烏が鳴くから
帰りましょ

その日

 りりり、りりり、とベルが鳴る。アナログの目覚まし時計は、何十年も使われているかの様にみすぼらしいが、新品の電池を喰らって、その日も現役で喚いていた。
 布団から這い出すのが苦にならない程度に暖かくなって、それでも朝は布団のぬくもりが恋しい。安らぎの時間は、部屋に迫る足音で断ち切られる。

「こーらー! 起きなさーい、このおバカさーん!」

 ベッドの上で毛布に包まり、目覚まし時計の音から逃げようとする少女を、彼女の母親が布団ごと抱え上げた。くるりと持ち替え、足を床につけさせると、揚げ物の衣を剥ぎ取る様に、毛布をベッドの上に戻してしまう。

「ねーむーいー、寝ーたーいー……」

「だーめーでーすー。んもう、朝ご飯食べないの? 卵焼きあるのに」

「卵焼き……!」

 眠たげな少女の目がきらりと光る。たん、と床を蹴って部屋を飛び出そうとして――その正面に、母親は迅速に回り込んだ。

「まずはお着替え! パジャマでご飯食べちゃだめでしょ、もー」

「ぶー」

 早朝からどたばたと床を鳴らしながら、母娘は今日の洋服を決めていた――やはり日本、洋服でない者はそう見つからないのである。
 動き回りたがりの子供の事ゆえ、転倒しても膝をすりむかない様にと、厚手の長そで長ズボンの、華は無いが実用的な格好で、少女は階段をトテトテと降りた。居間に繋がる廊下も、日差しが程良く暖めて、此処で昼寝するのも悪くない様に思える。

「Доброе утро!」

 居間の戸を開けて飛び込んだ少女を、ついで降りて来た母親を迎えたのは、北国の響きとは裏腹の陽気な声だった。
 少女は真っ直ぐ走って、声の主に加速を付け飛びつく。が、声の主は――長躯の男性は揺らぎもせず、少女をがっしり受け止めた。

『おはよう、お父さん!』

『おはよう、寝坊助さん。ほら、お母さんも座って座って、冷めちゃうだろ?』

『はいはい。それじゃ皆さん、手を合わせてください、いただきます!』

 男性――少女の父親は、発した音に似合いの、少なくとも畳は似合わない様な外見をしていた。
 彼の言葉に促されて、家の主要言語が切り替わる。これが、この家族の平穏な日常風景だった。

『ねえ! 今日はお父さんも、お母さんもお休みなんだよね?』

『そうよ、おうちでお留守番。ね、貴方?』

『そうだぞー、お留守番だぞー』

『あ、ずるーい』

『ずるくなんかないぞ! お父さん、この前のお休みでお仕事してきたんだぞ! お前こそずるーい!』

 父と娘が同レベルの言い争いをしながら茶碗を空にするのを、母親は目を細めて見守りながら、自分はもう食事を終えていた。小食では無い。無いが、既に茶碗も皿も空になっている辺りは、流石に共働きの母親である。
 時計を見れば、通学路の長さを考えて、もう20分もすれば家を出るべき頃合い。

『ねえ、午後はどうするの? 誰かと遊ぶお約束は?』

『まだ無い! でも遊ぶ!』

『だって。貴方、どうする? お買いものは夕方からに……』

『そうしようか。部屋の片付けと、後は書類だけでも纏めてしまって……あれ、仕事してるよ俺? なんで?』

『大人だから仕方が無いんですー』

 団欒の時間は然程長くないが、似たような光景はまた、昼にも夜にも繰り返される。
 食器の片付けもそこそこ、少女は赤いランドセルを背負って、玄関の靴に足を滑り込ませる。玄関扉に手を掛けて――なんとなく振り返ると、母親が其処に立っていた。

