烏が鳴くから
帰りましょ

山ン主のお話

 日が大きく傾いてきた。太陽の恩恵が消え、寒さが増す時間帯である。小屋の中には竈の炎が、揺れ動く影を作っていた。

「おーい、暇だ」

「やがましい」

 間延びした声を発したのは、天井の梁に逆さに吊り下げられた桜。慳貪な声で返したのは、この家の長男、富而とみじである。
 何故、この様な状況になっているかと言えば、富而青年の独断だ。父親が山に入り不在の今、家長は彼が受け持っている。
 村の外部の人間への警戒――にしては、やはり過剰に映る。少々ならず石頭のきらいがある富而とは言え、この様に極端な行動に走らせたのは、やはり桜の余裕が故だろう。余所者に大きな顔をされたくないと言う意地が、度を超えて滾っているのだ。
 だが、富而にして見れば、これでも生かしているだけ寛大な処置なのだ。
 富而やその父母、そして近隣の者達が寄り添って暮らすこの集落は、名を〝青前あおのまえ〟という。
 寒冷だが土は富み、夏は日高く雨量は多く、多量の米を産出する。その内、次の秋を迎えられる程度の量だけを備蓄し、残りは殆どを売り捌いてしまう。
 主たる取引先は、やや南方にある小都市――主に仙台藩。雪が降る前に運んで現金化し、銃器弾薬や防寒具、燃料の購入費用に充てるのだ。
 長い冬を超える為の燃料、雪の重みに歪む柱や屋根の補修。金は幾ら有っても足りないが、貧しい土地とも言い難い。そんな村の中で、最も重んじられているのが、山に入る者達の決まり事であった。
 山――東西にそれぞれ山を抱く土地だが、この村の者が〝山〟とだけ言った場合、大概は西の山脈を指す。
 背の高い広葉樹に埋められ、夏は数間先の見通しを聞かない獣の楽土。然して冬は一点、木々が葉を落として視界が開け、無限の恵みを青前にもたらす狩場となる。
 この山へ入る者達は、先祖代々の掟を、その最も些細な一つに至るまで決して破るまいとする――破ったとて、罰則は何も無いのだが。
 人が人に罰を与える様な、近代的な制度ではない。山が、そして〝山ン主さんぬし〟という存在が、人に罰を与えると信じているからこそ、彼らは自らを厳しく律する。
 例えば、山に入ろうとする者は、その前後一週間、村の外部の女を見てはいけない。山ン主さんぬしが嫉妬をするという理由のこの掟だが、破った者が罰を受けた事は無い。だが、破ってしまった者は自発的に、例え餓えに苦しもうとも、山に入る事を控える。
 例えば、冬の山に女を踏み入らせてはならない。冬の山は山ン主さんぬしの庭であり、男だけが歩く事を許される。女達が山に入って良いのは、蕨が顔を出してから初雪が降るまでの間だけだ。
 他にも、蛇を見掛けたら道を譲らねばならないだの、木の実を山で喰う前には柏手を打つだの、雑多な決まりは幾つも有る。その中で今、富而の頭を最も悩ませているのが、〝外の者を村に留め、夜を越させてはならない〟という決まりだ。
 そも、この村を訪れる者など居ない。辺鄙な土地で名産も無く、村の者が外へ行く事はあれど、数十年、逆は無かった。だからこの決まり自体、知っては居ても意識はしない程の、適当な扱いだったのだ。
 だが、実際に余所者が舞い込んでみれば――しかも、相当に物騒な武器を携えていれば、富而青年も心安くは居られない。村の掟に忠実たらんとする彼は、叶うならばこの来訪者を、家にも入れず捨て置きたかった。
 そう出来ぬ理由があるから、彼は桜の存在自体に腹を立てているのであった。

「おーい、何時までこうしていればいい? そろそろこの格好にも飽きてきたのだが」

「やがましいっちゅうとるがぁ!」

 逆さ吊りにされていても、桜はやはり桜である。まるで普段と変わらぬ物言いのまま、自らの体を振り子の様に揺り動かして退屈を主張していた。

「いーじゃない、暫くこのまんまでいなさいよ。まだ一房しか作れてないんだもん」

「私は結うのは好きで無いのだがなぁ。量が量だ、洗う前に解くのが面倒で面倒で」

 三尺の黒髪は床に広がり、それをさきとさとの姉妹が、やはり三つ編みにして遊んでいる。未だに人見知りの気が強いさきとは裏腹に、さとはすっかりこの遊びに熱中してしまい、顔も上げずにせっせと手を動かしていた。

「ったぐ……さと! こんな奴とそう話すでねえ! そもなぁ、余所者に夜を越さすのは掟破りだぞ!」

「知ってるわよ! でも私が決めたんじゃないもん、お父さんだもん! あっちに文句言ってよ!」

 咎めだてする兄の言葉も、珍しい玩具を気に入ったさとには届かない。その上に、苛立ちの原因を再認識させられ、富而の不機嫌面はより一層色濃くなった。
 そう。石頭の富而が、然し桜を無理にでも叩き出せない理由は、彼の父親の意向が原因であった。
 富而の父親は青前の村長むらおさであり、腕利きの狩人である。山へ入る者達の指導者的立場となり、村の者達を牽引する、富而からすれば誇るべき父親だ。
 だが同時に、富而から見た父親は、許し難い一点も併せ持つ。村の掟を、長たる者が蔑ろにするという悪癖である。
 例を挙げれば、狩りの獲物の分配。まずは止めを刺した者、次いで狩りの指導者に、良い肉を分配するのが、この村の風習だ。だのに富而の父親は、その時々の己の差配で、肉の分配を左右する。
 雪降ろしの当番も、平等に回す訳ではない。冬の間に一度も仰せつからない者がいれば、ほぼ毎日駆り出される者――富而青年の事である――も居る。
 村の掟は、村長むらおさの元の平等。これはおかしいではないかと、富而も幾度か、若い正義感を翳した。その度に彼の父親は、『これが平等だ』と一言だけ返すのだった。
 父親であり、村長むらおさである男の言葉に、強く逆らう事も出来ないのが、掟を重んずる富而である。結果、言いたい事は多々有れど、腹の中で不満を抱えるだけで――堪忍袋の緒が切れたのが、たまたまこの日だったという事だ。

「おうい、ふくとやら。吹き零れるぞ、鍋を上げろ」

「おうとと、あんぶねえ! はあ、良く見てること」

 富而の母、ふくは、すっかり桜と親しげになってしまっている。山に入らない女衆は、外の者を遠ざける理由など無いのだ。
 鍋の中では、雪国にしては珍しい程の量の米が、獣の肉と共に煮えている。空腹をそそる暖かな湯気は、寒々とした小屋を天井から満たしていた。

「っちぃ、おっとうもどーこほっつぎ歩いてだ……!」

 家長が戻らない為、何時までも夕食が始まらない――始めて悪い道理はないが、掟だと富而自身が止めさせている。

「さあてな。狩りならば一晩くらい泊まっては来んのか?」

「おさ聞いてねえが――んあ、あ?」

 父親の愚行の象徴とも思えば、聞く事さえ煩わしい桜の声だが――富而は何かに気付いたかの様に、小屋を飛び出し空を見上げた。

「日が落ちてる……ヤバい、日が落ちてる!?」

 音の曇る東北訛りではなく、桜にも聞き取りやすい言葉で、富而は驚嘆を叫んだ。

「えっ……もうそんなに!?」

「あれ、父さんまだ、帰って来てないのに……」

 さきとさとの姉妹が、つられてやはり小屋の外へ出る。空には既に幾つもの星が、濃紺の下地に光を落としていた。

「ふく、どうしたのだ? 日が落ちるのがそんなにまずいか」

 尋常ならざる様子に、逆さにぶら下がったままの桜は、自らの髪を手に巻き取りながら尋ねる。

「夜のお山は……絶対に、居ちゃなんねえ所だ」

 答えるふくの顔色は、寒々と青白く変わっている。重苦しい空気が、小屋の中を支配した。
 果たして予感に答えるように、桜の目が鋭く変わる。

「……おい、裏手だ。腐臭がするぞ、急げ」

「腐臭――おうっ」

 小屋の中に有るとても、桜は手練れの剣客である。何者か――玄関まで回る事さえ出来ない程疲弊した、何者かの気配を感じ取っていた。
 富而は咄嗟に、雪降ろしに用いる櫂を掴んで雪を馳せる。十数歩で小屋の裏手に回り、そこに、血塗れで倒れている男を見つけた。

