烏が鳴くから
帰りましょ

積み重ねのお話

 何時までも続くのではないか――そう思う程に、この年の冬は長い。

 年が開けてから二度、朔の夜を迎えた。だが、未だに寒さは底を見ず、日に日に冷え込んでいくようだ。
 雪も降る。
 数か月の間、雨は降らず、ひたすらに雪だけが空から降りてくる――それ程に、暖かい日というのが希少であった。
 そんな冬の中でも、特にこの朝は、雪が多く降った。
 洛中で商いを営む久ひさは、ぎぃぎぃと柱が音を立てるのを、憂鬱な気分で聞いていた。
 雪が積もって、重さで家が軋んでいるのである。
 屋根に上がって雪を降ろさねばならないが、然し五十を過ぎた老体には、些かならず重労働。店の者を使うにも、力の有る男衆は、止まり込みでなく通いであった。
 そも、屋根が広い。民家の五つや六つを足した広さは有るのだから、積もる雪も必然、多くなる。
 近所の誰かに手を借りねばなるまいか――払う銭やら、喰わせる飯やらの算段を立てていた久は、店の外で何やら、がやがやと声がするのを聞き付けていた。

「すいませーん」

 冬の日の出は遅い。日が山から昇り切るか、まだ登らぬかの頃合いである。この時間に訊ねて来る者も珍しい――久は油断無く、戸に開けてある覗き穴から、外の様子を窺った。
 其処に居たのは、赤い羽織を纏った、灰色の髪の少女であった。

 ――赤心隊か。

 久は、羽織に見覚えが有った。赤地に金糸の伊達な刺繍は、赤心隊の揃いの衣装である。
 酷く、評判の悪い連中だ。
 飯と酒の代金は踏み倒し、気に入らぬ事があれば男に喧嘩をふっかけ、女をかどわかす。兵部卿、狭霧和敬の私兵と言うと聞こえも良いが、その実は山賊の集団とさして変わらぬ連中だ。
 そんなものが、自分の店の前に居る――久の顔は、酷く強張った。

「すいませーん」

「……どないしはった」

 居留守を使って、戸を蹴破られても困る。久は先んじて、慳貪な声を返した。

「屋根の雪、貰ってきまーす!」

 すると、灰色の髪の少女は、そんな事を言ったのである。

「……はぁ?」

 言わんとする所が理解できず、久は思わず、聞き返していた。
 答えは戻らず――代わりに幾つか、屋根に飛び乗る音が有った。
 そして、直ぐに、賑やかになる。
 屋根の上に登った数人が、雪をぐいと押して、屋根から路上へと落として行くのである。
 外に居れば、その作業の手早さに圧倒さえされただろう。屋根の上にこんもりと、子供の膝程も積もっていた雪は、忽ちに降ろされてしまい、

「よーし、頂いてっちゃおーう!」

「うーすっ!」

 少女の号令に、野太い声が幾つも応える。
 久は思わず、戸を開けて、そこから上半身を通りに出し、表の様子を覗き込んだ。そうすると、なんとも勇壮な光景が、眼前に広がっていたのである。
 其処には何時の間にか、赤羽織の男が十人以上も集まって、荷車に雪を積み上げていたのである。
 荷車自体が、かなりでかい。とは言え、大量に降り積もる雪の全てを乗せていける荷車など、この世に存在しない。屋根から雪をおろし、通行の妨げにならぬように道の脇に寄せ、それでも余った部分を、荷車に乗せているのだ。
 その荷車を、牛に繋いで引いて行く者もいた。自分で引いて行くという、人離れした怪力も居た。
 だが――人離れは当然の事。彼等は皆、一様では無いが、人と離れた姿であった。
 上半身裸に、羽織のみという大男が居たが、彼の上半身は真っ黒の体毛に覆われ、腕も極端に太く、爪が分厚くなっている。
 雪がたんと積もった荷車を、やすやすと引いている男は、筋肉質の胴体の上に、虎の顔が乗っかっている。
 両手にそれぞれ一本ずつ、縄を持って二頭の牛を引いている男が居たが、彼の頭自体に、牛のような湾曲した角が生えているのである。

 ――亜人。

「ひっ……!?」

 久は驚き、後ずさって、危うく引っ繰り返りそうになった。
 腰を板間に打ち付けそうになったが、支えられ、ふわりと床に降ろされ――何時の間にか灰色の髪の少女が、久の背後に回り、受け止めていたのだ。
 だが、助けられたという事に気が回らぬ程、久は動転していた。
 久はどうにも古い人間であった――為に、亜人に良い感情を抱いていなかった。
 亜人は、人では無い。むしろ妖怪変化の類に近い――事実、姿を見るとそうかも知れない。そして亜人は、人間を攫ったり、或いは喰らったりもするのだと、久は信じている。
 確かに昔はそういう事もあり、日の本でも、ある程度以上の世代の者は、そうして亜人を敵視する。寧ろ久の反応は、極めて常識的な物であったのだが――

「ねえ、おばちゃん。この辺りで、他に雪おろしとか困ってそうな人、知らない?」

 久の転倒を支えた少女は、久を座らせると、その正面で膝を曲げて訊ねた。
 その首やら、羽織の下に除く腕やらが、頭髪と同じ灰色の体毛で覆われている。
 朗らかな口調だが、開いた口の中に並ぶ歯列は、牙と呼べる程に鋭い。
 久は恐れ戦き、素直に、少女の言に従う――つまり、他に老人が独り暮らししている家を、思いつく限り指差したのである。

「ん、ありがと! ……みんなー、手分けして行くよー!」

「おーっ!」

 すると少女は、周りの男達にそう指示を出して、自分も颯爽と、近くの家の屋根に飛び乗って行く。
 あっという間に、赤羽織の集団は、久の視界から消えてしまった。
 まさに突風の如き早業。早朝より、亜人の群に怯えさせられた久としては、溜まったものでもなかったが――

「……銭、浮いたなぁ」

 ――すっかり軋まなくなった店の柱を見ると、文句の声も引っ込むのであった。








 名高き首晒し場の三条やら、刑場である六条はさておき、その間の五条河原は、陽気な所である。
 軽食を楽しめる店やら、茶を飲める店やらもあれば、女を買う店も――加えて言うに男でも――有る。
 ここから一里も歩かずに、朱雀野は島原の、お高く止まった遊女屋にも行ける。が、それより格の劣る、例えば江戸で言うなら〝夜鷹〟か――そこまで金をケチらずとも安く一夜の相手を探せるのが、この辺りだ。
 とは言え、広い事も有るし、人が集まるなら店も集まるのが常。雪さえなければ、屋台の一つや二つ、常に出ているだろう。
 つまり、歓楽街であるし、だが健全な遊びの場でもあるのだ。
 尤もここ暫くは、雪も多いし、何より洛中が戦の最中である。人はいるが、秋までの盛況ぶりは影を潜めている。
 そういう場所が、今朝は少しばかり賑やかだった。

「はい、ほうこーく!」

 雪が小高く積み上がったその上で、村雨が、赤羽織姿で座っていた。
 早朝からあちこち駆けずり回ったが為か、息が白くなる程の寒さの中でも、かなり汗を掻いているのが分かる。
 だが、目を惹くのは、そこではなかった。
 姿が〝普段〟と明らかに異なっているのである――いや寧ろ〝普通〟と異なると言うべきか。
 村雨は袖無しの羽織のみを、帯も結ばず、直に上半身に被せていた。
 それだけを聞けば、さぞや寒かろうとも思えるのだが、実際に村雨は、寒さを感じていない。
 村雨の上半身は、余すところなく、灰色の体毛に覆われていた。胸も腹も背も腕も、首まで――髪も心なしか伸びて耳を隠し、肌が見えるのは顔だけである。
 体毛は、それこそ野生の獣――ぶ厚く、寒風も雪も通さない、狼のもの。
 元より日の本など比べものにならぬ、凍土に生きる種族。洛中の寒さなど、この姿になれば、どうという事も無いのだ。

「四条の雪降ろし回り、あらかた仕上がりました! ……多分!」

「〝多分〟は不安だなー……昼くらいにもう一度、誰か見に行ってきてくれる? それまでに雪降ろしが終わってない、出来るだけ屋根の広そうな所を探して」

「小さい家はいいんで?」

「屋根に対して柱が多くなるからね」

 村雨が指示を飛ばしているのは、同じく赤羽織を着た――男が十二人、女が二人。うち一人はルドヴィカ・シュルツで、残りは皆、亜人である。
 そして彼等は、己の姿を取り繕う事無く、亜人の姿そのままで動いていた。

「……はぁ、この人数で大したもんだわ。力仕事はお手の物って感じね」

 この群でたった一人の〝人間〟であるルドヴィカは、雪でかまくらを作って、その中で寒さを凌いでいた。
 彼女は力仕事が好きでないのと、この集団の中では非力な部類であるので、もっぱら〝広報支援〟に勤めていた。
 彼女自慢の写真機は、早朝から幾度も、白黒の写真を作り上げた。
 色は分からねども、羽織の模様は分かる。そして、被写体が純粋な人間ではなく、亜人である事も、見て取れるだろう。村雨はこれを、文章を一つ添えて、洛中にばらまこうとしていたのだ。

「で? 文面は、あれでいいの?」

「あなたに任せるって言ったじゃん、いいよ」

「……そういうのは信頼じゃなく丸投げと言う」

 かまくらの中、羽織を二枚重ねに縮こまるルドヴィカは、ふてくされたような物言いながら、まんざらでも無い顔をしていた。
 なんであれ、任されるのは嫌いでない――認められたと同義だから。そういう性格をしているのが、ルドヴィカである。

「まずは地味な事からでも良し。何せ私達、見た目が見た目だからね。普通の人が良い事するより目立つだろうし――まあそれに、乗る人数は多いと思うよ?」

「……何考えてるかはよく分からないけど、まあいいわ……せいぜい乗ってやろうじゃない」

 寒さと戦いながら、ルドヴィカは、瓦版に刷る文面を練っていた。



 そして、その日の午後には、もう仕上がった瓦版がばら撒かれたのである。
 その文に曰く――

『功徳を積むに遅いという事は無し。思い立ったその時こそ、功徳を積むべき時なり。
 神仏世に幾千幾万有れど、善行を憎み悪を助く神、決して多からず。
 洛中の降雪、甚だ大なり。幼子、翁媼、能く屋根に上がらず。捨て置けば積雪、柱を折り、天板を突き破り、寝床に降り注ぐを免れ得ず。
 心を痛むる事頻り也。
 故に赤心隊、村雨以下十四名、己が為に功徳を積まんと欲す。
 腰痛、肩痛有る者言うに及ばず、非力、病身、身重と問わず、五条河原に訴状来たらば、群一個、速やかに赴く也。
 されど我ら、寡兵也。
 願わくは仁者義士、志を同じく、己が功徳を積むが為に、偽善を為さんと欲すべし』


