烏が鳴くから
帰りましょ

死戦

 月がもうじき目を閉ざすだろう、夜。
 雪月桜は目を覚ました瞬間から、自分の意識が澄み渡っている事を自覚していた。
 半端に眠って起きた時の、後を引く眠気が無い。目を開いた瞬間に、天井板の節の数まで数えられそうな程、桜の意識は明瞭であった。
 吐く息は白い。
 一人寝には広すぎる部屋の中、寝間着代わりの襦袢を脱いだ桜は――晒を解き、普段より硬く、布を二枚使ってぶ厚く締め直した。
 小袖を纏い、長い黒髪を頭の後ろに纏め、紐で束ねる。普段は耳を隠す髪が、今は額さえ隠さず、全て背に流れている。
 そして、刀二振りを手元に引き寄せた。
 脇差『灰狼』、呪切り太刀『言喰ことはみ』、何れ劣らぬ美刀である。その鞘より刃を覗かせ、雪灯りを頼りに顔を映した。
 脂の曇り一つ無い刃は、桜の氷の面貌を余さず、過たず映す。己の顔より何の感情も読み取れぬ事を確認し、桜は廊下を出て、音も無く歩いた。
 行き先は、狭霧紅野が使う部屋。襖の前に立つと、その隙間から、蝋燭の火が零れて廊下を照らしている。

「入るぞ」

「ああ」

 夜も遅くではあったが、紅野は眠ってはいなかった。桜は襖を開け、やはり音を立てず、部屋の内に入った。

「起こしに行こうかと思ってたんだが、あんたから来るとはな」

「……何か有ったか?」

 蝋燭の灯りが一つだけの、暗い部屋の中。紅野は襖に背を向け、畳の上に腰を下ろしていた。
 布団の類は、この部屋に無い。座布団が一つ、壁際に置かれているだけである。
 紅野は、そこで寝る。この傷だらけの少女が、まともに横になって眠っている姿を、桜はついぞ見た記憶が無かった。

「まぁ、座ってくれ」

 促されるまま、桜は紅野の横に、どっかと胡坐を組んで座った。
 蝋燭の火を頼りに、紅野は何か手を動かしている。桜はその様を覗き込もうと、座ったままで背を丸めて――

「……お前」

 驚き、それだけを言う。
 紅野は己の左脚を、膝から下を〝取り外して〟磨いていたのである。
 普段は衣服に隠れているそれは、艶こそ無いが、確かに鋼造りの義足であった。

「それは、何時からだ?」

「三年前か、四年前か――四年だな。ちょっとした捕り物で、追いかけた相手が魔術師だった。左足を凍らされてさ、石畳みに貼り付けられて動かせなくなって、だから自分で斬った」

「聞いておらんぞ」

 義足の可動部を磨く紅野の横で、桜は口を尖らせ、不平を零すように言った。
 すると紅野は、きょとんとした顔で、目を丸くするのである。

「あんたのせいじゃない、四年前の事だよ。気に病む事は無い」

 紅野は、桜の言葉の趣旨が分からぬと言いたげに、幾度か瞬きを繰り返す。
 そんな紅野に対し、桜は溜息を吐き出しながら、不平の続きを言うのである。

「気に病みはせんさ……だが、何故言わん。そうと知っていれば、お前の横で刀を振るう時に、その足を補う動きが出来るでは無いか。敵に伏せるなら分かるが、私に黙っている事も無かろうに」

「……そっか。そうだな、悪い。隠したつもりじゃないんだが、気が回らなかった」

 義足を膝の下に装着し、幾度か持ち上げて外れないかを確かめてから、紅野は律儀に桜の方へ体を向けて詫びた。
 深々と一度頭を下げ、戻す――育ちが良い娘なのだと、桜が何処かずれた思いを抱く程、丁寧な仕草であった。

「やっぱ駄目だな、私。うちの隊長にも、随分前に似た事を言われてたよ」

「あの鬼か?」

「ああ。『たかが賊徒一人を捕えるが為に、脚を捨てるなど以ての外』ってぶん殴られた。おかげで奥歯も一本、差し歯になってさ……そうだよなぁ」

 紅野は、気恥ずかしさを感じ、それを誤魔化そうとしているように笑った。幾つもの傷で彩られた少女の顔に、その笑みは寂しくも良く似合った――似合う事が、寂しさを生んでいた。
 あの父から、このように真っ当に生きる少女が生まれるものか――桜はこれまで、幾度かそう思ったが、然しその思いは誤りであったと知った。

「その程度の事で脚を落として……役に立たない私だった。今なら、わざわざ自分で斬らないでも、氷くらい溶かして追いかけるんだけどな。……隊長にゃ、迷惑かけたよ」

 狂人の娘は、やはり狂っている。桜は、氷像の如き顔を更に凍て付かせ、身を強張らせた。

「……違うだろう、それは」

「違う? ……何が?」

 狭霧紅野は、良識も有るし、常識的な判断が出来る人間である。
 だから当然、これから言おうとしている事を、理解出来ない筈が無いのだと、桜は今まで思っていた。
 違うのだ。
 狂人の娘として生まれたから――では無い、が。

「私にその鬼の言葉は、『脚を失うくらいなら賊の一人なぞ逃がして良い』と聞こえたぞ。『脚を失うような弱兵は要らぬ』などと、言っているようにはとても聞こえん」

「…………!」

 狭霧紅野は、その育つ過程で、静かに壊れた少女であった。

「加えるに、あの鬼が、そういう事を言うとも思えん。お前が殴られたのは、好んで自らを傷つける愚を為したからだろう。更に遡れば、そうやって傷を収集するが如き戦い方をする――その悪癖を、殴りつけたのだろう」

「……そっか、そうだよな。言われてみたら、そうだよな……悪い事したな」

 本当に紅野は、この時初めて、桜の言った事に気付いたのだ。それでいて気付いた瞬間には、その事実をあっさりと受け入れ、ただただ驚愕しているのである。
 心底驚き、目を丸くしたままで呟く紅野が、あまりに痛々しく――

「紅野――お前はなんの為に生きている」

 その両肩に手を置き、揺さぶりながら、桜は問うた。
 生きる前提が違うのだと、桜は気付いていた。
 紅野は、自分が〝価値のあるもの〟だと、全く考えていないようであるのだ。
 四肢は戦う為の道具であり、眼球は物を見る為の道具である。顔の皮膚は寒さを凌ぐ為に張ってあるもので、傷が付いた所で困りはしない。代替が利くならば、代替品で体裁を整えておけば事足りる――
 だのに、紅野の常識は、正常なのだ。
 これが他の人間の事であるなら、顔の傷一つに憂いの言葉を掛け、手足を失った者には真実からの同情を示すだろう。人が、その身の一部を失うのがどれだけ大きな事か、狭霧紅野は知っている。
 そうでありながら、己が傷つくという事は、まるで顧みるに値しないものとして、紅野は扱っているのだ。

「なんの為、って――いきなりなんだ、桜」

 そも狭霧紅野は、自分が労わられているという考えに辿り着かない。
 自分という存在に価値を感じていないから、無駄に投げ捨てもしないが、大切にもしない。そして、他人が自分を労ろうとしていると――理屈を解かれれば理解するが、直感的な理解は出来ない。
 この少女はやがて、使い込まれた道具が自然に壊れるように死ぬのだろうと、桜は思った。
 壊れる事を望まずとも、まるで厭わぬが、狭霧紅野であるのだと、そう思った。

「……いい、余計な事を言った。それよりも――この、気に入らぬ気配の故を聞かせろ」

 揺さぶり問うても、紅野の表情は変わらずのまま――ではあったが、然し桜がこう尋ねると、瞼がぐうと降りて目が細まった。

「座主が、死にかけてる」

 座主――比叡山の僧侶、全ての頂点に立つ者である。
 日の本に仏教の宗派は幾つもあるが、その内の最大級の勢力の頂点が、座主だ。

「……あの老体は、健勝ではなかったか」

「急に血を吐いて倒れた。風鑑先生が看てるが――」

「助かるか」

 紅野は分からないと言って首を振ったが、然し彼女が軍装を整えているのが答えでもあった。
 夜気に、桜は耳を澄ませる。
 そこかしこで人が起き上がる気配と、忍び泣きのような声が、冷えて澄んだ空気に乗って届いて来る。
 何故か――皆、知っているからだ。
 この山の障壁は、座主を鍵として発動する。
 勤行の末に秘伝を継承し、加えて帝よりの認可を得るという、いうなれば儀礼的肯定を経て、ただの僧侶が、神代の奇跡を起動する者となるのだ。
 裏を返すならば、それが無ければ、比叡山の障壁は発動しない。
 即ち――朔を待たずしてこの山へ、敵対勢力は、思うが儘に踏み込める事となる。

「城壁の外へ出る」

「……待ってくれ」

「西側の城壁は、私一人で十分だ。他の三方を固めろ」

 誰よりも先に、桜は戦場へ赴こうとした。
 然しその袖を、紅野が掴み、引き留める。

「待て。少しだけ待て……あんたは私の事を、〝我らの大将〟って呼んでくれただろ。
 ……打つ手が定まるまで、少しだけ待ってくれ……」

「……応」

 掴まれた袖から伝わる震え――桜は、首を縦に振った。
 そうして、今にも逃げて行きそうな夜の中で、何もせず居る事に、暫し耐えた。
 すると、廊下をぎしぎしと、早足で軋ませる音が、紅野の部屋へと近づいて来て、襖を開けた。

「死んだ」

 風鑑は端的に、それだけを告げ、後は紅野の声を待つように、何も言わず立ち尽くす。
 座主が死んだ――この山の守りは、既に消えている。
 望むと望まざるとに関わらず、もう戦は直ぐそこまで、声が届く程に近づいていて、

 ぐわっ、と、山が揺れた。








 比叡山を包囲する軍勢は、この夜、優に六千を超えていた。
 最初の比叡攻めに用いられた兵数と、ほぼ同等か、それよりやや多い程の兵力である。
 一度目の攻撃は、秋の事であった。
 備蓄を存分に用いた迎撃の罠と、狭霧兵部の損害を顧みぬ采配とで、優に千三百――五分の一以上が戦死するという惨事であった。
 無論、比叡山側も無傷では済まされない。
 戦死者、負傷者と合わせて、開戦当時より兵力は減っているし、矢弾・火薬の備蓄も著しく減っている。
 そこへ、武装を完全に整えた、政府の兵が攻め入るのである。

「宣告通達の通りだ。この戦、俺は一武将でしかない。軍の総指揮権は冴威牙に委ねる、つまり――」

 狭霧兵部和敬は、普段のように脇息に寄り掛かるのではなく、具足をつけて立っていた。
 白槍隊が身に付けているものと同じ、真白の、死に装束とさえ見紛うような一式である。
 得物の大鋸は、開戦前に既に血を吸っているようであったが、その血が誰のものかを問う程、愚かな将は此処に居なかった。

「――冴威牙の命は俺の命であり、従わぬならばその場で首が飛ぼうが腸を抜かれようが文句は言わせん、という事だ。精々殺されんように、きりきり敵を殺して回るように」

 鋸の刃を袖で拭い、早々に白装束を穢した狭霧兵部は、それだけ言うと後方に下がる。入れ替わるように、冴威牙が、兵の群の中から進み出た。
 常のような伊達に狂った姿では無く、この日の冴威牙は、見事な戦姿であった。
 鎧具足を身に纏い、使わぬだろうが大小の刀を伴い、陣羽織は鮮やかな緋、兜を飾る鍬形は一尺六寸も立ち上がっていた。
 元より筋骨たくましい男ではあったが、戦場に似合いの姿に化ければ、尚の事引き立つ偉丈夫である。狭霧兵部の代わりに兵の前に立てば、並び立つ者が皆、無意識に居住まいを正した。
 そして冴威牙は、まるで殴り合いを始めるかのように足を開くと、

「……ぅおおおおおおおおおおおおおおおおお――――」

 ぐわっ、と、山が揺れた。
 冴威牙が地鳴りの如き大音声を張り上げたのである。
 数里先の山まで届くのではという咆哮は、木々を叩き、枯葉も残らぬ枝を揺らした。
 山に住まう大小の獣が、近づく異常を察知し、雪を巻き上げて逃げ始める程である。
 夜も明けぬ内から、鳥が空へと逃げて行く。然し無数の羽音さえ、冴威牙の咆哮に掻き消される。
 政府軍も、恐らくは比叡の山に在る者も、一人残らず叫びを聞く。
 まして近くに立つ者は、咄嗟に耳を塞いだが、頭蓋の内側をやたらに殴りつけられるような音であった。
 悍ましい程の叫びである。
 だが、戦の前の昂揚と重ねると、不思議と血の沸き立つような声であった。

「おおおっ!」

「おおおっ!」

「うおぉおおっ!」

 兵士の幾人かが、冴威牙に唱和し、夜天へと声を上げ始める。数人、また数人と広がる輪は、やがて政府軍全体へと広がって行った。

「ぅうぉおおおぉおおおっ!!」

 数千の軍が、獣のように吠えている。
 拳を突き上げ、足を踏み鳴らし、目を見開いて、牙を剥き出しにして、犬のように吠えている。
 或いは恐怖より逃れる為の、熱狂であったのかも知れない。
 だが、所以が何れであろうと、この軍は既に、一個の獣の群であった。
 理性や良心より、殺し、生き残る事を良しとする、獣の集団と成り果てていた。

「――――おおおおおおおおぉおおぉぉおおぉっっっ!!!」

 冴威牙は刀を抜き、雪に突き立てた。
 刃の煌めきが合図となり、中央から広がるように、吠え立てる群が静まって行く。
 だが、咆哮を浴びる前と、彼等の顔は違うのだ。
 それは腹を空かせた犬の顔である。食いつく為の餌を、彼等は求めていた。

「首一つで十両――首一つで十両だ!」

 すかさず冴威牙は、餌を見せびらかす。耳目が熱気を纏って、冴威牙へと向けられる。

「誰の首でも良い! 女だろうが餓鬼だろうが、赤ん坊だろうが構わねぇ! 首なら全部、十両で買い取ってやる! 首が二つなら二十両、十あれば百両、百あれば千両だ!
 死体に貴賤は無ぇ、死ねば全部腐った肉だ。〝大将首だろうが子供の首だろうが〟全部十両、嘘は吐かねぇ!」

 但し、と、冴威牙は言葉に続けた。

「首が身体の上に乗っかったままなら、話は別だ!
 男より女、老人より子供、ブスより美人、高く買ってやる! 女の餓鬼なら五十両! まさかたぁ思うが、向こうの大将なんざ捕まえてきたら――千両箱、どぉんとくれてやらぁ!」

 千両――真っ当に生きるなら、使い果たせぬ金額である。
 遊び呆けたとて、数日や一月で潰せる額では無い。夢を見る事さえ無いだろう、正に桁違いの金額であった。

「てめぇらは何の為に生きている! やりたい事でもあんのか、ただ死にたくねえのか、それとも何かになりてえのか!
 なんでもいい! 金を手に入れろ! てめぇらに悩みがあるんなら、そりゃ全部金でどうにかなるもんだ! 賊の首を取って叶う夢なら、今日で叶えちまえ!」

 大義ではない。
 道理でもない。
 思想も宗教も、何も絡まない。
 有るのは争いの根幹、最も低俗で根源的な理由――我欲である。

「……ほう。痩せ犬が存外に。いや何より何より」

 夜空へ向かい、獣に成り下がった兵の群が吠えるのを、狭霧兵部は聞いていた。
 そうして、理性が抜け落ちた戦場に立つ喜びを噛み締めながら、怨敵の待つ山を睨む。

「出来の悪い方の娘よ。この父がこれより、たんと褒美をくれてやろう」

 比叡の山は漸く目を覚まして、迎撃の用意を整え始めていた。
 嘆きの声は遠く、獣の叫びに紛れ、とても聞こえはしない。
 然し狭霧兵部の耳は、怨嗟の声を確かに捉えて、心地良く飲み干していた。







 比叡の山は夜の中に有って、煌々と光を放っていた。
 光の最も大なるものは、松明である。城壁に、あるいは壁の内側の家々に括り付けられた松明が、ばちばちと火の粉を散らしながら、冬の夜風に揺れている。
 そうして生まれたむらの有る朱色を、積雪が照り返すのが、次の光源であった。
 夏であれば土が吸い込んでしまう光さえ、白銀の雪原に跳ね返されて、無数の光条となり空へ登る。それはさながら、滝が逆巻きになって吠え狂っているかのような、非常の景色であった。
 その光を更に散らすのは、鋼である。
 刀が、槍が、鏃が、鎧が、冷たく眩く、人に寄り添って立つ
 そして――それらの中にあって一際白く、強く輝いているのが、狭霧紅野であった。

「油だ! 油を用意しろ! 魚油でも獣のでもなんでもいい、量を揃えろ!!」

 檄を飛ばして走る彼女は、無銘の槍一つを背負って、腰にも安刀を何本か差していた。
 纏う衣は、かつては政府最精鋭・白槍隊の一角であった事を示す、爪先までの白備えである。
 髪も、老婆の如く、白い。
 然したった一つ、右目の虹彩は、血の透けたような赤である。人間の顔にこのような、鮮烈な色が備わっている事は、狭霧紅野を非凡の存在へ押し上げる一助となっていた。

「副隊長、どうするつもりなんだい!? 備蓄はそう長くは持たないぞ!」

 狩野 義濟――紅野の右腕たる青年は、普段の自信に満ち満ちた顔でなく、戦慄に引き攣った面持ちである。
 つい昨日、武器弾薬を納めた倉庫の一つが、蝶子という少女の手によって爆ぜ飛んだばかりだ。
 月に一晩を凌ぐだけの戦ならば、それでもまだ耐えられた。だが、朝と夜と無く、練度も数も上の敵を迎えるには足りない。

「……手は有る」

「その手とは!?」

 雑多な軍装の兵と、枯渇する備蓄。勝ちの目の見えぬ戦いながら――紅野は、攻め寄せる軍勢の産む鳴動に耳を澄ませていた。

「まず、一つ目は――」

 そうして紅野は、槍を高く掲げた。
 それが合図となったように、山に吹く風が温度を変える。
 熱風。
 汗を滲ます程の熱い風が、山の方々から、風向きも揃わずに吹き荒れ始めた。

「焼き殺す」








 山肌を駆け上がる政府軍の兵は、きっと空から見下ろせば、蟻のように見えていただろう。
 恐怖と欲とに支配された兵士達――それは人とは別種の生物に成り果てている。
 人と別であるから、人を殺す事に躊躇いが無い。彼等はきっと、呼吸をするように人の命を取る事が出来るのだ。

「進めい! 永き戦は無用、今宵で比叡を落とすのだ!」

 比叡山の西側より、先陣を切るは波之大江三鬼。一丈二尺と八寸の巨体は、大股に歩き、走る兵士達と歩調を合わせている。
 担いだ大鉞の刃は、人の上半身より尚も長大。これを一度振るえば、鎧数個が、纏めて砕ける程だ。
 その後方に居並ぶ兵は、まずは精兵の白槍隊。総数は百も居ないが、何れもが尋常の兵士の数人分は働く猛者である。
 更にその後に続くは、これもまた精兵。白槍隊程の腕利きではいと言えども、選りすぐの兵士が五百も続く。
 彼等を率いる三鬼の脳裏に、この集団が町人上がりの即席兵に負ける様などは、到底描けるものでは無かった。
 然し三鬼は、憂慮を抱えていた。

「浮かぬ顔ですな、三鬼殿! 戦場で見せる顔には思えませぬぞ!」

「左様か」

 三鬼に並走しながらそう言ったのは、副将の八重垣 久長である。
 剣術、魔術、戦術と、おおよそ戦に必要なものを一通り納めた才人であり、まだ二十五と若いが重用されている男だ。
 八重垣は、好戦的な本性にかぶせものもせず、唇の両端を裂ける程に吊り上げていた。

「然り! 我らはただ前身し、敵と定められた者を討ち果たせば良い。常々そう仰るは三鬼殿ではござらぬか!」

「……ううむ」

 八重垣の言う事は、その通りなのだ。三鬼は基本的に、思慮深く戦う性質の武士では無い。
 だからこそ副将として、かつては狭霧紅野、今は八重垣を伴い、智謀を補う。

「それとも、三鬼殿。これと憂う事が、何やらございますかな?」

「紅野の性質を、拙者は良く知っている。貴公より深く、長く」

 雪の上に、常人の倍以上も巨大な足跡を残しながら、然し三鬼は声を潜めて言う。他の兵に聞こえぬように、である。

「……ふむ。そは、如何に。賊将の性質ですとな?」

「あれは勝ちの為に、己の脚さえ斬り捨てる娘子よ。まして己の名など、平気で踏み躙る……どのような手立てを用いるか、想像も出来ぬ。確かに賊に与してはいるが、兵部卿のご息女であり、かの御仁から兵法を授けられた女傑でもあるのだ」

 侮るなと、三鬼は言った。与えられた副将が、酷く浮かれているように見えたからである。
 すると八重垣は――三鬼の思う所を鋭敏に察知したか、顔に浮かべた笑みの度合いを弱めた。

「成程、敵将は賊徒ながら一廉の将。そしてこの山は、兵を伏せる場所に事欠きませぬ。三鬼殿の懸念、至極御尤も。
 さりとて比叡の賊兵に、城外へ伏せる如何程の兵も残ってはおりますまい! いいや仮に兵を裂くなら、他の守りが薄くなる! 分厚い城壁を盾としての籠城、それ以外に奴らの選べる手としては――」

 走りながら八重垣は、後方の兵にまで見えるように右手を掲げ、複雑な文字を描くように動かした。
 それが合図となったものか、兵士達が隊列を組み直す。
 縦に長く、横の厚みは無い、長蛇の陣系。行軍には適しているが、側面からの奇襲を受けると、前衛と後衛が容易く分断される形でもある。
 然し、八重垣は〝読んで〟いた。
 この山に伏兵を忍ばせる余力は無いし、遊軍を城外に出すとして、それは城壁から然程遠ざけられない。個々の力で劣る比叡山側は、各個撃破に持ち込まれる愚策を犯せはしない。
 かと言って、無策で死を待つ敵ではあるまい――ならば、どうするのか。

「――火、でしょうな」

 その言葉が終わるか否かの頃合いに、比叡の山に熱風が吹き荒れた。
 木の枝に乗った雪がじんわりと溶け、息から白さが消えて行くような、夏にも無い熱さの風である。
 然し、風向きがおかしい。北から吹き下ろす冬の風ではなく、方々から、好き放題に吹き荒れる風であった。

 ――これは、よもや。

 三鬼が悟った時には、夜の山がばちばちと、火の粉を空へ打ち上げ始めていた。
 比叡の山の木々が、あちらから、こちらから、突然に燃え始めたのである。
 乾燥した冬の大気は、驚く程簡単に、木の葉も枝も燃やしてしまう。
 そうして生まれた大きな炎が発生源となり、熱風が吹き荒れていたのだ。

「ぬうぅ!?」

「動揺なさるな! 火の手が速いとは言えど、火元は我らより遠い! 追い付かれるより先に、森を抜けてしまえば良いだけの事!」

 火は、あらゆる生物の敵である――絶対の強者である鬼とて例外では無い。ましてや兵士達は、防ぐ事の出来ぬ敵へ対し、明らかな怯えを見せた。
 だが、八重垣は一人、平静を保ちながら、後方に続く兵士達を鎮めようとする。

「聞け、火元は遠い! この火は我等の足元を照らすばかりの松明に過ぎぬ! 恐れるな!」

 成程――確かに火は遠くで燃えているが、彼等の周囲の木々は、まだ一つとして火を受けていない。
 その故まで、既に八重垣だけは読んでいた。〝火を着けた者〟が、彼等に近づけなかったからだろう、と。

「三鬼殿、幾人かを走らせましょうぞ! この山の何処かに、恐らくは城壁の内へ続く抜け道が用意されている筈! 火を着けて回る者が、城内へ戻るのを見つければ、我等もそこから攻め入る事が出来もうす!」

 古来より城には抜け道が用意されているものだが、比叡山は即席の城。城壁の内から抜け道を作って、届くのはせいぜいが山中であろう。
 数十名の決死隊が、城中より抜け道を用いて抜け出し、方々の木々に火を放った。三鬼の隊が駆け上がる西側ばかりでなく、恐らくは山の全ての方角で、木々がごうごうと燃えているに違いない。
 裏を返すと、数十名、城内へ戻らねばならぬ者が、今は山の何処かに居るのだ。城内へ直接に続く抜け道を見つけ出せたのならば、城壁の内外より同時に攻撃を仕掛ける事が出来、落城はより容易くなる。

「ようし、森を抜ける、声を上げよ! ……三鬼殿、号令を」

「ぬ……うむ」

 事前に陣形を組み直した事も有るのか、三鬼率いる部隊が、炎に追い付かれる事は無かった。
 もうじき、完全に森を抜ける。そうすれば、広く開けた平地と、比叡山の生命線である城壁が待ち受けている。

