烏が鳴くから
帰りましょ

交換小説・『既存概念の破壊とは斯くも難しいものと介さぬ少女の嘆き』

 その日、ユナ・フォーカシィは、彼女の言葉を借りるならば〝こともあろうに〟読書に望んでいた。この様な表現をすると、まるで彼女が知的労働を楽しまぬ人種の類に受け取られるかも知れないが、然し実際はそうではなく、彼女が日常的に触れる書物と、この日彼女の目を煩わせている書物に、明らかな乖離が有るだけなのだ。
 端的に言えば彼女は――娯楽小説を、読まされていた。
 
「それでですね、その先生には悲しい過去が有ってですね!」

「煩わしいわフィル・カンターレ! 貴女は私に小説を黙読させたいのか、それとも私の読書行為を妨害したいのか明確にしなさい! 貴女の目的は、私にこの児童向け文学を読了させる事と認識しているのだけれど、双方の認識錯誤が存在しているとしか仮定できないわ」

 教会の椅子に隣り合わせで座りながら、そして同じ一つの机に向かい合いながら、場所と行為には似合わずに本を読み進める二人の少女。とは言っても、片方は既に自分の読書を諦めて、もう片方の知的好奇心を煽ろうと励んでいる様に見える。
 何故この様な状況が生じたかと問えば、簡単に纏めてこう答えられる。現時点で読書を半ば諦めた少女フィル・カンターレが、ユナと趣味を共有すべく、交換読書を提唱したのだ。実際に実現するまでは、自分の世界を守りたがるユナの強い抵抗は有ったのだが、然し惚れた弱みというものも有る。結果、二人はそれぞれ、苦手なジャンルに足を踏み入れたのだった。
 ところが、ユナが読み進めて物語も華を持ち始めた頃。フィルはユナの肩越しに頁を覗き込み、やれこの人は良い人だ、やれここは名シーンだと賑やかしては、読書愛好家にとって非常に煩雑な環境を生み出したのである、

「認識錯誤……? そうですけど、でも……ユナと一緒に感動を分かち合いたいなぁって」

「独語の感情共有や考察は、私が完読した後でも問題無い筈よ。それより、私は貴女に言われて、普段思考しない娯楽小説、ハリー・ポッターシリーズの一冊を読んでいるの。その交換条件であるシャーロック・ホームズの読了、並びに途中段階に於ける推理の展開とそこに至った思考の明文化は、貴女の義務である筈よ」

「だって、シャーロック・ホームズは難しい言葉がいっぱいなんですよ? 読んでいてちっとも意味が分かりません……」

 ユナの手にあるハリーポッター、フィルの手にあるシャーロック・ホームズ。共にイギリスを生まれとする、世界的に有名な文章作品である事は間違いない。が、生まれた時代と対象年齢層には、中々の隔たりが有った。
 現状、ユナは既に前半三分の一を読み終えて、これから主人公は輝かしい学校生活を謳歌する筈だったが、フィルの手の中にあるワトソン君は、未だに補助すべき探偵に対して、一度の驚嘆を覚えるにさえ至っていないのである。
 この状況を生んだ問題は、ひとえにフィル・カンターレの言語能力に有った。別段知恵が遅れているとかそういう事でも無いのだが、教育環境の為だろうか、古臭い言い回しに対応できない事が多いらしい。『家賃の折半』なる表現で硬直しているとなれば、これは確かに、ユナには理解の及ばない悩みであっただろう。
 ちなみに、ここは書架に囲まれた環境下にあり、そうしようと望むならば、辞書なりなんなり引っ張り出す事は出来ただろう。だがフィルは、既にそういった努力を放棄して、もっぱらユナに自分の趣味を語る事に専念していたのであった。

「何故ハリー・ポッターの読解が可能なのに、シャーロック・ホームズの理解に困難が生じるの? 私にはハリー・ポッターの方が理解不能だわ。どの様な化学反応が生ずるならば、干しイラクサや砕いた蛇の牙が傷病の治療薬に変化するの? 私の理解の範疇を大きく逸脱した内容だわ」

「それは、魔法だからですよ!」

「魔法の定義とは何なの! 既存の物理法則に囚われない、独自の新エネルギー体系だという事は理解出来たわ。けれども、何故特殊な人種のみが新エネルギーを代価無しに行使出来るのかの理由が、文中の何処にも解説されていないわ」

「えっと……魔法だから、じゃないでしょうか?」

「その〝魔法〟なる概念が理解しかねると先程から再三繰り返しているの。この理解不能な概念を前提に書き綴られる小説を読み進める事は、私にとってフラストレーションの原因に……――」

 こめかみに指を当てて苦悩を表現するユナを、フィルは困った様に見つめるばかりであった。
 ミステリーを解さぬ少女と、ファンタジーを解さぬ少女と。分かり合える二人と言えど、娯楽の趣味ばかりは、とんと合致せぬ様子である。
 人というものは、兎角悩ましい存在であった。嗚呼。