烏が鳴くから
帰りましょ

化けて出たお話

 引っ手繰り男との一悶着から二日が過ぎ、今日も江戸の町は平穏無事に喧しい。日は中天に達し、道を行く男どもは、額に汗して走っていた。
 江戸に住むものからすると当たり前の光景だが、やはり男ばかり良く見かける。女を一人見かけたら、男は七人か八人は居るのだ。
 これでも鎖国していた時代に比べれば、随分とまともな比率になっているのである。男が出稼ぎに向かう土地が増え、また、そもそも出稼ぎをせずとも一家を養う手段が増えているのだ。開国から五十年が過ぎた今も、この町は将軍様の下、変わらぬ日々を過ごしている。
 さて、ここは達磨屋の一階。『錆釘』の少女、村雨は、畳に胡坐を掻いて唸っていた。

「ううぅぅぅ……遅い!」

「しゃあねえよ嬢ちゃん、まさか起こしに行く訳にもいくめえ」

 客引きの男が、なだめるように声を掛ける。こうなった原因は、村雨の雇い主、雪月桜にあるのだ。

「そりゃそうだけどさ! そうだけどさぁ……あーもうやだあいつー!」

「眠ってはいねえんだろうがなぁ……寝てるって訳だ、お疲れさんなこって」

 天下の人々は勤勉に労働に従事しているというのに、桜はいつまでたっても降りてこない。村雨も確認したい事は多々有るのだが、起きろと催促しに行くのが憚られるのだ。ここは品川宿、岡場所である。村雨が喚いているのも、周囲が静まりかえれば、良すぎる耳が聞きたくない声を拾うからなのであった。

「もう帰ろうかなぁ……旅の手配とか、どうせもう殆ど済んでるんだしさぁ……」

 あの軟膏の効果は本物だった様で、既に痣などは引いて、体も自由に動くようになっている。午前中の内に、村雨は残しておいた用件を片付けてしまったのだ。それを報告するだけだったら、今日でなくとも良いだろう。既に気持ちは、『錆釘』の宿舎で読書をして過ごす、優雅な午後に向いていた。
 と、その時である。からり、ころりと下駄の音がする。客引きの男が反射的に表に飛び出して行って、おお、と知人に向けるような気安い声を出した。

「ごめん、桜さんはいるかな? ちょっと相談が有るのだけれど……」

「あのお客人は二階だよ……まあ、一先ずこっちへ。ちょっと茶ぁ出させるからよ」

「ん、ありがたいね」

 暖簾を潜って入ってきたのは、赤地に白梅柄の振袖を纏った麗人であった。下駄を脱ぎ、鼻緒を指に引っかけた姿が、いやに様になっている。

「横に失礼、座るよ」

「あ、どうぞ……桜の知り合い、かな?」

 隣にすうと腰を下ろした振袖美人を、村雨は、何か違和感を覚えつつも眺めた。化粧は派手にならない程度で、元の顔立ちの美しさを引き立てる。すっと伸びた背から柳の様な腰へ続く曲線は、女性的な丸みこそ薄いものの、強く抱けば折れてしまいそうな儚さの演出にも見える。が、やはり何かおかしいのだ。直ぐに何とは言えないが、村雨は引っ掛かるものを感じながら、来訪の用件を尋ねる。

「ああ、少々ね。彼女に頼みたい事が有るのだけど…………もしかして、まだ寝てる?」

「……眠ってないけど寝てますよー。誰かあれ、殴ってきてくれないかな」

 直ぐに部屋に案内されず、一階で茶を出された事でそう推測したのだろう、振袖美人は程良く首を傾げた。鏡の前で角度を測って決めたように、愛嬌のある仕草だった。仏頂面で物騒な事をいう村雨と並ぶと、尚更その華が目立つ。

「よおし、僕が引き受けた。手が砕けない程度にげんこつを落としてくるよ」

 冷たい茶をくっと飲み干し、振袖美人は立ちあがる。階段へ向かっていくのは、本当に実行に移すつもりなのだろうか。

「……ん、僕? ……えーと、私が五尺くらいだから……」

 と、同時に村雨は、違和感の正体にようやく辿り着く。下駄を脱いでも振袖美人の背は五尺三寸。桜の様な例外を除いては、高い部類であるだろう。それだけでなく、村雨と比べると一回りは肩幅が広い。首から肩への曲線の角度が、村雨に比べて随分小さい。
 声も、女性として聞くには低過ぎるかも知れない。桜も声は低い方だが、この振袖美人は、それをまだ下回る。その声は女性というよりむしろ、少年期に特有の高音に近い。

「ねえねえ、ちょっと。もしかして、あの人って……」

 振袖美人が階段を上っていたのを確認して、村雨は客引きの男に、最後まで口にはしないが問いを投げる。

「おう、あいつかい? 燦丸(さんまる)って言ってなぁ、日本橋の陰間だよ」

「……ああ、やっぱり……」

 陰間、身も蓋もない事を言ってしまえば男娼である。昔は男らしい格好の陰間が好まれたともいうが、当世は華々しい女姿が流行と見える。女である自分より、顔立ちも起ち居振舞いも女らしい男。世の中はまっこと不公平であると、村雨は嘆息するのであった。


 二階からの声に村雨が呼ばれたのは、それから程なくの事であった。部屋へ向かえば、桜の右手には遊女高松がしな垂れかかり、燦丸少年は左手に静かに正座していた。絵だけを見るなら両手に華。然し、一輪は擬態する華である。

「やれ、いきなり踏み込んでくるから何事かと……賊と間違えて切りかけたぞ」

「お楽しみを邪魔して申し訳ないね。でも、君のご友人が困っていたようだったから……」

 ひたすら腰の低かった源悟とは違い、燦丸は桜とあくまで対等に口を聞いている。言うならば一般の友人同士の様な、と見えるだろうか。少なくとも、桜の寝室に上がり込んで、殴られもせずに居られる程度には親しいようである。

「で、本当なのか?」

「ああ。この商売だ、お客の顔を間違えるなんて有り得ない。断言するよ」

「……何の話?」

 村雨が上がる前に、既に幾らか会話は進んでいた様だ。内容が理解できず、村雨は口を挟む。

「ええと、桜。彼女を呼んだという事は、話に参加させるのかい?」

「うむ、雇った以上は働かせる。鼻は良く効くぞ、あいつ」

「ふうん。君がそう言うのだから良いだろう、彼女も交えて話す」

 燦丸は、内密な話であると言外に匂わせ声を潜める。村雨は膝で畳を歩き、耳を近づけた。

「桜は、僕の仕事は知っているね。そっちの彼女――」

「村雨だ、『錆釘』で雇った」

「――そう、村雨か。話の前提として教えておくけど、僕は『大紅屋(おおべにや)』の陰間なんだ。自分で言うのもなんだけど、そこそこには贔屓にしていただいてると思ってる。この前の夜も、新しいお客さんが付いたんだけどね――」

 次に発するべき言葉を選びかねているのか、あの計ったような首傾げで、 燦丸は口を閉じる。人差し指で唇を塞いだままの逡巡、視線が何処かへ飛んでから、言葉と共に戻ってきた。

「――そのお客さんがどうみても、半年前に死んだ筈のお客さんと同一人物なんだよ。腹の傷から背の刺青まで、一つ残らず同じなんだ」



 言葉を選ぶ為の思考時間を幾度か挿みながら、燦丸が語ったのは以下の通りの内容であった。
 遡ること五日、陰間茶屋の営業時間としては早い段階で、燦丸に指名が入っていた。
 何時ものようにまず飲み食いをさせる為、料理を運んだ者達が、何処かで見た顔だと言い合っていた。久しく顔を出さなかった客なのかと思い、寂しかったから始まる決まり文句を用意して、燦丸は座敷に入る。
 そこにいた男は、料理番も見た事はある顔だったろう。一年前からたびたび大紅屋を訪れ、燦丸を指名して遊んでいた、垣右衛門(かきえもん)という客である。が、燦丸は青ざめた。半年前に男の足が途絶えた理由を覚えていたからだ。

 或る雨の夜、身内の祝い事の帰りだったらしい垣右衛門は、酔って足を滑らせたのか、川に転落する。助けを呼んだかも知れないが、雨音の為、聞く者は誰一人いなかった。流れが早すぎた為だろう、二日後、数里も離れた下流で、垣右衛門は水死体となり、橋脚に引っ掛かっていたという。顔は蟹に喰われて見分けも付かなかったが、衣服と身につけていた小物、知人の証言から身元は割れた。
 垣右衛門は、京で舶来品を買いつけ、江戸に降ろす仕入れ問屋を営んでいたらしい。中々の商売上手で、父親から継いだ小さな店を、住み込みの丁稚・手代合わせて二十人程の大店に育て上げた剛腕だった。
 然し、四十を過ぎたころから、少し異常を来し始める。店を番頭と親族に任せきりにして、自分は毎日毎日、陰間茶屋に入り浸りになったのだ。
 陰間茶屋の料金体系は遊女屋と違い、陰間の格による差が小さく、そして基本的に高額である。いかに大店の主と言えど、土産を欠かさず通い続ければ、遠からず蔵を空にしてしまうのは目に見えていた――そんな折の、不幸な事故であった。

 それだけの良客の顔を、金をむしり取る事を生業とする者が、見間違える筈がない。それでも万が一も有るかと思い、燦丸は夜の趣向を、灯りを消さずの交わいとしたのだった。男は、背に小さな昇り龍の刺青、腹には喧嘩での刺し傷が有る。若いころはやくざ者紛いの荒事もしたらしい。
 果たして、燦丸の記憶に過たず、刺青も傷も同一箇所に存在したのである。他人の空似ではもはや済まされない。化けて出たかと翌朝は、店中上を下をの大騒ぎだった。


「――そのお客さんは、五日連続で僕の所に遊びに来た。半年前と同じだね、朝は遅くまで居座って、日が落ち切る直前にやって来る。お金は有るんだ、無碍に断るのも店としては惜しいけど、幽霊に取りつかれてるとなったら人聞きが悪い。他の子達も怖がってるんだ、どうにかしたいんだけど……」

 額を抑え、真実困り果てている様に、燦丸は俯く。陰間茶屋の経営事情などは知らない村雨だが、他の商売に置き換えて想像してみた。毎朝早くから蕎麦屋に幽霊が居座り、ひっきりなしにお代わりを繰り返し、閉店ぎりぎりに代金を支払って帰る――どうも、しゃきっとしない。
 が、不気味であるというのは頷ける。死んだはずの男が隣で蕎麦を啜っていたら、味など分かったものではないだろう。

「……で、私にどうしろというのだ」

「殴れぬ切れぬ幽霊では、主様もいかんともしがたいかと……ほほ、難儀な事でありんすなあ」

 話を聞かされた桜は、珍しく辟易した表情を見せていた。理由はそのまま、高松が語った通りである。正面から突っ込んで、力で解決できる物事なら、桜ほどの適役もいないだろう。が、相手は幽霊。坊主の真似をして祈れ、とでもいうのだろうか。

