烏が鳴くから
帰りましょ

鋼拳のお話

 京の都の、北西に、一風変わった通りがあった。
 二条の城から一里も歩くか、金閣寺よりも少し西。殆ど衣笠山に踏み込みそうな所である。
 兎角、店が無かった。反物、骨董のような高価なものは言うに及ばず、紙やら筆やら、或いは軽食やら、生活に根付く何もないのである。宿も無く、遊女屋も無く、そして民家も無かった。
 代わりに並ぶのが、道場である。
 道の左右にぎっしりと、道場の看板が詰まっている。
 剣や柔術は言うに及ばず、拳打を極めたと豪語するものやら、蹴術日の本一を謳うやら、無双の槍使いと声高に叫ぶやら。兎角、道場ばかりなのである。
 風流が無い。村雨にしてみれば、京に居るというより、江戸に舞い戻った錯覚さえ抱く程だ。大八車を引く若者が声を張り上げていそうな、そんな通りなのである。
 そして、治安が悪い。
 とは言っても、命を取られる事は、まず無い。物取り、スリの類も少ない。その代わり、暴力沙汰が呆れて多いのだ。
 例えば、旅のものが、道場帰りの若者の集団と擦れ違って、肩をぶつけたとする。きっと若者の一人が、ドスをたんと効かせた声でおいと言う。それに直ぐ詫びれば良いが、一言でも言い返そうものなら、拳が飛んでくるのだ。
 この通りを歩いていると、道端に人が倒れている事がある。それを見つけた者は、まず倒れた男――ほぼ九割九分、男だ――の顔を覗き込み、それから手を見る。そして、傷があれば放置する――どうせ立って帰るだろうと思うからだ。寧ろ傷が無い方が、急病では無いかと、焦りを覚える程である。
 定まった名称は有るのだろうが、誰も正当な名では呼ばない。〝看板通り〟などと呼ばれていた。

「……ししょー。もう狙われてるみたいなんですけどー……」

「ああ、向こうの路地に四人くらい隠れてるね。後ろにも二人か……私の美貌は羽虫まで引き付けるらしいね」

 さて、そんな通りを、村雨と左馬が歩いていた。左馬の斜め後ろに、村雨が付き従う形である。
 比叡の山攻めを終えた、衣服には血がたんと付いて、具足も幾らか残ったままの姿である。尋常の仕事をする者なら、決して近寄りたくないであろう格好だ。
 だと言うに、この日、二人は尾行され、そして待ち伏せを受けていた。

「……意趣返しだろうね。顔は見えないが、覚えはあるかい?」

「えーっと、えーっと……二十日くらい前の、だと思います。柔術道場に、師匠が酔ったまま飛び込んだ時の」

「ああ、あの時の……うっかり床板まで踏み抜いた時のだったっけ。ボロ道場だったなぁ」

 姿が見えぬでも、分かることは有った。
 例えば、伏せている連中からは、血と汗が幾度も染み付いて、洗っても完全には抜けなくなった道着の臭いがする――これは左馬の鼻でも分かる。
 村雨だともっと直感的に、これはいついつに何処で出会った誰某の臭いだと嗅ぎ分ける。加えて、普通に暮らすより少し色濃く、鋼の臭いもした。
 背後の足音は、かなり足早に近づいて来ているが、気配を消そうという努力も窺える。前方、路地に隠れている四人ばかり隠れているのは、呼吸音やら身動ぎが生む微音やら、そういうもので分かる。
 腕前の程は――図るまでも無い、以前に見たばかりだ。未熟者どもであった。

「ところで、村雨」

「なんですか?」

「江戸は銭湯が多いが、こっちは随分少ないね。何処か、おの格好で行っても良いような所は――」

「幾ら江戸でも、この格好は無理だと思いますけど。岡っ引き呼ばれますよ師匠」

「火事と喧嘩は江戸の華なのに?」

「赤すぎる桜は気味悪くないですか?」

 二人は殊更呑気に構えていた。戦場帰りの事ゆえに、鎧具足も、得物も携えたままである。
 世にも物騒な二人連れの女――村雨は、両手指を頭の後ろで絡めて、左馬は左手で欠伸を抑えながら、左手側の路地の前をとおりすぎようとしていた。
 その時、路地の暗がりの中から、一条線を引いて飛んだものがあった。拳より大きな石であった。
 左馬は面倒そうに首を傾けたが、そうしなければ確実に、左目を潰していた軌道である。躊躇の無い奇襲であった。
 飛んで行った石が、通りの向こうの塀に当たるより早く、少し後ろを歩いていた村雨の後方から、二人の男が鬼の形相で走って来た。何れも手には短刀を握っている。短いが鍔の付いた、刺しても手の中で滑らぬ短刀である。
 二人の男は、歩幅に差が有った。ひょろりと背の高い男が、村雨の背に刃を突き出す、村雨は振り返りながら、右籠手で男の右手首を強かに打ち――左肘を、男の顎に掠めた。
 かこっ、と軽く乾いた音がした。男の膝が崩れ、どしゃっ、と地に落ちた。尺取り虫が歩む最中のように、ぐにゃりと曲がった、不恰好な倒れ方であった。
 その辺りでようやっと、二人組のもう一人が追いついて、そのまま村雨の胸へ体当たりを仕掛けて来た。肩をぶつけながら、腹を短刀で抉るつもりなのである。
 ぐいと突き出された分厚い肩を踏んで、村雨は高く跳んでいた。跳躍の最後の踏切で、丁寧に男の頭を蹴り飛ばしてである。頭を酷く打たれぐらついた男――の頭上へ、村雨はそのまま両足から落ちた。都合二度踏みつけられた男は、胡座を掻いたような格好で動かなくなる。がぁがぁと、いびきのような呼吸が零れて居た。

「ああ、驚いた。女相手に不意打ちとは情けない、臆病者め」

 左馬はここまで何もしていないが、妙に勝ち誇った顔で、暗がりに笑いかける。それが気に入らなかったか、四人の男がぞろぞろと出て来て、村雨と左馬を囲んだ。
 最初に出てきた二人は、怒りで体が膨れて見える。一人は、何を考えているのか良く分からない顔だ。最後の一人は、既に気後れが見えている。

「………」

「だんまり、か。でも素性は分かる。確かあっちの――」

 男達の殺気に構う事無く、左馬は少し背伸びをしながら余所見をした。通りの、ここから数十間ばかり離れた所にある、ボロ屋根を見たのである。露骨な隙であった。

「うおぅっ!」

「あ、井川、馬鹿――」

 息巻いていた男二人が、同時に前に出た。ぼうっとした顔の男が忠告したが、間に合わずであった。
 井川――この群れの首謀者、血気盛んな男である。背は低いが、骨が太くてごつい男であった。頭を両腕で囲って、守りながら左馬へ突っ込んで来た。
 同時に出てきた。これも大柄とは言い難いが、左馬よりは背の高い男――柳と言う。柳は、左馬の襟を掴もうと手を伸ばしていた。
 意図してのものかどうかは分からぬが、今回は中々の良手であった。左馬の背後には、背中合わせに村雨が立っている。後ろへ下がれないというのであれば、左右か上にしか逃げ道は無いが――右手からかぶさるように手を伸ばす柳と、左手から潜り込む井川。挟み撃ちの形になっていた。
 この日の不幸は、左馬が戦帰りだった事である。
 井川の両腕の防御の上に、左馬が、八尺の金属棒を、掬い上げるように叩き付けた。そうしながら、もう一端で柳の右鎖骨を、此方は沈めるように殴っていた。
 棒とは、中々に器用な武器である。真ん中を持って回すように振るえば、一端が浮く時、もう一端が落ちる。これで、二面を同時に打てるのだ。
 利き腕の根元を砕かれ、柳が反射的に体を丸めた――丸めようとした。下がる顔面を、左馬の足の甲が迎えた。足裏が天頂を向く、派手な蹴りであった。
 柳が昏倒し、倒れる。その間、井川は腕の痛みにのたうち苦しんでいた。
 骨を、防具も無しに強打されたのである。指を箪笥にぶつけるのとは訳の違う激痛が走った。恐らくは、前腕の骨が折れていた。腕を潰されて戦う程の気骨は、襲撃者には備わっていなかった。

「あー、あー……止めとけって言ったのに……」

 さて、六人の襲撃者が、これで残りは二人だけである。
 ぼうっとした顔の男が、倒れ伏す同輩を眺めてため息をついた。仲間が殴り倒されるのを黙して眺めていただけの、肝の太い男である。
 この顔は、村雨にも左馬にも覚えが無かった。六人組のうちの五人は、顔もなんとなくだが覚えがある。道場破り道中で、実際に殴り倒したり、壁際に並んでいた者達である。

