烏が鳴くから
帰りましょ

夜の鳥のお話

 何事も、ごまかせる範囲には限度がある。裏でひっそりと起こった出来事ならばまだしも、街のど真ん中での騒ぎとなれば、到底隠しきれるものではない。

「……どーするの、これ。どーするの」

 あの老婆に追いまわされて、四日後の事。宿のベッドの上で、村雨は頭を抱えていた。一通の書状が原因である。
 そのまま家宝として保管出来そうな程、書状の紙質は良く、墨は黒く、文字は美しい。判子の朱も均等に乗り、彫りも繊細にして華麗。これが恋文であれば、どんな女とて心を揺さぶられようというものである――が、この手紙、そんな甘ったるい代物ではない。
 それは、召喚状である。江戸支部所属の村雨、京都支部所属の松風左馬、この二名を招請、話を聞きたいとの旨が記されていた。早い話が、尋問の為に呼びされた訳だ。理由は一つ、隠密に行う筈の仕事を、よりにもよって衆人環視の中で完了した事である。
 先日の一件で、『牡丹登楼』の店主は重傷を負い、暫し療養に入った。店舗も壁やら床やら壊され、更には店の遊女たちにも混乱が伝播、暫しの営業休止を余儀無くされた。その事自体は依頼主の意向に沿うのだが――加害者が明確に、誰なのか特定出来てしまう事が問題なのだ。
 そもそも今回の、〝揚代が極端に安い妓楼の調査〟というのは、いわば競合する幾つかの店が金を出し合って以来した――つまり、依頼する側が多い故に、話が漏れやすい内容なのだ。当然の様に街には、この店を潰そうとしている連中がいるらしいなどと噂も流れる。そんな状況下、大っぴらに店の主人を殴打する輩など出て、それが拿捕もされずとなれば――後は、答えが出るまでそう遠くも無い。
 『錆釘』は、大概の仕事を引き受けるが故に、権力との癒着も強い。権力者達とて、私生活で知られたくない事の十や二十は有るのだ。だから、市中で暴れてお咎め無しの人間など居れば、役人かヤクザ者か、或いは『錆釘』か――そんなところだろうと予想が付く。
 つまり今、京の街の遊び人連中の中では、〝他の見世が『錆釘』辺りに金を出し、牡丹登楼を潰そうとした〟というのが、疑いの余地も無い事実とされている。その風評被害――事実ではあるのだが――が、娯楽を売る妓楼では、馬鹿にならない影響なのだそうな。

「あーもう、仕事回してもらえるようになるまで結構掛かったのにー! 今回で台無しじゃないのー!」

「ふーむ、どこで失敗したのだろうなぁ」

 失敗の原因である雪月桜は、村雨の背中に圧し掛かる様に書状を覗き見ながら、他人事とでも言わんばかりに首を捻った。すかさず村雨の左肘が、桜のこめかみを打ち抜いた。

「全部あんたのせいでしょーがー! 天井裏に忍び込むとか、あんな無茶しないでさあー……」

「お前も止めなかったろうに。大体な、あの婆がいた時点で、何をやっても無駄だ」

 店全体の会話を盗み聞き出来る聴力の前には、確かにどんな策略も無駄だ。が、それならばそれで、自分一人で忍び込んでも良かったのではないか――そういう事も、村雨は考えてしまう。少なくとも自分だけであれば、あの遊女の境遇に同情はしようとも、あそこまで老婆を痛めつけは――できないという事も有るが、しない。

「……桜さー、なんであそこまでしたのよ。もう少し手を抜いてくれれば良かったのに」

 思えばあの時の桜は、少しばかり過剰に力を振るってはいなかったか。ふと、そんな事が気になって、村雨は背中に圧し掛かる重みを押し退けつつ訊ねた。

「仕方が無かろう、妊婦一人抱えては思うように動けん。あれでも加減はしたのだぞ」

「だったら、一度置いて逃げてからでも良かったのに。別に、すぐ殺される様な場面じゃなかったんだからさー」

「……それを言われると困るな……村雨、お前少しばかり意地が悪くなって――おっと」

 決まりの悪そうな顔になった桜が、何かに気付いた様に顔を上げる。僅かに遅れて、部屋のドアがノックされた。入れと声を掛ける前に、松風左馬がドアを開けていた。

「や、お取り込み中に失礼。面倒だけど山から下りてきたよ、感謝したまえ」

「良く言うわ、お前も元凶だろうに。村雨、行くぞ。部外者だが当事者だ、私も混ざる理由はあろう」

「私の目からすれば、お前が原因の七割を作っている様に感じられるのだけれど……相変わらずの傲慢だね、お見事」

 のっそりと立ち上がった桜は、床に置いた太刀を背負うだけで、外出の準備は完了。村雨に至っては、靴を履くだけだ。七階から、『錆釘』事務方のある三階まで、長い階段を下りていく途中、

「でさー、桜」

「ん?」

「あの時さ……別に葉隠はかげを連れ出すの、後で良かったよね。怒鳴りつけたって、本人が気にしてないんじゃ、意味も無い事だったし」

 村雨は、どうしても分からなかった事を聞いた。無駄が多すぎる上に――あの時の桜は、本気で葉隠はかげを叱りつけていた様に見えた。自分の身が危ないという時に、桜はそこまでする人間だっただろうか――否とも言えず、応とも言えぬのだ。
 敢えて分かる事を挙げるならば、確かに葉隠はかげは内心で迷っていたにせよ、表面的には、老婆の言葉に従うつもりであったのだ。妓楼の風習を知らぬ筈も無い桜が、何故、其処にこだわって首を突っ込んだのか。
 桜は、ただ困った様な顔をして、

「……私とて、嫉妬くらいするわ」

 それっきり暫くは喋らなくなった。その隣では左馬が、居た堪れぬ顔で視線を逸らしていた。








 皇国首都ホテルの三階は、一階層全てが『錆釘』の事務所となっている。日の本に数十点在する支部を統括する、ここはいわば、日本中央支部と呼ぶべき場所だ。ここに所属するのは、各支部から掻き集められた優秀な者ばかり。当然、各種の決定権なども強く握っている。

「あー……これが市中引き回しの時の感覚なのかなー……」

 だから、村雨は、半ば諦めた様な顔になっているのだ。人事権を持つお偉い様に名指しで呼び出されるなど、ろくな事ではあるまい――丁度数日前、あんな騒ぎを生みだしてしまっては。
 肩を落としながら歩いているのは、無暗に狭く長い廊下である。直線的に長いのではなく、数度折れまがっている為に、実際の空間に比べて距離が延びているのだ。こんな構造にしているのは、何らかの敵対者に攻め込まれた時、少数の人員で撃退出来るようにとの対策であるらしい。
 廊下の突き当たりには、力技で破るのには難儀しそうな鉄扉。桜は「斬れるな」と呟いたり、左馬は「五打という所かな」と呟いたり、そういった好奇心を掻きたてられる程には重厚な作り。三度程叩くと、向こう側から開けられた。

「お待ちしておりました、奥へどうぞ」

 出迎えは、そこに居るだけでも涼やかな風が吹いてきそうな、爽やかな青年であった。ひゅう、と左馬が口笛を吹く。それをまるで気にせず、青年は無言で、三人を先導して歩き始めた。
 書類が山の様に積み重なった狭い部屋を抜け、少し整頓された客間らしき部屋を抜け、煙管の煙が目に染みる休憩室を横に過ぎ、そのまた奥、やけに薄暗い部屋。そこまで辿り着くと、今度はまだ七か八歳くらいだろう子供が、三人の案内を引き継いだ。

「あれ、呼ばれたのって、二人だけだったんじゃ……」

「そう邪険にするな、私も混ぜろ」

「……まあ、良いですけど。『堀川卿』、二名とも到着しました、おまけつきです」

 建材の質の為か、声がやけに反響する部屋だった。呼びかけられた『堀川卿』なる人物の返事は無い。村雨の歩みは愈々、米俵でも背負っているかの様に重くなる。

「うげ……終わった、完璧に終わった……およよ」

 子供がその名を口にした瞬間の村雨の顔は、半紙に藍を染み込ませたかの様な色の変わり様であった。

「どうした、そうも怖い相手なのか?」

「真面目に働いている子には、恐ろしい相手だろうね」

 桜の問いに答えたのは左馬だった。我関せずの、気楽な顔である。

「『堀川卿』――十年ばかり前から、この国の『錆釘』を纏めてる人なんだ。実務はあまりやらないらしいけれど、人材採用だとか配置の決定だとか、後は依頼の割り振りだとか……大体の業務に携わってる。つまり、私達の様な一構成員からすれば雲上人。生憎と会った事は無いんだけど……あれが、そうではないかな?」

「ほうほう、戦場こそ違えど腕利きか……どれどれ」

 話を聞く限り、大層な人物であるらしい。桜も興味をそそられ、左馬が指差した方向に、細めた眼を向ける。部屋の薄暗さに目が慣れて――

「……あー、あれか?」

 空気の抜けた紙風船を思わせる、力の入らない疑問形を発した。
 部屋の奥には、牢名主を思わせる、数段高く積み上げられた畳が有る。その上に布団が敷かれ、一人の女がうつ伏せに転がっていた――いや、寝ていた。横になって休んでいるとか、そういう段階で無いのは、規則的に上下する背中から分かる。布団は豪勢に金糸、暗い室内でさえ光を跳ね返している。

「堀川卿、起きてください。起きてくださいってば」

 畳の下から、案内の子供が布団を揺さぶる。すると鬱陶しそうに、紺色の襦袢に包まれた腕が動いて、

「んー……後半刻……」

 子供の手を弾き、布団を頭まで引き上げた。もはや慣れ切っている事なのだろうか、案内役の子供は、布団の端を掴み勢いよく引っ張る。積み上げられた畳の上から女が落下し、ずでん、と痛そうな音がした。
 その時――あまりに非現実的な光景だが――金糸の布団がほぐれた。女が落下するに合わせ、きめ細かな糸に分割され、扇の様に開いて床に落ちたのだ。
 漸く桜は、あれは布団ではなく頭髪だったのだ、と気付いた。

「いーたーいー……起こす時はやさしくしぃて、あれほど言うたやろー?」

「だって起きないんですもん……それじゃ、失礼します」

 最低限の仕事だけ済ませた子供を、髪にうずもれた目が、恨めしげに見送った。のそり、と髪に隠れた体が動き出す。眠たげな声は、美しさに艶を纏う、熟した女のそれであった。