「茂蔵さん、なした!?」

 富而の父と共に山に入っている筈の、熟練の狩人。それが、この男である。鉈を軽々と振り回す太い腕は、骨が見える程に肉を抉られ、血を溢れさせていた。

「と……戸を閉めろ、家さ入れぇ……。降りてたら、皆、皆やられちまうぞぉ……!」

 血の泡を吹き出しながら、茂蔵は必死に言葉を紡ぐ。助け起こそうとした富而の胸は、忽ちに赤の一色に染まった。

「茂蔵さん、しっかりせえ! 茂蔵さん!」

「ありゃあ鬼じゃ、鬼赤毛じゃあ……。すまね、晟雄がどおのもんに、詫びて――」

 びく、びくと痙攣を起こし、筋骨逞しい体は、それっきり動きを止める。騒ぎを聞きつけた村の者が幾人か、駆け寄って来て悲鳴を上げた。








 村長である富而の父の家――小屋と呼ぶべき広さの代物だが――には、村の長老格が三人集まっていた。
 何れも髭は白く頭髪は薄く、背中は曲がって居て、往年の力強さは何処にも見えない。眼光の鋭さだけが、山に於いて獣と戦ってきた戦歴を示すような、そんな老人達だった。

「故はどうあれ」

 特に歳を重ねた一人が、重苦しく口を開く。

「最大の禁を、晟雄どぉの組は破った」

「仕方ねえでねか?」

 言葉が終わるやいなや、別の一人が口を挟んだ。

「仕方ねぐね。なんぼの事さあろうと、誰が死のうと、夜の山さ留まるはならね。村長むらおさならばわがってる筈だ」

 最長老の老人は、静かに首を左右に振って答える。

「〝日入り後のお山に留まってはならぬ〟〝日の出前のお山に踏み入ってはならぬ〟……おらが餓鬼の時分、破った阿呆がおったでよ。たすげさ行ったもんが十人、揃ってばらっばらで戻って来た」

「帰って来たんけ、ごん爺?」

 もう一度、最長老は首を振る。

「戻って来た――拾われて来た。運べねえがら、頭だけ拾われて来た。山さ入った阿呆は、結局最後まで見つかんねがった。
 なんも誰も、十日はお山さ入る事はなんね。冬だ、なきがらさ見つかっども綺麗に――」

「じじい! なんちゅうたが!?」

 ふくは、殴りかからんばかりの権幕で吠え、最長老の髭を掴んだ。

「おっがあ、止めろ! 長老様だぞ!」

「長老だがらなんだじゃ、たーだのじじいでねが! なきがらだと、よぐも言ったなこのぉ!」

 激しているが、然し掴みかかる以上の事は出来ない。行為の消極性が、自らもまた、最長老の言葉を認めてしまっているとの裏づけであった。
 上下逆さの視界のまま、桜は暫く会話を聞き続け、事の顛末を理解していた。
 富而、さき、さとの父、そしてふくの夫である晟雄は、皆を引き連れて狩りに出ていた。いつもならば日が沈む頃には、もうそれぞれの家に戻っているのが常だ。
 ところが、この日に限って何時までも帰らない。日が沈んでから山に留まる事は、この村の最大の禁である。
 この禁ばかりは、咎こそ無くとも、村の誰も破ろうとしない。最長老が語って聞かせた様に、破れば必ず村に害が及ぶと言い伝えられているからだ。
 事実、数百年に渡って綴られてきた、村の記録を見れば分かる。この禁を、明確な意図の有無に関わらず破った者が有れば、必ずや十日以内に、村に害が降り注いだのだ。

「今夜は火を消すな、明日からは舌さかぐして寝ろ。山ン主さんぬし様のお怒りさ静まるまで、お山ぁ上らんでやり過ごす……しか、無えべさ」

 長老格の残り一人、しわくちゃの老婆は、それだけ言って目を閉じる。動じていないのかと桜は思ったが、然し直ぐに、小さな手の震えに気付いた。
 小屋の隅では、さきとさとの姉妹が、身を寄せ合って座り込んでいる。数歩離れて富而が、激する母をどうにかなだめようとしていた。

「茂蔵とやらの傷は、どういうものだった?」

 逆さ吊りの体を振り子の様に揺らしながら、桜は会話の中に割り込んだ。余所余所しい視線が幾つか向けられたが、それは敵意などではなく、意図が読めぬとの困惑を多分に孕んでいる。

「……大ぎな噛み傷だ。腕と、腹と、脚、ぜーんぶがっつりとやられとった」

「ふむ、獣か。傷口から種類は分かるか? その大きさは? 夜行性だとは思うが、村まで降りて来た事は有るか?」

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、顔をしかめる老人達――と、富而。桜はその雰囲気にまるで配慮せず言葉を続ける。
「聞く限り、余程凶暴な獣の様だ。降りてくれば戸板では防げんだろう? 山に入った連中も、襲われて動きが取れぬのやも知れん。
 この土地の事は知らんが、夜に人間は無力だぞ。早くせねば本当に、屍が幾つも増える事になる」

「……聞いて、どうするだ」

 桜の言は、風習など気にも留めず問題を解決する為の、いわば合理的思考の産物だった。富而はその言の意図を、分かっては居るが再度確かめる。

「私が山に入る。獣が居るなら仕留めて、お前の父親達を連れ戻す。それで通行料の代わりにしろ」

「馬鹿こぐでねえ!」

 一声、富而は吠えて、それから長老達の前で頭を下げた。

「……集まって頂き、ありがとうごぜえました。俺がお送りします」

「うむ」

 それが当然と言わんばかりに、長老達は立ち上がる。のそりと歩く彼らの後ろを、富而は松明を持って追いかけ――小屋を出る前に一度振り向き、桜を強く睨み付けた。
 二重構造の玄関口から、二度、戸を閉めた音がした。先ほどまで怒り狂っていたふくは、さっぱりとした顔をして見せ、

「さき、さと、何時まで起きてんだぁ。さっさと寝んべさ!」

 率先して布団を敷くと、何も言わずに潜り込んでしまった。

「え……うん」

「ちょっと早くな――ん、ううん、分かった」

 さきもさとも、異を唱える事は出来ない。普段とは明らかに様子の異なる母親に、負担を掛けたくないのだろう。それぞれ素直に、母親の隣に潜り込む。

「……やれ、私はこのままか」

 桜は相変わらず逆さ吊りのまま白い溜息を吐き――心を澄ませ、山の声に耳を傾ける。
 山そのものが獣であるかの様な、太いうなり声が聞こえた、そんな気がした。








 月も中天を超えた、深夜。桜もそろそろ逆さ吊りの体勢に飽き、梁をよじ登って横になっていた。
 視界の下には、幾層にも重ねた布団に入る母娘の姿がある。が――どうにも、その内二人ばかり、眠っていないらしいと桜は気付いていた。
 呼吸の間隔が不揃いで、身動ぎの回数が多すぎる。狸寝入りを決め込む者に、よく見られる様な特徴だ。それが、母親を挟んで二つ――さきとさとの姉妹だった。