「そこのお前、お前。こいつらのお仲間かい?」

「んん。一応」

 のっそりと、男は頭を下げた。――頷いたらしかった。
 表情は締まらぬままである。目を瞑れば、そのまま寝てしまいそうな、だらけきった顔だ。

「この前は、何処にいた」

「……寝坊して、家で寝てた」

「へぇ。お前、のんびりした男なんだね」

 頭をばりばりと引っ掻きながら、男は少し恥ずかしそうに答えた。怠惰を恥じる気性はあれど、その正常な感性が、恐怖を覚えてはいない――どうにも、一風ずれた男であるらしかった。
 それが、左馬にはいたく気に入ったらしい。肩を小刻みに振るわせて笑った。ぐつぐつと煮えた鍋の湯気が、蓋を浮かせるような笑い方であった。愉悦が腹の底から湧き上がって来たのである。

「我流、松風 左馬。手合せを願おう」

 気取って名乗り、金属棒をその場に落とした。両手とも拳を作って、軽く掲げ、踵を浮かせた。
 たん、たん、と小刻みに跳ねる――西洋の流儀の格闘術である。左馬が〝自分のやり方〟としているものではない。
 伊達に飾るのが好みの女が、どうしてこうも実戦本意に構えたかと言えば――敵に敬意を払ったというのが一つ。そして単純に、負けたくないというのが一つである。

「……く、ふ、ぐふっ、ふ」

 男は、気味の悪い笑い方をした。締まらぬ顔の侭で笑って――懐から、寸鉄を取り出した。五寸程の金属に、中指を通す輪を付け足した暗器である。
 指を輪に通して握り込むと、拳が重くなるのに加え、中指を金属の輪が覆うのと、拳の左右に金属が突き出す。ただ殴るのも良いし、鉄槌――握った拳の小指側、手の肉の厚い部分を落とす打撃――などすれば、突き出した金属が刺さる。
 然し、構えは柔術なのだ。足をべたりと地面に触れさせて、両手とも体から少し遠くに置く。腰は低く、でかい図体を無理に縮めたような構えである。

「五銭流柔術、北条 六……受けた」

 この男、北条もまた、修羅であった。
 ざりざりと、靴の底を路上に引きずって、左馬に迫る。北条が詰めた間合いの半分だけ、左馬が下がる。これを三度繰り返すと、男の拳が左馬の顔に届く距離となった。
 それでも動かない――僅かに間合いが遠いのだ。寸鉄を携えながら、北条は飽く迄、柔術で左馬を仕留めるつもりであった。
 北条は、牛に似ていた。力は有るが、外から見る姿は温厚で、普段はのったりと動く。だが、脚や肩の起りを見ると、内に秘めた力が垣間見えるのだ。
 鈍牛の周りを、左馬が回り始めた。細かに飛び跳ねながら、横へ、横へ。止まらず、動き続けた。
 北条は、その動きを、自分も体の向きだけ変えて追い掛けていく。背後に立たれたい相手では無いのだから、当然の事だ。
 時ばかりが過ぎるように思えた。間合いは変わらず、北条の拳が、左馬の鼻を潰せる所にあった。
 然し――何も変わらないように見えても、それは飽く迄、傍目の事。当事者二人の間には、奇妙な一体感というか、同じ場を共有する者同士の調和が有り、それが変化を読む事を容易くしていた。
 例えば――北条の瞼を伝う汗、左馬に蓄積した疲労と眠気、風向き、遠くの人の足音。その他、意識を外へ引っ張る一切に加えて、互いの呼吸。意識して読むのでは無かった。動物的に、嗅ぎ分けていた。
 先に動いたのは、北条であった。対峙してから幾分かの――洋風の言い方をすれば〝五分程〟の――時間が過ぎてからである。
 柱の様に太い脚が、左馬の左膝目掛けて振り抜かれた。下段の回し蹴り――こちらも、日の本の技術としては珍しいものであった。
 左脚を上げ、脛の部分で、左馬はそれを受けた。見た目を裏切らぬ衝撃が骨まで届く。これを機と、北条は一気に距離を詰め、寸鉄による諸手突き――両拳同時での打撃を、左馬の喉元へと放った。
 受けなかった。弾きもしなかった。左馬はほんの一歩、斜めに踏み込んで、

「〝阿〟ッ!!」

 突いた。右拳で、喉であった。狙われた場所へ、左馬は返礼をしていた。
 北条の体がゆらりと傾いて、仰向けに倒れる。意識は無い。時折咳き込むが、口の端から零れるのは、気道から上る血であった。 これで、六人組は、残り一人。とはいえ、その一人は完全に怖気づいて、左馬にも村雨にも、一歩も近づけぬ様子である。

「片付けを頼む。良い男だ、死なせないでくれたまえ、いいね?」

 その臆病者に、背を向けながら言い残して、左馬は何事も無かったかのように歩いた。
 投げ捨てられた金属棒を拾って、村雨がその後を追った。
 この日、二人が訪れた道場は三つ。看板を奪われた所は無い。叶わぬ相手には、金銭で話を付けるのが、賢い連中のやり方であった。








 松風 左馬が居を構える神山の、中腹に浅い川が有った。
 一番深い所でも膝を濡らす程度の、魚も然程は澄まない、狭く小さな川である。
 春ならば周囲を覆う木々に花が咲いて、雅やかな風情さえ灯すのだが、今は枯れ木と枯草に、それから雪が囲む山水画の如き風情であった。

「ああ、一日ぶりだ……戦場は嫌いじゃないが、血が髪を固めていけないな」

「師匠も兜被ったらいいんじゃないですか?」

「それはそれで髪が崩れる」

「崩れる程の長さも無い癖にー」

 村雨と左馬は、その川で体を洗っていた。
 別に銭湯代を惜しむような暮らしはしていないが、血塗れで武具を携えていては、そも受け入れてくれる店が無いのである。
 身に付けている衣服全て、村雨は鎧から兜から何まで、全て真っ赤。脱いで川岸に並べ、まずは自分の体から洗っていた。

「褒賞も出た事だ、舶来の石鹸でも買うかい?」

「有れば確かに良いですけどね……はぁ……」

 川底の石に脚を預け、左馬は湯船に浸かるかのように、流れに手を遊ばせている。冬の寒さなど知らぬかの如き、平穏な面である。
 その身に、九頭の龍が絡み付いている。多色を用いた刺青である。普段は袖の長い衣服を着ている左馬だが、肌を露わにすれば手首にも足首にも、全身余す所無く、龍がその身をのたうたせている。
 一方で村雨は、やはり数か月程度では特に何が変わるでも無く、大陸でも雪国だけに有るような白い肌である。傷は幾らか増えていたが、何年も残るような傷は無い。そして、やはり変わらず薄い胸を上下させ、しきりに溜息を吐いていた。

「どうした、疲れたのかい?」

「師匠が元気なのがおかしいんですよー……」

 村雨の表情には、疲労の度合いが見て取れた。夜を徹した戦の後、道場を三つも回ってきたのだから無理も無い――と言いたい所だが、然し左馬は平然と髪を洗っているのであった。

「おかしいかい? それこそおかしいな、お前は私と同じくらいは走れるじゃないか」

「そりゃ、走るのは得意ですけど」

 村雨もそう思っているからこそ、少しむくれているのである。
 実際の所、この二人の身体能力に大差は無い。いや――寧ろ、村雨が上回っている部分の方が、多いのかも知れない。
 左馬は、複合型の武術家である。当然、激しく己を鍛えているが、必要ならばそれに加え、身体強化の魔術も用いる。戦場に立つ時などは特にそうだ。何をも用いない素の性能ならば、村雨は生まれついての捕食者、人と比較など出来ないのだ。
 にも関わらず、同じ局面を潜り抜けて、左馬は疲れた様子も無い。溜息が重なる村雨であった。

「……なんだ、まだ気付いていなかったのか」

「え、何がですか?」

「お前が、私より随分早く疲れ果てる理由」

「そんなの、有るんですか?」

 幾度目かの村雨の溜息の後、左馬は、師匠らしい事を言おうとした。村雨の反応には、溜息を一度返してからである。
 耳程までの短い髪は、既に血を全て洗い流した後で、体――背から胸、腹、四肢に至るまで刺青で覆われた――を川の水で流しながら、左馬は村雨に教えた。

「お前は跳び過ぎるんだ。跳ねて跳んで、避けながら相手に近づいて打つ。悪いやり方じゃないが、動き過ぎる。
 いいかい、七寸横へ動けば、胸骨狙いの突きだって避けられる。なのにお前は、体ごと跳ね上がって上に躱したがるだろう? 確かにお前と私は、同じ人数を相手にしていたかも知れないが、お前は私の何倍も動き回ってる。疲れて当然なんだよ」