「ぶー、躾の悪い子。まだ五刻しか寝とらんのに……ふわーぁ、ぁむ」

 一体にして、人の頭から髪が生えているのか、髪の塊から人が生えているのか、それさえ分からぬ様な姿である。真っ直ぐ伸ばせば三丈、四丈――最長の部分ならば五丈有るかも知れない。付け根から毛先まで、箔を張りつけた様な金色だ。そして、髪の隙間から覗く目も、また金色であった。

「ふむ、年増だな。美人だが年増だ」

「怒こりますえ、桜さん。若さ吸い取ったろか」

「名乗った覚えは無いが……地獄耳な上に早耳か」

 言葉ほどには、声に怒りを滲ませていない。戯言に戯言で返答する、どうやら『堀川卿』は、生真面目さとは縁遠い生物であるらしかった。








「さて、まずは村雨ちゃん、それから左馬さん。呼び出しの理由は分かってはる?」

「さっきの美男子に合わせてくれる為かい? 持ちかえりは可?」

「駄目どす、そして間違いどす」

 詰問が始まるが、蒼い顔をしているのは村雨だけ。真剣に仕事をするつもりなど無い左馬は、上司の問いかけに対しても、ふざけた様な態度で返した。

「話を聞けば、避けられない結果やと言えるかも知れへん。けどなぁ、なんぼなんでも、街の真ん中であの荒事、あの騒ぎ……はぁ」

「も、申し訳ありません!」

 金髪の中に埋もれて溜息を付く堀川卿に、村雨は、ほぼ直角に腰を曲げて頭を下げた。

「村雨ちゃん、あんたは確か……大陸の子やったなぁ。うちに来て二年、小さな仕事ばっかりやけど失敗は無し。うん、頑張ってる頑張ってる。今回のお仕事も、そらあんな化け物居たら仕方ないわなぁ」

 褒め言葉と笑顔が同時に向けられたが、それを額面通りに受け取れる程、村雨も純粋ではなかった。むしろその猫撫で声が、何時、断頭の刃に変わるかと気が気でない。

「それに比べて左馬さん、あんたはうちに来て半年ちょっと、お仕事をまともにこなしたのは数回だけ……そら出来高やからええけどなぁ? 頼むから手紙出した時は返事くらいしたらええのに」

「気が向いたら動いてるじゃないか。現に今も、ほらこうしてわざわざこんな所まで」

「気まぐれやのうて、定期的に顔を見せえっちゅう事やて……ええわ、あんたは多分、言うて聞かせても仕方が無い人やろうしなぁ。今回――ちぃと拙い事になった時、来てくれただけでも良しとしとくわ」

「……なんとなく引っ掛かる物言いだね。そこまで大事になっていたのかい?」

 謝意の欠片たりと見せぬ左馬だが、堀川卿の金眼に掛かる影を見れば、声音に幾許かの真剣見が混ざった。

「大事になってたのが、表に出てしもうた。誰もな、墓土掘り返して中身をぶち撒くなんて事、喜んではせんのや。埋めとければ良かったんやけど……蓋になってた墓石が、あの大きな婆さんやった。そういう事やね」

「話が見えんが、蓋を開けたのは私か?」

 暫し蚊帳の外に在った桜が会話に割り込む。堀川卿は、大量の頭髪を波打たせた――頷いたのだ。

「桜さん。江戸に流れ着いたは二年ちょい前。粗稼ぎしとったんやろなぁ、馴染みの見世は十数件、抱いた遊女は、はて何人になる事やら……それだけ遊べば、ああいう場所の事も分かりますやろ?」

「随分と詳しいな。どうやって調べた?」

「ちょいと江戸の『錆釘』の連中を走らせまして。そんな事より、浮名流した遊び人ならば分かるやろうけど、質問を一つさせてもらいます。墓土の下の骨の話や」

 襦袢の袖と髪を使って、堀川卿は口元を隠した。それでも、眉や目元から、顔をしかめているのは見て取れる。

「例えば妓楼、例えば影間茶屋。そういう所には、たまーに……〝普通〟やない趣味の客の為、用意をしてあるところがある。あんたさんの場合もその範疇やね。同性相手で嫌がらん遊女、その程度なら、そう極端に珍しい事もあらへん」

「だな、数件回ってしつこく粘れば、一人くらいは見つからん事も無い」

 腕を組み、うむ、と頷く桜。その隣で村雨は、じっとりとした目つきで、桜を睨んでいた。

「ほんなら、桜さん。そういう特別な遊女、陰間の中で特に――法、道徳、物理的な問題、理由はどれでもええけど――数が少ないのは、何やと思います?」

「……子供だな。明らかに幼い、本人の意思などまるで持ち合せておらん子供だ」

 苦虫でも噛み潰したかの様な顔で、桜は答えた。嫌悪感の滲む目は、自分の言葉さえ聞きたくないと言わんばかりであった。

「そうやね、それも有る。その為に、遊女にわざわざ子を産ませて、手元で育てる見世まで……気の長いこっちゃなぁ。あんたさんがそんな顔になるのも良う分かるわ。
 けどな、桜さん。もうちょっと人間ってのはイカレてるで、知ってはる?」

 堀川卿の金髪のうち、おおよそ一抱えほどの束が、蛇にでも化けたかの様に首をもたげた。それに驚く暇も与えず、髪は、自らの内側に隠していた竹簡を取り出し、桜に投げ渡した。桜は、その内容に目を通し――ふぅ、と息を付いて、竹簡を投げ返した。

「……確かなのか?」

「あの葉隠はかげっちゅう遊女が言うとった事が、嘘やなければな。嘘を付くにしても、そんな事を言う意味が分からへん。本当やとは思いたくないけど――」

「本当、という事か」

 桜の顔は、表情が薄い。よほど慣れていなければ、その変化は容易く見逃してしまう。今回の場合、左目の瞼が僅かに狭まっただけだが、村雨の目には、それが激しい怒りを示すものだと判別出来た。

「……何が書いてあったの?」

「村雨、お前には――」

「歯抜け、手足無し、目玉無し」

 まだ早い、と言おうとしたのか。聞かせたくない、と言おうとしたのか。何れにせよ桜の思いは、堀川卿の冷えた声に立ち切られた。

「部品が欠けた女に性欲沸かす、世の中にはそんな男もいるんよ。舌と喉が駄目で声が出せへん遊女、治癒魔術が得意やからって、殴る蹴るの暴行を受ける〝だけ〟の遊女。阿片漬けになって、『餌付け』が楽しめるなんてのも居たみたいやなぁ。珍しい所では亜人の雌、或いは雄の子供。最低なのは〝新鮮な〟死体……
 おっと、まだよ、まだ。そんな顔をするのはまだ早い、もう少しだけ待ってもらえへん?」

 堀川卿が語ったのは、人間としての尊厳、最低限の権利さえ奪われた、底の底の存在の事だった。聞くからに、はらわたに焼けた鉄を流し込まれた様な、重苦しい怒りの沸き立つ話だった。村雨は口を押さえて眉間に皺を寄せたが、それは決して大仰な動作とは言えない。
 世に外道は蔓延っている、吐き気を催す様な話とて知らぬ訳ではない。だが村雨は――四肢が削がれた人間の惨状を、明確に思い描けるが故に――想像さえ耐えきれず、目に涙を溜めた

「村雨ちゃん、お仕事や、我慢せい。他人の事でな、一々本気になっとったら身が持たんで」

 この時ばかりは堀川卿も、上司としての冷たい声ではなく、年長者が年少者を気遣う、人の温かみのある声を発した。然し説くのは諦観の勧め。諦める事が慰めとなる、その事実さえも、喉を突き上げる嫌悪感に変わる。

「それで、続きは……?」

 口内に溜まった、普段と味の違う唾液を飲み込み、村雨は絞る様な声を出す。

「……普通の場合はな、そういう連中、大概は仕方なしにやらされてるもんや。他の仕事は出来へんから、飢え死にしない為に玩具に堕ちる。自分の体がまともなら、自分の脳味噌がまともなら、太陽の下を堂々と歩いて生きて行けたろうに……そんな夢を、死ぬまで胸の内に抱えてな。
 けどな、あんた達がひと騒ぎ起こしたあの見世、『牡丹登楼』……あそこはおかしい。あの見世の遊女は、それが一番の下っ端の、夜鷹に劣る境遇のもんでも……自分の仕事に誇りを抱いとる。最低限食えるだけで、世間様から見下されて、早死にが約束されて、そんな環境でや。明らかにおかしいと思っとったが――」

 また、髪の束が蠢いた。数本の髪が指の様に動いて取り出したのは――

「坊主も神主も嫌いやないけど、これで神父は嫌いになりそうやわ。見覚えは有る?」

 ――それは、十字架を模した短刀であった。刃は短く、喉を掻き切るか脊髄に刺すか、或いは心臓を貫いて殺す為の道具。少なくとも堀川卿が取り出した物は、村雨の嗅覚を持ってしても血の臭いは嗅ぎ取れなかったが、

「……これは、拝柱教の暗器か?」

 武器の形状を、桜が見紛う筈も無い。これは間違いなく、ウルスラが所持していた物と同型の刃であった。

「あの見世の遊女、多分全員が持っとるやろ。逃げ出さないのもそういう事や……厄介やなぁ、ほんに」

「盲信、狂信が故の異常か。信仰如きを理由に、あの苦界か」

 暗く、涼しい部屋だ。だのに、大気が更に冷え込んだ様な、村雨はそんな気がした。理由の一つは、間違いなく、隣に立っている桜の激情であり――

「村雨ちゃん、左馬さん、お説教は無しにするわ。新しい指令――他の誰でもない、うちからの、直接の依頼や。ええね?」

 もう一つは、眠たげに目を擦る堀川卿の、声音に出さぬ威圧。拒否などさせるつもりもなく、されるだろうという予想すらない、傲慢にも似た意思の力は、髪の隙間から覗く目に現れていた。








「まず最初に。今回使う人員は、あんた達二人だけや。そこを覚えといて」

 堀川卿の言葉は、眠たげに曇った声に似合わず、一言一言を強く区切って発されている。金髪の塊が持ちあがった――どうやら、立ち上がったらしい。腕以外の部分は、髪の束の中に隠れている。

「それ以上は一人も回さへん。情報収集は、現時点を持って完了済み。よって追加の人員を裂く必要は無し。輸送、調達、事前事後の工作、その他一切を許可せん――と言うより、許可できへんのよ」

