烏が鳴くから
帰りましょ

最後の戦のお話

 二条城――日の本政府の主城にして、今は狭霧和敬を首魁とする反乱軍が立てこもる城である。
 実の所、この城、決して難攻不落の城などではない。むしろ防衛力を見るのなら、容易に落とし得る部類に入る。
 大外を囲む石垣にさしたる高さは無く、そも市中に有るが為、四方の一つとて、天険の守りが無い。
 とは言え、城は城。
 力に任せて攻め立てるなら、必ずや攻め手は手痛い反撃を被るのだが、然し『新たな戦の形』は、古の築城主達には思いもよらぬ姿であった。

「いやっはーい! 直撃ぃ! 流石に私、計算に一つの狂いも無ーし!」

 二条城、東大手門より数十間ばかり下がった箇所、杉根智江は己の算術達者を我褒めしていた。
 彼女は元来、生物の体を弄り回す邪法の医師であるが、頭脳の明晰なる事は際立っている。為に、巨砲〝揺鬼火〟の制御を命じられたのである。
 鹵獲され、二条城攻略の為に運ばれた〝揺鬼火〟。
 比叡山城の城壁を容易く打ち砕いた砲が、このたび狙いを定めたのは、まさに東大手門であった。
 遥か遠方より飛来させた砲弾を、極限まで地上と平行になるよう、門扉へ叩き込む。熟練の砲手にさえ難行といえるこの技を、智江は見事にやってのけたのである。
 そして、その威力たるや、凄絶の一言に尽きる。
 門を貫いた砲弾は、その後方に待機していた二条城内の兵達の中に飛び込み、何十人かを薙ぎ倒した挙句、地面に触れて跳弾した。跳ね狂った砲弾が更に、二の丸を覆う石垣まで破砕する程の衝撃であった。

「んー、こいつがあればねえ! 桜さんにぶつけたら勝てたろうになぁ、ちきしょう悔しーっ!」

 貸与された兵器とは言え、自分の指示で巨大な力を振るう事は、この狂人にはすこぶる愉快な仕事であるらしい。ぴょんぴょんと飛び跳ね、拳をぐんと突き上げている。
 その眼前で、先陣を務める『錆釘』の精兵達が、城内へと雪崩れ込んで行く。一人一人が、並の兵とは比べものにならぬ速度の、雑多な服装の群れ――

「……おっ。ありゃ、ありゃ、ありゃりゃ」

 その中に智江は、見憶えの有る顔を発見した。
 かつて一度は捕らえ、実験体として用いようと企んでいた、人間と亜人の混血児。遠目に見ても、彼の長身と、肌を僅かにも晒さぬ外套姿は目立つものであった。

「……ラッキー」

 智江は、見た目には武器を何も持たぬまま、『錆釘』を追って走る。
 何処まで行ってもこの女は、結局、知的好奇心で生きている。

「ちょ……ちょっと、何処へ行くんで――」

「物見遊山へ! 砲撃は先の指示通り、完全に角度を合わせて行うように、オーケイ!?」

 呼び止めた兵士に目もくれず、狂才の魔術師は、喜々として戦場に身を投じた。








 城内へ流れ込んだ『錆釘』の軍勢は、二手に分かれて、本丸東の櫓門を目指す。
 一隊は、二の丸の中を突っ切るように。
 もう一隊は南側、やや開けた箇所へ迂回して。
 彼等の意気盛んなる事は、闘志天を焦がす程である。
 然し、迎え撃つ軍勢とて――士気の高さは互角以上。〝大聖女〟エリザベートへの狂信に支えられた、拝柱教の信者達である。
 武装信者およそ千五百は、二の丸に五百、南側の広い通路に三百と、それから本丸に七百、分けて置かれていた。
 そして、南側より攻め上がる『錆釘』百五十名の中に、葛桐が居た。

 ――こいつら、捨て兵か。

 最前線の、最前列。最初の敵との接触で、忽ちに敵兵二人の首をへし折りながら、野生の嗅覚を働かせ、葛桐は値踏みしていたのである。
 隘路にて正面からの衝突は、数の不利など有って無きが如し。『錆釘』の面々は、敵兵の屍を次々に踏み越え、狂信者の軍を押し込んで行く。
 脆い。
 戦いを生業にする者と、祈りによって生きる者と、同じ生物で、こうも力が違うものであろうか。『錆釘』の戦士達は、忽ちに敵の陣を、十数間も後方へ押し込んだ。
 部隊の先頭、葛桐は、当たる者を悉く薙ぎ倒さんばかりの勢いで暴れ狂う。
 凍土を掘り返す強靭な指が、敵兵の腕を掴み引き寄せ――羆の骨さえ噛み砕く顎で、首を噛み、圧し折る。そして、瀕死に追いやった獲物の死を見届けぬまま、次へと飛びかかるのだ。
 群れと群れの戦いならば、瀕死の獲物は、後ろに続く味方に任せて良い。葛桐は口元を真っ赤に染め、次、その次と噛み殺し続けた。

 ――楽な戦だ。 

 呆気無くも死んで行く彼等に、葛桐は、情を抱かなかった。そして、引きずり倒した敵兵の頭蓋を踏み砕きながら、先へ先へと進んでいこうとした。
 その脚が、後方から掴まれる。

「――っ!」

 たった今、踏み殺した筈の敵兵士が、頭蓋を復元しながら起き上がり、葛桐を捕らえたのだ。
 咄嗟に葛桐は、敵の兵士の髪を指に引っ掛けると、ぶんと振り回し、前方の敵の群れへ投げ込んだ。
 同じような事が、『錆釘』の面々の後方でも起こっていた。彼等が撃破し打ち捨てた屍が、次々と起き上がり、交戦中の『錆釘』部隊の背後へ食らい付いたのである。
 葛桐が見抜いたように、彼等は命を捨てていた――ただし、四つの命の内、一つだけを。死に、捨て置かれる事が狙いだったからこそ、彼等は容易く死んだのだ。
 三百の捨て兵は今、『錆釘』部隊を前後から挟み撃ちにし、遮二無二攻め立てていた。
 彼等は死を恐れない。
 心臓を狙う刃をさえ、避けない。
 その身で刃を食い止め、腹を貫かれながらも掴みかかり――そうして止めた獲物を、味方ごと、斬る。斬られた者は、また立ち上がって敵に飛び掛かる。
 それはまさに、常軌を逸した戦いであった。
 『錆釘』の猛者達さえが、殺しても死なぬ敵に怯えを抱いた。
 いいや、殺せる。三度まで起き上がるとしても、四度目で、確かに殺せるのだ。だが、例え荒事に慣れた『錆釘』の面々とて、同じ人間を二度以上殺した経験を持つものなど居なかった。
 次第に『錆釘』が押され始めた。
 怒声が悲鳴に代わり、負傷者が増え――死ぬ者が出始める。死から還った敵兵の壁で、後退さえ許されない。前後それぞれを自分達と同数――命の数はその四倍の兵に挟まれた以上、戦の常道に照らすなら、彼等の全滅は必然である。
 だが。
 かの堀川卿が太鼓判を押した『錆釘』の精鋭は、常道を歩まぬ者達であった。

「……皆さん、どうして喜ばないんでしょう。一人を四回も殺せる機会なんて滅多にありませんよ! 皆が殺さないなら、私が独り占めしますけど宜しいですか!?」

 この地獄に喜々として、味方を押しのけ、最前列へと進みでる女が居た。〝十連鎌の離堂丸〟――変人揃いの『錆釘』に在って、更に名高き狂人である。
 気性を端的に表すなら、狭霧和敬などと同様の、人殺しを好む性質。但しこの女の場合、必ず自分の手で死なせてこそと、些か拘りが有る。
 返り血で顔を朱に染めたまま、得物を縦横無尽に振り回し、立つ敵は斬り伏せ、倒れた敵は立つのを待ってまた斬り殺し、離堂丸は、幸福の絶頂が延々と続く戦場を堪能していた。
 異常の戦地に在っても、尚、この狂気は異質である。敵も味方も、敢えて離堂丸に近づこうというものは無く、離堂丸が一度踏み込めば、敵兵の先頭が、先へ進む事に二の足を踏んだ。

「……独り占めは困る、金が入らねぇ」

 そうして、押し寄せる敵兵の波が止まるや否や、次は葛桐が、咆哮と共に敵陣の中央へと飛び込んで行く。
 敵兵に怯えは無い。だが、葛桐とて、僅かにも敵の刃を恐れていない。この男の目に、敵の首級は全て、山積みにされた財貨に見えている。

 ――悪くねえ場所だ。

 無造作に敵兵の首を噛み千切りながら、葛桐は笑っていた。
 葛桐は、戦が好きになり始めていた。
 獣の性を剥き出しにし、人間を蹂躙しながら、咎めだてをされる事も、蔑まれる事も無い。誰に憚る事も無く使える、金がたんまりと手に入る。
 金は、力だ。
 どんなに蔑んだ目をする人間だろうが――いや寧ろそういう人間こそ、顔の前に銭を積み上げて見せれば、忽ちに掌を返す。だから葛桐は、貪欲に蓄財を続けている。

「があああああぁぁあぁぁぁっ!!!」

 眼前に迫る敵の、手首に噛み付き、吠える。牙を骨まで喰い込ませ、強靭な顎と首の力を用い、その敵兵を振り回した。
 人間一個の重量が、まるで旗竿の如く振り回され、迫り寄る敵兵を打ちのめし、叩き潰す。
 次第に、立つ敵の数が少なくなり始めた。三度まで殺され、それでも立ち上がった敵兵が、四度目の死を得て、完全に動かなくなったのだ。対する『錆釘』の面々は、死者も幾らか出たとは言え、未だに意気軒昂の者が多い。
 寧ろ、そればかりか――

「ねえ、そこの貴方!」

 もはや衣服に、返り血を浴びぬ部位が無い程も赤黒く染まった離堂丸が、妙にふくれっつらをして、葛桐に呼び掛けた。

「……あ?」

 敵兵の喉仏を爪で引き千切りながら、葛桐は離堂丸の方へと顔を向け――面倒臭そうに、また直ぐ顔を正面へ向け直した。

「あんまり殺しすぎないでください、私の分が足りなくなります」

「……俺の金だ、お前が取るな」

「別にお金はどうでもいいんです、首です!」

 噛み合わぬ会話の合間合間、二人は次々に敵兵を仕留めて行く。敵兵の後方の集団は、明らかに浮足立ち始め――遂に幾人もが、『錆釘』に背を向けて逃亡を始めた。
 すると、即座に離堂丸は、それを追い掛けて行こうとするのだ。

「ああ、ほら、逃げてしまう……! 勿体無い、勿体無いぃ!」

「おい、こら! 俺の獲物だ、俺の金だ!」

 咄嗟に葛桐も、隊列を抜け出し、逃げた兵達を追い始めた。
 それから――自分の行動を顧みて、思わず己を、鼻で笑った。

 ――無駄な事をしてやがる。

 本当に、金が欲しいだけなら、味方の中に混ざって安全に、確実に敵を殺し、耳でも鼻でも集めて持ちかえれば良い。
 比叡山攻めではそうしていた。着実に、自分は傷付かぬよう、金を稼ぐためだけに戦っていた筈だ。
 だのに、今の葛桐はそうしない。敵を仕留めれば亡骸を打ち捨て、次、また次と襲い掛かり――挙句に味方を置き去りにして、狂人を追い掛け、どんな罠が待つかも知れぬ城の奥へと向かって行く。

 ――そうだ、金は欲しい。

 その思いに、偽りは無い。

 ――だが、この場所が嬉しい。

 自覚した葛桐は、外套を脱ぎ捨て、鍔広の帽子を払落し、獣性を剥き出しにした姿で突き進んだ。
 思い出すのは、もう半年も前の、とある宿の出来事。
 自分と似た境遇の少女が居て、少しばかり語りあった。
 その少女は、自分自身があまり好きでないのだなと、なんとなく感じた事を葛桐は覚えている。
 自分より大事な物など無いと考えていた葛桐とは、或る種、対極にある考え方だとも――獣として生きるには、命取りの考え方だとも。
 けれども、その少女は、自分がとうに無くしたようなものを、後生大事に抱えて生きていた。
 躊躇い、迷い、自分が損をすると知りながら他人に尽くしてしまう、甘さ。
 そういう生き物は、眩い。
 だから、同じ所で働かないかと誘われた時、あっさりと応じたのだ。

 ――良い群れだ。

 単純な善悪、道徳の判断に照らせば、『錆釘』は正しいものか、そうでないのか――葛桐には答えが見つけられない。
 だが、『錆釘』は〝異質〟が集まった群れである。
 まともに生きられない者が居る。武に命を捧げた者が居る。金だけを求める者が居る。人殺しが居る。亜人が居る。

 ――俺は、このままでいい。

 その全てが、肯定されて、此処に居る。
 金に汚く、口が悪く、面倒な仕事に毒づき、割の良い仕事に嬉々として応じる、そんな生き物でいい。
 やがて、三百の敵兵を壊滅させた時、『錆釘』の分隊百五十名は、その一割を失いながらも、士気は頂点から揺らぎもせぬままであった。








 同時刻、二の丸御殿に向かったもう百五十名は、やはり死なぬ兵に困惑を見せながらも、順調に敵軍を押し込んでいた。
 元より、戦に向かぬ城。更に拝柱教の信者兵は、個々の力はさておき、城を守るような戦の経験は無い。単純な兵数で劣る『錆釘』の分隊は、地形を存分に用い、三倍以上の敵兵を翻弄していた。
 『錆釘』の兵に、正規の装備という概念は無い。各々が、己の力を最大限に発揮する装備を選ぶ。
 その中に在って、兜以外の防具も、武器も身に付けぬ男が居た。
 片谷木 遼道――破鋼道場という道場の主であり、格闘家である。戦場に在ってこの男は、己の拳一つで、敵兵を破砕していた。

「……しぶといな」

 敵兵の頭蓋を拳で陥没させながら、片谷木はひとりごちた。この男とて流石に、同じ人間の頭を、四度も潰すという経験は初めてであったのだ。

「だが、脆い!」

 その片谷木から数間離れた所には、松風 左馬が、鋼造りの六尺棒を振り回して敵兵を打ちのめしていた。
 左馬の言うように、立ち塞がる敵の技量の程は、この二人にしてみれば、まるで取るに足りないものである。
 開戦から、片谷木が殴り殺した敵兵は、既に二十以上。左馬は長物を振り回しているのでもう少し多く、三十を幾らか過ぎる程――実際にはその数を、四度ずつ死なせている。この二人だけで、二の丸に陣取った敵兵の一割を仕留めているのだ。

「……然し、片谷木よ」

「なんだ?」

「お前が此処に来ようとは思わなかったよ」

 ふむ、と片谷木は受け答えながら、切り掛かってきた敵兵を手繰り寄せ、鎧の上から胸骨が陥没する程に殴り付けた。
 片谷木は、左馬などとはまた別種の自由人である――加えて、集団に混ざる事を好まない。比叡山城の攻城戦にも、幾度も参戦を求められながら、結局は一度も加わらなかった男だ。
 それが、まさか軍勢の先頭に立ち、自ら率先して敵兵を打ち殺して行くとは――これまでの彼の信条には、似つかわしく無い姿であった。

「どうも、欲が出た」

「ほう……」

 遠方から矢が飛来する。それを片谷木は、拳を振るい迎撃する。
 鏃と拳が衝突し、砕けるのは鏃。片谷木の拳には、傷一つ付かない。

「負け知らずを自負していたが、お前に負け、お前の弟子にまで負けた。私は本当に強いのかどうか、自分でも分からなくなってな、試してみようと思った」

「……それだけの理由で、その暴れっぷりかい」

「まだ足りない。現状、この兵達の鍛錬が足りぬ事が分かっただけだ」

 味方の兵が勢い付いて、敵兵を追い散らしながら、二の丸御殿へと雪崩れ込んで行く。
 五百も居た敵兵は、もう半分以下に数を減らし、御殿の中で防衛線を張っているが、さしたる労力も無く破り得るだろう。
 二人は、早くも今の戦に飽き始め、三間の距離を置いて正対した。

「……片谷木、そんな魅力的な顔をしてくれるな。濡れて来そうだ」

「お前こそ、恐ろしい顔をする」

 結局、この〝強さ〟に狂った二人は、尋常の敵では満ち足りぬのだ。互いが同時に一歩、間合いを詰め、そして今一歩――

「――っ!?」

 その時、二条城が揺れた。
 地に根を張った武道家の脚さえ揺るがさんばかり、縦に振り回すかの如く、揺れた。
 地震か――いや、二の丸が爆ぜたのだ。
 業火が幾本も柱となって立ち上がり、壁も屋根も、豪奢の限りを尽くした二の丸御殿を吹き飛ばし、暴音と黒煙を撒き散らしたのである。
 何が起こった。
 問うまでも無い。狭霧和敬が好みとする、爆薬である。
 大量の爆薬を、二条城二の丸御殿に伏せ、或いは地に埋め、敵兵が雪崩れ込んだ折りを見計らい、味方ごと吹き飛ばしたのだ。
 爆風の余波を受け、左馬と片谷木も地を転げ、五間も離れたところでようやく立ち上がり、

「な――何が有ったぁ!?」

 動転しながらも、即座に戦いに備え、身構えた。
 そして、二人が見たものは、この戦に於いても際立って悍ましいもの。
 焼け爛れ、手足を吹き飛ばされた拝柱教の信者達が、死の苦痛に呻きながらも己の身を再生させ、亡者の如く集い来る姿であった。

「……おぉ」

 戦場を、己の腕を確認する場と定めていた片谷木さえが目の色を変える。
 その声は、驚愕であったか、或いは歓喜であったか。
 〝無傷の二人〟に対し、〝一度死んだ兵士二百〟は、足並みも揃わぬままでにじり寄った。








「三鬼殿! 東より黒煙、兵部卿の策が成ったかと!」

「……うむ。ならば進撃、敵が二の丸御殿――跡地に集い次第、我らが槍で纏めて薙ぎ払う」

「はっ!!」

 波之大江 三鬼率いる〝白槍隊〟は、本丸東門の前に陣取っていた。
 その兵数、僅かに百。
 更に後方には、拝柱教武装信者が七百控えているが、合わせたとて寡兵であった。
 然も、この寡兵は、自由に動かせぬ兵である。
 『錆釘』の先陣が東より攻め入って来ているが、そちらに全戦力をぶつけては、残り三方からの政府軍に対処出来ない。結局、百の兵の他、東より攻め来る敵に当てられる兵は居なかった。

 ――これを敗戦と呼ばずして、何と呼ぶ。

 忸怩たる思いを噛み殺し、三鬼は白槍隊の先頭に、長柄の大鉞を手に立った。
 並び立てる者は居ない。皆、三鬼の背を追うばかりの、精鋭とは言え一兵卒である。

 ――小粒になったものだ。

 言葉にせぬ嘆きであったが、仮に口にしたとて、今の白槍隊に三鬼の思いを汲み取る者は居なかったであろう。
 つい昨夜まで、三鬼の横には、八重垣という若い将が立っていた。多少、血気にはやる悪癖は有ったが、武芸に優れ、三鬼が不得手の知恵働きも良くこなす男であった。
 だが、死んだ。狭霧和敬の気紛れに、首を挽き斬られたのだ。
 八重垣程には賢くないが、狩野という男も腕利きで、何よりも心根の強い男だった。無類の明るさと、こうと決めたら押し通す意地を持った、真っ直ぐな男であった。
 それも死んだ。酒宴の戯れに殺された。
 そして、つい半年も前までは、狭霧 紅野が、三鬼の副官であった。傑物の父に良く似て、武・知の何れも優れた女傑であった。
 その紅野は、民兵を率いて比叡山に立て篭もった挙句、今は捕らえられて、二条城の本丸に在る。
 優れたつわものを幾人も失って、小粒の兵ばかりが残ってしまった。それを三鬼は、己の咎として嘆いていた。
 これが、かつては洛中の最精鋭として名を轟かせた白槍隊の姿か。果たして何処で間違い、こうまで堕ちたのか――

 ――否。間違いなど、無い。

 波之大江 三鬼はこの窮地に在っても、狭霧和敬を主君と定めたことを、過ちだとは思っていない。

 ――ひとえに拙者の力が足りぬ故。








 かつて、荒々しい鬼が居た。
 山を寝床に、野山を裸足で駆け、巨木を根こそぎ引き抜いて振り回し獣を狩る、巨躯の鬼である。
 言葉は知っているし、読み書きも出来る。親に教えられたからである。
 だがこの鬼は、人の世界に踏み入ることの出来る資質を持ちながら、人と交わらずに生きていた。
 身の丈、一丈二尺八寸――座して尚、並の男よりも高い、小山の如き体躯が故であった。
 この体では、何処に在ろうと目立つ。人の街になど降りようものなら、目を引くでは済まない。
 然しこの鬼は、さしたる野心も無いので、山の中で獣のように生きていて、不足に思うことが無かった。
 己は強い、それだけで良かった。
 恐らく、周辺の山の全ての獣より強いことを知っていて、それで満ち足りていたのだ。

「強いなど、たかが〝そんなもの〟だ」

 その価値観を打ち崩したが、狭霧和敬であった。
 手勢を率いて、三鬼の住む山へ踏み込んだ和敬は、一昼夜の内に三鬼を捕縛したのである。
 数百の兵士が放った鉄鎖に絡め取られ、数十の銃口を突きつけられた三鬼へ、和敬は、路端の石へ向けるような目を見せた。

「お前一人がどれ程に強かろうが、俺にとっては取るに足りん雑事に過ぎん。力のほんの一端を振りかざせば、こうして容易く捕らえてしまえるのだ、馬鹿が」

「………………」

 何も答えず、巨大な目玉を爛々と光らせる三鬼の正面に、和敬は胡座を掻き、興味の薄そうな顔を変えぬままで続ける。

「俺は、お前などどうでもいい。だが、お前の力は役に立つ……俺が持てばな。お前の足りぬ頭に任せておいては、なんの役にも立たんわ」

「……ならば、何に使うと抜かす!」

 人の言葉を発したは幾月ぶりか――存外に滑らかに、三鬼の喉から言葉は溢れた。

「国を盗る」

 対する狭霧和敬は、あまりにも呆気なく、大それた事を言った。

「国……?」

 国、である。
 どこかの街だとか、城だとかを取るというのではない。
 始め、三鬼は、関の東西であるとか、或いは奥州など、そういう〝国〟を思い描いた。
 それでさえ、山に生きる三鬼からすれば、途方も無く巨大な世界である。

「そうだ。この日の本のみならず、西に進みては五指龍の帝国、北進し凍土を、南進しては天竺、大陸をそのまま西に踏破して大帝国全て、更に西進し新大陸、悉くを俺の遊技場とするのだ」

 だが、狭霧和敬の語る〝国〟とは、そんな小さなものではなかった。
 三鬼は名さえも知らぬ、遠く海の向こうの〝国〟――日の本と比して、遥かに強大な国々を指し、和敬は〝取る〟と言ったのだ。

「強さが自慢なら、俺に従え、鬼」

「……何故!」

「今のお前が弱いからだ。たかが数百の人間に捕らわれる武力など、国どころか、一つの城郭の力にも劣る。たかが一個の動物が、強いと己を誇って小山に踏ん反り返るなど、片腹痛いにも程が有るわ!」

 その時、三鬼は、己の気宇の卑小なるを知った。
 無双のものと自認していた力は、たった数百の兵に捻じ伏せられる程度で――目の前に居る男は、数千万、億の人間を支配しようと企んでいる。
 己とこの男と、何れの力が強いか。間違い無く己である。
 だが、この男の目に映る世界は、己の知るものの数万倍も、数億倍も広いのだ。

「まだお前は、自分が強いつもりで居るか」

「ぬぅ……!」

 そう吐き捨て、立ち去ろうとした狭霧和敬の背を、三鬼は呼び止めた。








 それから、もう何年になるか。
 人の里に下りて、人に従って、三鬼はまるで人のような生き方を始めた。その折に波之大江の姓を、彼を部下に加えた狭霧和敬より、諸将へはったりを利かせる為と与えられた。
 その過程で、自分より力に劣る者とも、対等に接する事の意味を学んだ。
 即ち、敬意である。
 初めの三鬼は、敬意という精神を、弱者を侮らぬ事と解釈していた。そうでは無く、相手をそも弱者と見なさぬ事と解するようになった頃、三鬼は多数の部下を従えた、一端の武将になっていた。
 妻も得た。人間の中でも小柄で、三鬼と並べば、頭が三鬼の太腿の半ばまでも行かぬような、だが物怖じしない女だ。逃げ回る三鬼を女が追いかけ回し、根負けしたような形では有ったが、今では娘に呆れられるような、仲睦まじい夫婦である。
 三鬼は、己が幸せ者である事を、噛み締めながら生きている。
 あの山に籠って獣の如く生きていては、夢に描く事さえ出来なかったものだ。そして、決して手放したくない、かけがえの無いものになった。

 ――日の本は、弱い。

 波之大江 三鬼は、己を含めたこの国を、諸外国と比して、まだ力に劣る存在だと見ている。同時に、日の本に在って国外へ目を向けている者が、決して多くはないとも気付いている。
 狭霧和敬は、その少ない人間の中で、最も力に貪欲で、大きな野心を抱いた男であった。
 この男の下でなら、日の本は負けない――諸外国が刃を向けて来ようとも対抗できる。いや、寧ろ敵国を飲み込み、日の本は更に強大にさえなって行くだろうと信じていた。
 それは或る種、盲目的とさえ言える信頼だ。だが、着実に兵を集め、財貨を蓄え兵器を掻き集める狭霧和敬は、三鬼にとり、巨大な力の象徴――鬼さえ及ばぬ巨大な力の具現であったのだ。

「……我等は兵部卿旗下の最精鋭〝白槍隊〟」

 三鬼は空を睨みながら、誰に聞かせるとも無しに呟いた。

「は……?」

 背後に立つ急ごしらえの副官が、意を理解出来ずに聞き返す。それに、目は空から落とさぬまま、三鬼は答えた。

「我等に負けは無い! 例え最後の一兵まで屍を晒そうと、否、例えこの城さえが賊徒の手に渡ろうと――それは我等の負けでは無い!」

 大鉞を手に、背後を顧みる。
 精兵百名。眼光鋭く、鍛え抜かれた体躯は頑強にして凶暴。而してその力は、無軌道に放たれる類の暴力では無い。
 長槍と打刀、鎧は白備えの伊達姿。戦を前に、僅かにも怖気を滲ませていない。
 三鬼は今再び、己の未熟を知る。
 小粒になったのではない。そう感じる己の器が、小さく押し固められただけなのだ。例え幾度の敗戦を隔てようと、優れた将を失おうと、彼等は過たず精兵であった。

「我等の負けとは――貴公達が、『負けた』と口にした時だ! それ以外、例え戦神の類であろうが、我等を打ち倒す事など出来ぬ!」

 そして、三鬼は戦場へ向かう。白槍隊が、無言のまま、槍を構えて後を行く。
 遂に鬼とその槍が、出し惜しみ無く振るわれる時が来たのだ。








 その時、八島陽一郎は、政府軍の第二波およそ千の内に在って、戦場を見渡していた。
 舶来の単発銃――長銃身の、革命的発明である〝薬莢〟を用いた新式銃を、五丁も背に括り付けて、である。
 彼は『錆釘』の狙撃手であるが、先遣隊三百には加わらず、政府軍の兵士に混ざっていた。刀や槍を手に敵兵と切り結ぶのは不得手であるのだ。

「……おいおいおい、やべーんじゃねーのこれ。やべーんじゃ……?」

 彼の目が見ていたものは、晴れ空にもうもうと立ち上る黒煙であった。
 二の丸が爆ぜ、火の柱が起こった。それを見て、第二波である彼らは、城内の味方の反応を待たず踊り込んだのである。千の兵士が一つ方向へ、ざあと流れて行く。その中から、八島はするりと抜け出し、手近な櫓を探してよじ登った。
 そして目にしたのは、ぽっかりと形を失った二の丸御殿と、寡兵というにも少なすぎる数――ただ二人で、二百の敵兵に囲まれた友軍であった。

「ちぃっ!!」

 構え、撃つ。尋常ならぬ早打ちである。
 遠く、距離にして百間も向こうで、味方の背後を突こうとしていた敵兵が、脳天から血を吹いて倒れ伏し――

「……っ、くそっ! おいおい、撃たれたら死ねよ!!」

 その兵士が、直ぐに立ち上がる。
 二射目より先、友軍二人の片方――岩のような体格をした男、片谷木遼道が、立ち上がった兵の頭を拳で砕いた。
 もう一人、松風 左馬は、鋼の六尺棒を縦横に振るい、攻め寄せる敵兵を打ち倒している。
 既に全軍への通達で、敵兵が、三度までは死しても立ち上がると聞かされている。だが、聞くと見るとでは、やはり衝撃の度合いが違った。
 八島は、人を撃ち殺すのは初めてではないが、引き金を引く度にいつも、言い表せぬ重さを感じる。喉と胸の内側に何かがへばり付き、息を吸い込むのを邪魔するような――それが、無いのだ。
 頭蓋を撃ち抜いてもなお立ち上がる敵兵の、眼球を撃ち貫き、もう一度殺した。それが立ち上がれば、苛立ちに毒づきさえしながら、もう一度、もう一度――。
 八島の技巧は、研ぎ澄まされていた。
 五丁の単発銃を、左手で装填しながら右手で撃つ、曲芸じみたつるべ打ち。両の手に迷いは見受けられない。
 何故ならば――敵を、人だと思えなかったからだ。
 人の皮をかぶりながら、もはや自分達とは違う何かに変わり果てたものを、幾ら殺そうと、心が揺れる事は無い。八島は無心に、あらん限りの技を以て撃ち続けた。

「それにしてもよー、三十や五十ならまだしもよー……!」

 その銃弾は、どれ程の敵兵を葬っただろうか。

「こいつはちいっと多すぎるだろう……!?」

 一つと外さぬ神域の射は、休まず倦まず繰り返されながら――二百――いや、実質的には〝八百〟か。その兵士を殺し尽くすなど、出来よう筈も無かった。
 其処へ――敵軍に数倍する怒声と、地の振動が鳴り響く。城内へ雪崩れ込んだ千の兵士が、ようやっと前線に辿り着いたのだ。
 白昼の高台にて戦を見るのは、八島とて初めてのことであり――その様はあたかも、氾濫した川が堤を押し流すに似ると感じた。
 一人の敵兵に、数人が取り付く。一人が槍を掴み、一人が腕を抑え、更に別な誰かが斬る、或いは突く。
 ささやかな抵抗は意味を為さず、濁流に飲まれるように、敵兵が次々に死んでいく。
 そして――死んだ端から蘇り、一人でも多くを道連れにしようとあがき、また死ぬ。
 あまりに容易く、そして無為に、命が消費されていく戦場であった。
 こうまで敵味方が入り混じれば、八島とて狙撃はままならない。櫓の上で身を伏せ、静かに機を待つ。
 狙うは極上の首。
 鷹の目を細め、敵の顔を見定めていた時、〝それ〟が来た。

「うぉ、っ……!」

 百間を隔ててさえ背筋を凍らせる怖気。白槍隊が、波之大江 三鬼を戦闘に、乱戦の中へと斬り込んだのである。
 真白に染まった一段が、人の群れに割り入った瞬間――ざあぁ、と、赤い霧が吹いた。
 僅か百名の精兵達は、一個の生き物のようであった。
 頭である三鬼が大鉞を振るうに合わせ、残りの胴体が大きく波打ち、波に触れる者を血煙に返す。
 一糸乱れぬ、という表現さえが不足。
 彼等は、布を糸で繋ぎ止めた衣ではなく、それ自体が一枚の布であった。
 旗の如く彼等の陣形は靡き、敵を受け止め、飲み込んでいく。
 その一人一人が、眼光は羅刹、返り血を受けた顔は般若、魔物染みた形相となって、槍を振るいまくった。
 白い旗が靡く。十か二十か、首が空を舞う。
 白い旗が撓む。地に伏す亡骸の上に、新たな屍が積み上げられる。
 白い旗が振るわれる所、政府軍の兵は、風に散らされる綿埃のように死んでいった。

「……んな、馬鹿な……化け物が……」

 魔獣と化した白槍隊に在って、とりわけ波之大江 三鬼は怪物であった。
 三鬼の大鉞は既に、数十の兵士の血を吸い、ぼろ切れのようになった人間の皮膚や肉の断片を、刃の端に幾層も張り付かせている。
 赤黒く染まったそれがぐぉうと振り回されると、人の頭が、まるで卵の殻のように潰れるのだ。
 稀に、大鉞を潜り抜ける者も居た。その兵士の頭を、三鬼が鷲掴みにし、くしゃっと握り潰した。
 手の中に残った死肉と血を、三鬼は音を立てて啜った。それで喉を潤し、また次の兵を――政府軍の第二波は、既にその四割を失いながら、逃げる事もままならず、寡兵に圧倒されていた。

 ――あいつを殺す。

 畑を荒らす猪を狩るように、人里へ降りる熊を撃つように、化け物は討たねばならぬ。怯えるように、心に命じた。
 八島はつるべ打ちを止め、戦場に際立つ巨体へと狙いを付ける。
 縦も横も奥行きも、全てが巨漢の更に倍。狙い撃つには絶好の的――引き金を引いた。
 銃声は戦の怒号に掻き消され、銃弾は瞬時に百間を駆け、過たず波之大江 三鬼の左胸へ――

「取った……!」

 否。
 三鬼は荒れ狂い続けるばかりで、些かも動きは鈍らない。
 銃弾が撃ち抜いた筈の胸は、一滴の血も流さぬままであった。
 何故か――熟練の狩人たる八島は、熊撃ちの折、同じ光景を見て知っていた。
 単純に、銃が弱過ぎるのだ。

「は? おいおい……舶来の最新銃、最新火薬の新式銃弾だぞ……!?」

 それでも、鬼には不足。
 砂粒で人間を殺せないように、八島の銃弾では鬼を殺せない。
 八島が放った銃弾は、三鬼の胸板を貫くどころか、胸の肉にわずかに食い込んだだけで、後は鎧の中に落ちたのである。
 そして――八島は、見た。
 鬼灯の如く丸い三鬼の目が、百間を隔てながら、確かに己を捉えたのを。

 ――ヤバい。

 背筋に走る悪寒が、八島の身を凍てつかせた。
 見立てが甘かった――と言えば、それも嘘ではない。然し油断はしていなかった。持ちうる全ての力を戦場に注いだし、それは自分以外の、全ての兵士も同じである筈だ。
 だが、そんな些細な尽力は、全く無意味であった。
 三鬼は、打ち殺した亡骸から槍を取ると、巨体を三日月のように撓め――
 ぞうっ、
 と、投げた。
 百間の空間を瞬く間に飛び越えた槍は、八島の胸を貫いて尚も飛び、遥か後方の城壁に突き立って、やっと止まった。
 二寸幅の空洞が、八島の胸に開いた。

「か、っ――」

 過たず、致命傷であった。
 肺腑から登る血を吐き出しながら、最期に八島は――

 ――理不尽だろ、あれ。

 音に成らぬ呪詛を残して、櫓の上で息絶えた。








 そうして、地獄が続いた。
 僅か百名の白槍隊は、味方の兵と見事に呼応し、政府軍に対抗した。
 彼等の猛威は、場外の援軍第三波、第四波が雪崩れ込んでも変わらない。最終的に、数十倍に膨れ上がった敵の中を、白槍隊は穿ち続けた。
 その中でも波之大江 三鬼の暴威は、もはや天災に等しかった。
 彼一人で弑した兵士の数は、優に三百を超えている。
 敵も味方も分からぬ程の屍の山を、大跨ぎし、踏み付け、大鉞を振り回す三鬼に、敢えて立ちはだかる者も無い。

「ごぉおおおおぉぉぉ――――……ぉ、ぉ」

 蒸気と紛うばかり、もうもうと白い息を吐く三鬼。口の周りは赤々と血に染まっている。
 飢えを敵兵の屍肉で満たし、渇きを敵兵の血で潤し戦い続けた三鬼は、未だに疲れを見せていない。
 その周囲には、もう、誰も残ってはいなかった。
 信徒兵の二百も、白槍隊の百も、一人残らず死に絶え、ただ一人で戦い続けているのが三鬼であった。

「次は誰だ」

 地を震わす轟音――轟声が響く。三鬼への包囲網が、広く、目も荒く綻んで行く。
 散発的に矢が射かけられ、銃弾が射出されるも、それは三鬼の体を貫く事も出来ず、虚しく落ちるばかりだ。

「来ぬなら拙者より参るぞ」

 ずぅん、と足を踏み鳴らし、鬼の巨躯が馳せる。並の兵士の、倍の歩幅である。
 ぶぅん、と鉞を振り回し、鬼が咆哮する。人の胴体が、幾つも宙を舞った。
 それでも、三鬼へ向かっていこうという者などいない。
 三鬼の後方には大きな門が有り、それを破れば、後は本丸まで一直線に突き進める。それが分かっていても、横を抜けて行こうという者さえいない。
 何千という兵がたった一人の鬼に呑まれ、貼り付けにされていたのである。
 その中には、松風 左馬さえが含まれていた。
 天下無双の拳術家を自認するこの女さえ、敢えて三鬼へ打ち掛かる事は出来ぬのだ。

「片谷木、あれをどうする」

 兵士の壁の中に紛れ、左馬は、隣に立つ片谷木の顔を見ぬままで問う。

「どうもこうも、打ち砕くのみ」

「それが出来るなら苦労は無い!」

 片谷木は、場や敵に合わせて戦術を変える男では無い。どのような敵が相手であろうと、殴り、砕くのみである。
 然し――限度がある。
 彼我の力量を測ることは、生き抜く為に必要な力であるが、松風 左馬はその技に長けている。その勘が、自分と片谷木を合わせたとて、今の三鬼には敵わぬと囁いていた。

「私に、他の技は無い」

「おい!」

 その言を聞かず、片谷木は鬼の前に進み出た。
 見上げる程の巨躯――片谷木も大柄ではあるが、その頭が、三鬼の腰の辺りに有るのだ。

「私がお相手をする」

 常と全く変わらず、深く腰を落とし、左手は手刀を作って前、右手は拳を握って鳩尾。
 一切の奇を衒わぬ真っ当な構えである。
 無駄が無く、無骨。同類である鬼はその構えを気に入ったと見えて、

「その意気や良し」

 快を認めながら、片谷木の頭上へと大鉞を振り落とした。

「むん!」

 片谷木は、摺り足で前進しながら左手を振り上げ、大鉞の柄を打つ。受け止めるのではなく体の横に流し、

「せやあああぁーっ!!」

 間髪入れず正拳を放った。
 腰まで引いた右拳を、的へと一直線に放つ――たったそれだけの、然し日の本一の破壊力を誇る正拳、上段打ち。
 それは三鬼の腹へと突き刺さり、鬼の巨躯を宙に浮かせ、三間も後ろへ弾き飛ばした。
 どっ、と政府軍の兵士達より歓声が上がる。その声を背負いながら、片谷木が三鬼を追う。

