烏が鳴くから
帰りましょ

雪中夢のお話

 雪月 桜は、床板に伏していた。
 松明も消えて光は無く、外気に冷やされ、寒さ染み渡る空間――桜の頬は、己が流した血に浸り、暖かかった。

「心臓、肺腑。此方の太刀に狂いなし、じゃのぅ」

 倒れ伏す桜に寄り添って、八重――山ン主が微笑む。刀の腹に手を触れて、胸の傷口まで指を滑らせ――背に貫通した切っ先を、口に含んで血を啜る。
 桜は、己が何をされたのか、暫くは分からなかった。当然の事だが、心臓を貫かれた経験は無い。そして――これから死に逝く経験など、有る筈も無い。
 何をすると、声を上げようとした。肺が空気を取り込まず、喉は声の代わりに血を吐く。

「覚悟は良いと、のたまったじゃろ? 今さら悔やむとも思えんがのぅ。いや仮に悔やんだとて」

 血が流れ落ちる。八重はその上を、水音も立てずに歩き回る。脚先で桜の体を引っ繰り返し――刀身が邪魔で、横を向くに留まるが――胸の刀を、荒っぽく引き抜いた。
 痛みが無い事が、桜は――怖かった。過去、一般的に重症と呼ぶ類の怪我をした時は、必ず痛みが有った。きっと生きている限り、痛みは付き纏うものなのだろうとさえ思っていたというのに。
 今は、それが無い。

「血の色は誰も変わらぬわえ。獣も人も等しく赤。虫の血ばかりはそうならぬが、奇妙と言えば奇妙よな?
 然し、人よ。この赤を、河を染める程に流して、今更仏心を出すとは片腹痛い……本質がそうも、容易く変わるかえ?」

 血刀を翳す八重は、鉄の臭いに酔うかの如く頬を染め――

「暫し戯れようぞ、人よ。その果てにそなたがどうなろうと、それもまた一興、一興……よな?」

 嗜虐的な笑みと共に、桜の首目掛け、血刀の刃を振り落した。








 夢とは、脈絡のない物ばかりだ。桜は、夢ともつかぬ夢を見ていた。
 先程まで死に進んでいた筈の体が、今は何故だろうか、軽い。

「……右目も見えるな」

 両手でひゅうひゅうと風を切り、拳の素振りをする。心身全てが万全だ。
 短いながら、己の両手には情けない思いをさせた。今ならば、誰に負ける気遣いも無いと思った。立ちふさがるもの全て、容易く捻じ伏せて見せられよう、と。

「で、此処は何処だ」

 此処は――何処かの道場、の様に見えた。
 高い天井、固い床。広くは無いが、動き回れぬ程に狭くも無い。壁には誰かの達筆で、健全な標語の掛け軸が吊るされている。
 居心地は悪くない。桜の定義で道場とは、他者の努力を蹂躙する華舞台。久しく腫らせなかった鬱憤を、満足に腫らす機会であろう、と。

「で、私は何をすれば良い?」

 夢の中ではあるのだろう。だが、桜は次第に趣向を理解し始めていた。
 神話やら童話やらで良くある話だ。神とやらが人間を試すのに、試練と称して座興に耽るのは。大方そんな所であろうと。此処で誰かを討ち果たして魅せれば、気まぐれな神は満ち足りるのだろうと。

「趣味が悪いぞ」

「言いよるのう。その悪趣味に殺されてみるかえ?」

「私は殺されない」

 桜は何の疑いも無く答え――そも、その声が何処から聞こえたかを、疑問に思う事は無かった。

「死んだとも。そなたも獣も、虫も等しく。懸想する娘も等しく、何時かは死のう。そして今、そなたは死んだ」

「……は?」

 それに対して〝声〟は――紛れもなく八重の声だが――普段の桜なら笑い飛ばすだろう言葉を、戯言らしく吐いた。
 雪月 桜は死んだ、と言った。桜は自分の手を見て、自分が此処に居る事を確かめた。八重が、その様を嘲笑った。

「何を驚く。心の臓を刃で抉られ、放っておかれれば誰でも死ぬ。同じやり方で幾人と、そなたは殺してきたのじゃろう? 今更、自分だけが例外と思うなど愚かしい……ほっほ。
 なあに、たかが死んだだけの事。嘆くまでもあるまい? それよりも、此方を楽しませてたもれ」

 これは――夢ならば、何が起ころうとも、不思議ではない。だから、彼女の言を信じても良いのだろう。いや、信じても良いのか? 自分が死んだなどと誰かに言われて、それがたとえ夢だと思っていても、信じられるものか。
 然し桜は覚えていた――自分の心臓が、確かに刺し貫かれた事は。それで生きていられる筈が無いと、重々理解は出来ているのだ。

「疑うか?」

「……当然だろう」

 思考が堂々巡りを起こす。当然だと答えながら、桜は己が死んだと、少しばかり信じ始めていた。

「じゃろう、じゃろう。じゃがの、そなたに思い悩む暇などないぞ。何せこれより死合うのは――」

 と、と柔らかい足音がした。板張りの床を足袋で歩く音だ。桜は、他人が近づくのを、〝気配〟より〝音で〟先に気付いた――曲がりなりにも気配を消した相手だ。
 その音は、桜の背後、三間の距離を取って立ち止まる。正座をし、深々と礼をして、右足から音も無く立ち上がった。

「行儀の良い事だ。何処の道場剣術のお嬢様だ?」

 女だけにある独特の体臭を、女好きを自負する桜が間違えはしない。敵の性別をとやかく言う好みは無いが、腰の刀に手を掛けて振り向き――

「……お前は」

 美しい女だった。そして桜には、その女に見覚えがあった。
 背丈、日の本の平均より遥かに高く。四肢頑強、ゆったりとした衣服に隠れるふくよかな胸。
 〝本来〟あるだろう姿より、幾分かは細見だが――それはきっと、主戦術の違いによる体型の差異。彼女はきっと力より、敏捷性を武器とするものなのだろう。
 涼やかな目は、ともすれば冷酷にさえ感じられるが、彼女は柔らかく微笑んでいる。化粧気は無いが、日焼けの無い顔――日差しを遮っていたのは、三尺を過ぎる黒髪。

「――己と殺し合う。楽しかろう、のう?」

 桜の前には〝雪月 桜〟が――いや、〝龍堂りゅうどう 沙華さやか〟が、振袖の帯に刀を差して座っていた。その刀にさえ見覚えが――己の愛刀、『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』だと気付いた時、

「看板を御所望との事ですが……貴女にお渡しは出来ません。どうか力にて、お引き取りを」

「……相っ当に悪趣味な見世物だな!」

 桜は無名の刀を抜きながら、大きく舌打ちをしていた。








 二人は理由も無く、真剣を手に向かい合う。
 桜は右手に無名の打ち刀を下段に、左手は拳を作って腹の前に構えた。対する相手――沙華は、黒太刀を正眼に、これ以上も無く真っ直ぐな構えを取る。この時点で二人は違っていた。

「型に嵌った構えだな、見事なまでに」

「型稽古を馬鹿にしてはいけませんよ。その果てが、ほら」

 初動――予兆が無い。沙華は肩の高さもそのまま、滑る様に踏み込み、太刀を振るった。上段から下段までの切り降ろしは、恐ろしい程の重圧を伴って桜を襲う。
 軌道だけは読みやすい。だが、並みの剣士であるならば、防ごうとする間も無く切り伏せられていた筈だ。桜にしてからが、余裕を以て避ける事は出来ず、打ち刀で防ぐに留まる。
 重い。然し力ならば桜が上だ、押し返せる。なかごを軋ませながらのつばぜり合いに持ち込んで、桜は初めて、敵の情けに気付いた。

「……おい、どういうつもりだ」

「貴女を殺害するつもりはありません。これは飽く迄、腕比べ。そうでしょう?」

 桜が食い止めたのは、黒太刀の〝峰〟だった。
 認識に相違が有った。真剣を抜いて向かい合って、片方は殺し合いを、片方は試合をするつもりだった。
 桜は笑い、笑いながら歯軋りをする。自分がこうも甘く見られた――しかも自分と同じ顔に――腹立たしい事だ。怒りに任せ、つばぜり合いを力任せに押して解き、自分から斬りかかった。
 下段からの斬り上げ、勢いを殺さず首狙いの横薙ぎ、突き。何れもが必殺の一撃となりうる剣。沙華はその全てを、黒太刀の刀身で側面に滑らせ、力を使わずいなしてのけた。
 改めて桜は、己の得物の化け物振りを知る。
 人外の粋に達する桜の力を、流してはいても受け続ければ、並みの刀はなかごが折れる。刀身から柄まで一体型、総金属の斬城黒鴉に、その惧れは微塵も無い。
 刃渡りも長大で、桜が手にした打ち刀の倍は有る。得物の長さの差は、即ち先手を取る猶予。桜より一足早く、沙華の斬撃は敵を捕らえるのだ。
 更に刀身の長さは、手首の小さな動きを、より増幅して切っ先に伝える。力で上回る桜だが、刀の切っ先の速度で比べれば、現状、沙華に一歩譲っていた。
 慣れぬ刀で斬りかかる。手の中で、柄が軋む音を聞きながら、脇腹目掛け渾身の斬撃を打ち込んだ。受けた刀を押し込み肋を圧し折る筈の一打を、沙華はたたらを踏みつつも堪えて、留まって見せた。
 反撃はやはり、無拍子の斬り降ろし。意識を防ぐ事に集中せねば、頭に峰打ちを受けかねない。さりとてただ受けたのであれば、脆い刀を圧し折られる。受ける瞬間に僅かに刀を引いて、衝撃を殺しながら、桜は耐えた。

「技量は同等じゃのう。いや、愉快愉快。なれば勝つのは――」

 技の冴えは、八重の見立ての通り、双方ともに同等。であれば、得物の差異を鑑みて、優位に立つのは沙華に見えた。
 然し、実際はそうならなかった。

「ええい、同じ顔がこうも温いとはなぁ……」

「くっ……相当の手練れですね。称賛に値しますよ!」

 技量が同じ――だが、殺し合いの経験は、圧倒的に桜が多いらしい。
 まず、刃物に対する反応が違う。余裕を持って大きく避けようとする沙華に対し、桜は自分の体に触れねば、頭髪の数本程度はくれてやるとばかり、紙一重で避けようとする。
 攻めに転じる際も、桜は容赦無く切り捨てに掛かるが、沙華は無意識の内に、相手を慮って加減をしてしまっていた。
 防いだ黒太刀が舞い戻るまでの僅かな間に、桜は可能な限り間合いを詰める。自分も刀を触れない程の間合いから、鍔迫り合いに持ち込んだ。弾かれたが、桜は体勢を崩す事無く、逆に沙華は反動で、よろけながら後退した。

「――やはりのう、こうなろうと言うものよ。敢えて戯れにと、惑わす言葉の一つも吐いたが、いや道化はよう踊りよる」

 何処からの声かは分からない。桜は八重の声に取り合う事も無く、壁へ追い詰めた沙華に、再度のつばぜり合いを図る。
 沙華の力も、女とは思えぬ剛力である。二人の力を受けて、床板も壁もきしみをあげる。然しこの形となって、桜が敵を仕損じた事など無かった。

「人よ。殺し合いとは言うたがの、果たしてその女をどうする気かえ?」

 捻じ伏せ、首を取るのみ。後はそれだけという所で、八重が問う。

「殺すのか。所詮は夢じゃろうとも、然し殺すのか。弱い仏心じゃな、人よ」

「……何だと?」

 何時の間にか桜の背後に、八重が扇を翳して立っていた。壁に押し込まれている沙華の表情から、きっと彼女にもその姿は見えているのだろう。

「気まぐれに、あの猿を見逃したのう。そしてまた今、たかが此方が唆したというだけで、その娘子を殺そうとする。何がしたい?」

「……」

 扇で煽がれ、頬を風が撫でる。汗の粒が軌道を歪めて、顎の先を伝って落ちた。
 桜は答えられない。今回に限って言えば、何も考えていなかった――夢か、山ン主とやらの座興かと思ったのだ。
 だが、道理かも知れないと思った。殺したくない、殺さないと、自分は偉そうに言った記憶が有る。だのに今、自分と同じ顔の女にしようとした事は――
 考えつつも、桜は手を緩めない。思考と腕を乖離させる程度の技量は、とうの昔に身に着けていた。幾つの修羅を潜ったか、数えられぬ程なのだから。

「さて、娘子。そなた殺されるぞ、この女に。哀れよの、ただの道場破りと思うて迎え入れたが、実は血に飢えた獣だったとは。よもやこの女、亜人とやらかも知れぬなぁ……?」

「ひ……ぃ、や……」

 対する沙華は――同等の敵と当たった事さえ無い。死を賭した戦いに赴いた事も無い。
 他者を殺した事は愚か、四肢一つを切り落とした事さえ無い。人に真剣を用いる時は、必ず峰打ちで優しく気絶させてきた。
 そんな女が、初めて自分を上回る敵に、命を狙われて――冷静で居られるものだろうか。

「や――きゃあああぁっ!?」

 女の様な悲鳴――少なくとも、桜なら決して上げぬ様な悲鳴と共に、沙華は桜を蹴り飛ばす。
 威力は有るが、それで桜を仕留める事は出来ない。寧ろ狙いは、背後の壁の破壊にあった。木造家屋の壁など、彼女〝達〟の前には、障子の薄紙程の妨げにもならなかった。
 外へ転がり出て、沙華は走り、逃げる。追って桜は外へ出て――

「おう、懐かしい」

 言う程に長く離れた土地でも無いが、壁の向こうは江戸の町であった。

「助けて――助けて、殺されるうっ!」

 道行く者が足を止め、刀を抜いた桜を見やる。己へ向かう視線の、込められた敵意の強さを感じて、桜はたじろぎ、口元を捻じ曲げた。慣れ親しんだ町の人々を――桜はその時、初めて見たように感じたのだ。

「あれは、そなたじゃ。分かっておろう? つまりそなたは、誰でも無い」

 八重の言葉の選びは、分かりやすいとは決して言えなかったが、端的に事実を語っている。

「あの黒太刀は、あの娘子が祖父より与えられたもの。道場は、あの娘子が己で勝ち取ったもの。
 性情、善良。良く鍛え良く学び、誰の言葉にも耳を傾け、誰にも等しく力を貸す。金になる程の武芸、生来の無欲、財は有るが他者の為に使う事を惜しまず。生まれてこの方負けは無く、故に誰からも深く信頼されて、そして皆がこう思うのじゃ」

 それは大した人間だ。桜はそう、声にならぬ声で呟いた。己と同じ顔が善人などと、考え辛い事だった。

「多くの者がこう言うぞ。〝いつか沙華さんに恩を返そう〟〝沙華さんの為なら一肌脱ごう〟〝沙華さんの為には命をも惜しまない〟……そなたに、そう言うてくれる者がおるかえ?」

「さあ、な」

 一人二人は居るだろうなと、桜は頭の中で人を数えた。誰かを殺せば、その誰かの敵には感謝される。そう思わずに売った恩を、律儀に返そうという者は居るだろう。
 だが――今、桜が受けている敵意は、目に映る全ての人間より向けられていた。風車を持って走り回る子供さえが、沙華を背に庇い、石を拾って構えていたのだ。

「せいぜい頑張るのじゃな、〝人殺し〟」

「……最悪の気分だ」

 早くも十手持ちが集まり始めた。
 早足の者が呼びに行ったにしても早すぎる。やはりこれは夢なのだと思いつつも、桜は心が冷たくなっていくのを感じた。
 あまり縁が無い筈の、悲しみという感情だった。








 真に迫った夢の中で、桜は何をして良いか分からなくなっていた。
 見渡す限りの敵意――良く見れば、知った顔ばかりだった。魚売りの棒担ぎの中年、宿の呼び込みをする若い男。あちらで挟を構えているのは、西洋帰りの理容師の女。江戸に居た頃合いは、その女以外に髪を切らせはしなかった。
 話が面白い女だった――口説いて、幾度かは抱いた。商家の男との婚姻の際は、祝いの宴席に酒樽を担いで行ったものだ。

「誰も、覚えておらんのか」

 皆が皆、見知らぬ化け物を見る様な目で、桜を睨みつけている。
 手足の震えは見て取れた。抜き身の刀を持つ〝人殺し〟を前にして、堂々と立ち向かえる連中で無いのは知っている。それでも、或いはだからこそ、彼等の壁は分厚かった。

「覚えている筈も有るまいて。そも、そなたを誰も知らぬのだからのぅ。彼等の知人、友人とは、それ即ち全てが〝龍堂りゅうどう 沙華さやか〟の知人であり友人。そなたは唯の人殺しよ」

「あれらを殺すつもりは無いぞ」

 そう言いながらも、桜は刀を納めない。寧ろ右手の握りを強め、高々と刃を翳し――飛来する三本の矢を、それぞれに切り落とす。
 矢の狙いは正確だが、弱い弓から放たれている。射手の非力が分かり、桜の心中はまた、粘泥の如く重苦しくなっていく。
 矢を放ったのは誰か、探せば直ぐに見つかった。近くの民家の屋根の上に、弓道場の道場主が陣取っている。嗜み程度に習いに行って、数日ばかりで免許皆伝を言い渡された、そんな事を桜は思い出していた。

「退け! その矢は私には当たらんぞ!」

 答えは無く、代わりにもう一矢。眉間を狙った矢を、桜は容易く掴み取った。
 屋根の上の射手は矢を撃ち尽くしたらしい。飛び降り、向こうの通りへ消え――ついでまた幾人か、見知った顔が、刀を抜いて駆け寄ってきた。

「沙華さん、如何なさんした!?」

「おうおうおう、何処の女だかぁ知らねぇが、いい度胸してやがんじゃねえか!」

 所謂、ヤクザ者と呼ばれる類の男達だった。桜が江戸に来て直ぐ、少しばかり揉め事になり、そして少しばかり荒っぽく扱った所、懐かれてしまった連中だ。
 この夢の中では懐く相手が変わっているらしく、怯え竦む沙華を庇い、そして桜を害する為に立ちはだかる。
 抜き身の刀が幾ら向けられていようと、桜に負ける気遣いは無かった。己の刀は左手に持ち、地面に引きずらせ、ヤクザ者達へ近づいて行く。