「はー……」

「だから、見切りが必要になる。三寸で良いなら三寸、一寸で良いなら一寸。動きは最少に留めて避け、最少の動きで仕留める。喉、鳩尾、相手が男なら金的。こめかみや顎の先、脇腹でも良い、眉間も悪くない。兎に角、一撃で仕留めるには的確に急所を突く必要が有るけれども、それが相手に避けられない為には、迅速な打が必要だ。
 自分の動きを最小にする――お前にはまだまだ、無駄が多いんだよ」

 この日の左馬は機嫌が良いらしく、川の中で立ち上がると、村雨が取るのと似たような構えをした。
 架空の敵に対して左足を引き、半身になる。膝はほんの僅かに曲げて、踵は浮かせる。右拳を腰に添え、右肘を敵に向けて突き出す。左手を開手として、顎の前に置く。
 おおよそ拳法だとか柔術だとか、古来の伝統には似つかわしくない立ち方であるが、それは村雨が、組み技より打撃を得手とするからである。足運びで相手の拳足を躱し、手で打を与える組み立てとなっていた。手に刃物を持てば、そのまま鎧にも対抗できる形である。

「まず、お前が、こうだ」

 左馬の左足が、川面に爆ぜた。慎ましく――とは言うが三尺程踏み込み、右足が激しく水を蹴立てて着水する。 前進する勢いを前足が殺し、上半身が前へ出て――右肘が跳ね上がる。右手首が撓る。右拳が虚空に奔って、ひょうと鳴いた。
 それは確かに、村雨が得手とする、踏み込みからの右拳上段振り上げ突きの形である。拳面を相手の顎に突き刺す、背の低さを補う為の技であった。

「飛び跳ねて打つ、これで一度、お前は動いた。次の相手に向かって行く時は、また跳ねなきゃならない。三人を相手にするのに、お前は三回跳躍する――と、しよう。私ならこうする」

 左馬はもう一度、同じ構えを作った。
 だが、動きは違う。わざと大袈裟にしているのかも知れないが、前足――右足を、腰より高く持ち上げ、

「――かっ!」

 水面へと振り下ろす――川の水が寸刻、逆巻く滝のように舞い上がった。そして左馬は、三挙動を一呼吸の間に終えていた。
 一つ。身を沈めながらの右拳膝打ちと、同時に背後を攫う左裏拳。
 二つ。伸び上がりつつ、両拳をそれぞれ、斜め上方に突き上げる。
 三つ。左腕を振り下ろし、何かを掴んで引くような動作――に合わせ、右爪先が高々と、恐らくは人間の首を想定した位置へ、側面から突き刺さった。

「これで、三人だ。分かったかい?」

「――――」

 答えが無い。

「……おい、村雨」

「は――あ、は、はいっ!」

 村雨は――目を奪われていた、というのが正しいのだろう、左馬の三挙動を目に焼き付けたまま、まばたきもせずに居た。
 過去の己であれば、今の動作の意味も、何故左馬が一連の技を見せたかも分からなかったはずだ。今は、分かるからこそ戦慄している。
 最初の左右打は、何れも低く放たれていた。沈墜の勢いを力に変える、隣国の拳法風の打ち方である。正面に立つ相手の膝を砕きながら――時には股間なり、臍を打つ事もあるだろうが――背後の一人の、胴を強かに打つ。
 次いで、両拳の突き上げ。初撃で崩した相手の顎を打ち上げるものだ。先に沈めた体を跳ね起こしながらの打撃は、踏み込みは無くとも、重い。
 そして、最後の二動作。左腕を振り下ろして空気を掻いたのは、突きを想定してのものである。拳であろうが、凶器を手にしての突きであろうが、手首を掴んで引き寄せ崩し――上段への蹴りで終いとする。
 即ち、左馬が想定していたのは、三人を相手にしての、〝囲まれた前提〟での立ち回りであった。

「相手から近づいて来るなら、相手に動いてもらえば良い。私は迎えて打つ――だから疲れない。あと二つや三つ、道場を潰して回ってもそれは変わらないさ」

「……はい」

 これも幾度目かの、思考の革新であった。
 自分の中には無かった概念を与えられる度、村雨は、目の前の女の、武技の深さに圧倒される。そして、この粋に達するまで、どれ程の壁が有るのかも見えなくなるのだ。強さという道は、霧中に千里を行くが如しであった。

「さて、ところで、だ。今回の〝歩かない踏み込み〟を、お前には教えていなかったね」

 左馬は、思い出したように言う。この日は本当に機嫌が良いのだろう、普段ならば言わぬ事まで、細かに言うのである。

「踏み込みというよりは、その場を踏み締める――捻り、沈むという風に捉えた方がいいかも知れないな。意識としては、そう――」

「っ、はい……」

「――上から五頭目の、右足のあたりを開いて沈める感じだ」

「はい……?」

 言うには言うのだが――然し、あまり上等でない教え方ではあった。己の身の刺青を目印にして、左馬は言うのだが――

「えーと……この辺り、ですか?」

 村雨が、自分の右脚の外側、膝より少し上を指差す。
 僅かに沈黙。そして、ごつん。左馬が拳骨を飛ばしていた。

「何で分からないんだ!?」

「分かるかそんなもん!」

 九頭の龍が複雑に絡み合う刺青である。どこからどう数えて五頭目なのか、右足とは前足なのか後ろ足なのか、まっこと言葉の足りぬ教えであった。暫し師弟はぎゃあぎゃあと喚き合い、何故か其処から殴り合い――という名目で、実際は左馬の折檻が始まる。双方五回程拳を放って、命中したのは左馬の打ったものが二つだけであった。

「うう、理不尽だ……、ん?」

 村雨は我が身の不幸を嘆きながら、殴られた肩と頭を流水で冷やしていた。
 ――と、その時である。風上――川が流れて行く先、山を降る方向――より微かに、覚えのある臭いが漂って来た。
 人ではなさそうな気がしたが、然りとてこの臭いを嗅いだ村雨が思い出すのは、少し賑わった町なのである。どういうことかと首を傾げていると、ますます臭いは強くなった。
 どちらかと言えば、山野に似合いそうな臭いである。悪臭では無いが、骨身に染み付いて抜けない、獣臭があった。はて、何処で出くわしたものかと考えて、

「……あっ!?」

 それがどこか、雪原を思わせる臭いであると思い至るや、村雨は川岸の服を抱いて、真っ先に目についた茂みに飛び込む。それと、中折れ帽にこれまた返り血を浴びた男が、のっそりと現れたのはほぼ同時であった。

「……今、なんか居たな」

 茂みに逃げ込んだ影を、目で追う。六尺六寸の長身が、首も曲げずに目だけで追うのだから、見下ろす角度はかなり急である。
 背は高いが、でかいというのも、また違う。柳のように撓る体を持つ、長身の男である。

「小さな鹿、とでもいうことにしてくれたまえ。……何用かな」

 洋風の丈の長い外套と、中折れ帽。襟を立てて顔を極力隠す。葛桐の格好は、冬でも夏でもまるで変わらなかった。
 昨夜の戦闘にこの男も加わって居たと見えて、洗い流しても血臭はまだ消えていない。体毛にまで染み込んでいるのでは無いかと言う程だ。
 左馬は、あからさまに良い顔をしない――亜人を半獣と蔑む性質である。上機嫌も忽ちに消えて、眼差しにこわい物が混ざった。

「届け物だ、二つ。一つは松風 左馬……お前にか。もう一つは村雨、あの餓鬼だ。あいつは……」

 そういう目には、慣れているのが葛桐である。気にした様子もなく、空を見上げ、鼻を二度程鳴らした。
 人狼程では無いにせよ、クズリも人より鼻は良い。探し人が――いや人狼だが――隠れている草叢に歩み寄った。

「何やってんだ、村さ――」

「やあ! 久し振りだね! どうしたの!?」

 葛桐が草叢をあばこうとするよりほんの僅かに先、早業で着替えを済ませた村雨が、そこから立ち上がった。体も拭かずの早業であるので、立ち上がると髪がべったり顔に張り付き、ズボンの裾から裸足に水滴が滴り落ちているのである。

「……お前がどうした、村雨」

「どこかの誰かが配慮してくれればこんな事にはなってないんだけどね! で、届け物……?」

 髪の水を絞りながら、村雨は無配慮に憤然として立ち上がり、葛桐に話を促す。そうする間も、時折は首を振って水滴を弾き飛ばしている――ちょうど雨に濡れた犬猫のように、である。

