烏が鳴くから
帰りましょ

白装鬼のお話

 二条城、地下。人骨で作った食器を用いて、狭霧兵部和敬は昼食を取っていた。

「うーぬ、これをどう思うね、どう思う?」

「行儀が悪いと思います」

「そうでなくてだな」

 箸で漬物を口に運び、味噌汁で押し流しながら、左手に持った瓦版を掲げる。側近の冷ややかな一言に、素直に箸を置いた。

「見ろ、ほれ。もう少しこそこそやっていれば良いものを、わざわざ顔まで晒しよって。これでは俺達とて動かずに居られん、謀反人を野放しにしてはおけんぞ」

「野放しに、しておきたかったんですけれどねぇ」

「そうだなぁ、全く外人は細やかな気遣いを知らんから困る」

 茶碗を引っ繰り返し、味噌汁の中に白米を放り込み、拳に握った箸で掻き混ぜる。味など不要、腹が満ちればそれで良いとばかりの食べ方に、和敬の側近は思わず眉を顰めた。尤も、顔を完全に覆う鉄兜が、その表情の変化を知らせはしなかった。
 この二人が頭を悩ませているのは、今朝方洛中にばら撒かれた『つぁいとぅんぐ』という瓦版についてである。つい昨日まで客人と遇していた、ルドヴィカ・シュルツの置き土産だ。
 別に今更、誰か知らぬ者がいたとも思えぬ様な事実を書かれたとて、政府に実害は無い。が――時代の最先端、写真機とやらで顔を写された女の存在が、和敬には懸念事項であった。

「兵士数十人を無傷で、だとよ。どう思うね、俺で勝てるか?」

「無理ですね、一合で首が飛びます」

「俺もそう思うのだ。では誰が止める? 止めん手は無いぞ、大っぴらに反逆者であると知らしめたからには、国家という物に殺される必要が有るのだ。それが近代化というものよ、なあ?」

 『錆釘』が、少なくとも表向きには服従し、それなりに質の高い手駒は動かせるようになったとて、やはり一個人の圧倒的武力は持て余す。だが、所詮は人間一人の行動範囲、被害は然程大きくもならない。
 なればこそ和敬は、政府兵士を狩る黒衣の女を、存在は知りつつも半ば無視していた。無理に殺そうとすれば噛み付かれる。獣の牙に掛かって死ぬなど御免だと、保身が為の思考であった。
 だがこうして、兵士を打ち倒す者であると洛中に存在を知らしめたからには――この女を、生かしておいてなるものか。味噌が沈殿した味噌汁の上澄みだけ啜りながら、和敬は思った。

「厄介なのはな、結びつく事だ」

「どれと、ですか?」

「全部だ。仏僧も神道も、俺の政敵も外敵も、何か足掛かりは探してるだろうよ。こいつは丁度良い踏み台だ、安い餌で走るだろうし踏み台にもしやすい。万が一に死んだとて、大きな痛手になるでもない……邪魔だなぁこいつ。
 つまりな、こういういくさ狂いは利用しやすいのだが、俺達の側にはまず傾かんだろう事が問題なのだ」

 遠からず――いや、もしかすれば直ぐにでも、この黒衣の女は、二条の城に刃を向けるかも知れない。その時に、誰がこの女を止めるのだろうか? この女を盾に行軍する、数千数万の軍勢を押し留めるのだろうか?

「……どうにもならんなぁ、最後の札を切るか。ああくそ、こいつを最初に出しておけばよかったなぁ」

「出し惜しみは悪徳です……〝鬼〟殿を?」

 和敬の側近は、膝を崩してから立ちあがった。襖に手を掛け、それから主の命令を受け取ろうとする。裁量する範囲を大きく任せられているからこその独断独行で――耳を疑るかの様に振り向いたのは、責任を逃れたいが為である。

「ああ、戦装束で出て頂け。全ての人的損害、物的損害は俺の権限内で処理する。今は五百の兵を殺そうが、この女一匹を殺す事が先決だ。今ならば、それが出来るのだ」

 あとな、と和敬は付け加え、頭蓋の杯から酒を啜る。果実から作られた洋酒は、血の様に赤い色をしていた。

「運良く生け捕りに出来たら、四肢を潰した上で裸体を晒させよう。昼は雑兵に身を汚され、夜は素肌を寒風に刻まれる。得た力の一片たりと用いる事なく、無力のままに慚死させるのだ。良いだろう?」

「鋸と焼き鏝、それから治癒術の術者。晒し台は馬車の後ろに繋いでおきます」

「分かってるなぁ、お前は本当に分かっている」

 和敬の上機嫌は、白米を腹へ掻き込む速度が語っている。彼の側近は、変わらず表情を鉄面の下に押し込めたまま、廊下を小走りで渡っていった。








 血の臭いは薄れないが、爽やかな秋晴れの朝の事である。村雨は未だ引かぬ顔の腫れを抱えて、ゆるりと街を歩いていた。
 あの喧嘩から数日過ぎて、西洋の暦ならば今は十月の二十日。薄着でいれば、時折は寒さを感じる時節だ。
 この日、村雨は、余暇をのんびり過ごす為の書物を探していた。自分の為ではない、桜が読む物である。

「うがー……あの記者、いつか本気でぶん殴ってやるー……」

 怒りの矛先が、かの少女記者ルドヴィカに向いているのは、桜が下手に外出できない立場となったから。その結果、自分が使い走りをさせられている事が原因である。――そも、それが仕事だという事は都合良く忘却した。
 先日洛中に撒き散らされた瓦版は、雪月桜という名前こそは載らなかったが、特徴的な衣服と氷像の如き容姿を、余すところなく絵に写していた。文章を追ってみれば、政府の兵士相手に大立ち回りをした事実を、殊更煽りたてる様な内容。
 思えば、下見をさせられた時に止めておくべきだったのだ。
 読み物として見る分には良いが、なまじ事実ばかり書いてあるだけに、大っぴらに広められると反論ができない。そして写真というものの正確性は、錦絵などとは訳が違う。写実的なんて言葉が無価値になる程に現実を写すのだから、描かれた者が誰の目にも明らかとなるのだ。
 おかげで昨日など、村雨はとんだ騒ぎに巻き込まれかけた。茶店の美人に声を掛けていた桜が、拿捕に来た兵士三十人ばかりを、白昼堂々叩きのめしたのだ。
 屋根伝いに逃げ、夜まで身を隠し、人目を避けて宿へ戻る。宿では堀川卿が、もう全て諦めたと言わんばかりの顔で待っていた。

『頼むからもう外出せんどくれやす……』

 不要な争いを避ける、そういう方針の堀川卿である。もはや半分程泣き顔での懇願に、桜より先に村雨が折れた。どうにもならぬ時は真夜中に――それ以外の全ての用件は、村雨が代わりに済ませる。そういう事で纏まったのだ。
 だのに村雨が仰せつかった買い物の内容と言えば、十四の少女が買い漁るにはそぐわぬ本――西鶴の好色物やら、どぎつい春画本やら。
 桜が敢えて真っ当な読本を選ばず、こんな物ばかり指定したのは、やはり羞恥に染まる村雨の顔を見たかったとそれだけの理由だろう。変わらずぶれぬ女であった。

「……良し、陰間同士の絡み本でも買ってかえろう、うん」

 恐らくは桜に取って、食卓で虫の話をするより効率的だろう報復手段を考えつつ、ふと村雨は顔を上げた。
 右手の方角、人間の群れの臭いがする。それが――傷病者に特有の、組織液の臭いが強いと感じとった瞬間、村雨は咄嗟に走り出していた。
 角を二つ曲がれば、先程より少し細い通りに出た。背の高い建物の影で、あまり裕福ではなさそうな人間が寄り集まる――つまりは、江戸でいう長屋の様な所である。表通りより少しだけ、道行く人の身なりがみすぼらしかった。
 石畳も敷かれず、見慣れた小石と砂の道。そこに老若男女問わず、合わせて三十人ばかりが跪いていた。