「……何が目的だ、何が見たい!」

「さあ、のう。それも含めて、問いじゃわえ」

 首を、胸を、腹を狙って突き出される刃。衣服を掠める程度に避けて、手刀でヤクザ者の手首を打つ。鈍い音がしたが、骨が折れてはいるまいと、一瞥もくれず桜は先へ進んだ。
 良く考えれば、自分が何故、自分と同じ顔をした女を追っているのか、それさえも分からなくなる。
 見える所で蹲り、子供に庇われている沙華。走れば直ぐにでも届く距離だが、桜の歩みは亀よりも遅い。足が思う様に動かないのだ。

「然し、愉快よの。あの女傑も女か、日頃の強さは何処へやら。そなたはあの様に、弱みを見せた事は?」

「さあな」

 また何処かから、幾つかの足音と、殺気を孕んだ視線。そちらへ視線はやらぬまま、背後の声に辟易しながら答える。

「見せられぬのじゃろう、そも」

 遅々とした歩みが、遂に止まった。だが振り向きもせず、桜はただ、刀に目を落として立ち尽くす。

「あれは人として〝良い〟。仮に腕を落とそうが目を失おうが、集まる人数は変わるまい。たとえその力の恩恵に与る事が無くとも、皆があれの為に戦い、或いは死ぬじゃろうの。翻って、そなたはどうかの?」

 言わんとする事は――もう、分かっている。他人に言われる事も無いと、耳を覆っても良かったが、手が塞がるのでそうはしなかった。

「そなたの周りに集まった人間の、どれ程が利の為に居る者か、そなたは分かるか? 分からぬじゃろう、人の心は読めぬ者。愛を謳う遊女の不誠実は、そなたの良く知る所じゃろうて。
 利は分かりやすい。そなたの目が死に、腕が落ちたとあらば、はてどれ程の人間が傍に残ると思う?」

 戦えぬ臆病な女を守る為、立ちふさがる非力な町人達。あそこで震える女が、もし自分であれば――桜はその光景を思い描く。
 容易く浮かんだ。一人、膝を抱えて蹲りながら、誰にも守られず捨て置かれる姿が。振り払うように顔を上げると、また懐かしい顔がそこにいた。

「おう、源悟か……そうか、お前も」

「あたしを気安く呼ぶんじゃねぇや」

 だぼだぼの羽織姿――化けるのだなと、見て取れる。八百化けの源悟の特異能を、桜も幾度か見た事は有った。
 眼前で人間の骨格が組み代わり、七尺超えの巨漢が現れる。振りかぶられた拳の軌道は、過たず顔面を狙っていて、

「そういえば、お前に殴られるのは初め――」

 言い切る前に、拳が降り抜かれる。両腕を交差して受け――桜はそのまま、五間は優に跳ね飛ばされた。
 源悟は岡っ引きであり、その主である同心の傘原も、荒事を躊躇わぬ平和主義者。殺さず済むならそれで良いと考え、罪人相手にも手心を加えるのが常であるが――その加減を怠れば、こうなる。

「……何だお前、意外に強いな」

 内部まで染み渡る左馬の打撃とも、表層を鋭く斬りつける刃物とも違う、肉を外部から抉るが如き拳。洛中で鬼とやり合った事を思い出す。
 然し、幾ら源悟が殺害を前提の拳を振るおうと、桜を仕留めるには足りない。寧ろ桜を斬り付けたのは、その後の源悟の言葉だったのだろう。

「姐さん、ご無事ですかい。一先ずあたしだけ突っ走って来ましたが、っちゃちゃ、しぶてえ」

「……げ、源悟さん……? 危ないです、逃げて……」

「そうはいかねぇ、あたしもいっぱしの男でさぁ!」

 源悟は基本的に、誰とでも親しく成り得るし、必要ならば酷薄に接する事も出来る。だが、表面上の付き合いに留まる事も多い中、桜には〝姐さん〟と呼びかけ、また良く従った。
 一つには桜の力を当て込んで、荒事の解決に役立てたいのも有っただろう。だが、桜とて愚かでは無い。飲み交わし、夜っぴて二人歌い通せば、相手の感情の一端は掴める。友情とは呼び難いが、源悟と桜には、ある種の信頼関係が有った。
 今、源悟が姐さんと呼んでいる相手は桜では無い。そればかりか――源悟が沙華に向けている目は、本来自分に向けられる筈の視線より、数段も熱かった。

「よう、押し込み強盗たぁふてえ野郎、いや女郎だ! 首を川原に晒す覚悟は出来てやがんな!?」

「……こうも変わるものか、相手が違うだけで」

 自分の為に、源悟は命を賭けるだろうか。きっとそうはしないだろう、桜はそう信じている。命を賭けねばならぬ女になった時、雪月桜が源悟と親しく有る為の条件は失われるのだ。
 然し、例え幼子より非力な存在となろうと、龍堂 沙華は、命を賭けるに値する人間、命を捨てるに足る女なのだ。
 端的な答えであった。今、桜へ敵意を向ける者の全ては、だからこそ立ちはだかっている。己が賊徒の凶刃に果てようと、恩人を、或いは片恋の相手を、生かす事が出来ればそれで良いと、彼等は信ずるが故に――

「沙華さん、下がってて! 私達だって戦えるんです……!」

 十か十一か、まだ手に丸みの残る少女達が、真剣を手に沙華を覆い立つ。

「老い先短いとな、殺すってえ言葉なんざ脅しにもならねえのよ!」

 腰の曲がった老人――何処かの大家だった様に思う――が、埃の被った槍を引っ担いで進み出る。
 何十人と、何百人と、人が集まって行く。彼等が呼ぶ名は全てが〝沙華〟、〝桜〟では無い。見知った人の群れ全てが、自分を知らぬ者と、おぞましい敵と蔑視している。
 気付けば桜は、一歩引き下がっていた。束になっても自分を殺せぬ様な弱者の群れが、数千の矢より恐ろしい。いや――本当に恐ろしいのは彼等そのものではなく、彼等に否定される事なのかも知れなかった。
 数百の敵意の群れが、一歩前に出る。合わせてもう一歩、引き下がり――誰かに背をぶつけて漸く、背後に立たれていた事に気付く。

「……誰だ」

 どうせ知った顔だろうが、振り向く前に誰何する。

「てめぇこそ誰だ、ガキ」

 桜はまた、逃げるように飛び退いた。飛び退き、しゃがれた声の主を見る。

「爺……ああ、そうだろうな、お前もだろう……!」

 刀匠・龍堂玄斎――黒太刀『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』、脇差『灰狼かいろう』を打った男。桜が初めて弔った男でもあった。
 赤熱した金槌を手に、鬼神の如き憤怒の形相。たじろいで引き下がれば、背後の数百人に飲み込まれそうになる。
 進むも退くも出来なくなって、桜は刀さえ構えずに立ち尽くす。空だけが広いから、知らず、上を見た。天気は良い筈だが、視界はいやに滲んでいた。
 こうまでなろうとも、だが桜の武は衰えない。意気は地に落ち、心は寒風に凍り付こうとも、何も感じぬままに戦う事は出来るだろう。彼等が己を害するならば、皆殺しにしてでも生きる覚悟は有った。

「沙華! ああ、沙華……怪我は無い!?」

 夢は、その覚悟さえ砕こうとする。
 男女二人が人の群れを掻き分け、沙華へ駆け寄り、その手を取った。
 中年か――男は白髪が目立つが、剣を嗜むのか、背は曲がっていない。女は化粧さえしていないものの、円熟した美しさを備え、優しげな声をしていた。

「……これ以上は、流石に私も泣くぞ……っ!」

 二人の為に、皆は道を開ける。その光景に、桜は気付く――気付いてしまった。

「父上、母上……ごめんなさい、私は……」

 父に、母に支えられ、沙華がすっくと立ち上がる。そして桜は、膝から崩れ、地面に手を着いていた。
 名も知らず、顔も思い出せぬ父母――幼い頃より幾度も夢に見て、だが一度とて声を聞く事も無かった両親。
 骨格や鼻筋は父親に、目元や髪の質は母に似ている。そんな事さえ、桜は今まで知らなかった。誰に言われる事も、自分で見て思う事も出来なかったからだ。
 最も古い記憶にさえ、両親の姿は無い。だが、両親が恋しいと、嘆かずに育ったのではなかった。自分には親が居ないのだと、朝まで嘆き続けた事とて有ったのだ。
 そうまで焦がれた姿が、そこに立っている。これが本当に夢ならば、桜はその胸に顔を埋めたいとさえ願って――二人が正眼に構えた打ち刀は、そんな感情を、振るわぬままに斬り捨てた。

「何者とは知らぬ。が、名乗るな……決して名乗るな! 名も無いままに首を晒せ!」

 父の――いや、沙華の父の、怒りは激しい。人間を斬る事に、微塵も躊躇いを抱かぬ声音だ。

「沙華、下がっていなさい。私達に任せて……貴女より、こういう賊の相手は慣れてるわ」

 母が――沙華の母が、静かに微笑んだ。気丈で、優しげな笑みで、そのままに人を斬る事が出来るのだと思うと、そら恐ろしくなる程だ。

「いいえ、父上、母上……私が、私がやります、戦います!」

 父母に励まされ、数百の目に背を押され、ついに沙華も心を決める。きっと迷いは無いのだろう、彼女には支えが有るのだから。
 仮に今日、人を殺し、その罪を背負う事になろうと――龍堂 沙華と罪を分け合いたい、そう願い生きる者は何人もいる筈だ。

「……何を見たい、何を知りたい……?」

 もう、顔を上げる事も出来ない。そこへ居るのだろう八重に、桜はか細い声で問う。体を震わせるのは、出所も分からぬ寒気であった。

「そなたは、ああ成れた。それを教えてやりたくての」

 八重は変わらず、そこに居ながらにして〝居なかった〟。誰に見咎められるでも無く桜の横に立ち、扇で口元を隠し、ほくそ笑む。

「あれもそなたも、元は同じ。たとえ不幸にして、決定的に違う育ち方をしたとて、そなたはああも成れたのじゃ。誰にも好かれ、誰にも愛され、命を投げ出しても惜しくないと、焦がれる者が数多と集う女に、のう。
 利害など何の意味も無い。たとえそなたが刀を捨てたとて、そなたの存在こそが利。故に離れ行く者も無い。羨ましかろう?」

 否とは言えなかった。言えないから、桜は立てないでいる。
 幾百の友人に必要とされながら、その全てに支えられ、立つ。おおよそ人として、これほどの喜び、そうは見つかるまい。
 まして桜が、涙腺が焼け付く程に妬ましいのは――父母に見守られて、戦える事だった。

「やり直せるのならば、どうする?」

 数拍を開けて、八重が問う。聞くも虚しいと、常ならば取り合わぬ問いだった。

「……どういう意味だ」

「そのままよ。そなたとあれの生が割れた、十五年前。その時分に舞い戻り、そしてそなたの父母の気が変わったとしたら……?
 そなたは違わず、龍堂 沙華と同じ生を歩む事じゃろう。父母に孝を尽くし、人に慕われ、そして誰を殺す事も無い生を。今のそなたの様に、力を失えば何も残らぬ、修羅の生とは異なる道じゃ」

 取り合わぬ筈の問いを、桜は受け止めてしまった。意識に留めれば、心も揺らぐ。
 そうだ、桜とて安寧を望まぬではない。殺生を愉しむ殺人鬼では無いのだ、殺さずに生きられるならその方が良い。まして八重が語る生は――幼少より恋い焦がれた、肉親の愛と共にある。

「どうする?」

「……出来る筈もあるまい」

「此方ならば、出来るとも」

 時間はさかしまに進まない、死人は決して生き返らない。桜はそう知っていたが、八重はただ一言で否定した。

「ただの一度、人間一人。それならば此方の力で、出来ぬ事も無い。二度三度と繰り返すのならば、それは厄介な相談じゃがのぅ。そなたさえ望むのならばくれてやろう、日々の平穏も、無償の親愛も、一度は失った肉親も。
 ……さあ、どうする?」

 もう一度、八重が問う。きっとこれが最後の問いだろうと、桜はうっすらと感じた。
 己を愛する者達に囲まれ、沙華の目は強く輝いている。怖れを感じつつ、それ以上に湧く勇気に肩を支えられた、幸福感と昂揚の混じった目。
 美しいと思った。かく在りたいとさえ願ってしまった。叶うならばあの様に、澄んだ目で世を見渡したいと。

「私は――」

 刀を手放し、涙を拭う。早鐘の如き鼓動を抑える為、口を大きく開き、深く何度も呼吸を繰り返す。それでもまだ、胸に錘を乗せられたような息苦しさは消えない。

「――私のまま、生きる」

 らしくも無く泣き、地に崩れて。それでもなお桜は、雪月桜そのものであった。

「ほう、何故に。求めた全ては、あれの隣に立っているというに、なぁ?」

「いいや、全てでは無い」

 寒気が止まぬのだろう。脚を、肩を震わせながら、桜は立ち上がった。
 弱弱しい目ではあったが、火は消えず。いや寧ろ、一度崩れる前よりも、内なる炎は強く燃え盛っている。

「あの中に、村雨はいない。大陸で出会った者達も、東海道で通り過ぎた者達も、洛中で擦れ違った者もいない! 例えあの様に生きられるとして――それは、世界を知らぬ生でしかない」

 長い生では無い。だが、見てきたものが違い過ぎる。
 きっと沙華は江戸で育ち、江戸で生涯を終えるのだろう。旅に出たとしても、沙華は一つ、帰る場所が有る。
 桜は流れて生きて来た。大陸から日の本へ渡り、江戸に滞在はしたが、洛中へ向かい、何の因果か今は奥州。やがて大陸へ戻るかも知れない。或いは四国、九州から琉球へ渡り、そのまま南の島国へ向かうやも知れない。
 沙華も、そう出来る筈だ。だが、そうしたいとは思わないだろう。彼女の世界とは大江戸の八百八町であり、それで満ち足りているのだから。
 満ち足りぬから、流れた。一つ、心を満たすものが見つかったとて、流れの本性はもはや変わらない。桜はきっとこれからも、留まらず生き続けるのだろうし――

「元より、何百と引き連れて生きるなど性に合わん。私の隣には、たった一人がいれば良い!」

 ――愛した女以外の誰にも、身と心を尽くすつもりなど無いのだ。
 地が爆ぜ、砂埃が巻き上がる。陣風を払って桜は馳せ、人の群れを脱し、手近の屋根に飛び乗った。
 成程こうして見下ろせば、数百の威容は恐るべし。あれが全て自分の敵で、自分と同じ顔の女に心酔していると思うと、心安らかには居られない。
 だが、その群の中に存在しない顔を、桜は幾つも思い出せた。そして何時しかその顔は――

「グゥゥゥウウウウウオオオオオオォッッ!!」

 雄叫びと共に並んでいた。
 獅子が、熊が、虎が。鷹が、蛇が、蜘蛛が――クズリが、人の姿を為している。亜人の群れが桜を取り巻き、群を為していた。
 〝人〟の群れに動揺が伝播する。嫌悪感と恐怖と入り混じったどよめき――その理由を、桜は知っている。先祖より伝えられた、亜人を蔑み恐れる感情が、彼等を脅かしているのだと。

「よう、息災か?」

 多種多様の鳴き声が、無病を答えた。桜は笑って、近くに立つ毛むくじゃらの肩を叩いた。
 眼下の数百を威嚇する、数十の獣人達。我が事ながら他人事の様に見つつ、桜はふと、考えた。

「お前達だけではあるまい……っはは」

 亜人ばかりを選んで、交友を広げてきたのではない。だのに殊更、彼等ばかりが――不条理の夢とはいえ――立ち並ぶのか。
 きっと彼等は、〝桜〟と交友を結ぶ事は出来ても、〝沙華〟と相容れない生き物なのだ。

「如何にも、左様左様。善良な娘は親を疑わぬ。先祖伝来継がれた言葉を、あれは終ぞ疑わなんだ。故に龍堂 沙華は善人でありながら、日の本の保守的な者どもの様に、亜人とは害獣であるとみなしておる。
 あれの価値観では、それこそが正しい。人間の女を攫い、家畜を襲い、或いは夜道に旅人を喰らう、これを憎まずに居れようか」

「全くだ、酷い話だな」

 桜は一度、八重に同意した。確かにそういう事は昔から有ったのだし、今もきっと、何処かで続いている事だろう。

「だが、それが全てではない」

「しかぁり。なれど人の目は二つ、見えぬ物は見えぬ。あれの世界の全ての亜人は、そういう生き物であるからこそ、人の領域より追い払わねばならぬ――殺さぬのは、けだものにも慈悲を向けるのじゃろ、ほほ」

 知る事は容易いか? 否、ただ一所に留まる者に、多くを知る事は出来ない。龍堂 沙華は正しい人間だ。だが、その正しさとは、古来よりの慣習から作られたものであり、儒家の書物に記されたものであった。
 だから、誰もが沙華の横に立つこの夢でも、桜の隣に立つ者が居たのだ。例えば、亜人。例えば、正しく生きられぬ者――盗人や博徒、花魁、夜鷹。生業として人を殺める者。人を殺めるに後悔なく、ただ我道を貫く者。
 何時しか出来上がっていた人垣は、いかがわしさと物騒な気配に満ちて、とても穏やかなものではない。善良な民衆の数百と向かい合うには、太陽が眩し過ぎて、目もろくに開けられぬだろうに。

「貴女はやはり、苛烈でした。今の姿も、そう在ったかも知れない姿も」

「そうか? まだ私には自覚が持てんのだ。未だにな」

 聞き覚えのある声がした。顔を見ずとも誰かは分かる。振り向かずに答えた。

「ええ、とても。ですが苛烈であったとしても、その火は私を焼かなかった。きっと彼女の善良さでは、私は何時か焼け死んでいたでしょう。貴女が貴女であった事、私は感謝しています」