「大したもんじゃねえがな……給金の明細だ。振込済み、み月分」

「へ? ……ああ、そうか、全然機会が無かったっけ……あんまり働いて無いしそんなに――って高っ!?」

 村雨が所属する人材派遣業『錆釘』は、給与は手渡しが多いのだが、どうしてもその機会が無い場合に備えて、西洋風に銀行を利用している。まだ町民レベルでは普及していないが、先進的であることを良しとするのが『錆釘』の気風である。村雨が渡されたのは、その口座に振り込まれた金銭の明細が、封筒に三枚、三ヶ月分収まっていた。
 村雨が驚いたのは、その金額である。
 明細の項目は一つ、〝危険手当〟だけなのだが――端的に言えば、村雨が普通に働いている月の平均給与を、五倍もしたような額面なのだ。それが、三ヶ月分なのだから、更に三倍であった。
 食事以外にさして金を使わない村雨は、灰色の目を白黒させて、金額を幾度も見直した。

「……うっわー」

「それが、命の代価だ」

 左馬の方はというと、どうも金額は知っていたらしく――時折、給金を直に受け取りに行っていたのだろうが――村雨の困惑に、理由を説く。
 村雨の表情は、にわかに固くなった。

「死ぬか死なないか、二つに一つ。その博打を繰り返して、勝てば小金が入り、負ければ貯めた金は無価値。……まあ、これでも私達はいい方だ。並の兵士の十人分は貰ってる。悲惨なのは端金で戦場に出され、然も断れない連中だ」

 命の代価――そう表せば途端に、明細に並ぶ数字が小さな物に見えた。
 死ぬか、五ヶ月分の給与か。金銭目的なら、こうも分の悪い賭けは無い。余程食い詰めた所で、乗るか降りるかと問われれば、降りる者が多いのではないか。
 ましてや、弱兵に至れば――月の大半を過酷な調練に費やし、月に一度は命を賭ける。運悪く最前線に配置されれば、それだけ死ぬ危険は増す――死んで報われる何も無い。

「出来るだけ雑に使いたまえ、村雨。こんな稼ぎ方で得た金を、後生大事に使っちゃいけない」

「……はい」

 村雨は何故か素直に頷いていて、実際にこの金は散財しようと決めていた。自分の命の代価にしがみつくのが、どうにも耐え難き事だったのだ。

「それで、お前、お前」

 村雨が豪遊の意思を固めた頃、左馬が、葛桐を呼んだ。
 何とは言わなかったが、目が、話の先を求めている。葛桐もそれを察して、外套のポケットから、封書を一つ、取り出した。

「中身は知らねえ、渡せと言われただけだ……小金になるしな」

「小間使いご苦労、どれどれ……変わらず酷い字だ」

 ひったくる様に受け取り、紙を開き、目を通す。目玉だけ左右にせわしなく動き回り、

「村雨。三日間、道場破りを休もう」

「えっ」

「戦の前準備だ。万が一にも体を痛めるものは止めて、型と空打ちだけにしておく……数日分の怪我は、一日で背負えるからね」

 何やら良からぬ事を企む顔の、左馬であった。

「……なんなんだろう」

「俺に聞くな、帰るぞ。……それとよ、村雨」

「ん、何?」

 仕事を終えた葛桐は、談笑を楽しむでもなく山を降りようとして――

「そこの女に、服を着せろ」

 思い出した様に、言った。

「何を言う、私の美しい肉体を万天に晒す事に、何か差し支えがあるのかい」

「……師匠、人としての恥じらいを――」

 鋼の如き四肢、括れた腹を見せびらかすような格好をする左馬に、村雨は無理と知って忠言をし、

「――あ痛っ!?」

「美醜の分からない奴は嫌いだ」

 拳が奔る。松風 左馬は、反省とは無縁の所にいる女であった。








 それから、中三日を開けて、四日目になった。
 その日は朝から暗天が続き、冷たく、また薄暗い日だった。
 先に二日程雪が降った為か、路上は凍り付いているが、馬車が転倒しない程度の氷である。
 寧ろ凍て付くのは、風であった。くぉう、くぉうと風が鳴いて、肌に噛み付くような寒さの日であった。

「村雨、お前には一通りの打撃は教えた。投げ、絞め、挫きはまだ不足だろうが、この近辺の道場で、お前に勝てる奴はまず居ない」

「……なんですか師匠、いきなり気味が悪い」

 村雨は、左馬に付き従って〝看板通り〟を歩いていた。ここを歩くと闇討ちを仕掛けられる事は良くあるが、戦場で出くわす幾百の槍、幾千の矢には遠く及ばない腕の者ばかり。左馬ばかりか村雨も、酷く傷を負う事は無くなっていた。
 それは、村雨自身も自覚している。元より人狼の身体能力、狩猟の経験は、並みの武術家の非では無いのだ。
 とは言え、それを左馬が称賛するなど初めての事だった。寧ろ普段は、未熟のなんのと謗られているだけに、その裏に何が有るのか分かりかねて、探りを入れようとしていた。

「いいや、本当の事だ。この私が教えたのだから、その程度は出来ていて当然だ――が。
 私もこれで、好奇心が強くてね。お前がどこまで出来るのか、試してみたくなった」

「試す、ですか?」

「ああ。片谷木かたやぎ 遼道りょうどうという男を知っているか?」

 その名を聞いて、村雨は暫し考え込んだ。確かに数度ばかり、耳にした名前であるのだ。

「……〝破鋼道場の片谷木〟……?」

「そうだ、それだ」

 幾らか考えて、確か狭霧兵部が口にしていた名であると思い出す。そうすると連鎖的に、幾つか思い出す事が有った。
 片谷木は、村雨達と同じ『錆釘』に所属する者である。関西方面でつわものを上げて、兵部の口から三番目に名が挙がったのが、彼であった。

「あれも、比叡攻めの招集は掛かっていた筈なんだけどね。ついぞ応じないで、京にも戻らずに居たんだが、やっと数日前に道場へ戻って来たらしい。
 道場とは言うが……まあ、真っ当な弟子はあまり居ないな。武家の子弟を何人か抱えて、月謝を取って、後は『錆釘』で働いて稼いでいる。道場破りも好んでは寄りつかない」

「強いんですか?」

「私は、勝った」

 〝看板通り〟の中程、これまで何度か通り過ぎた、小奇麗な道場の前に、左馬は足を止めた。村雨も興味を持って覗き込んだ事は有ったのだが、常に人の気配は無く、留守を示す札が玄関先に吊り下がっているばかりであった。
 今にして思えば、奇妙な事である。主が不在の間、気性の荒い連中が、その道場を荒らす事も無かった。時折、どこぞの娘が掃除にでも来ているのか、砂埃も積もらぬ様であるのだ。

「頼もう! 私だ、左馬だ!」

 がん、がん、と戸を殴りつけてから、左馬は二歩ばかり下がって待つ。少しばかりすると、床板を軋ませる重量が、近づいて来るのが、村雨にも感じ取れた。程無く向こう側から戸が開かれた。
 そこには、まだ三十にはならぬくらいの男が立っていた。道着を着た、六尺程の、体の分厚い男であった。

「おう、左馬か」

「そう言っただろう、私だと。健勝かい?」

「変わらずだ、上がれ……それは?」

 男は――片谷木 遼道は、細い目で村雨を見る。細めているというより、目の周りの骨が厚くなって、瞼が狭まっているのである。幾度も殴られて出来た顔であった。
 村雨は、軽く頭を下げる。顔が地面に向いている間も、頭にひしひしと視線を感じていた。見定められているのが分かった。

「私の弟子だ。お前と手合せをさせたい」

 左馬がそう言うと、片谷木の中で何か、恐ろしいものが膨れ上がったような、そんな気配が漏れ出した。
 見れば、顔も胸も、腕も脚も、兎角分厚い――そればかりをまず思うような男である。仁王像が動き出したような、独特の威厳を背負っている。静かな顔をしているのに、その体つきが凶暴であった。だから、抑えきれぬ気配が滲むのだ。
 村雨は、自分の足が後退したがるのを感じた。危険から遠ざかろうというのも、これも獣の本能の一つである。
 今、この瞬間に不意打ちを仕掛けても、この男はまるで造作も無く対処するだろう。確信を持てる程に、片谷木は既に、戦場に在った。

「鍛えるのではなく、手合せか」

「そうだ、手合せだ。存分に打て、こいつにも思い切り蹴らせる。村雨――私の弟子がどうやってお前に勝つか、私はどうしても見てみたいんだよ」

「……そうか」

 腹の底に巨大な獣を収めたまま、片谷木は二人を招き入れ、板張りの廊下を過ぎて、畳の道場に通した。
 広くは無いが、それでも五人ばかり同時に演武を為す事は出来よう。掃除の行き届いた、人の気配の薄い道場である。
 だが、臭いは有った。血も汗も、もしかすれば反吐や小便や、酷く叩かれた人間が零すもの全てが、沁みついては拭われ、沁みついては拭われして出来る臭い。村雨も道場破りを散々させられたが、これまでの何処よりも過酷な臭いであった。

