烏が鳴くから
帰りましょ

少し昔のお話

 二条の城は、官兵と『錆釘』の構成員からなる二千の兵に包囲されながら、恐れを微塵も漏らさず其処に在る。
 城壁に吊るされた屍――どの部位であるかが分かる程度に解体された肉と骨の塊は、まるで畑の鳥避けのように、周囲の兵が近づく意思を削ぐ。
 血臭が充満する二条城は、正に魔城として人界に降臨していた。
 その一室の畳の上で、冴威牙は布団も敷かぬまま、悪夢の中を彷徨っていた。
 彼は幼き姿で歩いている。
 周りには何時も、彼を恐れ忌む、誰かの目が有る。








 幼い子供の世界は、少しばかり獣に近い。
 其処には、力を一つの正義とする理が存在する。
 力が強い、体が大きい、足が速い――知恵や容貌では無い、単純な資質の優劣。それが彼等の中で、上下を定める理由となる。
 そして当然の事だが、子供は成長するにつれ体が大きくなり、それに伴って身体能力が向上する。
 つまり、群れの中で最も強い者とは、最年長の者である可能性が高いのだ。
 そういう道理に当てはまらないのが、冴威牙であった。
 天性の素質を言うのならば、彼は際立って優秀な子供だった。
 六つの頃には、五つ年上の子供と喧嘩し、泣いて詫びを入れさせた。
 足を競えば大人ばかりか、下手をすれば犬猫にも追い付く韋駄天であった。
 十を超えた頃から背がぐんと伸び、体格でも誰にも見劣りしなくなった。
 そして何より、彼は際立って闘争心が強く、誰かと競うとなれば、決して負けたままには済まさぬ性質であった。
 ある時――冴威牙が、十二歳の頃。少し離れた街から、傾奇者を気取った若い男が、数人の手下を引き連れてやって来た事が有る。
 喧嘩が強いと評判になっていた冴威牙を叩き伏せ、名を上げようとしたのだが――この若者、そういう策略に走らずとも、十分に腕の立つ男であった。
 刀、槍、弓と武器術に長け、喧嘩の折は相手を殺さぬよう、五尺ばかりの棒を得物とする。この男に因縁を付けられ、冴威牙は二つ返事で喧嘩を買った――と次の瞬間、男の手下が冴威牙の背後から、石で頭を殴りつけたのである。
 ふらついた所を、足を払われれば、それまでだった。亀のように丸まりながら、踏みつけられ、蹴られ、意識を失うまで散々に嬲られ――助けに入る誰も居らず、丸一日、その場に捨て置かれた。
 並みの悪童であれば、これで萎縮し、こそこそと生きるようになったのやも知れない。だが、冴威牙の天性は、彼に屈したままで居る事を許さなかった。
 冴威牙は幾日も、その傾奇者を着け回した。彼が日中には何処を歩き、夜には何処で眠るのか。風呂にはどういう恰好で入り、手の得物は何処に置くのか。じっくりと観察し、機を待った。
 そしてとうとう、傾奇者が酒に酔って寝入った時、その家に押し入り、喉笛を食い千切ったのである。
 役人は傷口を見て、傾奇者は狂犬に食い殺されたのだと判断したが、それは当たらずと言えど遠からず――冴威牙という犬以上の狂気を備えた猟犬が噛み殺したのだから――であった。
 十五になって、背が伸びるのは止まったが、代わりに骨が太くなった。
 四肢は鋼の如く、耳鼻は増々鋭くなり、敢えて敵する者も無く――気付けば冴威牙の周りには、何十人という、既存の道徳を嫌う少年が集まっていた。








 白河の関よりは、西の方。海まで行かないくらいの場所に、小高い山が連なる所が有って、小さな町や村が転々としている。
 その中の一つ、一番人の少ない村に隣接した森が、彼等のねぐらであった。
 この森からは材木を取らないのだろう、木々は何れも高く、枝も各々の思うように伸びている。
 絡み合った枝がたっぷりと葉を付けて、空に緑の傘を掲げたように、日差しを半ば遮っている。
 だから昼でも薄暗いし、夏でも涼しい――秋にもなれば、もう肌寒い。代わりに、川は決して干上がる事無く、全てが凍り付く冬になるまで、森の命に潤いを与える。
 では、冬に獣達はどうして過ごすのか。
 川の流れを辿り南へ進めば、そこには湖がある。
 東西を小高い山に挟まれた低地に、満面湛えられた水は、冬だろうと薄氷一枚砕けば、望むままに喉を潤してくれる。
 そういう所に、彼等は小さな城を立てていた。
 城と言っても、壁が有り、屋根が有るだけの大きな小屋だが、そこには城主の間が有り、家臣が並ぶ大広間も有り、寝所も有る――そう名付けられて、仕切が施された部屋が有る。
 何の事は無い、無邪気な幼子の遊びの延長線上に、彼等の〝城〟は有った。
 そして〝城〟の中では今日も、彼等の〝主従ごっこ〟が行われているのであった。

「お頭、お頭」

「おい、山賊みてぇな呼び方すんな」

「へぇ……それじゃなんて呼べば良いんです?」

「名前で良いだろがよ」

 巨大な掘立小屋の最奥に、何処からかっぱらったか座布団を積み上げ、冴威牙は胡坐を組んでいた。
 その周囲には、二十人か三十人かの若者が、めいめい勝手な所に腰掛け、雑談に興じている。
 殆どが、冴威牙と同じ、十五歳前後の少年だ。
 年長の者でも二十にはならぬだろうし、年若でも十は超えている。冴威牙に親しげに話しかけている少年も、きっと十二かそこらだろう。
 少年の目の輝きには、自分より優れた存在に対する、童心よりの敬意が見える。子供の理に照らせば、強者即ち正義であるのだから、冴威牙は年若の少年達には良く懐かれた。
 尤も――少年達は、物を知った大人に反抗したがる年齢というのも、理由の一つであろう。反抗する根拠として、強者たる冴威牙は、寄る辺とし易い存在でも在った。

「こらっ、なお坊」

 が――人が集まれば、その中に順列が出来るのも、当然の事である。
 少年の頭を小突きながら、冴威牙にしなだれかかるよう座った女なぞは、その順列の上の方に居た。

「いてっ! 何すんだい姉ちゃん!」

「あんたは何度言えば分かるんだい、冴威牙は山賊じゃない、あたし達の城主様なんだよ」

「城主ってなんだい、こんな隙間風だらけのお城が有るかい!」

「なお坊!」

 余計な口を叩いたなお坊をもう一度小突いて、女は冴威牙の腕に、自分の腕を絡める。
 それは、熊が爪で木を削るのと良く似た行為であると、その場に居る誰もが知っていた。
 だから女が着座すると、周囲の者も自然と座る箇所を整えて、互いの領分を侵略しないように努めるのであった。
 忽ち〝城内〟には、秩序だった席順が生まれた。

「よおし、夕霧よぅ。今日は何処で何をすっかなぁ」

「そうさねぇ、またちょいと町にでも下りて――」

 夕霧――それが、女の名前である。
 蓮っ葉な口調に似合いの、きつめの顔をしてはいるが、近隣の村を併せても一番の美人と、村の若者が良く恋慕に身を焦がしている相手であった。
 然し当人は、平々凡々な男達にまるで興味を持たず、素行不良の冴威牙のような、つまり逸れ者に惹かれる性質であった。
 この〝城〟に、他に女は居ない。だが、冴威牙の女であるという事を、この場に居る誰もが知っている。
 迂闊に手を出して、冴威牙に酷い目に遭わされるのも御免だと言う事で、何時の間にか女房面をして、周囲に命令するようになったのが、夕霧という女であった。
 夕霧はこの日、何か欲しいものでも有ったのか、町へ降りてどうしたいという事を延々と喋っていた。やれ何処の店を覗きたいだ、やれあっちの店は品揃えが悪いだ、取り留めも無く言っていたが――

「……煩え、黙れ」

「だま――あんたそりゃ言い方が酷いんじゃ」

 冴威牙がその口を手で塞ぎ、長話を無理に止めた。
 抗議の声も手で籠らせたままで、冴威牙は〝城〟の玄関口の方を見た。すると、冴威牙の目が向いてから暫し遅れて、ふらふらとよろめきながら入って来る者が在ったのだ。

「おい、どうした!」

 顔を真っ黒に腫らしていたが、臭いは間違いなく、冴威牙の子分の一人であった。








 冴威牙は直ぐ、子分の中でも腕が立つのを四人ばかりと、それから夕霧を連れて飛び出した。
 顔を腫らした子分が言う事には、どうやら町を歩いていた所、がらの悪い男達と揉め事になったのだと言う。
 此方は五人で連れだっていたが、相手は倍の十人。図体もデカい、喧嘩にも慣れていると、まるで敵わなかったらしいのだ。
 どうにか一人で逃げて来たが、残り四人は捕まって、どうなっているか分からない――と、それだけ聞けば冴威牙には十分であった。
 冴威牙には、自分なりの道理があった。自分の強さを信じて集まった者を裏切ってはならぬ、という事だ。
 だから、自分以外に連れ出した面々も、実際は荒事を期待して率いている訳では無い。
 証人として、彼等の目が欲しかっただけなのだ。
 さて――町に着いた冴威牙は、真っ直ぐに町の真ん中の方にある茶屋を目指した。
 自分達が屯するのに良く使う場所なのだが、子分の話を聞くに、そこでがらの悪い男達が、場所を譲れと文句を付けて来たらしい。果たして其処には、これ見よがしに山刀を腰に吊るした男達が十人も、品の無い大声を上げて群れていた。

「どうだ、そろそろ戻るか? 土産も出来たしよう」

「馬鹿言え、男の餓鬼なんか土産にもなんねぇよ。着物も薄汚えし、剥いでも銭にならねぇな」

「違いねぇ。じゃあどうだ、馬に繋いで引いてくってのは」

「見せしめか」

 その提案が、彼等には余程愉快なものであったのか、十人が十人とも、腹を抱えて大笑いをしている。
 どうやら男達の話題は、喧嘩に負けて捕まった、冴威牙の子分達の事であるらしい。
 その四人は、それぞれ縄で括られて、茶屋の床に転がされている。
 腕だけを背中で縛られているので、立って逃げる事は出来るのだろうが、散々殴られたと見えて、その気力も残ってはいないらしい。
 時々は男達の一人が、縛られている彼等を、足で蹴り転がしたり椅子にしたり、好き放題に嬲っていた。
 其処へ冴威牙、野次馬を押しのけて、ものも言わず真っ直ぐ向かって行った。

「おっ……なんだお前、こら」

 男達の中から二人が、近づくなと警告するように、冴威牙の正面に立った――と見た瞬間、その二人は何れも、地面になぎ倒されていた。
 冴威牙の右足が地面を蹴って跳ね上がり、まず一人の側頭部を強かに蹴り飛ばした後、地面に降ろされぬままで軌道を変え、もう一人の顎を蹴り上げたのである。
 硬い靴で放った蹴りは、人が人を打ったものとは思えぬ異音を残した。まず、顎は砕けただろうと見えた。

