烏が鳴くから
帰りましょ

御旗のお話

 塀というものには、どの程度の力があるのだろうか。
 実際の所、市中に存在する建物に塀が備わっていた所で、防御の力というものは決して大きくないだろう。
 乗り越えようと思うのなら、容易く乗り越えられる。破壊する手段とて、幾らでも見つけられる。
 だが、塀が有るという事は即ち、これより先を見る事はならぬという警告である。
 例え〝超える事が出来る〟者であろうと、塀があるならば、それを〝超えようとは思わない〟から、塀とは内外を隔てるしきりとして機能する。
 まして、塀に付加価値が有れば、尚更である。
 同じ高さの塀であったとしても、内にあるのが只の平野であるか、或いは宝物倉であるかによって、塀を超えるという行為の意味は変わる。
 その視点で言うならば――この夜、村雨が乗り越えた塀は、日の本で最も尊く、最も〝超えてはならぬ〟ものであった。

「今なら間に合うよ、どうする?」

 塀を乗り越えて向こう側に立った村雨は、未だに路上に留まっている部下達に言った。
 震えは幾分か収まったのだろうが、それでもまだ、常程の力は声に戻っていない。
 恐怖――では無い。〝畏れ〟である。
 自分がしでかしている事が、どれ程に恐ろしい事であるかを知っており、それを部下にまで強制できぬと判断した、小刻みに震える声であった。

「……此処まで来て、あんた一人行かせて失敗して、私達が売られない保障も無いでしょうが」

「あれ、私って信用無い?」

「世界中の全部があんたを信用しても、私だけは信用してやんない」

 そう言いながら、塀の上によじ登ったのは、ルドヴィカ・シュルツであった。
 この国の外で生まれ、この国の外の価値観で育ち、未だこの国に馴染まぬとは言えど、何が禁忌であるかを知る程度には、日の本に馴染み始めた頃合いのルドヴィカである。顔は青ざめたままで、村雨にぶつける憎まれ口も覇気が無い。

「どうせ乗りかかった船よ、このまま沈没してやるわ! 死なば諸共道連れじゃーい!」

「……その開き直り、悪くないね。うん」

 塀を乗り越え、その内側に立つ。これでルドヴィカも共犯者である。
 それ以上を待つ必要は無かった。村雨とルドヴィカが並んで歩き出せば、その後方には部下達が十二人、一人も欠けず二筋の縦列を作って付き従う。

「それじゃ、行こうか。運悪く失敗した時は、えーと……皆で比叡山に逃げ込もう!」

「……娘になんて言おうかなー……とほほ」

 部下の一人、蛇上 離解――名は生来の物だが、姓は己で付けたものらしい――が、肩を落としつつ、縦列の中から一人先へ進み出た。
 村雨もルドヴィカも追い越し、早足で歩いて行く蛇上――その名の通り、蛇の亜人である彼は、手近に見える建物へ、真っ直ぐに歩いて行った。
 ちなみに、であるが――村雨達が襲撃をしかけたこの建築物、いや建築物群に関して、述べる。
 幾つもの建物を、広範囲に渡って伸びる塀が取り囲み、塀の内側には木々が配置されて、風避けや日避け、或いは外よりの視線を遮る役を果たしている。
 主としての役目を持つ建築物は、塀から幾分か離れた中央に集中しており、それを遠巻きに、幾つかの小さな建物が囲んでいる――大雑把に言うと、そんな具合となる。
 村雨達が乗り越えたのは、東側の塀である。其処から真っ直ぐに進むと、幾つかの小屋が有るが、其処はどうも衛兵の詰所のようであった。蛇上が向かったのは、その中の一つである。
 小屋には大きな窓が四方に設けられ、そこから方々に、松明の火が漏れ出している。そこへ蛇上は、ふらふらと歩いて近づき――

「おい、おーうい、おーい兵隊さん、おーい」

 なんとも気安く、中の衛兵に呼び掛けた。

「……! 何や――」

 衛兵は、三人居た。その内の一人、最も窓に近かった一人が、小屋の中から蛇上の襟を掴み、残り二人は咄嗟に槍を掴む。
 すると、蛇上の口から、透明な霧のようなものが、しゅうと吹きだして、襟を掴んだ衛兵の顔に吹き付けられた。衛兵は咄嗟に顔を背けたが、霧を避け切る事は出来ず、幾らかを吸いこんでしまい――

「――っ、か、っご、こ、ひゅぅ、ひゅっ」

 喉の奥から異音を上げ、胸を抑え、その場に蹲った。

「お――!?」

 残り二人の衛兵は、その様を見て、一瞬理解が及ばずに固まった。
 そして、それが祟った。蛇上は口をすぼめ、毒霧を、やや距離のある二人目掛けて吹き付けたのである。
 神経毒なるものがあるが、蛇上の毒霧は、それを弱めたもの。吸い込めば、死にはしないものの、呼吸困難を引き起こす。
 少なくとも、これで動けはしないし、大声も上げられない。それを見て取ったか、後続の皆が、小屋の中へ滑り込んだ。

「で、お嬢。どうするの?」

 三人の衛兵を忽ちに無力化した蛇上は、彼等の衣服を剥ぎ取りながら言った。

「……言う前に分かってるくせにー」

「まあね」

 村雨は松明を倒し、靴で踏みつけて火を消す。夜目の利く彼等に取っては、寧ろ闇こそが心地良い住処である。
 その闇の中で、まずは三人、衛兵の衣服を身に纏った。
 敵の中で動くならば、まずは姿から。忍び込む際には基本の術である。

