烏が鳴くから
帰りましょ

月の下のお話

 雪月桜が目を覚ました時、そこは薄っぺらな布団の中だった。
 線香臭い畳の部屋、天井は高い。梁は太く、中々に歴史有る建築物に見えた。
 自分が何故、この様な所に居るのか――起き上がろうとして、脇腹の痛みに呻く。

「よ、起きたか」

 部屋の隅から声が聞こえた。桜は首だけ動かしてそちらを見て――反射的に、腰に手を伸ばした。
 脇差が無い。背に太刀も無い。何れも布団のすぐ横で、丁寧に掛台に載せてあった。

「……かさねがさね、済まんな」

「放りだすには惜しい作りだしな。良いよ良いよ」

 壁に背を預けて胡坐を組んでいたのは、顔に幾つも傷の有る少女だった。煙管を片手に、もう片手には何かの走り書き。視線を桜と走り書きとに往復させていた。

「どこだ、ここは」

「比叡山さ、居心地悪かったら我慢してくれ。あの高級宿と比べたら、そりゃ木の板に寝る様なもんだろうけどさ。
 ……おーい、医者先生を呼んでくれ、あいつ起きたぞー」
 煙を一塊吐き出して、煙管の火を消してから、少女は部屋の外へ呼び掛ける。幾つか足音が聞こえて、それはどれも敵意や警戒心の無い音だと、桜には感じ取れた。

「……命を繋いだか」

「どうにか、な。あんた二日も寝てたんだぞ、普通ならそうやって喋るのも――ああ、動くな動くな、縫い糸が解ける」

 起き上がろうとした桜の肩を、少女が押さえて押し留める。布団が持ち上がって気付いたが、桜の上半身は、包帯だけで覆われていた。

「おや、裸か。道理で寒いと思ったぞ」

「そっちも我慢してくれ、切るより脱がす方が良いだろ。あんた重いから厄介だったぞ」

「お前が犯人か、目の保養にはなったか?」

「生憎そういう趣味は無いよ」

 目を覚まして早々に、軽口を叩いて見せる桜。だが、その声量の小ささは、やはり常の様な力を感じられない。
 少女は顔の傷の一つを指先で弄りながら、桜の布団の隣に座る。額から右の眉を通過して頬まで届く長い傷は、鋭利な刃物による物と――そして、新しい物と見て取れる。
 桜がその傷を見ていると気付いたのか、少女は気恥かしそうに、

「気にすんな、あんたのよりは浅いよ」

 はは、と軽く明るく笑い飛ばした。

「せやせや、そんなん治そう思たらすぐ治る。紅野ちゃんは強い子やからなあ。問題はそっちの美人さんやで」

 部屋の外から、京よりもう少し西側の訛りが口を挟んだ。部屋に入ってきたのは、この自生には珍しく髷を結った男である。分厚い眼鏡を鎖で首から下げ、腰紐には短刀と針を幾つもぶら下げる。一歩歩く度、金属の機器がじゃらじゃらと音を立てた。

「ちゃん付けは止めてくれって、先生……この人は風鑑ふうかん先生、医者崩れだよ」

「崩れ、は抜かして紹介してくれへんかなぁ、紅野ちゃん」

 風鑑は眉をハの字にしながら、桜の布団を挟み、紅野の反対側に座った。それから桜の包帯に、吊り下げた刃物の一つを触れさせた。
 包帯を切り開き、傷口を大気に晒す。血は止まり、糸で縫われて塞がっているが、広さも深さも致命傷に近かった。

「普通なら何べんか死んどるなあ、治してて楽しい患者やったで。で、美人さん、お名前は?」

「雪月桜だ。済まんが寝起きで頭が回らん、現状を詳しく教えてくれ」

「そかそか。ほな桜さん、希望と絶望で三対七やから、出来るだけ気楽に聞いてくれへんか」

 大きな傷口を指差して、風鑑は引き攣った様な笑いを見せた。

「……生きとるのが不思議っちゅうくらいの傷やったけど、そこは頑丈に出来とるのが幸いやった。一番不味い所は抜けて、これからは回復に向かうやろ。昔なら兎も角この世の中や、三日で剣を取れる様にしたるわ。
 けどな、参ったのは……完全には、どうしても治せへんっちゅうこっちゃ。僕らじゃどうにも出来へん事でなぁ……」

「気持ちの良くない話だな。何が有った」

 静かに首を振る風鑑の姿は、医者が末期患者を見放す時の様に、諦観を存分に湛えていた。

「呪いや。それもエゲツナイ、な。こんなけったいな術見た事無いわ」

 桜の傷口から、少し離れた部分を風鑑は指差す。その部位の周辺の皮膚が、紫に変色していた。

「左腕は動きはる?」

「うむ、問題無いぞ」

 いきなり問われた桜だが、多少の痛みの他に、腕の動きに問題は無い様に思えた。

「ほな、左手で僕を軽く殴ってくれへん?」

「……そういう趣味の女は嫌いでないが、男ではなぁ」

「そうやなくて、ええから早よ」

 つまらんとぼやきながらも桜は拳を握り、軽く振りかぶって――

「――っぐお、あっ……!?」

 その手で脇腹を抑え、布団の上で身を丸めた。
 傷口に火箸を突き刺されたかの様な痛みが走る。負傷には慣れた桜でさえ耐えきれず、体を縮める程の苦痛――斬られた瞬間よりも、それは激しかった。

「……っとまあそういう事やね。普通に暮らしてく分にはええんやろうけど、ちょいと暴れよう思うたら邪魔が入る。桜さんみたいなお侍さんには、困ったこっちゃろ?」

「く……っは、何だ、これは……?」

「せやから、エゲツナイ呪い」

 人が苦しむ姿は見慣れているのか、息も絶え絶えの桜を、風鑑は細い目を更に細めて眺めて、時折は頷いていた。

「今のところは推測やけど、こういうこっちゃろな。
 つまり、他人をなにか害したろ思うと、その斬られた傷が異常に痛む。軽ーく殴ろ思うだけでそれくらい、殺そうなんて考えたらどうなるやろなぁ。
 こんなもんを考えた奴は、きっととんでもない善人やで」

「どこがだよ、どこが。最低の呪いじゃないか」

 風鑑の言葉の矛盾に、紅野が口を差し挟む。

「いいや、案外その通りなのかも知れんぞ」

 だが、被害者である桜自身が、その矛盾を肯定した。

「あの白髪頭ではあるまい、あれは道具を与えられただけだ。元凶はきっと――」

「大聖女エリザベート。ちょい話してはったねえ」

「見てたのか」

 僅か数日――桜の体感時間では、僅かに一刻と少々。軽く言葉を交わした時の事を思いだす。

「……私は、誰かにあれほど〝思われた〟のは初めてかも知れん。それ程にエリザベートとやらは、私の事を悼んでいた。
 自分の為に殺そうとした相手を、涙を流す程に憐れんで――出来るならば、生きていて欲しいと願っていた。そういう目を、あの女はしていた。だからな、きっとこの呪いとやらも……私への枷のつもりやも知れん」

「せやね。殺したらあかん、戦ったらあかん。世界中全部の人間がそうなったら、戦なんてもんは起こらへんのやろ。誰も傷つけられない様に、罪を重ねない様に――親切な人やと思わへん?」

「思わないね、酷い自分勝手だ。私達みたいなのから武器を取り上げて、じゃあ何をくれるんだって話だよ」

 紅野は大聖女の善意が木に食わないのか、煙管の灰を縁側から庭に散らしながら不満を口にした。

「そら、十字架と聖書と――」

「自分の理想の世界、か。これぞまさしく神気取りだな」

 桜は布団を蹴り飛ばして立ち上がり、部屋の中を見回した。袴は穿いたままなのだが、小袖が何処にも見当たらない。

「……外出は禁止だぞ?」

「服くらいは自由に着せろ。それと――」

 仕方なしに桜は、胸と腹を包帯に覆われただけの格好で、部屋の襖に手を書ける。。

「――村雨は、どこに居る?」

「あの亜人の事? だったら、私が案内するよ……ちょっと怖いけど」

 紅野は畳の上だと言うのに、部屋の隅に置いた靴を履いて、桜を追い越し、廊下を歩き始めた。
 経を読む声と線香の臭いにつつまれた、桜には居心地の悪い場所であった。








「……ところで、紅野とやら」

「ん?」

 桜は急に立ち止まり、先を行く紅野が振り返るのを待ち、その顔をじっと見据えた。

「お前の顔だ。何処かで見たと思ったが……今、やっと思い出した」

「私はあんたと初対面だぞ? 変な事言うなよ」

「違う違う、〝お前〟ではなく〝お前の顔〟だ」

 立ち止まった事で開いた二歩の距離を、大股で詰めて、桜は紅野の顎を掴む。

「……だから、そういう趣味は無いって」

「耳から顎の線、鼻の形、髪の色……何より目。傷を取って眠たげな顔にしたら、なんとなんと、同じ顔ではないか。生まれつきか、それとも何かの術の産物か?」

 桜が見ていたのは、紅野の顔の中で、無数の傷より尚異彩を放つ瞳の色だった。左は黒、右目は――血管の透けた様な紅。頭の後ろで結って纏めた髪は、老婆の如き白髪であった。

