降り立った。

「と、言うと、どうするつもりだ?」

「水が天井に達したら、入口を塞ぐ岩を斬ってください。蜘蛛ごと水を排出可能……なのでは、と思います。多分、きっと」

「断言できんのか?」

「さあ、なんとも」

 水は桜の胸まで届く。ウルスラは既に、背泳ぎの姿勢で、足を地面から離している。

「水中で岩を斬れとは無茶を言う。失敗したらどうする?」

「その時は皆死ぬんでしょうか。そうしたら天国へいけますか?」

「馬鹿、私もお前も地獄行きだ。フレジェトンタで溺れるのがオチだろうが」

「では、予行演習という事で」

 桜もウルスラと同様に、水の上に体を浮かべる。天井が、瞬き一つの度に近付いてくる。

「はっはっは、女房子供を残して死にたくは無いのう! 斬り損ねるなよウワバミ娘!」

「……初耳で申し訳ありませんが、お子さんが?」

 ジョージもそろそろ、口まで水が届くころだ。精一杯に背伸びをして、辛うじて声を出していた。ルシアは高く掲げられている為、まだ水に浸かる事は無さそうだが、表情を見る限り、水が得意ではないらしい。まかり間違えば溺れ死ぬ。その恐怖から逃れようと、雑談に意識を割り振ろうとしたのだろうか。

「おう、十になる男の餓鬼じゃわい。儂に似とらんのがつまらんが、あれで中々――ぅわっぷ!?」

 口が水没し、ジョージの声も途切れた。掲げられているルシアも、もう顎まで水に沈む。
 桜は仰向けのまま浮かび、岩天井に足を付けると、

「十数える間、息を止めていろ。それまでに岩を斬り開く」

 と、と軽く蹴り飛ばし、這う者の何も無い地面へと降り立った。
 浮力で体が持ちあがりそうになる。水圧が手足を抑え込もうとする。全く水中とは、人の為に在る世界では無いと肌で感じられる。
 黒太刀『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』の、真一文字の閃き。寸拍、坑道の入り口は瀑布と化し、蜘蛛も人間も、水と共に吐き出した。








 鎖分銅、という武器がある。読んで字のごとく、鎖の先端に分銅を取り付けただけの、至極単純な武器だ。だが、これがまた恐ろしい威力を誇る。
 紐の先に錘を付けて、くるくると振り回して見れば分かるだろう。腕から紐に伝わった力が、錘を高速で円運動させ、ただ投げつけるだけでは得られない破壊力を生み出す。人の肉も骨も、或いは生木も土壁も、抉り抉って撒き散らすのだ。
 村雨達が対峙した人蜘蛛の爪は、その鎖分銅に性質が良く似ていた。根元だけに力を入れて振り回し、長さとしなりを利用して、先端を高速で叩きつける。微細な動作こそは望めないものの、坑道の岩壁を削り取る程の威力は、決して触れてはならない類の代物だ。刃を搭載した鋼の鞭、と言っても良いだろう。
 狙いは適当、滅茶苦茶だ。たった二匹の獲物を潰す為に、四本の蜘蛛足を縦横に振り回すものだから、周囲の蜘蛛が片っ端から引き裂かれていく。魚の様に三枚に下ろされたもの有り、西瓜の様に叩き割られたもの有り、坑道は蜘蛛の墓場と化していた。