「なっ――」

 機先を制され、男達がどよめく。この時既に、勝負は決まっていた。

「何しやがった、てめぇらァッ!!」

 茶屋の障子をびりびりと震わす程の大喝を発し、冴威牙はまた手近の一人に飛びかかっていた。
 武器は持たない、徒手空拳である。
 だが、冴威牙の振るう拳一つ、蹴り一つで、男達は一人一人、顎や肋を叩き割られて倒れて行く。
 山刀を抜いた者も居たが、振るう前に腹へ爪先が撃ち込まれ、内臓をやられたか、反吐と血を同時に吐き散らした。
 十人居た男達は、誰一人として冴威牙に傷を付ける事も無く、皆一撃の元に叩き伏せられたのである。

「おい、大丈夫かお前ら! ……助けてやれ!」

「へいっ!」

 連れて来た子分達が、縄を掛けられた仲間を助け出す。冴威牙はその様を横目に見ながら、自分が叩き伏せた男達の中で、比較的軽症の者を見つけ、胸倉を掴んで引きずり起こした。

「おいっ! 良くも俺の子分共を痛めつけてくれたな、何処のもんだ!?」

「……ふん」

 引き起こした男は、そっぽを向いて口を閉ざす。意地を通して見せようという腹積もりらしい。
 だが、冴威牙はそれを許す程に生易しくない。片手を思い切り振り翳すと、金槌で打つように拳を振りおろし、その男の鼻をぶん殴った。

「ごうっ!?」

「俺はな、てめぇが何処のどいつだって聞いてんだよ! あぁ!?」

 答えを待たず、もう一撃――次は頬へ拳がめり込む。折れた歯が口内を傷つけたと見えて、男の口からだらだらと、真新しい血が零れ落ちた。
 それでも飽き足りぬのか、また拳を固めて振り翳し――其処で男の方が、もう耐えられなくなったらしい。

「わ、分かった、分かった――堪忍してくれっ、頼む! 熊越くまごえ 斬波ざんぱの身内のもんだよっ!」

 と、自分の大将の名前を白状した。
 すると、冴威牙の周りに居た子分達、特に夕霧の顔色が、すうっと色が抜けたように白くなる。

「ほー、薙刀斬波の子分か」

「そっ、そうだっ! 分かったんなら、今日の所は見逃してやる、さっさと失せやがれっ!」

 熊越 斬波は、近隣の山賊の頭である。
 冴威牙達が拠点とする森の、直ぐ南に湖があるが、その湖の西側にある山をねぐらとしている。
 この一帯は、幕府や政府の目が届き難い所なので、良く罪人が落ち延びて来るのだが、それを取り込んで百人ばかりの群れに膨れ上がった、大山賊団の長である。
 刃渡り三尺の大刀を打ち直し、一丈の柄を取り付けた、大薙刀を得手としているので、そのまま〝薙刀斬波〟と呼ばれている、一廉の悪党であった。

「お頭、拙いですよ……! 薙刀斬波と言ったら、西国で村一つ焼き潰して、追手も皆殺しにして落ち延びて来たって噂の恐ろしい奴っすよ! 喧嘩を売るにゃあ、あんまりに――」

「そ、そうだよ! さっさとそいつを放してやって、あたしらも帰ろうよう!」

 怖いもの無しの悪童どもとて、本物の無法者を敵に回したくは無いのだ。尾を腹に巻いた犬のように怯えて、早くこの場を去りたいと望んだ。

「……ふぅん」

 だが――怯えた犬の中に在って、一頭、天性の猟犬は、牙を収める術を持たなかった。
 冴威牙は、脅した男を一度投げ捨てると、自分が殴り倒した連中に近づき――高く、右足を振り上げ、振り下ろす。
 未だ昏倒している男達の首を、思い切り踏みつけて行ったのだ。
 ごきぃっ、と鈍い音が、男達の首から鳴る。一人、また一人、冴威牙が足を振り下ろす度、首がおかしな角度に曲がった死体が一つ、出来上がった。

「さ、冴威牙っ!?」

「びびんな、夕霧。要するに、あれだろ? 誰も告げ口出来なきゃ良いんだろ?」

 九人を次々に踏み殺した冴威牙は、先程投げ捨てた一人をまた、後ろ襟を掴んで引きずり上げると、

「よーし、んじゃあ連れてって貰うかなぁ」

「連れて、は……?」

 何を言われたか分からぬという顔の男の、横っ面をまた引っ叩いて冴威牙は言った。

「薙刀斬波がまさか、盗品を一か所に隠してるなんざ思ってねえんだよ。この辺りにも有るんだろ、隠し場所がよ? ……この辺りにゃ女郎屋もねぇのに、てめぇの体から女の臭いがするしなぁ……?」

 子分を手酷く痛めつけられた分は、金銭で贖わせようと――それが、冴威牙の思惑であった。
 僅かの間に顔が随分と変形した男を案内役とし、冴威牙とその子分達は、町を出て、そこから一里ばかり離れた森へ向かったのであった。








 それから、一刻ばかり過ぎた後の事である。
 路上に転がされた屍は、誰が手を触れる事も無く、そのままに放置されていた。
 役人さえが、屍に触れるどころか、近づこうともしない。寧ろ足の速い者を使わして、誰かを呼びに行かせていた。
 そして、その〝誰か〟が現れて初めて、山賊の屍を丁重に運び、弔いの用意を始めたのである。

「……どういう訳だ、こりゃあ」

 酒焼けした低い声でそう呟いたのは、身の丈が七尺近くもあろうかという大男であった。
 口の周りにも顎にも、頬まで大量の髭を蓄え、筋骨逞しい体に熊の毛皮を纏い、恐ろしさも際立つ異相である。
 然し一際目を惹くのは、彼が肩に担いだ巨大な薙刀――彼こそが薙刀斬波、熊越 斬波であった。
 その彼は、怒りに体を震わせていた。
 仲間が殺された事――では、ない。
 己の面子が傷つけられた事に、熊越斬波は、激しい怒りを覚えていたのだ。
 彼は非情であり、仲間の死自体はなんら悲しむべき事と感じないのだが、自分の権威下に属する存在が害された事は、即ち自分への挑戦だと受け取ったのである。
 斬波は、店の奥に引っ込んでいた茶屋の店主を捕まえ、まずは路上にまで引きずり出す。顔面蒼白の店主であるが、それで加減する斬波では無かった。

「おい! 俺がこの薙刀を振り回す前に、これをやった奴の名を教えやがれ!」

 家の大黒柱も揺らすような大声で凄まれては、茶屋の店主も平静では居られない――上に、冴威牙に義理立てする理由も無い。二度脅すまでも無く、店主はぺらぺらと、この惨状の下手人を告げ口した。
 六尺を超える長身、筋骨は逞しいがまだ少年の面影を残したかんばせ、獣の革を膠で固めた靴――そこまで聞けば、斬波にも犯人の検討が付く。

「〝犬〟の冴威牙か……餓鬼が、舐めやがって」

 斬波が悪名を轟かせているのと同様、彼には劣るものの、冴威牙の名とて近隣では知れ渡っているのである。
 然しこの時、冴威牙が何処をねぐらにしているか、知る者は少なかった。徒党を組んで町を練り歩きはすれど、強盗を仕出かす訳でも無く、もっぱら他の悪党と喧嘩に興じる程度であるので、役人も捕縛の算段を整えていなかったのだ。
 だが、それで刀を収める薙刀斬波では無い。役人も町人も、まるで自分の手下であるかのように怒鳴り付け、命令する。

「冴威牙の野郎のねぐらを探せ! 俺があの犬っころの首を叩き落としてやらぁ!」

 敵対した者は、死ぬまで決して許さない――猟犬の如き性質というなら、熊越斬波も、人に劣らず凶暴であった。








 餅は餅屋と言うべきか、盗人は盗人への警戒を怠らないものであるらしい。熊越斬波の一党は、ねぐらとする山ばかりでなく、少し離れた何か所かに、盗品を分散して隠しているという。
 子分を襲った十人の内、たった一人生かして残した男を脅し、吐かせた所に寄れば、確かに冴威牙の読み通り、町からそう遠くない所にも隠し場所が有るとの事であった。
 どうやらそこは、遠出をする際の拠点として寝泊りする為に、簡素な小屋となっている。その床下に、盗品の内の幾らか――町に近いので、直ぐに使えるような金銭も含め――が、隠してあるというのだ。
 壁も薄く、内側の喧騒が漏れ聞こえるような造りだが、森の中の事、聞き咎めるものもなく、獣も好んで近寄らない。この日も小屋の内からは、酒に酔った男の声が喧しく聞こえていた。
 冴威牙はそこへ、窓から飛び込んだ。
 小屋には五人ばかりが居たが、最初に蹴り倒した一人を除き、悉くを踏み殺して、忽ちに制圧してしまったのである。
 残酷な事この上も無いが、冴威牙には特有の、子供のそれともまた違う残酷さが生来備わっていた。もしかするとそれは、狩人としては天性の素質であったのだろうが、無頼を気取って背伸びをするのがせいぜいの子分連中には、空恐ろしく映るばかりでもあった。

「ほうら、どうって事ねぇ」

 冴威牙はそううそぶいて、小屋の中に無造作に置かれていた、舶来の装飾品を手に掴んでいた。
 大陸ではさして高級品でもないが、きらびやかな首飾りやら、指輪やら、とにかく光る金属である。財貨の光は常に人の心を惑わせるものだが、冴威牙も例に漏れず、手の中の輝きを楽しんでいた。
 だが、引き連れてきた面々はそうではない。むしろ暗い顔をして俯いているので、

「どうしたてめぇら、別に独り占めしようって訳じゃねえんだ、好きに取れよ」

 と、手に持っている幾つかをぐいと突き出した。
 然し素直に受け取る者はおらず、それで冴威牙の表情に不機嫌なものが混ざると、夕霧が、冴威牙と他の面々の間に割り入って、

「……あんた、とんでもない事をしたよ」

 酷く怯えた、犬にでも例えるなら尾を腹に巻き込んで前足を畳んだような顔で言うのだった。

「あぁ? なんだ、先に手ぇ出して来たのはこいつらだしなぁ。それに今更、人死に程度でビビってるような女じゃねえだろ?」

「そんな事じゃあないよ! ……よりによってあんた、熊越斬波の仲間を殺っちまうなんて……!」

「熊だか猪だか知らねえが、そんなもん、捕まえて鍋で煮て喰えばいいじゃねえか。怖がるな、怖がるな」

「あんたはまるで分かっちゃいない! あっちは本物だよ、本物の悪党だ! あんたがぞろぞろ連れ回してる、悪童に毛が生えた程度の半端者とは訳が違――」

 夕霧は切々と訴えたのだが、そこで言葉が途切れる。冴威牙が大きな手で、夕霧の口を塞ぐように顔を掴んだのである。

「うるせぇ、静かにしろ」

 たった今、何人も無感動に殺したばかりの男が凄めば、ワルとは言えどうら若い女の事、震え上がるばかりである。声も出せぬまま涙目になり、かくかくと幾度も頷いた。
 それを冴威牙は見ていなかった。
 鼻をひくつかせ、何か臭いを追って――にぃ、と笑うのである。