「おい」

 梁の上から呼び掛ける。ぴく、と姉妹の体が震え、暫しの沈黙が流れる。それから、妹のさとが体を起こし、

「……さっさと寝なさいよ、煩いわね」

 赤く腫らした目を擦りながら、桜へ向けて吐き捨てた。

「眠っておらんな、お前」

「煩い!」

 叫んでから、反響した自分の声に狼狽するさと。隣で眠る母親に、起きる様子が無い事を見て取り、安堵の溜息を零した。

「眠れる筈なんて、ないじゃない……」

 安堵すれば、また悲しさが込み上げて来る。さとは顔を背け、落ちる涙を隠そうとしていた。
 母親を挟んで反対側では、姉のさきが鼻を啜っている。これも、寒さばかりが原因ではあるまい。

「お前達の兄はどうした。おらんぞ」

「分からないわよ、お山を見てるんじゃないの?」

 母と娘と、それから来客と、小さな小屋の中には四人だけ。確かに富而が居ない。

「山を見て楽しいのか?」

「……そんな訳無いでしょ!」

 桜も、分かっていて聞いている。分からないのは、楽しくもない筈の行為に、何故富而は拘泥するかだ。
 何時までも戻って来ない父親を待つ為――では、無い。日が落ちてから山に入る者が居ないかと、富而は目を光らせている。
 一体にして掟をそこまで遵守する必要はあるのか、桜にはまるで理解が出来ない。社会の規則というものは須く、何らかの形で破られるものだと考えるのが桜だからだ。
 だが、富而はそうではないらしい。
 村人達は皆、夜の山の恐ろしさを知っている。身の危険を冒してまで山に入ろうとする者は、少なくとも日が昇るまでは居ないだろう。だというのに、僅かな可能性だけでも摘み取ろうと、夜を徹して寒風の中に立つ――行動の意図が見えなかった。

「……兄さん、頑固だから」

 さきが、体を起こさないままに言った。

「だから、絶対に……絶対に、朝まで、戻ってこないよ」

「おかしな話だ」

 梁の上で胡坐を掻き、右瞼を指で引っ掻きながら、桜は白い溜息を吐いた。

「助けにいかぬ、それだけならば分かる。夜目が聞かぬなら自殺行為だろうからな。
 だが、何故に私まで止める。余所者の一人や二人、野垂れ死のうが知った事ではあるまいに……父親と不仲とでも?」

 反射的に、さともさきも、桜をきっと睨み付けた。そんな事は無いと否定する意思が、幼い顔にはっきりと表れていた。
 桜には、未だにこの家族の事情が掴めていない。どう動いて良いものか、暫くは悩んでいたのだが――

「そうか、分かった」

 ――少女二人の涙を見て、ひとまず悩む事は止めた。
 足首に結ばれたままの縄を、解くのではなく引き千切る。無造作に束縛から抜け出して、そして音も無く梁から飛び降りた。

「あれ? あ、あんた、逃げられないんじゃ……」

「飽きたのでな、散歩に出る。私の刀は何処だ?」

 姉妹は顔を見合わせ、それから二人同時に、首を左右に振った。

「そうか、分からんか。腰が寂しいが……ふむ、止むを得まいな」

 小屋の隅に放置されていた、丈の短い外套を羽織り、長靴にかんじきを結びつける。雪国に適応するには、いささか薄着にも思えるが――

「ちょっと、ちょっ……何やってんのよ!」

「だから、散歩だ。ついでにお前達の父親とやらも連れ戻してくる。早い方が良かろう?」

「でも、それは……」

 慌てて立ち上がり、桜の袖を掴むさと。さきは言葉に詰まりながらも、やはり首を左右に振り続ける。
 然し、桜は足を止めず、風除室の戸を開けて言った。

「寝てろ、風邪をひくぞ」

 それっきり、掴まれた袖も引いて払って、桜は積雪の上に歩み出る。取り残されたさきとさとは、何も言えず立ち尽くす他は無かった。








 夜の山の入り口、二重の柵の内側に、富而は松明を持って立っていた。村の者が闇に紛れて、山に入らないかと見張っているのである。
 実際の所、そんな事をしでかそうという者は、村の中には一人もいない筈だ。狩りに出ている者達の他に、夜の山で獣と戦える者は居ないのだから。
 だが――この夜ばかりは、彼の父親が招いた外憂が有る。僅かな可能性さえ摘む為、富而は寒さに耐えていた。

「馬鹿親父が……」

 悪態を吐く富而の言葉に、過剰な東北の訛りは無い。
 外の者と接する機会も、無いとは言えない村だ。或る程度以上の世代を除けば、江戸者が違和感を覚えない程度には標準語を話せる。
 それを、敢えて方言を用いるのは――おかしな形での発露だが、伝統保守の精神だった。
 人間、風景、気象環境から風習に至るまで、富而は村を強く愛している。
 村長むらおさである父親に育てられる過程、青前あおのまえの美しさは幾度も教えられた。
 雪の下から顔を出したバッケ(ふきのとう)を集め、蝶を追い回して走る春。
 村の中央を走る川に、友人一同を引き連れて、魚と水に戯れる夏。
 両脇を山脈に囲まれて、起伏激しく面積の小さい水田に、黄金の稲穂が実る秋。
 視界全て白一色に染められて、朝に夕に雪降ろしに追われ、人肌の恋しさを感じる冬。
 楽ばかりではない、寧ろ生きる事を思うなら、年中働き続けねばならない土地だ。だが、寧ろだからこそ、富而はこの土地に骨を埋めたいと思っていた。
 狭く小さな世界、変わる事などほぼ存在しない日常。その中で、小さな小さな変化を見つけて喜び、また不変に安堵する。富而は若くして、老人の様に保守的だった。
 だから、些細な事であれ掟を厳守するし、古臭い口調も意識して用いる。それこそ正しい事だと思い込んでいるのだから。

『掟なんかより、人間が大事だ』

 そんな生き方と対極にあるのが、彼の父親の晟雄だった。
 村長むらおさという立場からか、外の者と接する機会が特に多い晟雄は、流暢な標準語を話す。寧ろ村の方言を聞き取れず、妻に笑われる事もある始末だ。
 掟に対する姿勢は――おそらく、歴代の村長の中でもかなり適当だ。自分の裁量で、何もかも決めてしまう事が多い。年功序列だとか、家の格付けだとか、そんなものを全く意識もせず気儘に動く父親を、富而は苦々しく思っていた。
 山に連れていく者の選抜もそうだ。富而は留守番をさせられて、富而より二つも年若い少年は、銃を担いで山を歩いている。誇らしげな少年を見るにつけ、富而は歯軋りを堪えられずにいたのだ。
 村の祭りの篝火持ち――巨大な松明を荷車で引き回す役――も、常ならば村の若者から一人を選んで行わせる所、そもそも役目自体を無くしてしまった。
 とかく晟雄は、伝統を重んじない人間であり、それが富而の反発心を煽り立てた。

「……さっさと戻って来いよ……!」

 本当の所、富而も分かっているのだ。
 篝火持ちの役目は、台車から大松明から油から、全てを自腹で用意させられる。選ばれた家の者は、負担ばかり大きく利益が無い。そして、晟雄が村の者達の家を周り、篝火持ちの為の貯蓄を行おうとしていた事も、富而はよく知っている。
 年功序列も、老人より若者の力が強いのは明白であり、そして若者の方が胃袋が大きいのも道理。老人に過剰な資産を与えるより、若者が多く喰える様にするのも、これも一つの配慮なのだろう。
 狩りの面子の選考も――悔しさが込み上げるが、正しいと富而は思っていた。自分の銃の腕は未だに未熟で、既に山に入っている少年は、過去に例を見ない程に上達の早い撃ち手だった。