「……良き拳に御座る」

 然し――鬼は、死なず。そればかりか、両の足で着地すると、すぐさま反撃に移る程であった。
 大鉞による暴風が、三鬼の周囲に吹き荒れる。
 片谷木はそれを、前進し続け、柄を受け止めて防いでいた。
 度胸――ばかりでは無い。下がれば柄ではなく、刃が己の身に迫ると知っているから、決死の覚悟で進み続けるのだ。

「かあぁっ!!」

 左拳。腹。

「うぉおらあああぁっ!!」

 右拳。大腿。
 上半身へは手が届かない。届く場所へ、片谷木は、渾身の拳を打ち続けた。
 それでも――三鬼は揺るがず、左馬の見立てもまた、これでは勝てぬと変わらぬままであった。
 歯を軋ませど、鬼の脅威は変わらない。

「くそっ――どうしたら良い!」

 喚きながらも、左馬は理解していた。三鬼を倒すには、化け物じみた耐久力を上回る力をぶつければ良い、それだけだ。
 然し――それが出来る者が、日の本にどれ程いるのか。

 ――居る、一人だけ。

 左馬は、悪友の顔を脳裏に浮かべながら、打ち消すように首を振った。
 〝それ〟は、最後の一手として温存するように通達されているし――自分自身が、頼りたくない。それならまだ、自分から鬼に打ち掛かって死ぬ方がましだとさえ思えた。
 そうして葛藤を続ける左馬の背後に、見知らぬ女が立ったのは、本当に直ぐの事であった。

「〝九龍〟の松風 左馬さんで? あーら、お噂より美人さんでいらっしゃる」

「……誰だ、鬱陶しい」

 振り向かぬままに答えれば、その女は、左馬の隣に進み出て並んだ。
 血のように赤い髪の、背の高い女であった。

「杉根 智江と申します。……おしゃべりを自重して要件をお伝えしますと、あの鬼さんを仕留める方策をお伝えに」

「ほう?」

 無茶を言う――そう思いながら、左馬は首を横へ向ける。
 隣に立つ女の目には、馴染み深い色がある。〝どこかおかしい〟連中に共通する、狂気の色である。

「聞かせてみろ」

「はいはい、勿論では御座いますがぁ……」

 話を促せば、智江は目の狂気を更に増し、ぎらぎらと輝いた瞳で鬼を見つめながら、

「その前にちょいと、あの鬼さんに殴りかかって見ちゃくれませんかねぇ?」

「……無茶を言うな」

「いえいえ、真面目な話。ほらほらぁ、急いで急いで」

 脳髄の中では、怪物を殺す為の算段の、最も単純な解答を既に見つけていた。








 二条城の本丸に、付け足すように作られた地下――その、最下層。
 一階層を全て一つ繋がりの牢獄とした中に〝彼女達〟は居た。
 あの宴に、主賓として招かれた折には、名に冠された色に合わせて、華々しく飾られた衣装――鮮やかな着物も、袖を僅かに残して引き裂かれている。
 互いの背に腕を回し、抱き合う形で鎖に繋がれた二人は、手首の枷と、端切れとなった布の他、何も身に付ける事を許されていなかった。
 隠すもの無く晒された肌には、真新しい痣が幾つも――手足や、腹や、幾つかは顔に浮いている。
 狭霧 紅野。
 狭霧 蒼空。
 囚われの身となった、双子の姉妹であった。

「う……うぅ、うー、うーっ……!」

 蒼空が、呻くように泣いていた。
 古傷と痣の残る紅野の胸に顔を埋め、身を震わせる姿に、無双の剣士の面影は無い。
 怯え、嘆く、ただの打ちひしがれた少女がいるばかりであった。
 その髪に頬を当てながら、紅野は天井を見上げていた。
 外の光の一片とて入らぬ、暗い部屋の中で、

「……辛いか、蒼空」

 ぽつりと問えば、蒼空は啜り泣きながら頷いた。

「だよなぁ……」

 乾いた笑いと共に、紅野は呟く。
 唇の端が切れ、血が伝い、乾いた痕が有る。口角を上げた為か傷が開いて、またつつぅと首まで赤い線が引かれた。

「死んじまおうか、いっそ」

 まるで、散歩にでも行こうかと尋ねるように、軽い口調の問い。
 けれども虚ろに天井を見る目は、戯れごとを言う者のそれでは無かった。
 目を合わせぬまま、蒼空は首を左右に振った。
 強く、強く、紅野の体が揺れる程、首を振った。

「そっか……〝まだ〟駄目か」

 乾いた笑いの中に、僅かに感情の色が戻る。
 楽になる事を許さない、妹の厳しさへの苦笑いか、それとも思いやりを微笑ましく思ったか――いずれにせよ、この牢に戻されて初めての、人間らしい感情の動きだった。
 枷に繋がれたままの腕で、紅野は蒼空を抱き締めて――数滴だけ、涙を零した。
 地下牢にまた、静寂が訪れる。
 その静けさを掻き乱す、幾つもの足音がする。
 我先にと階段を降りて来たのは、赤心隊――冴威牙の部下、ならず者崩れの集団であった。

「なんだ、冴威牙の兄貴は居ねえのか?」

「別にもう良いだろ、冴威牙なんざ。どうせ皆死んじまうんだ、犬っころが何処行ったかなんて知ったこっちゃねえよ」

「そうだな、どっかに逃げてようがくたばってようが、どうでもいい」

 かつて二十人以上も居た彼等は、その半数を失い、生き残った十人ばかりもまた、かつてとは違う凶暴さを孕んでいる。
 二条城を取り囲んだ軍勢を見て、もはや勝ち目など無いと悟った彼等は、戦いに赴こうとさえしない。

「同じ死ぬなら、良い思いをしてから死んだ方がいいよなぁ?」

 下卑た笑みを浮かべた一人が、紅野の肩を踏みつける。それが合図となったかのように、他の者達も思い思い、拘束された紅野と蒼空の身に群がって行く。
 幾つもの手が体に触れるのを感じながら、紅野はそっと目を閉じ、蒼空の頭を強く胸の中に抱いて、

「じゃ、もう少しだけ頑張るかぁ」

 誰にも聞こえぬよう、小さく、小さく呟いた。








 波之大江 三鬼の暴威が吹き荒れている。
 大鉞が振るわれる度、ごう、ごうと風が唸りを上げ、人の上半身程もある刃が、白銀の光を撒き散らす。
 その暴風圏の中に、松風 左馬と、片谷木 遼道が巻き込まれていた。
 二人は、刃に身を裂かれぬよう、三鬼にぴたりと張り付くようにして、振り回される大鉞を掻い潜っていた。

「しゃあっ!」

 左馬が、奇声と共に打ち出した蹴りが、三鬼の左膝を打つ。

「ふんっ!」

 片谷木が、咆哮と共に放った拳が、三鬼の右膝を打つ。
 二者の何れも、自然石、巨木を思う侭に薙ぎ倒す、魔域の拳技である。
 然し、三鬼は倒れない。
 小蠅を払うように、三鬼は巨大な右手を、纏わりつく片谷木目掛けて振るった。
 片谷木は両腕を交差して受ける。
 片谷木の体は、地面に両足で線を引きながら、後方へと弾かれた。
 生物の力では無い。
 瀑布で回る水車、断崖より降る落石――そういう類いの、動き出せば人の手では止められぬ力であった。
 受けた腕が痺れ、拳を握る指が緩む。
 三鬼は、間合いが開いた隙を逃さず、大鉞の刃を、片谷木の頭目掛けて振り落とす。
 それを、左馬が横から飛び付くように蹴り、辛うじて弾いた。
 蹴った脚に痛みが返る程の怪力であった。

「片谷木!」

「応!」

 拳の手練れ二人は、この短いやりとりだけで、次の動きを決めていた。
 とは言え、他にやる事が無いのだから、当然だ。
 彼等は、自分の間合いに入らなければならぬ。
 拳か、遠くても、踏み込めば爪先が届くという距離でなければ、彼等は戦えない。
 羽虫が灯りに惹かれるように、二人は三鬼へと飛びかかり――そして、払われ、命の危機を幾度も経る。
 鬼の鉞を、或いは跳び、或いは伏せて躱しながら、二人は三鬼の脚を執拗に狙い続けた。
 二人に加勢しようという者は居なかったが、それは、加勢出来る者が居なかったからに過ぎない。
 誰が、鬼の脅威という重圧を浴びながら、後退せず、必死の間合いに身を置き続けられるだろうか。
 近づけば、鬼の手足に打たれる。
 さりとて恐れて下がれば、大鉞の刃の錆となる。
 だから、常に鬼の手足を避け続けながら、避け切れぬだろう大鉞の間合いにだけは入らぬよう、決して後退せず、恐怖の間合いに留まり続ける。それが出来るのが、松風 左馬と、片谷木 遼道だけだったのだ。
 間違い無くこの二人は、徒手の戦に於いては、日の本の頂点に有る。
 然し、その二人を併せても尚、三鬼の怪物性が勝るのである。
 命を惜しむ人間が、この空間に割り込めよう筈が無く――

「はい、お二人さーん! ご苦労さん、ちょいと交代っ!!」

 だから、命を惜しまぬ者が投げ込まれるのである。
 遠巻きに戦いを見つめる兵士の群れから、女の声がした――と同時、異形の影が五つ、三鬼の間合いの中へ割り込んで行った。
 〝それ〟は、子供のような胴体に、奇妙に長い脚を備えていた。
 人間の顔をしているが、表情は抜け落ち、目の焦点も定まらぬように見える。口が開いて、音は聞こえるのだが、それは声と言うよりも、蚊の羽音に似た唸りである。
 だが、異形の最たる部分は、両腕。
 〝それ〟は、羆の両腕をそっくりそのまま、人間の胴体に繋いでいるのだ。

「む……」

 醜怪極まりない異形の姿に、三鬼が顔をしかめた時、五体の異形は、各々が勝手に、三鬼へと打ち掛かった。
 すぐさま三鬼は、大鉞の横薙ぎを以て迎撃を図る。
 五体を纏めて、胴体を二つに断たんとする、大振りの斬撃。
 それを、異形の一体が、羆の腕を二つ、胴の前で交差させて受け止めた。

「ぬっ!?」

 三鬼の剛力が十全と乗った一撃である。受け止めた異形は、衝撃で背骨を折られたか、地に跪くように倒れ伏した。
 然し、返る手応えは、三鬼を驚かすに足りた。
 異形の腕は、異常に硬かった。
 ただでさえ強靭な作りの、羆の腕の中で、骨が鉄骨に置き換えられていたのである。
 更に、残りの異形四体は、仲間が斃れた事に何ら反応を示さぬまま、鋭い爪を振り翳し、三鬼へと迫るのだ。
 猛牛の首さえ圧し折る剛腕が八本、三鬼へと向けられる。
 剛腕の先に備わった爪は、三鬼の鎧でさえ容易く引き裂き、その下の鋼の肉体にまで傷をつけた。

 ――恐るに足らずとも、侮るべからず。

 三鬼は、この異形達を、迅速に取り除かねばならぬと決めた。
 大鉞の持ち方を、柄の端ではなく半ばを持つ、速度重視の構えへと切り替え――即座にまず一体、異形を頭から二つに叩き割った。
 残り三体。いずれも恐れを知らぬように、真正面から、脚の長さに見合うだけの速度で向かって来る。

「かあっ!!」

 一体が無造作に、大鉞の柄に、頭を叩き潰される。
 また別の一体は、三鬼の右足で蹴り付けられ、仰向けに倒れた所を、頭蓋を踏み砕かれた。
 そして――残った一体が、三鬼の腕に噛み付いた。

「……?」

 羆の腕に備わった怪力と比べ、人の顎と歯は、悲しい程に非力であり、三鬼には僅かな痛みさえ伝わらない。
 だが、戦場だ。訝るより先、早々に打ち殺そうと、巨大な手で異形の頭を鷲掴みにした時、

「その子達、お腹が空いてるんですよ。何せまともに食事が〝出来ないように作り替えました〟からねぇ」

 またも兵士の群れの中から、嘲るような、軽やかな声がした。
 三鬼は、鬼灯のようにぎらぎらと光る眼で、小胆の者ならば視殺しかねぬ程に、その方向を睨み付ける。
 すると政府軍の兵士達がさあと左右に分かれ、身を潜めていた赤髪の女が、三鬼の前に姿を現した。

「ね、ね、鬼さん鬼さん。どうです、私の作った〝人工亜人〟は? 割と強いでしょ? これね、病気で死にかけてた爺婆やら子供やらで作ったんです」

「……貴公、何者か。この国の者では無いな」

「わたしゃ杉根 智江と申しますが、私が誰かなんてどーだっていいじゃないですかあ。それより大事なのはね、貴方がそうやってガンガンぶっ殺してくれた可哀想な生き物が、元々は人間だったって事と――」

 智江は、左手に切開用の小刀を持ち、その切っ先を、倒れ伏す亡骸の一つに向けた――三鬼の部下、白槍隊の、名も無き誰かの亡骸である。

「可哀想と言えば、その兵隊さん達も可哀想だ。先の見えぬ上司に従って、無駄に戦って無駄に死んだんですからねえ」

「……拙者が、先が見えぬという誹りも、上に立つ者として力が足りぬという非難も、全ては甘んじて受けねばならぬ事。だが、拙者に従って戦った者達は――断じて、無為の死ではない!」

「いやいやぁ、無駄死にでしょう。死んだところでねぇ、別にこの戦に勝てる訳じゃなし、この人達が死んだからって別に何も面白くないし。……いや、いやいやいや待った、一つだけ良い事も有りましたね、いや失敬失敬」

 みしいっ、と、何かの軋む音がした。
 三鬼が全身に力を込めたが為、筋肉が過剰に膨れ上がり、纏う鎧を内側から押し上げて軋ませた音であった。
 その形相を直視した政府軍の兵は恐れ竦み、武器を捨てて逃げ出す者さえが出る。
 智江の舌は滑らかに踊り、三鬼の怒りを存分に煽り立て――

「鍛えられた大量の死体! 部品ごとにバラして、〝人工亜人できそこない〟の材料にしてさしあげましょう!」

「――っ! 貴様、そこ動くなアァッ!!!」

 空も落ちんばかりに、三鬼は絶叫した。
 異形の頭を掴んだまま振りかぶり、智江へと目掛け、握り殺しながら投げつけた。
 智江が身を躱すと、地面に打ち付けられた異形の体は、数度も跳ね、後方の兵士を幾人か巻き込む。砕けた骨が数か所から突き出し、不恰好な剣山のような有様であった。
 智江が動いたと見た時、三鬼もまた動いた。巨体からは想像も付かぬ速度で馳せ、大鉞で、智江の胴を横薙ぎにせんとしていた。
 刃が智江の右脇腹へ迫る。
 然し、刃は智江の体に触れる一寸手前で、何か虚空に存在する、見えない壁を強く叩いた。

「――魔術師かっ!」

「ごめいとーう!!」

 刃が止まる事を知っていたかのように、智江は既に動いていた。三鬼の巨体を利し、彼の股下を転がるように潜り抜け、その反対側へと掛けて行く。
 いや――実際、知っていたのだろう。〝一撃なら耐えられる〟と。
 三鬼を挑発しながら平行し、自分の体の両脇に耐衝撃の防壁を張る程度は、この女なら容易くこなしてしまう。

 ――然し、本っ当に一撃とはねえ。

 杉根 智江は、卓越した魔術師である。無詠唱のままに作り出されたこの防壁さえ、本来なら十数度の斬・打撃に耐え得る強度を持つ。
 それも、三鬼の前には、ただの一度で砕け散る。
 智江は極めて冷静に、自分の持つ武器、用いる事の出来る魔術を組み合わせたとして、今この場で、この鬼を倒す事は出来ぬと、答えを算出した。
 逃げる智江の背に、三鬼は容易く追い付く――歩幅が違うのだ。
 今一度と振り回された大鉞は、今度は智江の左脇腹に触れる寸前で、やはり見えない壁に食い止められる。
 これでもう、防壁は無い。

「決して――決して、無駄死にでは無いっ!!」

 三鬼は吠えながら、智江の頭目掛けて大鉞を振り下ろす。
 地を転げるようにして智江は避けるが、風圧だけでも体を押し流されそうな衝撃。笑みを貼り付けた智江の顔にさえ、冷や汗が流れる。

「皆、己の思う道を歩んだ! 正しいと信じられるものに準じた! 彼等の純な想いを、無駄であったなどとは決して認めぬ! この波之大江 三鬼が在る限り!」

 轟々と風を鳴らして、三鬼は智江を殺さんと、大鉞を振るった。
 幾度と無く振るわれる、掠める事さえ許されぬ暴威。
 智江は完全に避ける事をのみ徹していたが、僅かにでも反撃を視野に入れていれば、あえなく血霧と化していただろう。
 地面を転がり、敵味方を問わず亡骸を盾にし、全力で駆け――それでも、遂には追い詰められる。
 疲労困憊し、地に膝を着いた智江の前で、三鬼は大鉞を大上段に構えた。
 その時、智江が、三鬼が辛うじて聞き取れる程の小声で呟いた。

「『――I send the command NYCTOPHOBIA』」

 否。
 小声で、〝詠唱を完了〟した。
 三鬼の視界から、全ての光が消えた。

「おっ……!?」

 幻術『ニクトフォビア』――光が物体に反射する事を禁じ、完全な闇を作り出す。
 十全な用意を経て用いられれば、半径数十間もの空間を支配する高等魔術であるが、この時は、三鬼を中心とする半径三尺程の、小さな闇としかならなかった。
 それでも、たった一人で戦う三鬼に対しては、十分だった。
 見えぬまま、大鉞を振り落とす。地面を砕いた手応えだけが返る。

「〝お聞きなさい〟、その耳かっぽじって。〝お聞きなさい〟、私の言葉を」

 そして、憎き敵の声が、少し離れた所に聞こえた。

「貴方、どう思ってるかは知りませんがね、大体の死なんてもんは無駄死になんですよ。〝立派な〟死だとか〝有意義な〟死だとか〝潔い〟死だとか、そんなもんはありゃしません。何百通りのやり方で人を殺してきた私が言うんだから間違いない」

「………………」

 三鬼は、智江の言葉に耳を貸さず、ただ音だけを追った。
 目を開いても視界は闇に閉ざされたままだが、その音だけは、周囲のどんな音よりも、鮮明に三鬼の耳に届く。
 距離にして、二十歩。
 怒りに滾った脳髄を冷やすべく、息を深く吸い、音を辿って歩いた。

「死んだらぜーんぶお終いです。政府軍が殺した貴方の部下も、貴方達が殺した政府軍の兵士も、どんな立派な人間だったかは知りませんがね、死ねばそれまで! ……生きてりゃ、まだまだ色々と楽しみが有ったでしょうにねえ」

 心を閉ざし、音を探る。
 十歩。
 声は、逃げようとしない。
 寧ろ――聞こえる言葉から、三鬼こそが、逃げていた。

「私は生き延びますよ。この国の人間に、無様だと笑われようが、微塵も潔くないと指を差されようが、私は絶対に生き延びる。そういう心情の私としては、死人を美化してる貴方がどうにも気に食わないもんでしてねえ」

「………………」

 声は、全く動かない。
 三鬼は、声の出所の二歩手前に立ち、大鉞を、背の後ろにまで振りかぶった。

「さあ、どうしました? 何百人とぶっ殺しといて、今更女の一人や二人相手に、そう躊躇う事も――」

「正に」

 智江の言葉を、三鬼は最後まで聞かなかった。
 声の出所が全く動いていない事を確かめ、鬼の渾身による最大速度を――来るのが分かっていようと、決して避けられぬ一撃を、その箇所へと叩き込んだ。
 これを受けて、生きていられる生物は、きっと地上に存在しない。
 雪月桜でさえが、受け止める事も出来ぬまま、両断されてしまうだろう。
 そういう一撃であった。
 至上の一撃であった。
 そして――
 三鬼の一撃は、虚しく地を砕くに留まった。

「はい、はっずれー!」

「――!?」

 〝その声〟は、二十歩の距離から――三鬼が視界を奪われた時、確かに杉根 智江が居た場所から聞こえた。
 智江は、一歩たりと動いていなかったのだ。

 ――謀られた!

 光を完全に遮断する高度な術に比べて、音の出所をずらして惑わせるだけの幻術は、数段も格が劣る技巧。視界さえ保っていたのなら、三鬼が音に惑わされる事などは無かったに違いない。
 だが、知った時には遅い。
 三鬼は、背に、鬼の体でさえ軋む程の、強い衝撃を感じた。
 片谷木 遼道が三鬼の背に、〝日の本一の正拳〟を、万全の体勢から放ったのである。
 二百四十と七貫の体が浮いた。
 同時に、手首に鋭い痛みが走り、手の中から得物の大鉞が奪い取られたのを感じたが、それは松風 左馬が、槍の如き貫手を加えたものであった。
 打たれ、弾かれた三鬼の体は、何か固いものに衝突する。

 ――門か。

 本丸の正門へと続く道を塞ぐ、ぶ厚く、固く閉ざされた門扉が、三鬼の胸にぶつかったのだ。
 未だに視界の戻らぬ三鬼には好都合であった。
 振り向き、門扉に背を預け、両腕をそれぞれ、頭と胸の前に置いて身構えた。
 見えぬままでも良い。
 飛び道具ならば、痛みはあれど、死にはするまい。
 槍や刀や、或いは拳足であろうと、己を殺すに足る攻撃を――受けた瞬間、反撃に転ずる。
 視界を失ったままでも、三鬼は大怪物であった。
 然し――肉体の怪物たる三鬼に対し、精神の怪物たる智江は、一歩と近付かぬままで、

「forty-five minutes.」

 策の成就を、告げたのであった。
 その瞬間、〝それ〟は流星の如く空に現れ、その場に居る誰の目にも影さえ映さぬまま、波之大江 三鬼の体へ、吸い込まれるように飛び込んで行った。
 砲弾であった。
 日の本に数多く備わる、旧式の丸砲弾ではなく、極めて近代的な、総金属の尖頭砲弾。
 飛来した砲弾は、遥か後方に音を置き去りにしていた。
 狭霧和敬が財力の限りを尽くし建造し、今は政府軍の手に有る巨砲、〝揺鬼火〟の砲撃であった。
 比叡の山城の城壁を、急拵えのものとは言え、容易く貫いた砲弾である。いかな鬼とて、踏み止まれるものではない。
 砲弾は三鬼の体を押し飛ばし、まるで破城槌の如く門扉に打ち付け、裏の閂を破砕して、尚も飛んだ。
 それらの全てが、瞬き程の間に終わったのである。
 〝揺鬼火〟は、不眠不休で動かしたとて、日に三十六度の砲撃が限度である――装填、照準に、恐ろしく時間が掛かるのだ。
 この砲を預けられた智江は、本丸への道を塞ぐ門扉に照準を合わせ、砲撃用意を進めさせていた。そして、その着弾点へ、波之大江 三鬼を誘い込んだのである。
 何が起こったのか、見えた者は無い。ただ、事の後の有様から、何が起こったかを知るのみである。
 即ち――あの〝鬼〟を、打ち倒したのだ。
 しん、と戦場が静まり返った後、揺れ戻るように、空を揺さぶる程の歓声が上がった。








「……前線が賑わっているなぁ」

「賑わいってなにさ、お祭りじゃないんだから」

「他にしっくりくる例えが見つからんのでなぁ」

 二条城、城外東、政府軍本陣。
 雪月 桜と村雨は、戦の激しさを忘れたように、ゆったりと構えていた。
 握り飯を食って腹を満たし、味噌汁を啜り、茶を飲み、軽く体を動かしながら、待っていた。
 その心は既に、戦場に有る。
 然し、敢えて逸る心を抑え、力を蓄えていた。

「この戦が終わったら、どうする」

「え?」

 唐突に桜が、村雨に尋ねた。

「んー、どうしようね……」

「もう洛中もなぁ、十分に見た気がする。だが、直ぐに江戸へ帰ろうという気も起こらんのだ」

「じゃあ……もっと西国に? 壇ノ浦なんかは見に行きたいな、私。あ、あとそれから一ノ谷とかも!」

「平家物語が好みか?」

「だって義経格好いいじゃない」

「私とて八艘飛びくらい出来るぞ」

「そこじゃないって」

 拗ねたような口ぶりの桜がおかしくてか、村雨は横に顔を向けて口元を抑える。
 だが桜は、全く真剣な顔のままであった。

「西国も良いが、もう少し行ってみたい」

「何処へ?」

「そうだなぁ、まずは琉球か。大陸も、天竺は当然抑えるとして、帝国の本土も見たいし……お前の生まれた土地も見てみたい」

「………………」

「私も、大陸の雪の中で育った。お前も同じ筈だ。だが、違う生き物が出来上がった。私が見て育った雪と、お前が見て育った雪は、同じものなのか、別なものなのか、それが知りたいのだ。
 それにな、嫁を取るなら、その親に一言、挨拶でも入れておくのがものの道理で――」

「誰が嫁か」

 村雨は足の甲で、桜の顎をすくい上げるように、高く蹴った。
 すかんっ、と良い音がした。

「こら、何をする」

「気が早い! まだ戦の真っ最中だからね!」

「ふむ、確かに。ならば早々に片付けて、早く旅支度を整えたいものだ」

 桜がそう言って、蹴り上げられた顎を摩った時、二人はほぼ同時に、駆け寄って来る兵士の姿を見た。
 武装は少なく、鎧も軽量――伝令の兵士であった。

「おう、どうだ」

「はっ! お味方は〝鬼〟を打ち破り、本丸への門をこじ開けましてございます!」

「ほう」

 桜は、その知らせに、さして驚いたような様子も見せなかった。
 ただ、軽く頷いて、そして歩き始めただけである。
 走りはしない。
 力を蓄えながら、歩いて戦いの場に向かう。

「あっ、あのっ!」

 その背を、伝令の兵士が呼び止めた。
 高い声。
 村雨と幾らも変わらぬ歳の、少年であった。

「どうしたら――あなたのように、強くなれますか?」

「――ふむ」

 問われた桜は、暫し考え込むようなそぶりを見せてから、横に立つ村雨の肩をぐいと抱き寄せ、

「いい相手を見つける事だ。女だろうが、男だろうが」

 そして物見遊山にでも出掛けるように、ゆったりと歩き続ける。
 その様が、あんまりに――ただびとと隔たっているようで、伝令の少年は目をこすり、その背を見た。
 何処まで行くのか。
 何処だなどと、決まっている。あの城の、天守閣の、敵の首魁の元へだ。
 けれど本当に、あの二人は、そこで立ち止まるのか。
 何処までも行くのではないか。
 煩わしい何もかもを斬り捨てた何処かへ、辿り着くまで、何処までも――
 そんな夢を、白昼に見る程に、桜と村雨は眩かった。








 ――不覚であった。

 己への怒りを噛み締めながら、波之大江 三鬼は生きていた。
 〝揺鬼火〟の砲弾が直撃し、尚も命を保っている――このような生物は、他に類を見るまい。
 然し、無傷ではない。
 寧ろ、生きて歩ける事が不思議な程の傷を負っている。
 腹の肉がごっそりと抉られ、傷の周りは炭化する程の火傷――寧ろ炭化したが為に、血を流さずに済んだのやも知れない。
 無論、常人なら死んでいる。
 肉が抉られた時点で、まともな人間なら死んでいるのだが、それで生きているのが、この鬼であった。
 三鬼は、砲弾に跳ね飛ばされた後、落下した箇所から真っ直ぐ、二条城を目指していた。
 足を引きずり、傷を抑え、血混じりの息を吐きながらである。
 三鬼の心中に在るのは、ただ己への叱責と、数多の死者への弔意であった。

 ――申し訳が立たぬ。

 自分は、強い。
 己が無敵の存在であるなどという幻想はとうに捨てたが、客観的に見て、自分程の強さを持つ生物など、殆ど居ない。
 相手に武器を持たせて戦えば、この日の本に二人だけ、勝てぬ相手は居る――狭霧 蒼空と、雪月 桜と。
 だが、何も持たぬ一個と一個で向き合って殺し合うなら、その二者にとて勝つだろう。
 鬼とは、無条件の強者である。
 だからこそ、他の誰よりも勝ち続け、己の強さを信じた者達に答えねばならぬのだ。
 それが出来なかったから、波之大江 三鬼は悔いている。
 それが出来なかったから、波之大江 三鬼は己を責めている。

 ――だが、まだ動ける。

 それでも、三鬼は怪物であった。
 確実にその体が、死に近づいていると知りながら、求めたのは治療ではなく、次の戦場であった。

 ――必ず政府軍は、二条城の本丸に攻め込んで来る。

 狭霧和敬によって改築され、支配者の座す城として、より尊大さを増した二条城。
 本丸は高く作り替えられ、その最上階には天守閣を備えた、仰々しさの塊のような城。
 必ずそこに、狭霧軍の総大将――狭霧和敬か、〝大聖女〟エリザベートが居る。
 三鬼は、己の死に場所を、城門の前と定めた。
 幾千、幾万とも分からぬ敵兵が攻め寄せた時、城の前に一人で立ち、殺せる限りの道連れを伴って時間を稼ぐ。その間に、大将たる二人を落ち延びさせれば、己の勝ちである、と。
 未だに三鬼は、己の主は狭霧和敬であると、揺るぎ無い芯を持っている。
 人間として見るに、狭霧和敬は外道である。その事は重々に理解している。
 だが――その外道の手によって、日の本は強く生まれ変われるとも、信じている。
 三鬼の理想は、狭霧和敬が日の本を支配し、日の本が万天の覇者たる存在となったその時、彼が次代に後を託し、平穏無事に息を引き取る事であった。
 無論、その後の世界に、三鬼自身の居場所は、想定していない。
 外道に力を貸し、その享楽の為に人を弑し続けた鬼が、安寧の世に生きる道など無いのだと、三鬼は定めている。
 唯一の心残りは妻子の事であったが、思うより随分早く死が近づいて来た事で、不思議と開き直ったように、彼女達への執着が薄れた。

 ――強い女だ。

 自分が死んでも、妻は必ず娘を立派に育てるだろうと、三鬼は信じていた。
 そして、ならばその為に自分は、この残った命を使い切って、自分の信じる方法で、良き国を作ってやらねばならぬと――

「――我、護国の鬼とならん」

 己に言い聞かせた瞬間、三鬼の脚に力が戻る。
 いや――もはや死に近づいた体が、痛みを忘れさせただけかも知れない。
 何れにせよ、好都合であった。
 本丸の城門は大きく開かれ、その手前には、残り七百程の、拝柱教武装信者達が、死ねとの命を待ちわびている。
 重症を負った三鬼を見てざわめく彼等の隊列を、真ん中から二つに割って、三鬼は城内へと入った。
 何をするのか。
 主に、命を乞うのである。
 主へと預けた命を賜り、それを戦場に捨てる事の、許しを乞うのである。
 そして――城から抜け出すようにと、併せて願う。
 国外まで落ち延び、何処かでまた力を蓄え、再び立ち上がる機を待つように、進言する為に、三鬼は戻ったのだ。
 城内は、柱の軋みが聞こえそうな程に静かだった。
 端の一人に至るまで、逃げ出したか、兵士として戦場に出たか、人の気配が殆ど無かった。
 狭霧和敬はきっと、上階に居るのだろう。
 階段に足を掛けた時、三鬼の耳は、また別の音を捕えた。
 床の下――地下から聞こえる、人の声である。

 ――そうか、ご息女が。

 狭霧和敬が、娘二人を捕え、地下牢へと投げ込んだ事は、三鬼も当然ながら知っていた。
 三鬼は、昇り階段から足を降ろし、地下への階段へと向かった。








 地下牢への階段を下って行く。
 三鬼の巨体では、ぐうと上半身を撓めなければ、頭が天井を擦るような、低い作りの階であった。
 上手く上階から風を取り込めるような創りになっていて、空気は存外に澄んでいる。
 だが、光は無い。
 遥か下の方から光が立ち上って来るが、不規則に揺らめいている所からするに、松明か、蝋燭の灯りであろう。

 ――救わねば。

 死の足音は、先よりも明確に、近くに在る。だが三鬼は、残る命の幾分かを、罪人とされた二人の少女へ捧げんとしていた。
 これも天下の為なのであろうか。
 狭霧和敬とて、永遠に生きる訳では無い。
 寧ろ、狭霧和敬が暴虐の上に築く天下を継ぐ者として、彼の娘達もまた、生き延びねばならないと――

 ――否。

 否、否、否。
 その考えは、己への欺瞞である。
 これから死に逝く身が、壮大に天を想う余裕など無い。
 三鬼はただ、狭霧紅野と狭霧蒼空に、生き延びて欲しいと思っただけであった。
 娘を持つ父として、父に愛されなかった娘達に、せめてこれからは人並みに生きて欲しいと。
 牢から解き放った後、二人がどうするかは、知らぬ。
 父を殺しに向かうやも知れないし、手に手を取って、何処かへ落ち延びて行くのかも知れない。
 そのどれでも、三鬼は、許してやりたいと思った。
 〝そういうこと〟を望むのは、誰にでも許される事なのだと、教える人間の居なかった双子を、せめて自分だけでも許してやりたいと思ったのだ。
 三鬼は誰に咎められる事も無く、階段を下りて行った。
 見張の兵は居なかった――既に必要が無くなったのだろう。
 平時ならば、一足に跳んで降りる事も出来よう階段が、今はやけに長い。
 痛みさえ感じぬようになった体を、横倒しにならぬよう、三鬼はゆっくりと降ろしていく。
 そして――地下牢の階の、一つ上に辿り着いた時、三鬼は異変に気付く。
 牢から聞こえる人の声、人の気配は、二つや三つでは無く――落城寸前の城内には似合わぬ、一種の熱を持っているのだ。
 この熱を例えるなら、駆り立てられた獣の群れ。
 ねぐらを焼かれ、帰る場所を失った獣達が、人の集落目掛けて殺到するような、死に狂う者の発する熱である。
 酒の臭いも無いのに、酔人のような、意味を為さない喚きが聞こえる中に――退廃的な、凶行の臭いがした。
 三鬼の死に掛けた体は、目の前に残った段を全て一跨ぎに飛び降り、地下の最下層に降り立った。
 ずぅん。
 振動は地下牢を揺らし、開け放たれた格子が、ぎぃと悲鳴を上げる。
 その格子の向こうに、赤い羽織を纏った男達が、ぞっとする程醜い笑みを顔へ貼り付けて、十人ばかり群れを成していた。

「……あぁ?」

 彼等は一斉に、格子の外に立つ三鬼へと目を向けたが、それが誰なのかを見ても、何の興味も無いように、それぞれの行為を続けた。
 目が、死人のようだった。
 三鬼は、その目を見た事がある。狭霧和敬が、捕虜へ戯れに、とある薬物を投じた時、その捕虜が見せた目と同じであった。
 阿片よりもう少し性質の悪い、人を壊す薬物とだけ聞いた。
 彼等は、地下牢の床の一角にその薬物を広げ、時折手に掬い取っては、鼻から吸い込んだり、舌で舐め取ったり――

「っは、ああはっ、はっ、はははっ、ははっ、ははっ」

 そして、単調に、乾いた笑いを繰り返していた。
 彼等に意思は有るのか――それさえも定かでは無い。
 だが、何かを望む本能は残っていた。
 彼等は、不気味な笑いを上げながら、床に二人の少女を押さえつけ、かわるがわる二人に――
 暴行、と呼ぶべきか。
 それとも単純に、凌辱と言うべきなのか。
 いや――もっと、彼等の行為は醜かった。
 彼等は、自分達の輪の中では律儀に順番を定めながら、もはや抵抗も出来ぬ二人の少女を、狂った脳が求める欲望の捌け口として〝使っていた〟のだ。
 輪になって座った男達の肩の向こうに、三鬼は、二人の顔を見た。
 蒼空は泣き疲れ、涙の後を頬に残したまま、目を閉じていた。
 紅野はただ、天井の一点をじっと見つめて、時折何か、声に成らない呟きを零したり、小さく笑ったりしていた。
 そして、二人に群がる男達は、時折、それこそ獣のように低く唸り声を上げたかと思うと、急に物分りが良くなって、順を待つ次の男に場を譲るのであった。

「かっ――――」

 その時、三鬼が、何を言おうとしたかは定かでは無い。
 言葉が声に変わる前に、喉の奥で血と絡まり、終に意味を為す事は無かった。
 だが――三鬼の巨躯は、馳せていた。
 瀕死の体を突き動かしたのは、怒りである。
 何への――それも、何とも分からぬままに。
 ただ、確かに言える事は、少女二人を凌辱する男達へ、単純に発した怒りではなかったという事だ。
 その男達を通し、三鬼は万物へ怒り狂っていた。
 或いはその対象に、己さえも含まれていたかも知れない。
 万難も、理不尽も、それを既に溢れる程も備えたものにばかり降り注ぐ、世界の条理というもの丸ごとへ、三鬼は怒りをぶつけていた。
 があぁ。
 怒気を声にすると、そんな音になった。
 意味を成さぬ音と共に振るった腕が、一人の頭蓋を破裂させる。
 白い破片が突き刺さった脳漿を、三鬼は踵で踏み潰し、
 吠えながら、殴った。
 掴み、投げた。
 そのたびに男達は、麻痺した脳に何も感じぬまま、屍に変わっていった。
 そして三鬼もまた、彼等を殺す事に呵責を感じぬまま、感情に任せ、感情が命ずるままに――
 残されたのは、肉塊であった。
 頭を握りつぶされたものや、上半身と下半身が引きちぎられて分けられたもの、背骨が二つに折り畳まれたもの、何れも素手で、過剰な程の力を加えられて殺されている。
 戦場となった二の丸よりも尚、惨状であったが、三鬼はそれらを踏み越え、

「紅野! 蒼空!」

 二人の少女の名を呼んだ。
 紅野は、その名が誰であったかを思い出せないように、天井を見上げたままだった。
 蒼空は、その声が聞こえていないかのように、硬く目を瞑ったままだった。
 二人は、互いの背に腕を回すよう、正面から抱き合わされ、それぞれに手枷で拘束されていた。
 その枷を三鬼は、指先で摘むように破壊し、二人を自由にする。
 
「無――」

 無事か、と問おうとした。
 無事である筈が無い。
 昨夜、この牢に捕らわれてから、今に至るまで――恐らくは休まされる事も無く、嬲られ続けたのだ。
 単純な暴力なら、彼女達であれば、耐えられたのかも知れない。
 狭霧和敬はそれを知って、二人を最も苦しめる為に、禽獣へその身を下げ渡した。

「――――――」

 だから、三鬼は、無事かなどとは問えない。
 彼女達を貶めたのは、自分が与し、一身を賭して守った男なのだ。
 なんの咎無くこの世に生まれ落ちた二つの命が、母を奪われ、片割れを奪われ、今また自由と尊厳、自分の手に有って然るべきものを奪われた――
 その全てを命じた男を守護し続けたは、この波之大江 三鬼ではないか。