「行ってきまーす!」

「気を付けて、行ってらっしゃい!」

 ぽーんと弾丸のように飛び出す娘の背を、やれやれと溜息を吐きながらも見送った母は、明け放されたままの玄関扉を閉めるのだった。





 ――その日は珍しく、午前中で授業が終わる日だったと覚えている。
 空も青く、雲はゆったりと流れて、前髪を揺らす程度の風が吹く。舗装道路と畦道が半々に混ざった通学路を、私達は逆向きに、走ったり立ち止まったりしながら、住宅街まで向かっていた。
 十五年も前の事だから、細部までを記憶はしていないが――鳥の声が良く聞こえる日だったとは思い出せる。けれど、静かな正午過ぎだった。
 小学二年生だった私が、真面目に新聞やニュースに目を通すかと聞かれれば、テレビ欄さえろくに見ないで、漫画やコンピューターゲームばかりだったと、正直に告白しよう。それでも食卓の会話から、何処かでおかしな病気が流行しているとは知っていた。
 今にして思えば、あれが情報統制というものなのだろう。〝病気〟の実態を知っている大人は、近所の何処にもいなかった。

 私にも、一般の家庭の例に漏れず、両親がいた。今の私に良く似た顔立ち、体格の母と――当時の私には、それこそ天まで届きそうな、長駆の父と。父の生まれを聞いたことは無いが、物心付いた時には既に、私は二つの言語を扱っていた。
 父は鮮やかな金髪に、宝石の様な蒼い瞳を持っていて、これが私の同級生達を羨ましがらせたし、私も良く自慢した。授業参観の折など、同級生の父親達より頭一つも大きな父は、きっと何でも願いを叶えてくれる王子様なのだろうと、夢見がちな事まで思ったものだ。
 母は――今、思い出そうとすると、髪が長かった事以外、取り立てて語る何も無かった。黒髪、黒い瞳、か細い骨格と、日本人以外の何者でもないと一目で分かる様な女性で――あの人が声を荒げた記憶は、たった一度しか無い。
 だが――古い知人には、何度も言われた。私は、母によく似ているらしい、と。





 目を傷めない程度の日差しと、半端に道路脇に残る草地に見守られ、二人の少女は舗装された歩道を、疲れ知らずの顔で駆け抜けていた。
 授業からも解放され、さあ後は帰宅するのみ。少女達の笑顔の輝かしい事と言えば、晴れ空より尚も明るいかと言う程だ。

「ねー、どっちの家にする?」

「こっちはお父さんもお母さんもお仕事だし……」

「じゃあ、こっち!」

 赤いランドセルが目に眩しい二人の心配事といえば、午後の遊び場を何処にするかという事だけ。そしてこの悩みは、深い思考も経ずに解決する程度のものだった。
 同学年ということもあり、二人の背格好はあまり離れていない。まだ走り方に子供特有の不安定さが抜け切っていない、ともすれば危なっかしく見える年頃――具体的には、この春、小学校の二年生に上がったばかりの少女達だった。
 片方は、長い髪をリボンで纏めて一本結びに。もう片方は、肩口程でさっぱりと髪を切りそろえてあって、活動的な印象が有る。だが、大きな声を出しているのはどちらかと言えば、髪の長い少女だった。

「そっちって……今日、お休みなの?」

「うん! ほら、この前のお休みに、お仕事に行ってたからって!」

「あっ、そっかあ!」

 この二人、度々お互いの家を訪問する仲という事で、今日も今日とて一度はどちらかの家に集まり、それから遊びに出ようと算段を立てている。
 髪の長い少女の家は、今日は両親とも在宅――つまり、家に上り込んでも良いという訳だ。

「……あれ。ねえ、お昼どうするの?」

「近くのコンビニで買って食べる……お金貰ってるし」

 帰路の途中、髪の長い少女は、自分の友人の食事事情に気付いた。恐らくは母親に、数百円も貰っているのだろうとは思ったが――コンビニで数百円となれば、菓子パンかおにぎりか、それにお茶でも買えば消えてしまう。
 そうでなくとも地方のコンビニエンスストアというものは、商品の入荷タイミングが悪いのか、時間帯によっては酷くスカスカの棚を晒しているのだ。好んでコンビニ食を食べるのでない事は、友人の表情から伺えたのだろう。

「じゃあさ、うちで一緒にご飯食べようよ!」

「えっ?」

「お昼、焼きそばにするんだって! 沢山作るんだから、一人くらい増えても大丈夫だって! ね?」

「焼きそば……」

 巨大なホットプレートに、大量の面を乗せて、フライ返しの二刀流で掻き回す、豪快な料理――焼きそば。ちなみに、長髪の少女の家の場合、野菜は最低限で、安い豚ばら肉を大量に放り込むのが常である。
 少女の友人も、過去に一度、それのご相伴にあずかった事が有った。量と、子供向けのシンプルな味と――虜にされるのも無理は無い。
 一応ばかり、母の言いつけは有る。手の中の五百円玉を見つめ、彼女は暫く思い悩んだが――