「逃げられるじゃねぇかよう、なあ?」

 誰か、小屋の外へ出ていた者が居たらしい。それが戻って来るのを、鋭敏な鼻で嗅ぎ付けたのである。
 動くなとだけ言い残し、冴威牙は小屋の外へ出ると、少し離れた茂みに潜り込んだ。
 茂みの中より見ていると、やがて男が一人、酔いも醒めぬ赤ら顔の千鳥足で戻って来た。
 川で水浴びでもしてきたのか、髪が水に濡れており、衣服の帯の結び目も乱雑である。
 だが、冴威牙はその男の、そういう仔細な部分を全く見ていなかった。
 冴威牙の目は、男が引きずるように連れ歩いている少女に向いていたのである。
 こちらも水浴びの後か――いや、水を浴びせられた後と見える。髪ばかりでなく、纏う衣までびっしょりと濡れている。
 ほつれや、強く引いて破れたと見える箇所があちこちに有り、布の質も合わせ、それ一枚で外を歩くような衣服には見えないが、少女はそんなものを着せられて腕を引かれている。
 顔に、真新しい痣が有る。
 時折袖が捲れ上がって見える腕にも、指の形や縄の形に痣が残っている。
 少なくともその女は、望んで男に従っているようには見えなかった。
 然し何より冴威牙の目を釘付けにした奇異は、少女の背。衣が大きくくり抜かれて、そこから一対の、白鳥とも紛う大きな翼が突き出しているのである。
 折り畳んでさえ衣の内には収まらず、広げれば片方が、或いは一丈程にもなるだろうか。
 羽の一つ一つが、混じり気の無い真白の絹の如き色艶と、精緻に計算されたが如く美を示す形状の比率を選び、それが幾百幾千、何らかの完全な秩序の元に整列しているのである。
 粗末な衣服、惨めな境遇に比べて、その翼はあまりに美しかった。

「ぅおっ……」

 冴威牙は息を飲んだ。そして、必ずその少女を酔漢の手より奪い取らんと決め、茂みより躍り出た。

「だ――誰だっ!?」

 冴威牙は、子分達が怯えている事も有るので、戻って来たこの男を最初は無傷で捕らえるつもりで居た。然しそんな仏心は、少女の翼が力無く虚空を仰いだ時、綿埃のように吹き飛ばされたのである。
 男の問いに答えず、冴威牙は男の顎を蹴り上げ、空を仰いだ男が崩れ落ちるより早く晒された喉笛を鋭い牙で噛み千切った。
 仰向けに倒れた酔漢は、何が起こったか良く分からぬような顔で死んでいる。それを少女が、虚ろな目でぼうっと見下ろしていたかと思うと――

「…………っ!!」

 驚く事に少女は、酔漢の亡骸の腹に跨り、両の眼球を指で抉り出したのである。
 二つ空洞が増え、生前の醜面より尚も無残になった顔を見ても、少女は飽き足らなかった。爪で頬を抉り、鼻を拳で叩き、立ち上がって幾度も幾度も、爪の割れた足で、亡骸の顔を踏み付けた。

「おい」

 亡骸の顔が崩れて、元の顔立ちが分からぬようになった頃、冴威牙は少女の腰に腕を回して引き寄せた。
 濡れた前髪が額や頬にへばりついているが、指でそれを除けると、はっとする程に整った顔立ちが露わになる。
 冴威牙は、少女の顔を眺めた。
 近づいた顔は涙に濡れ、目の光も弱弱しい。然しその瞼は大きく開かれ、冴威牙の顔を真っ直ぐに見返している。
 呆けたように開かれた唇は打ち震え、何か声を絞り出そうとしているようにも見える。
 その声に先んじて、冴威牙は言った。

「こいつらが、憎いか」

 少女が何をされたかなど、冴威牙には聞かずとも分かる。
 言葉にするも悍ましい行為を、想像するまでも無く、鋭敏な鼻が嗅ぎ付けている。
 少女は一度頷き、冴威牙は少女を抱き寄せたままで小屋へと戻った。
 小屋の中に残されていた連中は、冴威牙の横に立つ女を見ると、ぎょっとした顔になった。

「さ――冴威牙、なんだいそいつは」

 特に狼狽を見せたのは夕霧で、冴威牙の空いている左腕を掴み、口を尖らせて問うた。

「拾った。俺のもんだ」

 その問いを払いのけるようにして、冴威牙は小屋の中を見渡す。
 死体が四つ、生きているが意識の無い者が一人。その一人の元へ寄って――膝を、踏んだ。

 ごきん。

「ぎゃあっ!?」

 膝を砕かれた男は苦痛に跳ね起きるが、冴威牙は構わず、もう片方の膝、両肘と、死にはしないが動けなくなる部位を踏み砕いて行く。
 それから、肉斬りにでも使っていたのだろう、薄汚れた短刀を手に取った。
 刃毀れが有り、切れ味は鈍そうだったが意に介さず、

「そらよ」

 と、少女に渡した。
 未だ涙の止まぬ少女は、短刀を受け取ると、四肢を砕かれた男の腹に跨った。
 忽ち、身の毛もよだつ悲鳴が響く。
 少女は、憎き相手を即死させぬよう、わざと浅く、肩や肋骨の上に、短刀を振り下ろしたのである。
 何度も、何度も。
 許してくれ、助けてくれと男が叫ぶが、その口に短刀の柄を叩き付け、刃を圧し折った。
 噛み付かれる事が無くなったと見るや、口中に指を突っ込み、喉に爪を立てて掻き毟った。
 鼻と耳を削いだ。
 頬の肉を丸く切り取った。
 片目を短刀で、片目を指でくり抜いた。
 それでも、急所を刺しはしなかった。
 決して楽に殺さぬよう、他の四人分の苦痛をも与えるよう、少女は無感動の目に涙を湛えたまま、時間を掛けて男を損壊した。

「い……イかれてやがるっ! なんだってそんな女――」

 夕霧が少女を指差して、冴威牙の腕を引く。
 小屋の外へ出ようとしているらしかったが、冴威牙は夕霧を引きずるようにして、床板に広がる血溜まりの中へ踏み込んだ。

「いーい女だなぁ。そう思うだろ?」

 返り血で赤く染まった少女を、冴威牙は再び、腰を抱いて引き寄せる。

「名前は?」

「……紫漣」

「そうか。紫漣、お前は俺のもんにする、文句はねえな?」

 答えの代わりに紫漣は、冴威牙の胸に顔を埋め、ようやっと、声を上げて泣いた。








 それからまた、数日ばかりが経った。
 冴威牙が紫漣を突然に連れ帰った事は、案外にも彼の子分達に動揺を生むものではなかった。
 元々が唐突に行動する男である。それに振り回されるのも、すっかり慣れてしまっていたのだ。
 加えて根が単純な男どもは、容姿に優れた紫漣を歓迎する事はあれ、疎む理由は無かったのである。
 また、紫漣自身が良く彼等の輪に馴染んだ。
 商家の小者のように掃除やら片付けやら小回りを利かせてこなすし、まだ笑みは固いが愛想も良く振り撒く。
 自分から多くを語る事は無いが、少なくとも自分達を見て嫌な顔をしない女というのは、無頼の彼等には貴重な存在なのであった。
 その紫漣だが、彼等のねぐらである巨大な掘立小屋を良く抜け出す。
 そういう場合、湖のほとりにある木の上、横へ張り出した枝に腰掛けているのが常だった。
 何処か遠くへと、双眸に朝露よりも儚き雫を宿したまま、視線を飛ばしているのだった。
 特に背の高い、七丈にも及ぶ樹上で翼を休める紫漣の姿は、俗世と切り離された神秘を湛えているかの如く在った。

「おーうい、紫漣よ」

 その絵の中に、多分に俗世の気を纏って、冴威牙が割り込んだ。
 紫漣と違い空を飛べぬ身であるので、樹皮に指を引っ掛け、えっちらおっちらと昇って来たものである。
 特に頑丈な枝を見繕って横になった冴威牙は、器用に片手だけで枝を掴み、落ちぬように平衡を保った。

「あ……冴威牙様っ」

 紫漣は、かんばせから憂いを取り払い、冴威牙の横に身を移す。
 彼の名を呼ぶ声はうわずり、まだ涙も乾かぬ目に浮かぶは恋の色。誰かが見ていたとしたら、紫漣が抱く慕情は明らかであっただろう。
 翼の片側を冴威牙の身に布団のように被せ、肌寒い西風への守りとした。白翼は、空を舞う折は良く風を叩き、また身を覆えば良く風を防いだ。

「いつもいつも、こんな所で何やってんだ? 何か面白いもんでも見えるのか?」

 紫漣が見ていた方角に、冴威牙も視線を飛ばす。見えるのは、何処まで言っても山やら森やら、獣の巣ばかりである。

「……西の空を見ていました。誰か、知る顔が飛んでいないかと」

「俺が知る限り、空を飛べるような女は――いや、男も女も含めて、お前以外に知らねぇがなぁ」

「飛べる者も、居るのです。……私の両親だって」

 そう言った紫漣の顔に陰りが差す。冴威牙は目だけを横へ向け、その色を盗み見た。

「両親なぁ……」

「ええ。何処に居るのかも分かりません、生きているかも分かりません。私がまだ幼かった頃、引き離されてそれっきりです。
 いつか故郷の西国の空から、父母が並んで私を迎えに来ないかなぁって、何時も待っているのです、私」

「ふうん」

 冴威牙は努めて無感動に、口を閉じたままで応じた。
 それから、ほんの少しだけ間を開けて、

「……本当に来るとでも思ってんのか。絶対にねえぞ、俺達みてえなのにそういう機会はねえ。
 余所の国は違うらしいがこの国じゃあな、人間様が絶対に正しくて、俺達みてえなのは〝犬畜生に等しい〟だの言われてんだ。引き離されてどうせお前、小銭で売られたかなんかだろ」

「………………」

「餓鬼なら生かしただろうし、一度金を出して買っちまったら、飽きてもただ捨てるのは惜しむだろうがよ……面倒な親を生かしておく理由なんざねえよ。
 この国の連中は臆病でな、俺達がてめぇらに似てるからって餓鬼には半端な仏心を掛けたりするもんだが、デカくなりゃ話は別だ。犬を棒で追い払うのと同じで、平気で殺しちまうんだよ」

 常より幾分か饒舌に、冴威牙は語った。
 意地が悪いと言われれば否定の出来ぬ冴威牙だが、こんな具合に、誰かの希望を言葉で踏み躙るような事は、普段ならばしない。もっと単純に、拳足を振り回す男である筈だ。
 だが、冴威牙は何故か、己にも何故と分からぬまま、紫漣が言いもせぬ内に彼女が抱く些細な夢を否定した。彼らしからぬ仕打ちであった。
 そして――冴威牙が無責任に予想した紫漣の境遇は、大筋の所で当たっていた。
 京より遥かに西、源平の戦が潰えた地に生まれ、十にもならぬ内に両親と引き剥がされ、酔狂な金持ちに売られた。
 初めは、言葉を話す珍鳥として。そして童子でなくなってからは、無聊に弄ぶ玩具として使われた。
 ただの女であれば、ひと所に留まって飼い殺されていただろう。然し日の本の悪習か、有翼の女を長く手元に置くのは気味が悪いと、二年と手元に置く者は居なかったのだ。
 飽きられ売られる度、値は低く境遇は悪くなった。そして流れ着いた先の田舎商家から、熊越斬波の一派が奪い取り――冴威牙の元で、ようやく漂泊の身は休まる枝を得たのである。
 その止まり木が、僅かの望みさえ捨てろと言った。然し紫漣は、もう嘆きはしなかった。

