烏が鳴くから
帰りましょ

血と満月のお話

 とある夜、一人の男が提灯片手に、川沿いの道を歩いていた。
 男は、つい先月に嫁を貰ったばかりであった。幼少期から隣家に住んでいた、気が強いが愛嬌のある、少し丸っこい女である。やいのやいのと口喧嘩を重ねながら十数年、近くにいるのが当たり前の様に思っていたが、いざ嫁にもらってみると、これが新鮮でしかたがない。
 遅くに家に戻っても、ただいまと言えばお帰りと返る生活は、男をますます仕事に打ち込ませた。金を稼げば妻を喜ばせられる、技を身につければ妻が自慢出来る男になれる。他人の為と思えばこうも向上心が発達するのかと、自分自身の事でありながら、男は日々驚愕を続けていた。
 昔のこの男は、ドラ息子などと呼ばれる類の人間だった。。年長者と社会に反発する事が粋であり、自分の為だけに振舞う事が伊達だと思い込んでいた。今の妻に横っ面をひっ叩かれるまで、自分の根性が捻じくれ曲がっていた事にも気付かなかった。自分を真人間に引き戻した妻に、男は強く感謝していた。
 ならば、次は自分が、妻に何かをしてやる番だろう。その為には働いて働いて、周りに認められる事だ。そして何より、自分が自分を認められるようになる事だと、男はこれまでを取り返す様に遮二無二働いていた。この男は、幸福の絶頂に居た。
 今宵の空は雲が多く、月がどうしても綺麗に見えない。帰ったら妻と酒の一杯も、と男は思っていたのだが、肴にする酒が足りない事を残念がった。月明かりが無ければ、提灯だけでは夜道は暗い。夜の早い江戸の町だ、民家の窓から零れるのは、魚油の弱い灯りだけだった。
 愛する妻の待つ我が家――長屋群れの端まで、鼻歌を一通り歌えば辿り着く頃。男は何か、自分がつけまわされている様な気がしてならず、立ち止まった。
 数年ばかり前ならいざ知らず、今の男は勤勉実直であり、他人に怨まれる筋合いも、心当たりもない。ならば、物取りか。見えぬ相手に振り返り、喧嘩慣れして座った肝を存分に奮い立たせる。懐には数日分の稼ぎが入っているのだ、くれてやってたまるか。

「……『見通せ』」

 口の中で小さく呟き、提灯を指先で叩く。単純な強化魔術で、男は提灯の光を十数倍し、周囲の闇を掻き消した。夜の町に、局地的に昼間が訪れる。隠れ潜む気配を暴こうと、男は、照らし出された姿を睨みつけて、

「ぉあ、あ……!」

 そして、見てしまった。白光の中に映し出された影の、異形の輪郭を。この世に自然に生まれる筈の無い、奇妙奇怪の生物の姿を。目を疑う、信じたくないと理性に泣きごとを言う。本能が逃げろと叱咤を返した。提灯すら投げ出し、男は走り出した。
 何だ、あれは。あんなものと出くわすくらいなら、物取りに出会いたかった。それなら素直に金を渡せば、まだ話が通じる期待を持てるのに。背後の気配は、確かに男の後を追ってくる。
 混乱し浅くなった呼吸では、激しい運動をする体を補助しきれない。それでも男は、自分が出しうる最大限の速度を持って、追跡者の恐怖を引き離そうとする。追いつかれてはならない、そう思った根拠は何もない。直観だ。
 汗が目に入り、涙と混ざった頃、自宅の戸が見える。振り向いた、もう後ろには何もいない、助かったのだ。内側から支えが掛けてあるらしく開けられなかったが、妻の名を叫ぶと、直ぐにも戸口に妻が出て出迎えてくれた。

「おや、あんた、お帰んなさい……どうしたんだい、そんな風に汗掻いちゃってさ」

「は、ぜぇ、ひぃ……お、おう、帰ったぜ……」

 妻の顔を見て、男は安堵する。ここは自分の家だ、自分の城も同然だ。逃げ込み、直ぐに灯りを消そう、あの化け物をやり過ごせる。妻の肩を押し、家の中に戻らせようとした。

「あらら、あらら、本当にどうしたん――――ぃや、あ……!」

 男を家の中に迎え入れようとした妻は、外の闇の中に、ぎらぎらと光る目玉を見つけてしまった。男の背後に、息を殺して立っていた、異形の生物を見てしまった。

「いやあああああああっ!? 誰か、誰か来ておくれぇ!!」

「逃げろ、急げ!!」

 男は、化け物を突き飛ばそうと、肩から体当たりを仕掛けた。この家に戸は一つだけ、ここを化け物に塞がれていては妻が逃げられない。妻の声は近所に聞こえたろうが、この化け物を見て、助けに入る者など居るものか。
 化け物は微動だにしない。予想出来ていた事だ、この距離に入る事が出来たのなら十分だ。化け物の腹に両手を触れさせた男は、両手を必殺の刃を化すべく、持てる魔力を全て掻き集めた。

「『千刃にて』『引き裂』――」

 術を発動する前に、男の腕は、肘から先を失っていた。苦痛に絶叫しようとした、声が出る前に化け物の腕が、顔面へ迫ってくるのが見えた。逃げる、防ぐ、化け物を殺す、どれも間に合いはしない。
 ああ、逃げる方向を間違えた。首の骨から切り放された頭が、壁に叩きつけられるまでの僅かな時間、男は後悔を深く噛み締めた。








 大紅屋の幽霊騒動から三日が過ぎて、旅の用意も万事が整った。
 近年の街道の設備充実で、数十年前に比べ、担がねばならない荷物は随分減っている。身分証明に関所の通行手形、後は少量の着替えに銭。慣れた服を着て草鞋を履いて、雨に備えて頭に編み笠、手拭いも一つ二つは欲しい。
 だが、食糧や水に関しては、まったくと言って良いほど持ち歩く必要性が無いのだ。このご時世、箱根八里の頂上でさえ、軽食屋が進出している。

「これで、用意するものは最後。何時でも出られるよ」

「では、明日だな。今宵は満月、江戸の月の見納めには丁度良い」

 早朝、桜と村雨は、最後の荷物確認を終えていた。今日が江戸の見納め、次に戻るのはどれ程後になるだろう。京まで歩くだけならば、のんびり歩いたとしても三月は掛かるまい。だが、ところどころ寄り道をするのならば、その行程がどこまで伸びるのか、この時点で予想がつかない。
 行って戻って、往復半年。それが村雨の、現時点での見通しである。

「戻る頃には冬、かぁ……」

 生き馬の目を抜く江戸の町だが、時代の流れだけは遅い。半年くらいではきっと、町は何も変わっていないのだろう。住む人間がほんの少し年を取って、幾らか赤ん坊は増えている、その程度の違いだ。帰る場所が変わらず存在する保証は、旅への不安を払拭し、期待を倍増させた。
 突然、階段をどかどかと駆けのぼる音がした。この宿の者で、その様な無遠慮の者などはいない筈だ。誰だろうかと村雨が向かうも、先に廊下の側から襖が開けられた。

「あ、ああ、姐さん、大変でさぁ!」

 顔を青くして飛びこんできたのは、岡っ引きの源悟であった。幽霊騒ぎの時と、顔に浮かんだ危機感の種類が違うのは、村雨の目にも一目で分かった。実体不明の何かに恐怖するのではなく、起こってしまった出来事に戦慄する表情だった。

「……どうした、源悟。端的に話せ」

 明らかな異常を悟った桜は、この瞬間に斬り合いを始められる程に気を張り、立ち上がる。背からさえ受ける気迫は、殺気の領域に達していた。汗が冷え、背骨に氷柱を刺された心地になり、村雨は思わず身を震わせた。

「……殺しです、しかも手口が半端じゃねえ。お力添えをお願いしたく」

「分かった、案内しろ」

 へえ、と答えが終わる前に、源悟は廊下に消えていた。桜がその後を追い、階段に到達した辺りで追いつく。

「今日、か。嫌な日だな……」

 初動が遅れた村雨は、蝉の声に消される程小さく、小さく呟く。先を行った二人に追いつくのは、店を出て数歩も走った頃。先を行く源悟は、長身痩躯の男の姿に化けていた。僅かにでも早く走る為の姿。普段の様な軽口は、ただの一つも零れなかった。
 今日の桜は、村雨に、付いてこいとは言わなかった。