「……生まれつきだよ、悪いか」

「悪いとは言わんが珍しい。そう数を見られるものでもなかろうよ、光彩異色というのは。私にしてからが、見たのはお前で二人目だ。ましてやこの髪、顔立ち……お前達、〝なんだ〟?」

 そう、桜が思いだしていたのは、斬られる寸前に目に映った顔。
 瞬きより短い時間しか見えなかったが、己に初めての敗北を与えた顔だ、見間違えようも無い。紅野の顔は、傷の有無や表情の硬柔の差こそあれ、それとまるで同じ顔だったのだ。

「まず、放してくれ。女に詰め寄られても興奮しない」

「それは済まんな、私は楽しいのだが」

 桜が手を放すと、紅野は溜息を吐きながら一歩だけ後退し、暫しは逡巡の様を見せた。口にして良いものか、どうしたものか――迷って、伏せておく程の事も無いと、結局は結論を出した。

「兵部卿の、狭霧和敬って奴を知ってるか?」

「兵部――おぼろげに音だけ覚えている。顔は見ていないが」

「あんたが斬られた後で、あんたの手足を鋸挽きしようとしてた男だよ。性格は最低にねじ曲がってるけど腕は立つし、それ以上に仕事が早い――人を殺すって仕事はさ。あれに取っては残酷な殺しが娯楽で、娯楽だからとことん突き詰めて上達してくんだ。
 そんな奴が今じゃ、この皇国の首都の兵権を預かってる……凄い話だよな?」

 血の海に沈んでいた桜は、狭霧和敬の姿を見ていない。記憶に有るのは、エリザベートに何か叱咤をしていた様な、という程度の淡いものだ。

「適材適所かも知れんな。で、それが」

「まあ聞きなよ。んで、その和敬って男は、配下の兵から選りすぐって、精鋭部隊を作ったんだ。隊長に据えられたのは波之大江なみのおおえ 三鬼さんき、その下には百の兵隊を集めて――その中にあいつ、自分の娘を放り込んだ」

 はは、と乾いた笑い。紅野は自嘲的な顔をして、まだ煙臭い口を開く。

「あんたを斬ったのは狭霧 蒼空そうくう、狭霧和敬の娘。そんで――私は狭霧 紅野こうや、蒼空の双子の姉さ。妹が酷い事をした……って謝れば、あんたは気が済むかな?」

 桜は、応とも否とも答えられなかった。
 顔が同じであれば、双子という考えに辿り着くなど、そう難しい事ではなかった筈だ。にも関わらず、桜はそこに思い至らなかった。
 何故か――それは、蒼空という少女の雰囲気があまりにも、ここに居る紅野に似ていなかったからである。
 紅野は、どの村を探しても一人は居そうな、素朴な雰囲気を持った少女だった。対する蒼空は――これから先、生きていく姿を想像できない程に、命の気配の薄い少女だった。
 似ていない、とは言えない。だが、双子というには掛け離れている。

「……並べて着飾らせたいな、お前達」

 だから桜は、こんな軽口を叩いて、話題を終わらすのが精いっぱいだった。

「は、そりゃ無理だよ。あいつも私も、動きにくい服って嫌いなんだ。……そら、そんな事よりあんたの連れだ。ぼやぼやしてると日が落ちてくぞ?」
 また、紅野は廊下を歩き始める。背中が少し縮んだ様な気がして――桜は気まずそうに、右の瞼を中指で引っ掻いた。








 暫く廊下を歩いて気付いたが、桜が運び込まれたのは、寺というよりはもはや砦に近い建物だった。
 ところどころに矢狭間が仕掛けてあり、そこから外を覗けば、幾つものあばら家が並んでいた。

「……驚いたな、どれだけの広さだ?」

 屋内に居たから、この施設群の規模に気付けなかった。仮に鳥の視点で見下ろしたのならば、数町四方をぐるりと城壁が取り囲んでいるのも見えただろう。

「ちょっとした村よりゃ広いよ。今の時点でもう……三千人くらいは身を寄せてる筈だ」

「三千……呆れた数だな。どこからだ?」

「京と言わず、周辺地域と言わず、遠国と言わず。仏法僧の危機だしな、この調子じゃあまだまだ増えるよ」

「逃げてきた者は、どうなのだ」

 紅野は、この日幾度目か分からない溜息を零した。
 桜の指摘は――外を歩く、疲れた顔の母親を見てのものだった。
 皇国の首都で行われた虐殺は、主に『拝柱教』以外の宗教信者へと矛先を向けられたものだった。仏教、神道は日の本に古くから根付いた教え――即ち信者は数多く、つまり殺された者もまた多い。
 そうなると、仮に殺されなかったにせよ、寧ろ殺されなかったからこそ、残された親族は修羅を歩まされる。
 ある日突然に異端と認定され、国から罪人の汚名を被せられる。そうなれば、例え彼らに咎が無いにせよ、安らかな暮らしは望めないのだ。
 無論、斯様な暴法、京から数十里も離れてしまえば、厳しく施行しようという勤勉な役人は減ってしまう。だが、人はそう容易く、生活の拠点を動かす事は出来ない。
 結果、住み慣れた土地から遠く離れられない彼ら善良な信者達は、最も近くに有る、かつ自分達と同じ境遇の者が集まるだろう場所へ足を運んだ。
 比叡山――戦国の世には僧兵数千を抱え、大名すらも恐れさせた、日本仏教の一代拠点。五十年程前の開国騒動以降は、西洋風の高い城壁が設けられ、正しく鉄壁の要塞と化した山。今、この山は、戦える者も戦えぬ者も、兎角人を選ばず受け入れていた。

「あいつ、大丈夫かね。あんたと一緒に運び込まれてから、飯も食わないし水も飲まない」

「食わせる余裕があるのか?」

「仏教舐めんな、今の人数で一年籠城出来るよ。……で、暗い部屋の隅っこで膝抱えてるんだ。下手に近付こうとすると……ん、まあその」

「どうした?」

 廊下を進んで、幾つか分岐を曲がった先の襖の前。口ごもる紅野に桜が訊ねる。

「……何をするでも無いんだが、皆怖がって近づかない。だから、様子を見に来るのは私くらいのもんだ」

「何もしないなら、何故恐れる」

「見りゃ分かるよ」

 襖を開け、桜より先に紅野は、暗い部屋へ踏み込んだ。武器は持っていない様だが――衣服の内側のきっと何処かに、暗器は備えているのだろうと、立ち姿の重心から窺えた。
 後を追って部屋に入ると――成程、怖気が体を叩く。部屋の隅に、壁を背に座り込んでいる村雨の目は、意思も感情も読み取れない程に丸く開いていた。
 物は見えている筈だ、目が紅野の動きを追っている。だが――見えている物が何なのか、認識は出来ていないらしい。
 紅野が一歩、村雨に近付く。村雨は腰を浮かし、両手を床に付ける。
 また一歩――完全に立ち上がり、鋭い牙を剥き出しにする。慣れぬ人を警戒する犬の様であった。

「村雨、座れ」

 紅野を横に押し退け、桜が前に出る。それにもやはり村雨は反応し、両手を顔の高さまで掲げた。

「座れ、私だ……分からんのか?」

 もう一歩――村雨は身を撓め、今にも飛びかからんばかりに構える。

「おい、危ないよ、噛まれるぞ」

 桜と村雨の距離は、肘を突き出せば互いに触れられるだろう程まで近づいていた。紅野の声も、どこか軽い調子になっているのは――大丈夫だ、と確信したからだろう。
 桜が手を伸ばし、村雨がその手を掴む。

「……起きたの?」

「少し寝坊した、すまんな」

「遅すぎ……次、私ね」

 短く文句を言って、村雨はその場に座り込み――直ぐに寝息を立て始めた。その体を桜が抱え上げ、

「……こういう事に使うなら、傷は痛まんのだな」

「独りよがりに親切な呪いなんだろさ。あんたの部屋に布団を増やしとくよ」

 紅野はさっさと部屋を出て、何処かへ歩いて行ってしまった。かなりの早足なのは、音から察する事が出来た。








 村雨を部屋に寝かせ、小袖を見つけて腕を通し、漸く何時もの格好に戻った桜は、比叡山を歩いていた。
 城壁と堀の中に民家群、内側に小さな柵と、更に内側には寺社の本堂。成程、良く出来た要塞であるが――五十年前ならば兎も角今の常識ならば、この山を落とす事は容易に見えた。
 何せ今は魔術という物が一般的になっているのだから、城壁の高さは余り意味を為さない。乗り越える手段は幾らでも見つけられるだろう。