「あなたは相変わらずのひねくれだねぇ、ルドヴィカ」

「うっさい」

 出来上がった文面を、一通り声に出して読み上げて、村雨は笑いを堪えられぬといった様子を見せた。
 そしてまた、部下を引き連れて、雪降ろしの押し売りに出かけるのであった。








 雪とは厄介な代物である。
 雨水が、水溜りになり、地を流れ、沁み込むのと同様に、雪もまた、性質を留めずに在るものだ。
 例えば、空から降って来たその時は、雪は軽く、指先に溶ける。
 それが積もってしまうと、互いの重さで圧縮され、ぶ厚く、そして簡単には溶けなくなる。
 が――日光に照らされれば、表面が溶け、長時間それが続けば、雪もすっかり水になってしまう。
 さて、ここで面倒なのが、日射時間が不足したが為、本当に上っ面だけが溶けた場合である。
 積もった雪の上っ面が溶けると、無論それらは水になり、雪に沁み込んで湿らせる。
 湿った雪が再び冷やされるとどうなるか――氷になるのである。
 然も、水が中心まで沁み込んでいれば、それこそ根の深い氷の塊が仕上がる。こうなると、鋤やら鍬やらを持ち出さねば、雪を退けるのにも苦労するようになる。
 午後の洛中の雪は、丁度、そういう性質の硬い雪であった。

「ひーぃ……畑仕事とは勝手が違うよこれ……ったたたたた」

 洛中では珍しい、家が幾つも連なった長屋。その屋根の上で、蛇上 離解りかいが腰を抑えていた。
 村雨が亜人を集めようと思い立って、まず選んだ最初の三人の内の一人――妻に逃げられた父親である。
 彼は、羽織を二枚も重ねている上に、羽織の下もかなり着ぶくれしている。今日は〝蛇〟には寒すぎる日なのだ。
 疲労した体を引きずるようにして、離解はかまくらの中に逃げ込み、休憩を取ろうとしていた。
 腰を折り曲げ、狭い入口に潜り込もうとする――

「……おや?」

 ――と、先客がいた。
 修道服の、小柄な女。背丈は村雨と同じくらいで、骨格がかなり細目に出来ている。
 女とは表したものの、顔立ちに現れている年齢は、少女と成人の間ほど。髪は黒いが、日の本の人間の黒さとも違い、そして肌は蝋のように白かった。

「失礼、お邪魔していました。……今日は寒いですね」

「ですねえ」

 かまくらの中には、背の低い椅子が二つばかり置いてある。女は片方に座っていたので、離解はもう片方に座り、

「……いや、待った。寒いのはそうとして、あんた――」

 直ぐに立ち上がり、己の目を擦った。
 目の前の女は、首から十字架を下げている。その顔に、離解は見覚えが有った。
 政府軍の兵士の前にも幾度か、慰問の為、負傷者の治療の為、その姿を見せていた女――

「――っ、ちょ、お嬢! おじょーう! ちょっと来てくれお嬢ー!」

 足を縺れさせながら、離解はかまくらの外に出て叫ぶ。
 丁度その頃、村雨は、積み上げられた雪の山の上で、これを何かに使えぬものかと思案している最中であった。
 部下として選んだ亜人達の一人が、冗談めかして村雨を『お嬢』と呼んだが為、その呼び名が定着してしまったのがもっかの悩み。慣れぬ呼び名を聞いた村雨は、雪山の上から跳んで、数間離れた離解の傍に立った。

「蛇上さん、どうしたの?」

「お、お客さんなんだが――その、なんというか、っと」

 狼狽極まれりといった風情の離解は、数度の深呼吸を経て、やっとその先の言葉を繋ぐ。

「拝柱教の、エリザベートが来てる」

「……はあぁ!?」

「なんでまたこんな所に……問い質すのも忘れてたけど、あれは――」

 其処まで言った時には、既に村雨は、雪を蹴立てて走っていた。
 石が水を切って跳ねるように、踏みつけた雪を粉状に舞い上げながら、村雨は忽ちに、休憩所代わりのかまくらに辿り着く。
 〝大聖女〟エリザベートは、行儀よく手を膝の上に置いて、椅子に座っていた。

「こんにちは、少々お邪魔していまして――あら」

 誰か、場の責任者が戻るのを待っていたのだろう。村雨が来ると、エリザベートは軽く頭を下げた。
 そして直ぐに――村雨の顔を思い出したのだろうか。口元に手をやって、驚きに零れ落ちた言葉を隠すようにした。

「お顔の傷は、残らなかったようですね。良かった、女の子の顔は大事にしないといけませんから」

「……良く覚えてるもんだね」

「ええ、私が治した人の顔は覚えています。それ以上に、私が救おうとして、救えなかった人の事も、全て」

 かまくらから、雪積もる路上へ。エリザベートは出てきて、村雨の頬へ――いつかのように――手を伸ばした。
 村雨はその手から逃れるように後退し、左手をそっと、自分の鳩尾の高さまで上げた。
 この左手は、盾でもあり、剣でもある。有事の折にはこれを振るって殴りかかる事も、或いは相手の攻撃を防ぐ事も出来る。即ち、大仰では無いが、戦いの構えだ。

「警戒しないでください。私は貴女方に害を為すものではありません」

「それを信じられると思う?」

「……いいえ。貴女のご友人には、酷い事をしました」

 村雨は珍しく、警戒心を露わにしていた。
 数か月前、村雨は、エリザベートに会っている。人を集め、彼等の傷を癒している所に遭遇し、自らも怪我の治療を受けたのだ。
 触れただけで傷を癒すエリザベートの力は、もはや奇跡と呼んでも良い程であったが――然し彼女は決して、善だけを齎す存在では無かった。
 日を同じくして、雪月桜が、政府の兵士達と対峙していた。白槍隊の長、波之大江三鬼に苦戦する桜の前に、エリザベートは現れたのだ。
 そして、桜を殺そうとした。
 彼女自身が手を下した訳では無い。狭霧蒼空、兵部卿の娘に命じて、斬らせたのである。そして桜は重傷を負い、桜を逃がす為に村雨は、初めて人間を殺した。

「何をしに来たの」

 答えによっては――村雨は、冷静には居られなかっただろう。
 一つ間違えば、桜を失っていた。何か一つでも歯車が狂えば、村雨は、今此処に居なかった。
 ただ一人、大陸の凍土に戻り、心を凍て付かせて――息絶える日まで、ただ強者に噛み付く事だけを望んで生きただろう。
 その元凶が、目の前に居たのだ。

「……貴女が問いたいのは、その事ではないのでしょう」

 だが、エリザベートは――村雨の前で、涙を流していた。
 虚偽の涙では無い。嘘の無い、真実からの涙だと村雨が直感する程に、エリザベートの目は澄んでいた。
 頬に痕を残し流れていく涙は、雪の上に落ちて、消える。けれどもその後から、幾度も零れる涙は、払い切れぬ悔いを語っているように、村雨には見えた。

「私は黒八咫を――雪月桜を殺させようとしました。彼女は私の道に立ちはだかった、私が齎すだろう救いを妨げ、また人を殺した事を悔やむ事さえ無い。あのままならば彼女は、死後、救いを得られない。
 ……けれど、貴女が聞きたいのは、そんな答えでは無いのでしょう?
 私は、貴女の友人を傷つけ、貴女の心をも傷つけました。神は人を赦しますが、人は人を許せない……貴女に許されようなどと、身勝手な事を願いはしません。だから、せめて――ごめんなさい、貴女に謝らせてください」

「………………」

 これが、良心の呵責だとか、或いは打算だとか、そういう感情からの謝罪であったなら、村雨は何かを言い返しただろう。
 エリザベートの涙も言葉も、全てが真実から発せられている――村雨は直感的に、そう信じていた。
 エリザベートが涙するのは、〝己が許されぬ罪を犯した〟事ではなく、純粋に〝二人の人間を傷つけた〟事に対してなのだ。
 彼女は、底抜けの善人だ。
 そう悟った時、村雨は、何もできずに立ち尽くすだけとなった。

「……それで、貴女は」

 何をしに来たと、村雨はもう一度、問おうとした。
 するとエリザベートは、袖をぐいと捲り、白い腕を冬の寒気の中に晒して、

「よい行いの、お手伝いがしたいのです」

 それが心底嬉しいのだろうという風に、笑った。








 村雨を筆頭に、赤羽織の亜人集団は、午後になっても雪降ろしを続けていた。
 それぞれが、体力は人の非にならない亜人である。数十の人足を集めるより、余程手際よい作業風景であった。
 が――その中に一人、明らかに、周囲より〝浮いた〟者が居た。
 周りが羽織で統一されている中、彼女だけは、修道服を着ているのだ。

「よいしょっ、よいしょっ……!」

 拝柱教の〝大聖女〟エリザベートは、幅広の鋤を用いて、民家の屋根に積もった雪を降ろしていた。
 その光景を遠目に、心配そうな面持ちで見ている者達が、十数人ばかり固まっている。首に下げた十字架を見るに、拝柱教の信者達であろうが、特に年寄りが多かった。

「村雨さん!」

「ん?」

「このおうちは、終わりました!」

 また別の屋根の上では、村雨が、部下に指示を出していた。その村雨に、仕事の完了を告げたエリザベートは、誇らしげな顔で背筋をぴんと伸ばしている。
 見た目には、村雨よりまだ細い体格なのだが、力が有るのか、魔術の補助を受けているのか、作業は速い。下手な男の二人か三人分は働いている様子であった。

「それじゃ、次はあっちをお願いするね。いい?」

 村雨もまた、個人的にエリザベートに対し思う事は有るのだろうが、それを表に出さぬように、次の指示を与える。数件離れた別な家の屋根を指差したのだ。

「ええ、勿論です。……横を失礼しますね」

 するとエリザベートは、屋根から屋根へ軽々と跳躍し、自分の持ち場へと向かう。修道服姿の印象とは裏腹の身軽さであった。
 だが、エリザベートが跳躍したり、雪を鋤で担ぎ上げる度に、集まっている信者達は顔を暗くする。