「酷いな、これは……」

「うわ、ぁ……これ、何が……?」

 数十間も離れたところで、既に村雨の鼻は、酔い潰れてしまいそうな血の臭いを嗅ぎつけていた。だが、実際に目にした際の衝撃は、長屋の壁も床も染めた赤の強さは、桜をさえ言葉に詰まらせる程であった。
 死体は二つ。何れも首を飛ばされている。玄関先には、男の胴体と女の首。奥の壁際には、女の胴体と男の首。天井と壁に吹き付けられた血が、床に滴り落ち、家財まで赤黒く染めている。ちゃぶ台は破砕され、微塵の木片となっていた。

「鳶の平吉と女房のお町、昨日の夜に襲われたらしいが、隣人も外に出られず申し出たのは朝方……うおぇ、肝の小せえのがもう二人ほど、朝飯を川にぶちまけていきましたよ」

 源悟は血の海に草鞋で踏み込み、吐き気を堪えながら、状況の説明をしている。桜達を呼ぶ前に、既に幾らかの調査は済ませていた様で、現場を荒らす事は躊躇っていない。桜も、玄関先の男の死体の脇――やはり、血の海――にしゃがみ込んだ。

「……源悟、屍の検分は終わったのか?」

「へえ、医者を呼んで早々に……とは言っても、調べる事なんざそう有りませんがね。首を飛ばされて死んでる、それくらいのもので……後は、腕や脚に噛み痕が有ります」

「飛ばされた首の方は……顔の横に傷痕。人の力で無いのは確かだな。私に爪が有れば或いは、という所か……」

「あぁ、そいつは――」

 桜は、男の屍の傍に転がった、女の首を拾い上げる。右の頬から強く叩きつけられて、顔の部品の右半分は潰れて無くなり、左半分は大きく歪んでいる。高所から転落すれば、このような死体が出来上がるか。その点についても調べは終わっている様で、源悟が説明をしようとしたのだが。

「熊の爪痕だよ。それも、この辺りに住んでるツキノワグマじゃない。あれのより爪が大きい……蝦夷のヒグマ」

 家の中の惨劇に背を向けたまま、屍に一歩も近寄らず――屍の傷すら見る事なく、村雨は断言した。

「――その通り、ヒグマだそうで。蝦夷で猟師やってた奴が、岡っ引きに居ましてね。立てば八尺近くになる特大のヒグマだってえ見立てでした。傷跡の爪の長さと、傷同士の間隔から測って……重さも百貫は有るんじゃねえか、との事です」

「でかいな……この国の熊は、もう少し小さいものと思っていたが」

 桜が言うように、ツキノワグマはそう大きくは無い。立ちあがっても五尺から六尺、体重は三十貫から四十貫。重さは有るが、魔術を使える者なら、撃退する事も難しくは無い程度の動物だ。

「……が、八尺だと?戸を潜るにも一苦労、腕など振り上げれば……天井を叩き壊しはせんか?」

「あたしもそいつが気になっておりました。この爪痕、真横から頭に叩き込まれておりやす。んなでかいなら、斜めに打ちおろすように傷は付くんじゃねえでしょうか?」

「ヒグマの体格と、場が合わんのか……」

 桜は、自分が呼ばれた意味を十分に理解している。それは、調査に協力しろという事ではない。この惨状を生んだ何かを殺せ、壊せという事だ。屍の首をそっと置き、源悟の他にもう二人ばかりいた岡っ引きから濡れ手拭いを受け取り、手の血を拭いた。

「それから、腕や脚の噛み痕。こいつなんですが……」

 源悟は、まだ手の血を拭わない。屍の胴体の、袖を少しめくり上げる。

「これは……おい、どういう事だ?」

「見ての通り、歯型ですが……こいつはどう見ても、人間の歯型です。確かに肉に食い込む程、力を入れて噛みついてやがる。怖えですね、傷から血は出てる、熊が去った後にやったんじゃない。死んで、まだ血が体内に残ってる間に、誰かがガブリとやったんだ」

 獣の牙ではなく、人の歯型。上下合わせて二十数本、肉に刻まれた痕はかなり深い。軽く歯を触れさせるのではなく、万力込めて噛みつかなければ、この様な痕は残らない筈だ。だが、喰われてはいない。肉の一部が食いちぎられているが、すぐ近くに吐き捨てられて残っていた。

「分かった、もう良い。真っ当な相手は期待できない……それは十分に理解した。後は、探すだけだ」

「そいつが、また……足跡もねえんですよ。熊の足跡が無え、見つかったのは草鞋の跡くらいのもんで」

 手掛かりは、殆ど無いに等しい。血や体液を用いて、その本来の持ち主を呪う術ならば有るが、それは対象を明確に認識していなければ効力が薄い。死亡して直ぐ、血が頭から抜けきる前ならば、脳髄から記憶を抜き取る事も出来たかも知れないが――夏、一晩放置されてしまった死体。鮮度など、望むべくもない。

「そっちの通りを、熊の臭いが半分くらいまで進んでる。足跡は人間のものだけど、臭いは熊だよ」

 再び村雨が、やはりその方向に顔も向けず、一歩も踏み出さないまま告げた。

「臭いは……途中でスパっと消えてる。屋根とか地中とかに逃げたわけじゃない……魔術的な何かで、いきなり消えたんだと思う」

「村雨、どうした? お前、今日は何か……」

「気にしないで。それより、夕方まで寝てくる。夜に、あそこの火の見櫓で待ってるから」

 背の高い建築物が増えるに伴い、櫓もまた高さを増した。事件現場の長屋近くには、五丈の梯子から昇る櫓が設置されている。それを指差した村雨は、桜の問いに答えを返す事なく、達磨屋の方角へと歩き始めた。熊の臭い、人の足跡、突然の消滅。推測の理由の一切を、村雨は語ろうとしなかった。

「……どういう事でござんしょう。あのお嬢さん、占いなんてやっておりましたかい?」

「占いで犯人など見つけられるか……本当に、どうしたというのだ……?」

 桜には、村雨の背が、見慣れないものに感じられていた。それはまだ、行動を共にして一週間も経過していない。自分の知らない部分はいくらでも持ち合わせている筈だ、と理解はしている
 そういう次元ではない部分で、何かが違うように感じたのだ。昨日まで鉄で作られていた筈の刃物が、鞘から引き抜いたら石に変わっているのを見てしまったように、本来の有り様から離れ過ぎていると思わざるを得ない程に。

「源悟、五人以下では行動するな。索敵、逃走に長けた者だけで見回りを行え。今夜中に片付けるつもりではいるが……」

「見つからなけりゃあどうにもならねえ、万事心得ておりまさぁ」

 いずれにせよ、この凶行の主は、半端な腕の者ではどうにもなるまい。場合によっては傘原同心を通じ、幕府お抱えの始末屋集団でも借り出すべきではないか……然し、それが可能になるとしたら、今夜ではない。今夜一晩は、駒は自分しか無い。
 自分本位、命を奪う事を躊躇わない桜ではある。さりとて救える命なら、それが自分に不利益を齎さないのならば、正体不明の怪物と一戦交える程度、如何程の事も無かった。総じて雪月桜という人間は、矛盾多き悪人であった。








 急の事態故、外出禁止令などは徹底できなかったが、夜の町に人の姿は無かった。若夫婦が怪物に惨殺されたという噂は、数刻で町に染み渡る。誰言うとも無し、戸にはつっかえ棒。日が落ちてからは、僅かな灯りさえ外に漏らす事を避け、息を潜めて布団に身を埋める。