「こーらっ、怪我人さんはじっとしとらんと治らんで?」

 柵に寄りかかり、民家群を眺める桜に、風鑑が背後から声を掛けた。

「動かんと体が鈍る。膝も心なしか軋んでいる気がしてなぁ」

「なら、歩くくらいにしとき。それ以上動くんは、医者として止めなあかんからなぁ」

 風鑑は柵を背もたれにして、土の上に座り込んだ。じゃらじゃらと吊り下げた切開用刃物の一つを、指先でくるくると弄ぶ。

「……じっとしていれば、治るものなのか?」

 遠くを眺めて、桜が言った。視線の先には子供が数人――無邪気に笑いながら、家々の合間を駆けまわっていた。

「治らんやろなぁ、ここでは」

「では、何処で治せる」

 木の枝を一つ拾い上げ、子供の様に振りかざし、桜が訊ねる。

「医者で治せるもんやない、何せ呪いやもの。僕は魔術師でもあるけど……所謂、ぷろふぇっしょなるや無いしね」

「おや、西の帝国語か。久しく聞かん音だ」

「留学、ちゅうんかな? 南回りに船でちょいと、五年くらい」

 風鑑が軽く小石を放り投げると、桜はそれを木の枝で叩く。高く、高く石が打ちあがって、何処かの屋根へ落ちていった。

「平和に見えるな、ここは」

「今のうちだけやね。直ぐに……僕だけじゃ間に合わへん様な死人が出る」

「断言するのか」

 ん、と風鑑は悲しげに唸って、また適当な石を掴んだ。

「向こうでもこっちでも、戦争っちゅうもんはね。人が死ななきゃ終わらんもんやった。向こうでも戦地につれてってもろて――見たもんの九割は、手の施しようが無かったんよ。薬も包帯も無いんやもの。
 せやからね、この国はええとこやと思うよ。皆勉強大好きやから、薬無くても魔術でどうにか出来る。けど……腹が減るんはなぁ」

「悲観的だな、戦とはそうも辛いものか」

 桜は、戦争と呼べる程の戦いを経験した事は無い。小さな闘争には幾つも参加したが、全てに勝ちを収めてきた。負けを知ったのはつい最近の事で――戦争は、未だに知らない。

「年寄り臭いとは思うけどねぇ、あんなもんは無いに越したこと無いんよ。本当やったら皆で荷物纏めて、何処か遠い国に逃げられれば良かったんやけど……そうはいかんからなぁ。早い所、ああいう子達だけでも逃がしてあげなならん。そう思わん?」

 風鑑が投げた小石は、駆けまわる子供達の足元に落ちた。子供達は、それで漸く風鑑の存在に気付いたのか、わっと群れを為して走り寄ってくる。

「おー、おー、ごめんなぁ。遊んであげるのはもうちょいと待ってくれる? 先生、ちょいこの人とお話あるんよ」

「えー? 先生そない言うても、お寺から全然出てきいへんやーん! 嘘つきー!」

 子供達の中で、一番背の低い子が、風鑑の裾を引っ張って我儘を言う。

「こらこら平太、あかん言うとるやろー……ほら、行った行った、後で遊んだるさかいに」

 押し問答は少しだけ続き、桜はそれを――村雨を見る時とはまた違うが――優しげな目で眺めていた。
 やっと子供達を追い返すと、風鑑は疲れた顔をして、暫くは息を整えていた。それからゆるりと立ち上がって――桜に背を向けて、空を見上げる。

「……子供は好き?」

「嫌いではないな、大人より素直だ。それに――まあ、私には縁の薄い者でもあるしな」

 桜は柵に寄りかかったままで問いに答えた。本心からの言葉だった。
 風鑑は雲の流れを追う。追い掛けていた雲が形を崩し、秋風に吹き散らされた頃、彼はぽつりと言葉を零した。

「〝神代兵装〟って、知ってはる?」

「いや、知らん……神話の類か?」

 桜に、その単語の聞き覚えは無かった。首を左右に振り、否定の意思を示す。

「割と新しめの神話、やね。それらしきものの記録やと、平安の頃にはもう残っとる。〝そういうもん〟やと分かったのは――五十年程度前の事やった。外国から入ってきた話や」

 指をちょいちょいと曲げ、風鑑は桜を招き寄せ――寺の方へと歩き始めた。

「端的に言えば、〝神代兵装〟っちゅうんは、『どうやって作られたか分からん道具』や。使い方だとか用途だとかは分かるんやけど、どうやればこんなもの作れるかっちゅう所が分からへん。せやから、誰が作ったのかもまーったく分からへん。
 数は……この国に幾つか。世界全部を合わせて、さあ、五十か百か……そんなには無いかな?」

「価値はどうだ、役に立つものなのか?」

「〝神代兵装〟一つを、大都市一つと取り替えても損は無いくらい――とは聞くねぇ。僕はそこまでは信じへんけど、あれを見たら小さな街一つの価値は認めざるを得んで」

 寺に上がり込み、本堂へ進み――槍を構えた僧侶二人に、風鑑は軽く手を翳す。

「開けてくれる? この人は大丈夫や」

 本尊――巨大な仏像の土台を、僧侶二人が動かす。下には階段が隠されていた。

「……地下牢でも有るのか?」

「有るかも知れんなあ。少なくとも此処やあらへんけど……おいで、おいで」

 階段を降りる風鑑を、訝しげな顔で桜は追った。








 地下は、薄暗く湿っていた。秋の寒気はいや増して、肌寒さすら感じられる。
 空気は清浄、埃や黴の臭いが無い。寧ろ若々しい生木の匂いが漂っている。

「ふーむ……植物でも育てているのか?」

「日が当たらんと枯れるやろねえ。これはね、桜さん。死んだ木が一部だけ生き返ってるんよ」

「……生き返る?」

 風鑑は口の中で一言二言呟き、魔術の灯りを生成して歩いて行く。地下の空洞は狭く、行き止まりまでは三十歩も歩かなかった。
 そこには、小さな祭壇が築かれていた。木組みの台には仏の絵姿が刻まれ――そこから、新しい葉が生えている。赤々と紅葉した葉は、軽く触れるとぱらぱらと砕けて散った。
 祭壇の上には、小さな鏡が乗せられている。曇りは無く、弱い灯りの下でも、桜の顔を鮮明に映していた。

「ほう、綺麗なものだ。どれ――」

 手に取って見てみようと、桜は無造作に手を伸ばす。その手が――鏡から一寸ばかり離れた所で、壁に遮られたかの様に止まった。

「――お、お?」

「面白いやろ、それ。どうやっても触れへんねん」

 成程、まるで触れられない。力の強弱では無く、そこから先の空間が無くなったかの様に、手が先へ進められないのだ。

「〝神代兵装〟の一つ――〝別夜月壁よるわかつつきのかべ〟。その力は、貫通不可能の防御壁の展開。そして効果範囲は――この山を丸ごと一つや」

「なんと――」

 絵空事の様な現実は幾つも見てきた桜だが、この鏡は、不思議の質が違う様に思えた。
 鏡へ拳を落とそうとする。鏡に触れる事は出来ないのだが、然し受け止められた感触も無い。いっそ自分の〝眼〟で燃やせるか試してみたくもなったが――火事騒ぎになっては困るので、止めた。

「内側から外側への接触は可能。外側から内側への接触は――座主だけが許可を出来る。この山に入ろうとするもんは、座主が良しと言わん限り、そも斜面に足を乗せる事も出来んっちゅうことやね。
 なあ、桜さん。この鏡、戦に使おう思たら……どうなると思う?」

「どこまで範囲を広げられるかだが――話にならんだろうな」

 刀も槍も矢も魔術も、敵の物は一切届かず、一方的に自分達だけが攻撃を仕掛けられる。戦場にそんな道理を持ちこめば、負ける理由は何処にも無い。

「せやね。せやから狭霧兵部和敬は――紅野ちゃんのお父さんやけど――この山を遠巻きに囲んどる。何としても〝別夜月壁〟が欲しいんやろ。初撃で一気に仏僧を殺したのも、籠城する兵力を削ぐためや」

「削いで、どうする。これだけの力を持つ防壁ならば、座主一人で籠城しようが、陥落は無理ではないか?」

「それがそうもいかんのや……難しい所やでほんまに」

 仮にこの防壁が、本当に鉄壁の守りであるならば、そも奪い取るなどは不可能な話だ。逆説的に言えば、奪い取る方法が、付け入る隙が有るからこそ、狭霧兵部は〝別夜月壁〟を狙ったのだ。