「……何してるの?」

 危険は感じなかったが、好奇心は有った。端の方に居た老婆に訊ねると、皺だらけの柔和な笑顔が返る。

「あぁらあら、酷い怪我をして。どうしたの、痛くない? もうすぐだからねぇ」

「えーと、うん、痛くないから大丈夫。何してるの?」

 老人に特有の、まず自分の言から入ろうとする会話。適当に受け流し再度訊ねると、

「あら、御力を受けに来たんじゃないの? そうなのぉ……でもどうせだしねぇ。治してもらいなさいな」

 やはり要領を得ない答え。見かねてか、横に座っていた男性が言葉を引き付いた。

「エリザベート様がいらっしゃるんだ、私達の為にです。うちの婆さんは腰が直ったし、私もほら」

 男性は着物の片肌脱いで、村雨に右肩を見せた。かなり巨大な火傷の痕が有った――よくぞ生きていたと驚嘆する程の。背中の大半、脇腹から胸、腹。傷はほぼ治癒し、皮膚も引き攣れているが、衣服を羽織って痛みも無い程度に回復していた。

「それ、どうしたの?」

「……私の家の隣に寺が有りまして。焼けた柱が倒れて来たんですね」

「え――数日前じゃない」

 村雨は耳を疑った。この規模の傷が、そんな短期間で治る筈は――そこまで考えて、それは野生の常識だと思いなおした。
 魔術全盛の世の中だ、治癒の術も進化している。村雨自身、致命傷を負った人間が魔術に命を掬われた光景を、一度確かに見ているのだ。
 島田宿で、あの杉根智江が用いた治癒魔術――傷の殺菌消毒と縫合、肉や血管の再生までを同時に行うものであった。医療技術だけでは決して辿りつけぬ瞬間的な治癒、その可能性は十分に知っているのだ。
 然しあの時は――治療された男は、ついに腕の機能を完全には取り戻さなかった。肉も皮膚も元より弱弱しく復元され、もう包丁は握れないだろう有り様だった。
 それが、この男性の火傷痕はどうだ。見事に治癒し、皮膚の他に何も異常は無い。筋肉も神経もきっと健常者と変わらず働いているだろう。

「家族の為に働けないかと思いましたが……はっはは、もう米俵だって担げますよ」

「ほんならうちにも一つ運んでくれへんか?」

「駄賃は頂きますよ」

 中年の女が冗談めかして言った言葉に、男性は爽やかに言葉を返し、集まった皆が笑った。凄惨な傷跡だと言うのに陰鬱さが無く、村雨も思わず釣られて笑ってしまった。

「皆様、お元気そうで何よりです……楽しいお話かしら?」

 笑いがさざ波のように引いて、代わりに喜びと畏敬の念の混ざったどよめきが起こった。僅か三十人ばかりが発しているにしては、あまりに強い声だ。感情の大きさを表している様だった。
 静かに、足音も無く現れたのは、小柄な一人の女であった。村雨と背丈は然程変わらず、骨格もかなり細く出来ている。その儚さと言ったら、紺色の修道服の上からでも、線の細さが分かる程だ。
 頭巾は身につけていない。視界を広く持つのは、それだけ同時に大勢の人間と向かい合う為か。きっとそうなのだろうなと村雨が思ったのは、彼女は場の全ての人間と、必ず一度は目を合わせていたからだ。

「エリザベート様! お待ちしておりました……!」

「平十、肩の調子はどうですか? 貴方の手は荷を運ぶだけでない、家族を抱く為に有るのです……大事になさい」

 片肌脱ぎの男に歩み寄り、女はさっとその肩に触れた。手が重なり、そして離れた時には、男の引き攣れた皮膚は、子供の様に滑らかなものへ変わっていた。

「おお……ありがとうございます、ありがとうございます……!」

「奥さんのお腹の子、見てきましたが……おめでとう、一度で二児の父ですわよ」

 地に伏して己を拝む男に、もう一つ優しい言葉を掛けて、修道服の女――エリザベートはまた別な者へ歩み寄る。

「お関、力仕事は男衆に任せなさいと言ったでしょう……腰は長く響くのですよ?」

 村雨に声を掛けたあの老婆の背を、エリザベートはすうと撫でた。途端、老婆の表情が、雲間から光が差した程にも明るくなった。立ちあがり、両手を掲げてぴょんぴょんと飛び跳ねる姿は、子供がはしゃぐ様で微笑ましい。

「金蔵、指はもう動きますか? ……これなら指相撲も出来ますね、えい」

 手に包帯を撒いていた、三十過ぎの男。その手を握手する様に握られ、親指を親指で押さえられ、赤面する様を笑われる。彼の細君とおぼしき女性が、鼻の下を伸ばす亭主の頭にげんこつをぶつけた。

「駄目ですよ、ふく? そんな事だから金蔵がこうなるんです……ちゃんと手綱を握りませんとね?」

 ふくと呼ばれた女性は、顔に大きな火傷痕が有った。エリザベートの手が一度触れると、爛れた皮膚は忽ちに、染み一つない肌へと変わった。

「……わー……これ、どういう……?」

 目の前の出来事に、村雨の理解は追い付いていなかった。
 村雨の嗅覚は、魔力の流れを察知する。これが治癒魔術による現象である――それは感覚的に分かっていた。
 分からないのは、魔力の流れの少なさと、得られた結果の大きさの差異だ。高位の術者が詠唱を伴い、然して完治させる事は出来ないのが人体の精妙さ。それをエリザベートは、ただ手を翳すだけで治してしまう。それも、負傷する前の機能を完全に伴ったままで。
 こんな事が可能だったのか――実際に今、可能にしている者がいる。

「貴女は……あら、初めて見るお顔。旅の方かしら?」

 エリザベートの手が、村雨の頬に触れる。顔に残っていた青痣も切傷も、肉に染みていた痛みさえ、全てが瞬時に消え去っていた。

「折角の可愛らしいお顔なのです、大事にしなくてはなりませんよ?」

 真実、慈愛からの忠言を受け止めて、村雨は戸惑いつつも頷き――そっと、人の群れから離れる。離れて歩き、角を曲がってから走り、元の通りまで逃げて漸く息を吐いた。
 逃げた理由は――村雨本人さえ分からない。だが一つだけ、心当たりは有った。

「あれが〝大聖女〟エリザベート……? あんな、普通な人が……?」

 『聖言至天の塔教団』、黒い噂ばかりを聞く怪しげな団体。自分達と敵対した事も、一度や二度ではない相手。
 その頂点に立つ教祖が、巷間に人と戯れて人を癒し、あまつさえ自分にも慈愛の笑みを向ける。その異常が――心地好くて、溺れそうだったからだ。
 今も向こうの通りから、朗らかな笑い声が聞こえてくる。楽しそうで、後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、村雨は歩き始める。数歩ばかり歩いて――突然、道の脇に座り込んだ。
 北から吹き始めた風が、最早自分にも染みつく程馴染んだ臭いを運んでくる。俄かに痛みだした腹を抱え、脂汗の量に比例して鋭敏になる嗅覚に任せ、村雨は風上を目指す。
 昨日の月は、良い月だった。そんな事を、村雨は思い返していた。








 人の臭いを、村雨が間違える事は無い。ましてそれが、日夜隣に立っている者であるのなら、例え百万の軍勢からでも見つけ出すだろう。
 だから、何層にもなった人だかりを見つけても、村雨はまるで躊躇せず飛び込んで行った。
 小柄な体を利して、見物人の隙間を抜けて最前列へ。そこには――確かに、雪月桜が立っていた。

「んな――」

 何でここに居るのか。村雨はそう叫びそうになり、慌てて口を抑える。知り合いだと知られるのが、少し拙い状況であるからだ。何せ桜は、政府の兵士に正面から刃向う謀反人であり――丁度その時も、政府兵士と抜刀して向かい合っていたのだから。