「……静かだな、虫の声が良く届く」

 五丈の火の見櫓の上で、桜は目を閉じたまま、眠っている様な顔で呟いた。その声が、しんと静まった夜に響いて返ってくる。
 夜は、人間の為の時間ではない。昼行性である事に加え、耳も鼻も、それだけで他者の存在を探れる程に、人間の体は優れた作りをしていない。日の光の下でならば無敵を誇る桜も、この時間帯においては、自らの枷を自覚せざるを得ないのだ。
 然し、その傍らに佇む村雨は事情が異なる。優れた暗視能力、聴覚、優秀と呼ぶにも桁の外れた嗅覚、夜に遊ぶ生物には必須の要素を備えている。大きく丸い目の中で、瞳孔が最大限拡張し、星の光と雲間の月光を集めていた。
 雲の多い夜だ。日が落ちてから今に至るまで、月はその全容を下天に示そうとしなかった。人の手から町を取り上げ、怪物に譲り渡すべく、柔らかな光の恩恵を遮断しているのだろうか。

「……見つけた、拙い、思ってたより遠い……付いてきて!」

「何、どこに……お、おい」

 黒塗りの空が続く。最初に異変を察知したのは、やはり目ではなく鼻だった。村雨は櫓の上から、近くの家屋の屋根まで、四丈を無造作に飛び降りた。火事を避ける為に推奨された瓦屋根が、衝撃に砕け散る。
 後を追う桜は、梯子を半ばまで降り、地上から二丈の高さで初めて飛んだ。脚を庇ったのではなく、足元の瓦解を恐れたのである。
 屋根から屋根へ、二つの影が駆けていく。目的地へ、弛みの無い一本の線を描くように。
 先を行く村雨は、翼を持たぬ身に在りながら、飛翔するが如き走りであった。後を行く桜は、一足毎に足元を爆ぜさせ、身を射出する様にして追随する。

「桜、聞いて。あの臭い、何も無い所にいきなり出てきた」

「……どこからか飛ばされてきた、という事か?」

「分からない。けど……あ、あれ!」

「どれだ、見えん!」

 村雨が指差した方角に、桜はまだ、何も発見する事が出来ていない。桜も目は良い方だが、それでも尚、感覚器官の性能に差が有りすぎるのだ。
 もしも見えているならば、桜の『代償』の力は、二丁程度の距離から先手を取って仕掛ける事が出来る。だが、桜の目に映る今の町は、墨を染み込ませた半紙も同様である。
 言葉を発する事を諦め、僅かな星灯りを頼りに、屋根を足場に馳せ続ける。じれったく、歯痒く、苛立ちばかりが募る

「……やられた、引きずりだして、噛みついてる……」

 半丁先の惨劇を、村雨は逸早く目撃し――そして、五秒後にはその現場に辿り着いた。
 そこは、昨夜襲われた場所とは別だが、やはり長屋の端であった。戸が力任せに破壊され、へし折れた半分が通りに落ちている。何か大きいものが蠢いているのは分かる、その下に有るのが物なのか人なのか、其処までは見えない。 

「っち……気を付けろ、燃やすぞ!」

 屋根から降りた桜が最初に行った事は、周囲の地面を目視し、炎の壁を出現させる事だった。
 赤々と燃える炎は、暗闇に有っては、半径数間を照らす照明の代わりとなる。村雨は既に捕捉し、自分は接近しても音しか聞こえていない、その存在を見つけ――

「……人、か?」

「臭いが混ざってる、どっちも」

 化け物ではあるが、異形と呼ぶ程、人から離れている姿ではない事に気付いた。
 その化け物は、瀕死の男の腕に噛みついていた。突如出現した炎に恐れをなしたか、奇妙に長い脚で飛びのく。人の脚と同じ形状では有るが、その長さから身長を逆算しようとしたら、八尺にもなってしまうだろう、長大な脚。
 一方で、それを備える胴体は、子供の様に小さかった。なまじ成人男性の頭部を使っているだけに――これが自然に生まれた生命体だと、誰が思うか――細い首が不安定に傾く。
 喉の作りが雑なのか、蚊の羽音の様な唸りは聞こえるが、声という程の物は出せていない。噛み千切った肉を飲み込まないのは、その喉の不完全さが故か、人間の内臓を流用した為、生肉を栄養に転化できないからか。
 この化け物が、あの夫婦を殺害した事を示す証拠は、化け物の両腕そのものである。肩から先の部品は、小さな胴体に見合わぬ巨大な腕が――いや、ヒグマの前足が備わっていた。
 均一性、整合性という概念が、この化け物には備わっていなかった。小さな胴体が摂取できる栄養では、この長い脚も巨大な腕も、養える筈が無い。本来なら今まで生きながらえる事さえ、造形の時点で許されていない化け物だ。

「桜、家の中……子供がいた、怪我はしてない!」

「良し、連れて逃げろ! こいつが何なのかは知らんが……守りながらやりあえるか、算段が付かん……!」

 桜が化け物と向かい合い目を光らせている間に、村雨は襲撃を受けた長屋に潜り込んでいた。壁際に立てかけられたちゃぶ台の裏に、小さな男の子が隠れていたのだ。化け物に噛みつかれていたのは、子供の父親だろう。襲撃を受け、咄嗟に子供を隠し、だが逃がすには機を逃したのだ。
 桜は、腰の脇差を鞘ごと引き抜き、村雨へと投げつける。万が一の場合はこれで身を守れ、という事だろう。剣術の覚えは無くとも、盾として使うならば、鋼作りの刀身は腕より信頼できる筈だ。

「ひ、ひ……おとうさん、おとうさん!」

「……逃げるよ、何も見ちゃ駄目。目を閉じて、早く!」

 子供を抱え上げると、村雨は脇目も振らず、桜を一片たりと気遣う事無く走り出す。桜が勝てるかどうか、などは考える意味の無い事。自分がこの子供を抱いて、無事に逃げ切れるか。それだけが今考えるべき事だと、村雨は思っていた。瀕死の父親から無理に引き離した事を、子供に詫びる余裕は無かった。
 音と気配が離れていく。脅威がそこにある存在だけならば、そもそもこうして、子供を連れて走らせる意味もあるまい。桜が勝てば、二人が追われる事は無い。桜が負ければ、子供を逃がしたとしても、どうせ別な誰かが襲われるだけだ。

「ふん……我ながら下らん保険だ」

 子供を村雨に押しつけたのは、村雨をこの場から引き離したかっただけだ。断じて子供を気遣ったのではない。僅かにでも首をもたげた、常の桜ならば不要の用心という怯懦。見慣れぬ姿の敵へ向け、刀を抜いて切っ先を突きつける。

「……む、むすこ、は……俺の、ガキは……?」

 胸と腹を抉られて瀕死の男は、そこに誰かが居る事だけを知る。かすむ目には、桜も化け物も映っていないのだろう。

「逃げた。私が来るまで良く守った……もう、いいぞ」

「……へへ、へ……」

 子の無事を告げられた男の首が、完全に力を失ったのが合図。桜と化け物は、どちらが先とも知れず、間合いを詰めた。




 先んじての一撃は、炎の熱と明るさに狂った化け物の、右腕をただ横へ振り払うだけのもの。然しそれこそが、若夫婦の首を一撃にて落とした断頭の斧である。
 怪物の力量の程を探る為、桜はまず、受けるのではなく避ける事を選ぶ。左即頭部へ迫った爪を、後方に体をしならせて、鼻の先を通過させた。腕の一振りで煽られた風が、前髪を逆立つ程に持ち上げる。
 尋常の威力ではないと、桜は風圧から感じた。この爪ならば、漆喰で固められた土蔵の壁すら貫通するだろう。ツキノワグマなどとは確かに比較にもならない怪力である。
 だが、姿に似合いの獣の一撃だ。予備動作も見て取れるし、軌道は単調。自分の反射速度と力量なら、回避出来ない理由は無いだろうと桜は検討をつける。空を切った爪が視界の右端へ流れていくのと同時に、桜は自分から見ての左前方、化け物の右腕側に踏み込んだ。この位置は、相手が人間ならば肘を警戒する必要も有るが、熊の腕にそれを恐れる事はあるまい。
 腕力が強い相手には、膝か肩を砕くのが常套手段。彼我の腕の長さを鑑みて、桜は化け物の右肩へ、力の出し惜しみをせず、左拳による鉤打ちを放つ。ボクシング――拳闘と呼ばれ、この国ではまだ広く知られてはいない――で言うところのフックと同様の軌道を描いた拳は、これが人間相手であるならば、肩を砕いて腕を殺すだけの威力を備えていた。
 化け物の肩に桜の拳が触れ――化け物は、その体を一切破損させる事なく、真横に二間も吹っ飛ぶ。