「〝別夜月壁〟は月に一度、朔の夜に力を失う。時間にすれば半日の短い間やけど……その間だけは必死に、なんとしても素の力で守り通さなあかん。最悪、座主を殺されれば防壁は展開出来んし、向こうは後々で適当な坊主を座主に据えれば、また〝別夜月壁〟は稼働させられるんやから」

「存外、適当な作りだな……して、風鑑とやら」

「ん?」

 この山が、戦の素人の寄せ集めであるにも関わらず、一捻りにされない理由は得心が行った。然し桜には、もう二つばかり分からない事が合った。

「何故、部外者の私に知らせた。例えばだが私が心変わりした場合、私は座主とやらの首を、この鏡と共に持ちかえるぞ。
 それにな、分からんと言えば待遇が分からん。仏を信じる者達が、あの様なあばら家を割り当てられていて――私と村雨は、中央の寺に布団まで用意されて。何が狙いだ?」

 思えば桜と村雨への対応は、賓客を遇する様に行き届いていた。自分が彼らに恩を施した覚えは無く、桜は厚遇の意図を図りかねていた。

「んー……一つに桜さんは、目立ち過ぎるくらい目立って暴れてたってのが有るからなぁ。強いっちゅうのは分かってるし、政府に寝返っても首斬られそうなお人やし。せやったら良い思いさせといた方が、後々恩返しとかしてくれそうで良くあらへん?」

 然し、それは風鑑や紅野――比叡山に立て籠る側の者からすれば、十分に意味のある事なのだ。
 つまりは打算である。桜はもはや洛中ではお尋ね者であるし、政府に刃を向けた人間である。ならば、敵の敵は味方の理屈で、比叡山側が手を結ぼうと企んでも無理は無い。養うのにそう金が掛かるでも無し、死なれたとて無関係な一人が死んだだけ。厚遇する事は利益こそ産むが、不利益はそう見つからないのだ。

「けどなぁ、一つだけ問題有るんよ。桜さんに掛けられた呪い――〝大聖女〟エリザベートの優しい呪いが、桜さんが戦うのを邪魔しとる事や。その為に――ついでに僕としては、病人を無事治す為に、〝神代兵装〟の事を教えたかったんや」

 然し、今の桜は戦力にならない。誰も傷つけず戦う事は不可能で、軽く殴る程度の行動さえ制限される桜は、とても前線に立てないだろう。
 それに風鑑は、現実的ではあるが、治せる者は治したいという、医者として健全な思考を持っていた。仮にその方法が、確実に治ると断言出来ないものだったとしても――可能性に縋ろうとする、そういう人間であった。

「お前、正直だな。まだ頭が慣れてこないが……一応、お前の言を信用しておこう。だが、まだ話は途中だろう?
 私の傷を癒す為に、何故〝神代兵装〟とやらの話が必要になる。この鏡に触れていれば、いつの間にか呪いが解けるというのか?」

「この鏡やない。ここに有るもんやないけれど――昔、何かの文献で見たことが有る。〝神代兵装〟の一つに、所謂〝解呪〟に長けたもんが有ると、な。呪いばかりやなく、魔術やら陰陽道やら、何もかも無にしてまう様な、扱いに困る代物や聞いたけど……」

「……呪いを無に帰す。そうまでせんと、どうにもならんものなのか?」
 風鑑は首を縦に振り、諦めを顔に浮かばせて答える。

「正直、僕は〝治す〟事に掛けては、この国でも一番二番の術者やと思うよ。けどエリザベートは……世界が二つくらい違うわ。この国で桜さんの呪いを解けるのは、多分エリザベート本人だけ。世界中探せばどうにかなるかも知れへんけど、探すのに何年掛かるか分からんで?
 ……本当の所、この手かて確実とは言えへんのやけど、何もせんよりはマシやろ」

 結論から言えば、どうにもならないから足掻いてみようと、その程度の事なのだ。自分の力でどうにもならぬ事が多すぎて、もはや風鑑の顔には、諦念の笑みが張り付いていた。

「そうか……ならば、行ってみるか。何処にある?」

 然し桜は、諦めを知らない、諦めた事が無い。
 これまでの生で、得ようとして得られなかった物は無い。どうにもならぬ事であろうが、力で奪い取り、自分の欲を満たして来たのだ。だから、諦めという選択など、端から頭に浮かぶ筈も無い。
 強者の傲慢が生む前向きさで、桜は風鑑に、己が向かうべき道を訊ねた。

「……北や。奥州は南部藩、山のそのまた奥の山。冬には雪に閉ざされる、陸の孤島やね」

 地下の空間にも、外の物音は流れ込んでくる。寒々しい秋風がひゅうと鳴って、寺の障子を震わせる。
 もう一月もせず、奥州は初の降雪を迎えるだろう――風鑑は雲の流れを見て、そんな確信を抱いていた。








 穏やかな寝顔とは裏腹に、村雨は血生臭い夢を見ていた。
 夢の中で村雨は、何百もの人間に取り囲まれている。槍を構え、刀を腰に下げ、憤怒の表情をした人間だ。
 彼らの顔は三種類しかない。二つは、喉を喰い破られて血を流していて、片方は若く片方やや年嵩。後の一つは、部品が歪んで幾つか欠けて――何れも見覚えのある顔だ。
 数百人の彼らの一人が、槍を構えて村雨に近付く。村雨は自分からも近づいて、その喉を食い千切って殺した。
 その辺りで思い出す。この三つの顔は、どれも自分が殺した人間のものだ。
 途端、記憶が波の様に押し寄せる。皮膚の厚み、血の温度、調理せぬ肉の味。思えば忌わしい記憶で――
 ――忌わしい、本当に?
 無造作にまた一人、村雨は頭蓋を踏み砕いて殺す。零れ出た脳漿を手に掬った――いやに鮮明な夢だ。
 背後から迫る槍を跳んで避け、つんのめった兵士の目に指を突き込み、抉り抜く。眼窩の空洞を指で掴んで、引き倒し、喉に踵を打ち込んで潰した。
 砂の城を崩す様に、雪の像を打ち壊す様に、あまりに人間は脆く死ぬ。村雨は子供が虫を弄ぶように、次々に三つの顔を殺し続けた。
 夢の中だからだろうか――嫌悪感は無かった。口を濡らす血は直ぐに流れ落ちるし、喰っても喰っても腹は満ちない。疲れも感じないし、後ろから近づく槍もはっきり見える――感じ取れる。
 殺す度、五感も手足も研ぎ澄まされる。爪は剃刀、脚は鉄槌、触れるだけで殺せる。殺して殺して殺し続け――やがて周囲には、死体の他に何も残らなくなった。
 漸く村雨に、人の心が戻る。死臭と血の海の中で、彼女は声が枯れんばかりに叫び、恐怖に涙を流した。血に濡れた手がおぞましく、無くなってしまえとまで願った。
 だと言うのに、地平線を埋める程の軍勢が、地鳴りと共に現れた時――村雨は涙に濡れた頬を、ぐいと吊り上げて嗤っていた。








「あ、あぁああああっ!? ……あ、れ」

 自分の叫び声で、村雨は跳ね起きた。障子の向こうからは、ほんの僅かの月明かりと、それを掻き消さんばかりの松明の赤が流れ込んでくる。
 掛け布団は跳ね飛ばしてしまい、秋の夜の涼しさも相まって、冷気が肌を撫でている。然し村雨は寝汗が酷く、額に手を当てると自分で熱さを感じる程であった。
 全力で長距離を走ったかの様に、心臓が早鐘を打っている。胸に手を当て、荒く息を吐き――

「気分はどうだ?」

「……着心地は良いね」

 一尺と離れず横に居た桜の声に、顔も向けずに答えた。
 何時もの西洋風の衣服は、梁に張られた縄に下げられている。洗ったのだろうが――血の汚れが落ち切っていない。
 代わりに着せられていたのは――真っ白の、襦袢ではなく小袖。厚手の布で作られている為か、一枚でも十分に寒さは防げそうだ。

「……これは? あなたのじゃないよね?」

「紅野の服だそうだ。白槍隊の制服――の、女用らしい。私が着替えさせたかったがなぁ」

「それは遠慮したい」

 立ち上がり、肘を膝を動かす村雨。睡眠時間が短かった為だろうか、体が鈍った感覚は無い。然し立ち上がってみると、脚に力が入らないのだ。

「んー……何か、気持ち悪い」

「飯を食わんからだ。二日も飲まず食わずだったそうだな? 少し待て、私達の分を持ってくる」

 飲まず食わず――加えて、眠らず。如何に体力に優れた人狼と言えど、それで思う様に動ける筈が無い。桜は襖を開けて部屋の外へ向かい――暫くすると、盆を一つ運んでくる。
 茶碗と皿、箸が二つずつ。茶碗には白米がうず高く盛りつけられ、皿には茹でられた山菜と味噌。簡素だが、戦を前にした砦で食べるは上等だ。
 桜は盆を置くなり、白米を一息に掻き込み始めた。二日の絶食は桜も同じ事。眠っていたとは言え、やはり腹は減っていたらしい。あれよあれよという間に平らげて、一息付いて箸を置く。