「無理を言うね。補給も無しに戦は出来ないだろう?」

 左馬は、明らかに不平を抱えた、瞼を細める顔をする。

「道理を引っ込めへん事には通らん事や……けど、やらなあかん。猶予もそうは多くない、明日か明後日までに解決したいんよ。そして、最悪無理だとなったら……そもそも、そんな依頼は無かった事にしてもらいたいなぁ」

「……忘れろっていう事ですか?」

 意図を図り切れず、だが言葉の薄暗さは感じとった様で、村雨は身構えつつも訊ねた。

「それもちゃう、うちが忘れるっちゅう事。依頼を出した事も、今日こうやって誰かと話をした事も、そもそも『錆釘』に二人の構成員がいた事も、ぜーんぶ忘れて知らぬ存ぜぬ押し通すっちゅう事や」

 つまりは、蜥蜴の尻尾切りだ。頭に被害が及ばぬ様に、末端だけを切り落として逃げる、組織の常套手段。切り捨てられる側の二人は、共に即座に、戦地での構えへと切り替わる――左馬は前傾姿勢に、村雨は逆に後屈姿勢だが。

「やめい。殺し合いしたら、うちはあっさり死ぬで。左馬さん、あんたの拳足なら一発で首を圧し折れる筈や。……が、まずは何をするかだけ聞いて、そこから判断してもらえへん?」

 堀川卿の金髪の一部が、支えも無しに持ちあがり、斜めに交差される。腕を組み合わせての防御、それに似ている形状だ。村雨の鼻に、魔力の移動の気配は届かなかった。魔術の類では無く、堀川卿の頭髪は、四肢の如く動き回るものであるらしい。
 だが、その防御力は、所詮は髪。より合わせれば縄にもなろうが、ただ持ちあげていては簾にも劣る。返答次第では何時でも――左馬もそう思ったか、一先ず、右足を後方に一歩だけ引いた。

「聞き分けのええ子は好きよ、よしよし」

 笑ったのかも知れないが、顔の半分以上は頭髪の影、堀川卿の表情は見えない。幾度か髪が波打つ、頷いたらしい。

「……あの見世、『牡丹登楼』は、少し離れたところにもう一軒、隠れるように建物を持っとる。二条城の近く、外から見たらただの小屋にしか見えへんようなとこや。常連を一人とっ捕まえて吐かせたし裏も取った、間違いあらへん」

「その常連客は?」

 暫く口を閉ざしていた桜だが、言外の意を嗅ぎ取って言葉を差し挟む。

「加茂川に流した、今頃は海やろ――ああ、勿論生きとらんよ。ああいうのは死んで当然、掃除をさぼるとゴミが溜まってあかんからなぁ。
 どうでもええな、話を続けるで。小屋やが、中を少し覗いてみても、特に何が有るわけでもない。ただ、階段が一つだけ有る。降りていった地下が、〝そういう〟客の集まる所や。本店のもんでも、知ってるのは何人かだけ。客も、通うとるのは十数人っちゅう事やね。
 扱ってる商品は――さっきも言うた様に、普通の見世ではおいとけん様な、所謂訳有りの遊女、或いは陰間。あんまりと言えばあんまりな状況やから、世話をせんと餓えて死んだり、防腐処理をせんと腐って崩れたり……夏やもの。けど、ここ数日は、誰もその小屋に近付かんかった。信用できる見張りを十数人、間違いは無いわ」

 残酷行為を楽しむのは幼い人間だ。子供は虫を殺して遊ぶが、順調に成人すれば顔をしかめる様になる。酷薄な処置は憎むべきであり――それを、嫌悪も怒りも表に出しているとはいえ、事務的に語る。堀川卿の冷血面を睨みつけているのは、この場では村雨だけだ。

「何故、数日も世話が空いた? 以前から目を付けていた、とでも?」

「当たり。前々からあの見世、訳有りを扱う支店があるっちゅうのは聞いとった。見せしめも兼ねて、いつか叩き潰したろうと思ってな。あんた達が、あの婆さんを殴り倒してくれたんは良い切っ掛けになってくれた――が、要らん事も分かってしもた。あの見世の根っこの部分が実は『拝柱教』だったっちゅう事や。
 うさんくさい連中やけどあの教団、政府役人の誰かと癒着しとるらしいんよ、うちらと同じ。って事は、あの小屋の地下は、そのお役人様にとっては明かされたくない秘密の蔵や。御禁制の阿片だけで首が飛ぶやろうし、人道って見地から考えても、まず外道の烙印を押されるわな。くっついて蜜を吸ってた事がバレたら……っちゅうこっちゃ。
 かと言って、直ぐに片付けるいう訳にもいかんかった。そこはまあ……うちの連中が目を光らせてたの、向こうも知っとったんやろ。事を大きくすれば共倒れ、となるわな。失うもんは向こうがでかい、こっちはせいぜいが罰金で済むわ」

 額はキツいけどな、と堀川卿は小さく言い添えて、髪の束から突きだした手で、そろばんをはじく真似をする。

「せやから向こうは、〝絶対に〟しくじらん様に手筈を整えてくる。いや、実際に整えとる。幕府側に手を回して兵隊借り出してきよったわ。こら多分、証拠になるモノ――物も人も、全部処分するつもりやろうな」

「先に回収しておく手はなかったのかい? 聞いた限り暫くは、『拝柱教』側はその小屋に近付かなかったそうじゃないか」

「その代わり、うちらも見張りだけが限度だったんよ。向こうかてこっちが動けば、少々の犠牲は目を瞑るやろ。無意味に死人を増やす事は無いわ」

「……その割に私達は、たった二人で飛び込めと言われているけれどね。これは死ねという意味だと理解して相違無いのかな?」

 相手方は、おそらくは訓練された兵士が複数。一方で『錆釘』が裂く人員は二人。これは、本気で解決する意図が有るとは思い難い差配である。そればかりか参加した構成員の、生存さえ考慮されていない計画だ。左馬の指摘は尤もであった。
 堀川卿は、顔に掛かった髪を、全て手で押し退けた。遮る物が無くなっての表情は、真摯たる物である。

「そうやね、そういう事やと思ってええよ。相手の背後に誰がいるか分からん以上、切り離す尻尾は短くしときたい。優秀な人員を十も二十も、罪人や死人にしてしまう事は無いわ。万が一の事を考えて、あんた達二人を切り離している、それは本当の事や。
 けどな、無理な案ではないとも踏んどるんよ。一つだけ駒を足せば、という条件つきやけど……『拝柱教』に喧嘩を売った腕利きが、『錆釘』の外にも一人おったやろ? その手を借りれば、勝ちの目は有る、となぁ」

 村雨の、そして堀川卿の目が、桜へと向けられる。

「何だ、桜。お前はそんな事までしていたんだね、相変わらずの噛みつきぶりだ」

「行きずりの流れで、売られた喧嘩を買っただけだ。が……確かに一度、軽く暴れはしたな」

「どこが軽くよ、あれが」

 村雨はすかさず、桜の背骨を拳でつついた。それなりの訓練を積んだ武装信者二十五名を相手に無傷、かつただ一人も殺さずに制圧する大立ち回り。心にもないハッタリも含めて、確かに記憶に残っている。
 成程確かに、桜がいるならばどうにでもなるだろう、村雨はそんな事を考えた。性格はさておき、戦闘行為での実力は、もはや心配するだけ徒労となる程だ。戦場が市街地と言うならば、敵方もよもや、建物ごと燃やす様な暴挙には出るまい。ならば残りの問題は、

「で、無関係の喧嘩に、私が首を突っ込むと思うのか?」

「無論。積極的に飛び込み、一人で解決してくれるとさえ思うとりますえ、桜さん」

 駒として挙げられている、桜自身の気持ちだ。
 然しこの問題は、既にしてこの時点で解決している様なものだった。理由など無いが村雨は、桜はこの一件を看過するまいと確信していた。直感ではなく、或いは経験則の類かも知れない。兎も角、雪月桜という人間は、今回は確実に、自分の意思で動くだろうと信じていたのだ。

「罰則目的なんかで、死ぬ様な仕事はさせたくないんよ。けどな、他の構成員は……どうしても、今は動かしたくない。本音を言えば、だーれも動かさずに済ませられるのが一番。せやけど、それやとうちの腹が収まらんのや。
 正直に言います。村雨ちゃんと左馬さん、二人だけで仕事をさせようと決めたのは――桜さん、あんたを巻きこむ為どす。外部の人間に解決してもらうのが一番の得策、そうすれば八方丸く収まる。役人とズブズブくっついて居られるから、うちらは楽な仕事ができる。政府のお偉いさんに喧嘩を売る様な、そんな危険な真似はしとうない――が、雇用主の命令と言うんなら、話は別や。雇用主の意向で一人動く程度なら、流石に向こうも目くじら立てとられへん。
 勿論、何事もなく、向こうが動かんかったらそれでええよ。朝方にでも、適当に真面目な役人を呼んできます」

 更に一押し、ここまで伏せていた腹の内を、堀川卿が曝け出す。彼女は、自分達の損失は許せない、商人の様な考え方であるらしい。使える物が近くに有れば、それを使わないという愚行には踏み込まない。使い切り、使い尽くす。

「案内しろ」

「うちは寝ます、部屋の外に一人待たせておきました。村雨ちゃん、左馬さん、しっかり働いておいでぇな」

 元より桜に、断る気など無い。部外者の事など知らぬとばかり、身内にだけ声を掛けた堀川卿を背に、脇差の柄に手を掛けて歩きだした。








 三条大橋を境として東西に、和と洋の分かれた京の街。二条城の周辺は、西洋の色に染まった地域である。が、然し城そのものは、徳川の御世を未だ引きずっているかの様に、和の色を誇示していた。
 周囲の建築物は、政府所有の城に遠慮を見せているのか、軒並み背丈が低い。その為、空が狭い西京の内であるが、ここは夜空が良く見える。