「皆、拙者に続けい! 城門を破り、城内に踊り込む! 破城槌などは不要、我等の槍こそが攻城の兵器よ!」

「応!」

 兵士達が、手に手に槍を突き上げ、気勢を上げる。彼等の士気は頂に達し、

「進撃せよ!」

 三鬼の号令下、進軍速度は、更に上がった。
 おおよそ六百からなる兵士達は森を抜け、一個の巨大な獣のように固まり、城壁へと一目散に迫ろうとし――平地に部隊の三分の一が踏み出した、丁度その時の事であった。
 ざあぁっ。
 と、夏場のにわか雨のような音と共に、夜空から大量の矢が、彼等の頭上へ降り注いだ。
 相当の高度から落下してくる矢は、兜の上から人の頭蓋を陥没させ、或いは兜ごと貫通し、または肩から腹まで沈んで突き抜け、まるで豆腐に箸を突き刺すが如く人間を引き裂いていった。
 忽ちに阿鼻叫喚が、あちこちで起こる。上手く一撃で死んだ者は良いが、そうでないものが悲鳴を上げ、苦痛に泣き叫ぶ声である。
 だのに後方の兵士は、周囲の炎の音に耳をたぶらかされていて、足を止めずに進むのだ。兵士達は次々に森から飛び出し、味方が矢に撃たれる光景を見て足を止め――つまり、森の出口で団子になる。そうなればもう、良い的でしかない。
 これが数本や、数十本の矢であれば、彼等は防ぎ得ただろう。然しこの矢は、数百以上が密集して降るのだ。
 まるで、達人の狙撃。森を抜けた瞬間を、位置を完全に見透かして、矢が降ったのである。

「さ、三鬼殿っ!」

「ぬお、おおっ! 続け、拙者に続けい! 足を止めては鴨撃ちよ、続けえいっ!」

 八重垣は、咄嗟に味方の屍を抱え上げて盾としつつ、城壁と平行に、戦場を横へ抜けるように走る。三鬼もそれに倣い、部下の頭上へ迫る矢を大鉞で払いながら馳せていた。
 成程、火は人を怯えさせるし、触れれば人を焼き殺す。だが、そればかりでは無い。
 火の用途の一つは〝照明〟であり、そしてまた一つは〝壁〟であった。
 狭霧紅野は、比叡の山に火を放たせた。だがその火は、無軌道に、無差別に放たれたものではなかった。適切に、攻め寄せる兵達が進む為の道を、狭いながらも残すようにして着火されたのである。
 広い戦場の何処から、敵兵が姿を現すかを、火が作った道が教えてくれる。
 夜の闇と、森の木に紛れて攻め寄せる姿をさえ、火は明るく照らし出す。後は、予定された箇所へ、訓練の通りに、矢を放つだけで良かったのだ。

「まっこと、兵部卿の娘よな……!」

 初撃、己等が槍を一度と振るいさえせぬ内に、かなりの数の兵が死んだ。三鬼の声には、称賛とも畏怖とも付かぬ響きが滲んでいた。








 山が燃えるのを、狭霧紅野は城壁の上から見渡していた。
 こうして高台に立つと、火がどのように回り、何処を通り抜けられるかが一目で分かる。そして敵軍がどう抜けて来るかまで、煌煌と照らし出されて見えるのだ。

「手を止めるな! 矢は今日で使い切るつもりで良い! 城門に取り付かせるな!」

 比叡山側が放つ矢は、赤く焼ける空を埋める程に、政府軍兵の頭上へ降り注いでいる。
 森を抜けて来る機に合わせての射は、相当の数の兵を殺害した。
 だが、全体と比べるなら、まだまだ僅かなものである。
 五十や百の兵を殺した所で、政府の兵は六千。撃つ手を緩めれば忽ち、城門に群がって来るだろう。

 ――いや、いつかはそうなる。

 直ぐ先の事か、それとも夜明けまで持つかは分からないが、必ずそうなる。
 紅野には確信があった。
 敵兵は味方の兵より数段も強く、数は多く、やがては矢を防ぐ術を見つける。山に放った火を消されてしまえば、練度の低い比叡山側の射手は、目隠しをされたも同然だ。
 その上で――抜け道もきっと、程なく見つけられる。
 山中に数十カ所も設けた抜け道は、開戦より数ヶ月を掛けて作り上げた坑道を通じて、城内に繋がっている。
 場内の入り口は一ヶ所なので、城より〝目的の場所〟へ出ようとするなら一苦労だが、外から城へ入るなら、何処からだろうが、ただ道なりに進むだけだ。
 崩落を避ける為、補強を施しながらも狭く作った坑道だが、それでも兵士の数人は横に並べられる。
 これだけの良条件を、政府軍が見逃す筈は無いと、紅野は信用していた。

「副隊長! 一手目は成功だ、素晴らしい! 僕達が鍛えた兵の力だ!」

 彼女の横に立つ狩野義濟は、拳を突き上げ、喜びを体一杯に示している。然し対照的に、紅野の表情は険しいままだ。

「まだだ、まだ安心できない。二の手、三の手、緩めるな!」

 矢の雨が降る戦場へ、紅野の号令が〝響き渡る〟。
 敵兵の誰にも聞こえるように、魔術による拡声を経て発せられた号令は、〝何かが来るらしい〟とだけ告げている。
 実際の所、どの程度の策を残しているか。
 小細工ならば数十もある。戦術の域で語れるような策も、数種は実行に移せる。
 然し、戦況を塗り替え得る程の策は――
 有るが、容易くは成らない。
 寧ろ呆気なくも看破され、虚しく潰える可能性こそ高いだろう。然し紅野は、その手に賭けるつもりでいた。

「……狩野。西側の防備を緩めて、代わりに桜を動かそう。あいつ一人で千の働きはする」

「分かった、伝令を走らせよう」

「浮いた兵を残り三方――特に南に集中させて配置する。傾斜や雪、木々――北はきっと攻め手が薄い。政府側も敢えては、そっちに兵を割かないさ」

「……?」

 あまりの断定的な物言いに、思わず狩野も突き上げた拳を下ろし、紅野の横顔に怪訝な目を向けた。慎重な紅野には似合わぬ、楽観的な予測に思えたのだ。
 然し、無根拠の放言ではない。

「親父が指揮を取るならそうする。親父は、開戦までは幾らでも策を練るだろうし、兵も鍛えるだろうが、本気の戦地で博打は打たない。六と四ならまず六を取る――ただ、開戦前に賭けを八対二にまで詰めてくるだけだ。
 意外に堅実なんだよ、あれはさ。遊びで人を殺せるくせに、絶対に勝つとなったら、何処までも真面目な詰め将棋だ。重要な所は落とさない人間なんだが――」

 だから、まだつけ込めるのだと、紅野は己の腹中を明かした。
 狭霧兵部は、戦術の人間では無い。戦に持ち込む前の戦略、策謀を得手とする者である。
 対して狭霧紅野は、兵を率いての戦術を主に学んだ、言うなれば武将として育てられた少女だ。
 それでも紅野の見立てでは、自分が狭霧兵部と戦術比べをすれば、十回に七回は負けると踏んでいた。
 それでも良い。三度の勝ちを、これから数夜も続けられればいいのだ。
 その程度の仕込みは既に、この山に張り巡らせている。
 然し、そこまでは言葉にしなかった。そうする必要が無い程度には、互いの心の内を知り合った相手が、隣に立っているからだ。
 狭霧紅野と狩野義濟は、ほぼ同時期に白槍隊に配属した。戦場ならば視線で会話をする程の、長い付き合いである。この時もまた、会話の終わりは、目でのやりとりであった。

「さあ、行って来ようか! 我が槍、我が武、大和の隅まで轟かせよう!」

「おー、おー、そりゃ頼もしい」

 槍を翳して狩野が城壁を走って行った――いや、行こうとした。
 その時、比叡の城壁が、天地を返したが如き轟音と共に、横に激しく揺さぶられた。
 大地が丸ごと身震いしたかと思う程、左右にぐわんぐわんと揺れ、紅野は槍を杖に体を支えた。
 長くは続かぬ揺れであったが、一瞬に、城を一つ揺るがす程の衝撃が有ったのである。城壁の上に潜んでいた弓兵やら、虎の子の銃歩兵、砲兵やらが、皆一様に転倒し、そして血相を変えて跳ね起きていた。
 そしてまた、その時に紅野は、遠くに確かに聞いたのである。
 雪を踏む足音でも無ければ、木々が燃え爆ぜる音でも無い。何か恐ろしく速いものが、空気を切り裂いて進んだ音、そして遠くで城壁が――

「――狩野、待てっ!!」

 呼ぶまでも無く、狩野義濟は紅野の元へ戻り――城外の目から紅野を隠すように、刀を抜きながら立った。狙撃を警戒したのだ。

「紅野、今のは――今のは、まさかっ!?」

「多分その〝まさか〟だ、くそっ……! 東門に兵を回せっ!  弓・鉄砲隊も、全体の半分は東門守備に回すんだ!! ああ、くそっ……!」

 伝令は常に、傍に数名は留めているが、紅野はそのうちの一人だけを残して走らせた。然し、その指示を出す間も、冷静さは明らかに消えていた。
 今の衝撃の正体と、そして生まれただろう結果を、この二人は知っている。

「あの〝砲〟が完成してたか……!」








 比叡の山より五里ばかりも離れての、平野での事。
 そこには、赤熱した体より未だに煙を上げ続けている〝砲〟が有った。
 口径――砲弾の直径は、明らかに二尺を超えている。
 砲身長は十五丈。鋼により構成されたその体は、恐らく四百貫程の重量にもなろう。
 あまりの巨重が為、雪に半ば程まで体をめり込ませた砲が、爆音と共に放った砲弾は、比叡の城壁に突き刺さっていた。
 分厚い、石と漆喰と、戦地に撃ち捨てられた鎧などを片っ端から固めた城壁を、その砲弾はただ一撃で、七割方も貫通していた。
 これまで日の本で用いられていたような、丸砲弾では無い。流線型の尖頭砲弾だ。
 人より巨大な砲弾を、音よりも早く射出し、対象を砕く――これこそは日の本政府が誇る新兵器、国崩し砲〝揺鬼火〟であった。

「ようし、ようし、上々上々。次弾装填、何処でも良いから狙えい」

 狭霧兵部和敬は、己が指揮を取らぬのを良い事に、私財を投じた兵器の力を愉しんでいた。
 この砲ならば、十里先の標的にまで届く。
 成程、命中精度にはまだ改良の余地が有るが、城のように巨大なものを狙うなら、どうという事も無い。

「やはり時代は爆薬だな、うむ。酒と肴を持て、俺は気分が良い!」

「はい、和敬様」

 側近の鉄兜が、命の通りに甲斐甲斐しく、小さな酒宴の席を用意する。
 その様を見ながら狭霧兵部は、砲身が冷える事、そして次の砲弾の装填が完了するのを待っていた。
 日の本ばかりか、この時点に於いては世界最大の〝砲〟は、次の一撃で城壁を砕かんと、砲口内の暗闇を眼のように、比叡の山を睨んでいた。







「前線はどうだ、押し込んでいるか」

「伝令の言が正しければ、苦戦しているかと」

「だろうなぁ、ちと力押しには兵が足りん」

 狭霧兵部和敬は、酒で体を温めながら、然し真白の戦装束で立っていた。
 剣の達人たる狭霧兵部なら、このまま前線に出れば、数十の兵にも匹敵する働きを見せるだろう。
 然し彼は、己が作らせた国崩しの大砲〝揺鬼火〟の傍に居るのである。

「……和敬様。此処までは敵も来ないかと。お休みになられては?」

「何を言うか、愚か者。俺が紅野であったのなら、間違いなく俺に暗殺者を寄越すわ。いざという時に逃げられず死ぬでは、間抜けにも程が有ろう」

「逃げるのですか?」

「戦えばな、勝つか負けるかするのだ。戦わねば勝ちもせぬが、間違っても負けはせん」

 狭霧兵部は、己の娘がどういう戦術を取るか、十分に理解している。
 寡兵で戦うのなら、誰か暗殺者を仕立てて、敵の大将の首を取る。或いは、火や爆薬を用いて、敵の大将が居るだろう一団を、丸ごと焼き払う。
 その何れも出来ぬように、己と戦う機会すら与えぬように、狭霧兵部は後方に居るのだ。

「まずは一晩で奴らの力を削ぎ、次の夜で苦しみを与える。そして、その次の夜で皆殺しにする。悠長に戦えるようになったものだ、全く」

 屍や負傷者を見る時の――つまりは心の底から愉しんでいるような目で、狭霧兵部は〝揺鬼火〟を見上げた。
 未だに砲身は熱を持っているのか、夜の冷気の中、白い蒸気をしゅうしゅうと吹き上げている。秘匿性などまるで考えず、艶消しもされない銀の巨体は、一個の巨大な怪物のようであった。

「吉野」

「は……はいっ」

 鉄兜の側近が、狭霧兵部に酒の徳利を渡す。それを一息に呑み干し、徳利は投げ捨てて、狭霧兵部は言った。

「いずれはな、もっと遠くから殺せるようになるぞ」

「はぁ……」

「数十里も、数百里も、海を隔てた向こうからも、命令を一つ下すだけで、何処かで何千も何万も殺せるようになる。戦の行き着くところはそれだ。黒八咫や、あの無能な娘のように、一個の人間が腕を磨いて、何千の兵を指揮してというような、泥臭い方向では無いのだ。
 が――俺はな、どちらかと言えば、今の在り方が好きだ」

 狭霧兵部の言葉は、彼の側近からして見れば、唐突にして荒唐無稽な、酔いから生まれた放言にさえ聞こえた。
 だが、狭霧兵部は確信している。いつか――百年か、二百年かかるかは分からぬが、戦の形は変わると。
 己が今、戦場から五里も離れているのと同じように、戦争は戦場へ出向くものでは無くなる。人と人が殺し合うのは剣を用いてでなく、爆薬と魔術の二つを柱に、海を隔てて殴り合う事になる、と。それは思い描く事さえ難しい未来で、そして狭霧兵部にとっては――

「俺は、人殺しが好きだ。死体を見るのも、生き物が死んでいく様を見るのも好きだ」

「存じております」

「だが何時か、戦争では、人が死ぬのを見られなくなる。もしかすればこの戦こそが、人間が最後に愉しむ、相手の顔を見ながらの殺し合いになるのかも知れん」

 そう言って狭霧兵部は、次の酒を要求した。
 鉄兜の側近、吉野は、静かに首を振って、それを留める。

「御身体に障ります。もうお若くは無いのですから」

「………………」

 無言で振るわれる大鋸も、見て避けられる程の、力無い一撃であった。
 荒れている。
 戦を、誰かの死を愉しみながらも、この夜の狭霧兵部は酷く荒れていると、吉野は感じ取っていた。
 それはつまり、比叡の軍にとっては、ほんの僅かの慈悲さえ望めぬのだという事実でもあった。








 城壁東側は、夜本来の暗さを取り戻し始めていた。
 〝揺鬼火〟の砲弾が飛来する折、周囲に撒き散らした爆風が為、木々が圧し折れ、炎が散らされていたのである。
 矢を隔てる木々は無くなったが、然し敵兵の姿を照らしだす炎が消えれば、町人上がりの射手など飾りも同然。彼等はただ、攻め寄せる敵兵の声に怯えるばかりであった。

「く、来る、来ちまう……!」

「ああ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

 比叡の城に籠るのは、狭霧紅野や狩野義濟のような、戦いを生業とするものばかりではない。
 寧ろ、山中二千人の多数を占めるのは、刀など触れた事も無かった仏教徒ばかりであった。
 彼等は正当な理由無く追われて、此処に寄り集まった。仏教徒であるというだけで、狭霧兵部の惨殺の対象となり、己の命を守る為に抗うのが彼等であった。
 矜持だとか理想だとか、そういう高尚なものは何も無い。彼等はただ、不当に殺されたくないだけなのだ。そんな彼等に、命を賭して勇猛に戦えと願うのは、それこそ死ねと罵倒するに大差無い事である。
 だが、敵軍は攻め寄せて来る。
 木々を揺らし、地を揺らして、夜の闇に紛れ、城門へと一直線に向かって来る。
 罅が入った城壁では、城門も、これまで以上に脆くなる。破城槌などを用いたのなら、あっさりと城門は開くだろう。
 そうなれば政府軍の兵は、城壁の内側へ踊り込む。比叡の軍を守っていた城壁は、彼等の逃げ道を奪う非情の壁と化して、城内は虐殺の場と化すだろう。

「あ、ああ……嫌だっ、俺は嫌だ! 死にたくないっ……!」

「馬鹿野郎、俺だってそうだ! そうだけど、逃げられねえだろぉっ!」

 だから、城門だけは譲れない。
 怯えながらも、念仏に縋りながらも、彼等は一歩たりと引かぬ構えを見せ――そしてその気概は、虚しく呑み込まれる〝筈〟であった。
 きり、きり、と、一斉に聞こえてきた音は――弓が撓り、矢を引き絞る音。まずは撃ち、その後に踏み躙るという企てらしい。無情の矢は、ざあ、と鳴って空へ舞い上がり、城門前に居並ぶ比叡軍五百の頭上目掛けて飛んだ。
 その矢は一つたりと、彼等を傷つける事は無かった。
 彼等に矢が届くより遥かに手前で、空に立ち上がった炎の壁が、矢を悉く受け止めていたのである。
 何の予兆も無く、政府軍の魔術師ですら感知出来ずに発動した術が、闇に返った戦場に、再び灯りを齎す。

「……さて、ゆくか」

 その姿を、両軍が見た。
 城壁の上から、数丈も下の地面へ無造作に飛び降りた、黒装の女の姿。
 三尺の黒髪を翼の如く靡かせ、雪の地面へ降り立った、雪月桜であった。

「お前達、引け。此処は私が引き受けた」

 そう言いながら桜は、右手には太刀を、左手には脇差を、それぞれに構えて進み出る。

「引け!」

 その命は――果たして、味方に言ったものか、敵に向けたものか。
 兎角、雪月桜は単騎で、城門の前に進み出たのである。
 矢、第二波。
 第一波を上回る、風切りの羽根の音。
 城門前の民兵を狙った矢は、然しやはり、遥か前方で炎の壁に捉えられる。
 〝眼〟――桜の目が持つ、魔術とは別種の異能、〝代償持ち〟などとも呼ばれる力。それは桜が目視した地点に、物理的に強度を持つ、炎の壁を精製する。

「お前達の矢は、届かぬ」

 幾度繰り返そうと同じだと、桜は言い、そして大笑した。身を仰け反らせ、己は此処に在ると示しながら、存分に政府軍を笑い飛ばしたのだ。

「攻め寄せて来い。一人一人斬り捨てて、割れた城壁の代わりに積み上げてやろう」

 矢は無意味。銃弾も無意味。自分を殺し得るものは、刀と槍だけである。桜は戦場を、そういう物に規定してしまった。
 桜の後方では、城門が一度開き、兵士達を内側へ避難させる。五百の兵を城内に呑み込んだ後、城壁は内側から硬く閉ざされた。
 政府軍、六千。それが四方に、幾分かの偏りを持って配分され、そして開幕の火と射で幾分か減った。
 それでも、東側の城門を狙う兵は、千を超える。

「……おお」

 その兵達が、一斉に吠えたてながら、手に手に武器を振り翳して、自分を殺そうと向かって来る様は圧巻であった。
 待つ。
 踏み込んでは行かず、先頭の兵士が、自分に届くまで待つ。
 近づいて来る顔を、桜はじっと見つめていた。
 恐怖と昂揚と我欲と、あれこれが混ざってぐしゃぐしゃになった、恐ろしく醜い顔が其処に在った。

 ――これなら、殺せる。

 五本の槍が、顔や首、胸を狙って突き出された次の瞬間、桜は五人の敵兵を胴から両断し、その死体を払いのけていた。

「おおおおおおぉっ!!」

 吠えて、次。雪崩の如く襲い来る敵兵目掛け、両手の刃を振るう。
 左手より刀の兵。首を落とす。
 右手より刀が一人、槍兵二人。武器を斬り、返す刀で頭を割り、首を斬り、胴を断つ。
 後ろの兵に押されるように、自分の足だけでは埋めぬ速度で、まだ幼いとも言えるような顔の兵が突っ込んできた。蹴りを合わせると、数人を巻き込み兵士は吹き飛んで行った。胸に残った足型は、胸骨を完全に砕いていた。
 背後は城壁。完全に八方を取り囲まれる事は無い。それでも常に桜の周囲には、複数の敵兵が居る。
 それを、斬る。
 一時と休まず呼吸の合間にも手を止めず瞬きの最中にも息継ぎの際にもただの一瞬たりと倦まず飽かず、
 斬る、
 斬る、
 斬る。
 たちまちに桜の黒装は、敵兵の血で真っ赤に染まった。
 頬を伝う返り血を拭わず、桜は近づいて来た兵を斬り、その屍を毬のように蹴って、別な兵を打ち殺した。
 十か、二十か。その程度も斬ると、足元の死体が邪魔になる。敵の近づいて来る方向が限定される。
 桜は脇差を鞘に納め、片手を開けた。太刀は変わらず右手のみで振るうのだが、然し雑兵が両手で刀を振るうより、何倍も、或いは十倍も勝る剣速は変わらない。
 わっ、と集まる兵士が、数人纏めて死体になった。その死体を桜は左手で掴み、思い切り投げ捨てた。そうして、死体の壁で身動きが取れぬようになる事を避けながら、淡々と殺人を続けた。
 一人斬るごとに、何かを思っていられる戦場では無い。
 視界に敵の姿が映った時、桜はもう、その敵を殺して次の獲物を探している。
 気付けば城門の周りには、斬られて投げ捨てられた死骸は、五十か、或いは百も積み上がっていた。

「次」

 桜は左手で雪を掘り返し、下の方でまだ血に汚れていない部分を拾い上げると、それで顔を拭った。
 殺到した敵兵は怯え竦み、誰も好んでは攻め寄せようとしない。
 それを見届けた桜は、踵を返して跳躍し、罅を足掛かりに城壁を駆け上がる。

「撃て。今なら当たる」

 城壁の上には、弓や銃を携えた兵達が、息を潜めて伏せていた。それが、桜の言葉を合図に、一斉に立ち上がって、城門前で固まり動けずに居る政府軍兵へ、矢継ぎ早の射撃を行ったのである。
 こうなると政府軍と言えど、脆いものであった。
 前進し、城門へ辿り着くまでに、この矢と銃弾で死人が増える。そうして犠牲の果てに城門を破ったとて、その向こうには雪月桜が――忽ちに百人を斬殺した化け物が待っているのである。

「ひっ、引けえ! 引けえーい!」

 恐らくはこの方面の指揮官なのだろう老将が、声を張り上げ、兵士達を後方へ下がらせる。
 彼等には、命懸けでこの城壁を突き破る理由が無い。
 それは〝揺鬼火〟に任せれば良い事であり、死を運ぶ凶鳥と対峙しながら、屍を積み上げつつ為すべき事では無い。
 攻め寄せた時とは裏腹に、陣形も乱れ、方法の体で後退していく政府兵達の背には、比叡の兵が上げる勝鬨が、暫くの間叩きつけられていた。

「桜!」

 城内に戻った桜を最初に迎えたのは、青前の村長の娘、さとであった。
 十二歳という年齢よりも幾分か小柄なさとは、二枚重ねて着ている白い着物を、赤々と濡らしている。
 さとの血でないのは、桜には見て取れた。敵兵の血でない事も、同時に理解していた。
 何処か、北か南か西か、敵兵の矢で負傷した者も出ているだろう。その治療の手伝いに、さとは奔走しているのだ。
 その合間を縫って、抜けて来た――それは、桜の事前の言いつけが為でもあった。

「用意は出来ているか?」

「勿論!」

 早足で歩く桜と、走ってそれに並ぶさと。その行く先には、大きな窯に、並々と湯が湛えられていた。
 水は幾らでもある――雪を溶かせば良い。それを沸かして置くように、桜は言いつけていたのだ。
 歩きながら桜は、血に濡れて体に張り付く衣を、引き裂くように脱ぎ捨てる。それから、さとから桶を受け取って湯を掬うと、頭から湯を被った。
 二度、三度と湯を浴びても、全身の血の全ては落ちない。だが少なくとも、固まりかけていた髪が、再び風で靡く程には清められた。

「よし、良くやった! やはりお前、良い女になるぞ、さと!」

 そして桜は、さとが用意していた代えの衣を纏うと、帯を結びながら城内を、西門まで一直線に走り始めた。
 眉から目に滴る血も無ければ、衣に浸みて動きを鈍らせる重さも無い。
 十全の体勢を、短時間の行水で整えて、黒い八咫烏は飛ぶのであった。

「死ぬんじゃないわよ! 絶対に死なないでよ、桜!」

 祈り縋る声に、応じる事も無く。
 桜は城内の階段を駆け上がり、城壁から外へと躍り出た。








 比叡山の北側は、他の三方に比べ、攻め寄せるには難しい地形であった。
 傾斜が急な事と、それにより雪が崩れやすくなっている事などもあり、多数の兵で一気に攻め上がる事が困難なのだ。
 狭霧兵部の采配であれば、或いは此処には一兵も進ませず、飽く迄も麓だけを封鎖し、比叡の兵が逃げて来るのを待ち伏せるだけともしただろう。
 そして現在、全く同様に、この北側の斜面には、軍勢と呼べる程の兵は居なかった。
 居るのは、獣と、その部下のやくざ者ばかりであった。