「ううむ、ルカの11章2節でも読むか? 仏教徒には効き目も無さそうだが」

「なんでそんなもの知ってるのよ……ええと、燦丸? まさかこの力馬鹿に、力で解決しろって言いに来た訳じゃないでしょ?」

 村雨は、燦丸が言葉を続けたがっているのを感じとった。物事を語る際に、最初から初めて順に説明せねば気が済まない者がいるが、燦丸はその代表例に思えたのだ。

「ああ、桜だけに手伝ってくれ、とは言わない……けど、考えて欲しい。そのお客さん、僕を抱けるんだよ? ちゃんと触れられるって事だし、体も暖かかった。殴ろうと思えば殴れるだろう、そこを念頭に入れておいてくれるかな」

「ほう? 殴れる幽霊か、それは面白い」

 流石に思考が単純な桜である、殴れると聞いた途端、難渋の気配は消え去った。

「もう一つ。君は幸運な事に、友人は少ないが際物が揃っている。その中に……そう、どこかへ潜り込む事に掛けては、天才的な男がいるだろう? いや、彼は男なのか女なのか、僕はまだ分からないのだけどね」

「源悟か……つまりお前は、力ではなく人を借りに来たのだな?」

「ご明察」

 よし、と桜は手を打ち合わせ、立ちあがる。しな垂れかかっていた高松は、畳にうつ伏せになってしまい、恨めしげに桜を見上げた。

「村雨、詰め所まで走れ、お前の方が早い。私は燦丸と共に、先に大紅屋へ向かう……ふむ、夜までは退屈をしそうだ。書の一つも持っていくか」

「了解、場所は源悟が分かってる?」

「あれは、江戸の町の地図は全て頭に入れている。案内させればいい」

 問題の客が訪れるのは日没前、まだ数刻の猶予がある。さっそく動き始めた村雨の後ろでは、桜と燦丸が、何やら指を曲げたり伸ばしたりして、数字を作って見せ合っている。

「……ああ、有料なんだ」

 友人とは言っても薄情なものだ。自分の雇い主は男には冷たいと、改めて村雨は認識させられるのであった。








 大紅屋は、老朽化した歌舞伎の舞台を中心に、外側から壁と屋根を追加して作った建物である。その為、一階建てだが恐ろしく屋根が高く、中央の広間には別な建物が丸々一つ入っているという、非常に奇怪な構造をしている。
 ところで、こんな奇妙な作りにした理由というわけでもないが、陰間茶屋は歌舞伎と非常に縁が深いのだ。

 歌舞伎役者を志す少年には、女形を務める為の修行として女の心を知る為だろうか、色を売る慣習が有った。元々が見目好く、また舞台に立つ為、演技力も声も磨いている少年たちである。田舎上がりも多い江戸者の男が、一部の寡婦が、魅了されない理由は無い。その内でも、舞台に出る事なく座に属して身を売る者を陰子、陰間と呼んだ。役者を務めながら色を売るのは色子、舞台子である。
 歌舞伎役者が身を売るというのは、江戸時代初期、女歌舞伎の頃からまま見られた事である。風紀を乱すとの理由で禁じられれば、前髪を残した少年の若衆歌舞伎が。それさえ禁じられれば、月代を剃った野郎頭の役者演ずる、野郎歌舞伎が隆盛となる。歌舞伎役者の売春が分業化され、制度として機能し始めたのはこの頃だと言う。
 室町以前と比べ江戸時代は、経済活動が更に自由になり、日本の広い範囲を金銭が流通するようになった。だが貨幣経済が発展する一方で、幕府は旧態依然とした米本位の財政管理を続けた。外へ金が流れ出さない鎖国下にあり、上が貧しくなれば下は富むものだろう。富裕層が増えた事により生まれた、町人の生活の余裕が、風俗文化の発展を推し進めた事は想像に難くない。
 その流れの中で、男娼を専門に扱った売春宿という需要が生まれ、供給が成立していく。舞台に立たず身を売る陰間の名を取って、それが陰間茶屋と呼ばれたのだ。京・大阪の上方から生まれた流行は西進し、吉宗公の改革の頃、江戸で花開いた。かれこれ五十年ほど前、丁度開国の頃には、十数か所の茶屋宿屋町に、二百を超える陰間・色子が属していたと言われている。
 言い添えておくが、江戸の遊び人に於いては、男も女も同様に抱いてこそ粋という傾向が有ったのだと言う。両性愛者は珍しくなく、妻子持ちが陰間茶屋に通うのも良くある事だったとか。五代将軍綱吉公など、伽の相手の若衆を百五十人も抱えていたという話が有るのだから(真偽のほどは定かではないが)。
 元服前の髪型を真似た若衆の風体は、それが禁じられた野郎歌舞伎の時代に有っても、付け髪を用いて再現される程、客に強く望まれるものであった。しかしながら時代が流れるにつれ、陰間茶屋の客は少年達に女性性を求め、少年達はそれに応えるように色香を湛えていく。髪を伸ばして結い、振袖を纏いしなを作る。流行の規模を言うならば、少年愛の傾向は、今この時代こそが頂点だった。


 さて、燦丸少年も時代に逆らわず、女装姿の陰間である。彼は大紅屋に在籍する中で、一番稼ぎが良い陰間だった。そうなったのも一年前から半年間、ほぼ毎日通ってきた、当の男が理由である。懐は潤い、振袖は他の誰より艶やかになり、髪結いも化粧番も腕効きを雇う事ができた。おかげで良客が頓死してからも、入れ替わり立ち替わり、上客には事欠いていない。
 そんな彼の功績に店も答えようとしたのだろう。与えた部屋が、あの建物内に強引に取り込んだ舞台である。それが一つの部屋であると見るならば、客席に花道、舞台、舞台裏、広さは他の客室の比ではない。役者が立つ筈の舞台にどっかと座り、客席を見下ろしながらの酒食はまた格別であろうが――問題は、広すぎる事だ。大勢人が詰めかけるならば兎も角、燦丸と客とで一対一では、この空間は広く、その為に寒い。蝉の鳴くこの季節は良いが、冬になったら部屋を変えてもらおうと、燦丸は心に誓っていた。
 その空間が今、生臭な人間には非常に居心地悪く作りかえられている。客席の四隅に置かれた香炉から、線香の煙が天井へ昇る。歩いていると、偶にザリと音がして、足の下を見ると塩を踏みつけているのだ。大扉や舞台が濡れているのは、桜が自分で作ったとかいう聖水を、枡でばしゃばしゃと撒き散らしたからだった。

「……ねえ、桜。一応聞いておくけれど、これは何なんだい?」

「魔よけだ。そっちの香炉と線香は適当な寺で借りてきた。塩は近所の神社の住職に清めさせてある。十字架の付いた教会は少し遠かったから諦めたが、まあ不信心者だろうが祈りの効力は変わるまい」

「僕はだね、君のそういう無意味な行動力が好きではあるんだ。尊敬はしていないけれど」

 信じてもいない神への祈りは知っていて、身近で有る筈の念仏は全く知らない友人に、燦丸も呆れるばかりだった。成程、これなら幽霊は寄ってくるまい、まともな人間が寄り付きたがるとも思えないが。水に濡れた舞台の上で舞いなどすれば、すてんと引っ繰り返る事請け合いである。

「よおし、これで亡霊だった場合の対策は出来た。後はのんびりと待つばかりだな」

「上手くいきそうな気がしないなあ……」

 掃除の手間が増すばかりと燦丸は嘆息し、舞台から降り、客席で座布団を掻き集め始める。それとほぼ同時、この奇妙な空間の扉が開いた。








 僅かに時は遡って、大紅屋の正面。村雨は、岡っ引きの源悟を連れて、この巨大な宿を見上げていた。

「はりゃあ……凄いね、達磨屋よりまだ大きい」

「変わった作りをしてますからねぇ。建物の上に被せて建物作りゃあ、そりゃ馬鹿でかくもなりまさぁ。屋根が高い割に二階が無いんで、思ったより中身はすかすかだってえ話も聞きますが」

「入った事は?」

「残念ながら。そういう趣味はござんせんし、揉め事も起こさない所ですからねぇ。しっかし幽霊騒ぎたぁ、ちゃちゃちゃ、頭の痛え話だ」

 常日頃、縁の無い場所である。物見遊山なら風情も有ろうが、ここに咲くのは何れも毒華、愛でようならば中毒にもなろうというものだ。場違いを自覚する村雨と源悟は、何故かしゃんと伸びた背のまま、大紅屋の門を潜る。

「ごめんなすって、ごめんなすって。桜の姐さんと燦丸さんに呼ばれて参りやした、お取ち次ぎお頼み申します」

「おや、岡っ引きさんかい。これは有りがたいね、ささ、ずいと奥まで」

 源悟は身分証明の代わりに十手を懐から覗かせながら、何時もの様に惜しみなく頭を下げ、玄関先にいた男に取り次ぎを願った。人の良さそうな、だが影の薄いその男は、会釈をしながら二人を迎え入れた。

「傘原様のお預かり、源悟と申します。どうもわざわざ、お忙しいところを出迎えていただいて」

「いえいえ、こちらこそお手を煩わせて申し訳ない。大紅屋清重郎でございます」

「おっと、こりゃ失敬、まさかご主人自らのご案内たぁ……」

 片方が頭を下げる、それに返してもう片方が頭を下げる、またそれに頭を下げて返す。釘を打つように頭を上下させている源悟と大紅屋主人の姿に、これはきりが無いと村雨は確信した。

「ええと、大紅屋さん? 案内の次いでで良いんですけど、幽霊っていうのは……?」

「ああ、こりゃ申し訳ない! いや、うちの子達も怯えてしまいましてね。私としましては、店の決まりを守って遊んでくださる以上はお客様。あまり大騒ぎもしたくないんですが……」

 案内を催促しつつの質問に、主人はやっと歩き始め、同時に喋り出す。腹の据わった人物の様で、困りはしても動転している様子は見受けられない口調だ。

「幽霊だ幽霊だと騒がれれば、取り憑かれた店だと悪評も立つ。気持ち良く遊んで頂くなら、そういう噂が心の端でも引っ掛かっているのはいかんのですよ。どうにか、あのお客様が幽霊ではないと証明する手立てはないものでしょうか……」