「……っけえ。嫌な仕事ばかり寄こしやがる。たまにゃ盗人狩りでもさせろってんだ」

 青峰あおみね 儀兵衛ぎへえは、数十間先に見える粗末な小屋を睨みつけ、ここ最近増えた愚痴を繰り返した。
 彼と彼の部下は、端的に言えば、便利に使われる兵隊だ。上は理由も無しに用件だけを押しつけ、完遂するまで支援も行わない。成功すればそれが当然の様に扱われ、失敗すれば叱責を受ける。
 それでも、仕事の内容が内容ならば――山賊のねぐらに踏み込んだり、古城に立てこもった武装集団を捕縛したり、人の為になると分かっている物ならば、文句も言わずに引き受けよう。渋面の皺とは裏腹に、儀兵衛は善良な人間なのだ。
 然し、前回押し付けられた仕事は、宗教団体の信者の捕縛。女子供を組み伏せ縛り上げる、強盗と大差ない中身だった。当然気乗りせず、不確定な要素も有り、結局は失敗に終わった。すると彼の上司は、更に一段程度の劣る、えげつない仕事を押しつけてきたのだ。
 曰く、前回敵に回した宗教団体の味方をして、売春小屋を完全に破壊、中に在るモノを焼却、隠蔽処理せよ。
 儀兵衛が、ただ仕事をこなすだけの石頭であれば、或いは問題など無かったのかもしれない。仕事だから、命令だから殺す。命令だから焼き払う。部下に命令し、最大効率で任務を完遂する、それだけを考えていられた筈だ。
 だが儀兵衛は、妻子はいないが子供好きで、弟夫婦への時節の贈り物を欠かさない男だった。多少の無茶な任務でも、弱者の為と思うならば、疲労も痛みも耐えられる。言うなれば、良い歳をして正義に燃えた中年男であった。
 だから、今宵の儀兵衛は、部下達の目から見ても分かる程に荒れていた。短槍の柄でいらだたしげに石畳を叩き、刀の切っ先で石畳を引っ掻く。がん、ぎい、きい、と賑やかに、兵士が行くぞと音が告げる。
 彼の部下二十九名は、既に大きな円を描いて小屋を包囲していた。一呼吸に一歩、二尺。距離と速度を事前に定め、打ち合わせも無く、包囲網を狭めていく。音を発しているのは儀兵衛のみ。他の全員が息を殺し、足音を顰めて進んでいた。
 嫌がらせ紛いの仕事ばかり押し付けてくる上司からは、妨害してくるだろう相手はせいぜい一人か二人、と聞いている。然し、どういった経緯で得た情報なのかは教えられていない。大方、『錆釘』あたりに間者を潜らせているのだろうが、その程度の事は答えても良いだろうに。

「はあーぁ……時間だな」

 溜息を付くと同時に、儀兵衛は走り出した。散開し、全員が位置についてから六十歩。事前に定め、入念に部下にも言い聞かせてある。この瞬間に走り出せば、目的の小屋に、三十名全員が同時に到達する仕組みだ。万が一誰かが到達しなければ、それは、その部下の待機していた方角で、何かが起こっているという事である。
 果たして、道中何事も無く、総勢三十名は、目的の小屋を包囲した。

「抜刀、突入。全員切れ、死んでても一応首を切り離せ。着火は全員の退却後、油だけは先に撒いておけ」

 小屋の中から悪臭が漂う。が、儀兵衛の吐き気はそれに由来するものでなく、寧ろ己の命令への嫌悪が主因だろう。機械的に仕事をこなす部下達だが、平均して瞬き一つから二つ、戦闘態勢への移行が遅い。誰も、こんな任務はやりたくないのだ。

「さっさと帰るぞ、おう」

 足取りの重い部下達を励ます様に、一度だけ、大きく呼びかけた。

「そうだな、さっさと帰れ帰れ。土産はやらんぞ」

 答えた声は部下のものでは無い。発信源は小屋の内。

「……誰だ」

「さて、誰やら。名乗って通じる程、有名になった覚えは無いぞ」

 誰何に答えぬまま、声の主は小屋の戸を斬り、夜に紛れる様に躍り出る。刃の閃きは、儀兵衛の目にも見えなかった。戸板が石畳に落ちるより早く、部下の一人が、太刀の峰で殴り倒された。

「固まるな、散らばれ! 灯りが有るなら捨てろ、狙われるぞ!」

 己の右手を掛け抜けた影を、儀兵衛は僅かにだが、目の端に止めた。黒装、黒太刀、修羅の笑み。三尺の黒髪を翼の様に靡かせ、風を纏って跳んでいた。黒は夜戦の迷彩となる。少数で多数を相手取るには、姿を隠すが最善の手段――それは儀兵衛自身が、見えぬ敵への敗北で、強く学んだ事だった。
 まずは視界に捉えねばならない。幸いにも、黒の布とはいえど、闇と完全に同色ではない。目が慣れてしまえば、どこに居るかは見つけられる。

「ぎゃ、ぐっ!?」

「うぇ、ぇぉ……!」

 ただ、その〝慣れるまで〟が長かった。二つ、部下の悲鳴が聞こえた。一つは明瞭な、四肢か顔でもやられたのだろう声。一つはくぐもった、腹か胸を打たれたと思われる声。最初の一つは右手に十数歩、次の一つは左手に二十数歩の位置。音の出所の位置を考えると、敵の動きは恐ろしく速い。

「総員五十後退、散れ! 散れ! 二か三人で組んで防御に徹しろ!」

 命令を飛ばしつつも、儀兵衛自身はそれに逆らい前進。小屋の壁を背に、一度だけ深呼吸をして、心を落ちつけた。右手には愛用の短槍、左手には何本目かも分からない刀。喉と心臓を守る様に、軽く掲げて目を細める。闇の中、ゆらりと影が揺れるのを見つけた。

「……弱いって訳でもねえだろうに、不意打ちとは念入りな野郎だ」

 夏の夜の暑さに、然し寒気を感じ、冷や汗を零し、儀兵衛は引きつった笑みを見せる。

「野郎とは失礼な、せめて女郎とでも言って欲しいものだな」

 黒衣の女が、刃渡り四尺はあろうかという黒太刀を、大上段に構えて立っていた。刃は返されている、殺意は見えない。だが敵対の意思は、戦地に身を置く愉悦と共に、三日月を描く唇が示す。
 足の置き方が、体重の掛け方が、呼吸一つ一つが、儀兵衛の脳裏に警鐘を轟かす。強い――それも、おそらくは自分より、自分と部下全てを足したより。

「……勘弁してくれよ、お偉い方よ」

 泣き言を言いながらも、任務の完遂は諦めていない。それを示す様に、短槍の穂先が掲げられ、

「気骨の有る奴、掃除屋扱いは勿体無いな」

 雪月桜は活きの良い獲物を前にして、蹂躙の快楽を味わうべく、唇に赤い舌を這わせた。








 正面から押し勝てる戦だろうが、策を練るのは悪い事では無い。必勝を期すならば、寧ろ当然の事である。
 夜陰に紛れ、そして桜の気迫と威圧を隠れ蓑に、松風左馬は、音も無く馳せていた。その拳は既に、十人の兵士を、察知される前に殴り倒している。
 桜が自分の居場所を意図的に明かして飛び出したのと同時、左馬は、桜に気を取られた兵士に踊りかかったのだ。自分自身の気配は消し去り、姿は見せず。敵が広範囲に散開していた事もあって、隠密策は功を奏した。
 兵士達は、桜一人を警戒している。闇に紛れた瞬間、同時に離れた二人を倒してのける怪物として、だ。成程、あれは化け物には違いないが、斯様な神速まで身につけている訳ではない。
 敵への過小・過大評価は、敗北を招く大きな要因となる。円陣の〝内側〟の敵に最大の警戒を払っている彼らを、円陣の〝外側〟から蹂躙するのは、それは楽な戦い――と、なる筈だった。

「やっぱり本職は強いね、良く食いつく猟犬だ」

 兵士達を纏める首領格が、予想以上に奮戦している。勝てぬ相手だろうがせめて一矢、その意思が表出しているかの様な、泥臭い奮戦ぶりだ。煽られて、まだ動ける兵士十人ばかりが戦闘意欲を――いや、作戦遂行の意思を取り戻し始めている。

「もう一人いたぞ、離れろ!」

「ちぇっ、見つかった……これはひょっとすると、本気を出さなければないかな」

 闇を裂く光線。敵兵士の中に、光を収束・屈折させる魔術の使い手がいたらしい。道端の木に逆さにぶら下がった、左馬の姿が照らし出される。
 近くに有った兵士の気配が遠ざかり、入れ替わる様に、数本の矢が飛んでくる。黒塗りの鏃で、おそらくは毒が塗りつけてあるだろう。最小限、身を捩って回避する。
 訓練された兵士が厄介なのは、継戦の意思を保ったまま、逃げる事を躊躇わない点にも有るのだろう。拳と脚は届いて三間、魔術師の射程は最大で数里。散らばって逃げた獲物、どれを追うかと逡巡する内に、また矢が飛んできて、左馬は踵で撃ち落とす。

「……手伝えないよ、桜。どうにか頑張ってくれたまえ」








 黒太刀が、闇に弧を描く。粗く、速く、力強い。受け止めた短槍が火花を散らし、儀兵衛の足は地を滑る。だが、立っている。
 鉄槌の如き拳が腹に突き刺さる。骨が骨を打つ、鈍い打撃音。儀兵衛の足が浮き上がり、体は毬のように地を転がる。すぐに立ちあがる。

「っはは、なんだこりゃあ、妖怪かよ……!」

「おう、良く耐える。嬉しいな、嬉しいぞ」

 刃を交える二者は、共に敵の技量に感じ入っていた――その度合いには、大きな差が有るが。
 儀兵衛は、見えている敵に後れを取った事は無い。最悪、負けるとなれば、深手だけでも負わせて撤退する。だが今は、そも反撃の隙さえ与えられていない。何気なく振るわれた一撃を耐えるだけで、手も脚も痺れ、肺が酸素をよこせと喚き立てる。応えてやる為に口を空けると、歯を食い縛る余地が無く、受ける腕から力が抜ける。
 一方で桜も、加減をしている訳ではなかった。それは、殺める戦いと不殺の戦いでは、人斬りの桜の事ゆえに、自然と差は生まれる。だが、不殺なら不殺で、四肢を砕いて肋を圧し折る、その程度の威力は、振り回す太刀の峰に乗せているのだ。
 それが受け止められ、受け流され、相手は未だに立っている。驚愕すべき事で、そしてまた喜ぶべき事に違いない。蹂躙の愉悦は、獲物が強大であればある程に増していく。

「潰せない相手は久しぶりだ、嗚呼、良いな」

 太刀の切っ先が、地に線を引く。下段から顎を狙う振り上げだ。紙一重で避けられるが、掠っただけで、儀兵衛の脚は揺れる。然し倒れない、踏みとどまる。振り上げの勢いのまま上段構えに以降、脳天狙いで振り下ろす。儀兵衛は、短槍と刀を重ね、頭から三寸離れた場所で受け止めた。膝関節が軋むが、崩れはしない。
 『堅壁貫く能ず』、対衝撃の防御魔術。本来は詠唱を伴い、体の外部に障壁を創り出すものだが――それでは、桜の乱撃に対応できない。そこで儀兵衛は詠唱を省略、自らの体内に――皮膚と筋肉、筋肉と内臓、骨の間に――障壁を作り、身を守っていたのだ。
 熟練の術者である。身を守る事だけを考え、全ての戦力を防御に回すのならば、例え相手が誰であろうと、暫く負けない事は出来る。言いかえれば、負けない事しかできないのだが。