「紫漣、どうだよ周りは? そーろそろ城壁に届いたりしてんじゃね?」

 冴威牙――赤心隊の長にして、今はこの山を攻める軍の全権を、狭霧兵部に譲渡された男である。
 重い鎧具足の姿は、普段の伊達な衣装よりも寧ろ、彼を偉丈夫に飾り立てている。
 直ぐ背後の樹上には、副官である紫漣が枝に立っており、時折は背の翼を羽ばたかせて、周囲の光景を見渡していた。

「先程見た限りでは、東側は怯えて山の中腹まで後退。南は拮抗して城壁に近づけず、西側がどうにかという程度かと。」

 鳥類の視力は、人の比では無い。夜闇に紛れて紫漣は幾度か飛び、上空から戦場を俯瞰し、戦況を把握していた。
 それでいて、報告は簡素。元より冴威牙は知に生きる者でなく、詳細な報告をしたとて、そも理解する素養が無いのである。

「おー、やっぱ鬼は怖えなぁ。んじゃ、南側も退かせるかぁ……おう、ちょっくら飛んであいつら下がらせて来てくれや」

「……何故ですか?」

「今回の戦いは、槍や刀で必死こいて勝つもんじゃねえって事よ」

 然し、素養は無くとも、冴威牙の嗅覚と勘は鋭かった。
 自分の指揮官としての能力は低く、仮に兵と兵を正面からぶつけるような戦を選べば、自分は狭霧紅野に劣るだろうと、そうも知っている。

「兵部の旦那が用意した大砲を、あと三つか四つも打てば、城壁の東側はお終いだ。本気で攻めたけりゃその後で良いし、今の時点で無理に攻め込んでも仕方がねえ。そういう力任せの面倒な仕事は、鬼さんに任せておきゃいいじゃねえかよ、な?」

 だから、そういう戦いにはしない。
 兵の練度で勝り、将の経験で並び得る西側の部隊以外、冴威牙は無理に戦わせずとも良いと考えていた。
 寧ろ北と南、東の三方は遠巻きにしておき、山を抜け出そうとする比叡の兵を捕える為に用意している。
 肝心なのは逃がさない事と、明日の朝までに負けない事であり、何もこの夜に勝利する必要は無いのだ。
 兵糧、武器弾薬、兵員、おおよそ戦に必要なものは、向こうは減る一方で、此方は国の何処からでも備蓄を寄せ集められる。持久戦にすれば、決して負けない。
 だが――冴威牙は狭霧兵部に、とある提案をした。
 その提案は、狭霧兵部を大いに喜ばせ、はしゃいだ余りに畳を大鋸で引き裂いてしまった程である。
 それを実行に移すなら日が昇ってからであると、冴威牙は決めていたし、狭霧兵部も望んでいた。
 まず一戦を行い、敵が疲労しきった折を見て――〝その策〟を実行する。それで比叡の城内は、地獄となるのだ。

「うーし、てめえら! 火ぃ着けた奴らが出てきた抜け道、きっちり見つけておけよ!」

 冴威牙の周囲には、併せて二十人ばかりの兵が居る。何れも赤心隊の、ならずものとさして変わらぬ連中である。
 彼等も一応は兵士であるが、乱戦の中に放り込めば、さしたる活躍もせずに討死するだろう。だからこうして、攻防の起らぬ所に潜み、間者の真似事をさせている。
 抜け道――比叡城内の兵がいかなる手段か山中に出て、木々に火を着けたのは、既に冴威牙や紫漣も気付いていた。そして当然、その抜け道を使えば、逆に城内に攻め込めるという事にもだ。
 〝策〟を遂げた後、比叡城内の兵達は、どうにかそれを対処しようとするだろう。そうして疲弊しきった所へ、外からは砲撃、内には精兵の突撃で内外から挟み殺す。それが冴威牙の、幾つか考えている展開の一つであった。

「……冴威牙様は、前線には」

 紫漣は枝から降りて、雪上に寝そべる冴威牙に問う。

「まだ出ねぇ。……不満でもあんのか?」

「っ! いえ、そのような事は……!」

 否とは言うが、紫漣の面持ちに陰りが有る事は、冴威牙も十分に知っていた。
 戦で全権を預かったとなれば、冴威牙が前線で華々しく戦い勝利する様を、紫漣は胸に思い描いていたのだろう。知恵は働く女だが、夢見がちな所が有るのだ。

「はっ、誤魔化さねえで良いじゃねえか! まあそりゃつまらんわなぁ、今は! 俺だって退屈だもんよ!」

 そういう女であると知っているから、冴威牙はゲラゲラと笑いながら起き上って、紫漣の腕を思い切り引く。
 腕の中に引き寄せてみると、狼狽と不平が五分で混ざって、紫漣はまた何とも面白い顔をしていた。

「兵部の旦那が言ってたぜ。じっとしてるのはかったりぃが、でけぇ事をやる時にはよ、待つ事も必要なんだとよ。その代わり、待たなくて良くなった時には――紫漣、お前を連れて前線まで出てやろうじゃねえか」

「冴威牙様……」

「だからよ、餓鬼みてえに膨れてねえでもう少し我慢しろよ、な? 別にひと月もふた月もお預けだって言ってんじゃあ――」

 ざくっ。
 しゅっ。
 冴威牙の声を遮ったのは、雪の中に紛れた枝を踏みつける足音と――人の体に、刃が入って抜けて、血が噴き出した音であった。
 亜人の鋭敏な鼻が、濃厚な血の臭いで埋められる。反射的に、その臭いと気配の方へ振り返った。

「よう、武将首か、大将首か」

 其処に居たのは、老人であった。
 筋骨逞しいが、髪が真白い。
 指は太く、背筋も真っ直ぐに伸びているが、髭が真白い。
 若々しい肉体とは裏腹、顔には皺も刻まれ、声もしゃがれ――然し、並ならぬ老人であった。
 老人の足元には、不幸にも近くに居た赤心隊隊員の首が一つ、胴体と別れて転がっている。
 敵。
 そうと知れば、血気盛んな赤心隊の面々は、一斉に鬼のような顔へと変じた。

「んだコラ爺――」

「待てっ!!」

 然し、彼等を制したのは冴威牙であった。
 手を伸ばし、迂闊に動こうとする部下達を留めながら、冴威牙は獣そのものの凶暴な笑みを浮かべる。

「大将首だよ、俺が。てめぇはなんだ爺、耄碌首か?」

「価値の無い皺首よ、十と積んでも手柄には成らんが、然しおのれらを斬るには十分すぎる首でな」

 老人は髭を梳きながら、右手を胸の前に、開いたままで浮かせた。
 刀は鞘に収まっている。
 この老人なりの、独特の居合の形であった。

「我こそは高虎眼魔よ。音に聞こえた〝不知影かげしらず〟の太刀、冥途の土産に刻んで逝けい!」

 この老人もまた、単騎。若き日には数多の剣客を、果し合いの末に斬ったと言うが――然し老いて後には、その道を変えた。
 彼こそは、紅野が狭霧兵部の首を取るべく放った、正当な剣より寧ろ暗殺を得手とする刺客であった。







 高虎眼魔なる老人を前にして、冴威牙は静かに、獲物の品定めを始めた。
 眼光、強靭。
 戦を愉しむ狂気も、老獪さも同時に宿した眼だ。
 獣というより、人として良く仕上がった化け物の一匹――それが冴威牙の見立てであった。

「大将首はもっと老けた顔と聞いておったが、本当におのれか?」

「今日はな。そういうてめぇこそ、大概老けてんじゃねえの……それだけ生きたら悔いはねえよなぁ?」

「言うてくれるわ、わっぱ」

 雪の上を草鞋と足袋で歩く高虎は、右手を胸の前に浮かせたままで、じりじりと冴威牙に迫る。
 間合いは――腕や脚より長い事は確かだ。
 刀を抜く迄は、その正確な長さは分からない。一寸を争う近接戦闘に於いて、間合いは勝敗を分ける重要な要素である。
 抜く手も見せぬ高虎の居合は、それを欺き惑わせる。
 じゃっ。
 と、高虎が踏み込んだ。それに合わせて冴威牙は、両手足を雪に付け、後方へ一間も跳ね退く。

「臆病者め」

「賢いと褒めてくれよ、じいさん」

 軽口を叩き合って、それから殺し合いが始まった。
 ざうっ、と高虎が踏み込めば、合わせて冴威牙が後方へ飛び退く。間合いは一間以上埋まらず、傍目に見れば、追う高虎と逃げる冴威牙で、膠着が続いているようだ。
 然し、冴威牙には〝見えて〟いる。
 踏み込む毎に高虎は、冴威牙の首目掛けて居合を放っている。
 目にも留まらぬ、どころではない。常人の目には、影さえ映さぬ剣速である。刀を抜き、振るい、納め、右手がまた胸の前に戻るまで、並の剣客では反応も儘ならぬだろう。
 冴威牙とて、まだ間合いを図りかねている。
 迂闊に手足を出せば、それを切り落とされる。鎧は身につけているが、然程の役には立つまい。
 牽制、ものは試しと、冴威牙は歩幅も狭く踏み込み、左の爪先で、高虎の脛を狙う蹴りを放った。
 膝から下を鞭のように振るう、挙動は小さいが重い蹴り――然し之が、空中で引き戻される。やはり常人には見えぬ速度だが、高虎の刀が、冴威牙の脚を切り落とさんと抜かれていたのである。

「ちっ!」

「遅い、遅いわっ!」

 ――近付けない。

 冴威牙は歯噛みをしながらも、追われ、逃げ回るばかりである。
 技量の高低も有るだろうが、絶望的に戦術の相性が悪い組み合わせであった。攻防何れを取っても、刃と四肢をぶつける形になってしまうのだ。
 ざうっ、と、夜に刀が鳴る。
 尾を引く光に触れたなら、その時には首は落ちている。
 捕まらぬように、届かぬように、冴威牙は只管に後方へと逃れ続けた。

「ふん、大将首と名乗る割には、対した度胸の持ち主じゃのう! 何処まで逃げる、唐まで行くか、和蘭にでも行くか!」

「………………」

「老い先短い爺に怯えて尾を丸めるとは、赤犬は味以外にとんと強みが無いと見えるのう!」

 高虎は罵倒を繰り返しながら、逃げる冴威牙を追って行く。おおよそ老人とは思えぬ健脚は、冴威牙の懐まで入りはせずとも、引き剥がされもしない。付かず離れずを保ったままだ。

「何やってんだ、隊長! みっともねえぞ!」

「普段デカい口叩いてんのはなんなんだよ!」

 自分の上官が追われているというのに、赤心隊の面々は、助けに入るどころか野次を飛ばすばかりである。彼らにとって、主従の絆などという綺麗なものは、そも存在さえ知らぬものなのだ。
 何処までも、高虎は冴威牙を追った。
 踏み込み、刀を振るった。
 刀は何時しか、舞い上がる雪に濡れ、本来の白銀より尚も鮮やかに、夜闇に光を撒き散らす。
 それを冴威牙が避け、或いは具足の曲面を合わせて受け流し、防ぎ続けるのを、紫漣はじっと見守っていた。

「――見えた」

 戦う二人が移動するのを、空に羽ばたきながら追いかけ――だが紫漣は、遂に戦いへ介入はしなかった。
 代わりにたった一言、冴威牙の勝ちが定まったと告げて、付かず離れず追い続ける。
 雪降り積もる斜面を駆け降る冴威牙は、未だに息を切らす様子も見せなかった。








「ぬぐっ……どういう事だ、どういう采配だ!?」

 比叡城壁・西門の正面。精兵部隊の副将を務める八重垣久長は、己の理解が及ばぬ戦場に、苦悶の唸りを上げていた。
 雪中を、足を取られながらも駆け回る伝令が届けてくる報告が、何れも芳しくないものばかりなのだ。
 既に東側、南側に布陣した部隊が、城壁から大きく後退し、山の中程で待機しているという。現状で戦闘を継続しているのは、西門を攻める自分達、波之大江三鬼率いる部隊のみだというのだ。
 有り得ぬ。そう呟いて八重垣は地団駄を踏む。
 どれ程の精兵を集めようが、五百数十で比叡は落とせぬ。多方面での同時攻撃によって敵を振り回し、急所を炙り出さねばならない。だのに現状では、西門以外は完全に開けてしまっているのだ。
 比叡山の兵力は如何ばかりか。二千の住人の内、体の動く者に無理に武器を持たせて、千以上は確保しているだろう。
 雪に脚を取られ、平野に立つ五百。
 城壁の上から、弓や銃を構える千。
 何れが有利で何れが不利か、幼子の目にも明白である。

「伝令を飛ばせ! 冴威牙殿を問い質し、一刻も早く全軍を動かすのだ! このままでは我等は見殺しも同然ぞ!」

 左手の爪を噛みながら、八重垣は幾度も幾度も伝令を放つ――最初に放った伝令が戻る前に、もう四度も兵を走らせている。
 八重垣は、有能な男である。然し有能であったが故に、己の思うようにならぬ局面を知らない。
 よもやこの戦の総大将が、敢えて兵を後方に下げた挙句、敵の老将と一騎打ちに勤しんでいるなど予想も付かぬ事である。何故味方が動かぬのか、その問いばかりが頭を埋め、八重垣は身動きが取れなくなっていた。
 弓兵が、弩兵が、矢を城壁目掛けて打ち上げている。低地から高みへ、それも暗い城壁の上へ打ち上げる矢は、どうしても正確性を欠く。
 一方で城壁の上からも、矢はざあざあと降り注ぐ。後方の森を焼く炎が灯りとなり、白い衣の白槍隊は、月の薄い夜にも良く映える。
 兵の練度では大きく勝りながらも、撃ち合いでは勝てぬ。ならば後は、城壁を打ち破り、正面から城内へと突入するばかりなのだが――

「ああ、三鬼殿……! そのように殺し合いを愉しまれては、我等は気が気でなりませぬぞっ……!」

 その城門の前に、雪月桜が立っている。そして八重垣の上官たる波之大江三鬼は、それと一騎討ちを――恐らくは日の本で最高峰の一騎討ちを繰り広げていた。
 それを例えるなら、二つの暴風であった。
 城門の前で、矢も押し流される程の風が吹き荒れているのである。
 鬼の首を狙って振るわれる刀が、雪を遥か上空まで撒き上げる。
 八咫の頭蓋を叩き割らんと振り下ろされる大鉞が、雪の下で氷塊と化した地面を粉砕し、跳ねあげる。
 そして得物二つが衝突すれば、微細な塵が摩擦熱で燃え、瞬間的には狂獣二頭を照らす灯りとなる。

「ぬぅおおおおおおぉっ!!」

「かあああああああぁっ!!」

 三鬼と桜は、破顔しながら殺し合っていた。
 何れも致命の一撃を、全力で敵へ向けながら、其処に憎しみは一片も無いのだ。
 有るとすれば義務感――この敵は殺さねばならないと、それだけ。だのに二人は、戦いを心から愉しんでいる。
 大鉞が横薙ぎに、桜の胴を両断せんと振るわれる。三鬼の周囲、半径二間に割り込むものは、例えそれが兵士十人であったとしても、全て一撃で鎧ごと引き潰されるであろう。
 それを桜は、刀と脇差の二振りを以て、敢えて正面から受け止める。
 衝撃で弾かれた体勢を、雪を蹴り付けて強引に立て直し、低く馳せて鬼の懐へ踏み込んで行く。
 二刀の斬撃。大腿を狙う太刀筋。
 大鉞の柄が、二刀を纏めて弾く――いや、完全に弾いてはいない。
 あと僅かで指から刀が抜けるという刹那、桜は上体を捻り、衝撃をいなしながら、更に三鬼へと接近した。
 迎撃は、膝。家屋の天井をも突き上げる、打点の高い膝蹴り。
 前腕を盾に、更に前へ――防いだ腕毎、桜の体が浮いた。

「ふんっ!」

 好機。
 三鬼は、浮きあがった桜の体目掛け、大鉞を振るった。大雑把に狙いを付けて、力に全てを注いだ一撃であった。
 何処に当たろうが切断できる。この鬼にとっては〝当てる〟事だけが肝心で、〝何処へ〟というのは些細な問題であった。
 人の上半身程もある巨大な刃は、空中、逃れる術も無い桜目掛けて迫り――
 ぴたり、と。桜は刃に張り付いたように、三鬼の力で振り回された。

「おっ――」

「おお、危ない危ない」

 真剣白羽取り、なる技がある。振り下ろされる刃を、両の掌で挟み止めるというものだ。
 桜はそれを、両腕を交差させ、拳二つで実行した。両手の甲で刃を挟み、己の体と刃の間に距離を固定したのだ。
 三鬼が振るった大鉞は、城門が軋む程の突風を生みながら、正面から背面まで振り抜かれた。そして桜は、刃を拳で挟んだまま――大鉞と共に、三鬼の背後へ回っていたのである。

「――ふっ」

 短く息を吸って、その内の半分だけを吐く。最も力を込めて、長く動ける状態になる。
 そして――一歩。鬼の間合いから、己の間合いへと踏み込む。
 斬。
 三鬼が振り向くより先、桜の振るう二刀は、その背に縦に、二条の剣閃を走らせた。
 分厚い鎧を引き裂いたというに、名刀二振りは何れも悲鳴を上げず、全く無音の侭に刃は通り抜け、赤々とした血を飛び散らせた。

「ぐおおっ……!」

 苦痛に呻きながらも、三鬼は大鉞を横薙ぎに振り回し、桜との距離を開けようとする。
 然し、いかな鬼の剛力であろうと、深手を負っていては桜の敵と成り得ない。鉞の柄は、脇差の峰に抑え込まれる。
 そして太刀が振り上げられる。
 完全に振り向き切っていない三鬼の横顔目掛け、頭蓋から足まで切り開かんばかりの、高速無比の斬撃が迫る。
 鬼は目を瞑らない。己の死を察しながら、然し死の瞬間までを睨みつけんと、巨大な目を更に見開いて――

 ざしゅっ、

 と、血は吹き上がった。だがそれは、波之大江三鬼のものではなかった。
 その血は〝大聖女〟エリザベートの頭蓋から、雪を染めるものであった。

「お――っ!?」

 咄嗟に桜は刀を引き、転げるようにして後退した。一方で三鬼は、背の傷を庇いながらも立ち上がり、エリザベートの前に立とうとする。常人に倍する巨躯を、然しエリザベートは片手で押し留めて微笑んだ。
 桜の渾身の斬撃で断ち割られた筈の頭蓋は、既に癒着し、一滴の血さえも零さなかった。

「良いのです、任せなさい」

 すぅ、と音を立てて、エリザベートは息を吸った。
 無防備。
 目を閉じ、身を反らせ、あまりにも無防備な姿。
 見逃す桜では無い――飛び掛かり、超絶の技巧を尽くし、存分に二刀を振るう。
 腹から入り、背へ抜ける両断の斬。
 眼窩を刺し、内側から頭蓋を切り開く斬。
 肩から心臓へ、腹から股下へ、頭頂から胸へ――一切の加減斟酌無く、必殺の斬撃が振るわれる。
 だが、倒れない。
 エリザベートは無抵抗に斬られるまま、斬られた端からその体は瞬時に修復され、何ごとも無いかのように――

「城内の将に問いたい! 狭霧紅野、そこにいるのですか!」

 さして大きくも無い体から、戦場を揺らす程の声量を響かせた。
 応える声は――無い。代わりとして、無数の銃声が轟く。比叡山軍が切り札として温存していた兵器が、十数丁、一斉に火を噴いたのである。
 鉛玉がエリザベートの体を、脳天を貫く。その銃弾は、体に穿たれた孔からそのまま排出され、そしてすぐさま傷は埋められて消える。
 本当にこの女は、死なないのだ。
 一人を殺すには過剰な戦力を以て証明された事実に、〝両軍〟がどよめいた。銃弾を放った比叡山軍のみならず、その様を見ているだけであった政府軍までも、である。
 こんな生き物が居る筈が無い。弾が届かない、刃が届かないならまだ理解も出来よう。だがこの女は、間違いなく殺されているというのに死なない。まるで死ぬ気配を見せない。
 エリザベートは、戦場用に誂えたものか、普段より幾分か酷薄で、然し生来の人の良さを隠せぬ程度には柔らかい微笑を浮かべ、城壁の上を見る――睨むでなく、見る。
 世界全ての人間へ、真実の愛を齎そうとする目に射竦められ、城壁上の兵士達は、もはや武器を持つ事さえ侭ならぬ震えを起こす。
 これには勝てぬと、対峙した相手に信じさせる類の存在が有る。雪月桜や波之大江三鬼がそうで、それ以上に〝大聖女〟エリザベートは、〝人〟ではどうにもならぬ存在であると、他者に一方的に信じさせる力を持っていた。

「どうしました、居ませんか。ならば私から、貴女に会いに行きましょう」

 緩やかに歩みながら、エリザベートは城門へと向かう。通り過ぎざま、三鬼の背にそうっと触れれば、三鬼の傷はそれだけで塞がる。
 ただ歩くだけの敵――その前に、桜は立ち塞がった。

「……止まれ」

 警告に応じる声は無い。エリザベートの首を、桜は斬り落とした。
 首無しの体が、落下した頭部を拾い上げようとする。その体を蹴り飛ばし、頭部を拾い上げた桜は、それを城壁へ思い切り投げつけた。美しい女の顔は、ぶ厚い城壁に叩き付けられ、見るも無残な肉の破片と成り果て――首無しの体はそれでも、城門へ向かって歩き続ける。

「止まれっ!!」

 今一度の警告と共に、桜はエリザベートの体へ刀を振るった。
 二度の斬撃で四つに切り分け、更に脚は三つに切り分け、バラけた体を蹴り飛ばした。
 すると――破片にされた肉が溶け、雪へ沁み込んで消え、代わりに雪上から小さな蛇が顔を出した。
 何匹も、何十匹も、何百匹も――無数の蛇が顔を出し、桜の正面で寄り集まる。
 そうして形を作ったのは、微笑みもまるで崩さぬ、エリザベートの姿であった。

「どうして無益に戦うのです、黒八咫よ。貴女の力は私の元で、人の為に振るわれるべきです」

「……生憎と、唯一神とやらが気に食わぬ性質でな」

「ユディト記を諳んじる貴女には、似合わぬ言葉です」

「宗教家は皮肉も通じぬのか?」

 エリザベートは死なない。桜は道を譲らない。短く交わした言葉は、道が決して交わらぬ事を示している――決して理解し合えぬ二人なのだ。
 百度殺して死なぬなら、千度でも殺そう。桜は飽かずに刀を構え――その背後で、硬く閉ざされていた城門が開いた。

「桜、下がってくれ。今は私の方がいいだろ」

 煙管に煙草、火――籠城中故に禁じていた嗜好品を、今はたんと胸に吸い込んで、

「比叡山の大将、狭霧紅野だ。あんたの問答、受けて立つよ」

 紅野は槍一振りを携え、エリザベートの前に立った。







 それは一騎討ちともまた違う対峙であった。
 比叡山軍の大将である、狭霧紅野。
 政府軍に於いては役職こそ持たぬが、拝柱教の教祖である〝大聖女〟エリザベート。
 この二者が城門の前で、互いの手の届く距離に立っているのである。
 戦場が、しん、と静まっていた。
 僅かの身動ぎや息ならば、雪が溶かして隠してしまう。
 だがそれ以上に、皆が息を殺し、この二者を見守っているのである。
 殺し合いでは無いが――戦うのだ。
 知的生物の二個体が、向かい合って戦うのだと、誰にも分かっていた。

「問いましょう。貴女は何故、無暗に民草を煽り束ね、勝てぬ戦に拘泥するのです。敗戦は必定、これ以上の抵抗は苦しみを生むばかり……城門を開き頭を垂れなさい。貴女を信じた者達に、安らぎを与えるのです」

 エリザベートは、問うとは口で言いながら、何か答えが返る事を願いもしなかった。
 主張は一つ――降伏せよと、それだけだ。

「悪いが、出来ない。あんたがどう言った所で、うちの親父が最低の人間だって事は皆知ってる。城門を開く? そんな事したら次の朝には、城内全部が死体の山だ。
 何故というなら答えてやるよ。私達は、抵抗しなけりゃ殺される。が、抵抗すりゃ生き延びられるんだ。私の槍には城内全部の命が掛かってる、頭は下げられないね」

 無論、否。
 狭霧兵部和敬という人間を、最も理解している者の一人が、紅野である。
 降伏する恭順する、或いは抵抗する反乱する、そういう区切りは狭霧兵部にとって無益なのだ。彼の基準は、己が殺したいかそうでないか、そこに尽きるのである。
 狭霧兵部が殺すと定めた以上、狭霧兵部を殺すまで、比叡山軍に安息は無いのだ。

「逆に聞くよ。あんたは人を助けて回ってるらしいね。ああ大した善人様だ、怪我も病気も何が怖いって、〝ちゃんと生きられない〟か〝死ぬ〟のが怖い。それを取り除いて回ってるんだから、あんたは良い人なんだろうさ。
 じゃあ、なんでその〝良い人〟が、人殺しと手を組んで私達を殺そうとする? 私達は死んでも良い人間だ、ってか?」

