烏が鳴くから
帰りましょ

雪原の夢のお話

「太平、太平、天下太平。あっちの騒ぎも対岸の火事、ってかねえ。でがしょう、傘原様?」

「いや、全くだ源悟。ただね、出来るなら向こうの火も消してしまいたい。どうしたものかねぇ」

 十月三十日、江戸の町。京の町は人死で大騒ぎだが、こちらは未だに緩やかな日々を送っている。今日も大八車がガラガラと、西へ東へ駆けまわっているのだ。
 だが――奉行所の縁側で茶を啜っているこの二人は、心の平穏とは無縁であった。
 現状、幕府は政府の下部機関となっている。故に政府の意向は、幕府も汲まねばならぬのだ。然し――そんな事を実行できる筈も無い。
 深く考えずとも当然の事だ。仏教から真っ当な基督教から、その他雑多な宗教まで片っ端から皆殺し。それを真面目に実行したらどうなるか――江戸の町から人はいなくなるだろう。
 京の治安維持部隊とて、馬鹿正直に仏教徒を殺し尽くしている訳では無い。信仰心の大小を問わねば、日の本の人間の九割以上は、仏教と何らかの縁が有る。だから手抜きは許されるが――全く一人も殺さない、という事も難しい。

「傘原様、どうにかならねぇんですかい? あっしら盗人なら平気で斬りますが、それ以外はちょいと、ちょいと」

「どうにかしたいねぇ。私も無体な事はしたくないんだが……どうもお奉行様が真面目で」

「真面目な方なら、こんな馬鹿げた命令は出しゃせんでしょうに!」

 源悟は腹立ち混じりに、手にした巻紙を庭に叩きつけた。奉行直筆の命令書――特に信心深い何人かを選んでの殺害命令である。
 罪状というならば、政府への反逆罪という事で、国家が認めた大罪を被せられる。だが――その正当性がどこに有るのかと、源悟は腹を立てているのだ。
 源悟自身、善良な人間では無い――無かった。数十年の人生で、数百の人間を殺した立派な悪党だ。
 生まれついて他者に化ける力を持ち、他者の記憶を奪い取ることが出来た源悟。その代償故か、彼は自分だけの人格を確立する事が出来なかった。殺人犯や狂人や、有象無象の記憶を取りこんで、殺人こそが愉悦であると信じる異常性を帯びていた。
 それを――十年以上を掛けて矯正したのが傘原同心であった。牢に閉じ込め何年も何年も、数百の人格の内の一つとだけ対話をし、その一つだけに〝源悟〟という名前を冠する事で、他の人格を薄れさせ――やがて、主人格へ全ての記憶を統合するに至った。
 元が悪党であるだけに、悪党のやり口は良く知っている源悟だ。今回の異教徒皆殺しの意味も良く良く分かる――半分ほどは娯楽目的だろう。本当に効率良く目的を為すならば、殺す相手はもっと選んで良い筈だ。

「お奉行様は結婚が遅かったからねぇ、奥様は若いし娘さんも幼い。今から閑職に落とされるのは嫌だろう、良く分かるんだよ」

「だからと言って傘原様が、貧乏くじ引いて良い道理は有りゃんすめえ」

 上司の面目を保つ為、幾らか仕事はしなければならない――然し真面目に仕事に取り組めば、罪も無い町人を惨殺する事になる。どちらも選び難いが、選ばねばならぬ――傘原はそろそろ、自分が動かねばと思っていた頃合いだった。
 丁度、その時の事である。奉行所の表が、俄かに騒がしくなる。岡っ引きの一人が、庭を大回りに走って来た。

「おや、仁八。どうしたね、事件かい?」

「事件じゃねえですが――源悟、姐さんがお戻りだ」

「ほう? 随分と早いお帰りだ、ちょいと失敬」

 戻るのは年が明けてからになるだろうかと、のんびりとした予想を立てていただけに、突然の訪問に驚きを隠せない。兎角挨拶だけでもと表に走った源悟は――そこに居た桜の姿を見て、顎が外れたかの様に口を開けた。

「よう、源悟。久しいな」

「あ、あ、姐さん、どうしたんですか、そりゃあ」

 桜の草履は、ズタズタに引き千切れていた。濡れ羽の黒髪は風に乱され、雨粒も合わさって頬に張り付き――だが、そんなものは些細な事だ。
 荒事になれた源悟は、桜の小袖の左脇腹に血が滲んでいるのを容易に見つけていた。決して大量では無いが――うっかり怪我をしたとか、その程度の負傷で無いのは確かだった。

「箱根を越えた辺りでな、糸が持たなくなったらしい。済まんが医者を呼んでくれんか? 後は飯だ、四日分」

「四日――まさか、京から江戸まで四日で!?」

「うむ。……流石に眠い、勝手に上がるぞ」

 残骸となった草鞋を脱ぎ棄て、畳の部屋に上がり――二歩だけ歩いて倒れ、そのまま眠り始める。
 代わらぬ身勝手さに呆れつつ、連れの少女が居ない事に戸惑い、

「たっはぁ、分かんねえやこのお人は」

 結局は頭を抱えて、どっかと座る源悟であった。








 桜が目を覚ますと、もう夜も更けていた。
 要求していた食事は、拳より大きく作られた握り飯十個で用意されている。大雑把で良い事だと被りつくと、やや強めの塩気が、流した汗を程良く埋めた。
 脇腹の傷は、寝ている間に医者が縫い合わせたらしい。少なくとも血は止まっているし、痛みもかなり引いている。然して傷口を見てみれば、皮膚の変色は一片も収まっていなかった。
 平らげて、直ぐに立つ。立ち上がり、自分の足で廊下を歩きまわる。勝手知ったる奉行所――江戸に滞在していた頃は、度々訪れていたのだ。
 傘原が雑務に使っている部屋は、この時間まで魚油の火が灯されている。野暮ったい袢纏を纏った傘原同心は、書類の前で腕を組んで唸っていた。

「ううーむむむむ……そろそろ握りつぶすのが難しいぞー……いや、はや」

「難儀している様だな」

 無遠慮に部屋に上がり込み、畳の上に胡坐を掻く。傘原は顔を上げ、人の良さが滲み出した様な表情を作った。

「本当にねぇ、役人はこれだから困る。上の命令がもう少し人間思いなら、こうも悩まずに済むんでしょうが」

 傘原は立ち上がって、襖を閉め、障子の隙間から外の様子を窺う。近くに居るのは源悟一人、そう見て取って、また座った。

「本日は、何が御入用で?」

「北へ向かう。装備が欲しい」

 傍若無人に生きる桜だが、やはり幾人かは、良好な関係を築いた者も居る。
 例えば源悟の様に、舎弟紛いの扱いではあるが、互いに助けたり助けられたりの関係。燦丸の様に、利益での繋がりという側面は大きいが、それなりに親しく付き合っている関係。
 そしてまた一つの形が、傘原同心との――言うなれば、純粋な取引相手としての関係だった。

「……今年の初雪は早い、もう降ってると聞きますが。生半の防寒着では持ちませんよ?」

「大陸でも通用する程度の物が良い。関東では無い、奥州まで足を伸ばすのだ」

 奥州、と傘原は復唱し、天井を仰いで嘆息した。

「物自体は直ぐに揃いますが、丈を合わせるのに暫し掛かる。今から始めさせましょう、明日の朝にお渡しします。
 その代わり、お代は今宵の内に頂きたい。出来ますかね?」

「物による。誰を、斬れば良いのだ?」

 桜は、傘原に無心をする。傘原は桜に、真っ当な手段では片付かない厄介事を押しつける。それ以上は殆ど踏み込まず、他人の前でだけ、親しい知りあいの様な振りをする。それが、この二人の間柄である。
 傘原同心は、善良さと細やかな気遣いで、町人からの支持も厚い。裏表の無い人と言われているが――とんでもない、こうも分厚い裏が有る。

「少し北に、お奉行様のお屋敷が有る。ご存じですね? あそこの奥方とご息女を、少しの間借り受けて欲しいのですよ。
 寝所にはこの手紙を置いてきて下されば、後は私がどうにかします。……つまり、人攫いの真似事をしてください」