「どうした、私に用では無かったか? 望み通りに出て来てやったのだ、あまり待たせてくれるな」

 黒太刀は鞘に収まったまま、手にしているのは脇差一振り。それが、槍兵十数人を怯えさせている。戦を生業とする兵士だからこそ、彼我の戦力差を感じとり、一歩も踏み出せずに居るのだ。
 何故、桜が此処にいるか。それは取りも直さず、政府兵士の呼びかけが理由である。
 出て来い黒八咫、臆したか。こんな子供じみた挑発に、桜は嬉々として乗ったのだ。一応ばかり宿の屋上から、別な建物の屋根を経由し、潜伏先を隠蔽する努力だけはしていたが――恐らく堀川卿は、頭痛の薬を探している頃だろう。

「お前達も難儀だなぁ。上の命令には逆らえんか? 勝ち目のない戦に踏みだすとは……。
 おい、端を潰すのはもう飽きたぞ。頭は何処だ、何処に置いてある?」

 左腕の矢傷はまだ癒え切らないが、桜の心身は充実している。この日を以て桜は、洛中虐殺の首謀者を切り捨ててしまおうかとさえ企んでいた。
 京都の旅に水を差した誰かを、許してやる寛容さは持たないのだ。我道の妨げは力で排除し省みない。それで全てを解決してきた、そういう生き物が雪月桜だった。
 退屈が我慢の限度を過ぎ、駆けようとした桜の足を止めたのは、更なる強者の気配。村雨は、鉄の臭いを掻き消す程に濃密な脂と血の臭いに――食欲を掻き立てられつつ、腹痛が増して、その場にしゃがみこんだ。

「白槍隊だ! こら見物やねぇ!」

「白槍隊が来た……退け! 退け!」

 先に叫んだのは、柄付きの着物を纏った若い男――野次馬だ。焦りを声に出していたのは、政府の兵士達である。何れもが槍を肩に担いで、見物する町人を突き飛ばす様に走り去った。
 そうして開いた空間を埋める様に――現れた者達が纏う気配は、桜が唸る程に豊饒な闘気であった。
 何れも白い脚絆、白い足袋、白い羽織。鉢巻きも白、担ぐ槍の柄も白。腰の脇差の鞘から、吊り紐に至るまで全てが白。爪先から頭の先までぴんと伸びて、ただ立つ姿さえ伊達である。

「槍掲げ――構え!」

 三十人程の精兵達は、その内の一人が上げた声に従い、槍の穂先を一斉に桜へ向けた。全ての動作が完全に揃った、芝居などより余程見応えの有る陣形である。

「おう、嬉しいな。なんと言う好待遇だ、涙が出るぞ――ぉ」

 歓喜に身を震わせる桜だが、自分から切りかかりには行かなかった。どうせならば同時に向かってくる所を、纏めて打ち倒そうと身構えていたのだが――白装束の兵士達は、動こうとしなかった。槍で壁を作って、桜を逃がすまいとしているだけだった。
 然し、その理由は直ぐに――有り得ぬ程の巨体と共に見えた。

「おお――なんだあれは、なんだ。やはり世界は広いなあ、っはは……!」

 桜は静かに興奮していた。自分が見ている物が、幻覚でも何でもないと分かっているからだ。
 何時の間に、そこに居たものだろう。
 その男は、通りの向こうから民家の屋根越しに桜を見下ろしていた。屋根に手を付き、柵か何か乗り越える様に跳ね、こちらの通りに立つ。人垣を軽々と〝跨いで〟渡り、桜の前に立ちはだかった。
 他の兵士達とは違い、その男は鎧を身につけていた。源平の戦の頃から有る様な骨董品――を、今の技術でわざわざ補強した物だ。
 獲物は巨大な鉞。三つ胴は言うに及ばず、丸太を三つ重ねても立ち切れそうな程、分厚く重い刃を備えていた。刃の長さだけで、村雨の上半身を超え、柄は桜が両手を広げたより長い。鋼作りのその重量は――目方で二十貫を超えていた。

「黒の八咫か、成程これは狂鳥に御座る。名は?」

「雪月桜、北の育ちだ。お前は?」

 落雷の如き重く低い声で、男は桜に名を訊ねた。焦らしもせず応えたのは、桜自身が、この男と戦いたいと焦れていたからだ。

「白槍隊隊長、波之大江なみのおおえ 三鬼さんき――戦を愉しむは悪しと承知で、尋常なる勝負を所望致す!」

 ざんばらの頭髪から二本の角が突き出し、陽光を刃物の様に照り返す。
 身長一丈二尺八寸(約380cm)、体重二百四十と七貫(約930kg)――巨躯の男に数倍する、鬼が大地を踏みつけていた。








「――あ、う……あぁ、あ」

 鼠は猫に勝てない。狐は狼に勝てない。獣には動かし難い順列が有る。
 村雨は、降臨した怪物を前に、尾を腹に巻いた犬の様に怯えていた。
 あれは――人の形をした生き物が、勝てる相手ではない。あの怪物の前では、人間も亜人も同じ、ただの弱者に過ぎない。理性ではなく本能、心ではなく魂の領域で、村雨はかの鬼の絶対を感じ取ったのだ。
 歯がガチガチと打ち合わさる。雪原に育った村雨が、耐えられぬ程の寒気に襲われている。

「ヤバ、に、逃げ……な、きゃ」

 確かに、桜は化け物染みて強い。相手が人だろうが獣だろうが、亜人だろうが負ける様を想像できない。だが今回の相手は――生物の枠に納める事さえ、恐らくは見当外れの怪物だ。
 鬼。日の本の伝承に残る、巨躯と怪力を誇る魔物。亜人の一種という学説も有るらしいが――こんな物が自分の同類などと、村雨はとても思えなかった。殺人兵器たる人狼が、己の生業を忘れて怯え竦んでいた。
 許されるならば――いや、咎める者は誰も居ない。この瞬間にでも逃げだして、宿に戻ってベッドに潜り、この鬼の臭いが遠ざかるまで隠れていたかった。そうしなかったのは、桜が心底嬉しそうだった事と――昨夜からの体調不良で、激しく動きたくなかったからであった。

「まずは……ほれ、受けられるか?」

 桜は無造作に鬼へと歩み寄り、右手を掲げ、不敵に笑う。
 その意図は、ただ眺めているだけの者達には計り知れなかったが、当事者である鬼には伝わった。伝わったからこそ、鬼は強面を崩し、砕けた岩の様な笑みを見せた。

「拙者と力を競うか、酔狂な化け烏よ」

「酔うて狂うてこそ本懐よ、臆するか?」

 何を、と吠えて、鬼は桜の右手に、己の右手を正面から重ね合わせた。指が組み合わされ――石畳が、二人の脚力に耐え切れず、擂鉢状の罅を走らせた。

「お――お、お、これは女子おなごと侮っては――!」

「なんだお前、そんな面して紳士気取りか」

 鬼が表情を変えた。物好きな子供の行動を楽しむ顔から、敵の強さを警戒する戦士の顔へ。桜は変わらず、闘争の愉悦に浸っている。
 だが――押し負けているのは、明らかに桜だった。
 互いに力を込めて前へ出ようとする。桜の足が石畳の上を滑り、手首は次第に額へ近づいていく。手の甲、首に浮かぶ血管から、桜がその剛力の全てを発揮している事は明らかだった。
 然して鬼は――まだ、全てを出し尽くした様には見えない。圧倒的に押し込む事は出来ないが、膠着もさせず、じわりじわりと桜を押し込んでいた。

「お見事に御座る。拙者の歩みをこうも妨げたは、三十の歳月、ただの一人と居らなんだ」

「奇遇だな、私も力負けするのは初めての――ぉお、ぐ、ぐううぅ……!」

 力比べの優劣は既に決まった。桜はとうとう、己の腕に押され、仰向けに崩れた。鬼を手を剥がそうと左手を伸ばし――手首を、逆に掴まれた。
 技量の介在しない掴みあいは、力の優劣が全てを決する。大の男が数人がかりで動かす事も出来ない桜の腕は、あえなく引き伸ばされ、そして体が宙に浮いた。