「外へ、外へ出るのだ――あの太陽の下へ! 光と、水と……ォオオ、オオオォオォォ――ッ!!」

 蜘蛛の体が足をやたら振り回して暴れている最中、人の体は己が身の不幸を嘆いていた。
 村雨の予測の通り、彼こそはこの山の伝承に残される法師である。洞窟で雨宿りをしていて崩落に巻き込まれ、蜘蛛にさえすがったが、結局は飢えて死んだという悲惨な話の主だ。
 実際の所、法師は死んではいなかった。洞窟――後、鉱石が産出すると判明し、坑道として使われるようになる――の中、生き延びようと足掻きに足掻き、毛髪の一本より細い可能性にさえしがみ付き、生き抜こうとした。岩天井の隙間から零れる雨水を飲み、僅かな苔を削いで口に運び、それすら無くなれば己の二本の足を――法師はただ、生きたかっただけだ。
 だから、同じ様に崩落に巻き込まれ、体の半ばを潰された蜘蛛を見つけた時、法師は何ら躊躇う事無く、己の身を差し出した。子蜘蛛を使って外から食糧を得られる蜘蛛は熊さえ噛み殺す程に肥えていたのである。
 半身を失った二つの生物が、足りぬ部品を求め合ったのは必然。驚愕すべきは、それを可能とした蜘蛛の体の適応力と、法師の身に付けていた術、そして執念にあるだろう。まるで構造の異なる体二つは、その時より一体と化した。
 だが、法師は何も知らなかった。蜘蛛と一体化する事は、決して蜘蛛の体を則る事には繋がらない、と。
 巨体を支える八本の足の内、法師が制御できる物は、実は一本たりと存在していない。彼は自分の上半身を、これまで同様動かす権利だけ与えられている。
 壁を掴み、体を引きずろうとした。その都度、蜘蛛の体が眼を覚まし、巨体を坑道の奥へ引きずりこんだ。餌は子蜘蛛に運ばせれば良い、気候の変化が少ない坑道は天国だ。何故、無理に外へ出ようと言うのか、無駄な事をする愚か者よ。この外骨格生物が口を利けるなら、この様に告げて法師を嘲笑ったに違いない。
 数十年。眼球が本来の機能を失いかけ、洞窟の闇に適応する程の永い永い時間、法師はただ、外の世界を望み続けた。

「ん、と、よっ、ほっ――ああもう、切りが無い!」

 風斬る蜘蛛脚の爪を、村雨は狭い空間で、必死に避け続けていた。
 慣れてくれば、初動から到達点が推測できる攻撃だから、回避自体は難しい事でも無い。問題なのは、それが四本、矢継ぎ早に繰り出されているという事だ。一つを回避して安堵していれば、直ぐにまた次が来る。
 だから、跳躍しての回避は狙い辛い。空中では身動きが取れず、そこを打ち抜かれてしまえば、防御もまるで意味を為さない。必然的に村雨は、地を這う様な姿勢となって、前後左右に掛け回って回避を図る事となる。
 巨体の蜘蛛に比し、敏捷な村雨である。打撃の通ずる間合いには、既に幾度も踏み込んでいる。然し、攻勢に転ずる事は難しい。
 村雨の背で届く範囲は、蜘蛛の胴体や脚だけだ。その部位は非常に硬く、人狼とはいえ少女である村雨では、打撃の重さが不足する。とても甲殻を貫き、致命傷を与えられる程の威力は生まれない。
 では、人の体を狙えばどうだろうか。見る限り、防具の様なものは着こんでおらず、やせ衰えた骨と皮の体である。筋肉の防御は極めて薄く、腹を殴れば容易く内臓に衝撃は届くだろう。問題は、どうやって拳足が届く範囲に飛び込むかだ。
 跳躍は、先に挙げた理由から難しい。一打加えるだけで仕留められる確信が無い以上、相手からの反撃は確実に有る。さりとて、武器になる物は所持していないし、村雨は魔術など子供よりも使えない。
 となれば、頼る手は一つ。魔術の使い手としても十分に優秀である、レオポルドに任せる他は無い。その為に村雨は、敢えて蜘蛛の射程から大きく外れる事も無く、攻撃を自分だけに惹きつけていた。

「ねぇ、まだー!? 流石に疲れたんだけどー!?」

「煩い気が散る話しかけるな愚か者が! 魔術という物はそもそもだな――」

「御講釈は結構だから早くしてー!!」

 かつて村雨が相手にした魔術師――智江の様な規格外の術者や、そうでなくとも短言で氷塊を生成する大男などは、いわば際立った達人である。幾らレオポルドが優秀とはいえ、彼ら本職に比べれば、数段見劣りがするのは避けられない。
 だからこそ、腰を据えて長時間の詠唱を用い、魔力の変換効率の低さを補う。村雨の嗅覚は、周囲の大気がレオポルドへと流れていくのを、確かに嗅ぎとっていた。