「ご主人のお見立てはどうなんで? そのお客――仕入れ問屋の垣右衛門は、本人だと?」

「でしょうな。少々様子がおかしいところは有りましたが、顔も声も間違いなく。豪勢な遊び方もそっくりそのまま、半年前と変わりません」

「ほう、おかしい所……そいつぁ、どういう事でしょう」

 大紅屋主人は、燦丸がするのと同じように、首を傾げて口を閉ざした。黙り込む時間は燦丸より短く、三歩進んだ所でまた口を開く。

「震えていたのですよ、この暑いのに。汗は掻いているくせに、ぶるぶるがたがた、歯の音も定まらぬ程。燦丸の部屋へお通しすると、ぴたりと震えは収まるのですがね」

「……垣右衛門が死んだのは、如月の雪盛りでしたっけねぇ……うえぇ」

 怖いでしょう、と付けくわえながら振り返り、眉の端を下げる大紅屋主人。源悟は主人の言葉に釣られて、きゅうと体を縮こまらせた。冬の川の水の冷たさを想像してしまったのだろう。源悟の顔色は、目に見えて青くなる。

「ねえ、源悟……もしかして、幽霊とか苦手?」

「ひいぃ、あたしゃ縄で括れない奴ぁ駄目でさぁ……」

 心配する村雨にも、泣きだしそうな声でしか答えられない源悟。大紅屋主人は苦笑いを浮かべながら、歩く速度を少しだけ緩めた。

「早い時間に来て下さるので、他のお客様とはお顔を合わせられないから助かっていますが……人に口に戸は立てられぬ、いつまでも隠しおおせるとは思えません。どこからか話が流れだすのも時間の問題、その前に何らかの形で決着を付けられれば……と、いう訳ですよ」

「……どうしたらいいんだろうね、この場合」

 村雨は、随分難しい探し物を任されてしまった、と心中思わざるを得なかった。大紅屋主人の望む方向で解決を図るなら、垣右衛門が生きた人間である証拠を見つけるか――或いは、永遠に大紅屋と関わらせない手段を見つけるか、だろう。臭いが無いものを探すのは、村雨の専門外である。

「うーん――ん、あ。へぇ……」

「ほおう、こいつぁお見事。捨てられたボロ劇場と聞いちゃいましたが、中々どうして風情の有る」

 悩みながら廊下を進んでいくと、大きく開けた部屋に出た――いや、ここを部屋と読んでいいものか。小さな歌舞伎座一つを丸ごと飲み込んだ部屋は、天井の高さも広さも、ここまでに見たどの部屋とも比較にならなかった。天井の重さを支える為に、等間隔で並んだ朱塗りの柱が、和の中に大陸風の印象を与えている。

「驚いていただければ本望です、私も江戸者、見栄が有る。敷地の半分を使う割に、肝心の部屋として使える部分は少ないのですがね……見世物としては前例も有りますまい。何せ本物の歌舞伎舞台の仕掛けを、一つ残らずそっくりそのまま残して、お客様に解放しているのですから――相応のお代と引き換えに、ですがね」

 屋内に、屋根と壁を持つ建物が存在する、酔狂だけで作られた空間。これが無ければもう少し客も入るだろうと村雨は思うが、これが有る故に大紅屋は、押しも押されぬ大店なのだ。誰も真似出来ぬ粋を体験する為ならば、江戸者はいくらでも金を出す。初物食いの為に家財を質に入れるなど、当然の様に行われるのである。

「一目見たいというお客様はあれど、借り切ろうとするお客様は数える程……そういう方は殆ど決まって、ここで一番美しい陰間を指名します。つまり燦丸ですな。おかげでこの屋内劇場は、燦丸専用の部屋と言っても過言では有りますまい……さあ、どうぞ」

 三段程の段差を上り、無人の受付を通り過ぎると、客席部分へ続く大扉がある。大紅屋主人はそれを開け、一歩横へ逸れ、村雨と源悟を先に行かせた。








「おお、来たか。厄払いは殆ど済んでいるぞ」

「ああ、有り難え、有り難え、これなら亡霊なんぞ寄りつきゃすめえ!」

「うわ……何これ、すっごくお寺臭い」

 屋内劇場へ足を踏み入れた村雨は、四隅から漂ってくる線香の臭いに、思わず鼻を摘んだ。坊主を二十人も集めた様な臭いがしたからだ。それもその筈で、四つ配置された香炉は、全てに線香が十本以上ずつ突き立てられ、もくもくと煙を立てていたのだから。

「やあ、村雨に……そっちの彼が、源悟かな? ようこそ、この成仏してしまいそうな空間へ。僕もう泣いていい?」

 客席の座布団を幾つか並べ、燦丸は横になり、ころころと転がっていた。床に散らばっている塩を指先に付け、ふうと吹いて飛ばしている。一方で桜は、やけに満足げな顔で、水がぶちまけられた舞台の上に立っていた。

「はは、は……燦丸や、私はあまり口を出さないが……その、ね。掃除が必要になったら呼びなさい、人をやるから……後は任せるよ」

「ありがとう、旦那様。僕は悪くない、悪いのはこの傍迷惑な友人です」

 自慢の屋内劇場の、惨状とまではいかないが涙が出そうになる有り様。大紅屋主人は見事に朗らかさを崩さず、問題を燦丸に一任して立ち去った。村雨は、良心の呵責に襲われながら、『私も悪くない』と内心で言い訳をしていた。

「しっかし姐さん、こりゃまた随分と気合が入ってますねぇ」

「いや、な。最初は私も、香を少し焚いて清めの水を撒いて、で済ませようと思っていたのだ。だが、一度始めると興が乗って興が乗って……」

「幽霊追い払うんだか虫を追い払うんだか分からないんだけど……効き目は有るの?」

「知らん。駄目だったら坊主と神主に文句を言え。水の方は素人仕事だから気休めだ……それよりも揃ったぞ、燦丸。お前の案を聞かせろ」

 水に濡れた舞台は居心地が悪いらしく、桜もまた、客席の方へと降りてくる。座布団を何枚か積み上げてその上に胡坐を掻くと、幽霊対策などもう忘れてしまったかの様に話題を転換した。

「そのつもりだとも、お集まりいただいて恐悦至極。八百化けの源悟さん、特に貴方が来てくれたのは嬉しいよ。噂は桜から常々聞かされている」

 話を促され、燦丸も体を起こす。女性より女性らしい艶やかな笑みを浮かべ、源悟に握手を求めた。

「へへへ、そう言われると嬉しいですねぇ。して、あたしゃ何を務めりゃあ良いんで?」

 源悟の方は、言葉は浮かれている様にも聞こえるが、表情はしゃんと締まっていた。先程、店の主人の話で怯えていたのに比べると、随分男前になっている、と言える。

「貴方には、配膳担当に化けて、店の奥まで入り込んでて欲しいんだ。見たところ、大概の事には慣れていそうな顔だ。こういうお店の雰囲気も、そう馴染めないものじゃないだろう?」

「まあ足のある相手なら、姐さん以外は怖かねえですが」

「話に聞いた通りの人だね、貴方は。……幽霊かどうかは兎も角、いざとなったら何が有るか分からない。その時に、出来るだけ手際良く、店の者も他のお客さんも遠ざけたい。そういう気の利いた芸当は、そこの脳筋じゃあ無理だろう?」

「否定はできんな、残念ながら」

 混乱した集団とは厄介なものだ。火事の現場などでは、地上が近く見える錯覚の為に、三階から路上に飛び出す者さえ出てくる。恐怖に思考力が麻痺した人間は、誰かが誘導してやらねば危険なのだ。その点では、十手持ちという身分は適役だろう。治安維持の側の人間がいる、それだけでも混乱は幾分か沈静化するに違いない。

「……出来るのなら、何か起こっても上手く誤魔化して欲しいな。厨房が燃えたとか何とか言いくるめて」

「幽霊が暴れた、なんざ言えねえですしねぇ。あいよっ、確かに承りました」

 どんと胸を叩き、源悟はきっぷ良く言い切った。幽霊を怖がっていようが、具体的にやるべき事が有るのなら、この男は優秀な部類である――少々の詰めの甘さを除けば。

「桜は、当たり前だけど荒事要員。どうしようも無くなった時に出てきて、しっかりと仕留めてくれれば良い。いや、生きてる人間だったら、改めて幽霊にする必要は無いんだよ?」

「なんだ、駄目なのか? ……冗談だ、冗談。動けない程度にすれば良いのだろう?」

「最悪の場合、ね。無事に成仏して頂くか、生きているとはっきり証明できれば良いんだけど、後者は証拠の見つけようがないからさ。半年前の死体を、今から検分しなおすのは無理だろう?」

「火葬してしまっただろうからなぁ、壺に収まっているのでは検分も何も有るまいて」

 桜は、やはりと言おうか荒事の担当である。この役目は、そもそも機能しない事が望ましいのだが、行動の読めぬ相手には用心を重ねても損はするまい。行動指針が単純になり、桜は俄然いきいきとしてくる。
 さて、燦丸は除いて、残るは村雨である。三者の視線が集まって、暫し沈黙が漂った。源悟と桜は静聴の意、燦丸は何かを言おうとして、喉に引っかけて止めている様な顔である。

「……ええと、それじゃあ私はどうしたら?」

 堪りかねた村雨が、自分から話を進めようとすると、

「君には……うん、入口の近くにいて、垣右衛門様の臭いを覚えていて欲しい。桜が言うには、かなり鼻が利くんだろう?」

「臭いを?」

 思っていたよりも随分と簡単な内容の支持を出された。多少身構えていただけに肩透かしを食らった様で、村雨は少々力が抜ける。

「そう、臭いを。それでね、店の中を歩き回って、その臭いが残っている場所を可能な限り探して欲しい。垣右衛門様がお店の中を動き回った形跡が有るかどうか、確認したいんだ。……いや、無いとは思うんだよ? 何時も僕の所にいるんだから、そんなもの無い筈だけど、念のためさ。垣右衛門様が本物だとしたら、何故半年も顔を出さないで、今更また通うようになったのか……理由が分からないだろう?」

「何か理由が有ると仮定して、その手掛かりが見つかるかも知れない、って事でいいのかな」

 出来るかどうか、まず間違いなく可能な内容だ。連れの者がどれだけ居るかにもよるだろうが、意識して三間程にも近づけば、人間一人の臭いを覚える程度は訳無い。建物一つ程度の広さなら、何も考えず歩きまわるだけで、捜索には十分だろう。支持の内容を口の中で復唱し、実行の手順を組み立てている――と、ふいに村雨は嫌な予感がして、自分に向いている視線の一つを辿った。

「燦丸よ、悪くない案では有ると思うが……よもや村雨を、この格好のまま、玄関先に置いておくのか?」

 桜が、笑いを堪えている人間に特有の頬の上がり方をしている。良からぬ事を考えているのは確実である。

「……ええと、別にいいんじゃないのかな? ほら、少し物陰にでも入るとかして、目立たないようにすればさ」

 冷や汗が背を伝いながらも、村雨は無駄だと分かっている抵抗を試みた。然し、桜の頬は吊り上がったまま、普段の氷の無表情に戻ろうとしない。

「そうはいかんだろう、ここも商売だぞ? 万が一にも目に付く所に、場違いな格好の者がいては、客の覚えも悪かろうて。私達は商売の邪魔に来たのではない、円滑な商売ができるように助けに来たのだ。これは、どうにかせねばなあ……」