「ああ、あの茶店小町と乳飲み子だな。何処へ隠す?」

「目隠しをして、東に一町のボロ小屋へ。源悟を使って、屋敷の者にはそれぞれ、別の用事を与えてあります。貴女なら手間取ることも無いでしょう、桜さん」

 傘原が仕上げた書面は、器用にも常の筆跡を、完全に誤魔化して仕上げられていた。几帳面に畳み、桜に渡して、本人はさっさと布団を敷き始める。

「源悟、お手伝いなさい」

「心得まして。ささ、姐さん、行きやしょう」

 うむ、と応じて、桜は奉行所の庭に出る。そこには源悟が、顔も髪も覆ってしまう様な、幅広の黒い布を持っていた。

「……して姐さん、あのお嬢さんは一体?」

「話せば短い事ながら、話してやるには勿体無い」

「ちゃちゃ、酷え酷え。全く変わりやせんねぇ」

 提灯などは持たず、夜の町を歩き始める二人。辻斬りも好んで寄らぬ異装である。
 奉行の妻子が誘拐されたと、奉行所に知れ渡ったのは夜明けごろ。昼にはもう、妻子は無傷で奉行に返されたが――それ以来、この町奉行は、政府からの督促を無視するようになった。
 邪教と誹謗して良民を虐殺するならば、次は必ず、妻子は骸となるべし。そんな脅し文句を読まされて、刃向う気骨は無かったのである。





 翌朝には、既に北へ向かう装備は整えられていた。
 年老いた猪の堅皮を用いた長靴、毛皮を三重に重ねて水も通さぬ脚絆、藁編みのかんじき。真綿をたんと詰めた洋風の外套を、腰丈の短い物を内側、膝丈の長い物をその上に。
 成程これならば、例え野兎が凍りつく様な凍土であろうが、凍える事はあるまい。江戸の町では使い道が無い程の、防寒の一式であった。

「……こんなもの、どこから出てきたのだ?」

「私は物持ちが良いんでしてねぇ。まま、存分にお使いください、お代は確かに頂きました」

 朝の冷気に襟巻で対抗している傘原同心は、それでもやはり寒いのか手を懐に、白い息を吐き出していた。
 縄で括られ背負い籠に纏められた装備を、桜はひょいと右手に担ぐ。利き手を塞ぐのは本来好む事ではないが、やはり傷口に近い左腕は、思う様に動かせない。

「姐さんはまったくせわしねぇなぁ。来たと思えばもう行っちまう、余韻もくそも有ったもんじゃねえ」

「長居をする用件も無くてな。それに、そろそろ私の首も、相応の値打ちが付く頃だろう」

「はは、ずばりその通りで。奉行の野郎、騙し討ちして来いだのと尻を突っつきやがる」

 二日や三日、体を休める為に滞在しても良いのだろうが――狭霧和敬も抜け目がない。既に江戸の幕府には、桜の首に賞金を掛けろと手を回していた。慎ましく生きるのならば、十数年は生きられる程の高額である。
 尤も、その金に目が眩んで桜を突き出そうとする者はいなかった。仁徳が故では無く、自分の命を惜しんだが為である。加えて桜を物理的に拘束する手段など、日の本に幾つあるかという大問題も有った。
 兎も角も、二度目の江戸出立。前回とは違って一人旅、向かう先も西ではなく東。急がねば雪が積もると、交わす言葉も少なに歩き始めた桜の耳に――しゃらん、と鈴の音が。続けて笛太鼓、賑やかな祭囃子が聞こえた。
 長屋の戸が開き、物見高い野次馬が飛び出してくる。幾人かは屋根に上り、好奇の目をらんと輝かす。何事かと桜が振り向けば、朱と金と黒の絢爛の、大行列がそこに有った。

「いよっ、達磨屋ァ!」

 髭の男が囃したてれば、若い旗持ちが応と答える。岡場所、品川、その中でも大店。達磨屋の花魁道中が、はるばると奉行所の傍まで足を伸ばして来たのだ。
 早朝からの遠歩き、眠そうな顔の者もちらほら見えるが、何れも粋と酔狂に生きる連中。己の店の栄華を江戸中に誇らんと、あらん限りの騒がしさで、手に手に楽器を鳴らしていた。

「お久しゅう、主様……わっちにお顔も見せず、何処へ?」

 その先頭を歩くのは、達磨屋の遊女、高松であった。
 つんと棘の有る口調。だがその顔は、腹を立てているというよりも、子供の様に拗ねた表情で――艶やかな打掛姿に釣り合わず、桜は思わず、ぷっと吹き出す様に笑った。

「何だ、わざわざ見送りに来たのか?」

「わっちから来なければ、会わぬままになさいんしょう?」

 心の内を言い当てられた様で、苦笑いを浮かべながら、桜は隣に立つ源悟を睨む。

「お前の仕業か?」

「へっへ。姐さんが寝てる間にちょいと走って……あいてっ!」

 ごん、と小気味よい殴打音。たんこぶの出来た頭を抱えて、源悟は唸りながらも、してやったりという感情を顔に現していた。
 江戸に滞在していた二年。その大半の夜を、桜は達磨屋の二階で過ごした。他の宿へ足を運んだ事も数度では無いが、必ず数日で飽きが来て、また達磨屋へ戻っていた。
 店員達とは顔馴染みだ。客と店の間柄というより、隣人同士の様に気心の知れた関係である。客引きの若者など、今朝の別れに鼻をずずと啜りあげ、大袈裟に泣いて他の者に冷やかされていた。
 何故、こうも足繁く通ったか――いや、留まったか。それは一重に、高松の存在が故だった。
 色濃く血の香りが漂う女。倫理も道徳も投げ捨てて、欲の侭に生きてきた女。その生き様が魅力的だったから、桜は高松を幾度も抱いた。

「……もう、お前を抱いてやれん」

 だから桜は、高松に会わぬままで、再び江戸を離れようとしていた。
 人に生まれて獣に堕ちて、獣の侭で生きようとする女より――獣に生まれて、人と生きようと足掻く少女に、桜は強く魅せられた。己の心変わりを自覚したが故に、顔を合わせるのが気まずかったのだ。

「存じ上げてございんす。憎しや、わっちと飲み交わすより、幾段も色めいて美しき御髪……ほほ」

 高松は口に左手を、桜の髪に右手を添えて、飽く迄慎ましやかに笑う。
 惚れた相手が男か女か、その程度の違い、如何程の事も無い。ただ高松は、自分の傍らにある桜よりも、今の桜の方が美しいと感じたのだ。
 だから――諦めた、諦めるしかなかった。せめて好いた女の、無事を願って見送りたかった。
 店の者達まで付いて来たのは、これは完全に余興の延長か。些細な事でも賑やかしたがる、江戸の町人の悪い癖だ。賑やかで無ければ泣き崩れてしまったかもと、高松は店の者に感謝していた。

「……奥州の雪は重いと聞きんす。どうか、どうか、ご自愛を」

「ああ、行ってくる」

 長く留まれば後ろ髪を引かれ、僅かにでも心が揺らぎそうになる。桜は新しい草鞋で、さあと土煙を上げて歩き始めた。

「主様!」

 数歩ばかり行って、呼び止められ、立ち止まる。
 高松は、桜に背を向けていた。打掛を剥ぐように脱ぎ棄てて、襦袢から腕を抜き、腰まで引き降ろす。野次馬達のどよめきが、倍以上も大きくなった。
 高松の背には、多色刷りの鮮やかな刺青が施されていた。血を吸ったかの如く赤い桜の花を、丸い月が見降ろす夜景色。文字一つ無いが、それは起請彫りであった。

「お戻りの暁には、これに雪原を書き加え、わっちの誠の仕上げを致しんす。その折りには是非とも」

「ああ、是非とも見届けよう。楽しみが一つ増えた」

 見送る者も無く、たった一人連れて江戸を出た朝と――嫉妬やら羨望やらの視線を、存分に背負って旅立つ今朝。
 今の方が余程心地好いと、桜は笑いも止まらず東へ向かうのであった。








 奥州への道は、東海道に比べてあまりに寂れていた。
 賑わう街も幾つか有るが、江戸や京を見慣れてしまった目には、片田舎の村とさして変わらない。道は整備されておらず、所によっては砂利の為か、鋸の様な路面が出来ていた。
 叶うならば馳せて行きたいが――知らぬ土地、案内人もいない。人の流れに乗る事も出来ない。傷を癒しながらの道中、自然と歩みは遅くなる。
 水戸を抜けてから、仙台藩の城下に至るまで十日。北上し、南部藩の領地に至るまで、更に十日。
 そして――目的地はさらに北西。奥羽山脈の麓にある、小さな村であった。