「うん!」

 力強く返事して、また二人、走り始めた。
 何時もならば一度離れる事になる分かれ道も、今日は同じ方向に曲がって、並んで歩いていく。
 静かな、静かな午後だった。頭上を鳶が甲高く鳴いて飛んでいくのは、縄張り荒らしの烏と揉め事を起こしているのだろう。地上に目をやれば、自分達の他に誰も居ない、広い道路が有った。

「……そーだっ」

 ぴょん、と縁石を飛び越えて、車道のど真ん中を歩く。一車線の行き戻りしかない道路は、アスファルトの舗装も粗雑で凹凸が激しい。その上を、長髪の少女は悠々と歩き始めた。

「あっ、危ないよ!」

「えー? でも、車来ないよ?」

 車は、来なかった。分かれ道を過ぎて暫く歩いても、前後どちらからも車は来なかった。その内、少女の友人もおずおずとだが、車道に足を乗せて。

「……にひひひっ」

 何時も他の友人達を笑わせる、癖の強い笑声を零した。
 住宅街まで続く坂道を上りながら、何気なく、左手側に立つ家に目を向ける。この家の玄関口には何時も若い男が立っていて、口をぽかんと開け放したまま、ひがな一日、道行く人間を眺めているのだった。今日はどうにもその気分で無いようで、定位置には誰も居なかった。
 右手側に目を向ける。老夫婦の家が有る。庭に留めてある軽トラックが今日はいないので、留守なのだろうと、少女は思った。留守にするのに窓を開けていくのは、不用心だな、とも。
 誰とも擦れ違わないまま、少女二人の話題は尽きず――坂を上りきった、その時だった。

「あれっ……? お父さんの、車……」

 髪の短い少女が、道端に留まっている車を見つけ、駆け寄った。
 紺色のワゴンカーだった。運転席の扉は――無い。5mも離れた所に、ひしゃげて落ちている。
 車内には誰も居ない、もぬけの空だった。鍵は刺さったままで、ギアもDに留まっていたが、傾斜とエンジンが釣り合ってか、後退する事は無かった。

「……お父さん、お仕事中なのに……? えっ、え……?」

 車の中を覗き込んだまま、短髪の少女は動けずに居た。
 幾ら待っても誰も居ないというのに、普段父親が座すシートに乗り上げて――そして、見つけてしまう。

「あ……あ、ああ……、あー! あーー!」

 助手席に落ちていた鞄は――短髪の少女の、母親のものだった。
 拾い上げ、縋り、泣き喚く。まだ残る体温は、少女の涙で掻き消される。
 そして――わあわあと喚く声が、〝それ〟を呼んだものであろう。気付いていたのは、長髪の少女だけだった。

「〝  〟ちゃん、危な――ッ!?」

 〝それ〟を形容するなら、巨大な犬と呼べば適切だったかも知れないが、それにしては足と首が多すぎた。
 体毛は、パスカビルの家を思わせるような黒。背だけを覆っていて、脚は鋼の様な筋肉が、皮膚さえ纏わず剥き出しになっている。
 七つ脚に三つの頭を備えた、3mは有ろうかという巨大な犬が――

 ――ぞぶっ、と、噛んだ。

「いっ――ぎゃあああああぁあぁぁっ!?」

 おおよそ8歳の女の子が上げるものとは思えない悲鳴が、短髪の少女の喉を焼き、そして食道から逆流する血を泡立たせた。
 三つの頭はそれぞれに、腹に腕に、それから脚に。即死はしない程度に肉を抉って、咀嚼しては血を舐め――そして七本の脚のうち三本を持ちいて、短髪の少女を抱き、髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。