 振り向いた所で、そこには誰の姿も無い筈だ。風の流れを留める、不可視の人体――見ぬまま、頭を撫でてやる。

「十分だ、行こう」

 桜は屋根を下り、ただ真っ直ぐに歩いた。数百の人垣は、預言者の奇跡が如く二つに割れ、同じ顔の女の元へ、一本の道を為す。
 高々と掲げられる『斬城黒鴉』――殺すと決めたその時だけは、奇しくも桜と沙華の構えは同一。得物の重量に己の腕力を合わせ、最大の効力で敵の頭蓋に叩き込む、大上段の構え。
 桜は刀も抜かず近づいていく。一歩、また一歩、間合いは狭まり、空気は張りつめていく。
 周囲の誰もが、息を殺して見守った。接触の瞬間にどちらかが死ぬのだろうと、固唾を呑んで目を見開いた。たった一人、当事者たる桜だけが数間の道程を、楽しげに歩いて行くのだ。

「っ、しぃいいいいっ!!」

 振り下ろされる大太刀。初動、切っ先が一寸動いた時点で、風が斬られて悲鳴を上げた。横ではなく縦に人体を両断せんばかりの一刀――桜はそれを、右手で容易く掴み取った。刃の腹に指を当てて受け止める白刃取り――片手でなされるべき技では無い筈だった。
 振り下ろされる大太刀。初動、切っ先が一寸動いた時点で、
 そして、風鳴りも止まぬ間に振るわれた左拳。もはや妨げるものは何も無く、それは過たず、沙華の右肩を殴り砕いた。
 力が抜け、腕が落ちる。大太刀の柄から指が離れ、愕然と膝を着く、有り得たかも知れぬ己の姿。桜は微塵の興味も見せず背を向けて、

「無いものねだりも僻みも、もう終いだ」

 後方に待つ、雑多な人間やら人間以外の群れと、同じ高さに立とうと跳躍する。屋根の瓦を踏みつけた時、視界がぼうと霞み始めた。
 ああ、そういえば夢だった。今更に思い出して、桜はくすりと笑う。気付かぬ内に右目だけ、零した涙も乾いていた。








 再び目覚めた時、桜はまだ、山小屋の中に居た。
 外は暗く、夢に落ちてより些かも、時間は過ぎていないように思える。
 桜は、自分が両の足で立っている事に、まず奇妙を覚えた。

「気分は、どうじゃ」

「肌寒い。人肌恋しくなるな」

 床に広がった筈の血が、無い。胸に触れてみれば、刀はおろか、突き刺された傷跡も無いのだ。
 右手には刀――の、刀身。首に向けて振るわれた刃を、桜は意識の無いままに掴み取り、圧し折っていたらしかった。

「……ふむ」

 砕けた刃を投げ捨て、両手を虚空に向け、手刀を振るう。ひょうと鋭い音を上げ、五指がそれぞれに風を斬った。
 その背に、八重が石を投げつける。二間と開かぬ距離からの投石は、振り向き様の蹴上げに弾かれて天井に当たり――

「はっ!」

 吐気、一閃。脇差『灰狼』による居合は、その石を全く二分し、吹き飛ばさずに落とした。
 体に痛みは無い。四肢の動きに淀みは無い。こう動きたいと考えた事を、過不足無く実現出来る。桜は己の完治を悟り――ただ一点の違和に、右目の瞼を引っ掻いた。

「これは、どうにもならんのか」

「ならぬ。死人は帰らぬ、時は戻らぬ。此方が為すは奇跡に有らず、たかだ
か解呪が手一杯よ。不足かえ?」

「いいや。然しお前が虚言癖持ちだとはよーく分かった」

 からからと笑いながら、桜は床に胡坐を掻いて、夢の中の出来事を揶揄する。改めて思えばおかしな事であるが、この時の桜は、それを不思議とは思えずに居た。
 死人は帰らない。過ぎた時は戻らない。それを、誰が疑うだろうか。
 いいや、疑いもしない。人に限らず獣、鳥、虫に至るまで、それが理であろう。

「で、私があそこで応と言えば、どうなった?」

「さてのう。その時の事は、その時にならねば分からぬわ。然し確実に言える事は――」

 八重は、桜の正面に回り、同じ様に床に座る。両脚をそろえて横に流した座り方に、何処の姫君の真似事かと、桜はからかいの言葉を向けたくもなった。

「虫とて、死ねばそれっきり。無数に湧くものと思う勿れ、あれも親が有り子が有るものじゃ。体躯の大小で命に貴賤を記すとは、余程の傲慢とは思えぬかの?
 さりとて、だからと虫も殺さず生きるのは、それはそれで命の有り方として不自然よ。何も殺さず生きるなど、それもまた、己を全能と見る傲慢に過ぎぬ」

「ならばどうする。殺せば良いのか、殺さねば良いのか」

「その問いが既に過ちと、もう分かっておろう?」

 うむ、と桜は深く頷いた。三尺の黒髪が肩を過ぎ、胡坐を組んだ足の上に広がる。

「ただ、生きれば良い。私は私だ、今更どうにもならぬ。ならぬなら、何も変えはせぬ。
 結局の所、無理に殺そうとする事も無ければ、殺すまいと肩肘張る事も無い。誰かを羨むのも無益、益体無い思いに耽るならば、酒でも飲んであれを抱いている方が良い。
 思うが侭に酒色に溺れ、美食を喰らって方々を巡り――そんな私で良いのだろう」

 人は、心持ちで強くも成り、また弱くも成る。雪月桜はきっと、江戸よりの旅で――弱くなったのだ。
 良い恰好を見せたいと、不殺を己に課しての、慣れぬ戦い方。そんな技術的な点では決して無く、殺すまいと――或いは殺そうと、そう考える事が、既にこの女〝らしからぬ〟事だった。
 殺したくないと思ったのなら、その時はそうすれば良い。殺す必要があるというなら、思う様に殺せば良い。それが出来ると知った上で、殊更に決めて掛かる事も無い。
 事態がどう転がろうとも、いずれかを選ぶだけの力は有る。誰にはばかる事無く、我意を貫く力――生物としての強さを誇っている。
 それが、雪月桜だ。〝過去にそうだった〟女であり――今また己の在り方に〝立ち返った〟女だった。

「良い、良いのぅ。そなたはやはり獣に近い、故に獣に惹かれるのじゃろ。そなたはもはや、そなた以外の何者でも無い。存分に意思を張り通せい!」

 八重が、珍しく音声おんじょうを張り上げた。頬へ向けて振り抜かれた手は、あっさりと桜に受け止められ、

「……なんじゃ。そこは大人しく打たれておくべきではないかの?」

「いや、反射的に」

 少しふてくされた様な顔で、八重は床に横になる。頭を桜の足に乗せ、自分の袖を掛けもの代わりにした。

「ん?」

「夜、ぞ。人は夜は寝るものじゃ。早う寝い、明日は村に下りる。……やれ、此方は何時もは昼まで寝ているというになぁ」

「夜の山は、お前の領域では無いのか?」

 かか、と短く刻んだ笑い声。八重は扇の骨で、桜の額を打ち、

「山は山。鳥獣の巣以外の、何かが有るか?」

「いいや、無いな」

 それから直ぐに、すうすうと寝息を立て始める。寝つきの良さにあきれつつ、桜も気付いてみれば、胡坐の姿勢のままで眠りこけていた。








 日も高くなって、青前あおのまえ村は、普段の静けさも何処へやらと喧しかった。
 あちらこちらで男衆が顔を突き合わせ、喧々諤々議論を交わしている。女達はそれを、呆れたような小馬鹿にしたような目で見ながら通り過ぎるのだ。
 議論に耳を傾けてみれば――昨夜、無事に山を下りた者達を、老人が非難しているらしい。
 曰く、夜の山を歩いたからこうなった。冬の山に、しかも夜に、村の外の女を、山に踏み入らせた、それも許されない事だ。これからこの村に災いが訪れるだろう――老人達の主張は、こんな所であった。

「だから長老様、今回はどうしようも無かったんだって、な?」

「いいや、なんぼ理由を並べても、なんねえものはなんねえ。おめは村長むらおさだ、それがこったらごと……」

 村長の晟雄が、老人達を宥めようとしているが、老境の頑固は耳を貸さない。長老と呼ばれた髭の翁を先頭に、数人の年寄り達が、こだまのように〝なんねえ〟と繰り返す。
 老人達が何を咎めているのか――それは、晟雄が何人かを連れて、再び狩りに出ようとしていたからだった。
 山に入る前後一週間に、村の外の女を見るのは不吉。この村の言い伝えの一つであり、老人達もまた、固くそれを信じている。ましてやつい昨日は、〝山の怒りを被って〟狩人の一人が死んだばかりなのだ。
 これ以上、若い衆を殺してはならない。老人達は飽く迄善意で、狩りに出ようとする彼等を引き留めていた。

「そんな事言ってもよぅ、冬はまだまだ長いんだぜ。穴無しがやせ細る前に仕留めちまわないと、春までろくに肉も食えなくなって」

「分がんねえな、こら! 七日先まで山に入るはなんねえ、でねぇば山ン主様が――」

 村長たる晟雄にしてみれば、山の怒りなどはつまらない迷信以外の何物でもない。自然は冷酷かも知れないが、決して残忍ではないのだ。
 それに、女にうつつを抜かして注意力が散漫になるような未熟者を、山に連れていくつもりは元より無い。老人達の懸念も、度を過ぎれば貧困しか生まないのだからと、晟雄は頭を悩ませていた。

「――此方が、何だと言う。妬み嫉むとでも言うかえ?」

 老人達の背後から、不機嫌そうな声がした。

「……なんじゃい、このちんまいのは」

「知らね、余所者が?」

 振り返ってみれば、雪の村には似つかわしくない常盤色の着物。足袋にわらじで雪上を歩き回る女を、余所の女かと訝ったのは、それ以外を思い描けぬ老人ならばである。
 だが、一人ばかり、青い顔をしていた。他ならぬ長老と呼ばれた老人は、女の姿を見て目を見開き、

「は、ははぁーっ!!」

 雪の上に膝を着き、顔を伏せる。晟雄はその様を、何とも言えぬ笑い方をしながら見下ろしていた。

「六十年前の紅顔の少年も、今は枯草の老人とはの。あの折りの無暗な反骨、決して正しいとは言えぬが、然し嫌いではなかった。今のそなたはどうか、大した思い違いをしておるのう……此方が、他の女に妬くとは」

 昨夜、山に居た者達もまた、晟雄を残して雪上に平伏す。その姿を見て漸く、他の老人達は、この女が誰なのかを悟った。
 山ン主――八竜権現、八重やえ。山の神は女だと言うが、成程確かに女の姿をしている。あまり威厳は感じられぬ顔立ちのこの女は、平伏する長老に歩み寄り――その頭を、足蹴にした。

「おぶっ……!」

「権蔵、この顔を見忘れたとは言うまいな。いいや、夢にまで見た顔じゃろうて。何せ六十年前の祭りの夜、そなたを男にしてやったはこの八竜権現なるぞ。
 月の無い夜とて、大松明が三つ、四つ……此方の顔が見えなんだと、そうぬかすかえ?」

「い、いや山ン主様、決してそんだた事は……!」

 雪には足跡も残さない癖に、八重のわらじは最長老――権蔵の後頭部をぐりぐりと踏み躙る。額が雪に埋まりながらも、権蔵は恐縮しきって悲鳴混ざりに言葉を返した。

「ならば、ようも言うたのう! 女が山に入れば山ン主が怒ると! 外の女に目をやれば、山ン主が嫉妬に狂うと! そなたはこの八竜権現を醜女しこめとぬかすかっ!」

「お、お許しを! 八重様、お許しくださいぃっ!」

 傍から見れば、奇妙な光景である。平伏す老人の頭を、若い女が激怒しながら踏みつけているのだ。音が軽い上に、老人の声が十分に強いのと、加えてこの女が山の神だとすれば、止めに入って良いものか、場に居合わせた者達は顔を見合わせて悩む。

「図体ばかり育ちよって、心根はまるで育っておらぬと見える! 見得ばかり膨れおって、胆は一物並に縮んだか!? 何とか答えてみぃ、鈍間豚の権蔵めが!」

「へへぇっ、申し訳ねえです、申し訳ねえです! おらぁ鈍間の豚で、目も霞んじまって駄目だぁす……!」

「……楽しそうだなぁ、二人とも。……おうし、皆行くぞ! 籠り損ねを取りに行く!」

 晟雄が、溜息を吐きながら言う。最長老がこうも大きな声で、誰かに詫びるなどは聞いた事が無い。
 が、生き生きとした声だった。だから、きっとそれで良いのだとも思った。止めようとはせず、妨げになるものも地に伏しているので、山へ登ろうと歩き始める。
 すると、すうと横に並ぶ者が居た。見れば、昨日己の命を救った客人、雪月桜だった。

「おんや、何処に行ってた?」

「山に。八重に足を枕にされてな、動くに動けず昼近くまで」

「ああ……癖が抜けてねぇなぁ」

 若き日を懐かしむように目を細めながら、晟雄は足を止めず、桜も歩調を合わせて歩く。

「で、何か用か?」

「狩りに出るのだろう、つれていけ。屋根と竈を借りる代金だ」

「んなもんは要らねえよ、あんたは命の恩人だ」

 遠慮の言葉を向けながら、然し晟雄が足を止めないのは、この女の答えを予想出来ているからだ。ほぼ初対面の相手だとて面構えを見れば、そして昨夜の顛末を考えれば、その気性は十分に推し量れる。

「いいから連れていけ、この地の狩りを知りたいのだ」

つつは貸すか?」

「要らん、手と刀がある」

「おうし、あんたは受手うけを任す。暫くは勢子ひごに任せてくれ」

 山と村を分かつ柵の前で、晟雄率いる狩人の群れは立ち止まり、深々と礼をする。桜もそれに習い、山へ向かって頭を下げた。

「何に祈っているのだ?」

「爺様方は、恵みを与える山ン主様と、俺達を食わせる獣達、その全てに祈るんだと言ってる。
 俺は、そうだな。特に何かに祈ってる訳じゃあないが、山ン主様に感謝はしている」

 背後を振り返り、また深く頭を下げる。これはきっと帰りを待つ、村の者への礼だろうと考えて、桜はこの行動の意を聞かなかった。
 頭を上げ、今一度、村の景色を目に刻もうとする。見れば視線の丁度先には――

「聞こえぬわ、短小不能の愚図がぁっ! 小汚い舌を突き出して鳴け、許しを乞えい! 数十年変わらぬ無能があっ!」

「ああっ、お許しくだせぇっ! も、もう止め、いや止めないで、おねげえしますぅっ!」

 何かに憑かれたように虐待を乞う権蔵と、その頭を踏み続ける八重の姿が有った。

「……あれに感謝をするのか?」

「いや、まあ、その……あれで良い人――良い神様なんだ、ほんと。趣味が悪いだけで」

 山を登る一行の背に、哀れな権蔵の悲鳴と、悦に入った八重の叱咤が。そして、その二者を必死に止めようとする、老人達の懇願が聞こえている。暫くは止まらぬだろうなと、桜はなんとなく思った。








 冬の山は、日中ならば見通しが良い。木々の葉が落ちて、視界を遮るものが無くなっているからだ。
 その上に、冬は音の通りが良い。遠くの物音まで聞き取れるので、山の獣を追うには最適の時期である。尤も、肝心の獣が少ないのも、また冬であったが。
 獣の足跡さえ見つかれば、それを追いかけていけば良い。昨夜より気温は低く、雪は少なく、天は味方に付いているのだ。
 然しながら山は広いし、人の視界は案外狭い。歩の速度を緩め、目の神経に力を注ぎ、一行は静かに山を行く。
 戯れの言葉は口にしない。初めて狩りに同行した桜も、常のように軽口を飛ばしはしない。これが山の流儀なのだろうと考えて、何を言われるでも無いが従った。
 静寂さも、山の中では心地良い。風の音やら小動物の動く音、それに自分の足音、呼吸音。一つ一つはただの雑音だが、重ねて聞いていれば、一つの音曲とも紛う響きに変わる。
 そして――その響きに色を添えるのが、狩りの獲物である。
 山で得物を追うのは、桜も初めてではない。が、この国で、この地では、初めての経験である。どれ程の大物が見つかるかと、内心はすっかり昂っていた。
 だからだろう。実際に足跡を見つけた時、桜は心の内で酷く落胆していた。
 勿論、本州に住まう月の輪熊が、巨体の持ち主で無い事は知っていた。だが、狩りの昂揚で忘れていたのだ。足跡を見るに、恐らくは五尺と少々――そう大きい個体でも無い。
 一行は足跡を追い、進む。小高い丘を過ぎ、まばらな木々の間を抜け、暫くは歩き続ける。
 獣の行動範囲は広い。肝心の姿は中々捉えられないが――先頭を行く晟雄が手を掲げると、追随する皆が、その場に伏せた。一瞬遅れて桜も、その様に習った。

「…………」

 無言のまま、ついと晟雄が指を向けたのは、数十間先の川の畔。果たして足跡の主は、そこで水を飲んでいた。
 好都合にも、熊が居たのは風上。音さえ殺せば、近づく障害は無い。
 晟雄が指を立て、くるくると回す。狩りの一行は桜を除いて十六人だったが、三人ずつの組が四つに分かれて散開する。その何れもが、位置関係は風下に保ちつつ、緩やかに熊を包囲する形を取っている。
 熊は堂々としていた。鬼赤毛の狒々が消えてより、この山に敵は居ないし――きっと鬼赤毛とて、肉に臭みのある熊よりも、きっと鹿や猪を喰らうだろう。己が命を狙われる事など無い――たった一つの例外を除いては――と、熟知しての尊大だった。
 流れに口を浸し、下顎で掬い上げ、喉の奥に落とす。悠々と喉を曝け出す様は、中々に美しいものと、桜にはそう見えた。

「……応!」

 景観の美は、晟雄の号令によって崩れ去る。熊は顔を上げ、確かに晟雄の姿を捉え、威嚇せんと立ち上がり――

「ホリャ、ホリャ、ホリャ、ホリャ、ホリャ!」

「ホリャウ、ホリャウ、ホリャウ、ホリャウ、ホリャウ!」

 突如沸いた十二の声が、抵抗の意思を噛み砕いた。
 十六人の内、勢子ひごを十二人も置いたやり口は、これも晟雄が従来の手法を変えて造ったもの。その狙いは、熊を狙った方向へ追いやる事だ。
 これが子連れの熊であれば、死にもの狂いで向かってくる。一つや二つの銃弾を受けたとて、その足は止まらぬだろう。だが、腹を減らした隠れ家も無い熊は――