「……遠いな」

 十一月も終わりに近づいて――奥州は、記録的な豪雪に襲われていた。
 此処までも道は悪かったが、それはまだ道と呼べるだけましだった。
 今、桜が歩いているのは、道とも呼べぬただの平野。腰まで埋まりかねない程の大雪が、世界を白く染めている。
 誰もいない。戯れに叫んでみようとも、声は雪に吸われて消える。見渡せば視界の全てに、生物の気配はおろか足跡も見つからなかった。
 空は青く晴れ渡っていたが、然し日光が有ろうとも、この雪が溶けて消える事は無い。寧ろ表面だけが溶けてしまった為、夜間には氷になるだろうと予想出来た。
 早くこの雪原を抜けてしまいたい――然し、目印になるものと言えば、自分の足跡くらいしか無い。ただ、ただ、桜は歩き続けた。
 奥州の――それも、山脈より東の雪は、さらさらと乾いている。雨雲が山脈を東へ抜ける際、湿気を奪い取られるからだ。
 然してこの粉雪は、積もれば圧縮され、重く硬くなる。積もった高さに比例せず、桜の脚が雪に埋まるのは、膝を少し過ぎる程度までだ。
 一歩ごとに力を込め、脚を引き抜き振りあげ、可能な限り遠くへ振り落とす。新雪の上では、かんじきも気の慰めにしかならない。平地を歩く倍の時間を掛けて、半分の距離も進まなかった。

「雪は慣れているが……うーむ、遠い」

 独り言が多くなる。そうでもせねば、足音と風の音以外、鳥のさえずりさえ聞こえてこないのだ。
 気も狂わんばかりの静寂を、踏み散らし踏み散らし歩いて――まだ、何も見えてこない。
 歩く事、辿り着く事ばかりを考えては、強靭な心も摩耗する。桜は自然と、己の過去に思いを馳せていた。

 雪月桜が鮮明に思い描ける最も古い記憶は、雪に沈んだ己の右足だ。
 今に比べればあまりにも小さい――弱弱しい、子供の足。引き抜こうと悪戦苦闘して、履いていた毛皮の靴が脱げた。
 弾みで転び、仰向けになる。あの時も空は、残酷なまでに青かった。
 周りに、風を遮るようなものは何も無い。分厚い外套も、小さな体を完全に守ってはくれず――抱きしめてくれる大人も、誰もいなかった。
 何故、誰もいないのか。それは思い出せない。ただ――三歳の子供がただ一人、異郷の雪原を歩いていた事だけ確かに覚えている。
 泣いていた様な気がする、喚いていた様な気がするが――なんと言ったのかは、やはり思い出せない。慰める者もなく、口を開ければ寒いだけなので、無理にでもしゃくりあげるだけに留めた。
 三歳の幼児が己の感情を制し、泣き声を抑える――平時ならば無理だ。然し、そうしなければ死ぬと思えば、泣きたくとも泣けぬのだ。
 歩いて、歩いて、歩き続けて――誰かの足跡を見つけ、心に歓喜が込み上げた。喜び勇んで足跡を追いかけ、数歩ばかり進んで気付く――これは自分の足跡だ、と。
 目印の無い雪の上。大きな円を描き、結局は元の位置に戻ってきた。幼い思考力でも、自分の歩みが無駄だったとは気付いた。
 ここまで思い出し、苦笑する。今の自分ならば、両足の歩幅を揃えて歩くなど容易い事だ。あの時にもそう出来ていれば――悔いても、時間は戻らない。
 懐かしく、辛く苦しい記憶。思い返す頃には、日は遠くの山へ沈んでいた。
 銀の大地を茜が染めて、眩しく、また果てなく美しい。これを一人で眺める事が惜しくてならず――また来ようかと、小さく小さく呟いた。









 歩いても歩いても、雪原は続いていた。
 ともすれば自分の目的を忘れかねない程、どこまでも続く白景色。空から照らす光源は、何時しか月に取って代わられていた。
 思うに、太陽とは慈愛の具現である。闇を見通せぬ人間に、無条件で明かりを提供し、また暖かさを提供する。善人も悪人も、大人も子供も分け隔てなく――太陽が有るから、人は昼間に生きるのだ。
 然して、月は無情である。美しく空に佇みながら、その温度を分け与えようとはしない。人が絶望しきらぬ様に光を与え――だが、闇の全てを照らしだしてはくれぬのだ。
 もしも月の無い夜であれば、その小さな子供は、とうに歩みを止めて凍え死んでいただろう。
 日が沈んで直ぐ、強い風が吹き始めた。雪が落ちて風に混じり、吹雪と化して雪原に吹き荒れた。
 それが――記憶の中の出来事なのか、桜はもう分からなくなっていた。今、歩いている桜も、記憶の中の幼い桜も――いや、自分の名も忘れた小さな子供も、共に吹雪に翻弄されていた。

「寒いな……寒い」

 きっと似た様な事を、幼い頃にも嘆いたのだろう。
 幼子にとって世界とは、自分と親と、そして目に入る狭い地域だけ。両親が傍にいないという事は、敬虔な信徒が神の慈悲を失うにも等しい事だった。

「ああ、馬鹿馬鹿しい」

 救いが得られない事は、神の愛を学んだ今ならば分かる。
 助けを求めている内は、厳格な神は何もしない。助けに辿り着こうとしなければ、小さな火の一つさえ与えてくれない。
 だが――幼子に、何が分かろうか。
 おかあさん、おとうさんと呼び掛けた。誰も応えはしなかった。
 何故、縋ろうとしたか――そう呼べば、人肌のぬくもりに包まれるのが常だった。身を刺す寒さから逃れたかったのだ。
 求めても、求めても与えられないと知った時、幼子は過去を思い出そうとした。丁度、今の桜と同じ様に。

「懐かしい?」

「いいや、さっぱり」

 人は死に直面すると、生き延びる為に過去の記憶を探るらしい。三歳の子供が縋る記憶に、生きる為の道など無かっただろうに。

「疲れたでしょ、休まない? 急がなくたって、土地は逃げていかないよ。逃げていくのはあなたの記憶だけ」

 櫛の歯の様に抜け落ちる。縋る心が抜け落ち、流す涙が枯れ、己の名さえ薄れて果てた。誰にも呼ばれない名前など――覚えているだけ、無意味だったのだ。

「どうして、あの時に立ち止まらなかったの? そうすれば、今まで苦しむ必要は無かったのに」

 全く、その通りだ。雪の上を歩くのは、堪らなく辛い行為だった。過酷というも生ぬるい、孤独を刻まれる旅だった。

「……寒かったからなぁ」

 何故、足を止めなかったか――歩いていれば、少しだけ暖かかったからだ。脚の痛みより、肌の冷たさが辛かったから、動き続けようとしたのだ。

「ところで、お前は誰だ?」

 遠い昔の様に、ただ一人で雪原を歩きながら――桜は、隣を行く声に問いかけた。

「私は私、あなたはあなた。私はあなたじゃないけど……あなたの中の一人だよ」

 得心の行かぬ答えではあるが、成程、確かに聞き覚えのある声だ。それも一度や二度ならず、寧ろ近くに居る事を当然と思う程の――

「……なんだ、村雨か」

 膝まで雪に埋もれる桜の横を、裾も濡らさず村雨は歩いていた。
 ここに村雨が居る筈は無い。あの夜、仮初の別れを告げた――それを無為にするなど、決して有り得ぬ事なのだ。

「そういう名前、なのかもね。ダーもニェートも言い辛いけどさ」

 口調、声の調子、記憶の中の村雨と何も変わらない。だが――例え村雨が極北の人狼だとしても、人の姿のまま、薄絹一枚で、この雪原を歩くとは思えない。
 雪に足跡も残さず、村雨の姿をした何者かは、桜に速度を合わせて歩く。自然、顔の高さは普段と逆で、桜より上に置かれていた。