「……冴威牙様は、お優しいのですね」

「はァ?」

「まるで自分の事のように私を思ってくださる」

 冴威牙の体に被せていた片翼に、もう片方の翼が掻き抱くように重なる。

「この国に在っては、私達が夢を見るなど許されない。そんな事、とうの昔に知っていた筈でしたのに……時々忘れてしまうのです。冴威牙様はそんな私の目を覚まそうとしてくださる。お優しい方でなくて何でしょうか」

「………………」

 何を言っているのか――冴威牙は問い質そうとした。
 渾身の皮肉を利かせて向けた意地の悪い言葉を、何倍も鋭く刺し返そうとしたのか、そういう思いさえ抱いた。
 だが、違う。違うと直ぐにも気付く。
 紫漣は骨髄にまで、諦めるという事が染みついているのだ。主と見なした者が否を言うなら、数年来の希望さえ反故の書簡にして捨ててしまう、屈従の病に侵されていた。
 それを冴威牙が哀れに思ったかと言えば、きっとそうでは無かったのだろう。
 他者を哀れむには遅い程、冴威牙もまたねじくれて育ってしまった男――少年である。誰かの苦しみに寄り添い苦境を共有するという事は、毛頭思いもせぬ身である。
 だからこの時、冴威牙が抱いた思いというのは、憤りに近かった。

「俺が――俺達が成り上がれねぇなんて、誰が決めた」

 彼と紫漣に共通している性質は、〝人間〟を完全な同種と見なせない、という事であった。
 姿形は似ているかも知れないが、〝あれ〟は〝われ〟と違うものだという感覚を、生まれつきに備えているのである。
 冴威牙は、人を殺すを好むでもないが、まるで躊躇いもしない。
 紫漣とて、己を穢した男が同種であったのなら、殺しはすれど、あのように執拗な損壊はしなかっただろう。

「あいつらがどう決めたかは知らねえが、そんな決まりに俺達が、黙って有難く手を合わせる必要があるか。俺達があいつらを従えて、でかい館の奥座敷で、踏ん反り返って悪い道理が有るかよ!
 ……今は確かに、そんな事はあり得ねぇ。俺達は犬猫と同列で、あいつらは人間様だがよ……!」

 彼らは、彼我を完全に分けている。
 だからこそ彼らは、互いを、全く理由を待たぬまま、同種であると信じられた。

「見てろ、俺は従わねえぞ! 俺があいつらを従えて、城を取る、国を取る……俺が上に立つ!」

「冴威牙様、それは誠よりの――」

「当たり前だ! 何をしようが何年掛かろうが、あいつらを俺達の前に平伏させて、今の道理を覆す! ……必ずだ!」

 冴威牙の憤りは、ただ女の為ではない。己と同じ存在が、〝望まぬ〟ことが当然であると信じねば生きられぬこの国への――己が為の、憤りであった。
 いや、咆哮である。
 獅子吼と呼ぶにはまだ幼い遠吠えでしかないが、それは確かに、同じ枝に止まる紫漣の心を打った。

「――嗚呼、やっと」

 枝の上で紫漣は、冴威牙にしなだれかかる。
 その様を、風下から見ている者が居た。
 熱に浮かされ、また風も鼻の助けにならず、周囲の異変を察知できぬ冴威牙を見ている者――
 それは、鬼のような顔をした、夕霧であった。








 森の中の掘建小屋とて、彼らにとっては城であるし、一つの世界である。
 世界の中で居場所を見つけようという時、人はそれぞれの傾向を示すものであるが、例えば冴威牙などは、どの群れに於いても頂点を狙う性質である。
 無論、大多数の人間、彼らの場合でいえば数十人からなる兵卒達の場合、中間よりは高い位置に立ちたいものの、頭抜けて上に行こうという気概も無い。
 高台は見晴らしこそ良かろうが、落ちれば地に体を打ち付けて死ぬ。人は往々にして死を恐れるものである。
 然しこの群れに、死の恐れよりも尚、権力を欲する者が在った。
 己の力で成り上がろうというのではなく、成り上がる男の横に添って行こうと企む女である。
 この類の女には、男の顔や性根などさしたる問題では無い。
 ただ力が有り、情愛の多くを己に注いでいる男であれば、隣に立つに相応しいと考えるものである。
 物事が上手く回っている時は、献身的に男を支える――男の栄達こそが己の幸福に繋がるからだ。
 然し一度男の目が己から外れたと知るや、変節は極めて敏速。己が傷を受けぬまま、別な男に乗り換える術を探そうとする。
 つまるところ夕霧の心は、とうに冴威牙の元を離れていたのである。

「あんた達、どう思うよ」

 と、夕霧は、至極抽象的に問うた。
 これと見込んで、村の外れに集めた、何人かの男の前である。
 何れも冴威牙の子分格の中では歳も高く、加えて分別は知らぬが利益を知るような連中であった。

「どうって言うと、どういう事だい姐さん」

「最近の冴威牙は、私達を軽く見ちゃいないかい」

 集められた男達は顔を見合わせた。どうせまた夕霧の悋気が始まったものだろうと考えたのである。冴威牙の寵が逸れるのを厭う夕霧が、他の女にきつい当たりをする事は、これまでもまま有ったからだ。
 然しどうにも、雰囲気が違う。
 女の嫉妬などという可愛らしいものではなく、懐に刃でも飲んでいるかのような、答えを誤ればその刃が向かって来そうな怒気も伺えるのだ。

「……はぁ。まぁ、そりゃそういう気がしないでも」

「そうだろう、一人で鼻も高々だ。ちょっと腕が立つからって見境もなく、あっちに噛み付いて、こっちに噛み付いて」

 男達は言葉を濁すも、夕霧は声高に不満を吐く。あまりに潜まぬので、男達が不安になって周囲を伺ってしまう程である。
 とは言え、彼ら――友誼より利益に敏い者達には、確かに思う所が有った。

「……確かに今回のは、ヤバい相手だよなぁ、とは」

「だろう!? よりにもよって熊越斬波の身内に手を出しやがった、このままじゃあたし達まで殺されちまうよ!」

 夕霧は甲高い声で喚くが、それを聞けば男達の渋面が、にわかに蒼白く変わり始める。考えようとしてこなかった事を、改めて目の前に突き出されたからである。

「冴威牙の奴はいいさ、いざとなったら一人で山へ隠れるなり何なり――あいつは山犬だからね。だけどあたし達はそうはいかない、斬波の一党に目を着けられたら最後だ。それこそ海の向こうへでも逃げない限り、あいつらなら追って来てもおかしくない……だろう?」

「お、おお……」

 然しそこで、一人、踏み止まる者が居た。彼等の中では比較的、人の良い男である。

「だ、だがよっ、冴威牙の兄貴だって血も涙も無い人じゃねえ。少なくとも今まで俺達を纏めて、食い物も銭も分け前をくれたし、何かありゃ守ってくれても居たし……。それに兄貴は凄え強いぜ! 上手くやりゃあ、熊越斬波だって人間だ、返り討ちにしちまうかも――」

「冴威牙が五人も十人も居る訳じゃあないだろうっ!」

 それを夕霧は大喝し、言葉も半ばで黙らせる。

「確かに冴威牙の奴は強いさ、だが、あいつはあたしらの事なんか見ちゃいない。今ご執心なのは、拾って来たあの紫漣とかいう羽の生えた女だけで、あたしやあんたらはどうだっていいんだ。飽きられたんだよ!
 冴威牙が勝つ? はっ、あいつが一人で斬波とやりあうとしたら、その間に斬波の手下どもが、あたし達を皆殺しにやって来るよ!」

「そ、そんな事は――」

「まだ信じられないってかい!? ……なら、冴威牙をそれと無くせっついて、先に動くよう仕向けてみりゃあ良い」

「はぁ……?」

「鈍いねあんたは! 冴威牙が、あんたの言う通りにあたし達をまだ身内だと思って重く扱うなら、出向くにしろ逃げるにしろ、まずあたしらを連れて動く筈さ。逆に私の言う通りなら、見ててごらん、あいつはあの鳥女一人連れて、早々にどっかに消えちまうだろうよ」

 夕霧は雄弁に説き、聞く者達もまた弁の立つ者では無いので、ただ頷くばかりであった。
 誰ぞ知らん、この時既に、夕霧には確信が有った――曲がりなりにも他の誰より長く、冴威牙の近くに在った女だ。
 恐らく冴威牙は、雑兵を率いて精兵に当たるよりは、己一人で精兵を殺し尽くすような戦いを好むだろうと、良く良く知っているのであった。








 他方、冴威牙は〝城〟の最奥の部屋で、紫漣を伴い思考に耽っていた。
 何を考えているのか――無論、自分が喧嘩を売った相手の事だ。
 子分に手を出され、その礼をした。下手な復讐を受けぬよう、きっちりと息の根を止めた。
 ところが守った子分達は、更なる復讐に怯えている。
 冴威牙を悩ませているのは、正にその事であった。

「……どうしたもんかなぁ、紫漣よ」

 あぐらで座る冴威牙の横に紫漣が座り、冴威牙の膝に片腕を預けている。
 問いを向けられた紫漣は、その腕で自分の体をぐいと寄せ、下から冴威牙の顔を見上げた。

「やっぱり、先手を取るべきだよなぁ……」

 冴威牙は重ねて呟く。
 相手に本拠を知られていないという優位は有るが、熊越斬波の一党が本気で探そうとすれば、容易く見つけられてしまう程度の優位性。座して襲撃を待つのは愚策である。
 となれば、やはり先んじて敵の喉笛に喰らい付くのが良かろうが――敵が冴威牙達の居場所を知らぬように、冴威牙もまた熊越斬波の居場所を知らない。
 探り出すにも手がかりが無いので、はてどうしたものか――それで冴威牙は悩んでいたのだ。

「冴威牙様、それなら難しい事などありません」

 然し紫漣はというと、冴威牙と対照的、まるで思い悩みもしていないような口振りである。なんぞ名案が有るのかと冴威牙が問えば、紫漣はこう続けた。

「話を聞けば冴威牙様は、近くの町で彼等と一戦交えたということ。ならば其処へ、私達の中でも最も弱く見た目は華々しい者に、二人か三人の仲間を付けて出向かせ、大声で貴方の話題を語らせれば良いでしょう。
 ……あの男、熊越斬波は、自分の面子が傷つけられるのを酷く嫌うと聞きます。貴方様のお仲間と聞けば、嬉々として現れましょう」