「……硬いな、その癖に軽い」

 相手が本物のヒグマで有ったなら、吹き飛ぶより、肩の骨と筋肉へ損傷を蓄積させる事に、力は振り分けられただろう。だが、この化け物は、胴体は人間の子供で、脚は長いが人間の成人のもの。最終的な体重は、せいぜい二十五貫(約90kg)というところだろう。
 更にこの化け物、筋肉の塊であるヒグマの肩から先を、そのままぶら下げているが為に、重心が酷く上に偏っている。桜の馬鹿力で殴られれば、容易く吹き飛んでしまうのだ。ただでさえ、一発や二発では到底壊しきれない強度が、打ちすえた瞬間、するりと手ごたえごと逃げていく。
 起き上がらせる前に、桜は一足の低い跳躍で、化け物が吹き飛んだだけの距離を埋めた。最も力が入る形、大上段からの振り下ろしで、座り込んだ形の化け物を、頭蓋から両断せしめんとする。
 化け物は、分厚い腕を頭上に掲げ、その一太刀を受け止めた。硬い毛皮、鋼の様に強く密度の高い筋肉は、それが初めての試みであるとは言え、桜の切り降ろしを受けて尚、骨までも刃を通さない。それどころか、神経もまだ無事な様で、突き刺さった刃を押し戻す様に、ぶうんと腕が振り回された。気を抜けば、手から刀の柄が引き抜かれそうだ。

「……頭は人だが、目は獣のそれか」

 間合いを一間にまで引き離し、桜は敵の戦力に対する認識を改める。ヒグマの腕が生む破壊力は驚異的だが、この化け物、防御性能も恐ろしく高い。刀身を持たせる事さえ考えなければ、なまくらでの三つ胴(人間の胴体を三つ重ねて両断すること)も容易い桜が、腕の一つも斬り落とせなかったのだ。斬撃から頭を庇うのが間に合うだけの反応速度は、熟練の武術家にさえ匹敵すると、桜は己の経験から評価を付けた。
 立ちあがった化け物は、少々の負傷などまるで意に介していないのか、両腕を風車の羽の様に振り回し、桜を叩き潰そうと突っ込んでくる。左腕の牽制の薙ぎ――命中すれば、常人なら頭蓋が西瓜の様に潰れるだろうが――から、それによってねじれた体の反動で、右腕での横一閃。自分の頭より巨大な掌を、後退しながら桜は回避し続けていた。
 桜は機を窺う。攻撃の速度は、もう覚えた。次の爪を回避し、まずは先程傷を与えた腕を完全に斬り落とす。しかる後に、防御の薄くなった頭か心臓へ、突きから派生し、胴体の外へ刃を跳ねさせる切り上げで止めを刺す。全ての動作を、瞬き一つの間に二度は完成させられる自信が桜には有った。
 刀の切っ先を下げ、あからさまに頭の防御を薄くして、化け物の攻撃を誘う。人の頭蓋に入っているのは獣の脳なのだろうか、疑いもせず化け物は誘いに乗り、桜の左側頭部を今度こそ抉り潰そうと、右手の爪を遠心力任せに振るった。
 完全に想定した通りの局面である。左足を前方に滑り込ませながら上半身を低く落とし、爪を頭上に素通りさせる。後は、離れていく腕を追うように、それ以上の速度で刀を振り上げる。毛皮と肉の硬さはもう把握した、容易くそれらは切り裂かれ、化け物骨にまで刃が到達し――

「……!? 馬鹿な、これは……!」

 ――ギン、と、冷たく鋭い金属音が、桜の鼓膜を打ちすえた。手の中で、刀の柄が砕け散る感触が有る。刀身は化け物の腕に一瞬だけ引っ掛かって、腕の振りに合わせて何処かへ飛ばされた。
 間違いは無い、西洋の鎧を斬り付けた時と同じ手ごたえ――いや、それより数倍も分厚い。この化け物は、骨そのものが金属に置き換わっているのだ。桜の全力を以て、分厚い金属塊に叩き付けられた打ち刀は、まず柄が強度の限界に達してしまっていた。
 骨まで、肉を切り裂いた。その代償に、刀は完全に潰れた。脇差は村雨に渡してしまい、残る武器は短刀だけだ。
 桜が短刀を持った場合、胴から切っ先までは二尺五寸という所だろう。化け物の腕は、爪の先まで三尺を超える。踏みこんで急所を狙うという事は、爪が生む暴風圏に身を曝す事に等しいのだ。

「気に入っていた刀だったのだが……ああ、くそ」

 懐から短刀を取り出し右手に構え、鞘は左手に、寸鉄代わりに持つ。気付けば、桜の氷の面貌を、一筋の汗がつうと伝い落ちていた。




 村雨は、子供を半ば肩に担ぐ様にして、夜の町を走っていた。
 自分一人ならば少々の無茶も利くが、身体強化の術さえ使えない様な子供を連れていては、おいそれと屋根へ飛ぶ訳にもいかない。人間一人の重量は、予想以上に体力の消費を激しくした。

「おとーさんが、おとーさんが……!」

「……大丈夫だからね、大丈夫だから……」

 父親が化け物の爪の餌食となったのを、この子供は確かに見てしまった。泣きじゃくり、同じ言葉を繰り返す子供に、村雨は適切な言葉を見つけられない。大丈夫とは何と無責任な響きだろうと、口にしている自分こそが実感していた。
 あの父親は、最初の一撃を、なんとか避けようとしたのだろう。爪が浅く体を抉ってしまった為、即死する事が出来なかった。苦しみ悶える姿を、家の中に隠れていた子供は、確かに見ていた筈なのだ。慰めの言葉など、子供の為にならない。罪悪感から逃れたい自分の為の言葉だと、理屈より深い部分で分かっていた。

「……ねえ、聞こえるかな。悪いんだけど……ちょっと、目を閉じてしっかり捕まってくれる?」

 右肩に、腰から二つに折る様にして乗せていた子供を、村雨は、左手も使って抱え直す。腕の振りが無くなって、僅かに走行速度が落ちる。子供の方は、村雨の言葉が聞こえていないのか、それに応じる事はない。
 ち、と舌打ちをし、奥歯を強く噛み締めた。
 村雨が『それ』に気付いたのは、風向きが変わったつい先程。見られている、という漠然とした予感ではない、確かに臭いを察知したのだ。遥か後方で桜と戦っている筈の、あの化け物の臭いを。
 そいつはどうやら、川に掛けられた橋の上に立っているらしい。
 嫌な位置だ、迂回しようとすれば相当な遠回りになる。桜の事だから少々の時間は、とも思い、また一方で、遮二無二急がなくてはならないという予感も有った。
 最終的に村雨は、正面から化け物に突っ込み、頭上を飛び越えて走り抜ける、という手筈を決めた。子供一人抱えていようが、速度が乗っていれば軽く一丈は跳べる。化け物が腕を振り上げても、爪が届かない高さを行ける筈だ。
 意図的に、一歩だけ踏み込みを過剰に強くして、足音を響かせる。橋の上に居た化け物が村雨に気付く、この時点で距離は十間前後。自分から突っ込んでくる得物に対し、化け物は迎撃の姿勢を取っている。踵が痛む程に蹴り足を強め、一歩の歩幅を広くする事で、村雨は更に加速する。
 化け物の爪が届く三寸先で、村雨は両膝を胸に抱えるように跳躍した。一瞬の差で、既に誰も居なくなった空間を、化け物の爪が通過する。
 空中で脚を伸ばし、着地の衝撃に備える。爪先が橋の板に触れた瞬間、足首と膝、股関節を同時に曲げ、衝撃の吸収と加速用意を同時に完了させる。化け物が振り向くより先、村雨は再び、最大加速で走り出そうとして――脚が、何かに引っ張られた。