「そこな町人、修繕費は二条の城に請求致せ!」

 桜自身が得手とする、人間を振り回して投げ捨てる荒技――それを鬼は、倍以上の高度から敢行した。煉瓦作りの商店の壁へ桜を投げつけたのだ。
 人が、目に止まらぬ速度で飛ぶ――有り得ぬ事である。ここに於いて町人も村雨も、何故政府の兵士達が退いたかを理解した。この怪物の傍に立つには、巻き添えにならぬ力量が必要なのだ。
 野次馬の波が引き、人の輪が直径を数倍に増す。邪魔者が失せた空間に、鬼は良しとばかりに頷いて、崩れた煉瓦壁から桜の体を引きずり出した。

「か、っは――りゃあぁっ!」

 右足を掴まれてつりさげられながら、桜は左足で鬼の顔を狙った。桜の脚より、鬼の腕は長い。届かず、再び振り回され――真っ直ぐに石畳に投げ落とされた。

「意識が有るか、ますますお見事……ふんっ!」

 人が石の上に落ちて弾む、これもまた、真っ当に生きて見る事は叶わぬ光景である。弾んで浮いた桜の、今度は首を鬼の手は掴み、もう一度地面へ投げつける。
 さながら女童の毬遊びであった。石畳に叩きつけられた体が、反動で跳ねあがって来る所を掴んでもう一度、もう一度。この鬼に手心は無い。石畳が完全に砕け、反発力の少ない土が露わになった時、漸く鬼は手法を変えた。先程崩した煉瓦壁へ、もう一度桜を投げ込んだのだ。

「白槍隊、五歩後退。拙者、貴君等を巻き添えにせず、この剣士を仕留むる術は無し!」

 無造作に、隣接する建築物の壁を引きはがし、中を走る鉄骨を引きずり出す。軽々と片手で振りかざし、振り下ろす先には、既に瓦礫と化した煉瓦壁――その下に桜は倒れていた。
 金属が煉瓦を粉砕する音は、土石流の如く轟く。獲物の姿も見ぬままで、鬼は怪腕の万力を振るっていた。

「――ぅ、あああ……あ、どうしよ、どうしよう……!」

 野次馬の群れに紛れて、自らも大きく引き下がりながら、村雨はかたかたと身を震わせていた。
 幾ら桜が強かろうが、鬼を相手にして無事で居られる筈が無い。助けなければ――そう思い、だが脚が動かない。
 無理も無い。あの鬼に立ち向かって、数秒と無事で済む事さえ奇跡だ。並みのつわものであれば、手が触れた瞬間に死んでいる。村雨の嗅覚は、鬼の強さも嗅ぎつけたが故に、脚に力を伝えようとしないのだ。

「御待ちなさい。怖いなら、恐れても良いのです」

 それでも、ままならぬ脚を叱咤して、村雨はやっと立ちあがった。肩を叩かれ、また膝が力を失って、へたり込むように座ってしまった。
 そこに居たのは、細通りで人の傷をいやしていた女――拝柱教の〝大聖女〟エリザベートであった。

「あなた、さっき――」

「ええ、先程も会いましたね。……他の皆よりも憂いが濃い、あの女性の御友人ですか?」

 修道服を纏った小さな体は、野次馬達の中に居ては目立たない。彼女はそっと膝を曲げ、村雨と顔の高さを合わせた。

「止めないと、このままじゃ……」

「死んでしまう……ですか?」

 村雨は頷いて、立ちあがろうと手に力を込めた。エリザベートは、村雨の両肩に手を置いて、首を左右に振る。通さぬ、と言う事だろう。

「何でよ、何で――」

「貴女まで打たれる事も――争う事も有りません。咎は少数で分け合い、多数で共有するのは幸福だけであるべきなのです」

 聖女と呼ばれる女は、涙で頬を濡らしていた。何故であろうか――村雨は、不思議と直ぐに理解してしまった。
 この女は、全ての不幸に共感し、心の底からそれを無くしたいと祈っているのだ。打ち据えられる桜の痛み、助けねばと立つ村雨の焦燥、その他ありとあらゆる不幸の全てを、どうにかして救わねばならないと思っているのだ。

「……辛いでしょうね、彼も、彼女も。命を奪われる苦しみなど、弱者を甚振り葬らねばならぬ悲痛など……本当は生まれなければ良かったのです」

 出来る筈も無い。所詮は夢幻、絵空事に過ぎぬ祈りだ。そもこの争いは、お前の意向が故ではないのか――糾弾の言葉が喉に詰まり、村雨は結局、そう叫ぶ事は出来なかった。エリザベートは鬼に歩み寄り、鉄骨を振り回す腕に触れた。

三鬼さんきどの、この方と話をさせてください」

「エリザベート殿……御覧であったか、お見苦しい所を」

 平地になりかけた瓦礫の前で、漸く鬼は手を止めた。息一つ乱さず、汗も掻いていなかった。

「して、話ですとな。この女子は狂うておりますぞ、近づかれるは危険かと」

「構いません――聞こえていますか、黒羽の八咫烏」

 崩れて砕けた煉瓦の下へ、エリザベートは呼び掛けた。
 答えは無い。桜は身じろぎすらせず、瓦礫の中から腕だけ、外へ突き出して倒れている。

「貴女の力は素晴らしい。それは間違いなく、世界を良い方向へ導く助けとなります。例え今の世で恨まれようと――」

「……神気取りか、大聖女とやら」

 然し、声ばかりは聞こえた。常よりは力の無い声である。

「いいえ、我らは神の御心に従い、御心を為す為に生きるのです」

「隣人愛を為す術が殺しか、押し込み強盗もまだ少しましな言い訳を選ぶぞ」

「神は人を赦してくださいます。然し人の生は――赦しを待つには短すぎる。貴女は今まで、人を殺めた事がありますか?」

「ああ、数え切れん程にな」

 エリザベートは嘆息し、また涙を流した。名も知らぬ誰かが不幸な死を遂げた事、一人の女が罪を重ねた事。二つの悲しみを、彼女は心の全てで感じていた。

「神はきっと、貴女もお赦しになられる。然し今のままに暴を為し続けるのであれば、赦しより先に貴女は取り除かれてしまう。貴女が存在する事が、良く生きる者達の道を閉ざす原因となるなら、私はそれを見逃してはおけません」

「ならば、どうする。殺すか?」

 きっと、幾度と無く繰り返された問いなのだろう。エリザベートは躊躇せず、だが絞り出す様な声で答えた。

「……はい、改めないのならば。他の全ての幸福の為に、貴女の幸福を奪います」

 か、と短く桜が笑った。笑って――崩れた屋根が浮く。煉瓦壁がざあと流れて、石畳の上に散らばった。
 額を切ったのだろうか、顔を赤く染めた桜が、投げ込まれた家の土台を掴んでいた。

「そうか、そうか、ならばお前は敵だ。しかも――今、この場で殺さねばならん類の」

「エリザベート殿、お下がりくだされ! こ奴……並みの狂に非ず!」

 家が、土台ごと持ちあがった。
 中にある家具も衣服も一切合財、地面から浮いて振りかぶられる。朱染めの顔に陶酔の赤を混ぜて、桜は家屋一軒を槌代わりに振り下ろした。
 小さく大地が揺れた。建材が石畳に激突し、大量の破片を飛び散らせた。落下地点に立っていた鬼は、頭を強かに打たれ、思わずたたらを踏んだ。
 木と煉瓦と金属の雨を、桜は一足で駆け抜けた。鬼の懐へ潜り込み、膝へ拳を叩き込む。鬼は大きく体勢を崩しながらも桜の肩を掴み――そして、呆気なく仰向けに投げ倒された。