「………………」

「その上で、わざと捕えさせるも良し、逃げさせるも良し。何れにせよ引き上げる彼等の後を追えば、ねぐらを探り当てるのは訳も無く――」

 そうまで言った時、冴威牙は紫漣の口に掌を被せ、言葉をそこで止めさせた。

「それをやっちまったら、俺の群れじゃなくなるだろ?」

「……!」

 おかしな話であるが、他人に対しては酷薄に成り切る冴威牙は、この時、身内に対する慈悲に溢れていた。
 己の力を当てに集まった者を、一人として見捨ててはならない。
 その考えを、打算と言う事も出来よう。自分は彼等を見捨てぬのだと示す事で、彼等の離散を防がんとする打算であると。
 然し少年期の冴威牙は、もう少し単純な性格をしていたし、成人して以降と比べると、その性根は真っ直ぐであった。

「俺を頼って集まってる連中に、餌になれなんて言えるかよ。群れが敵と戦う時に、身内から危ない目に遭わせてたんじゃ話
にならねぇ。いいか、何か手を打とうって考えるんなら――熊越の一派は潰す、俺達は誰も五体満足、そういう手を考える。それが俺の群れのやり方だ」

 或る種の理想論である。だがこの聞こえの良い文句は、確かに紫漣を揺さぶった――と同時に、一抹の不安を抱かせた。
 この男は、善悪で括るなら、悪に偏っているに違いないが、仲間と定めた者に対しては無償で善を施す。それは、奪われ続けてきた紫漣には眩いばかりの光であり、愚かしい事でもあった。

「……ならば冴威牙様。貴方の御心に叶うよう、そして貴方の御家来衆の誰も傷つけぬようにとあらば――!」

 血を吐かんばかりに喉を閉めた声で、紫漣は進言を図った。が、またも冴威牙の手は彼女の口を封じ、

「お前の手を、俺が囮になって実行すれば良いな」

 先には言わせぬぞと、乱杭の牙を剥き出しに笑った。








 子分達は、冴威牙の部屋より二つ手前の、広く作られた部屋にごった返していた。
 髭も生えぬ少年から、大きくとも二十を少し過ぎた程度の男まで――に、一人だけ女が、夕霧が混ざっている。
 彼等は皆、冴威牙が奥の部屋から出て来たのを見ると、座ったままで一つ方向へと体を回した。

「冴威牙! あんた、何を考えてるんだい! こっちの人数はこれだけ――五十もいるかいないかだ! 熊越の一派と言えば人数は百以上、鎧に刀、槍、薙刀、得物は一通り揃えてやがる! あたしらみんな殺されちまうよ!」

 開口一番に吠えたのは夕霧。他の子分共は押し黙り、冴威牙がそれをどう受けるか見極めんと、座ったままに上体だけをぐうと乗り出していた。

「問題ねぇ、勝てる」

 一方で冴威牙は、相手がどれだけに大きかろうが、まるで意に介さぬという面構えである。実際に一人で勝ってしまおうという気概が有るからなのだが、

「どうやって!? こっちの人数がいきなり五倍になるってかい!? それとも空から雷が落ちてきて、都合良く向こうの連中だけ打ち据えるとでも!?」

 奇跡でも起こらなければ、覆し得ぬ戦力の差――それを夕霧は訴える。
 常の癇癪よりも尚、声高に激しく問い詰める姿に、僅かな違和感を抱く者も居ないでは無かったが、口を差し挟む者も無い。多かれ少なかれ、皆の思いは同じなのである。
 然し冴威牙も既に腹を決めている。向けられる必死の形相を受け流すかのように、平時の顔をまるで崩さないまま、

「俺が一人で行く」

 と、告げた。

「……はあ?」

「俺が一人で町に出て、連中が見つけやすいよう、目立つように喚いてりゃ良い。後は出てきた奴を片っ端から叩きのめしてやればいいじゃねえか。簡単な事だろ?」

 容易い事――否。冴威牙の人並み外れた剛勇を以てしても、否である。
 十人相手へ不意打ちを仕掛けるのと、百人相手に正面から向かい合うのとでは、当然だが、己へ向く刃の数が違う。
 戸惑う十の刃を殺し尽くしたとて、血気に逸る百の刃に対抗出来るかと問えば――出来ると思うたは、冴威牙ばかりであった。
 夕霧の顔が歪む。
 その歪を皆が見たが、見た者はほぼ全てが、困惑と怒りを示す表情であろうと解釈した。

「……それで、あたしらはどうしろってんだい。まさか考えてないとは言わないだろうね?」

「お前らは何処かに伏せて、俺が斬波の首を持って来るのを待ちゃあいい。お前らまで戦えとは言わねえよ」

「つまりあたしらは、此処に置き去りって訳かい」

「……置き去りって言いかたもねえだろう」

 冴威牙は、言葉が噛み合わぬ事にほんの少しだけ疑念を抱いた。だがこの頃の冴威牙は、身内に対しては甘いと言おうか、その疑念を勘違いであろうと振り払ってしまう、或る種の寛大さを持っていた。
 夕霧の顔が歪む。
 ますますの怒りが溢れて、皮膚の下より顔面を変形させたか、凄絶な面。そう〝見せる〟面
 だがたった一人、般若面の裏に潜む心を見抜いた者が居た。紫漣であった。

「いえ、冴威牙様。夕霧様のご心配も尤もの事。冴威牙様のお留守に、熊越斬波の一党がこの〝城〟に攻め寄せたならばどうなりましょう。冴威牙が敵を得られぬのみか、残る者悉く鏖殺の憂き目に遭いはしないか、それを恐れておられるのです。
 ですから冴威牙様、一人で向かうよりはいっそ、五十の総勢を率いて夜討ちを仕掛けるが上策と――」

 短く吸った息を一気に吐き出し、紫漣は冴威牙の言葉を止めながら、場の中央に割り入った。
 語り口調は明快にして、凛声鮮やか、学の無いものならば内容を解さぬままに従うだろう言葉を発しながら、然し紫漣の顔には焦りが浮かぶ。
 その焦りも殆どの者には気付かれなかったが、やはりただ一人気付く者が――夕霧が居た。
 一瞬、視線が交錯する。二人は互いに、何の証拠も持たぬまま、互いの思惑を悟った。

「夜討ち――冗談じゃない! あいつらの縄張りに、この人数をぞろぞろと連れて飛び込もうってのかい!?」

「ならば恐れを知らぬ者ばかり何人かを選んでも良いでしょう、何れにせよこのまま座して待って居てはやがて――」

 然し其処まで。
 激論を交わす二人の間に冴威牙が割り込んで、紫漣を抱えるようにして引き剥がしてしまった。

「要するに、だ。夕霧は逃げたい、紫漣は攻めたい、って訳だろ? じゃあ話は早えよ。
 俺と紫漣で連中を潰す、夕霧は他の連中を連れてどっかに逃げる、それだけの事じゃあねえか?」

 言うが早いか冴威牙は、紫漣を肩に担ぎ上げて、大股に〝城〟の外へ出て行こうとする。
 追いすがる者も一人とて無いが、冴威牙はまるで意に介さず――

「随伴! 何人でも良い! 冴威牙様をこのままに殺すつもりが無いのなら、続きなさい! 迅く!」

 だが紫漣は最後まで、冴威牙の肩の上から、後方に取り残された面々へと叫ぶ。

「お前も大袈裟なもんだなぁ……」

 気楽な散歩にでも出るような風情の冴威牙を、夕霧は変わらず、鬼の面相で見送った。








 腹に蓄えたはかりごとを何事も無く実行するには、夕霧という女は役者不足である。
 が、周囲の役者がそれ以上に大根であった事。唯一並べるだけの花形役者は、まだ周囲の信が薄かった事が、半ばまでの成功を呼んだ。

 ――半ばまで。

 夕霧はほぞを噛み、とうに居なくなった紫漣へ恨みがましい目を向ける。
 先んじて夕霧は、冴威牙の子分達に、「冴威牙が一人で行くようなら自分達を裏切った証だ」と説いた。
 理屈の巧拙はさておき、断定する語気の強さと、集団の中で権力を持つ夕霧の立ち位置に、彼等は無心にそれを信じたものであった。
 それが紫漣の叫びで、幾分か綻んだのである。
 このままに行けば冴威牙は死ぬと、論拠を出さぬ事は同じながら叫んだ。
 つまり冴威牙は戦いに赴くのだと、改めて彼等に示したのである。
 もしこれで紫漣と夕霧の、他の者からの信の度合いが逆であれば、夕霧の企ては完全に潰えていただろうが――夕霧の幸、紫漣の不幸、人の信は一朝一夕に得られない。

「……そら、見た事かい」

 苦々しげな表情をわざと取り繕わぬまま、夕霧はぼそりと吐き捨てた。
 すると夕霧の意を組んだ一人がすかさず立ち上がって、

「姐さんの言う通りだ、冴威牙の野郎、てめぇの女だけ連れて行きやがった……!」

 露骨に床を踏み、悔しそうに言うのである。

「こうなるかもとは思ってたけど、やっぱりあいつは野良犬だ。あたし達より、拾ったばかりの女が大事なんだよ」

 夕霧は、周囲の目が自分に向いているのを、まずはぐるりと首を回して確かめた。
 それから、最も意の侭に動かしやすそうなおどおどした少年を選んで、その襟首を掴み、

「……さあ、どうすんだい」

「ど、どうって――」

「あたしらだけで、熊越斬波とその一党百人、どうやって防ぐんだって聞いてんだよ!」

 その一人を通して、全体を恫喝する。
 無論、答えなど返る筈も無いのだから、少年が口を動かす前に夕霧は言葉を続ける。

「元々あたしは、斬波の一党とやりあうつもりなんか無いんだ。冴威牙が独断で、あいつらに手を出して殺しちまったが……冴威牙一人の馬鹿のせいで、あたしらが皆殺しなんて冗談じゃない!」

 当初の予定では、この辺りで賛同の声が上がり、五十の群れは一つの敵に対し敵愾心を露わにするという算段であった。
 その謀略は崩れたが、然し取り残された冴威牙の子分の半数以上は、夕霧と同じ事を思った――思わされた。
 自分の仲間が強い言葉で発した意見を、自分の意見のように錯覚する――自我もまだ薄弱な、未熟な少年達に於いては止むを得ない事でもあっただろう。
 そうだ、そうだと、呟く小さな声。聞き逃さず夕霧は、唇に指を当て、

「……しっ!」

 静まるように指示を出しながら、〝城〟の外を指差した。
 ずしゃっ。
 ずしゃっ。
 重苦しい足音が聞こえるのである。
 冴威牙が戻って来たものかと思った者も居たが、普段の冴威牙の足音の、倍も喧しいように思える。

「いいかい……あたしは、あんたらを死なせたくない。だからこうするんだ」

 夕霧はそう言って、自ら〝城〟の外へ出て、足音の主を内へ迎えた。
 むくつけき大男であった。
 百貫デブという言い回しが有るが、そこまではいかずとも、ゆうに四十貫の目方は有ろうかという大男である。
 だが、肥満体では無い。太い骨に分厚い筋肉が乗り、それに脂肪が重なった、兎角巨大な男なのだ。
 身の丈も、七尺は有る。熊の毛皮を被っているが、それが小さく見える巨漢である。
 手の巨大な事と言ったら、子供の頭をすっぽりと包んでしまいそうな程であった。
 そして何より、その男が誰であるかを如実に示すものはと言えば、三尺の刃に一丈の柄、しめて十三尺の大薙刀――