「――……じきに、敵勢が来よう!」

 三鬼は、それだけを言った。
 敵勢――政府軍が、もう直ぐ、本丸まで攻め寄せる。大罪人の娘とて、一人は比叡山の総大将を務めた身、酷く扱われる事も無いだろう。
 彼等が、お前達を救う。
 自分に許し得る言葉は、それだけだった。
 それだけを言い残して――死にかけた体を、階段の上へ押し上げ始めた。








 手足の全てを使い、巨大な獣が這うように、波之大江 三鬼は階段を上がった。
 三鬼が通った道程には、彼の巨大な腹腔から流れた血が、死への道標を描いていた。








 そこは、日の本の城にありながら、西洋風の洒落た部屋であった。
 汚れ一つ無い絨毯が、日の本の建材で作られた板の上に敷かれた廊下には、引いて開ける扉が幾つか並んでいる。
 二条城本丸、天守閣より一つだけ階を下がった、狭霧和敬の私邸とも言えよう空間。
 だがそこには、人間が生活しているという気配が、極めて薄い。
 一つには狭霧和敬が、華やかなこの空間よりも、地下に作らせた陰惨な拷問部屋を好み、そこで寝泊まりする事が多いからだ。
 この日は、高台より戦場を見渡す為、狭霧和敬は自ら、品良く飾り立てた一室に陣取っていた。
 三鬼がその部屋の扉を開けた時、狭霧和敬は長椅子に腰掛け、左腿の上に右膝を重ね、窓枠に肘を引っ掛け、頬杖を付いて座っていた。

「死体のような臭いがするぞ。とうとう死ぬのか、鬼殿よ」

 狭霧和敬は、三鬼に一瞥もくれぬまま、窓の外の光景を――遠くに折り重なる、大量の屍を眺めていた。
 その顔が、不敵であった。
 敗戦の最中に在りながら、己の負けを微塵も思わぬような――
 寧ろ、勝ち負けなど、この男の興味の中には無い。
 この男は、むごたらしい死が見られれば、それが敵だろうが味方だろうが、どうでも良いのだ。

「臭いからするに、一刻か、二刻か。いずれにせよ死に体の鬼が、なんの用だ」

 その物言いまで、酷く楽しげであった。
 この男を形容するに、どの言葉を用いるべきか、三鬼は遂に、妥当な答えを見つけられなかった。
 外道――
 適切であろう。だが、一代の英傑でもある。
 たった七百の兵と、守戦に向かぬ城一つだけを残され、二万――或いはその背後に控える数万の軍勢を敵としながら、この男は勝者の顔をしているのだ。

「……お逃げくだされ。ご息女を連れ、遠く、遠くまで――」

 もし――この男が、上手く二条城から落ち延びられたならば。
 三鬼は、瞬間、その光景を夢想した。大陸か、それとも南方の島国か、遠い地で力を蓄えた狭霧和敬が、海を埋め尽くす大船団を連れ、日の本を飲み込む様を――
 此の期に及んで尚、三鬼は、狭霧和敬を、強き国を作る男だと信じていた。
 その信は、死しても揺らぐ事は無いだろう。
 三鬼は、狭霧和敬を信じて命を預けた、その事を誇りながらに死ぬだろう。
 非道を極めた狂人でありながら、そうさせるだけの何かが、この男には有った。
 然し、それは、〝武人〟たる波之大江 三鬼の話である。
 武に生きた男が、己を恥じぬままに死んで行く事と全く矛盾せず、三鬼のもう一つの顔が、最期にずるりと、腹の傷から滲み出た。

「――……貴公の娘御達は、強う育ちましたな」

「あぁ?」

「刀として、槍として、たった一振りで、幾百もの人間を屠る――あれは人ならぬものの強さに御座る。疾く、吉野殿と併せ、手を携えて落ち延びられよ。貴公の後を継ぐ者として、否、貴公の成す天下を納める者として、教え導く事も出来よう」

 血を吐きながら、三鬼は訴えた。
 娘二人を連れて、逃げろ――逃げてくれ、と。
 訴求というよりは、もはや懇願である。
 父と、母と、娘二人、何処かへ逃れてくれと、請い願ったのだ。

「――く、はっ」

 狭霧和敬は、笑った。
 長椅子の上で体を丸め、腹を抱え、涙を流す程、笑った。
 三鬼の前で狭霧和敬は、誰も聞いた事の無いような大声で笑ったのだ。

「鬼殿よ、何を寝惚けたか、それとも死に惚けたか!? 今更忠臣面をして、俺に逃げろと唆すまでは良いが、あの玩具二つを拾って行けと!? あんな底の破れたずた袋胎が二つや三つや、十や二十も集まって、それで納まる程に矮小な天下か!? 十数年も使い古して壊れた道具だ、犬の群れに下げ渡してやった、後は知らん! 役に立つというなら戦の花向けに、野犬の精液に塗れた臓腑をぶちまけるがせいぜいだろうよ!」

 一息に言い放ち、笑い、喉をひゅうと鳴らして息を吸い、また笑う。
 この城へ籠城を決めてから、溜め込んだ衝動を全て吐き出すかのように――
 或いは、二人の娘が生まれてから今まで、溜め続けた思いを吐き出すかのように――
 狭霧和敬は、自分の娘を嘲笑った。
 それからやっと、空気の枯渇で目に滲んだ涙を拭いながら、長椅子の傍に置いた大鋸を手に、すうと静かに立ち上がった。

「……良いか、俺はな、もう〝あんなもの〟はどうでも良いのだ。欲しければ勝手に拾っていけ、だが俺に何を期待する! 獣の反吐より穢れた女が二頭、俺に何の意味が有る? 江戸の外れの枯れ藪で、四文銭で客を取る夜鷹にも劣る女が? 首を落として楽しめば良いか、腹を割って楽しめば良いか――そうだ、胎を割れば犬の子が入っているかもしれんな、それなら少しは面白いぞ! 母子並べてこの窓から吊るし、攻め手の頭に腐肉の汁でも降らせてやれば――」

 ずん。
 部屋が、まるごと揺れた。
 壁のある一面に、三鬼が拳を打ち、廊下が見える程の大穴を開けた音であった。

「――狭霧兵部!!!」

 唇も、歯も、血でどす黒く染めながら、三鬼は、主と定めた男の名を呼び捨てた。
 そして、巨岩の如き拳を、天井を突き破る程に振り被った。

「貴様、それでも人の親かああぁっ!!!」

 その両目から、血の涙が流れていた。
 悲しみでも無い。怒りでも無い。
 悔しいのだ。
 遂に己の切なる願いは、何も叶わぬまま、三鬼は死ぬ。
 大なるは日の本の、より強く、より大きく発展して行く事も――
 小なるはたった一つの家族が、人並みに幸福を掴み生きていく事も――
 そのいずれをも成せる力を持った男は、とうとう最後までその力を、不幸な人間を増やす事にのみ、注ぎ続けた。
 その力を御し、正しき道に震わせる事が出来たのなら――
 それが出来ぬ己の無力が、愚かさが、三鬼は悔しくて、血の涙を流した。
 拳が振り落とされる。
 瀕死とは言え、人間一人、容易く叩き潰す巨拳。
 届かない。
 三鬼の体が、後方に押され、揺らいだのだ。
 三鬼の懐に、狭霧吉野が飛び込んでいた。

「和敬様!」

 吉野は、顔を覆い隠す鉄兜を被っていなかった。
 白髪も、光彩異色の両目も、この女が、あの二人の少女の母なのだと、一目で分かる姿であった。
 だから三鬼は、拳を止めてしまった。
 吉野は、三鬼の胴体にしがみ付き、流れ出る血を全身に浴びながら、肩越しに振り向き、狭霧和敬を見た。
 和敬は長椅子に腰掛け、にいっと笑うと、

「死ね」

 親指を立て、その指を刃に見立て、喉を掻き斬る仕草をした。

「……はいっ!」

 そして――吉野は、手の中に、小さな火を灯した。
 皮膚を焼くのが精一杯の、か弱く小さな火だ。
 その火を吉野は、懐を開いた着物の、胸の中に抱き――

 光。

 衝撃。

 轟音。

 熱風。

 吉野は、爆ぜた。
 懐に抱いた爆薬に火を着け、波之大江 三鬼ごと、己の身を爆破したのであった。








 冴威牙と紫漣の二人は、二条城の西端で、戦の音を遥か後方に聞きながら、城を抜け出そうとしていた。
 冴威牙の鋭敏な嗅覚は、遠くで流れる大量の血の香を捉えている。紫漣が高台から目を凝らせば、どれ程の亡骸が打ち捨てられているかを数えられただろう。
 戦は酸鼻を極めている。
 その場に、彼等は居なかった。

「……冴威牙様、よろしいのですか」

「ああ」

 紫漣は、戦の音に後ろ髪を引かれるよう、何度も振り向きながら問う。然し冴威牙は、もはや戦場に目もくれず、歩いて行くのだ。

「あそこに居て、俺達に先はねぇ」

「ですが、ならば何処になら――」

「どこだって良い、兵部のおっさんの下よりマシだ」

 昨夜の宴を経て、冴威牙は確信していた。
 狭霧和敬は確かに、まだこの戦に負けたつもりでは無いだろう。寧ろ、此処から巻き返し、勝利を収める策さえ持っているのだろう。
 だが――その策の後に生きているのは、狭霧和敬と〝大聖女〟エリザベート、後は和敬の玩具として生き長らえる事を許された幾人か。自分が生き延びるとしたら、その〝玩具〟としての立場であるのだ、と。
 仮にこの戦に勝ったのなら、確かに自分は相応の地位を与えられ――狭霧の姓も与えられ、狭霧和敬の娘二人を娶り、高い官職に置かれるだろう。だがその地位は、狭霧和敬という後ろ盾に身を全て預けた、何時倒れるとも分からぬものに過ぎない。
 そこに、冴威牙の目指すものは無い。
 冴威牙は漠然と、亜人として、人間の上に立つ事を望み、生きてきた。人間を幾人も従え、思う侭に暴虐を働き、望みの幾分かは叶えたように思えていた。然し昨夜、それは全くの思い違いであったと知った。
 結局のところ自分は、狭霧和敬の下、彼の意を組んだ玩具として生きていたに過ぎない。

「……紫漣よぅ。俺はなんで、あの時に――」

「冴威牙様……?」

 言い掛けた言葉を、飲み込んだ。

 ――なんであの時に、狭霧和敬を殺そうとしなかったのか。

 手酌で酒を注がれる程も近くに居たのだ。喉笛を噛み千切り、狭霧和敬を殺し、自分が二条の城を奪い取っても良かった。
 或いはその首を持って政府軍に投降し、政府内で官位を得て上り詰め、やがて頂点に成り代わるという道も有った。
 何故、そう出来なかったのか?

 ――勝てねぇと、思ったからだ。

 力でも、外道の度合いでも、狭霧和敬には勝てない。そう確信してしまったからこそ、冴威牙は動けなかったのだ。
 波之大江 三鬼や雪月 桜のように、化け物じみた強さの生物は居る。そういう生物に勝てぬ事は、冴威牙はもう、諦めている。
 だが、狭霧和敬の強さは、違うのだ。
 狂気と理知が混ざり合いながら、己の欲望を全く制御しようとしない、人間らしからぬ意思の強さ――獣以上に獣らしく、殺戮の為だけに生きる生物の恐ろしさ。
 そう、恐怖だ。
 冴威牙は、狭霧和敬を恐れた――だから彼の下を、離れようと決めたのだ。
 思えば、僅かの間に多くを得て、失った。
 宿無しの流れ者が、狭霧和敬に取り入って、部下を与えられ、権限を与えられた。人の町で蛮行に耽り、逆らう者を望むまま虐げた。そして、戦場さえ与えられた。
 戦場で、与えられた部下を失った。左目を失った。無法を許される権力を失い、また何も持たぬ流れ者になった。
 負けた。
 冴威牙の心には焼印のように、敗北感が刻み込まれていた。

「……紫漣」

「はい、気付いています」

 然し――如何に心が虚ろであったとて、冴威牙も紫漣も、一廉の腕利きである。彼等は既に、自分達へ近づいて来る敵を察知していた。

「一人ずつだ!」

「はいっ!」

 冴威牙が背後を振り返り、紫漣が地を蹴って飛び立った瞬間――冴威牙の左腕を鉄の枷が捕え、そして紫漣の背が有った空間を、鎖で繋がれた鎌が通り過ぎる。
 冴威牙を捕らえた枷は、長い鎖の先に繋がれていて――その向こうには葛桐が、同じ枷を己の左腕に繋ぎ立っていた。

「……んだこら、イタチかよ」

「手負いの犬か……いい金になりそうだ」

 いずれも亜人たる両者は、互いの臭いから戦力の程を探り――険しい顔をした葛桐と裏腹、冴威牙は己の優位を確信し、不敵な笑みを見せた。
 その横では女二人が、空と地に分かれて睨み合っていた。
 いや――睨み合いという形容もまた違うかも知れない。敵意を撒き散らす紫漣に対し、離堂丸は心底幸せそうに、得物の十連鎌を振り回している。

「羽の有る首は取った事が無い。良いですね、楽しい狩りになりそうです」

「誰が……誰が素直に殺されてやるかっ! 冴威牙様の為、此処で死ねっ……!」

 そして――四者はほぼ同時に、それぞれの敵目掛けて動いた。
 戦局を左右せぬ、些細な殺し合いが始まった。








 獣が二頭、向かい合う。先手を取ったのは冴威牙だった。
 地面から矢のように跳ね上がった爪先が、葛桐の腹に突き刺さる。
 六尺六寸の長身が、一瞬、確かに浮かび上がった。

「しゃあっ!」

 着地を待たず、冴威牙は蹴った。
 右脚を鞭のようにしならせ、大きく外側から回し込み、葛桐の左側頭部を殆ど真横から打ち抜いたのである。
 獣の皮を乾燥させ、分厚く重ねた脛当てを、冴威牙は身に付けている。その脚で放つ蹴りは、例えるなら丸太で殴り付けるが如き衝撃を生む。
 葛桐の体が薙ぎ倒され――地に腕を触れさせる直前、辛うじて踏み留まる。

「おおるぁああっ!」

 冴威牙の足が、地面に触れる前に、また舞い上がる。
 姿勢を立て直そうとする葛桐の背に、踵が落とされた。
 二度、三度、四度。後退し、ようやく右足を地に着けるも、すぐさま次の蹴りを打つ。
 その脚へ、葛桐の右手が伸びた。

「おっ――」

 のっそりとした立ち姿から、弾かれたよう手が跳ぶ。
 しなやかな、柳のような体を持つ葛桐の動きは、静から突然に動へと転ずる、反応の難しいものであった。
 然し、速度のみを比べるなら、冴威牙が一枚も二枚も上手。脚を逃し、遠くへ飛んで間合いを取ろうと――

「何処へ行く気だ?」

「ぉ――わっ!?」

 葛桐が、二人の手首の枷を繋ぐ鎖を引いた。冴威牙の足は地から浮き、引き寄せられ――出迎えるように、葛桐の膝が腹に深々と刺さる。

「げえっ……!」

 その一撃は、これまでの攻防を全て帳消しにする程の重さを誇っていた。
 脹脛と大腿が触れるまで脚を畳み、鋭角となった膝が、葛桐のしなるような動きで打ち出され、突き上げるように腹を打ったのだ。
 鍛えられた冴威牙の腹筋が、まるで役に立たない。打たれた部位の真下の内臓が、直接に揺さぶられるが如き衝撃であった。
 咥内の唾液が糸退く感覚を味わいながら、冴威牙は辛うじて身を起こす――その一瞬後、葛桐の肘が、それまで冴威牙の頭が有った筈の空間を降下して行った。

「ちっ」

 舌打ちしながらも、葛桐はまた鎖を引く。そして今度は、自分からも冴威牙へ向けて踏み込んだ。

「っ!」

 咄嗟に冴威牙は前蹴りを放ち、接近した葛桐を押し返そうとした。
 靴の硬い爪先が、葛桐の腹部を狙う。先に冴威牙が打たれた場所と、全く同一の箇所にそれは突き刺さった。
 苦しむ筈だ――或いは内臓が傷つき、血を吐く者とて居よう。
 だのに葛桐は、何事も無かったかのように、腹を押し込む冴威牙の蹴り脚を掴んだ。
 めぎぃっ。

「おっ……!?」

 冴威牙の脛を覆う防具が、葛桐の握力に悲鳴を上げた。こうなればもう、葛桐は獲物を逃がさない。
 捕まえたままに、乱杭の牙が並ぶ口を開き――咄嗟に身を庇った冴威牙の、左前腕に、骨をも砕く葛桐の牙が喰い込んだ。

「がああアアァッ!?」

 皮膚と肉が一瞬で立ち切られ、骨がみしみしと軋む。
 このまま力が加わり続ければ、やがては破砕されるだろう。
 ありえない――と、痛みに吠え狂いながら、冴威牙はそればかりを思った。
 犬の亜人たる冴威牙は、己の嗅覚に絶対の自信を持っている。たかが〝イタチ〟が自分を苦しめ、追い詰める筈が無いのだ、と。
 冴威牙の不幸は、日の本の外を知らなかった事である。
 葛桐は、亜人の父親と人間の母親の間に生まれた混血であり――その父親は、クズリの亜人である。
 クズリは、確かにイタチの遠縁のようなものであるが、その何倍も性質が悪い。
 強靭な四肢、鎧の如き体毛、体躯から及びもつかぬ程に強烈な顎と牙。自分より巨大な獲物へ臆せず襲い掛かり、実際に仕留めて喰ってしまう凶暴性。それが、葛桐にも備わっている。
 冴威牙の苛烈な攻撃は、その実、葛桐の硬い体毛に衝撃を殺され、さして痛みを与えては居なかったのだ。そして、一度葛桐の牙に囚われたからには、もう逃げる術は残されていない。

「ぎあっ、ぐっ、ごおっ……!」

 呻きながらも、冴威牙は滅多やたらに拳を振り回し、足を振り回して葛桐を打った。
 片腕に噛み付かれ、大きく体を動かせぬままの打撃――体重が乗り切らず、葛桐を打ち倒すには不足の打撃。
 加うるに、片目を失ったばかりの冴威牙では、最小の力で倒し得る急所を、的確に狙う事が出来ない。
 この、技とも呼べぬ技、噛み付きからは、どうやっても逃れられないと、冴威牙は悟った。

「紫漣っ! 助けろ、俺を、助けろっ!!」

 縋る手は一つ、己の忠実なしもべである紫漣に、葛桐の背後を突かせる事であった。
 然し、答えは無かった。
 代わりに、血の臭いばかりが、慣れ親しんだ臭いと混ざって、むうと冴威牙の鼻を突いた。
 振り返る。
 翼を鎌で引き裂かれ、地に引きずり落とされた紫漣の背に、離堂丸が馬乗りになり、脇腹と言わず背と言わず、手に持つ草刈り鎌で突き刺し抉っていた。

「しれ――」

 暫し冴威牙は、腕の痛みを忘れ、忠臣の惨状に目を奪われた。
 離堂丸は、鎌を滅茶苦茶に、子供のように振り回して、紫漣を抉る。
 時折、ごつ、ごつんと硬く鳴るのは、狙いも疎かに振り下ろされた鎌の切っ先が、骨を打つ音である。
 腕も脚も、殆ど動いていない。腱を斬られているのだ。
 それでも紫漣は、まだ生きていた。
 地面に這い蹲りながらも、力を振り絞って顎を上げ、霞む視界に冴威牙を収め――

「さい、っ、に……逃げ、て」

 ざしゅっ。
 反らされ伸びた白い喉を、離堂丸の鎌が掻き斬った。
 吹き出す血の量は、意外な程に少ない。
 痙攣は直ぐに収まり、有翼の女は、呆気無く亡骸と成り果てた。

「ぅ、ぉお、おっ……」

 その間――冴威牙は、動けずに居た。
 手首を噛まれ、捕らえられているから――だけではない。
 寧ろその時、葛桐の顎の力は、無意識にか、ほんの僅かに緩んでいたのである。
 渾身の力で振り払えば、逃れられる筈だった。だのに冴威牙は、動かず、紫漣が息絶えるのを、ただ欠けた杯から水が流れ落ちるのを眺めるように、見ていたのであった。

「……ひっ、ひぃ、ひ――ひっ、ひっははははは、ははははァッ!!」

 そして――吠えるでなく、鳴いた。
 鳴いてから、高く笑った。
 冴威牙は、左腕を、思い切り捻る。
 葛桐の牙に、骨まで噛み潰されていた左の手首が、ごりっと音を立てて、取れた。
 左腕の枷が、引っかかりを失って落ちる。
 それを見届けぬまま、冴威牙は葛桐にも、紫漣の亡骸にも背を向けて走り出していた。

 ――どうしてだ、〝俺〟。

 逃げながらも笑い続けて、笑いながら――泣いていたのかも知れない。
 後方から、自分を追う足音が聞こえていただろうが、それも意識にまでは届いていなかっただろう。
 ただ冴威牙は、あらゆるものに背を向けながら、己に問うていた。

「俺は――っはは、はははっ、俺は何処で間違ったァッ!?」

 その問いに、意味は無い。
 何を間違えたと言うなら――そも、間違えていない事の方が少ないのだ。
 与する相手を間違え、成り上がる手段を間違え――逃げ出す機を間違え、本当に守るべきものを間違えた。
 力――左手を失い、己の力への確信を失った。
 腹心――いや、伴侶とも呼べよう紫漣を失った。
 これで本当に、冴威牙には何も無くなったのだ。
 がむしゃらに、敵の臭いの少ない方へ、少ない方へと逃げ続ける。そうして辿り着いたのは、自分から離れようと決めた、二条城の本丸であった。
 偶然と、戦場とが手を組んで、己に死ねと命じているようにさえ、冴威牙は感じ――また笑いながら、左手首を強く掴んで止血する。

 ――まだだ。

 悪党は往生際が悪い。そして冴威牙とて、大物とは呼べぬながら、一端の悪党気取りである。

 ――まだ、使えるもんがある。

 ふらふらと二条城の城内へ、身を隠しながら侵入する冴威牙の口元には、歪な形の笑みが張り付いている。
 涙はいつまでも枯れそうになかったが、もはや冴威牙は、自分がどういう表情をしているかなど、意識する事も出来ていなかった。








 二条城の本丸へ、冴威牙は裏手から堀を乗り越え侵入した。
 城内にて冴威牙がまず感じ取ったのは、複数個所から漂って来る、強烈な血の臭いであった。
 戦場に比べれば、それも薄い。
 十か、二十か――五十も死んではいないだろうと、その程度の臭いだ。
 だが此処は、狭霧和敬の本陣だ。この城に屍が有るという事は、それだけ追い詰められているのだろうと、冴威牙は認識した。
 まだ冴威牙は、城の上階で、狭霧吉野が波之大江三鬼を道連れに、爆ぜて散った事を知らない。
 そしてまた冴威牙は、地下の牢で何が起こったかを知らない。
 冴威牙は本丸の中を、怯えた獣のように足音を殺して、地下の階段まで辿り着いた。そして日光から逃れるように、その体をするりと階段に踊り込ませ、滑り落ちるように最下層を目指した。

 ――あれが居れば、まだ俺は。

 冴威牙が求めていたのは、狭霧紅野と狭霧蒼空の、双子の姉妹であった。
 父親の手に捕らわれ、心を傷つけられ、冴威牙に下げ渡された玩具扱いの娘達。
 一度城を抜け出す際、冴威牙は、部下達の気を逸らす為、大量の禁制の薬物と併せ、双子を、好きに使えと言って部下達へくれてやった。
 その後の仕打ちがどうであったかは、見てはいないが、予想は付く。
 そして――予想の通りになっているなら、冴威牙はそれが、自分に利するものだと踏んだのだ。
 狭霧紅野は、かつては比叡山の山城に立てこもり、狭霧和敬の軍を防いだ大将である。現行の政府軍とて、救えるものならば救いたいと――見捨てて不平の声が上がるよりは、彼女の命を守ろうとするだろう。
 狭霧蒼空の方は、政府に対して功績は無い。寧ろ、政府軍の兵を幾人も斬り殺した大罪人である。
 その何れをも冴威牙は、政府軍に突き出し、己の延命を図ろうとしていたのだ。
 それは、酷く短絡的な案であったし、冴威牙自身もその案の、不完全な事を理解していた。
 冴威牙自身、政府軍の手に捕らわれれば、首が飛んで然るべき悪党である。ましてや部下達が、紅野と蒼空に向けたであろう仕打ちを考えれば、二人を生かしておけば、まず自分が生きる術は無い、と。
 だが――

 ――口を閉じさせれば良い。

 生きては居る。だが、何も言葉を発する事は出来ないし、文字を書く事も出来ないし、何も理解できないような――そういう有様にしてしまえば良いのだ、と。
 冴威牙は、狭霧和敬が、密輸入した禁制の薬物を用い、人間を生かしたまま、その人格を破壊する様を見た事がある。
 そこに、技は必要無い。ただ、人体に有害である薬物を、死なぬ程度の量、投与しただけであった。
 そのように二人を壊し、その上で、二人を城から救い出したと言って、政府軍に降る。
 それが冴威牙の、追い詰められたこの男の、最後の策であった。
 地下牢を目指して階段を駆け降りながら、冴威牙は既に、部下達が皆殺しにされた事にも気付いていた。死臭と、臓腑を撒き散らされた腐臭は、階段の上まで漂っていたからである。
 それさえも、好都合であると思った。
 下手に口を滑らせる者がいないなら、自分の策は、成る可能性が増す、と。
 かつては部下達を、己の群れを構成するものと見做し、兄貴風を吹かせていた男は、もはや面影さえ残さず憔悴していた。
 そして冴威牙は、地下牢に降りた。
 予想した通り、かつての部下達は無惨に殺されていたが、その血が届かぬ壁際で、少女が二人、身を寄せ合っていた。
 すん、と鼻をひくつかせる。それだけで冴威牙は、既に亡き部下達が、この少女二人をどれ程に責め嬲ったか把握していた。

「おい、助けてやろうか?」

 発した声は、意に反して震えていたが――それ以上に、人の声を聞いて、蒼空がびくん、と跳ねるように震えた。
 姉の体にしがみ付き、顔を姉の胸の中へ押し付け、何も見ないように――怯えた子どもそのものの姿であった。
 冴威牙は近づいて蒼空に手を伸ばすが、そうすると蒼空は、手足をぎゅうと縮めて、遮蔽物も無い空間だというのに、身を隠そうと足掻いた。

「外へ出るんだよ」

 もう一度、発した声は、少し落ち着きを取り戻していた。
 自分よりも何かに怯えた、惨めな存在を見つけたからであった。
 弱弱しく怯え竦む体を、担ぎ上げて運び出そうと冴威牙が近づいた時――
 すう、と静かに、紅野が立ち上がった。

「お――」

 一瞬、冴威牙は後退し、両手を顎の高さにまで上げて身構えた。狭霧紅野が、妹程の怪物では無いにせよ、剣、槍から体術に至るまで一通り、達人の域に在る事を知っていたからである。

「――あははっ」

 だが――その懸念を溶かすように、紅野は、笑っていた。
 満面の笑み、であった。
 幾年も恋い焦がれた待ち人に、とうとう出会う日の少女の顔――
 或いは、遠く出稼ぎに出ていた父が帰ったのを、家の外で待ち受け、走り寄る娘の顔――
 はっとする程に、その笑みに、邪気が無かった。
 人はこんな風に、何も苦しい事など無いのだという風に笑えるのか――そんな事を、冴威牙は思った。
 そして、紅野が両腕を広げ、無邪気な笑みのままで歩み寄って来た時、冴威牙は己の中で答えを出した。
 もう、この女は、苦しい事なんか何も無いのだ。
 老人が、呆けた頭で夢と現の境界を彷徨っているように、この女にはこの世の事が、もう何も分からぬのだ、と。

「よーし、ようし、良い子だ……俺がお前を助けたんだ、良いな?」

 冴威牙は、子供に言い聞かせるような口振りをして、紅野を迎えた。
 紅野は、真正面から冴威牙の懐へ入って、彼の首に両腕を回し、ぎゅうと抱きついて、
 がぶっ。
 冴威牙の首を、甘く噛んだ。

「……痛ってえな」

 歯に、欠けたものでも有ったのか、軽く噛まれただけだが、僅かに冴威牙の皮膚に傷が付く。放っておけば直ぐに塞がるような傷だ。
 姉を体に纏わりつかせたまま、冴威牙は、未だに顔を隠したままの妹の腕を掴もうと――

 ――おっ?

 手が、何故か、届かなかった。
 相手が動かずに居て、その腕を掴もうと手を伸ばしたというのに、冴威牙は明らかに目測を誤り、手に空を切らせたのである。
 もう一度、手を伸ばす。
 手が、蒼空まで届かない。

 ――何故だ。

 腕が、伸び切っていなかった。
 肘が、緩い角度で固まって、手の指も僅かに曲げられた形で動かせなくなっていた。
 何かがおかしい。
 そう気付いて、後ろへ下がろうとした。
 脚の関節が正常に働かず、冴威牙は背中から、地下牢の床に倒れ込んでいた。

「……あぁ?」

 その言葉を最後に、舌までが痺れ、動かなくなり始めた。
 呼吸は出来る――かろうじて、である。
 瞼も上下はするのだが、じれったい程に緩やかな速度で、眼球は乾燥した空気に晒しものにされる。だが、目に痛みを覚える事も無い。
 仰向けに倒れ、呆然と天井を見る冴威牙。
 その視界を、紅野の顔が埋めた。

「あいつらにさ、必死で懇願したんだ。殴らないでくれ、なんでもするからって」

 紅野はもう笑っていない。
 冴威牙の腹に跨り、胸の辺りに両腕を置いて支えとし、冴威牙の顔を真上から覗きこんでいる。
 紅野は、大きく口を開いた。欠けの無い歯列の中に、一本分の空白がある。
 かつて紅野が、己の身を捨てるような行為を取った時、波之大江 三鬼に殴られ、折れた歯であった。
 その部位に紅野は、特注の差し歯を入れていた。
 その差し歯が、冴威牙の首に突き刺さっていた。

「助かったよ。これが口の中で割れてたら、私がこうなってたとこだ」

 紅野は、差し歯の内側に、強力な毒薬を仕込んでいた。
 無論、小さな差し歯である。構造上、装着者の安全を図る為にも、そう大量の毒を仕込む事は出来ない。
 十分な量を投与すれば、人の心臓を止めるに足る毒薬であるが、この差し歯に仕込む事が出来た量であれば、僅かな時間、身の自由を奪う程度のものでしかなかった。
 その僅かな時間で、十分だった。

「蒼空」

「……ん」

 いつのまにか蒼空は、無惨に潰れた死体の懐を漁ったのか、二振りの短刀を持って、紅野の横に立っていた。
 それさえ感じ取れぬ程、冴威牙の耳も鼻も鈍麻していたのであるが、たった一つ、目と思考力だけは無事であった。
 蒼空が、短刀を一降り、紅野に手渡した。
 紅野はそれを受け取ると、逆手に握り、

「一緒にやるか?」

「ん」

 双子は同時に、冴威牙の体へ――急所に〝当てない〟ように、短刀の切っ先を振り下ろした。
 どちゃっ、と。
 どしゅっ、と。
 肉の筋が切れて、骨が打たれて、血がしぶいて、色々な音がした。

 ――誰か。

 冴威牙は、声を出せぬままに吠えた。

 ――誰か、俺を助けろ。

 答えるものは誰も居ない。
 手に入れた全ては、一つ残らず失った。
 自分は何処で生き方を間違えたのか――その問いを遂に与えられぬまま、数十の斬撃を受け、冴威牙は緩慢に死へ向かった。








 歩く。
 それも、気忙しく、江戸の町人達のように、ぱたぱたと早足で歩くのではない。
 洛中に在るからには、京の流儀に合わせようとでも言うのか――そうではないにせよ、そう思いたくなる程に、ゆったりと歩くのである。
 東の門を潜り、道なりに進んだ。
 壁を越えたり、高台に登ったり、そういう無粋は無い。
 先に行った者達が切り開いた道を、そのままに辿って、歩くのである。
 雪月 桜。
 村雨。
 何時の間にか、戦の渦中の人となっていた。
 それを厭わず、寧ろ自ら望んで戦い、その果てに今、此処に居る。

「ふーむ……私達にしては、珍しい」

「何が?」

「洛中に来てからというもの、こうしてのんびりと歩くより、妙にあちらこちらと走り回ってばかりだった気がするのでな」

「あはは、確かに」

 朗らかに談笑しながら、二人は歩いた。
 砲弾によって破られた東大手門から入り、大量の爆薬で吹き飛ばされた二の丸跡を通る。
 黒く焦げた死体や、一度立ち上がってもう一度死んだか、致命傷が一つならず刻まれた死体などが、そこら中に有った。
 その先には、波之大江 三鬼率いる白槍隊が、政府軍を迎え撃った、門の前の空間が有る。
 死んだばかりの人体が、やはり幾つも倒れていた。
 そういう空間を、二人は、平時の事であるかのように通り過ぎて行った。
 三鬼ごと砲弾で打ち破った、城内の門を過ぎると、本丸へと続く道に出る。
 その道の上を、政府軍が、拝柱教武装信者の軍とぶつかり、真っ直ぐに押し込んでいた。
 本丸の、正門までの道は開いている。
 桜は刀を抜かぬまま、その道を歩いた。
 村雨は拳を構えぬまま、その道を歩いた。

「あっ……師匠!」

 門の前には、二人の見知った顔が有った。
 松風 左馬――返り血も、当人の血だろうものも混ざり合って、華美な服が、黒めいた赤に染まっている。

「通れ。門は開いていたよ」

「おう、行ってくる」

 それから桜は、本丸の正門の前で背後を振り返った。
 戦は、まだ続いている。
 拝柱教の武装信者は、十倍以上の政府軍に対し、健闘していると言うに足る戦いぶりを見せていた。
 彼等は、一度の死では死なない。
 三度まで立ち上がり、四度目に殺して、初めて死ぬ。
 そして、その四度の死のいずれをも、全く恐れていないようであった。
 彼等の奮闘は、果たして何時まで続くだろうか。
 長くは続くまい。
 桜の見ている前で、拝柱教の信者は、手から砂が零れ落ちるように、留まらず数を減らして行く。
 彼等を殺している人間は、様々であった。
 何処かの田舎の村で、鍬を持っているのが似合いそうな、顔の四角い男が居た。
 つるんと頭を剃り上げた、日頃は念仏など唱えているのだろう僧兵が居た。
 髭にも成り切らぬ産毛が鼻の下にうっすらと生えた、子供のような顔の男が居た。
 顔の皺が深く、髭も白いものが混ざった、老兵が刀を振るっていた。
 手に藍色の染料が浸み込んだ男は、きっと染め物屋なのだろう。
 節くれだった手の、体格の良い男は、鳶の職人などしているのが似合いそうだった。
 よくよく見れば、西洋人も居る。
 大陸の十字教が援軍として送って来た、『ヴェスナ・クラスナ修道会』の修道士や、修道女達であった。
 不揃いの装備で、良く動く連中が居る。
 『錆釘』の精兵達が、手柄を求めて暴れているのであった。
 姿が、明らかに人と違うのは、亜人である。小さな亜人の群れは、村雨が見出して集めた者達で――彼等もまた、村雨の臭いに気付いたか、一層力を振るって勇戦した。
 子を持つ父であろう男が居た。
 或いは、老いた父を持つ子であろう男が居た。
 堅気の者とは見えぬ、鋭い目の男が居た。
 荒事などまるで相応しくない、優しい顔の男が居た。
 誰もが皆、武器を持ち、人間を殺そうとしている。
 なのに彼等は、自分が殺している人間が――嫌いでもないし、恨みがある訳でも無いのだ。
 桜と村雨は、今、自分達が潜り抜けて来た戦とは、どういうものであるかを、その目に焼き付けながら――息を整えていた。
 ここまでを歩いてきた、僅かな体力の消耗さえを取り返さんと、深く息を吸い、息を吐く。
 桜は、両手をぎゅうと、指の骨が軋みを上げるまで握った。
 その手に、村雨が触れ、指を開かせ――自分の指を絡ませて、言った。

「行こっか」

「……うむ」

 そして二人は、城外の戦いに背を向け、手を繋いだまま、本丸の階段を昇って行った。








 本丸の中は静寂に満ち、また死の臭いに満ちていた。
 外の戦いの臭いが流れ込んだものと、本丸の内にて幾つも起こった死が、ぐしゃぐしゃに混ざり合った臭いである。
 村雨ばかりでなく、純粋な人間である桜さえが、その臭いを嗅ぎ取っていた。
 誰の声もしない空間に、ぎぃ、ぎぃと、木組みの階段が鳴る音ばかり響く。
 段を一つ、また一つ昇る度に、二人は戦いの場へと近づいて行く。
 戦いとは、何か。
 戦いの〝様式〟には、様々なものがある。一個と一個、或いは万と万が、競いあう。
 競うものは何か。
 力。
 知恵。
 知識
 技。
 財力。
 信仰。
 信念。
 存在。
 美醜を比べる事さえ、戦いである。
 相手の心を奪う、恋路さえ、戦いである。
 だがそれは、所詮は戦いの〝様式〟であり、戦いそのものの本質では無い。
 ならば戦いの〝本質〟とは何か 。
 それを雪月 桜に問うのなら――
 それを村雨に問うのなら――
 或いは桜ならば、それを愉しみの一つに数える事も有ろう。
 村雨であるなら、戦いを厭う心を滲ませ、憂いの一つも見せるだろう。
 だが、戦いの究極の〝本質〟は――『手段』ではあるまいか。
 雪月 桜は、〝愉しみを得る為〟に、〝己の心に適う為〟に。
 村雨は〝人としての平穏を望む為〟に、〝人ならぬものに踏み躙られぬ為〟に。
 そして――〝愛する者と共に生きる為〟に、それが叶う世界を手にする為の『手段』として、戦うのである。
 此処に於いてこの戦争は、最後に、二つの意思の衝突という構図を為した。
 大聖女エリザベートが、〝全ての人類の為〟に望む、エリザベートの絶対的支配による平穏の構築という、一つの思想。
 多くの人間が願う、緩やかな世界の規律の中に続く不変の日常を望む、一つの思想。
 この二つの相容れぬ思想が、互いを屈服させる『手段』として、戦いを選んだ。
 そして、桜と村雨は、〝自分達の為〟に、不変の日常を望む。
 だから桜は、村雨は、自分達で終わらせに往くのだ。
 言葉にて、信念をぶつけ合う様式は、既に試し、無為であると知った。
 二人は、エリザベートに力で打ち勝つ為に――殺す為に、往くのである。