「ええと、結論はどういう事でしょうか、桜さん」

 敬語になってまで自らの待遇を確保しようとした村雨を余所に、桜は燦丸の方に顔を向ける。燦丸の肩に手を置き、心晴れ渡る様な笑顔を浮かべた。

「燦丸、村雨に着物とかつらを用意しろ。こいつなら、陰間に紛れこんでも分かるまい」

「僕の振袖で構わないね? 少し丈が長くなるだろうけれど、それもご愛嬌という事で」

 桜の意図は明白である。自然さ云々ではなく、自分が見て楽しみたいだけだ。こういう単純な欲の話になれば、決して譲らないのが桜という人間である。

「ああ、やっぱりねー! そういう事だよねー!」

 半ば予想出来てしまっていた村雨は、半ば自棄になりながらも覚悟を決める。実害は無いのだ、実害は無いのだ。自分に何度も言い聞かせるのであった。








 日が傾き始め、日本橋の通りも、交通量が増してきた。風俗街ともなれば、やはり賑わうのは夜なのである。
 派手と伊達で名を売った大店、大紅屋は、今日も格子窓の向こうに陰間を並べ、道行く者に声を掛けさせていた。
 だが、もしもここで常連が、ふと立ち止まって眺めたならば、馴染みのない顔をそこに見つけただろう。

「似合ってるよ、とても。それどころかほら、鏡をごらん、これなら此処に座ってても恥ずかしくない」

「それ、全然褒め言葉になってない……うー、幾らなんだってあんまりだー……」

 村雨は、涼しげな青に鵲を描いた振袖を着て、結い髪のかつらを被って座らされていた。
 着飾るのが嫌なのではない、寧ろ少しばかり楽しんでいる。普段は決して縁が無い上質な着物に袖を通すのは、少女には心躍る事だった。
 嘆くべくは二つあり、一つには、自分が着せ替え人形の様に扱われた事である。犯人は当然ながら雪月桜。あれは雰囲気が合わない、これは髪と色が釣り合わない、とっかえひっかえ試着した数は十以上。あからさまに桜は、これと決めるのを遅らせていた。
 それでもまだ、完成した姿が場に馴染んでいた為、一度は村雨も機嫌を直した。が、真に悲しむべきは、事情を説明してもらった上で、通りに面した控室に入ったその時に起きた。
 自分がその中に紛れ込んでも、あんまりに違和感が無さ過ぎたのだ。主に胸回りが、である。周囲に比べて骨格の華奢な村雨は、成長期に差しかかる前の少年の様な、中性的な風情を醸し出していた。が、胸まで中性的と言うのは、これは女として辛い、辛すぎる。別に晒で潰していたりする訳でもないのに。

「これは私の心を折る為の桜の罠に違いない……いいや、きっとそうだ、そうなんだ。心の隙間に付け込むつもりなんだ……」

 目が虚ろである。現実を直視したくない場合、人はこのような目になるのかも知れない。自らの圧倒的な敗北を刻まれて、心を痛めつけられた、悲しい目だった。

「あはははは……いや、その、君はまだ十四歳なんだからさ、これから先に幾らでも可能性は有る訳で――」

 男の場合は兎も角、女で十四となれば、既に大方、将来の体つきなど決まった様なものである。男と女の成長期はずれているのだ。こればかりは、女の姿を真似る燦丸も、気を回せない所である。取り繕う言葉も見つけられず、燦丸は乾いた笑いを上げるばかりであった。

「――ん、いらっしゃったみたい」

 笑いが止み、燦丸は格子窓から通りを覗き込む。果たして、問題の人物がやってきたらしい。打ちひしがれる村雨も、頭を仕事の用途に切り替える。

「……お供は居た?」

「いいや。いつも通りにお一人だ、お連れは居ない。震えてるのも、何時もの通りだね」

 燦丸の横に並び、村雨もその男――垣右衛門を見た。陰間遊びに狂ったのは四十過ぎと聞いていたが、既に総髪白く、皺も深い。五十と言われても素直に頷けるざまである。
 膝が思うように伸ばせないのか、僅かな距離を進むにも難儀しているようだ。杖を持つ手はひっきりなしに震え、支えとしては酷く不安定なものでしかなくなっている。落ちくぼんだ目、黒々とした隈。男の形相は、幽鬼と見紛うばかりであった。

「あれで、その……大丈夫なの? 下手なことしたら、本当にぽっくり逝っちゃいそうで怖いんだけど……いや、生きてるとしたら、だけどさ」

「酒毒に浸かった人と同じ、いざとなると震えが収まる。不思議なものだよね……さ、お仕事お仕事っと」

 あの死人面に愛を囁き、色を売って金を取る。陰間もまた、騙す事を生業とする役者なのだと、村雨は改めて思い知らされる。玄関先から燦丸の、待ち人来たりと歓喜に咽ぶ熱演が聞こえた。垣右衛門に肩を貸し、燦丸が店の奥へと完全に消えてから、村雨は振袖の裾を捲って行動を開始した。








「おや、村雨のお嬢さん、よくお似合いで。部屋追いだされたんで見られませんでしたが、こういう格好も悪うござんせんねぇ」

 店の奥、厨房まで入ると、でんと太った中年の女が、村雨に声を掛けてきた。口調から察するに源悟であろう。料理、配膳と一通りこなした後は、時間潰しに厨房を手伝っているらしかった。

「ほんっとうに多芸だね……それよりさ、どうだった?」

「ああ、ありゃ間違えねえ。仕入れ問屋の垣右衛門だ……ちくしょう、思い出したらまたぞろ寒気がぁ……」

 死んだ筈の人間が、確かに目の前に居たという事実に、源悟はがたがた震えている。生きている相手には強気に出られるのに、幽霊かも知れないとなれば、くたびれた白髪男にすら怯える。その不安定さがどうにもおかしくて、村雨はつい噴き出してしまった。

「笑いごとじゃあねえんですよぉ、垣右衛門は半年前に死んだんだ。親戚連中掻き集め、馴染みの女まで呼んで、合わせて五人がとこに確認させたんだぁ……ああ、なんまんだぶなんまんだぶ。仏様仏様、どうかあたしをお守りくだせぇ……」

「あのねぇ……怖がってても仕方ないでしょ、しっかりしないと後で桜に殴られるよ」

「ひえぇ、そいつぁもっと怖え! 働きます、働きますから!」

 宥めすかすまでもなく、この男を動かすには、たった一言で済むから楽なものだ。肥満体の女性の姿そのままで、源悟は村雨の一歩後ろを付いて歩き始める。横へ並べ、とまで非情な事は言わない。この程度の怯えは妥協していいだろう。

「して、こっからあたしはどうすりゃいいんで?」

「燦丸に言われた通り、店の中を一通り回るかな。その間に、事情を知らないお客さんとかに会っちゃったらさ、ほら、上手く誤魔化してちょうだい。私が下手にしゃべったら、何かボロが出そうな気がして……」

「ふむふむ、確かにその鈴の様なお声じゃあ、少年にしても高すぎますからねぇ。おうさ、引き受けました。この源悟の舌三尺、どうぞご期待下さいますよう」

「長い長い長い、垢舐めじゃないんだから」

 陰間茶屋は、他の遊女屋に比べ、陰間による料金の格差が小さい。遊女屋の場合、二百文そこそこで遊べる者もあれば、累計五十両以上も出して、やっと一回の床入りが許される高級遊女も居る。一両はおおよそ四千文だから、実に千倍もの開きが有るのだ。それに比べれば、陰間遊びは料金が安定している。一昼夜借り切りで二両から三両、安くはないが、これが極端に跳ね上がる事がない。
 なぜかと言えば、陰間茶屋では基本的に、まずは客人に酒食を振舞うからなのである。遊ぶ為の料金には、食事・酒・酌代、更には三味線や舞いの見料が含まれているのだ。この為、下級の陰間であろうが上等の陰間であろうが、客さえ付けば平等に、相応の儲けは出るのである――見方を変えれば、陰間の方が最下層の質が高かったのだろう。ただ抱かせればよいというものではなく、飲み食いの時間を楽しませなければならないのだから。
 ところで、大紅屋は、食事の内容にこだわりが有る。味にではない、少量で満腹になるかどうかに、だ。請求金額の内訳は、客には知らされない。ならば食事は見た目だけ整え、少しでも利益を大きくしようというのである。白米は常に大盛りで、安酒を水の様に飲ませるのもその為だ。
 このやり方には副産物が有る。ことに及ぶまでの時間が短縮される為、客の回転速度も上げられるのだ。先にお代を受け取ってしまえば、早く終わろうが客の不甲斐無さが故か、或いは腕利きの陰間の証。働き者の陰間なら、儲けも増えて万々歳である。
 こうして長々と大紅屋の仕組みを述べたのは、つまり食事に費やされる時間は短いのだという事を示す為である。飲食が終わればその後にする事は決まっている訳で、完全に日が沈むころには既に何人かの客が、馴染みの陰間と床に就いているのだ。

「………………」

「……あー、あの、お嬢さん……いやですね、世の中は色々と珍しいものも有るもんでして」

 店の中を探って歩きまわる村雨と源悟は、非常に気まずい雰囲気に包まれていた。襖が閉じた部屋へ近づく度、村雨が耳を塞ぐからだ。この店で襖を閉ざすのは、立ち入ってくれるなという意思表示である。

「……ここも、何も無し。次行くよ」

「へ、へえ……後は向こうの廊下くらいでしょうか……」

 言葉少ない村雨だが、その顔はもう、ほおずきも形無しの朱に染まっている。人間の手は薄すぎて、聞こえてくる音を断ち切るには物足りない。意識するまいとすればする程、床の軋みやら荒い息遣いやら、方々から聞こえてしまうのだ。
 本当なら、全力で走って早々に調べを終え、控え室か厨房にでも逃げ込んでしまいたい。が、騒ぎを起こさない為の幽霊騒動調査で、そんな事をしては本末転倒だ。足音一つ立てないように、そろり、そろり、村雨は進むしかなかった。着物を着ると重心の位置が低くなり、洋装と同じようには歩けないのだ。
 そこを通り過ぎた人間の臭いを探る為、廊下にしゃがんで鼻を動かせば、化粧の臭いがいくつも流れてくる。そして当たり前の様に、交合の末の臭いも、だ。村雨でなくとも、少々鼻の利く人間なら、人ごみの中で嗅ぎとれる程度には強い臭いなのだから。