「……早いねー」

「まあ、この量ではなぁ。お前はどうした?」

 その様を、村雨はただ眺めるだけで、箸を持とうとすらしない。

「食わんのか?」

「んー……」

 山菜を手で摘み、味噌に付けて口へ運ぶ。それから、橋を手に持って、炊かれてそう時間も経っていないだろう白米を食べ、

「やっぱり、いいや。後は食べていいよ」

 ほんの一口で箸を置いた。
 十四歳の健康的な少女が、例え全く動かず座り込んでいたとは言え、二日も飲食を断っていたのだ。空腹を覚えない筈が無い。だのに村雨は、幼児でさえ満たされない様な量だけ食べて、立ち上がってしまった。

「……どこへ行く?」

「水飲んでくる、後……ちょっと散歩」

 止める間も無く障子を開けて、素足のままで堂から出て行く。桜はその背を、沈痛な面持ちで見送って――拳を、自分の膝に打ち降ろした。
 村雨は、常の様に振舞おうとしていた。だが、その様に出来る筈も無い。その事を桜は良く分かっているし――そうさせてしまった自分が、腹立たしくてならない。
 何故なら――村雨は、人の命を奪ったのだ。不可抗力などでは無く、明確な己の意思と殺意で、三人の人間を殺したのだ。
 桜とて初めての殺人の後は、精神の根源的部分から湧きあがる恐怖、己の行為に対する嫌悪感、罪悪感に押しつぶされそうになった。
 二人、三人と殺すにつれて慣れて行き、殺人の後に平然と食事を取れるようになったのは、四人目からであった。言いかえれば――〝真っ当な人間〟から抜け出すのには、四人の命が必要だった。
 何も出来ぬ苛立ちが募り、それを誤魔化す様に、村雨が残した食事も平らげていると、桜の背後で襖が開いた。

「よ。連れは元気か?」

「……煙臭いな、あいつは顔をしかめそうだ」
 煙管をふかしながら、紅野が襖を足で開けていた。行儀の悪い来訪者――寧ろこの屋根の下では招待者だが――に背を向けたまま、桜は呟くように答えた。

「だろうな、鼻は良さそうだ。やっぱり大陸ってのは凄いもんだな、あんな生き物まで生まれちまう」

 紅野は、驚嘆を押し留めずに言った。生まれてこの方、堺より西に行かず、伊勢より東に行った事の無い少女だ。幾許かの羨望も、その声には込められている。

「あれは、人だ。あれがそうなりたいと願った、だから村雨は人だ」

「通じると思うか?」

 その口振りが気に入らぬと、桜は語気を強めた。然し紅野は怖じず、その言に異を唱える。

「私はさ、年寄り連中とは違う。亜人を半獣だなんだと言って、蔑む様な趣味は無いよ。だけど……あんたの連れは、ちょっとさ、困る」

「何がだ」

 桜の左手は、脇差の鍔を押し上げていた。右手を使おうとすると痛むのだ――他者への害意を、身を蝕む呪いが咎めるかの様に。
 紅野は煙管を逆手に持つと、懐に片手を入れて、何かを探る様な動きをする。針が飛び出すか、短刀が飛び出すか、身構えた桜に向けられたのは、結局は言葉だ。

「怖すぎるんだよ、あいつ。あんな子供みたいな顔をして、鬼より凶暴に嗤ってさ。なんにも躊躇わないで迷わないで、武器も無しに正規兵三人を血祭りだ。……私の元部下だし、強かった筈なんだけどなぁ。
 あいつの技は、人のものじゃない。人はあんなに強くなれないし、あんな風に血に狂う事も出来ない。多分あいつは、人間よりずっと優れた生き物だ」

 亜人を蔑むのは、東洋でも極めて一部の国にだけ見られる風潮で――亜人の側からすれば、それは愚かしい事なのだ。
 人間は、身体能力で遠く亜人に及ばない。数を集め、武器を揃え、魔術を身に付けて初めて対等か――或いは、ようやっと競う舞台に立てる程度。亜人に取って人間など、非力で愚昧な、外見が自分達に似た生き物でしかない。
 それを紅野は良く知っていた。いや、彼女ばかりではなく――もしかすれば日の本の人間は、皆その事に気付いているのかも知れなかった。
 無条件で蔑むべき生き物が、その実は自分よりも遥かに優れているとなれば、心安く居られよう筈も無い。増してやその生き物が自分へ向ける目が、獲物を見る捕食者の目であるのなら――

「……あれは、人間になりたがっている。下手な人間よりも強く、人間らしくありたいと願っている」

「願うのは悪い事じゃないさ。私だって一つや二つ、いや十や二十は願いを持ってる。でもなー、私は欲が薄いからさ」

 混ぜ返す様に言って、紅野は桜の正面に、胡坐を掻いて座った。

「私の願いは、私が叶えられそうなものばかりだ。誰の助けが無くっても、私だけで、きっと何時か叶う様なものばかり。だからさ、自分から必死に掴もうとか、そういう事は考えない。簡単に手に入る物って、そんな強く求めないんだ。
 だから――あんたの連れが強く願うのは、きっと」

「きっと、なんだ」

 桜はもう、脇差から手を離していた。両手を膝の上で重ねて、そこに視線を落とす。喉の奥に何かつっかえている様な気がして、小さく咳をしたが、違和感は消えなかった。

「きっと、自分が一番分かってるのさ。どうしたって無理な願いだ――あれが、人と生きるのは。何時かまた、あれは人間を殺して喰って――また、自分に怯えて狂う。繰り返させるのか?」

 人の様に在りたいと願う村雨に、殺人の記憶とは、最も忌わしいものであろう。もう一度、その記憶を現実のものにさせるのか――それが、紅野の問いであった。
 先送りにして来た己への問いを、眼前に突きつけられて、桜は身動きも出来ずに居た。
 とうに気付いていた事だ。江戸を発つ前夜、異形の怪物を嬉々として屠る姿を見た時に――この生き物は人では無いと、心の何処かで知っていた。
 極力残虐に、極力凄惨に、苦痛を与えて殺す。殺しそのものが娯楽であるかの如く、異形の怪物をさえ嬲り殺す。正しく魔の呼び名を冠し、魔獣と称すべき存在だと――桜はあの夜、歪んだ悦びと哀れみと、相反する感情に併せて悟ったのだ。
 それが村雨の本願であるならば、桜は何も思う事は無かった。己も血濡れた身である故に、血生臭い連れと行く道中を、心の底から愉しんだ事だろう。
 然して村雨は、人の死を忌み嫌う、極めて真っ当な心を持っていた。初めの日、賊徒の潜む洞窟へ踏み込んだ時も――血臭に目を暗く輝かせながら、然し村雨は桜の前に立ちはだかり、誰も殺すなと我を張った。
 全く矛盾した生き物で――矛盾は己もであると、桜はこの夜、漸く気付いた。
 血に餓え、肉に餓え、殺しに悦びを見出す獣――確かに、そんな生き物に、桜は恋い焦がれている。

「繰り返せば、あいつは悲しむと思うか?」

 だが同時に、人から外れようとした村雨を、桜はこれまで二度静止している。己が恋慕する姿、死を呼ぶ魔物の姿から離れる事を、桜自身が願ったのだ。

「さあな、私は知らないよ。そりゃあんたの方が分かる事だ。だから――」

 紅野は体をぐいと捩じり、俯く桜の顔を見上げた。煙管の煙が、夜より暗い黒髪を撫でた。

「――行ってこいよ。何時戻ってきても良い」

「ああ、そうする」

 桜は、脇差も太刀も、掛台に載せて立ち上がった。縁側に置いてあった草履を引き寄せ、夜気の中に踏みだす。

「……世話好きなのだな、お前は」

「かもな、ウジウジしてる奴らは苦手だし。朝飯は一応用意させとくよ」

 月はあの夜、血に横たわって見上げた時より、幾らか細くなっていた。
 大きな獣に見降ろされている様な、そんな月だった。








 本堂から離れて木柵を超え、一つの村の様になった民家群れを抜け、僅かに森に踏みこんで。梟の声に押されて歩けば、小高い丘に辿り着く。その頂上で村雨は、夜の空を見上げていた。
 闇雲に歩いた訳では無い。人の臭いの少ない方へ、少ない方へと歩いて、いつの間にか辿り着いたのだ。
 静かで、居心地が良かった。だから村雨は、一人でそこに佇んでいた。
 孤独なのではない。孤独であることを選んでいる。贅沢な在り方であった。もうすぐ、選ぶことも出来なくなると――村雨自身が信じていた。
 終わりを告げる様に、慣れた匂いが近づいてくる。振り向いて正面から出迎えた。