「ぇ……わ、あっ!?」

 激しくつんのめり、顔を庇った両腕と、胸を橋の板に打ちつけた。肩に担いでいた子供は、転倒の勢いで投げ出される。
 村雨の右足首には、白い糸の様な物が絡みついていた。おそらく橋の下から伸びてきたのだろうそれは、手拭いの様な頼りなさでありながら、空中の村雨を引きずり落とすだけの強度が有った。

「――――あぶ、あぶな、っ!」

 咄嗟に、桜に投げ渡された脇差――洋装の村雨は、走る間は腰のベルトに鞘を差していた――を引き抜いて斬りつける。引っ張り強度は強くとも斬撃には弱いのか、糸はあっけなく切断された。脚を解放された村雨が、転がる様にして後方へ避けた瞬間、振り下ろされた化け物の腕が、橋を叩いて激しく震わせた。

「ちっ、避けやがりましたかこの糞餓鬼め。絶対に殺せたと思いましたのに……」

「……誰さ、あなた」

 脇差を鞘に納めて、鞘ごと右手に構える。盾にするならその方が都合が良い。奇襲に対する備えだけ作り、村雨は、橋の下から聞こえる声に誰何する。

「誰か?その様な事を聞いて答えを貰えるような恵まれた立場だと勘違いしてやがるんですか痩せ鼠女?」

 恐ろしくはきはきとした発音の、滑舌の良い少女の声だった。地方の出身者に見られる訛りなどが全く存在しない、出生地域を特定できない響きを発している。だが、その彼女の声は、形ばかり用いている敬語よりもむしろ、その中に混ざる悪態が本心であると告げているかの様に、棘のあるものであった。

「この化け物の飼い主? だとしたら……」

「駄質問にお答えは致しません。どうぞ速やかに肉塊となっておくたばりあそばせ……ぶっ殺しなさい、『人工亜人できそこない』」

 声は聞こえるが臭いは無い、おそらく水中に隠れているのだろう。警戒する必要は有るが、然し、謎の少女の声だけに意識を裂く訳にはいかない。問いを一蹴された事も、無意味な会話に気を取られず済んだと見れば好都合、なのだろうか。
 今から子供を拾い上げ、逃げ切れるか、村雨は幾つかの状況を想定する。可能性だけは有るが、実現はかなり難しい。化け物に後ろを見せ、子供を抱え上げるまでの間、またあの糸に脚を取られてしまえば危険だ。
 先程は化け物が振り向き、倒れている村雨を捕捉するまでの猶予が有った為、糸を斬っての脱出が間に合った。今回は化け物がこちらを向いている。転倒した瞬間、背中をあの爪で抉られかねない。そうなれば村雨の小柄な体が、間違いなく真っ二つに分割されてしまうだろう。
 時間を稼ぐ事が、正解に思えた。殺されずに避け続ければ、見回りの同心や岡っ引き達が駆けつけるか、桜が向こうの化け物を仕留めて助けに来るに違いない。その間、自分とあの子供が殺されず、大けがも負わずに居ればいいのだ。
 自分で倒そうという考えが最初から無かったのは、村雨も子供と同じ様に、化け物に怯えていたからに他ならなかった。
 鉛色の雲は、未だに月と地上を分け隔てていた。








 夜間の戦闘は、人間相手ならば自分が有利だと、村雨は自負を抱いていた。視覚情報への依存率が高い人間は、光源の極端に少ない夜間では、本来の力を発揮できない。足音さえ気遣えば、全く察知される事なく、背後へ回り込む事も難しくはないのだ。
 だが、どうやら橋の上に立つ化け物は、視覚という点に関しては村雨と同等の性能を誇るらしい。化け物が真正面から突っ込んでくるのを、村雨はすれ違うようにして避け、後方へ回り込もうとする。その動作が見えている様で、化け物はすぐさま背面へ腕を振るい、安全地帯を確保しようとする村雨を牽制するのだ。。
 村雨は化け物の死角へ移動し続ける事で、爪の脅威と対峙せずに済むようにと狙っている。その思惑を化け物は、行動察知即迎撃という反射速度任せの戦法で抑え込む。下手に回り込もうとすると、横腹を爪で抉られかねない。その恐怖に、必然村雨が取る行動は、臆病さが増していく。
 化け物の熊腕が裏拳気味に放たれたのを、村雨は、橋の上に四つ脚で伏せる様にして避ける。爪は自分に向いていなかったが、命中すれば軽く空中に浮かされる様な威力なのは百も承知。回避に成功して直ぐ、次は逆腕の振り下ろしを避ける為、手足全て使って後方に跳躍する。
 間合いの長い相手に対しては懐に飛び込むのが定石だが、この化け物の反応の良さでは、そう易々と潜り込む事は出来そうにない。それでも化け物に勝つ事を望むなら、自分の拳足が、脇差が届く距離にまで近づく必要があった。
 村雨は、その手段を選ぶ事が出来ない。自分の頭より大きい化け物の掌、指の様な長さの爪、腕が振り回される度に顔を叩く風。直撃すれば、自分は一撃で死んでしまうという予感が、ひしひしと押し寄せるのだ。

「ぅ、うぅ……!」

 恐怖に、骨の隋まで凍て付いてしまったかの様な寒気を味わう。やみくもに声を上げ吶喊したがる心を抑え、胴体を狙った化け物の右腕から、やはり後方へ遠ざかり回避する。前へ出られない、出ようとさえ思わない。ただ、橋から押しだされそうになった時だけは、側面へ回り込むようにして、橋上という条件だけは手放すまいとしがみ付く。
 橋の向こうには、転倒した際に投げ出してしまった、襲撃の生き残りの子供がいるのだ。そちらに化け物を向かわせてしまえば、巻き添えを食らわせてしまいかねない。子供一人抱えて逃げ切れる様な相手では無いのだ。ならばせめて、自分だけを気遣えば良い条件で戦いたい。村雨は、化け物の意識が何処かへ向かいそうになる度に、踏みこんで胴体を蹴り飛ばしてやろうとする――結局それは、大木の様な腕に阻まれるのだが。
 化け物の爪は、一撃で村雨を二度は殺し得る。対して村雨の蹴りは、化け物にたたらを踏ませる事すら出来ていない。体重差が倍以上、筋力の差は十倍と見積もって足りるかどうか。数値だけを見るなら、あまりに絶望的だった。

「はぁ、は、ふ……」

 然し、それで諦めてしまえば殺されるのだ。肉体の疲労ではなく、精神が緊張を強いられ続け、息が上がる。口を開いて酸素を取り込みながら、村雨は化け物の姿形から、その生態を推測しようとしていた。
 化け物の胴体と頭部は、人間のものである。ならば内臓も、顎の筋肉も、人間のものと考えられるか。仮にそうなのだとすれば、この化け物は、仕留めた得物――人間をろくに喰う事が出来なかった筈だ。
 野生の獣ならいざ知らず、人間が大量の血液を摂取したならば、まず確実に嘔吐する。血液には催吐性が有るからだ。その上に、文明圏の人間の胃は、生肉食への適応度が低い。この推測は、噛み千切られてだが喰われていなかった死体の有り様から、当たらずとも遠からずのものだろう。
 ならば、化け物は飢えている筈だ。小さな胴体に長い脚、巨大な腕という不釣り合いさが故に、貯蔵出来る栄養と消費する体力が釣り合っていない筈なのだから。
 体力を削ぐ為には、腹を打つのが有効である。鳩尾や肝臓を強く打てば、呼吸が阻害され、化け物の動きは大きく鈍るに違いない。