「エリザベート様! 危のうございます、降りてくだされ!」

「あら嘉勢じい、私こう見えて力持ちなんですよ?」

 信者達の内、白髭を着物の内側に押し込んでいる翁が、エリザベートに止めてくれと訴えたが、当人にその意思は見えない。汗で髪を頬に張り付かせながらも、まだまだ疲れは顔に浮かんでいない。

「そ、そうではなくて――その、なんと言おうか……」

 だが、嘉勢という老人が懸念しているのは、そこでは無いのだ。
 老人の目が、いや信者達の目が、エリザベートの周囲にちらと向けられる。不信感と警戒心に、蔑みを交えた目だった。

 ――ああ、そういう事か。

 村雨と、その部下である十三人には、馴染の深い目であった。
 〝そういう〟目をしている人間は、無条件に自分達を信用しない。
 そればかりか、何か自分の周囲で不都合が起こった時は、それをこちらのせいと決めて掛かるような事もある。
 つまり、亜人を見る時の、保守的な人間の目であった。
 明確に否を唱えて村雨達を謗らないのは、力では敵わないと知っているからだろう――侮蔑に力で応える輩だと信じているからだろう。そういう悪意を孕んだ目は、内包する意思を分かり易い程に、村雨の部下達に伝えていた。
 空気の色が変わる。
 亜人達の目が冷え切って行く。
 そして雰囲気の変化を、拝柱教の信者達もまた、肌で感じ取っていた。

「……まったくもう」

 たった一人、エリザベートだけが、変わる空気を読まなかった。
 屋根から飛び降り、雪の上に音も無く着地すると、雪を荷車へ積み上げている亜人の元へと近づく。
 太い腕が黒い体毛に覆われ、爪も長く鋭い、凶器が如き両腕――熊の亜人。その腕の中へ、エリザベートはすうと踏み込んで行き、

「危ない事がありますかっ!」

 真正面からその亜人――倫道りんどうの体を抱き締めた。

「エっ、エリザベート様、危ないとっ!」

「だから、危ない事なんて無いんですっ! どうしても分かりませんかっ!」

 倫道の胸辺りに頭を預けながら、首を目一杯後ろに向けて、エリザベートは自分の信者に反論する。
 その口振りは、道を説く者というよりは寧ろ、理不尽さに立ち向かう子供のようであった。

「危ないというなら、その心持ちが危うさを呼んでいるのです! 悪意を向けられて、誰もが善意を返せると思いますか! 返した善意を踏み躙られて、笑って居られるものがありますかっ!」

 エリザベートの声は、体つきに似合わず、良く通る声であった。
 激して叫べば、家々の窓から、外を覗き見る顔も有る。そして声を控えても、聞き耳を立てれば、十分に聞き取れる程である。

「……右の頬を打たれたら、左の頬を差出しなさい。あの言葉は、たんに無抵抗を称えた言葉では無いのです。互いに復讐を続けていては、やがて双方とも力尽きてしまうからこそ、恨みの連鎖は積極的に立ち切るべしとの教えなのですよ。
 この国で亜人が忌み嫌われる理由は知っています。……ですがそれは過去の事。ましてやこの人達が、貴方達に直接、害を為した訳では無いでしょう? ならばどうして貴方達は、殊更に彼等を警戒するのですか!」

 雪が雑音を吸う為か、やけに静かな午後であった。エリザベートの声は、矢のように遠くまで届いた。
 そして、その言葉を、村雨は屋根の上に座したままで聞いていた。

 ――こいつは、やっぱり本物だ。

 人の感情は目に現れる。仕事柄、村雨は多くの目を見てきた。その直感が、この〝大聖女〟なる女は、本心から怒っているのだと訴えている。

「……貴方は、私を傷つけますか?」

「えっ、いや」

「貴方は、あの人達を傷つけましたか? それに……私や、他の誰かを、今から傷つけようとしていますか?」

「いや……そりゃ、無いけど……」

 変わらず倫道の背に腕を回したまま、エリザベートはそう問うた。
 倫道もまた、無防備に懐へ潜り込んだ女が、心から綺麗事を述べていると分かったのだろう。同じ事を他の誰かに言われたのなら、悪態と共に蹴り飛ばしたかも知れないが――何もせず、首を左右に振って答えるばかりであった。

「ほら、見なさい。この方達はよい人です」

 そしてエリザベートは、また屋根の上に上がり、雪との取っ組み合いを始める。
 信者達も、それ以上何かを言う事は無かった。
 エリザベートは黙々と、鋤で屋根の雪を降ろしては、

「ふぅ……よい事をするのは、よい事なのですよ」

 額の汗を拭い、独り言のように、だが村雨の方を確かに見ながら言うのであった。








 日が落ちるまで、その作業は続けられた。
 流石に冬の日没は速く、影が伸びたと思ったら、忽ちに夜がやってくる。

「はぁ~……」

 五条河原の雪山の上で、村雨は溜息を零していた。

「……まっさか、最終目標にいきなり出くわすとは」

 何も村雨とて、酔狂で慈善活動を始めた訳では無いのである。
 人助けをすれば、感謝をされる。
 感謝が集まれば、人の間を動きやすくなる。
 そうして足元を固めて、一歩一歩、政府の中枢へ首を捻じ込んで行こう――そんな気の長い考えが、行動の理由であった。
 桜なら、どれだけの軍勢を相手にしても、どれだけの期間でも、耐えるだろう。
 その間に自分が、戦そのものを外側から壊す――それが村雨の算段であったのだ。
 それがまさか、行動を始めた初日に出くわしたのが、その政府の中枢も中枢、殆ど諸悪の根源である。

「浮かない顔をしています。お悩みですか?」

「……大半はあなたのせいなんだけどね」

 そして村雨の隣には、彼女の頭を悩ませる元凶、エリザベートが同じように腰掛けていた。
 村雨と並んでも、どちらが年嵩であるか分からぬような、幼げな顔立ちの――女、である。
 少女と呼ぶには、エリザベートには威厳が有った。
 長く生きているのでなければ、とても身に付かぬ類の威厳が、霧のように彼女に纏わりついているのだ。
 然し、その霧を払って見てみれば、其処に居るのは小柄な、痩身の女であった。

 ――もう少し、悪党を期待していたのに。

 村雨が頭を抱えるのは、ひとえにその印象の食い違いが故だった。
 あの日も、この女とは会った。
 完全な善人面をして、人の傷を癒し、そして人が傷つく事に涙していた女――慈悲を天下の全てに向ける、神を気取った女。然し慈悲の心だけは、真実から生まれているのだ。
 せめて僅かにでも、彼女の心に我欲が有ったのならば――そうすれば村雨は、エリザベートを憎悪するか、或いは敵と見なして冷淡に接する事が出来ただろう。

「私の……そうですよね。私の行いは決して許される事では――」

「そーいうのはいいから……今日何回目よ」

 結局村雨は、突き放す事もできず、だが親しく接しようという気にもなれず、何とも言えぬ距離感を保って一日を過ごしたのである。
 これがまた、疲れる。
 主観を抜きにすれば、これ以上無い善人であるのだが――村雨はどうしても、エリザベートを信用しきる事が出来なかったのだ。

「……あなたはさ、本当に、信じてるの?」

「神を、ですか」

「あなた自身を」

 村雨の不信には、多々理由が有る。だが、その内の最たる物は――

「世界の皆を助けたいって顔をして、でも、手を組む相手を間違えてる。……自分が正しいって、本当に信じてるの?」

 エリザベートの言葉が抱える、矛盾にあった。
 人を救う為の教えを解きながら、人殺しと手を組み、人を殺して道を作る。その矛盾に気づかぬ筈が無いのだ。
 村雨に指摘されたエリザベートは、慈悲交じりの寂しげな微笑みを浮かべて俯いた。

「……貴女は、迫害された事がありますか?」

「え?」

「その、〝周りと違う〟姿を理由に、遠くへ追いやられた事は」

 エリザベートが指しているのは、〝亜人〟に対する差別の事であった。
 村雨は、小さく左右に首を振る。人狼は、最も恐ろしい捕食者であると同時に、最も人に近く化ける種族でもある――願わぬ形で正体を暴かれるなど、滅多に無い事であるのだ。
 だが、全ての亜人が、村雨と同じに生きて来た訳では無い。事実、日の本では、周囲の目を欺きながら生きている者が多いのだ。

「私は……あまりに多くの悲劇を見て来ました……同じく神の子である兄弟達が、互いに憎み合い、殺し合う姿を。だから自信を持って言えるのです、〝神は誰にも平等に無情である〟と」

 そして、エリザベートが吐いた言葉は、聖職者を名乗る彼女には似合わぬ悲観的なものであった。

「私は神を信じています。世界の全てを作り、生けとし生きる者全ての父である神――その存在を。ただし、神の裁きは厳正でないし、また神は慈悲を私達に下さらない。神は世界を作った後、私達に干渉しない事を選んだのです。
 けれども……どうして私達の父を責められましょう。父を信じる子に、貴方達は救われないと言えましょう。……ならば私が、救えば良いのです。
 遠く万里の果てまで、遍く神の威光を以て照らし出し、そして私の目に映る全てに、私の全ての力を注いででも救いを与える。それこそが私の生まれた意味であり、生きている意味であり、死ぬ意味なのです」

 いつか桜が、エリザベートを評して〝神気取り〟と言った。

「……無理に決まってる」

 村雨もまた、その時の桜と同じ事を思った。
 この女は、自分が神になるつもりだ。
 それも――神という地位に成り代わるのだとか、崇拝の対象となるのだとか、そういう事では無い。
 救済を齎す制度としての神に代わって、自分が世界に救いを齎す
 そしてきっと、その救済されるべき世界の中に、エリザベート自身は含まれていない。エリザベートの目に、エリザベート自身は決して映らないのだから。