「……てめぇら。逆らったら、殺すぞ」

 『薙刀斬波』こと熊越 斬波は、まるで己が城主であるかのように〝城〟の上座へ座すと、これまた当然のように、夕霧を隣に侍らせた。








 冴威牙は森のねぐらを離れ、小さな町へ出た。
 つい先日、熊越 斬波の子分達を白昼堂々と殺した、あの町である。
 伴うのは紫漣ただ一人。
 寡兵ですらない、単騎である。
 茶屋の縁側に陣取り、近寄ろうともしない店主に胴巻きごと銭を投げ渡すと、

「おい、俺は此処だ!  山犬の冴威牙が此処にいるぞ!」

 物陰から覗き見する衆目の、全てに届けとばかりに声を張り上げた。
 覗き見の幾人か、ご注進とばかりに走り去った者も見咎めず、冴威牙は悠々と茶を飲み、紫漣の膝を枕に横になった。
 その紫漣であるが、浮かぬ顔をしている。冴威牙の剛毅さがこの場合は仇にならぬかと気を病んでいるのだ。

「そう暗い顔をすんな、紫漣。俺が負けるとでも思ってんのか?」

「…………」

 その問いに対する答えを紫漣は持たない。否と答えれば嘘になるが、応と返すなど口が裂けてもできぬ事なのだ。
 紫漣にとって冴威牙とは、強く尊い生き物であり、それを貶める要素を己が、まして当人に向けて発するなど考えもつかぬ。だから黙りこくって、目を伏せる以外に出来ることは無い。盲信と忠心の板挟みになり、動きがとれぬのであった。
 雲もなく日が眩しく差し込み、風は穏やかに、長閑な午後である。欠伸の出るような静けさは、然し長く続かなかった。
 冴威牙の鼻が捉えたのは、平穏な町には似合わぬ獣臭であった。
 冴威牙はその臭いを知らない。だが、獣が臭いで敵の質を知るように、臭いの主が並々ならぬ敵である事を悟った。
 そして、ずらりと野盗の群れを引き連れて現れた姿を見れば、尚、怪物であると伺い知れる。
 冴威牙より頭一つ以上高い背だが、遠目に見ると、さして大きく無いようにさえ錯覚する。然しそれは、この男の筋骨があまりに巨大なので、縦横の比率が長身のそれには見えず、縮尺を見紛うだけなのだ。世間が言う〝巨漢〟を、比率はそのままに二回りも大きくしたような巨体であった。
 腕は、鋼線を縒り合せたが如く張りつめて、手は赤子の頭など包み込んでしまう程に広い。
 顔も図体に見合った広さであるが、まさに容貌魁偉、髭面の中にらんらんと光る目玉は、明らかに常人のそれとは違う狂気を帯びていた。

「てめぇが冴威牙か……なんだ、ちいせえな」

「お前がデカすぎるだけだろうがよ」

 減らず口を返したようにも聞こえるが、その言葉が事実なのである。
 熊越 斬波は、とかく並みならぬ巨体であった。
 それも、鈍重な牛では無く、獰猛にして敏捷な熊。
 冴威牙は立ち上がって身構え、そして紫漣は翼を打ち鳴らして茶屋の屋根へと舞い上がっていた。何れもこの山賊を、類稀な強敵と見なした証であった。
 そして殺し合いは、合図も無く始まる。
 斬波の代名詞たる薙刀――柄の十尺に刃三尺、しめて十三尺の大薙刀は、冴威牙を頭から両断せんと振り下ろされる。
 それをひらりと身軽に躱した冴威牙は、まず間合いを詰めんと、斬波の懐目掛け真っ直ぐに飛び込んで行った。
 冴威牙の一撃目は、膝を狙っての踏み蹴り。前進する勢いがそのままに乗った、重い蹴りである。それを斬波は薙刀の柄で払い落としながら、きっちりと踏み込まれた間合いだけ後退した。

「……ほぉう」

 思わず冴威牙は、敵に称賛を送りたくなった。
 賊の頭、無法者と聞けば、遮二無二力任せに斬り掛かる猪武者を想定していた。然し斬波は、己の間合いをきっちりと保ち戦う、見事な武芸者である。
 構えもびたりと、木像が動き出したが如く力強く、そして無駄な動きを排除した不動の姿。賊徒として生を終えるには、あまりに過分な武技と見えた。

「――ぬおうっ!」

 斬波の足が、地面から浮かずに前に出た。
 薙刀の刃の切っ先で、冴威牙の目玉を狙って突きを打つ。
 冴威牙が横へと逃れて躱せば、薙刀を振り上げ、脳天目掛けて振り下ろす。
 軌道は直線的ながら、恐ろしく速い。一度気を抜いたならば、間違いなく体を唐竹に割られるのだろう。
 避けながら、冴威牙が追う。
 斬波は、円を描くように後退し、間合いを詰めさせない。見事に獣をあしらっていた。

「お前、ただの山賊じゃねえな!」

「ふんっ!」

 度々、冴威牙は斬波の懐へ飛び込もうとするのだが、斬波の薙刀裁きは見事であり、その隙も見出せない。
 これではままならぬ、一度呼吸を整えようと、今度は冴威牙の方から、後方へと引き跳んだ。
 その時になって初めて、斬波が、己から攻めかかった。
 先程まで縦に振るうばかりであった薙刀を、縦横無尽に振り回し、脚と言わず首と言わず、当たるを斬らんと吠え掛かる。
 尋常ならば、こうなると間合いの差が大きすぎて、とても勝負にはならぬ。
 蹴りを主体とする冴威牙の間合いは、軸足から伸びて五、六尺。同じように計ったなら、斬波の間合いは軸足から薙刀の切っ先まで、十三、或いは十四尺。倍以上の差が有る。
 冴威牙は遠い道程の半ばまでを踏み進んだ所で、斬波が振るう薙刀に追い立てられ、間合いの外へ逃げる事を繰り返した。
 やがて冴威牙も、これは正道では敵わぬと見たか、先程までのんびり横になっていた縁側から、茶屋の内へと逃げ込んで行く。

「ちっ!」

 斬波は舌打ちしながら、それを追った。
 屋内となれば、柱も有り壁も有り、長物を存分に振り回せる場所ではない。
 斬波の腕と力なら柱を断つ程度は容易かろうが、そうすれば今度は、屋根が頭上に落ちて来る。
 土足のまま、巨体を押し込めるようにして、斬波は茶屋の内へと上り込み――

「何処へ行ったぁ!?」

 吠える。
 その時、既に冴威牙は、斬波の視界から消えていたのである。
 物陰に隠れたか、畳を剥いで潜り込んだか、単に奥の部屋へと隠れたか――

 ――かたん。

「ぬっ!?」

 斬波は、頭上の物音を耳聡く聞き付け、薙刀を思い切り振り上げた。
 薙刀は天井板を貫き、切っ先が屋根瓦を持ち上げる程の高さまで達した――が、生物を捉える事は無かった。
 何故ならばその物音こそは、天井裏に隠れ潜んだ冴威牙が、己の位置を晦ます為、持ちこんだ〝あるもの〟を投げた音だったのである。
 そして、貫いた天井板から降って来たものは――沸騰寸前の湯が並々と注がれた、鉄瓶であった。
 斬波は鉄瓶を、ぶ厚い手で払いのけたが、内に収まった熱湯は、斬波の頭上へ無情に降り注いだ。

「があああぁあああぁぁっ!?」

 如何な怪物とてこれは堪らない。
 頭皮と顔を焼かれた斬波は、手負いの獣の如く吠え狂い、身を丸くしてのた打ち回る。
 その背の上に冴威牙は飛び降りて、頭と言わず背と言わず、届く限りに踏み、蹴り付けた。
 鍛え上げられた肉体は鋼の如き硬度だが、冴威牙とて鉄脚。一度横たわってしまおうものなら、立ち上がる事も出来ない。そのまま一息に、斬波の首を蹴り折ろうか――という、丁度その時、であった。

「さ――冴威牙っ! 助けておくれよっ!」

「……あぁ!?」

 茶屋の外、至極聞き慣れた声と臭いが、冴威牙を呼び求めたのである。
 思わず斬波を打ち捨て、また縁側から表に出て見れば、其処には夕霧や、他にも冴威牙の子分が十数人、斬波の手下に捉えられ、喉元に短刀を押し当てられていた。

「んっ、だ、こりゃ」

「あんたが勝手に飛び出して直ぐ、こいつらが襲って来たんだよう! だからあたしは――」

「黙れ、余計な口を利くんじゃねえっ!」

 夕霧が助けを求めるも、その口を山賊が手で塞ぎ、黙らせる。
 悲しいかな、それは茶番であった。
 既に夕霧は冴威牙を見限り、自分が拠って立つべき男を熊越 斬波に乗り換えている。そして夕霧に誑かされた子分達も、冴威牙への疑念と斬波への恐怖で、とうに主を変えているのだ。
 だが、冴威牙はそれを知らない。
 冴威牙の目に映るのは、己の群れが捕えられ、生死を敵の手に握られているという〝事実〟であった。

「冴威牙様、打ち捨てなさいっ! そのような者に構わず、斬波にとどめを――っ!」

 真に冴威牙の味方と言える一人、また夕霧の策を看破していた紫漣は、冴威牙に継戦を促した。
 然し冴威牙は――この時の彼は、己の中にある規律にこれ以上無く忠実であったが為に、

「そりゃ出来ねえよ……ちきしょう」

 背後に迫る斬波の、巨大な拳をそのままに受け入れた。








 冴威牙が目を覚ました時、彼は、暗い部屋に置かれていた。
 暗いとは言えども、亜人たる冴威牙の目ならば見通せる程度の闇である。
 まず冴威牙の周りには、鋼造りの格子が有った。
 これが木であれば、強引に蹴り破る事も出来たのだろうが――強度ばかりでなく、蹴りに速度を乗せる空間が無い程に狭い。
 だがこの檻は、部屋に元から備わったものでなく、外から運び込んで床に置いてあるだけの代物であるらしい。
 冴威牙がそう理解したのは、この暗い部屋が、冴威牙には見慣れた己のねぐら――〝城〟であったからだ。

「……なんだ、まだ殺されてねえのかよ」

 自嘲的な響きを以て、冴威牙は己を笑った。
 人質を取られ、殴り倒され、獣用の檻に入れられて、己の城へ舞い戻った。言い訳のしようがない、敗北である。
 しかもこの敗北は、どうにも取り返す機会が無さそうだ。
 自分はこれで最後なのだと、死刑を待つ囚人そのものの境遇。不遜の冴威牙も遂に、己の死を覚悟した。