「……源悟ぉ」

「そんな顔をされても、あたしゃなんとも……」

 村雨は、もう泣きそうな顔である。いや、既に大きな目一杯に涙を湛え、しゃがめば振袖にそれが落ちる程だ。女中姿に化けた源悟は、心中を察する所はあれど、どうする事も出来ずに目を逸らすのだった。
 大陸より渡ってきた村雨は、同性同士など異常な事と思っている。この国の価値観には馴染んできたが、まだ同性愛が一般的である事を受け入れられない。店の何処へ行っても、その異常から逃げられないのだから、当惑の大きさは如何程だろう。村雨の涙は羞恥と混乱の混ざったもので、この場所を歩かされている境遇への悲しみではない。
 が、怒りなら幾分か混ざっていただろう。そもこんな事になっているのも、自分の雇い主のせいである。今朝も遊女を相手にあの調子、昼まで起きてこない。良く分からない話を軽々しく引き受けて、そのとばっちりは村雨に回される。いや、同性愛への忌避という問題からすれば、あの川辺での一件は――

「ううぅ……うー、うー……!」

 あれやこれやと思い返すと、あらん限りの言葉を以て、桜に文句を叩きつけてやりたくなった。叫びだしたくなる所を、毛を逆立てた猫の様に唸って耐える。何時もの癖で髪をかきむしろうとして、かつらを被っていた事を思い出す。

「おや、こんなところに可愛らしい子が……どうしたんだね?」

「――――!?」

 壁に向かって蹲り唸る村雨に、背後から声が掛かる。源悟も、どうやって村雨を宥めようか考えていた為、うっかりそれに気付かなかったのだ。
 そこに居たのは、いかにも遊び慣れていそうな、品と恰幅の良い男であった。身に付けた衣服は、上方で流行りの洋装である。明るく派手な色使いだが、それに飲まれて道化にならない程度に、男は優れた遊び人らしかった。
 鼻をぐすぐすとさせながら、村雨は立ちあがるより先に振り替える。男は目が良くないのか、村雨の顔を近くで眺めようと腰を折った。

「……ほう、挨拶程度の冗談だったのだが、本当に可愛らしいね。初めて見る顔だ……新入りかい?」

「あ、あー……あぅ、うぅ……」

 感情がぐしゃぐしゃに混乱している状況だった為か、村雨は目に見える程に取り乱す。新入りという事にしては居たが、その為の口裏合わせなど全く行っていなかったのだ。涙を拭く事も忘れて口をぱくぱくさせる村雨は、どうやら一部の趣向の人間には、気に入られやすい顔をしていたらしい――雪月桜を筆頭とする、一部の加虐趣味的人間に。

「こっ、この子は、はい、新入りでございます! こちらで引き受けていただけるやもと、大紅屋清重郎様に顔見せの帰りでございまして!」

 第一声が裏返りながらも、落ち着くのはやはり源悟の方が早かった。すかさず横から割り込んで、会話の対象を自分に移そうとする。

「そうかいそうかい、何時から店に出るんだね? 今日は別な子と遊んでいるが、その時には私が――」

「はい、それが、その――少々、この子は問題が有りましてですね、預かって頂けるか分からねえんです」

「問題? 見た所では、そう困る事があるようにも見えないが……」

 一部だけ素を出しながらも、源悟は外見相応、よく喋る中年女中と言った口調を保つ。言い訳に悩んでの表情が、この裕福な客には、本当に複雑な事情を抱えているように思えたらしい。村雨から一度離れて、源悟の方に一歩だけ寄り、続きを静聴する姿勢を取る。

「この子は……この子は、先程お聞きの通り、口が利けないのです。かれこれ数年前、流行り病で両親を亡くしてから……昔は、良く笑う明るい子で、聡明な少年でございました」

「なんと……」

 なんと、とは村雨が言いたい事だった。どうやら源悟、この短時間で村雨を、悲劇の主人公に仕立て上げようという腹らしい。が、与えられた台本が、言葉を発せずべそべそ泣いていれば良いものだったから、異論は差し挟まない、差し挟める状況でもない。出来る事は、精いっぱい瞼を開いて目玉を乾かし、涙を絶やさないようにする事である。

「父も母も言葉を無くして、頼る者は無く……私も手を尽くしましたが、引き取ってくれる者も無し。喉だけでも癒してやりたいのですが、その為の薬は、お大尽様とて容易く手が出るものではなかったのです。十四になってもこの白さ、細さ、力仕事など出来ません、まして幼い頃に戻った心……もう、働ける場所はここしか……」

「……っ、そうか、それは……辛かったね……」

 裕福そうな男は、本当に善人であるらしい。源悟が語る村雨の境遇(の作り話)を聞いて、心から同情の涙を流している。いたたまれなくなった村雨は、あぁ、とかうぅ、とか適当な声を出しながら、振袖の袂で顔を覆った。男があまりに人が良いので、眩しくて直視できなかったのだ。

「世間の風は辛うございます、恐ろしい目にも遭いました。例えどれほどお情けを掛けられようと、知らぬ顔を見れば慌てふためき、これこの通り。お願いでございます、旦那様、どうか今宵ばかりはお目こぼしを……」

「……すまなかったね、知らない事だとは言え……ああ、私はもう行くよ」

 相手の事情を知らず、ずけずけと踏み込んでしまった(と思わされた)男は、深く頭を下げてから懐に手を入れ、一分判(四分の一両)を二枚取り出した。

「だっ、旦那様!? それはいけません、私らの様なものに、その様な過大な……」

「いや、良いのだ。私は十分に富を持っている。必要な所にこそ金は行くべきなのだよ」

 恐れ入る源悟の手に無理やり一分判二枚を押しつけると、男は盛大に鼻を啜りながら、座敷へ戻っていってしまった。

「あんら、まぁ……」

「えぇー……お金持ちって、本当に居る所には居るんだね……」

 足音と臭いが遠ざかり、泣き真似を止めた村雨。一分金を手に大弱りの源悟と顔を見合わせた。

「源悟、あれはやりすぎだってばー……」

「だってお嬢さん、ここは陰間茶屋でござんすよ? こういう話は下駄を履かせて、何倍も盛ってると受け取られると思い……そ、それに元は、お嬢さんが喋ったらばれると思ったからで……!」

「う……それは、否定出来ないけど……でも、ばれなかったじゃない! ほら、結構近くで見られたけど、結局最後まで男だと――う、うわーん! みんな大っきらいだぁー!」

 小声で責任の押し付け合いをしていた二人だが、最終的には村雨が、自分の言葉に傷ついて折れてしまった。そうまで自分は女らしくないのかと、僅かな矜持が根こそぎ持っていかれたのである。涙の理由に言い様の無い悲しみまで加わって、本当に泣き出してしまった村雨。

「うぅ、ひっく、ぐす……――、ん、え?」

 それが、弾かれた様に顔を上げる。きょろきょろと顔を動かし、何かを見つけたかの様に、ある方向だけに目を向け――

「――源悟、桜を呼んで。先に行ってるから」

「へえ、分かりやした。急ぎます」

 振袖が動きにくい。音を立てない事は諦めた。どうせ此処から屋内劇場まで、あまり距離は開いていない。
 そう、異変は屋内劇場の方向から。鼻程ではないが鋭敏な村雨の耳は、人が争う様な音を聞いたのだ。








「やめてください、垣右衛門様! 放して!」

「燦丸、燦丸! 迎えに来たのだぞ、半年も待ったのだぞ、何故躊躇うのだ!」

 廊下の奥の戸の先は、劇場を囲う開けた空間。村雨が飛び込んだ時、燦丸は、垣右衛門に腕を掴まれ引きずられていた。

「……っ、何をしてるっ!」

「寄るでないわぁっ!!」

 もう、こうなってしまえば隠すも何も無い。狭い部屋ではないのだ、外へ漏れる声が少量である事を祈るしかない。垣右衛門に飛びかかろうとした村雨は、彼が左手に短刀を構え、燦丸に付きつけているのに気付き、動く事ができなかった。

「冷たかったぞ、川の水は。寒かったぞ、土の下は! ようやく、ようやく這い出してきたのだ! 邪魔などさせるか! 私と燦丸の間に、何人たりと踏み入らせるか!」

 口角泡を飛ばす垣右衛門の形相は、知性ある人間の物とは思えなかった。妄執に取りつかれた果ての凶行か。

「そうだ、迎えに来たのだからな、もう一人ではないのだからな。行こうぞ、共に行こうではないか、燦丸、燦丸!」

 玄関先で見たような手の震えも無い。短刀の刃は良く手入れされている、喉を裂くなど容易い事だろう。誰かを殺すのに、あの短刀は十分過ぎる凶器だろう。
 村雨は、かちんと来た。垣右衛門が亡霊かどうかなど、この際どうでも良くなっていた。

「……何がしたいのよ、あんたは。好きだ好きだ言ってる相手に、そんなものを向けて……」

「連れていくのだ、連れていくのだ! 暗い路を、あの暗い路を、私は一人で帰りたくない! 燦丸があの日に共にあれば、冬の川の寒さなど知らずに済んだのだ! お前に分かるか、顔の肉が一寸刻みに削がれる苦痛を! 我が身が腐敗し膨れ上がり、崩れ落ちていくおぞましさを! 今生の栄華の全て、あの苦痛を逃れる為ならば捨てさっても良いのだ! ……ああ、だから燦丸が居なくてはならない。燦丸さえ居れば寒くない、暗くないのだ! 分かるか、お前の様な小娘風情に分かるかぁっ!?」

 燦丸の腕を引き、立たせ、喉に短刀を付きつける垣右衛門。寄らば刺す、刺して殺す、そう言っているようだった。尚更、余計に腹が立つ。

「知るかそんなもん! 好きな相手殺そうとする馬鹿の事なんか、何十年考えても分かる訳ないでしょうが!」

 好きだ好きだと言うくせに、垣右衛門の情愛は全て、我欲と共に有る様に思えた。自分の苦痛を和らげる為、寂しさを埋める為、誰かを求めているだけに思えた。そんな事の為に誰かを殺そうというのが許せなかった――自分が、それが気まぐれな物だとは言え、欲も慈愛も向けられているが故に。

「わ、分からぬと!? 私の愛を理解せぬのか!? 私と燦丸の絆を、その様な低俗な言葉で愚弄するか!?」

「だったら! どうしてあんたは、燦丸が泣いてるのが見えない!?」

「――――!?」

 その言葉は、鞭のように、垣右衛門の背を打った。喚き散らす垣右衛門が、来店した時の様に震え始める。短刀の切っ先が燦丸の肌に触れそうで、気が気ではない。

「……燦丸、お前は。お前は、私を――」

 愛しているか、と、口の動きだけが問うた。声が出なかったのは、見てしまったからなのか。

「垣右衛門様、やめて、助けて……」

 涙が薄化粧を溶かし、美しい顔を滑稽に飾っている。怯え竦み、泣き崩れた燦丸の顔は、とても美しいとは言い難かった。艶然とした微笑みで人を惑わす毒華はそこになく、ただ踏みにじられた雑草の様な少年がいるばかりだった