「何をしに来た?」

「あなたを止めようと。今からなら、多分戻る方が楽だよ?」

 桜は耳を貸さず先へと歩み続ける。それを〝村雨〟は、弾む様に追いかける。

「寒いでしょ、寂しいでしょ? 進んでも誰もいない。何処まで行っても誰もいない。疲れるばっかりで、全然結果は見えてこないし……だーれも助けてくれない」

 確かに、視界の何処にも人はいない。昔の、記憶に残る景色のままだ。

「でも、引き返せば人の街に戻れる。暖かい食事にお風呂、布団で寝る事だって出来るんだよ。あなたの好きな美人に御酌をしてもらって、好きな様に――」

「飯盛女を抱いて、か?」

「そーいうの、好きでしょ」

 確かに、と苦笑しつつ、桜はやはり先へ進み続ける。横を歩く〝村雨〟が、幾分か不機嫌な顔をした。

「今は、あの時とは違うんだよ。戻ろうとすれば戻れる。戻る自由が有るのに、どうしてそうしないの?」

「そうだな……確かにあの時は、どうにもならんから歩いていたか」

 自分の力でも、庇護者の力でも、決して救いには届かない。そんな時、人は無意識のうちに――大きな存在に、祈りを捧げてしまう。
 信仰心の強いものならば、神を自分の支えにしようと、聖書の語句でも唱えるだろう。不信心な者でさえ、神の名を口にせずとも、助けてくれと何かに祈る。
 だが――本当に、それこそ平原に積もった雪の様に、深く果てない絶望に晒された時――人は、差し出そうとしてしまう。
 例えそれが、どれ程に無価値なものであろうと、自分が手放せるものであれば。
 例えそれが、どれ程に崇高なものであろうと、手放し得るものであるのならば。
 与えられるたった一つの救いを、自分の持つ全てと引き換えにしても良いと、人は祈りを捧げてしまう。
 なぜならば、未だ手にしていない救いは、現在自分が手にしている幸福の総量を、常に上回るからだ。
 疲れより、孤独より、死より――幼子が恐れたのは寒さだった。
 この寒さから逃れる事が出来るなら、自分は何もいらない。
 例え手足を失おうと、例え目や耳を失おうと、例え一生玩具や菓子を楽しめなくなろうと。
 生まれ落ちてから今までの、愛された記憶の全てを失う事になろうと。
 狭い世界の全ての娯楽を、全ての安寧を差し出そうとも、ただ寒さから逃れたかった。

〝神様、私は何もいりません。おとうさんもおかあさんも、おじいちゃんもあげます〟
〝だから、どうか。どうかこの寒さから、助かるための何かをください〟

 夜の平原を、炎が赤々と照らしだす。種火も無ければ燃料も無い。虚空に出現した炎の壁は、瞬く間に雪を溶かし、桜の眼前に一本の道を創り出した。
 夜天を炎の柱が焦がす。我此処に有りと叫ぶ様に、熱風は笛の如く轟いた。
 あの夜も、こうして生き長らえた。救いの手が差し伸べられるまでの間、小さな体の熱を保ち、命を保ったのは――それまでの生の全てを捨てた、生涯最後の祈りだったのだ。

「今はもう、大丈夫だ」

 力を得た。無限の凍土に晒されようと、凍えて死ぬことは無いだろう。
 数百里の道を行こうと、鋼の健脚は疲れを覚えない。

「お前が誰かは知らんが、まるで余計なおせっかいだ。私はもう、寂しくない」

 そして――永夜を一人で歩む事になろうと、もはや桜は、孤独に怯える事は無い。例え傍らに人影が無くとも、己は一人でないと信じているのだ。
 横を歩いていた筈の〝村雨〟は、何時しか幼い子供の姿になっていた。桜はそれを抱き上げ、胸の中で己の体温を分け与えてやる。幼子は嬉しそうに目を細め、聞いたことの無い声で話した。

「代償持ちか、奇縁よの。何れも果ては死ぞ、知りて足掻くか」

「何十年も先の事だ。何れ死ぬなら、せめて死ぬまで楽しみたいではないか」

 雪の中に作られた一本の道。海を割った預言者の様では無いかと、桜は己の不信心に笑う。

「そなたが捨て去ったものの重さを、分からぬではあるまい。父も、母も、全ての肉親をも――そなたは、刹那の祈りに換えた。
 仮に永らえようと、そなたは決して、肉親を得る事は出来ぬ。子を為す喜びは、あの雪土に埋めて捨てたと思え」

「構わん。顔も覚えておらん親、どうせ生まれぬ子だ。今更、そんなものに未練は無い」

 胸に抱いた幼子の声は、山彦の様に反響する。近くに居るのか、遠くに居るのかも分からなくなる。
 だが、桜は、声の主が何処に居るのかを気に掛けもしなかった。躊躇いを、迷いを呼び起こし、引き変えさせようとする夢の魔か――そんなものだろうと思っていたのだ。

「顔を伏して生きるは気楽ぞ。苦痛に耐えるよりは寧ろ、快楽に耽りたいとは思わぬか?」

「日の光もろくに拝めぬ生など、剣禍の死より息苦しいわ。私は存分に愉悦に耽る為、遥々奥州まで足を運んだ……もう良かろう?」

 桜は、幼子をそっと地面に降ろした。見れば、惚れ惚れする様な黒髪、吊り気味だが力の籠る強い目――幼子の顔は、桜に良く似ていた。

「うむ、良い。なれば来るが良い、此方が山へ。そなたの言が真で有るならば――そなたの身の毒、必ずや癒してみせようぞ。
 ……無論、此方に空言を申したと有らば――その罪業、必ずや身に還るであろうがの」

 幼子は数歩ばかり先へ進んで、霞の様に姿を消す。その先には、揺らめく小さな光が見えた。松明か、或いは囲炉裏の火だ。

「……なんだ、随分近くまで来ていたのだな」

 暫く歩けば、分厚い板戸の前まで辿り着いた。雪国の知恵か、屋根の様に板を張りだし、雪に埋もれない様に作られた玄関口――拳で叩き、呼び掛ける。

「旅の者だ、済まんが火と屋根を貸して欲しい! 宿代くらいは払うぞ!」

 家の中で、誰かが立ち上がる気配が有った。それを最後まで確かめる前に、桜は急激な眠気に襲われる。
 脇腹の傷は、自分の自覚以上に体力を削いでいるらしい。高々一日ばかりの雪中行で、こうも疲労に襲われるとは――他人事のように冷静に、桜は己を見つめていた。
 板戸が開き、驚愕に息を飲む音。体が引きずられ、雪を払い落される。親切な家に当たったらしいと内心で感謝しつつ、口に出るのは全く違う言葉。

「……全く、最近は眠ってばかりだな」

 宿を借りる家に礼を言うより、先に欠伸と高鼾。我ながら無遠慮だと思いつつ――桜の意識は、夜に飲み込まれて消えた。








 時系列も何もかも、滅茶苦茶になった夢を見ていた。
 最初の光景は、初めて刀を振るった時のこと。それまでに摸造刀などで散々鍛えていたから、重さに負ける事は無かった。だが、刃の美しさには心を飲まれ、暫くは呼吸も侭成らず立っていた。
 次に浮かぶのは、日の本に辿り着いた時の事。里帰りとなる筈だが、まるで実感は無かった。異郷の地を踏む高揚を味わいながら――港に佇む者と言葉が通じる、違和感が暫く慣れなかった。
 江戸へ足を踏み入れた時には、この素朴な町並みが、かつての首都かと驚きもした。日の本の熱情は建物でなく、人に現れると知ってからは、江戸の町が何よりも好きになった。

「……起きる? 笑ってるけど……?」

「起きない、起きないって」

 懐かしく、また楽しい思い出ばかりを眺めていると、何処からか声が聞こえた。聞き慣れない声だが、まだ眠気が強かったので、気に掛けない事にした。
 次に見えたのは――初めての、殺人の記憶。あまり楽しくも無いが、さりとて悪しとも言えぬもの。
 自分の倍も有りそうな巨体の男が、雪原に這いつくばっている。右膝から下と、左大腿から下が、少し離れた位置に転がっている。
 動けなくなっている相手の背に、幾度も刀の切っ先を落とした。これで殺せたという確信が無かったから、背の肉が粗方抉れ落ち、肋骨が逆に開くまで繰り返した。
 殺して暫くは、自分が勝ったのだという達成感ばかりが先だって――夕食を前にした時、胃袋が食べ物を受け付けない事に気付いた。胃液まで吐き尽くして、一晩の悪夢に悩まされ、結局二日ばかりは絶食する羽目になった。
 だがそれ以降、剣の腕は飛躍的に上達した。新たな技術を身に付けた訳でも、身体能力が極端に上がった訳でも無いのに、剣筋の冴えは、人が変わったかの様であった。
 思えば生き物を殺すのは、精神的な壁さえ乗り越えてしまえば簡単な事なのだろう。たった一人を斬り殺しただけで、それ以降、刃は随分と軽くなった。
 後は、とびとびに記憶が流れて来る。洞窟で盗賊を踏み殺し、草原で決闘相手を斬り殺し。遊女を抱く傍ら、強盗の首を捻り壊し。瞼の裏に繰り返されるのは、他者の命を奪った記憶ばかりで――終に、雪の夜の夢に辿り着く。
 桜は、東へ行きたいと師へ告げた。自分が生まれた土地を、一度見て来たいからと。彼女の師は、ならば自分を殺して行けと告げた。
 吹雪の中、二人は殺し合った。既に桜の技量は師を上回り、大きな傷を負う事も無く、彼女は師を斬殺した。
 それが、四人目。彼女が〝雪月桜〟として完成する為の、最後の生贄。以降、桜は、人を殺して嘆く事は無くなった。