「お、――がっ!?」

「やはりか、鍛練が足りんぞ」

 桜が用いた技術は、言うなればやわらの一種である。掴みかかってきた相手の腕を、痛点や関節を抑えつつ動かす事で抵抗を防ぎ、相手の力を利用して投げる技術だ。
 小指を逆に曲げ、折れるのを防ごうと体を浮かした鬼に併せ、自分は潜り込んでその巨体を跳ね上げる。一連の動作は正しく――他者を蹂躙する喜びが為とは言え――長き鍛練を経た者だけが許される絶技であった。
 巨躯の鬼を地に捩じ伏せ、桜はエリザベートの前に立ち、

「死ね。その妄執は地獄で語れ」

「ええ、私は地獄へ――」

 ただ一太刀で、首を跳ね飛ばした。血の飛沫が、赤々と日に映えて美しかった。
 野次馬達の間に、恐怖がどよめきと共に伝播する。幾人かはこの場を駆け去って――首を落とされた胴体は、未だに両の足で立っている。

「残りの連中、退くならば退け。首領が死ねば、戦も何もなかろうに。なぁ?」

 脇差の刃に付着した血を、ひゅうと一振り、払い落す。槍を構えた白装の兵士達が、怯んだか、陣形を乱した。

「ええ、死ねば御仕舞です。全ての理想は、死ねばなんの役にも立たない」

「な――!?」

 聞こえてはならぬ筈の声が聞こえた。桜は反射的に黒太刀を抜き、首を失った胴体を横に薙いだ。刃は確かに肉に食い込み――何故か背骨を断つ事が出来ず、また刃を引き抜く事も出来なくなった。

「首は落ちたのだぞ、素直に死ね、ええいくそ……!」

「だから、だから私は死ねないのです。邪法の謗りを受けようと、死後の責め苦を確約されようと、私は」

 石畳に落ちた首が、ころり転がりながら口を利いていた。溢れる涙を拭う手が無い。きっとその目に映る視界は、ぼやけた上に赤く染まっているのだろうと思えた。
 立ちあがった鬼が、大鉞を桜の頭へと振り下ろす。開いた左手、脇差で受け――やはり力では分が悪い。押し込まれつつも、既に桜は、受け流す算段を付けている。

「〝蒼空そうくう〟!」

 修道女の首は、誰かの名を呼んだ。



 もしも、無理に理由を見つけようとするのならば。
 扇殿 矢代から受けた矢傷が、未だに完治していない事。黒太刀の刃がエリザベートの身に食い込み、思う様に震えなかった事。また、多勢に無勢であった事――幾つかは、挙げられるのだろう。
 だが、仮に桜が万全であったとして。傷は一つも無く、両手に抜き見の刃を握り、万全を期して戦場に立っていたとて――その結果は、覆す事が出来たのであろうか。



 村雨は、頭蓋の内側を針で刺された様な錯覚を覚えた。空気が切り裂かれる、甲高い音が響いたのだ。
 砂塵が巻きあがり、風圧で座ったまま後ろに倒れかけ――どうにか留まって、そして、見た。
 桜の脇腹から紅い血の華が咲き――背中合わせになる様に、一人の少女が立っていた。
 少女が何処から現れたか、何をしたのか、村雨には見えていなかった。そればかりか――その少女が近づいていた事さえ、村雨の鼻は捉えていなかった。意識の外から、風が臭いを運ぶより速く、少女は桜を斬ったのだ。
 獲物はたった一振り、艶めいた紫の刃を持つ刀。芒洋と空を見上げる目は――右目は黒。左目は欧人よりも色濃き蒼。頭髪は老婆の如き白で、槍持ち達と揃いの白服に、まこと似合いの色であった。

「――ぁ、なん……、く、が……、かはっ――」

 臓腑から零れた血が喉を遡り、桜は血を吐いて倒れ伏す。

「ちょっと外した、けど……これで、いい……?」

「ええ、ありがとう、蒼空。……お父様にも、感謝を伝えてくださいませ」

 己が斬った獲物――未だに息の有る桜に、少女は興味を抱かない。刃を鞘に納め、小さなあくびを噛み殺す。
 エリザベートの首は、己を斬り落とした女の為に、真実の慈愛を以て神の赦しを乞うていた。








 白槍隊――白備えの精鋭兵士達が、倒れた桜に槍を突きつけた。

「生きています」

「好都合よ。兵部殿には、生かして捕え、連れてこいとの仰せに御座った。ただ――」

 鬼は悲しげに、血の海に沈む桜から目を逸らす。

「腕も脚も、全てが凶器。鋸で挽き落として運べ……だそうな。惜しい事よ、誠に惜しい」

「惜しい?」

 槍兵達の中で、一際肝が据わっている者が、鬼の零した言葉を拾う。

「この女子、両手を塞がれて尚、蒼空そうくうの刀を肘で弾いた――胴を二つに断つ剣筋だったが。
 二度とこの猛者と戦えぬとは――侭成らぬものよなぁ、何も、何も」

「お待ちください、何もそうまでは。ならば命を断てば良い、徒に酷な生を与えるなど」

 エリザベートは斬り落とされた己の首を拾い上げ、肩の上に正しく固定しながら鬼の前に進み出た。
 死ぬ事と、何も出来ぬ体にして生きながらえさせる事と、何れが残酷であろうか。エリザベートは後者こそ、命よりも尊厳を奪う事こそ、無残なやり方だと信じていた。

「我らは兵部殿の直属、兵部殿の命により動く者に御座る。我らの判断は全て――」

「そうだ、俺が下し、俺の責に於いて実行する。心得たものよなぁ三鬼さんき、お前は良い部下だぞ」

 同じ事を――狭霧兵部和敬も考えていた。強者から強さを奪う事は最大の残酷刑であり、己の趣向を最大限に満たしてくれるものだと知っていた。

「大聖女どの、これは見せしめです。貴女の理想に立ちふさがる者が、如何様な道に堕ちるかを万天の下に晒す為の。ならば極力残酷に、見苦しく完遂せねばなりませぬ。お分かりか」

 野次馬の群れから頭一つ抜け出る長身は、然し鬼を前にすれば矮躯としか映らない。武士ならば腰に刀を下げるのだろうが、代わりに和敬は、巨大な鋸を吊るしていた。

「……分かりません。それは神も赦さない暴挙です。貴方も望んで地獄へ――」

「俺の地獄行きは定まっているのですよ。その巻き添えを増やしたくないと、そう望んだのは貴女の筈だ。ここで一人の四肢を落として、道連れを減らせるならばそれで良いのでは? それとも貴女はこの場の残酷を厭うて、後の世に億の禍根を残すおつもりか!」

 鋸を振りかざし、和敬はエリザベートを恫喝した。
 論理構築などまるで考えもしない、声量に任せて押し出す様な――然しその声は、エリザベートの何か、きっと人格を為す根幹に触れたのだろう。

「そうですね……貴方はいつも正しかった。貴方の言に従って、私は此処まで来たのですから……ごめんなさい」

「お分かり頂けたのなら、いや重畳、重畳。では改めて――まずは左足から落とそうか」

 エリザベートは十字架を強く握り、桜の前で膝間づいた。それから――止まぬ涙を袖で拭って、目を大きく見開いた。これから起こる蛮行を、一つ足りと見逃すまいと覚悟を決めたのだ。