『掟なんかより、人間が大事なんだ』

 自分の思う〝正しさ〟とは、まるで方向性を異にしながら、父親のやり方は正しいと言わざるを得ない。その上で――掟の絶対を、富而はやはり捨てきれない。
 思春期に於ける父親への反発も合わせて、富而は悉く、父親の意見に異論を唱える様になった。
 きっと父親ならば、自分だけでも夜の山に入り、残された者を助けだそうとしただろう。
 きっと父親ならば、敵わぬだろうと知りながらも、姿さえ知らぬ化け物相手に、臆せず戦おうとする筈だ。
 夜の山に入るべからず、破ったならば山の怒りが収まるまで山に踏み入る事なかれ。理屈で考えるあらば、危険を冒して死ぬ者が出ぬ様にとの、先人の知恵を表した言葉なのだろう。
 自分ならば、従わざるを得ない。熊一頭とさえろくに戦えないのだし――夜の山に踏み入る様な、そんな度胸は無い。
 その上で、もしも自分の父親ならばどうするか、それも分かっている。
 自分で助けに行く事も出来ず、村の者の力も借りられず、かと言って一刻と無駄に出来ぬ危急の時ならば――

「よう、お前も散歩か」

「……んだぁ、余所者が」

 迷わず、外の者にだろうが力を借りる。

「やはりな、まだ帰らんか。当然だろう、夜の下山は命がけだ。足を取られて沢にでも落ちれば、まず助かる見込みは無いからな」

 桜は雪を踏み分け、一直線に山の入り口へ向かってくる。富而はその前に立ち塞がった。

「なんねえ、帰れ!」

「お前こそ、下がれ。何をせねばならんかは分かるだろう?」

 分かっている――その上で、富而は場を譲れなかった。
 決して出来の良くない富而が、村の者達に認められている点が一つ――掟に忠実である事だ。
 父親と対極にあり、そして父親程の力量も器量も無いと自覚している富而が、唯一己の矜持を保てる一点がそこなのだ。

「煩え、夜の山さ入るはなんねえ!」

「掟とやらか。そんな者に何故、後生大事にしがみ付く」

 規則とは集団社会を円滑に運営する為の概念であり、規則そのものに絶対の価値が存在するのではない。
 富而が称賛を受けているのは、飽く迄も掟を記憶している事であり、〝掟を正しく運用している事〟ではない。
 十分に自覚は有った。枝葉末節に拘っていると、自分の間抜けさを理解はしていた。

「掟などより、父親の方が大事ではないのか。掟などより、人間を優先すべきではないのか?」

「……っ、かぁ――っ!!」

 それでも。いけ好かない女の口から、父親が口癖の様に発する言葉を聞かされて、富而は激昂――いや、逆上した。

「煩えっ、お前には関係無い事だろっ!? 何だろうと、誰だろうと、夜のお山に踏み入る事はならねえっ!」

 桜の胸倉を掴み吠えたてる富而。途端、桜の顔に多分の憐みが混じり――富而は、自分が痩せ犬に成り下がった様な錯覚さえ受けた。

「……それでは、お前は」

 落胆の響きを滲ませて、桜は溜息と共に問う。

「掟とやらの為ならば、父母も妹も見捨てるというのか?」

 声が詰まった。
 問いを突き詰めれば、そういう事になってしまうのだ。助けに行かぬ、助けに行こうとする者を妨げるならば、つまりはそういう事なのだ。
 富而の顔は一瞬で赤熱し、言い返せぬ怒りに涙まで滲む。手は震え、気付かぬ内に膝も笑っていた。
 それでも、こうまで通して来たからには曲げられない。今更己の言葉を覆す事も出来ず、開いた口から〝応〟と発しようとした刹那――

「……すまん」

 富而の体は宙に浮き、背中から雪の上に叩きつけられていた。

「くほ、っあ……っ!」

 柔らかい雪の上に落ちたとは言えど、その速度が尋常ではなかった。衝撃で肺から空気が逃げ、酸欠で視界が明滅する。
 投げられたのだと悟って、だが体の痛みは然程でも無い。おそらくは暫しの休息で、怪我一つ無く立ち上がれる様なものだ。
 そんな痛みより、富而を強く強く傷つけていたのは、

「すまん、お前を無意味に追い詰めた。今の問いは無かった事にしろ」

 憐れむ様な桜の目と、氷の容貌に似合わぬ優しげな声であった。

「……おい、なんでだ……おい、おい!」

 道を塞ぐ障害物は無くなり、積雪の上を軽快に走って行く桜。その背を睨んで、富而は何故と繰り返し叫ぶ。

「親無しの子供など、少ない方が良かろうが」

 当然の様に言い放った言葉は、寒風に切り刻まれて掠れて散った。








 山の傾斜を、桜は駆け上る。
 積雪量は多いが、どうにもならぬ程では無い。極寒の地で育った桜ならば、寧ろ慣れ親しんだ光景である。
 身を切る寒さも、走り続けて程良く温まった体であれば、寧ろ適度に頭を覚ましてくれる。

「ったた、塞がってはいる筈だが……」

 但し、傷の痛みだけは別だった。
 紫の刃に臓腑を抉られ残った、〝独善的な呪い〟――他者を害する行為に対して痛みを与える、獣を躾ける鞭。
 桜に取っては戯れにも劣る、富而への投げ、たった一つ。そんなものが桜の左脇腹に、火箸を押し当てる様な痛みをもたらしていた。
 傷は既に塞がっている。糸も抜け、傷痕ははっきりと残ったが、日常の動作に全く支障は無い。だのにいざ他者に危害を加えようとすると、激痛が体を苛むのだ。
 鏡に映し、幾度か眺めた。傷口の周辺の肌は、黒に近い紫に変色している。これで壊死していない事が、寧ろ不思議でさえある色合いだった。
 叶うならば、やはり刀が欲しかった。素手でも人外じみた強さを誇る桜とは言え、本質はやはり剣士である。

「……まあ、良かろう」

 然し、どうにかなるだろうと自分に言い聞かせ――半ば以上、そう信じていた。
 結局の所、これまで生きてきた中で、苦戦の経験は一度か二度なのだ。
 ましてや知恵を持たぬ山の獣が敵となれば、卓越した技量だけで戦えるだろう。己自身の強さへの信頼が、そう結論付けさせていた。
 だが、一抹の不安を振り払えない。
 傷の痛みと共に、目の前に幻影がちらつく。己より、悪友より、愛しき人外より、誰よりも迅く馳せた光彩異色の影。
 身動きが取れなかった、不意打ちであった、理由を幾ら並べようが――負けは負けだ。それだけは変えられない。
 生まれてこの方敗北を知らず、花を摘み取る様に勝利を掴んできた桜の手。今は徒手空拳、三寸の刃すら帯びては居ない事が――心細くてならなかった。

「はっ、愚かしいな……!」

 自分に似合わぬ懸念を笑い飛ばし、意識的に歩幅を広げて加速する。一歩毎に積雪を吹き飛ばし、白塵を引き連れて走る様は、さながら一頭の奔馬であった。
 暫く走り続けていると、凍りついた足跡を見つけた。
 大きさ、形状、雪に刻まれた深さ、まず確実に人間の物だ。重荷を背負い、かんじきを履き――それが数種類。
 ちょうど桜の視界の右手側から始まって、左手側へと進んでいるのだが――どうにも、気にかかる事があった。
 一歩一歩の間隔が広すぎる。先程まで走っていた桜の歩幅と、そう遜色が無いのだ。
 雪の上を走るのは、体力の消耗が激しすぎて、可能ならば避けたい行為である。つまりこの複数の足跡は、走らねばならない理由があったのだろう。