「どの程度の、手合せが望みだ」

 片谷木は道場の真ん中に立ち、帯を固く結び直した。
 左馬や村雨が良くやるように、体を慣らすように動いたりはしない。ぬうと突っ立って、そう問うのみである。

「殺さないでくれ、それだけで良い。それ以上ならどうなろうと、私が知った事では無いからね。……村雨、用意をしろ」

「……はい」

 村雨は――此処まで、片谷木の持つ空気に圧倒されていた。左馬に名を呼ばれて漸く、思考が、闘争へと切り替わる。
 そして、身構える。常の様な、右肘を前方に突き出し、開いた左手で顎を庇い、右半身を相手に向ける形だ。小刻みな跳躍が、畳をしずと鳴らした。

「――良し」

 片谷木もまた、構えた。
 左足が前、右足が後ろ、肩幅より少し広く開く。腰を落とし、右拳を鳩尾に沿え、左手は手刀を作って軽く突き出す。呆れる程に真っ当な、奇を衒わぬ構えであった。
 村雨のように、歩を細かく刻みはしない。一度構えてからは、呼吸をしてさえ胸も腹も膨らまぬ程、岩の如く、そこに在るのみである。
 何時の間にか、手合せは始まっていた。








 村雨は小刻みに跳ねながら、右へ、右へと回り始める。同時に、片谷木の姿を眺めた。
 例えるなら、男を粗雑に扱う桜が、珍しく好む類の人間だと感じる。無駄が無く、無骨で、そして強そうだ。
 どれ程強いのかと問われると、正直、村雨では測れない。ただ、相当の腕であることは、既に探りを入れて分かった。
 例えば、拳を少し引き下げて防御を薄めるなり、視線をあらぬ方向に飛ばして見せるなり、幾つも幾つも、村雨は誘いを掛けた。だが片谷木は、足の前後を入れ替えず、じりじりとにじり寄るだけであった。
 並の拳士であれば、膠着に耐えられず、見えた隙に付け込まんとするだろう。自制の利く強さが伺えた。

「どうした村雨、攻めあぐねたかい」

 左馬の野次が飛ぶ。実際に、その通りである。何をしても動じぬ相手には、初撃が特に悩むものだ。
 だが――ならば、最も確実に当たり、確実に打ち倒せる技を。村雨は、腹を決めた。

「……ほう」

 すると、片谷木が感嘆の声を零した。村雨の構えが変わらずとも、何かが変わったのを鋭敏に嗅ぎ取ったのだろう。
 村雨は緊張のあまり、己の頬が吊り上がるのを感じた。目が平常のままに破顔した、歪な笑顔が仕上がっている。高揚と恐怖が程よく混ざると、人の顔はこうなるのだ。
 村雨の左足――後ろに置いた足が、床を押した。矢弾のように、小さな体が進んだ。
 片谷木は左手刀を顎の前に運び、不動のままに待ち受ける。村雨の構えから、拳打が主武器と踏んだのだ。
 それを、村雨は裏切る。最初の一打は右踵での、片谷木の左爪先への踏み付けであった。肉の防壁が無い足の指が、全体重を支えられる構造の、踵の骨で打たれた。
 然し――片谷木はまるで動じない。手刀をそのまま横へ、村雨の首筋目掛け振るうのだ。

「らぁあっ!!」

 村雨は吠えた。身を沈め、手刀を潜って避けながら、右肘を突き出す。空隙の生まれた、片谷木の左脇腹へである。
 片谷木が、右掌で受ける。
 同時、左拳による鉄槌――小指側の分厚い肉を用いた、打ち下ろしの打撃が村雨の頭蓋を狙う。
 村雨が、左の前腕を振り上げて止める。
 そうすれば、片谷木の右脇腹が空く。村雨が、足指を踏み付けた踵をそのまま軸足にして、左膝を捩じ込むような蹴りを打つ。これが過たず、狙った箇所へ突き刺さる。

「……ふっ」

 短かな吐気と共に、片谷木の右拳が動く。一度鳩尾まで引き、構えた高さから真っ直ぐに、拳を捻りながらの突き――膝蹴りを打ち終わった村雨の、肋を殴り付ける軌道であった。
 丸い、左馬のそれと良く似た拳――骨も肉も皮までが硬く変じた、正しく鈍器である。誘いも掛けず、防がれぬような策も無く――然し、速い。畳など貫いてしまいそうな突きであった。
 村雨は、それを躱していた。

「むぅ――」

 唸る片谷木の右拳の上に、村雨は立っていた。右脚だけで飛び、左足で拳の上に降りたのだ。
 直ぐ様、片谷木は拳を引くが、その時には既に、村雨はもう一度、宙空へ舞い上がっていた。
 独楽を横倒しにしたが如く、村雨は縦に回った。回りながら落ち――胸に抱えた両脚を、ぐ、と伸ばした。両踵が、斧の如き重量と、矢の速度を伴って振り回される。
 片谷木は、左手を掲げて受けようとした。受けた手を巻き込み、村雨の両踵が、片谷木の顔面に突き刺さる。血袋を叩いた時の、ぐしゃ、ともぐしょ、ともつかない音がした。

「あー……」

 それを見ても、左馬は溜息を吐き出し、首を左右に振るだけであった。
 片谷木は、直ぐに動いていた。顔に打ち込まれた村雨の両足を、左手一つで強引に――親指で左足首、中指で右足首を――掴み、床に投げ落とした。

「えっ――」

 それは村雨には、全く居を突かれたものであった。
 手応えは十分に有った。〝これ〟を感じた後で、敵が立っていた事は無い。狩猟に於いては野の獣、組手ならば様々な武術を学んだ者達――何れもこの手応えの後、暫くは抵抗の力を失うのである。蹴り足を引くより先に相手が動くなど、有り得ぬ事であった。
 村雨はどうにか、両足から着地した。本能的に両腕を、胸の前で交差する。身体を後方へ傾け、床を蹴ろうとした。

「せやあぁ――っ!!」

 逃れる村雨の身体に倍する速度を以て、片谷木の丸岩のような右拳が追い付く。
 それは、受けも何も通用せぬ――〝日の本最強の正拳〟であった。








「……うわおう。片谷木、変わらないねお前」

 たった一つ、片谷木が拳を振るった後――左馬は、諦めたような顔で言った。

「私は加減が下手だ」

「知っていたけれども」

 村雨が、道場の壁にめり込んでいた。
 後方へ身を逃しながら――相対速度をぐんと落としながら、受けた拳である。
 両腕を交差した、最も強固な防御で、受けた拳である。
 腕を貫いた衝撃が叩いたのは、胸だ。頭では無い。
 だのに村雨は、磔刑に処された罪人の如く、壁にめり込んだまま、意識を失っていた。

「毎回、これかい?」

「大概は、最初の手刀で終わる。拳を振るったのは久しぶりだ」

「ふうん、頑張った方か。……で、修繕をどうするつもりなんだ、片谷木」

「……板で塞ぐ」

 屋内という環境や、後先を考えぬ一撃。
 破鋼道場と言う名には、何の掛け値も無いのだ。鋼をも打ち破る拳だからこそ、そう名乗るのである。
 強さとは総合的なものであり、力も、速度も、戦術も、場合によっては容姿でさえ、構成要素と成り得る。そういう基準で比べたのなら片谷木は、左馬に一度、破れている。
 だが――打たれても堪えぬ強靭な体と言うならば、片谷木に勝る者は、日の本に五指を埋める程も居るまい。
 そして、拳の破壊力を比べるのであれば、恐らくは雪月 桜や波之大江 三鬼さえも凌駕して、この男は日の本一であった。
 片谷木の鼻から、つうと血が垂れる。手の甲で一度拭うと、それでもう血は止まっている。
 特に効いたという様子も無く、片谷木は道場の中央に正座をする。

「続けても、良いのか」

「お前が良いなら、私は部外者だ。文句は言わないさ」

「ならば」

 片谷木は目を閉じて、静かに待つ。血が脈打つ音まで、聞こえそうな静寂が降りた。
 しんとして座して、さてどれ程か、百も数えぬ辺りだろうが、村雨が息を吹き返す。
 これが戦場であれば――仮定の話は虚しいが、仮に思うならば。村雨は幾度、殺されていただろうか。
 首をかかれるか、心臓を突かれるか。いずれにせよ、数度、死んだ。
 だが、村雨は、己が殺されたという自覚どころか、何を受けて意識が跳んだかさえ定かではないような、虚ろな目で立った。
 埋まった体を、壁から引きずり出す。
 足がもつれて、今にも倒れそうになる。両手を床に置いて、耐えた。