「……あと十、いや九か八。けっ、もう一人居やがった」

 だが、それでいいのだ。脇差と太刀、同時に腰を狙う横薙ぎを防ぎながら、儀兵衛は引きつった笑みを零した。元より勝利の条件は、作戦完遂の事項は、断じて化け物を殺す事などではない。
 不意に桜は、対して鋭くもない鼻で、良く知っている様な臭いを捉えた。何であろうかと考えて――それが、油と火薬の臭いだと気付く。儀兵衛が腰に吊るした、小さな壺の様な物が割れて、地面に油が染み込んでいた。

「――お前、まさか……!」

「楽しいんだろ? 続けようぜぇ……ああ、嫌だ嫌だ」

 跳ね飛ばされる儀兵衛を追い続け、気付けば桜は、あの小屋から遠く離れた通りに立っていた。夜の静けさに、陶器を叩き割る音が幾つか聞こえる。暗い空を、赤々と火が染めた。








 村雨は、小屋の中に潜んでいた。夜目と嗅覚を利して敵の接近を知らせたら、戦闘行為は桜と左馬に任せて隠れる、これが事前の取り決めだったからだ。別に村雨も弱くは無いのだが、今回は他の二人が強すぎた。邪魔をするより、大人しくしているのが良い。
 そうは分かっているが、気が滅入る。小屋の中は、地下への階段から、微弱な――だが、常人の万倍も鼻の利く村雨には、耐え難い悪臭が漂っていたのだ。
 階段を下りてみたが、直ぐに、鍵の掛かった扉に行き当たる。桜なら斬ってのけるだろうが、村雨は、それを積極的に開けたいとは思わなかった。
 堀川卿の言葉を思い出す。この小屋で扱っている『商品』の目録だ。歯抜け、手足無し、目玉無し、阿片漬け、亜人の雄雌、新鮮な死体……聞くだけで不愉快になる様な話だ。彼女達、或いは彼らは、この小屋の地下で、数日も放置されていたのだという。悪臭の理由は――

「――やっぱり、そういう事だよね」

 考えるまでもない、考えたくもない。意識を仕事だけに向けようと首を振る。
 気付けば、桜の臭いが遠くなっている。左馬の臭いは、あちらこちらに動きまわり、暫く留まりそうにない。万が一の事が有った場合、自分も戦う必要が出てくるかも知れない。正直なところ、武器を持った相手が複数というのは、やはり辛いものがある。素手の一人相手なら、身体能力任せでどうにか出来るかも知れないのだが。

「早く、朝にならないかな……――って、ぁ……?」

 かしゃん、食器の割れる様な音。油の、火薬の臭いが、小屋の四方を覆った。
 瞬間的に室温が跳ね上がる。裏腹に、村雨は青ざめる。よもや市中での戦闘で、油と火薬で放火しようなどという無茶、予測をしていなかったのだ。

「ヤバ、えーっ!? ちょっ、バカ!?」

 木造の小屋だ。焼け落ちるまで、そう時間もあるまい。外へ逃げなければ。兵士の包囲網も、自分の健脚ならば逃げられる――が、では地下に居る者達は?
 外へ向かって走ろうとする。躊躇い、一歩引き戻り、やはり無理だとまた外を見て――結局、階段を一足で飛び降りた。

「開けて! 誰か居るんでしょ! 火事だよ開けて!」

 扉を、殴りつけるのでは力が足りないから、渾身の力で蹴りつける。五、六と重ね、蝶番が衝撃で緩み始めた頃、扉の向こうでガシャンと音がした。
 内側の人間に配慮せず、鉄の扉を押し開ける。誰かを突き飛ばしてしまったらしく、きゃっ、とか弱い悲鳴が聞こえた。

「あ、ごめん! 急いで逃げて!」

「逃げ、え――待って、あの、教団の人ですか? 何か有ったんですか?」

 声の主を、そも一瞥すらするつもりも無かったのだが、村雨は呼び止められるまま振り返った。色の白い少女だ、儚げで、首には十字架を吊るしている。階段の上の赤を、村雨の姿を、まるで見ていないかのような物言いだが――少女は、目を開けていない。きっと彼女は、目が見えないのだ。

「上の小屋に火を付けられた、早くしないと焼け死んじゃうの! ああでも、外には……!」

 早く逃がして、自分も逃げたい。それが、紛う事無き村雨の本音だ。だが、小屋の外には兵士が数人、炙りだされた獲物を狩ろうと待ち受けている。

「……っ! ここで焼け死ぬか、外で斬り殺されるか、全員にどっちか選ばせて!」

 酷な言い分だ。こう言う他に何も出来ぬ自分が、腹が立って仕方が無い。色白の少女は、見えぬ目で階段を見上げ、ただ亡羊と立ち尽くしている。置き去りにして、馳せた。
 悪臭は愈々強くなる。地下の空間はかなり広い様子だったが、その内部を全て埋めるかの様に、腐臭は拡散していた。村雨は、より臭いの濃い方へ、濃い方へと走る。

「誰か! 居るなら返事! 火事だよ!」

 言葉での応答は無いが、どよめきならば聞こえた。前に置いた右足、踵を軸に直角の方向転換を行い、左手にあった扉を蹴り破った。天井の低い、粗末な、きっと客を迎える為のものではないだろう部屋だった。

「おおぉ、人が……水と食事、持ってきてくれたんで――」

「違う、違うの、いいから早く!」

 その部屋に入るや、一人の女が、床を手で這って近づいてくる。落胆混じりの憔悴した顔で、些かやつれている。夏の暑さに、汗も掻いていない。汗を掻く為の余分な水分が、その女の体内には無かったのだ。逃げろとせかした村雨は、女の両足が全く動いていない事を見て取って、自分の言葉を悔んだ。
 床に伏す様に、壁に寄りかかる様に、そこには十五人ばかりが集まっていた。何人かは、村雨の声を既に聞きつけていたらしく、逃げる為に立ち上がっている――立ち上がれる者は。皆揃って、首に十字架を下げていた。
 また一人の女が村雨に詰め寄り、両手を振り回し、何かを訴える様な目をする。声が出せないのだと気付き、別な者に目を向けた。村雨の胸程の背丈しかない少年が、す、と前に進み出た。

「火事ですか? なら、向こうで寝てる人達から助けてください。あの人達は自分で歩けないんです、だから……」

 一刻を争う非常時に、歳に似合わず、落ち着き払っている少年。然し、恐怖を感じている事は、膝の震えからはっきりと伝わってくる。

「全員で! 誰がじゃなく、皆逃げるの! 時間がもったいない、急いで!」

 無理を言っていると、村雨は分かっている。こうなれば――嫌な言い方だが、仕方が無い。自力で動けないものは見捨て、逃げられる者だけ逃げ伸びれば良い。
 だのに少年は、床に横たわっている一人――明らかに、少年より二回りも背が高い――を、必死で担ごうとしていた。彼だけではない。腕の無い女が、服の襟に噛みつき、病人を引きずって運び出そうとする。杖を付かねば歩けぬ少女が、縄を自分の身に括りつけ、壁際のボロ袋に繋いで引きずっていく。

「……ねえ、それ」

 袋には、赤黒い染みが出来ていた。然し、そんなものを見ずとも、村雨の鼻は、袋の中身が何か、嗅ぎつけていた。

「〝それ〟じゃありません、私達の友人です……人なんです」

「でも、だって、もう死んでるじゃない!」

 死んで、腐って、崩れ始めた死体だった。数日前ならば、新鮮である故に、顔も見るに耐えるものだっただろう。今は――数日しか経過していない事が救いだが、そろそろ皮膚が落ちている頃だろうか。

「それでも、私達と同じなんです。同じところで、同じ仕事をしてた仲間なんです……おいていけません」

 食糧も無く、水も無く、風は吹かず、死臭が漂う。外へ助けも呼びに行かず、外から誰も訊ねては来ず。正しく、ここは地獄である。
 だのにこの地獄には、悲しい程の秩序が有った。誰も自分一人で逃げだそうとしない。動ける者は動けぬ者を助けだそうとし、動けぬ者は自分から助けを求めない。自分の命を諦めたかの様な目で祈りながら、他者の命を諦めようとしていない。
 頑張ろう、一緒に行こう、彼女達は口々に励まし合っている。このままの速度ならば、皆が揃って蒸し焼きにされるのは見えている――それでも、誰も、誰をも見捨てない。
 人の人たる強さ、正しさ、信仰の美徳。そんな道徳的な物が、この地獄には溢れていた。村雨はそれが我慢ならず、気付けば涙が襟を濡らしていた。

「……ふざけてる、ふざけてる……!」

 先程の少年は、人を二人担いで歩いていた。少年の臭いは野の獣に似ている。体格から想像もつかない力は、おそらくは亜人のものだろう――それでも年齢故か、走る事は出来ていない。その横を擦りぬける様に、村雨は走った。
 自分は上等な人格か? 村雨は、素直にはいと答えられない。自分自身の小心さを、卑怯さを、十分に知っているからだ。自分の生業さえ、こそこそと人の間を嗅ぎ回り、時には法も道徳も踏み躙って、利益を追求するものであると自覚しているからだ。
 だが、ならば上等な人格者など、どこに居るというのだろう。旅の道連れしかり、道中で擦れ違ってきた者然り。結局は自分を最優先し、自分の為に他者を犠牲とする。それが生物だと、村雨は思っていた。
 今、己を顧みず他者を掬おうと、地獄を必死で歩む者達がいる。死が数歩の距離まで近づいて、表出しているのは間違いなく、彼らの本質である筈だ。彼らは上等な、素晴らしい善人だ。神を信じ、人を愛し――だのに、最低限の尊厳すら認められぬ生き方をしていた。
 これは、誰の差し金だ。彼らが信じる神が決めた事ならば――信徒への、信仰への、これが報いだというのか。人間が決めた事ならば、決めたそいつは、ここで苦しむ誰よりも劣る下種だ。人は、人間は、自分に最も近くそれでいて遠く離れたあの生き物は――