「……ほらー、起きそうだってば。やめよう?」

「大丈夫、大丈夫。それよりほら、一緒にやろうよ」

 また、誰かの声が聞こえた。こういう時は大概、眠気が薄れて来ているのだ。
 気付けば、手足に暖かみを感じていた。丁度、暖炉の火に当たっている様な――少なくとも、屋内に居る事は確かだ。

「あれ、あれ……こんがらがっちゃった、どうしよ……?」

「ああもー、ちゃんと順番にしないと駄目なの! ほら、三つに分けて!」

 桜は、そうっと薄目を開けて、声の主の顔を見てやろうとした。
 十二、三歳程だろう少女が二人、桜を挟む様に座っている。何をしているのかと思えば、彼女達は何れも、桜の髪を一房つかんでいた。
 どうにも彼女達は、三つ編みを作って遊んでいるらしい。が、あまり長い髪を扱った事が無い様で、手付きがどうしてもたどたどしいのだ。

「ねえ、さとー……指に絡まっちゃったんだけど」

「ええ? なんでこんな事も出来ないのよ? ほら、手を貸して」

 少し気の弱そうな声が、おどおどともう一つの、少し気の強そうな声に助けを求める。気の強そうな声の少女は、ぐいと体を乗り出して、もう一人の少女の手を掴み、絡まった髪を解き始めた。
 この二人、まだ桜が目を覚ました事に気付いていないらしい。あんまり没頭しているので、桜はつい、悪戯の気を起してしまった。

「ひぅ!? い、今なにか……?」

 そうっと左手を動かし、気の弱そうな少女の背をつつき、直ぐに手を元の位置に戻す。弾かれた様に背後を振りむき、だが何も見つけられずに居る少女の姿は、なんとも言い難く面白みが有った。

「え、何、何……? いきなり叫んで、なんなのよ――――……ひゃあっ!?」

 気の強そうな少女は、訝しげな顔で目を細めた。桜の腹の辺りに手を置いて、ぐいと身を乗り出す。前方に意識が集中している所で、今度はその背に、桜の右手が迫る。中指の先で的確に、へその裏側、背骨の真上を叩くと、少女は身を仰け反らせて悲鳴を上げた。

「さ、さと……!?」

「いいいいい、今、何かいた!? いたわよね!?」

 軽い混乱状態に陥った二人の少女は、身を寄せ合って周囲を見渡す。が――視線の高さは、彼女達の胸より高い位置に有る。肝心の悪戯の元凶は、未だに床に寝ているというのに。

「……さき、お父さんはまだ、よね……?」

「今日は山に入るって言ってたから……夕方には戻ってくる、と……思う……」

 薄目を開けて見ていると、よく表情の変わる二人である。驚愕から怯えの表情に切り替わり、そして何らかの決意へ。心の移り変わりが、こうも漏れ出ている人間は滅多にいない。
 やがて二人は、どちらが言うとも無しに、背中合わせに座って、小さく震え始めた。
 それぞれに懐中から取り出したるは、一振りの短刀。驚かせすぎたかと思い、声を掛けようとした桜は――気の強そうな少女の手にしているのが、己の所有する短刀だと気付いた。

「おい、それはどうした」

「――っ、ひゃあああああぁっ!?」

「――きゃあああああああぁっ!?」

 跳ね上がる程、二人の少女は驚いてみせた。気性は事なれど、良く似た二人であった。
 完全に眠っていると思っていた人間に、いきなり声を掛けられた――そればかりでは、こうまで驚きもするまい。訝しがりながらも、桜はゆうと立ち上がる。
 立ち上がって見て気付いたが、この少女達、年の頃に比べて背が低い。為に、長身の桜は、かなり極端な角度で二人を見下ろす事となった。

「見た所、私の短刀の様だが。子供が持つには危険な代物だぞ?」

 総鋼造り、足の指に落とせば爪が割れる重量。鈍器としても使える様な、呆れた強度の短刀である。こうも酔狂な品を、子供に持たせる親もいるまい。桜は、その短刀が自分の所有物だと確信を持っていた。

「な、なな、な――――……っ、子供じゃないわよ、子供じゃ! じゃない、誰よあんた!?」

「えと、これは私達が貰った――じゃなくて、いやそうなんだけど、その、えと」

 慌てぶりも二者二様なのだが、狼狽する表情は良く似ている。姉妹なのだろう、と見えた。
 来客に吠えかかる子犬の様な、〝さと〟と呼ばれていた少女。対して〝さき〟と呼ばれていた少女は、少なくとも対話の意思が見える。桜は首の角度を変えぬまま、目だけを下に向けた。

「まずは礼を言う。長旅で傷も開きかけた所だ、屋根を借りられたのは有りがたい。ささやかなりと謝礼もしたい所だが――」

 目が覚めてから、桜の体は妙に軽かった。理由は至極単純である。

「この村の宿は前払いか? 服が残っているだけ良しと見るべきか、ふむ」

 持ち物が、殆ど消えているのだ。
 身に付けていた物は、小袖と丈の短い外套、長靴を残して消えていた。行方知れずとなった装備は、丈の長い外套、脚絆、かんじき――財布、短刀、脇差、黒太刀。
 外と内から窓を塞がれた小屋は、囲炉裏の炎に照らされている。見渡しても、それらの装備は見つからない。そして、さとが桜の短刀を持っている以上、装備がどうなったかは推して知るべしである。

「えー……と。御免なさい、余所者が踏み入る〝通行料〟だって兄さんが――」

「さきは黙る、こいつが悪いんだから良いのよ! 服は残してやったじゃない!」

「ふむ、一理ある。流石に全裸では私も凍え死ぬだろうな」

 こういった風習も――頷けないではなかった。屋根を火を貸すだけ、寧ろこの集落の者は親切なのかと思わぬでもない。ないが、腰と背の軽さは、やはり心地好く感じられない。

「で、どうすれば通行料は返してもらえる。雪下ろしくらいなら手伝うが」

「えっ、じゃあ早速この家の――じゃ、なくて。あんたもっとおどおどしなさいよ、生意気なのよ!」

 自分より一尺と三寸も背が低い少女に生意気と言われれば、桜も苦笑以外の表情を作れない。諦めた様に首を振って、さき一人を視界に入れた。

「礼と挨拶、それに話がしたい。家の者は居るか?」

「家の……え、と……父さんは山に入ってるし、兄さんは〝雪蔵〟に居るから……母さんが、近くにいる、かも。
 あ! でも、出来れば外に出ないでもらった方が……」

 人見知りの気が強いのか、それとも姿勢を低くしない桜から威圧を感じているのか、兎角さきはおどおどと話す。ちら、ちらと玄関口の方へ視線を向けるのは、誰か帰って来るのを待っているのだろうか。
 が――それを待っていられる程、桜は気が長くない。

「やれ、面倒な事になったものだ」

「ちょ、ちょ、外へ出るなって行ってるでしょ! 待てこら、このーっ!」

 さとが裾を掴んで引き留めようとしていたが、雪程の重さも無い。桜は軽い欠伸をしながら、長靴に足を通し、小屋の外へ出た。








 目を刺す様な照り返し。雪に覆われた村は、痛いほどに眩しかった。
 既に日は高く――だが、江戸や京の様な騒々しさがない。然してこの静けさは、決して寂しさと同義ではなかった。
 南東に向いた玄関――桜には懐かしい、風除室を備えた――を潜れば、すぐそこには、雪を掻き分ける逞しい中年女。