「これか……これだな」

 まず、間違いないだろうと見て取った。足跡に併走し左手側――木々の少ない方へ向かう。
 暫く一直線に刻まれていた足跡は、途中で細い道の方へと進路を変え、やがて坂を下り始めた。あまり急な角度になっているものだから、桜も二回ほど躓きそうになる。無理に脚力で抑え下りきると、暗がりの向こうに小さな灯りを見つけた。
 閉ざされた窓から漏れる灯り、というような性質の細い橙――おそらくは火の色。誰かが小屋に籠っているのだろう、桜は息を整えながら近づいて行く。距離にして三十歩の地点で、〝それ〟に気付いた。
 小屋の扉は外側からも、恐らくは内側からも、大量の木材で補強されている。それが、今にも破られそうになっていた。
 太鼓の様に轟く音は、扉を〝それ〟の拳が打ち据える音。明らかに手加減していると、桜は見た瞬間に気付いた。
 当然の事だ。あれだけの巨躯であるならば、小屋の壁を毟った方が早いだろう。いや――右手に持っている斧を、ぶんと振り回せば片が付くだろう。
 そう、〝それ〟は馬鹿げた巨体と、斧を作って扱う知性、更には獲物を弄ぶ残虐性を併せ持つ――

「おう、喰ったら不味そうだ……成程、鬼赤毛とは良くも言った」

「キィイイイイイィィ――キァッ!!」

 朱色の毛皮を持つ、大猿であった。
 一声、大猿は斧を大上段に構え、新たな獲物へと馳せ寄る。やけに人間臭い目には、凶悦の表情がありありと浮かんでいる。

「近隣の山の主、か。老人苛めは気が引けるがな」

 桜は両手を真っ直ぐに、拳を作らず伸ばして身構える。口元に浮かべた愉悦の笑みは、未だ続く傷の痛みに引き攣っていた。








 ただの猿など素手で事足りる――桜の見立てに間違いは無かった。
 確かに怪物。だが、鬼とまで渡り合った桜にして見れば、力も速度もまるで物足りない。容易く屠り去れる――筈の相手だった。

「キィァアアアッ!」

「と……、ふっ」

 身の丈が八尺も有る大猿は、桜の頭蓋目掛けて斧を振り下ろす。桜の目なら見えぬ速度では無いが、然し交わし切れず、袖口を刃が掠めた。
 足元が悪すぎる。積もり、その後に全く踏み荒らす者の居なかった雪の上だ。桜の本来の動き方は、爆発的な脚力に任せて、自らの体を射出する様に移動する物。この足場でそれを行えば、いかにかんじきを履いていようとも、間違いなく足が雪に埋まる。
 だから、歩法一つさえ常の様には出来ず、足元に衝撃を加えない様に動かねばならない。見えていようとも、体を従わせる事が出来ないのだ。
 ならば、受け止めれば良い。刃は無理だろうが、斧の柄ならば掴める。そうして生まれた隙に、大猿の胴体に打撃を打ち込めば良いと、桜も算段を整えていたが――

「ちっ、思ったより〝分厚い〟な!」

 大猿の体の厚みが、桜の決断を鈍らせていた。
 巨木の様に太い胴体は、決して人間の様な脂肪太りでは無い。野生が培った筋肉の塊である。
 元来、人間と野生動物は、筋肉の作りからしてまるで異なる。人間より体の小さな猿が、人間に数倍する物体を動かす事を鑑みれば――耐久力もやはり、人に数十倍すると見て良いだろう。
 今の桜には、この大猿を捻じ伏せる術が、無いとは言わぬが乏しいのだ。
 傷口から身を蝕んだ毒――呪い。軽く殴りつけようとするだけの意思が、刃に身を斬られる以上の痛みを引き起こす、厄介な代物だ。如何に桜の意思が強靭であろうと、二度三度と繰り返してあの痛みに襲われれば、動きを止めざるを得ないだろう。

「はっ、一撃で仕留めれば良いだけではないか!」

 言うは容易く、行うは難い。如何に桜の剛腕でも、この大猿を打撃のみで倒すには、少なくとも数度は打ち込まねばなるまい。どうしても一撃と言うのなら――眼球を狙うか、喉を指で潰すか、延髄を叩き折るか。何れにせよ、巨体に用いるには難儀する。
 避け続け、大猿が体勢を崩すまで待つ。平常ならば容易いが――

「キキッ……キィイイアアアアッッ!」

 斧の刃が、桜の膝を狙った。跳躍して避けようにも、足元が柔らかすぎる。刃の腹を手で叩き、桜は反動で宙に舞った。
 これぞ待ち望んだ好機。大猿の一撃を回避しつつ、無防備な頭部を狙う位置に付く逆転の妙手。人差し指と中指で、大猿の眼球を潰さんと突きを放ち――

「キ――ゴアアァッ!!」

「ぐぉ、ぁ……っ!?」

 届くより前に迎撃される。左腕の一振りで桜は打ち上げられ、数間も離れた雪の上に落ちた。
 腕の長さも違う上に、踏込を速度に変えられない空中。この局面での跳躍は、寧ろ悪手であった。
 そして――刻まれた呪いが目を覚ます。

「う、ぐぐ、ぅ……あが、あぁあっ!」

 左脇腹の傷周辺を染める、毒々しい紫色が、桜の右手にまで浸食していた。
 重度の火傷の様に、或いは広範囲の擦過傷の様に。だが、痛みの程はその比でなく、骨を内側から突き刺されるかの如く。
 歴戦の桜をして、戦いの中に在る事を忘れる程の痛みだ。心の弱い者ならば、自ら死をさえ選びかねない。

「……っは、成程……。これなら、戦争など起こらんな……」

 桜はこの呪いの意図を、完全な形で理解した。
 他者を傷つけようとする度、それ以上の痛みを味わう。こんな事を幾度も繰り返せば、やがて人は牙を捨て、力に諦めを以て接する様になるだろう。そして人間の全てがこの呪いを浴びれば、その世界に戦争など起こりえないだろう。何故ならば、人を殺さんと欲する者は、呪いによる痛みで狂い死にしてしまうからだ。
 争わぬ、では無い。争えぬ事による強制的な平和。全く素晴らしいものだと桜は冷笑し――漸く、己の居る場所を思い出す。

「うおっ――そうか、居たな!」

 雪の上でも大猿は、足場の不利をものともせずに駆け回る。足の裏の面積の差が為、足が沈む事が無いのだ。
 巨木の様な腕の打撃を受け止める桜。踏み留まれず、また弾き飛ばされる。腕を十字に組んで胴体を守ったが、右腕に残る痛みが増した。
 また五間も間合いを離され、これ幸いと桜は息を整える。自分から向かうのでは無く、やはり相手から先に手を出させ、生まれた隙を突く狙いであったが――

「キキ、キッキキ……キァッ!」

 大猿は甲高い声を上げながら、桜では無く小屋へと向かって馳せた。

「……!? おのれ、知恵は有るらしいな……!」

 既に壁には罅が入り、もう一押しで崩れ去る様な脆い小屋。元より桜は、その小屋の中に居るだろう者達を助けに来たのだ。
 深雪の上では、大猿に追い付けない。止むを得ず――桜は、小屋の周囲を〝見〟た。
 瞬時に炎の壁が立ち上がる。熱量、明るさ、そして強度、何れも桜に利す筈の火だが――

「くぁ、は……、っは、はぁ、あっつ……!!」

 右目を起点に、顔に紫の痣が広がる。
 これまで脇腹や腕を刺していた痛みが、眼球から頭蓋までを貫き――桜は顔を手で覆って蹲った。
 呼吸さえ侭成らぬ痛み。耐えて立ち上がろうにも膝が笑い、しゃんと背筋を伸ばせない。