「そんな事、あなたじゃ出来ないに決まってる!」

 村雨は、彼女には珍しく、悲観的に喚くように叫んでいた。その声もエリザベートは、寂しげに微笑んで受け止める。

「誰かを救うなんて言って、今日まで何人を殺したの! 何人も傷つけて……私も、桜も、みんなを苦しませて、〝救う〟だなんて! 無理に決まってる!」

「……ええ。今の私では、無理な事かも知れません。けれど兵部卿と共に在るのなら、叶わぬ夢では無いのです」

「兵部卿なんて、誰よりも悪辣な人殺しじゃない! 人殺しと手を組んで、人殺し以外の何が――」

「私も、人殺しです……同類が手を結んだだけ、と思ってください」

 ぽつ、と零した言葉は、いやに重い響きを以て、村雨に圧し掛かった。
 こうして、善意の塊のような顔をして生きている女でさえ、誰かを殺した事が有る。その事実は、その罪は、死ぬまで付き纏う。
 もしかすればエリザベートが、自分自身を救済の対象に含めないのは、己の罪を清算する為なのかも知れない。宗教画のように美しく俯いたエリザベートに、怒りなのか困惑なのかも区別のつかぬ感情をぶつけながら、村雨は知らずの内に立ち上がっていた。
 そうして、頭の位置が高くなって――合わせて、洛中の風向きが変わった。
 先程までは、東から緩やかな風が吹いていたのだが、西からの強い風に入れ替わったのである。
 大橋を挟んで西側、近代的な建物が並び、石畳の引かれた、様変わりした洛中。其処から流れて来る臭いは、油に鉄、雑多な食糧やら、人やら――

「……っ」

 ――血、やら。
 村雨は弾かれたように駆け出し、エリザベートもすぐさま、それを追って走った。

「どうしました!?」

「血の臭い……かなり強い! 怪我だとか、そんな量じゃない!」

 村雨は、全速力で駆けている。それに平然と追随するエリザベートは、然し血の臭いと聞いて息を呑んだ。
 雪の上を、二人は行く。
 近代的な都市と言えど、夜に灯りをともしている建物は少なく、細い月が雪に落とす光が道標。ぼんやりと明るい道の上を、灰色と金色の、二つの髪の色が、音も無く抜けて行く。
 戦いか?
 だとするならば、却って血の量が少ないようにも思える。
 仏教徒狩りの命を、まだ狭霧兵部は撤回していない。或いはその流れでの虐殺やも知れないが――だとして、村雨がそれを見逃せる道理は無い。
 元々、そういう争いを見逃せないと、桜に駄々をこねて洛中に残ったのが村雨であった。此処で足を動かさぬというのは、己と桜の二人を謀る事になる――選び得ぬ事であった。
 そうして辿り着いたのは、大きな通りから路地の方へ逸れた、江戸にもまま在るような長屋の一つであった。

「無事ですかっ、誰か――」

 エリザベートは、長屋の前で立ち止まり、体躯に似合わない声を上げた。だが、返る答えは無い。

「動くなっ、赤心隊だ!」

 一方、村雨は躊躇わず、幾つか並んだ戸の一つを蹴破り、長屋の中へ飛び込んで行った。
 村雨の嗅覚は、戸の向こうに誰かが居る事を嗅ぎ付けていたし、聴覚が故にその誰かが、下卑た笑いを零しているのも聞き取っていたのである。
 完全な闇の中、村雨は、その笑い声の主に打ち掛かり、頭部を思い切り蹴り抜いた。倒れた相手の頭と腹にも、それぞれ一撃ずつ蹴りを入れ、更に腕を背中へと捻り上げて完全に拘束する。

「……エリザベート、二人――違う、三人居る! 助けて!」

「はい!」

 光の無い長屋の中、村雨はやはり鼻に頼って、其処に居る人間の数を知った。
 だが――その内の二人は、助からぬ者とも思っていた。
 血の量が多すぎる。
 人の出歩かぬ夜中とは言え、そして人狼の嗅覚とは言え、相当に離れていても届く血の臭いである。
 そしてまた、捕食者の目は迅速に、色濃い闇に適応する。視界の端に映る、倒れ伏した人間は、明らかに体の一部が、胴体から切り離されて転がっているのだ。
 村雨は激しく憤り、その怒りを、無法者にぶつけたいとさえ思った。実際、自分の拳が人を殺し得る狂気だと知らなければ、感情の侭、抑え込んだ無法者の後頭部を殴りつけていたかも知れない。
 その代わりに村雨は、無法者を長屋の外へ引きずり出し、雪と月の灯りに手伝わせてその顔を拝み――

「――っ!?」

 目を見開き、声を失った。

「村雨さん! 二人とも命は保ちました、けれどそちらの方は……誰か、人を呼んでください!」

 村雨の後方ではエリザベートが、まるで何事もなかったかのように、命を救ったと告げている。
 仮に村雨が振り向いていれば、そこには、切り離された手足を元のように繋ぎ、穏やかな顔で寝息を立てている、中年の男女の姿と――衣服を乱し、顔や体のいたるところに痣を作った、まだ若い女の姿を見ただろう。
 だが村雨は、振り向きはしなかった。自分が容易く蹴り倒した無法者の顔を、吸い込まれるように見つめていた。

「……村雨さん?」

 様子がおかしいと、勘付いたのだろう。
 エリザベートは村雨の隣に立ち、その男は誰なのかと問うた。
 問うて直ぐ――その問いが虚しい事を知る。

「形式の上では、私の……部下、になるのかな……」

 その無法者の名は、大藤と言った。
 村雨と同じ、刺繍のきらびやかな赤い羽織を身に付けていたこの男は、冴威牙の取り巻きの一人。つまりは村雨と所属を同じくする、赤心隊の一員であるのだ。
 村雨はその時、完全に、大藤の凶行の全容を理解した。そして――周囲の家々が、息を潜めつつ、戸の隙間から自分達を見ているのにも気付いた。

「……確かに、神様は無慈悲でいらっしゃるね」

 村雨は夜空を仰いで、精一杯の皮肉を零し――道の険しさを知る。
 己が暴いた悪行は、己の為す善行を全て掻き消し、尚もあまりある物であったのだ。
 背に、女の啜り泣く声を聞きながら、村雨は暗澹とした面持ちのまま、暫し虚空を見つめていた。









「……以上が、事の次第です」

「つまり、冴威牙の部下が夜に出歩き、女を犯し、その両親は殺そうとした。大聖女殿が救わなければ、実際に両親は死んでいたと、そういう事だな」

 翌日早朝、村雨は、前夜の出来事をつまびらかに報告していた。
 言葉は何一つ繕わず、目上の者に対する発言としては些か率直に過ぎるような物言いも有ったのだが、然し取り繕う余裕は村雨には無く、

「で、それを何故、俺に言うのだ」

 報告を受け取る狭霧兵部和敬はそれ以上に、端的に切り捨てるような物言いをする男であった。

「……赤心隊はあなたの私兵で、あなたは冴威牙の上司です、だから」

「赤心隊の事は、冴威牙とお前に任せているだろうが。
 いいか、俺が〝任せる〟というのはだな、〝成果は貰うが責任は取らん〟と言う意味だ。第一にして、ならず者崩れを掻き集めた野良犬の群の、端が女に腰を振った所で、俺が一々とがめだてをする事か」

 狭霧兵部は、朝食の最中であった。
 となりには吉野――鉄兜の側近が座して、粛々と茶碗に飯を盛りつけている。その風景だけを切り出して見るならば、至って平和な日常のようにさえ見えた。

「俺は知らん、お前達でどうにかしろ。結果報告もいらん、聞いて覚えるだけ無駄な手間だ。その程度もできんようなら、取り立てた俺が間違いだったという事になるが、間違いは迅速に正さねばならんな」

「……分かりました」

 村雨は浅くだが一礼し、部屋を去る。村雨の背に、狭霧兵部は一瞥も向けなかった。
 廊下に出た村雨は、溜息を一つ零し――それから、自分が先程まで居た部屋は、血の臭いが濃かったのだと改めて知る。
 その血臭が、部屋に沁み込んだものか、狭霧兵部に染みついたものかと問われれば、両方であると答えるだろう。死と当たり前のように同衾するのが、狭霧兵部和敬である。
 分かってはいたが、頼る事など出来ぬ男だ――肩を落とし歩く村雨の反対側から、巨体が窮屈そうに歩いて来た。

「早朝より、熱心にござるな」

「………………」

 身の丈は一丈二尺八寸、体重二百四十七貫――白槍隊の〝鬼〟、波之大江三鬼である。
 村雨は軽く頭だけ下げて、擦れ違って通り過ぎようとした。

「待たれよ、村雨」

 行き過ぎる村雨の背を、三鬼が呼び止める。村雨はその場に立ち止まり、背と首だけ後ろに捩じって振り向いた。
 村雨は、焦燥の浮いた、強張った顔をしていた。

「捕えた男を、どうするつもりだ」

「……どうしようかなぁ、本当に」

 その術が分かっているなら、村雨は何も悩む事は無いのだ。
 人を裁きの場へ送った事は有っても、人を裁いた事は無い。そして、悪行を働いた男――冴威牙の部下である大藤を、他に裁く者は無い。
 狭霧兵部が、洛中の兵権を預かる男が何もせぬのだ。彼の下にいる誰が、気性激しい上司の意向に背いてまで、罪人一人を罰するだろう。

「赦すか?」

「まさか」

 然し――罰しないという道は、無い。
 暗い夜であろうと、長屋に飛び込み悪漢を引きずり出した村雨の姿も、エリザベートの姿も、住民達は見ていた。
 そして同様に、村雨と同じ赤羽織を着た男が、悪漢として打ち倒されていた事も、確かに見ていたのである。

「あのままにするなら、誰も私達の事を信じてくれなくなる」

「然り。何を望むにせよ、その衣を纏って吐く言葉は、全て虚言となろう」

 個人では無い。人は人を、集団の一端として見る。
 そして――往々にして一つの悪行は、数十の善行を帳消しにする。
 元より赤心隊が積み重ねた悪行は、十や二十では数え切れぬもの。此処でまた、悪行を見逃すのであれば――

「じゃあ、やるしかないじゃない……私が」

 額に手を当て、権力を持つ苦しみを始めて知った悲痛な声で、村雨は言った。








 凶行に及んだ当人、大藤は、枷を着けた上で牢に繋がれていた。
 村雨が少ない数の打で倒した為、腫れなどは見受けられない、綺麗そのものの顔である。そしてまた、ふてぶてしく牢のど真ん中で、胡坐を掻いているのであった。