「……じゃないと、本気で危ないかも知れないんだけどさー……」

 蜘蛛の巨体が、後方の四本の脚で前方に押し出される。それに合わせて村雨も一歩、来た道を後ろ向きで引き下がる。もう、何歩も後退する猶予は無い。天井を斬り抜かれて落下した巨岩が、後方にでんと居座って道を塞いでいる。
 右足を狙う爪を避け、肩を上下させながら息を吸う。半ばまで肺を膨らました所で、次の爪は左右から頭を狙ってくる。伏せて身をかわし、自らの疲労を自覚する。呼吸の猶予さえ削り取られて、視界が酸欠で幾分か暗い。
 もう少し、もう少しだと自分に言い聞かせ、逆に蜘蛛の懐に飛び込んだ。長い脚を引き戻すまでの僅かな時間、村雨は防御を完全に忘れ、休息を取る事が出来る。決して長い時間では無いが、そうして息継ぎを繰り返す事で、辛うじて回避戦を継続出来ているのだ。さながら、底に足の着かぬ海での水練の様な状況と言えよう。

「ねえ、まだ!?」

 もう答えは無い。一つの事に集中してしまえば、周囲の環境など見えなくなるのがレオポルドだ。今の彼の首を落とそうと思えば、足音立てて近づいても可能だろう。蜘蛛の爪を届かせてしまえば、それまでだ。
 蜘蛛脚二本を身を反らせて避け、続く一本が振り下ろされたのを、側面に飛んでこれも回避。自分一人を守れば良いだけなら、村雨もまだまだ動けるだろう。だが、蜘蛛に自分だけを狙わせなければならないという条件を与えられて、心身の消耗は極度に激しい。

「――ッ!? った、あ……!」

 たった一撃だが、間合いを測り損ねた上に、後退する足が縺れた。右前腕を、蜘蛛の爪が掠める。浅くは無いが深くも無い、治療にも然程手間を要しない程度の傷である、が。

「……あ、ぁ……? しまった、これ――、は」

 女帝蜘蛛の脅威は、決して巨体だけでは無い。強くは無いが、幻覚作用を持つ毒が、かの蜘蛛の体には備わっている。本来なら牙から注入する毒だが、この老成した固体は、爪にも幻覚毒を備えているらしかった。
 床が急激に浮き上がる錯覚。直立が難しくなり、体が傾く。すかさず、胴を抉る軌道で放たれた四つの蜘蛛脚は――

「『Bala de canon』! ……ええい、余計な手間を掛けさせおって」

――それぞれが一つずつ、虚空に出現した鉄球に喰い止められていた。岩壁を削る爪が、この鉄球には通用しない。それもその筈、これはただの物質では無く、魔術によって生成された不壊の球体なのだ。

「『放ち』『叩き』『四散せしめよ』! このような陰気な空間に籠っている趣味は無いわ!!」

 鉄球――いや、砲弾。四つの砲弾はレオポルドの号令の元、直線的に射出される。目標は蜘蛛の胴体と、その上に鎮座する法師の体だ。
 村雨が蜘蛛の間合いから抜け出すのと入れ違いに、鉄球での殴打が始まる。蜘蛛脚は必至に防御を行おうとするが、それは鞭で矢を撃ち落とす様な物。とても、蜘蛛の知能で成し遂げられる技では無い。
 実際の大砲程の威力は無い。然しながら、重量と強度が有る物質を高速で打ちだす、それだけで十分、生物への効果は有る。目的は、前進を止めて押し返す事と、もう一つ。

「ふん――『砕け』っ!」

 後方、道を塞いでいる岩を、少しずつでも砕いて道を開く事であった。号令一下、鉄球の一つが、道を塞ぐ岩を打ち据える。大きな罅が入り、だが天井が崩落する様子は見られない。一先ず成功であろうか――と、思われた矢先である。

 ――ぴし、ぴし、ぴし。

「……あれ?」

 罅が入る音にしては、いやに長く続く音が、村雨の耳に飛び込んだ。音源は確実に、彼女の後方、道を塞ぐ岩である。
 何が何だか分からないがとにかく危ないと、直感で息を吸い直した次の瞬間――岩は向こう側から爆砕され、天井までを埋め尽くす大量の水が、村雨もレオポルドも化け蜘蛛も纏めて押し流した。








 過ぎてしまえば、ほんの一瞬の出来事である。だが、その一瞬の間に、水は坑道の子蜘蛛を、殆ど残さず外へと吐き出した。
 天井まで濡れて水の滴る坑道の中、桜はただ一人、暴力的なまでの水勢に耐え抜き立っていた。