「桜、来たんだ」

「探したぞ、随分歩かされた」

 夜に溶けて紛れる黒も、丘を照らす月明かりの下では、寧ろ色濃く存在を叫ぶ。光を全て吸い込む黒が――何故か眩しくて、村雨は目を細めた。
 丘を登り、向かい合う。互いに手を伸ばして、僅かに届かない程度の距離を開け、桜は右瞼を中指で引っ掻いた。

「戻るぞ、喰わねば身が持たん。喰わず嫌いを押し通すなら、押さえつけてでも食わせてやる」

 軽く放りだす様な言葉。こきりと指の骨を鳴らす桜は、負けを知った後も、常と何も変わらない。村雨はそれが好ましくて、久しぶりに屈託無く笑った。

「駄目、戻れないよ」

 だが――首を左右に振り、村雨は桜を拒絶した。

「何故だ」

「分かってるでしょう? 私は、あなた達とは違うんだもん」

 笑顔を崩さないままの答えに、桜は一度声を詰まらせ、だが直ぐに否定する。

「私は気にせんぞ。少々の違いがなんだ」

「……少々なら、良かったのにね」

 とっ、と地面を小さく蹴って、村雨は桜から数歩も離れた。桜は直ぐに、その距離を半分だけ追って詰めた。

「見たでしょ、私を。三人も殺した所も、その後も」

「私はもっと殺してきた。きっと百より多く、無造作に」

「理由はなんだった?」

 殺人の理由を問われ、桜は暫し考え込む。確かに桜は、幾度も幾度も殺人を重ねてきた。だが、その理由は、その対象は――

「道場破りで加減を間違えたり、山賊を突き出す手間が面倒だったり。殺して良い様な人間ならば、然程考えもせずに殺してきた。強いて言うのなら――深い理由など無い。〝それが楽な手段ならば〟躊躇わず実行しただけだ」

 ――桜に、殺人に対する感慨など無い。確かに、殺さず済ませられる様な場面でも、殺人を選ぶ悪癖は有る。だがそれは、面倒事を取り除くだけの、いわば無精から来る殺人であった。
 他は、例えば剣術家同士の手合わせの末の殺害、過剰防衛による斬殺――感情を動かされる何も無かった。桜は他者を蹂躙する事は好むが、殺害そのものには然程の興味も無いのだ。

「じゃあ、やっぱり違うよ。私とあなたじゃ、全然理由が違う」

「お前は、私を守っただけだ!」

 桜は、血を吐く様に叫ぶ。

「お前は……自分の為にではなく……」

 悲しい叫びであった。自分の言葉は間違っていると、知りながらの叫びなのだから。

「それも違うよ、桜」

 果たして村雨は、桜が思っていた通りに、

「私は、楽しいから殺したんだ」

 己の本質を、誰よりも正しく認めていた。
 借り物の小袖を、村雨は抜け出す様に脱ぎ捨てる。月光に晒された裸身は――灰色の体毛に覆われていた。
 背は厚く。胸や腹、喉は薄く。雪原の中に有ろうと、寒さを感じる事は無い体。微笑む口元から覗くのは、分厚い肉も切り裂く牙。

「私、ご飯食べなかったでしょ。なんでだと思う?」

 亜人の本質を示した村雨。その問いに桜は答えられず――僅かな沈黙の後、村雨は自ら語った。

「美味しくなかったから。口に合わなかったから、食べられなかったの。
 今まで、いろんな生き物を食べてきたよ。鹿とか猪とか、群れで暮らしてた時は熊だって食べた。自分で仕留めた獲物って、すっごく美味しいんだよ。残すのが勿体無いからって、骨も噛み砕いて中身を啜るくらい。
 でもね……あの夜に食べた人間は、何よりも美味しかった」

 歌う様に、弾む様に。村雨が告げた真実は、残酷なまでに単純だった。
 ただの狂人であれば、人を殺して悦ぶのも頷けよう。だが、村雨の殺傷本能は――突き詰めれば、生きる為のものなのだ。
 存在の本質と切り離し得ない、〝殺人〟というよりは〝狩り〟を愉しむ心。ならば、仕留めた獲物を喰らうのも当然であり――言葉を変えれば村雨は、〝そう〟生まれて〝そう〟死ぬべき存在であった。

「だからさ、桜。私達の旅は、今夜で終わりにしよう? あなたは江戸に帰って、私は大陸に帰るの。それが一番いいんだよ」

 人と共には生きられない。村雨は、雪原に戻る事を選んだ。二度と戻らぬ覚悟で――微笑みながら、涙を流す。
 村雨とて本当は、人として生きたいのだ。
 それが、叶わぬ夢と気付いてしまった。共に居たいと望む程に――殺したいと願う自分を見つけてしまう。

「……村雨」

「近づかないで。殺しちゃうから」

 桜は無防備に、ふらりと村雨に近付いた。村雨は身を撓め警告をする。警告はしながら――自分から離れようとはしない。
 より強い者と戦い、殺害する事が何よりの悦び。例え一度の負けを知ったとて、雪月桜という女は、村雨が知る中で最も強い人間――いや、最も強い生物だった。
 だから、村雨は桜を殺したい。今この瞬間にでも、喉笛に喰らい付いて噛み裂きたい。耐え難い衝動を、拳を握りしめて抑えていた。
 桜は留まらず、また一歩、身構えぬまま村雨に近付く。

「離れて! 早く!」

 答えは返らず、代わりに桜は、村雨の肩に手を伸ばした。その指先が届くより速く、村雨は桜に飛びかかっていた。
 小さく鋭い跳躍。あまりに近い距離だ――村雨の牙は、確かに桜の喉に触れた。

「私が――お前に殺される筈があるか?」

 顎に力が込められ、触れた牙が喉へ食い込むより速く、桜は村雨の腕を掴み、脱ぎ棄てられた小袖の上に投げ落とした。
 背を強かに打ち、大量の息が肺から逃げる。咄嗟に酸素を求めて口を開いた村雨の、胸へ拳が打ち落とされた。

「かっ、ぁ……!?」

 息を吸う事が出来ず、村雨は打ち上げられた魚の様に、口をぱくぱくと開閉させる。桜は、他者へ危害を加えた事に寄る呪いの痛みを耐えながら、村雨の体を跨いで座った。

「忘れるな、お前は私が買い上げた。私の許し無しに、私から離れる事はならん」

 村雨の手首を掴み、倒れたままでうつ伏せに転がす。腕を背中に捻り上げ、動きを制した。
 組み伏せられて尚も、村雨は桜を殺そうと足掻く。体を反らせ、なんとか起き上がろうとして――体毛に覆われた背に、人の体温を感じた。衣服越しでは無い、素肌に触れる熱さだった。

「さくら……え?」

「お前がどう言おうと知らん。私はお前を手放したくない。人を殺す程度の事で、お前が私から離れようというのなら――二度と誰も殺せない様にしてやる」

 村雨の首に、桜の腕が巻きつけられる。呼吸も出来る、声も出せるが――息苦しさを、確かに感じる。然し村雨の顔が熱くなるのは、血が頭に集まったからでは無く――

「何時かまた、お前が誰かを殺そうとした時――その前に、必ず私がお前を殺す。お前を殺して直ぐ、その場で喉を突いて後を追う。仮にそれが、如何な悪党であろうが、死んだ方が良い外道であろうが――お前が殺す事だけは、私が許さん。その代わりに――」

 村雨の首を抱いたまま、桜は寝返りを打った。体勢が入れ替わり、村雨が桜を下に敷く。

「――お前が何時か死ぬ直前、私の命をお前にやる。噛み殺そうが絞め殺そうが、斬ろうが殴ろうが何でもいい。必ずお前が、お前の手で、お前の意思で殺せ」

 己の黒髪に包まれ、桜もまた、月夜に肌を晒していた。脇腹の傷は痛々しく紫色に変色していたが――闘争の中で鍛えられ、然して女の美しさを失わない、艶めいた裸身であった。
 村雨の体の様に、身を覆う毛皮などは無い。人狼たる村雨の目には、夜の帳の中でも、その姿が鮮やかに映っていた。

「だが……今夜ではなかろう? 何時かお前は、私より先に寿命で死ぬ。その時まで――最期まで、楽しみは取って置け。欲を出せばその前に……私が、お前を、確かに殺す」

 自分の体の下で、桜が何かを言っていると――もしかすれば村雨は、半分も聞き取れて居なかったかも知れない。だが、肝心な事だけは分かった。誰かを殺したのなら――桜と共に生きられなくなる。
 一度は諦めた筈だった。だのにこの傲慢な言葉を聞けば、捨てた希望を拾いたくなる。この人間の隣ならば、自分は誰も殺さずに、人らしく生きられるのではないか――