 煙管から煙を目一杯吸い込んで、冬の寒さより一段白い息を吐きながら、紅野は問う。
 その目は、人を殺せる人間の目であったが、正面からその視線を受けても、エリザベートはたじろぐ気配を見せなかった。

「はい」

 そして――肯定する。
 その言葉は、戦場全体を震え上がらせる非情の響きであった。
 慈悲の塊である女が、誰かの死を。それも、二千以上の人間の死を良しとしたのだ。

「世界全てを救う為に、私は、何万かの人間を死なせても良いと考えています。何故なら世界には、何百万も何千万も、何億もの命が生きているからです。
 より多くを救う為に、私の道を妨げる全ては、私の決意の元に殺しても良い――そう、信じています」

「そりゃ勝手な」

 紅野は、努めて嘲るような口調を作った。目の前の女が愚者であり、世迷言を吐いていると断定するかのように。
 然し、その些細な抵抗は、大蛇の身には刺さりもしない。

「世界は未だに争いを続けている。そして戦争の形は、やがて大きく変わりましょう。一つの城を囲んで睨み合うのではなく、国と国が遠くから、相手の顔も見ずに殺し合うようになるでしょう。
 城壁でも、人の手でも防げぬ戦火が、遠く離れた何処へまでも届くようになるのです。その果てにあるものは――滅びの道しかない。貴女には分かりませんか」

「………………」

 分かる。紅野は、心の中ではそう答えた。
 エリザベートの思想は、狭霧兵部と似ているもの。そして狭霧兵部が、紅野に教えたものでもあったのだ。
 昔の戦いは、人間が一対一で、素手で殺し合うものだった筈だ。
 それが武器を持ち、群を為し、策謀が生まれ、魔術が生まれ、兵器が生まれた。
 戦いの形はやがて、兵器に偏って行くのだろう――狭霧兵部はそう断言するし、エリザベートが信じているのも、それだ。
 力の強いもの、賢いものが勝つのではない。優れた兵器を大量に所有する者が勝つ戦い――そういうものが戦争の主流となれば、どうなるか。
 分かり易い話にすれば、睨み合いの末の共倒れである。
 全ての集団が、資金の許す限りに兵器を買い集め、そしていざ戦いとなればそれを存分に用いて攻撃しあう。互いに初撃で敵を滅ぼせる力を得たなら、瞬き一つの間に、二つの国が共倒れになる事さえ出るだろう。
 それが、何百年後か、何十年後なのかは分からない。然し必ずそうなると、狭霧兵部は不機嫌な顔で口にしていた。

「この国に眠る〝神代兵装〟は、平和を生む解の一つなのです。決して滅びぬ聖域を生む、最強の守り――私ならばそれを、更に強く作り替えられる。月の見えぬ朔の夜でさえ消えぬように、その有様を作り替える事が出来る。その先に待つ世界が見えますか?」

「あんたに誰も逆らえなくなる、それだけだ。それが気に入らないから、こうやって戦争が起こってるんだろうが!」

 然し――そんな未来の予想図に、一つの例外が有る。この比叡山に存在する〝神代兵装〟――〝別夜月壁よるわかつつきのかべ〟である。
 絶対防御の障壁とは謳うが、これはそも、防御では無い。内と外の完全な隔絶を為す神秘であり、如何なる力でも破れないものだ。障壁の外から見れば、内側は存在しないも同然の空間となり、そして存在しないものを破壊するなど不可能だからである。
 これがエリザベートの力によって、朔の夜にも力を失わず、更には覆う範囲を拡大した場合、どうなるか。
 それはもはや、戦争どころか争いにすらならない。エリザベートから一方的に齎される、反逆者への蹂躙となる。

「ええ……その通り。私は絶対の支配者として、世界に君臨出来るでしょう。私の意に背き争いを生む者は滅び、私の意に従い善を為す者は全て守られる。
 即ち私は、この世界を創造された主の代理として、世界に善の基準と秩序を齎すのです。私の元に在る者には、決して不当に命と在を奪われる事が無い、平等と平和の世界を約束しましょう」

「……っ、お前は、お前は……!」

 もはやその言葉は、常人の感性を以てしては、受け入れがたいものであった。
 お前は間違っている――紅野は、そう謗る事は出来ただろう。
 だが、何が間違っているかと問い返された時、流暢な言葉で反論を述べられない。
 間違っているというなら、そも根底から狂っているのだ。
 人間を数で見て、大の為に小を切り捨てる。選択の結果自体は間違っていないのだろうが、そも選択する事が間違っている。
 然し、間違っているという事の論拠は?
 紅野の思考の中では、理解出来ぬ者への恐れと反発が渦巻き――

「お前は、神にでもなったつもりかよ……っ!」

 最も端的に、その思考は言葉に変わった。
 答えは、エリザベートでは無く、空を裂く一閃と、着弾の轟音が返した。

「うっ……!?」

 紅野が後方を振り向いた時には、背後にそびえる西側城壁に罅が走っていた。、
 五里東に設置された巨大砲塔〝揺鬼火〟が、尖頭砲弾を射出、比叡山城の城壁を狙撃したのである。
 先の砲撃で、既に東側の城壁には罅が入っていた。そして今またの砲撃は――城壁を貫通、砲弾を城内へ着弾させるに至る。
 着弾の衝撃で城壁は内側へ向け、大量の瓦礫を飛び散らせた。その内の幾つかは、超音速の砲弾で押されたか、亜音速で城内に突き刺さる。
 砲弾自体もまた、雪上に着弾しながらも、その地点を大きく抉りながら跳ねた。
 一度、二度、地面とぶつかって跳ねながら、側面方向の速度はさして変わらず――遂には西側城壁へ内側から突き刺さり、蜘蛛の巣状の罅を残して、やっと止まったのであった。

「……んな、馬鹿なっ……!」

 これは、どうにもならぬ。
 届かぬ距離から、決して防げぬ攻撃が飛来する。もはや謀略も戦術も何も無い。
 圧倒的な理不尽を前にして、紅野は茫然としながら、それでも抗う手立てを探し――無い、と結論を付けた。
 城に固執しては、決して勝てぬ。
 勝つならば、まずは砲を潰さねばならない。
 だが――それを、誰がやる?
 五里も先の砲に接近し、砲自体を破壊するか、或いは動かす為の兵士を皆殺しにする。
 桜か、自分しか出来ない。
 その何れを動かそうとも、その間に城を狙われる。
 どうにもならぬ。
 どうにもならぬ。

「落雷は、神の御業と恐れられました。遥か天上より降り、そして決して防ぐ事は出来ぬ光と炎――この砲撃は私の落雷と思いなさい。
 比叡山の人民全てに告ぎましょう! 仏の教えを捨て、私に従い、私の教えの元に生きるのならば、兵部卿が何を言おうとも私の力で守り通します! 私に抗い続けるというならば、この砲は決して止まず、日に三十二度、貴方達の頭上に怒りとなって降り注ぎましょう!」

 城門前に殺到していた兵士達は、エリザベートを取り残し、数間ばかりの後退を始めた。
 巨大な城と、その内の二千以上の人間に、エリザベートは一人で対峙しながら――その言葉は、天上より一方的に齎されるものであった。
 無防備だ。刀も、槍も、矢も、銃弾も、この女に易々と届く。だが殺せない。
 そしてエリザベートは悠々と、城壁に背を向け、引いて行く兵士達を追う。

「私は天に至る。至天の塔に立ち、この世界を見下ろし、永き安らぎを与えましょう。恒久の平和の為に――死になさい、私を妨げる者よ」

「…………っ!」

 追わない。追って殺せる相手では無く、そして敵兵の攻撃にも備えねばならない。
 何よりも――混乱した城内に轟いた、今の宣告の影響を知らねばならない。
 紅野はエリザベートを追わず、城内へと戻った。そして桜は、敵が完全に後退したと確信するまで、暫し城門の前に立っていた。







 政府軍が一時的に兵を後退し、城内には僅かだが、息を整える間が与えられた。
 だが――二度の砲撃を経た城内の様子を見れば、とても安堵出来る状況には無かった。
 居住区域として建てられている小屋や、武器・兵糧を保管する倉庫の内の幾つかが、着弾の余波で破砕されている。

 ――何をすればいい!?

 狭霧紅野は、この山の総大将として、此処から状況を立て直さなければならなかった。
 然し、何が出来るというのか。
 破砕された建築物の修復――間に合わない。
 物資の補給――外に頼る他は無く、包囲網が敷かれている現状では不可能。
 負傷者の治療を急がせ、城内の動揺を鎮めるにしても――この状況下では、紅野の声さえ誰にも響かない。

「湯だ! 湯を沸かせ! 出来る限りの布を煮るんだ!」

 声を張り上げ、冷静な者には仕事を与えながら、紅野は負傷者を集めている小屋――の残骸まで走った。
 屋根が落ち、恐らくその下では何人かが潰れているのだろうが、潰されず外へ出られた者達は、寒空に野晒しにされたまま治療を受けている。
 その治療も、素人の応急手当の延長のようなもの。幾人かが、数か月の付け焼刃で習い覚えた治療魔術を用いているが、切り傷を塞ぐ事は出来ても、大きな負傷には対応出来ていない。

「風鑑先生!」

「此処や! 手は足りん、患者なら後にせえ!」

 比叡山中に、医者はたった一人――風鑑だけだ。彼は丁度、数人の負傷者を寝かせた中央に座り、一時と休まずの治療を行っていた。
 一人の傷を縫い合わせ、次は別な一人の腹を開いて中身を繋ぐ。また一人の脚を根本から落とし、別な一人には――首を振り、手伝いをさせている子供に、何処かへ片付けるよう促していた。

「紅野ちゃん、あかん、手が足りひん! 怪我の軽いもんは回すな、死にそうなもんも回すな、助けられるもんだけを――」

「先生、手は止めないで良い、聞いてくれ!」

 風鑑は、喉の奥から絞り出すような、枯れて消えそうな声で紅野に言った。命を救う者として、その言葉を吐きたくないのだと、顔と声の全てが語るような、鬼気迫る姿であった。
 その風鑑の言葉を遮り、紅野が問うたのは――

「座主の死因は何だ!? 普通じゃない筈だ、何が有った!」

 開戦前に急死した、座主――比叡山の僧侶の頂点に立つ、老僧の死因であった。
 老年とは言えど、寝入って突然に死ぬ程の老いでは無く、病も無い者であったのだ。

「毒や! 腕に咬傷が四つか五つ――蛇毒や! 〝座主様は蛇に噛まれて死んだ〟!」

 蛇――風鑑はそう言った。それで紅野には、完全に合点が言った。

「やっぱりエリザベートか……!」

 自分や桜でなく、座主だけが狙われたのも、その故だろう。
 自分達なら、寝床に蛇が近づけば気付く。武芸の道を知らず、また年老いた座主の寝床に近づくなど容易い事だろう。
 恐らくは先の朔の夜、その蛇は山に忍び込んだのだ。そして――座主に噛み付き、毒を流し、殺した。
 城外で見せた、あの不死の術。それに用いていたのも、蛇だった。
 蛇の術師――それがエリザベートの正体か。
 答えを得た紅野は、然し対抗する術に思い当たらず、槍の柄を強く握りしめる。
 その横に、音も無く、雪月桜が並び立った。

「神を名乗りながら、やる事は楽園の蛇か……大した女だ」

 桜はさしたる手傷も負っていないが、焦燥した顔であった。
 戦いの疲労ならば、こうはなるまい。己の刀がまるで通じぬ敵と、どう戦えば良いのか、桜にも見えていないのだ。普段通りの諧謔は口にしながら、その声まで、力が無かった。

「紅野、どうする」

「………………」

「あの砲があれば、勝ち目は無い。エリザベートが直接向かって来れば、負けは無いが、勝ちも無い。この二つの札、どうして潰す?」

 つまるところ、その二手だ。
 これまでも不利な戦況ではあったが、砲撃と、エリザベート自身の出陣と、この二つだけは早急に止めねばならない。
 とは言え、後者はそれこそどうにもならぬ。殺せぬ敵の気まぐれに任せるしかない。
 ならば――どうにかできるのは、前者だけであろう。
 巨砲〝揺鬼火〟を破壊、または砲手を壊滅させ砲撃を止める――それこそが、最大に優先される事項であった。

「誰が行くか、だな」

 既に桜は、結論を出していた。
 一番確実なのは、自分が行く事だ。
 城内の抜け穴を使い、森に紛れて山を抜け、五里を駆け抜けて砲に奇襲を仕掛ける。
 桜の足ならば、五里の道程も半刻掛からず駆け抜ける。到達までに一度、城内への砲撃は有るだろうが、二度目の前に辿り着く。

「……私ならどうだ、桜」

 だが、紅野はそれを良しとしなかった。大将である自分自身が、出撃すると言うのである。

「馬鹿な、有り得ぬ案だ」

「けれど、あんたを動かすのも怖い……隊長がな、来るだろうから」

「……あの鬼か」

 紅野が恐れているのは、砲撃もそうだがもう一つ――己のかつての上官、波之大江三鬼である。
 彼が率いる精兵部隊の攻撃を、少数で食い止められる人間がどれ程に居るか――殆どいない。

「あの人は、どれだけ嫌な顔をしたって、命令はきっちりこなす。やれと言われたら女子供まで皆殺しに出来る人だよ。……加えて、あれに勝てる人間なんか、私は二人しか知らない」

「二人とは?」

「あんたと、私の妹」

 そして紅野は、乾いた声で、突然に笑い始めた。
 生気の失せた目、力の抜けて落ちた肩――温度の無い声で、はは、と軽く笑ったのだ。

「そーだよ、向こうにゃ私より強い奴らがごろごろしてる。うちの親父も妹もそうだ、隊長もそうだ。あれを止められるのはあんたしかいないし、ならあんたを此処から動かす訳にはいかない。〝あんたは城に残し〟〝砲撃は止める〟と来たら、もう私しか動けるのは残ってない。分かり易い答えだろ。
 ……元々、そういう戦だ。あんたみたいな怪物や、反則技の障壁に頼って、それでも勝ち目のない戦だ。守りが引っぺがされたら、本当は勝ち目なんか何処にも無いんだよ……」

 紅野は、堰を切ったように、無感情の声で滔々と思いを吐き出した。
 勝てない。
 最初から勝ち目は無かった。
 それは、開戦当初から知っていて――だが口にしてはいけない、禁忌の事実である。
 勝てぬと嘆く紅野の膝は、まるで初めて戦に赴く兵士のように、小刻みに震えていた。

「弱音を吐くな、紅野。私以外にも、あの老人や狩野が――」

「二人とも城の外だ、別な頼みを与えてる。……あの二人は、あんた程強くないが」

 桜は、柄にもなく、直截な言葉で紅野を激励する。それ以外の言葉を見つける余裕が無いのだ。
 震える紅野の肩を抑え、何処か壁を背に出来る場所を探し、引きずるように――動こうとして、桜は、背後より何か近づいてくるのを感じた。
 音も無く忍び寄る気配――殺気さえ放っているというに、敵対の意思は無いように思える。少なくともこの気配の主に、自分が殺されるという気がしないのだ。

「爺、何処へ行っていた」

「大将首を探して、犬と喧嘩をしとった所よ」

 しゃがれ声に振り向けば、高虎眼魔の白髪頭が其処に有った。
 紅野により、敵の大将である狭霧兵部を暗殺せんと、一人夜闇に紛れて外へ抜けだした老人であるが――

「……爺さん、手」

「おお、やられたわい。なぁに、左よ、右では無い」

 壁に寄り掛かって座り込んだ紅野は、高虎眼魔の左手を指差した。
 その手は、人差し指から小指までがざっくりと、噛み千切られて失われていたのだ。
 既に誰かの手当は受けたらしく、傷は塞がっているのだが――剣士にとって、片手を失う事は致命傷にも等しい。
 高虎は、後れを取ったのだ。即ち紅野が目論んだ暗殺は、失敗に終わったという事である。

「大将首を探して歩いたが、伝令を追いかけて行ったらの、兵部卿ではなく犬がおったわ。俺もやきが回った、あと二十年も若ければ勝っていたものを……」

「犬……赤心隊か?」

「名は知らぬが赤備えよ。大将首と名乗っておったが、あれが兵部卿なる若造には見えんのう。俺の手に噛み付きおったわ」

 成程、手酷くやられながらも逃げ遂せるのは、老獪な達人故の事であろう。然し、比叡山側の策は、これでまた一つ潰えて――

「……あれが大将。じゃあ、親父は指揮を取ってないのか……?」

 否。
 狭霧紅野は、新しく知った事実を元に、戦況の再認識を初めていた。
 そう――思えば確かに、違和は多かった。
 西側の三鬼達の攻撃に呼応し、東と南の軍も攻め上がって来ていれば、尚更に比叡山軍の損害は増していただろう。
 砲撃の後、エリザベートの言葉で士気を削ぐ為とは言え、あの局面で兵を退くのも――理解の及ばぬ事である。
 狭霧兵部の攻め手と見るなら、ぬかりが多い。
 だが――視点を変えるなら、頷ける事も出て来る。
 狭霧兵部和敬の悪癖として、他人が苦しんで死ぬ様を眺めるのが、何より好きだという事が上げられる。
 兵を引いたのは、比叡山側に与える苦しみを長く引き伸ばす為だとして――ならば、どうする。

「……違う」

 紅野は、初めてその答えに届き――当人は気付かぬながら、破顔さえして呟いた。

「違う?」

「親父が狙ってるのは、兵士じゃない。私だ! 私を苦しめたいんだ、親父は……そうか! それだ!」

 あまりの雰囲気の変わり様に、桜が思わず、腰を曲げて紅野の顔を覗き込む。
 だが、紅野の目に、今は他の誰も映らない。敢えて映っているものを述べるなら――此処に居ない、悪逆非道の父親の顔だ。

「爺さん、大将首だって名乗ってたのは、赤羽織の男か!?」

「応。俺より背の高い、躾けの悪い糞餓鬼よ」

「伝令もそいつの所に集まってんだな!?」

 ざん、と、紅野は立ち上がった。
 その目の奥では既に、幾つもの数字と、地図と、それから人間の顔が蠢いていた。
 光明――細く儚い、小さな光が見えた。

「良いか、今すぐに始める、一度で理解してくれ!」

 紅野は、集められるだけの伝令を集め――大博打のタネを仕掛ける。
 動くのだ。桜はそう感じとり、手近な雪を一掴みして、顔と口の中をゆすいだ。
 何をするかは、全容を分からずとも良い。何をしろと言われれば、その通りに動けるように、気力を整えておけばそれで良いのだ。

「……往くか」

 誰に言うとも無く、桜は一人呟いた。

「待てい」

 すると――それを留める声は、周囲からではなく、桜の腰の刀より聞こえて来た。
 脇差では無く、太刀の方である。
 絢爛の黒漆鞘に、流麗な金属細工の拵え。美女の流し目が如き美刀が、人の言葉で口を利いたかと思えば、

「風鑑も老けぬものよのう、あれは人間ではなかったかえ? 人魚の肉でも喰ろうたか、不老の仙術でも身に付けたか」

「……お前は」

 常盤色の着物を纏った、女の姿に化けた。
 八竜権現を名乗る、青前の山に住まう女――八重であった。

「付いて来ていたのか?」

「そなたが運んできたのじゃろ、呆けた事を。この『言喰ことはみ』は我が力の写し、分霊の一つ。幼子の首を斬り、血を浴び、呪いと共に百年を経て妖怪に変じたがこの刀――故に此方は、この刀有る所にこそ、在るのよ」

「……良く分からんが、分かった」

 言葉に応じながら腰に手をやれば、鞘の内より『言喰』が消えている。成程、刀が八重に化けた、いや八重が刀に化けていたと言われても頷けよう――頷けるだけの不思議を、北の地で見たのだから。

「して、何をしに現れた」

「言うたじゃろ、言喰は呪切りの刀と。何を斬れば良いか、見定めねばならぬと思うての」

 緑の着物の裾を翻しながら、雪に足跡も刻まず、吹く風に髪も乱さず、八重は何処か世界の外に居るような有様であった。
 その足が向かう先は、本堂――地下には座主の亡骸が安置されている。
 誰が教えたでも無い筈だが、惑いの無い足取りであった。

「今暫し待ちやれ。蛇の牙と竜の牙、何れが勝るか、さて、魅せようぞ」

 そうして、八重は本堂に入り――恐らくは隠し階段から、地下にへと降りていった。

「……成程」

 桜は何事か、得心が言った様子で頷くと、適当な刀を一降り、死んだ兵士の亡骸から拝借した。
 そして、紅野の策に従い――今暫しは城内で、身を休める事に専念するのであった。








「報告! 報告!」

 政府軍の本陣――とは言うが、陣幕も何も無い、比叡山北側斜面。伝令兵が一人、雪を蹴立てて走っていた。
 人が〝急ぐ〟という時、その急ぎ方にも種類がある。出来る限りの範囲で急ごうとするのと、全力で目的まで向かうのと。この伝令兵の場合は、自分の全力より更に一歩先へ行ってでも、この事実を伝えねばという決意を漂わせていた。

「おう、なんだ!」

 暗殺者を退け身を休めていた冴威牙は、さしたる傷も負っていない。伝令が近づいて来たのを臭いで察知すると、跳ねるように起き上がって迎えた。
 伝令は暫し、雪の上に膝を着いて息を整えた。それから、口を可動範囲のぎりぎりまで開き、一度思いっきり息を吸ってから、こう伝えたのである。

「東側の陣にて、黒八咫を見たと報告有り! 監視を続けていた抜け道の一つより、黒い衣に身を包んだ女が現れ、幾人かを斬り捨てて駆け抜けたとの事!」

「黒八咫……出たか!」

 冴威牙が待っていたのは、この報告であった。
 まさか比叡の城内に、砲を止める為に纏まった兵数を送る余力はあるまい。定期的に行われる狙撃を止めるには、黒八咫――雪月桜を動かす他は無い。
 比叡の山中に於いて、波之大江三鬼を足止め出来るのは二人。戦って勝てるとなれば、桜の他には居ない。その最大戦力が、五里先の目標に到達するまでは、完全に戦闘から排除される――好機である。

「うっし、全員で攻め上がるぞ! 伝令が届いた端から進ませろ! 俺達は東側の連中に合流して攻撃する!」

「うーっす!」

 陣とも呼べぬ本陣には、冴威牙の部下が十数人――と、死体が幾つか。生きている者も、その半分程は顔を酷く腫らしていたり、痣を作っていたりする。そして冴威牙に応じる声も、何処か怯えが混じっていた。
 高虎眼魔との一騎討ちで、ヤジを飛ばすばかりで加勢もしなかった部下達を、冴威牙が蹴り倒したのである。
 ならずもの上がりの兵士が十数人では、束になろうと勝てる相手では無い。叩き伏せ、今一度の忠誠を誓わせたのだ。
 無論――そのような事をせずとも、命さえ賭けて従う者も一人居る。有翼の女、紫漣である。

「冴威牙様!」

「おう!」

 紫漣は、遂に己の主が討って出るのだと、昂揚に満ち輝いた顔であった。
 故に――本来なら、彼女がこの小集団に於いて参謀を務めなければならないが、その任を十分に果たせなかった。

「南と東は兵を二手に分けさせろ! 正面から行く連中と、抜け穴を塞ぐ連中とだ! 落城まではさせるな、出来る限り痛めつけて、その後のお楽しみのお膳立てをしてやらぁ!」

 比叡山城を囲む兵士の群は、ゆったりと動き始め――そして一度動いた後は、決して止まらぬ濁流と化すのであった。







 仰木 陣内は、一言で言うなら〝地味〟な将であった。
 六十を過ぎた老体で、実年齢よりも少し年嵩に見られる程、顔には皺が多い。
 武勇に於いても知略に於いても、何か飛びぬけた才覚というものは持ち合わせていない。
 数十年、政府の軍中に努めて、大きな手柄というものも無い――そも戦が数十年は無かった国だ。
 仰木が積み重ねた功績は、本当に地味なものばかりである。
 市中警備であったり、兵の鍛錬であったり、或いは後進の将の教育であったり――刀や槍を振るって、賊を斬り伏せるような功績は、一度たりと上げた事が無かった。
 だが――大きな失敗をしない男であった。
 狭霧兵部が本陣に座す際は、白槍隊の作る円陣を囲むように、仰木の兵が布陣する。狭霧兵部が将に冠した序列では、赤心隊の冴威牙などを差し置いて、波之大江三鬼の次に名が上がる。
 それは偏に、兵を束ねる技術が高いからであった。
 桜に中央突破をされた時も、直ぐに浮足立つ兵を鎮め、本陣の防衛線を敷き直した。
 此度の戦では、砲撃に乗じて東側から攻め上がったが、方々に隠された抜け道を悉く見つけ出している。
 そして今――仰木は、その抜け道を進んでいた。