「――ぁああ。ああああっ!!」

 斯くも美しくあり、同時に醜い存在なのか。
 村雨は吠えた。吠えて走り、熱風の流れ込む階段まで辿り着く。あの盲目の少女が、肩を矢で射られ、煙に巻かれて意識を失っている。大跨ぎに飛び越え、段の半ばを踏み――強く、高く、跳躍した。
 屋根は、半ば焼け崩れていた。隙間から夜空へ――地下から僅かに一足で、家屋の屋根より高く、村雨は跳んだ。着地地点には過たず、刃と火薬の臭いに塗れた兵士が居た。兵士は、落下してくる村雨を避けようと試みて、だが間に合わず、背を強かに打ちつけて組み敷かれた。

「こんな――こんな事を、なんで! なんで平気で、こんな事を!」

 握りしめた拳を、兵士の鼻っ柱に打ち落とす。一つに留まらず、二つと三つと重ねていく。
 奇妙な事だが、村雨は、眼前の兵士を憎んでいたのではない。むしろ彼の背後の、命令を下した誰かを。地下で苦しむ遊女達に、その境遇を押しつけた誰かを。名どころか顔すら知らぬ、存在さえ定かではない者に、怒っていた。

「人間が――人間のくせに、ぃいいっ!!」

 熱風に包まれて噴き出した汗は、双眸から零れ続ける涙と混ざり、拳から飛沫く血と共に、兵士の顔を濡らした。指の皮膚が裂け、肉も骨も痛みを積み重ねながら、村雨は、自分でも意図の理解できぬ言葉を繰り返した。
 その背を、涼やかな風が撫でる。村雨の背後、燃え盛る小屋が、数十の木片へと解体された。剣風が炎を払い、熱源を消し去っていく。『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』の刀身が、夜より黒く閃いていた。








 『勝つ』という事は難しい。己の意思を通し、相手の意思は断じて通さない。二つの目的を達成しなければならないからだ。
 その点、『負けない』だけであれば、相手の意思を通さないだけで済む。単純に考えて、難易度は二分の一だ。

「はっは、なんだ! 俺も割とやるもんだ、だろう!?」

「ああ、腹立たしい程にな!」

 桜の剣閃の雨に打たれ、だが、儀兵衛はしかと踏みとどまって戦っていた。
 彼の背後には、燃え盛る小屋。歩数にして、おそらくは20歩も無い距離だ。首筋を火の粉が焼き、僅かに痛みも走る。然しこの状況こそが、儀兵衛の望むものであった。
 化け物を殺せなどという指令は受けていない。小屋を焼き払い、中に残っている者達を焼殺せしめればそれだけで良い。そして、火を着けるまでは成功したのだから――後は、時間を稼ぐだけ。
 桜はもはや、敵と戦う事など眼中にない。小屋に近付き、火を消す事だけを考えている。数百の軍勢にも匹敵する戦力を、ただ二十歩の距離の踏破だけに向けている。だのに、それが適わぬのだ。
 恐るべきは儀兵衛の執念と技巧である。
 個人の戦闘力で比較するならば、桜と儀兵衛では、それこそ天と地程にも隔たりが有る。仮に儀兵衛が『勝つ』事を目的に戦っていたのなら、ただの一撃で決着は付いていただろう。
 儀兵衛は、決して自ら攻撃に移らなかった。桜の剣撃を受け流し、僅かに生まれた隙に短槍の突きを合わせているだけだ。ただそれだけだが――足止めには十分過ぎた。
 力、速度で劣る儀兵衛が、唯一勝っているのは切り抜けた戦地の数。重ねた武功の数に裏打ちされた経験則で、桜の次の挙動を予測し妨害する。それも長くは続くまい。いずれ、桜の目が慣れれば、するりと横を抜けていかれる。

「道を開けろ、さもなくば――」

「おっさんを舐めるなよ、じゃじゃ馬!」

 つまりは、儀兵衛の引き出しが空になるが早いか、地下の人間が蒸し焼きになるが早いかの勝負。華も無く泥臭い戦いだが、それこそ儀兵衛の、最も得手とするところであった。
 短槍が付きさすのは袖の布、刀の切っ先が捉えたのは手の甲の皮膚。儀兵衛の技は、桜に手傷を与えていない。逆に儀兵衛は、体全体打ち身に切傷、赤く染まって火が映える様相。
 それでも尚、笑っているのは儀兵衛で、汗を流しているのが桜。今、この場では、強いも弱いも関係は無かった。
 だからだろう。本来なら歯牙にも掛けられぬ筈の存在でも、蜜蜂の針より弱い一刺しでも――切り札と、成りえるのだ。

「ひー、持たねえなこりゃ……――ぁ、あ?」

 燃え盛る炎が、夜に影を作る。視界が暗くなったと感じた儀兵衛は咄嗟に振り返り――反射的に後退しようとして、落下してくる少女を避け損ねた。
 燃え尽きた炭の色が見えた。火の中を潜り抜けた為、灰が積もっているのかと儀兵衛は思ったが、それは彼女自身の髪の色であった。

「ぉ――ぉぐ、おっ!?」

 お前は、と言おうとした口を殴られ、言葉が寸断される。頬の裏側が歯に当たり、儀兵衛の口の中は鉄の味に染まった。更に二つ、三つ、少女は拳を落としてくる。
 痛みはあるが、然程のものではない。背を打ち、呼吸が些か苦しいが、直ぐにでも立ち上がる事は出来るだろう。少女はかなり体重が軽く、儀兵衛ならば造作もなく立ち上がれる筈だった。

「かっ、こいつは――」

 が――火が舐めるように照らした少女の顔を、儀兵衛は徐々に思いだす。確か、高々一月程度前の事だった筈だ。仕事の中で見た顔だが、自分が助けた訳ではない。寧ろ――そう、自分が不覚を取った時の。
 彼女が、拝柱教教会に攻め込み、そして囚われた時に見た顔だと思いだした瞬間、儀兵衛は無性に悲しくなった。あの時の少女は、敵地に居る緊張感の中にも、確かに喜びの感情を見せていた。誰かを助けられた、誰かの為になれた、それが嬉しくて仕方が無い様な笑顔を浮かべていた筈だ。暗い牢屋の鉄格子の向こうに、確かに、それを見た筈だ。
 同じ様に暗い景色だが――炎を背負った彼女は、怒り、そして泣いていた。あの顔が、こうも曇るのか。そう思うと、儀兵衛の善良な心は、棘が刺さった様に痛むのだ。
 任務を完遂しなければならない。その意思は、まだ途切れていない。だが、視界の端で黒い影が――先程まで足止めをしかけていた女剣士が馳せる様が――見えても、儀兵衛は立ち上がろうとしなかった。
 夜闇に黒太刀が踊る。跳躍から屋根を斬り、着地と共に柱を斬り、崩れ落ちる壁を斬り。小屋を形作る木材が、ただの木端へと変わっていく。もはや木片は燃料とならず、太刀は風を巻き上げて炎を吹き散らす。夜を焦がす火は、十数度の斬撃によって雲散霧消した。

「おい、村雨」

 握りの甘い拳で、指を痛めながら人を殴る――その様を見かねたか、最も荒い方法で消火活動を終えた桜は、村雨の手首を掴んで立ち上がらせた。

「……ぅ、うぅ、ぅー……!」

 指の皮が剥け、下の肉も裂けている。骨が砕けていないのが救いだが、数日ばかりは食事にも難儀するだろう。痛めた手を、然し庇う事も無く、村雨は唸る様に泣き続けていた。
 何が悲しいのかは、まだ自分でも分かっていないだろう。感情の全てを言葉に出来る程、村雨は成熟していない。分かるのは、理不尽は弱者にだけ降り注ぐという事だけで――自分が殴りつけていた相手が、過去に見知った顔だとも、まだ気付いていなかった。

「さて、火は消えた。今は私がここに居る」

 太刀の切っ先を儀兵衛の喉へ突きつけ、桜は冷ややかに告げる。

「去るならば良し。さもなくば皆殺しだ。どうする?」

「……どうもこうも無えなぁ」

 世の中には、命を掛けるに値する任務と、到底値しない任務が有る。儀兵衛は、今宵の任務を、後者だと認識していた。

「撤退だ、撤退! もう戦うな、無駄だ!」

 逃げていく足音は三つだけ。他は全て、殴り倒されるか蹴り倒されるかしている。二連続で任務失敗、散々な有り様だ――が、残念だと思う気持ちが湧かない程度には、儀兵衛は今回の任務に辟易していた。
 ととん、と軽い足音が聞こえる。そちらに目を向ければ、左馬が涼しげな顔で――だが手足に幾つか切傷を負って――歩いてくる。

「片付いたかい? 悪いね、あんまり楽しいから遊んでしまったよ」

「見ての通りだ、遊ぶな馬鹿。かなり面倒な相手だったのだぞ」

「それは羨ましい、是非とも私が代わりたかったよ。ま、それはいいさ、質より量を堪能出来たから……それよりも、桜、桜」

 腕に流れた血を舐め取りながら、左馬はさも愉快そうに目を細め、肩で息する村雨を見やる。

「何処で拾ってきたんだい、彼女。良く跳ぶね、それに速い。私だってああはいかないよ、大した子だ」

 戦闘の最中、周囲を見渡す余裕が、左馬には有ったのだろう。桜の様に一か所で縫い止められる事も無く、自由気儘に夜を擦りぬけつつ、より良い獲物がいないか観察していたに違いない。その様な思考回路では、一点だろうが自分より優れた存在、人外染みた跳躍力の――そも人外だが――村雨に、興味を抱くのも無理のない事だ。

「……まあな、江戸からの連れだ。そう気にするな」

 桜は、歯切れ悪く答える。掴んだままの村雨の手首を引っ張り、無理に歩かせ、その場を去ろうとした。
 手に重さを感じ、桜は足を止める。漸く涙の収まった村雨が、未だ仰向けになったままの儀兵衛に視線を向けていた。桜が手を離してやると、村雨は儀兵衛の顔の傍にしゃがみ込んだ。

「私さ、今日は仕事なんだ。前に会った時は仕事じゃなくて、連れの我儘に振り回されただけだったんだけど――」

「なんだ、嬢ちゃんも覚えてたのかよ。おっさん、少し嬉しいぜ」

「――仕事って、楽しい?」

 軽口で逃れようとした儀兵衛の顔を、村雨は、真上から覗きこむ。

「前の時はさ、楽しいかどうかは別として……ん、すっきりとはした、と思う。悪くない気分で眠れたかな。でも、今日は――仕事は成功したけど、多分、すっごい嫌な気分で寝ると思う。
 あなたはどうなの、おじさん。人間のくせに、弱い人間を殺す様な仕事を……人間に命令されて、終わらせて、楽しい?」