「おい、無事か!?」

 答えは無い。桜の視界の範囲内に、生物は一つも見つからないのだ。黒太刀を鞘におさめ、引っ繰り返った蜘蛛を幾つか踏みつぶしながら、随分久しぶりな気がする日光を浴びる。
 軽く視線をめぐらせれば、まず最初に一人。ウルスラは、器用に坑道の入り口から横へ逸れ、大きく流されずに済んでいた。

「地獄、いけませんでしたね」

「逝きたかったのか?」

「いえ、全く。ところで、下着まで濡れて気持ち悪いのですが」

「我慢しろ、私に言われても困る」

 買い物を命じたり、夕食に呼びつけたりと言った日常と、まるで変わらない調子の答え。それを発するウルスラの手は、爪も皮膚もズタズタの、見るからに痛々しい姿と成り果てていた。桜は称賛の意を込め、ウルスラの頭に手を置いてやる。された方は結局、意図が理解できず、首を傾げただけであった。
 それからおもむろに、桜はおういと声を張り上げる。残り二人、何処まで流されたかも分からない。特にルシアは体が小さいのだから、水勢に逆らうなど出来はしないだろう。怪我など有れば子供の事、早く町へ戻したい。

「おーい、おらんのかー。隠れているならさっさと出てこーい……いる、のだよな?」

 が、呼べども呼べども返事が無い。まさか、と不安が頭を過る頃、がさ、と積もった枯れ枝が折れる音。

「ひぃ、腰が曲がるかと思ったわい……おう、手を貸せウワバミ娘」

 そちらに目をやれば、緩やかな傾斜になっている所を、ジョージが這って登ってくる所であった。どうも、坑道から流れ出る際、岩壁やら外の木やらに体を打ちつけた物と見える。服がところどころ破れて出血も見え、顔には大きな青痣が一つ。

「申し訳ありません、私の為に……大丈夫ですか? ああ、こっちも傷が、こっちも……」

 片一方、桜の懸念材料であったルシアは、掠り傷さえ見受けられなかった。頭からつま先までずぶぬれなのは、この場の誰も同じこと。あの水流の中、傷一つ負わずに切り抜けられたのは、ジョージが胸に抱きこんで庇ったからだろう。横に広く分厚い体は、盾とするには都合の良いものだったらしい。

「散々な格好ではないか、随分と頑張ったものだな?」

「格好を言うならお前こそ……なあに、ガキを助けるのが父親ってもんじゃい」

 体を起こすだけでもしんどい、と言わんばかりのほうほうの体だが、虚勢を張って立ち上がるジョージ。胸を拳で叩き、健在を主張し、咽た。

「申し訳ありません、私は貴方の娘ではありませんが」

「どこのガキだろうがガキはガキだわい、なあ?」

 謝罪の言葉が、もはや口癖と化している少女を、ジョージは大きな手で撫でてやる。桜がウルスラにしてやったのと似た動作だ。

「儂の息子も、嬢ちゃんと歳が近いのよ。人の親として放っておけんわなぁ、な?」

 大口を開けて作った笑みは、腰の痛みで不格好ではあったが、優しげでもある。笑いかけられてルシアは初めて、年齢相応に明るい笑みを見せながら、

「ありがとうございます、ジョージさん」

 やはり初めて、詫びではなく礼の言葉を口にした。

「……さて、行くぞ。水が何処まで流れ込んだか分からんが、村雨と――あー、なんだ、あの」

「レオポルド、な。覚えとらんのか、酷い話じゃのう……あた、あたたた、たぁ……」

 会話の途中ながら、既に桜は歩き始めていた。後を追うジョージは、痛みで動きが遅い為、一歩ごとに引き離されていく。

「無理に来なくとも構わんぞ、私は走る」

「おう、走れ走れ。のんびり歩いて追いつくわい」

「そうか、では」

 速度を合わせて行くなど、気が急いている桜には無理な話と互いに分かっている。簡潔な言葉の後には、土が抉れ飛んでの煙幕。桜は矢弾の様に、坑道の奥へと走り抜けていった。