「――っは、かぁー……っ」

 床に四肢を全て着けたまま、村雨は息を吐き出した。
 左腕が紫色に変色している――折れてはいないが、骨に罅が入っていた。右腕も痺れていて、まだ拳が作れない。それ故、開手で床に触れさせる。

「良く立つものだ」

「そりゃあ、私の弟子だもの」

 ふいごのような呼吸音を聞いて、片谷木は目を開け、右足から立ち上がる。岩の如き拳を握りしめ、また愚直に、初めと同じ構えを作った。飽く迄も、迎え撃つ形であった。
 対する村雨は――両足とも、踵を浮かせた。両肘を曲げ、頭を低くする。それは、もはや人間の取るべき構えでは無かった。
 瞳孔が拡大し、眼球の強膜は水色を帯びる。顎関節の可動域が増し、犬歯は肥大化し――口元にべったりと、血のように笑みが張り付いた。

「……左馬。殺さねば良い、と言ったな」

「間違いない。そうしなければ好きにしろ」

「おう」

 片谷木の拳から、みき、と音がした。鋼を凌駕する拳を、更に握り込んで固めた音である。村雨はその音を、心地良さげに聞いていた。
 ようやっと、村雨の中の獣が目を覚ました。

「っはは、あは……ぁあ、あっ!!」

 後ろ二足が床を蹴る。村雨の体は床を這うように、低く、低く馳せる。その背が、片谷木の腰より低い程だ。
 低く入る獲物には、打つ手が限られる。片谷木はこの時、最も簡単且つ、実践的な手を選んだ――踏みつけである。
 左足が浮き、打ち下ろされる。人間の頭蓋など容易く潰せる衝撃に、床板が爆ぜる。
 村雨は、膝の下を潜るように片谷木の足から逃れ、その足の外側にすうと立った。

「ふんっ!」

 片谷木が、左腕を振るった。裏拳でも肘でも無く、前腕を丸ごと叩き付ける、技とも呼べぬ打撃である。
 村雨は、水を掻き分けるような動きで、その腕を右手で受け流す。
 流したとて、並々ならぬ衝撃である。
 もはや、痛むという認識では無い。腕の中に火が燃え上がって、骨や肉を焼くような感覚だ。
 指の力が抜ける。拳は作れるのだが、固めた拳に残る筈の力が、肘から抜けていく錯覚に、村雨は襲われている。
 だが拳など、無数の武器の一つに過ぎない――それが、松風 左馬の教えだ。

「――ひぃいやっ!」

 村雨が、笛のような声と共に、右爪先を跳ね上げる。たった今、自分を叩いた左腕の、付け根にそれは吸い込まれた。
 靴の爪先が、脇の下にねじ込まれる。肉の守りが薄い上に、打たれて鍛える部位では無い。骨をごりっと押し上げる感触が有った。
 肺を外から打つ蹴り――呼吸を阻害し、大男を跪かせるだけの効果は有る部位だ。さしもの片谷木も、僅かに動きが鈍るように見え――

「ぐ……っ、さあぁっ!」

 ――だが、止まらない。
 右掌底が、村雨の蹴り足の膝を横から叩いた。膝関節が生木のように、めり、とも、みし、ともつかぬ音がした。
 折られる前に村雨は、自ら右脚を外へ振るって、騎馬立ちになる。馬の鞍に跨るような、腰を落とした構えである。重い突きを放つのに向いた型であった。
 脚が開き、腰が落ちる、そうして生まれた加速に乗り、村雨は左肘を、片谷木の鳩尾へと突き出す。罅の入った前腕が悲鳴を上げたが、それは戦闘の昂揚に紛れて失せる。
 肘が届くまで近づけば、手脚の長短の利は入れ替わる。
 左右の肘で打つ、膝を跳ね上げる。或いは肩さえ武器にして、村雨は只管、片谷木を打った。
 片谷木は、避けも受けもしないで打ち返す。村雨に二度打たれる間に、一度、掌打を放った。
 村雨が、片谷木の膝を蹴る。
 片谷木が、村雨の胸目掛けて貫手を放つ。
 上体が天井を向く程に反り返り、村雨は、貫手の下を潜り抜けながら、片谷木の顎を蹴り上げた。首が太く、足を振り切る事は出来ない。入れ違い、手刀が二つ同時に、反り返った村雨の腹へ落ちた。

「ご、ぉごっ……!」

 少女の物とは思い難い程、濁って潰れた音が、村雨の喉から漏れた。
 突きを避ける為に反らせた体が、瞬時に逆に折れ曲がり、背中から床に落ちる。追撃は下段蹴り――頭部を狙う片谷木の足は、下駄のように大きい。村雨は右肘で受け止め、苦痛に呻きながらも床を転がり、片谷木から離れて立った。
 既に村雨は、満身創痍であった。
 左前腕に罅、右腕も痺れていて、或いは手首の腱がいかれているかも知れない。右膝は折れる手前まで軋まされ、胸も腹も鈍痛が纏わりつく。
 それでも、村雨は笑って、立つ。口の中を切ったものか、剥き出しにした牙が赤く染まって、人を喰らった後のような顔をしていた。

「……左馬、これ以上は」

「続けろ。村雨が立たなくなるまで、続けてくれ」

 片谷木は――躊躇わぬ男の筈であった。
 道場破りも殆どおらぬが、年に幾度か、物好きな男が立ち会いを挑んでくる事がある。その時、片谷木は容赦なく、その男の骨を圧し折り、路上まで叩き出した。
 手ごわい男に当たった時は、目を潰した事もある。そうしようと狙った訳では無いが、拳の軌道がずれ、眼窩を叩き壊したのである。
 貫手――指先での突きで、肩の腱を引き千切った事も有った。武術家としての生を断つ技である。
 だが、それは飽く迄も、互いの同意の上での事だと、片谷木は考えていた。
 目の前の少女が――村雨が、片谷木には理解出来ずに居た。
 見るに、武術に命を捧げたとも見えない。命じられるままに拳を構え、些か未熟な技術で打ちかかって来た――それでも、十分な礼として、正拳を返した。戦いに故が無いなら、それで終わりだろうと思った。
 それが、立つのである。
 嬉々として立ちあがり、激しい痛みをも意の外に置いて、鋭く打ちかかってくるのである。
 一体この少女は、自ら望んでいるのか、別な何かに動かされているのか、片谷木には分からなくなった。
 痛む筈の右脚で、村雨は蹴りを打つ。間合いの外から飛び込んで、爪先で目を狙う、打点の高い前蹴りである。片谷木は額で受けた。
 右足が床に降り、村雨がぐうと踏み込む。頭突きでの迎撃に対し、自らも頭突きを返さんとしているかの様に、背をのけ反らせての踏み込みである。それに片谷木が、右拳を合わせた。
 すると、片谷木の視界から、村雨は忽然と消えていた。

「ぬ……!?」

 突き出した拳を引き戻し、速度をそのまま、右肘に乗せて背後を薙ぐ。手応えは無い。村雨は、片谷木の拳の下を、上体を反らしたままで潜り抜け、背後で屈んでいたのである。
 頭上を片谷木の右肘が薙ぎ、髪を擦りながら戻って行くのを感じた時、村雨は跳ねた。両脚を片谷木の胴に巻き付け、罅の入った左腕を、片谷木の首にあてがった。右肘の内側に左手を当てて、右手を片谷木の後頭部に置き、両腕で首を絞りながら、右手で片谷木の頭を、俯かせるように押し込んだ。

「おう、裸絞めか」

 左馬が、持参した酒を煽りながら言う。左馬の見立てでは、血管を押し潰すに足る角度であったが――村雨の腕と、片谷木の首を思えば、瞬時には落とせぬと分かっていた。
 事実、片谷木は動いた。
 両手を背後――村雨の頭蓋へ伸ばし、掴む。両手合わせ十指――人の肉を千切り取る指である。耳でも鼻でも――望めば目でも、親指で潰せる位置であった。
 村雨の瞼に、片谷木の爪が触れた。僅かに力を入れれば、眼球が砕ける。容易く光を奪いとる事が、出来る筈だ。
 然し――それまでであった。
 片谷木は村雨の頭を掴んだまま、膝を床に着いていた。開いた口から、舌が垂れ下がっていた。








 片谷木かたやぎ 遼道りょうどうが目を覚ましたのは、決着からほんの僅か、さして時間も経たぬ頃であった。
 元より頑丈な男である。殴られての怪我はいずれも軽く、顔面を両足で酷く打たれたものでさえ、首に痛みを残さない。まるで微睡から覚めるかの如く、片谷木はすうと体を起こした。