「痛い! 痛い! 痛い! 助けて、痛い! 痛いよぉ! 痛いぃいいい!!」

 喉も口も正常だったから、喰われながらも、彼女は叫んだ。とは言っても、助けを求めて伸ばした手は、忽ちに肘まで喰われてしまったので、何を掴む事も出来なかったが。
 ばきん、ばきんと骨が鳴る。血が固まりで零れて、びしゃびしゃとアスファルトを叩く。巨大な犬は、三つの頭、六つの目をぎらぎらと光らせ――目尻を涙で濡らしながら、食事を続けた。

「止めて、痛い、痛いよお父さん、止めて! お父さん、おとうさん! おとうさん!!」

「ひ……ぃ、ぁ……」

 長髪の少女は――友人が喰われる様から、目を逸らす事が出来ずにいた。
 ただの恐怖であれば、友人と同じように泣き喚いて、逃げ回る事が出来たかも知れない。
 だが、ここに在った恐怖は――きっと友人も、同じ結論に達したから、ああ喚くのだ。

 〝あれ〟は人間、異形の人間、形なぞ無価値、正しく人間。
 人間が人間を喰らった、増えた頭で、強くなった牙で。さぞや美味だろう、ああも泣くのならば。
 いや、いや、嘆くわけならば――理知より感情が先に嗅ぎ付けた。
 友人はこう叫んだではないか。〝お父さん〟〝お父さん〟と。

「ぁ……あ、だっ、誰かーっ! いやあぁあぁあっ!! 誰かああああっ!」

 腕も脚も無くなって、ついでに首が胴体と切り離された友人――と、それを喰らう異形の〝患者〟、二つを置き去りにして、少女は駆けた。
 誰でも良い、誰かに助けてもらうのだと。世界は無条件の善意に満ちていて、自分はそれを甘受する権利を持つ者だと、明文化されぬ思考で確信して、駆けた。
 擦れ違うものは誰もなく、撃ち捨てられた車と、妙にせわしない野良猫と、遠くには犬がけたたましく吠えている。烏が群を為してあちらへと飛んでいくのは、きっと死臭がそこに在るからに違いない。
 煙が上がる家――油でも吹き零したか、ガラスの向こうで炎が躍っている。炎の橙が掻き消して、血の赤が目立たないのは、この時の少女には救いだった。

 少女は只管に、自宅を目指した。車は走っていないというのに、敢えて歩道を選び、横断歩道を渡って、家を目指した。
 殊更に平凡なやり方を選んだのは、恐らくは無意識であっただろうが、少女の日常への回帰願望であった。このタイミングで信号が変わり、車が流れてくる、そんな事まで一年で覚えた〝何時もの通学路〟――たった一台走り抜けて行った車は、赤信号の交差点に、時速100km以上で突っ込んで、危うく少女を轢き殺しかけた。
 犬の散歩をしている隣人――いない。
 曲がり角で話し込んでいる主婦――いない。
 授業をサボって集まる高校生達――少女は、彼らが嫌いだった。でも、いて欲しかった。いない。
 犬の遠吠えが減りはじめ、代わりに、〝何か得体の知れないもの〟の息遣いが、住宅街に満ちて行く。靴音一つがやけに響いた――少女の耳には届かなかったが。
 少女は、たった二つの単語に、心の全てを埋めた。「おとうさん」「おかあさん」と。悪い夢を見て泣いた時でも、母が必ず布団を剥いで中断させ、そして父が優しく抱きしめてくれた。少女は確かに、愛されて生きてきたのだから。

 どんなにか遠い道程だっただろう。友人と別れた少女は、永遠とも思える数分を経て、漸く我が家の玄関に辿り着いた。扉を引いて潜り込み、閉じて、玄関に鍵をかける。それから――

「っぅ、ぅえ……おとうさん、おかあさん……!」

 並ぶ靴の上に腰を落として、泣いた。嗚咽を咬み殺すことなどせず、ただわぁわぁと泣きじゃくった。
 涙は快楽の導入だ。ひとしきり泣いた後には、必ず庇護者がやって来て――無償の愛で抱き締めて、安堵を与えてくれる。この日も確かに、哀れみを誘う声に惹かれて、階段を降りてきたものはいた。