「あんら、やっと起きたのかいねぼすけさん。ちょっと待ってな、お夕飯の用意をするからねぇ」

「……それは一体、どれだけ後の話だ?」

 胴体も腕も、笑い方も太い中年女に、桜は呆れ笑いを浮かべて問う。

「なーに、男連中が帰ってくりゃ直ぐ、日が沈む頃のことさぁ。……それとも、もう腹が減ったんかい?」

 中年女は、積もり固まった雪の上にどっかと腰を降ろして言った。
 さとの慳貪な歓迎に比べれば、随分と好待遇だ。どういう事かと桜は首を傾げ、中年女の隣に腰を降ろす。外套の裾から雪の冷たさが伝わって、座り心地は決して良くはなかった。

「面影はあるな。あの二人の母親か?」

「んだよ、あたしさ。さとはいっつもうるさいからねえ、あんたも疲れたろぉ?」

「ん、まあ余所者相手なら、あんなものではないのか? ……いやそもそも、私に出す飯が有るのか?」

 からからと中年女は笑って、桜の肩をばしばしと叩く。中々に力強い手であった。

「三千石を甘く見ちゃいけないよ、旅人さん。あんた十人食わせたって、倉はまだまだたんと余ってるさ」

 ほう、と桜は驚嘆した。
 見れば、狭い土地である。東西は高い山に遮られ、南北に貫いて川が一本。高低差も大きく、冬の訪れは早く、豊かな土地には思えない。
 そんな疑念は、やはり表情に表れていたのだろう。中年女はまた豪快に笑って、西の山を指差した。

山ン主さんぬし様がいらっしゃるんだ、山も畑も田も豊か。ばあさまのばあさまくらいの頃は、時々は飢えたって話も聞いたけんどな。
 今もうちの旦那が、籠り損ねの熊を狩りに行っとるよ。一頭取れば皆で喰える、日の入りまでには戻んだろうさ」

「皆で、か」

 日の本の熊は、蝦夷に住む種類を除いては、決して巨体とは言い難い。肉も内臓も骨髄まで、無駄無く喰らう文化があるのだろう。
 それが――なんとなく懐かしく、桜には感じられた。自分が育った土地の、少ない食物を食い尽くす風習にも似ている、と。
 然し熊とは。そんな思いもまた、桜の偽らぬ本心であった。
 確かに不味くは無いのだが、どうにも癖の強い肉だ。仕留める難しさのこともあり、他に食う物があるならば、そちらを食う方が効率は良いだろう。
 敢えて熊など――それも、冬眠をし損ねた固体を探すなど、或る意味では余裕の表れなのか。食料を得ることより、熊を食うという事に意味があるのだろうか?

「ああ、いんや? そんな事は考えちゃいんねえさ。山が有るから狩りに行く、簡単だろぉ?」

 然し、実際に深読みの内容を尋ねてみると、一笑の元に否定された。

「成程、簡単だな。好ましいものだ」

 随分と動物的な文化だ。己の連れの、単純な欲求に似ていなくも無いと――思わず、桜も破顔する。

「んだから、今夜はゆうるり休んでいきな。こんなところまで来るんにも、何か訳があるんだろ?
 うちの村の女衆は、外のもんなら何でも好きでねぇ。ほうら、あれとかあれとか」

 中年女がひょいと指差した方向に、桜も目を向けてみる。
 成程、作業の合間合間、ちらちらと好奇の目を向けてくる者が幾人か。その何れもが、分厚く着膨れした女である。
 男も居ないではないのだが、こちらは奇妙なことに、殊更に桜を見ようとしない。意識的に顔を背け、視界に居れず通ろうとしているかの様だ。

「ふうむ、私は王朗の世評か」

「あん、その心は?」

「えんぎが悪い」

 暫し中年女は考え込み、ようやく思い当たると、かっと吹き飛ばすような笑い方をした。

「んだんだ、他所の女に目をやると、山ン主さんぬし様が機嫌崩すってなぁ。んだから山に入る男衆は、あんたを見たがろうとしねぇのよ。勿体無ぇが、べっぴんさんだんに」

「そうかそうか。然しお前、存外に学があるのだな」

 羅貫中を謗りながら、暫く二人は雪上で話し込む。体温で雪が僅かに溶け、衣服の尻に染み込むのは不快だが、概ね愉快な時間であった。

「おっかあ! 何してんだ、んなやつと!」

 然し暫しの平穏は、憤りを大いに表した声に妨げられる。
 雪を激しく蹴り散らして、青年と少年の中間くらいの男が、鼻息も荒く歩いて来た。氷点下の雪国で激しく歩くものだから、頭からは白い湯気が立ち上っている。

「他所もんとくっちゃべるなって言ったべや!? しかもまた外さはあ連れ出して!」

「んだどもさきとさととさ置いどいてもどうにもならんべや! ほに言うだけ言って何さもしねえで!」

 現れるなり叫んだ彼に対して、中年女も強い口ぶりで返した。
 語気の強さに比べて、声や表情に敵意がない。親しい間柄で、こういう会話さえ日常茶飯事なのだろう。そういうことは桜にも伺えたのだが――

「……ん?」

 首が斜めに傾き、瞬きを幾度か繰り返し、桜は会話の内容を理解しようと努めていた。
 一度文字に書き下してしまえば、なんとなく意味は分かる。だが、カ行が酷く濁る東北の訛りは、関八州の言葉に慣れ親しんだ桜には、聞き取ることも難しいのだった。

「おい、そごん余所もん――そこの余所者! おらがさ村に上り込んで、なも払わねでうろつくでねえ! とっととながさ戻れ!」

「……うーむ、言わんとするところは分かるのだが。私もな、寝起きで少しは体を動かしたいと」

「なんねえっ!」

 雪を踏み荒らして詰め寄ってきたこの男も、やはり小柄であった。骨はがっしりと太いが、顔の筋の薄さといい、まだまだ育ちきっていない感が有る。背丈でいうなら、桜より四寸も低い為、近づけば近づく程、互いの視線の角度が大きくなった。

「ところで、お前」

「んだ?」

 聞きなれぬ音ばかりで混乱した表情ながら、桜は一点、特に気になる事を見つけて呼び掛ける。険しい顔をしていた男は、途端、目の力を抜いて口をぽかんと開け答え――直ぐに、また顔を戻すことになる。

「お前は山に入らんのか? 他の者は狩りに出ていると言うが」

「――っ、やがましゃあっ!」

 まだ少年と呼ぶ方が相応しいかも知れない男は、火が付いた様に激昂した。何事かと訝る桜をよそに、中年女はまたからからと笑って、

「ぶはっはっはっ、言ったらはあ可哀想だべさぁ! 鉄砲ばまだ下手ぐそで山さ入れでもらえねえのよ富而とみじったらよ! 図体ばかりでかくなってからに留守番だと!」

「おっかあ、余計な事さ言うでねえつってんだべ! こら余所者、笑うなぁ!」

 外には強い性質らしい富而は、しかし母親に掛かれば見た目よりなお幼い子供扱い。桜はそれを見て、思わず吹き出してしまい、口元を手で覆った。

「そら、とっとと戻れ戻れ! おっとうさ戻って来たらおの事さ決めっけえな!」

「おお、おお、分かったから押すな、引っ繰り返るぞ」

 背を押される桜は、無理に踏みとどまろうとしない。富而は茹で上がったかの様な顔色で、富而の母はまだ笑っている。見知らぬ土地の事とは言え、なんとも長閑な事であった。
 だから――不意の悪寒も、一瞬は、気のせいだろうと無視をした。

「お……?」

 錯覚――かも知れない。だが、桜は、何者かに見られている様な気がしてならなかった。
 視線を感じた方に顔を向ければ、そこには雪を被った山脈が連なっている。
 西風から湿気を奪い、乾いた雪を降らせる元凶。この小さな村を肥沃な土地とする源流。その山肌の、葉も落ちた木が――獣の様に、吠えた気がした。