「やあ、おはよう」

「左馬か……」

 片谷木はまず、周囲を見渡した。
 何も変わらぬ己の道場である。床板を一部踏み抜き、壁は広くへこませたものの、他に何が変わる訳でも無い。血やら汗やらの臭いが柱にまで染みついた道場である。
 自分が何をしていたか、思い出そうとする。一人の少女――村雨と、手合せをしていたのだと思い出す。
 既に道場を去ったか、村雨の姿は何処にも見えなかった。だが、姿は鮮明に、瞼の裏に描ける。
 技術は未だに不足だが、良く動く少女だったと、手合せの流れを思い返す。良く避け、良く打ち返してきた。だから、自分自身も強く打ち返した――上手く受けねば肋も胸骨も微塵になるような拳をさえ振るった。
 戦うのは、楽しいものだ。
 自分が放った打撃の一つ、受けに用いた技の一つ、頭の中で振り返って片谷木は楽しんだ。
 あの時こうしていればと、悔いる事は無い。だが、次にどうしようという案は幾らでも湧いて出る。全く戦いとは飽きぬ娯楽である――と、そうまで思索が辿り着いて、

「私は、負けたのか」

「……ああ、気に入らないが」

 両腕が首に巻きつく感触、血が上らなくなって意識が遠のく、あの感覚をも思い出す。視界がすうと狭くなって、頭が一度重くなり、それから心地良さが肺を満たす。真っ当に生きていては、そう幾度も味わう事の無いものだ。
 罅の入った腕で絞める――昂揚に身を浸している内は良いが、正気に返ってからが辛かろう。片谷木はどうしてかそんな、他人の事ばかり考えていた。

「片谷木、お前に失望した」

 毒気を含んでそう言うのは、顔に影の差した松風 左馬であった。

「負けたからか」

「手を抜いたからだ。女子供が相手と、手を抜くような男では無いと思っていた。だから五年前、お前は私の両腕を砕いてまで勝ちを奪ったのだろう?」

 左馬は、床にあぐらを掻いたまま、顔に浴びるように酒を煽っていた。酷く不機嫌なのが、声の棘から伺えた。
 自分はこの男に勝ったと、左馬は村雨に言った。その言葉に偽りは無いが――それより数年も昔、松風 左馬は、片谷木 遼道に敗れている。
 村雨と全く同じ流れだ――攻め込み、仕留めるに足る一撃を打ち込んだと確信した瞬間、〝日の本最強の正拳〟を打ち返された。両腕を交差して防ぎ――そして、両腕とも砕かれ、肋に罅を入れられ崩れ落ちた。
 左馬が勝利したのは、それから四年も後――つまりは、つい一年程前の事である。
 その時は、一度目に比べ、いずれも死に近づいた争いであった。
 片谷木はその時、左腕の腱を切り、また右膝を逆方向に曲げられた。両目を酷く腫らし、喉を傷め、腹には酷く痣を作り、二日は寝床から起き上がれぬ程であった。
 左馬は危うく左目を失う所であったし、圧し折られた肋が内側から筋肉に刺さり、危うく外側へ突き抜けかけた。鎖骨、胸骨、大腿、肩、罅は無数に入り、これで勝ったと言おうと、当人達以外の誰も信じぬ有様であった。
 互いに、恨みなど無い。どちらが強いかと知りたいという理由さえあれば、殺し合えるのが武術家である。
 だから左馬は、片谷木に失望したと言ったのだ。

「お前なら、村雨の目を潰せた筈だ。首をひねるなり、喉を握りつぶすなり、手は有った筈だ!」

 首に腕を回されてから、片谷木が落ちるまで、暫しの猶予が有った。打撃に比べて練度の低い絞め技――加えて、片谷木の首は柱の如く太い。絞められながらでも背後に手を伸ばし、村雨の頭を掴み、目を指で抉る事は出来たのだ。

「違いない」

「なら――」

 肯定する片谷木に、左馬は怒りを露わにする。掴みかからんばかりの左馬を、制止したのは片谷木の右手であった。

「仮定の話ならば、同じ事だ」

「何が」

「あの時、あの少女――」

「村雨、だ」

「――村雨は、私の首を食い千切る事も出来た」

「………………」

 争いには、程度が有る。
 例えば左馬と片谷木が行ったのは、〝仮に己が死すとも悔いぬ〟程度のものである。だから二人とも、一つ間違えば相手の命を奪う技までを用いて、互いを存分に壊した。
 翻って村雨との手合せでは――〝殺さないように〟と左馬は言った。だが、対峙した二人は決して、そう捉えていなかった。少なくとも片谷木は、村雨の顔つきから、手脚の運びから、その意思を汲み取っていた。
 即ち〝重大な欠損を与えぬ〟事――片谷木は、そう、戦いの規則を受け取ったのだ。
 事実、村雨は鋭い打を繰り返したものの、それが耳や鼻、或いは股間など、後遺症の残る部位への打撃は行っていない。目への蹴りは放ったが、指で的確に潰すような物では無かった以上、命中したとて、目の周りを腫らすに留まっただろう。
 そして、村雨が片谷木の拳を躱し、背後を取られた時でさえ――村雨が用いたのは、命を取らねば武の道も断たぬ、平和的な技であった。

「首の血管でも、延髄でも。耳も、肩の肉でも、あの時、村雨には食い千切る手が有った。……亜人だろう?」

 左馬は言葉で答えず、一度、首を縦に振るだけである。

「良く抑えたものだ。〝ああ〟なったのであれば、衝動は抑えがたいだろうに。獣性を解く悦を知って、己を理性の枷に繋ぐとは」

「……私に言わせれば、まだ未熟だ。獣を捨てきれず、人にも成りきれずの半端者だよ」

「そう言うな、認めてやれ」

 片谷木は、岩のような顔を少し緩めて笑った。負けをすがすがしいと受け取れる男であった。
 手を伸ばし、左馬が煽る酒をぶんどり、自分もまた、顔に浴びるような飲み方の真似をする。

「美味い酒だ。左馬、何処で買ってきた?」

「……勝てば、もっと美味い」

「伏せるのか、けちな奴」

 分厚い体にたんと酒を溜めこんで、片谷木は満ち足りた顔で笑う。
 左馬はそれを、胡坐を組んだまま、膝の上に肘をおいて頬杖をつき、仏頂面のままで見ていた。
 好みの酒の味さえ変わる、夕過ぎであった。








 魔術というものは、兎角、便利であるが、複雑である。
 例えば、怪我を治す――治癒魔術が有るとする。
 これは、例えば負傷箇所の時間を巻き戻して〝無かった事〟にしたり、逆に負傷箇所の時間を早めて〝自然治癒〟させたり、新しい部品を外側から付け足して〝再構築〟したりするのである。
 一つ目のやり方が、一番安全だ。
 二つ目のやり方は怪我の前より負傷箇所は頑丈になりやすいが、寿命が縮む。
 三つ目のやり方であると、体は順当に発達するし、寿命が縮むような事も無いのだが、腕の悪い者にやらせると、暫くは腕がろくに動かせなくなったり、歩くのに難儀したりする。付け足した部品が、体に馴染むまでに時間が掛かるのだ。

「いっ――痛い痛いいたたたたっ痛ぁっ!?」

 ちなみにこの夜、村雨が受けていたのは、三つ目のやり方の治療であった。
 〝看板通り〟から少し離れた所に、外傷専門の医者が住んでいる。
 医者とは言うが、刃物や針で切ったり縫ったりは、あまりしない。先に述べた、治癒魔術を主とする医者である。常に酒に酔ったような顔色をしている、白尽くめの女であった。

「はぁい、痛かったらもっと大声で伝えてくださいねー。痛覚は健康の印ですよー」

「痛い痛いすっごく痛いいた、痛いってばー!」

 何故、村雨が叫び続けているのかというと、この女医者、村雨の罅が入った左腕を、万力込めてギリギリと握りしめているのである。
 手合わせの最中ならば、昂揚で痛みも紛れるだろうが、これは痛い。体の内側から、火で肉を炙られるようなものだ。
 無論、こんな事をすれば、動けぬ患者でさえ大暴れをし始める所であるが、そうはさせぬと診察台には、鋼の手枷足枷が備わっている。患者を大の字に拘束して、治療を進める為のものである。