「なあ、村雨」

「ん?」

「怖くは無いか」

「なんで?」

「お前、最初に会った時は、死体の二つや三つで怯えていただろうが。覚えているぞ、どんな顔で泣いていたか」

「あのね……あの時とは色々違うでしょ。……大体、あの時は、桜も確かに怖かったけど――」

 この二人の出会いは、あまり良い出会い方とは言えぬやも知れない――こうして戯れ事のように、出会いの日の事を口にするのも珍しい事であった。
 喉の奥でくっくっと、壁打ちのような笑い声を出す桜に対し、村雨は遠い目をして、その日の事を思い出す。

「――死体じゃなくて、誰かが死ぬ事だとか、誰かが誰かを殺す事だとか、そういう事が怖かったんだと思うし……今でも怖いよ。誰も死ななくていいんだったら、それが良いに決まってる。どれだけ悪い人間だって、殺さないでどうにかなるって言うんだったら、私は絶対に死なせたくない」

「あの時、私は、あの盗賊達を殺すのに、一片の憐憫の情とて湧かなかった」

 桜は、村雨より少し長く生きている分だけ、その日を思い出すのが容易であるように見えた。
 常に纏う氷の面貌を少しも崩さず、ただその目には――見える左目も、見えぬ右目も、僅かに陰りを浮かべていた。

「私にとって、誰かを殺すというのは、〝やり方〟の一つに過ぎなかったからだ。殺した方が楽だというなら殺すし、そうでないなら殺さない――私に抗う者の命など、その程度のものだった。それが変わったのは――やはり、お前の為なのだろうな」

「――――――」

「いい格好をな、して見せたかったのだ」

 その言葉を口にした時、桜の――顔を作る、人格の内側、根っ子の部分から何かが抜けたような気配がした。
 背負っていた荷を下ろし、すっきりとした顔になって、桜は告白を続ける。

「結局のところ、自分が死にかけるまで私は、赤の他人の命なぞどうでも良いと考えていた。お前と洛中までを歩き、夜の灯りに目を輝かせていた時でさえ、それは変わらなかったよ。
 だから、もしかするとそれまでの私は、お前を酷く苦しませていたのじゃあないか――そういう事を、時々思った」

「……そんな事無いよ」

「無いか」

「無い。カッコつけでもなんでも、あなたは私の為に変わってくれた――嬉しかった」

 それにね、と、村雨は言葉を継いでから、暫し口を閉ざした。
 陰りは無い。
 桜と同じように、何か、自分の心に刺さっていた棘が無くなったような、すっきりとした顔をしていた。

「私が本当に、一番怖かったのは、私なのかも知れない」

「お前自身が?」

「誰かが死んだりするのを見たり、誰かを殺したりするのが大好きな、私。多分私、あなたが人を殺すのを見て――泣きながら、笑ってたと思うんだ」

 村雨は、人狼である。
 ともすれば純粋な、曲がる事を知らない少女のような顔をしながら、腹の底には強烈な衝動を眠らせている。
 強い生き物と戦いたい。
 そして、殺したい。
 喰いたい――では、ないのだ。
 自分の命を永らえる為ではなく、無限に湧き上がる欲求を慰める為だけに、他の命を踏み躙りたいと――そういう生き物だった。
 自分の惚れた相手が、実は人死にを見て悦ぶような女であったとして、良い顔をする者も少ないだろう。
 だがその、数少ない例外が、雪月 桜であったのだ。

「嫌な言い方だけどさ、破れ鍋に綴じ蓋だよね、私達」

「なるほど、言い得て妙だ」

 この言い草には、桜も、口を顔の半分までも開けて笑った。

「どちらも立派な人間とは言えんが、まあ、なんだ。そこそこには抑えも利くようになって、以前よりはよっぽど上等になったものであろうよ。願わくはこのまま、欠品同士で共に生きて行きたいものだ」

「うーむ、言葉にするとなんだか心に刺さるね、欠品扱いは」

 そして、村雨も笑う。
 二人して顔を見合わせ、静かな城の中、大きな声を上げて笑いあった。
 いつの間にか、階段を登り終えていた。
 最上階、天守閣には、大きな扉が有った。
 雲を貫く巨大な塔に、これまた巨大な蛇が絡みつき、舌で十字を弄ぶ、冒涜的な意匠の扉。
 向こうの音は、何も聞こえない。
 鋼の扉が、此方側と向こう側を、はっきりと切り分けている――望みを捨てよと罪人に告げる、地獄の門のように。
 その扉に手を掛け、桜は言った。

「エリザベートを斬り、殺す」

「――――――」

「お前の本質がどうであれ、理知の部分でお前は、誰かが誰かを殺すような事を嫌っている。だが私は、エリザベートを殺す。そうしなければこれより先、どれ程の人間が殺されるか分からぬからだ。……格好も気にせぬ、好悪も知らぬ。私は今日、おまえの前で人を殺す」

 それは――あの日、村雨が桜の前に立ちはだかった時から、無言のままに交わされた約定を破るという宣言であった。
 村雨は、繋ぎ絡めた指に、うっすらと滲む汗を感じた。
 雪月 桜が、戦いを前に、恐れているのだ。
 不思議と村雨は、それで安心した。
 桜の恐れの所以が、分かるからである。
 戦い、傷付く事を恐れるような女では無いし、自分が〝死ぬ危険がある〟とは知っていても、〝死ぬつもり〟など微塵も無いだろう桜が恐れているのは、今日まで張り通した意地を曲げる事なのだ。
 他の何処かならば、やむを得ぬならばと言い訳を付けたとて――村雨の前で、人殺しである自分に戻りたくないと、たったそれだけの見栄。そんなものが崩れるのを、桜は恐れているのだと、村雨は繋いだ指と手の全てで知った。

「じゃあさ、分けようよ」

「ふむ……?」

「エリザベートを――あの人を死なせるのは、あなただけじゃなくて、私も一緒にやるの」

 村雨は、鋭い歯列を――咥内の、牙と呼べるまでに変化を終えた歯を剥き出しにして、言った。そうすると村雨の顔は、無邪気で、だが凄絶な笑みとなった。

「それで、その後はもう、私もあなたも、二度と誰も殺さない。どんなに辛くても、苦しくても、相手を死なせていいんだったらどんなにか楽だろうって思うような時が有っても、今日、一日だけ間違った事をした後は、絶対にもう一度は間違わない。どう?」

 常の表情を保ったまま、桜はその言葉を聞き終えた。
 それから、唇の端が上がり、頬が緩み、目が細まって弧を描いた。
 顔に心が滲み出るような変化である。
 器に水を注いで行けば、やがて溢れて零れるように、桜の胸に満ちた感情の一切が溢れて、氷の面貌を溶かしたのであった。
 破顔しながら、桜は、村雨の腰を抱いて引き寄せ、顎を引いて上を向かせると、その唇を、噛み付くように奪った。
 その行為に、淫靡さは無い。
 昂揚も陶酔も無く、ただ愛おしさだけで、二人は短い口付けを交わし、

「行くぞ」

「行こう」

 目の前の両開きの扉を、不作法に、一人が一枚ずつ、蹴り開けた。








 狭霧和敬は、床に広がる臓腑の海を、大鋸『石長』で掻き回しながら、物思いに耽っていた。
 思うのは、己の生の軌跡だ。
 あと一年か二年で、四十になる。年齢の割には若々しい顔立ちであるが、若き日のような、無限に溢れ出してくる体力はもう無い。
 年齢を重ねる事が、『成長』ではなく『老い』に変わったのは何時頃であったか――気付いた時には、顔に皺が刻まれ初めていた。
 鏡を見る度、狭霧和敬は思う。
 自分が生きるとしたら、長くても五十年か六十年。どう頑張っても、あと百年を生きる事は無い。
 では――その日までに、自分は何が出来るのか?
 西洋の暦を得た時、狭霧和敬は、自分が生きるであろう日数を計算した。おおよそ一万五千日と踏んだ。
 長いのか、短いのか、分かり辛い数値であるが――狭霧和敬は、その時、常人とは異なる尺度で、それを計った。

 ――十五万人。

 一日に十人を殺したとして、死ぬまでに殺せる人間の数である。

 ――たったそれだけか。

 二百年程も前、関ヶ原で、天下分け目の大戦が有った。
 あれが、東西の軍を併せて、十五万人とも、十八万人とも言われている。
 日の本の覇者を定め、数百年の平穏の基盤を生んだ、先に類を見ぬ戦――それに加わった人間が、その数である。

 ――俺がこれから殺す人数は、一つの戦場に収まる程度か。

 巨大に過ぎて、普通は実感の沸かぬ数だ。
 江戸に住む人間は、五十万か、百万か、それくらいだ。
 今は、京も似たようなものだろう。
 日の本の人間を全て合わせれば、その何十倍かにはなるに違いない。
 そこから見るなら、十五万という人間は、一部に過ぎないのかも知れない。
 だが――例えば、村があるとする。貧しくもなく、豊かでもない、そこそこの村に住んでいる人間が――四百とか、五百とか、それくらいだろう。
 十五万という数値は、その三百倍である。
 人が何かを計る時、その尺度はきっと、己の身近にあるものとなる。
 真っ当に生きて死ぬ日の本の人間は、十五万という数を聞けば、自分の住む村や町、小さな集落と比較して、途方も無い数だと言うのであろう。
 狭霧和敬の尺度は、世界である。
 いや、もっと大きく言うと、星である。
 舶来の学者が言うには、自分達が住んでいる土地は、星という丸いものの上にあるらしい。巨大で、その丸さも分からない程の球体の上に、大量の水が有って、大陸が有って、人間が生きている。
 平面の地図では表せない、球体の模型を使って初めて見える世界の形――その中で日の本は、まるで大陸の添え物のように、ちっぽけにぶら下がっていた。
 この球体の中に、どれだけの人間が住んでいるのか。
 人が多い土地もあるだろう。少ない土地もあるだろう。だが、これだけ世界が広いというなら――
 億。
 或いは、十億。
 そのくらいの人間が、この星というものの上に生きている
 それと比べたら、十五万などという数字の、なんと小さな事か。
 だから狭霧和敬は、乱を起こしたのである。

「……殺したいのだ、俺は」

 大鋸の先に、かつて妻であった女の、頭蓋骨の破片を引っ掻けながら、相手を見ぬままに〝語る〟。

「昔から、生き物が死ぬのを見るのが、好きで、好きで、仕方がなくてなぁ。蜥蜴だの鼠だの、犬や猫だの、罠を仕掛けては狐やら鹿やら、殺せるものなら何でも殺してみたが、全く飽きが来なかった――というより、満足が出来なかった。
 それでも、猿だの熊だの、そこそこに大きくて賢いものを殺す時には、愚鈍に草を食む牛を殺すより余程楽しくてな、気付いたのだ。俺はどうにも、人間に近いか――或いは〝俺に近い〟ものを殺すのが好きなのだと」

 血の海に手を浸し、丸いものを拾い上げる。
 直径が二寸近い、巨大な眼球であった。
 爆ぜて、砕けて死んだ、波之大江 三鬼のものであった。

「お前ならば、どうするね、どうするよ」

 和敬は、眼球を投げた。
 それは部屋の戸の方へと飛び、そこに立っていた狭霧紅野の顔へと向かい――

「……さぁ、ねえ」

 紅野は、首を傾けて眼球を避けながら、床の惨状に鼻を抓んだ。
 血に慣れ親しんだ狭霧和敬の他には、とても耐えられぬ悪臭――人の血肉も、臓腑も糞便も、何もかも混ざり合った臭いが、部屋には満ちていたのだ。
 その後ろには、狭霧 蒼空も居た。
 紅野と蒼空は、赤心隊の亡骸から衣服を剥ぎ取っていた為、戦いの前から、己以外の血で体を染めている。
 何人分の血が集まったか、もはや数えられぬ空間の中、狭霧和敬は胸一杯に、悪臭の空気を吸い込んだ。

「出来る限り俺に近い、俺でないものを用意すれば良いのだ。
 八方手を尽くし、良い子を産みそうな女を探した。知恵があり、健康で、魔術の素養を持った若い女だ。見つけ次第、家人を皆殺しにして奪い取り、その屍の前で犯して生ませたのがお前達だ。俺に全てを奪い取られた女から、次は母である事さえも奪い、ただの教師として紅野を教えさせ、蒼空の為す身勝手で生まれる揉め事を片づけさせ、慎重に――」

 くく、くっ。
 和敬は、喉で笑う。

「慎重に、慎重に、その時が来るまでは、つい壊してしまわんようにと育てさせた。美酒をな、倉の奥底へ押し込んで、どの日に開けようかと頭を回す酒好きのように、お前達を何処で殺そうか、俺は十と何年も悩み続けてきたのだ。それが、遂に!」

 だんっ、と、床を踏む。
 吉野か、三鬼か、どちらか片方のものだった肉片を踏みつけ、狭霧和敬は大鋸を構えた。
 若き日の、無尽蔵の力は、無い。
 だが狭霧和敬は、今日、この日が、人生の頂であった。

「あんたが投げたのは、隊長の体だな?」

「そうだ。俺を殺そうと気炎を上げておきながら、俺に掠り傷一つ付ける事も出来なかった愚か者の目玉だ」

「……そっちに転がってる鉄兜にも、見覚えがあるな」

「だろうな、お前達の母親に、顔を隠せと命じて被らせていたものだ。拾ってみろ、頭の破片がまだ幾らか、中にへばりついているかも知れんぞ」

 紅野は、目に見える限りでは、武器を持っていない。
 両手を指が自然に曲がる程度に開き、左手を鳩尾に、右手を顎に、軽く触れさせて構えた。
 徒手格闘の構えである。
 殴るより、掴みかかる備え。もっと言うならば、掴み、投げるか、或いは手足を折るか、そういう備えだ。
 その形で紅野は、摺足で和敬へ近づいて行き、大鋸の間合いより二尺遠くに立った。

「……あんたには、言い尽くせない恨みがある」

「だろうな、そうなるように育てた。おかげで、どうだ。俺を殺すのに躊躇いの無い目だ――」

 和敬が、言い終わるかどうかの刹那、血の海に暴風が吹き、大波が立った。
 瞬き程の間すら掛けずに蒼空が馳せ、和敬の首を落とさんとしたのである。
 然し、兵士の亡骸から奪った名無しの刀は、和敬の首に喰い込んだ後、骨を断つ事も無く止まった。

「……っ」

「おお、おお、蒼空も、容赦無く俺を殺しに来るなぁ、全くもって親への敬意が足りん!」

 和敬は大鋸を、腰の高さに、横薙ぎに振るう。
 蒼空は瞬時に後退して、それを躱した。
 と、入れ替わるように紅野が、振り抜かれた大鋸の刃を飛び越え、和敬に組み付く。

「らあぁっ!!」

 そして、左脚で、和敬の顎を蹴り上げた。
 紅野の左脚は、鋼造りの義足である。これで人を打てば、骨は容易く砕け折れる。
 ごぎぃっ。
 ぞっとするような音がして、和敬の顎が垂れ下がり――

「ふん」

 和敬は迷わず、大鋸を自らの喉へ当て、首を真横へ挽き斬った。
 彼の手に在り、幾千の人間を斬り殺してきた凶器は、その主をも一刀の元に首を落とし――
 落ちた首は、蛇になった。
 その蛇が和敬の胴体を這い上がり、元のように、また、何一つ傷の無い、和敬の頭の形に戻った。

「……とうとうあんた、人間を辞めたのかよ」

「気分が良いぞ、死生の境目をうろつくのはな!」

 和敬が、前へ出た。そして、手の大鋸をぐうと背まで振り翳し、紅野目掛けて振り抜かんとする。
 紅野は身を沈めながら前へ出て、和敬の右膝を両腕で抱え込んだ。
 すかさず、和敬が紅野の頭へ肘を落とす。
 頭蓋が軋む程の衝撃に、紅野の視界に火花が散った。
 もう一発――持ちあがる右腕へ、蒼空が斬りかかる。
 先に、和敬の血を浴びて錆び始めた刃が、和敬の右上腕へ深々と喰い込み――骨にぶつかり、やはり弾かれる。

 ――固い!?

 人の身の感触では無かったが、当然。
 既に狭霧和敬は、真っ当な人間では無い。
 エリザベートの操る邪法により、十数人の命を喰らって己が物とした魔である。
 命を溜め込み死を超越し、或いは命を燃料とし魔力へ変え、己が身をより強く、より禍々しく変える。
 蒼空の一閃を受け止めた骨肉は、刃が遠ざかるや直ぐにも、傷痕を塞がんと蠢き、重なり合う。

「じゃあっ!!」

 紅野が、和敬の右膝を抱えたまま、思い切り体を仰け反らせた。
 反り投げ。
 和敬の、修復されたばかりの頭蓋が、血の海へと飛び込む。
 受け身は取らない。頭蓋の頂点が床に打ちつけられ、和敬は仰向けに倒れた。
 紅野は、投げの勢いをそのままに、和敬の腹の上に跨った。
 躊躇いなく紅野は、両手の親指で、和敬の眼球を押し潰した。

「がああぁっ!」

 紅野は、また吠える。
 吠えながら振り上げた手の中には、何時の間にか、短刀が逆手に握られていた。
 暗器術。
 隠し持った武器を、咄嗟に引き抜き、敵を殺す技能。
 和敬の喉へ、短刀の切っ先が沈む。
 喉骨を潰し、肉をぶつりと断つ感触が紅野の手へ返り――それを堪能する間も無く、視界の端に映る刃の照り返し。
 跳び退った紅野の目の先を、大鋸の刃が掠めて行った。
 跨られたままの和敬が、左腕のみで、大鋸を振るったのである。
 眼球を潰され、喉を切り開かれた和敬は、何事も無いかのように立ち上がった。

「この程度か、紅野。この程度か、蒼空!」

 不甲斐無い子を叱咤する、出来の良い親であるかのように、和敬もまた、吠えた。
 それから、大鋸の刃を己の頭へ宛がうと――
 がりがりがりがりがり。
 頭蓋を鋸挽きにし、首の中程まで、真っ二つに斬り分けた。
 人間の頭部が二つに割れ、左右にだらりと、稲穂のように垂れ下がる様を、紅野は初めて目にした。
 すると、垂れ下がった頭部の、それぞれ半分が、別々に再生を始めたのである。
 忽ち狭霧和敬は、一つの首から二つの頭部を生やした姿へと変じてしまった。

「おお、これは良いなぁ。そうか、目が増えると、世界の見え方はこうも変わるのか!」

「……親子の縁を切りたいよ、親父」

 短刀二振りを、両手にそれぞれ逆手持ちにして、紅野は重心を高く身構えた。
 その隣で蒼空は、茫洋と、何を思うのかも見通せぬような目をしたまま、なまくらの刀を右手に持ち、

「斬る」

 短く、たった一つ、意思を見せた。








 凄惨な戦いが続く。
 紅野は幾度も、和敬の目を潰し、喉を抉った。
 蒼空は幾度も、和敬の首を斬り落とした。
 和敬はその度に立ち上がり、我が子の目や、鼻や、耳を狙って、大鋸をひょうひょうと振り回した。
 親と子で、こうまで出来るものなのか。
 或いは親と子だから、こうまで出来るものなのか
 それとも――互いに親だと思わず、子だと思っていないから、こうまで出来るのか。
 何れであろうと、此処で行われているのは、尋常の戦いでは無かった。
 この地上に、一度死んだ人間をもう一度殺したことがある者が、どれ程に居るだろうか。
 ましてや、十回以上も同じ人間を殺した者など、居る筈があろうか。
 その有り得ない事が、現実に起こっていた。

「楽しいなぁ、紅野よ、蒼空よ。お前達を生ませて良かったぞ!」

 既に狭霧和敬は、人間としての姿を失っていた。
 一つの首に繋がる、二つの頭。
 右肩から二本、左肩から三本、左右非対称に生えた腕。
 左脚も、膝から下が二股に分かれ、爪先がそれぞれ逆方向を向いた二本の脛が生えている。
 臓腑は幾度も潰れた。その度に再生を繰り返し、血を吐きながらも、苦しげな顔を見せず、和敬は立ち上がるのだ。
 増えた左腕を使い、和敬は無茶苦茶な軌道から、三つの拳を同時に紅野へ向けた。

「くっ……!」

 防ぐのは――無理だ。肘と膝で一つずつ防いだとて、残り一つが届く。
 紅野は、敢えて前へ出た。
 部品が増え、却って小回りの利かなくなった懐へ潜り込んだのだ。
 和敬の膝が、迎撃として振り上げられる――それを紅野が右手で防ぎながら、和敬の腹に左手を当てた。

「〝ぶち抜け〟っ!!」

 単言詠唱。
 紅野は左手から、火薬が爆ぜるにも似た衝撃を放った。
 掌底に合わせて放つ、鎧貫きの魔術。
 鍛えていない者ならば、一撃で血反吐を吐き、のたうち苦しむ羽目になるか、死ぬ。そういう術である。
 然し、これで倒れる和敬では無いと、紅野は良く知っている。

 ――なら、死ぬまでやりゃあ良い。

 二発、三発――そのままの姿勢で、紅野は撃ち続けた。
 間合いは極端に狭いが、一度触れてしまえば、拳を引く時間さえが必要無い。相手が後退するか、自分が下がるかしない限り、幾らでも連続で撃ち込める――しかも放つのは、並みの術者では無く、狭霧紅野。武芸十八般に魔術を併せ、十九般を収めた達人である。四発も当てた時点で、狭霧和敬の内臓は、石に押し潰された獣のように成り果てている筈であった。
 だのに、動くのだ。
 和敬の、三本に増えた左腕の一本が、紅野の顎を狙って、真下から上へと突き上げるように振り抜かれる。
 手は、拳を握っていなかった。人差し指から小指まで、四本の指を真っ直ぐに伸ばして揃え――その指先が何れも、人の体なら有り得ない、金属的な光沢を纏っていた。
 咄嗟に身を反らした紅野の鼻先を、和敬の指先が掠めて行く。
 その指は――いや、〝爪〟だ。爪が硬化し、刃物のように鋭く変化し、紅野の喉を切り裂かんとしていたのである。
 それは、避けた。
 避けた紅野の腹に、また別の衝撃が突き刺さる。

「がっ……!」

 和敬の右手――片方は大鋸を掴んでいて、もう片方、空いている手――が、紅野の腹に触れ、己が受けたのと全く同じ術を打ち返していたのである。
 元々、鎧を身に着けた兵士を打ち倒す為の術――まして紅野は、囚われの身から、敵兵の衣服と幾つかの武器だけを剥ぎ取って此処へ来た。防具など、固く巻いた晒しか無い。
 破城槌の如き一撃に、紅野の体がくの字に折れ曲がる。
 喉の奥に、酸味のある液体と、鉄臭い液体がそれぞれせり上がってくるのを感じながら――

 ――逃げないと、

 頭を両腕で庇いつつ、両足で必死に床を蹴った。
 だが、じれったい程に体が動かない。
 どうにか後退した分と全く同じだけ、和敬も前へ踏み込み、次は腹でなく紅野の顔へ向けて、右手を伸ばして来た。
 脳を撃ち、壊すつもりであるのだ。
 殺される。
 死ぬ――
 刹那、銀閃が迸る。
 紅野の背を、蒼空が飛び越え、和敬へ肉薄する。
 和敬の右腕を落とした閃光は、そのままに二つならんだ和敬の頭部へと――
 否、防がれた。
 残る右腕が持つ大鋸が、銀閃――蒼空が振るった刀を、見事に受け止めていたのである。

「ふん――飛蝗如きが俺に逆らうな!」

 蒼空の跳躍は、悪手となった。
 日の本に、狭霧 蒼空より速く動く生物など存在せず、故に最大の速度を生む跳躍からの襲撃は、必殺の技術であったのだが――この場合は、失策であった。
 防がれれば、着地までの間、蒼空は地を蹴る事が出来ない。
 それは即ち、誰よりも速く走る筈の蒼空が、ほんの一寸も動けなくなるという事であり――

「……あっ!?」

 敵の弱みを、和敬は決して見逃さない。
 左腕三本と、大鋸を持たない右腕の一本が、宙に浮いたままの蒼空の胴を掴み、両腕を背中へ捩じり上げながら捕えた。
 蒼空の肋を軋ませる程の恐ろしい力が、その腕に籠っている。
 みぎいっ。
 めぎっ。
 人の体から鳴ってはいけない類の音が、蒼空から聞こえ始めた。

「ぎゃあっ、ぁ、あ、ああっ!?」

 苦痛に上がる悲鳴さえ、肺を押し潰され、くぐもった声。
 このまま抱き殺すのか――そうでない事は、使われていないもう一本の腕が、雄弁に語っていた。

「どうれ、何処から斬るか……眼窩だな」

 和敬は、遊ばせていた手が持つ大鋸を、蒼空の目へ向けて振るった。
 頭蓋骨の眼窩、周囲より低くなった箇所から、水平に鋸挽きにし、頭を切り開こうと言うのだ。
 刃が蒼空の目へと迫る。
 眼球に、三角形の刃の列が届く一寸手前、和敬の腕が止まった。
 紅野が、和敬の首に左脚を巻きつけながら、両腕と右脚で、大鋸を振るう腕にしがみついたのだ。
 そして、しがみついた瞬間には、もう関節を絡め取っていた。
 絡め取った瞬間には、背筋の力に任せ、肘を逆に引き伸していた。
 ぶちぃっ。
 和敬の腕の中で、腱が引き千切れる音を、紅野は確かに聞いた。
 意思とは無関係に、和敬の腕が垂れ下がる。

「小癪なっ!」

 左腕の一本が、蒼空の右腕を解放し、紅野の右膝――義足になっていない、生身の脚へ殴りかかる。
 膝の皿へ、拳が突き刺さる。
 折れたのは、和敬の指であった。
 殴った側の指が折れる程の威力で殴ったのだ。
 それでも和敬は、まるで動きを鈍らせなかった。
 大鋸を、左腕の一本に投げ渡しながら、残った左手で蒼空の首を、自由になった右手で紅野の首を掴み、

「ぬうっ!」

 二人の頭を、額から互いに打ち合わせ、血と臓腑に塗れた部屋の中でも、特に肉片と骨の集まった箇所へ投げ落とした。
 蒼空はかろうじて受け身を取った。
 紅野は――右膝を打たれた痛みが反応を遅らせたか、背をしたたかに床に打つ。
 立ち上がろうとした。
 その、紅野の顔の前に、和敬の大鋸が、びゅおうと空気まで挽き斬って迫っていた。

 ざしゅっ。

 赤い血が飛沫いた。








 ――熱い。

 紅野の意識は、燃えていた。
 体中が熱を帯びている。種類の異なる、多様な熱だ。
 四肢の肉から湧き上がって、じんわりと骨や皮膚へ染み込んだ熱がある。
 逆に背中の皮膚から、肉を通って骨まで響く、鈍痛となった熱がある。
 思考に雲のようにかかる熱。
 後頭部と右膝には、皮膚や肉を飛び越えて直接に骨を刺す熱。
 腹の内側も、衝撃を叩きつけられた胃袋や腸が、喉へ熱を押し上げている。

 ――熱いな、こりゃ。

 比叡の山で、急ごしらえの城に立て籠っていた時とは、まるで反対だった、
 あの時は、寒かった。
 薄っぺらな壁と、立てつけの悪い襖の内側で、壁にもたれて座ったまま眠った。
 日が昇り切らぬうちに目を覚まし、一日中を、寒風吹き荒ぶ屋外で過ごし、日が落ちてから眠った。
 雪と、暗闇。
 骨髄までが凍り付く、山の寒さ。
 だが――それ以上に冷たく、紅野を凍えさせたものはなんであったか。
 それは、死だ。
 敵味方を問わず、無数に訪れた死である。
 道端の草や、ぶんぶんと煩い羽虫よりも当たり前のように、人の命を奪い去ったものである。
 そして、死が訪れたことの咎が己にある――そういう自責の念が、紅野を凍えさせていたのだ。
 比叡山で立てこもった者が、累計で三千か四千か――その内、もしかしたら、千人も死んだのではないだろうか。数えてはいないがなんとなく、紅野はそう思っている。
 比叡山を囲んだ、狭霧和敬が指揮する軍勢は、どれ程であったか――やはり、二千かそこらは殺しただろうとも、これは数えられなかったが、予想を立てている。
 それらの死に、必然性は無かった。
 彼等が死ぬことによって、戦が始まる前よりも良い方向へ転んだものは無く、彼等の死を糧に、これから良い方向へ進められるだろうものも無い。
 仮に、何か良い方向へ向かったものが有るのなら、それは、彼等が死なずとも得られた成果であった筈だ。
 死ぬべき者は、僅かに一人であった。
 その一人を殺せぬままに、何千もの人間が死んだ。
 その、多くの死の責任の一端が己にある――紅野は、そう思っている。
 自分の技量が不足していたから、何千もの人間と共に城に籠って初めて、狭霧和敬と戦えたのだと。
 自分がたった一人で、槍の一振りだけを携えて二条城に入り、狭霧和敬の部屋へ押し入り、その首を刎ねる事が出来たのなら、それで良かったのだ、と。
 それが出来たやつを、三人は知っている――比叡の戦が始まる前の、狭霧兵部を殺せるいきものならば。
 自分の妹なら、狭霧蒼空なら、ぼうっと虚空を見つめながら狭霧和敬の前まで歩いて行って、一呼吸で首を落としただろう。
 今、無数の肉塊と骨片となって散らばっている波之大江 三鬼とて、なんの妨げもなく一個と一個で狭霧和敬と向かい合ったなら、苦も無く和敬の肉体を叩き潰していた筈だ。
 それから、もう一人――雪月 桜なら、城壁も城門も断ち切って、狭霧和敬の前に立っただろう。そして、軽く酒臭さの混じった息で気障な台詞でも吐きながら、狭霧和敬を唐竹割りにでもしたのだろう
 その様を容易に思い描く事が出来て、紅野は熱に浮かされながら、ほんの少し、唇の端を持ち上げた。
 紅野は、夢を見ているのであった。








 ――そういえば、あいつにも叱られたなぁ。

 比叡山に籠ってた、最後の一線の前、まだ夜中の内だった。
 お前はなんの為に生きている、だったか、そんな事を言われたっけ。
 別に向こうは、説教のつもりも何も無かったんだろうけど、私にしてみりゃ、どうしてそれを考えていないんだと、叱られたような気分だったよ。
 だってよ、あんたの方は、それを聞かれたら迷わずに答えられますって顔をしてるだろう。
 美味い飯の為でもあるだろうし、美味い酒の為でもあるだろうし、美人を見る為でもあるだろうし、誰かと斬り合う為でもあるだろうし、惚れた女の為でもあるだろうし。
 そういうのが、すっと出て来る人間っていうのは、多分、好きなものが幾らでもあるような人間なんだろうさ。
 私は、多分違うんだ。
 ちょっと好きになったものは、だいたい、もう壊れてるか死んでる。
 多分これから好きになっていくものも、だいたいが壊れて行くだろうし、死んで行くんだろう。
 だから、生きるのにまっとうな理由なんか用意しようとしたら、私みたいなのは生きていけないんだ。
 あの時、一応の答えは用意してたんだぞ。
 私があの時、死んでなかったのは、私が死んだら、他に比叡山の大将になれるやつが居なかったからと――ついでに言うと、死にたい積極的な理由が無いからだ。
 いや、二つ目の方が大きいかも知れないな。
 私は、別に死にたいと思わなかったから生きてたし、私しか出来ない事が有ったから、あの場所に生きてた。
 けどもなぁ、桜。どうにもその、私しか出来ない事っていうのが、もう無くなった気がするんだよ。
 ついでにいうと、死にたい理由っていうのは、どうも、こう、幾つも出来ちまった。
 心残りって言ったら、最後に美味い煙草が吸いたかったってくらいでさ。
 寒いんだ。
 体中に傷や痛みが有って、それが熱になって今にも燃えそうなのに、凄く寒い。
 今まで、どれだけ斬られても刺されても、そんなに辛いとは思わなかったけど、この寒さだけは耐えられそうにも無いや。
 だから、なぁ、もう誰でもいいや。
 誰か、私を許して欲しい。
 死にたいんだ、もう。

 ……あ?
 おい、誰だ。そこにいるのは。

 ……なんだこりゃ。
 熱い。
 すっげえ熱い。

 ――熱い!








 夢を見ながら、紅野は微笑み、だがその唇を涙で濡らしていた。
 そして。
 紅野の夢を覚ましたのは、今までにも増して熱い、二つの温度であった。








 二つの異なる熱が、紅野の眠りを焼き尽くした。
 腹へ覆いかぶさる、重さを伴った熱。
 顔を赤々と染める、飛沫となった熱。

「――あっ!?」

 跳ね起きた紅野は、腕の中に感じた重みを右腕で抱きながら、左腕と両足で床を駆け、狭霧和敬から距離を取った。
 腕の中には、蒼空が居た。
 投げ落とされ、意識が朦朧とした紅野へ、狭霧和敬の振るう大鋸が迫った。それへ蒼空が飛び付き、身を挺して庇ったのである。
 顔に飛沫いた熱は、蒼空の背中へ大鋸が喰い込み、皮膚と肉を引き裂いて吹き上げた血の飛沫であった。
 傷は――深くは無い。
 少なくとも、骨まで届くほどではないし、死を招く程の傷でもない。
 だが、痛みは有る筈だ。
 それも、生まれ落ちてから今まで殆ど怪我さえした事も無い、痛みに耐性の無い蒼空であれば、その苦痛は、大声で泣き喚きたい程であっただろう。

「蒼空!」

 それを姉も分かっていた。右腕の中に蒼空を抱き、左手は靴に隠した短刀を引き抜き、目を和敬へ向けたままで呼び掛ける。
 その紅野の右腕が、内側からそうっと押しのけられた。
 蒼空が、痛みに顔をしかめながらも、紅野の横に立ったのである。

「蒼空!」

 もう一度、その名を呼んだ。
 すると蒼空は、そっと紅野の右肩を叩いてから、ぎこちなく笑みを作ってみせたのである。

「……まだ、駄目」

 優しく窘めるように――或いは、冗談めかしてとがめだてするように、だが、か細く紡がれた声。
 その意図するところを理解出来るのは、紅野だけであった。
 紅野だけが、唯一、誰にも見透かせない蒼空を、余さず見渡す事が出来る。
 蒼空だけが、唯一、そういう紅野の抱えるものを、全部見通す事が出来る。
 この地上で何もかも、かけがえの無いものを失い続けた紅野に、最後に残されたのが、蒼空なのだ。

「そっか――」

 その一言で、紅野には十分であった。
 短刀を右手に移し、刃の切っ先を狭霧和敬へ向ける。

「〝決して砕けるな、決して緩むな、決して曲がるな――〟」

 詠唱――短刀の柄が、凍結を始めた。
 水よりも透明な、澄み渡った氷が短刀の柄を埋め、それは更に、短刀を延長するように、細く長い氷柱へと変じたのである。

「〝――この一身は捨て難き物〟」

 否。
 氷柱にあらず。
 氷で作られた槍であった。
 屋内の戦いに合わせ、柄は六尺。短刀の刃をそのまま穂先に用いた即席の槍。
 槍こそが、武芸十八般を修めた紅野の、何よりも得意とする武器である。
 それが、狭霧和敬の心臓を、真っ直ぐに睨みつけていた。

「そっか、まだ駄目か」

「……ん」

 槍を、紅野が構える横に、刀を正眼に構えて、蒼空が立つ。
 紅野の体を、燃えるような熱が突き動かす。
 蒼空が、まだ死ぬなと言っている。だから紅野は、死にたいと思うのをやめた。
 生きる理由として十分過ぎる程であった。

「じゃ、まずは」

「ん」

 二人は、正面の和敬へ顔を向けたまま、目だけを横へ向け、視線を重ねた。
 次の瞬間、〝二人とも〟が、消えた。

「――ぬ!?」

 頭部を二つに増やした和敬の、四つの眼球でさえが捉えられぬ速度。
 次の瞬間、和敬の背後に回った紅野が、氷の槍で、和敬の右の頭を貫いていた。

「そこかァッ!!」

 和敬は、背後へ振り返ろうとした。
 だが、右の頭を貫通した槍につっかえて、振り向く事が出来ない。
 構わず、体を正面に向けたまま、右足を、背後の紅野へ目掛けて振り上げた。
 床に触れていた踵が、紅野の両脚の間へと、ぞっとする程の速さで迫る。
 男なら睾丸を、女が相手だろうと恥骨を、確実に砕くだろう速度と重量――
 紅野は、避けなかった。
 蒼空が、和敬の右足を、膝から一刀の元に斬り落としたからである。

「があっ!」

 支えを失い、体が横へ傾きながら、和敬は倒れる事が出来ない。未だに頭を、紅野の氷の槍に貫かれたままだからである。
 背中を晒した無防備な体へ、蒼空の、神速の斬撃が放たれた。
 瞬き程の間に、十数回の、斬。
 背骨、腰の骨、大腿も、膝裏も、踵の腱も、そして首も、全てが人体を分断するに足る深さで斬り込まれた。
 立ったままの人体が、幾つかの部品に分けられ、ばらばらと崩れる。
 床へ落ちて行く和敬の首――
 紅野が、蹴った。
 左脚、鋼の義足で、川辺の小石をうんと遠くまで飛ばすような恰好で、爪先が胸より上がる程も勢いを付け、蹴ったのだ。
 ぐしゃっ。
 と、和敬の頭蓋が潰れて跳んで、
 ぐしゃっ。
 と、壁にぶつかって、骨が割れてはみ出した脳が潰れた。
 潰れて床に落ちた和敬の破片――それが直ぐに、小さな蛇となって集まり始める。先に分割された上半身や脚までが同様に、大小様々の蛇となって、元の狭霧和敬の形を作ろうとするのだ。

 ――させるか。

 その蛇を、紅野は踏みまくった。
 鋼造りの左足を振り上げ、足の裏で押し抜くように、思いっきり踏みつけた。
 槍でも、床を横に薙いで、蛇を真っ二つにしてゆく。
 蒼空も蛇を狙い、刀を存分に振るった。
 斬られた蛇も、忽ちに再生し、また別な蛇となって寄り集まろうとするのだが――それをも妨げるように、斬撃が繰り出される。
 無論、無数に生まれる蛇を、二人で延々殺し続ける事は出来ない。かろうじて刃をかいくぐった蛇達が、部屋の壁際で、狭霧和敬の姿へと変じた。
 腕は――たった二本。
 脚も――たった二本。
 首は――たった一つ。
 元の、人間そのものの、狭霧和敬であった。

「かっ――か、はあっ!」

 和敬の口から、彼の手へ、塊のような血が零れ落ちる。
 口内を切ったり、舌を噛んだり、その程度の出血量では無い。臓腑が潰れて初めて溢れ出す程の、致命的な血であった。
 如何に数多の命を喰ったとて、完全な不死ではないのだ。
 命を一つしか持っていない人間が、一度死ねばそれで終わるのと同様に、幾つもの命を持った狭霧和敬も、幾度も殺されれば、やがては死ぬ。
 そもそもこの邪法は、真っ当な人間に対して用いるべき代物ではない。
 生と死を延々と繰り返す間――その人間は、幾度も、死に相当する苦痛を受ける。並みの人間であるならば、二度目の死で、大半が発狂するのだ。
 信仰心の鎧を纏った、拝柱教の信者でさえ、四度目の死は精神が耐えられない。狭霧和敬の如く、十数度の死を耐え得る精神を持つ者など、まず居ない。
 そして、その狭霧和敬すら――遂に体が、精神より先に、術の苦痛に悲鳴を上げた。
 この出血は、先程までのように、死を乗り越えれば再生する類の負傷ではない。
 もはや二度と再生する事の無い、死本来の、絶対的な不可逆であった。