「おのれあの女……後で散々に殴ってや、っぐおぉっ……!」

 自らに呪いを掛けた『大聖女』に悪態を吐いても、苦痛は一向に収まらない。
 大猿は炎を見て猛り狂い、高らかに奇声を上げた。山肌の粉雪が震え、ぱらぱらと散る。
 我こそは山の王であると、誇るが如き声であった。








「畜生、俺は」

 富而青年は、足を引きずりながら、家族の眠る小屋への道を歩んでいた。
 桜に投げ飛ばされて、強かに打った背が傷む。

「俺は、なんなんだ」

 だが――それ以上に、胸が痛かった。
 矜持は有る、郷土への愛着も有る、自分の信念も有る。それを――〝壊さないように〟扱われたのが悔しかった。
 家族より掟を優先するのか――否。掟など、法令など、肉親の命に比べれば軽いものだ。
 然し、それを言えば矜持を曲げていた。己の言葉を己で覆す、恥を晒す事になっていた。

「何が有ろうと、か……っはは」

 冷笑は、肺の痛みに引き攣る。
 大きな口を叩いてみた所で、結局、あの女を止める事は出来なかった。
 そればかりか――あの女に、自分の言葉を遮られ、富而は救われたとさえ思ってしまったのだ。
 安っぽい反発心の所以は、父親への劣等感の現れ。自分が絶対と信じている――信じたがっている基準に背き、尚も皆に称賛される男への敵愾心だった。
 だから、本人に期す所が無くとも、父親と同じ様な事を言う女に負けたのは、悔しさばかりが募るのだ。
 いっそ完膚なきまでに叩き潰してくれれば、少しは楽になっただろう。憎悪だけ抱いて、すぐにあの女の背を追い、あわよくば斬りかかる事も出来ただろう。勝てるとは思っていない。だが、小さな自尊心は保てた筈だ。
 逡巡しながら家の戸を開ける。
 火は落ち、暗い小屋の中。布団の上に獣の革を被せ、母親の横に太い背は、規則的に上下を見せていた。

「……おっがあ」

 返事は無い、眠っているのだろうか。呼び掛けた理由も分からず、富而も眠ろうとして――人数が足りない事に気付いた。

「さき? さと? どごさ行った?」

 妹達が居ない。
 夜も遅い、雪は深い、よもや外へ出る事は有るまいと思ったが――悪寒がした。即座に富而は踵を返し、再び降雪の中に舞い戻る。
 暗がりの中、姿勢を低くしてみれば、薄れては居るが足跡が二つ。かんじきを履いているとは言え、かなり体重が軽い者であるらしく――妹二人だと確信した。

「あん馬鹿ども……氷室か!」

 足跡の向かっている方向は、村の中央に建っている氷室。冬の降雪を地下に溜め込み、食品を保存する為の施設である。
 他に幾つも向かう先は有るだろうが、何故に氷室だと富而が断定したか? 来訪者、雪月桜から取り上げた装備を隠したのがそこだからだ。
 まさか、然し、思考が単語となって連なる。あってはならないと願いつつ、きっとそうだろうと確信してしまい、はらわたを持ち上げられるような錯覚さえ起こる。

「……っちぃ、くそ、くそ、くそ!」

 雪を蹴立てて辿り着いた氷室、その片隅の倉庫。果たして富而の予想通り、鍵が開けられて、中に隠していた装備が盗み出されていた。
 氷室の裏手からは、お山へ向かって点々と、小さな足跡が二つ向かっている。
 富而が小屋へ戻るまでの時間を考えれば、そう遠くへは行っていない――行けない筈だ。山の雪の深さでは、小柄な妹達はろくに歩けないのだから。
 だから、富而は必死に走った。凶暴な獣が人を襲った山に、逃げる事さえ出来ない妹が二人――兄として心安らかには居られない。走って走って、何時しか掟も何も忘れ、夜の山に入り込んでいた。
 梟の声に、自分の足音。それ以外には音も無い筈の夜。山に踏み入る程に、猿叫が強まっていく。寒さよりも骨に染み渡る恐怖が、富而をがたがたと震えさせる。
 夜のお山に踏み入ってはならぬ、掟の合理性に頷かざるを得ない。ここは人の世界ではなく、獣達の為に作られた領域だ。木々の枝が揺れて擦れ合う音、それだけでも叫びだしたくなる程の恐怖に襲われる。
 不安を掻き消さんと富而は叫び、重い雪の中を突き進んだ。








 やがて、小さな背中が二つ見えた。
 雪に膝上まで埋まり、動けなくなっている妹と、それを引き抜こうとしている姉と。肩にも頭にも雪が積もり、見るからに寒そうだった。

「ふん、ぬー! ちょっとさき、早く助けてよー!」

「よいしょ、よい、しょ……っ! 抜けないよー……」

 富而は呆れつつ安堵する。雪と格闘する二人は、紛れもなく妹二人だったからだ。
 か弱い両手で雪を払いのける二人の後ろに、富而は息を整えながら立ち、

「お前達、何やってんだ!」

「きゃぁあっ!?」

「ひっ!?」

 さとの襟を掴んで引き揚げながら、思い切り二人を怒鳴りつけた。

「に、兄さん、どうしてここへ……!?」

「俺が聞ぎてえ! んなもんさ持ち出して、どういうつもりだ!」

 吊り上げられたさとの手には、黒い鞘の脇差。兄の顔を見上げるさきは、背に黒太刀を括り付けていた。
 間違い無い。富而が隠していた装備を持ち出したのはこの二人だ。
 家に居ろとの言葉も無視し、夜の山に入るという禁を冒し――無事だったから良いようなものの、それは運が良かっただけだ。
 また遠くから、猿叫が聞こえた。先程より近い位置から聞こえた声は、鼓膜ばかりでなく肌をも震わせる。

「帰るぞ! 山ン主様がお怒りだ、こん馬鹿んせいで!」

 今の富而は、もう妹二人を連れ戻す事しか考えていない。山ン主がどうのと言ったのも、飽く迄方便に過ぎなかった。
 妹二人の手を掴んで引っ張り、山を下りようとする。

「……おい、お前達」

 予想より手応えが重い――踏み止まられたのだ。

「とっとと帰る言ったべや、歩け!」

 さとが――勝気な妹が、涙を浮かべて首を振った。

「こんなとごさいたらなぁ、夜にお山さいたらなぁ、駄目だってのは知ってんだろ!?」

 富而は苛立ち、更に強く手を引く。
 ここに居れば、妹共々死んでしまうと――そう思える程、夜の山は恐ろしかった。
 獣に拠る死だけではない。掟を破った事による災いとやらも――何が起こるか分からないだけに恐ろしい。そして何より、掟に背くという事自体が、富而には耐えがたい禁忌であった。
 だが、さとはやはり首を振り、か弱い脚を突っ張って留まろうとする。

「馬鹿こぐな、こら!」

 もう一度怒鳴りつける。びく、と体を震わせ、さとはその場にしゃがみ込んでしまった。苛立ち混じりにその腕を掴み、富而はさきと持ち上げようとして――

「……いや、嫌だ!」

 さき――大人しい妹が、初めて叫ぶのを聞いた。

「嫌だ、帰らない、嫌!」

「……さき? お前、どうした」

 呆気に取られた、というのが相応しいだろう。引きずろうとする手も緩む富而に、さきは激情をぶつけ続ける。

「私達だけじゃ、やだ! 皆でじゃなきゃやだ! 助けてくれるって、言ってた!」

 断片的に叩きつけられる言葉に、富而は何も返せなかった。
 次女のさとは、昔から気が強く、主張の激しい妹だった。何かとぐずって泣き騒ぐような事もあり、散々に手を焼かされた。
 だが、さきはそんな事が無かった。何時も聞き分けが良く、大人しく、妹の後ろに隠れる様な姉で――