「うーん、左腕に罅が入ってますねぇ。右腕は腱だけで……こっちは明日には治るでしょう、若い子だし。胸も腹も軽傷……治しがいの無い子でつまらないですねぇ」

「ひー、ひー……お、面白がらなくていいから、まともに……」

 あれだけの手合わせの後で、また叫ぶ羽目になったのだから、村雨は息も絶え絶えである。胸を上下させて呼吸を繰り返し、自分がどうしてこんな事になっているのかを振り返った。
 手合わせの終了後、片谷木の首から腕をほどいて直ぐ、村雨はぱたんとひっくり返った。意識はあったが、思うように体が動かないのである。
 胸への打撃も受けている。万が一の事があれば――珍しく左馬が、そんな他人を気遣うような事を言って、村雨をおぶって運んだのだ。
 小綺麗な門をくぐって、家屋に運び込まれたまでは覚えている。医者に顔を覗き込まれながら、診察台に乗せられたまでは覚えている。そこからは、ぐっすりであった。
 そして目を覚ませばこの有様なのだから、村雨にはたまったものではなかった。

「あの女、毎日毎日患者を増やしてくれて……」

「そ、それはごめんなさい……私も含めて」

「まー、おかげで繁盛してるからいいんですけどぉ。野太い悲鳴ばっかりもう聞き飽きたのー、目端を変えたいのー」

 女医者は、やけに踵の高い靴で、かたかたと貧乏ゆすりをしているようである。
 左馬とは顔見知りのようで、治療の話もとんとんと進んだが――村雨はこのあたりで、自分がこういう目に遭っているのも、左馬のせいだろうと悟っていた。理不尽それすなわち師が故と、村雨は三ヶ月でしかと学んでいたのである。

「……あのー、悲鳴があがらない方法は無いんでしょうか……?」

「無いですねぇ。私の場合、直接触れないと、効き目が出ないもので――」

 がっしり。
 今度は腹部、両手刀を打ち下ろされた箇所を、女医者の両手が、指が食い込むまで掴む。
 ぎゃあと叫ぶ村雨は、怪我人とは思えぬ賑やかさで、達者であった。

 それを、隣室で聞いていた者が有る。壁に背を預け、やさぐれて座していたのは、松風 左馬であった。

「……勝ったのか、あいつが」

 左馬は、虚空に拳を走らせ、ひゅおうと風音を立てていた。
 幾度もの戦いを経て、ついに三年前、漸く仕上がった拳である。仕上がってから、殴り合いで負けたことは一度も無い。
 五歳で武の道を志し、其処へ届くまで、十五年の歳月を費やした。今、左馬は二十三歳――武人としては、異例の若さである。
 だが――村雨は、まだ十四歳であった。

「……ちくしょう」

 五年前、左馬は片谷木に負けた。それから、左馬は強くなったが、片谷木も当然強くなっているのである。
 十八の自分より、今の村雨は強いのだと――十年以上を武に費やした自分より、たったみ月ばかり技を習った村雨は強いのだと思えば、左馬の腹の内には、吐き気にも似ているが、もう少しどろどろと喉に引っかかる、言い様の無い感情が湧き上がった。

「ちくしょう……っ」

 それは、激しい怒りと――それさえも凌駕する嫉妬であった。
 左馬は才に溢れた女であるが――そう、女なのだ。
 背の伸びは、十四でほぼ止まった。骨も決して、太くは生まれつかなかった。引き絞られ、硬く筋肉を纏った体は美しいが、然し同じ年齢の男と並べば、明らかに見劣りする体躯である。
 だから、一度は片谷木に負けた。技量では補えぬ、圧倒的な力の差を思い知らされたのである。
 持たない物を欲しがるのは、無意味な事だと知っているが、それでも。
 世の男達のような、大きな体が有れば――
 片谷木のような、分厚い骨と肉が有れば――
 或いは雪月 桜のように、道理も何も覆す、怪物的な力が有れば――
 幾度夢見たか分からぬ程の、それは脳の根の方に噛み付いて離れない、『もしも』という妄執である。
 自分は強くなった。ならば、もしも強く生まれついていたら――?

「……見苦しいな、私は」

 灯りの無い部屋で、左馬は膝を抱えて、そのまま右手の方に横倒しになった。障子の隙間からは、膨らみ始めた月が見えている――雨は止んだらしい。
 ざあと振り、直ぐに止むにわか雨――〝むらさめ〟であったのだなと、ぼんやりする目で見ながら、左馬は思った。
 大陸の生まれだろうに、日の本風の名だ。漢字は、宛字なのだろう。突然に現れた、にわか雨の如き少女であった。
 あれは――生まれついて、持っている側の生き物だ。
 強い脚と、鋭い牙と、敏い鼻を持っている。日夜を問わず目が利き、指は自重を支えて余りある頑強さで、夜を徹して馳せる持久力を持っている。
 何より、殺意と理性を持っている。
 人が人として育たねば、理性は育まれない。だが、理性を磨く過程で、生まれ持っての殺意は、必ず弱められる。
 究極の所での戦いに、勝敗を分ける明確な要素を挙げるなら、殺意もその内であろうと、左馬は信じていた。
 虫を踏み潰すとか、犬猫を川へ投げるような、子供の気まぐれでは無い。同じ人間を、自己の欲求の為に殺しても良いという、我欲に支えられた殺意。村雨はそれを持っていて、尚且つ理性で枷を掛けようとする生き物であった。
 人でも獣でもなく、だが反面、人も獣も同胞である。同胞を殺すなど、実は生まれ落ちて育つ過程で、幾度も済ませていたのだろう――狩りという形で。
 強く生まれ、環境に育まれた、生粋の殺人者――

「……羨ましいよ、ちくしょう」

 ――どれ一つとして左馬が得られなかった物を、村雨は――亜人は持ち合わせている。
 だから左馬は、亜人が嫌いだった。半獣と蔑み、叩き伏せ、自らの優位を示して尚も、本当は自らこそが劣る生き物だと知らされるからだ。

「負けたくない……っ!」

 絞り出した声は、強く勇ましく在らんとする女には似合わぬもの――子供のような、涙声であった。
 膝を抱えた胎児の格好で、床に頬を預け、暫し左馬は啜り泣いた。

 しと、しと、と落ちる涙の音に、もう少し重い音が混ざったのは、闇がより色濃くなって、月も雲の中に隠れた頃であった。
 初めは、廊下を人が通った音かと、左馬は思った。醜態を見られたくないと立ち上がって、そこで気付いた事がある。
 どうにも、音が遠すぎた。既に何処かへ消えた音では有ったが――西から東へ、真っ直ぐに歩いていく音に聞こえた。
 音にも、多種の情報が有る。左馬の耳はその内、戦闘に関してだけを拾い集める。
 例えば音の速さ――ゆったりと歩いて通ったような消え方をした。夜歩きは、この〝看板通り〟近隣であれば、安全とは言い難い。
 地面を擦るような足音に聞こえた。摺足が染みついているのだろうが、一定の間隔で届いた音は、その者の修練の成果を示している。即ち、歩と歩の間隔が骨髄に染み渡っている者の音である。
 その中に、かちん、という硬質な音が割り込んだのを、左馬は聞いた。音も無く跳ね、素足のままで路上に出た。
 ――鍔鳴りか。
 足音の主は、刀を収めたらしい。つまり、〝それまでは刀を抜いていた〟という事だ。
 突然に、風が吹いた。東へ向かって吹く風、足音を追い掛ける風である。左馬には、慣れた臭いが届けられた。
 左馬は風上、西を見た。
 何か、黒いものの中から白いものが飛び出している。
 〝それ〟は、どう間違えようとも、僅かに永らえる事も出来ぬ身であろうと見えた。

「……なんだ、これは」

 〝それ〟は、良く壊された人体であった。
 裸形の女が、どす黒い血に塗れている。胸が斬り開けられ、肋骨が、その湾曲した形状を留めたまま、逆向きに体から突き出している。
 肋骨の先には、様々な臓腑が吊るされていた。心臓、肺、胃、腸、肝臓、腎臓――恐怖が焼きついた顔の、開いた口に詰められているのは、屍の女自身の子宮であった。
 左馬は、足音が過ぎた方角を睨み、拳を握りしめた。
 遠くに影一つが見えた。顔までは定かに見えぬが、その衣装の奇妙は、左馬の――人間の目にも、はっきりと映った。
 夜の闇から抜け出したように、〝そいつ〟は黒かった。
 肩衣に袴と、しかと正装に威儀を正して闇を縫う、衣はいずれも漆黒。
 血を吸うたとて、色の変わらぬ黒である。たんと血を浴びたにも関わらず、細目の月光では輝かぬ墨の色でもある。
 だが、〝そいつ〟の黒の最たる物は、その黒髪であった。
 西風に揺らされる黒髪は、目方で三尺もあろうか。人の血を浴びて、艶めいた黒髪である。指を通せば一度も掛からず、根本から毛先まで触れられそうな髪であった。

 そして――左馬は、見えぬ筈のものを、見た。
 角を曲がって小路に消える〝そいつ〟の、冷たく凍り付いた微笑を――
 〝そいつ〟は恐ろしく、美しい女であった。