「おのれらぁっ!」

 然し、血を吐きながらも、この男は狭霧和敬であった。
 身を守る術を、何一つ選ばない。両手で大鋸の柄を持ち、並ぶ二人へと斬りかかった。
 上段からの斬り降ろし。
 大鋸を跳ね上げての、斬り上げ、首刈り、腕削ぎ。
 剣技の冴えもまた、絶人の域。この技のみで、数十の雑兵にならば勝る程の技量である。
 だが。
 こと剣の技量に於いて、狭霧蒼空を上回る生き物は、日の本に存在しない。

「さあぁっ!」

 嵐の如き剣閃を、蒼空は全て、髪の毛一筋の間で躱していた。
 その合間、和敬が一度大鋸を振るう間に、蒼空は三度の斬撃を放った。
 和敬もまた、致命傷と成り得るものだけは避け、防がんとする。
 斬。
 当たる。
 和敬の左手の、指が幾つか落ちた。
 和敬は手を止めなかった。
 斬。
 和敬の左腕が、肘から先の全て、床に落ちた。
 和敬は右手だけで大鋸を振るう。
 その右腕へ、
 斬――

「っ、紅野、蒼空っ!」

 右腕を失った和敬が、娘二人の名を呼んだ。
 何を言うのか、娘二人は、聞こうとさえしなかった。
 命乞いをする父ではない。
 娘の健闘を褒め称える、良く出来た父ではない。
 この男が、こういう局面で何かを言おうとするなら、それは間違いなく、自分達を嬲る為の道具として、言葉を放つのである。
 聴く耳を持たぬまま、紅野が前へ出る。
 蒼空に劣らぬ、人の目に影さえ残さぬ速度である。
 同じ体を持って生まれた、違う二つの魂が、同じ技を為して不思議は無い――紅野の速度は、それを雄弁に語っていた。
 速度は、足から生まれた。
 足から生まれた速度が上体を運び、上体は捩じれて肩を突き出す。
 肩から腕へ運ばれる神速。
 腕から手へ伝わる神速。
 そして――

「はあああああああああぁあああああぁあぁぁっ!!!」

 手から、槍へ届く、神速。
 紅野の突き出した氷の槍は、確かに、狭霧和敬の心臓を貫いて、背後の壁に縫い止めていた。
 突きを放った紅野だけがその時、
 ごぶっ、
 と、何かが流れ出す音を聞いた。
 少し後方に居た蒼空には聞こえない。
 もはや耳など働かぬ和敬にも聞こえない。
 槍を伝い、和敬の血がごっそりと、紅野の手へと流れてゆく音であった。
 再生は、始まらない。
 貫かれた肉が修復される気配も、和敬の体が蛇に変じて散らばる気配も、何も無い。
 どこにでもいる普通の兵士を殺した時と全く同じ感触が、紅野の手へと返ってくる。
 槍を引き抜いた。
 和敬は、壁に寄りかかったまま立っていた。
 その体が、ゆらあと傾く。

「親父」

「か、……っ、こ、紅野、紅野……っ!」

 紅野は、倒れ込んできた和敬の体を抱き留めた。
 血を失っただけ、同じ体格の男より軽い体であった。
 右腕は、肩から無くなっている。
 肘より上だけが残った左腕で、和敬は、紅野の背に触れた。
 もし、その腕が、完全なものであったなら――その行為は、抱擁と呼ぶ事が出来ただろう。
 あたかも、普通の父親が、幼い娘にしてやるような、純粋な、邪気の無い――

「ふ、ふは、はっは、ははは……!」

 嗤う。
 そういう夢想、全ての善良なるものを、和敬は嗤う。
 世界には、〝悪〟がある。
 悪が生まれる要因、過程は様々で、その裏には悲劇があり、不幸があるのだろうと知りながら。
 そんなものを何一つ持たず、ただ純粋に、他者の死を好むという特性を持って生まれた男は、人の為す美徳の悉くを嗤う。

「ふん、殺しそびれたかっ……!」

 最期まで狭霧和敬は、狭霧和敬のまま、何を悔いる事も無く死んで行った。

「……ばれてるよ、親父」

 何時の間にか紅野の左手は、和敬の懐へ潜りこんでいた。
 引き抜かれた手の中には、小さな筒のようなものがあった。
 紅野の魔術により、小さな氷塊の中に閉じ込められたそれは――

「ほうら、やっぱり」

 火薬をたんと詰めた筒であった。
 もし、これに火を付けたのなら、狭霧和敬の体は、まともな死体として形を残さず、砕け散っていただろう。
 その爆発に巻き込まれたなら、紅野は、生きては居なかっただろう。
 狭霧和敬は、そういう男だった。
 他の誰かであるのなら、狭霧和敬の、最期の罠で殺されていた。
 だが、狭霧紅野は、この罠を、当然であるかのように見抜いた。
 そういう父だと知っていたからだ。
 紅野は、たった一度だけ見ることが出来た、母の顔を思い出していた。
 歳を経た女だけが出来る、美しい顔で笑っていた母。
 自分を抱き締めながら、首に針を突き刺してきた母。

「ったく、似たもの夫婦なんだからよ、あんたら……」

 紅野は思わず苦笑をもらし、蒼空はそれを見て、小さく首を傾げた。








 最後の扉の向こうは、聖堂であった。
 高い天井は西洋建築の髄を凝らし、荘厳にして雄大な絵巻物となっていた。
 弧を描く天井に、多数の色を用いて描かれた物語は、聖書の一節を模したもの。
 人が神の園から追われた事や、最初に人間を殺した人間の事や、硫黄の雨が降った街の事などが、精緻な筆遣いを以て鮮やかに表現されている。
 この聖堂を訪れるものは、それらの物語に見下ろされながら、固い床を歩く事になる。
 床の感触は――石畳のようだった。
 有り得ぬ構造だ。
 日の本の城の最上階に、このような空間が有る筈など無い。
 そもそも、天井の高さが異常――これだけの高さがあれば、外観から分かる程、天守閣だけが不釣り合いに大きく膨れ上がる筈なのだ。
 異界――そう、異界である。
 エリザベートの魔力により、常世と切り離された異界の聖堂。
 壁も、遠い。
 遥か東、大帝国の本土まで出向いたとて、これ程の広さの聖堂が、果たしてどれ程にあるだろうか。
 壁は皆、一様に、白い。
 凹凸の形状や装飾品などで見栄えを整えながらも、壁は、白の他に色を持たない。
 そこから少しだけ上に目を向けると、ステンドグラスが列を為していた。
 空の色を模した青と、光を模した黄色が、本物の光にすかされて、床に色合いの絨毯を敷いている。それを踏みつけ、桜と村雨は、真っ直ぐに歩いた。
 広い聖堂であった。
 みっしりと人を詰め込んだら、数百の――或いは千人近い人間さえ、此処に収まるのではないだろうか。
 今は、たった三人だけであった。
 残る一人が、聖堂の奥で祈りを捧げながら、二人の足音が近付くのを待っていた。
 〝大聖女〟エリザベートの、小さな背中であった。
 修道女の慎ましい服を着ながら、フードだけは、視界を広く取る為に被らないエリザベートは、背に神々しいばかりの金髪を垂らしている。
 聖職者に神々しいという形容を用いるのは、本来ならば適当でないのだろう。
 聖職者は、神に仕える者であり、神ではないのだ。
 だがエリザベートは、神の教えを元に立った存在でありながら、神に仕える事を捨てた女だ。だから、神々しいという形容が、寧ろ似合いに見えた。
 加えるに、エリザベートの祈りは、神に向けられていなかった。
 エリザベートが祈りを捧げる先には、十字架も、殉教者も、何もない。ただ一枚、雄大に描かれた絵が飾られているばかりである。
 それは、雲を貫き遥か天空まで届く、巨大な塔の絵であった。
 雲の下、世界は雷雨に満たされ、人は雷に当てられて、塔から落ちて行く――だが、雲の上に突き出した塔の頂上から、人間達が石を投げ、雲を追い散らそうとしている、そんな絵だ。
 雲の下の世界では、ひとびとは雷雨に嘆き、苦しみ悶えながら燃えている。
 雲の上の世界では、ひとびとは希望に満ちた面持ちで、雲を――
 いや、神を、追い散らしている。

「視よ、民は一つにして皆一つの言語を用う」

 エリザベートの後ろに立ち、桜が創世記を諳んじた。
 十一章。
 バベルの塔の、物語である。

「……神は人に知恵を与えようとせず、知恵を得た人間同士が分かりあう為の言語を奪いました。世界には何千もの言葉があり、その全てを知って、全ての人間と分かりあう事の出来るものはいません」

「私も、どうもな、この話は気に入らなかった。天まで手を伸ばして何が悪いのだ、何故、言葉を別った。神というのはなんとも自己中心的で、身勝手な奴だと思ったものだった」

「その憤りは、正しいのです」

「腹を立ててなどおらんわ」

「いいえ、怒りではなく憤りです。間違っているものを、それは間違っているのだと感じられる心でしょうか」

「神とやらのやった事は、間違っているのか?」

 エリザベートは、すうっと静かに立ち上がって、桜と村雨の居る方へ振り返った。
 彼女の立つところは、教会の祭壇のように高くなってはいない、他の床と高さの変わらぬ場所であった。
 振り向いたエリザベートは、泣き晴らした赤い目で、柔らかい笑みを見せて、

「私は、そう思っています」

 信者達へ説く時と同じ、慈愛に満ちた声を、しんと静まり返った聖堂の中に響かせた。

「神は、人を別つべきではなかった。言葉と心を同じくする一つの集団のままに、正しく導くべきでした。神が本当に全知全能の、そして善性の存在であるなら、それが出来た筈なのです。しかしそうしない事は、貴女なら分かっているでしょう、雪月 桜さん」

「……地の上に人を創りしことを悔いて心に憂え給えり、か」

 同じく、創世記。
 六章。
 『ノアの箱舟』の物語――熱心教徒でなくとも知るだろう、地を〝やりなおした〟物語の一節である。

「はい。神は人間を導こうとせず、己を悔やむに留まった――そして、一度は全てを投げ捨てようとさえしたのです。遠く聖書が語る時代から、私達は捨てられた民だった……父と慕うものに水と火で罰せられ、命を奪われ、自ら創り出した栄華さえを奪われる、略奪される民が、私達でした」

 エリザベートは、桜の立つ方へ、こおんと高い足音を立てながら歩いた。
 その正面に、一度、村雨が進み出る。
 近付くなと警告するように、その姿は既に、人狼の本性――灰色の体毛に覆われて、獣の如くに変わっている。
 だが桜は、村雨の肩に手をやって、

「こういう時はな、全部ぶつけられた方が良かろう」

 村雨を自分の隣に並ばせ、エリザベートが近付いて来るのを待った。
 エリザベートは、路端で出会った親友同士が、立ち話に興じるような距離まで近づくと、両手をそれぞれ、桜と村雨の前に差し出した。
 宗教画に描かれるような、自然に開かれたままで手の甲を上に向けた、無防備な――
 この手を、誰が取っても良い。
 この手を取る誰であろうとも、私は赦そう、と。
 形だけで告げるような、手の姿であった。

「私は、神の過ちを正す」

「……それは、あなたが神様になるっていう事だよね」

 村雨の、棘の有る声に、エリザベートは率直に頷いた。

「世界の全てに私の教えを広め、同じものを信じるもの同士の、全てのいさかいを無くし――悪しき者へは罰を、正しき者へは救いを、人として育った私の目で定め、与える――これは、最初から神として存在した神には、決して出来ない事でしょう。
 神は人間を愛していない。神は人間一人の悪性を、全ての人間の咎であるとしながら、一人の人間の善性は、その一人の特性であると決め付ける……何故なのか、村雨さんなら分かるでしょう」

「――――――」

 村雨は、返す言葉を見つけながら、それを口にはしなかった。
 村雨の嗅覚は、千の言葉を交わすよりも明確に、エリザベートの心を見抜いたからだ。

「不幸にも神は、人間に似ているのです。亜人達の一部を忌み嫌うが為、亜人の全てに憎悪を向ける、この国の老人達に――或いは広い世界の、多数の国々に散らばる、古い考え方を持つ者達に。
 元々、好意を持っていない集団の中に、一つの瑕疵を見つけたならば、それを決して赦さない――人が神の被造物である事は、これを以て信ずるに足りますが、だからこそ私は――」

「ようするに、だ」

 声に熱を孕み、上擦るほどに激するエリザベートの言葉を、桜が一言で断ち切った。

「お前は、人間も神も、この世界の全て、自分以外は何も信じていないのだろう。たった一つ信じるお前と同じに染めねば、どうしようもない世界だと、頑なに思い込んでいるのだろう。人間全てを愛すると聖人面をしながら、お前の愛とはな、自分が上に立つ事を前提の、見下した愛に過ぎん」

 エリザベートが、息を飲む。
 桜の言葉が、研ぎ澄まされた剣閃よりも尚鋭く、エリザベートの胸を穿った。
 哀れむような、呆れたような、だが、桜はエリザベートを、見下してはいないし、畏れてもいない。
 全く対等の立場から諭された。だからエリザベートに、その言葉は突き刺さったのだ。

「私はな、私のような女を抱きたいとは思わん。私の隣に立っていていいのは、うっかりすると私に噛み付いて来かねん狼だけだ。お前の教えに染まって牙を抜かれたら、可愛げまで薄れそうな、物騒な女だ。お前の作る世界には、全く似合わん、良い女だ。お前はこいつを、誰かを殺したくて仕方がない本性まで、共に愛せるか?」

 そう言って、桜は、村雨の肩を抱こうとした。
 気恥ずかしそうに、その腕をくぐり抜けながら、村雨が言った。

「この人はね、この通りに偉そうだし、道を歩けば美人を探してばっかりだし、金遣いも人使いも荒いし、多分今までに何十人も、何百人も殺してるんだろうけどさ、それでも、私には大事な人なんだ。あなたの作る世界には全く似合わない悪い人だけど……この人をあなたは、自分の世界に受け入れられる?」

「それが、答えだ」

 腕から逃げた村雨を手で追いかけながら、桜が言葉を継ぐ。

「自分以外を信じぬお前の世界に、私達のような生き物の居場所は無い。いいや、あまりに多くの生き物が、お前の世界には生きられない。だから私達は、お前を殺しに来た」

「殺す、のですか」

「ああ。お前と私達は相容れない」

 決定的な断絶――自分を絶対者と定めたエリザベートの世界は、自分以外を受け入れる土壌が無い。
 だからエリザベートは、導こうとした。
 全ての人間が自分と同じ思想を持ち、同じ理想を目指して歩むのならば、世界は恒久的に平和であると。
 だがそれは、この世界が、巨大なエリザベートに入れ替わるだけなのだ。
 その中に取り込まれたくないと、たったそれだけの反発心――
 それとて、人の感情である。 
 エリザベートが神に対して抱いた〝憤り〟と同じ、人の感情だ。
 自分が神を否定するのと同様に、雪月 桜と村雨は、エリザベートを否定したのだ。

「……そうだったのですね、私は」

 エリザベートは、自分の手を見た。
 美しく、儚い、白く細い指の、小さな手。
 傷一つ無い、純粋無垢な手。
 だが――その手が、血の海に浸された手である事を、エリザベート自身が、誰よりも良く知っている。
 雪月桜が、何十人、何百人という人間を殺したというのなら、エリザベートはその何倍も、何十倍も、もしかすれば何百倍もの人間を殺した。
 それが、世界の為であると、心底信じたからだった。
 だが、エリザベートの世界とは即ち、肥大化したエリザベートそのものである。

 ――この手は、我欲に血塗られている。

 くく、くくっ。
 くくく、くくっ。
 エリザベートの肩が、小刻みに震えた。
 その姿を、桜は、気が触れたかと思いながら見て――手は自然と、腰の鞘に伸びる。
 とめどなく湧き上がる快楽に悶えるように、エリザベートは身をよじる。
 その姿から、村雨は、起こしてはならないものが目覚めたのだと知って――両手を床に触れさせ、前傾の姿勢を取った。
 既に二人は戦いの中にある。
 ただエリザベートだけが、背を丸め、或いは腹を仰け反らせて、高ぶった官能を口から追い出そうとする。だが官能は、体に開いたあらゆる穴からまた潜り込み、何時までもエリザベートを、頂から引き下ろそうとしない。

「自分の事とはまったく、知っているようで何も知らないものです……」

 官能の正体は、絶望であった。
 自分は上等の存在でなかったという、甘美な絶望――それがエリザベートから、余計なものを削ぎ落としていた。
 此処に、自分は、初めて自分を知った。
 それが嬉しくてたまらず、エリザベートは喜悦に涙さえ滲ませて、喉を鳴らし続けた。
 エリザベートの情熱は、激しかった。 
 修道服の裾が乱れ、腕や脚や、決して普段は日に当たらぬ部位が、桜と村雨の前に曝け出される。
 白い肌をしたエリザベートなら、きっとその腕も脚も白いのだろう、そう思った桜の目を裏切るように――

「……そうか、お前は」

 エリザベートの腕には、鱗が浮かび上がっていた。
 毒々しい紫色の、硬そうな、分厚い鱗である。
 人間が人間であるなら、決して備わっては生まれて来ない筈の、体を守る鎧。

「所詮、私は楽園の蛇。人に知恵を与えんとしたこの舌は、結局は私の為に働いていた……ああ、浅ましい。けれども、もう引き返せないのです」

 しゅる、しゅる。
 修道服の裾から伸びる、紫色の蛇体。
 腕は――無くなった。
 脚も――体に吸い込まれるように、消えた。
 美しきかんばせも、逆三角形の、毒蛇の頭へと変わり果てた。
 高く、高く、二人を遥かに見下ろす位置まで持ち上げられた頭から、ちろちろと長い舌が覗く。
 エリザベートは、胴の幅が数尺にも及ぶ、巨大な蛇へと変じたのである。
 否――変じたのでは、ない。
 寧ろこの、全長十数丈にも及ぶ大蛇の姿こそが、〝大聖女〟エリザベートの本質であった。

「……村雨。お前、知っていただろう」

「まあね……いや、ここまで巨大だとは思わなかったけど」

 桜が言ったのは、村雨ならば、その嗅覚でエリザベートの本性を知っていただろうという事である。
 実際に村雨は、最初に出会った瞬間から、エリザベートの正体には気付いていた。

「だって、ねえ?」

 だが、言う理由も無かったのだ。
 村雨が、桜が、エリザベートと戦うのは、その思想が故である。
 エリザベートが人間であろうが、亜人であろうが、全く別種の怪物であろうが、とりたてて問題とする事ではない。

「まあ、なぁ」

 桜も、自分が聞かなかった事である。それ以上の何を言うでもなく、毒蛇の巨体を見上げて、

「……然し斬るのには難儀するな、うーむ」

 言葉とは裏腹、まるで子供が遊び場を前に、飛び跳ねてはしゃぐような顔をした。

「さて、斬るぞ。お前を斬って、私は帰る」

「私は貴女達を倒します。……いいえ、貴女達だけではない。城の外に居る政府の軍勢も! 私に抗う全てを倒し、私は天に至る!」

 ざああぁっ。
 エリザベートの蛇体が床を走り、高く、毒蛇の頭が上がる。
 村雨は、大蛇の広大な口の中に並んだ、刃物の如き牙を前に、

「今のあなたとなら、仲良くなれたかもね」

 ほんの少しだけ寂しさを滲ませて、高く跳ねた。








 ――始まりの光景は、焼け崩れた街並みだった。

 そこに有る筈の建物が、無い。
 代わりに、大量の瓦礫と、家具の残骸や、食器――生活の痕跡が混然となって、投げ出されている。
 そこに居る筈の人が、居ない。
 代わりに、瓦礫から突き出た腕や、瓦礫から抜け出して力尽きたのだろう焼け焦げた亡骸や、目に見えない何処かで腐り果てて行く腐臭が漂っている。
 街とは、生き物である。朝に目覚め、人と煙を吐きだし、夜には人を飲み込んで眠る。
 焼け崩れた街に、その機能は無い。日の光に照らされた瓦礫は温度を知らず、月光を浴びたとて、無感情に座しているだけだ。
 人が死ぬように、街も死ぬ。
 街は、自らに何の咎も無く、死に絶えていた。
 そこに、幼き少女が居た。
 この街の修道会に所属する証として、十字を首に下げ、修道服を纏っている。
 遠目に見るばかりなら、十かそこらの子供にも見えるだろうが、目の理知の光を見れば、十二か、十三か、それくらいにも見える、利発そうな顔立ちの少女であった。
 頭巾の中に頭髪を押し込んでいるが、眉を見るだけでも、彼女の髪が、美しい金色である事が分かる。
 街を見つめる目は、海の色だ。暖かく命を育みもし、時には多くの命を奪う海の、両面性を秘めた瞳である。
 両面性――
 この年齢の少女には似つかわしくない本質を、既に彼女は発露させている。
 街を見る目は、憂いと悲しみに満ちている。だのに、何故だろうか、時折少女の目は、酷くこわいものになるのだ。
 赤みが差した頬に伝う涙は、止まる事なく流れて落ち続ける。
 その涙に触れたら、触れた指が燃え上がるのではないか――そんな錯覚をする程、少女は双眸から激情を発している。

「エリザベートよ、もう休みなさい」

 少女に呼び掛けたのは、疲れ切った顔の、老いた男だった。
 エリザベートと同じように、十字を首に下げた、聖職に身を捧げた男――
 神の愛を説く時には、朗々と響く彼の声が、今は隙間風のように枯れている。

「神父様」

 エリザベートは、街の屍から目を動かさずに応える。

「もう何時間、そうしているのだね」

「何時間?」

「日が昇る前から、お前はそこにいるだろう。じきに夕になる、休みなさい」

 老いた男は、エリザベートの肩に手を置いた。
 その手を、小さなエリザベートの手が押しのける。

「神父様。私の祈りは、誰に届いたのですか」

「………………」

「私が捧げた祈りは、誰が聞いたのですか?」

 エリザベートの目の海が、荒れる。
 凪の風が向きを変えるや、帆柱を折る暴風と変わるように、哀しみの色がそっくりそのまま、少女の中で怒りに変わったのが、男には分かった。
 だが、怒りを鎮める言葉など、男は持たなかった。
 エリザベートが抱く怒りは、究極、自分の信じる道の中に解を持たないものであったからだ。

「私は、この街の罪無き人々を救ってくださいと祈りました。私の他にも沢山の人達が、同じように祈った筈です」

「……私も、祈った。我らの兄弟をお助けください、然し御心に叶いますならばと――」

「その御心とは、なんなのですか!」

 エリザベートは叫んだ。
 少女の体から湧き上がるにしては、あまりに強い感情――覇気に、男は思わず身震いをする。
 然し、その声さえ、街の屍には響かない。
 積み上がる瓦礫の山は、沈黙を以てエリザベートの激情に応えた。
 静寂――
 それが、街の応答だ。
 静寂を掻き乱すように、エリザベートは激する。

「御心とは、何千もの、何万もの、罪無き命を奪う事なのですか! 慎ましく平穏を望み生きる人々から、生活を、命を奪い去る事が、神の御心だとでも言うのですか!」

「言葉を慎みなさい!」

 呼応し、老いた男までが激した。
 だが彼は、直ぐ、自分の言動を恥じるように、はっと目を見開いて、一歩たじろいだ。

 ――自分は何を言っているのだ。
 
 家を失い、友を失い、数多の知人や――或いは肉親までを失った少女が、哀しみを叫んでいるだけの事だ。それに、何十年も長く生きた自分が、何故、激して叫ぶような真似を――と。
 年長者として優しく教え諭す事は、老いた男にとって、日常の勤めとなんら変わりが無い。少女の嘆きを受け止め、その上で神の愛を信じさせるのが、彼女にしてやるべき事ではなかったか。

「……エリザベートよ。神様はね、私達を見守っていてくださる。けれど、神様のお考えは、私達の誰にも分からないんだ」

「分からない――」

 だが。老いた口から紡がれる言葉は、少女をなだめすかす、聞こえの良い音では無い。
 神父として、神の道に命を捧げて数十年、それで、ようやく選び出せた、精一杯の言葉である。

「神様は時に、私達に試練をお与えになる。試練だからね、乗り越えるのは簡単な事ではないし、試練の中にいる私達には、それが乗り越えられる事かどうかさえ分からない。
 だが、エリザベート、信じなさい。神様は決して、私達が乗り越えられない試練を、私達の上に降らせない。今、お前が嘆き悲しむ全ては、お前の為の試練なのだよ……」

 老神父の声は次第にか細くなり、最後には、呻き声としか聞き取れぬものに変わり果てた。
 それでも、必死の言葉――必死の説得であった。
 子供に、神の偉大さを知らしめる時、どうするか。〝神様は何でも知っていて、何でもできる〟と説く。そして、何でも知っている神が、お前達を見守っていると続けて、祈りを、絶対者の庇護に結びつけるのだ。
 少なくとも老神父は、そう教え続けて来た。

「……つまり神様は、試練なんて理由で、何人もの人を殺したんですか」

「違うぞエリザベート、これは天災だ! 神様が望んでこの街を――」

「望んでいないなら、見殺しにしたんだ! アンドレは屋根に潰されて泣いてたのに、ポールは火に囲まれて動けなかったのに!」

 エリザベートは聡明な少女であったが、たった一つ、他の子供と同じように、幼い所が有った。
 神が全能の存在であり、また、善良な人間の庇護者だと信じていたのだ。

「アンナは火事から逃げる人に踏み潰された! 薄っぺらの本みたいになって、土と同じ色で石畳に張り付いてた! カタリナはっ、あの子は教会に最後までっ……!」

「言うな! それ以上を言うな、エリザベート!」

「最後まで教会に残って、私にこう言ったんだ! 『大丈夫よエリザベート、小さい子達を置いてはいけないけれど、神様が私達を守ってくださるわ。どんなに苦しい時でも、苦しい時だからこそ、私達は神様を信じなきゃいけないの』! 神様を信じたカタリナがどうなったか、神父様だって見たでしょう!?」

 アンドレ、ポール、アンナ、カタリナ――いずれもエリザベートと同じ教会で学んだ同世代の者達で、エリザベートの他は、全て死んだ。中でもカタリナという少女は――皮肉にも、祈りを捧げる姿勢のまま、倒れた十字架に潰されて死んでいた。

「我々の推し量れるものではないっ!」

 老神父が、血を吐かんばかりに声を荒げる。
 だが、彼は同時に、涙を流していた。

「神様は遠く、我々の想像もつかぬ世界にいらっしゃる! その為す事を、我らの計りに当てはめて良い筈も無いのだ、エリザベート!」

 老神父は、既に神が全能でないか、或いは神とは無条件に救いを為す存在でない事を知っている。生きていればやがて、何処かで突き当たる事実なのだ。
 全能の神が善良であるならば、必ず、善良な人への理不尽を救う筈だ。
 救わぬのは、神が全能でないからであるのか?
 或いは、全能でありながら、善良でない為に、人を救わぬのか?
 その問いに、長く生きた神父はもう、自分なりの答えを出している。
 だが――その答えは、神の道に生きるものとして、決して口にしてはならぬものだ。
 そして、その答えに、エリザベートも辿り着いた。
 それが分かったから老神父は、エリザベートを制止する。
 そんな答えにしか導けない自分の無力を想い、涙を流す。

「神は人間を救わない」

 遂に、エリザベートは辿り着いた。

「どんな理由があろうと、どんな理屈を付けようと――今、この時、誰一人を救おうともしなかった神に、人間を救うつもりなんて無いっ! 神は人間を見ていない、人間を救う事は無く、人間を正しく罰する事も無い! 神は、地上を水に満たした遠い昔から、私達人間に、なんの興味も持っていないっ!」

 神が居るのなら、それは、人間に与するものでは無いのだ、と。
 死が満ちた街の中、エリザベートは怒りを――憤りを、天に発する。

「違うというなら返せっ! お前が奪ったもの全て、私達人間に返せっ! 返して見ろっ! 言い訳の一つでもして見せろっ! 答えろっ!!」

 もはやエリザベートの言葉は、呪詛とも言えよう程の怨念を孕んでいた。
 天を睨み、喉を枯らして叫べば叫ぶ程に、彼女の心の中に立つ聖堂が、音を立てて崩れて行く。
 やがて、日が完全に落ちた頃――
 そこには、一人の少女が居た。
 老人の屍を冷たい瞳で見下ろす少女の、月灯りに照らされた頬や手には、紫色の鱗が見えた。
 最初の犠牲者――否、殉教者。
 この日、一人の少女が、神に成り代わった。







 ――あれから、何年になるでしょうか。

 それは、〝三百年〟も前の事。
 かつて幼き少女だった者は、今もさして姿を変えぬまま、内に秘めた怒りだけを成長させ続けた。
 人を救わぬ神を、神の座より排する為、少女は力と、寿命を求めた。
 それから、幾人の命を喰らっただろうか。
 数十、数百か、数千か――喰らい、己の命に継ぎ足し、少女は今までを永らえた。
 その身は既に、人では無い。
 大蛇――
 神に反旗を翻した者には、似合いの姿かも知れなかった。

 ――長かった。

 エリザベートの歩む三百年の道程は、苦難の連続であった。
 人として生まれながら、人でなくなった存在が説く、異形の真理――受け入れる者は少なかった。
 神は人を救わぬと説いたとて、素直に頷く事が出来る者など、どれ程にいるだろうか。
 始めの十数年は、全く何も成果を生まぬ、虚しき日々であった。
 人が、全能の神に対する憧れだけでなく、神からの恩恵を期待して信仰していると気付いた時、エリザベートは魔術の道を志した。
 その頃、魔術は広く開かれた学問ではなく、象牙の塔に籠る学者のものであったが、数十年を掛けて、己のものとした。
 ほぼ不眠不休で、幾度も死に近付きながら、他者の命を食らって死を乗り越え、他の人間の何倍もの時間を費やし――
 いつしかその手には、完全な治癒の術が握られていた。
 〝世迷言を吐く老いぬ少女〟から、〝誰をも無償で癒す聖女〟と変わった時、エリザベートの周りには、何人もの人間がひれ伏していたが、エリザベートはそれに満ち足りなかった。
 彼らは、自分の為に働きはしても、自分の為に死にはしない――エリザベートは、それを理解していた。
 人を意のままに操る術――それは、恩恵と恐怖の二つで縛る事で完成する。エリザベートは、癒しの術ばかりでなく、人を害する術を学んだ。
 恐ろしい程の勤勉さと執念で、エリザベートは学び、育ち続けた。
 そして、ついに東の果ての地で、異形の教えを受け入れる民を得て、エリザベートは〝大聖女〟になった。
 神への怒りを、ほんの一時たりと緩めずに。

「かぁっ――ぁ、ああああああああァァァッ!!!」

 絶叫。
 大蛇は、その巨大な体を鞭の如く振るって、桜と村雨を叩き潰さんとした。
 蛇体が床を叩き、石畳が水の雫のように跳ね上がる。
 もうもうと粉塵が舞う中を、二人は駆け、エリザベートの死角を狙う。
 然し、人ならば振り向くのに足を動かしもしようが――蛇が後ろを振り向くのには、持ち上げた体を捻るだけで足りる。

「しゃあああぁっ!!」

 着地した二者の内、まずエリザベートが狙いを付けたのは、より小柄な村雨であった。
 エリザベートは顎の関節を外すと、小屋の一つも飲まんばかりの大口を開けて、村雨を一呑みにせんとした。
 桜が、その間に割り込む。

 ――構うものか!

 エリザベートはそのまま、二人を呑み込まんとし――

「おうらっ!」

 桜が、村雨を投げた。
 腰を両手で掴むと、反り投げの要領で、村雨をまるで俵か何かのように、高々と投げ上げたのである。
 そのまま桜は、エリザベートの口中に呑まれ――
 斬。

 ――っ!?

 エリザベートの蛇体、頭の付け根の背中側から、黒塗りの大太刀が一本、天井目掛けて突き出た。
 間髪入れず、その黒太刀はぐんと振り下ろされ、一文字に切り開かれた傷口を、内側から桜の手が抉じ開ける。

「ぎ、がっ!?」

「ふむ……斬れぬ事は無いな」

 まるで無造作に、洞窟を散策するように、桜はエリザベートの口に飲まれ、首を斬り裂いて抜け出したのだ。
 蛇体の背に乗った桜は、腰の太刀を引き抜くや、逆手に掴んでエリザベートの頭へ振り下ろす。
 分厚い骨が、ごりごりっ、と音を立てて貫かれ、太刀の切っ先が床に届いた。エリザベートは、蛇頭の、丁度目と目の間から刺し貫かれて、床に縫い付けになった。

「ぐっ――」

 だが、死なない。
 いや、死んではいる。死んだ端から、再生を繰り返すだけだ。
 早くも、首背面を切り開かれた傷は塞がり、巨大な頭は貫かれたままで、強引に床から太刀を引き抜こうとする。
 頭蓋が浮いた。
 そこへ、桜が突き下ろした時の、何倍もの衝撃が、太刀の柄からエリザベートへ伝わり、蛇頭をまた、床の石畳へと叩きつけた。
 投げ上げられた村雨が、天井にぶら下がり、桜が突き立てた太刀の柄へ、正確に飛び降りたのである。
 苦痛に慣れている筈のエリザベートが、悍ましい悲鳴を上げた。
 蛇の巨体が上げる悲鳴は、ステンドグラスをびりびりと震わせ、聖堂中に反響した。
 桜はすぐさま、太刀を引き抜いて鞘へ戻し、黒太刀一振りのみを構えて、エリザベートから距離を取る。村雨が、桜を追って、一足飛び跳ね、後退して横へ並ぶ。
 蛇体は苦痛にのたうちながら、ぎろりと目を剥いて、憎き敵の場所を見定め――
 ごおうっ。
 暴風と共に、体の下半分全てを撓らせ、聖堂を薙ぎ払う。
 村雨は早々に、蛇体が薙ぎ払うであろう暴風圏から、転げるように逃れた。
 だが、桜は留まっていた。
 両腕を、額の上で交差させ、蛇体に真っ向から立ち塞がった。
 衝撃――!
 雪月 桜の体が、床と平行に跳んだ。
 そのまま桜が白塗りの壁にぶち当たると、壁にはすり鉢状の衝撃痕が残る。砲撃の跡と称して、誰も疑わぬであろう規模の痕跡であった。
 間髪入れず、エリザベートが、壁に埋まった桜の方へ向き直り、目を見開いて――
 がしゅっ。
 村雨が、エリザベートの巨大な目を、篭手を着けた腕で、思い切り殴り潰した。

「桜!」

 蛇体が仰け反った隙を見て、村雨は、壁に激突した桜の元へと走る。
 すると桜は、何事も無かったような顔をして、背に付いた石埃を払落した。

「何やってんの、馬鹿っ!」

 村雨が軽く跳ね、靴裏で桜の頭を、横から蹴り飛ばす。ごつん、と音がする程度には力の込められた一撃である。

「すまん、ついやりたくなってな」

 全く悪びれていない口振りと、童のように目を輝かせた顔をして、桜は応えた。
 眼球を再生させたエリザベートは、敵二人のやりとりを目の当たりにし、戦慄する。

 ――あれで死なない?