「……ひっ、ぇぐ……、ぇ……?」

 ぎっ、ぎっ。板張りの階段を降りる足音。少女は顔を上げ、涙を止めぬまま、絶望の色を深めた。そこに居たのは、先の犬よりは随分と人に近い、親しみやすい姿の化け物だった。
 腕も脚も原型を保っていて、爪の一つまで変わった箇所は無い。奇妙といえば、首から上。頭が有るべき筈の箇所には、巨大な花が一つ咲いていて、花弁の内側に鋭い牙をずらりと揃えていた。
 一本一本、全てが少女の指より長いだろう牙の群――花の中央の空洞からは、笑い声ともつかぬ異音が、果てを知らずに流れ続けていて――その中に混ざるアラームの音が、目覚まし時計さえ化け物の昼食になったと知らせた。
 目など失っただろうにかの化け物は、立ち上がれぬ少女の元へ歩み寄り――す、と手を差し出す。紳士的にさえ見える動作は、異形の頭部と並べれば滑稽でさえあっただろう。

「あ……」

 少女は泣き止んで、自らも手を差し伸べた。
 分厚い皮膚、少し形状の歪んだ小指の爪――指輪を填めた薬湯。少女にはどれも、見覚えのあるものだった。
 少女の〝愛しい王子様〟の手は、日常をそっくり残したまま、少女の手を掴もうとし――

 ――割り込んだ影の俊敏な事は、それこそ少女の目には、残像をさえ映さなかった。
 〝化け物〟の手を掴み、引き込み――己の肩を梃子に、投げ落とす。コンクリート張りの玄関に、植物状の頭部が突き刺さる。
 うつ伏せに倒れ、手足を痙攣させる人間の体。頭部は潰れ、緑の組織液を零す。その背に、〝彼女〟は跨った。

「ぅ、ああああああぁァァッ!! 〝お前なんか〟! 〝お前なんか〟ぁっ!!」

 無防備な背に幾度も包丁の刃を突き刺す女は、呪詛の如き叫びと共に化け物を抉る女は――少女の、母親だった。
 彼女が浴びる返り血は、初めは赤かったが、次第に緑色へと変色を始める。それは、彼女の黒の髪に触れてしまえば、悪趣味な髪飾りとなって垂れ下がった。
 お前なんか、と叫び続ける彼女の――目には、何が映っていたのかを、少女に知る術はなかった。だが、彼女の表情は悲しみで染まらず、何か別な意味を持つのだと気づいた時に――

「やめて、お母さん、やめて!  〝お父さん〟だよ、なにしてるの!?」

 少女は母の腕にしがみ付き、包丁の行き先を変えようとした。少女の小躯とは言え、拍子に足が浮きかけて――母はこうも力強い女だったのかとも、初めて知った。
 娘を万が一にも傷付けてはならないと、母親は包丁を起き――娘の肩を、がしと掴む。
 常に優しく美しく在った母親の、その時に見せた顔の凄絶さ、そして言葉の強さは――

「いい? お父さんは〝いなかった〟の。お母さんがいるからね」

 ――少女の生を呪うのに、十分の足りる毒だった。

「……おばあちゃんの所に行くわよ、おじいちゃんは去年亡くなったから……そうよ、あそこなら……」

 母親は、娘の手を引いて行こうとする。残された死骸には、なんら感慨など見せぬかの様に。

「行くわよ、今なら大丈夫。今なら……」

「待って、お父さんは!? おいてくの、やだ! やだよ!」

 父を求めて泣く我が子の、細やかな抵抗など意に介さず、母親は車はまで少女を引きずった。助手席に座らせ、シートベルトで固定し――それでも、外へ出ようとする少女の腕を、運転席側で強く捕まえて離さない。
 程なく、キッチンから火の手が上がった。母親が、コンロの近くに油の容器を置き去りにして、簡易的な時限装置の代わりにしていたのだ。高く高く登る火は、i家族の財産も記憶も、そして〝化け物の死骸〟まで、等しく舌で撫でて飲み込んで行く。