「な……なんだったの、いきなり……助かったけど……」

 天も地もひっくり返して洗濯した後の様に、坑道は奥まで水浸しであった。そして当然の様に、中に取り残されていた二人も水浸しである。
 村雨は、壁の出っ張りに掴まって、水流に引きずり出されるのを防いでいた。あまりに突然の事ではあったが、溺れる程長い時間、水にさらされていた訳でも無い。息が切れているのは、やはり驚愕が大きな理由となるだろう。
 体力だの反射神経だのと恵まれている村雨からしてこの状態、もう一人は押して知るべし。ぎりぎりまで異変に気付かなかったレオポルドは、しこたま水を飲む羽目となっていた。、

「げっほ、げっほ、グエーッホ!! ……ぅおのれぇ……ゴホッ、何処の誰が、ガホッ、グッ」

「ああ喋らない落ち着いて、はい深呼吸、大丈夫? 息出来る?」

 気道の水を追い出す為に、盛大に咽返るレオポルドの背を、村雨はそっとさすってやる。咳が幾らか収まってくる頃には、外の方から足音も聞こえてきた。

「村雨、無事か!?」

「……この人が、無事じゃないみたい」

 砂利石を蹴り散らして現れた桜は、レオポルドが見えていないかの様に、村雨だけの安否を気遣った。つくづく薄情である。そして、村雨が無事であると認識した次には、更に数歩先に引っ繰り返っていた、化け物の巨体に目をやった。

「……おい、なんだこれは」

「分からない。けど……あの地主の言ってた、法師なんじゃないかな……」

 蜘蛛の体から、人間の上半身が生えている。全く異形の怪物だ。物事に動じぬ桜も、片目だけ見開いて驚嘆を示した。
 蜘蛛部分は岩壁に叩きつけられたのか、八つの脚を縮め、動かなくなっている。だが、人間の部品は、まだ生きて動いていた。

「ォオォォオオオ、オオォ――ィ、ナァ……」

 枯れ木の如き老腕で、濡れた石を掴み、体を引きずろうと足掻く。蜘蛛の巨体を動かす力など、法師の腕には無い。虚しく手を滑らせ、爪を割るだけだ。

「ォォオ、ォ――ィナ、アアァアァ――!」

 そして、何度も同じ言葉を繰り返す。そこに居合わせた他の人間が、まるで見えていないかの様に。

「……何を言っているか、分かるか?」

「雛、って言ってる。誰かの名前みたい……女の子?」

 言語の体を為さない音も多いが、村雨の耳ならば聞き取れる。法師は確かに、雛という名を繰り返し呼んでいたのだ。成人した女性には似つかわしく無い、幼い女子にだけ合いそうな響きの音だ。
 法師が何を思って旅に出て、何故ここに辿り着いたのかは知らない。だが、蜘蛛と溶け合ってまで生に縋りついた理由は、なんとなく桜にも分かる気がした。楽にしてやろうと、脇差に手を掛け――

「待て、サムライ娘」

 レオポルドが、銃身で、脇差の柄を抑えて抜刀を止めた。

「成程、貴様も娘が居たか。外に出られず道連れを欲して、畜生に落ちるとは愚かな事よ――」

「……え、あの、多分この人そんな事は考えていないというか」

 地面を引っ掻く法師を見下ろし、レオポルドは大きく的を外した怒りを見せる。あまりのずれかたに、村雨が思わず、法師の弁護に入る程だ。

「――だが、父親ならば尚更気に入らんわ愚か者が! 娘から離れて歩くなど言語道断、まして私とルシアを巻き込むな! 他人の子ならどうなっても良いと思うたか!」

 その怒りは、まるで見当外れである。娘から目を放したのは自分も同様であるし、一向を捕食しようとしたのは蜘蛛の意思。法師の人格には、何れの咎を負わせる事も出来ない筈だ。
 然し、レオポルドは父親である。娘を溺愛し、その為ならば世界がどうなろうと知った事ではないと言い切るだろう、盲目の愛を注ぐ父親である。なればこそ、同じく父親であろう者に、斯様な害意を向けられたのが――それが誤解でも――我慢ならなかったのだ。
 天井を這う蜘蛛を射殺した際と同じ様に、弾倉が空になった銃を、振り向かずに後方に投げる。到達地点には過たず、遅れて追いついたルシアが居た。彼女の小さな手が、反射的に銃を受け取ろうとするが、寸前でジョージの太い指が掻っ攫う。