「ゴッ、ゴホオッ!」

 唸りを上げて、熊は逃げ始める。十二の声は扇型に広がっており、熊が目指すのは声が聞こえない方向だ。
 だが――その方角こそ、晟雄達が熟知している狩場。急な上り坂と断崖のある、川の狭まった土地なのだ。

「ホウ、ホウ、ホウ!」

 晟雄も奇声を発しながら熊を追う。勢子程遠くまで行ってはいないが、森の中で熊の足には及ばない。みるみる内に引き離されて――狩りが算段通りに進む事に、してやったりと笑みを見せた。
 熊は、これ以上進めない――人間ならば進めない所まで追い詰められた。砂利と岩、そして川、身を隠す木々は遠い。となれば――?
 昇る。急な断崖を、カモシカばりの健脚で、だ。図体がでかく脚が短いとはいえ、野生の力は常に、余人の上を行く。
 とはいえ、これは狩人たちの予想までは超えらえなかった。どう、どうと四発、銃声が響いた。射出点は、熊が目指す断崖の上――先に回り込んでいたのだ。
 四つの弾丸を頭に撃ち込まれ、熊は瞬時に絶命。脚の力は抜け、断崖の下、沢に転落する。丁度そこへ晟雄が追い付き、一声高らかに、狩りの成功を皆へ告げた。

「どうだ、見事なもんだろう」

 沢に転落した熊を追い、勢子が全て追い付いた頃。晟雄は桜に、己の村のやり方を誇った。

「ああ、見事だ」

 偽らざる本心で、桜は称えた。一人一人の戦力は、月の輪熊一頭に遠く及ばない。然し各々が配置通りに動くだけで、もはや言語による意識の統一さえ無しに、誰一人傷付かず獲物を仕留めた。
 秩序立った狩りは、野生の獣にも似ている。それよりも数段上の統率振りは、山の順列を僅か数百も数えぬまでに崩し去った。
 桜は、余程興が乗ったらしい。背の大太刀の蝶番を開き、黒太刀を右手に。そして脇差を左手に引き抜くと――

「次は私の番だ。大陸の――ロシアの狩りを見せてやろう」

 ざあ、と木々を揺らして走って行く。忙しい事だと、晟雄が呆れて首を振った。







 桜は猛っていた。獣一頭を狩るだけの戯れが、こうも心躍る事だとは。
 思うに、競う事は誰も好むのだ。群れの狩りと、自分のやり口と、どちらが上か、桜は比べたがっている。
 一対一の戦いならば、まるで勝負にもならない相手だが――十六人の狩人の力の結集は、はて、どれ程の物かと。
 まずは獲物を探す。追うべき熊は何処に居るか。山は広く、闇雲に当たれば何時までも辿り着けない様に思えるが、雪原に育った桜である。
 雪を避ける為に獣が何処へ伏せ、何処を歩くかなど、直感で知っている。それこそ熟練の狩人と同じ様に――やがて足跡を見つけた。

「……浅いな、小柄な奴か……」

 熊の足跡である事は間違い無いが、雪上に残る痕跡の深さを見れば、若い個体である事は伺いしれた。
 手ごわい獲物とならないのは不満だが、桜には少しばかり期待が有った。歳を経ていない個体は、〝敵〟の恐ろしさを知らず、無謀な生き方をしている事がままある。
 即ち、隠れもせず、怯えもせず。出会う者全てを弱者と見下して、傲慢に。闊歩する生き物であったのなら。

「おお……いたか、来たか」

 出くわしても、直ぐには逃げないでくれるのだろうなとの期待は、果たしてこの日は叶った。
 立ち上がれば寧ろ桜より背は低いだろう程度の熊――日の本の、本州の熊など、こんなものである。
 とはいえ腕の一振りで、人間の頭蓋を歪ませる程度の力ならば有る。常人ならば正面に立つのは、死を意味する行為だ。

「ほれ、来い来い。快癒の祝いをしてくれんか」

 子供を呼びつける様な口振りで、桜は、この山の新たな支配者――きっと大猿去りし後は、この若熊はそう自負していただろう――を招く。人語を解する訳でも無かろうが、腹を立てた様に、若熊は二本の脚で立ち上がり、前足をこれ見よがしに振りかざした。
 振り回される右前足――爪は馬鹿げて鋭い。桜は爪では無く、熊の掌に肘を打ち込んで防いだ。
 若熊は掌の痛みに、ほんの僅かに怯む。だが、自分の力を疑った事の無い若熊である、すぐさま逆の腕を振るった。

「おお……これは、これは」

 頭を狙った熊の左手を、桜は右肘でまた打ち返す。感心した様な声は、これは若熊に捧げられたものではない。己の身が傷まぬ事が、随分と懐かしかったのだ。
 数度繰り返される攻防を、桜は鼻歌混じりにやり過ごす。本州の熊はか弱いなと、戯れに吐いた言葉を、さて誰が頷けるかと言えば――この日の本に、数人も居るのかどうか。
 遂に若熊も、己の思い違いを悟ったか、前足を振るうのを止め、一歩退いた。その頃には既に、掌は内出血で無残に腫れ上がっていた.
 獣の体重を支える前足が、である。

「なんだ、もう終わりか。では……」

 獣は己を大きく見せる為に構えるが、桜は基本的に、一定の構えを取らない。ただ、大太刀の切っ先を地面に引きずらない様に、軽く手首を曲げる程度のものである。
 それが――両手を、高らかに掲げた。
 す、と一歩進み出て、息を止める。渾身の力で握りしめられた柄は、主の剛力の再来に感動し、きしきしと鳴いた。
 真っ向から振り落とされる刃が、若熊の頭に沈み込み,
 背骨を唐竹割にして、尾?骨までを両断する。軽く振るって血を落とし、剣閃に送れる事、数拍。若熊の胴は間二つに分かれ、血で雪を染めた。

「……しまった。運びづらいな」

 持ち上げれば臓腑が零れる様な斬り方をしてしまった事、桜はここに来て漸く気付いた。
 他人の山だ、屍を無益に捨てるも行儀が悪いかと、運ぶ術をあれこれと思案して、思いつかぬ。

「止むを得ん、待つか」

 両断した屍を、生前の形をなぞる様に重ねて、近くの木を背凭れに寄り掛かった。
 山の木は、強い。獣の爪を受けてさえ揺るがぬ根を張っている。桜一人が体重を預けても、揺らぐ様子は見られない。だが、末端の枝は雪を背負って、頭を低く垂れている。
 それが少し、猫じゃらしを差出された様な気分になって、桜は黒太刀で、枝の先を斬った。
 一つ斬るとなんとなく、次へ。また次へ。動かず届く範囲の枝先を、あらかた落として、また手持無沙汰。自分から歩いて行くのも面白くなくて、腕を組んで目を閉じれば――

「おお、欲の浅い事よ。慎みを弁えたかえ?」

 頭上から、声がした。
 見上げずとも声質から、何が居るかは分かっていた。だから桜は、組んだ腕を解かず、目も開けずに答えた。

「私には無縁の言葉に聞こえるが、はて、な」

「慎み深いとも、手の届く所に満足しよる。……いいや、その割には長大な刃。本質的にはより遠くを、欲している様に思えるがのぅ」

 八重は樹上から雪の上に、足跡も残さず飛び降りた。紅葉の様な小さな手で、剥き出しの刃に直接触れ、熊の血を指で拭い取る。
 長大な刀身に、強く握り込む為の柄は二つ握り。合わせると八重の背に近づく長大な凶器に、か細い指は親しげに戯れて赤黒く染まる。幼げな顔に合わぬ年寄りめいた口振りが、桜にはやけに気に掛かった。

「言わんとする所は分からぬが、間合いが遠いならば、それに越した事もあるまい」

「左様左様。剣士ならば、そう願う事は何も間違っておらんとも。さりとてそなたの剣は……〝刃の届く所を〟斬るものであろう?」

「おう。手の届く範囲、斬れぬものは――まあ、一つくらいはあったが、殆ど無いぞ」

 問われた言葉は、まるで不思議が無い様に、桜には思えた。
 剣士と名乗るのもおこがましいが、剣を扱うものは、なべてそれが理想形であろうと。
 刀の刃の届く範囲、全て斬りたいものを斬り捨てるのが、剣術の果てなのだろうと、桜は認識していた。

「それこそ、欲が浅いのよ。手が届く範囲だけ斬れればよいなどと、欲深いそなたに似合わぬ言ではないかえ?」

「……なるほど」

 だから、それを真っ向から覆す言葉に、桜は妙に納得がいってしまった。
 確かに、手の届かない所まで斬れるのならば、そう出来る方が良い。だが――

「で、どうするのだ?」

 そも、出来るのならばやっている。そんな芸当を聞いた事も無いから、桜はそうしていないのだ。
 菓子や風車を前にする子供染みた目で、桜は八重に顔を寄せた。
 額がぶつかる程まで近づけば、血に汚れたままの手で押し返される。

「気が短いのぅ。ま、ま、見やれ」

 小さな手は、雪上に落ちた枝の一本を拾い上げると、両手で正眼に構える。
 然程の心得がある様には見受けられなかったが、すうと構えた刃の向こう、八重が見据えるのは、雪で下がった一本の枝。数間先にある木から、だらんと頭を垂れている。
 目を動かさぬまま、腕を掲げて、進み出ると共に振り下ろす。たったそれだけの簡単な挙動で――ぱしっ、と小さな音がした。

「……む?」

 風も無しに、枝が撓る。積もった雪が落ちるのを見て、桜は左目だけを大きく見開いた。明らかにその枝だけが、何らかの衝突音と共に打たれたのを見て取ったからだ。

「おい、なんだ今のは。見た事も無い芸当だぞ、おい」

 当然、数間の間合いを詰めた訳では無い。八重は刀を振るっただけで、遠方になんらかの効果を及ぼした。概念の外に有る技を目撃して、いよいよ桜の昂揚は、雪を溶かさんばかりに熱くなる。
 真似して黒太刀を振るってはみても、当然だが、同じ様にはならない。風斬り音がひゅうひゅうと鳴るばかりだ。

「魔術とやらが蔓延って後、狙うてやろうというものもおらなんだ、この技は。根幹は同じじゃがのぅ。
 似た技を探すなら、打の道の……〝遠当て〟か。あれはの、魔術なる技に、実はよう似たもので――」

 刀に見立てた木の枝を、今一度、八重は高くかざす。ゆったりと蠅が止まるような速度で振り下ろせば、再び数間先で雪が爆ぜるが、先程より規模は大人しいものだった。

「これ、この通り。剣速に鋭さこそ左右されるが、此方程に生きれば、刀の素人でも為せる業よ。
 単純に言うとの、刃に魔力を乗せ、遠くに飛ばす。攻性魔術とやらには侭見られるが、これに得物を介在させる術は――そうよの、この国ではまだ見た事が無いわえ」

「この国では?」

「五指龍の帝国では、稀にの。あの国の武の歴史は長い、魔術が学問となる前から、似たような技を見つけていた者もおる」

 ふむ、と頷いて、桜は己の黒太刀を眺める。これが届かぬ所まで斬撃が届くのならば、確かに大した革命だ。銃器に刀は取って代わられるだろうと認識している桜だが、戦場を逆に刀が埋めるとなれば、これは愉快な光景だろう。
 然し、八重の説明を聞いていれば、どうにも一つ疑問が生まれる。

「……私に、魔力などは欠片も無いのだが。つまり、出来ぬという事か?」

 桜は、俗に〝代償持ち〟などと呼ばれる種別の人間だった。
 魔力を僅かにも身に帯びず、だから魔術など、幼子程にも扱えない。そんな人間が、八重の言う様な芸当を、真似など出来よう筈も無いだろう。桜自身はそう思って、眉根を下げて残念がる。

「否。確かに、そなたには魔力が無いが、だからと出来ぬとは言い切れぬ。代用品は、それ、その目に眠っておるじゃろう?」

「目……これか?」

 桜の左目を指さす八重。言わんとする所は直ぐに知れて、桜は適当な木の枝に焦点を合わせた。
 ごうと立ち上がる炎の壁は、雪を瞬時に水に変え――そして、直ぐに消える。雪山で長く出しておくものでも無い、と思ったのだろう。
 こんなものが、先程の八重の技とどう関係あるのか。それが、桜には推測も出来なかったが――

「魔力を刃に乗せるも、〝干渉の結果〟を刃に乗せるも、大差はあるまい。試した事は無いのじゃろ?」

「……まあ、それはそうだな」

 確かに、試した事など無いのだ。どうせ然したる労力でも無いし、実際に八重の技は魅力的だ。真似できるものならばやってみたいと、桜はそう考えた。
 それでは早速とばかり、黒太刀を掲げようとした所、ざかざかと足音が聞こえてくる。人の気配と分かって、一度、桜は黒太刀を鞘に納めた。

「おう、やっと追い付いた。あんたは足が速すぎ……んなんだこりゃ」

「すまん、運ぶ事を考えていなかった。肉と骨は私が担ぐ、臓腑の使う部分だけ取れ」

 雪を掻き分け桜に追い付いた晟雄達は、両断された熊の屍を見て、呆れたような感心したような声を上げた。本来、獣はこうして仕留めるべき生き物では無いと知っているからである。
 一方で桜は、これが当然だと信じているが為に平然と構えていて、なんとも対照的な光景が展開されていた。
 一先ず、無為に凍らせておくのも惜しいと、後続の者達がどうにか、皮袋に内臓を取り分けていく。その様を八重は、何時の間にか樹上に登って眺めていたが――

「これ、村長むらおさ。十日の後、夜、村の者を山に上げい」

「は? ……ありゃ、あんたか。何を言い出す……ん、いや、ひょっとすると?」

 ちょうど真下を通り抜けようとした晟雄を呼び止め、何事か伝えた。
 この短い言葉だけで、晟雄には真意が伝わったものだろう。皺の刻まれた顔が、にいと口を裂いて笑う。

「如何にも。〝祭り〟を開くぞ、十日の後に。月の無い夜は篝火が映えようとも、ああ好ましや、好ましや」

 何処から取り出したものか、扇でぱたぱたと雪を仰いで、八重もまたころころと笑う。
 一方で、晟雄の後に付き従ってきた他の者達は、歳若の幾人かを除いては、期待も不安も入り混じった奇妙な表情で顔を見合わせる。
 余所者の桜としては、彼等の感情の理由は分からなかったが――言葉の響きの心地良さに、同じく昂揚は見せる。

「祭りか、良いな。然し遠い、それまでに私は」

 然しながら、桜にこれ以上、この地に留まる理由も無かった。
 一宿一飯の恩を狩りで返せば、後は再び京に舞い戻るのみ。そう考えていた桜の言葉を、八重が半ばで遮る。

「留まれ、人よ。呪いは一つに非ず。もう一つの呪いは、そなたを蝕むものではないが……この侭にするならば、そなたは再び死の淵に立つであろう」

「随分と断定する。確証が有るのか?」

「無論よ。古老の蛇の悪辣な呪が、そなたの刃に纏わりついておるわえ。此方を信じよ」

「……?」

 まるで分かり易さを感じない言ではあるが、桜は頷くより他に無かった。
 十日、たったそれだけならば。この地に留まり、身を休ませて、それから立ち返っても遅くは無いのだろう、と。
 それに――祭りとやらも、含みのある言い回しも気にはなるが。

「信じてみても、損は無い、か」

 今一度、黒太刀を振る。視線の先の枝は動かない。
 八重の言葉を思い出して虚空を睨む――立ち上がる炎の壁。其処へ、斬撃を通す。
 過去にも幾度か、己が生んだ炎の壁を貫く事は有った。その時の様に、壊すばかりでは無く――飽く迄心がけるだけではあるが、刃に乗せ、遠くまで届ける様に。
 所詮は思い描く虚像の形なれど、そう念じて横へ刃を振るえば――

「……ほう、成程」

 遠くの枝が、雪を溶かした。
 雨水の如く滴り落ちた水が、枝の直下の雪をも濡らす。その様を確かに見届けた桜は、内臓を抜かれた若熊の躰を両肩に担ぎ上げ、

「いやはや、信じてみるのも良いものだ。なあ、八重とやら」

「此方をなんと心得る。此が山の神ぞ、人よ」

 桜は山を降りる間、再び此処へ登る事ばかりを考えていた。
 いっぱしの技を身に着けるというのは、幾つになっても心が躍る事であると、指が疼いてならぬのだ。
 片や、山の主は母親面をして、獲物を祝う狩人達が、村へ知らせを届けるのを見守る。
 〝祭り〟は十日の後、新月の、きっと寒風荒ぶ夜となるのだろう。








 祭事なるものの性質が、賑やかしの一点に終始せぬというのは、誰も異論を差し挟まぬ所であろう。
 生きる事に強く根付いた、土着神との、あるいは動物神との、祖先神との交信。端的に表すなら、宗教行事である。
 この日の本、神などは米粒から厠まで、それこそ八百万も居る訳であるから、寧ろ彼等彼女等を意識する機会は少ない。だからこそ、特別な日を設ける事で、空気の如く纏わりつく神々に、目を向けようという訳である。

「然し、静かなものよなぁ」

「江戸や京と比べられたら、そりゃな。俺ん村さぁ、小せえもの」

 八重が祭りを開くと、そう告げて数日。
 村の中央には、少しばかり開けた広場がある。そこへ桜と晟雄は、櫓を組む為の材料を運んでいた。本来ならばこの作業、数人がかりでえっちらおっちら数往復もするのだが、桜は一人で材木の大半を担いでしまう為、晟雄は釘やら縄やらを運ぶに留まる。
 そうして運んだ先には、届けられた木を組み合わせ、雪と土を掘って作った穴に立てる者が居る。若い男は、江戸風にねじり鉢巻きをしていたが、桜が運ぶ材木の数を見ると、土と煤に汚れた瞼をひんむいて仰天してみせた。