 少女は最後に一度だけ、母に抵抗して、社外へ降りようとした。

「お父さん、お父さん!」


「行くわよ、カムイ!」






 ……と、そういう事だ。つまらない話ですまないな。……つまらないだろう。こんな不幸は何処にでも転がってる。
 それでな、続きも良くある話だよ。母は心労が祟ったか、私が十四歳の頃に死んだ。食い扶持を求めて私は戦闘部隊に入り――導かれ、みずち様をお守りする任を仰せつかった。
 私の母は、あれで意外な武人でな。剣術が一番の得手だったらしいが、私に身についたのはこっちだよ、柔術ばかり。それでも、それだけで生き抜いてきたんだ。
 顔の広くない親だったと見えて、母の知人に出会った事は数度しか無いが……その時に、必ずこう言われる。カムイは母さんに良く似ている、とな。……鏡を見れば、それは確かに納得できる。おかしな話だ。
 母が死ぬまで、あの人が声を荒げたのは、たった一度しか聞かなかった、あの時だけだ。今でも時々夢に見る、あの頃の様に泣いて跳ね起きる。……なんだ、聞き流してくれ。酒の席の戯言だぞ?
 ……戯言ついでに聞いてくれ、あんたは、父親の顔を思い出せるか?

 私の家では、日本語とロシア語を同時に使っていた。だからあの〝父親〟は、ロシア人なんだろう。直接聞いた事は無かったから知らんが。
 で、あんたの目で見て、私の何処にロシアの血が混ざっている様に見える? 彫りは浅いし鼻は低いぞ、この体格だしな……一応牛乳は飲んでたんだ! 高騰した後もな! それでも背は155cmから伸びなかった!
 ……すまん、取り乱した。それにだ、鏡を見れば思うよ。私は〝娘〟であって〝双子〟じゃないんだ。よくもこうまで似たものだ、とな。

 私には、伯父がいた。母の兄なんだが……感染が広まる、一年前に死んだ。
 背は低いが力の強い人でな、私と母が一緒になって、腕にぶら下がってもびくともしなかった。交通事故で死んだ時は、私も大声で泣いたもんだよ。
 いや、泣いたのはむしろ母だな。昼も夜もなく泣いて、あのまま母まで死ぬんじゃないかと怖くて、私まで一緒になって泣いたさ。父も困っただろうな、っはは。
 ……母と伯父は、仲が良かった。父が仕事で都合がつかん時なんかな、伯父の車で遊園地に連れて行ってもらった覚えがあるぞ。私と、母と、伯父と三人で食事を取っていれば……あれは、親子に見えていただろうな。

 ……なあ。私のこの珍妙な名前は、〝父〟がつけたものだとは聞いたんだ。その〝父〟というのは……誰の事なんだと思う?
 もう、母に聞くこともできない。知ってどうなるものでも無いが……どうしても、忘れられないものがあるんだ。
 あの時、私を〝オス〟から救って、〝オス〟を殺した母が……自覚の有無は知らないが、なんとも嬉しそうに笑っていた事を、な。
 私は母によく似てるんだそうだ。なあ、私はどうだ? 〝オス〟を殺している時の私は、そんなに楽しげか?
 ……なんだ、つまらない。楽しんでいるなら、〝紅鬼〟の横に立つに相応しいと思ったのに……いや、気にするな。これも戯言だ、閨の睦言と変わらないよ。

 けれども、な、隊長。私にもし、そういう血が流れてるのなら。
 私は絶対に、あんただけは殺せないんだろうと思うよ。

 ああ、眠い。悪いが腕でも貸してくれ、枕が欲しい。何、嫌だ? 忠実な部下の頼みを無碍にするもんじゃないぞ。
 分かってる、分かってる、飲み過ぎた自覚はある。大丈夫だ、大丈夫、椿が二人に見えるけど大丈夫だ。
 おーい。片方はみずち様をお守りに行ってくれ私は半分だけもらうから。あ? 一人? なんで一人しかいないんだ、ふざけるな。私が二人と言えば二振り揃って有る筈なんだなあおい椿、聞こえてるのかおい、私を無視するな。
 壁と話すな? それは私の胸の事か? このやろう、あんただって大差無いじゃないか。いやむしろあれだけさせておいて何時迄も育たないだけあんたのが未来が無いぞ、壁に話すななんて横暴だ横暴、棒? そうだ、棒だ、壁を叩け叩け叩け、はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは――

 ――ぐう。

 迷惑な酔っ払いは畳に沈んで、ようやっと小さな酒宴はお開き。日が出るまでには、まだまだ時間が有るだろう、風の暖かい夜だった。