「………………」

 無言。
 ただ黙々と、地中に作られた抜け道を進んで行く。
 狭霧紅野が比叡の山に作らせた抜け道は――或いは元より比叡山に有ったものを拡大しただけやも知れぬが――予想以上に広い。兵士の数人ばかりは、横に並んで進む事が出来る。
 入口は山中に数十もあるが、恐らく到達地点は一か所であろうと、抜け道を行きながら仰木は察していた。
 この抜け道に入ってからというもの、緩やかな傾斜が続いている――登り続けている。そうしながら、時折、別な抜け道から入って来た者達と合流する事も有った。
 この構造を察するに、恐らく城内に一か所か二か所の出口が有り、そこから暫く進むと、広場のような場所があるのだろう。其処から四方に道が分かれ、更に四方に別れた道が数通りに分岐し――と、そういう作りの筈だ。
 仰木は、自分がこの道を抜け、政府軍の兵士の先頭に立って、城内へ踊り込むのだと決めていた。
 あと二十年もすれば、大きな病気をせずとも、大概は死んでいておかしくない年齢である。
 生まれた時代を間違えたか――戦を生業としながら、戦に出会えぬ生であった。その終わりも近づいた時に、内乱ではあるが、戦を迎えられたのだ。
 手柄を上げずには、生きられない。
 この機を逃せば、死ぬまでに大戦など望めないだろう。戦が有ったとして、その時に自分が戦場に立てる体か、保証など無い。
 土竜の真似をして地下を進むのは、華々しい戦いとは言えないだろうが――仰木は、この戦の総大将が、自分にこの任を与えた事に、感謝さえしていた。
 本陣守護もまた誉である。然し戦に出たのなら、敵の首を取り、手柄としたい。

「……大分集まったな」

 抜け道に入ってから、三度ばかり、友軍と合流した。その度に仰木は、自分が先頭に立つから、その後に入るようにと指示を出した。
 全容は分からないが、もう半分も進んだだろう。推測が正しければ、その内、何処か広くなった場所へでも出る筈だ。
 城内から出来る限り多くの者を逃がす為の抜け道――ならば、大勢で攻め上がるにも都合が良い。
 傾斜のついた地下道を進みながら、仰木の昂揚は未だに静まらなかった。
 仰木は、私生活に於いては善良な人間であるが、戦場ではその限りでは無い。寧ろ、罪なき民草を手に掛ける事さえ、なんとも思っていないのであった。
 狭霧兵部の悪逆ぶりには、眉をひそめる事も有る。然し概ね、その方針には賛同している。
 逆らう者が居るから、戦は起こるのだ。いや、逆らう者が居てくれるからこそ、戦は起こるのだ。
 仰木は一片の憎悪も無く、任として、功の材として、比叡山城中の悉くを皆殺しにする腹積もりであった。

「お……」

 そうして、兵の先頭に立って歩いていた仰木は――ぬかるみに足を取られ、躓いた。

「仰木様」

「よい、大丈夫だ」

 後ろの兵が助け起こそうとしたが、それを制し、自分で立ち上がる。
 が――再び歩き出そうとして、足元の違和感に気付いた。
 土が濡れている――湿っているのでは無く、はっきりと濡れている。
 日の当たらぬ地中だ。坑道には冷気が満ちており、水が土に浸みれば、寧ろ凍り付きそうなものである。
 奇妙がどうしても看過できず、仰木は地面に触れ、指でその水気を拭い取り――青ざめた。

「退けっ!」

「は……?」

「全体、戻れ、戻れぃっ!」

 決断は迅速であり、また誤っても居なかったが――惜しむらくは、気付くのが遅かった事。後方にずらりと連なる兵士達まで、その声が届かなかった事であった。
 その時、仰木の前方――つまりは城内側、傾斜の高所より、大量の液体が流れて来たのである。
 粘性が水より高く、重い液体――そしてその、独特の臭いを吸い込めば、兵士達は皆、それが何であるかを知った。
 油。
 魚油も、獣の脂も、植物から採った油も、何もかも混ぜて嵩を増した油が、増水した川の如く流れて来るのである。

「う――うわああああぁっ!?」

 後方の兵士に至るまで、皆、その意図を悟った。
 進んできた道を戻り、抜け道を出ようとするも――数十間か、或いは百間以上も進んで此処に至った。瞬時に抜け出すなど叶わぬ事だ。
 寧ろ、狭い坑道の中を、大勢が押し合うように逃げようとした事と――足元を流れる油が為に、その大半が転倒し、ろくに立ち上がる事さえ出来ずに居た。
 仰木はこの時、ぼんやりと悟った。
 自分だけでは無い。
 西側でも、南側でも、同じように抜け道に入り、攻め上がろうとしている連中が居る。其処でも全く、同じ事が起きているに違いない。
 そしてまた――戦場にはそぐわぬ、こんな事まで思った。

 ――せめて、一人でも多く助かれば。

 その祈りも虚しく、坑道に流れ込んだ油に、火が放たれたのであった。

 元より抜け道という代物が、数か月を経て張り巡らされた罠であった。
 攻め来る経路を特定し、また進軍速度を緩めて葬る為の、巨大な棺が、この抜け道であったのだ。
 城中の油という油を、開戦より一所に集めて節約し、その備蓄を一滴残らず抜け道に注げば、大量の油は傾斜に沿って、抜け道の中へと流れ広がる。
 そして城内から、その油へと火が放たれたのだ。
 それは、拝柱教が語る地獄と比しても、なんら遜色のない光景であった。
 光も届かぬ坑道の中を、炎が赤々と照らしたが――その中で踊るのは、四方合わせて千を超える兵士達であった。
 老いも若きも、男女も問わず、功を上げんと攻め寄せた兵士達が、油に塗れ、炎に包まれて踊り狂っていた。
 進むも出来ず、退く事も出来ず、他の兵士と縺れ合って転倒した侭、共に黒い炭と成り果てた者が居た。
 土壁に爪を立て、地上へ逃れようと叶わぬ抵抗をしながら、その形の侭に燃え尽きた者が居た。
 仰木陣内はただ一人、後方の兵士達とは逆に城内目掛けて進んでいたが、十歩と進まず焼け死んでいた。
 最後尾に居た者は、数人ばかりは、どうにか炎に追い付かれる前に抜け道の外へ出たが――それ以外は悉く、身を焼かれて悶え死んだのである。
 喉も、肺まで炎に焼かれながら、然し耐え難き苦痛に上げた悲鳴が束となり、山中に、比叡の城中に響く。その声だけでも、永く悪夢に苦しむだろう程の、悍ましい音であった。
 その、地獄の釜が蓋を開けたかと思わん程の音は、地上から攻め寄せる政府軍の耳にも届いた。まして総大将の冴威牙は、人の比にもならぬ鋭敏な嗅覚で、地下の兵士が燃える臭いをさえ嗅ぎ取っていた。

「……っ、ぉ、ぉおあっ……!?」

 言葉にならぬ呻きを上げ、冴威牙はその場に立ち止まった――比叡山城目掛け、再び攻め寄せる軍の先頭に冴威牙は居た。

「さ――冴威牙様、如何なさいましたっ!?」

 副官の紫漣が、横から飛び付くように冴威牙を揺さぶるが、冴威牙が顔色を取り戻す事は無く、逆に飛び付いて来た紫漣の、腰に腕を回したのである。

「紫漣、飛べっ!! 速く!!」

「は――!? っ、はいっ!」

 主の言葉が、どういう意図で発せられた者か、紫漣は気付かなかったが――幸いにして彼女は、命とあらば思考より先に実行できる女であった。冴威牙一人の重さが増えた所で、紫漣の翼は、易々とその体を空へと舞い上がらせた。
 この時、地中の坑道内では――火種は油と死体が残っているが、空気が殆ど残っていない状況にあった。更に、炎が生んだ熱が、長い冬で凍結した地面を溶かしていたのである。
 凍った地面を急に暖めると、どうなるか――柔らかくぬかるむ。
 つまり比叡山は、〝地中に大きな空洞が有り〟〝地表は水を含んで硬さを失い〟――更には〝積もった雪と武装した兵士の重みを受け〟たのである。
 轟と、山が鳴った。
 城を取り巻くかなりの広範囲で、地面が陥没したのである。
 城から離れれば離れる程、陥没の規模は大きかった――坑道が網の目状に、より広がっていたからだ。
 大量の土が坑道に落下し、地中で燃え尽きた屍を埋め、落下の衝撃が山を揺らす。
 平地のようになっていた箇所は、雪が土と共に陥没しただけに留まったが――斜面は、より壮絶な光景となっていた。崩れた土と雪が、雪崩となって斜面を駆けおりたのである。
 地上を行く兵士の内、数百人ばかりが、この雪崩に巻き込まれた。雪と土砂の中に埋まった兵士の、ある者は比叡山の麓まで押し流されたのである。

 ――焼き殺す。

 狭霧紅野は、確かに果たしたのであった。

「が――がああああぁっ……!! くそ、くそがァッ!!!」

 地形さえ変わり果てた比叡山と、ずたずたにされた陣形を――冴威牙は上空から見下ろし歯噛みした。
 もはや己が望むような、正面から力で押し通る戦は出来ぬのだと――焼け焦げた死臭が、嘲笑と共に伝えていた。








 比叡山の東側――遥か後方で、爆音めいた崩落の音を聞きながら、ひた走る影が有った。
 黒で固めた衣服の、少女であった。
 三尺の黒髪は、屍から掻き集めて繋いだ即席のかつら。得物は、これ見よがしに刀を差してはいるが、背に括り付けた短槍こそが本命である。
 幾人かの兵はこの少女を見て、〝黒八咫が城を出た〟と言い、伝令は冴威牙にそう告げたが――否。
 狭霧紅野は、己の策が成った事を知って、かつらと似合わぬ服を脱ぎ捨て、元の白髪に白備えの、死に装束とさえ見える姿に変わった。
 砲撃までの猶予は無い――きっと一度は、城内への砲撃があるだろう。それは止むを得ない。
 だが、その次は無い。紅野は必ず、巨砲〝揺鬼火〟を沈黙させんと決意していた。
 紅野には、勝算が有った。
 それは、狭霧兵部の嗜虐癖が、自分に向けられているのだという確信から生まれたものである。
 何故と問われれば、そういう男だからだと返す。それ以外に答えは無い。
 この戦に於いて狭霧兵部は、きっと前線に出ていない――出ようとしたかも知れないが、結局は取りやめた。何故なら、狭霧兵部が前線に出るという事は、紅野が望む事でもあるからだ。
 数でも質でも劣る比叡山の軍が、更に障壁までを奪われて勝ちを求めるなら――選ぶ手の一つは、狭霧兵部の暗殺である。事実、紅野は刺客を送り、そして狭霧兵部に出会う事すら出来ずに戻った。
 そしてまた、一夜で戦いを終わらせようという考えにも無い。寧ろ、長く自分が苦しむ姿を夢想し、愉しみさえしているのではないか。
 〝揺鬼火〟の砲撃に対しても、紅野がどう考えてどういう手を打つか、狭霧兵部なら気付いている――気付いている筈だと、紅野は父を信頼している。
 最強の札である雪月桜は、城から動かせない。だが、他の誰かに任せる事もならぬなら、必ず紅野自身が動く。
 となれば――きっと狭霧兵部は、〝揺鬼火〟の近くに居る。
 砲を止める為に、城からのこのこと出てきた総大将を、自分の手で嬲り捕える為に、数多の罠を用意しているだろう。

「残念だったな……!」

 その程度、承知している。
 狭霧兵部と一騎討ちをして、必ず自分が勝てるなどと、紅野は思っていない。まして周囲の兵士も合わせれば、勝ち目の無い戦いだが――〝爆薬はまだ残っている〟のだ。
 紅野は、義足と、それから胴巻きの中に大量の火薬を仕込んでいた。
 勝てずとも良い。狭霧兵部に一瞬でも近づけば――五間の距離まで近づけば、諸共に吹き飛ばせるだけの、舶来の高性能爆薬である。
 狭霧兵部さえ仕留めれば、この戦は終わる。一人の狂人の娯楽が為、始まった戦争であるのだ。そうなれば、総大将である自分など、居なくなろうと構わないと――そう、紅野は思っていた。
 あと一里も行けば、砲の元へ辿り着く。
 不思議と体は軽い――死にに行く為に走っているのに、力が溢れて来る。背負う物を降ろしたからなのかと、紅野は自嘲しながらも速度を上げ――

「……っ!」

 前方に、見慣れた姿を見て、足を止めた。
 石の上に雪が積もって、少し小高くなった場所に、狭霧兵部の側近である鉄兜の――吉野という女が立っていた。
 普段は狭霧兵部の横を、決して離れぬ女であるのだが、この時は他に部下も連れず、たった一人、其処に居た。

「紅野、久しぶりですね」

 吉野はまるで世間話でもするかのように言って、紅野へ向かって真っすぐに歩いて来る。
 武術の一つや二つは嗜んでいるような、少なくとも素人とは呼べぬ足取りであった。

「……ああ、久しぶりだよ、先生」

 紅野には、この女は、旧知の間柄である。
 軍学以外の殆どを、狭霧兵部は紅野に教えなかった。その代わりに、算術や読み書き、ある程度に長じては武技や魔術など、紅野に一通り教育したのが、この鉄兜で顔を隠した女なのである。
 そして――紅野は、十二か十三の頃には、この女より強くなっていた。
 背負った短槍に手を伸ばす。加減はせぬと、目で語る。
 だが、吉野は、ざくざくと雪を踏みつけ、その槍の届く所まで近づいて、

「大きくなりましたね……」

 しみじみと語って――顎紐を解き、兜を脱いだ。
 兜の中に隠されていた、〝紅野と同じ白髪〟が、ざあと零れて、吉野の背に広がり――

「――――っ、ぁ、あ……? あ、そんな、そんな……!」

 何時も、黒い洞のようにしか見えなかった両目は――右は紅、左は蒼、鮮やかな光彩異色の目であった。
 まさか。
 呟き、首を振れど、疑いようもない。
 年齢の差はあれども、鏡を見るようであった。

「そんな、嘘だっ……!」

 紅野は、母を知らない。自分が生まれて直ぐに死んだと聞かされていたからだ。
 それが――何も語らずとも、分かる。
 生まれついての、老人のような白髪も、
 人と明らかに違う目の色も、
 全て、納得の行く形で其処に居るのだ。

「ずっと……ずっと、こうしたかった……」

 狭霧吉野は、娘の体を、正面から抱きしめた。紅野が生まれてから、ただの一度と受けた事の無い――肉親からの抱擁であった。

「嘘だ、そんな……だって、死んだって、ずっと」

 信じられぬと、紅野は幾度も繰り返す。
 だが――己の目が、血が訴える。
 これは母だ。死んだと聞かされていた母が、此処に生きていて――今、自分を抱き締めている。
 亡霊の類では無い。暖かい血だけが生む体温が、厚い衣を通してさえ伝わって来る。

「ずっと見ていましたよ……小さくって、蒼空に比べて頼りなかった貴女が、私より強く賢くなるのを。立派になって……」

 紅野は、狭霧兵部と戦う事に、なんの迷いも抱いていない。肉親の情も沸かぬ相手であるからだ。
 狭霧兵部は父親ではあるが、父親から子へ与えられるべき愛情など、ただの一度も受けた事が無い。
 だから――紅野は、心のどこかで、自分は〝その程度〟の存在なのだと思っていた。

「何でっ、なんで今更っ……!」

 見守られていたのだと、初めて知った。
 人の腕に抱かれる安堵さえ、初めて知った。
 胸の内から、自分でも気付かなかった恨み言が、幾らでも湧き出して来て――そのどれも、声にならない。
 本当は、どれ程に言葉を並べ立てたかったか。
 戦うのが怖かった、だとか。
 一人でいるのが寂しかった、だとか。
 何千人の命を背負うのが苦しくて、息も出来ない程だった、だとか。
 戦う度に増える傷だって、本当は痛くて、目を背けたくなる程に辛いもので。
 そういう弱音を吐いても、受け止めてくれる人間が居るという事を知らなかったから、ずっと黙っていただけだったのだ、と。
 それを、言えなかった。生まれてからずっと、そういう事は言わないで生きてきたから、どうやって吐き出せばいいかも知らなかったのだ。
 代わりに、たった一言、

「おかあさん……」

 母の温もりを抱き返し、雪の上に膝を着いて、紅野は泣き崩れた。
 自分が何の為に走っていて、今から何をしようとしていたか、紅野は全てを忘れた。
 もう戦いなど、どうでも良い。
 誰かに称賛される必要も無い。
 欲しかったものが何なのか、手に入って気付いた。自分は――

「――学ばない子」

 思考を掻き消す、声がした。

「えっ……?」

 とすっ、と。紅野の背に、短い針が突き刺さった。
 紅野は知る由も無いが、この針に塗られていたのは、言うなれば一種の麻薬であった。
 即効性が強く、視界が歪み、正常な思考力を奪い――過剰に摂取すれば、人として壊れる。
 そういう薬物が、針を通じて血管から、紅野の体に浸みこんで行った。

「ぅあ……っ!?」

「紅野、本当に大きくなって……可愛い子。和敬様も、貴女が立派になった事を喜んでてね」

 足をふらつかせ、立つ事すらままならない紅野の耳元へ、吉野は口を近づけて、

「あの人、そろそろ孫が――次の玩具が欲しいんですって」

 しゅる、と紅野の首に腕を回す。
 抵抗する力を削がれていた紅野は――あっけなく、落ちた。







 比叡山の城内は、緊張感と安堵の入り混じった、奇妙な空気に包まれていた。
 予想されていた砲撃が無い。
 日に三十二度の砲撃を行うと、エリザベートは宣言した。そこから予想される砲撃の時間が、とうに過ぎているのだ。

「……どうした、これは」

 雪月桜は、脇差一振りを手に、東側の城壁――もはや残骸にも近いが――の外側に立っていた。
 狙いは一つ――砲弾の無力化である。
 両断したとて、二つに分かれた砲弾それぞれが、城壁を貫くだけの威力は有ろう。完全にその威力を削ぐには、上方へと軌道を逸らすか、或いは叩き落として地面にねじ込む他は無い。
 超音速で飛来する砲弾は、到達になんら予兆を伴わない。目と、直感と、腕。頼れるものは、それだけであった。
 然し、何も起こらないのだ。

「嫌な気分じゃのぉ」

 殆ど用を為さなくなった城門から、老剣客――高虎眼魔が、今は気配も殺さずに歩いて来る。

「……爺、休んでいれば良かろうに。手をやられたばかりだろう」

「そうもいかんわい、孫くらいの歳の娘どもが武器を持っていては」

 普段は、人の背後から刀で斬りかかるような、血気盛んな老人である。
 それがまるで、善良な人間であるかの如き言葉を吐くので、桜は思わず吹き出し、常の氷の面貌を少しばかり緩めた。

「それは紅野の事か、それとも私か」

「おのれら、そう歳も変わらんだろうが。六十八年生きていれば、三つや四つの違いなんぞ無いようなもので――」

 そう言ってから、高虎は、ふと首を傾げて、目を虚空で泳がせた。

「――……いや、六十九か? 六十七だったか……ん?」

「爺、自分の歳くらい覚えておかんか……」

 桜も飽きれて溜息を吐き、首を静かに振った。

「喧しい。今更、一年や二年の違いなんぞどうでもいいんだよう。……兎に角、俺が休んでおれよう筈も無い。戦を知らんわっぱ共とは、年輪の厚さが違うのよ」

「その年輪とやらも、毟り取られたようだが」

 高虎の左手は、親指以外の四指が、ざくりと噛み千切られていた。
 止血は済ませているが、もう何かを掴む事は出来ない。片手では、刀の扱いも、これまでと同じようには出来ぬ筈であった。
 だが、高虎に憂いは無い。

「人を斬るのには、片手が有ればいい。ただ殺すだけなら、両腕さえ無くとも良いわい。道がどうの、形がどうのと拘るのもな、俺ほど老いると、もう飽きた。
 どうせ今更、死んだ所で悔いるものも無いからのぅ。かか、道連れを幾人か増やして地獄へ落ちようぞ」

「……身内は、おらんのか?」

 桜がそう問うと、高虎はまず幾度か瞬きをして、それから己の耳に右の小指を突っ込み、がさがさと動かしてから引きずり出した。

「……柄に合わぬ事を聞く」

「喧しい。私とて他人の気遣いくらいするわ」

 桜は少し不貞腐れたような顔をして、足元の雪を蹴り上げた。
 積もって硬くなった雪は、五歩ばかり先の、また別な雪の上に塊で落ちて、丸い窪地を作った。
 その雪景色の、更に向こう側には――陥没し、地形までが変わった大地が有った。
 狭霧紅野の策により、政府軍の兵士を抜け道へ誘い込み、焼き殺した。その折、凍結した地面が溶けて緩み、陥没した結果が、眼前の惨状である。
 崩れた土の下には、黒く焼け焦げた亡骸が、数百も埋まっている。
 この戦が終わるのは何時の事か分からないが、それまで彼等が弔われる事は無いし、もしかすれば戦が終わった後も、彼等はこの山に埋まったままで居るのかも知れない。
 そう考えれば桜とて、思う事は有るのだ。

「息子も孫も健康無事で、何処かでぴんぴんとしておるわい。人斬りの爺なんぞおらんでも、店でもやって強かに生きておる。お前は知らんかもしれんが、世の中にはのう、戦わんで生きている人間の方が多い。そういう者が集まっているから、世の中が成り立つもんじゃ」

「かっ。説教くさい爺だ、何を唐突に」

 然し高虎は、まるで憂いなど持たぬ晴れやかな顔で言うのだ。桜も吊られて口元だけで笑いながら、皮肉めいた口を叩き返した。

「まぁ、聞け。爺の戯言と思って聞け。老いてから気付いたが、世の中、他人の為というのは、これが案外に大事な事だった。他人の為に、自分が出来る事を少うし我慢したり、出来ない事でも無理にやり遂げたり、そういう事を皆がしていると、世の中は楽しくなるでな。……が、そういう事で苦労するのも、逆に楽しむのも、俺達のような爺婆の仕事では無い」

 それは、まるで遺言であった。
 何処の誰へ言うとでも無しに、高虎眼魔は空へ向かって、飄々とした声の侭に言うのだ。
 夜であった空は、少しずつ、朝の青に取って代わられようとしている頃合いであった。
 東側の山影から、空へ、太陽が昇って行こうとしていた。

「俺は、もう俺だけが使ってよい人間よ。好きに暴れて、好きに死ぬ。お前や、紅野のような洟垂れの娘は、せいぜい世の中の為に、頭が白髪になるまで苦労してからくたばればいい」

「……ふん」

 言いたいだけを言って、高虎は城内に戻ろうとしていた。
 直ぐに攻撃が無いのなら、一眠りして力を蓄える――老体に長戦は、やはり堪えるものであるらしかった。
 ざくりと雪に足を突き立て、城門を潜ろうとし――そこでふと、高虎は、何か思い出したような顔をした。

「そういえば、おい」

 足を止め、振り向く。

「なんだ?」

「やはりお前、何処かで俺と会っておりゃせんか?」

「何度目かは分からんが、それは無い」

 桜は一言の元に否定し、喉の奥をくっくっと二度、短く鳴らして笑った。
 そうか、と高虎もまた一言、城内へ戻って行こうとして――
 その時、であった。
 比叡の山を揺らす程の、轟音とも呼べる程の声が――いや、咆哮が、夜明けの光と共に撒き散らされた。
 異音である。
 先夜、政府軍への号令として轟いた音は、蛮気を扇動する声であった。
 たった今、比叡山を揺らした声は、そうではない。
 言い表すのなら、宣告。
 例えるとすれば、獲物を前にした獣の唸り。
 これからお前達を葬ると、嬉々として告げる狂気の咆哮であった。

「……!」

「来よるか、わっぱどもが雁首揃えて」

 狂気を帯びた戦場の気配が帰ってくる。二人は何れも、刀の柄に手を掛けて身構えた。
 が――その時に現れたのは、先の戦闘とは趣の違うもの。
 もはや戦に、人間と人間の戦いなど不要であると告げるような――無情なものが、そこに在った。

「……お」

 投石車。
 城攻めに用い、城壁を打ち砕く為の兵器であるが――それが十台程も姿を見せたのである。
 此処は東側の城壁だが、恐らくは南も西も北も、三方に同等以上の戦力は有るだろう。
 無論、比叡の山上の事。
 雪も多く、城壁を破砕する為の岩など、運んで来れよう筈も無い。
 事実、投石者を引いて、城壁より数十間の位置に固定した彼等は、岩など一つも運んで来てはいなかった。
 然し――二人の剣客は、ほんの一瞬ではあったが、骨の髄まで染み渡る程の寒さを感じ、身震いさえした。
 何故か?
 臭いが、有ったのだ。
 もう嗅ぎ慣れてしまったものより、何倍も、何十倍も強い――腐臭であった。

「――っ!」

 そうと気付いた時、投石車は、〝何か黒く浸み出したずた袋〟を、四方から城内へ向かって投擲し始めたのである。
 幾つかは、もはや残骸とも呼べる有様の城壁に、べしゃっ、とぶつかって、中身を飛び散らせた。
 幾つかは、城内の辛うじて残っている家屋の屋根に落ち、屋根を割ってその下の畳にぶつかり、ひしゃげた。
 雪の上に落ちて、残骸を撒き散らしたものもある。
 一つは、不運にも槍を持っていた兵士に直撃し、骨が体外に飛び出す無惨な死体を作った。
 そして、腐臭がより大きく、城内に広がった。