 まるで理解が出来ず、また理解をしたくも無い会話だと、どこか乖離した様な意識の中で村雨は考えた。
 生きる、死ぬ、赦す、赦される、思考を弄ぶ趣味は無い。村雨は獣であり、単純な思考回路を持って生まれていた。だから、傲慢に敗者を見下ろす彼らを、理解する事は出来なかったのだ。
 二度と戦えぬだろうと、強者の死を惜しむ鬼。惜しいのならば助ければ良い、何故その力を振るおうとしないのか。自分ならば、迷わずその鉞で、兵士を散らして助けだすだろうに。
 聖人面をして、人の傷を戯れに癒しながら、同じ目で苦しむ桜を見下ろす女。苦しみなど生まれなければ――そう吐いた舌は何処へ消えたというのか。傷を治癒するその手で触れれば、一つの苦しみが消えるだろうに。
 鋸で手足を落とすと宣言した男――これだけは、少し理解が及ぶ。戦う事を好む人狼と同様に、この男は残酷な事を好むのだろう。だが、ならば何故――何故、桜でなければならないのだ。隣に立つその女を、無残に殺して悪い理由が有るのか。
 何故、何故、何故。何故を重ねて辿り着く。生きる事とは、身勝手の押し付け合いなのだ。
 雪月桜という生き物は、圧倒的なまでに強かった。だからこれまで、身勝手を押しつけられた事が無い。自分の意思を押し通し、全て思う様に為してきた。
 然し今、桜は何人かの敵に負けたのだ。だからその何人かは、ここぞとばかりに己の勝手を、常の強者へ押し付けようとする。この機を逃しては、後が無いかも知れないからと。
 その行為に、何か間違ったところが有るのだろうか? 何も無い。獣の倫理に照らすならば、勝者は常に正しいのだ。
 だが、村雨は、半分だが人でもあった。
 勝者は正しい、敗者は失うのみ。野生の原則に従い、ただ膝を屈して奪われるなど我慢が成らなかった。例え奪われるのが、自分で無かったとしても。
 いや――本当に自分は、何も奪われていないのだろうか? 次の思考は、酷く短かった。
 応にして、否。自分は確かに失っていないが、これから失う事になる。そう気付いた瞬間に――

「あ、あ――ガ、アアアアアアァッ!!」

 村雨は吠えて、馳せていた。
 遠巻きに見ていた野次馬の群れから抜けて、低空を飛ぶ様に、桜の下へ。エリザベートは何もせず立っているだけで、

「なんだ、犬かと思ったぞ」

 和敬は、鋸を村雨の顔目掛け、羽子板の様に振り抜いた。

「――ッ!! ……あ、あれ……?」

 火花が散り、鋸は、村雨の髪を揺らしただけに留まる。白い槍の柄が、鋸を受け止めて弾いていた。
 咄嗟に飛び退いた和敬の、足の有った筈の位置に槍の穂が刺さり――引き戻された槍が、エリザベートの心臓を貫く。それでもやはり彼女は生きているのだが――寸刻、白槍隊が怯んだ。

「副隊長!?」

「乱心したか、紅野こうや!」

 兵卒が、そして鬼が、槍の持ち主に打ちかかる。揃いの白装束の兵士、その一人が、何の気まぐれか村雨を救ったのだ。
 兜に隠れて見えづらいが、傷の散らばる顔であった。背丈は低いが、放つ気迫は武人のもの。鬼を含めた全ての兵士が追撃を戸惑う中――

「………………」

 白髪の少女だけは、紫の刀を振るって、紅野と呼ばれた兵士に斬りかかる。槍の柄で受け止め、すぐさま突きを返し、これもまた目を奪われる様な一騎打ちであった。

「だよな、お前だけは来ると思ってた。……おい、さっさと担いで走れ!」

「あ――え、え……?」

 目まぐるしく状況が変わり過ぎる。村雨は、何故自分が助けられたかも分からなかったが――好機だとは嗅ぎつけた。
 脇差は、桜の腰の鞘へ。太刀は戻すのに手間が掛かる――柄を咥えた。並みの刀に数倍する重さだが、村雨の顎と歯なら――〝牙〟なら耐えられる。己より七寸も背が高い桜を、腰から二つに折る様に抱え上げ、村雨は跳躍した。

「おう、跳んだ。逃げるぞ逃げるぞ、追え。そこのは蒼空に遊ばせておけ……後で人形でもくれてやるか」

 民家の屋根を足場に、向こうの通りへ消えた村雨を、白装の兵士が追って行く。それを見送って、小さなあくびを噛み殺し――狭霧和敬は、報告待ちの為に二条城へと戻って行った。








「何よこれ、もう、何よ、何なのよ……!」

 通りを幾つか駆け抜け、大型店舗に挟まれた路地裏に腰掛け、村雨は喚き、煉瓦壁を殴りつけた。
 頭の中身が掻き混ぜられて、情報が全て混濁している。暫しの間は、自分が誰で何をしていたか、それさえ思いだすのに時間を必要とする程であった。
 が――やがて冷静さを取り戻し、自分の体を濡らす血に、桜の現状を思い出した。小袖の脇を噛み裂き、傷口を露わにする。
 桜の左脇腹は、内臓が傷口から見えるのではないかと思う程に、深く切り裂かれていた。血の臭いが濃く、僅かな間、村雨は酩酊したかの様に体を揺らす。首を振って、傷口を手で押さえ――無意味と気付き、別な手段を探した。
 傷口を縛るもの――以前、似た様な事が有った気がする。咄嗟に村雨は、桜が撒いている晒を解いて引きずり出し、小袖の上から傷口に巻き付けた。
 解けない様に堅く縛って、それからやっと、黒太刀を鞘に納めて止め具を掛ける。鼻をひくつかせ、まだ追手に気付かれていない事を知り安堵した。

「……戻らないと、ここは……ええと、街の北の方。ホテルまでは……」

 京都の街並みは碁盤の目。方角さえ分かれば、知らない道であろうが、目的地には比較的容易に辿り着ける。村雨はまず、皇国首都ホテルへ逃げ込み、『錆釘』の治癒術者に頼る事を考えた。
 人間一人を抱えて走ると考えれば――村雨の足を以てしても、やはり四半刻は掛かるだろう。それも、舗装された表通りを走ったと考えてだ。身を隠しながら進むとなれば、絶望的に長い道のりである。

「難しい、けど……他、頼る所なんて無いし、ああ……!」

 傷を無理に縛り、出血はどうにか抑えている。直ぐに死にはしないだろうが――刻限は、いつかやってくる。早く手当を出来る者に引き渡し、傷を塞がねばならない。
 医者を此処へ連れてくる事も考えたが、この状態の桜を於いて、どうして離れる事が出来るだろうか。今も追手は、桜を捕えようと洛中を駆けまわっているのだ。

「……!? 臭いが近い……!」

 過剰なまでの金属の臭い――つまりは武装した兵士の臭いが、村雨の潜む路地裏に近付いてきた。
 桜を担ぎ、音を立てない様に、村雨は臭いの反対側から通りへ出る。表通りに出るのは危険だが、どうしても何度かはそうしなければ、目的の箇所までたどり着けない。
 救いは、秋の日の落ちる早さだろうか。桜と鬼が争っていた時点で、既にかなり日は傾いていたのだが、今は街全てが朱色に染まっている。
 もうじき夜が訪れる――そうすれば、人の目を欺ける。それだけが村雨の希望で――人の技の前には、儚い望みでしかなかった。








「隊長、包囲完了しました」

「うむ、御苦労」

 波之大江なみのおおえ 三鬼さんきは、大路の真ん中に立ち、部下達を見下ろして報告を受けていた。
 彼らが居る場所は、皇国首都ホテルの正面玄関前。ここには十人の兵士が、完全武装で待機していた。
 同時に、裏口から側面の小道から、ありとあらゆる侵入経路に、十人以上の兵士と魔術師を二人に――『錆釘』の構成員を二人。

「堀川卿、ご協力感謝致す」

「……そう思うんなら、他のお客さんが怯えへん様にしてもらいたいもんどすなぁ」

「生憎と、受けかねる提案に御座る。この宿には凶悪な犯罪者が潜伏していた。我ら白槍隊が居らねば、あ奴は舞い戻り、他の宿泊客を害するやも知れませぬ」

 五丈の髪は、一房も石畳に触れていない、全て針金を通したかの様に浮かび――幾つかの手を形作って、旧式の火縄銃を掴んでいた。

「それは、本心からどすか?」

 銃口の一つが、三鬼の眉間へ向けられる。

「否!」

 鬼は、その言葉だけは叫ぶように放った。叫んで――それから、己の失言を悔いたものだろう。

「拙者の心の斟酌は不要。貴君はただ、黒八咫が舞い戻ったその時に、我らに伝えてくれれば宜しい」

 大鉞を肩に担いで、鬼は夜の洛中を睥睨する。眼光は灯の如く、それこそ正しく鬼灯の目であった。








 夜陰と耳鼻の鋭敏、そして幸運に助けられ、村雨は皇国首都ホテルから二町の距離まで辿り着いていた。
 身体的な疲労はさておき、精神の消耗が激しい。常に全方向に気を配り、鉄と人の臭いを嗅ぎ分け続け――鼻を動かす度、桜の血の臭いが肺を満たす。その中に、魚が腐った様な臭い――或いは死臭とも呼ぶべきか――が含まれているのだ。
 それでも、あと僅かの距離を走れば助かる筈だった。宿へ逃げ込み、治癒術者を掻き集め――この頑丈な化け物女なら、きっと数日でまた、殴っても蹴っても色事を忘れぬ、普段の在り方を取り戻すだろう。