「……約束して、桜。あなたは必ず、私に殺されて。他の誰でもなく、絶対に」

「ああ、約束する。この命、この魂は全てくれてやる。だから――お前の全てをくれ」

 胸が重なり、二つの心音が近づく。何れもが、昂る心を映して、間隔を狭めていた。
 命を奪う牙では無く、心を紡ぐ唇が、桜の喉に落とされる。喉を伝い、顎を伝い、やがて唇へ――

愛してるよころしたいよ、桜」

「ああ、私もだ」

 二つの影は、月の下で睦み合った。人も獣も無い。ただ二人の女が、そこに居るだけであった。








 桜は、村雨を犯す様に抱いた。喘ぎ、身を捩り、逃れようとする村雨を組み伏せ、一方的に凌辱した。
 夜が明ける頃、疲れ果てた村雨を背負い、本堂に戻り――その日は一日、寝て過ごした。
 夕暮れ時に村雨は目を覚まし、僅かに食事を取る。渋い顔をしていたが、それでも茶碗の半分程、炊かれた飯を平らげた。
 その夜は、同じ布団で眠り――真夜中、桜の体温に、村雨は目を覚ます。
 初めの夜より幾分か優しく、村雨も逃れようとはしなかった。ただ、敷き布団を裂ける程に噛んで、桜が苦笑いする強情を見せた。
 次の朝は、遅くなった日の出とほぼ同時に目を覚ました。もとより大食いの桜に負けず、村雨は数日分の空腹を埋めるかの様に、二杯三杯と腹に納めた。
 三日目の夜は――村雨から、肌を重ねる事を求めた。泣き咽び、然して絡めた腕を解かず、鶏の音が聞こえるまで求め合った。
 村雨が疲れ果て眠りに落ちる前、桜はその耳元で問うた。

「私は、奥州へ行く。付いて来るか?」

 付いて来い、とは言わなかった。共に在らずとも――もはや、憂う事は無いのだ。

「ううん、行かない。ちょっと、したい事を見つけたから」

「そうか」

 頷いて、笑って、桜は立ち上がる。常の服装を整え、脇差を帯に差し、黒太刀を背負った。

「お休み……行ってらっしゃい。またね」

「ああ。行ってくる」

 桜が襖に手を掛けるより先、村雨は寝息を立てていた。
 夜明けの、澄んだ空気の中の、束の間の別れ。雲一つない秋晴れの日であった。








 世話になった者に挨拶でもと、珍しく律儀な考えを起こした桜。襖を開けると、右手側廊下の壁に寄りかかり、狭霧紅野が立っていた。

「おはよーさん。すっきりした顔で何よりだ」

「そういうお前は寝不足の様だな。なんだ、夜っぴて覗き見か?」

 あくびを噛み殺しながらの挨拶に、桜は卑賤な冗談で答える。けっ、と払い飛ばす様な笑い声を上げて、紅野は壁から離れて歩いてきた。

「あんたの連れの見張りだよ、馬鹿。お陰で二日も寝不足だ、もっと声を抑えさせろ」

「村雨には言うなよ。羞恥で死んでしまうぞ、あいつ」

 品の無さでは紅野も十分に張り合える性質の様で、思わぬ反撃に、桜はかかと笑い返した。
 ひとしきり二人で笑った後、先に笑顔を崩したのは紅野。腰に吊り下げていた煙管を咥え、指先に火を灯し、煙を噴かす。

「で、行くのか?」

「ああ。遅くなればなるだけ、奥州の冬は辛くなると聞く。雪は慣れているが、この国で装備が手に入るかも分からんしな」

「治ったら戻って来いよ? 数日分の飯代、確り働いて返してもらうぞ」

 応、と桜は答え、廊下を軋ませもせずに歩く。草履を履き、外へ出て、雲一つ無い空を見上げた。

「……あんたが死んだら、どうしたらいい? どこに知らせをやれば良いんだ?」

「考えんで良い。私は死なんさ、そういう約束だ」

 己の死など、考えの内に無い。負けを知って尚も、己の武への信頼に、僅か一片の曇りも無い。
 だから桜は、保証など無い約束を誇らしげに語って胸を叩いた。

「ではな。戻ったら幾らか手伝ってやる」

「最後まで手伝え、こっちは人手不足なんだから」

 背に投げつけられる文句を軽く払って、桜は比叡の山を東へ降りて行く。まずは江戸へ戻り、そこで改めて旅支度を行い奥州へ。桜には珍しく、考えの有る旅である。
 己ばかりの身では無い。もはや己の身も命も、己の好きには捨てられない。
 これまでの生に於いて、殊更に己を守ろうと考える必要は無かった。自分より強い者がいなかったのだから。
 ならば、初めて負けを知り、心から愛する者を見つけて――桜は漸く、自愛という概念を知ったのかも知れなかった。
 手負い、一人旅。然し〝帰らぬ〟などは有り得ない。保証は無いが確信を抱いて、桜は東海道を逆向きに行くのであった。








 それから遅れること三刻後、日が高くなってから、村雨は布団から這い出した。
 借り物の小袖は布団の外に脱ぎ棄てられ、今は一糸纏わぬ姿。部屋の片隅には、普段身に付けていた、西洋風の衣服が畳まれている。
 どちらに袖を通そうかと迷い、何気なく小袖に鼻を近づけてみる。愛しい人の匂いが強く残っていて――思わず赤面し、洋服を着る事に決めた。
 目の下の隈も消え、体は軽い。走ろうと思えば、一晩でも走り続けられそうな程だ。玄関先へ向かい、自分の靴を探した。

「お、こっちも起きたか。飯はどうする?」

「おはよー……今朝は良いや、降りてから食べる」

 背後から聞こえた声の主は、直ぐに匂いで分かった。煙管の煙の臭い――紅野で間違い無い。
 靴を履き、紐をやや硬く結び、爪先と踵の具合を調節する。全力で走っても脱げない様に、用心に用心を重ねる形だ。
 適切な具合に調整出来たのか、とんとんと小さく飛び跳ねた村雨は、満足気な顔で頷く。

「色々ありがとうね、桜の分も。あれって絶対、お礼とか言わないで出て行ったでしょ」

「……そう言えばそうだな。手伝ってくれるつもりは有るらしいけど」

「あはは、やっぱり。ごめんねー、どこまでも自己中心的だから、あの人」

 長く連れ添った夫婦の様な事を言う村雨に、紅野は砂を吐く様な顔をする。
 その表情さえ気にならぬのか、村雨は今朝の晴天より晴れやかに笑った。

「で、どこへ行く? あいつに付いて行かないのか?」

「うん。それより、やらなきゃ無い事を見つけたから。だから……私も、此処を離れるね」

「そうかい」

 深く語り合った事も無い。些か遠く感じる距離に立って、二人は話している。
 然し、言葉の淡白さ程に、声の響きに余所余所しさが無いのは、それぞれの気性が為だろう。
 何くれと無く世話を焼きたがり、だが人見知りでもするのか、あまり深くまでは踏み込まない紅野。
 人当たりは良いのだが、踏み込んで欲しく無いという様子が見えれば、一先ずは立ち止まる村雨。
 適度に距離感が噛み合って、互いにそこそこ、居心地の良い会話だった。

「じゃ、行って来るね。京のどこかには居るから、気が向いたら会いに――いや、無理かな」

「無理だ、無理。あと数日でグルリ包囲されて兵糧攻めだよ。ほらほら、さっさと抜け出しちまえ」

 遠巻きに山を包囲している軍勢は、日に日に僅かに陣を進めている。
 今ならば、東側から抜け出して大回りをすれば、洛中へ戻る事も叶うだろう。然し、紅野の見立てでは後四日で、この山は鼠一匹逃げられぬ程、厳重な包囲網の中に置かれる。
 足音軽く走り去る村雨の背を、まだ眠たげな目で見送って、

「……結局届かなかったなぁ、追加の煙草」

 暫くは仕事が無くなるであろう、己の煙管に同情した。








 洛中は、昼から物憂げな気配に閉ざされていた。
 ほんの十日程度の間に、京の人口は激減していた。死んだ者、逃げだした者、比叡の山に籠った者――戸を閉ざしたままの建物が多い。
 それでも、人は生活を続ける。大きく移動できる財力が無かったり、土地に愛着を持っていたりと、簡単に離れられない理由がある者達は、今日も近代化しつつある街を生きている。

「ううん、食事に困る……作るのは面倒なんだけどねえ」

 そんな中、両手を真っ赤に濡らして、恐ろしく物騒な女が――松風 左馬が歩いていた。
 退屈しのぎに何処ぞの剣術道場に殴り込み、素手で全員を叩きのめし、その帰り道。空腹を覚えたが、馴染みの飯屋が山へ逃げてしまった為、どうしようかと悩んでいる最中である。
 手に付いた血も、そこで手拭いでも借りれば良いかと思っていたのか、そろそろ乾いて肌にこびり付き始めた頃合い。慣れた感触だが何となく不快で、適当に近くの壁に擦りつけた。