「こういう事はなぁ、ガキにやらせちゃいかんわい。分かっとるだろう、なぁ?」

 ルシアの鞄から抜き取ったらしい『カートリッジ』を、淀みなく銃に装填し、投げ返す。

「……ふん、言われなくとも」

「なら良いさ。撃ってやれい、百年もすりゃ娘も死んでるわい。上でまた合わせてやれ」

 法師の眉間に、レオポルドは銃口を向ける。耐水性の高い『カートリッジ』に、単純だが耐久性の高い銃身、射撃を阻害する何者も無い。
 誰も祈りを捧げない。ルシアはジョージの手で目隠しされ、村雨は自ら目を逸らし。そしてウルスラは、そっと右手で十字を切って、法師の妄執が潰えるのを見届けた。








 翌日、蒸し暑くも空は不機嫌に鉛色。何時降り出すか分からない天候の中、桜と村雨はのんびりと歩いていた。一歩離れてウルスラは、今日は珍しく姿を現したまま歩いている。両手とも包帯が巻き付けられて、食事にも不便しそうな姿である。

「結局、地主から幾ら絞り取ったのですか?」

「んん? 人聞きの悪い事を言うな、それでは私が恐喝犯の様ではないか。……まあ、小見世なら一月は通い詰められるな」

「七か八両ですか、あこぎですね」

 坑道に、山一つ食いつぶすだけの化け蜘蛛の群れが居ると知りながら、敢えて餌にするべく桜達を送り出した地主。あまつさえ人を雇って坑道の入り口を塞いだのだ。悪党なら兎も角小心者、罪悪感は多大にある。そこに桜が現れたのだから、地主の怯え様は尋常では無かった。
 そして、桜は悪党である。慣れた手口で地主を脅し、自分の強さをチラ付かせ、まんまと大金をせしめる事に成功した。どうやらこの金子は、遊興費として使い潰してしまうつもりで居るらしい。宵越しの金を持たないのは江戸者だが、二年程度の生活で、江戸の慣習は骨身に染み付いている様である。

「金は天下の回りもの、蔵に溜め込むよりは、私が回した方がよかろうよ。なあ、村雨?」

「んー……そうだね。別にいいんじゃない?」

 答えた声は、いやに気が入っていない。心ここにあらず、という様がひしひしと感じられる。

「どうした、村雨。お前ならば、無駄遣いするなーとか、私の他に女と遊ぶなーとか……」

「後者は絶対に言わない、絶対に、絶対に。……そうじゃなくて、レオポルドとジョージの事」

 からかいを律儀に否定する所は、普段の彼女である。安心したように、また得心がいった様に、桜は深く頷いた。
 ジョージは結局、坑道の接収は諦め、商談だけ済ませて国に戻る事にしたらしい。一方でレオポルドは、今回の件で地主を脅し――桜と同じ席で、二人掛かりでの恐喝である――山の売買を認めさせた。こちらは暫く浜松に滞在した後、やはり商談に向かうつもりのようだった。
 銃器メーカーが商談で何を売るのか、聞かずとも分かる事。人を殺す事に特化して作られた兵器、銃だ。指先の動きだけで人を殺す、子供でも鍛え上げた達人を容易く殺す、容赦慈悲無く無感動に人を殺す凶器だ。銃の恐怖は知っていたが、村雨はこの件で改めて――法師の頭蓋を打ち抜いた銃弾を以て――殺人兵器への恐れを強く抱いた。

「……二人ともさ、普通の人なんだよね。いや、レオポルドはちょっと短気すぎるけど、あの二人はどっちも、普通のお父さんに見えたのに。なんで表情も変えないで、人を――人だったものを、撃てるんだろ」

 だが、それ以上に怖かったのは、それを作り販売する人間だ。短気だが娘思いのレオポルド、豪放にして義心有りのジョージ、何れも村雨の目には、悪人とは映らなかった。なのに、彼らが作っているのは、これからも開発を続けるのは、より効率的に殺す為の武器なのだ。

「あの時は、あれで良いのだろうさ。あ奴らが情けをかけぬなら、どの道私が首を落としていた。百年も前に死んだ人間が、何かの間違いでまだ動いていただけの事。お前が思い悩むには当たらんよ」