「……ああ、あああ……そんな、嘘だ、そんな……」

「分かったでしょう、それを捨てて。もう、そんな事をしてても、誰も――」

「嘘だ、嘘だっ! そんな事は無いのだ! 有り得ないのだ! 嘘だぁっ!!」

 垣右衛門の狂は、その火を一層強めた。血も吐かんばかりに叫び、天井を仰ぐ。だん、だんと床を踏み鳴らし、首を振り回し――不意に、燦丸を連れて走った。

「しまっ――――!」

 垣右衛門の立っていた位置は、屋内劇場の扉の手前。一方で村雨は、空間に踏み入って直ぐ、動けずに立ち止まっていた。間合いは数間、詰めるにはどうしても三歩掛かる。二歩手前で扉が閉まり、一歩手前で内側から閂が掛けられ、村雨は肩から扉にぶち当たり、弾きかえされた。

「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ有り得ぬ有り得ぬ有り得ぬ! 燦丸、何故だ! 永遠にと誓ったではないか!? ああ、ああああああっああああ!!!」

「垣右衛門様、お気を確かに――うわ、あああっ!?」

「っく……開けろ、開けろってば!」

 頑強な扉だ、村雨がの力では、蹴りつけてもびくともしない。体当たりを仕掛けようが、少し閂が軋んだ程度で、弾力で村雨は弾かれる。劇場内で繰り広げらる狂乱も、伝わるのは声ばかりだ。がん、がんと聞こえてくるのは、何を床に叩き付けているのだろうか。

「あああああ、嫌だ嘘だ嫌だ嘘だ嫌だ、ああああっ、燦丸!! ああああああああああああぁっ!!!」

 寒気がする。人はこうまで狂えるのか。愛とやらに溺れて、獣に堕ちる事ができるのか。早く黙らせてしまいたくて、村雨は扉に体を打ちつけ続ける。

「垣右衛門様、垣右衛門様ぁ―――!」

――その内、妙な事に気付いた。もう、垣右衛門の声は聞こえないのだ。聞こえてくるのは、燦丸の声だけなのだ。

「え、あれ……?」

「どけ、村雨!」

 何が起こったか分からず、立ち尽くす村雨。体が横に引っ張られたと思ったら、目の前の扉が、破裂したように道を開けた。桜の拳が外側から衝撃を貫通させ、閂を砕いていたのだ。
 直ぐに、我を取り戻す。源悟が屋内劇場へ飛び込むのを見た。村雨も後を追う。

「……おい、どういう事だ、これは」

「か、垣右衛門様が、目の前で、僕の目の前で……」

 劇場の中では、桜が、源悟が、床に座り込んだ村雨の前に立っていた。動こうとしない。何が起こっているか、二人とも把握出来ていないのだ。
 劇場の中には、四人しかいなかった。入った順に、燦丸、桜、源悟、村雨である。

「垣右衛門様が、消えた……」

 吠え狂っていたあの男は、劇場の何処にも居なかった。元からそこに居なかったかの様に。或いは、この世から消え失せたかの様に。
 あの叫びがもう一度聞こえた様な気がして――村雨は、誰もいない背後を振り返った。








 四人がかりで屋内劇場中全てを探したが、垣右衛門は見つからなかった。舞台裏や幕の隙間はおろか、燦丸などはセリ(大道具や役者を舞台上にせり出させる仕掛け)から舞台下まで潜り込んだが、手掛かりは何もなかったという。村雨の鼻も、劇場の隅から隅まで垣右衛門の臭いが染み付いていた為、消えた場所を特定する事すら叶わなかった。
 垣右衛門の狂い叫ぶ声に、大紅屋の客も幾人かは、酷く肝を冷やしてしまったらしい。その上に、更に人間の消失騒ぎ。これは店を開いている場合ではないと、大紅屋清重郎は、二日の休業を決定した。店の者達には口封じも兼ね、二日の遊興費を包んで渡したらしい。人心掌握に掛けては、やはり如才無い男だった。
 落ち着かないのは源悟である。亡霊を見ちまった、このままでは一生祟られると大騒ぎし、高徳の僧侶が居るという寺まで出かけて行った。

「おかしな話も有ったものだなぁ……然し、香も塩も効き目がなかったではないか」

 翌日、午前中、達磨屋二階。桜は、何時もの様に遊女高松に膝枕させ、ゆったりと時間を過ごしていた。土産話を高松に強請られ、消失騒ぎを語った所、かなりの良反応が見られた為に、いたく上機嫌である。

「……そうだよ、おかしい。絶対におかしいんだって、あれは……」

 その一方で村雨は、『錆釘』宿舎に戻ってからも一睡もせず、そのまま達磨屋へ足を運び、何やら思案に暮れていた。

「何時までそうしている? もう過ぎた事だろう。いっそ、珍しいものを見たと思ってだな……」

「そうだよ、珍し過ぎる。なんで、私達はあんなものを見られたの……?」

 朝から数えて、桜が声を掛けたのは四度目だ。その何れも、村雨は返事をせず、思考を一切中断しようとしない。集中が途切れる事を恐れているのか、壁と向かい合い、余計なものを視界に入れないようにさえしていた。

「はぁ……あのなぁ、垣右衛門は燦丸の目の前で消えたのだぞ? 仮にそれが生きている人間のしたことだとするならば、どうすればいい? 魔術か? 世界広しと言えど、人間一人を何処かへ飛ばしてしまう様な術、準備も無しに行える者は無かろうな。姿を消しただけならば、お前の鼻で分からぬ筈は無いのだ。残り香と本人の体臭、お前が間違える筈も有るまい?」

「……そうだよね、そういう手段で消えたわけじゃないんだ。だとしたら、もっと簡単な話になる筈で――ん、ん?」

 桜からすれば、終わった話題である。村雨の気持ちを切り替えさせようと、理屈を通し、思索は無意味であると悟らせよう、という意図の言葉であった。だが、いかなる偶然であろうか。

「……桜、今の、もう一度。最初の方」

 組み木細工は、やり方を間違えればどうやっても外せないが、正しい方法を知れば、驚くほどあっけなく分解出来てしまうのである。先に解体に成功したのは村雨だった。

「最初? 垣右衛門は燦丸の目の前で消えた……――あ、あ? ああー……!」

「そう、そういう事。すっごく簡単な事だった……行くよ、桜」

 直ぐに理解が追いつき、膝枕から起き上がる桜。二人が向かったのは、岡っ引きの詰め所であった。



 大紅屋は、今日、明日と特別休業である。店の者達は幽霊騒ぎに怯えつつも、突然降ってわいた小遣い銭という幸運に、喜び勇んで町へ出ていた。
 しかしながら当然、外出は明日に回し、今日は体を休めようという考えの者も居る。燦丸もちょうど、その中の一人であった。自室代わりの屋内劇場、すっかり掃除も終わった舞台の上で、緋襦袢一枚でごろごろと転がっていたのである。振袖に結い髪は、見栄えは良いが重苦しい。仕事の無い日に限っては髪を下ろし、薄布一枚で過ごすのもまた良しと感じられた。
 舞台の端から端まで転がり、折り返して逆方向に回り始めた丁度その時、閂の壊れた扉が開く。入ってきた二人の姿を見誤ろう筈もなく、燦丸は舞台の上でうつ伏せになり、顔だけを上げてそちらを向いた。

「やあ、桜に村雨ちゃん、遊びに来てくれたの? 嬉しいね、することが無くて退屈してたんだ。カルタでも花札でも、お好きなものを――」

「まーったく、騙された私が阿呆のようではないか。下らん事をしてくれたな、燦丸」

「――どうしたんだい、桜。人聞きが悪い事を言うじゃないか」

 訪問の挨拶も無しに、棘のある声と共に発せられた台詞が、燦丸の言葉に僅かな間隙を生んだ。本心を表に出してはいけない商売の者として、それは致命的な失態である。自分自身を内心で叱咤しながら、燦丸は普段の様な、決して怖じない態度を繕った。

「垣右衛門の死体が上がった時に、馴染みの女が身元の確認をしたらしいな?」

「よく知らないけれど、そう聞いてるね。馴染みの女性に親族が、服装とか持ち物から確認したって」

「生粋の男色家に、馴染みの女が居たのか?」

「……さあ?」

 客席から花道に一足で飛び乗り、桜は燦丸に詰め寄っていく。花道のすっぽんからせり上がるのは、妖怪変化の役目である。真っ当な主役よりは、桜という人間には相応しいかも知れない。

「四十数年、女の気配は無し。女郎屋は行かず、遊びはもっぱら陰間茶屋のみ。独身、養子も取らず。親族というのは兄弟か甥っ子だったのだな……ついでに言うなら、垣右衛門はこの店以外で遊んだ事が無い、とも聞いた」

「……岡っ引きにでも聞いた? 町の入口に張る様な立場なら、確かに豪商の遊びかたくらい、調べていそうなものだね」

「大店の店主は私人に有らず、という考えらしいぞ、傘原同心は」

「なるほど、続けてくれたまえ」

 腕を顎の下で組み合わせ、枕の代わりとする。ここへ及んで余計な口出しをするつもりは、燦丸には無いらしい。最も話を聞きやすい姿勢で、普段通りの整った笑みを浮かべていた。

「燦丸だよね、死体が垣右衛門だって証言したの……勿論、証拠は無いよ?でもとりあえず、私はそう考えておく。でね、そこから話を続けていこうと思うの」

「……桜じゃなく君だね、村雨ちゃん。そこの単純馬鹿が、こんな風に頭が回るとは思えないんだ」

「認めたって事でいいね? じゃあ、親族っていうのも嘘を付いてたって思い込む事にするよ。そうすると、垣右衛門は半年前に死んでなかったって事になる。そうだよね?」

「そうなるだろう、きっと。少なくとも、死んだと確認されてはいなくなるのだから」

 村雨は、寝不足こそ目の下に響いているが、明瞭な思考と声で話す。燦丸はただ、話を進める為に協力するばかりだ。

「生きてる人間が、消える方法が無いとは言わない。でも、準備に時間が掛かり過ぎる。扉を閉じてから、桜がそれを開けるまでに、どうやって姿を消したか……考えてみたら、消えたって言ってるのも舞台下調べたのも燦丸だけじゃない」

「……あちゃー、台本が雑すぎたかな。もう少し丁寧に考えておくべきだった……」

「……直ぐに気付かない私達も私達だけどさ。垣右衛門だって、あれ、半分くらいはお芝居でしょ?」

 村雨が違和感を抱いたのは、燦丸が垣右衛門にあっさりと引きずりまわされていた事である。若く健康的な燦丸が、いかに狂人の馬鹿力相手とは言え、ああも無抵抗にされるがままとなるのか。刃物に怯えていたのなら仕方がないが、刃物より数十倍は危険な人物に、この態度を崩さない燦丸が、そこまで小胆とも思えなかったのだ。
 言い逃れるつもりは無かったらしい。燦丸は粛々と、最初から最後までを順番に語った。流れを再構成し、重要な事実だけを抜き出さないのが、この少年の悪癖であった。