「……お」

 と――幾分か離れた場所に気配を感じる。大方先程の道場の関係者か、或いは過去に殴り倒した怨みでも晴らしに来たか。そう思い、誘いを掛ける為に、人通りの少ない細道へ入った。

「出ておいで、遊ぼう。私は空腹だ、好機だと思うよ?」

 振り向かないまま呼び掛けて、そっと拳を握り、修羅の笑みを浮かべる。確かに空腹だが、食欲よりも満たすべき闘争欲求を抱えた女だ。至上の楽しみに巡り合えたと気を高ぶらせたが――何か、おかしいと気付く。
 足音の質は硬質。恐らくは西洋か中華風に、靴を履いたものだろう。然し音が軽い――武芸者のものとは思えない。
 両足が石畳に擦れる音の間隔から、歩幅の小ささも分かる。走って来たのか、幾分か荒い呼吸音の出所は、左馬の口より更に低い位置だ。
 子供に付け狙われる覚えは無い。訝しげに振り向くと、其処には灰色の髪の少女が、ただならぬ表情で立っていた。

「……なんだ、桜の連れじゃないか」

 良く知った友人が、戯れに連れ歩いていた少女――村雨。左馬からすれば、あまり好ましい存在ではなかった。

「どうしたんだい、迷子かな? 吠えれば見つけてもらえるだろう、あいつはあれで耳も目も良い。そうじゃないなら――」

 体重を踵から爪先へ移し、拳に力を込め――肩と肘は緩めて。四間の間合いなど、左馬の脚力を以てすれば、一足で踏破出来る距離。言外に殺傷の意図を漂わせ、愉快さとは無縁の顔を作った。
 じ、と焼けた様な音がした。左馬の靴底が、強過ぎる摩擦に熱を発し、落ちていた枯れ草を焦がしたのだ。
 村雨より四寸高い背を低く縮め、矢の様に馳せ、拳を突き出す。幾度も肉が抉れて作られただろう丸い拳は、村雨の鼻に触れる寸前で止まっていた。

「帰りたまえ、私は気が短い。お前の連れよりも、もしかしたらね」

 良く知らぬ相手を、こうも嫌えるものか――それが、出来るのだ。松風 左馬は確たる理由を以て、村雨という生き物を嫌っている。去らねば打つ、加減して尚も顔を叩く風圧が、言葉も無く告げていた。
 だが村雨は怖じる事無く、そして退きもしなかった。代わりに、その場に膝を付き、額が地に触れる寸前まで頭を下げ、

「――弟子にしてくださいっ!」

「はぁ……?」

 あまりと言えばあまりに、左馬の予想の他の答えであった。
 村雨の側からすれば、この結論は必然だった。桜が負けを喫した相手に、自分の力で一矢報いたいと願うのであれば――桜より強い師を見つければ良い。そんな人間がそう居る筈も無いのだが、条件を限定すれば、村雨は丁度一人を知っていた。
 それが、松風 左馬。素手での争いに限るなら、桜にも勝る達人であり――加えて体格も、決して優れているとは言えない。力と速度で破壊力を生む技術体系――小柄な村雨が習い覚えるには、きっと理想的なものであろう。

「……ふざけるなよ、半獣」

 然して左馬は、村雨に自分の技を教える気などさらさら無かった。寸止めした拳を降ろし、地に伏す村雨の肩に触れさせる。
 左馬の足元の石畳が砕けた。一寸拳を突き出しただけで、左馬は村雨を一間も跳ね飛ばした。
 一歩と動かず、足を地面へ捻りこむ事による無寸勁――踏み止まれず、村雨は仰向けに転がる。

「ぁ――っ、ぐ……っ!」

「桜の連れじゃなきゃ殴り殺してた所だ、まったく冗談じゃない! 帰るんだ、与太話に耳を貸す気は無いよ!」

 武術家にとって、己の技は命より重い。軽々しく他人に教えられるものではない。増してや教えろと言いだした相手が、自分が酷く忌み嫌う存在であれば――左馬の怒りを、激し過ぎると謗るも、或いは的を外したものとなろう。

「……った、たた……やっぱり、これが――」

 腹を鈍器で打たれた様な痛み――これさえも恐らく、本気で打ったものではないだろう。村雨は、この技が欲しいと心底願った。
 呼吸を整えながら立ち上がり、去り行く背に追い縋る。足音を一つ立てただけで、既に左馬は、重心を僅かに後ろに傾けていた。

「桜が負けたって、聞いた!?」

「……あいつが?」

 その背に、村雨は叫ぶ。左馬の肩が、小さく跳ねた。

「刀を抜いてて、刀を持った相手に負けた! 脇腹を斬られて、血が沢山出て、もう少しで死ぬ所だった! 一度も斬り返せないで、たった一振りで、桜が負けた!」

 左馬にとって、その言葉は、俄かには信じ難い事だった。桜は化け物染みた人間であり、自分以外で勝てる者の存在など無いと信じていた。ましてや、刀を抜いた桜に、勝てる生物など存在しないとさえ。
 実はその思考は、自分の力量への信頼の裏返しでもある。自分にしてからが、桜が武器を持てばもう勝てない。ならば余人が勝てる筈無いと――論理を構築していたのだ。

「本当に、かい?」

 振り向き、訊ねる。村雨は無言で頷く――嘘が有る様には思えない。

「それで、何でそんな事を言う。私に仇を取れとでも?」

 今度は、村雨は首を左右に振った。拳を握って、顔の高さでぐいと突き出した。

「私が、桜より強くなればいい。だけど、強くなる方法が分からないから……だから、あなたに教えて欲しいの。
 その代わり、何でもするよ。錆釘が回してくる仕事も代わるし、食事の用意だって洗濯だって、小間使いがやるような事は何でも――出来に自信は無いけど。
 お金だってどうにかする、私はどうしても――」

 突き出された拳に、左馬が拳を突き合わせた。体重差はそう大きくも無い筈だが、押しつぶされんばかりの圧力に、然し村雨は意地でも退こうとしない。

「桜より強くなる? 生憎と桜は、今の私よりは強いんだよ。つまりお前は、私に教えを乞いながら、私より強くなろうって言ってるんだ」

「……そうだよ、そう思ってる。あなたより強くならなきゃ意味が無い。それに……そう言うの、愉しむ方でしょ?」

 図星だ。左馬の険しい顔に、一片の笑みが混じる。確かに強者をより強い力で蹂躙するのは、最大の娯楽と考えている。この考えは、桜と左馬を友人たらしめる共通見解だ。
 ならば――敵が強ければ強い程、その愉しみも大きくなる。自分より強くなると宣言したこの小娘を――叩き伏せれば、どれ程に愉しいか。

「今の私を殴っても蹴っても、多分あなたは愉しくないよ。でも、あなたが教えてくれれば……桜より、あなたを愉しませてあげられる。
 だからお願い、あなたの技を教えてください。その為だったら何でもします」

 個人的な好悪の感情を、愉快な未来予想が塗り潰し――友人の敗北という信じ難い事実も、また気紛れの引き金となる。

「……まず一つ。何でも、と軽々しく言うな。出来ない事を言われた時、その対応に困るだろう?」

 一歩踏み出し、拳を押し込む。村雨は下がろうとせず、その為か、伸ばした腕がじりじりと顔に近づけられる。

「二つ。武術を志すならば、どこまでも我儘になる事だ。決して他人に譲らず、決して我慢せず。節制は悪徳、強欲こそは美徳、意を通せずの敗北は、意を通しての死よりも劣ると知りたまえ」

「――! じゃあ……?」

 武術を――こうまで言うのならば、その裏の意味を、取り違える事もあるまい。重ねられた拳から力が抜け、つんのめった村雨の横で、左馬はさっぱりとした笑い顔を見せていた。

「三つ、〝あなた〟と呼ばれるのはむず痒い。私の事は師匠とでも呼ぶように良いね?」

「……はい!」

 左馬は細道を抜け、広い通りへ戻って行く。その後ろを村雨は、子鴨の様にぴたりと追い掛けた。
「腹が空いた、昼食の用意だ。獣の肉が食べたいね、狩って来い」
 師匠から弟子へ、最初の命令。村雨は師匠の言葉を反芻し、その意を酌もうと気を回して――

「はい、嫌です!」

 存分に、己の我儘を振るった。次の瞬間、突風の様な回し蹴りを喰らって、村雨は引っ繰り返っていた。

「生意気言うんじゃない! 私が食べたいと言ったら、真冬の山中だろうが新鮮な秋刀魚を用意する、それが弟子ってもんだろうが!」

「季節的に無理です、師匠!」

 我儘の度合いで言っても、まだまだ遠く及ばない。この女を超えるのは難儀しそうだと、痛む頬を撫でながら、村雨は街の外へ走り出すのであった。