「叡山の僧侶、円兼! 同じく円来、同じく道賛、同じく法善――」

 地の底から湧き上がるような大音声で、〝それ〟の名を読み上げる声は、攻め手の大将、冴威牙のもの。
 始め、比叡山の兵達は、飛来する〝それ〟と、読み上げられる名が、どう繋がるのかを理解出来ずに居た。
 裂けた袋から零れる〝それ〟は、ただの腐った肉と、黒く長い糸と、何か白いものの破片と、酷い悪臭を放つ液体を、無造作に集めて掻き回したような物体であった。

「三条通、酒屋の弥助! 同じく三条、茶屋のはつ! 同じくはつの息子、利吉! 同じくはつの娘、みち!」

 四方より、同時に数十、城内に投げ入れられる悪臭の肉袋。
 人間の名前。
 その内に城内の者が気付き、幾人かは――悲痛に叫んだ。
 その名前は、自分の夫だと。或いは自分の妻だと。
 または、父母であり、祖父母であり、はぐれて見つからぬままの子供であった。
 囚われ、行方知れずとなっている者達の名を、冴威牙は読み上げ、そして彼等の腐り果てた亡骸を、城内へと投げ込んでいるのだ。
 比叡の城目掛けて、人間の死体が投げつけられていた。

「――っ、ぉお、おっ……!」

 桜は怒りに震えた。
 過去、幾度となく訪れた危機でも――村雨が傷つけられた時でさえ、こうまで激昂はしなかった。
 人の亡骸を、戦の道具に使う。そればかりならまだ、腹は立てたとしても、冷静で要られた。
 然し狭霧兵部は、その人間の尊厳を最大に貶めて、その上で投げ捨てているのだ。

「島原楼閣は牡丹登楼、楼主! 同じく島原、遊女、葉隠はかげ! 同じく、葉隠の子――あー……男女不明! 名無し!」

 許せぬ――では、無い。
 もはや生かしておけぬとまで、桜の怒気は膨れ上がった。

「おのれ――そこ動くなぁっ!!」

 右手に刀、氷の面貌も修羅と変え、矢の如く駆け――その間も頭上を、袋詰めの亡骸が飛んでいく。
 城内からは悲痛な叫びが、一時と止まらずに零れだし、それが桜の足を、より速くと駆り立てる。

「待てい!」

 だが、その足より更に速く、高虎眼魔が、桜の前方に回り込んだ。

「退け!」

 老体を押しのけ、先へ進もうとする桜の喉元へ、高虎の刀が切っ先を向けた。
 変わらず抜く手も見せぬ神域の抜刀――さりとて桜ならば、この体勢からでも反撃はし得る。
 然し、そうさせぬものが、高虎の目には有った。
 生き物の個々として強い弱いを思わせぬ、何か、有無を言わさぬものが――

「あれはお前と戦いなどせんわ、こわっぱが!」

「……!」

 そういうものが、桜を押し留め、頭を冷やさせた。
 高虎に刃を向けられ、初めて桜は、自分が何を斬りに行こうとしたかに気付いた。
 自分が狙ったのは、亡骸の生前の名を呼ぶ冴威牙であり、城へ投擲を続ける投石車ではない。
 そして――冴威牙が、素直に桜と戦って斬られる理由など、何処にも無いのだ。

「お前は西門を守らんかい! あの鬼が出たら誰が斬る、白槍隊が百も居て、紅野が居ない今、他に誰が防ぐ! 犬一頭を追い回すなど許さん!」

 高虎はそうだけ言うと、刀を鞘に納め、振り返って投石車を睨み付けた。
 桜に向けられた背は、老いたりとは言えど未だに強靭な、剣客のもの。寧ろ月日を経ただけ、曲がった分、撓るようにもなった刃の姿であった。

「……叱られるというのは、随分久しい気がする」

 桜もまた、そうだけ言って踵を返し、城内へ舞い戻って行く。
 城中を真っ直ぐに駆け抜ければ、最短距離で西門に出られる。恐らくはそちらが、最激戦区となっている筈だ。
 叱りつけられた子供がそうするような、少ししょげ返った雰囲気を、怒りと覇気で覆って、桜は戦いに向かう。それを見届け高虎は、かかと笑って――

「当たり前じゃぁ、十何年ぶりかも知れんよ」

 一人ごち、走った。
 本当の所、高虎は思い出してもいたのである。
 桜が携える刀二振りの内、恐ろしく頑強に作られた脇差――『灰狼』の、刃紋の揺らぎ。
 それは過たず、彼が若き日、肩を並べた男の作である。

「……けけっ。それ見た事か、石頭の玄斎め。俺の家は孫からひ孫へ、代々引き継がれていくだろうがよ。お前のところはどうあっても婿を取らねえよ」

 高虎は、走る。
 その向こうには、冴威牙が牙を剥き出しに、今度こそは逃がさぬと、にやける顔を隠しもせずに待っている。
 勝てぬ相手だとは、指を奪われた時に、もう分かっている。
 然し高虎に迷いは無い。
 戦の中に在って、高虎は昔を――最後に、友と語った日の事を思いだす。
 武骨な男手一つで娘を育て十数年、すっかり父親面になった友が、髭を赤ん坊に引っ張られ、困ったような顔をしていた夏の日。
 指を差しだしてみると、驚く程の力で掴まれた――そんな事までが思い出される。
 ――あれから、随分と経った。
 そう思えば、記憶は更に過去へ、更に過去へと遡る。
 友と取り合って、取り負けた美人は、娘を生んで直ぐに死んだ。
 長い濡れ羽の黒髪が、たおやかで美しい女であった。

「こら、放さんかい」

 指を掴んだ赤ん坊を、満面の笑顔を隠せぬままで叱り付けた記憶。その時と同じ台詞を、知らぬうちに高虎は呟いて――己の老いを自覚し、その日と同じ顔で笑った。
 そして、その笑みを翳らせぬまま――明け始めた寒空に、怒声と血飛沫は上がった。








 比叡山中の北側は、他より斜面の傾斜が強く、政府側も敢えて多くの兵を配置しない。それ故、比叡山側も然程の警戒はせず、戦の折も、交戦が少なくなる箇所である。
 其処に敢えて、狭霧兵部は、己の陣を移動していた。
 戦の総指揮は冴威牙に預けた。後は巨砲〝揺鬼火〟を部下に任せ、己は城が見える距離にまで近づき、惨劇を観賞しようという腹積もりなのである。
 そして、冴威牙が発案し狭霧兵部が許可を出した、大量の屍の投擲は、この希代の悪漢を大いに愉しませていた。

「いやあ、心地良いなぁ! 聞こえるかあの悲鳴が、見えるかこの光景が! 人間なぞ死ねば血肉袋、腐るだけの残飯だと良く分かるな!」

 城壁にぶつかり、醜く潰れた亡骸を指差し、狭霧兵部は大笑しながら、鎖で雁字搦めにされた己が娘――狭霧紅野こうやの背を叩いた。

「見えるか、紅野。お前が守った城が、いやなんともお前に相応しい穢れたものに塗り替わっていく。此処から采配はどうするね、どうするよ?」

「………………」

 四肢を鎖で縛られ、雪上に転がされた紅野の――目に、力はもう残っていない。
 瞼を開き、城壁へ向かって飛ぶ誰かの亡骸を目で追っているが、それだけだ。眼光は感情の色を示さず、口は半開きのまま、意味有る音を奏でようとはしない。
 鎖で自由を奪われているが、これが例え麻の糸を括りつけられているだけであったとしても、紅野は動かぬのではあるまいか――そう見える程、魂の抜けた顔であった。
 折られている。
 道具には、直せる壊れ方と、もう直らぬ壊れ方がある。そして人間も、きっと同様に、何処かに二者を分ける線が有る。
 紅野は幾度も傷付いたが、それは全て、線の手前で踏み止まる傷であった。だが、幾千の刃にも耐えた鎧は、他ならぬ紅野の肉親の、たった一度の抱擁で砕けたのだ。

「和敬様、賊の大将は捕えました。これ以上の戯れは不要かと……」

 鉄兜で顔を隠し、狭霧兵部に仕える側近――紅野の母、吉野がそう進言する
 然し狭霧兵部は、縛られ動けぬ娘の頭を踏みつけて応じた。

「喧しい、これからが楽しみだろうが。これからあの城内は悲惨だぞ、疫病は蔓延する、死体の片付けにも右往左往する。砲弾は跳んでくる。兵士は城門を破りに来る。つまり総じて人が死ぬ。
 折角の死が見えているのだ、戯れるなら今を置いて他にあるまいが」

「……然し」

 兜に隠れた吉野の顔は、憂いに満ちていたが――それは蟲のように地面に這い蹲る娘では無く、戦勝に浮かれる夫へ向けられたものである。
 吉野が恐れているのは、戦というものの不確実さである。
 現状、この戦に負ける可能性というものは、何も見えていない。
 暫く時間が経てば、恐らくは比叡山側の兵によって――もしかすれば、〝黒八咫〟一人の手で――投石車は破壊されるだろう。
 然し、たった数十台の旧型兵器が破壊された所で、どうという事は無い。人は死んだら戻らぬが、兵器は作り直せば事足りる。
 三鬼とその部下、更には〝大聖女〟エリザベートにまで先陣に立たせれば、〝黒八咫〟も抑える事は出来る。
 だが――何が起こるか分からぬのも戦である。それ故に吉野は、もはや狭霧兵部がおらずとも結果の見えた戦場から、夫を離脱させたいと考えているのであった。

「くどい。俺の愉しみを奪うな、馬鹿めが」

「……申し訳ございませ――」

 進言は聞き入れられず、吉野は腰を折って頭を下げ――視界の端に、やけに上等な靴が見えた事に気付いた。

「――ぁ」

 その靴は、尋常の埒外にある脚力を以てしても破砕されぬよう、特別に頑丈に作られた重いものである。獣の革と金属を、膠で繋いだような――とでも形容すれば良いだろうか。
 そんなものを履いて戦場に立つのは、如何なる偉丈夫かと思えば、ただの少女なのである。
 縛られ、転がされた紅野と、傷を除けば同じ――魂の抜けたような表情まで同じ顔。紅野の双子の妹、狭霧蒼空そうくうであった。

「……紅野、居た」

 紅野の頭を踏む父が見えぬかのように、光彩異色の目も眠たげに、蒼空は後方の兵の中から進み出た。
 歩む足取りは、生きているとさえ思えぬ程に、ふわふわと捉えどころがない。
 動いているとも思えぬ内に、何時の間にか紅野の正面に立った蒼空は――雪の上に膝を着き、片割れの顔を覗き込んだ。

「紅野、悲しい……?」

「………………」

 紅野は変わらず、虚ろな目の侭であるが――その頬に、蒼空は触れた。
 幾つもの傷が刻まれた頬を、包んだ両手には、たった一つの擦り傷も無い。刀を振るう身でありながら、姫が如き儚い指で――蒼空は、紅野に触れていた。

「……待ってて、ね?」

 それも、僅かな間の事。
 何にも囚われぬ雲の如き妹は、囚われの姉を置き去りに、積もる雪を巻き上げて走り始めた。
 ごう、と風が起こり、巻き上がった雪は風花となって、もう一度地面に堕ちて行く。
 その内の幾らかを、狭霧兵部は手に掬って――

「……なんだ、あいつ」

 周囲の兵士が数歩も引き下がる程、不機嫌さを露骨に、表情で示した。







 西側城門外の戦況を、単語一つで表すなら〝地獄〟であった。
 政府軍本陣より最も近い西門前には、二十を超える投石車が並び、人間の屍を、比叡の場内へと投げ込んでいた。
 一体どれ程の死体を用意していれば、これ程の攻勢は続くのか。腐肉から滴る汁が、敷き積もる雪を溶かす程である。
 その惨状の中を、雪月桜が、修羅よりも恐ろしい顔になって吠えていた。

「おおおおおおおおぉぉぉらああぁァァッ!!」

 咆哮と共に、投石車〝が〟飛んだ。
 桜が車軸を鷲掴みにし、力任せに、 他の投石車へと投げ付けたのである。
 人間を百間以上に渡って飛ばす大掛かりな攻城兵器は、まるで家一つが倒壊したかの如き大量の木材片を残し、がらくたへと変わって行く。

「とっ、止め――止めろぉっ!!」

 若き副将、八重垣が部下に命ずるが、誰も好んで桜に近寄ろうとしない。半径数間に踏み込もうものなら、桜が振り回す投石車の残骸に打たれるのだ。
 例えるなら、台風の夜の急流に落ちた獣である。
 上流でへし折れた木々が流れ込み、川底にはごつごつとした岩が幾つも隠れている。流れには耐えられようと、その激突の衝撃には、泳ぎを得手とするカワウソさえ命を落とすだろう。
 まして今の桜は、並ならぬ激昂の中にある。自然は無慈悲に吹き荒れるだけだが、桜の暴は明確に、指向性を持って政府軍を薙ぎ払おうとするのだ。
 立ち塞がった勇敢な兵士も居た。彼は、まるで子供が鞠で遊ぶかのような手軽さで、桜が振り回した投石車の残骸に打ち上げられ、落下前には既に絶命していた。
 逃げようとした者は、大半はその通りに逃げ果せたが――運の悪い幾人かは、鬼の顔をした桜に腕を捕まれ、自らが破壊槌となって別な兵士に叩き付けられた。
 鎧の有無であるとか、防御の成否であるとか、そういうものは何も意味が無い。ただ雪月桜という災害からどれだけ遠ざかれるか――それが、兵士達の生死を定める境界線であった。
 陣形が崩れて行く。
 後方にあるべき弓隊の背後に、前線を守るべき兵士達が逃げ込む。
 混乱の中、それでも戦いを生業とする兵士達は、かろうじて桜に狙いを定め――号令も届かぬので、めいめいに矢を射掛けた。
 無論、そのような抵抗、そよ風にも劣るものである。
 一つとして、桜の身に届いた矢は無かった。届く前に残骸の暴風に巻き込まれ、砕け散るからだ。

「かっ、ぁあ、止まらぬか、おのれいっ……!」

 八重垣は兜ごと頭を抱えて呻く。
 若き俊英と謳われた彼だが、知っているのは人間との戦のやり方である。天災と向かい合う方策など知らぬ。

「ぬぅう……っ! ならば、拙者が出て――」

「なりませぬ! 三鬼殿、なりませぬぞ! 貴方の首は、我らとは値打ちが違う!」

 あの暴風と、曲がりなりにも張り合えるのは己しかおるまいと、波之大江三鬼が前へ出ようとし――それを八重垣は引き止める。
 雪月桜と波之大江三鬼が繰り広げた、先の攻防を、八重垣は見ていた。
 何れも人外の域を、更に大きく踏み越えた怪物同士。然し勝ったのは雪月桜である。
 ただの化け物であれば、三鬼が劣る筈は無い。然し桜は、技量までもが超人の域にあり、更に知恵の働く化け物だ。

 ――三鬼殿が切られては、なんとする。

 投石車の十や二十、失ったとて、どうにかなる。然し波之大江三鬼を失えば、補うものは無い。
 せめて三鬼がもう一人居れば、八重垣は嬉々として、上官の出撃を見送ったのだろう。然し、この鬼に並ぶ怪物など、政府軍の中にも残ってはいないのだ。
 豪胆にして実直な上官に、八重垣は十全の信頼を置いている。然しその信頼を通り越して、勝てぬという確信がのさばる程に、眼前で吹き荒れる暴風は凄まじかった。

「っぐ、ぅう……三鬼殿、忌々しいながら此処は、手勢を退き――」

 止むを得ぬ――既に八重垣は、後方の兵士達に身振りで指示を出し始めていた。
 己らの任は、何時でも攻め上がれる距離に留まり、雪月桜という怪物を釘付けにする事――それまでで良い。それ以上は出来ない。
 なんと情けない事だと、八重垣は歯噛みしながら自嘲する。日の本の最精兵が百近くも集まり、女一人に手出しが出来ずに居るのだ。
 だが、矜持は命に代えられない。自らも形振り構わず、後退する列に加わろうとした。
 その時、布陣を縦に割り裂いて、ひょう、と高い音が鳴った。
 八重垣のみならず、全ての兵が、その音を聞いた。
 晴天の日に、なんの予兆も無く、強い風が吹く事がある。人をよろめかせるその風は、びゅう、と唸りを上げるものだ。
 遠くから近づいて来る為だろう。最初は弱く、意識に留まらないが、近づいて来れば巨木をも揺るがす風。
 丁度、戦場に轟いたのは、そういう音であった。そして、音が去った後には、雪月桜の前に、一人の少女が立っていた。
 鞘から引き抜いて、右手で地面に引きずっている刀は、毒々しくも雅やかな、紫色の刀身を誇っている。
 狭霧 蒼空そうくう
 生きている気配さえ定かでは無い、絵巻物から抜け出たような少女であった。

「……お前は」

 この、浮世離れした少女の姿を、桜は鮮明に覚えている。
 過去から現在までの生の中で、たった一度だけ喫した敗北の相手――それが、この少女だ。
 蒼空と呼ばれていた事だけは知っている。その他には何も知らない。
 然し、知る必要が無い程に、待ち焦がれた相手であった。
 桜は脇差を左手に移し、右手を真っ直ぐ、何かを掴むように虚空へ伸ばした。開いた指を固く閉じれば、その手の中に、何処からとも無く現れた名刀『言喰ことはみ』の柄が収まっていた。

「蛇の牙が一振り。この龍の牙に勝るか、試してみるかえ」

「おう、やってみるか」

 物言わぬ筈の刀は確かにそう言い、桜も当然のように答え――構えた。
 脇差を持つ手は、まるで正道の剣術であるかのように、体の正中線に揃えて、腰より少し高い位置に。
 右手の太刀は大上段で、切っ先を背中の側へ向けて。
 桜は、構えというものをあまり用いない。己を型に当て嵌めるという事を、好む好まないというより、そも考えぬ女であるからだ。
 だが――その桜が、たった一人の敵を打破すべく、己の全てを振るえると信じて取ったのは、この形であった。

「……名前は……?」

「あ?」

 対する蒼空は、刀の切っ先を地に触れさせたままで――そんな事を、突然に問う。
 戦いの前ならば、黙殺しても構わぬだろう、脈絡の無い問い。
 だが、それを発した蒼空の目には、好奇とも期待ともつかぬが、何か輝きのようなものが有ったのである。

 ――余程、良い。

 眠たげな眼のままの子供と斬り合うより、目を輝かせた女と戯れる方が、余程良い。
 以前、意識が薄れ行く中で見た顔は、こうまで美しくは無かった。

「……暫し合わぬだけで、女はやはり変わるものだ」

 戯れめかした独り言の後、腹の底まで息を吸い――

「〝剣翁〟レナート・リェーズヴィエが唯一の弟子にして、かの剣をただ一人引き継ぎし者!
 正義も道理も知った事では無いが、気に入った女の恩に応える為、惚れた女を笑わす為、此度は遥々見参した!
 戦の華の一騎打ちにて、手折られる覚悟が有るならば――」

 戦場を揺らす大音声。
 己を鼓舞し、また衆目を一所に集める声は、絶域の戦いの開始を告げるもの。

「雪月桜、我此処に在り! 心地良く舞おうではないか、蒼空とやら!」

 桜は、凶暴に破顔した。








 そして、日の本一の剣劇が始まった。
 蒼空はまるで、落とした筆を拾うような気軽さで、桜の首目掛けて刀を振るっていた。
 踏み込む足も、振るう手も、遠目にする兵の誰にも映らぬ一閃であった。
 受けた桜の脇差と、蒼空の刀の間に、火花が幾つも散る。
 間髪入れず、桜の太刀が、蒼空の頭蓋目掛けて振り下ろされる。これも目に影さえ留めぬ剣閃である。
 それを蒼空は、身に掠らせもせず、瞬き一つ程も掛けずに数間を後退し、回避していた。
 歩いて寄れば、十歩以上も掛かる距離。
 その距離から蒼空は、たった一挙動で桜の懐へ飛び込み、刀を振るう。
 右肩から左の脇腹へ。
 右脇腹から左脇腹へ。
 的が大きく、また動きにくい胴体目掛けて、立て続けに二度の斬撃である。桜は太刀を逆手に持ち替え、それを払い、自らもまた蒼空目掛けて踏み込んだ。
 桜の怪力を、全て脚へ注いで直線的に進む――瞬間的にであれば、名馬をさえ上回る速度ともなろう。だが蒼空は、それを易々と上回る。

「おぉっ……!」

 蒼空は桜を正面に見据えたまま、後ろ向きに走り、桜の速度を上回って見せたのだ。追う桜が感嘆する程の光景であった。
 間合いを過剰に詰めさせず、飽く迄も、己の刀を最も振るい易い位置へと留める。理想ではあるが、互いが間合いを奪い合う戦いで、容易く出来る事では無い。

 ――これは、追い付けぬ。

 速度では到底敵わぬと悟った桜は、足を止め、迎撃の体勢を取る――その、構えの変化すら間に合わぬ内に、蒼空は動きを変える。
 後退していた筈の蒼空は、たった一歩で完全に静止し、次の一歩で前進――最高速度に達し、桜へと迫ったのである。

「む――!?」

 運動の方向が変化する時は、必ず減速と加速が有り、それが動作の予兆となる。だから武に携わる者は、その予兆を如何に殺し、また読むかを磨くのだ。
 狭霧蒼空には、それが無い。
 少ないのではない――殆ど、皆無と言っても良いのだろう。
 物体はこう動くべきという法則が、この少女に限って言えば適用されていないような動きをするのである。
 松風左馬の、極限まで鍛え上げられた技術が生む速度とは違う。
 村雨のような、生物種として高位にあるものの、身体の優位性すら超えている。
 人知の領域から明らかに外れた、一代一人のみの、異能が生む速度であった。
 その異常性が、四肢全てに適用され始めた。
 腕も、肘も、手首も、全ての関節が、可動を開始した瞬間には最大速度に到達している。そこから生まれた斬撃は、並み居る強者を討ち果たして来た桜でさえが、未だ体験した事も無いものであった。
 首を狙う、斬撃五つ。
 同一箇所へ、ほぼ同時に到達するそれは、受け止めた太刀を握る腕の、骨の芯まで衝撃を浸透させる。
 右足首、右膝、腰、脇腹、右肘、右肩、首――合わせ一挙七連の高速斬撃。
 片手では防げず、太刀と脇差の双方を防御に回し、やっと防ぎ得る絶技であった。

 ――これが、この娘か。

 桜は内心、舌を巻いた。
 過去に己が斬られた時など、この少女はまるで本気になっていなかったのだ。
 いいや、今も、これが底であるかは分からない。
 だが、一つだけ言える事は、〝剣技であれば〟狭霧蒼空は、自分を上回っているという事である。
 間合いの把握と維持の技量、そして休む暇も無い斬撃の雨。気を抜けば一太刀で斬り殺される。
 そして何より――見破られている。
 体の右側ばかりを執拗に狙う剣撃を、両手の刀で防ぎながら、桜はそう感じていた。
 桜の右目は、実は殆ど見えていないのだ。
 蒼空が持つ紫の刀で斬られてより、エリザベートの〝呪い〟が身を蝕んだ。それは一度、右目まで達したが、呪いが解かれた後も、目ばかりは完全には戻らなかった。
 傷と同じだ。桜は、その程度に考えていた。
 手や足を怪我しても、時が立てば直る。だが眼球に傷が付けば、治りはしない。それと同じだから、深く思い悩む程の事では無い、と。だから、己以外の誰にも、村雨にさえ知らせていなかった。
 それを、僅かの攻防で見破られている。
 きっと、十年の後には、もう狭霧蒼空の剣を、三度と受け止める事さえ出来ぬようになるかも知れない。それ程に桜は、己とこの少女――いや、『狭霧蒼空』と『それ以外』の隔たりを感じていた。

 ――だが、今なら勝てる。

 桜は、蒼空がそうしたように、体の正面を相手に向けたままで後退した。
 地を蹴り、低く飛ぶような、尋常の達人程度では到底追い付けぬ速度である。
 無論、蒼空なら、欠伸を噛み殺しながらでも追い付ける。それだけの速度の差が有る。
 だからこそ――桜は確信を以て、小さな罠を仕掛けた。
 それは、他には誰も気付けぬ程に小さな、足の動きであった。
 あともう一歩だけ下がるように〝見える〟後方への足の動き――逃さぬと、蒼空は更に加速して飛び込んで来る。
 その予測を完全に裏切り、桜は正面へ、蒼空を迎え入れるように踏み込む。
 二人の額は、触れ合わんばかりに接近した。

「よう、追い付いたぞ」

「……っ!?」

 予想を大きく上回る速度で近づいた顔――蒼空は、童のような目を更に丸くして驚愕した。
 近すぎる――刀を振るうには適さない。こうまで近づく意図は、蒼空には無かった。
 彼女にして見れば、相手の動きを予想出来るというのは、ものが上から下へ落ちる事や、太陽が東から昇る事と同様に、当然の事実なのである。その予想が裏切られたのだ。
 だが、その次は予想出来る。自分の左手側に回り込んで来る筈だ。そう〝読んだ〟蒼空は、右手側へと逃れようとし――