「やるしか、ないよね……」

 死が形を為したかのようなあの爪の届く距離へ、自ら踏み込まねばならない事が、恐ろしくてたまらない。択びたくない手段だが、村雨の体力も無限ではない。逃げ回り続けていればいつか速度は落ち、果ては首を飛ばされた骸となるだろう。
 今も鼻先を掠める化け物の腕を、後方へ大きく跳躍し避け、腹を決める。相手が向かってくるより先、自分から走り込み、加速を付ける。軽量の村雨だが、衝突の瞬間まで速度を一切殺さず、体重を一点に全て乗せるなら、大の男さえも悶絶させうる脚力が有る。迎撃する化け物の腕を下へと掻い潜り、硬い靴の爪先で鳩尾を狙い、押しこむ様な渾身の蹴りを放った。
 村雨の技量と身体能力を鑑みて、これ以上は望めない一撃だ。腕を振り抜いた一瞬の空白に割り込んだ蹴りは、確かに化け物の腹へ食い込んだ筈で――手応えの薄さが、信じられなかった。

「――ぇ、しまっ……!?」

「誰が行儀良く見物しているだけだと申し上げました、脳に腐乱の予兆でもございやがりますか?」

 先に、村雨を地面に引き落とした白い糸が、今は束となって、靴と化け物の腹の間に割り込んでいた。柔らかく分厚い糸の束が緩衝材となっていたのだ。
 一撃で体力を削ぎ、反動でまた後方へ避けるという手筈が崩れる。蹴りを放ち流れた体勢のままの村雨に、化け物の爪が、圧倒的な破壊性の塊が襲いかかる。

「――――――っ!!」

 鞘ごと脇差を構え、防ごうとした。脇差ごと、村雨の体が空に浮く。角度の浅い放物線を描いて、五間も吹き飛ばされただろうか。止まったのは勢いの減少の為ではなく、そこに屋敷の塀が有ったからだ。

「かは――ぁ、ぐっ……ぇ」

 背を板張りの塀に強かに打ちつけ、蛙を潰した様な声が漏れる。喉の奥に弁が出来てしまったかの様だ、息を吐き出す事は出来ても、吸い込む事が出来ない。酸素を求めて口を開けると、胃の中身どころか胃袋そのものが逆流しそうな錯覚に襲われる。吐き気を堪える村雨の視界は、涙で滲み、酸欠で歪んだ。
 化け物が橋から離れ、自分が吹き飛ばした獲物へと迫る。子供は何処かへ逃げたか隠れたか、少なくとも化け物の視界の内には居なかったらしい。獲物をどちらにするかと、逡巡する様子は欠片も見受けられなかった。

「えぅ、うぐ……っく、この、こっちに……!」

 来るな、まだ来るな、立ち上がれれば逃げられる、今は駄目だ、来ないで。命令系の言葉が懇願に変わっていくのは、それが例え声に出しておらずとも、心が弱っていく過程を如実に表している。村雨はほんの一瞬、化け物があの子供ではなく自分を狙っている事で、子供に理不尽な怨嗟の念さえ抱いてしまった

「来ないで、来ないでってば! あ、あぁ、何かないの……!?」

 咄嗟には動けない、せめて身を守らねば。先程盾に使った脇差をもう一度翳し――それが既に、元の半分の長さしか無い、ただの鉄屑と化した事を知った。化け物は三間先まで迫っている。
 代わりの武器を探す。手に何かが触れて、祈る様に拾い上げた。赤ん坊の拳の様な、小さな小さな石だった。そんなものにさえすがる様に、化け物の顔へ石を投げつける。避けようとすらしない、顔の皮膚に傷もつかない。化け物は二間先まで迫っている。

「うぁ……ぁ、助けて、誰か……助けてよぉ……」

 赤の他人を助けようとして、化け物と対峙した筈だった。今は、この状況を脱する事が出来るなら、誰にだろうとすがるだろう。それが例え、身代りという形での救済だろうと、蜘蛛の糸を掴む事に躊躇いはするまい――化け物は、もう一間にまで近づいている。化け物の息遣い、空腹を訴える腹の音さえが、村雨の鋭敏な耳には聞こえていた。

「ひ、いや、ぁ……! やだ……死にたくない、やだ、やだぁっ!」

 恐怖心が意思と意地を完全に押しつぶす。そこへ迫る捕食者を見たくないが為に、目をつぶり頭を抱え、闇雲に立ちあがって走り出そうとした。二歩を行く前に、体がまた浮いた。
 半分だけ残っていた脇差は、今度こそ化け物の爪に完全に粉砕される。村雨は、頭を抱えた腕を、化け物の掌で強打された。先の一撃とは逆方向に吹き飛ばされ、落下地点は川。体を打つ事は無かったが、恐怖による混乱で、腰までしかない深さだというのに溺れかける。

「げほっ、がぼ、ぉご……、っは、はぁ、もうやだ……助けて、桜ぁ……」

 岸に這い上がり、咳きこんで気道の水を吐き出す。強打された左腕は、感覚が無いどころか、指一本を曲げる事さえできない。右腕と脚だけで体を支えるのは、心身とも打ち据えられた村雨には酷く難しかった。
 助けを求める声に、答えるものはいない。月明かりを遮る影の形状は、おおよそ自然には有り得ない化け物のそれ。村雨が岸に上がるのを、化け物はすぐ傍で待っていた――おそらくは、獲物を引きずり上げる手間が省ける故に。
 命乞いが通じる相手ではないと知りながら、村雨は祈る様に化け物を見上げた。確実に獲物の命を奪い取るだろう、巨木の様な右腕が振り上げられている。
 あれが降りてきた時、自分は死ぬのだと、月光を反射する爪を恨めしく睨み――空が鉛色ではなく、暗い濃紺に変わっていた事に気付いた。
 雲の一つもない夜空。満天の星の光の中に、一際大きく、そして異質な光がある。自分自身の力で光る事はなく、他者の光を受け取って輝きながら、その色は本来の物とは異なり――

 化け物の爪が振り下ろされる。川岸の土が抉れ、砂利が弾け飛んだ。爪の下に、本来生まれる筈だった死体は存在しない。化け物は獲物を見失い――己の右肩の上に立つ、灰色の少女の姿を見た。
 死の恐怖におびえ泣いていた少女は、今はもう、全てから切り放された孤高として化け物を踏みつけていた。決して届かないと知りながら、高い空に右手を差し伸べる。
 指の遥か先には、雲の晴れた空の中央、赤々と濡れた満月が浮かんでいた。




 橋の欄干に、一人の少女が腰かけていた。水に濡れた浅黒い肌が、洋風の外套一枚だけで覆われている。靴も何も履いておらず、水滴が素足を伝い、川の水面へ落ちていた。

「……なんの冗談でございやがりますか、糞お嬢様……?」

 その声、その言葉選びのおかしさを聞けば、それが橋の下から聞こえていた少女のものであると知る事が出来ただろう。化け物に与し、村雨への妨害を行った彼女は、今、己の目を疑っていた。
 化け物――『人工亜人』とこの少女は呼ぶ――は、息も絶え絶えの村雨に止めを刺そうとしていた。だが、村雨は、振り下ろされた腕を回避しただけでは飽き足らず、人工亜人に気付かれる事なく、その腕に飛び乗り、肩へ立ったのである。
 幾らか距離が有ったからこそ、一連の動作が見えた。対峙していたのなら、影を目に止める事さえ出来なかったに違いない。それ程までに、村雨の身のこなしは、常軌を逸した速度だった。

 己の肩に乗った小煩い獲物を払い落そうと、人工亜人が、左手の爪で村雨を引き裂こうと狙った。村雨は、最小限の跳躍で爪を回避し――落下に合わせ右手の指を、躊躇い無く人工亜人の両目に突き込んだ。

「――!? ――!? ――――――!!!」

 人差し指が右、中指が左、眼球の下から眼下へ指が潜り込み、引き抜く。正常に機能しない声帯しか持たぬ筈の人工亜人が、苦痛の絶叫で大気を震わせた。

「…………ァハハハ、ハハ」

 村雨の手の中に、目玉が二つ。一つを握りつぶし、もう一つを口に入れて噛み潰した。形状を失った眼球を咀嚼し、更に曳き潰して飲み込み、村雨は冷え切った笑いを上げる。
 人工亜人は、痛みに目を覆う。巨大な両手で顔を覆ってしまった、完全に顔面は攻撃が届かない。これ以上の痛みから逃れる為の緊急避難だろう。
 然し、村雨が次に狙ったのは、顔面では無かった。同じ頭部では有るが――側面、耳だ。左手で拳を作り、小指だけを伸ばし、人工亜人の右耳に突き刺す。本来の耳の直径を強引に破壊して指は進み、鼓膜を爪の先が貫いた。指を引き抜いて、肩から村雨が飛び降り、僅かに遅れて人工亜人の耳から、鮮やかな血が流れ落ちる。