「そんな、うそ……なんで、こんな」

 その望みが、砕かれた。
 冷静に考えれば当然の事だ。慣れぬ土地で逃げようと思えば、ほぼ間違い無く、己の唯一知る場所へ――宿へ逃げ込もうとする。
 村雨は、自分がそれに気付かなかった事が、情けなく腹立たしくてならなかった。思えば以前、盲目の射手に狙われた時も同じ様に、敵は宿で待ちかまえていた。今回そうならぬ道理は、何処にも無かったのだ。

「……北、北へ戻って……山を登ろう、そうすれば」

 もう一つ、京で訪れた場所。そして匿ってもらえそうな場所といえば――『神山』、桜の数少ない友人の住む所だ。

「駄目、遠すぎる……ぅ、うー……!」

 桜の健脚を以てしても、徒歩ならば一刻近く掛かる距離。人間一人と刀二振りを抱えていては、果たして日が昇るまでに辿り着けるものか? 普段の村雨であろうと難しい事、だと言うのに――

「ぅ、っく、うぅ……痛、痛い……ぅあ、ぁ」

 もはや村雨自身も、動く事が侭成らなかった。
 負傷は無い。だが――血が、脚を濡らしている。腹を押さえて蹲る村雨は、元の肌が白いだけ、桜よりも顔を青ざめさせていた。

「こんな、時に……っ、ぅ……やだ、なんでよ……!」

 今宵は満月、月の巡る夜。桜の流した血の臭いに、己の血の香が混ざるのを、過剰に研ぎ澄まされた鼻が拾う。胎の痛みが邪魔をして、足に力が入らない。
 そして――声も抑えられない。苦しげに呻く声は、村雨が潜む細い路地の外まで、確かに洩れ聞こえていた。
 血の臭いに酔って、視界も黒で埋められて――顔を上げた時、村雨は漸く、自分が何人かの兵士に見下ろされていると気付いた。

「……ぁ、あ」

「目標を発見――おまけで子供が一人。どうする?」

 兵士は三人。何れも白い槍を手に、背をしゃんと伸ばして立っていた。練度の高さが窺える身のこなしである。

「命令に従えば、謀反人に与した者は殺害せよ。そうまでする必要は……無さそうだな」

「俺達、一応部隊長扱いだからなぁ。無罪放免でいいだろ、馬鹿馬鹿しい」

 淡々とした会話ながら、彼らの人格の一端は窺える。任務は忠実にこなすが、だがそれ以上の無益な殺生は好まない――比較的善良な者達らしい。
 彼らの一人が桜の腕を、もう一人が足首を掴んで持ち上げた。此処で何かをする訳ではないのだろう。運び、別な所で、狭霧和敬の言葉の通りに――

「ま、って……待って……!」

 村雨は、地を這う様にして、兵士の脚に縋りつく。脚を抱えられた兵士は、困った様な顔をして、

「……なあ、お嬢ちゃん。それは出来ないんだ、ごめんな」

 優しく、だが無情に告げ、村雨の手を振り解く。

「こいつはさ、悪人なんだ。その味方をしたら、お嬢ちゃんまで悪人にされちまう。そういうの、もう俺達もいやだからさ。
 だから……ごめんな、怨んでくれていい。俺達は俺達の仕事をするから」

「やめ、止めて……なんでも、するから……!」

 懇願は届かない。兵士達は悲しそうに、首を左右に振るだけだ。
 きっと、こんな悲劇は幾らでも見てきたのだろう。父母、兄弟、友人、誰か大切な人の命を乞う者を、彼らは出来ぬと突き飛ばしてきたのだろう。それが彼らの義務、為すべき事なのだから。
 だが、自分が多数の中の一だとしても、村雨は悲劇に甘んじられない。力の入らぬ顎で、兵士の足に噛みついた。

「……だから、やめろって……! もう沢山なんだよ、こういうの!」

 白脚絆の下に具足を着込んでいる。村雨の歯――牙でも、これでは貫通出来ない。軽く振り払われ、石畳に口付けを強制された。

「追って来るなよ、次はもう駄目だぞ……本当にだぞ!」

「正悟、怖がらせてやるな。ほら行くぞ、ちゃんと持ちあげろ」

 些細な抵抗は、何の成果も齎さない。桜の体は、まるで棒きれの様に運ばれて行く。

「止めて、連れてかないで……ねえ、待ってよ……!」

 立ちあがろうとして、やはり胎の痛みに足を引きずられ、転がる様に倒れた。
 夜空を見上げ、村雨は泣いた。何も出来ない、何の役にも立たない、自分の弱さが悔しかった。
 誰でも良い。自分に力をくれるなら、桜を助けてくれるなら、残り三十年程度の生を引き換えにしても――自分を引き換えにしても良い。助けが欲しかった。



 何故、何故そうも強く祈ったか。所詮は他人の命、村雨が殺される訳ではない。
 短くとも共に旅をした間柄だ。死なれれば悲しいが――だが、それだけの筈。乗り越えられない嘆きではなく、月日が忘却を手助けする、そんな痛みでしか無い筈なのだ。
 ならば自分は、何故こうも苦しみながら、桜の命に執着するのか。自分は――雪月桜という女をどう思っているのか。
 桜は――傍若無人で、周囲を顧みず、暴風の様に生きている。振り回されて面倒事に巻き込まれた回数は、とうとう両手の指を超えてしまった。その中で一度も、自分の行動を反省した様子は無かった。
 村雨は幾度も幾度もたしなめたが、桜は呆れる程、欲望に忠実だ。
 美食と美酒を貪り、美人と見れば粉を掛ける。言葉に限らず手でも目でも、戯れる事を我慢しない。その指に、舌に弄ばれた記憶は、今でも顔から火を噴きそうな程鮮明に思いだせる。
 然し――それは、不幸な記憶だっただろうか?


 異邦の少女と、顔を腫らすまで殴り合った事。
 盲目の射手に狙われ、夜の洛中を駆け抜けた事。
 夜空を焦がす炎の下で、人の強さを垣間見た事。
 遊郭に潜り込んで、巨躯の老婆を打ちのめした事。
 何時も隣には桜が居て、同じものを見て、同じ時間を過ごした。
 浜松近郊の蜘蛛洞窟、箱根山中の教会、島田宿の赤い壁――過ぎれば良い思い出と、笑って語る事も出来るだろう。
 品川を拠点に江戸の街で過ごした時間も、短くはあったが、今となれば懐かしい。遡れば遡る程、自分の行動の不可思議を見せられる。
 契約に縛られた身とは言え、何時でも村雨はこの旅から降りられた筈だ。そう望めば――桜はきっと、何時もより少し寂しげに笑って、二つ返事で応と言った事だろう。
 それを、村雨は知っていた。桜という人間を、きっと村雨は誰よりも深く理解している。共に歩んだ時間の密度は、これまでの生と同等に――それ以上に濃く、村雨を変えたのだから。