 そもそもこの茶番の理由は、垣右衛門と燦丸が共謀しての、駆け落ちの為だったのだと言う。
 陰間茶屋で一昼夜遊ぼうとすれば、二両から三両の金が掛かる。更に、土産物まで欠かさない垣右衛門だ。半年の内に、家の蔵を随分と寂しくしてしまった。元が自分で稼いだ金だからと垣右衛門は言うが、店の者の生活も掛かっている。親族は大いに頭を悩ませたらしい。
 困るのは燦丸も同じ事。金が無くなれば垣右衛門が遊びに来る事は出来ない。垣右衛門が燦丸に執着するのと同様に、燦丸もまた、柿右衛門に絆されてしまったと言うのだ。このままでは遠からず会う事が出来なくなる、苦悩した二人は駆け落ちの計画を立てた。厄介払いが出来るのならと、親族もうんざりしながら、その計画に乗る事にしたらしい。
 半年前の雨の日、垣右衛門は、自分と体格が近い男を探し、川に突き落として殺害する。冬の川だ、溺れるまで待たずとも、心臓が麻痺すれば忽ちに死ぬ。そうしてから死体を引き上げ、自分と服を取り換えた上で、顔を出来るかぎり潰してまた川へ放り込んだ。
 そして垣右衛門は、店の地下に作った部屋に隠れ潜んだ。自分自身を死んだものとして世間から忘れさせる為である――と同時に、駆け落ちの費用を貯める期間でもあった。
 一方で燦丸も、死体が垣右衛門のものであると証言するなどして、その計画を後押しした。半年会えないなど、どれ程の事もない。この仕事から足を洗い、愛する男と二人で暮らす事が出来るなら――そして、決行の日はやってくる。
 燦丸が欲しかったのは、馬鹿ではないが知的労働が得意でない証言者と、社会的に発言に信用を置かれる者。つまり、桜と源悟である。村雨の存在は完全な不確定要素だった、という事だ。察知されるのがあまりに早かった為、垣右衛門だけは姿を消すことが出来たが、燦丸までは間に合わなかったのである。

「……消えたように見せたのは、二人の考えの通り、花道のすっぽん仕掛けを使ってる。あそこから舞台下に入って、更に床板を外すと、ちょっとした空洞が出来てるんだ。そこに隠れて、後は幽霊騒ぎの混乱に乗じ、大紅屋を抜け出す。簡単だろう?」

「あなた達が分からないよ、燦丸。こんな派手な事をして、無関係の人まで殺して。こんな不用心な計画、成功すると思ったの?」

「疑いはしたさ、何処かでしくじるんじゃないかって。だけどね、そんな事でやめられるとおもうかい? 僕たちには失敗の恐怖も、無関係の誰かを殺す躊躇も、何もなかったんだ」

「――っ、それは……自分勝手すぎるよ」

 淡々と続いた独白が、村雨には、垣右衛門の狂叫の様に耐えがたいものだった。人間は、もっと綺麗なもので有って欲しい。穏便な手段はいくらでも有っただろうに、同族を殺害してまで自分達だけが幸福を追求する。しかも――差別的な意思は無く、ただ日の本の常識に慣れていないからだが――燦丸と垣右衛門は同性だというのに。遊びの様なものだったとしたならばまだ分かる。全てを投げ捨てて耽溺する程の愛が、同性間に生まれるという事が、村雨は理解できなかったのだ。

「そうだね、酷い話だと思うよ。どこの誰と知らない人にも、店の旦那様にも一方的に迷惑を掛けて、何も返す事なく逃げる……逆の立場なら、僕だって腹を立てた。でもさ、村雨ちゃん、分かって欲しいんだ。僕たちの様に偽りの愛を売り続けていると、貰える愛まで偽物になる。それは凄く寂しくて、空腹よりも辛いものなんだ、って」

 燦丸もまた、村雨が自分の言葉に納得していない、という事を感じとっている。役者の様に舞台の上に立ちながら、声が途切れてしまわない様、腹に力を入れながら、燦丸の肩は震えていた。

「どんな恩だって未練だって、その飢えを満たせるなら捨ててしまって構わない。あの人と――垣右衛門様と居られるなら、僕は何を捨ててもいい、捨てても良かったんだ。君がいなければ……今頃は、何処かの港にでもいただろうね」

「……燦丸、あなた」

「垣右衛門様だけは逃がしたよ。あの方は人を殺してしまった、もう江戸の町には居られない。二度と会う事もないだろう……でも、それでいいんだ。僕が垣右衛門様に会えない事より、垣右衛門様が何処かで生きている事の方が大事なんだから。その為なら……僕は、なんだって……!」

 たった一人で舞台の上に立つ燦丸は、もはや客席の村雨の事など見えていないようだった。虚空へと視線を馳せ、息を詰まらせながら、喉を潰すように叫ぶ。最後の言葉は紡ぎきれなかった。膝を付き、握り拳を舞台に一度打ちつけ、燦丸は涙を流した。薄紅さえも施していない今は、その涙が、女性的な彼を彩る化粧であった。

「村雨、先へ帰れ。私は暫く残る」

 花道を渡りきり、桜もまた舞台に上がる。崩れ落ちた燦丸を見下ろし、呟くように下した命令に、村雨は言葉を返す事が出来なかった。踵を返した後も背に聞こえる声を振り払うように、意識的に足音を鳴らし、駆け去っていった。


 午後の達磨屋二階は、熱が籠って蒸し風呂の様であった。村雨は壁際で横になり、畳にぺたりと張り付いていた。

「……なんだか、すっきりしないよ」

 傍らに座す桜に、視線は向けないまま、独り言のように呟く。

「そういうものだろう。何事も完璧に、などは無理な話だ。つまらん芝居に引っ掛かりかけたのだから、今回は見破ったお前の手柄だぞ」

「そうなんだけどさあ……」

 社会的な善悪で言うならば、殺人という事件を一つ暴き、犯人の逃走を知る事が出来ただけ、良かったのかも知れない。大紅屋に対しても、従業員が犯罪者と駆け落ちするのも阻止したのだ、感謝されてしかるべき事だろう。が、村雨は素直に喜べないのだ。

「それよりもな、ほれ。事前に約束させた礼金だが、流石は燦丸、太っ腹だ。これだけ受け取ったぞ、外国の『紙幣』だ」

「見たこと有るよ。銀行に持ってけば、小判にでも一分金にでも両替してもらえる」

「私も知っておるわ、使った事もある。いやはや、これで道中の旅費に困らんな」

 束ねられた紙幣を団扇の代わりにして、桜は自分と村雨を仰いでいる。そよぐ風が頬を撫で、汗を冷やしてくれるのが、たまらなく心地良い。

「……別に、あなただってお金持ちでしょ? 今更、少しくらいの収入が有ったって変わらないじゃない」

 『錆釘』の料金制度で、丸二年、昼夜問わず人間を借り受ける。そんな事を出来る桜なのだ、この程度の金額で影響など有るものか。相変わらず壁と睨み合ったまま、村雨は、少しの僻みを口にした。

「ん? ああ、言ってなかったか。私の蓄え、あれで殆ど使い果たしたぞ?」

「――は、はあ!?」

「実をいうとな、このままでは道中どころか、この宿の代金も危ないかと思っていたのだ。いやはや、私は運がいい」

 返ってきた答えは、宵越しの銭を持たずの江戸であっても、無計画のそしりを免れないものであった。横になったまま螺子の様に回転し、村雨は振り返って桜を見上げる。何時もの様に平然と、桜はそこに居る。ようやく表情の見分けがつくようになってきたが、上機嫌な桜は丁度今の様に、口元が僅かに上がっているのだ。

「ついでにな、お前に着せた振袖も譲り受けてきたぞ。これで道中、少々冷えようが問題は無い」

「いや、荷物が増えるだけでしょ――じゃなくて、蓄えが無い!? じゃ、じゃあ、上方行きの旅って、どうするつもり……」

「どうにかなるだろう、というつもりだった。別に野宿でも構わんだろう? 肝心なのは遊興費だが、それは旅先でも稼ぎだせる」

「あんた、やっぱり馬鹿だ」

 食費より、宿泊費より、刹那的な楽しみの為だけに金銭を確保する。現時点で蓄えがほぼ無いというのに、高級な宿である達磨屋に宿泊を続ける。これが自分の雇い主だと思うと頭が痛くなる。こころなしか、ずんと体まで重くなった様な――

「……桜、さぁ。燦丸の話、どう思った……?」

 ――いや、気のせいではない。昨夜から徹夜で動き回り、戻ってきてからも、あれこれと考え事を続けていた村雨だ。自覚は無くとも眠気が蓄積している。まだ聞きたい事は有ると、眠い目を無理に開けようとしているのだが、少し気を抜くと直ぐ瞼が落ちている。

「どう、とは?」

「だからー、んん……誰か好きってだけで、あんな馬鹿な事、できるの? しかも、燦丸と垣右衛門って、どっちも男で……」

「出来るだろうな。お前はそうではないのか? 好きな相手が出来れば、それが男だろうが女だろうが、そういう物だと思うのだが」

「んー、分かんない……」

 村雨は、自分はまだ幼いのだろうか、と思った。垣右衛門の叫びも、燦丸の種明かしの語りも、どちらも人として何処か壊れている様に感じた。だがもしかしたら、それが寧ろ普通で、自分の認識が甘いだけなのだろうか。

「……桜ー、高松の事は好きなの?」

「ああ、好きだとも。高い金を出して、わざわざこの宿を選ぶ程には、だ」

「ふうん……」

 ここで桜が言う好きと、燦丸が言っていた好きは、きっと違うものだろう。それくらいは村雨も理解していた。まだ聞いてみたい事は有ったが、気付くと何秒か、意識と記憶が飛んでいる。上瞼が下瞼と張り付いてしまったので、起きようとする事は諦めた。

「ねえ、桜ー……」

「うん?」

「……じゃあ、私はー……?」

 風を仰ぐ手が止まり、桜は思わず忍び笑いを零した。こんなもの、どうせ寝ぼけた子供が夢と勘違いした寝言と変わるまい、と分かっては居るが。

「ああ、大好きだとも」

 結局その日、桜は一日中、村雨の寝顔を見て過ごしたのだった。







 物事には全て裏が有る。知らないでおけば、少し切なくて、綺麗な話で終わったのかも知れない。だが往々にして世の中は、善人ではなく賢い人間が報われるように出来ているのである。