「これ、無くて困ってる、から……! これで、助けてくれるんだから、届けるの!」

 ――それが、こうして叫んでいる。誰とも知らぬ女にまで便り、ただ父親の無事を祈っている。
 富而は己を嘲った。何が男か、何が次代の村長むらおさか。妹の様に素直になれず――掟を破る度胸も無く。
 己の手を振り払い、さきは雪を掻き分けて行こうとする。その背に、富而は駆け寄った。

「ぐずが、いっちょまえこぐな!」

「え――えわっ!?」

 さきを左肩に、さとは右脇に抱え上げる。妹達の短い脚ではここから先の雪で動けなくなる。
 それならば、自分が担いで走った方が余程早い。富而は自棄になったかの様に、叫びながら走っていた。
 ここに居るのは誰でも無く、自分であると知らしめていた。








 獣の体力は無尽蔵だ。
 いや、限りは有る。だがその臨界点は、人間の遥か向こうに置かれているのだ。
 人が逃げようと耐えようと、獣が本気になれば、やり過ごすなど出来はしない。どちらかが死ぬか、捻じ伏せるか、そうでなくては終わりはしない。
 朱色の大猿は、いよいよ猛り狂っていた。

「はっ……はぁ、くそ……、どうしたものか……」

 桜は肩で息をしていた。
 未だ目立った外傷はないが、それは鉄のごときかいなが盾となっていたからで、大猿の打を全て避けたのではない。
 寧ろこの足場の悪条件で、斧の刃に裂かれていない事は驚愕すべきであろうが、それでも桜は追い詰められていた。

「私より強い者が、よもや二匹もいようとはなぁ……一人と一匹か?」

 否、技量の程を鑑みれば、この大猿は然程の難敵では無い。勝てぬ理由は、桜自身に有る。
 新雪も、徒手という条件も、呪いによる痛みも、確かに桜に祟っている。だが最大の理由は、似合わぬ仏心であった。

「ギッ、ギギッ、ギッ!」

 大猿が嗤う。獣の表情は読めないが、愚弄されている様に桜は感じた。
 事実、その通りだった。大猿は桜に背を向け、再び盆地の中央にある小屋目掛け走り出した。
 これ見よがしの搖動――桜は反射的に、大猿の正面を目視し、炎の壁を出現させる。

「うぐぁっ、がっ、あああぁっ!?」

 遂に顔の右半分は、全て紫の痣に覆われた。眼球も白と黒の境目が無く、ただ一色の球体と化す。僅かな光をさえ受け取らぬ、飾りと成り果てたのだ。
 然し、見えぬ事さえ意識出来ぬ有様である。槍で刺された傷口を、錆びた釘で押し広げられる様な苦痛は、桜の喉を傷つけ血を吐かせていた。
 小袖を紅に染めながら、桜も己の温さを嗤う。
 顔も知らぬ、名も知らぬ、誰かを庇おうなどするからこうなる。どだい人殺しの技など、守る為に振るうのが間違いなのだ。小屋の連中が喰われている間に、背後から猿の延髄を叩き折ってやれば、こんな苦戦などしなかったではないか。
 ひゅ、と頬が風を感じた。咄嗟に身を沈めた桜の頭上を、大猿の腕が通り過ぎた。間合いが近すぎると気付いた時には、座布団の様に巨大な足が、桜の脇腹を蹴り上げていた。
 今度は悲鳴さえ零れない。塞がりきらぬ傷を打たれ、無理に縫い合わせた糸も解れる。横に二間も弾き飛ばされ、新雪には血の飛沫が撒き散らされた。
 殺そう。桜は腹を括った。
 大猿だけではない。どこの誰とも知れぬ輩は、己の為に死んでもらおう。獣の爪牙への盾となり、肉の塊に変わってもらおう。無残な死の看過を決めた。
 小屋の板戸の隙間から、漏れる光は弱くなり始めた。松明が尽きてきたのだろう。全て消えてしまわぬ内にと、これまでは遠ざかる様に動いていた場所へ、敢えて自分から近づいて行く。
 背後に大猿の気配を感じる。折って来ているのは分かっていたが、振り向くだけの距離の猶予は有る。気に掛けず走って――視界の隅に、人影を三つ見た。

「おいこら、余所者ォ!!」

「お前は……!」

 富而青年が、妹二人を肩に担いでいた。
 深閑たる山に、彼の叫びは良く響く。大猿にも当然の如く察知された筈で、桜は幾分か疎ましく――また、好都合だとも思ってしまった。
 何故死にに来たかと思う反面、的が増えたと安堵する自分も居る。幼い少女二人など、逃げ足も遅くて実に実に――

「こっち、早くこっち!」

 暗い思考が首を擡げ、さきの声がそれを切り払った。まだ見える左目をそちらに向ければ、見慣れた黒を二つ見つけた。

「重いのよ、さっさと取りに来てよ! 早く!」

 さとの声はきんきんとやかましいが、今の桜には頼もしい響きだった。さきが脇差『灰狼』を、さとが大太刀『斬城黒鴉』を、それぞれに高く掲げていた。

「ちぐしょう、夜だぞ、夜のお山だぞ、入っでんじゃぁねえ余所者! だがらこんな事さなってんだべがぁ!」

 どんな事だ、と桜は軽口を返したくてならなかった。
 富而達の父親が、小屋にすし詰めにされている事か。それとも桜が獣ごときに打ち据えられ、血まで流している事か。はたまた――文句を言う富而自身が、禁を冒して山に踏み込んでいる事か。
 雪の上で直角に向きを変え、三人の方へと桜は走る。走りながら、自分の気まぐれの理由を思い出していた。

「は、はっはっは……ああ、そうかそうか。全く気弱になったものだ……さき、さと!」

 そうだ、人殺しの技ばかり磨いた筈の自分が、らしくも無く誰かを助けようなどとしたのは――

「お前達、良い女になるぞ!」

 ――どこぞの狼に、堂々と顔向けをしたいからだ。
 跳躍、富而の頭上を越える。着雪した時には、桜の右手に『斬城黒鴉』の柄が握られていた。
 刃物の重さが心地良い。だが――それ以上に、邪魔者達の存在が心地良い。雪を静かに踏みしめ、桜は大猿の前に立った。

「ギッ、ギィイイイアアァッ!!」

 もはや獣とは思えぬ程、色濃く浮き出た嘲りの色。弱者を嬲って楽しむ嗜虐的な顔。振り下ろされる斧を、桜はもはや避けようともせずに微笑んで、

「――しゃっ!」

 傍目には、一閃と映った。黒の刀身はただ一度、左から右へ走っただけに見えた。だが――大猿の手に有った斧は、四つに切り分けられて雪上に落ちた。
 いや、斧ばかりではない。一瞬遅れて手の体毛が、一拍遅れて指の皮膚が、爪が、牙が。全てが同時に見える程迅速に、黒太刀の切っ先に切り落とされていた。

「ギ――キッ、キィイッ!?」

 嘲りから驚嘆、恐怖へ、大猿の表情は面白い様に変わる。これまで自分が絶対の強者だと思い込んで、負ける事など思いもせず、〝戦い〟ではなく〝蹂躙〟を楽しんでいた獣が――