 ああ、自分を欺く日々は終わりにしよう。
 全ては始まりのあの日から――黒い瞳に射抜かれ、唇と舌で交わった時から、自分は桜に恋い焦がれていたのだと。



「あ、が――っ、か、はぐ、おっ……!?」

 血が、煉瓦壁を赤く濡らした。正悟と呼ばれた若い兵士が、首を抑えて仰向けに崩れ――手の下からは鮮やかな動脈血が、留まらず流れ落ちていた。

「どうした、しょう――正悟!?」

 桜の腕を掴んでいた兵士は、桜をその場に投げ出して槍を構えた。
 若い兵士は、最後に血を吐いて、己の顔を赤一色に塗りつぶし息絶えた。少し年嵩の兵士は、槍の柄を使って彼の手を退け、下に隠れていた傷口を見る。
 肉が、血管が食い契られている。一撃で致命傷、疑う余地も無い。苦しみは短かっただろう事が、ただ一つの救いであり――

「畜生、畜生……畜生ォッ!」

 槍の穂先が、狭い路地を薙ぎ払った。白槍隊の兵士は、同胞を無残に殺害した敵目掛け、白銀の穂先を振り抜いた。手応えは無く――槍を支える手に重さを感じた。打ち倒される筈の獲物は、槍の上に立っていた。

「ハハ、ッハハハ……アハハハ、ハハ、アッハハハハハ……アァ――」

 唇を、牙を朱に染めて、少女は高らかに嗤っていた。嗤い、空を仰ぎ、噛み千切った肉を咀嚼し、飲みこんだ。

「――美味しいね、これ」

 もう一人の兵士が、槍の柄に立つ彼女目掛け蹴りを放つ。それも跳躍して避けた彼女は、壁を蹴って空中で軌道を変え、兵士二人から離れた位置に降り立った。
 彼女は――村雨と、呼んで良いものだろうか。人の名前が、人格を収める器に冠されるるのならば、彼女は間違い無く、人狼の少女の村雨である。
 或いは――人の名前が人格に与えられるものならば、彼女は恐らく〝村雨ではなくなった〟のだ。
 怪物は月を仰いで産声の如き遠吠えを上げた。聞く者の怖気を呼ぶ、魔獣の咆哮であった。





 兵士二人は横に並び、槍を突き出して身構える。
 狭い路地裏の事、縦横無尽に槍を振り回す事は出来ない。数の優位に任せて、敵を近づかせない事が得策だ。言葉による意思疎通を必要としない、熟達した動きである。
 然し槍の穂を敵へと向けて、二人の兵士は何れも、歯の根をガチガチと鳴らしていた。自分より背も低く線も細く、武器の一つも持っていない少女――そんなものの声が、おぞましく恐ろしくてならないのだ。
 逃げられるものならば、背を向けて走っていただろう――逃げれば追われると悟っていた。人が人たる所以の理性より、動物的な本能が叫んでいた。
 村雨が跳んだ。高くではなく、低く横に――槍の穂を潜り抜ける程低く。地面への軽い一蹴りで、村雨は年嵩の兵士の懐へ潜り込んでいた。

「お――わ、うわあああっ!?」

 槍の間合いではない。咄嗟に年嵩の兵士は右膝を振りあげ、腹だけは守ろうとした。右足首の腱が噛み千切られた。
 村雨は恐るべき敏捷さで、振りあげられた足の下へ潜り込み、腱を食いちぎって離脱したのだ。筋張って不味いのか、咀嚼はせずに吐き出した。
 片脚を潰されて膝を付いた兵士――その顔を強引に上へ向けさせ、晒された喉へ、村雨は牙を深く沈み込ませた。

「あ゛、ぇあ゛、が――!? ――、――!!」

 音にならぬ悲鳴。甲状軟骨が噛み砕かれ、器を返したように血が零れた。村雨は、その血で喉を潤して――更に、獣に近付いていく。
 白く細い首も、腕も、灰色の体毛に覆われて――瞳孔は極限まで拡大し、平たい歯は一つも無く。脈拍数は上昇を続け、人外の筋組織に、平常の数倍の酸素を供給する。
 瞬く間に二人の同胞を葬られて、残された兵士に、もはや継戦の意思は無かった。全て、恐怖に圧し折られていた。
 だと言うのに、だからなのか。村雨は嬉々として、その兵士の頭を、路地の煉瓦壁に叩き付けた。
 兜の後頭部がへこみ、頭蓋骨に浅く突き刺さる。脳震盪を起こし、兵士は自分の手足で抗えなくなり――村雨は幾度も幾度も、彼の頭蓋を壁に打ち付けた。

「ッハハ、そうだ、こうすれば良いんだ……! アハハハハ……!!」

 幾度も、幾度も。兜が砕け、骨が砕け、兵士の頭が薄くなっていく。村雨は脳漿と血を浴びながら、やっと言葉を取り戻し嗤った。
 理性が無いのではない。理性が本能を抑え込まず、寧ろ油を注ぎ風を送るからこそ、村雨は村雨の形を保ったまま、化け物と成り果てる。今も彼女の理性は、この行為の正当性を叫んでいた。



 ああ、そうだ。こいつらは桜を殺そうとしているんだから、私に殺されたって仕方がないんだ。桜の手足を斬ろうとしたんだから、私に首を落とされても仕方がないんだ。
 だって――他の誰でもなく、雪月桜に。この短い生を更に縮め差し出して良いと、私を酔わせた人に、こいつらは刃を向けたんだ。だったら、殺してしまっても良いんだ。
 生かしておけば、また同じ事をする。ここで殺さないと、また桜が狙われる。
 私が――私が守るんだ。
 もう守られるだけじゃない。私の力で、私の意思で、私はこの人間を守り――この人間を愛し、そして。



「ッハッハッハハハハハハ……ッハアアァァァ――ぁ」

 西瓜の様に砕けた頭蓋から、脳と眼球だけを選んで、村雨は欲を満たしていた。食欲と――性的欲求にも似た、身を焼く疼きを。
 漸く満ちて、だがまだ足りぬ。鼻を頼りに次の獲物を――そう思って一歩歩き、地面に倒れた。
 痛みに鼻を押さえ、それから、何故転んだかの原因を見る。

「ぁ――あ」

 桜の手が、村雨の足首を掴んでいた。
 悲しい程に非力だ。今の桜の力など、村雨は片脚の一振りで解いて抜け出せただろう。それ程までに桜の傷は深く、出血は激しかった。
 本当ならば、動ける筈も無い。目も見えず耳も聞こえず、意識が有る事さえ信じ難い、半死人の様な有り様で――

「……駄目、だ……村雨、もう……」

 それでも桜は、村雨の凶行を止めた。
 村雨は鼻の痛みに涙しながら、周囲を二度三度と見渡し――凄惨な死体を三つ〝見つけ〟た。
 それから直ぐに、これは自分が作ったのだと思いだし――

「う――うぁ、ああっ、あ、あ……ああぁっ、あアアあぁァアァあアァァっ!!」

 人の声で、癇癪を起こした子供の様に喚いた。
 喚いて喚いて喉を痛め、追手も声を聞きつけて寄り集まって来る頃、村雨は頭に鈍痛を感じ、それから意識を失った。
 崩れ落ちる村雨を、完全に倒れる前に肩へ担いだのは、鬼に〝紅野こうや〟と呼ばれていた兵士。和敬の鋸を止めた時より、顔の傷が二つ増えていた。
 その後ろから、幾人かの武装した若者が――正規兵ではない、町人崩れだ――後を追って路地に現れる。内の一人は治癒術の心得が有る様で、桜の脇に屈み、傷に手を翳し何事か唱え始めた。

「急いで……傷だけ塞いどけ、多分そいつ死なないよ。ただ、歩かせるのは無理だろう。誰か背負ってやれ」

 短く周囲の者に指示を出し、肩に担いだ村雨に、それから桜に視線を向け、

「あー、事情は分からないけど、眠らせた方が良さそうだった。余計な世話か?」

 桜は、上がらぬ首を無理に曲げ、紅野の傷面を見上げる。

「……二人分……礼を言う」

 頭が落ち、血を飛沫かせる。今度こそ桜も、意識を完全に手放した。


 太陽暦で言うならば、十月の二十日、満月の夜。
 この日、雪月 桜は初めて敗北を知り、
 この日、村雨は初めて人間を殺した。