「待て待て、逃がさんぞ」

「ぁ……あ、っ!?」

 桜は同時に、その方向へ回り込んでいた。
 何をしたのか――これも単純に、誘いを掛けただけである。
 如何にも左へ行くぞと、思わせぶりに足を動かしながら、右手側へ動く。武術に於いては珍しくも無い、虚実の攻防である。
 然し、その虚の技が、並ならぬ腕であった事と――誰の目にも見えぬ小さな動作さえ、決して見逃さぬ蒼空の目が、この時ばかりは祟った。
 蒼空は、桜を中心として、円を描くように馳せる。背後を取って斬りかかろうという試みであるのだが、桜が踏み出す度、その円の形が崩れる。大回りに背後を取ろうとする蒼空に追い付くのに、桜はただ、真っ直ぐに一歩踏み出すだけで良かった。
 目と、足と、僅かな手の動き。それに反応して蒼空は、自分が動く軌道を変え、そして起動の変化に合わせ、桜は蒼空を追う。
 速度差は歴然であるのに、どうしても振り切れない――どれだけ動いても必ず追い付いて来る。
 その困惑が、神域の剣閃を鈍らせ――また桜の左目も、蒼空の速度に慣れ始めた。
 次第に二人の刀は、中空で、幾度もぶつかり合うようになり始める。一方が斬って一方が防ぐのではなく、互いに刀を振るい、中間距離で切り結ぶのだ。
 そして――そういう事をすれば、日の本で雪月桜に勝る生物は居ない。
 桜の武器は、速度・技量・悪知恵・経験、その他幾つも有るが――最たるものはやはり、力なのだ。
 刀と刀がぶつかる度、蒼空の腕には、膝を伸ばして高所から着地したような、関節全てを押し潰すが如き痺れが走る。対して桜は、己の力の反動など、まるで意に介さず暴を振るう。

「う、ぅっ……!」

 先程まで攻め立てていた筈の蒼空は、一転、冷や汗を頬に流し始めた。
 一方で桜は、無尽蔵の体力を以て、蒼空へと刀を振るい――

「――頃合いか」

 その暴剣をふと緩めて、一歩、後退した。
 この二人に一歩の距離など、無いも同然であるが――この距離こそが、今、桜が欲しいものであった。
 何故か。
 進む為に、必要だからだ。
 更なる加速を得て、刃を届かせる為、桜に必要なのが、この〝一歩〟という距離であった。

「お前は、見事だ」

 桜は惜しみなく蒼空を称賛しながら、異形の構えに転じた。
 左足は後方に伸ばし、曲げた右膝に上体を大きく覆い被せ――背など、殆ど地面と平行になっている。
 その背に、更に脇差と太刀を、腕を肩越しに背へやる事で、刃を空へ向けて重ねる。
 例えるなら、一頭の獣。
 肉食獣が敵に飛びかかる寸前の、低く撓められた形を模した構えであった。

「――ぁ、ぅ、ぅう……っ」

 蒼空は、その構えの意味を知り――だが、打つ手を見いだせず、狼狽する。
 そして桜は、慈悲を一切見せず、前へ出た。
 開いた間合いを、歩幅を小刻みにして、二歩で埋めた。その二歩で桜は、最大速度に到達していた。
 その速度から、二刀が同時に、蒼空へと振り下ろされた。

「くうぅっ……!」

 蒼空はそれを、刀を横にして受け止めたが、衝撃で後ずさる――到底踏み止まれる威力では無い。
 それでもせめて反撃をと、体勢を立て直そうとした蒼空へ、次は左右から挟み込むような形で、低い斬撃が迫る。
 その間も、桜は前に出る。
 蒼空は後退し続ける事を余儀なくされる――留まってぶつかれば、力では決して叶わぬからである。
 逃げ続ける――桜の剛剣を防ぎ、体勢を崩した侭で。
 桜の剣は、上下左右あらゆる角度へ――然も異常に低い起点より放たれる。
 蒼空も時折は反撃を試みるが、極度に低く構えた桜を狙うには、殆どが斬り降ろしの斬撃となる。どの角度から刀が迫るか分かっていれば、桜の技量ならば、防ぐ事など訳は無い。
 一度刀を降ろし、斬り上げで顎や肩を狙おうともする。然しその刀は、振り下ろされた桜の脇差に抑え込まれる。
 側面よりの斬撃を放つには、桜の体勢が低すぎて、狙える箇所が絞られる。
 そして攻撃へ転じれば、常軌を逸した低さより、怒涛の如く剣閃が叩きつけられるのである。
 これぞ正道の剣術に収まらぬ桜が、唯一、師より譲り受けた秘剣であった。
 日の本風に呼ぶなら、名を『刃への弔い』となる。
 名の由来は定かでない。
 この剣が振るわれたのは、たった一度であると聞いている。
 この剣が葬ったのは、たった一人であるとも聞いている。
 即ち、天下の誰も知らぬ剣。
 もはや桜の放つ斬撃は、剣術として名付けて良いものでさえなくなっていた。力に任せ、圧倒的な速度で、触れれば斬れるように刀を振るうだけであった。
 然し、その名付けられぬ斬撃全てが、三つ胴、或いは五つ胴さえ為す剛剣である。桜は思うまま、その斬撃を繰り出し続けた。
 無形こそが、桜の秘剣であった。
 それさえ、蒼空は防ぐ――辛うじて。
 軌道も力も理解が及ばぬ剣撃に対し、加速を伴わぬ超高速を以て、防御を成功させ続ける様は、やはり天賦の才と言えようが――

「ぅ、っく、ぐ……ううぅ……っ!」

 色白の顔を耳まで真っ赤に染めて、蒼空は桜の剣に抗していた。
 困惑で塗り潰された赤い顔の、両目にはじんわりと涙が滲んでいる。
 次第に振るう剣からも精密さが失われ始めた。
 癇癪を起こした子供のような荒っぽい剣で、蒼空は桜に張り合い、剛と迅の剣が、数十も数百も打ち合わされた果てに――

 ――がきん。

 と、蒼空の刀が圧し折れた。







 金属が強く弾かれて、くわんくわんとうねる音がした。
 雪の上に落ちて突き刺さったのは、紫色の毒々しい刀身――の、刃先。
 上から五寸ばかりが折れ――いや、斬られて落ちた。

「……え?」

 狭霧 蒼空そうくうは、丈の詰められた刀を、普段の眠たげな顔から少し大きく目を開けて見ていた。
 瞬きを何度か繰り返したのは、その光景を信じ難かった為か。だが、幾度繰り返したとて、厳然たる結果は覆らない。
 二人の女剣客の戦いは、雪月桜の勝利となった。

「なんと、よもやっ……!」

 遠巻きに見ていた波之大江三鬼は、驚嘆に言葉を失う。
 おおよそ剣を振るう者の中で、狭霧蒼空に勝るつわものなどおらぬと、三鬼は信じていたからだ。
 例え凶鳥〝黒八咫〟であろうと、あの大天才に勝る筈は無い、と。それが覆ったのである。
 ましてや蒼空が振るう刀は、〝大聖女〟エリザベートから齎された呪刀であった。
 その名を、『蛇咬じゃこう』と呼ぶ。
 エリザベートの〝牙〟の一つを削り出し、研ぎ澄ませて作り上げた、強度も切れ味も尋常から逸脱する名刀。刀身に刻まれた呪いは、斬り付けられた者の身を蝕み、戦おうと力を振るえば、その身に激痛が及ぶようにしてしまう。
 ただ一度、掠り傷だけでも与えれば、それで勝負は決する程の、凶悪な呪いの刀であった。

「ち……首は落とし損ねたか」

 然し雪月桜の右手に有るのは、これも尋常の刀では無かった。
 『言喰ことはみ』。
 八龍権現を称するあやかし、八重の――恐らくは、これが本体。九十九神の一種とも呼べようか。
 大妖二つの呪い比べで勝ったは、蛇の牙では無く、龍の牙であったのだ。
 そして――振るう者を比べて、勝ったのは雪月桜。
 剣技のみならば勝る蒼空とて、〝戦い〟全ての経験では、桜に遠く及ばずであった。
 かろうじて蒼空は、首を狙う桜の剣閃から、後方へ一歩だけ逃れていた。
 だが――その時、蒼空は目を瞑っていた。
 迫る刀を恐れて目を瞑り、敵を斬る為の刀で必死に己の首を守り、どうにか生き延びたのである。
 才覚のみを言うならば、桜に数段も勝る大天才であるが故、ただの一度も、負けばかりか僅かの苦戦さえ知らずに生きてきた蒼空である。己が守勢に追いやられた時の対応など、何も知らぬのだ。
 その頬に、一筋の切り傷が有った。
 桜の、幾百と振るわれたか分からぬ剣を防ぐ中で、皮膚の厚みよりほんの少しだけ深く切り込まれた傷であった。
 血がつつっと頬を伝って、顎から服の裾に落ち――

「…………っあ、あ……?」

 蒼空は、折れた刀を取り落とした手で血を拭った。
 その指を、まじまじと見る。
 見慣れた赤ではあったが、それが自分から流れるなど、蒼空には思いもよらぬ事であった。
 これは自分が斬った相手が染まる色で、自分が染まる色では無い筈だ。
 手当をすれば、直ぐにでも塞がるその小さな傷は、生まれてより怪我を知らぬ蒼空には、あまりに大きな痛みであった。丸く大きな目から、じわっと涙が滲み出した。

「……ぁぅ……っふ、ぇ……っ、ぅう、うあっ、うううーっ……!」

 そして、蒼空は、戦場の中心で〝泣き出した〟。
 棒立ちになって、少し上を向いて目を瞑り、両手は固く握りしめ、まるで幼い子供がするようなやり方で、ぎゃんぎゃんと泣き叫んだのである。
 頬の血が涙と混ざって薄まったが、それが分からぬ程、顔を赤く染めて蒼空は泣き声を上げた。

「あー! あー! あーーー!」

「な……?」

 さしもの雪月桜も呆気に取られ、即座の追撃を忘れた。

 ――これではまるで、自分が悪いようではないか。

 確かに狭霧蒼空は、過去に類を見ぬ強敵であり、また戦いの前の目の強さは、心を躍らせる程であった。
 だのに、こうして戦いを終えて見れば――そこに居るのは、体だけが育ち、精神は育たぬままの少女である。
 自分が凶器を振り回し、分別もつかぬ子供を虐めて泣かせたようだ――僅かにでも、そう思ってしまったのだ。
 齢ばかり重ねた大きな子供は、未だに刀を抜いている敵の前で、声を張り上げて泣き続けた。
 一方で、周囲に広がる政府軍も、手を打てずにいた。
 ついに自軍最強の剣士でさえ、桜には勝てなかった。まして自分達が、どうすればあの怪物に、傷の一つでも負わせる事が出来るのか。
 一騎討ちは、初戦は一人と一人の争いだ。だが、数百の兵の心を圧し折るには十分であった。
 そして、士気を抉られた彼等は――更に続く〝予想外〟に、酷く脆い姿を見せた。
 初め、〝それ〟に気付いたのは白槍隊の、隊列の後方に在る兵士達であった。
 喊声も無く、戦場に、比叡山軍でも政府軍でも無い、全く未知の一隊が姿を見せたのである。
 人数は、三百程も居るだろうか。殆どが男で、十数人ばかりは女も混ざっている。
 彼等は皆、一様に、鎧も兜も身に付けてはいなかった。
 彼等の左手には、金属板を幾つも貼り付けたメイスが有り、また右手には、西洋でも最新兵器とされる〝拳銃〟が握られている。
 服はくるぶし丈のローブ――アルバと呼ばれるもの。葬儀に列席するかのような、艶の無い黒である。
 そして彼等は、首に十字架を下げていた。
 それ自体は鈍器にも刃物にもならぬ、小さな、質素な飾り。拝柱教の暗殺者達が持つ短刀も十字を模していたが、それとはまるで趣を異にするものであった。

「撃て」

 彼等の先頭に立つ男は、数日剃らずに放置したような無精髭で、左手の甲を擦りながら言った。

「諸君達がこれより犯す全ての罪業はこの私が、父なる神の御前にて間違い無く、全て私の望みであり咎であると証言しよう。一切の憎しみ無く恨み無く、眼前に在る彼等を薙ぎ払いたまえ、アーメン」

 三百の銃声が、比叡の山に轟いた。
 彼等の右手にある拳銃は、日の本で主流となっている火縄銃よりも高速に、鉛の弾丸を射出した。
 それは、鍛え抜かれた精兵達の筋肉も、或いは分厚い鎧でさえも容易く貫き、或る者には死を、或る者には重傷を与えた。
 次弾の装填も、恐ろしく速い。親指で金属部品を引く、たった一挙動である。
 最後方の一団が倒れた次の瞬間には、十字の一群は再び銃撃を行い、また数十人を負傷、或いは死に至らしめた。

「お――ぉおおおおっ!?」

 波之大江三鬼の副将、八重垣久長は、目をひん剥いて叫んだ。その数間手前で、また一人が撃たれて死んだ。
 拳銃弾は、遠距離での命中精度は決して高くないが、然し同時に三百もの弾丸が来るとなれば話は別である。どうしても一射で数十は命中する。
 この時、彼我の戦力差を最も速く理解し、勝てぬと結論を出したのが、この八重垣であった。

「さっ、三鬼殿! 撤退を!」

「ぬ――然し、蒼空がっ」

「救う暇など有りませぬ!! 抗う手立ても有りませぬっ! 退け、退けえいっ!!」

 若き副将は、刀を投げ捨て身を軽くし、真っ先に戦場を、周囲の森目掛けて走り始めていた。
 仮に十字の一軍と三鬼達が、正面から向かい合い、同時に攻撃を始めていたのなら、結果は違ったのだろう。
 だが、後方から奇襲を仕掛け、初撃で大きく戦力を削った事で、既に戦闘の結果は定まっていた。

「……なんだ、これは」

 この異変は、桜にも、やはり不意打ちのようなものであった。
 自分が斬らねばならぬと思っていた軍勢が、全く別な方向から切り崩されて行く。
 然もその群を率いていると見える、無精髭の聖職者には〝見覚えが有る〟のだ。

「なんだ、これは!」

 桜はもはや、笑いを堪え切れずに居た。
 悪鬼も竦む程の笑みを浮かべながら、桜は、眼前で泣き喚く狭霧蒼空を、肩へ担ぎ上げる。

「相も変わらず、人攫いですか」

「相も変わらず、人聞きの悪い」

 見えぬ姿から聞こえる声には、軽口を叩いて応じる。短い付き合いでは有ったが、懐かしい声であった。








 そして、その戦況の変化を、苦々しげに見つめる者が二人、目玉が三つ有った。
 本来四つである筈の目は、一つが高虎眼魔の指で抉り出された後であった。
 引き連れていた赤心隊の部下十数人も、半数は死に、残り半数には撤退の指示を与えている。それでも尚、この戦地に未練を残しているのが紫漣であり、左目を抉られた冴威牙であった。

「があ、あ、ぁ……っ、畜生、畜生がっ……!」

「冴威牙様! 退きましょう、冴威牙様っ!!」

 二人は、比叡山城を遠巻きにしている森の中から、自軍が三百の銃兵に崩されて行く様を見ていた。
 今にも森を飛び出し、その兵達に噛み付かんばかりの形相の冴威牙を、紫漣が縋り付くようにして引き留めている。
 戦えば、数十人は殺せるだろう。だが、冴威牙は死ぬ。
 銃兵達を、精強さで見たならば、きっと政府軍の並みの兵士とさして変わらない。だが、群れて、良い武器を持っていると、それだけで脅威となる。人外の強さを持つ冴威牙でさえ、殺し尽くせぬ敵となる。
 まして冴威牙は傷付いていた。
 老剣客、高虎眼魔の最後の特攻は、死を恐れぬ故の大胆さで以て、幾人もを道連れにした。
 雑兵に矢を射かけられながら、投石車ばかりを狙って斬り倒し、狙う車が無くなれば、赤羽織を目印に斬り回った。その果てに刀が折れれば、素手で冴威牙に飛び付いた。そして、首を蹴り折られながらも、その指で冴威牙の左目を抉り出したのである。

「あと少しだったんだぞ……九割殺してたんだぞ、あの城を、俺は……!」

 負ける要素など、無い筈の戦であった。
 兵の数と質で勝り、兵器を揃え、なんら欠けた所の無い軍を預けられた筈だった。
 だが――幾つも、冴威牙はしくじった。
 狭霧紅野が偽装して城を出た時、それを本物の〝黒八咫〟であると思い込み、兵を動かした事。
 伝令を密に放たず――また伝令との信頼も無く――誤報であると気付くまでに時間を要した事。
 狭霧兵部を楽しませるべく、城内への苦しみを長引かせようと、兵力を小出しにした事。
 自分自身が高虎眼魔を迎え撃ち、結果、片目を失った事も失態である。戦いに手を割かれている間、戦況が変わって行く様を捉えられなかったのも、失態であった。
 或いは最大の失態とは、己の特性を理解せぬ事であったかも知れない。
 冴威牙は、小さな群れを率いて獲物を追う、天性の猟犬である。主を定め、その下で残虐性を振るう事に於いては、日の本でも指折りの勇将であろう。

「俺は……此処まで、此処までっ! 這い上がって、やっと〝人間並み〟になったんだぞ……!」

 だが、王ではない。
 大群を率いるには、視野の広さも、経験も不足していた。
 天性の嗅覚ばかりで御すには、数千という人間は、あまりに規模が大き過ぎた。
 もはやこの戦は、冴威牙の手には無い。敵の総大将は捕虜にしたというが、代わりに包囲網は崩された。
 しかも、銃撃による奇襲を仕掛けてきた兵士達は、この国の者達では無い。権威という大きな傘が、何も役に立たぬ風が吹いたのだ。

「ちくしょう、上手く行きそうになりゃあいつもこれだ! てめぇらはそんなに俺が嫌いか! そんなに俺が憎いかよぉっ……!」

 積み上げた全てが無為になる。冴威牙は、悔しさか、地団駄を踏んで喚き散らした。悪漢ぶりも見事に吊り上がった右目も、空洞となった左目からも、同じく涙を流して、拳で地面を打ち付けていた。それは間違い無く、敗北者の姿であった。

「冴威牙様……っ」

 そういう無様を晒してさえ、冴威牙の隣には、紫漣が居た。
 冴威牙と同じに、涙を耐えられず、拭いもせず――背の翼と両腕で、体の全てを使って彼を抱き締めながら、同じ屈辱に身を震わせながら、

「まだ……まだ私達は負けていませんっ! 二条の城があります! 貴方がいますっ!! それにっ――」

 紫漣の執心は、献身は揺るぎはしない。
 一度、命を預けると定めたからには、例え死してもその決意は揺るぐまい――そういう女であった。
 涙で視界を滲ませながらも、紫漣は戦場を睨んでいた。
 狭霧兵部は既に、手勢を二条城にまで退かせ始めているだろう。自分達も撤退せざるを得ない。
 だが――だが、最後に一度、爪跡だけは残せる。

「〝砲〟を! 揺鬼火を動かせますっ!」

 戦場の東、五里。
 巨大に過ぎ、何処かへ逃がす事もままならぬ兵器、揺鬼火。
 回収が間に合わぬ以上、やがては敵軍に奪われるだろうあの兵器も――今ならば、まだ動かせる。
 紫漣は飛び、冴威牙は地上を走った。
 射手達が前線の混乱を知り、砲を捨てて逃れる前に――せめて一撃、報いてやろうと。








 城壁も半ば打ち崩され、形ばかりとなった城――然しその中には、これまでとは比にならぬ程の熱気が満ちていた。
 援軍を、数で見るなら、僅かに三百。
 然しその三百は、最新の兵器で武装した、恐れを知らぬ精兵達である。
 彼等は、心得の有る者は治療魔術を以て、また魔術を不得手とするものも包帯を手に、城内の負傷兵の治療に当たっていた。
 葬儀に赴くような姿をした十字の一群――彼等を率いている男は、まず思い切り深呼吸をして、

「げほっ、うえほっ、ぐえっほっ」

 空気に混ざる、血と腐肉と鋼の臭いに咽た。

「……大丈夫か、お前」

「その懸念はお前の後方に立つ者へ向けられるべきであり、私のように生気に満ち溢れた男へ向けるにしては些かに軽んじた問いであるとは思わないかね? 私は至極健康体であり、彼等は酷く苦しんだ後だ。慮るならば彼等の心と肉体をこそ問うべきであって――」

「ああ、いい、そこまでで良い」

 咽る背に桜が呼び掛けると、三百の兵を率いる男は、呼吸一度で一息に長台詞を吐いた。
 抑揚の利いた、やや芝居がかった言葉のようでもある。が、偽りの類では無く、これがこの男の性情であるのだ。
 ハイラム=ミハイル・ルガード。れっきとした聖職者であり――罪人を殺して歩く、一種の殺人鬼でもある。
 その名を桜は知らないが、然しこの男の存在は記憶に残っていた。
 いや――〝この男を〟覚えていたというよりは、彼に惹かれて旅を離脱した、かつての連れを覚えていたのだ。

「桜、御無沙汰しています」

「おう」

 透明化の魔術を解除し、さも当たり前のように桜の後ろに立ったのは、ウルスラであった。
 拝柱教の暗殺者として育てられ、桜の誘いに乗って旅に付き従い、共に東海道を歩いた女。如何なる場に在っても、その場の空気に染まらず淡々とした声は、数か月ばかりではまるで変わらぬものであった。
 再開を祝するのに、交わした言葉はこればかり。それから、桜が突き出した拳に、ウルスラも自分の拳をぶつけ――行動の意味が理解出来ぬのか、首をかしげる。それを見て桜は、東海道の旅路を思い出し、ぷっと吹き出すように笑った。
 その二人の間に、ハイラムが割り込み、踵を合わせて直立する。そして、まるで演説でも始めるかの如く、おごそかに口を開いた。

「これより我等『ヴェスナ・クラスナ修道会』は、枢機卿猊下並びにこの国の政権よりの要請の下、比叡山を本拠とする僧侶民兵一般市民、その他、おおよそ正当な理由無く迫害を受ける全ての人間を守護すべく行動を開始する。よって願わくばこの国に在り神の御心を知る者達は全て――」

「待った。少し待て、待った」

 また長々とハイラムが語り始めたのを、桜は適当な所で寸断する。言葉をせき止められたハイラムは、眉根を寄せて、少し拗ねたような顔をした。

「お前達、何故此処に?」

「たった今伝えた通り、我等は遥か帝国本土の枢機卿猊下と――」

「ミハイル」

 懲りず、またも同じ調子で話し始めるハイラムの口に、ウルスラが右手を被せ、長口上を止める。薄い表情に、ほんの少し、呆れのようなものも混ざって見えた。

「短く言うと『帝国の十字教は、拝柱教と〝大聖女〟エリザベートを、神の名を騙り悪事を為す〝教敵〟と見なした』……という事です。
 私達三百人を先遣隊とし、この国の軍勢と連携を取り、拝柱教と、それに与する狭霧兵部和敬を討伐せよ……という命令だそうでして」

「……なんと」

「お前達が城に籠っている間に、世界は悉く呼吸を続け、変革を繰り返していたのだよ。これぞ天にまします我等が父の思し召しであろうね」

 狭霧兵部は権力を以て軍勢を動かし、比叡山を地獄に堕とした。
 然し、その権力に対抗する〝軍事力〟が、比叡山に――ひいては仏教徒に与するというのだ。
 桜は、政治の事は分からない。
 分からぬが、戦いの事であれば良く知っている。
 日の本は、独力で世界の国々と戦える程の力が無い。だから狭霧兵部は〝神代兵装〟を欲したのだ。
 先遣隊の三百は、ただの三百ではない。これより後、日の本とは規模の違う軍事力が到来するという先触である。

「……つまり、もういいのか」

 桜は、城内の雪の上に腰を下ろし、すっかり朝になった空を見上げて言った。

「はい。これ以上、籠城を続ける必要はありません」

 その傍らにウルスラは、同じく空を仰いで答える。

「私達の勝ちか?」

「今は、まだ。けれど、やがてそうなるでしょう。……そうなると、貴女は暇になりますか?」

「ありがたい事に、な」

 肩に担いでいた荷物――未だに泣き続けている狭霧蒼空も、半ば放り投げるように下ろして、ついに桜は仰向けに寝転がった。腰に差していた脇差の鞘が落ちたが、それを拾う事もしないで――

「長かったなぁ、くそ……」

 大の字になり、大きく溜息を吐いた。
 期間にすれば、ほんの数ヶ月の事。死んだ誰かも、殆どは顔も知らぬ赤の他人。
 だが、雪月桜が、生まれて初めて知った戦争は、ようやくこの日終わりを告げ――

「……っ!」

 いいや、終わっていない。その事に桜は気付き、跳ね起きるや太刀を抜いた。

「どうしました、桜」

「砲撃が来る! 叩き落とす!」

 軍勢が退いたとは言え、未だに東方五里には、防ぐ手立ての無い巨砲が鎮座している。
 次に砲弾が飛来すれば、半壊した城壁が更に崩れ、内側の民兵達を押しつぶしかねない。城壁を貫通した砲弾が地面で跳ねれば、城壁内の家屋がどれだけ倒潰するかも分からない。重傷者を動かせぬ現状、看過出来る攻撃ではないのだ。
 桜は太刀を手に、砲弾が飛来するだろう城壁東側へ走ろうとし――二歩と行かず、ウルスラに肩を掴まれた。