「……いーや、全然だな」

 儀兵衛は目を閉じ、首を左右に振る。後頭部が石畳に擦れ、じゃりじゃりと音を立てる。

「私はさ、人間が羨ましいんだよ。人間は優しいし、力が弱くても強い……自分の命より他人を大事に出来る、凄い生き物だもん。なのにさ、なんで同じ人間が……全く正反対の事をするの? 何処かの誰かの為に、別な誰かを――」

 問いに横から答えようと、桜が一歩だけ歩み寄る。何も言えず、結局は引き下がった。問われた儀兵衛は、深く長く息を吐き出し、

「……だなぁ。人間ってのはいいもんだが、ひでぇなぁ……ごめんな」

 心から詫びて、立ち上がり、足を引きずる様にして歩き始める。桜も左馬も、儀兵衛を追おうとはしない。仕事に疲れた中年男は、日の出まで散歩をしていこうと決めていた。
 村雨もまた、この場に留まりたくないのだろうか、桜を置いて走り始める。方角は、二人が借りている宿と合致している。鍵は村雨が持っている、問題は有るまいと思ったか、桜は敢えて、こちらも追わずに置いた。

「変わった物言いをするね、彼女。あの男の受け答えも妙だけど、うん……もしかすると、桜」

 重く沈んだ空気の中、左馬の気取り澄ました声だけは、雰囲気に飲まれず常の様に響く。訝しげな表情で、左馬は首を傾げ、走り去る村雨の背を見ていた。

「ああ、お前の想像通り。全うな人間ではないさ、あれは。人狼の娘だ」

 身体能力、知覚能力、そして口ぶり。判断要素は十分すぎる。友人を誤魔化し通せるとも思わず、桜は、言外の問いに肯定の意を示した。
 左馬は、一度完全に表情を消し、目をくうと細める。そして、桜を横目に、歩幅も広く、足音荒く歩き、

「なんだ、半獣か」

 呪詛の如き語気で吐き捨て、姿を消した。

「……変わらんな、お前は。全く変わらんよ」

 諦念も露わに、桜は溜息を付く。黒太刀を蝶番式の鞘に納め、余熱も過ぎ去った小屋の跡で、夜明けを待つ事に決めた。








「――以上、私が見たのはこれで全部。報告を終了します」

「お疲れさま、村雨ちゃん。ほんに良くやってくれたねぇ」

 翌日の日中。皇国首都ホテル三階、『錆釘』事務所最奥の部屋。村雨は堀川卿に、今回の任務の報告を行っていた。左馬はいない、音沙汰無しだ。恐らく呼んでも来るまいと、桜が強く断言したので、村雨は連れてくる事を諦めた。

「まずはお医者様やねぇ、火傷に矢傷、餓え、乾き……弱っとるもの、話もよう聞けへん。ゆっくり休ませて、それから尋も――質問せんとあかんね」

 相変わらず堀川卿は、怠惰な姿勢で村雨を出迎えた。床へ直接敷かれた布団にうつ伏せて、枕に顎を乗せ、顔だけ村雨へ向けている。平均四丈の金髪は、彼女の頭から足先までを、数往復して覆っていた。

「尋問は……どうかと思うんですけど」

 自分の頭髪に埋もれて物騒な発言をする堀川卿に、眉根を顰めて村雨は異議を唱える。

「ごめんごめん、失言や。いっつも言い慣れてるからつい、なぁ。うちも鬼やないんやから……」

「…………ですか?」

 信用できぬという思いが、村雨の表情にはありありと浮かんでいる。
 自分の上司、身内の立場とは言え――冷徹に外敵を処分し、末端の人間を駒として扱う人間。村雨から見た堀川卿は、そういう存在であった。そして、今の村雨は――少々、指導者的存在に不信感を抱き始めていた。
 理由はやはり、昨夜の一件。使役される人間が、何処まで尊厳を奪われ、意思を貶められるかを目の当たりにしたからだ。
 遊女達も、兵士達も、決して他人に羨まれる様な境遇ではなかった。だが、他に選ぶ道などはなく――そして、選べているただ一つの道は、他人に与えられたもの。道を選べるならば、決して選択などしないだろう悲惨を味わっていた。
 堀川卿――この女もまた、そういう人間を作っているのかも知れない。もしかしたら自分も、そういう立場に堕とされるかも知れない。疑心暗鬼でしかないが、昨日の今日で頭の冷えていない村雨には、深刻な問題である。

「話を聞いた後は……?」

「んー、どういう質問やろねぇ。どうする、って事なら……まあ、特に何もせえへんよ。普通に食事をさせて、普通に医者に見せて、適当な着替えくらいはやって、普通に帰す。口止めする事も無いやろうしなぁ」

「帰した、その後は?」

 数拍、沈黙が続く。堀川卿は気だるげに、のそりと体を起こし布団の上に座った。

「何も出来へんよ。あれは皆、自分の考えで働いとった。全員が拝柱教の為に、自分の意思で身を売っとったんや。地下に閉じ込められて干されて、火を掛けられてもそれは変わらへん。帰せばその足で、拝柱教の教会に掛け込むやろ」

「それじゃ、あの人達はまた……!」

 今日、死なずに済んだ、それは確かだ。だが、明日生きている保証は無い。何の為に助けたのか、それでは分からなくなってしまう。村雨は抗議の意を込めて、掴みかからんばかりの勢いで堀川卿に近付いた。近づいて、初めて――

「なあ、村雨ちゃん。どうしたらええのんかなぁ?」

 堀川卿の目の下に、隈が出来ているのが、村雨にもはっきりと分かった。

「あの子達はな、騙されとるかも知れん、馬鹿かも知れん。けどなぁ、間違いなく幸せだったんよ。あのまま焼け死んでても、あの子達は幸せに死ねてた筈なんよ……盲信とはそういうもんや。拝柱教の不利になる事を、あの子達は絶対に口にせえへんやろ。
 けどなぁ、喋るまで逃がさん言うて閉じ込めて、食事の保証だけして閉じ込めて……そんな酷いやり方でも、あの子達を生かしとく事は出来る。例えば腕も足も無いまま、例えば目が見えんまま、例えば子供程度の知恵しかないまま、例えば顔が半分崩れたまま――自分で自分を養わせず、一方的に与えて生かしとく事は出来る。家畜の様に、なぁ」

 金髪の束の中から腕が伸びてくる。紺の襦袢の内側で、堀川卿の腕は白く細く、遊女達と同様にか弱げであった。近づかれ、警戒し、身構える村雨――その肩を、堀川卿はそっと抱き寄せた。

「……左馬さんが来とらんなぁ。無理も無いわ、あの人は亜人嫌いやもの……この国の人らしく、な」

 村雨の耳元に、辛うじて聞き取れる程度の声で、堀川卿は語りかける。村雨は身を強張らせ、爪が白くなる程強く手を握り締めた。

「『錆釘』に加入した時、黙っとったやろ。仕方ないわ、この国なら仕方あらへん。不幸な歴史が長すぎた、一朝一夕に人の心は変わらへん……だから、その事は責めんよ。責めんけど、そういう立場やからって擦れて欲しくは無い……分かってくれる?」

「……なんで、それを」

 それを知っているのか、と聞きたかったのだろう。村雨の声は、言葉の途中で喉に引っ掛かり、咳払いの音に取って代わられた。

「臭いがな、人と違うもん。部屋に入ってきてすぐ分かったわ――うちと『おんなじ』やって」

 堀川卿の金髪が、村雨の背にまで回り込み、筒状の空間を形成する。その中で初めて、村雨は、この女の全身像を見る事が出来た。背はそう高くもなく、骨格は華奢で、間違いなく身体能力は低い。絞めれば首が折れ、蹴り飛ばせば肋が砕けそうな体の――腰の後ろに、一固まりの毛の束が見えた。頭髪と同じ色だが、それよりも直線的で固い質の毛――人狼の目は、それが狐の尾だと瞬時に見抜いた。

「あの子達の中にも、うちらと同じ……亜人がおった。死ぬ不幸を押しつけるなんてしとうあらへん。けど、ただ生きるだけが幸せや無い――それも、分かってくれるやろ? せやからもう少し、解決策は待って欲しいんよ。
 どうせ、何も喋らへん。拘留しといても下に申し訳が立つ。後回しにしといて、気が変わってくれるのを待てば……――」

 ふふ、と自嘲する様な響きで笑って、堀川卿は村雨から手を放した。彼女の尾は、頭髪の中に完全に紛れ、外からはまるで見えなくなる。布団の上にうつぶせになると、枕に顔を幾度か擦り付け、それから背をぐうと反らせて伸びをした。

「報酬は表で受け取っておいき、ちょい弾んどいたで。それと、こっちはうちからのご褒美」

 金髪の一部が手の様に動き、紺襦袢の内側から小瓶を引き出し、村雨に差し出す。受け取った村雨は、幾度か鼻を引くつかせ――蓋の隙間から洩れる臭いが、堀川卿の体臭と同じものだと理解する。

「凄いやろ、狼の鼻も誤魔化す香水っちゅうもんや。舶来の貴重品やで」

「……ありがとうございます」

 まだ言葉の歯切れは悪いが、表情の重苦しさは緩んだ。香水の瓶を手に、村雨は軽快に、堀川卿の部屋を後にした。








 神君家康公が将軍職を拝命してより、おおよそ二百年。二条城は、軍事的な意味はさておき、象徴としての側面から、日の本でも指折りの城として扱われてきた。国政を司る者が幕府から朝廷――政府に切り替わった後も、それは同じである。
 西洋の風に毒された街並みに、純国風の城。その地下に、夏の熱気も通さない一室が有った。

「ふと思った事が有るのだ、俺は」

「はい、なんでしょう」

 一人の男が脇息に寄りかかり、畳の上で膝を崩していた。髭に白いものは混じっているが、顔の皺は少ない。四十にはまだ届いていないだろう、気難しげな顔の男だ。脇に正座している己の部下に、男は、顔も向けずに呟いた。

「海の向こうではな、罪人に山羊をけしかけ、足の裏を舐めさせる刑罰が有るのだと。ざらざらの舌が肉を削ぎ落し、やがて骨まで達するというのだ」

「山羊とはなんですか?」

「家畜だ、まずは聞け。それでな、俺は試しに、貿易船に命じて、活きの良い山羊を幾つか仕入れさせた。が、そのねじくれた角の化け物染みた事と言ったら、鬼が仔馬に化けているのかと思ったぞ」