「けっ、あっけねえや」

 必ずや成り上がると、威勢良く啖呵を切った事も有った。それも、檻の中に在れば虚しいばかりである。
 然し冴威牙は、己の境遇を嘆こうとはしなかった。
 諦念――何ともならぬ事ならば、もう足掻く理由も無いと、まるで他人事のように全てを諦めていたのである。
 暫し目を閉じ、周囲の音と臭いに意識を巡らせた。
 知らぬ大勢の臭いと、良く知った者達の臭いとが、部屋の外に幾つも有る。酒食の臭い、賑わいを聞けば、きっと宴でも開いているのだろうと思えた。
 その肴として、自分は殺されるのだろうか。
 そう思っても、既に諦めを知った冴威牙の身は、四肢に力を与えようとしなかった。
 暫しの時間が過ぎる。
 賑わいの中から、一つ、特に重い音と、凶暴な獣の如き臭いが近づいて来る。部屋の戸を乱暴に開けて踏み込んできたのは、冴威牙の予想の通り、熊越 斬波であった。

「ざまぁ無えな」

「はっ、煩えよ。頭の具合はどうだ、禿げになってねえか?」

 斬波は檻を蹴り、冴威牙への答えとした。
 頭から浴びせられた熱湯は、頭皮の一部を焼いて、冴威牙が言うように脱毛せしめていたのである。

「この檻も悪くねぇなあ、お前の無駄にデカい手足じゃ届かねえ」

「……せいぜい減らず口叩きやがれ。てめぇは明日、その檻のままで川に沈めてやる」

 そう告げられても尚、冴威牙は表情を変えなかった。
 だが、死を突き付けられても怯えを見せぬ冴威牙の姿は、斬波の不興を煽るばかり。焼けた皮膚が痛むのか、斬波は頭を掻き毟りながら、細くした目を惨酷にぎらつかせた。

「おお、そうだ。てめぇの仲間がどうなったか知りたくねぇか?」

「……!」

 冴威牙が腹を括っているのは、悔いが無いからであろう。そう、斬波は見通していた。
 ならば悔いを残させてやろうと、斬波は隣室へ取って返し、宴の騒ぎの中から、幾人かを見出して連れて来た。
 彼らは皆、腹一杯に食ったのか血色が良く、加えて相当に飲んだか、冴威牙でなくとも吐気に酒精の香を感じ取れる程であった。
 だが、彼等は――本来、斬波の部下達と酒色に耽る筈も無い者。
 夕霧と、特に彼女に親しい数人の、いずれもが冴威牙の子分格達――茶屋の前で捕らえられ、短刀を突きつけられていた者さえが居た。

「おめえら……!?」

 無事だったか――とまでのんびりした言葉を発する程、冴威牙も鈍くは無かった。
 彼等が無事であるどころか、斬波の部下達と同じ待遇を受けているという事、怯えの欠片も無く斬波の元に居るという事は――

「俺を――俺を売ったのか、夕霧!?」

 冴威牙はようやく、己がもう彼等の群れの王で無いと気づいた。
 叫びも虚しく、夕霧は囚われの冴威牙を鼻で笑い、熊越斬波の太い腕に纏わりつくと、

「あんたがあたしらを裏切ったんじゃないか、犬っころめ!」

 檻の中の冴威牙に唾を吐き掛け、高笑いを響かせたのであった。
 それに唱和し他の〝元〟子分達までもが、冴威牙を指さし嗤い、新たな主人への忠義を示す。
 既に冴威牙は恐れられていなかった。
 山野に在る猛獣を恐れる事はあろうとも、檻に捉えられた哀れな獣に怯える事が無い様に。彼はもはや力を失った野良犬に過ぎなかった。
 だが――そも力を奪われたは、何が為であったか。
 言わずや、彼が〝己の〟群れと定めた者達、今も冴威牙を嘲笑う彼等さえ含んだ、己以外の為である。
 ただ一個、野生の獣として逃げ延びる事も出来ただろうが、そうはせず、囚われた山犬の王。打ちひしがれた彼に、もう力の一片たりと――

「……おい、お前ら」

 ――いいや、違う。
 人である彼等は、人に在らざる怪物の力を、未だに理解していなかった。
 唾を吐き掛けられ、頬には涙が伝い、手足さえ伸ばせぬ檻の中に居ようと――彼の鼻は確かに、〝城〟の外の情景までを、目視せぬままに脳裏に映し出していた。
 瞳孔が収縮する。眼球の強膜――白目部分に赤みが差す。
 犬歯が肥大し、牙と化し、凶悪な捕食者と成り果てた顔で、

「逃げろ――今、直ぐにだっ!!」

 それでも彼は、〝元〟子分達を救おうとした。
 その冴威牙の言葉は、ごうと巻き上がった熱風に掻き消される。
 方角を問わず、四方八方にて吹き荒れる熱風と赤光――そして、肌を焼く熱。

「かっ――火事だぁっ!」

 誰かが叫んだ時には、〝城〟は炎に包囲されていた。
 冴威牙は、その炎が、油を撒かれた為である事に気付いて――もう一度、涙を流す。
 直後、天井の板が砕け、檻の上にぱらぱらと降り注いだ。
 天井を砕いて降り立ったは、冴威牙が囚われた折に何処かへと逃げた、紫漣であった。








 この火刑が、人の手で行われたものであったならば、冴威牙はもっと早くに看破したのだろう。
 だが紫漣は翼の力に任せて引き上げた油樽を用い、上空から〝城〟の周囲へぐるりと撒き散らしたのである。
 油が地に触れて、臭いが冴威牙の鼻に届いてから着火まで、猶予がどれほどにあったか。それこそ冴威牙に許されたのは、吼え、元の子分数人を救おうとするだけの時間であった。
 ましてや、酒に酔うか寝入っていた斬波の部下達に至っては――火が〝城〟の壁を蝕んでさえ、気付かぬ者も有った。
 〝城〟と称してはいるが、実態は巨大な掘立小屋。壁も屋根も枯れ木で組み上げたような、薄い材質の乾いた建築物である。市井の火事などよりもよほど迅速に、炎は彼等を飲み込み始めた。

「冴威牙様っ!」

 天井を貫いて降り立った紫漣は、檻の格子を掴んで揺さぶる。
 然し鍵は、単純な外付けの錠ではなく、内側から大型の獣がぶつかっても開かぬように、相当強靭に作られている。紫漣の力では、格子を歪ませる事さえ出来なかった。

「こっ――の、アマぁっ!!」

「――!」

 紫漣の背を襲ったのは、熊越斬波の巨大な拳――宴の最中故か、薙刀を手にしていなかったと見える。
 流石の悪党も火に焦ったか、拳の軌道は大回しであり、紫漣は難なくそれを避けた。

「去りなさい! 焼け死にたくなければ!」

 相手をしている暇は無いとばかり、紫漣は片目だけの視線を斬波にくれてやった。
 成程、如何に熊越斬波が達人であろうと、素手で、空を飛べる紫漣を捉えるのは、容易な事ではあるまい。それまでに火は、この襤褸城を焼き尽くしてしまうだろう。

「ぐっ……! 畜生があああぁっ!!」

 怒りを叩き付けたくはあっただろうが、逃げ道を失っては本末転倒。斬波は大声で喚き散らしながら火の粉を蹴散らし、炎から抜けて行った。
 方々から、肉の焦げる臭いがする。
 人の悲鳴や怒号――時々は断末魔の叫びまでが聞こえて来る。
 炎は愈々、縦に渦を巻いて踊り狂う。
 恐らくもう、出口と呼べる出口は無いのだろう。新鮮な空気が流れ込むのは、紫漣が天井に開けた穴だけだった。

「冴威牙様、今、開けて差し上げます……少々だけお待ちを!」

「ばっ……馬鹿、お前、何で戻って来たっ!?」

 冴威牙は、紫漣の行動――己を見捨てず火を放ってまで助けに来た事――を、狂気の沙汰であると感じていた。
 自分はこれから死ぬ男である。
 その為に舞い戻り、自分の身を危険に晒すなど、真っ当な神経ではない、と。

「とっとと逃げろ! お前、飛べんだろ!」

「ええ、飛べます……だから、こうするんです……!」

 紫漣は、冴威牙の檻の格子を掴むと、白翼を広げ、熱風の中で羽ばたかせた。
 時折火の粉や、焼け落ちた木片が降り、紫漣の翼を焼く。だが紫漣は気にも留めず、翼を打ち鳴らし、上空へ舞い上がろうとする。

 ――無理だ。

 冴威牙は直ぐにも、紫漣の目論見が実現不可能である事を悟った。
 紫漣の翼ならば、冴威牙一人を浮かせるまでは出来るのだろう。だが、冴威牙でさえ破れぬ頑強な檻までまとめて浮かせる程の力は無い。
 ほんの僅かに檻が浮く――紫漣が力尽き、床に落ちる。然し直ぐにも立ち上がり、また翼を羽ばたかせる。
 業火の中、ろくに空気も吸えないまま、幾度も幾度も、全身の総力を用いて――羽ばたき、倒れを、繰り返す。
 周囲の炎が檻を炙り、格子は次第に熱を帯びるが、それでも紫漣は――

「やめろ!」

 紫漣の呼吸音に、ひゅうひゅうと隙間風のような音が混ざり始めた時、冴威牙は遂に耐え切れなくなった。
 自分が此処で死ぬ事は、もはや受け入れる他に無い。
 だが、それに誰かを――特に、同じ〝亜人〟の同胞を、巻き込む事だけは避けたかったのだ。

「もうやめろ、紫漣! 俺の命令だ!」

 格子を蹴り付け冴威牙は叫ぶ。命令と言いながら、その声は懇願にも似ていた。

「聞けません……!」

 炎の中、顔を青褪めさせながら、紫漣は幾度めか、立ち上がった。
 前髪を伝った汗が、檻の格子に落ち――じゅう、と弾ける。もはや炎は、鋼の格子を、焼けんばかりに熱していた。

「……! 駄目だ、やめろ、やめっ――」

「っく、ぐううううぅっ……!!」

 紫漣はまるで躊躇い無く、格子を素手で掴み、羽ばたこうとする。
 上がらない。
 上がる筈も無い。
 失われて行く体力、熱に負け力を失う手――もはや鋼の檻は、一寸さえ浮かび上がる事は無い。

「く、ああっ……! ぁ、す、すいません……直ぐ、直ぐにっ」

 意思が身体の反射に負け、紫漣は格子から手を離すが――また直ぐに、決して動かぬ檻を掴み、空へ舞い上がろうとする。
 周囲の壁は、遂に炎により崩れ始めていた。

「っ、何でだよ!」

「……は」

「何で俺を助けようとする、馬鹿がっ!」

 熱風が轟々と龍の如くに唸る炎の中でも、その冴威牙の咆哮は、確かに紫漣に届いた。
 だが――それは、弱音。彼には最も似つかわしくない叫びでもあった。

「俺は! 裏切られたんだぞ! 子分だと思ってた連中に、俺のもんだと思ってた女に裏切られて、山賊風情にとっ捕まった! そんな男を、手を焼いてまで助ける意味が何処に有んだよ、なぁ!? さっさと一人で飛んで逃げちまえ! 俺の死体の横にお前がいたら、一人で死ねない臆病者と笑われちまうだろうがっ!!」

 格子を幾度も蹴り付け、己の位置からでは見えない天井を指差し、冴威牙は紫漣を追い払おうとする。
 とうに其処は炎の輪が狭まって、紫漣一人で通り抜ける事も難しくなっていたが、紫漣はそれを見て、