「止まるんでねえ!」

「分かった分かった……やれ、他人様の家とは気を使うな」

 無理にまた屋内に押し戻され、見られている感覚は消えてしまう。桜は裾の雪を払いながら、山に思いを馳せていた。
 変わらず雪は雑音を吸い込み、村は静かに美しかった。








 所変わって、日は遡り。桜が出立して二日後の、京の山中の事である。

「困った、実に困った。いや、本当に考え無しに動くのはいけないな……困った」

 松風 左馬は、地面に胡坐を掻いて唸っていた。
 悩みごとの元凶は、気紛れ混じりに拾った弟子――つまり、村雨の事である。
 困らされる様なじゃじゃ馬では無い。寧ろ、少々の視野の狭さは有るが従順で、扱いやすい弟子である。
 然しながら――従順故に、教えた事を片っ端からこなして行く。
 それ自体に問題は無い。が、教える事が早々に尽きたのだ。

「……こんなのは初めてだしなぁ」

 元々俗世に交わらず、隠者染みた暮らし方をする左馬である。他人に自分の技術を教える――未だかつて、そんな経験は無い。
 勿論、左馬自身、体術を独学で身に付けた訳では無い。師匠と呼べる人物は何人か居て、それらから技術を譲り受けたのだが――

「あいつ、私より動けるじゃないか」

 基本的な技術を教えこむ前に、左馬は村雨の〝性能〟を試した。
 筋力、持久力、柔軟性、敏捷性、五感の鋭敏さに四肢末端の強度。即ち、技術を叩き込む前の段階、基礎体力である。
 幾ら細く小柄だとは言え、亜人であるならば、真っ当な人間と比べられる体力では無い。左馬自身、そうは分かっていたが――少々、予見が甘かったのだ。
 弟子入りを赦した初日、まずは鼻を圧し折ってやろうと、走り込みに付き合わせた。たんと食事を取らせた後、日の入りから日の出まで、山から山へ走り続けたのだ。
 が、一晩走り続けて尚も、村雨はまだ動けそうな様子を見せていた。汗を流し、呼吸も荒いが、走れと言えば直ぐに走り出しただろう。
 人狼は天性の狩人である。雪原で一晩だろうが得物を追い回し、一刻に駆け抜ける距離は約八里。低く、そして硬い土に覆われた日の本の山など、村雨にとっては平地と同じ様なものなのだ。
 翌日は早朝から、薪を割らせて運ばせた。が――こちらも、同世代の少女達に比べてみれば、目を見張る様な重量を動かしてのける。筋肉の構造が、どうやら生まれ付いた時点から、人間とは違っているらしい。左馬が担げるのと然程変わらぬ量を運んでいた。
 昼食は手短に済まさせて、次は積み上げた薪を跳び越させる。跳躍力に関して言えば、これはもう明らかに、村雨は左馬を上回っていた。
 家屋の屋根まで軽く飛び上がる脚力、積み上げた薪など柵にもならない。膝を軽く曲げ、伸ばす程度で伸び超える姿を見せられれば、もう呆れて溜息を吐くしかなかった。

「これだから半獣は嫌いなんだ、全く……ああ、もう帰って来た」

 修行を付けると決めて三日目の今日は、街に酒を買いに行かせた。とある店でしか置いていない銘柄で、左馬が走っても往復半刻は掛かる距離だが――

「戻りました、師匠!」

「おつかれさま、早いな化け物、合格だよ」

 四半刻と少々。見送る際に飲み始めた酒が、まだ回っても来ない頃合いである。
 そう、左馬の困り事とは、この弟子の体力の水準が、ものによっては自分を大きく上回っている事であった。
 まずは体力、忍耐力。技術を叩き込むのは後と考えていたが、然し体力は、この時点ですでに合格点に達している。

「それじゃ、今日こそは……?」

「ああ、二言は有るけどその気分じゃない。飲んだら始める、余所行きの用意をしてで待っておいで」

 かと言って、何を教えれば良いのか。酒壺を受け取った左馬は、顔に浴びる様に白酒を煽りながら、未だに悩んでいた。
 時間を掛けて良いならば、例えば三年も使って良いのならば、これだけの素材、ひとかどの武芸者に仕立てる事は出来る。だが、時間が無限に有る筈も無い。
 最初は、適当に体力を付けてやって、幾つか簡単な技でも教えてやれば十分かと思っていた。弟子入りの際の啖呵も、己を知らぬが故の大言壮語だろうと見くびっていた。
 ところがどっこい、大言壮語を実現出来そうな体力である。これは〝適当に〟教える訳には行かないな、と思ったのだ。

「……だけどなぁ、拳打一つで五年は掛かるだろうに」

 ぶつくさ言いながらも左馬は、着物の上に一着、分厚い羽織を重ねて立ち上がった。

「行こうか、一番大事な事を教えてあげる。……これで辞める奴が多いんだ、また」

「……? 分からないけど、分かりました」

 足早に山を降りはじめる左馬を、村雨は普通の歩幅で追いかける。

「ところで、師匠」

「ん、なんだい?」

「どうせ降りるんなら、別に私がおつかい行かなくても良かったんじゃ」
 ごつん、鈍器染みた音がした。石より硬い、左馬の拳が音源だ。

「生意気言うんじゃない、きりきり歩けい」

「私は罪人じゃないです、師匠!」

 左馬とは全く違う理由で、村雨も頭を抱えるのであった。








 活気の消え失せた京の街を、それでも西へ西へと進めば、ようやく幾分か喧しい所へ出る。
 かの金閣より更に西、中心から外れた代わりに、粗野な雰囲気が漂う町――その一角に、奇妙な通りがあった。
 店が無い。反物、骨董は言うに及ばず、端切れも紙も櫛も、軽食さえその通りには売っていない。宿も無ければ遊女屋も無く、然して民家の一つも無いのだ。
 代わりに、道場が幾つも並んでいた。大小、扱う武芸の種類を問わず、道の左右にずらりと看板が並ぶ――正に壮観である。

「はりゃー……何ここ凄い、汗臭い」

「男所帯ばっかりだからね。良い遊び場だ、もう見られてる」

 当然の様に、治安は悪い。ゴロツキが力欲しさに武術を学んでいる、そんな連中ばかり集まった場所だ。
 いや――武術を身につけようなど思い立つ者なら、力を振るいたがるのは寧ろ自然。寧ろ人格者の方が珍しいだろう。

「じゃあ、今日は何処に殴りこもうかな。希望はあるかい?」

「待った、師匠。いきなりにも程が有ると思います」

 当然の様に松風 左馬も、力を振るいたがるゴロツキ崩れに分類される。心底楽しそうな顔で、直ぐ近くの道場の門へ足を向けた。

「村雨、お前に教えておくよ。この通りにはたった一つだけ、絶対に守らなきゃいけない規則が有る」

「それは?」

「やられたらやり返す事――たのもー!」

 薄っぺらな板戸に、いきなり蹴りを打ち込む左馬。こういう手合いには慣れているのか、慌てもせずに大柄な男が出て来て――左馬の顔を見れば一転、鬼の形相となった。

「貴様ッ、何をしに来たァッ!?」

「弟子の教育。今日はとりあえず、全員潰して行こうと思うから……まあ、覚悟したまえよ」

 互いに知った顔なのであろう。左馬の挑発に、大柄な男は、寸鉄を握りこんで殴りかかる。右の、巨大な拳であった。

「ちょ、ししょ――」

 いきなりの事に、村雨は何が何やら分かっていない。せめて状況を知りたいと、左馬を制止しようとして――まるで無意味だと、直ぐに気付かされる。
 左馬の左腕が、男の右手首をかち上げる。そうしてガラ空きになった脇腹へ、硬い靴を履いた爪先が突き刺さった。

「えげ、ぇっ……!?」

 大柄な男が体を折り曲げる。頭の、顔面の位置が低くなった。左馬はそこへ、跳ね上がりながら右膝を叩き込んだ。
 仰向けに男は倒れ、大量の鼻血を噴きあげる。前歯が幾つか口の外に飛び出し、鼻は無残に折れ曲がっていた。

「と言う事で、こいつらは私にやり返してきます。はい、迎え討ちましょう」

 おどける様に左馬は言って、拳を腰の高さに留める構えを取った。小さく細かな跳躍を繰り返す、日の本にはあまり見られぬ武芸の型であった。
 治安の悪い通りでは有るが、然しこの通り、秩序立っては居る。道場ごとに互いの力の程を知り、自然と順列を付け合っている。あまりに順列が遠い相手へは、喧嘩を仕掛けぬが暗黙の了解なのだ。
 然し左馬は、順列など全く気に掛けず、どこへも問答無用で上がり込む。言うなれば鼻つまみ者、この通りでは酷く嫌われた女であった。
 それがいきなり門弟を殴り倒したとあっては、黙っていられぬのが道場主と、その高弟達である。どかどかと足音がして、長い廊下の向こうに、数人ばかり姿を現した。