「ギィィ――――ギアアァッ、ギガッ!!!」

 人の顔をしながら、人とは思えない奇声を上げ、人工亜人は腕を振り回す。盲の闇の中でのあてずっぽうは、ただの一撃も、地上に降りた村雨を捉える事は叶わない。
 それどころか村雨は、全ての爪を至近距離から、前髪数本だけに掠らせて避けていた。大きく離れようとせず、張り付く様にしているのは――次の手を、容赦無く打ちこむ為。右手の人差指と中指が、眼球の次に狙ったのは、人工亜人の鼻の穴だった。
 鼻の穴に指を突っ込むと、文字にしただけでは、威力の程が伝わらないかもしれない。だが、鼻の穴の中は粘膜だ。鍛える事など出来ないし、傷つけば只の皮膚とは比べ物にならない痛みが走る。
 それだけではない、鼻は呼吸器だ。傷ついて出血すれば、大きく呼吸は阻害される。それを知っていて村雨は、鼻腔に突き刺さるまで指を押しこみ、爪で粘膜を引き裂きながら指を抜いたのだ。
 転倒し鼻を打った場合などとは比べるべくもない程、大量の出血。人工亜人の鼻の機能は完全に破壊されただろう。

「ハハハ、ハハ――アッハハハハハ、ハハハァ……!」

 空になった眼下から滂沱の涙を流す人工亜人は、左耳だけに、その狂笑を聞いた。音の方角へ腕を振るう、何を捉えた感触も無い。当然だ、その時には既に、村雨は人工亜人の背後に回っていた。
 人工亜人の背後、村雨の口が大きく開かれ、ヒグマそのものの右肩に噛みついた。歯が毛皮に食い込む、腱がぶつぶつと切り裂かれていく。血が噴水の様に噴き上がったと同時、村雨の犬歯が、人工亜人の肩肉を喰い千切った。血管と腱、神経が破壊された様で、巨大な右腕が完全に力を失う。血塗れの肉の塊が、村雨の腹に収められる。

「……下手な刃物なら、毛皮も通さぬ程だと言いますのに……うそぉ――」

 欄干に腰掛けた少女は、この戦闘――いや、狩猟。ここに於いて、捕食者と被食者は完全に逆転した――に、介入すら忘れたかのようであった。人工亜人が、正真正銘の化け物が、無残に破壊され喰われていく。驚嘆の言葉を並べ終える前に、次は左肩の肉が食われ、人工亜人の両腕は完全に沈黙した。
 見えず、聞こえず、戦う事も出来ない。生きているだけの肉の塊になった人工亜人へ、村雨の狂爪凶牙が襲いかかる。膝裏を右手人差し指で強く突き、痛みで転倒させ、大腿に噛みつく。食い千切ったのは、僅かに大腿動脈に届かない位置の肉。出血多量で安らかに死ぬには、まだ時間が必要となるだろう。

「――嬲ってやがりますか、あの化け物」

 化け物と、少女は村雨を指してそう呼んだ。既に人工亜人は死を待つだけの餌であり、村雨は嬉々としてそれを破壊する化け物だ。欄干から少女は滑り下り、川の水に溶けるように姿を消す。
 うつ伏せに動けなくなったその首筋に、包丁の様に鋭い犬歯が近づいて――バシッ、と鋭い音が響く。いつの間にか駆けつけていた桜が、村雨の頬を張り飛ばしていた。
 頬への痛み、そこに居ないと思っていた筈の人間が居た事への驚愕。村雨が硬直している間に、桜は短刀を逆手に持ち、人工亜人の後頭部へ振り下ろし、確実に絶命させた。




 狂笑が止む。人工亜人の血に染まった村雨は、己が月より尚赤い事に気付いた。顔を服の袖で拭い、じんと染みる様な痛みのある頬を、手で押さえる。
 視界が暗くなった。何事かと思えば、村雨は桜の胸に抱きしめられていた。べっとりと濡れた顔が、小袖の布に押しつけられ、血の赤が落ちる。水に濡れた体は、夏とは言え夜風に晒せば寒さを感じる。背に回された腕が、暖かく心地よい。

「……殺すな。お前が殺すな、あれも人間だったのだ」

「ぁー……さく、ら……?」

 その声は、村雨の聞き違いではなく、震えていた。過ぎてしまった事に遅れて恐怖を抱き、もしまかり間違えていればと可能性にさえ恐怖する、酷く臆病な声。落ち着き払った普段の様子は、そこには見受けられなかった。

「殺さなければならない、そういう日が来るかも知れん。その時にお前が選んだ道なら、私は幾らでも見届けてやる。だが……これは違うだろう?」

 村雨の体から、異常な陶酔が抜けていく。強者をより強い力で嬲り喰い殺す事の悦び、生物として不必要な領域の殺戮欲求が消えていく。自分が何故ああなったのか、村雨は知っていた。桜が何故、こうして声を震わせているか、村雨は分からなかった。

「頼む、お前は人のままで居てくれ……お前は、人間なのだろう……?」

「……なんで、此処に―――ううん、勝ったんだよね……?」

 ただ、桜があの化け物を仕留め、自分を助けに来た事は理解出来た。もう、あの化け物が誰かを殺しはしないという事、自分も桜も生きているという事が分かった。衣の様に己に被さる桜の黒髪に、村雨はそっと指を通す。血と脂に塗れてはいても、赤みを帯びた艶は、赤い月などより数倍も美しく感じられた。もう、月酔いは醒めていた。

「ごめんね、ありがとう……ごめんね」

「……大馬鹿者、何を捨てても逃げればよかろうに……馬鹿め、この馬鹿」

 桜の指が、村雨の髪を掻き乱す。自分の灰色の髪は長さも無く、桜のそれと比べれば見劣りすると、村雨は常々感じていた。だが今は、こうして指で梳かれていれば、不満など何も見つけられない様な気がした。
 空は再び、鉛色を取り戻していく。月の目から隠れた地上で、村雨は、今暫く桜に抱かれていようと、川辺の草に背を預けた。








 夜が明ける前に市中見回りの者達の手で、化け物二体の死骸は回収された。喉だけを的確に突かれた一体は、事態の収拾の為に首を河原に晒された。もう一体は、首から上があまりに無残な状況であった為、速やかに焼却処分とされた。化け物による殺人は、三名の犠牲者を数えるに留まり、一夜にして収束したのであった。
 今、日は東の山から顔を出したばかりである。その光を背に受けて、桜と村雨は、西へと歩き始めていた。

「んー……もう少しちゃんとお別れとかさ、言わなくて良いの?」

「必要有るまい、永久の分かれでもあるまいに。それに、下手に顔を見せると土産をせびられる」

「あはは……神社巡りでもして、お守りでも買って帰る?」

 眠ったのは二刻程だが、足取りは軽い。前夜の負傷は大きく響いてはいない様子で、村雨は両手を頭の後ろで重ねている。

「どうするかな、仏教徒に神道の品をくれてやるのはどうかと思うが……良し、十字架にしよう」

「尚更悪いと思う」

 日の出と共に動き出す町は、既に賑わいを見せ始めている。人の流れに乗って、二人が向かうのは、東海道五十三次。品川宿の宿から始め、今日は程ヶ谷まで向かうらしい。ゆるりと脇道などして、道端の商店など冷やかして歩いても、日暮れまでには到着するだろう。別に程ヶ谷自体に目的は無いが、気を惹かれる物が有れば、少し長く滞在するのも良いだろう。旅とは自由なものなのだ。