「よぉ、〝副隊長〟さん。あんた、頭固えんだなぁ」

 牢を訪れた村雨に、大藤は開口一番、せせら笑いで出迎えた。

「…………」

「いい子ぶっちゃってぇ、だから冴威牙隊長の方がいいんだよ。隊長なら一緒に楽しんでくれたのによぉ」

 がっ、と鈍い音が鳴った。村雨が牢の木組み格子を、思い切り脛で蹴り付けたのだ。
 硬い脛で打たれた木柵が、僅かに凹む程の力――然し大藤は、にやけた顔を崩さない。

「凄んでも無駄だぜ、どうせ隊長が助けてくれる。俺達は何をしたっていいんだ、分かるよな? あ?」

「あなたは、どうやっても許せない」

 村雨は努めて冷静を保ち、言う。
 だが、震える拳に、ぎぃと引き絞られた口元に、激しい怒りが浮かんでいる。

「……っ、ぶはっ! は、っははは、っひひひひひひ……!」

 それを見て、大藤は腹を抱えて笑った。
 赤の他人の悲劇へ、本気で腹を立てている村雨がおかしいと、指を刺して大笑いしていたのだ。
 もはや、言葉を交わすまでも無い。
 どうしても分かり合えぬ生き物は居る――その程度の事は、人間の世界で生きた三年少々で、嫌という程に理解していた。

「……あなたの処遇は、後で決める」

「無理だね! あんたじゃ出来ねえさ、お偉い副隊長サマ!」

 嘲り笑い続ける大藤は、牢の格子ぎりぎりにまで近づき、苦悩する村雨の顔を見ようとした。村雨は、それに応えてやるように、自分も格子に近づいて、

「兵部卿も冴威牙も、あなたを見捨てたよ」

「……あぁ?」

「殊更罰しはしないけど、助けるつもりも無いみたい」

 酷く冷たく、村雨は言った。

「あなたをどうするかは、全部私に任されてる。……そして、もう一度言うけど……あなたのした事は許せない」

 村雨は最後に、一度だけ大藤の目を見た。
 大藤は、自分を見る村雨の目が、人のそれでは無くなっている事に気付いた。

「……お、おい! まさか、俺を殺す気じゃねえだろうな!?」

 強膜は変色し、瞳孔は拡大し――村雨は獣の目になって、大藤に別れを告げていた。もうお前に会う事は無いと告げるような、然し憐みを一切持たぬ目で、見ていたのだ。

「……やめろ、たかが――たかが女を犯しただけじゃねえか! あの爺も婆も、死んじゃいねえんだろ!? 何も殺す事は、おいっ! おいっ……!」

 背に声を浴びながら、村雨は牢を後にする。
 看守が怯えて後ずさる程に、村雨の目は恐ろしいものとなっていた。








 牢を出て、太陽の下に戻って来た村雨は、深々と溜息を吐く。
 兵部卿に報告し、無干渉の意思を伝え聞いた。
 冴威牙には――私がやると、啖呵を切ったのだ。
 そうせぬのなら、冴威牙は確実に、己の部下である大藤をのさばらせたままにする。だからこそ自分が罰するのだと、村雨は意を決した。

 ――けれども、どうする?

 村雨は、人の上に立った事が無い。
 小さな獣の群の中でさえ、群を束ねていたのは自分でなく、自分の父母だった。
 人の世界に混ざり込んでも、常に誰かを上に仰いで、指示を受ける立場として生きていた。
 桜との旅でさえ、思えば庇護者を立てての道中だった。
 その村雨が初めて、誰かを責め、罰しなければならないのだ。
 どうして良いか、分からない。
 何をするべきかの全体像が、何も見えて来ない。
 救いを求めるように、村雨は空に仰いで、ついでに凝り固まった体を解すように、腕をぐうと伸ばした。

「どうしたら良いと思う?」

 それから村雨は、視線を降ろさないまま、近づいてきた臭いに聞いた。

「……そんなもの、私に聞かれても困るわ」

 答えたのは、ルドヴィカ・シュルツだった。
 西洋人の金色の髪が、羽織の赤と相まって、普段の野暮ったさが消えた伊達振りである。
 ルドヴィカは、変わらず空を見続ける村雨の横に立ち止まった。

「考えてくれないの? 上司をもっとねぎらってよ」

「あんたが上司だとは認めたくない、っていうのがまず一つで……もっと根本的な問題。私は事実を追っかける人間で、これから出来上がる事実に干渉するのは本業じゃないの。あんたの決定を記事にして、この街中にばらまくのが私の仕事なの、分かってる?」

「分かりたくない」

「……こんにゃろ」

 自分の心情を述べながら、それを一言で返され、ルドヴィカは村雨の足に軽い蹴りを入れた。骨の代わりに鉄骨を仕込んだ重い脚ではあるが、さしたる力も入れずの蹴りで――然し村雨は、蹴られるままに雪の上へ引っ繰り返った。

「あんた、大丈夫?」

「んー……」

 雪の上で大の字になったまま、村雨は起き上がろうとしない。代わりにルドヴィカが、村雨の頭の近く、雪の上に座り込んだ。
 村雨は未だに、空を見ていた。
 雲の少ない、冬では貴重な青い空。風も無い今は、日光に当たっていると、春のような暖かさをさえ感じる。
 だのに、心に抱えた荷物一つで、こうも安らぎからは遠ざかるものか――無表情のようでいても、村雨の顔には何処か険しさが有った。

「この国での慣例に習えば――答えは出てるわよ」

 ルドヴィカもまた、同じ空を見上げながら――村雨の顔を見ずに言う。

「強姦一つ、傷害二つ、都合追放刑が三回……となれば、分かってるわよね」

「……一人を三回も追放は出来ない。加えて、二人はエリザベートが居なかったら、間違いなく死んでた。実質的には二人殺してるようなものだから――」

 死罪。
 そう、言葉が続くのは、村雨自身も、ルドヴィカも分かっていた。
 だが村雨の喉は、その音を正常に発する事は無かった。
 然しルドヴィカは、無情に言葉を続ける。

「色々と慣例は調べたし、そういうのが専門の人にも聞いて回ったわ。この内容なら、牢内で殺して、首だけ河原に晒すのが妥当だって。……私としちゃ、本土に戻った時の土産が増えて万々歳よ、別に止めたりはしないわ」

「………………」

「それとも、止めて欲しかった? 『残酷な事は止めなさい、非文明人の証明です! 愚かしい!』なんて、余所行きの口調で」

 仰向けになった村雨の、羽織の背には、体温で溶けた雪が少しずつ沁み込んで来る。
 だが、村雨は寒さを感じない。己が亜人であると、誰にも分かる姿――髪と同じ灰色の体毛で、四肢や背などを覆った姿は、極寒の地でさえ身一つで耐え得るのだ。
 然し、それなら何故、自分は震えているのか――村雨は異常に気づきながら、それを抑える手立てを持たなかった。

「馬鹿、そんな事してやらないわよ。残酷大いに結構、文明人気取りこそ、そういうのを喜んでくれるんだから。
 ……だから、あんたが決めやすいように、ちょっと人を呼んできてあるんだけど」

「人? ……!」

 ルドヴィカは村雨に、長く考える時間を与えなかった。
 人の街の中に居る時は、あまりに多量の臭いに囲まれているが――その一つ一つを意識すれば、記憶と照合する事は出来る。
 つい最近、知ったばかりの臭いが有った。それはあまりに多くの、血の臭いと共に記憶したものであった。

「……あなた達はっ……!」

 大藤が押し入り、凶行を働いた一家――の、両親である。
 厳めしい顔立ちの父親と、その数歩後ろを歩くのが似合いそうな慎ましい母親の二人が、ルドヴィカから暫く遅れて歩いてきたのだ。
 村雨は、跳ねるように立ち上がり、彼等へと駆け寄った。それから――

「ぁ――」

 何を言えば良いのか、分からなくなった。
 目の前に居る人間は、健康そのものの顔で歩いている。
 だが、衣服の下、恐らくは傷も残っていないだろう体が――どんな風に斬られていたか、村雨は知っているのだ。
 彼等は、一太刀で殺されはしていなかった。
 腕や脚へ斬り付けられ、一部は完全に切断されていながらも、急所を狙って刺されたりはしていなかった。
 だから、村雨とエリザベートは間に合ったのだ。
 大藤は――街で偶然にでも見かけたか――気に入った女の家に押し入り、その両親を〝直ぐには死なない程度に〟斬ってから、見せつけるように女を犯したのである。
 その時、大藤は、赤心隊の証である、赤い羽織を纏っていた――村雨が今羽織っているものと全く同じに。
 人は、知らぬ人間を、個人として判断しがたい。その人間が所属する集団を、まずは判断の基準とする。
 〝所属は同じ〟〝あの悪名高い赤心隊の一人〟――村雨は、自分に冠される称号が何か、嫌という程に分からされたのだ。

「――ごめん、なさい」

 その声は、当人が思う以上に小さかった。
 四つの目が何を想っているかも読み取れず、為に目を逸らす事も出来ず、不動のままに村雨は、呟くように詫びていた。
 微かな、風にも掻き消される程の声。
 それでも、この静かな冬の昼過ぎには、十分な声であった。

「ごめ、……な、さ」

「………………」

 初老の夫婦は表情も変えず、何も言わず、ただ立っている。
 その目が――何も語らず、見る者の思いで解釈の変わる目が、村雨を苦しませ責め立てる。
 夫婦が何を言うまいと、或いは言ったとしても、村雨はそれを、自分を詰る声と受け取っただろう。
 詫びねばならない。
 詫びて、彼等の納得の行くように、大藤の処遇を説明しなければならない。
 そして、その後は実際に、自分が指示を出してその通りに――
 説明? まだ何も決まっていないのに?
 村雨はまだ、どうしていいか、分からずに居た。
 だから、差出せる言葉は、「ごめんなさい」以外に何も無かった。
 狼狽えながら、出来るのは踏み止まる事だけ。
 口から無意味な音を発しながら、村雨はそこへ留まっていた。

「……お話しした通り、彼女が私達の上役です――貴方達のような人を、二度と出さない為の」

 代わりに言葉を綴っていたのは、ルドヴィカであった。

「こんな小さな子がかい……?」

「私とそんなに歳は変わりません。寧ろ……見て来た物は、私より多いかも知れません。私は信用に値しない人間ですか?」

「……いいや」

 ルドヴィカは、村雨をしてそんな顔が出来たのかと思わせる程、真摯な顔で、初老の夫婦と向き合っている。
 黙し、村雨を見ている時に比べて、横からルドヴィカが声を掛けた時の夫婦の表情は、ほんの少しだが和らいでいるように見えた。

「……ルドヴィカさん、それでも私達は」

「貴方達が、許せないのは分かります。……私は、許して欲しいのではない。ただ、貴方達に知って欲しいだけです。
 これまでの彼等――赤心隊は、ただのけだものの群だった。けれど彼女は、獣の姿をしていても、そういう生き物じゃない。幼くても、力や知恵や経験が足りなくても、私や他の誰かより、よっぽど先へ進んでいける――〝人間〟です。
 ……ずるい言い方だとは分かっていますが、私を信じるように、村雨を一度だけ信じてください」