「で、祭りとは言うが……まさか、飴売りを呼ぶ訳でもなかろう?」

「だから、ここは江戸じゃねえんだって。櫓だって一間も無い、ちょっと登って見下ろすだけでな。
 やるのは結局、酒盛りと夜更かしみたいなもんで……馬鹿騒ぎだな、要は」

「風情が無い事だ」

 木材を渡してしまった後、とくに急ぎでやる事も無い桜は、櫓が組み上がる様子を眺めていた。
 冬のさなか、雪の中に在りながら大粒の汗を流し働く若者――然し、その表情は強く輝いている。
 突然に飛び込んだ余計な仕事を、全身で歓迎している様に、動きもまたきびきびとしたもの。眺める桜は、祭りなるものの予感を心地良く味わっていた。

「馬鹿騒ぎ、悪くねえぞ? 飲んで騒いで疲れて寝る、楽しいじゃねえか」

「まあ、なぁ。酒を注ぐ女が居るなら全く同感だが」

「注ぐ? いやいや、樽から柄杓でがぶ飲み。ちまちまして面白いか?」

「尚更風情が無いなぁ、良い事だ。酒飲みはそうでなくては……で、それだけか?」

 ただの酒宴で無いだろう事は、祭りの到来を告げた八重の、存在の奇妙からもうかがい知れる。当然の様に晟雄は、深々と頷いて言葉を続けた。

「とんでもない。この祭りは〝俺達〟と〝お山〟が溶けあう為のもんだ。生まれた子供が何もせんで、人間の大人になれるもんかい」

「図体がでかくなれば大人、では無いと? 成人の儀式というのも珍しいが、それなら毎年やりそうなものだな」

「どっちかというと、村単位だからなぁ」

 個々人の成人よりも、全体が〝神〟と約定を取り交わす、いわば契約行為の色合いが強い祭祀――成程と、桜は晟雄の動作を真似たかの様に頷く。
 成程、確かに村の全体が、山から戻って見れば激しい熱気を帯びている。これは誰か一人の祝福ではなく、青前あおのまえ全てへの恩恵なのだ。
 しかして晟雄の口振りを聞くと、どうも成人の儀の色合いも有る様で、桜は分からなくなり首を傾げ――

「……あの神様、無精でな」

「ああ、納得した」

 ――単純な理由に、嘆息した。
 人間の側からすれば、数年や十数年は広い間隔だろうが、人ならぬ身にはきっと一瞬。頻繁に降りて来ないと、それだけの事なのだろうと。
 そう思えば、村が沸き立つのも無理は無い。薄情では無いが放任主義の神が、人の村まで降りて来ようというのだから。

「で、酒宴には私も加わって良いのか?」

「勿論よ、酒は大勢で飲むのが良い。……雪の上が、寒くなけりゃあな」

「雪など。大陸の雪は此処よりも重くて深いぞ……と、待て。雪の上? ……雪の上で酒宴?」

 はて、それは如何なる光景かと思い描く。雪の上に御座を引いて胡坐、樽の酒に獣の肉――原始的だ。諸外国から贅を尽くした椅子やら机やら輸入されているこのご時世、江戸の町とて魚油の灯りばかりではなくなっているというに、此処では松明の灯り。壁も屋根も無い所で宴とは、いっそさかしまに回って、風情が有る様にさえ思い始めた。
 兎角、祭りの用意は進められる。力仕事もそう残ってはおらず、桜は時間を持て余した――と、雪をざくりと掻き分けてやってくるものが居る。さきとさとの姉妹であった。

「あ、見つけた……」

「ちょっと、あんた! 朝から何処に出かけてたのよ!」

「お前達、何時も騒がしいのだな……いや、さとだけか」

 妹の後ろに隠れるように立つ姉、あまり背丈の変わらぬ二人。歳の割に小柄な姉妹が何をしているのかと言うと――何を、する事も無いのだ。
 冬であるから、農作業も無し。雪掻きは桜が一人で、十数人分も働いてしまうから、やる事が無し。家の手伝いをしようにも、屋内でちまちまと縄を綯う程度であれば、忽ちに終ってしまう訳で――やる事が無いから、遊びに出ていた。

「何処にと言ってもなぁ、山に登って降りて、それだけだ。遠出した訳でも――」

「あー、やっぱりずるい! 私達はお山に入っちゃ駄目なのにー!」

「うー……ずるいー……」

 この数日ですっかり桜に懐いた二人は、纏わりつきながらもぎゃいぎゃいと喚く。頭を適当に撫でてやりながら、桜は晟雄の方に首だけ向けた。

「こいつらにも、飲ませるのか? ……すぐに潰れそうな感しかないが……」

「さとには少しな。さきには、別な用事が出来る――おおぅ、そういえば言ってねがった! 悪い!」

 十二の娘にも酒を飲ませる、これもまた原始的な風習だと思いながら、一つばかり聞き逃せない言葉が有った。
 桜とさとはほぼ同時に、名指しされたさきに目を向ける。いきなり四つの目が集まって、気弱なさきは明らかに動転した表情を見せた。

「え、と……用事?」

「おう! 十三から十九までの若いもんだけだがな、祭りの夜に。お前達が生まれてからは初めての祭りだが……ん、なあに、そんな難しい事は無え。さとは……何時になるかな」

 父と娘――姉は、父親がしゃがむ事で、視線の高さを合わせた。
 力強さ、逞しさが先立つ父だったが、こうして正面から目を合わせると、寧ろさきは穏やかさを感じていた。安堵を生む目だ。
 だからこそ逆説的に、安堵を呼ばねばならぬ事でもあるのかと――少しばかり後ろ向きなさきは、疑ってしまう。

「大丈夫、なんだよね……お父さん……?」

「なーにが怖いか、なんも怖くねぇ。祭りの前の夜に教えてやっから、暫くは遊んでろ。な?」

 含みある顔で笑う父親は、子供にして見れば信用して良いものか迷う所であろうが、ごつごつした指に頭を撫でられれば、引っ込み思案のさきも、表情を和らげる。
 櫓は既に組み上がり、注連縄やらの飾りを重ね始めている。祭りの気配は少しずつ、青前の村に忍び寄っていた。

「……うー、いっつも私はのけものなんだから……さきばっかりずーるーいー!」

「おい、こら、あまり強く引っ張るな。後な、変に痕が残るから編むのは程々に……」

 ちなみにだがその間にさとは、腰の辺りまで垂れ下がる桜の髪を掴み、毛先だけでも三つ編みにして遊んでいた。一応は恩人の様なものであるからして、桜も強くは出られないのである。
 とりあえず視界に収まる様に――あまり大量に結われても困ると――さとを視界の右に入れて、桜は適当な大石に腰掛ける。そうしてから、村の景色を眺めた。
 江戸の町も京の街も、人は雲より速く走っていた。この村では雲が、視界の中で最も速く動く。欠伸一つ上げてみると、その音が少しばかりくわんと響いて、雪に浸みこんで消えて行く。
 雪玉を作って、手の上で転がした。柔らかい雪だ。強く握り込めば、氷の様に固くなる。歯を当てて噛み砕き、口の中で溶かしてみると、舌が冷たいと文句を言って、感覚を失った。
 この雪が、この土地を生んだのだと、桜は何故だろうか、はっきりと理解した。
 長く冷たい冬の間、雪に覆われて太陽を待ち焦がれる土は、村人達の心根に良く似ている。諦めではない、そうある形を受け入れて、そのままに生きていく、当たり前の生き方に。高い所ばかり、或いは忙しい所ばかり、常ならぬ生き物ばかりに目を奪われて生きてきた桜だが、こうして地に足を着けて見ればなんとまあ、平凡な人間の面白い事か。感嘆しながら、雪玉を喰らって飲み干した。

「おい、さと」

「何よ。……あっ、動かないでよ! 結べないじゃない!」

 濡れた掌を袴で拭きながら、桜は傍らに立つさとの方へと顔を向けた。髪が逃げて行き不満顔のさとを、桜は苦笑いしながらも、肩に手を置いて窘める。

「そろそろ飽きてくれんか? ……ではなくてだな、思ったのだ。お前、村の外へ出た事は?」

「外? ……なんで?」

 問いの意味を図りかねたか――そも、そう問う理由が分からなかったのか。兎角、さとは桜の望み通りに手を止めて、ぽうっと呆けた様な顔を見せた。

「お前もいつかは、大人になるぞ。真っ当な生き方をするなら、旦那を得て、子供を産んで、老いて死ぬ。この村で旦那を得て、この村で死ぬつもりなのか?」

 実際の所、何故にその様な事を尋ねたのか、桜自身が理解していなかった。ただ、気になっただけだ。
 こんな問いを、十二の少女にぶつけてしまった事に、己の軽薄を笑えば――さとが、髪を一束掴んでくいと引っ張った。

「……分かんないわよ。でも、多分……そう、なんじゃないの? だって、お母さんもそうだもん」

 きっと彼女の母親も、その様に生きてきた。だからその様に死ぬのだろう。十二年生きて来て、薄々と気付いていた事なのだろう。淀み無くとは言えないが、思い悩む様子も無く、さとは答えた。

「この村は好きか?」

「当たり前よ!」

 こんな問いも、あまり投げかけた記憶は無い。住む土地を嫌いだと、断言する者が寧ろ珍しいのだから。
 それにしても力強い肯定、愉快と思わずにはいられずに――

「ほう、何故だ?」

「えっ?」

 ――冗談めかして、理由など聞いてみる。そうすればさとは、狼狽を明確に表に出した。
 必死で答えを探そうとしているのは伺えるが、自分の土地が好きだなどという理由を、明文化して考える事などそうはあるまい。ましてや他の土地を知らぬ少女の事、他と比較する事も出来ないのだから。
 かと言って、一度出した答えを引っ込める事も出来ず、うんうんと唸りながら、さとは何か言葉を探す。、

「ああ、すまんすまん、質問が悪かったな」

「ひゃ、わわ、ちょ、高っ、止めなさいよっ!?」

 それがあんまり面白かったか、はたまた愛らしいと感じたか。桜は、さとを抱きかかえてぐいと持ち上げた。赤ん坊のころならば兎も角、十二にもなって抱き上げられる事などまず無かろう。じたばた手を振り回して、降ろせと喚いてみても、寧ろ桜はさとを高く掲げるばかりだった。

「母親の真似事かえ?」

「まさか、無い物強請りはもうせんわ。……退屈なのか?」

「祭りの日まではのぅ、寝てばかりいると夜を寝過ごすし」

 背後からの声――気配は薄いが、誰とは分かる。怠惰な山の神はどういう芸当か、ふわふわと浮かんで、抱え上げられたさとと目の高さを合わせていた。

「あまり幼子をからかうものではないぞ。酷い大人よ、のぅ、さと?」

「誰が幼子よ! ……って、あんた、あれ」

「此方は山の主ぞ、見知り置けい。……先の夜にも逢うたばかりと思うたがの」

 自分の頭越しに会話が飛び交うのも居心地が悪かったか、桜は右腕だけでさとを抱え、左手では浮かぶ八重を捕まえ、これも腕に抱えた。

「両手に花だな、うむ」

「片方は未だに咲かぬ花よ、蕾のうちに摘み取るつもりかえ? ……と、戯れ事ばかり吐くつもりは無いんじゃがの。
 白昼より降りて出でたは、祭りの次第の……そうじゃの、〝太刀役〟を選ぶ為よ」

 八重の声は、決して大きくは無い。にも拘わらず、彼女が〝太刀役〟と口にした途端、近くを歩く男衆が、一斉に八重に視線を向けた。
 余程に心を浮つかせる話題であるらしく、村長の晟雄までが首をぐるりと向けてくる。何やら大ごとらしいと感づいて、桜は少しばかり顔を引き締めた。

「太刀役とは、それはなん――」

「山ン主様! 是非うちの息子に!」

 桜が問うより、それは速かった。駆け寄ってきた村人の一人が、雪の上である事も構わずに平伏する。桜が抱えている八重に跪く訳だから、つまり桜の目の前で雪に額を擦り付ける事になり――

「いや、うちのせがれに!」

「いんやいや、うちん息子さぁ銃はからっきしだども、刀はもう若ぇ衆でも――」

 ――そんなものが、三人、四人、ぞろぞろ集まってくる。これには流石の桜も困惑した。
 たじろいで一歩引き下がると、平伏したまま雪の上を這って近づいてくるのだから、寧ろ惑うを通り越して気味が悪い。二歩、三歩と後退した所で、今度は平伏こそしないながら、群に晟雄まで加わった。

「山ン主様よ、俺の息子はまだ未熟もんだが、根性は付いて来た。次の村長にしてやりたいのもある、ここはどうか……」

「頼みごとをする態度には見えぬぞ、人よ。それによう知っておろう、此方が懇願に耳を貸さぬとは」

「……そりゃそうだ。じゃあ、どうやって決める。あんた一人で決めちまうのか?」

 這い蹲る人の群と、ついでに困惑する桜を遥か眼下に置いて、八重はまたふわりと浮かび上がる。空気の流れはあるだろうに、髪も常盤色の着物もはためかず、切り抜かれた絵の様で――そのままに、広場の木の一本に立った。
 枝とは言うが、人の腕よりは撓まず強く、八重はそこに脚を流して腰掛け――髪紐を一本解いて、手近な枝に結びつけた。

「なれば。これを、切った者を〝太刀役〟としよう。上るも良し、刃を投げるも良し、好きにせい」

 さも、これが神事であるかの様に――いや、実際にそうなのだが、八重は不要におごそかに告げた。俄然沸き立つ村の男達、晟雄は一人で懐かしそうに目を細める。

「……またこれか。俺ん時は矢で落としたけどなぁ……うっし! おい連中! 若ぇ衆に伝えに行くぞぅ!」

 おう、と皆が叫んで応じると、蜘蛛の子を散らす様にばらばらと走り始める。ここ数日の滞在で見覚えた顔と地形を鑑みるに、それぞれが各々の家に走ったのだと、桜は気付いた。
 皆の表情に浮かぶ熱気と来たら、まさに雪を溶かさんばかりの強さで、理由は知らずとも共に浮かれたくなる程の――例えるなら、祭りのよう。

「そうか、もう始まっていたか……つまり、あれを斬れば良いのだな」

「そうなんじゃないの? って、ちょっと待った……まさか私抱えたまんまで木登りとかしないでしょうね!?」

 樹上の髪紐を見上げ、玩具を前にした男児の様な目の色をする桜に、さとは危険を感じて釘を刺す。
 だが、もはや遊興の矛先を見つけた桜に、尋常の制止では通じもしなかった。
 右手でさとを抱えたまま、左手で脇差をひょいと引き抜き。ひゅう、とたった一度だけ振るって――さとの頬を、熱風が撫でた。

「熱っ!? 何よ、いきなり何すんの――、って……?」

 ひら、ひら、と落ちてくる布きれ。手を伸ばして掴んださとは、それをじっと眺めて――先程、木にむすばれたばかりの髪紐の、飾り布だと気付く。
 樹上、高さにして一丈と五尺。刃は全く届かずに、然し髪紐を切り落としていた。

「ほれ見ろ、私が一番乗りだ! で、褒美は有るか?」

 髪紐の残骸を掴むさとを、見せびらかす様に揺すぶりながら、駆け戻ってくる村の男と、その息子達に見せつけた。
 ああ、と溜息が伝播していく中、晟雄は顔の半分で引き攣った笑いを、そしてもう半分では眉根を垂らして困り顔をしていた。

「……まあ、美酒と熊の手くらいはあるが……あんた、本当に型破りっちゅうかなんちゅうか……」

「ほうほう、それは楽しみだ。一番乗りの権限という訳か」

「いいや、それは違うぞ、人よ。……くく、数百年は聞かなんだ、このような事は。
 馳走を喰らうならば、相応の理由が有ろう。此方の横に並ぶおのこが、粗末な枯れ飯を喰らっていては、のう?」

 脇差を鞘に戻す桜の手を、木の上から降りた八重がそっと包む。

「〝太刀役〟はただ一夜なれど、この村の、山の神となる。故に、美酒美食を与えられる。
 つまり太刀役はの、一夜かぎり此方の夫となる役よ。……務めてみせい?」

 周囲から集まる視線が、やけに増えた気がする。きょろきょろと桜は周囲を見渡して、それからさとの手の中の髪紐を見て――

「……今から、木に結わえ直しては駄目か?」

「駄目じゃ」

「おおう……」

 考えずに動くものでは無いと、珍しく反省をした。
 そしてこの夜は、これは浮気になるものかと、おかしな事で頭を悩まし、日の出まで眠れず終いであった。








 あれよあれよと、日は進んだ。
 青前あおのまえの村は、本当に一日も、珍しい事が起こらない村だ。夜に雪が積もり、少し昼に融け、また夜に積もり直して。人が付けた足跡をそっくり消して、元の様に巻き戻してしまう。
 良く言えば、平穏な日常の続く村。悪く言えば、何も変わらない、停滞した姿。京や江戸と比べれば、時間の流れは何十分の一にも感じられるだろう。
 とは言え、この数日ばかり村人の心に刻まれた熱気は、この夜、最高潮になる筈で――

「……ううむ、静かだ」

「たーいーくーつー……なんで皆寝てんのよぅ!」

 ――日も高く上がった、日中。青前は村を挙げて眠っていた。
 さとがぎゃんぎゃんと喚いてはいるが、何故眠っているのかと問えば、その答えは一つしかない。よっぴて祭りを楽しむ為に、皆が仕事を放りだしているのだ。
 村の広場の大石の上、日光浴とばかりごろんと仰向けになっている桜は、ゆるゆると吹く風に、髪を一房遊ばせていた――残りの殆どは、さとの玩具に召し上げられている。
 冬の空気は透明で、不純物が際立つ。鼻腔を凍らせる冷気の中に混ざって、油の臭いが目立ったが、それは夜を待つ松明の香りであった。広場をぐるうりと取り囲む、幾本もの松明は、小さな林の様に突き立っている。
 その上に、ぽつんと止まる虫が居た。小さな、かなぶんに似た虫である。この季節では虫も慎ましいようで、己が居る事を詫びるかの様に、静かに、羽音も立てずに居た。