「だったら、どうして私を助けたんですかっ!」

 青褪めた顔のまま、冴威牙を叱り付けながら、笑ったのである。

「どうして、って――」

「私を助けたのは貴方です! 私に夢を語ったのは貴方です! 私を傍に置いてくださったのは貴方です! 全部、全部貴方の勝手にした事です! だから私は貴方を助けたいんですっ!」

 紫漣は着物の裾を破り、手に巻きつけた。それから胸を押さえ、数度、深く呼吸を繰り返す。
 酸素と共に、煙も吸ってしまっているだろう。十全の力は発揮できぬだろうに、それでも、

「人の忠告を聞かなかろうが、無鉄砲だろうが、周りの気持ちが分かっていない鈍い人だろうが――なんだっていいから、黙って私に助けられてください……!」

 檻が、浮いた。
 一寸や二寸ではなく、膝を越え、肘を越え、頭の高さを越え――紫漣は、翼で檻を持ち上げた。
 天井までの高さは、一丈と半ば程。常ならば一息に飛び越える道程は、長く、永く感じられて――

「――あ、っ」

 そして――紫漣は力尽きる。
 天井付近に渦巻く熱風と煙を、肺に思い切り吸い込んでしまったのだ。
 翼が力を失い、檻ごと、また床へと堕ちて、

「さ……冴威牙、さま、すみませ……」

「お、おいっ! 紫漣、起きろ! 逃げろ、おいっ、おいっ!!」

 最後まで紫漣は、冴威牙を想い、意識を失った。
 床に伏したその背に、ぱらぱらと、焼け焦げた木片と灰が降り積もる。
 炎が床を這い、冴威牙と紫漣を、その腹に収めんと燃え広がる。

「馬鹿がっ……大馬鹿だ、お前は……っ!」

 冴威牙の頬を、最後の涙が伝った。
 それが格子に落ち、じゅうと弾けて散った時――冴威牙は、夜空に咆哮を轟かせた。








 奪い取ったねぐらが燃え落ちる様を、熊越 斬波は苦々しげに睨み付けていた。
 斬波の子分は殆ど逃げおおせたが、潰れるまで飲んだ幾人かが炎に呑まれて焼け死んだ。仲間の死を嘆く斬波ではなかったが、己に属するものが損なわれるという事は、即ち己の損失である。怒気の程は、燃え盛る炎にも劣らなかった。
 だが、その怒りを叩きつけるものが無い。火事の元凶は、未だに炎の中に居るのである。

「……くたばりやがったな」

 燃え崩れる木組みの襤褸小屋を遠目に見ながら、斬波は吐き捨てるように呟いた。
 天をも焦がさんばかりの火勢の中、如何なる生き物も、生存出来よう筈は無い――その見立ては正しかった。
 いや。
 正しい筈、であった。
 その時、斬波を始めとする山賊の一党は、おぞましい程に響く咆哮を聞いた。
 臓腑を鷲掴みにし揺さぶるような、吐き気さえ催す雄叫びである。
 或いは骨髄に染み渡り、体内から手足を砕くような、暴力的な絶叫でもある。
 例えその声の主が誰であるかを知らずとも、音だけで、〝それ〟に近づいてはならぬと知らしめる、声。
 もはや〝けだもの〟でさえない、魔獣の咆哮であった。

「ぉ――」

 熊越 斬波は近くの子分の手から、愛用の薙刀をひったくるように取った。そして半ば無意識のうちに、炎上する〝城〟へ薙刀の切っ先を向けた。
 焼け、崩れゆく掘立小屋――その天井を、弾丸の如く突き破る影を、斬波は見た。
 飛翔では無い、跳躍。
 数間の高さに脚力だけで到達し、その影は炎を抜けて来たのだ。
 〝それ〟は、ほんの一瞬、翼を広げたようにも見えた。その実は、背負った紫漣の翼が、跳躍した折に風に靡いたものであった。

「るぁう」

 と、それが言葉を発したように、斬波には聞こえた。
 人の声では無い。
 人の姿を失ったからか。
 手も足も、人間と同じ形をしていながら、〝それ〟の首は獰猛な犬の形をしていた。
 まるで人間の首を切り落とし、野犬の首と挿げ替えたような――

 ――ばけもの。

 野生から離れた人間が、それでも生きて行く為に残した機能――直感。異常なものを恐れ、近づかぬようにすることで、己を永らえる為の力。
 山賊という、真っ当な人間より数段も獣に近い生の中でさえ目覚めなかった機能が、今、斬波の中に立ち上がる。
 熊越 斬波は、初めて怯えを知った。
 犬面の怪物は、背に紫漣をおぶったまま、人には感情の読み取れぬ目で、周囲をぐるりと見渡した。斬波や、他にも火から逃げた斬波の子分や、暗闇、木々、そして――斬波に背を向け、もはや炎の中で形を失った小屋の残骸を、瞬きもせずに見つめた。
 その背へ、斬波は吠え掛かった。

「ぐっ――ぉおおおおおおおぉおぉおぉぉぉっっ!!!」

 巨大な薙刀を振り上げ、無防備に晒された背へと迫り、頭蓋目掛けて刃を振り下ろす。
 必死の形相であった。
 刃が落ちていく一瞬でさえ、熊越 斬波には、無限に引き伸ばされた時間のようにも感じられた。
 死ね。
 早く、死ね。
 罵声ではなく、懇願を、斬波は幾度も繰り返す。
 そして、ついに薙刀の刃が、犬面の怪物の皮膚に届かんかという刹那――

「ぐるぉう」

 ――〝それ〟は唸り、振り向きざま、斬波へと蹴りを打った。
 暴風を撒いて跳ね上がった〝それ〟の右踵は、振り下ろされる薙刀の柄を〝斬り〟飛ばし、

「っ、な――ま、待っ」

 その足は地に着かぬままで軌道を変え、爪先を、斬波の喉へと突き刺した。
 異音。
 肉の内側で骨が砕ける、めぎっ、という不愉快な音。
 ただそのひと蹴りで、熊越 斬波は絶命していた。
 仰向けに倒れる巨体に、〝それ〟は――獣性の全てを解き放った冴威牙は、もはや興味さえ抱いていないようだった。そしてまた、人には意図が見えぬ目で、己を遠巻きに見ている斬波の子分と――その中に混じる、自分の群れであった者達を見て、

「おう、俺は生きてるぞ」

 そう言うと〝最後の情け〟として、彼等へ向け、両手を広げて見せた。
 応じるものは誰も居ない。
 遠巻きに武器を構え、震えるばかりである。

「おい、どうした。俺が生きてたんだぞ、嬉しくねえのか……?」

 冴威牙は、見覚えのある顔の一つへ向けて、数歩ばかり歩いた。
 かつての冴威牙の子分は、近付いた距離の倍も後退しながら、震える手で刀の切っ先を冴威牙へと向ける。
 近づく事を、身体の全てで拒否しているのだ。

「……嬉しくねぇのかよっ!!」

 冴威牙は、自分がもう彼等の親分どころか、仲間でさえない事を知って吼えた。
 皆が冴威牙を恐れ――彼の無事を喜ぶものなど、誰も居ない。
 亜人である冴威牙は、人間である彼等の敵だと、彼等は明確に線を引いたのだ。
 敵だから、恐れる。
 敵だから、冴威牙が自分達を〝襲わない筈が無い〟と信じ込む。

「……そうかよ」

 きっと、元より〝そう〟だったのだ。
 如何に近しい間柄だと冴威牙が思っていたとしても――彼等の側は、明確でないにせよ、彼我の差異を感じ取っていた。
 そうでなくては、夕霧の言葉だけで皆が翻意を示す事は無かっただろう。
 そうであったから彼等は今、冴威牙が生きていた事に怯えている。
 冴威牙は元々、ただ一頭で生きていた、それだけだったのだ。








「冴威牙様、冴威牙様、起きてくださいっ」

「ぐ、ぅ……っが、がぁ……!」

 永い悪夢――それも現の時に照らせば、僅かに半日の事である。
 畳に横たわって眠っていた冴威牙は、夢にうなされ、唸り声を上げていた。

「……冴威牙様っ!!」

 傍らには、遂に冴威牙を裏切る事無く沿い続けた紫漣が居る。
 紫漣は、冴威牙の肩を強く揺さぶり、強引に夢から引き剥がした。

「うおっ……、お、っ」

 目覚めた冴威牙は、まず周囲を見渡し――自分の居る場所に命の危険が無い事を確認してから、額の汗を袖で拭った。
 畳の上、敷物も無しに寝ていた冴威牙だが、それで痛むような脆い体では無い。
 ただ――失った左目の空洞が、痛み以上に冴威牙を苛み続ける。
 己は人と相容れないと、炎の前に悟ったあの夜から、冴威牙は紫漣と二人だけで生きてきた。
 自分達二人の他の命は、上へ登る為の踏み台か、腹を満たす為の餌か、力を誇る為の装飾品に過ぎなかった。
 二人は、尋常でなく強かった。
 だが二人は、何年も、何も得ぬままに生きてきた。
 力こそ有れ、平穏の世。力を振るえば賊徒、罪人の類に過ぎぬ時代に、彼等は生まれてしまっていた。
 だから、狭霧兵部の子飼となり、戦を与えられた時、彼等の眼前にはきっと、輝かしい未来の絵図面が広がっていたことだろう。
 それも既に半ばは費えた。
 残ったものは傷ついた体と、賊軍の汚名ばかりである。

「……紫漣か、何だ」

「兵部卿がお呼びです……それに、酷くうなされていらっしゃったので」

「はっ……もうあのおっさん、兵部卿でも何でもねぇだろ」

 権力をほしいままにし、兵士や人材、兵器を動員出来たのも、官爵があってこそだ。
 既に狭霧和敬に、日の本政府の支援は無い。辞令こそまだ下っていないが、兵部卿の官とて、もう取り上げられているだろう。
 自分達は、負けたのだ。
 冴威牙の野望もまた、費えたのである。

「……で、あのおっさんが、どうしたって」

「宴を開くと仰せです。冴威牙様にも、その……」

「なんだ?」

 言いよどむ紫漣に先を促すと、紫漣は幾度か咳払いをしてから、

「……その、戦勝の前祝を兼ねて褒美を授ける、と」

 と、歯切れも悪く言った。

「戦勝の褒美ね……絶対にろくでもねぇ事に決まってんな」

 冴威牙は、己の首が切り落とされ、皿に乗せられて、宴の参加者に振舞われる光景さえを想像した。
 狭霧和敬ならば、その程度の事はする。
 敗軍の将を罰するという名目で、己の心を満たす為、殊更に残酷を楽しもうとするだろう。
 それならそれで、まだ気が晴れる――冴威牙は、そう考えていた。
 己の首を斬らんとする狭霧和敬を逆に殺害し、その首を持って政府側に投降しても良い、とも。生きながらえれば何時かまた、戦の起こる日も来る筈だ――と。

 然し、その思惑は、いささかならず〝温い〟。
 冴威牙も悪党ではあるが、比類無き悪党を計るには、常識にまだ囚われている。
 この時、狭霧和敬は、本心から戦に勝ち、日の本を手中に収める算段で居たのである。