 片手の人差し指を立て、頭の上に突き出させ、おどけた顔をする男。横に控えた彼の部下は、おかしそうな様子は幾らも見せない。

「……笑わんのか」

「ええ。で、その山羊という生き物をどうしたんですか?」

「おう、それよ。一体本当に、舌で舐め続けるだけで肉が落ち、骨まで届くのかと思ってな、適当に罪人を探していた――が、面白くないのだ。足舐めはどうにも晒し物にする刑罰らしくてな、見るのが俺とお前だけでは物足りないだろう?
 そこでだな、やり方を変えてみる事にした。試しに適当な女でも縛りつけて、その股の間を舐めさせてみればどうだろうとな」

 男の部下は、顎に手をやって首を傾げ、瞬きに併せて幾度か頷く。

「それで、どうなりました?」

「どうもこうも、隣の部屋でやっている所だ。昨日までは叫んでいたのだがなぁ」

「ああ、幽霊じゃなくて人間の声だったんですね、この呻き声」

 二人の談笑が途切れた所で、第三者が耳を済ませれば、壁の向こうから苦しげな声が聞こえてきただろう。
 本当は叫んでいるのだ、喉が潰れて音にならないだけだ。もう痛覚も無いかも知れないが、神経を切り刻まれれば、脳より身体が苦痛に狂う。何かを思考する能力は、きっと既に消え失せているだろう。
 男がこの様な趣向を始めたのに、特に理由は無い。敷いて言うならば娯楽を求める感情からであり、そこに僅かに知的好奇心が入り込んだだけだ。だが、好奇心が満たされた男は、もうこの趣向に見切りを付けていた。

「そろそろ飽きてきたんだが、お前、何か良い案は無いか」

「蜂蜜でも飲ませたらどうでしょう。喉は治ると思います」

「首無し死体が擦りむいた膝を洗う様な無意味さだな……いい、一仕事終えてから考えよう。そこの木偶の坊、突っ立っていないで報告をしろ。俺はそこそこ忙しいのだ」

 淡々と言葉を返す男の部下。屋内でも目深に被った鉄兜の下から、聞こえる声は涼しげなもの。先客二名の平常心が堪らず、第三者――青峰あおみね 儀兵衛ぎへえは、嫌悪感を露骨に示した顔だった。
 小屋を、小屋の地下の遊女を焼き払う。難易度は子供のお使い程度、良心の呵責は海に沈むばかり。そんな任を命令したのは、この、嬉々として残酷行為を語る男である。儀兵衛は、自分の任務の主目的が、この男の愉悦を満たす事だったのだと気付いて、今にも男を殴りつけたくてならなかった。

「失敗ですな、俺の部下は全員が殴り倒されました。酷い奴は腕も足も折られて、自力では動けない有り様。医者に掛かる費用を要求します」

 常よりは丁寧に、だが無礼に、儀兵衛は要求された報告を行う。

「わざわざ幕府から借りてきたのだがなぁ。お前、前の任務も失敗しただろう。確か箱根だ、報告書で見た」

「確かにその通り。素人相手だからと聞いて準備してたら、玄人が待っていたんですな。それはどうでもいい、今回の報告でしょう。俺達は人間を相手に、屋内で戦闘する為の部隊です。屋外の夜間、しかも化け物相手なんざ想定に無い」

「想定に無かろうが、俺はお前達の腕を買ったのだ。期待したくじが外れた俺の気持ちが分かるか? いや待て、賭け事を語るのはさておいて――」

 男は、脇息を片手で弾き飛ばすと、胡坐を組み、膝の上に肘を乗せた。日光に当たらない白い顔が、怒りか好奇か、ほんのりと赤くなる。

「――化け物とは、なんだ?」

 儀兵衛は、問いを鼻で笑い飛ばす。
 仮に儀兵衛が本音を述べるならば、化け物はお前だと言い切っただろう。俺もお前も化け物だ、人間殺して飯を食う。法に則った処罰ではなく、個人の利害の為に力を振るい、弱者を徹底的に叩き、殺す。化け物に負けたのではない。化け物が、人間に負けたのだ、と。
 だが然し、儀兵衛はこうも思った。俺達が化け物であろうと、あれを素直に人間と呼ぶには、どうにも恐ろしさが勝り過ぎる。それに、些かに敬意が薄い。正当性の無い暴力を、例え暴力という形ではあれど阻止したあれ達には――あの少女には――相応の畏怖を纏わせてやりたい。

「獣が一匹に、鳥ですな」

「うん?」

 儀兵衛は、己の例えが己でおかしくなり、ははと声を上げて笑った。

「かたや山の主、化け狼だ。猪も熊も食い殺す、あれでは俺達もどうにもなりません。無道に腹を立てて降りてきたのやら、見たら伏し拝んでから逃げるべきでしょうな」

 ああも人に化けるからには、その本質も予測が付く。少なくとも儀兵衛ならば、灰色の少女の本性を、十分に推測する事が出来た。残酷、残虐な獣と聞き、思い込んでいたが――とんでもない、目の前にいる男の方がよほど亜人より残酷で醜い。この男の命令で働く、それが途端に馬鹿馬鹿しく思えた。

「かたや黒羽くろばの八咫烏。夜では姿も見えないが、そこは太陽の鳥、近づけば焼け死ぬ様な熱さがある。あれが脚を振りあげたら、俺など本当は容易く輪切りだったでしょうよ」

 黒衣、黒髪が翻り、翼と見紛う艶姿。正直、刃を向けられていなければ見惚れるところだ。そして、向けられた刀身までが黒。両の脚と黒の刀身、合わせて三本、あれは正しく黒八咫だった。巨大な、一羽の烏であった。

「……はぁ。お前、使える様で使えんな。給料は払うから休暇を取れ、下がれ」

 男は事務的に――そして、趣味に似合わず寛容に、儀兵衛へ命令する。言葉が終わる前に儀兵衛は踵を返し、職を辞す事を真剣に考え始めていた。








「どうするね、どうするよ」

「あの兵隊の事ですか、和敬かずたか様?」

「いいや、青峰儀兵衛はもうどうでもいいのだ。汚い仕事は出来なくなったかも知れんが、代わりにあれは扱いやすくなった。大義名分さえ与えてやれば、自分も部下も全て死ぬまで、その任務に食いつくだろうよ。全く痩せ犬は分かりやすく愚劣、愚直だ」

 和敬と呼ばれた男は、半開きの襖を見ながら、無礼を振りまいて立ち去った儀兵衛を評した。全く静かに、平常平静の感情を保った声である。

「が、『錆釘』まで正義面をし始めるとは、正直さっぱり読めなかったのだ。穢れ仕事では飽きたか、金髪毛虫の堀川めが。あの総髪丸刈りにして床の敷き物にしてくれようか」

「それ良いですね、できたら私に下さいよ」

「やらんわ阿呆、俺が使う」

 鉄兜を和敬が殴りつけ――ごぉんと快音鳴り響いた後、痛みに蹲るのは和敬である。

「くぉお、おぉ……おお……」

「……当然の結果ですよね。で、どうしましょうか。狼と烏と、でしたね?」

「そう、それだよそれ」

 話題が戻ってくるや、和敬はすうと立ち上がる。

「実はな、『錆釘』が動かん確証を取れていれば、明日から〝あれ〟を始めるつもりだったのだ。現在の洛中の様子を見るに、三月と掛からずに全てが終わる、そう読んでいたのだが……」

「一頭と一羽、少なくとも何れかは……『錆釘』の手の者でしょう。間者を潜り込ませていましたが、焼けた木片を取り払って遊女達を回収したのは、確実に『錆釘』の構成員でした――報告書の通りに。
 ……どうするんです、青峰旗下三十名より有能な部隊がいましたか?」

「うーむ、それだなぁ。どうしたものかね、どうするよ」

 軽く晴れた拳をふぅふぅと吹きながら、和敬は部屋の中を歩き回った。表情は抜け落ち、目は焦点を定めず――思考に没頭する人間の顔である。

「……良し、まずは隣室のあれ、飽きたから移動するか」

「どれですか? 五人くらい横並びになってましたが」

「あれだ、あれ。あの葉隠はかげとかいう足抜け遊女。夏の盛りに五人部屋は暑かろう、涼しい部屋へ移動してやれ」

 涼しい、な。重ねてもう一度繰り返し、何か訴える様な目で、和敬は自分の部下を見た。彼の優秀な部下は主の意を察し、

「了解しました、水牢に移しておきます」

「氷室の氷も使っていいぞ、存分にな――ああ待て待て、まだ動くな早い、話を聞け」

「ぅおうっ」

 早々に仕事を済ませようとして、肩を和敬に掴まれ、がくんと首を前後に揺らした。

「っく、首が……!」

「俺はな、邪魔をされたくないのだ。拝柱教の聖女殿は良い人だ、だがやり方が悪い。根っこを見つけられたのだから、何処へ蔓を伸ばしても見つかるだろうよ」

「……命令を下す大元が、拝柱教だと知られた。そうなれば、こちらの目的もやがて露見する、と?」

「その通り、故に俺は開き直ろうと思う」

 ようやく、和敬は笑った。残酷な人間性を示す様に、嫌な笑みだった。

「〝射手〟を呼べ。〝的〟は『錆釘』の構成員を無差別に五人。死んだ事を確認したら、書状を添えてどこかに捨てておけ。内容は、そうだな……『烏と狼の番いに面会を所望、十日にあの小屋の前で待つ』。これを『錆釘』の換字暗号で書け」

「暗号表を用意するのに二日掛かります、死体が腐りますけど」

「別に俺が運ぶ訳じゃない――じゃなくてな、腐ってるぐらいのが良いだろう、悲惨で」

 そう言うと和敬は、部屋の文箱から、舶来のインクなる物を取り出し、白い紙に向かい合う。命令をこなす為に、彼の部下は、部屋の襖に手を掛ける。

「ああそうだ、もう一つ注文があるのだった」

「はい?」

 呼び止められて振り向いた部下に、和敬は、またニタニタと笑みを浮かべて見せる。

「水牢な、うっかり沈んでしまわん様に、塩をたっぷりと入れておけ」

「勿体無いから一袋だけにしますね」

 分かってるじゃないか、立ち去る部下の背にそう言って、羽ペンを紙に走らせる。
 狭霧さぎり 兵部和敬ひょうぶのかずたか。皇国首都の軍事を預かる男は、きっと政府の誰よりも腹の腐った、純なる外道に違いなかった。