 そしてルドヴィカは、夫婦の正面に立ち――村雨へ向けられる視線まで、全て受け止めるようにして言った。
 夫婦の目に宿る諦念――何も変わらない、変えられないという思いや、理不尽に対する怒りが、僅かにでも薄れるまで。
 弁舌でなく、真摯さだけを掲げて、ルドヴィカは場を繋いだ。

「村雨、この方達は――」

「……うん」

 この二人が誰か――無論、村雨は知っているし、その事をルドヴィカも知っている。
 ルドヴィカが村雨に伝えようとしたのは、自分が何をしたかであった。
 顔を見れば、分かる。
 見ず知らずの他人、形式上ではあれど自分の同僚が酷く傷つけた相手と、打ち解けるのは簡単では無い。

「――なら、分かるわね」

 だが、ルドヴィカはやってのけた。
 その上でルドヴィカは、後を村雨に託したのだ。
 応えねばならぬ。村雨がそう思った時には、喉のつかえは取れていた。

「……ごめんなさい。今回の事も……今までの事も。赤心隊が野放しにされていて、あなた達だけじゃなく、沢山の人を悲しませました。これからは私が……それを、させません。今回の犯人には、罪を償わせます。それがたとえ、どんな形であっても、必ず」

 それが、自分のやる事だ。
 望むも望まないも無い。誰かの上に立つという事は、それだけの責任を負うという事である。
 なら、受け入れてやる。
 自分は群の長になる。

「私が居る限り、もう誰にも――私の部下にも、他の部隊の兵士にも、絶対にこんな事はさせません。その為にも犯人には、あなた達の苦しみの、ほんの一部だろうと知って貰います。……あなた達が厳罰を、望もうと、望むまいと」

 冴威牙のように、部下を野放しにして、欲で繋ぎ止める形では無く――
 力と規律で律し、己が意思で動かす、一個の生物が如き群れへ。
 それはどれ程に傲慢な決意であるだろう――多数の意思を、自分の思うが侭に動かしたいなどと願うのは。
 だが、村雨は、それを願うだけの身勝手さを得た。
 自分が正しいと思う事を為す為に、他者の意思を押さえつける――それが村雨の、師から学んだ、そして愛しい人から学んだ〝強さ〟であった。

「……私達が、彼を許してやれと言ったら?」

 夫婦の、妻の方が、囁くように訊ねた。

「聞き入れられません。あなたの優しさを無駄にするようで、本当に申し訳ないですが……許したら、また同じ事が起きる」

 村雨は、もはや躊躇もせずにそう答えた。
 そして、知っている。この夫婦が、大藤を――犯人を許す事は、絶対に、無い。
 けれどもこの夫婦の口から、「犯人を罰しろ」とは言わせたくなかったのだ。
 既に多くを奪われた一家に、今また〝誰かを殺させた〟罪を背負わせたくない。
 そう決めて村雨は、聞き入れぬと――微笑みさえ浮かべて、言ったのだ。

「……ルドヴィカさん。あんたに聞いてたのとは、ちょっと違うな」

「でしょう。もう少し、骨が有る」

 夫婦の、夫の方が、首を左右に振りながら言う。
 聞きようによっては、非難する言葉にも取れるのだが、ルドヴィカはまるで悪びれず言うのだ。

「ははっ……ああ、確かに」

 そうして、自らと妻を刃で斬られ、娘を暴行された初老の男は、村雨とルドヴィカに背を向ける。

「頼むよ、お二人さん。私達は疲れた、今は安心して眠りたいんだ……」

「はい、絶対に……絶対に、静かに眠れる洛中を、私が」

 遠くなる背は、小さく、弱かった。
 その背が見えなくなるまで、村雨は頭を下げ続けて――

「ルドヴィカ、文章を作って」

「はいはい、内容は?」

「大藤の――獄門の、執行命令」

 声には未だ、強張りが有った。
 然し表情の影は薄れ、代わりに、強い意思が宿っていた。
 これは自分が決めた、と。他ならぬ自分が決定し、誰かの命を奪うのだと知って、だがそれを畏れぬ顔。

「ルドヴィカ」

「……なによ」

「ありがとう」

 早足で先を行く村雨の後ろで、ルドヴィカは空を見ていた。
 予想外に、率直に告げられた礼が気恥ずかしく、少し頬が紅くなるのを自覚しながら、

「……別に、いいわよ」

 それだけを答えて、村雨を追いかけていった。



 その日の内に、大藤への刑は執行された。
 斬首。
 胴は、新刀の試し切りに用いられた後、埋葬ではなく、焼いて灰にされ捨てられた。
 その首は獄門台に乗せられ、三条河原に晒される。
 全ての過程を村雨は、目を逸らさずに見届けた。
 村雨の横にはルドヴィカ・シュルツが、一言も発さぬながら、やはり全てを見届けながら、傍に居た。









 罪人の首が河原に晒され、片づけられて、また数日が経った。
 洛中は相も変わらず雪ばかりで、更に空からも雪が落ちてくる。
 村雨達がやる事は、変わらなかった。
 洛中を走り回り、雪おろしなどを手伝いながら、一人暮らしの老人など、人手が足りない家が何処かを把握する。
 が――変わった事も、幾つかは有った。

「やっ、お客さん来てる?」

「ぼちぼちでんなぁ。ご家来衆の席くらいなら空いてますけど」

「いやいや、家来じゃないってば」

 〝赤の他人〟だった人間が、〝知り合い〟になったり、或いは〝友人〟となった事である。
 村雨はこの日、部下にあちらこちらを走り回らせながら、自分は茶屋の軒先に居た。
 二条の、丁度人の行き来が多い所に有る、茶屋とは言いながら食事も出すような、大きな店である。
 其処の店主は若い男で、物事に兎角先入観を持たない。亜人としての姿で村雨達が現れた時も、普通の客と同じように、注文を取りに来た程である。

「して、今日の御注文は?」

「持ち帰りでお饅頭二つと、それから何か噂話でも幾つか」

「はいはい、どちらも上等を用意してございます」

 世の中、一方的に何かを得ようというのは、虫の良すぎる考えである。
 村雨が親切の安売りをして回ったのは、自分の顔を売る為が一つと、〝こういう場所〟――人や話題が集まり、かつその話題を効率良く自分に提供してくれる場所を見つける為であった。
 洛中に、村雨は、こういう場所を何件か確保していた。そして持前の俊足を生かし、その数件に必ず、一日一度は顔を出すのだ。
 そこで、自分達が介入出来そうな話を見つければ、首を突っ込んでいく。
 力仕事なら得意分野であるし、喧嘩の仲裁ならば――公権力を用いるなり、或いは村雨やルドヴィカが宥めすかすなり、一方の損にならぬように収める。
 無論、最初から良い顔で受け入れられる筈も無い。
 赤心隊の所属である事、亜人である事の二点は、保守的な考えを持つ者には、受け入れ難いものである。特に老人達などは、未だに村雨達を見かけると、顔をしかめてそっぽを向く。
 だが、若い世代は、また違う。
 自分達に害が無いなら、普通に接しても良いと考え――そして実際に触れて見ると、亜人もさして人間と変わらぬと気付くのだ。
 そうやって村雨は、洛中に、自分の耳を広げながら、自分の存在をも広めている。

「ん、御馳走様。お代は置いとくねー」

「まいど御贔屓に、明日もおいでやー」

 あちらこちらと駆け回る為に、一所に留まる時間は短い。それでも、村雨という生き物の印象を残すには十分であった。
 そも、村雨が亜人の姿を隠さずに居るのも、敢えて赤心隊と分かるように羽織姿で出歩くのも、己を印象付ける為である。
 一度見れば忘れぬ姿で洛中を巡りながら、自分の元へと人の声が集まるように仕向けて行く。
 それは、一朝一夕には成らぬ、労力を積み重ねる事で辿り着く目的地である。
 だが――村雨には、一つ、運が向いていた。

「村雨さん!」

 二条から三条へ、南へ向かって走っていた村雨を呼び止めたのは、拝柱教のエリザベートであった。
 ざぁっと雪の上に線を引いて、村雨は急停止し、道の脇に立つエリザベートの元へと歩み寄る。

「お元気そうで、何よりです」

「まあね、健康だけが取り柄です」

 幸運というのは、エリザベートを取り込めた事であった。
 彼女もまた、市井に人と交わり、人の間に名を広める女である。無償で人の傷を癒し、人の手助けをしながら歩き回る。
 エリザベートが村雨に力を貸した事で、彼女を信ずる者が、無条件に村雨をも信用したのは、計算外の幸運であったのだ。

「おととい、三条河原を見て来ました。貴女が、あれを命じたのですね」

 そして――名声以外に、もう一つ。
 エリザベートと対話できた事そのものが、村雨の幸運であったのかも知れない。

「……そうだよ。私が決めた」

 民家に押し入り凶行を働いた、赤心隊の大藤――村雨は、彼の獄門刑を命じた。
 自分がやらねばならぬ事と信じて、村雨はそう決めた。決意の助けとなったのは、かつて村雨と激しく殴り合ったルドヴィカ・シュルツであり――

「あなたの考えが少しだけ分かったよ、エリザベート」

 ――〝大聖女〟の存在でもあったのだ。

「……分かってしまう人は、少ない方が良かったのです。貴女も、私を知らぬままで」

「あなたは本気で、人を救おうとしてる。その為に誰かが不幸になるなら、まずは自分からって考えてる。……どんな悪事を働いても、誰と手を組んでもいいから……一人でも多く、助けようとしてる」

 救済を、現実的に考えると、どうなるか。
 目に映る全ては助けられないとして、それでも人を救いたいと願うのなら――どうするか。エリザベートが辿り着いたのは、少数を害してでも、多数を救うという道であった。
 そして、それは――法だとか規律だとかで、罪人を罰して社会を成り立たせるのと、本質的には変わらないのではないか? 村雨は、そう思ったのだ。
 罪人を野放しにして、良民は安らかに暮らせない。だが、罰する事そのものが、誰かの負担になるのなら――その負担は、自分で負う。
 その為に、一人を殺したのが自分で、今までに幾千人も殺してきたのがエリザベートなのだ。
 村雨の理解は、完全では無いのかも知れない。けれども、自分が為すべきは何かと考えるようになった一助は、間違いなく、エリザベートであるのだ。