「村雨、お前はハッキリ言ってずるい、気に入らない。だから馬鹿正直に、技なんて教えてやりたくない。
 その代わりに、私や桜の様な人間になる為に、一番大事な事をこれから教えてやる」

「え……は、はいっ!」

 ぴ、と反射的に背筋を伸ばしてしまった村雨。その姿は、もはや左馬の視界には入っていない。彼女が見ているのは、血走った目の男達だけだ。

「不作法者めが、土足で上がるかァッ!」

「最初の文句がそこかい? 薄情な奴ら……はいやっ!」

 大声と共に最初の一人が、容赦無く槍で突き掛かってくる。心臓を狙った穂先を右に避け、喉仏へ左一本貫手。一撃で沈黙、体がゆうと傾いた。
 次の男は刀を持っていた。踏み込みは早く、中々の腕前であることは見て取れたが――左馬は、槍の男が倒れ切る前に胸倉をつかみ、あろうことか盾の代わりにして飛び込んだ。

「なっ、三笠――ぎあっ!!」

 上段に構えた刀は、同胞を斬る事を恐れたか、結局振り下ろされる事は無かった。代わりに左馬の右手が、刀の男の顔に触れていた――?

「……あれ、え、そんな……?」

「がああっ、あああぎああいいい、いっ、貴様、貴様ァアァアアッ!」

 村雨には最初、ただ、左馬は手を触れさせただけの様に見えた。
 だが、男が苦しみ過ぎている。何故か――左馬の右人差し指と薬指が、第二関節から不自然に曲がっている事に気付いた時、村雨は背筋に寒気さえ走った。

「あー、生温い。雪の日には悪くないんだけどね」

 人差し指は右目に、薬指は左目に。左馬は容赦なく、刀の男の眼球を潰し、視力を奪い去っていた。
 苦痛に身を丸めた男の首筋に踵を打ち込んで、指に付いた血は衣服で拭う。それからニヤリと笑って、再び拳を腰に添えて――

「さあ、次だ! 安い看板だが、酒代の足しにはなるだろう!?」

 もはや男達も、我から飛びかかろうとはしていない。左馬の立つ位置は、同時に二人が襲いかかれぬ、狭い玄関口。もう少し手前に来なければ――恐ろしくて、戦えないのだ。
 それを分かってか、左馬は事も無げに踏みだそうとした。行きがけの駄賃とばかり、槍の男の喉にもう一つ突きを入れ、意識の無いまま血を吐かせてからである。

「……待てこの馬鹿ぁっ!!」

 この無法を、村雨が耐えられる筈は無かった。無防備に晒された左馬の後頭部へ、石を投げる様な格好で殴りかかった。
 途端、村雨は、世界の天地が入れ替わるのを見た。
 拳を取られ、足を払われ、頭から床に落とされる。接地の瞬間、左馬の右足が顎へ添えられるのを感じ――その足が、最後の加速を与えた。
 床板に頭を突き刺され、逆さになったまま硬直し、それから棒切れの様に倒れ伏す。一連の過程を左馬は見届けもせず、残る得物へ襲いかかった。
 悲鳴も怒声もこの通りでは、公権力を呼ぶ引き金とはならない。影も伸びぬ程度の時間の後、左馬は己の獣性を存分に見たし、四肢の全てを朱に染めて嗤っていた。








「――はっ!?」

 村雨は、意識を取り戻すと同時に立ちあがっていた。何故、自分は意識を失っていたかを暫し考え――頭が床に叩きつけられた事を思い出した。
 思い出した瞬間、村雨は顔を青ざめさせながら、鼻で息を吸い込んだ。周囲から漂う血の臭い、激情は沸点に達する。

「や、もう起きたのかい。やっぱり蘇生も早いな、ますます気に入らない」

「……なんで、あそこまでするのよ」

 教えを受ける立場だ、という事は忘れた。上下関係など意に介さぬ程、巨大な怒りが村雨を突き動かしていた。
 目を奪う、喉を潰す、そこまでせずとも左馬は勝てた筈だ。
 今になって考えれば、この道場の――剣術道場らしいが――門弟達は、然程強くも無かった。左馬にして見れば、それこそ朝飯前に片付けてしまえる程、技量の隔たりは大きかった。
 だのに左馬は、殊更に残酷な技を用いて、過剰に相手を破壊したのである。それが、村雨には気に入らなかったのだ。
 返答次第では殴りかかると、言葉の外で叫ぶ様な視線。左馬は、意識を失った大男、道場主の背を椅子に座りながら答えた。

「これが、私の武術の本質だからさ」

「弱い者虐めの、こんなやりすぎなのが本質!?」

 無慈悲な響きだった。村雨は大きく詰め寄って、正面から左馬を睨み据える。

「ああ、そうだとも。大体にして大成しない奴は、この本質を履き違えるからそうなるんだ」

 左馬は――信じ難い事だが、常よりも真摯な表情で、諭す様な口ぶりで村雨に言った。

「武術は、勝つ為の武器だ。より迅速に、より確実に、そしてより大量に打ち倒す為の道具なんだ。
 例えば、子供でも刃物を持てば大人を殺せる様に。例えば、非力な女でも魔術を身につければ、大男を捩じ伏せられる様に。
 元々弱い奴が使う事で、元々強い生き物に勝てる様になる道具――そう、道具。それが武術の本質だ」

 左馬は、自分の言葉に一片の疑問も持たず言い放つ。強固な持論への信望は、揺れぬ視線に現れていた。

「刀を首に振るったら、死ぬのは当たり前だろう。槍を心臓に突き刺したら、死ぬのは当たり前だろう? なのに武技を相手に用いて、相手が死なないと高を括っている方がおかしい。違うかな?」

 丸く変形した拳――幾万もの受打の末、骨から皮膚まで全てが、壊す為に特化した手。左馬は、そんな凶器を村雨の顔に翳す。

「お前が欲しがってるのはこれだよ。牛若になれる笛じゃない、大楠公の景光でもない。〝目的〟は好きに選べるが、〝手段〟はぶっ壊す事しか選べない、酷く面倒な道具だ。
 ……いいかい、武術で強くなろうって言うのはつまり、『これから私は人殺しの道具を、日夜離さず身に付けます』って宣言するのと同じ。殺しても殺されても仕方が無い、そんな生き物に成り下がる決意なんだ。良い鉄は釘にならないって言うが、つまりお前はロクデナシの仲間入りをするんだよ。
 だから、今日はまず見せてやった。この凶器を存分に使うと、どういう事が起きるかを、さ」

 眼前で、錐より鋭そうな指先が蠢くのをぼうと見ながら、村雨はその言葉を受け止め、噛みしめていた。
 本音を言うならば、まるで承服できぬ言葉であった。左馬の人生哲学がどうあれ、村雨は、殺さぬ為に武術を求めたのだから。
 じゃれつく幼子を取り押さえるのに、殺してしまう大人は居ない。互いの力量差が大きければ、殺さず、負傷すらさせず、相手を無力化する事は可能だ。村雨が求めているのは、この生ぬるい流儀を貫ける抑止力である。
 が――同時に、心の奥深い部分では、左馬の意見に賛同しても居た。
 強く無ければ貫けない目的とは――即ち、暴力無しに達成できぬものだ。
 平和的解決は理想だが、誰もが聞く耳を持つ訳ではない。そうせねばならぬ時は、躊躇わず力を振るわねばならない。目的がどれ程に正しかろうが、力無くては達成は覚束無いのだから。
 村雨は、自分が為そうとしている事が、間違っているとは思っていない。だが、今の自分の力で、それを達成できるとも思っていない。

「――――……っ!」

 だから、何も言えなかった。
 まだ痛む頭を抱えながら、床板を思い切り殴りつけた。少し板は軋んだが、罅を入れる事も侭成らない。

「お前はまだ、その程度だ。三月耐えてごらん、人を殴り殺せる様にしてやる。その後で――殺すか殺さないかは、好きにすれば良いとも。
 さあ、分かったら立て、昼食にしよう。強くなりたければ唯々諾々、暫く下積みを続けることだね」

「……分かりました、師匠」

 弱ければ何も貫けない。自分の流儀も意地も、力を得るまでは眠らせておこうと決めて――村雨は奥歯を強く噛みしめ、血臭漂う道場を後にした。