「お前も寝たらどうだ、折角の祭りなのだろう?」

「お祭りって言っても、どんなことするのか知らないしー……」

「ふーむ、そんなものか。余程怠け者の神なのだなぁ、江戸なら数か月ごとに祭り騒ぎだというのに」

 江戸と比べても仕方が無いかと、呟きと共に、遠くの樹木に目を向けた。ずっと高い所を飛ぶ鳥の群の、一羽が疲れを癒そうと降り立って枝を揺らす。はらりと枯葉の一枚が落ちて――何枚残っているか数えようと目を細めた所で、頭皮が髪にぐいと引っ張られて、桜はそちらに意識を向けた。

「……江戸って、そんなにお祭りばっかりなの?」

「大なる祭りは年に三度か四度。小さな物は月に一度か二度。特に夏は凄いぞ、花火が幾つも夜空を埋めて、路地に隠れた顔まで照らす」

「そんなに凄いの!?」

 小さな体を目一杯、感情を表すのに使って、さとは驚愕の色を出した。
 さとの脳裏には、夜中だというに日中程も明るくなった、江戸の町の幻想が映っているのだろう。まだ見ぬ土地への思慕は誰もが持つ――尤もさとの知識では、夢想する元の光景さえが無いのだが。
 江戸は広いと聞いてさえ、きっと思い描く光景は、三倍か、良くて五倍に広がったこの村で――本当に目にしたのなら、目を見開いて、瞼が下りなくなるに違いない。

「……連れて行ってやろうか?」

「えっ……?」

「江戸だ。やがて春が来て、花が咲く。夏の祭りを見て、それから戻ればいい」

 桜は、女が誰も、強く生きられるのではないと知っていた。
 たとえ村長むらおさの家に生まれ、奔放な性に育てられたとしても――夫を持ち、子を為せば、土地から離れるのは難しくなる。この村を愛し、この村に骨を埋めるつもりで居るにせよ、その生の一度として、外の世界を知らぬ生き方など――
 数十年の生の間に、たった数か月でも。知らぬ世界を見せてやりたいと、桜は思ったのだ。

「あの町なら、十の子供でも仕事を見つけられる。畑を耕すのに比べれば、掃除も洗濯も、さして大変な仕事ではあるまい……口利きくらいはしてやれるしな。
 ……そうだ、髪結い、髪切りの師匠でも探してみるか? いい女を知っているぞ、話は小粋で腕も良い」

「私が、江戸に……」

 それはさとに取って、思いもせぬ誘い文句で、否も応も、考えた事さえ無かった。自分はなんとなくここで育ち、ここで終わるのだろうと思っていた少女は、今日初めて、自分が異郷の地を踏む事を想った。
 髪を結って戯れる手が止まって――桜は、立ち上がって、さとを抱え上げた。雪に慣れたさとではあるが、なんとなくここ数日で、運べる時は桜が運ぶ様に、関係が定まっていた。

「世は広いぞ、江戸でさえ小さい。何処かでは死ぬなら、それまでに多くを見ておいて損は無かろう。なぁ?」

 穏やかな光を浴びながら、空を仰いで桜は言う。常の無表情に差す光は眩く、さとは目を細めて、桜の口元を見た。浅く描かれた弧が、きっと微笑みを示しているのだろうと分かる程度には、その顔を眺め続けた。








 そして、夜が来る。
 寒気は愈々強さを増して、村人は皆、蓑を二つも被っていた。
 ひょうひょうと甲高く鳴る風が、雪の粉を撒き散らして、藁蓑へ雪を白く積もらせる。笠を被っても、顔の横へ垂らした髪が、ぱきぱきと凍り付いて、体温で溶けて水を流した。兎角、寒い夜であった。
 だが、誰の顔にも苦しさは浮かばない。それどころか皆が皆、嬉々として外へ出て、村の広場に集まっていた。期待をたんと込めた笑みで、集まっていた。
 組み上げられた櫓――小さなものだが、その上に立ち、笛を鳴らす少年が一人。狩りに出ていた者達の中でも、最も年若い少年だった。
 まだ十四の未熟な狩人は、狩装束そのままに櫓の上に立っている。羚羊の革の上着、麻布の山袴。毛足袋に、はばきと、山を歩く為の姿に――手だけは、手袋をせずに居た。
 骨も育ちきらぬ体だが、丸みの消え始めた顔には既に、将来の偉丈夫の面影が映る。端正と言うのもまた違うが、見ていて気持ちの良くなる様な、粗削りの美男子であった。
 彼も晴れの場と浮かれているのか、音色まで浮足立っているが、元より完璧を求める祭りでも無い。いっそほほえましいものと、老人達は笑って音曲を楽しむ。
 櫓を挟んでは、二つの大太鼓が置かれていた。熊の毛皮で飾り立てられた太鼓は、寒風で皮をこわばらせているからか、常程に通る音は出ない。だが、寒風の中に汗を流す打ち手二人は、天候を覆す力でばちを振るい、太鼓を鳴らした。どん、どんと繰り返すそれは、心臓の音にも似て、村人の逸る気持ちを増々煽り立てた。
 村人は皆、思い思いの場所に座っていた。上座も下座も無い。櫓を取り囲み胡坐を掻いて、原始的な音に戯れ――そして、手に手に酒を飲む。
 若い女が幾人か、柄杓を持って、村人の間を歩き回った。酒を運び、柄杓が空になれば、座の端の樽まで戻り酌み直す。老いも若きも幼きも、此処では皆、濁り酒に舌鼓を打った。
 と、突然に風が吹く。幾人かの酔いが、顔色に現れた頃合いの事であった。

「おお」

「おお」

 さざめきが伝播する。風が運んだのは、人ならぬ身の女であった。
 雪の白、蓑の藁色を、たった一人塗り替えたは常盤の着物。枯れて落ちた褐色の枝を、折りもせず踏み締めて、彼女は歩いた。
 袖ははためかず、結わぬ髪も雪に濡れない。絵の中に、別な絵を貼り付けたかの様に、彼女は――八重は、雪景色から浮いていた。浮いていたのに、彼女の纏う緑は、そこに似つかわしいのだ。
 炎の橙は、命を焼く色だ。雪の白、影の黒は、既に死んでいる色である。八重の着物の緑は、いのちそのものの色合いをして、死人の黒の中に浮かんで、炎に照らされていた。
 雪に足跡も残さず、櫓の前に舞い出でる。手にした扇に触れる雪の粒は、全てが宙に在るまま制止して、小さな星の様に瞬く。夜空を地上まで引き下ろした様な眩さだった。それはまるで、夏の夜を飛ぶ蛍のようだった。
 通り過ぎた空間に雪を留めて、居並ぶ者達の周りを、八重は幾度も幾度も歩いて回った。常盤――不変の緑、不変の若さ。それを纏う八重もまた、幾百年を経て若く、然し慈母の如き顔をする女だった。
 やがて八重は、村人達の合間を歩きながら、一人一人の肩に手を置き始めた。雪の夜に在りながら、暖かい手であった。
 誰もが皆、母を想った。母が居る者も、既に失った者も、誰もがである。山とは、大地とは母親なのだと、誰も言葉にしないまま、誰もが知った。

「たそ、かれぞ」

 八重は、問う。

「さよばいに」

 答える声が有った。
 広場の南口より、雪をざくりと踏みしめて、歩いてきた者がある。その、朗と遠くまで響く、強い声であった。
 緋紅の水干、白い直垂――白拍子を模した姿をしていた。古式ゆかしく烏帽子まで被って、顎の下で紐を結んでいた。白と赤の衣裳に、背を覆い隠す三尺の黒髪は、良く映えた。
 並の男より背は高く、また、己の姿を誇る様に背筋を伸ばしている。男装が似合う女であった。

「さよばいに われが来たれば さ夜は明け」

 詠うのは、雪月 桜だった。肩を揺らさず桜は進み出て、背負った鞘から黒太刀を引き抜く。刃渡り四尺の分厚い刃は、夜闇に紛れて尚、鋼の光沢を以て健在を示す。青前の村人が知らぬ、人を斬る為の凶器の光であった。
 虚空を切り裂いて、桜は舞った。真っ直ぐな太刀筋を、目に映るよう、一つ毎に留めて。静から始まり、さあと動いて、また止まる。伏せながら斬り上げた切っ先は、高く天頂までを貫かんばかりであった。
 老人達は、この舞いを知っている。青前に伝統の、〝山ン主〟へ捧げる舞いである。神刀を横へ払い、縦に払い、地に伏せ、跳ね起きる、豪壮な舞いであった。
 然し、古より誰も、これを本当に舞えた者は居なかったのだろう――そう思わん程の〝粋〟が、そこに有った。
 〝ただ切っ先を素早く運ぶ〟ではないのだ。斬る――木かも、獣かも、或いは人かも知れない。兎角、斬る為に桜は刀を振るい、虚空を斬りながら舞った。
 八重が、それに戯れた。刃の下に伏せて、はたまた切っ先の僅かに届かぬ距離に立ち、峰に触れる。桜の肉体が描く円弧の内に、八重もまた身を置いて、重なる様に四肢をはためかせたのだ。
 それは、指の一本さえ触れ合わぬ〝まぐわい〟であった。襟一つ乱さぬ二人は、舞いを通じて肌も肉も、ともすればその奥にある魂のようなものまでを、村人達の前で重ねた。少年の笛が色香に当てられて、艶めいた音色を奏で始めた。
 陶酔が広がってゆく。酒精が生んだ昂りを淫祠が煽り、そして共同体は同化する。二人の舞手の何れかに、集団は己を重ねて、共に舞った。
 集団陶酔――その原因の一端に、酒に含まれた薬草の、酩酊効果が有る事は否めない。村全体が、神を降ろす巫女の様になって、がくがくと首を振り回していた。
 笛がきぃきぃと悲鳴のような音を上げ、太鼓はやたらに打ち鳴らされて、音曲がただの音と化した頃。八重と桜はそれぞれに舞を止め、三間を開けて向かい合った。

「この夜は明けぬ 入りて開かせ」

 桜は、黒太刀を振り降ろした。熱風が八重の頬を撫で――着物の帯が、真っ二つに斬り降ろされた。
 着物にも、その下の肌にも、一筋の傷さえ無い。桜はただの一歩も近づく事無く、八重の帯だけを斬ったのだ。
 そして、それが呼び水となる。男衆は己の子を抱え、女衆は子に言い聞かせ、ざんと立ち上がった。一部の――十三歳から十九歳の、若者達を残して。

「そうら、お山へ上がるぞぅ! 登れ! 登れ!」

 村長の晟雄が、松明を持って先導し、立ちあがった村人達は一列に並び、山へと登っていった。老いも若きも、男も女も――夜には立ち入るべからずと、女人禁制とされている山に。祭りの夜ならでは、であった。
 桜もまた、晟雄の直ぐ後ろに、八重と並んで山道を歩く。舞いに昂った体の、首筋に汗が伝っていた。








 それからは、ただの馬鹿騒ぎである。
 前日に男衆が用意してあった箇所まで赴いて、設置された鍋で雪を溶かし、湯を沸かして、熊やら鹿やら猪やらの肉を投げ込む。氷室に眠らせていた野菜も投げ込んで、米も別に焚いてからぶち込んだ。とにかく、喰えるものは何でも放り込んだ。
 鍋の巨大な事と言ったら、江戸の銭湯の風呂釜のようである。小さいとは言え、まがりなりにも一つの村だが、その大半に行きわたる量を作るからには、化け物の様な鍋でも当然であった。
 雪を押し固め、倒木を椅子に、村人達は浮かれ騒いだ。櫓の前で飲み交わした様な、おかしな薬草混じりのものとは違う、真っ当な酒である。健全な酔いに身を任せ、美味をたんと貪った。
 〝山ン主〟たる八重と、その〝夫役〟を務めた桜は、一番の上座に在った。ごった煮鍋とは別に、二人には『熊の掌』が備えられていた。蜂蜜のたんと沁み込んだ熊の掌は、肉の柔らかさや一頭から取れる部位の大きさもあり、この雪国では馳走であった。

「露骨な祭りだなぁ」

 熊の肉ばかりか、肉の内側の指の骨までを噛み砕きながら、桜はさも楽しげにそう言った。
 露骨というのは、先程まで自分が為していた、舞いの事を差している。
 勇壮な剣舞であった。だが、同時に淫らな――〝見立て〟の舞いである事は、太刀を振るう桜こそが、最も明瞭に理解していた。
 身を伏せる様は、横たわる娘のようである。伸び上がる様は、覆いかぶさる男のようであった。胸の内に八重を呼び寄せて、抱きしめるように腕を閉じた事もある。八重はその時、屈みながら頭を桜の腹に預け、脚に触れながら、するりと腕から逃れた。
 四肢を躍動させて衆目に晒す〝舞い〟は元より淫猥な性質の動作であるが、二人が身体を近づけて、同じ終わりの為に進む――夫婦の舞いは、尚も過剰に、情欲そそる仕草であった。

「分かり易い事を、好む者もおおいのよ。誰もが平安、平城のように、秘すが華と生まれたと思うでないわ。
 寧ろいにしえの、夏の盛りに祭りをしていた頃合いは、尚も酷かった。男が耐えられんでの、あの場で交わり始める事まで有ったわえ」

「獣のようで増々結構。私も慎ましいとは言わんが、そこまで乱れた記憶は無いぞ? 全く僻地の奇祭とは、及びもつかぬものばかりだな……」

「他の事例を知ったような口よの?」

「奇妙という事だけならば、雪上を裸形で駆けまわる祭りを見た。毎年毎年、誰かは死ぬので、何年か後には無くなっているのではないか? 後は……ああ、そうだ、熊追い祭り」

「熊追い?」

「うむ。遥か西の国で、牛追い祭りなる奇祭が有ると聞く。それを真似しようとした阿呆が、大陸に居たのだ。何処からか捕まえて来た熊を、腹を減らすまで待って檻から放った」

 たった今、二人が喰らっているのは、日の本に住む小さな熊の掌だ。比して、大陸の熊は〝でかい〟。
 背の高さもそうだが、とかく骨が分厚く、肉も多い。そして恐るべきは、身に纏う大量の肉が、贅肉ではなく筋肉であるという事だ。
 人の頭など一撃で叩き潰す前腕と、巨重を木の上に運ぶ頑強な爪。殴られても蹴られても、場合によっては銃で撃たれてさえ致命傷にならぬ体――そんなものを、〝速く走る〟という一点に絞るとどうなるか――これがまた、とんでもない事になるのだ。
 平地ならば、馬とまではいかぬが、下手な犬より速い。無論、人の足ではまるで及ばない。そして何より、牛ならば角で突き上げるだけに留まるが――いや、それはそれで死ぬ危険は有るが――熊は爪と牙で、容赦無く人を襲う。

「……酔狂じゃのう」

「ただの狂人の気まぐれだった。死人が出る前に、私の師が熊を三つに切り分けたが、さもなくば何人が死んだ事かな……あれより酷い祭りは知らんが、此処もまあ、中々だ」

 とんでもない昔話をからからと笑い飛ばして、桜は酒を飲む。杯の様な洒落た道具は無く、椀に注いで、雪の粒と共に呑み干すのだ。良く冷えて、美味であった。

「して、これで終わりではあるまい」

「うむ」

 八重は、立ち上がりながら答えた。その目が一度、飲み騒ぐ村人達をぐうるりと見渡した。
 誰も誰もが沸き立っている。大人も老人も、子供まで、椀を傾けては鍋の肉を喰らい、雪の上で騒いでいる。鍋をつつく者は例外なく顔を綻ばせているが、然程の美味かと問われれば実際の所、桜にはそうも思えなかった。
 何せ、舌が肥えている。美女を抱き、美酒を煽り、そのついでに美食を楽しむ。その生き方を、江戸の町で続けてきた女である。
 だが食物の味とは、単独で決まるものでもない。夜空までを焦がさんばかりの熱気は、ただの煮汁をして、料亭の吸物より尚も上等な味わいに変える。村人が喰うのは鍋だけでなく、祭りの臭いそのものであるのだ。
 その幸福を耳で楽しみながら、八重は、ここまで登って来た山道をまた、真っ直ぐ逆に降り始めた。

「何処へ行く?」

「村よ」

 後を追った桜に、八重は振り向かずに答えた。

「今宵の祭りを、遂げるのよ」








 青前あおのまえは、広い村では無い。
 山間の小さな集落であり、大江戸八百八町や洛中の様に、近代的な建物の一つも無い。夜間を照らす街灯の、一つとて有りはしないのだ。
 今、大人や老人、それから幼い子供は、皆が山へ登っている。残されているのは、十三歳から十九歳の若者達だけである。そして――その誰も、家の外には出ていないのであった。
 月の無い夜である。色濃い雲が空を、雪が地表を覆っている。ごうごうと寒い、夜であった。
 だが、冬の夜は、雪を知らぬ人が思うより明るいものだ。僅かな灯りも逃さず、白と銀色の間くらいになった雪が拾って、照らし返すからだ。
 その『僅かな光源』とは、家々の窓の隙間から零れる、炎の色であった。
 暖を取り、室内を照らす為、竈を燃しているのかも知れない。それは、踏み入ってみなければ分からない事だ。だが、室内が外よりは明るく、だが互いの顔を眺めるには、鼻先が触れるまで近づかねばならぬ程度には暗いと、その事は、覗き見をする八重にも、そして桜にも良く分かった。

「無邪気なもの、よのう」

「そうだなあ……いや、そういう問題か?」

 村の広場からそう離れていない一軒の窓を覗いていた八重は、さも愉快という顔をして離れる。そうして出来た空間に桜が割り込んで、同じように、家の中を覗き込んだ。
 そこでは、一組の男女が交わっていた。
 男女とは言っても、どちらもまだ、幼い体つきである。桜は二人を、何れも十四か十五と見定めた。特に女の側は、体は丸みを帯び始めたが、まだ脂肪が足りていないように見えた。髪は短く、首の後ろで纏めてあった。
 二人は睦言を交わす事も無く、必死に体を重ねていた。恋仲の二人であるように見える。互いに背に回す腕が、少し赤くなるほど、力が込められているのが分かった。

「無邪気と言うて、おかしな事があるかえ? 見よ、獣も鳥も虫も、あのように真剣な顔はせんわえ。子を為せば良しとする禽獣と、こればかりは、はて、随分違うものよのぅ」

「悪趣味な事だ。……あっちの娘、見覚えあるな」

 桜は、抱かれている娘の顔を思い出そうとして、暫し目を閉じた。村を訪れてからの、そう長くない日数の中で、何度か見た顔だった。村長の家から数間離れた所にある、他より少し広い田を持つ家の、一人娘だと気付いた。