「でも、あなたは間違えた」

 けれども。
 理解した上で、寧ろ理解したからこそ、村雨はエリザベートを否定する。

「……私は、間違えてはいません。全ての人を救いたいからこそ、私はこの国を、まずは呑むのです。
 この国を足掛かりに、世界全てを、私の夢の元に一つにする。恒久的に争いの無い世界を、私が作るのです。
 誰一人として差別されず、神の元に平等の――人が苦しまず、傷つけられず、尊厳を保ち生きていける世界を」

「私は、あなたに支配されたくない」

 選ぶ立場になって、村雨は知った。
 結局自分がやった事は、多数を選び、少数を捨てるという選別――上から下へと押し付ける傲慢であるのだ。
 悔いてはいない。それが正しいと思って選び、実行したのだ。そこに悔いは無い。
 ただ――人の為にという言葉は、発する者の身勝手であると、実感したに過ぎない。
 村雨は、それで良いとも思っている。
 自分は身勝手に、気に入った人間を助けるだろう。そうして助けた人間も、最も優先する一人の為なら、喜んで切り捨てるだろう。
 然しエリザベートは、心から、自分の行いが世界の為であると信じているのだ。

「私は、私が好きになった人と生きて行きたい。その人は多分、あなたの考える世界に馴染めない」

「……〝黒八咫〟ですか?」

「あの人、性格悪いから。……けど、私には大切な人」

 エリザベートは心を痛めながら、世界の為に、人を選別し続けるだろう。
 村雨は、その選別に残る自信が有るが――雪月桜はきっと、エリザベートに選ばれない人間であろうとも、思う。
 理屈をどれ程に重ねようとも、その一点で十分。

「あなたの勝手で、桜を殺されたくない」

 村雨は決して、エリザベートの理想とは相いれない。
 これ以上無い晴れがましい顔で、村雨は、〝大聖女〟への敵対を宣言した。

「……貴女と、分かり合いたいと思いました。人に非ずして、人の中で生きる貴女……人と交わる事を望む貴女と。それは叶わないのですね」

 己の理想を、己の全てを否定され、尚もエリザベートは、慈悲に満ちた微笑みを浮かべていた。
 目尻に涙を滲ませながらも笑っているのは――きっと、村雨という生き物の心が、成長した事を、真実喜んでいるのだろう。
 何処までも善意だけで、エリザベートは生きている。そして善意を以て――この日生まれた敵を、除かねばならぬとも決意した。

「私は、あなたの邪魔をする。あなたに賛同できない人を集めて、内側から、戦いを止める」

「私は、私の目的を遂げましょう。比叡山を落とし、その内にある宝の力を以て、世界の果てまで神の威光を知らしめます」

「必ず」

「必ず」

 二人は、互いに背を向けた。
 不思議と二人に、互いへの憎しみは無く――だが、悲しみも無かった。
 有るのは、果たさねばならぬ望みだけ。
 村雨は、まるで巨大な獣に飛びかかる寸前のように、血が昂るのを抑えられなかった。








 二条城の天守の屋根に、冴威牙は座していた。
 村雨が自分の部下達をからかった時、寝床に使っていたのが、此処だ。

「……いーい眺めだなぁ」

 成る程、絶景であった。
 洛中広しと言えど、そして如何に西洋風の街並みなれど、二条城より背の高い建築物は存在しない。冴威牙は今、洛中で最も高みにいるのだ。
 目が、耳が、鼻が、此処では地上より数段も冴える。遠く人の行き来する姿を、冴威牙は一人で、何をするとも無しに眺めていた。
 普段ならばぞろぞろと引き連れている部下は、今は一人しかいない――有翼の女、紫漣だけである。他には誰一人、この高さまで付いて来られる者はいないのだ。

 ――遠いもんだ。

 冴威牙は、彼の声としては似合わぬ程に重苦しく呟いた。
 高低差、距離ばかりの問題ではない。彼と部下達とは、悲しい程に距離が有った。
 冴威牙の部下は、合わせて二十人ばかり。その全てが、強さという基準で見れば、冴威牙には遠く及ばない。
 二十人全員が武器を持って、素手の冴威牙を殺せるかどうか――いや、それも叶うまい。大なり小なり負傷させたとしても、冴威牙は、自分の部下達を皆殺しに出来る自信が有る。
 知恵はどうか――無いに等しい。だからこそ、力だけで従えて来られたのだ。
 人間としてではなく、生物として見た場合、冴威牙はかなり優れた部類に入る。だが、彼の部下は、悲しい程に彼と遠く――力でも知恵でも、劣っていた。
 たった一人、紫漣だけは、少なくとも知恵働きで冴威牙に勝る。だが、それだけだ。自分が作り上げた群れは、極論、自分と紫漣だけが居れば事足りる。

「冴威牙様! このような所で、何を無為に!」

 彼の副官である紫漣は、朝から一時と休まらず気を荒立てていた。

「長である貴方がそのようでは、下に示しが付きません! 一刻も早く、赤心隊を元の在り方に正さねば――」

「……ふぅん」

 ごろり、と屋根の上で、冴威牙は仰向けになった。
 何処までも広がっている――行こうと思えば、本当に好きなだけ遠くに行けそうな、広い空だ。
 然し、二本の脚で地上を歩く冴威牙には、決して届かない空でもあった。

「〝ふぅん〟じゃありませんっ! 貴方の部下達は、大藤が殺された事に怒り狂っています! 貴方なら止められた筈だ、貴方は何もしなかったと――声は上げませんが、抱いている不満は隠せません!」

「……あいつはドジったんだよなぁ。馬鹿が、ヤってる所にとっ捕まりやがって」

「その程度の事、幾らでも黙認してきたのが貴方でしょう!? 貴方の部下は、何も忠義から仕えているのではない――利と恐怖で、貴方に従っているのです! 身勝手を許されないとなれば、何時まで貴方に従っているか……!!」

 そして今、冴威牙は、己の作った群をどうするか、決めかねていた。
 端的に言えば――守る理由が、薄れて来たのである。
 そうしようと思えば冴威牙は、大藤を牢から出し、何処かへ逃がす事も出来た。そうする事で冴威牙が罰せられる筈も無い――狭霧兵部はそのような善良さを持たない。
 邪魔立てをするとしたら、形式上は副隊長として、冴威牙の下に居る村雨くらいのものであろう。

「あいつ、思ったより強えんだよなぁ……」

 人狼。
 自分に近いが、遠くかけ離れた種族――臭いでその事は分かっていた。だが、初めて出会った時は、軽くあしらえる程度の相手だったのだ。
 それが何時の間にか、本気で殺し合えば、いずれが生き残るかも分からぬような獣に育っていた。
 加えて部下が十数人、いずれも亜人。村雨が持つ戦力は、現時点で、冴威牙の持つ戦力を上回っている。
 意思を通すのは、強い者の特権である。
 大藤を処断するという村雨の意思を、仮に冴威牙が阻もうとしたら――十数人の亜人と、二十人に満たないごろつきが、互いに意思を通そうとぶつかったらどうなるか。
 自分は負けないかも知れない。だが、自分の部下は負ける。事によれば、手足の数本も飛ぶかも知れない。一方で村雨の部下は――二人か三人、殺せれば運が良い方だろうか。それ程の違いが有ると、冴威牙は見ているのである。
 つまり、力を以て好き放題の狼藉を働いていた赤心隊は、同様に力を以て、既に実権は移ったも同然なのだ。それに気づかぬのが冴威牙の部下達であり、彼等は未だに己等の理が通ると信じて、大藤を〝殺した〟村雨へ復讐せよと、冴威牙を突き上げているのだった。

「何もしねぇよ、俺は。……分かってんだろう、真正面から喧嘩になるより、一人死んだままの方が良いって事くらいは」

「……分かります。ですが、分かるのは私だけです! 他の者達は貴方を、子供に怯えて尻尾を丸めた弱虫とさえ――」

 溜息が零れた。冴威牙への支持が急速に弱まっているのは、他ならぬ当人が感じていた事なのだ。
 自分の群と、村雨の作った群をぶつけたくないと、一人の犠牲――法に則った妥当な捌きなのだが――は、目を瞑った。そうしたら、庇った筈の連中から非難されているのだ。
 だから、群を守る理由が薄れた。
 もはや赤心隊という環境、狭霧兵部の庇護と狼藉の特権は、冴威牙が魅力を感じるものではなくなり始めたのである。

「逃げちまうかぁ?」

 せせら笑うような響きも、豪放さも何も無い――本当に、弱音のような呟きが零れた。

「はぁ……?」

「洛中を出て、関を超えて、江戸まで逃げてよぉ」

 冴威牙は、紫漣の腕を掴んで、自分の体の上に重なるように引き倒す。そして、狼狽する紫漣の頭を、がっしりと胸に抱いたのである。

「なっ、――!?」

「港から船に乗って、新大陸を東に突っ切って、また船に乗って帝国の本土まで。この国の連中が誰もいねえ所まで、俺とお前だけで逃げちまうか。
 怖え兵部卿もほっぽって、馬鹿な子分どもも捨てちまって、ぎゃんぎゃん吠える狼に知らん顔してよぉ。海の上じゃあ海賊で、丘に上がったら山賊だ。そうやって、好き放題しちまおうや」

 頬を赤らめ身をこわばらせ、身動きとれずにいる紫漣をよそに、冴威牙は夢を見る少年のような顔をして言うのだ。
 その目は遠く、本当に海の向こうを見ているようであった。
 狭い島国を抜け出して、大陸の大地を馳せる事に、思いを飛ばしているようであった。
 それを、乾いた音が立つ。
 紫漣の右手が、冴威牙の頬を打った音であった。

「情けないっ……それが長の吐く言葉ですかっ!」

 そして、もう一つ。手首を返し、小気味好い音を立てて頬を打つ。
 非力である――少なくとも冴威牙に比べれば。
 傷一つ残せぬ、ただの平手打ちだ。

「お前……」

「貴方はどうして、人の里まで降りたのですか……人の中でのし上がり、やがては一国一城の主になろうと企てたからこそ、狭霧兵部のような男に屈しているのではないのですか!?
 私はっ、貴方が成り上がる様を見たいからついて行くのです! 貴方が尻尾を巻いて逃げる姿を見る為に、海を超えるつもりなどありませんっ!」