「……ふーむ、醜く見えるものだなぁ」

 今は、死を恐れて怯えている。
 大猿の喉元に黒太刀の切っ先を突き付け、桜は小さく溜息を零す。勝利の愉悦も何も無い、疲れ切った表情であった。

「失せろ……言葉は分からんでも、この状況は分かるな? 分からぬなら良いが、その首は取れる事になるぞ」

 大猿は呻きながら、動く事も出来ずに居る。まだ自分には勝ちの目が有ると、そう信じているかの様で、逃げ去ろうという様子は見えなかった。

「失せい老翁、これは情けぞ」

 然し、背後から届いた声を聴けば、大猿は見て分かる程に震えを起こした。

「疾く去るが良い。この人間、慈悲は有るが躊躇が無い。そなたの負けぞ、負ければ追わるが道理よのう?」

 大猿の背に隠れ、声の主が桜達には見えていない。

「お前、一度会ったな」

「うむ、如何にも。余り無体を働くでない、此の山全ては此方のものぞ。
 ……百年も一所におっては、身も心も鈍になろう。北へ落ち延びよ、鬼赤毛」

 ぐおう、と一声大きく吠えて、大猿は雪を散らし馳せた。背後の声に従順に、只管に北を目指しての奔走であった。
 後に残されたのは、桜に富而、さきとさと。それから――降る雪の中で髪も乱さない、常盤色の着物の女。

「久方振りの人よ、褒めて遣わす。長の退屈も紛れ、この八竜権現、すこぶる機嫌が良い」

 わらじと足袋、北の地にそぐわぬ装いながら、女は足を濡らしてさえいなかった。








 小屋の戸板が剥がされる。立てこもる為の防壁は、中の者が外へ出る妨げにもなったが、命の危険が去った今は、多少の手間を惜しむ者など居なかった。

「お父さーん、良かったー……!」

「おうおう、さと!? なんでお前こんな所に……おう、富而もか!?」

 がっしりとした体格ながら、小柄な男が小屋から出てくる。途端、いきなりさとはその男に飛びつき、男は強靭な足腰でそれを受け止めた。

「どうした富而、お前があの猿仕留めた訳じゃあねえだろ? なんでまたこんな夜中によぉ。と、さきは居ねえのか?」

「おっ父ぉ、助げられて言うのがそれか……さきはあっちだあっち」

 富而が指さした方向を見れば、狩りに出ていた者達で一番若い一人――今年で十四になるらしい――とさきが、抱き合って再会を喜んでいた。

「……健坊、後でぶん殴ってやる」

「大人げねえぞ、おっ父ぉ」

 一人山を下りた茂蔵以外、死んだ者はいない。楽しげに笑う気分では無いが、安堵の微笑みくらいは零したとて、誰も咎め立てはしなかった。

「良いのう、良いのう、人の情は。賢しら顔よりあの顔が良い」

 その様を、手を打ち叩いて誉めそやす女に、事情を知らぬ者の視線が突き刺さる。
 何せ、見るからに尋常でないのだ。風雪の中に在りながら、その女だけは袖をはためかす事も無い。かんじきさえ履かぬというに、雪上に足跡さえ刻まない。夜の山にあっては寒かろう軽装でありながら、頬は健康的にべにが差しているのだ。

「屍も愛らし、生くるもめぐし、愛しや、山の子らよ。久しく来なんだが健勝かえ?」

 ただ一人、富而の父――晟雄だけは、懐かしげに目を細めた。

「……あんた、本っ当に老けないのな」

「そなたは程良く渋みが出たのう……あの童がもう村長むらおさとは、人の生は早いものよ。何故に斯様にぞならずや?」

 何処から取り出したか、女は扇を一度仰ぐ。振り続ける雪が、女の周囲だけ止まった。止んだのではなく、空中に雪の粒が静止したのだ。

「言うも虚し、かの。これ童ども、そなたらも山を下りよ。夜の山は此方こなたの領地ぞ、聞かされてはおらぬか?」

 ゆうるりと舞う様に、女は扇子で斜面を指し示す。富而は漸く相手の素性に気付いたらしく、飛び跳ねる様に平伏した。

「さ、ぬし様でごぜえますか!? この度は代々の禁を冒し、夜の山に――」

 女は平伏する富而に近づき、その頭の横にしゃがみ込む。

「そなた、村長むらおさの家のものかえ?」

「へ、へえ! その通りで!」

 ふんふんと頷きながら、女は富而の顔を覗き込み――

「……てりゃっ!」

「あだっ!?」

 閉じた扇の骨で、高くも無い鼻を打ち据えた。

「固さは良いが曲がっておるのう、曲がった方に真っ直ぐすぎる。まだ父親には及ばぬわい、精進する事じゃ。
 さあて娘子むすめごどもも、何時まで夜遊びなどしておるのじゃ? 早う早う床に着けい!」

 再開を祝う者達の感涙も蹴散らす様に、女は場を解散させようとする。殆どの者は怪訝な顔をしていたが、村長むらおさの晟雄に促されれば、皆粛々と従った。
 去り行く背を満足気に見送る女は、ふと思い出したように数歩ばかり走り、

「おーうい、さき! そなた、今年で幾つになったー!?」

「え、私、え……じゅ、十三ですー!」

「そうかー、分かったー!」

 十数間も離れた場所から、姉妹の姉の方に尋ねた。帰って来た答えにもまた頷き、そして扇を広げて口元を隠し、ただ一人残った桜を見やった。

「……あの猿では無かったのだなぁ、主とやらは」

「あれも童よ、齢は百五十、幼い幼い。力任せに我儘に、何をも恐れず生きて来た獣よ」

 似ておろう、女はそう続けた。桜は静かに頷き、見解の同意を示した。

「名を、なんと言う?」

「じゃから申しておろう、八竜権現じゃと」

 一度聞かせた名前を繰り返す女は、言葉とは裏腹に、面倒だという表情はしていない。

「それとも、此方〝自身の〟名を聞きたいと、そうのたまうかや?」

「如何にも。女を呼ぶのに家名や、ましてや官職で呼ぶなど味気無い。呼ぶに足る名が有るのだろう?」

 扇を僅かに持ち上げ、女は暫く肩を震わせた。些細な事で良く笑う性質らしい。

「此方が名は八重やえ、人の風習に合わせればのう。野の獣は此方を呼ぶに、名など必要とせんわえ。
 ……名乗らせたからには、そなたも名乗る気はあるのじゃろうな」

「伏すまでも無いな。雪月 桜だ」

「ほう、真名らしからざる響きよの」

 二者の距離は三歩。八重は一歩だけ足を動かし、三歩の間を全て埋めた。突如、己の胸に凭れ掛かった八重に、桜も幾分かは驚愕の色を浮かべる。

「死毒の色か、広がっておるの。半端な慈悲で己を殺す所じゃが、何故に端から殺しに行かなんだ?」

「見ていたなら手伝え、趣味の悪い」

「此方は平等に、山の神ゆえな」

 小袖の上から、八重は桜の傷に触れる。糸が切れて開いた脇腹の傷は、手で押さえて漸く血を止めている有様だ。

「……猿だろうが犬だろうが、殺すと嫌な顔をする女が居てなぁ。嫌われたくないから殺さない、では駄目か?」

「いいや、上等よ。心にも無い仏心を語るより余程良い。来やれ」

 八重の手が離れて行く。桜は、傷の痛みが失せていく感覚を味わっていた。
 実際に傷口が塞がりきった訳ではないが、皮膚を繋ぎ合せて出血を抑え、痛みも抑えられている。何をされたかと訝る桜に、八重が手招きをしていた。

「その傷を癒すが望みじゃろう、無残な顔を見れば分かるわえ」

「話が早いな、頼めるのか?」

「そなたは気が早いのう」

 招かれるまま、火も消えて暗闇となった小屋に入る。先程まで中に人が居た為か、外よりは空気が暖かい。

「その程度の呪い、造作も無く消して見せようが……然しそなたが耐えられるかまでは、此方の知る所では無い。
 多少の無謀はしておる様じゃが――覚悟は良いかえ?」

「何を今更。そうでなくては、奥州くんだりまで来ぬわ」

 床板の上に、桜は胡坐で腰を下ろす。

「そうか、では――」

 八重は、桜の胸に手を触れた。

「――まずは命から貰おうかの」

 胸から背へ――一振りの刃が過たず、桜の心臓を貫いた。