 まともな人間ならば、原型も残らぬ亡骸と成り果てる程の力を持つ、蛇体を鞭とした一撃である。エリザベートは十分な勝算を以て、桜を打ったのだ。
 それが、まるで通用していない。
 エリザベートは、己の不死性を誇示し、敵の攻撃を全て受け、敵わぬ相手だと知らしめる術を得意とした。そのエリザベートが、逆に、敵の耐久性に驚嘆している。

 ――まさか、私と同じ、不死の。

 否、それは無い――瞬間的によぎった考えを打ち消し、エリザベートは次の手を思案する。
 あれは、死ぬ人間で、自分とは違う。ただ体が頑丈なだけだ――威力が足りないならば、増せば良い。

「〝空の空、空の空、一切は空〟――」

 エリザベートは、短い詠唱を開始する。
 柱の如き蛇体に、余波さえが大気を震わせる程の魔力が満ちる。
 手で触れるだけで、あらゆる傷病を瞬時に消し去る力を持つエリザベートが、総身の魔力を、癒しではなく破壊に用いようとしているのだ。

「――〝人が為す全ての事は、神の意に沿えば虚しい〟」

 聖句を捻じ曲げた、呪言の如き詠唱が終わった瞬間、エリザベートの体から、何十枚からの鱗が剥がれ落ちた。
 一つ一つが、大人の掌ほどもある巨大な鱗が、かつん、と床に当たるや――
 その全てが、人の姿に変じた。

「おっ……」

「うわあ……」

 桜と村雨が、殆ど同時に、驚いたような、呆れたような声を発する。
 エリザベートの鱗は、その全てが、人間のエリザベートの姿へと変わったのである。
 即ち、金糸の修道女が、全く同じ顔で数十人、大蛇を囲むように現れたのだ。

「思えば、対等以上の相手と戦うなど初めての事で……」

 数十の口が完全に同期して、同じ調子で、同じ音を発する。
 そして、鏡に映った像のように、全く同じ動きで手を高く掲げた。
 それぞれの指に燈る、強い光。
 膨大な量の、魔力の光球。
 数十人のエリザベートは、その一人一人が、本来のエリザベートとなんら遜色のない、卓越した術者であった。

「こういう事をするとどうなるか、私自身も知らないのです」

 彼女らしからぬ嗜虐的な笑みと共に、数十の光球が、土石流の如き圧を以て、拡散し、飛んだ。
 その術は、奇跡的な結果を何も生まない、単純な術。
 触れたものを破壊するだけの、光の散弾であった。
 散弾は、桜と村雨の二人が居る方角へ、狙いを定めずに放たれた。
 それは壁も床も、或いは天井にさえも届き、その全てを差別無く、叩き、潰し、崩し、壊し、爆薬が如き轟音と、暴風が如き粉塵を巻き上げ、目を焼く灼光で聖堂を遍く照らし、また聖堂を揺さぶる衝撃となった。
 砲撃と例える事さえ生温い。
 この術の凄絶さを表すには、新たな言葉が必要だ。
 爆撃――
 人が手にするには、更に数百年の歳月を必要とする、破壊の極致に冠せられる言葉。
 エリザベートはそこに、己の力のみで辿り着いたのである。
 塵煙の中、動く者は無い。
 有る筈も無かった。
 天から硫黄の火が降った時、街の全てが死に絶えたのと同じように。








 圧倒的な破壊――そう呼ぶ他に、どんな術も無い。
 物事には、これ以上は有り得ないという限度があり、その道に通ずる者程、どこにその限度があるかも良く知っている。
 飛脚が、人の足で出せる速度の限度を知るように。
 弓の達者が、狙える的の、距離の限度を知るように。
 だから、どのような魔術師とて、この聖堂の有様を見たのなら、それが〝一個の生物〟によって為されたものだとは思うまい。
 エリザベートの破壊的魔術は、人知より遥かに逸脱していたのだ。

「どうしました、雪月 桜、村雨」

 群体となったエリザベートは、数十の口で、敵の名を呼ぶ。
 聖堂に舞う粉塵へ、エリザベートが指を向けると、びょうと強い風が吹き、塵を何処かへ攫っていた。
 塵が晴れた、瓦礫の中で――

「死にましたか?」

 雪月 桜が、エリザベートに背を向け、床に膝を着いていた。
 黒い衣服の至る所に血が滲み、何も言わず、何も答えず――まるで、神に祈りを捧げる巡礼者のように。
 その腕が、何かを抱くように丸められている。
 それだけでエリザベートには、桜が、光の散弾が迫る中、何をしたのか、手に取るように分かった。
 桜は、村雨を庇ったのだ。
 避け切れぬ攻撃と見て、村雨の体を胸の内に抱き、自らの背を盾にして、村雨だけを光弾から守った。
 代償は、小さくない。
 〝大聖女〟エリザベートの、渾身の魔術光弾である。魔術師でない桜が、姿形を保って耐え抜いただけでも奇跡と言えよう。
 だが、敵に訪れた奇跡を讃える程、今のエリザベートは、聖女然とした生き物では無かった。

「次は、その身の盾ごと砕きます!」

 再び、エリザベート〝達〟の指に集束する、魔力の光。
 更には〝本体〟である大蛇までもが、ぐわっと開いた口の中に、同じ光を集めた。
 先にも勝る衝撃で、言葉通り、桜の身をも砕かんとする。
 きぃぃぃいいいぃぃいぃぃぃっ――
 大気が、流動する魔力の余波に耐えかねて悲鳴を上げた、まさにその時――

「砕く、だと?」

 桜の体が、ぐらりと傾いて、仰向けに倒れ込んだ。
 立ち上がろうとして足が動かず、受け身も取れずに倒れた――エリザベートには、そのように見えた。
 事実、その通りであった。
 桜は立ち上がれず、そればかりか、今は俯せになる事さえも出来ない。
 だが――エリザベートにとって重要なのは、敵の一人が、無力に横たわっている事では無く、

「私の女を、甘く見るなよ」

「何……!?」

 その腕の中には、誰も居なかった。
 腕の形は明らかに、人間一人分の大きさを、押し込めて抱くような、そんな形だった。
 エリザベートの読みは、其処までは当たっていた。
 桜に庇われた村雨は、粉塵が晴れた時には、既にその腕の中から抜け出していたのである。
 数十対の目が、聖堂全体を見渡さんとした時、エリザベート〝達〟の一人の目に、灰色の影が映り込んだ。
 影は、恐ろしく速かった。
 見えたと思った時、それを見たエリザベートは、喉笛から血を吹き上げて絶命していたのである。
 崩れた柱の陰から躍り出た、村雨であった。
 既に村雨は、〝顔を変えて〟いる。
 瞳孔は拡大し、眼球の強膜は変色し、歯列は刃のように鋭く。
 関節可動域の拡大、心拍数の上昇、血流流増大による全身の筋力向上、感覚の鋭敏化、そして凶暴化――
 人狼の全性能が、余す所無く、解放されていた。
 ざ、
 と音が鳴った時、村雨は、一人の喉を爪で抉りながら、別な一人の首を蹴り折っていた。
 しゅっ、
 と音が鳴った時には、二人ばかりを瞬く間に投げ倒しながら、手近の一人の喉に噛み付き、体を捻りながら喰い千切る。
 村雨は、エリザベート達の群れの中へ、躊躇い無く跳び込んだのである。
 数十人の同期が解除される。そうしなければ、一人が投げられた時、全員が床に伏す事になるからだ。
 エリザベート〝達〟の何人かが、光の散弾を、村雨目掛けて放つ。
 然し村雨は、低い姿勢で、獣の速度で馳せ回る。
 如何に大術者とて、エリザベートは戦いを生業とする者では無い。目の前から瞬時に消える村雨の速度を捉えるなど、出来よう筈も無かった。
 光の散弾はあらぬ方角に跳び、エリザベート〝達〟自身の体を吹き飛ばす。
 一撃だ。

 ――当たり前だ!

 エリザベートは歯噛みする。
 人体は、この光弾に耐え得る強度で作られていない。
 だから、光弾が村雨に直撃すれば、それで殺せる筈なのだ。
 だが、当たらない。
 いや――当たったとて、本当に死ぬのかも分からない。現に雪月 桜は生きている。
 自分が言ったように、同格以上の敵と戦った経験など、エリザベートには無い。それ故に、初撃で殺せなかった相手に対する、二の撃、三の撃を持ち合せていないのだ。
 村雨は速度を緩めず、エリザベート〝達〟を次々に殺していく。
 全ての攻撃で急所を狙い、確実に人数を減らし――
 無論、その死さえ、エリザベートは直ぐに乗り越えて再生する。しかしその度にエリザベートは、死ぬ程の苦痛に襲われるのだ。
 死に伴う痛みより恐ろしい、その痛みだけで体が死を選ぶ程の苦痛。
 三百年以上を生きて、その痛みも既に何千と繰り返しては来たが、僅かの時間に数十回も殺されるのは、未知の経験であった。
 苦痛が思考を麻痺させる。
 エリザベート〝達〟が動かぬ中、村雨は返り血の霧の中を馳せ回る。

 ――このままでは。

 エリザベートは、何十年ぶりにか、死の苦痛に恐れを抱いた。
 そして、少々の犠牲を払ってでも、村雨を確実に殺さねばならぬと決意する。
 数十人のエリザベートは、その中の一人が村雨の牙に屠られた瞬間、その一人を中心に密集した。
 蜜蜂が、雀蜂を殺す時のように、数で押し潰して動きを止めたのである。

「ぐぅ、ううっ!」

 数十人の圧で抑え込まれながらも、村雨は、手の届く限りの敵へ、爪と牙を向けた。
 だが、目を抉ろうが喉を潰そうが、首を逆に捻ろうが、エリザベート〝達〟は村雨を放さない。
 その真上に、大蛇の頭が迫った。
 エリザベートの〝本体〟たる大蛇は、巨大な口の中に、煌々と光る魔力の塊を呑んでいた。
 指から放たれる光の散弾と同質の、然しそれより数段も巨大な魔力光――エリザベートは、村雨を、自らの分身体ごと消し去ろうとしていた。
 そこへ。
 斬。

 ――っ!?

 大蛇の胴が真っ二つに断ち切られ、高く持ち上げられた首が、二丈程の長さで斬り落とされる。
 何時の間にか立ち上がった桜が、黒太刀を振るい、エリザベートの蛇体を両断したのである。
 口中に溜め込んだ魔力が霧散し、柔らかな光となって消えて行く刹那――
 桜は、明らかに刃が届く筈も無い位置から、エリザベート〝達〟へ向けて、黒太刀を振るった。
 躱すまでも無い、決して届かぬ刃。
 だが――
 ごうっ、と、炎がうねる。
 その炎は、桜の振るった刃の道筋を辿るように、真一文字の横薙ぎに、エリザベート〝達〟の幾人かを纏めて、その首を焼き切った。

「と、遠当てまでっ……! まさか、魔術師!?」

「そんな器用なものでは無いわっ!」

 そして、桜は、エリザベート〝達〟の群れへ突っ込んで行く。
 本来ならこの行為は、暴風雨の夜、滝を遡ろうとするが如き愚行である。
 殺しても死に切らぬ、数十の敵の群れ――数十人の体重だけでも、相当の圧が有る。数十人が命を度外視すれば、猛獣とてその動きを止めるのだ。
 だが、雪月 桜は、猛獣をも遥かに上回る大怪物である。
 最初の接触で、桜は、左肘で頭を庇い、エリザベート〝達〟へぶつかった。
 背後の数十人と、正面の桜からの圧で、最初に触れた一人が――
 ぱんっ、
 と音を立てて、弾け飛んだ。
 直ぐにも数十本の手が、桜の腕と言わず脚と言わず絡み付き、床へ引き倒そうとする。
 桜は倒れない。そればかりか、速度を緩める事さえ無い。
 衝突時の、人ならぬ速度を保ったまま、桜は数十人を引きずり、或いは振り切って、エリザベート〝達〟の群れの中を駆け抜けたのである。
 十人以上の肉体をひしゃげさせて、桜は尚、疲れを見せず不敵に笑う。その腕の中には、先程までエリザベート〝達〟に捕らえられていた村雨が在り――

「動けるか!?」

「余裕っ!」

 村雨もまた、直ぐに桜の腕から抜け出し、極端な前傾姿勢で、エリザベートの本体へ向かって身構える。
 丸く大きな目の中で瞳孔が開き、凄絶な顔をしながら、村雨も笑っている。
 いや――牙を見せているだけなのかも知れない。
 口を開き、鋭い牙を剥き出しにすると、少なくとも口元だけは、笑うような形になっているのだ。

 ――何故、笑う。

 蛇体の首を斬り落とされたエリザベートは、体を再生させながら、総身に寒気を感じていた。
 今は存在しない手足にさえ、幻肢痛の如き寒さが纏わりつくのである。
 顎の形が人と同じなら、がちがちと歯を鳴らしていたかも知れない。
 それは間違い無く、恐怖の感情であった。

 ――苦しみの中で、何故、笑う!?

 エリザベートにとっての戦いとは、望みを叶える術の一つでありながら、苦しみの道でもある。
 激しい痛みを代償に、僅かの勝利を奪い取ったとて、その先には無限遠にも等しき、苦痛で彩られた道程が続いている。
 究極、エリザベートは、己のみを信じている。
 だから、その自分でさえ耐えられぬだろう苦痛の連続の中、笑って見せる二人が理解出来なかった。
 成る程、度し難い存在であろう。
 思想と思想、信条と信条がぶつかり、勝てば生きて、負ければ死ぬ。余裕の持ちようなど無い、苦しみの絶頂の中――〝戦うこと〟そのものに、歓びを覚えてしまう生き物など。
 だが、そういう生き物が確かに存在して、あまつさえ自分を幾度も――傷付きながら、それに数百倍する速度で殺し続けている。
 理解が及ばない。
 自分の価値観に、全く沿わないからだ。
 恐ろしい。
 理解出来ないものは、恐怖である。
 再生した大蛇の体も、数十人のエリザベート〝達〟も、目の前にいる小さな生き物二人が恐ろしくて、たまらなかった。

「怖いか、エリザベート」

 その時である。
 丁度、エリザベートが、自らの恐怖を押さえ込んで、今一度攻勢に移ろうとする、ほんの一瞬前――その時である。
 エリザベートの心の揺れ動きを見透かしたように、桜が、良く通る声を発した。

「怖いだろうなぁ。たった一人で高いところにいるから、脚が竦むのだ」

「……なんですって?」

 ぞろっ、と沢山のエリザベートの目が、桜へと向いた。
 感情が全て同期された数十人――彼女達の目には、ありありと憎悪が浮かんでいる。
 見透かされた――
 自分の底を覗き見る桜を、エリザベートは憎悪した。

「お前には、支えが何一つ無い。お前自身の力でどうにかなっている時は良いが、お前の力でどうにもならぬ事に出会えば、後は打つ手が無い訳だ。何一つしくじる事の出来ない環境なぞ、私とて恐ろしくてかなわんわ」

 桜は、優雅な程に落ち着き払って、数十の視線を受け止める。

「私達が何故、お前の前で笑えるか、知りたいか」

「――――――」

「何、簡単な事だ。お前と向き合うまでに、私はただの一度も刀を抜かず、ほんの数歩さえ走らずに此処まで来たのだ。だから体力が有り余っている――それだけの事だ」

 それだけの。
 桜は、それが何でも無い事であるように、軽く放り投げるような口振りで言った。
 エリザベートを苦しめる不可解の理由は、たったそれだけであると。

 ――そんな、それだけの筈は。

「まさ――」

「まさかと、思うか? ところが案外、それだけの事が、地味に効くものだ。私と村雨は、お前だけを殺せば良い。それ以外の何を考える必要も、背負う必要も無いのだ。何せ外の連中、私に比べれば弱いにせよ、放っておいたとて簡単に死ぬような奴らでもないのでな。
 ……まあ、それに、だ。此処で私が何かをしくじったとしても、それを私だけが取り繕う必要も無い訳だ。こんな気が楽な戦ならば、笑わずにいられる筈も有るまいよ」

 桜の言葉は、エリザベートには不可解だった。
 〝たったそれだけ〟の事で、人がこうも強くなる筈が無い――
 それならば、自分とて十分に〝持っている〟筈だ。
 自分を慕う、数多の信者兵。
 利害の一致により手を組んだ、狭霧和敬と、その手勢。
 何か後ろ盾があるだけで強くなれるなら、自分には何百の、何千の味方が――

「違うよ」

 村雨が、悲しげな目で告げる。
 エリザベートの想いは、もはや言葉にせずとも、困惑を浮かべた眼差しからこぼれ落ちていた。
 それを拾って、村雨は言う。

「私達は、二人で此処まで来た。あなたは――たった一人で、私達を待ってた。一番大事な時に、私達は誰かに頼って、あなたは自分だけに頼った――だから、違うんだよ」

 村雨の声音には、慈悲の色さえがにじんで――エリザベートの、三百年を生きた魂が、全霊でその目を否定する。

 ――私を、憐れむな。

 他者の不幸を嘆き、憐憫の情を抱き、嘆きと共に赦しを与える――それはかつて、エリザベートの特権であった。
 一介の少女が、神から奪い取った、優越の確約。
 それが悉く、エリザベートの手から抜け落ちて行く。
 まるでエリザベートは、権威という聖衣を剥ぎ取られたようだった。

「もう、やめよう?」

「は……?」

 村雨は、些細な事のように提案した。
 殴った自分も悪かった、だから喧嘩をやめようと友人に持ちかけるような――少し、ばつの悪い顔で。

「あなたはもう、〝大聖女〟じゃない……私達に勝ちたくって必死な、ただの人間だもん。もし私達に勝ったって、もうあなたは昔みたいな綺麗な顔で、誰かを教えて回れないと思う。だから、ね……もうやめよ?」

「村雨」

 桜が、少し怖い声になる。
 だが村雨は、それに怯える事もなく、

「拝柱教なんか捨てちゃってさ、大陸の何処かに逃げて、今度はあの力を――怪我や病気を治す力を、治す為だけに使うの。誰もあなたの事なんか知らなくて、誰もあなたのした事を知らないところで、全然違う人みたいにさ、そしたら――」

「村雨、やめろ」

「――そしたらあなたは、一人じゃなくなる。多分、他の誰かじゃないあなたの為だけに、横に立とうって人が――」

「村雨! 今更こいつは、退けんのだ!」

 桜が声を張り上げた。
 此処が戦場だろうが、彼方まで届く声。
 それでも村雨は、言葉を止めなかった。

「――だって、あなたは……桜に何を言われたって、本当は自分しか信じてなくたって、誰かの為に泣ける人だったじゃない! 私はいろんな人を見てきたよ、悪人も善人も沢山! その中でもあなたは、間違い無く、誰よりも良い人だったんだから……!」

 そうだ。例え、その思想の根幹に、人間と神に対する絶対の不信があろうと――
 そも、神と人間に怒りを抱いたは、何故か。
 それは、神は人間を救わぬと気付いたからだ。
 それは、人間は人間を苦しめる生き物だと気付いたからだ。
 たった一つ、意のままになる自分だけを信じたは――人間全てへの、純な愛からではなかったか。

 ――そうか。

 今の形がどうであれ、選んだ術がどうであれ、始まりの自分が抱いた感情だけは――それだけは、正しかった。
 逆に言うならば、それ以外を全て間違えた。
 自分以外の誰をも頼らぬ道を選んでしまった――それが過ちだった。

 ――私は、一人で勝手に。

 裏切られたと思ったからだ。
 世界には、自分よりはるかに賢くて、全ての正しい道を知っている人間が居て、問えば響くように、たちどころに迷いを晴らしてくれると、勝手に信じた。
 神は、人間を救わぬものだと叫んだのは、そうではないと言ってくれる人間が欲しかったからだ。
 人を信じぬ道を歩いたは、それは違うと言ってくれる誰かが欲しかったからだ。
 世界に絶望しながら、エリザベートは、自分を教え諭す誰かを待っていた。
 三百年を生きても出会えなかった、何よりも待ち望んだ存在――それは今、自分の目の前に、自分を殺す為に。

「……桜さん。村雨さん」

 エリザベート〝達〟の中から、一人だけが進み出て、

「今、貴女達が、とても愛しいのです」

 涙を一筋、頬に伝わらせながら、いつかの日の慈母の如き微笑みを浮かべた。
 それが、終局の知らせとなった。
 聖堂が、高い天井も遠い壁も、風化し、砂粒となって何処かへ運ばれていく。
 数十人のエリザベート〝達〟が、ただ一人を残し――大蛇さえが、肉も骨も溶け、風化する背景と共に消えていく。
 世界が再構築されている。
 何時の間にか、桜と村雨は、二条城の天守閣に立っていた。
 眼前には、エリザベートがたった一人、信者も共謀者も、何も持たず、ただ一人で立っている。
 晴れやかな顔をしていた。
 数百年の妄執が、全て破滅した後の、何も残っていない人間の顔。
 これ以上、何を失う事も出来ぬ顔。

「……見ろ、村雨。余計な事を言うからこうなる」

「あははー……ごめん。でも、言いたかったんだ」

 桜が珍しく、口を尖らせて不平を零した。その手は未だに、黒太刀の柄を、強く握りしめている。
 その隣で村雨が、両手足を床に着け、前傾の、猛獣の構えを取っている。
 二人は確信していた。
 次が、ようやっと、最後だと。

「〝神を畏れるな、戒めより解き放たれよ〟――」

 此の期に及んでもエリザベートの詠唱は、神に背く言葉であった。
 三百年の歳月を、今から無には出来ない。身に着けた技法の全ては、神の敵たらんとする為の術だ。
 それで良かった。
 エリザベートは、やっと、安心して〝間違う〟ことが出来る。
 お前は正しくないのだ。お前は間違っているのだと、万物への不信を否定するものが居るからこそ――

「――〝我こそ全てを裁く者〟!」

 傲慢に、過ちを犯して。
 最期の術が、始動する。








 二条城、本丸の外では、七百を超える信者兵の悉くが、ついに政府軍によって打ち倒された。
 一兵残らずである。
 捕縛された者も無ければ、武器を捨てて投降した者も居ない。
 皆が皆、己の信じる教えに準じて死んだのだ。
 政府軍の疲弊もまた、相当のものであった。
 三度まで生き返る兵を七百、悉く殺すまでに、数百の兵が死に、手傷を負った者は数知れない。
 敵の姿が無くなった時、兵士達は、まず休息を欲した。
 仰向けに横たわる者、座り込む者、友の肩に寄りかかる者、様々である。
 勝利の喜びより、戦いが終わった事による安堵が強い――或いは、実感も薄いのかも知れない。
 交わす言葉も少なく、聞こえる音は、呻き声ばかり。そういう場所で松風 左馬は、ぐいと酒を煽っていた。
 懐に忍ばせていた小瓶が、この戦から辛うじて生還していたのだ。
 零れても惜しくは無いようにと、注いでいたのは安酒であったが、こうなればもう少し美味なものを選んで居れば良かったと、後悔の念が募らぬでもない。
 安酒だが、度は強い。
 乾いた喉にひりつく熱さ――一口へ喉へ注ぐごとに、左馬は深く息を吐いた。

「それは、美味なのですか?」

「あぁ?」

 すると、背後から突然に声を掛けられた。
 気配を消すでもなく、ただ通りがかったというような調子で歩いていて、突然足を止めた女――
 いや、まだ少女と呼んだ方が正しいだろう。
 身体つきはしなやかで、女と呼ぶには、少し体のまるみが足りない。
 左馬が思ったのは、

 ――蛇みたいな奴だ。

 というような事だった。
 顔に表情が薄く、身体はなだらかで、だが動くとなれば良くしなり、良く曲がりそうだ。かなりの無理が出来そうな、柔らかくも強靭な筋肉が備わっている。
 丁度、川を泳ぐ蛇の滑らかさに似たものを、彼女は持っていた。

「誰だ、お前」

「失礼しました。雪月 桜の――」

 左馬の誰何に対し、彼女は名を名乗るでなく、代わりに共通の知人の名を挙げて、

「――旅の連れと言いましょうか、捕虜と言いましょうか、弟子と言いましょうか、従者と言いましょうか……ウルスラと呼ばれています」

「さっぱり分からない」

 兎角、要領を得ない答えであった。
 変な奴だと思いながらも、左馬は、ウルスラを背後に立たせておく事とした。
 人間にも色々と居るが、こいつは少なくとも、いきなり襲いかかってくる類の人間ではない――なんとなくそういう確信は有ったし、何よりも疲れていたのだ。

「桜も良く、お酒を飲んでいました。そこまで美味なものでしょうか、お酒というものは」

「美味いかどうかで言ったら、そこまででも無いさ」

 小瓶を空にして放り投げ、その場で大の字に倒れ込みながら、左馬は答えた。
 別段、真面目に取り合う意味が有るでも無いが、何か、なんでも良いから誰かと話したい――そういう風情で、顔を見ぬままの答えであった。

「美味でないものを、嗜むのですか?」

「場合によるよ。気に入らない奴をぶちのめした時やら、一端の技を身に付けた時やら――そうまで行かなくても、昨日の夢が面白かっただとか、出先で一文銭を拾ったとか、そんなどうでもいい事で、酒は美味くなる。酒自体にも味はあるが、まぁ……そんなに大事でもない」

「……では、今は、何故?」

「酔えるからさ」

 左馬は、自分の懐を探る。
 酒は残っていないし、銭は数枚見つかったが、酒屋は遥かに数町も先だ。
 左馬は、言葉とは裏腹に、まだまだ酔いが回っていないようであった。

「つまらない事が有っても、気に入らない事が有っても、酒を飲めば少しは気分が良くなる。頭をがぼんやりと、余計な事を考えられないようになって、不味い酒だろうがなんだろうが、飲み続ければそのうち良い具合になってくるのさ」

「気に入らない事が、有ったのですか?」

 ウルスラが、左馬の頭の近くに膝を着き、体を折り曲げるようにして、顔を覗き込む。
 表情は、変わらず薄い。
 薄いのだが、近くで見るとその顔にも、幾らかの感情の動きが読み取れる事に、左馬は気付いた。

「……あいつら、私を置いて行ってしまった」

 その色が、自分の色に良く似ていたから、酒が回りきらぬ内に、左馬は饒舌になる。

「城門の前に居た私に、あいつらは、〝ゆこう〟と言わなかった。桜と村雨の二人だけで、他に何も要らないという風に――私を置いて行ってしまった。あいつらはもう満ち足りてるから、他の余計なものは要らないんだろうが――余計なものに放り込まれて、少し気に入らないのさ」

「そうですか」

 短く、ウルスラが、受ける。

「そうですかって、お前……」

 それから、首をぐうと反らして、空を――更に身体を反らして、二条城本丸の、天守閣を見上げた。

「何故、貴女に声を掛けたくなったのかは分かりました。……私も、寂しかったのかも知れません。ほんの一時でも、共に旅をした二人だというのに――あんな高くに、登って行ってしまって」

 場内では、まだ戦いが続いているのか、それとももう、終わっているのか。
 地上に取り残された左馬や、ウルスラや、或いは――

「皆、同じなのかも知れません。取り残されてしまうような気がしたから、此処に集まって戦って――せめて、戦の終わりだけでも共有したい」

「叙情的な解釈だ」

「いけませんか?」

「いや……」

 私も同じだ――とは、悔しくて、言えなかった。
 度の強い酒だったのに、酔いはまだ来ない。左馬は、遥か高みの空を見上げ続けていた。
 その時、俄かに、城門の方から、どよめきが波となって伝わって来た。
 目にしたものの解釈に戸惑う、困惑の声であったが、然し歓声も、そこには混ざっている。

 ――何だ?

 左馬は、のろのろと立ち上がって、得物の鋼棒を引きずり、城門の方へと歩いた。
 そこでは、疲れ切った兵士達が、左右真っ二つに分かれて、大きな路を為し――
 その路に、狭霧 紅野が立っていた。
 返り血か当人の血かは分からぬが、元の衣服の柄も分からぬ程、首から足まで赤黒く染まった、狭霧 紅野。
 左手には、巨大な鋸が――狭霧和敬の愛刀『石長』が有った。
 そして右肩には、明らかに身の丈に合わぬ凶器――波之大江 三鬼が用いていた、無銘の大鉞が担がれている。
 大鉞の切っ先には、首が吊るされていた。
 狭霧兵部和敬の首であった。
 父の首を、娘が、高々と掲げているのであった。

「おお……っ」

 松風 左馬は、驚嘆する。
 左馬という武芸者から見ても、紅野は、見事な血紅の伊達姿であった。
 寄って良いものか、逃れるべきか――測りかねる静けさを伴って、紅野は立っている。
 楽しげに歩いていたり、吠え狂っていたりすれば、寧ろ周囲はその感情に呼応して、もっと明瞭な反応をしたのだろう。
 紅野は、静かに、父親の首を掲げて立っている。
 歓声が消えて行く。
 喜んで良いのか?
 粛々と、祈れば良いのか?
 分からなくなった兵士達の、唾を飲む音さえ聞こえるまで、二条城が静まり返った時、

「賊将、狭霧和敬、この狭霧紅野が打ち取った!」

 丁度、水をぎりぎりまで注ぎ込んだ皮袋を、外側から刃物で斬り付けるように、張り詰めた空気を、紅野の声が斬った。
 皮袋に空いた穴へ水が殺到するように、最初に誰か、拳を突き上げて万歳を叫んだ者を、残る何千人もが真似た。
 そして、小さな皮袋の穴が、内側の水の圧力で一気に張りさけるように、向かう先を見つけた兵士達の感情は、爆発的な大音声となって轟いたのである。

 ――凄いな。

 左馬は、戦場で一度、狭霧 紅野と拳を交えた事がある。
 さして長い戦いでも無かったが、直接に打ち合えば、左馬なら敵の技量は十分に計り得る。
 だが、〝こう〟まで出来る人間だという印象は、その時には受けなかった。
 周囲の空気を読むというより、周囲の空気を一身で塗り替えてしまう立ち振る舞い――それは、もはや英雄の才とも言えよう。
 かつての狭霧 紅野に、その才は無かった筈だ。
 だのに左馬は、今、兵士達の前に立つ彼女を見て、その才の一端を感じ取っていた。
 もっと近づいてみようか――そんな事を思ったが、人の壁は大きく、越えて行くのも容易では無く見える。なのでその場に留まり、左馬は紅野を遠目に見ていた。
 そこへ、兵士が一人、人波を必死に書き分け、紅野の前に転がり出る。
 彼もまた、返り血で真っ赤に染まっているが、身に着けている衣服は、政府軍と戦って壮絶に散って逝った、白槍隊のものに似ていた。

「副隊長!」

「……お前、岸谷か」

 血染め服の男――岸谷は、紅野の前に進み出て、地面に膝を着く。
 実際にこの男、かつては白槍隊に居て、紅野が離反した折に付き従った一人であった。
 あまり知恵働きが得意な性質では無いが、両手で良く槍を振るう、胆の据わった男である。
 岸谷は、衣の懐から、油紙で包んだ何かを取り出し、紅野の前で掲げる。

「お忘れ物を」

「忘れ物?」

 左手の大鋸を投げ捨てて包みを受け取った紅野は、訝りながらも油紙を剥がし――

「おおっ!」

 包まれていたのは、紅野が愛用していた煙管であった。
 城から単身で出撃する折、置いて出て、それっきりになっていた煙管を、岸谷が持ち出し、此処まで運んできたものであった。
 一目見るだけで、丁寧に手入れされていた事が分かる程、表面に曇りや汚れが無い。
 そして何より、煙管の火皿には、既に煙草の葉が詰め込まれているのだ。

「上物を探しました――」

「岸谷、お前最高だよ!」

 紅野は目をきらきらと、驚く程の無垢さに輝かせて、煙草の葉に火を付けた。
 ずう、と息を吸いこんで、肺の隅々にまで満ちる程、たっぷりと息を止めて、

「っ、かあぁーっ、美味えー……」

 体全体を震わせて、余韻までを惜しむように、煙を吐き出した。

「どれだけぶりだかなぁ、こいつ……あー、沁み渡るわぁ……」

「喜んでいただけて、何よりです!」

 岸谷は、如何にも軍人らしくかっちりと頭を下げて、また兵士の列の中に消えて行った。
 それを見届けた紅野は、忠臣からの予想外の贈り物を、心行くまで堪能する。
 目尻は下がり、口の端は上がり、どっかと地面に胡坐を掻いて、時々膝を手で叩きながら、紅野は煙をたんと味わった。
 幸せであると、顔と体の全てで叫んでいるような、紅野の姿であった。
 松風 左馬は、それを見ていると目を焼かれるような気がして、瞼を閉じ、

 ――眩しいな、あいつも。

 何故か、また、少しだけ寂しさを感じた。
 今は太陽より、地上にこそ、まぶしいものが多すぎる。逃げるように左馬は、空を見上げて――

「……ん?」

 その空に、大蛇が躍るのを見た。
 二条城、本丸の天守閣から、幾匹もの蛇が這い出し――それはやがて、城に蛇体を喰い込ませ、巻き付き始める。

「おい、おい、おい――ちょっと待った」

 蛇は、無限とも思える程に増え続ける。
 城壁に絡み付き、その身を絡め合わせて、壁となり、城壁を垂直に伸ばして行く。
 高く、より高く――

「あいつら、何と戦ってるんだ……!?」

 その様はまるで、紫色の塔のようだった。








 城内――そこは再び、異界へと変わっていた。
 然し、この異界は、現世と隔離された、別の空間では無かった。
 紫色の壁に覆われながらも、床や天井を見るに、そこは間違いなく、二条城本丸の、天守閣の中なのだ。
 エリザベートは――もう、居なかった。
 体内から無数の蛇に食い破られた、無惨な女の亡骸が一つ、床に転がっているばかりである。
 この亡骸から這い出した蛇が、肥大化しながら城に絡み付き、紫色の塔を為したのだが――その事は、城の内側にいる、桜と村雨には分からぬ事であった。

「……村雨。お前の鼻は、なんと言っている」

 桜は、長尺の黒太刀を鞘に納め、太刀『言喰』と脇差『灰狼』の二刀を抜き、自然体で立っていた。
 直感――今はこの形が良いと、何を根拠ともせぬまま、なんとなく桜は、そう思ったのである。

「えーっとね、全部」

 村雨もまた、無理に構えを作る事なく、両手を自然に垂らして立っている。
 四方八方、何れからの攻撃であろうが対応できるように、体重は足の指だけに乗せ、踵は僅かに浮かせている。

「全部?」

「見えてるのが全部――」

 言い終わる前に、桜の後方で、紫色の壁が蠢いた。
 そこから、壁と全く同色の腕が、矢弾の如き速度で伸び、桜の首を狙い――

「成程」

 振り向きざま、桜は伸びて来た腕を、脇差の一閃で斬りおとした。
 それが合図となったかのように、周囲の壁全てから、大量の腕が伸びる。
 人の腕ばかりでは無い。
 獣の足も有れば、人の顔のようなものも混ざっているし、鳥の翼であったり、或いは二人が見た事も無い奇怪な生物の触腕であったり――ありとあらゆる生物の模造品が、桜と村雨目掛けて殺到する。
 二人は、それを斬り、潰しまくった。
 潰せば潰すだけ、無限に湧き続ける、生物の破片――
 村雨はその全てに、エリザベートの臭いを嗅ぎ取っていた。
 それだけではない。
 二条城本丸を呑み込んだ、紫色の壁の全てが、エリザベートなのだ。

「ついに、命の形を捨てたか!」

 心臓を狙って突き出された、巨大な蜂の針を真っ二つに斬り落としながら、桜は紫の壁へと叫ぶ。

「不要ですから」

 姿も見えぬまま、エリザベートの声が答えた。
 紫の壁全てが、一つの声帯であるかのように振動して放たれた、不気味な声であった。

「もう私には、何も要らない。今、貴女達を殺す事さえ出来るのなら、人の形に戻る事が出来なくとも良いのです。貴女達は、私が待ち望んだ人――私を悪夢から目覚めさせる人!」

 紫の壁が、歓喜に打ち震えている。
 揺れて、壁の一部が剥がれ、床に落ちた――それは人のような形になって、村雨へと飛びかかった。
 ぱんっ。
 迎撃の拳が、ヒトガタの頭を打つと、それは紫色のどろどろとしたものになって、床に浸み込んで消えて行った。
 その後から、後から、同じ形のものが湧き出し続ける。
 武器を持たず、知恵を持たず、命じられたままに襲い掛かり、押さえつけようとするだけの不恰好なヒトガタ――
 だが、数が多い。
 砂利を投げられているようだ、と村雨は思った。
 子供が癇癪を起こし、足元の砂利をごっそりと掬って、腕を振り回して投げているような。
 一粒一粒は、皮膚を少し引っ掻くだけの砂利――だが、元を断たぬ限り、砂利が尽きる事は無い。そういう際限の無さと――

「私を否定しなさい、魂の底から! 神は無能だと説く私を! 神は邪悪だと説く私を! お前は間違っているのだと、理ではなく、命を込めて!」

 幼い激情が、無尽蔵の攻撃に込められていた。
 エリザベートはもはや、何を包み隠す事も無く、幼き信仰者に立ち返っていた。
 私を否定しろ。
 私を殺せ。
 怪物である私を殺し、神の全能なるを、神の愛を、証明して見せろ、と。
 それをねだる相手が、神の道を歩む者ではないと知りながら、子供が道理で納得せぬように、エリザベートは道を行かぬ者に道を要求する。

「真実、神が居て! 神が正しき者に加護を与えると言うならば――神は私ではなく、貴女達を守る筈なのです! 無限遠の万難を排し、私を殺してみせろぉっ!!」

 ごうっ――
 突然、暴風が、天井から吹き込んだ。
 何事かと思った桜が見上げれば、天守閣の屋根が、遥か上空に引き抜かれていた。
 城の外壁を覆った大蛇の壁が、本来の城より更に高い筒状に伸び、その筒の頂点から伸びた巨大な腕が二本、屋根を、重箱の蓋のように持ち上げていたのである。
 十数丈の上空で、握り潰されている屋根――二本の巨大な腕は、十分に屋根を砕いてから、手を開いた。
 落下する。
 大量の木片や、瓦や、釘の混ざった瓦礫の雨が、遥か天高くから、遮蔽物の無い空間へ、桜と村雨目掛けて降り注ぐ。

「っ、桜!」

「応!」

 桜は、空を〝見た〟。
 目視した空間に直接、炎の壁を出現させる――異能の一種、〝代償〟の力。
 魔術の如く、魔力を介して現象を引き起こすものとは異質の、桜の奥の手とも言える力であるが――

「下は任せた!」

 その効力は、桜が目を閉じるか逸らせば、その瞬間に消え失せる。
 瓦礫の雨が降る間、桜は、首を上に向けたままで居るしかない。
 そこへ、周囲から伸びる無数の――手や、爪や、針や、牙。
 村雨が、それを打ち払う。
 桜が動けぬ分までを補わんと、村雨は、全力の更に上を振り絞って馳せ回った。
 長い時間では無い。
 時間差で降った瓦礫の雨が止むまで、ほんの数秒の事。
 その間に村雨は、数十の、壁から伸びた〝もの〟を叩き潰していた。
 たった数秒の間に、恐ろしい数の攻防が押し込められている。
 エリザベートが最期に用いたのは、予備として蓄えた大量の命を武器として振るうという、極めて単純な発想の術であった。
 数百、数千人を殺して蓄えた命が、そのまま、数百、数千の武器――人や獣の形をした、自律し動き回る武器となる。
 例えるならば、桜と村雨は、数千の軍勢の中に、ぽつんと取り残されて戦っているようなものだった。
 一瞬とて休まらない。
 呼吸さえを急がねば、敵の数に追い付けない。
 次第に敵は、四方ばかりでなく、屋根が無くなって開いた空間からも、飛び降りて襲い掛かって来るようになった。
 落下の勢いのまま、村雨の頭蓋へぶち当たろうとする、丸い巨大な殻――桜がそれを横から掴み、敵が群れを成している一角へ投げ込み、

「どうする、殺し尽くすか!?」

「いやいやいや、無理でしょ!?」

 村雨と背中合わせになり、迎撃を続けながら問う。
 数がどれ程とも分からない、八方から攻め寄せる敵の群れ――殺し尽くすなど、出来よう筈も無い。
 このままでは、やがて数に飲まれると、桜とて十分に分かっていた。
 だが――ならばどうする?
 周囲の敵は、次第に形を変え始めた。
 その一撃で殺そうというような、爪や牙など、鋭利な武器を持った者が消えて、代わりに、手足に絡み付いて動きを止めようという意図の見える形が増え始めたのだ。
 斬っても、潰しても、倒した〝もの〟が蠢き、足に纏わり着く。
 手足を絡め取る体積と重量が増せば、自由に動きは取れなくなり――

「村雨!」

 ついに桜は、有象無象の肉塊の群れに飲み込まれながら――村雨の名を呼び、空を指差した。
 次の瞬間、そこへ、巨大な拳が振り落とされた。
 先程、屋根を引き抜いた巨大な腕――それが、十数丈の高さで拳を握り、無数の肉塊ごと、桜目掛けて拳を打ち下ろしたのである。
 拳は、容易く床を貫いた。
 一枚、二枚、三枚――数階層をぶち抜いて、地上階まで拳は届く。
 やがて、腕が引き上げられた時、二条城は地上から天守閣まで、吹き抜けに見上げられる形へと作り替えられていた。

「これで、一人! 村雨さん、貴女はどうですか!? 私を殺す事は出来るのですか!?」

 紫色の壁が振動し、全体から、エリザベートの声を発する。
 もはやエリザベートの声は、どのような感情を抑制する事も無い。人を痛めつける事を喜ぶ、邪悪な者の声と化していた。
 巨大な腕は、二本ある。
 桜へと振り下ろされたのとは別の、もう一本が、やはり拳を握り、高々と空へ掲げられて――
 その時、エリザベートの声――かつてエリザベートという人間だった者の意識は、ようやく気付く。
 村雨の姿が、見えないのだ。

「……な、何っ!?」

 翳された拳が、そこで止まる。
 叩き潰すべき者を探して、紫の壁が蠢く。
 だが――遮蔽物など何もない天守閣で、姿を隠す術などは無いのだ。
 事実、村雨は、隠れていなかった。