 村雨の足音が遠ざかり、それからもまだ、念を押して暫くの間を開けて、

「……帰った、かな?」

 顔を上げた燦丸は、涙は乾いていないが、けろりとした表情であった。

「うむ。あの足なら、もう通りに出ただろうな」

 桜もまた、それが当たり前であるかのように答える。

「さて、それでは本題に移ろうか」

 胡坐で座る桜、足を横へ流して座る燦丸。この二人にとっての種明かしは、今、ようやく始まったばかりである。

「やあれやれ、お前がああも殊勝な態度を取る筈がないだろう。客に入れこまないなど、上等な遊女ならば基礎も基礎の芸当だぞ」

「そりゃね、騙して惚れさせる方が騙されるんじゃたまらない。けど、僕の愛は本物だよ?」

「馬鹿抜かせ。それでは、その惚れた男はどこに消えたのだ?」

「床板の下に、土を掘って隧道を作り、店の外へ繋げたのさ」

「町のど真ん中だぞ、ここは。数里もの隧道を作るなら、一体何年の期間とどれだけの工人が必要なのだ?」

 村雨は気付かずに帰ったらしいが、ここは夜に賑わう町である。夜陰に乗じて抜け出す、という芸は出来ないのだ。城攻めに使う様な隧道を作ろうものなら、人の目に付かぬ所に届くまで、魔術を使おうが二年ばかりは掛かってしまうだろう。土を砕いて道を作れば、空気を含んだ土が堆積を増す。運び出す作業に追われる事になるのだから。

「隧道は有るのかも知れんが、どうせ途中で行き止まりだろう? 逃げ道というよりも、垣右衛門を隠しておく為の場所だ。私達が劇場を探しまわっている間、垣右衛門は床の下に隠れていた、そうではないか?」

「仮にそうだとしようか、だとしたら?」

「お前が垣右衛門と駆け落ちするなど有り得ぬ。隠れた垣右衛門は、お前の協力が無ければ、おそらくこの店から出る事も出来ぬ。足抜けに目を光らせるのは、どの店も同じ事だ」

 遊女の足抜けと言えば、通俗話には格好の題材だ。大概は遊女は連れ戻され、体に傷が残らないように、だが二度と逆らう気の起きないように、陰湿に痛めつけられる。逆さ吊り、大量に水を飲ませる、一睡もさせず何人もの客の相手をさせる、等々。嗜虐的な傾向を満たす為の方策は、全てが虚構とは言い切れないのだ。

「……さて、燦丸。お前次第だ。お前次第で私は、お前を引きずって恐れながらと申し出るか、全てを忘れて宿に戻るかを選ぼう。どうする?」

「そうだね、だったら話をしようか。こんな事が有ったかも知れない、と仮定の上で、どこかの誰かの話をさ」

 村雨という、耳と脚に長けた計算外が居た時点で、どうせ失敗はしていたのだ。今更隠す事もないだろうと、燦丸は、何処かの誰かの話と称して語り始める。

「人の欲とは恐ろしいものでね。偽りの愛を買う為に店を傾ける人が居るなら、店を傾けない為に、一人を切り捨てる事だって有り得るんだ。何処かのお金持ちの親戚は、陰間に引っ掛かった男を追放して、自分が店を継ごうとしたんだね。実際、そうした方が誰の為にもなる。店が潰れれば、路頭に迷うのは一人二人じゃないのだから」

「その割に、最初のやり方はぬるかった、と」

「好きこのんで身内を殺したがると思うかい? 死んだ事にして、騙して幽閉しておけるなら、それが良かったのさ。彼らは、男の馴染みの陰間に金を渡して、口裏を合わせた。男が死んだものと世間に誤解させる為にね」

「その男は、どう騙されて、自分を殺す事に同意したのだと思う? 自分の築いた店を、容易く他人の手に譲り渡すとは、な」

「んー、難しい質問だね。もしかしたらその男は、『幽霊に攫われたなら誰も足抜けだと思わない』とか言われたのかも知れないな。確かに死んだと思われる為に、毎日続けていた茶屋通いを、半年も耐えたのは流石だと思うよ」

「言い方を変えれば、半年しか耐えられなかった。親族は、永久に耐え続けて寿命が来ることを望んだのだろうが」

「そうだね、一度死んでしまったのなら、もう二度と表に出て欲しくなかった筈だ。なのにその男は、人目に付く場所を堂々と歩いて、馴染みの陰間に遭いに行くんだもの。
 既に一人殺した犯罪者で、しかも世間的には死んだ筈の人物。出来るなら、迷い出たのも間違いだった事にして、また土の下に返したい――あ、多分、半年くらいは親戚が、どこか地下にでも匿ってたと思うな」

「自分達に咎が及ぶ事を恐れた、か……そうして当の陰間は、狂言の為の証言者を呼んだ訳だ」

「本当ならね、最初に誰かが駆け付けた時にはもう、閂の向こう側に居る筈だった――と、思うよ。思ったより脚が速いのが一人居て、騒ぎを聞き付けてから到着までが短すぎたんだ。そこで一つ、明らかな失敗をしたせいかも知れない。もしかしたら、と疑われてしまったのは」

「……ふむ、成程」

 仮に、の推測の話が終わる。桜は、一つ一つ相槌を入れて、内容を噛み締めていた。自分の推測と、大きく離れてはいない。動機までは考えていなかったが、それはきっと燦丸の推測が正しいのだろう。

「これまでの話から考えるにだな、垣右衛門はまだ、床の下に有るのだろう?」

「さあ、ね?」

「惚けるな、奉行所に申し出るぞ。……垣右衛門の親族も、つまらん小細工を考えた。自業自得だが、垣右衛門が表を歩くだけでも、気が気ではなかったのだろうな。死んでくれるのなら、それに越したことはない。幽霊騒ぎで駆け落ちしよう、という嘘は、そのまま親族の願いを叶える狂言に転用出来たのだ。
 床下に隠れさせ、私達が去ってから、お前が垣右衛門を迎えに行く。油断しきった枯れた中年男など、赤子の手を捻るようなものだっただろう。垣右衛門は今、幾つに分かれている?」

 居る、ではなく、有る。生き物に対して用いるならば、これほど不当な表現も無い。生命への敬意を払わず、対象をただの物体に貶める言葉だ。だが、桜も燦丸も、今の垣右衛門には、この言葉が妥当だと信じていた。

「十一個さ。そのうち三つ程は、もう処分が済んでる。今頃垣右衛門様は、広い海を眺めて、草木と指を戯れさせているよ」

「では残り八個が処分される前に、私はお前を突きださなければならん。心苦しい事だ」

「はは、止めて欲しいな。僕はお金を詰まれて頼まれただけさ。揺するなら仕入れ問屋だよ、今の店主は肝が小さい。垣右衛門様に比べたら、騙すも脅すも朝飯前、あれは数年で潰れるね。それで足りないなら……そうだ、元々の約束の礼金を払おう。彼女に着せた振袖はどうだい?」

 村雨は、おそらく善人である。彼女は燦丸の境遇に同情し、問題が解決された後も暫く、晴れ渡らぬ心を抱える事になる。
 燦丸は、間違いなく悪人である。振袖一つを代償に、面倒な客とは手を斬り(ついでに体を切り離し)、口止めの為に大金を得た。
 桜は――やはり、世間一般には悪人だ。これから、垣右衛門が盛り立てた問屋へと向かい、その親族と丁重な話し合いの場を持つのだろう。村雨に着せて楽しむ振袖を得て、桜は非常に上機嫌だ。

「持つべきものは友だな、親友よ」

「ああ。全くだね、親友」

 硬い握手と共に、桜と燦丸は、この問題を完全に忘れ去るのであった。


 大紅屋の片隅には、広さは然程でも無いのだが、趣味の良い調度品の置かれた部屋が有る。大紅屋の主人、清重郎の部屋だ。夜遅くまで行燈を灯し、滑稽本を読みふけるのが、清重郎のなによりの楽しみだった。
 頁の端まで目を通し、紙を捲ろうとしていた時、襖を叩く音がする。初めに二度、次に三度、最後の一度。入りなさいと、自分からは向かわず、言葉を掛けた。

「終わりましたよ、旦那様」

 部屋に滑り込み、襖を後ろ手に閉じたのは、燦丸であった。昼間と同じ様に緋襦袢だけの薄着である。日光よりも火の灯りの方が、この中性的な少年を照らすには似合っていた。

「ごくろうさま、燦丸。昼間のお友達は、良く分かってくれたのだろうね?」

「はい、振袖一枚で帰ってくれました。単純な友人ですから」

「それは良かった。おいで、膝が寒い」

 背後に立つ燦丸を、清重郎は肩越しに手招きする。あぐらを掻いた清重郎の膝の上に、燦丸はまるで猫の様に、うつ伏せに転がった。

「悪くはないやりかただった。けれど、お前はまだせっかちだね。何事も急ぎ過ぎるから、ああいうお客様まで作ってしまうんだ」

「はーい、ごめんなさーい……」

「一気に落としちゃいけないよ、ゆっくりと絞るんだ。枯れないように枯れないように、飽きられる寸前までね。本当に枯らしてしまうのは、もう水が増えないだろうと思った時だけにしなさい」

 膝の上に猫が居れば、きっとそうするだろう事を、清重郎は燦丸にしている。頭や背を撫でてやったり、喉を擽ってやったりと、だ。優しく諭すような声で、綴る内容は冷血な商売人のもの。細められた瞼の奥の目は、何時も人の数倍の物を見ている。
 清重郎は、燦丸を気に入っていた。少々過激すぎるきらいはあるが、容色麗しく知恵が回り、思い切りがよい。これまでも、大紅屋に多大な貢献をしてきた。優秀な人間が、清重郎の好みであった。
 垣右衛門を殺してくれという話が燦丸に持ちかけられた時も、清重郎は、今の様に静かな語り口で、やりなさいと肩を押した。燦丸もまた、やります、と二つ返事で引き受けていた。清重郎と燦丸は、血縁も何もなくとも、互いを深く信じあっているのである。

「いい子だね、美しく育った。もっと美しく、賢くおなりなさい」

「旦那様のお陰です……だから、もっとをお望みなら、旦那様が頑張ってくださらないと。ね?」

 燦丸は、親無しの子供だった。薄汚れたボロ布を纏い、泥に塗れ、貧村の端で暮らしていた。清重郎が彼を拾い上げた時、燦丸は野生の猪を五十の破片に解体し、幾つかを焼いて食っていたところだった。
 燦丸は、『弱みを知る』特化能の持ち主である。人の心の何処が脆いのか、獣の肉の何処が薄いのか、生物の骨の何処が弱いのか、生まれながらに知っている。学べば学ぶ程、他人の欲を知り、煽る技術を身につけていく。短刀一つを持たせれば、刃を欠けさせぬまま、人体を幾つかの部品へと変えてしまう事が出来る。どの角度で刃を滑らせれば、逆上し反撃する間もなく、静かに人を殺せるか、いつの間にか身につけていた。
 燦丸は、自分の弱みも知っている。村雨に吐いた嘘ではないが、結局は自分も愛情に飢えているのだ、と。自分が優秀で愛らしく在る限り、主人からの愛情は途絶える事がない。陰間は――いや、大紅屋で働く事は、燦丸の天職であったのだ。

 清重郎は、賢い人間である。世の中は善人でも悪人でもなく、賢い人間が一番得をする。行燈の蝋燭が、ふぅ、と吹き消され、大紅屋は夜の帳に包まれた。