「……かな」

 理屈では村雨も理解していた。法師は、放置してもやがては死んだだろう。苦痛の時間を引き延ばすよりは、いっそその瞬間に。あの時は、殺してやるのが、彼への最大の温情であった。
 それでも、射殺の瞬間を、村雨は直視出来なかった。頭蓋から飛び出す脳漿を恐れたのではない。人が人を殺す、その行為を見たくなかったのだ。普通である筈の――桜の様に、破綻した精神を持たない筈の――人間が、人間を殺す様を見たくなかったのだ。
 別れ際、何故に銃を作って売るのかと、村雨は二人に問うた。ジョージは、新大陸の開拓の為だと答える。レオポルドは鼻で笑い、当たり前の事を聞くなと言い捨てた。二人とも、堂々とした態度であった。

「ねえ、桜」

「ん、どうした?」

 薄暗いが、まだ雨は降り始めない空。首を上げて眺めながら、村雨は尋ねる。

「自分のせいで誰かが死ぬって、そんなに気にならない事なの?」

「さあな、私は気にならんよ」

 桜は、右目だけを閉じて、瞼を指先で引っ掻きながら答える。

「あの銃という武器は凄いな。魔術は人の防御力を高めたが、銃はその防御を軽く上回る。これから戦争など有れば、私が背負っている様な刀など、かさばるばかりで使う者はいなくなるだろう。一人で何人も何人も、僅かな修練で殺せるようになる。あの二人はおそらく、世界最悪の人殺しと言われような……もしかしたら、もう呼ばれているのかも知れん」

 人を殺せる道具を作った者は、果たして人殺しなのだろうか。自らの見解は語らないが、世間はそう受け取るだろうと、桜は思っている。事実、村雨の思考も、似た様な形に終着しているのだ。

「ようするに、だ。あ奴ら既に、殺しを思い悩む段階など通り過ぎているのだ。一人殺して嘔吐し、二人殺して悪夢にのたうち、三人殺して止まらぬ震えを抑え込み、四人目からは数える事も億劫になる。十人、二十人と重ねるにつれ、犬猫を殺すと大差無く、人を殺せるようになる。存外、人は何事にも慣れるものでな」

 瞼を掻く人差し指を親指と中指も合わせ折りたたむ。曲がった三本の指を暫く見つめ、手を開き、また三本だけ畳む。次の宿場への道中、桜の指はずっと、三から先を数えられぬままであった。








 これは後の話となるのだが、ジョージ・ギブソンとG・G・Fギブソンズ・ガン・ファイヤーワークスは桜の予想に反し、新大陸開拓の貢献者と讃えられる事になる。自由と新しさを愛する新大陸への移住者達は、身を守る武器として、開拓精神の象徴として、無骨で分厚い拳銃を買い求めた。他者製品との規格統一も推し進めた結果、GGFの拳銃は、世界の誰もが行使出来る〝自由への意思力〟となる。
 L・Bルシア・バラーダもまた、高い品質と安全性、そして大量生産が可能な工場の多数所有という利点を以て、世界最大の銃器メーカーとして長く君臨する――が、ただ一人、レオポルドだけは、その身に悪名を背負う事となった。
 常に最大効率の殺傷力を銃弾に求め、銃身に求め――つまり、人を殺す方法を常に想定し続け。銃の重さも、グリップの形状も、非力な者でも扱えるようにと改良を続け――つまり、誰もが人を殺せるようにと苦心を続け。如何に小さな紛争であったとしても、そこには必ず、LBの刻印を鋼の体に刻んだ銃が存在した。銃弾に体を抉られ、家族を奪われた者達は、殺戮効率を追求し続けた彼を、決して許そうとはしなかったのだ。
 人を殺す為に作られた刃物は、やがて調理や医療行為の為に、人の命を守る為に使われる様に変わっていった。では、拳銃は、その様に変われるのだろうか?
 後年、とある新聞記者にそう尋ねられたレオポルドは、やはり鼻で笑い、己の工房に入っていったという。

 温暖湿潤、鉛色の空、服は生乾きだが体調良好。一向はもうじき、舞坂宿に辿り着く。
 体に染みついた硝煙の香りが煩わしくて、村雨は鼻を摘んで顔をしかめた。