「女から、夜這いか」

「好いた側から、よ。どちらという決まりも無い、定める意味さえが無い。好いて、己から迫るのが男だけとは、つまらぬ道理ではないかえ?」

「ふむ」

「何百年とこの村は、このやり方を続けてきた。実に獣染みた生き方と、外の目から見れば思うやも知れぬ。然しのう、人と獣の間に、どれ程の違いが有ると見る?
 骨の上に肉が有って、肌が張っている。毛の濃さはまちまちではあるが、それは些細な事よ。人が言葉を使うように、獣も吠えるぞ? 何より――」

「人も獣も、生きて、死ぬ、か」

「上等」

 言葉を交わしながら、二人は歩いた。そして道中の家々を覗き込んでは、何もせずにまた目を離す。
 村は程良く淫猥で、しかも活気に溢れていた。生きている気配が、そこらじゅうに有った。桜は、己もまた獣の一頭に成り下がったように思いながら、浮かれた様に歩いていた。
 面白いかと聞かれたら、桜は困った顔をしただろう。この感情は、そういう理性的な所から湧いたものでは無いのである。ただ、暗がりの中で動く二つの体を覗き見ていると、酒と薬草で昂った体が、何か古い感情を思い出すのだ。

「然し、良いなぁ」

「ほほう」

 それは、懐かしささえ伴って、桜の腹の内側を、ぐいぐいと引っ張るようであった。腹の底から上る声も、自然と上ずっている。

「江戸の女を、思い出したか?」

「それも有る」

 肯定し、桜は歩く。歩幅は狭く、足音は無い、ゆったりとした歩き方だ。
 明瞭でない肯定を八重は受け取り、また先へと歩いた。
 何処へ向かっているのか、桜はなんとなく感づいた――が、気を回して、一つ、問う。

「さきが、おらんか?」

「いいや、おらぬ。左手の家を覗いてみよ」

 どれ、と桜は右目を瞑り左目は細めて、扉の隙間から、八重が言う家の中を覗いた。

「おう、こっちに居たか」

「村長の家は空家よ、邪魔立ての懸念は無用ぞ」

 左手に有った家の中では、さき――村長の娘姉妹の姉と、祭りの始め、櫓の上で笛を吹いていた少年が逢引をしていた。
 妹の影に隠れて、大人し過ぎるきらいの有るさきが、今は情熱的に愛を囁いて、手足を少年に絡めている。
 そういえば、山小屋に閉じ込められた村長の晟雄を助け出した時、晟雄の目もはばからず、あの二人は抱き合っていたように思う。父親、狩人の棟梁が苦々しい顔をしながら、それを咎めなかった事も思い出した。憎からず思い合っていた二人が〝そういう祭り〟に投げ込まれたら、確かに〝そうなる〟のも頷けた。

「あの、さきがなぁ」

「いずれそうなる日が、今宵であったというだけのことぞ、のう?」

 それにしても、と。桜は馬鹿に真剣な顔で、覗き見を続けて居た。
 さきは一体痛みを堪えているものか、それとも笑っているものか分からぬ顔であった。家の中が暗いのも祟った。夜目は利くと自負する桜だが、流石にこの月も無い夜、全てを見通す事は叶わなかった。
 それでも、微かに聞こえてくる声は、喜色が濃いと思えば、桜は自然に笑っていた。愚弄するでもない、愉快と思うでもない、ただ笑っていた。

「して、八重よ。これだけの為に、ではあるまい」

「左様、左様」

 八重は、やはり雪上に足跡を残さぬままで、村長の家へと入る。桜もまた、後を追って留守宅へ上がり込んだ。








 十日ばかり居候をした村長の家は、桜にはもう、すっかり馴染みとなってしまった空間であった。
 然程高くも無い天井と、家の全てに暖気が通るよう、一段低くなったところに作られた竈。壁は厚く、窓は板張りで、外から蓋をするように板がもう一枚。戸も二重で、煙が逃げる道の他には、隙間も無い作りであった。
 案外に暖かく、そして明るい。火が、ごうごうと強く燃えているのであった。
 家主の留守の間も燃されて居た炎を見れば、『村長の家』がどうして、逢瀬の場となっていなかったかも理解できる。山ン主の為に、空けてあるのだ。
 山から降りてきた神が、人と交信する神殿として、村長は家を提供する。そう考えれば成る程、村長とは、司祭か神官のような役割なのかも知れない。
 法や利益でなく、もっと古臭い〝信仰〟によって結びついた共同体、それが青前であるらしかった。

「どうであった」

「猥雑で、心地良い。常がこれではかなわんが、時折触れるならば、良いな」

「そうよのう。此方とて、毎年これではたまらぬわえ。無精が故、でないとは分かろう、の?」

 全く、と桜は頷いた。毎年こんな祭りが有っては、参加させられる側も楽でないだろう。馬鹿になって浮かれ騒ぐのは、何年に一度かで十分だと、桜は思った。

「祭りも愈々、終わりか」

「そうさの。明確に終わりはあらねども、火が消えるが如く、自然に立ち消える。明日の一日は酒を抜いて、明後日からは元の日々よ。……我らは未だ一つ、やり残しがあるがの」

 そう言って八重は、枕の一つを肘掛に、ぐうと肢体を流すように座った。
 見返せば、美しい女である。頬が紅をさしたように、うっすらと赤い。目つきは穏やかな母のようであった。幼いのか若いのか分からぬ顔だが、少なくとも老いては見えない。常緑の葉のように、幾年を経ても容色衰えぬ〝人外〟である。
 床に無造作に投げ出された脚に、土の跡や肌の傷、その他、傷の一つも無い。生活の気配を感じさせぬ姿だが、だが肉の下に熱い血が流れていることを、日差しを知らぬ白肌が、ほんのりと色付いて知らせていた。
 帯は無い――祭りの始めに、桜が切って落とした。留めるものの無い着物は、重さに従って左側が開いて、八重の胸も腹も、炎の影に舐めさせている。橙と黒の舌は、ちろちろと踊って、汗も鳥肌も無い肌を、殊更艶やかに彩った。
 八重は、右膝を上げた。足首が左膝に重なるように、脚を組み替えた。また着物が着崩れる。桜は、目の前に居るのが〝女〟なのだと、もう一度知る。床に胡坐を掻いて待った。八重は立たず、語り始めた。

「その昔――そうさの、もう何百年も前になるか、或いは千年以上も前やも知れぬ。この村に名は無く、此方もまた、大仰な名は無かった」

「昔話か」

「昔々の、おとぎ話よ。そもこの村、古は日の神と雨の神を祀り、崇めておったのよ。そして神に平伏す者の常として、曇れば嘆き、降れば嘆き……兎角、己らに都合が悪い全てを、神の怒りとして嘆いておった。おお、おお、人はまるで変わらぬものよ、獣の方が可愛げが有ろうとも」

 くすくすと、喉の奥を鳴らすようにして八重が笑う。桜は黙って掌を向け、話の先を促した。

「……神の怒りを宥めると言うて、何故人は、生贄を選ぶのかのう。人間の屍など受け取ったとて、喰うて楽しむ気にもならぬわえ。――が、人は兎角、己の気が済めばそれで良いもの。一年に二人、必ず、女童を殺しておった」

「おお、勿体無い」

「まーったく。然しの、その時は、それが普通だったのよ。誰も疑問に思わず、毎年二人、或る程度に育った女が殺された。籤を引いて、当たれば神の元へと栄光を得る。それがこの村では、素晴らしい事であった。
 ところがの、聡い娘がおった。『私の首を切り、頭は男である日の神へ。体は女である雨の神へ引き渡せ』との」

「……既にもう、聡いのかどうか分からんぞ」

 桜は渋い顔を作る。光景を想像するに、合理精神の持ち主である桜には、納得のいかない事であったらしい。

「娘はすっぱと首を切られて、言葉の通り、別々に捧げ物にされた。頭は日の神の元へ行き、やれ腹が減った乳を飲ませろ、退屈だ、遊べと一昼夜喚き続けた。一方で雨の神にささげられた体は、どたばたと走り回っては家具を壊し、機織り機を踏み壊し、禅を引っ繰り返し、抱き留めようとした雨の神を引きずって走った、と。こうして青前の神の二柱は、生贄を求むるを止め、代償も無しに光と潤いを齎しておるのだとよ……っくく、間抜けな神よのぅ?」

「どこにも奇妙な話はあるものだ……それが、この村の神話か」

「神話にして、実話。虚構に塗れて捻じ曲がった、作り事ではあるがの」

 肘置き代わりの枕に手を突き、八重は体を起こして、桜と同じように胡坐を掻いた。着物の裾は、左右とも開く方向に払った。
 そしてまた、くくと籠らせて笑う。笑う八重の表情は、それが心底おかしいとは、微塵も感じていないように見えた。寧ろ、何かを懐かしむ色が濃いのだと、桜は思った。

「空事か……そのような神など、居なかったと」

「如何にも。事の真実はの、空事よりも尚、寓話にあらまほしき事ぞ。
 単純な事よ、その年は、籤を引く娘が少なかった。神にささげられるのは、八つを過ぎて十にならぬ娘ばかり――丁度二人しかおらなんだのよ。そうなれば無論、二人とも贄となる筈であったが――その内の片方は、村の長であった。可愛い盛りの娘を、手放したいと思わなくなった――その頃の考えとすれば、まっこと世迷いにも等しい事だがの。兎角、村の長は、娘を殺せなかった。生贄一人を、二つに斬り分けて使った、それだけの事……それだけの、のう。
 それっきり、贄の風習は途絶えた。幼子の首と胴を、一刀では断つ技量が無く、二度も三度も山刀を振るって落とした村長の鬼の形相を、誰も好ましいとは思えずに。その後も、日の光、雨の雫の恩恵は、何も変わらなかったのが、まことに愚かしい」

 かか、かかと、八重の笑声が少し明るくなった。堪えきれぬ、という風であった。

「それが、此方よ。大仰に神を名乗るは、哀れな小娘の成れの果てが、時を経て変じた化け物に過ぎぬ。此方に豊作を呼ぶ力は無く、雨の一雫、日が刺す一刻とて産みはせぬ。然しこの青前は、此方がおらぬとあらば、三千石を産む土壌は枯れ果てるであろう。何故か、分かるかえ?」

 否も応も、桜は言わない。ただ、黙って右瞼を引っ掻いて、頭を斜めに傾けながら頷き、

「そう、信じているからだろう。つがい、子を為し、喜び、泣く。これは獣でも出来ようが、信じ仰ぐのは人だけだ。この村は〝それ〟で出来ているから――労は報われ、怠れば咎むると信じているから、よく働き、よく生きるのだろう。神とは〝そこにいればよい〟ものだ。何かを為すという性質ものではないのだ」

 二十年には足りぬ短い生の中では、ついぞ気付かなかった事を、言った。
 神はいないか、居ても役に立たぬ代物だと、桜は殊更に不敬に生きていた。熱信を騙れる程に蓄えた知識を以て、寧ろ神の矛盾を暴こうとさえしていた。裏を返せばそれは、神に怒りを覚えていたか、落胆していたからやも知れない。
 桜は、ウルスラの事を思い出していた。神が在る事を強く信じて、己の罪と、何時か降り注ぐ罰に怯えていた少女を。桜はウルスラに聖書を説いたが、こうして見ればウルスラの方が、自分より神を知っていたのかもと、桜はおかしくてならなかった。

「……やれ、歳を取ったかなぁ」

「此方の数十分の一も生きぬで、何を戯れ事を」

「いやいや、心の問題だ。年寄りの言うことに頷くようになったのなら、それはもう年寄りではないか。今になって年寄りの言う事は、正しかったのだと思うてなぁ」

「年寄り、年寄りと言うてくれる。老いさらばえた姿に見えるかえ――」

 二人して一通り笑った後で、八重は不意に、体を起こした。姿勢の変化に伴い、着物の合わせ目が一度閉じて、上体を完全に起こすとまた開く。
 立ち上がり、竈の周りを歩きながら、腕を着物から抜く。衣を脱げば、神も、人の女も変わらない。ただ美醜の差だけが有り、そして八重の肢体は、雪景色が霞むような美しさであった。
 柔らかい肉を、程良く纏った手足――けれども、腹は縊れている。抱きしめればきっと、羽毛の布団のような心地だろう。赤みの差した肌は、暖かいに違いない。
 八重は、桜の目の前に膝を着くと、髪を払って首筋を見せた。首を落としたという傷は何処にも無い。うなじに生えた産毛まで、薄闇の中でも、桜にははっきりと見えていた。

「のう。此方を、抱くか?」

「抱かれたいのか」

 桜の胸に八重がしな垂れかかった。常とは別の白い衣に、白い指が重なって這い上がる。布の下の豊かな膨らみを上って、鎖骨へ、喉へ頬へ――

「一夜の夫、一夜の妻、一夜の交わり……それが、青前の祭りよ。当代の村長も、村の長老も、何十年も何百年も、此方は一夜限り、妻として身を許して来た。一人を通じて、村は神と交わる。そなたは一夜、村を背負えば良い。
 数百年の内に一度は、女が舞う事もあった。女を知らぬ身では無い故――愉しみ方も、愉しませ方も、心得ておるわえ」

 覆い被さる体――受け止めて、桜は背を床に着けた。胸に圧し掛かる程良い重さ、体温、そして、何より柔らかかった。自分より小さな体を預けられているのに、桜は寧ろ、自分が抱きしめられているようにさえ思った。いや、本当に腕が回されていた。
 しゅるしゅると、八重の肌に、桜が纏う白衣しらぎぬが擦れた。首を抱かれて、桜は顔を起こす。
 薄闇の中で近くに見る八重の顔は、怖気が来る程に艶めかしい。酒の為か、あの薬草の為か、そう感じる事が自然だと、桜は何処かで自分を、冷静に認識していた。唇が僅かに開いて、それが近づいてくるのまでを、確かに目に留めていた。
 その頭を、桜が手で挟む。引き寄せて――唇を重ねた先は、八重の唇では無い。頬であった。

「……むぅ」

 八重が、不服そうに唸る。拗ねたように拳を作って、桜の顎を打った。頑強な首は揺らぎもしない。

「軽く頬に口付ける――大陸風の、親愛の情の示し方だ。長く生きようが島国の女、こんなやり方は知りもするまい?」

 祭りの熱と美酒に酷く酔いながらも、桜は八重を押し留めて、抱えたままで体を起こす。手を伸ばし、常盤色の着物を引き寄せると、布団代わりに体に被せた。

「お前は魅力的だとも。昔なら躊躇わぬし、攫って江戸まで連れ帰ったかも知れんな。だが――今の相手程、美しいとは思えん」

「……惚気たのぅ」

 声は静かだが、強かった。あまりに強く言われたので、八重も気勢を削がれたか、言葉を発するまで暫し掛かった。

「私の女は、悋気持ちだ。街を歩く時に、横へ視線を向けているだけで頬を膨らます。下手に他の女を褒めてみろ、あの丸い目をぐうと細めて、今にも噛み付いてきそうな顔になるのだ。おまけに鼻が利いてなぁ、お前の臭いを沁み込ませて帰っては、それこそ食い殺されてしまう。
 ……この村の在り方を、否定するつもりは無い。だが、私は無理に従うつもりも無い。抱かれたいというならそれも良いが、私は応えてやる気は無い。一晩の浮気で、延々と恨み言を綴られる愚は冒せぬからな」

 体の上の重みを、横へ降ろしてやる。着物一つを掛け布団にしながら、桜は己の左腕を、八重の頭の下へ入れた。

「が、枕くらいは貸してやろう。夜も遅いぞ、そろそろ寝ろ」

「本当にそなたは、我が道をのみ行くのう……良い、良い。乙女に恥をかかせた罪業、その剛毅を以て由しとする」

 腕を枕に、横の体に手足を預け。八重は不満そうな顔をしながらも、諦めたように目を瞑った。
 眠るまでの間、桜は幾度か、深い呼吸を繰り返して心を落ち着かせた。夜気を吸いこんで、頭が冷えてゆく。
 今はただ、眠ろうと思った。目を覚ましてから、先の事を想おうか、と。
 消えそうな火に薪を投げ込んで、桜は目を瞑った。冬だろうが、暖かい室内であった。








「おーうい、お客人。おーうい」

「ん……」

 気付けば、朝になっていた。竈の火は消えているのだろうが、日差しが入り込み、家の中は十分に暖かい。風も吹きこまず、眠ろうと思えば何時までも眠っていられそうな朝である。
 差し込む日の角度からすれば、もう十分に太陽は高く、外では女達が働き始める頃合いだろう。だが、昨日に続いて、今日も静かであった。
 桜を、呼ぶ声がした。村長の晟雄が、桜を揺り起こしているのである。場が場であれば警戒もしようが、桜は不思議と、この村に馴染んでしまった。だから剣客らしからず、眠たげに眼を擦りながら体を起こした。

「……朝餉を、寝過ごしたか?」

「昨夜の鍋の残りなら、冷めてるがまだ有んぞ。まぁ、あんたの分だ、喰え喰え」

「おう、頂こう。どれ、お前も――」

 寝覚めて早々、椀に入った汁物を晟雄が突き出してきた。受け取りつつ、隣に眠る筈の八重にも勧めようとし――桜はその時に漸く、何時の間にか自分が、一人で眠っていた事に気付いた。
 横に寝ていた体は無く、常盤色の着物が一つ、体温だけ残して抜け殻になっている。胸の内に抱きしめていた為か、まだ、ぬくもりは抜けていなかった。

「……なんだ、風情の無い」

「俺の時もそうだった。朝方まで一緒に寝てはくれねえんだな、あの人。もうどっかを歩いてるか、山に戻ってるか、そんなとこだろう」

 不満も未練もたんと溢れた顔で、桜は椀の中身を啜って、着物を持ち上げた。昨夜から、白拍子姿の侭だ。これでは落ち着かぬのか、少し丈が短いが、肩に着物を羽織ろうとした――その時、である。
 閉じて捨て置かれていた着物の中に、何か、固く重いものが収まっている事に、桜が気付いた。腕を差し入れ、袖に内側で引っ掛かったそれを取り出した。それは、刀であった。