 然し、爪痕は残した。
 紫漣の、慟哭にも似た叫びは、冴威牙の矜持に突き刺さり、激しく揺さぶる。

「わ、私はっ……貴方を、王にする為にっ、ひ、ぐ、うっ」

 紫漣は、童のように泣きじゃくりながら、非力な拳で幾度も、冴威牙の分厚い胸板を殴りつけた。
 もはや盲信にも等しい執着――なれど紫漣には理知が有った。自分が見込んだ男が、何処までも上り詰めるのを支えて行きたいという望みが有った。
 自分の理想形から遠ざかる冴威牙を許せない、そういう自分本位な思いも、無かったとは言えぬだろう。然しそれ以上に紫漣は、冴威牙が強く在る事が――単純に嬉しかった。
 恋い焦がれる男と二人、異国に逃げるより、冴威牙が野望を果たす事を幸福とする――献身こそが、紫漣であった。

「……ひっははははっ」

 冴威牙は何時ものような、浅薄とも取れる笑いを浮かべて――

「いーい手が浮かんだぜぇ」

 天守の上に、立つ。
 座していても良い展望であるが、立ち上がって見れば、更に目の位置が高くなる。
 冴威牙は仁王立ちで洛中を見下ろした。そして、紫漣の腰を掴むと、米俵か何かのように、ぐいと肩へ抱え上げた。

「――はれ?」

 頓狂な声を上げた紫漣を余所に、冴威牙は屋根の縁に立つと、

「兵部の旦那に掛け合ってくらぁ、着いて来い!」

 跳んだ。
 両足で屋根を踏み切って、真下にある堀の、冬の寒さで表面に薄く氷さえ張った水へ向かって、跳んだのである。
 風を重量物が切り分ける、ごうごうという音を聞きながら、冴威牙と紫漣は落下した。そして、堀の水は、荒れた海のように、盛大に波を立てたのである。
 何事かと、城内の兵が集まって来るが、辿り着いた彼等も、自分が見たものに理解が及ばぬという顔をして、堀に飛び込んだ阿呆を見ていた。

「……ぶっ、っげほ、冴威牙様、何を――ぅ、寒っ、寒いっ……!」

 翼と手足で水面を叩き、紫漣が、堀から逃げるように上がった――が、そこも雪の上だ。その後から、一度水底まで沈んだらしく、頭から足先までずぶ濡れの冴威牙が浮かんでくる。

「これくらいじゃなきゃ、ならねえよなぁ!」

 そして冴威牙は、紫漣の腕を掴んで引き寄せると、周囲の兵士に聞かせるように吠えた。

「へっ――さ、冴威牙様……?」

「男を成り上がらせる為に、その男の面をひっぱたく! そうでもねえと、俺の女は務まらねえよなぁ!」

 髪も袖も、体の芯まで凍り付かせる程に冷たい水で濡れて、絞りもせず。冴威牙は紫漣の腕を引いて、狭霧兵部の私室へと歩いて行く。
 歩幅も歩く速度も、まるで紫漣に配慮せぬ、自分本位のもの。腕を引かれる紫漣は、寒さに震えながら、小走りで着いて行くしか出来ない。
 だが、それで良かった。それが良かった。顧みぬ主であれと、他ならぬ紫漣が望んだのだから。

「紫漣!」

「はっ、はいっ!」

「俺はまだ、てめぇの惚れた男だなァ!?」

 目尻を濡らしたのは、沢山の水に交じった、ほんの僅かの感涙。
 何憚る事無く、当然のように、傲慢に扱われる事が喜ばしかった。

「はいっ! 一生……一生を賭して、貴方様にお仕えします!」

 同じく濡れた侭の袖で拭って、紫漣は冴威牙に半ば引きずられながら、走り続けた。








 二条城の地下に存在する狭霧兵部の私室は、亜人には、酷く居心地の悪い場所であった。
 極めて清潔な、埃も塵も見当たらない空間だと言うのに、色濃く血の臭いがこびり付いているのである。
 新品の畳の下、床板の中まで、幾人か、幾百人かの血が沁み込んで、もう消える事が無い。柱に跳ねた血が、万遍なく染み渡ったが為に、そういう色の木材であるようにしか見えない。掛け軸を染めた、みすぼらしい黒まで、人の血である。
 呼吸一つをするごとに、肺の奥まで、鉄の臭いが入り込む。呑み込む唾液までが、部屋に満ちた空気に毒され、赤く染まっているのではないかと錯覚する。
 狭霧兵部の私室は、死で塗り固められた独房であった。

「相変わらず、つまらん顔だ」

 脇息に寄り掛かったままの狭霧兵部は、呼び寄せた部下達の顔を見て、欠伸混じりにそう言った。
 呼び集められた面々は――何れも、戦装束である。
 白槍隊の長、巨躯の鬼、波之大江三鬼。
 赤心隊の長、犬の亜人、冴威牙。
 同じく赤心隊、有翼人、紫漣。
 同じく赤心隊、人狼、村雨。
 この部屋に真っ当な人間は、狭霧兵部と、その腹心の鉄兜しか居なかった。それ以外の四名は、皆、純粋に人間であるとは言えぬ者達であった。

「お前達に、命令と――告げておく事がある」

 床に座る部下達――冴威牙以外は足を崩さずに居る――を、狭霧兵部は、殆ど寝転がったような恰好の侭、睨むような目で見ていた。
 然し、その目には、上機嫌が浮いているのだ。
 声も心なしか浮かれている。常に不機嫌を撒き散らしているような男が、何かを楽しみにしているのだ。

「兵部の旦那よ、つまり」

「おう、冴威牙。お前の提案を、全面的に認めてやろう。兵も金も爆薬も、好き放題、湯水のように使って良い」

 座ったまま、膝で身を乗り出した冴威牙に対し、なんと狭霧兵部は、平凡な上司のように笑い掛けさえしたのである。
 尋常では無い事が起こっていると、波之大江三鬼と村雨は感じていた。

「……兵部殿。それは、如何なるお言葉にござるか」

「どうもこうもない、言葉通りの意味だとも、鬼殿よ」

 三鬼は渋面を作り、狭霧兵部に問う。座したままでも、並の男が立った時と、さして変わらぬ位置にある顔は、戦地ならば睨みだけで人を殺さんばかりのもの。然しそれでも、狭霧兵部の笑いは止まらないのだ。

「三日後の戦は、冴威牙が指揮を取り、俺が兵を動かす――つまり普段の逆だな。兵員配置も、使う兵器の選定も、全てこいつに好きにやらせる。運用するのは俺であり、白槍隊に関しては鬼殿が。他の隊も各々、隊単位で行動はさせるが、行動の方針は全て冴威牙の意思の侭だ」

 にぃ、と笑みを深め、狭霧兵部も身を乗り出す。悪意と童心を同居させた、端正でありながら、醜悪な笑みである。

「これがな、思った以上に良く出来た手だぞ。前日には鬼殿にもお知らせするが、恥ずかしながら俺が思いつくべき所を、冴威牙に先に提案された。これに乗らず、折角の興を削ぐ事だけは決して許せぬと、俺は思ったのだ」

「……仔細は分からぬながら。つまり兵部殿は、前線で指揮を取る――本陣には立たぬと」

「おうともよ。……が、冴威牙のような粗野な男が、本陣でじっとしていると思うか?」

 ついに狭霧兵部は、腹を抱えて笑い始めた。
 畳を掌で叩き、目尻に涙さえ浮かべ、喉を引き攣らせながら。側近が背中をさする間も、ひぃひぃと笑いながら、然し言葉は淀み無く続く。

「つまり、本陣は空だ! 紅野め、あいつの事だから、まず本陣を狙って兵を出すぞ! もはや本陣なぞ飾りだと言うのになぁ! 断言しよう、三日後の戦で、紅野めは手が尽きる。比叡はふた月やそこらで落ちるだろうよ」

 何時までも続く――そういう気配さえ漂う、月に一度の攻城戦。其処に狭霧兵部が、明確な区切りを設けた。
 そして、村雨を除く三名は、或る種の信頼さえ抱き、知っている。
 この男が断言する場合、そしてそれが人の死を伴う事象である場合、それは大概、正解だ。例え間違いであったとしても、狭霧兵部は全霊を以て、事象を捻じ曲げ、己の望むものを作る。
 狭霧兵部が、比叡山は二か月で落ちると言ったのなら、二か月以内の落城は定まったも同然であるのだ、と。

「……すいません、いいですか?」

 たった一人、例外がいた――村雨である。
 狭霧兵部の狂気は知っているが、然し、抵抗する者達の力もまた知っているのが村雨である。
 然し、この場合に於いて、村雨の質問は、彼我の力量などはまるで関係の無いものであった。

「朔の夜までは、まだ四日有ると思いますが……?」

 比叡山を守る魔術障壁――『神代兵装〝別夜月壁よるわかつつきのかべ〟』は、月に一度、朔の夜に力を失う。
 朔の夜以外は、完全な外からの干渉遮断――空間が無くなったかのように、敵対する一切の侵入を拒絶する。
 この障壁があるから、比叡山は、数か月に渡って籠城を続けられている。そしてその朔の夜は、狭霧兵部が開戦を宣言する三日後では無く、四日後なのだ。

「いいえ――朔を待つ必要は、有りません」

 その時、静かな、だが強く通る声が、村雨達の後方から聞こえた。
 四人が振り返ると其処には、一切の気配も臭いさえも無しに、何時の間にか〝大聖女〟エリザベートが立っていた。

「大聖女殿のお力は恐ろしい。俺もまさか、そのような事を企てていらっしゃったとは知らなんだ」

 やっと笑いが収まった狭霧兵部は、然しまだ腹が痛いのか、脇息を枕に仰向けになっている。
 その一方でエリザベートは、やはり悲しみに捕らわれた眼差しのまま――そしてほんの一瞬だけ、その目を特に、村雨に向けた。

「呪いは、成りました。三日の後、日の出と共に、比叡の障壁は消え去りましょう。……天命は、既に定まったのです」

 エリザベートは、そうまで言って泣き崩れる。それを狭霧兵部は見て、またけたたましく笑う。
 その笑いに冴威牙が唱和して、狂気が満ち満ちた地下で、村雨は拳を強く握りしめ――そして鬼は腕組みをしたまま、見るも恐ろしい顔で天井を睨んでいた。



 帝国の暦で、1794年2月26日。
 奇しくもこの時、雪月桜は、比叡山中で束の間の平和を楽しみ――
 二日後の、2月28日。春が近づきながら、然し寒さの緩まぬ夜に――蝶子という娘を抱き締め、殺す事になる。

 この年の冬は、長く冷たく、終わりを知らぬ冬であった。