「不要です。対処は済んでいます」

「対処だと……?」

「はい」

 端的な物言いで、ウルスラは桜を止める。それから言葉は継ぎ足さず、負傷者の治療に当たっている、同胞達の列へと紛れ込んで行く。

「本物とは、卓越したものですね……私の思考の、遥か外に在る」

 己に言い聞かせるような独り言は、かつての、思考を不得手とするウルスラには似つかわしくないものであった。

 ――人は、育つものだ。

 桜はそう実感しつつも、やはり一番の思案ごとは、城を狙う砲の脅威であり――その直後、五里東の平地で、巨砲〝揺鬼火〟が爆煙を上げた。








 技術の粋を束ねた砲と言えど、根幹的な機構は変わらない。
 端的に言えば、爆薬が生む衝撃で、質量の大きな物体を飛ばす――それだけの事だ。だがそれだけの為に、ありとあらゆる技術を尽くし、性能の向上を図った。
 より大きな衝撃を生む爆薬を。
 より激しい衝撃に耐えうる砲身を。
 より威力が高まる砲弾の形状、材質を。
 砲弾の装填機構を改良し、命中精度を改良し、一切の妥協を許さず作り上げた、人が人であるからこそ扱えた武器である。
 その砲身から、尖頭砲弾は、五里西方の比叡山城目掛けて射出された。
 着弾までに要する時間は――日の本には馴染みの薄い表現をするならば、十数秒。
 存外に長いが、五里の距離である。
 爆音すら聞こえぬ遠く離れた箇所より、飛来した砲弾の姿を、雪月桜は、ほんの一瞬ばかり視界に収める事が出来た。

 ――ああ、無理だ。

 始め、桜は、己の刀でこの砲弾を叩き落とそうと考えていた。
 然しそのような事、決して叶わぬのだと知る。
 この超音速の砲弾の前には、己の身など刀ごと砕け散るだろう――そう、直感的に理解出来た。
 これ以降、戦に必要なものは一人の強者でなく、優れた多量の兵器となるのだろう。その流れはきっと変えられない。
 個々の人間が、武勇で名を上げる時代は、きっとこの日を以て終わったのだ――そんな感慨さえ、桜は抱いた。
 だが――砲弾を認めてから、それが己の頭上を超えて後方の城壁へ向かうまでの、時間にすれば瞬き一つの数分の一程の刹那。不思議と桜は、焦燥と無縁のままでその時を過ごし――砲弾の進路上には、突如、宙に浮かぶ大扉が出現していた。
 分厚い、金属の、両開きの扉であった。
 虚空に予兆も無く出現したそれは広く開け放たれていて、扉の向こうには、此処ではない何処かの景色が広がっている。
 床も壁も天井も真っ白な、火ではない光源に照らされた無機質な空間。
 揺鬼火が放った先頭砲弾は、過たず扉を潜り、後方の城壁ではなく、その真白の部屋を衝撃波で蹂躙する。
 だが、扉の外には、その衝撃は何も齎さなかった。
 城壁をも破砕する砲弾は、ただの扉一枚に、完全に目的を阻害されたのである。
 そして扉は、目的を遂げるやまた虚空に消え、その跡には一人の女が空中に〝佇んで〟いた。

「……よーしよしよし、計算perfect。人間よりゃ精密機器のが与し易いってもんですねぇ」

 これみよがしに赤い女であった。
 火のように赤い髪をなびかせ、赤い外套の右袖をはためかせ、地上より数間の高さに立つ女は、戦場の血生臭さを感じぬかのように、からからと高く笑っていた。
 だが女には、そういった陽気な振る舞いでも隠しきれぬ、冷淡な美しさが有った。或る種の〝真っ当でない〟人間だけが持つ、道の外にあるからこその暗い光が、赤い瞳に宿っているのだ。
 表情でたぶらかし、瞳で魅入り、舌の毒で侵す――そうしてこの女は、過去、一度は桜の前に立ち塞がった。

「や、や、どーもどーも。あの子は元気にしてます?」

「……何をしに来た、お前は」

 桜が太刀を抜いて身構えても、女は恐れる事なく、片手を上げて馴れ馴れしく近づいて行く。
 この女の名は、杉根 智江と言う。
 過去、幾人とも知れぬ人間を、生物実験に用いて殺した大悪党である。







 包囲網が解かれた比叡山城の上空には、大量の煙が巻き上がっていた。
 油と言わず木と言わず燃し、或いは湯を沸かし或いは肉を焼き、飯を作っているのだ。
 減ったとは言え、何千という単位の人間に、腹一杯食わせるだけの飯を、燃料の節約を考えずに用意する。城内の気温が上昇する程の熱気が立ち込め、腹の虫を騒がせる香りも漂い始めている。
 それを、無心にがっつく者もいた。
 涙で咽て、ろくに腹を満たせぬ者もいた。
 傷付き、未だに食事にありつけぬ者も、飯を食う前に既に死んでいた者も――多くの人間が、其処に居た。
 援軍による解放の、喜びと安堵に浸る時間――そんな些細なものが、彼等にようやく与えられたのである。
 東側の城壁は、貫通された箇所から蜘蛛の巣状に破砕し、殆ど壁としての用を為さない。西側城壁も罅が入り、何時崩れるかも分からぬという有様である。
 風を遮るものは無く、城内にはひょうひょうと甲高い音が鳴る。
 だが、寒くは無いのだ。
 風音を掻き消すように、ごうごうと、鍋を煮立たせるものより更に大きな火が、城内の何か所かで燃えている。
 油も種火も用いずに放たれた魔術の火――その中で黒い炭へと変質していくのは、城外より投げ込まれた、腐乱した亡骸であった。

「はーいはーいどんどん次持って来ちゃってー! 気温上がると面倒ですからねー、寒い内にやっちまいましょうねー」

 杉根 智江は、腐れた肉や砕けた骨が等しく灰に変わって行く様を、誰よりも間近に見ながら、その悍ましい火がただの焚火であるかのように手を翳して暖を取っていた。
 鼻と口を布で覆い、更に上半身に真新しい布を被った若者達が、撒き散らされた亡骸を、戸板に乗せて運び、火へくべて行く。すると、火は一時ばかり揺らいで弱まりもするが、直ぐに火勢を増し、内部の肉を焦がすのであった。
 腐れた肉と言えど、元は人である。十数に一つは、人の顔を辛うじて保っているものもある。
 それが焼かれ、肉が変質すると、ある顔などは口をぐわと開き、まるで叫んでいるような形相に変わった。智江はそれを指差し、変な顔と笑いさえした。人死にが生んだ惨状への怯えも畏れも、赤い髪の内側の脳髄には、一欠片たりと詰まっていないようであった。

「……弔うっちゅう考えは無いんかい」

「私には無いですねえ、そんな殊勝な思い。親と一緒に燃やしましたもの」

 風鑑――この城唯一の医者〝だった〟男が、その隣に立ち、棘のある言葉を吐いていた。
 杉根 智江もまた、医術を身に付けた者である。そう聞いた時、人の良い風鑑が真っ先に思ったのは、これで病人が救われるという事であった。
 だが、智江が真っ先に行ったのは、この亡骸の焼却処分である。
 理屈として、理解は出来る。
 どのような疫病で死んだかも分からぬ亡骸を、長らく放置する訳にはいかない。蛆が湧き、蠅になれば、蠅を媒介に病が城内へ拡大するやも知れない。だから無惨な亡骸を一所に集め、燃やし尽くす事までなら、風鑑は己を納得させられるのだ。
 許し難いのは、一つには智江の口元に浮かぶ微笑であった。
 大笑では無い。目の前の出来事に、とりたてて愉悦などは覚えていない。まるでこの城内に、不幸な出来事が何も無いかのように、智江は微笑んでいるのである。

「ところで、貴方、貴方」

「風鑑や」

「風鑑さん。燃やすのは誰かに任せておくとして、病人は何処かへ集めてるんですかね?」

「……怪我人と病人は、分けて集めてある。病人はあっちや」

 風鑑が指さした方向には、他の建物より少し遠ざけられて、急ごしらえの小屋が有る。隙間風を通さぬよう、壁を二重に立ててある、横に分厚い小屋であった。
 智江はその小屋を見ると、真っ赤な上着の懐に手を差し入れながら、足取りも軽くそちらへ歩いて行く。

「治せそうにないのは?」

「……五人」

「場合によっちゃ殺しますが、構いませんね」

 それが当然と言わんばかりに、智江は言う。
 その背を、風鑑は追わなかった。

「良いと、言う思うんか?」

「いいえ、言えないでしょうねえ。だから外様の私がぶっ殺してさしあげるってんですよ、オーケイ?」

「……ノー」

 否定の言葉を返しながら、風鑑は何もせず、智江の背を見送るばかりであった。
 事実、もう治しようのない病人や、怪我人は何人か居るのだ。
 死ぬのを長引かせる事は出来るだろうが、それもひと月かふた月か――何をするでも無く、ただ生きる為だけに生きるような者達。
 それを、生きているならと見捨てられないのが風鑑であった。
 だが同時に、死なせてやった方が良いのかも知れないと、思わないでも無かった。

「わたしゃ多分、世界一か二くらいの腕利きです。私が治せないってんなら、他の誰を連れてこようが治せないって事だ。薬も飯も、運ぶ人間も、ぜーんぶ無駄は省いて損は無い。そうでしょ?」

 風鑑は、この飄々とした口ぶりの女が、どうしても許し難かった。
 初対面で自分の腹の内まで見通して、こういう事はお前には無理だと突き付けてくる、自分より優れた人間。
 そしてまた、そんな相手が居た事を感謝する自分が、尚も許し難かった。
 智江が歩き去った方角から、風鑑は意図的に目を背け――そして、これからもまだ生き続けるだろう者達が、飯を食う様に目をやった。

「……戻って来とらんな」

 狭霧紅野が、いない。
 その右腕として傍らに立つ、狩野義濟がいない。
 老剣客、高虎眼魔がいない。
 比叡山の城中で、特に戦に長けた者達が、雪月桜を除いて、誰も戻ってきていない。
 もし、今から戦闘が始まるとなれば、この城の兵士は、まさしく烏合の衆となるだろう。
 だが――戦いは始まらない。
 城を囲む軍勢は既に後退し、城内には、最新の銃器で武装した援軍が居る。そして恐らく、その援軍は、これからも数を増し続ける。
 狭霧兵部は失権し、彼が出した悪法は全て効力を失うだろう。その過程でもう一度か二度、戦が起こるかも知れないが――それはもう、風鑑の関与する所ではない。
 風鑑は、町人と同じ視線の高さで生きる男だ。
 親しき隣人達が迫害され、命を奪われる――それが見過ごせず、比叡の軍勢に加わった。
 だが、もう町人達が、無法によって害される事は無い。
 城壁の内に籠り、戦の影に怯える事も無ければ、城中の兵糧が何時尽きるかと、日夜思い煩う事も無い。
 そういう事は全て、誰かに任せて良い。ただの、誰かに死んで欲しくないだけの臆病な医者が、引き受ける事では無くなったのだ。

「僕はやっと、用済みか……」

 風鑑の――いや。特別なものが何もない、一介の町人達にとっての戦が終わった。
 そう思った瞬間、嗚咽が込み上げるのを抑えられなくなり、風鑑はぼろぼろと涙を零しながら、雪に手を付いて咽び泣いた。失った友人や、未だに戻らぬ友人の事よりも――安堵に、ただ、ただ泣いた。
 泣いて、泣いて、泣き尽くして。何時しか風鑑の顔には、数十年を一夜に越えたかとばかりの皺が、深く刻み込まれていた。








「一つ開いては我の為ー、二つ開いては誰の為ー、っとくらぁ」

 治らぬと見切りを付けるのは、杉根智江には難しい事では無かった。
 風鑑が言ったように、確かに五人、後は死を待つばかりの病人が居た。それを運び出し、物陰で一人一人、腹を裂いては中身を弄り回し、智江は調子っ外れの歌を口ずさんでいた。
 隻腕ながら、刃物の扱いに淀みは無い。
 人体の、ぶ厚い肉も骨も、易々と斬り外して――その合間に、別な〝部品〟を継ぎ足して行く。人の体に備わっている筈も無い、頑強な爪やら、鋼のように強靭な体毛やらを、智江は病人の体に癒合させているのだ。

「……何をしに来たと、先も聞いたが」

「ええ、聞かれましたねぇ。答えとしちゃあ『助けに来た』ってとこでしょうか」

「その術が、それか」

 灰汁を飲み干した直後のような低い声で、桜は言った。
 智江が何を作ろうとしているか、桜には見当が付く。
 獣の体と人間の体をつぎはぎにした『人工亜人』――膂力は獣に等しく、人の頭部を腕の一振りで叩き落とす。然し顎は弱く、消化器官も人間のそれと然程変わらぬ為、生肉を受け付けず、飼育下に無ければ確実に飢え死にする〝できそこない〟である。
 体躯と筋力の割に体重が軽く、また四肢の長さも人に比べて長い為、慣れぬ内は桜も手古摺る程の化け物――そういうものを、智江は〝五つ〟ばかり作ろうとしていた。

「何か、問題でもあるんですかねぇ」

「私が気に入らんと言ったら?」

 歪な生き物である。
 何かを殺し、そして飢えて死ぬ為だけに作られた化け物――しかもその材料には、生きた人間を使うのだ。そして桜と村雨は、〝そんなもの〟に幾度か苦しめられた。
 許し難い、とは言わない。そのような、正義感に満ちた言葉では無く、桜は気に入らぬとだけ言って太刀を抜く。
 桜は、智江の首筋に、太刀の刃を触れさせた。戦場から舞い戻り拭わぬままの刀身には、幾多の兵士の血が、べっとりとこびり付いている。
 その刃を、智江が右腕で押し下げた。前腕の中程から先の無い、袖が垂れ下がった腕である。

「貴女、狭霧兵部和敬って人間を知ってます?」

 左手は変わらず、刃物で病人を切り刻みながら、常より声の調子を落として智江は問うた。

「どういう意味で、だ」

「顔を知ってるかだの、名前を知ってるかだのじゃあなくってですね、あれがどういう人間かを知ってるかってえ質問です。もっと言うなら、どんだけ頭がおかしくて、どんだけ性格が悪いか――一どんだけのタマかって事ですかねぇ」

 そして智江は、背後を振り向こうともしないままに語る。
 冬の初めの、牢暮らしが少し堪えるようになった頃の事であるという。
 杉根智江は牢獄の中、格子越しに魔術や医術の講義を行いながら、日の当たらぬ日々を過ごしていた。
 学びに来るのは、政府に特に認められた優秀な若者。身分、才覚に加え、口の堅い事を条件として選ばれている。最新鋭の学問を、政府は民衆の物とせず、自分達の特権として手に入れたいという事であるらしい。
 実際の所、学問を身に付けた若者達が、数十年も口を噤み続ける事も無いだろう。何時か必ず、その知は広められるのだろうが――そういう事は、智江の関心事では無かった。
 ただ、自分ともう一人が生き延び、自由を手に出来る事――と、叶うなら面白おかしく生物実験に没頭して生きる事。それだけを思って、時間の流れも良く分からぬ地下で暮らしていた、ある日の事である。

「おい、俺を手伝え」

 その男は、格子の前にどっかと腰を下ろすと、暴君そのものの口振りでそう言った。
 日の本の人間にしては背が高く、中年に差しかかってはいるが、老いは体に浮かんでいない。智江が見るに、見事な健康体である。
 然し、精神はどうにも、壊れているように見える。
 人の内面は顔に滲み出るものだが、智江の目にその男は、狂人以外の何者でも無いように見えたのだ。
 それが、狭霧兵部和敬であった。

「手伝わせたいなら、まず此処を出しちゃあくれませんかねぇ。生憎と牢の中じゃあ、低い天井と近くの壁しか見えませんで――」

「黙れ、毛唐」

 格子の中へと無造作に腕を突っ込み、狭霧兵部は智江の胸倉を掴んだ。
 看守達や、時折訪れる役人ならば、決してそのような事はしない。噛み付きはしないと分かっていたとて、誰が獣の口に、好き好んで手を押し込むだろうか。
 外側の人間を守る為の格子をまるで眼中に入れず、狭霧兵部は言った。

「女を一人、殺す手助けをしろ。一人で千の兵に相当する、馬鹿力が自慢の女だ」

「……そーいう知り合いがいないでも無いですが、またそりゃ無茶な事を仰る。それが出来てたら、わたしゃ此処に居ませんっての」

 智江には、誰の話題であるか、直ぐに見当が付いた。
 わざわざ自分のような囚人に会いに来た事と、狭霧兵部の口振り――雪月桜という大怪物の話題であろうと。
 智江自身、自分一人で数百の兵士程度なら、手玉に取れる自信は有る。だが、一個の生物がああも強大であるというのは、明晰な頭脳を以てしてもまるで予想の及ばぬ所であった。だから、命を取られる代わりに頭を下げ、囚人となって生き長らえたのだ。

「そんな事は分かっている。誰が〝捕える手伝いをしろ〟と言った?」

 その経歴を、狭霧兵部もまた、熟知しているようであった。

「それは俺の愉しみだ。どうやって周辺から堀を埋めて、飢えと乾きと病と絶望で弱らせ、抗えぬ物量で押し潰し捕えるかまでは、それは俺が計画すべき娯楽だぞ。誰がお前にくれてやるか!
 俺が言っているのはだ、そうやって仕入れた玩具を、最後にどう壊すのが面白いか考えろという事だ」

 そして狭霧兵部は、牢の格子を無頓着に開くと、付き従えていた側近に命令する。
 鉄兜を被った側近は、荷物を肩に担いでいた。牢の中に投げ入れると、それは苦痛に呻き声を上げ、それから直ぐに立ち上がって逃げ出そうとし――狭霧兵部の目に射竦められ、頭を抱えて壁際にしゃがみ込んだ。
 何処かで適当に捕まえてきたのだろう、少女であった。

「……なんです、これ。お土産? 食べませんよわたしゃ」

「だろうな。だが料理はしてもらう――それの腹を裂け」

 脈絡の無い、言葉であった。

「……なんと?」

「その餓鬼の腹を裂き、臓腑を一つ一つ検めろ。その間、何処まで死なずに持ちこたえるかをな、まず試しておきたいのだ。
 実際に黒八咫を捉えて、さて楽しもうと刃を突き立て、あっさり死なれてはたまらぬだろう? お前のような医者がいれば、人間は何処まで生き長らえるかという事を、是非とも俺はこの目で見てみたいのだ」

 からり、と投げ渡された短刀は、錆びて欠け、切れ味も鈍った、人もろくに殺せぬような刃物であった。それを智江が拾い上げると、狭霧兵部はにたりと笑って、牢の格子の扉を閉じる。

「そら、始めろ。どれだけ時間が掛かっても構わん、どうせ仕事は此処でも、誰の血を浴びながらでも出来る」

 顔色一つ変えず、智江は語り終えた。
 自分が狭霧兵部に従い、罪も無い子供を一人、解体して見世物にした事まで、つぶさにである。
 それを聞く桜は、刀の柄を掴みぎぃぎぃと軋ませ、今にも斬りかからんばかりの形相であった。

「狂人ってのはね、普通はさっさと死ぬもんです。自殺するか、殺されるか、野垂れ死にするか。権力者になってから狂うってんなら兎も角、あんな風に最初っから狂ってる人間が上り詰めちまったってえのは、本当に異常事態だ。
 あんな人間が、世界に通じる兵器を持ってごらんなさいな。生きた心地がしないなんてもんじゃない、本当に何時死ぬか分かりゃあしない。権力争いに混ざるつもりはありませんでしたが、あれが生きてる間、わたしゃ安心して眠ってられないと思いましてねえ」

 だが、桜とて修羅場を抜けて来た人間である。智江の言葉が本心から――それも、相当の警戒心と共に発せられていると見抜いている。
 どうしても共存できない生物というものはあるが、智江はどうにも、狭霧兵部をそういう天敵と見なしている様子であった。

「……だから、そういう手を使うのか」

「勿論。生き残る為と言うんなら、使えるものは何でも使いましょうともさ」

 顎で切り刻まれる病人を差し、揶揄するように言えば、力の籠った答えが帰る。

「貴女のせいで、わたしゃ死ねない理由を見つけちまいましたからねぇ。どんな手を使おうが、必ず生き延びてやる。その為なら赤の他人の命の百や千や万、切り捨てられるのが私ですし……貴女もそういう人間でしょう?」

「ふむ」

 憮然としながらも、桜は一つ頷いた。
 中指で右瞼をかりかりと掻きつつ、智江から離れて、この場を立ち去ろうとする。
 勝てぬ相手では無いが、桜は、この赤備えの女が苦手であった。下手に追い詰めれば、何もかもを投げ捨てて自分を殺しに来るだろう相手――かつその牙は恐らく、自分を半殺しにするには足るだろう力も有る。
 敵対せぬなら、それで良い。そう思い、触れずに置こうと背を向けた――その時、であった。

「ところで、桜さん、桜さん」

「なんだ?」

 振り向かぬまま応じた桜に、智江は、冷やかすような笑みを向けて、

「恋人さんから、お手紙を預かってます」

 桜は雪を蹴立てて、再び振り返った。








 話は数日前、狭霧兵部が部下を集め、比叡攻めを宣言した日の夕方にまで遡る。
 春が近づき、少しばかり日が長くはなったものの、やはりまだ日没は早く、そして影の伸びは早い。
 背の高い建物が増えた洛中の市街地は、何かが身を隠すには、極めて適した場所であった。
 例えば、獣。
 人の目を逃れて、影から影へ移るように歩けば、明らかに異質な姿であろうと、人の街の中を生きられる。
 そういう具合にこそこそと、洛中の街並みを進んで行く群れがあった。

「……整列!」

 先頭に立つのは、村雨であった。
 ここ最近身に付けている赤羽織姿では無く、旅をしている時のような、色気の無い西洋風の衣服である。
 そしてまた、後方に付き従う群れも――亜人ばかりで構成された村雨の部下もまた、色味に乏しい衣服で揃っている。
 彼らは、群れの長の号令に従い、横一列に並んだ。踵を合わせ、手を背の後ろに組み、熟練の兵士の如き顔である。

「お嬢、夜討ちですかい」

「……その呼び名は止めて欲しいんだけどなー」

 小隊の面々は、自分達が何をすれば良いかは、既に知っていると見えた。そしてまた村雨も、引き攣った笑みのままで頷き、肯定した。
 その横に、ルドヴィカ・シュルツが立つ。村雨の副官のような位置にある彼女は、この日は、顔全体にどんよりと沈んだ雰囲気を漂わせていた。

「……何か有ったんですか?」

「ええ、すっごく嫌な事がありまーす。こいつの命令を良く聞いて、みんなも私とこの気分を共有しましょーう」

 部下達の一人が訊ねれば、ルドヴィカは何処か遠くへ視線を飛ばし、乾いた笑い声と共に応じる。それと共に、村雨の笑みも増々強張って――まだ何も言わぬというに、場には異様な緊張感が漂い始めた。

「えー、まず皆に言っておくと、三日後は戦だって。いつもの、比叡攻め」

 姿勢は変えぬまま、部下達は各々、表情で怪訝さを表明した。
 比叡攻めは朔の夜に行われ、それは四日後の筈だ。一晩早く、どうして動くと言うのか、と。
 だが、誰も言葉を差し挟む事は無く、村雨もまた言葉を続ける。

「ちょっと、今回は危ない臭いがする。……つまり、何もしなかったら、本当に比叡は落ちるんじゃないかって。兵部卿の側に居るなら嬉しい事かも知れないけど――知っての通り、私はそうじゃないからね」

 村雨は、部下を集めるに当たって、明確に自分の立場を伝えていた。つまり、この戦を止める為ならば、政府側に反旗を翻す事もやぶさかではない、という立場をである。
 元より、外れ者として扱われてきた亜人達からすれば、上役がそういう考えであろうと、さして問題は無い。従うべきは権力でなく、単純な〝力〟である。
 部下達の目が、誰も異論を唱えていないと見て――村雨は、小さく身震いした。

「これから私達は、とっても危ない事をします。上手く行っても行かなくても、多分、うん、歴史書とかに私達の名前が残ったりするんじゃないかと思う。
 成功したら……国の英雄とか? 失敗したら、とんでもない悪人って事で、何百年も有名になれる。……いや、成功して残したいけどね、こればっかりは」

「危ない事……何処を襲うんで?」

 既に部下達の何名か、血の気の多い連中は、目をぎらつかせ始めている。この所、人助けばかりの善人めいた過ごし方をしていた彼等は、たんと血潮を滾らせているのである。

「うん、ちょっとあそこをね」

 それに応える村雨は――身震いを、更に大きくしていた。
 傍から見て、はっきりと〝震えている〟と分かる程に膝を震わせながら、少し遠くにある、大きくまた歴史も深く、決して侵してはならぬ神聖な建築物を指差した。
 部下達は、村雨の指を追って、その建物を見て――その指は何か別の建物を示しており、自分が勘違いをしているだけだろうと、幾度か目を擦る。そして気付くが、その方角に、それ以外に該当しそうな何かは存在しないのである。

「あそこの一番偉い人を誘拐します」

 血相を変えた部下達の、十数個の口が別々に、やめましょう、と提案する。
 その全てを村雨は、引き攣った笑いのまま、やだ、と却下した。