 ざ、しゅっ。

「――っ!」

 掲げられた拳に、刃が突き刺さる。
 もはや〝エリザベートだったもの〟は痛みなど感じないが、衝撃が意識を高所へ運んだ。
 村雨は、巨大な拳の上に立ち、桜の脇差を逆手に持って、拳へと突き立てていたのだ。

「何時の間に――」

 桜目掛けて拳が振り下ろされた時、村雨は、落ちてきた拳を足場に、巨大な腕を駆け上がったのだ。
 そうして、紫の壁の頂点まで達してから、もう一本の腕に飛び移り、その上までをやはり駆け上がって――今、至天の塔より高みに立っている。

「――りゃああぁっ!」

 そこから、村雨は駆け降りた。
 灰色の体毛に、太陽の光と、血の飛沫を照り返して、突き刺した脇差を引きずって駆けた。
 巨大な紫の腕が、村雨が走るに合わせ、切り開かれて血を吹き上げ――
 腕の長さを駆け降りても、村雨はまだ止まらない。
 降下の速度を脚力で強引に捻じ曲げ、〝壁〟を走った。
 螺旋を描くように、壁を馳せながら少しずつ床へ近づき――そうしながら、逆手に持った脇差で、壁を抉り裂く。
 村雨は、特定の何処かを狙ってはいなかった。
 周囲の壁の全てが、〝かつてエリザベートであったもの〟ならば、何処であろうが斬れば良いのだと――
 壁が、死んで行く。
 数多の命を費やして作り上げられた、至天の塔の壁が、斬り殺されて行く。
 苦悶の雄叫びが、塔の全体から上がった、まさにその時――

 ごうっ。

 二条城本丸が、傾いた。

「……?」

 〝エリザベートだったもの〟の意識は、初め、地が揺れたのかと認識した。
 揺れたのではない。
 ほんの一瞬だけ揺らぐのではなく、明らかに床が斜めになる程、本丸が丸ごと、傾いたのだ。
 そして、また、

 ごうっ。

 衝撃を伴って、本丸が、逆に傾く。
 地震ではない。
 砲撃でもない。
 この衝撃は何か――〝エリザベートだったもの〟は、訝りながら、己の体となった〝壁〟の全てで、本丸を探り――
 そして、見た。

「何を斬れば良いのか分からんのなら……」

 雪月 桜が黒太刀を振るっていた。
 城の柱も、梁も、天井も、床も、壁も――届く全てを、桜が、滅多切りにしていた。
 数十丈の高さ、数百数千の人間の重さに耐え得る木材が、漆喰が、鋼が――そして、本丸に外から巻き付くように広がった紫の壁までが、悉く、紙のように断ち切られて行く。
 それで、城が自重に耐えられず、傾いたのだ。
 黒太刀は、刃毀れの一つも無く、曲がりもしない。刃に触れる万物が、無であるかの如く、容易く刀身を通す。
 雪月 桜が強く恋い焦がれ、〝刀匠〟龍堂 玄斎が鍛え上げた、天下第一の刀の名は――

「何もかも、全て斬ってしまえば良いでは無いか」

 『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』。
 この刀は、この為に生まれたのだ。
 ついに、本丸の一階が〝潰れた〟。
 上階の重さを耐えるだけの部品が残らず、縦に圧縮されるように潰れたのである。
 たった一階層分の高さとは言え、本丸は一瞬だけ落下し、地上へ衝突して激しく揺さ振られる。
 もはや城外の者達も、この異常に気付いているだろうが――
 その誰もが、よもや雪月 桜が、城一つを斬り倒そうとしているなどは思うまい。
 常軌を逸した思い付き、狂気とも呼べよう行為であったが、

「見ていろ、爺! 大言壮語ではないと教えてやろう!」

 たった二人。その狂気を、狂気と思わぬ者が居る。
 それは、刃を振るう雪月 桜自身であり――

「……エリザベート、〝やっと〟終わりだよ」

 周囲に蠢く異形達から逃れ、一人階段を駆け降りて行く、村雨であった。








 斬る――
 雪月 桜が幾千と、幾億と繰り返した、単純明快な行為。
 これまでに、どれだけのものを斬ったことだろう。
 鎧。兜。槍。刀。弓。銃。
 身を守る為の、また他者を害する為の、あらゆる武具。
 獣。
 人。
 獣でも人でも無い、数多の生物。
 桜にとって斬る事は、呼吸をする事にも等しい。
 然し――それは飽く迄も、〝尋常のもの〟を斬る場合である。
 桜は今、巨大な城を相手取り、黒太刀『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』を振るっていた。
 叩き落された地上階から、階段を駆け上がり、一つの階層を存分に斬り回って、また上へ。

 ――これが、城を斬るという事か。

 桜は今、前人未到の領域へ踏み込んでいた。
 刀で城を斬ろうなどと、誰も考えない。桜でさえ、今日、この日まで、実際にそうするなど考えもしなかった。
 何千もの人を呑み込んで揺らがぬ、巨大な建築物――その強度は、桜の想像力を遥かに上回っている。
 二度や三度、強く斬り付けた所で、まるで城は揺らがない。
 数本の柱を斬り倒し、壁を数間に渡って切り刻んだとて、その程度では城は揺らがないのだ。
 一度刀を振るえば、それで終わるのが、〝斬る〟という事である筈だった。
 城は、一刀では倒せない。
 数百の斬撃を重ねて、ようやっと揺らぎ始めるのみだ。
 だが――だからこそ、雪月 桜は燃える。
 飽かずに繰り出される斬撃は、ついに一つの階層を斬り潰し――天井が落ち、頭上に迫る。
 斬。
 頭上からの重量に潰される寸前、桜は天井を切り裂き、上階へと飛び込んだ。
 巨獣を腹の中から食い破るように、桜は二条城本丸を、内側から切裂いて行く。
 本丸を締め付けるように、天守閣から這い出した大蛇――紫色の壁は、城内の至る所に入り込み、畳や天井、壁や柱に喰い込んでいた。
 それも、斬る。
 一太刀ごとに轟く断末魔の叫びも、もはや、桜の耳には入らない。
 〝エリザベートだったもの〟の内臓と化した本丸の内に、剣撃の華が咲いていた。








 〝エリザベートだったもの〟の意識は、城一つを丸ごと体として存在していた。
 喰らった数千の命全てを、己の肉とし、鎧とし、刃とし――巨大な怪物の集合体と成り果てた姿に、もはや〝大聖女〟と呼ばれた女の面影は無い。

 ――殺してやる。

 ――殺してみせろ。

 矛盾する二つの意識を抱えて、彼女は、自分の体の一部を、体内の異物を殺す為に差し向ける。
 その試みの全てが、虚しく潰えて行く。
 溜め込んだ命を、ありとあらゆる獣の形へ変えて差し向けても、雪月 桜は、村雨は、殺される事なく戦い続ける。
 そんな二人が、彼女には愛おしくてならなかった。
 もはや遠く昔となった、街の残骸の前で涙した日――あの時も、自分を否定しようとした男が居た。
 神の道を歩む彼女を、教え導く立場だった老神父。
 彼は結局、彼女の叫びを否定しながら、最後は神の無力を証明するに留まったのだ。
 もし、あの時、老神父を殺そうとした自分を、誰かが力尽くでも止めていたのなら――
 或いは、どのような偶発的な要素でも良い、老神父を殺す事の出来ぬ理由が生まれていたのなら――
 彼女はきっと、神の奇跡を信じ続ける事が出来たに違いない。

 ――自分は、過ちを叫んでいる。

 本当は三百年も前に、その答えに辿り着いていたのだろう。
 結果的に、窮地から人間が救われなかったとしても、或いは善良な人間が苦しみを得たとしても、それは神の咎では無いのだ。
 神とは――〝何をするでもないもの〟なのだから。
 神とは、〝そこに在る〟ものだ。
 人の身を刃から遠ざけたり、天災から街を救うような、物理的な力など持たない、一つの概念、一つの思想が、神だ。
 ただ、遍く世界に神の目が有ると信じる人間が、神の意思に適うように己を律し、慎み生きる事――その為に得られる恩恵こそが、〝神の恩寵〟なのだと――
 今ならば彼女は、胸を張って言える。
 神は人間を救わない。
 人間を救うのは、神を信じ、人間を信じる人間だ。
 人間を疑い、神への信仰を捨てた人間が――人間を救う神に、成り代わって良い筈が無い。
 その過ちの全てをつまびらかにしたのが、雪月 桜と村雨だった。
 お前は人間を信じていないと、桜は、振るう刃の如く、鋭く突き付けた。
 お前はやり方を間違えたのだと、村雨は、友を諭すように、優しく答えを差出した。
 一人きりで歩む道は苦しいと、桜は、そうでない自分を誇るように見せつけた。
 たった一つ、彼女が最初に抱いていた想いだけは――人間への愛だけは間違っていなかったと、村雨は、切々と〝エリザベートに〟訴えた。
 もはや〝彼女〟に、雑念は無かった。
 力の限り、魂の限りを尽くして、殺すか、殺されるかをしようと思った。

 ――もし、殺されたなら。

 殺されたなら、それで終わりだ。
 拝柱教という教えは、この地上から消え去り、エリザベートという女が抱いた大望も潰える。
 何もかもを信じぬまま、ただ神の座を求めた女が死んで、乱が終わる。
 その後の世界に自分はいないが、それだけの事だ。
 だが、もし――

 ――もし、殺せたなら。

 その時は、また、聖女を気取ってみようかとも思った。
 前と同じように、聖書を開いて読み聞かせたりもしながら、その矛盾を突き、神は人を助けないと教え――
 ただ、それだけでは終わらせない。
 人を救うのは、人なのだと、誰かに教えてみたくなった。
 どんな顔をされるだろう。
 もしかしたら、何を言っているのだと呆れられるかも知れない。
 それも当然だ――そんな事を知っている人間なんて、何処にでも、どれだけでも居るだろう。
 けれど、知らない人間だって居る。
 その、ほんの一握りかも知れない、そういう事を知らない人間の為に、新しい教えを説いて回りたいと、彼女は思った。
 神は人を救わない。
 然し、神を心の中に抱く事で、人は人を救えるのだと――

 斬。

 〝彼女〟の臓腑が、ずたずたに引き裂かれる。
 城一つにまで膨れ上がった体の中で、桜が、手の届く何もかもを斬っているのだ。
 その苦痛は、筆舌に尽くし難いものであった。
 人の身であった時さえ、尋常の体ならば死する程の痛み――それが、肥大化した体の分だけ増しているのだ。

 ――死んでも良い。

 それでも、手は緩めなかった。

 ――死なぬなら、もっと良い。

 もう、半ば以上も殺し尽くされた命を振り絞って、〝彼女〟は桜を殺そうとする。
 数種の生物を無理に一塊にしたような何かが、紫の壁から這い出し、桜の元へと迫り――
 村雨が、割って入る。
 人狼の本性を全て解き放ち、狼面と化した村雨は、靴を脱ぎ捨て、素足で蹴りを放った。
 足の爪が、小さな刃となって、紫の肉体に喰い込み、斬り裂く。
 手の指が、これも短い槍のように、容易く肉を貫き、奥の骨を掴む。
 村雨に守られて、桜は、敵に目もくれぬまま、城を斬って走り回る。
 二人は、言葉も、視線さえも交わさない。
 そのようなものは必要無いのだ。
 同じ場所に、同じ目的を持って立つ――それだけで、
 桜は、村雨に背を預けられる。
 村雨は、桜の為す事を信じ、その後押しに専念できる。

 ――嗚呼。

 感嘆――溜息さえ零れるような、無上の信頼。
 もはや〝彼女〟に、為す術など残されていなかった。
 打つ手の全ては破られて、体は切り裂かれ、崩れてゆく。
 血が喉をせり上がり、口から外へ零れるように、桜と村雨は本丸の中を、上へ、上へと駆け上がり続け――

 そして、『斬城』は、成った。








 地上に落ちた天守閣の中には、蛇に食い破られた女の体が横たわっている。
 先には、確か、亡骸であった筈の体――
 それに今、魂の火が、今一度だけ宿っていた。

「――私は、地獄へ落ちるのでしょうね」

 仰向けに、天井を仰いで倒れたまま、エリザベートは言う。
 それを聞く者は、雪月 桜と、村雨だけであった。
 否とも、応とも、答えは無い。
 或いは何か、言葉が返ったのかも知れないが、それはエリザベートの耳には届かなかった。
 塵は塵に――
 エリザベートの体は、塵に還ってゆく。
 自らに施した不死の呪いは、その解ける日には、亡骸さえも残さず奪いとるのだ。

「あるいは、地獄さえも〝無い〟ものなのでしょうか」

 だが、エリザベートは、安らぎに満ちた顔で微笑んでいた。
 神は人を救わない。
 もしかすれば、そもそも神など居ないかも知れない。
 だから、死の後には永遠の安らぎなど無く、また永劫の責め苦も無い。
 人の命は、現世で終わる。
 その後には、ただ、無だけが横たわる。
 もはや何かを思い、喜ぶ事も苦しむ事も、全ては不要になる。
 何も見えぬ目で、エリザベートは、桜と村雨を探した。手に、人の体温より少し熱い温度を感じる。
 村雨が、エリザベートの手を握っていたのだ。
 エリザベートは、殆ど力の入らぬ手で、村雨の手を握り返した。

「〝空の空、空の空、全ては空なり〟――私の師が、私に最期に与えた言葉でした。同じ書から私もまた、貴女達に最期の言葉を残したいと思います――〝二人は一人に勝る、其はその労苦のために善報を得ればなり〟」

 村雨の手の中で、エリザベートの指が、塵となって崩れ落ちる。
 穏やかな風が吹いて、さら、と塵を攫って、何処かへ流れて行く。

「貴女達の生に幸いがあらん事を――――ありがとう」

 最期の声を運ぶ風は、暖かかった。
 誰の心をも安らぎへ導く、穏やかな風だ。
 柔らかな歌声のように、風は何処かへ流れて行く。
 そういえば、もう暫くの間、雪が降っていない。
 道の傍らに積もった雪は、眩き光を受けて緩み、水となって大地へ浸み込んでいく。
 街を出て、何気なく道端に目をやれば、きっと花が幾つか開いて、小さな虫を集めようとしているだろう。
 積もった雪も太陽に解かされて、水となり、大地に染み渡るのだ。
  獣達は穴倉を出て、野山に満ち、鳥は遥か高い空に、悠々と翼を広げて歌う。
 誰かが死んで、誰かが生まれてくるように、季節は過ぎ、季節は還る。
 長い、長い冬が終わって、日の本に、今、春の風が吹いた。
























 春眠暁を覚えずとは、良くも言ったものだ。
 春のまどろみの心地良さは、何にも変えられない。
 冬の透明さを残しながら、命を育む暖かさに満ちた大気が、風に振り回されて、家屋の中にまで入り込んでくる。
 大気は、外の匂いに染まっている。
 若草や花、目を覚ました雑多な生き物の放つ、あらゆる香りを混ぜ合わせた空気は、人をも、己は獣の一種なのだという納得と共に落ち着かせる。
 布団を被っていても、寝苦しさが無い。
 かといって、布団から転び出たとしても、然程の寒さを感じない。
 そういう気候であるから、何時までも眠りから覚めず、夢に揺蕩っていられるような心地良さがある。
 有る、のだが――

「う~、う~……」

 そんな春の日に、呻き声を上げている少女が居た。
 二日前、戦場から戻ってくるや、引っくり返るように眠り始めて、今まで全く目を覚まそうとしなかった、村雨である、
 堀川卿が軽く頬を叩いても、寝返りを打つばかりで、声一つ上げなかった村雨だが――
 うなされている原因は、ろくでもない悪夢であった。
 巨大な城が倒壊し、自分の上にのしかかってくるという、珍妙な夢を見ているのだ。
 夢の中で村雨はぺたんと潰されて、まるで和紙か何かのようになって、ひらひらとはためいている。
 すると、そこに何故か、火が近付いて来る。
 どういう道理であるかは夢の事ゆえに分からぬが、紙のように薄くなっている村雨は、紙のように良く燃えた。

「あつい~……」

 時折、手足をもぞもぞと動かして熱から逃げようとするのだが、熱源はがっちりと村雨を捕らえて離さない。
 兎に角、重いわ暑いわ、おかげで呼吸も苦しいわ喉も渇くわで、いかに春とて、これ以上も惰眠を貪れぬようになった頃合い、

「暑いわーっ!」

 村雨は、髪から顔に滴る程の汗を掻きながら、熱源を思い切り蹴り飛ばしつつ起床した。
 蹴り飛ばされた熱源は、未だにすうすうと寝息を立てている。
 隣に眠っていた雪月 桜が、両手でがっしりと、村雨を抱き締めていたが為の悪夢であった。

「はー、はー……ったくもう」

 酷くすっきりしない目覚めを迎えてみれば、その元凶はまだ、春のまどろみに浸っている。不公平を感じた村雨は、桜を蹴り起こそうとし――やめた。
 汗の滲む服――着替えずに寝たが為、返り血も酷い――を脱ぎ、用意されていた寝間着に着替えた村雨は、とことこと軽快な足音で歩いて行き――
 暫くして戻って来た時、村雨が抱えていたのは、大きな湯たんぽであった。
 厨房で、沸かしたての湯をたんと入れてもらった湯たんぽを、布団と、自分の着ていた服で包み、そうっと桜の横へ置くと、
 がしゅっ。
 と、まるでとらばさみのような勢いで、桜はその布団を、両腕で抱き締めた。
 熟睡している桜の横に、何か手頃な大きさの物を置くとこうなる――熟知している村雨は、その様を見届けるや、笑い声を押し殺してまた部屋を出て行く。
 雪月 桜が、火の番よりも酷く汗を掻いて跳ね起きたのは、それから暫くしての事であった。








「任官式?」

「うん」

「誰の?」

「私達を含む大勢の」

「何故」

「何故って言われても」

 さて、風呂で寝汗を流し、代えの衣服に袖を通して、ようやく人心地ついた二人である。
 二日絶食した分を取り戻すように、大量の朝食を喰らいながら、二人はこれからの予定について話していた。
 というのも、先に目を覚ました村雨が受け取っていたのだが、書簡が届いていたのだ。
 曰く――
 先の戦で功を上げた者に、政府より恩賞を与える。ついては何時何時の日の、どの時間に、どこへ来い、と――兎に角、そういう内容の書簡であった。
 ここ数十年、日の本では大きな乱も無かった。この機に恩賞を与えぬでは、何時、政府は恩を大々的に売るのかと、何を置いても盛大に任官式をやりたいのだろう――等と村雨に入れ知恵したのは、堀川卿である。

「ふーむ……私達に官職を、本気で与えようという腹積もりだと……思うか?」

「違うだろうねー、貰っても困るし」

「だなあ。片田舎の警察長官なぞ任されたとて、勅使を打ち据える程度しか出来んぞ」

「勅使が全部、督郵みたいな人間だと思うのはやめた方が良いと思う」

 白米をかっ込む速度は尋常を遥かに超えているが、のんびりとした会話であった。
 書簡は数枚の組になっていて、仰々しい文章で任官式への出席を要求してきたのが、まず一枚。
 残り数枚に、どこの誰それにはどういう官職を与えるだの、その官はどういう権限を持ち、任地は何処であるだのと、あれこれ記されている。
 桜は、右手に箸、左手に書簡と行儀悪く構えて、任官表の中から、知った名前を探していた。

「……この、一番上に書かれている名、中大路とは誰だ」

「新しい兵部卿だってさ、政府のお偉いさんだよ。……顔は見てるじゃない、堀川卿に全部任せてた、本陣の」

 興味の無い人間を詳しく覚えていない桜は、暫く眉を寄せて、中大路とはどんな人間かを思い出そうとし――

「ああ、あの髭の?」

「あの髭の」

「……あいつ、本陣に籠っていただけではないか」

 思い出した桜は、なんとも気の抜けた顔になった。
 例えるなら、算術の難題を突きつけられた、寺子屋の子供のような顔と言おうか――何を何処から理解すれば良いのか分からぬという、そんな顔である。

「そういうもんなの」

 村雨は、その問題を深く考えず、自分も食事を続けながら、桜が持つ任官表を覗き込む。
 二人の知っている名は、あちこちに有った。だが、そのいずれもが重役でなく、名ばかりの小さな役職か、或いは体良く働かせる為の、下っ端に過ぎない官職か。
 名乗れば堂々と箔がつくような職には、二人がまるで知らぬ名前ばかり並ぶ。
 きっと、その中に並ぶ名前の誰一人、戦場で、前線に立ち、敵と斬り合ってはいないのだろう。
 冬の山城で寒さと飢えに耐え、味方が少しずつ減っていく恐怖に耐えながら、援軍を待ち続けた者とていないのだろう。
 そういう人間は――もう、要らぬのだ。

「……そうか。終わったのだなぁ」

「まあねえ。うちの師匠みたいな人ばっかり、お役人になってても困るしさ」

 『錆釘』の面々や、村雨の部下の亜人達は、それこそ肩書きと、一度の報奨金を得られるだけの名誉職を授けられるらしい。
 堀川卿だけが、上手く根回しでもしたものか、海外諸国を真似て制定された〝爵位〟なるものを授けられている。
 桜と村雨の名は、それぞれ全く切り離されて、任官表の真ん中の辺りに乗っていた。

「私達は、運が良かったのだな」

「……そうかもね。こんな古臭い戦なんか、この国はもう、やるつもりは無いんだろうから」

 その後、暫くの間、しんと静まり返った部屋の中で、二人は黙々と飯を食った。
 眠っていようが、起きていようが、生きているなら腹は減る。
 満足行くまで喰ってから、ようやく桜は、

「洛中の見納めだ。出向くとするか」

 小袖も袴も真っ黒の、平常と何も変わらぬ姿で、まるで散歩をするように歩き始める。
 荷は――愛用の刀達と、懐に入れた胴巻きくらいのもの。
 村雨もまた、平服に籠手だけを身につけて、殆ど身一つで『錆釘』の宿舎を出る。
 見送りに出て来る者も無い。
 出立の挨拶に回る事も無い。
 思いつきのように、ふらりと、行くのであった。








 任官式の場は、御所であった。
 日の本で最も尊い者が住む、神聖な場所。
 本来ならば、立ち入る許しを得る事さえ、市井の者には夢また夢の空間に、人間がすし詰めにされていた。
 無論、建物の中ではない。
 如何に許しを得て訪れた者とて、御所の庭に立つ事を許されても、本殿に上がるまで許されている者は僅か――加えて、本殿に押し込もうとすれば、手狭に過ぎる人数でもある。
 式の次第は、学の無い者にまで理解が及ぶよう、極めて単純化されていた。
 読み上げの男が居て、誰かの名を呼ぶ。
 呼ばれた者が、何をするでもなく、ただそれを聞く。
 また、誰かの名前が呼ばれる――そんな調子である。
 名を呼ばれた者が、其処にいようが、いるまいが、何が変わるでもない。
 名を呼ばれた者に、着任の意思が有ろうと無かろうと、それは後々に確かめれば良い事であり、この日は事情を斟酌されない。

「……なんともまあ、大雑把なやり方を」

 桜は、半ば呆れ、半ば面白がりながら、御所の庭をふらふらと歩いていた。
 掻き集められた者達も、ひとところで立ち続けるような、律儀な者はそう多くない。思い思いに歩き回り、見知った顔と集まって話し込んでいる。
 女としては長身の桜だが、これだけの人間がいると、背伸びをしても全体は見渡せない。時折、ちょんと小さく飛び跳ねては、見知った顔を探した。
 探して、見つけたとて、それでどうしようという考えも無い。ただ、知った顔が自分と同じように、退屈そうな表情で立っているのを見ると、なんとなく落ち着くのであった。
 桜の交友関係は、極めて狭い。
 江戸ではまだ、幾らかの人付き合いがあったが、それもひと月やふた月で生まれた関係では無い。
 元々、人とあまり馴染まぬ性質なのだろう。
 利害であったり、道であったり、そういうものが一致しない相手と、無条件で親しくなるという事が苦手なのだ。
 桜は、少し遠くに、松風 左馬を見つけた。
 左馬は、旅支度を済ませた格好で其処に居た。
 片手に持つのは、普段飲んでいるのより上等の、舶来の酒瓶。麦や稲の穂のような、艶やかな酒が、瓶に収まっている。

 ――少し、たかりにゆくか。

 その時、人の群れを掻き分けて行こうとした桜が、まだ数歩と行かぬ内、別な方向から、左前の前に、村雨が駆け寄っていた。
 人の群れの喧騒で、左馬と村雨の声は、桜の元まで届かなかったが――
 まず、村雨が、人の群れの中からにゅっと生えるように、左馬の前に現れたのが見えた。
 左馬は、あまり動じていない風を装っていたが、視界の外から村雨が現れた瞬間、軽く仰け反ったのを、桜は見逃さなかった。
 口の動きを見るに、村雨ばかりが長く喋って、左馬は二つか三つ、短い言葉を返しているだけのようだったが――

 ――おや、珍しい。

 亜人嫌いの左馬だと言うに、その顔が、少し楽しそうに、桜には見えたのだ。
 村雨が何か失言でもしたか、拳が村雨の頭に振り落とされ、痛みで村雨がしゃがみ込む。その隙に、左馬は、村雨に背を向けて、何処かへと歩き始めた。
 何処へ行くのか――走り寄り、呼び止めて聞こうかとも思ったが、止めた。
 珍しく、穏やかな笑みを浮かべている友人を邪魔したくないと――桜は、そう思ったのである。
 生きていれば、何処かで出くわす言葉もあるだろうと、そんなあっさりとした別れであった。
 村雨は、また人の波を掻き分けて動き回る。
 その間に、知った顔を幾つも見つけたようで、すれ違う度に手を挙げ、朗らかな笑みを振りまいている。
 楽しげであった。
 人と触れ合い、人と語らう事を楽しめるのが、村雨という生き物である。
 それを見ている桜は、知らず知らずの内に、自分の口元まで緩んでいた事に気付いた。

 ――私は、笑っていたのか。

 桜には、ちょっとした驚きであった。
 誰かが楽しんでいる姿を見ているだけで、自分が退屈であろうとも、手持ち無沙汰であろうとも、それだけで幸せであるなどと――自分がそんな、慎ましい人間だとは思っていなかったのだ。
 村雨といると、自分が幸福であるから、楽しい。そういうものだと思っていた。
 桜は、自分を弁えている。
 自分が善良な人間ではなく、法や道理より自分の感情を優先する、結局は身勝手な人間であると知っている。
 だから、自分が、自分の楽しみなどどうでも良いのだと達観している、その事に驚いたのだ。

 ――心が老いたか?

 僅か数ヶ月。
 されど、数ヶ月。
 戦は確かに、桜の心の在り方を変えたのだ。
 それが、老いと呼ぶものか、成長と呼ぶべきものかは定かでは無いが――桜は、物分りの良くなった自分を皮肉って、老いたと言葉を選んだのである。
 心の老いを自覚すると、不思議と桜は、体が軽くなったような心地になった。
 人の波を、誰にぶつかる事もなく、ゆるゆるとすり抜けて歩き、村雨を追う。
 村雨の足にはとても追いつけない、のんびりとした速度である。
 桜の視線の先で、村雨は沢山の人間と笑い合い、桜はたった一人、それを遠目で見て微笑み続けた。
 式の次第は進み、読み上げの男が、端の役人の名を呼び終えて、拍が付く程度の官位授与者の名を呼び始めた頃合いである。
 この辺りからはもう、桜の知っている名前など、殆ど出てこない。そろそろ村雨と合流するかと、足を速めようとした時――桜は、背後に誰かが立ったのを、気配で感じ取った。

「……ね、ね」

「おっ――」

 背後の声は、耳打ちをするような距離にまで近づいて来る。
 周囲から浮いて見えぬよう、自然な速さで振り向くと、そこには狭霧 蒼空が、町娘のような安布の振袖を着て立っていた。
 昼夜を問わず人目を惹く白髪は、頭からかぶった被衣かつぎで隠しているものの、あんまり当たり前のような顔をしてそこにいるので、桜も面食らった。

「お前、少しは隠れるという事をだな……」

 何せこの狭霧 蒼空、今はお尋ね者の身の上なのだ。
 二条城の戦の後、狭霧 和敬の首は、三条河原に晒された。
 誇張無しに並べられた無法の度合いでさえ、世に例を見ぬ大罪人よと、衆人が口極めて罵る中、当の本人の首だけは、不敵に笑ったまま、台座に乗せられていた。
 その左右に、他の誰かの首は無い。
 世が世なら、そして狭霧和敬に親族が居たのなら、和敬の首の隣には、ずらりと連座の打ち首が並んだ事であろう。
 狭霧和敬の親族は、公的には二人の娘のみ。
 その内の片方、姉の狭霧 紅野は、比叡山城にて大将を務めた事と、二条城決戦に於いては和敬の首級を挙げた事を手柄とし、罰せられはしなかった――が、任官表の中に、名前を載せてもいない。
 そして、妹の狭霧 蒼空は、和敬の命の侭に幾人をも斬ったと、これまた大罪人として賞金を掛けられていた。
 仮に蒼空を役人に差し出したのなら、その先十年は飢えを知らずに生きられるだろう大金である。
 差出す形が、体全てであるか、首だけであるかで、付けられる値は変わらない。
 つまり狭霧 蒼空は、捕えられれば直ぐにでも首が飛ぶ身の上であり、そうでありながら堂々と、白昼に御所にまで出向いているのだ。

「然し、なんだ……お前も、中々に大変だな」

「……?」

 桜の言葉の意図が分からぬのか、蒼空は首を傾げる――頭の上で、被衣が斜めに垂れた。

「これからどうするつもりだ。……先に行っておくが、逃げるというなら、この国の中はあまり勧めんぞ。西国から船に乗れば、その後はどうにでもなろう」

 孔雀が日の本の山中に居たら、何時までも隠れ潜んでは居られないのと同じだ。いかに蒼空の剣の腕が神域とて――或いは神域の技量があるからこそ――日の本の中で、隠れ潜んで生きて行く事は出来ぬだろうと、桜は感じていた。
 翻って海の外に目を向ければ、日の本なぞ、ちっぽけな小石にしか見えぬ程、広い世界が広がっている。
 そこへ行けと、桜は言うのである。

「案外な、剣の他に芸の無い身だろうが、その日の飯くらいはどうにでもなるものだ。私も昔は、山賊崩れから剥ぎ取った数打ち一振りを手に、あちらこちらと廻ったものだったが――お前の腕なら、そこは私より楽だろう」

「………………」

「まあ、三年か、五年か、そんなものだろうな。それですっかり世の中が、お前という人間を忘れる。その頃には、戻って来るか、戻って来なくても良いかも決まっているだろうて」

 まるで、寒村から江戸へ出稼ぎに行けと言うような口振りであったが、桜が蒼空を押し出そうとするのは、世界に対してである。
 蒼空は、首を傾げ続けるばかりであった。
 そもそも狭霧 蒼空という人間の世界は、洛中とその周辺ばかりなのだ。
 全く実感が湧かない――海の外へ出る自分、西国へ向かう自分が、想像もつかない。いつも通りの、浮世離れしたぼんやり顔のまま、首を斜めに傾けて固定してしまった。

「……難しいか?」

「ん」

 この問いには、いやにはっきりと答えつつ、蒼空は首を縦に振る。桜は思わず、両肩をがくんと落としてしまった。
 うなだれながらも、桜は笑う他にする事を選べなかった。
 狭霧 蒼空は、奇跡のように無垢な人殺しだ。
 この日の本で、おそらくは誰よりも優れた剣の技を持ち、幾百人と斬り殺してきた経験を持ちながら、心根は幼い子供――ものを知らず、理を知らず、だからこそ穢れも無い。
 案外、どうとでもなるのかも知れない。
 風に背中を押されるまま歩いていった先で、水の流れを追い掛けて走った先で、なんとなく気の向いたからと出向いた先で、どうにかこうにか、出会う物事を通り過ぎていけるのかも知れない。
 起用にやり過ごすのではなく、狭霧 蒼空そのもののまま、猫のような気紛れさで、引くも超えるも自由に生きる、そういう姿を桜は思い描いた――
 いや、見たくなったのだ。
 狭霧 蒼空が育ち、無双の剣技はそのままに、見事に人と成った姿を、桜は見てみたくてたまらなかった。

「――ふふっ」

 小さく、短い笑い声。
 やけに楽しそうな、心を惹く声だった。
 桜は、はっとした顔になって、蒼空を見ようとした。
 蒼空は、人の波の中をするすると、遥かに遠く先――任官式の読み上げ係の方へ歩いていく所だった。
 あまり大きくない体は、人の群れの中で消えそうにも見えたが、足取りに淀みは無い。
 
「おい――」

 何処へ行く、と、問おうとした。
 その声を聞くより先、蒼空は、桜の視界から消えるほどの速度を以て、人の群れを置き去りにし――

 ふわっ

 と、空を歩くように跳んで、集められた大勢の前に、被衣を捨てた姿を現した。
 眩い春の空の下に、真っ白の長い髪を――言葉より尚も明確な名乗りを叫んで。
 沈黙――
 そして、どよめく。
 誰かが、蒼空を指差して、名を叫んだ。
 その声に押されたように、蒼空は抜刀した。

「待っ――」

 読み上げ係の男は、命乞いの言葉を発しようとしたが、それより先に蒼空の刀は、男を全く傷つけぬままで、任官表をばらばらに切裂いていた。
 それから、また跳んだ。
 既に警備の兵士達が、蒼空を捕えようと集まり始めているところであったが、蒼空は敢えて、彼等へ向かって跳んだのである。
 槍が、さすまたが、蒼空へと突き出される。
 その全てを蒼空は、体に届く寸前で斬り落とした。
 切断された槍の穂先が落下し、地に触れるより先、兵士達の鎧だけを切り壊して蒼空は駆け抜ける。
 誰も、傷を受けてはいない――そうする必要など無いからだ。
 狭霧 蒼空は、圧倒的に強かった。
 御所の警護の兵は、次から次に繰り出される。
 任官式の為に集まった者達からも、何十人か、賞金首を捕えてやろうと欲を出す者が出る。
 蒼空を狙う人間が、狭い空間に何百人も集まって――
 蒼空はそれを、くるりと爪先立ちで回りながら、見た。
 数百の敵意を向けられながら、蒼空は子供のような顔をしたままで、

「もーいいよー」

 子供のように、声を張り上げた。
 大人になれば、もう声に出す事は無いだろう、懐かしい響きを――これから始まる遊びに胸躍らせながら、なんとも楽しげに、蒼空は言うのだ。
 それから蒼空は、平野を行くが如き気軽さで、御所の塀を飛び越えた。
 御所の南、開けた太い通りに降り立った蒼空はもう一度、高く声を張る。

「もーいいよー」

 すると、応じるように、蒼空の正面から声が返った。

「もーいいかーい」

 その声の主を見て、蒼空は眠たげな目を輝かせ、小躍りするように彼女に飛び付き、抱き締めた。
 抱き締められた少女は、物騒な得物を掴んだままの腕で、軽く蒼空を抱き締め返すと、

「もう、いいよな」

 煙草の匂いの息を思い切り吐いてから、蒼空と同じ顔をして、問うた。
 狭霧 紅野。
 蒼空の、双子の姉。
 それが、白絹を基調とした戦装束に身を包み、大鉞と大鋸を――あの日の戦場で得た得物をそのまま――携えて、待っていた。

「うん……もう、いいよ」

「そっか」

 同じ顔をした二人は、並んで歩き始めた。
 ゆっくりと、ゆったりと――まるで今日が、なんでもない日であるように。
 もし、明日も明後日も同じ日が来ると知っているなら、今日を急ぐ必要など無いと――彼女達の速度は、そう言っているようだった。
 無論、それは夢だ。
 彼女達にとって〝今日〟は、待ち望んだ日なのだから。
 御所から方々へ早馬が走り、援軍を呼ぼうとする――それを二人は、敢えて見逃した。
 御所の中の兵士や賞金稼ぎは、もうすぐにでも塀を乗り越え、二人に刃を向けるだろう。
 その全てを、二人は望んでいる。

「じゃ、行くかぁ」

「うんっ!」

 二人は、遊びに出かける。
 最期にたった一度、これから、全力で遊ぶのだ。
 それはどんなにか幸せな事だろう――その予感だけで二人は、誰よりも眩く笑い合った。








 雪月 桜は、暴風をまいて走っていた。
 狭霧 紅野と狭霧 蒼空に追いつこうとしているのだ。
 二人は御所の外へ出た後、追手の気配が迫るのを知るや、跳ぶように駆けて行ってしまった。
 彼女達二人は、道を選ばない。
 壁が有れば駆け上がり、塀が有れば飛び越え、屋根を走り、屋根へ飛び移り、気の向く方へ真っ直ぐに走っていく。
 あれから何十人も、何百人もの兵士達が二人を追った。
 誰も追いつけなかった。
 紅野と蒼空は、兵士達が追いつきそうになると急に速度を上げ、距離が開けば速度を落とし、付かず離れずを保って走る。
 追われる事を楽しんでいる――桜には、そう見えた。
 何故なら二人の顔が、まるで子供のように眩かったからだ。
 調子外れの歌を歌い、道の端に落ちていた木の枝を拾って振り回しながら、連れ立って広場へと向かう子供の――陰りを何一つ持たない輝かしさを、二人は湛えていた。

 ――そんな人間が居るものか!

 その眩さが――桜を突き動かしていた。
 桜は、その超越的な力が故に楽天的だ。万事はなるようになると、多くを悩まずに生きている。
 だが、そんな桜でさえ、信じられぬ事がある。

 ――苦しみを、悲しみを、浴びる程も受けて、

 狭霧 紅野と狭霧 蒼空は、幸福を奪われて生きてきた。
 人間が当然のように甘受するべき幸福を、実の父親に取り上げられて、内側に重大な歪みを幾つも抱えて育った姉妹だ。
 何時も、表情に陰りが有った。
 十数年間に渡って積み上げ続けた陰りだ。
 そんなものが、たった二つや三つの夜で、癒えよう筈も無いのだ。
 人は、他人を欺く事は出来ようと、自分の本心までを偽る事は出来ない。必ず、どれ程に小さな形であれ、人間の心の内は〝顔〟に現れる。

 ――ああも眩く笑っていられるものか!