「ほう……」

 鞘が、絢爛であった。
 桜の持つ刀は、確かに見栄えもする名刀だが、根本的には戦いの道具である。
 黒一色の鞘で、長太刀、脇差。短刀の鞘は、鋼そのままの色だ。対して〝この刀〟は、鮮やかに飾り立てた鞘に収まっていた。
 黒漆を、重く固い木の上に蝋色塗りした、黒艶のある鞘。金属細工は細すぎず、流麗な絵を描く、見事な拵である。鮫皮を巻いた鞘が当世の流行りだが、これは、そういう造りでは無い。
 流行りの鮫鞘は、ごつごつとして豪壮な、然し面妖な雰囲気を出すが、桜はそれよりも、鋭利な雰囲気の鞘を好んだ。その好みにぴたりと当てはまる、美女の流し目の如き、りんとした風情の鞘であった。
 すぅ、と刀を引き抜く。鞘に擦れる事も無く、刀身は素直に顔を出した。これもまた、冷たい雰囲気の美人であった。
 銀の光も眩い、曇り無き刃は、二尺三寸八分。細いとも広いとも言い難い、程良き幅の刀身である。角度を合わせると己の顔が、鏡より明瞭に映る程、磨き上げられている。
 桜は、その切っ先に指を、つつと当てた。指の腹が切れて、たつたつと赤い血が刃に落ちる。斯様の悪癖を桜は持ち合わせていなかった筈だが――どうしてかこの時は、一刻も早くこの刃を、血で濡らしてみたくてならなかった。

「これも、お前の時には有ったか?」

「いんや。……ちきしょう、いいもんもらったなぁ、あんた。熊も切れそうじゃねぇか」

「全く。熊も、鬼も――そうだな、大蛇までも、叩き斬るだろうよ」

「あん、大蛇?」

「うむ」

 晟雄から離れて、ひょうと一度、刀を振るった。重さは元より気にならぬ性質だが、兎角これは、良く手に馴染む。柄に巻かれた紐が指に吸い付いて、強く振っても抜けていこうとはしないのだ。
 刃を見るに、そして指で試したところから察するに、良く切れるだろう。刀を持つ者であれば、人目で恋に落ちる程の名刀であった。
 ほれぼれと桜が眺めていると、何時の間にやら音も立てず、戸に寄り掛かって八重が居た。常盤の着物は置き去りにして、襦袢一つだが、やはり寒そうな様子は見えない。

「呪切りの刀、我が身の写し、八竜の牙の一欠片。号するならば、そうさの……『言喰ことはみ』とでも呼ぼうかの」

「それは、即興でか?」

「喧しい。名を与えて何が悪いかえ、名が無くては形も定かではあるまいに」

 ことはみ、と。桜は舌に乗せて、その名を呼んだ。刀が喜んで艶を増したような、そんな気がした。








 そうして、村を立つ事になった。
 見送りは少ない。元より、村全体の客人という訳でもない。村長の家と、それから山で助けた狩人の家族と、それくらいである。
 日差しは眩いが、やはり冬。風は冷たいし、積もった雪の上の方が、巻き上がって横っ面を叩く。桜の長い髪に、氷の粒がくっ付いた。

「世話になったな、全く」

「本当だが、こん余所もんが」

 村長の息子、富而が憎まれ口を叩いた。だが、誰もが笑っていた。重く取り合うものでは無いのだ。
 桜は、常の黒備えに着替え直して、その上に雪国を突っ切る為の装備を重ねている。外套やら脚絆やらかんじきやら、酷く膨れて不格好だが、兎角暖かい。

「……で? のったのったと歩いでさ行ぐ気が?」

「無論。余裕の無い往路だったのでな、復路は今少し楽しもうと思う」

 傷も癒え、呪いも消えた。だが、雪は深くなった事を差し引いて考えれば、やはり江戸までは二十日を見るべきか。然し今の桜は、無理に馳せていこうとは思っていなかった。
 いずれ、一時と休まらず駆ける時が来る。それまでに僅かでも、英気を養おうと――寄り道はせぬでも、無暗に焦らず。京まで、二月で向かう事を想っていた。
 今は十二月の頭――向こうに着くのは、二月始めになるか、もう少し早くなるか。兎角、寒い頃合いになる筈だ。

「また、来ようと思う」

 桜は、誰を見るともなく、皆に向けて言った。
 短い滞在ではあったが、良い村だと思った。人は良く働き、川は澄み、山が豊かだった。土地に根付く魂が、懐かしい臭いを放っていた。桜は、己が何時か、また必ず、この土地を踏む事になると信じていた。
 言葉を受け取った青前の者達も、それが当然だと言うように頷いた。この土地を離れた者も、きっと数百年の間に、何人もいたのだ。そして――その大半はきっと、生涯を終えるまでに一度、この村に戻って来たのだろう。
 何も無い村だ。だが、何も変わらない事は、安らぎなのだ。長い生の間、ぶつかり、すり減った心を抱えても、在りし日の侭に迎え入れてくれる土地。それを人は、故郷と呼ぶのだろう。
 桜は生まれた土地を覚えていない。だから何時か、この村に帰って来たいと、そう思った。

「俺が生きてりゃ歓迎する。ぽっくり逝っちまってたら、うちの馬鹿息子に任せる。婆あになる前に来い」

「爺に片足を突っ込んで何を言うか、精々長く生きていろ。お前の息子は私が気に入らんらしいからな」

 桜の口調はおどけていて、それを聞いた周囲の老人衆が、身内にだけ見せるあけすけなやり方で笑った。誰を馬鹿にするでも咎めるでもないが、ただ、ただ、おかしいと笑った。

「お前は素直で愛らしいのだがなぁ……」

 見送る人の中に、さきが居た。村長の娘姉妹の姉、引っ込み思案なほうだ。桜の目がさきに向くと、周囲が一歩だけ下がって、周りに隠れがちなさきを表に出す。

「ほれ、来い来い」

「………」

 手招きをすれば、さきはそれに応じた。十三という歳の割りに小さな体、小さな歩幅で進み出ると、桜が屈んで迎え、抱きしめた。

「お前がどんな美人に育つか、見たいな。良く食え、良く働け、良く眠れ。不安は心の毒だ、楽しめよ」

「うん……」

 桜の胸元に顔を埋めて、さきはぐすぐすと鼻を鳴らした。まだ幼く、別れに慣れぬ少女である。一月に満たぬ居候さえ、いなくなるのは悲しいらしかった。
 しゃくりあげ、震える背を撫でてやりながら、桜はさきの髪を分けて、耳元に口をやると、

「で、あの男と子を為すのは何時だ?」

「ひゃえっ!?」

 効果は覿面であった。涙も嗚咽もピタリと止まる――代わりに、酷く赤面する。口をぱくぱくさせる様子と合わさって、鉢の中の金魚のようだ。狼狽えるさきの背をもう一度だけ撫でてやって、桜は立ち上がろうとし――

「そういえば、さとはおらんのか」

 姉妹の、やかましい方の所在を探した。賑やかな娘だ、いないとなれば寂しいものである。ぐうと伸びをして探してみようかと、そう思った桜がまだ姿勢も変えぬ内、ざかざかと雪を蹴立てて、とうの本人がやってきた。
 兎角、真っ直ぐに進んでくる。雪慣れした足にかんじき、軽い体、足取りもまた軽い――というより、走っている。
 中々にすごい格好をしている。桜が身につけているのと同じくらい分厚そうな外套やら、脚絆やら。もっこりと着膨れて、藁山が走っているようであった。

「おう、そこにいたか――」

 屈んだまま、桜は手を広げて、受け止めようとした。さとの小さな体は、容易く受け止められる筈であったが――しかし、さとは止まらない。寧ろ桜を前にして、益々足を早めた。

「待ーてこらあーっ!」

「――っおおうっ」

 さとの突進と、桜の踏ん張りと。最初に耐えられなくなったのは地面の雪で、桜は上手く自分が下になるように、飛び込んできたさとを抱えながら倒れこむ。

「なんだ、今から取っ組み合いか? ならば最後だ、存分に――」

「私も連れてけ!」

 立ち上がりながら、さとが叫んだ。倒れた桜の上で立ったので、自然と踏みつける形になる。雪よりは硬い足場の上で、さとはぐんと踏ん反り返った。
 仰天したのは村の衆である。だが、村長の家の者だけは、事前に聞かされていたのだろう、表情に意外なものは無かった。そして桜もまた、これを予想していたように、珍しく顔を全部使って笑ってみせた。

「連れていけとは、何処までだ?」

 白々しく、聞いてみる。

「決まってるじゃない――」

 そう、決まっている筈である。江戸を見ろと誘ったのは桜だ。だから、連れていってやろうと身構えていた。

「――京の都まで、連れてきなさい!」

「は……!?」

 然し、さとが告げた目的地は、それより数百里も西であった。桜がどれ程に驚いたかと言えば、腹の上に立つさとが浮くくらいの勢いで起き上がった事から伺えるだろう。耳を疑う言葉であった。
 確かに居候をしていた短い時間の間、桜は、姉妹二人に色々な事を話した。勇ましい話も有れば、自分が負けた時の事も話した。京で何が起こっていて、どうして自分は此処へ居るのかまで――色々と、話したのだ。
 人が死んだ事も、隠しはしなかった。
 どうして人が死ななければいけなかったか――それが、どれだけくだらない理由かも、隠しはしなかった。
 桜は自分の全ての言葉で、旅の間に見た、全てを語ったのだ。

「多くを見て損は無いって、言ったのはあんたでしょ! 私は京の都を見たいの、江戸だけじゃない! ……堺も、壇ノ浦だって、見られるなら大陸だって……! でも、あんたが京で止まるって言ってるから、そこで我慢してやるのよ!」

「我慢とは、しかしな――」

「しかしも案山子も無いのっ!」

 たじろぐ桜を、ずっと小さな八重が怒鳴りつける。不思議な光景であった。
 桜は、問うように皆を見た。誰もが誰も頷いていた。さとの母の目にさえ、涙は浮かんでいない。納得が行っての見送りであると分かった。

「……必ず返すと、約束は出来んぞ」

「構わね、連れてやってけどがん。……返さねぇば、なんねぇぞ!」

 父親ではなく、富而が、重ねて頼んだ。進み出て、頭を下げていた。
暫し桜は答えも無く、富而の首裏を見下ろしていた。まだ細こい、鍛える余地の残った首だ。未熟な、青年と少年の境の男である。頭を下げられるなどと、微塵も考えなかった事であった。

「……良し」

 桜は、さとを抱え上げる。一番しっくりくるのは、やはりこの形であった。

「預かろう! 確かに連れて行く、そこまでは責を負う。それより後は天運と、人の運気に任せよう」

 引き受けても、良いと思えた。
 京で、さとがどのような道を選ぶにせよ、それはきっと、これまでにさとが知らなかった世界になる筈だ。
 大きく間違えぬ様に、傍には置いておこうと思った。その上で、小さな間違いは、幾つもさせてやろうと。
 さとの向こう気の強さを、桜は気に入っていた。折らぬまま磨いて、美しく咲いた姿を見たいと、そう願ったのだ。

「では、ゆこう」

 桜は、皆に背を向けて歩き始めた。肩の上でさとが後ろを向いて、見送りの皆に手を振る。皆がやいのやいのと騒いで、旅の健勝を祈っている。
 雪原が目の前に広がっていた。遠くに小高い山が見える。峠道は白く染まって、難儀な旅になると示すかのようであった。こうこう風が響いては、粉のような雪を散らして、襟首にまで運んでくる。
 ざくりと平野に刻んだ足跡は、一刻もすれば消えているだろう。見送る声はすぐにでも、ばらばらに散って去るだろう。
 だが、祭りの喧騒は――みみなりのように、幻聴のように、何時までも何時までも、桜の中に留まって居る。
 懐かしき村の、眩い冬であった。








 比叡の山を囲む軍勢は、布陣したままに年を越した。
 やま一つをぐるうりと、大蛇がのたくったように取り囲むからには、相当な規模の軍勢である。人も、武具も、多かった。
 ひと月の間に、戦はたった半日しか起こらない。朔の夜だけである。月が失せた夜だけは、比叡の山を思う障壁が解け、軍勢は山肌を駆け上がるのだ。
 これまでに、交戦は三度しか起こっていない。十一月の頭に一度、桜が青前の奇祭に触れている間、一度。そして、年が明けてから一度――つい昨夜、終えたばかりである。
 おおよそひと月の安息を楽しむ兵士の群中――そこに、村雨は居た。

「おじさーん、おうどんふたっつ!」

「はいはいおおきに、おうどん二つ!」

 村雨は戦装束を脱がぬまま、屋台で昼食を取っていた。
 比叡山攻めの大軍勢も、かなりの時間、退屈を持て余す。教練だけを娯楽としては、息が詰まってならぬのだ。だから、山から見て京の街よりの方角に、政府軍は屋台を掻き集めた。
 蕎麦、餅のような主食から、飴や洋風の焼き歌詞、砂糖を塗したパンなども扱っている。酒は無いが、食うのが娯楽という連中には、とかく良く売れた。

「おじさーん、いっつも言うけど味薄いー……」

「いつも言うけど、ここは京。黒いばかりの江戸の汁ものと一緒にしはったらあかん」

 洛中は立ち食いうどんまで上品で、品のない喰い方に慣れ親しんだ村雨には、少し物足りない味である。だが、麺は良い。歯切れが良いし、火もしっかと通っていて、汁を吸って僅かに膨らんでいる。膨らんではいるが、ぐずぐずとはならぬのが不思議であった。腕の良いうどん打ちと見えた。
 ずるずると音を立てて啜りあげ、汁をぐびりと半分も飲み干して、一息ついて、また啜り。薄いと否を唱えながら、村雨はこの屋台のうどんが中々気に入っている様子でもあった。
 そろそろ村雨が、大椀一つを空にしようという頃。隣に立った者がある。松風 左馬であった。
 武術家であるが、戦場に立つ時は、八尺の鉄棒を抱えて行く女である。血濡れの得物を引きずったまま、左馬は何も言わず、村雨が注文した二つの椀の、一つを掴んで汁を啜った。

「あ、師匠」

「まだそんな格好をしてたのかい、がちゃがちゃと煩いな」

 村雨の頭に乗っかる兜を、左馬が拳面で小突く。鎖を垂らして首筋を守るこの兜は、首をうつ向けるだけでも、確かにじゃらじゃらとやかましいのである。
 左馬は健啖家である。特に今は、戦場を抜けたばかり故、際立って腹が減っていた。椀の一杯を忽ちに空にして、ふう、と小さく息を吐いた。
 二人に、大きな負傷は無い。精々が、頬を矢が掠めた細い傷か、味方と押し合いへし合いして、手を鎧で擦った痕が残るくらいである。比叡山攻めは最初の一度が最も激しく、次、その次と、双方の尽力ぶりが弱っていった。
 まず、比叡山側は、死んだり腹が減ったり、弾薬火薬が不足したり、矢が少なくなったりしているのである。籠城を続けるには、備蓄を一度で吐き出す訳にはいかない。止むを得ぬ事であった。
 一方で政府軍側はと言えば、これは単純に、力押しをしたくないのである。月に一度の攻勢では、切り崩した城壁さえ埋められてしまう。補給は幾らでも来るから、焦ることはないのだ。
 それでも、幾人も死んだり、不具になったりした。村雨の後ろにいた兵士が、村雨が避けた矢に気付かず、眉間を撃ち抜かれた事もある。敵も味方も、大勢死んだ。
 だから、村雨は笑っていない。声は明るいが、強張った顔を和らげてはいない。笑えるようになるのは、二日か三日ばかり後だろう――それくらいで立ち直れる程度に、死臭には慣れた。
 初陣よりふた月が過ぎた。村雨は、恐ろしく強くなっていた。
 別段、体つきが変わったような事はない。ただ、脹脛が少し固くなったくらいのものである。
 ただ、技が増えた。矢や刃物に、目が慣れた。なによりも――心持ちが変わった。
 昨夜、村雨は、自分が人間の死体を踏みつけて走っている事に気付いた。気付いても、何も驚かなかった。感覚が麻痺しているのである。
 それは、平時であれば、人の亡骸に手を合わせ、死を悼む心は持っている。良心だとか哀れみだとか、そういう心を失ったのではない。それとは全く別の次元で、村雨には〝もうひとつ〟の考え方が生まれていた。
 そこが戦場であるなら、他者の死も、自分が傷付く事も、心を揺らすに値しない事であるのだ、と。戦いとは、生き物が死ぬ事であり、獣も人も例外は無いと、村雨は理屈でなく、感覚で学んだ。
 だが――だが、まだ村雨は、戦場で誰も殺していなかった。
 首を斬られそうになった事が有る。刀を持つ男の、手首を挫き、肘を蹴り折った。
 槍で心臓を狙われた。槍の柄を走り、敵の顔を膝で潰した。
 飛来する矢を掴み取り、味方を刺そうとした兵士の肩に投げつけた事もある。切っ先が浅く刺さり、気を引く事は出来た。その間に味方が、余所見した敵兵を刺し殺した。
 間接的にであれば、何人も殺したと、言えるのかも知れない。だが村雨は、誰一人、直接手に掛けた事は無かった。
 それが甘い、気に食わないと、師の左馬に殴られる事も有ったが、回数を重ねるに連れて村雨は、左馬の拳を避けるようにもなった。
 兎角村雨は、こと戦いに関してはずうずうしく、我儘になっていたのである。そして、それこそが強さであった。

「師匠、今日もやるんですか?」

「当然だろう。月が変わるまでに、一通り巡る」

「うぇー……最近、街を歩くとですね? こう、じとーっといやーな視線が、なんか恨まれてるなーって視線が飛んできて――」

「美人と強者は妬まれ、恨まれる。天地開闢以来、変わらない真理だよ」

 代金を店主に渡して、二人は陣を離れ、洛中へ赴く。戦の後で、方々から飛んで来た血をたんと被ったままである。
 道場破りには、程よくハッタリの効いた修羅ぶりであった。