「そう言えば、宿の方はどうする?」

「程ヶ谷だったら、安い宿はいくらでも見つけられると思う。細かい事を気にしなきゃ、十数文も有れば、屋根の下は借りられると思うよ。」

「いや、そうでなくてだな。私が言っているのは、近くに岡場所でもあるか、飯盛り女の質はどうかという話で」

「あんたちょっと黙ってろこのやろー」

 桜の脛に爪先蹴りを入れつつ、村雨は背負っている荷物から、幾重にも折りたたまれた紙を取り出す。広げて見せればそこには、五十三次それぞれの地名に対応して、宿の名前が二つか三つは乗せられていた。

「……あのね、こういう風にちゃんと調べてあるの! そこに到着してから宿を探すなんて、時間が掛かって仕方ないでしょうが!」

 出立が長引いた事を利用して、『錆釘』の資料から、評判の良い宿は見つけてある――評判の良い、そして宿泊料の安い宿を。ぱらぱらと捲って見せれば、今回は素通りするだろう川崎や神奈川まで、宿の名前が調べあげられていた。長雨などで道中を進む事が出来なかった場合に備えて、だ。

「おお……これは分かりやすいな、ふむ。わざわざ几帳面な事だ」

「旅の前って、普通はこういう風に、泊まる場所を決めておくものじゃないの?」

「知らん。少なくとも私は、その時その時の風任せだった」

「うん……まあ予想はしてたよ、なんとなく。桜って、計画性って言葉と縁が無さそうだもん」

 はぁ、と小さな溜息。それも心底あきれ返ったという風情ではない。友人の戯言を皮肉で咎める様な軽い声だ。
 えっほえっほと飛脚が走っていく。向かうのは東、桜達とは逆の方角だ。足元が草鞋でなく靴だった事から、おそらくは上方か、近くとも浜松から来たか、というところだろう。異国の空気を纏った飛脚を、村雨は何か、憧憬のような感情を抱いて見送る。

「一人旅かな、あの人?」

「だろうな、あれが生業なのだから。ゆうゆうと周囲の景色を楽しみ、女を楽しむ暇などあるまい。その点我々は――」

 おかしな同情の視線を、桜は飛脚の背に向けていた。優越感混じりの表情が、なぜか非常に、村雨の癇に障った。

「そうそう、私との旅の間は女遊び禁止ね。財布は私が預かります」

「――んな、ぁ、んだとぉっ!? そんな、旅の楽しみの八割が……何も吉原と言っているわけではないのだぞ……?」

「あんたの頭はそれしか入っとらんのか! 今の手持ちだと、余計な事に使えるお金が少ないの!」

 そう思った理由を、懐具合の寂しさから来るものだと、自分で自分に言い聞かせる。道中の宿代、食費の事を考えれば、豪遊する程の手持ちは確かにないのだ――が、二百文やそこらで買える安遊女なら、幾らか買った所で、然程影響も有るまい。桜の主張も、あまり間違っているわけではないのだ――根本的な部分から間違っている、という問題が有るが。

「とにかく、決定事項! 安全で快適な旅の為にも、無駄遣いは許されません!」

「ぐぅ……ええい、私は雇い主だぞ! 強権発動だ、雇用主命令だ、文句が有るか!」

「うぐっ!? こ、この、どうでもいい場面で余計な事を思い出してくれて……!」

 村雨自身が半ば忘れていたが、この二人の間柄は、契約関係である。桜が金を出して雇い、村雨はその意向に従って働く。つまり、契約が継続している間、よほどの無茶でも無ければ、村雨は従う義務が有る訳だ。

「……で、でも、実際にお金が……」

「稼ぐ手段など幾らでもあるわ。肝心なのは、旅を快適なものにする事だと、お前自身が言っただろう?」

「ぐぐぐ……うぅ」

 実際問題、桜ほど腕が立つのなら、道場破りでもして回れば、旅費に困る事も無いだろう。看板か金かと聞かれれば、武道家の意地、看板を易々とは降ろせない。本当に稼ぐ手段が有るからこそ、これ以上の反論が出来ず、村雨も言葉に詰まり――

「うぅー……あーもう! だったら好きにすればいいでしょー! その代わり、私と宿は別! 朝も自分で起きろ、寝坊禁止!」

 ――殆どやけになった様にふくれ、足音も荒く、桜を振り切って歩いていこうとする。

「おお、おいおい、待たんか。それでは色々と不便だろうが、合流するだけでも手間が……」

「うるさいうるさい、もう知らない! 好きなだけ遊んでくればいいじゃない!」

 慌てた様に脚を早め、桜は村雨の横に並ぶ。だが、村雨は視線を合わせる事もなく、靴の先だけ見て早歩きに進んでいく。

「おーい……」

「………………」

「おーい、返事をしろー」

「………………」

「はぁ……分かった、分かった!」

 桜が二度呼びかけて、どちらも返事が無い。三度目は声を掛けるのではなく、ぐいと腕を掴み、村雨を道の脇に引き寄せた。その時に村雨は初めて、あまり早く歩き過ぎて、先を行く荷車に突っ込み掛けていた事に気づく。

「初日の朝からそれでは私が持たんわ……お前の言うとおりにするから機嫌を直せ。な?」

 引き寄せられて、村雨はふくれた顔を上げる。じっとりと湿った視線は、桜にある種の重圧を掛けていた。愛想笑いをしながら、眉の端が下がっているのは、困り顔の証だろうか。

「……じゃあ、約束は出来る?」

「神に誓って」

 片手を掲げ、異国異教のやり方を倣った様に宣誓する桜。生活態度などを見れば、桜が神など信じていないのは窺える事である。

「信憑性皆無だよねそれ」

「だな、ならば何に誓えば良いのだろう」

 大真面目な顔をして祈る相手を探している桜に、村雨も根負けしたのか、二度目の溜息をついた。脚を止め、適当な塀に寄りかかり、まだむすくれながらも桜を見上げる。

「自分と私に誓えばいいじゃない、旅の間は女郎買いはしないって……こんな事、女に対して約束させなきゃないっていうのがおかしいよね?」

「何をいう、同性を愛して悪い理由が有るか。良く言うだろう、ほれ、好きになったものはしょうがないと」

 この国の価値観の外で育った村雨からすれば、同性愛というのは、それだけで不自然なものに思えている。悪い理由が有るかと問われれば具体例は無いが、然し良しとする理屈もまだ見つける事は出来ていない。だから、次に口にした言葉は、自分の価値観の変化に、自分でも驚かされるものとなった。

「そこは良いんだけどさー、もう少し一途になれないの? あなた、手当たりしだいって雰囲気だもの……群れを作らない動物は、一夫一妻が普通なんだよ」

「むぅ、一婦一妻か……定住も、道連れの旅も、これまで経験が無いのでなぁ……」

 自分が問題にしたのが、桜が劣情を抱く相手が同性である、という点では無かった事。相手を一人と定めない点をのみ、口を酸くして指摘していた事を村雨は気付かされる。これを表には出すまいと、おかしな意地は張り続け――

「江戸には二年居たらしいし……大体、今回の旅は私が一緒じゃない」

「だなぁ、うむ……うん? ほうほう、成程成程……」

「……何よ、急に気味の悪い笑い方して」

 我悟れりとばかり、目は平常の通りでありながら、口をぐうと歪めて笑みを見せる桜。村雨の背後から、肩に腕と首を載せるようにして纏わりつき、くすくすと喉を鳴らす。

「いや、お前も一人前に妬いてくれるのだなぁ……いい、可愛らしい事だ」

「ー―っ! 誰が嫉妬なんてしてるかぁっ!」

 湯に通された海老の様に、村雨の顔が赤くなる。ひっつかれて暑いのだと、言い訳をする事も出来よう。だが、それだけの理由で無い事は、自分自身が理解している。

「はっはっはっは。さあて、のんびりと行くぞー」

「離れろ、暑い、重いー! っていうか黒服が暖まりすぎて熱い! 夏にこの服装おかしいでしょ!?」

 道行く者は、姉妹の戯れの様に見て微笑ましさを感じたか、二人に妙に暖かい目を向けていく。それも気恥かしくて、じたばた暴れる村雨と、可愛い可愛いと繰り返しながら中々離れる様子の無い桜。
 ここは東海道五十三次、その一番目、品川宿。川崎宿への道中を三丁進むまで、この騒々しいやり取りは続くのであった。