 だから、桜は駆けるのだ。
 過去を全て忘れたような顔で、遊ぶように走っていく二人が、その実は過去ばかりでなく――
 現在いまも、未来そのさき、過去から繋がる全てを投げ捨てたように見えたから。
 桜はせめて、二人が投げ捨てたものを拾い、押し付ける為に走る。

 ――許さんぞ。

 そんなものは要らないと、あの二人は言うかも知れない。
 要らないから捨てたのだ、もう望むものは一つしか無いと。
 桜は、二人がそう望むのなら、その望みを踏み躙ってでも、二人を未来そのさきへ連れて行きたいと願った。
 酷く自分本位な〝願い〟――だが、それが桜の本質でも有る。
 自分の望むものは、何としてでも手に入れる、手放さない――その意思が、村雨を繋ぎ止め、〝大聖女〟エリザベートを殺したのだ。
 〝幸せになって欲しい〟などという、愚にも付かない身勝手を押し付ける為に、桜は二人を捕らえようとしていた。
 既に、二人に追い縋る兵士は、誰も残っていなかった。
 洛中を縦横無尽に駆け回る紅野と蒼空が、偶然近くに来た時だけ少し走り、直ぐに見失って足を止める――それが、一介の兵士に出来る全てだった。
 ただ一人、桜だけが、二人を追い続ける。
 二人は、時折背後を顧みて、桜がまだ自分達を追っていると見るや、本当に嬉しそうな顔になるのだ。
 そして、速度を更に増す。
 二人の疾走に限度など存在しないが如く、紅野と蒼空は逃げる速度を増す。
 桜でさえ、その背を見失わぬのでやっとな程だ。
 無尽蔵の体力を誇る心肺に血を送らせ、両足で石畳を蹴り、自らの体を前方へ射出するように、桜は二人を追う。
 だが、二人の姿は遠ざかっていく。

「待てっ!」

 自らの喉から漏れ溢れた音に、哀しげな響きを認めながら、桜は幾度も叫んだ。
 戦場でさえ体験した事が無い程、息が上がり、喉が焼け付いていく。それでも桜は、二人の名を呼ぶ。

「紅野、待てっ! 蒼空、待てっ! 止まれえっ!」

 果たしてその声が、届いたものか、届かぬものか――
 何れにせよ二人は、桜より数十間も先で、二人並んで足を止めた。
 左右幅が十丈も有る大路の真ん中に、紅野は大振りの得物を二つ担いで――鬼の大鉞『怒獄』と、父の形見の大鋸『石長』と――右脚に体重を預けて立っている。
 その隣に蒼空が、妖刀『蛇咬』を、鞘に収めたままで寄り添っている。
 桜と剣を交えた折、二つにへし折れた筈の『蛇咬』であったが、その刀身は既に、何事も無いかのように復元されている。
 二人は、双子らしく、同じ顔で笑って走り出した。
 真っ直ぐ、桜の立つ方へ、である。
 足並みを揃え、矢弾のように、数十間の距離など無きが如く、二人は桜へと迫る。
 蒼空は、刀を抜かない。
 紅野は、得物を肩に担いだまま、前方へ向けようとしない。

 ――許さんぞ、お前達。

 桜も呼応するように、石畳を爆ぜさせて跳んだ。
 三人の距離が、瞬時に消えて行く。
 桜は両手を開き、前方へ突き出して、双子を捕らえようとしていた。
 体の何処かに、小指の一本でも引っかかれば、自分の力なら二人を捕らえられる――桜はそう踏んでいた。
 一方で双子は、未だに武器を桜へ向けようとしなかった。
 二人は、桜を傷付けず、遊ぶように翻弄して、通り過ぎて行こうとしているのだ。

「かあああああぁああぁああぁっっ!!!」

 桜は、獣の如く咆哮して、加速しつつ二人へと迫り――激突の瞬間、双子は左右に別れて跳んだ。
 桜から見て、左手側に紅野が、右手側に蒼空が、それぞれに桜の横をすり抜けようとしていく。

 ――両方は、無理だ。

 桜の腕の長さより僅かに遠く、二人は左右に跳んだ。片方を捕らえようとすれば、もう片方に手が届かない。
 桜は左に跳んで、紅野を追った。
 長柄の得物を担いでいるだけ、僅かに速度が遅く、掴む箇所も多い。
 捕えた。
 思い切り伸ばした左手の、中指の先が、紅野の左手首に引っ掛かる。
 桜は指一本きりで、紅野を一気に引き寄せた。
 違う。紅野が、引かれるに合わせて、桜の方へと跳んだ。

 ――このまま抑え込む。

 桜の右手が、紅野の右袖へ伸びる。紅野は右腕を外へ振って逃れる。
 桜は紅野の左腕を掴んだまま、その腕の側へ回り込み、紅野の顎の下に、右上腕を押し当てた。
 紅野の体が、顎と喉を押されて僅かに反る。倒れぬよう、紅野が咄嗟に、右脚を後ろへ引いた。

「ふんっ!」

 その右脚――右膝の裏に、桜が右の脛を押し当てながら、右上腕で抑えた紅野の顎を、思い切り後ろへ押し込んだ。
 紅野の体が、腰の辺りを軸にして、ぐるりと後ろへ回転する。
 右手に得物を掴んだままでも行える、柔術系の投げ技であった。
 桜はすぐさま、紅野の左手首から手を放し、落下していく紅野の頭部を追い掛けて手を伸ばした。
 落下速度が、自分の見積もりより速い事に気付く。
 思考を経由せぬ、感覚的な察知である。
 背から地面に落ちるよう放った自分の投げに比べ、紅野の頭が下りて行く速度は明らかに速い。
 構わず掴もうとした紅野の頭部は、桜の視界の中で、左側へと不意に抜けて行った。
 紅野は、自分から回ったのだ。
 投げ落とされる瞬間、片脚で跳躍し、桜の投げの勢いに自分の脚力を足して、その場で後方に回転したのである。
 両足から、紅野が着地する。
 着地の瞬間、桜は、紅野の腰を、両腕で抱き締めるように捕えようとした。
 殆ど見えぬ右目が、視界の外で動くものを感じ取った時、桜はその腕を、近づいて来るもう一人を捕える為に外へと開いた。
 見えぬ相手目掛けて振り抜かれる桜の右腕――それを蒼空は、易々と潜り抜けて懐に潜り込む。
 桜は左手で、蒼空の襟を掴む。
 万力の如き握力である。
 だが、蒼空は、それを振り払って逃げようとはしなかった。
 蒼空の左上腕が、桜の喉を押す。
 喉という急所を圧迫され、反射的に桜が体を反らせる。
 然し、其処までだ。強靭な体幹は、足を動かさぬまま、倒れぬように体を支えた。
 すかさず蒼空は、右脛を横へ打ち出すように、桜の両膝裏を打った。

「おっ!?」

 がくん、と桜の腰が落ちる。
 咄嗟に踏み止まりながら、桜は驚愕の表情を浮かべていた。
 蒼空の技は、自分が紅野へ対して用いたものと同じだったからだ。
 いや寧ろ、桜のそれより迅い。
 紅野のように、跳んで姿勢を立て直す暇すら無かった。
 見様見真似の技とは思えぬ程の仕上がり――異常の才である。
 駄目押しとばかり、紅野が桜の肩に手を置き、横を駆け抜けざまに引いた。
 桜の視界に、晴れた空が広がった。
 澄み渡った春の空であった。








 村雨は、風に乗って流れて来る雑多な臭いを嗅ぎ分けていた。
 飯を炊く火の臭い。
 車を運ぶ馬の臭い。
 誰とも知らぬ、多くの人間の臭い。
 街の、生活の臭いが流れている。
 人の社会の中に在る以上、それは当然の事だ。
 もしこの臭いの中の、一つが急に欠けたらどうなるのだろうか。

 ――どうにもならない。

 それが村雨の答えである。
 村雨の鋭敏な嗅覚は、目に見えるものより、耳に聞こえるものより、ずっと多くの情報を、常に受け取り続けている。
 森や山に在れば、どれ程の獣が――
 街や里に在れば、どれ程の人が――
 生まれているのかも、死んで行くのかも、感じ取っている。
 一つの生き物に、命はたった一つしかない。
 だが、そのたった一つの命が失われたとて――森も、街も、営みを止める事は無いのだ。
 森で死んだ獣は、他の獣に食われ、或いは木々が育つ為の養分となり、姿を消す。
 街で人が死んだとて、やがて忘れ去られるだけだ。
 けれども、獣と人とで、違うものがあるとするならば――
 それは、誰かの名を、誰かが遺すか否かではないだろうか。
 獣は、誰の名をも語り継がない。人だけが、言葉として、文字として、かつて在った者を後世に遺す。
 記憶する。
 その行為は、なんと虚しい事であろうか。
 誰かの名を遺したとて、そこに、その人間は居ない。街は変わらず、誰かが生まれて来る前もそうだったように、誰かが居なくなった後も、同じ呼吸を続けて行く。
 だが――益体も無い事では無いのだ。
 例え語り継ぐ事が、虚しい慰めであろうと、無益では無い。
 古人の言に学ぶとか、口伝の知恵に頼るとか、そういう実利の問題ばかりではなく、もっと心情的な部分に、語り継ぐ事の意味は有る。
 それは鮮烈な焼印である。
 心に焼け付く誰かの生が、その人間を動かして生き様を変えて行く、そういう事が有る。
 あのように生きて行きたい。あのように眩く歩みたい。身を焦がす羨望が人の道を定め、歩む人を輝かせる。
 例え死したとて、後に生きる人間の中に、想いは残り継がれて行く。
 村雨もまた、眩さに惹かれて、人の街へと身を投じた生き物であった。
 初めは、人間が羨ましかった。
 自らの欲望に優先する理性を持ち、自らより愛するべき他者を持つ。そんな〝理想化された〟人間を羨み、人の街に降りた。
 案外、人は獣のように我欲的であると知ってからも、羨む代わりに、人間が愛おしくもなった。
 獣のように身勝手に生きている中に、時々、誰かの眩さを追い掛けている姿の輝きを見るのが心地良かった。
 人は、眩い。
 目を光で焼かれ、眩み続けて生きる事は、きっと幸福である筈なのだ。
 だが――今、誰よりも眩く輝きながら、駆け抜けて行く二人が居る。
 誰よりも幸せそうに笑って、唯一無二の愛する者と並んで、人の街を遊び場に、走り回る二人が居る。
 だのに、何故だろうか。
 その二人を見ても、村雨の心は、まるで安寧を嗅ぎ取れずに居た。

 ――桜も、同じだ。

 きっと、先に駆けだした雪月 桜も、似たようなものであろうと――
 何とも分からぬ焦燥に駆られ、動かずには居られなくなって駆けだしたのであろうと、村雨は思っていた。
 焦っている。
 足を止めれば、焦りに押し潰されそうだ。
 誰よりも眩い二つの光に、置き去りにされそうで――
 悲しいのか、
 寂しいのか、
 それとも怖いのかも分からないまま、焦りに任せて走っている。
 向かう先は――知らない。
 村雨は、まず、桜を探していた。
 一人で、あの眩さを追い掛けて行くのは、あまりに辛い事であったのだ。
 桜は大路の真ん中に、仰向けに倒れたままであった。
 一目見て、怪我など何も無いのだと分かっても、村雨は即座に駆け寄った。

「桜――二人は!?」

 名を呼んでも、桜の目は、空を見上げたままで降りて来ない。
 空虚な目だった。
 空を見上げているのに、その目には何も映っていない。村雨の声さえ、聞こえているのかも定かでは無かった。
 桜の視界には、晴れ渡った空と、ゆったりと流れる雲ばかりが映っている。
 村雨は、それを遮るように、覆い被さるように桜の顔を覗き込んだ。

「桜!」

 その時、初めて村雨に気付いたかのように、桜の目が焦点を移し――

「あ――」

 そして桜は、村雨が今まで見た事も無いような顔をした。
 普段は世長けて、老成した感さえ有る桜が、親を見失った迷い子のような顔をして、村雨に縋り付いたのである。

「……あれは、散る為に咲いた花だ」

 掠れて、声にならぬ声であった。
 喉がつかえて、息を吐き出す事にさえ苦しんでいるような、泣きそうな声。
 それが村雨の胸に、棘となって刺さり、小さな痛みになる。

「私では駄目だ、私では追い付けない――お前だけだ、頼む」

 桜の指が、村雨の服の裾を掴む。
 手の重さで外れてしまいそうな程、その指に力は無かった。
 こんなにも雪月 桜という女は弱かっただろうか――そう思ってしまう程に。

「頼む、村雨……お願いだ、あいつらを止めてくれ……!」

「……桜」

 もはや自分では何も出来ぬと知って、無力を嘆きながら哀願する。
 他ならぬ雪月 桜が、そうするのである。
 痛ましい有様である。
 だのに村雨は、己に乞い願う桜の姿が――また、嬉しくもあった。
 そして、自分は何をせねばならぬのか、明確に提示された事が救いであった。

「任せて!」

 村雨は、また走る。
 止めねばならぬ。
 紅野と蒼空、二人の姉妹が――散る為に咲き誇る事を。








 洛中より北へ駆け抜けて辿り着く、名も無き山の傾斜を登った先に、なだらかな、開けた場が有った。
 周りの木々は若い花を枝に咲かせているのに、そこだけは切り取られたように、赤茶けた土が見えている。
 昔は小屋など有ったのかも知れない。
 切り倒した木の根まで掘り返し、穴を土で埋めて――荒くも整地された、広場のような箇所が有った。
 いつしか、山は春だった。
 空を見上げようとすれば、視界を薄赤色の花が覆う。
 たくさんの花を見に纏って、重くなって項垂れた、枝の体。
 風が吹いて、枝を揺らす。
 ひらりひらりと、花の衣が落ちて来る。
 訪れた春の中、花だけはもう、去っていこうとしているのだ。

「ああ――楽しかった」

 狭霧 紅野は、額の汗を手の甲で拭いながら言った。
 洛中を走り回り、何人も、追って来る者達を振り回し、止まらぬままで山へと駆け込んだのだ。
 時折、びゅうと強くなる風が、紅野の長い白髪を巻き上げて、汗の雫を散らしながら抜けていく。
 傷だらけの顔には満面の笑み。
 良い夢を見て目覚めた朝のような、晴れ渡った、陰の一つとて見えぬ顔であった。

「お前も、楽しかっただろ?」

「……ふふっ」

 隣に、同じ顔をして、狭霧 蒼空が並んでいる。
 品良く口元を隠し、ころころと喉を鳴らすように笑う蒼空は、まるで慎しみ深い淑女のようですらある。
 ひと月も前には、子供のように何も知らず、大声で喚き泣く少女だった。
 今日、この日に至っても尚、雪月桜が語る〝未来〟の概念を、何も理解出来ぬまま、首を傾げたというのに――
 たった一人、血と魂を半分に分け合った紅野の隣で、蒼空は成熟した女の振る舞いをする。

「私達には、誰も追いつけなかった。傷の一つ、汚れのひと匙だって付けられない」

 紅野は、未だに浮かれ遊ぶ心のまま、上ずった声をしていた。
 自分の言葉を聞くのが、嬉しくてたまらないというような、そんな様子であった。

「私達が二人なら、誰よりも強いんだ」

「……うん」

 蒼空が、慎ましく同意する。
 その仕草に、恥じらいさえが見えた。
 今を盛りと咲き誇る花の、清楚な美しさを湛えた――少女の、絶頂の姿であった。
 二人は向かい合い、緩やかに構えた。
 遠く、間合いを取る。
 跳ねるように大きく歩いて、五歩の距離だ。
 ゆらり、と、体を傾けるように――進もうとした蒼空より先、紅野が、近づいて来る気配に気づいた。

「おっ」

 面白いものを見た、という調子の声を一音発し、

「お前が最後かぁ」

 手にする得物とは裏腹の気安さで、乱入者に呼び掛けた。

「……どういう意味かな、それ」

 答えたのは、村雨であった。
 疾走の勢いを数歩で殺し切り、二人から少しばかり離れた所に立つ。
 その身は既に、荒事の為のあらゆる用意を完了していた。
 肥大化した犬歯、ぶ厚く変わった四肢の爪、増大する心拍数、変色する眼球の強膜、四肢や背、首、腹を覆う灰色の体毛――人狼の本性を余さず曝け出した、戦いの為の姿。
 何よりも、眼光が強い。
 己の意思を通そうとする、身勝手な強者の風格が滲み出ている。
 答えによっては、この機能を存分に振るう――そう警告しているのだ。

「死ぬ気でしょう、あなた達」

「ああ」

 村雨が問う。すると、なんとも、吹き抜ける風に乗る花弁のように、重さの無い紅野の言葉が返った。

「駄目、させない」

「駄目か? なんでだ」

「そうして欲しくないって人が居るから……その人に頼まれたから」

「……桜だろ、それ。あいつ、案外おせっかい焼きだよなぁ」

「まあね」

 かっ、と弾くような声で、紅野が笑った。躊躇いの無い、すがすがしい笑声であった。

「気持ちだけ受け取っておくけどさ、村雨。私達はもう、ここから先が無いんだよ」

「……幾らでも、先なんか選べるじゃない。どこへ行くのも、どこへ隠れるのも、あなた達の力なら――」

「違う、違う。私達はどうやら、今日で、自分の命を登り切っちまったみたいなんだ」

 紅野は、同意を求めるように、視線を横へ滑らせる。蒼空はその視線を受けて、紅野と同じ顔で微笑み、頷いた。
 それから紅野は、思い切り体を反らせて、高い空を見上げた。

「これから先、望みってもんが何も無い。びっくりするくらい、この世に、思い残しの一つも無いんだ。
 そりゃそうだよなぁ、元々なんにも持ってないのが私達だったんだ。親父が作った、出来の悪い方の玩具と、出来の良い方の玩具と――手放せない大事なものなんて、一つ残らず取り上げられちまった。後ろ髪を引いてくれるやつが、私達にはもう居ないんだよ」

「……後ろ髪を引く人に、私や桜は成れないの?」

「嬉しい申し出だけど、そりゃ駄目だ……もっと強く引っ張ってくる奴が居る」

 視線を降ろさぬままの紅野へ、村雨は、摺足でにじり寄った。
 隙を見せれば組み付き、絞め落とさんと身構えての、僅かに膝を曲げて力を蓄えた体勢である。
 今ならば、届く。
 だが、地面を蹴ろうとした村雨が、足に力を込めるより速く、その正面に蒼空が立った。
 刀も抜かず拳も作らず、淑やかに、自然体で――
 風に掴まれ、揺らされる白髪に、散り逝く花弁が縺れ合って吹き抜けてゆく。
 その中に蒼空が、何にも染まらぬ白のままで立っている。

「綺麗だろ、私の妹」

「――――――」

 否とは答えられない。
 強い立ち姿だった。
 だが――それ以上に、美しい姿であった。
 少なくとも村雨は、死ぬ為に此処にいる少女の姿に、確かに美を感じていたのだ。
 ただその為だけに在るものの、機能美。
 鋭利な刃が、斬る為の姿をしていて、美しいように。
 死ぬ為だけに在るからこそ、蒼空は――同じ顔をした紅野は、美しいのかもしれなかった。

「私も蒼空も、多分、あの日――親父を殺したあの時が、一番強かった。おとといより昨日、昨日より今日……ちょっとずつさ、自分が、もう戦わなくていいんだって、弱くなっていいんだって妥協していくのが分かるんだ。
 でも、何時が一番綺麗かで言ったらさ、今日なんだ。一昨日より昨日、昨日より今日、私達はより綺麗になって――明日、明後日、少しずつ、今より駄目になっていく」

「そんな事はっ――!」

「有るよ、間違い無く」

 紅野が言うのは、つまり、役割の事だった。
 自分達はもう役割を終えたと――だからこれ以上、何かをする必要は無くなってしまったのだと。
 役割を失った自分達は、これから、輝きを失っていく。
 二人は、強く、そう信じている。

「結局は誰も、この世は、死にたがる私達を捕まえられなかった。」

「まだ私が居る!」

 喰い下がるように、村雨が吠えた。
 だが、その足は、地に根が生えたように動かない。
 動けないのだ。
 獣の身体が、理性を裏切って、村雨をそこへと留めていた。

「それが答えだよ」

 見透かしたように、紅野が言って、

「……じゃあ、ね」

 蒼空が村雨に、別れを告げて破顔し――
 剣閃。
 紅野が、大鉞の柄で受けた。
 火花が赤い雨と散る。
 血を分けた姉妹の、魂を分けた二人の、究極の自慰行為ころしあい――喘ぐように艶やかな、喜悦の声が響いた。








 一合で、紅野の左腕が飛んだ。
 父の形見である大鋸を振るい、蒼空の首を断たんとしたその時、蒼空の一太刀が、脇の下から潜り込んだのである。
 相手の攻撃の合間に割り込む、絶妙の一瞬を突いた剣撃。
 然し、避けようと思えば、紅野の技量ならば、前腕に酷い傷は受けただろうが、避けられる筈だった。
 なら、何故に紅野の腕が飛んだのか。
 紅野は、避けようとしなかったのだ。
 代わりに、身体を思い切り捻って、左腕にさらなる加速を与え、より速く蒼空の身に、己の得物を届かせんとした。
 踏み込みの勢いで蒼空の身が、頭一つ半ほど下がった。
 為に、蒼空の首を狙った斬撃は、そのままならば上へと抜けて行く筈であった。
 紅野がその軌道を捻じ曲げた。
 左肩を捻り込み、上体を斜めに倒し、加速を損なわぬままで大鋸の向かう先を、本来の到達地点より低く落とした。
 ごきっ、と、音がした。
 その衝突音は、刃物のものではなかった。
 大鋸の刀身は、皮膚と肉の薄い箇所――蒼空の右側頭部にぶち辺り、頭蓋骨に食い込んでいたのである。
 それも、斜めにだ。
 目の横の部位は、他の箇所より骨が脆い。だから、そこだけが砕け、内側に収まるもの――蒼空の右の眼球まで、刃を届かせた。
 このまま鋸を挽けば――いや、たった一度強く〝引く〟だけでも、頭蓋骨に食い込んだ刃が、蒼空の頭部を切り開いただろう。
 然し、その時、蒼空の斬撃が走った。
 刃を仰向けにし、低くから高くへ、最短距離を真っ直ぐに振り上げた剣閃は、紅野の骨を、手応えも無く絶った。その為、頭蓋骨に食い込んだ鋸の刃は、前後に動かされる事は無く、ただ骨を割り、眼球一つを潰すに止まったのである。
 この攻防が、たったの一合であった。
 く、ああぁぁあぁ――
 紅野が苦痛に呻きながら、義足の左膝を振り上げた。
 刃を振り抜き、伸びた脇腹へ、斜めに突き刺さる、鋼の膝。
 めぎぃっ。
 ふうっ、ぅう――
 蒼空が、押し殺した呻きを、息と共に吐き出す。
 肋が二本、折れていた。
 潰れた目が生んだ死角に慣れぬうちの膝であった。
 更に紅野は、足の裏で――義足の全重量、自分の全体重を乗せて、蒼空の右足を、目一杯に踏付けた。
 ずむっ。
 足を置いていたのが、石畳ではなく地面であった為、その音は少し曇っていた。
 仮に石畳の上で放っていれば、足の甲を砕いただろう打撃――下段踏付け蹴り。
 それでも、蒼空の足をその場に縫い止め、動きを止めるだけの効力は有った。

「おうっ!」

 一声、吠える。
 紅野は、額を、蒼空の顔面に叩きつけに行った。
 蒼空も、額で迎撃した。
 一度の衝突で、双方の額が避け、血が、ぱっと霧のように散る。
 そのまま二人は、裂けた傷を重ねるように、額をぎりぎりと押し付け合い、血塗れの修羅の顔で笑いあった。
 そして――同時に飛び退く。
 蒼空の、刀の間合いよりは少し遠い。
 紅野の、大鉞の間合いよりは少し近い、そんな距離に立って仕切り直しをする。
 紅野は左足から踏み込んだ。
 そして、腰から上をぐうと右に捻り、回転させ――それだけだった。

「……?」

 虚を突かれた蒼空は、刀を顔の右側で立てた、防御の体勢のままで、ぱちぱちと瞬きを繰り返した――右の瞼は眼球が抜けて、少し落ち窪んでいた。
 ところが、驚いたのは蒼空ばかりでは無いのだ。
 動いた紅野自身が、自分の行動を全く理解出来ないというような顔をして、二人の間に広がる何も無い空間を見つめ――

「あっ、もう無いわ」

 未だに血を流し続ける、己の左肩の切断面を見て、ようやく合点が行ったように頷いた。
 つまり紅野は、左手に持った大鋸で、蒼空の死角を突こうとしたのだ。
 ところが、その左手が、腕ごと、もう無いのである。
 たった今、腕を失った事を、すっかり忘れていたのであった。
 その事に気付いた途端、双子のどちらも、大きな声で笑い出した。
 紅野は、残った右腕で、腹を抱えて息苦しそうに。蒼空は、口元に手を当てて隠しながら、目の端に涙を滲ませて。
 笑わぬのは、何もせずに立ち尽くす村雨だけであった。

 ――狂ってる。

 自分の、或いは血を分けた片割れの、腕が落ちた事が、そんなにもおかしいのか――村雨は、そう問いたかった。
 事実、二人が狂気に呑まれている事は、間違いが無いのだ。
 二人は、死ぬ為に戦っている。
 自分が死ぬ事を望みとしながら、それを叶えてくれる相手を、全力で殺そうとしている――それが、村雨には分かるのだ。
 散る為だけに狂い咲いた、二輪の花。
 怖気を感じる程の狂気が、二人の声に浮いていた。
 だが。
 それでも、尚。

 ――綺麗だ。

 二人は、これまでに生きてきたどの瞬間よりも、なお美しく咲いていた。
 命の火を燃え上がらせて、灰と化すまでの時を、至福と定めて味わっていた。
 この火が潰えたならば、二人は果たして、どれだけ生きていられるのだろう。
 五十年――
 これが妥当な数値かも知れない。
 平穏無事に生き、置いて、眠るように死んでいくまでの間、望むなら――どれ程に多くのものを見られるだろう。多くの人間に出会えるだろう。どれだけ広い世界を歩けるだろう。
 未知に出会い、既知とする事。
 そこには、計り知れぬほどの喜びがある。
 可能性――「今、自分が持っているどんなものよりも、素晴らしいものがあるかもしれない」――否定されるまで抱き続けられる、夢。
 例え否定されたとて、次を探せば良い。何故なら世界は、無限と言えよう程に広いのだから――
 だが、そういう〝健全な夢〟を抱けるのは、もしかしたら、所謂〝普通〟の人間だけなのではないか。
 狭霧 紅野には、この世にたった一つの願いも無い。
 狭霧 蒼空には、この世にたった一つの願いも無い。
 これから先の生に於いて、何か、本当に些細な一欠片の望みさえ、自分は見つけられないだろうと予感している。
 何故か。
 今までがそうだったからだ。
 狭霧 和敬という稀代の悪漢に〝作られた〟二人は、自分の役割を果たす事以外を求められなかった。
 自虐的なまでに傷付き、やがて壊れていく事を求められていた紅野――
 誰とも意を交わらせぬまま、孤独に生きていく事を求められていた蒼空――
 紅野と蒼空は、道具だった。
 道具は夢を見ない。
 刀が、槍が、矢が、自ら望んで人を殺すのではないように、二人は何かを望み、道具としての役割を果たしていた訳ではない。
 〝あのようになりたい〟という、健全な、当たり前の願いを抱く事さえ思い当たらなかった十七年。その呪縛は二人の魂に、蔦草のように絡み付いて離れない。
 僅かにでも、未来に望みを抱き、生きていて良いと思った事も有った。けれども、その僅かな希望さえが、父の手で踏み躙られた。
 だから紅野と蒼空は、これまでがそうだったように、この世に願いを持たない。
 二人の望みは、死の先にある。
 永遠の安息。
 そこへ、自分達が最も強く、最も美しい姿のままで、辿り着こうというのだ。
 自らの半身の他に、誰の手をも借りず――

 ――まるで、駆け落ちじゃない。

 村雨の声は喉の奥で、息苦しさになって、消える。
 そう、駆け落ちなのだ。
 恋に生き、恋に死ぬ恋人達のように、二人は手に手を取り合って、死出の旅へと走って行く。

「おおおおおおぉっ、しゃあああぁっ!」

 紅野が、右腕だけで大鉞を振るう。
 一丈を優に超える柄の先に、二尺以上の長さの刃を備えた大鉞は、人外の武器である。重量も二十貫はあろうか、紅野より余程重い。
 それを、広く開いた両脚で支え、布旗の如く振り回すのだ。
 触れたものを、断てぬとも砕く、論外の破壊力。
 地面と水平に唸りを上げて、大鉞の刃が、蒼空を両断せんと迫る。

「――やぁっ!」

 蒼空は、真っ向からそれに当たる。
 妖刀『蛇咬』を大上段から、真っ直ぐに振りおろしての迎撃。
 受け止めたのではない、斬ったのだ。大鉞の柄を半ばから斬りおとし、刃を失わせたのである。
 然し、間を置かずに紅野が、切断された大鉞の柄を、槍のように用いて突きを放つ。
 腹を狙う刺突。
 左右への小刻みな跳躍で避けながら、蒼空が前へと出て行く。
 即席の槍の間合いは五尺。その内側へ入った蒼空が、紅野の首目掛けて刀を振るう。
 紅野は身を沈めて斬撃を避けながら、義足で蒼空の右膝を、踏み押すように蹴り付けた。
 蒼空の膝が軋む。
 だが、折れるまではいかない。かろうじての所で蒼空が、右足を半歩だけ引いて躱していた。
 紅野は、そこから更に身を沈める。
 頭が、蒼空の腰より下がるまで屈み、膝に力を込めた。

「おうっ!」

 そこから紅野が、頭を蒼空の腹部へ突き刺すように跳ねた。
 重量と骨の厚みだけで言うならば、頭蓋骨は拳よりよほど危険な凶器となる。それが、骨で守られていない腹部へぶち当たるのだ。
 蒼空の体が、くの字に折れ曲がる。
 だが蒼空は、腹部を打たれながらも、左手で紅野の後頭部を抑え付けていた。
 めしゃっ、
 という音がして、紅野の鼻から血が噴き出す。
 蒼空が、膝を思い切り振り上げて、紅野の顔に叩き込んだのだ。
 たった今、義足の蹴りで負傷したばかりの、右膝であった。

「くおっ……!」

 たたらを踏んで後退する紅野を、蒼空が更に追う。
 紅野が義足の左脚を高く振り上げるも、これは空を切る。
 振り上がった足の爪先が空を向き、落下へ転じるより先、蒼空は刀の刃を寝かせ、紅野の腹へと突き出していた。
 腹の側から背骨を断ち割ろうとする、ど真ん中への、真っ直ぐな突き。

「おっ!?」

 紅野は咄嗟に身を捩ったが、蒼空の剣閃を避けるまでには至らず――右脇腹に妖刀『蛇咬』が、刀身の半ばまで突き刺さっていた。
 その時、蒼空が、恐ろしい顔になって笑った。
 そして、両手でしっかと刀の柄を保持すると、全身を駆動させ、突き刺さったままの刀を、思い切り振り切ろうとしたのである。
 もし成れば、紅野の胴が、腹の中から外へと切り開かれるような、無惨な一閃であるが――それを紅野は、これまた恐ろしい方策で防いで退けた。
 紅野は、前へ出た。
 刀で何かを斬る時は、多かれ少なかれ、刃を引かねばならない。無論、刃を全く動かさぬまま、力任せに対象へ押し当てて切断する事も不可能ではないが、それは極端に効率を落とすやり方だ。
 紅野は、蒼空が刃を引く動作と全く同じ速度で前へ出ながら、更に刃が体の外へ振り抜かれるに合わせ、自分も横へと動いたのである。
 無傷とはいかない。腹部の刺し傷が押し広げられ、ぞっとする程の血が流れ落ちるが――即死では無い。
 紅野には、それで良かった。

「捕まえた……」

 紅野は、即席の槍を捨てた。
 残された右手で、蒼空の左手の上から、『蛇咬』の柄を掴む。
 その手が、凍結を始めた。

「――!」

「お前の足には追い付けないけど……これなら、足の速さは関係無いだろ?」

 狭霧 蒼空は、日の本随一の剣士である。武器術のみを比べるなら、如何に紅野とて相手にはならない。
 だが、狭霧 紅野は、武器術のみならず、格闘術、更には魔術までを修めた、多芸の士である。
 その魔術の中で、特に得手とするは〝凍結〟の術――それを、自らに施したのだ。
 蒼空の手は、ただ紅野に掴まれているだけだ。掴んでいる紅野の手が、永久凍土の大地の如く、固く凍りつき、動かない。

「やりあうかぁっ!」

 紅野が、義足の脛で、蒼空の脇腹を蹴った。
 折れた肋が更に砕ける、悍ましい音がした。
 蒼空が、自由に動かせる右手で、紅野の顔を殴った。
 頬が歯に当たったか、紅野の口から真新しい血がしぶいた。
 紅野が、蒼空の右腕を蹴った。
 骨に罅の入る音は、案外に高い音であった。
 蒼空が、紅野の顎を殴った。
 一瞬だが紅野の膝から力が抜け、がくんと腰が落ちた。
 右大腿を蹴った。
 内出血で脚が利かなくなる。
 喉を殴った。
 気道を血が遡り、呼吸が乱れる。
 回し蹴り。
 蒼空の側頭部をしたたかに打ち据えた。
 四本貫手。
 紅野の喉に血が滲む。
 膝蹴り。
 鉤突き。
 下段蹴り。
 顔面打ち。
 中段前蹴り。
 腹打ち。
 蹴り。
 突き。
 蹴り。
 突き。
 骨が砕け。
 血がしぶき。
 皮膚が破れ。
 肉が避け。
 臓腑が潰れる。
 血反吐を吐く。
 痛みの上に痛みが重なる。
 もはや痛みなど感じなくなる。
 脚が上がらなくなる。
 拳が上がらなくなる。
 上がらない脚で蹴りを放つ。
 上がらない拳で突きを放つ。
 突きを避けられぬまま、喉を打たれる。
 蹴りを避けられぬまま、脇腹を打たれる。
 壊れていく。
 打たれ続けて壊れていく、肉体。
 狂気に呑まれて壊れていく、心。
 いや――壊れているのか?
 寧ろ、出来上がっているのではないか。
 肉体を破壊しあいながら、二人は共に完成されていく。
 何か、とてつもなく恐ろしくて美しいものが、互いを破壊しながら、創り上げられていく。

「ぎぃっ――ああああああぁっ!?」

 紅野が、苦痛に叫んだ。
 蒼空が、左肩の断面に指を突き込み、肉を爪で掻きまわしたのである。
 耐えようと意識するより先、体が退く事を選ぶ激痛。咄嗟に右手の凍結を解き、投げ捨てた即席槍――大鉞の柄を拾い上げ、紅野は飛び退った。
 その脇腹から、ずるりと妖刀『蛇咬』が引き抜かれる。
 紫の刀身を赤黒い血に染めた刀は、この世の物とは思えぬ色に変じている。
 蒼空は、直ぐには追わなかった。
 蒼空の右脚は、骨も腱も殆どが潰れ、殆ど動かす事も出来ぬ有様であった。
 顔も、右半分が潰れている。
 顔の部品がではなく、骨が砕け、輪郭が変形しているのである。
 それでも蒼空は、左半分の顔で、慎ましく、艶やかに微笑んだままであった。

「っ、つうぅ……痛ってえなあ、蒼空」

「紅野だって、ひどい」

 今再び二人は、向き合い、睦言を交わし合う。
 既に二人の体は、引き返せぬ一線を越えた、死の間際に立っている。
 この瞬間から戦いを止めたとしても、二度と元のように生きる事は出来ない、不可逆の損壊。
 だのに二人は、じゃれ合う子供のようであった。
 そして、絶頂の間際の恋人達のようでもあった。
 乱れた息を乱れたままに、その波を重ね、更に乱れて――その先に待つ、格別の時を望む。
 紅野が、五尺の槍を、弓を引くように構えた。
 蒼空が、『蛇咬』を、右肩の上に構えた。
 視線を重ねた二人は、同時に地を蹴って、その身を前へと進めた。
 村雨は、ただ立ち尽くして、それを見ている事しか出来ない。
 何故ならこれは情交だからだ。
 二つの命が、自らの全てを賭して、互いに高め合い、同じ果てへ向かって昇り詰めていく――淫猥で、神聖な、交わいに他ならぬ。
 これは二人の領域である。
 だから村雨は、踏み込む事が出来ない。
 凄絶で、無惨で、悲痛である程に、一つの魂から別たれた二人は、正しく、余す所なく、完全に、また一つへと還る事が出来る――
 村雨は、そう信じた。
 信じさせるだけ、彼女達は美しかった。
 五体をぐしゃぐしゃに損壊させながら、命の片割れを損壊しながら、二人には一欠片の翳りも無く、美しかった。
 とめどなく涙が零れる。
 この美しい時を、何時までも留めておきたいと――願えども、それは叶わぬ事を知っているから。
 直ぐにもこの光が、手の届かないところへ昇っていく事を知っているから。
 だからせめて、この一瞬を、少しでも長く目に焼き付けておきたくて、村雨は涙を幾度も拭っていた。
 終わりに届く。
 紅野の槍が、蒼空の胸を。
 蒼空の刀が、紅野の胸を。
 抱き合うように、刺し貫いた。
 心臓を抉り、背まで突き通し、互いの体を刃で縫い止める、抱擁の如く――

「ねえ」

「……ん?」

 蒼空が、紅野の首を抱いて耳打ちする。
 紅野は穏やかな顔で、言葉の先を促した。

「今度は、私がお姉ちゃん」

 指の力が抜ける。
 触れる体から伝わる鼓動が消えて行く。
 姉の腕の中で、妹は安らかな眠りに落ち、

「ばーか、譲らないよ」

 妹に抱かれたまま、姉は満ち足りた笑みを浮かべて、春の風の中に横たわった。
 散りゆく花の花弁が、二人の体に降り積もる。
 桜色の花々が、流れた血に触れて、彼岸の花の色に染まる。
 静寂が霞んでいく。何時しか途絶えていた、鳥の声が帰って来た。
 そして、足音が一つ――
 村雨は、音の方へと振り返った。

「あ……ぁ、ぁ」

 雪月 桜が、そこにいた。
 桜は、眠るような二つの亡骸へ、ふらふらと、震えるように近づいていく。
 唇が動いた。
 二人の名を呼んだのかも知れない。
 だが、声は出なかった。
 掠れた空気の音が、ひゅう、ひゅうと鳴って、風に掻き消えていくばかりであった。
 亡骸を両腕に掻き抱き、桜はもう一度、声無き声で二人を呼ぶ。穏やかな死に顔が、答えであった。

「ああ、あぁぁ……」

 血と花弁の、異なる赤に座り込んだ桜の背に、村雨が寄り添う。
 頬を伝う涙は、そのままであった。
 村雨の手は、桜の頬に触れ、伝う熱さを拭っていた。

「桜――ごめん」

 村雨は、胸の中に、桜の頭を抱いた。
 悪い夢を見た子供に、母親がそうするように、抱き寄せて、他の何も見えぬように、聞こえぬように――
 雪月 桜は、声を上げて泣いた。
 いつ以来の事か。
 或いは、初めての事か。
 京を訪れてからの、全ての悲しみに嘆く事を、やっと赦されたかのように、大きな声を上げて、村雨の胸の中で泣き続けた。
 命芽生える春の、夕暮れのことであった。