「あと十一着、剥ぎ取って来る?」

「ううん、十着でいい。私はこのままの恰好で……ちょっと皆、集まって」

 車座になり、十四人は腰を下ろして頭を寄せ合った。あまり大きな音は出せぬので、蚊の羽音の如き囁き声である。

「目標は此処から西の寝所。だけど、本当に其処にいるかは分からないから……何方向かに別れよう。
 私と蛇上さん、阿羅あら無尺むじゃくは北。ルドヴィカ、倫道りんどう阿耶あや邪烙じゃらくながれはこのまま真っ直ぐ。思譲しじょう繕行ぜんぎょう奇璃過きりか杯出はいでやくは南の道を開けて置いて……人を担いだまま走る事になるだろうから」

 十四人を村雨は三つに分けた。自分は足を生かし、やや離れた北の建物へ。ルドヴィカには四人を付けて、一番目標が潜んでいる可能性の高い箇所へ。そして南側へ向かわせる五人は、特に荒事に長けた面々である。

「こっちが見つけたら、私が吠える。ルドヴィカ達が見つけた時は……邪烙、あなたが声を上げて。皆は、どっちかの声が聞こえたら、真っ直ぐに南側へ向かう事」

 全員が、緊張に強張った顔のままで頷く。
 だが誰も、失敗する事を恐れてはいない――自分達がただの人間に、荒事で負けるとは考えていないのだ。畏れているのは寧ろ、自分達がしでかそうとしている事、そのものである。

「質問は?」

「……お嬢、頭は大丈夫? 幾らなんでも無茶じゃない?」

 群れの中で一際若い、村雨と同年代だろう少年――無尺と言う、猫の亜人である――が、体を覆う体毛を逆立てながら言った。
 言葉の選びはさておき、他の面々も多かれ少なかれ、似た様な事を考えている。
 正気の沙汰ではない――ただの誘拐というならまだしも、いやその時点で十分に発想はおかしいが、更に今回は相手が相手だ。少なくとも、この国に住む大半の者は、思い立ちもしないような案である。

「……正直に言って、自信が無い。確かに頭おかしくなってるかも知れないな、私」

 村雨の答えは、殆ど本心そのままであった。
 今、こうして部下を巻き込んで渦中に居ても、自分の行動がおかしいとは理解出来ている。だが、そんな理性以上に、優先するものが有るのだ。

「それもこれも、おかしな人に江戸から京まで連れ回されて、あちこちで揉め事に巻き込まれたせいだよ。全くあの人と来たら、東海道の片道だけで二度も命を狙われてるし、京に来てからも休み無く面倒事に首を突っ込んで行くし、今なんか自分から比叡山の軍に加わって、しなくてもいい苦労を背負い込んでるし。そんな人を好きになったら、おかしくなっても仕方がないでしょ」

「……お嬢の惚気とか初めて聞いたかも」

「無尺、うるさい。……あの人の為に、私はこんな事をしてる。他の誰かの為だったり、あなた達の為だったりとか、そんな綺麗な理由じゃないよ。完全に自分の為に、今から首が飛んでもおかしくないような事をするんだから、そりゃあ頭がおかしいに決まってるじゃない」

 けど、と、村雨は一度、言葉を区切る。

「そんな馬鹿に従って此処まで来たあなた達だって、十分に〝頭おかしい〟集団でしょ?
 私は私の為に、どんな手を使っても戦を止める。その結果、誰か他の人が喜ぶんなら、まあ……うん、それはそれで。めでたいと思う。
 あなた達は、とりあえず私に従ってくれればいい。上手く戦が終わって英雄にでもなったら、お金は多分、困るくらいには貰えると思うし」

「……もうちょっと天下の為だとか良民の為だとか、そういう大義名分は無いんですか……」

 鏨 阿羅――蜘蛛の亜人であるが、隊の内で最も冷静な彼さえが、呆れたような声で口を挟む。

「無い! ……という訳で、馬鹿を上司に選んだのが運の尽き。開き直って頑張ろうか、皆!」

 何時しか村雨から、震えはすっかり立ち去っていた。代わりに、すがすがしいばかりの、そして誰にも有無を言わさぬ笑顔で、村雨は部下達を焚きつけた。
 この時、彼等は初めて、自分達が上司と選んだ生き物の、本質を見くびっていたと気付いたが――後悔先に立たずとは良くも言ったものである。
 他人はさておき、自分の群れは比較的粗雑に扱うのが、村雨という獣の性質であった。
 そして村雨は、いち早く小屋を出て行く。否も応も、端っから聞き入れるつもりなど無いのである。

「……ま、やるっきゃねぇよなぁ。もう手ぇ出しちゃったし俺」

 諦めが半分――それに荒事を楽しむ狂奔の顔も半分と、入り混じった表情で蛇上は立ち上がる。
 なんだかんだと言って、蛇上ばかりでなく、ルドヴィカを除く十二人は、これよりの荒事を期待して目を輝かせていた。
 狭霧兵部和敬という人間の、思うように世の中が傾くのも気に入らない。
 長く大きな戦が続くより、平和な世の中に暮らしていたい。
 そういう考えならば、彼等とて持っているし――その思いに適う方向で、自分達の力を振るう場を与えられたのだ。
 それも、人として、ではない。自分達の本性をそのまま示し、使う事を良しとする環境――良しと言う上司の居る環境で。
 何時しか皆、浮かべた笑みは引き攣ったものでなく、己等の力を確信する、不適なものへと変わっていた。
 なんの事はない。十数頭の獣の群れで、数十とも数百とも分からぬが、人間の群れに一泡吹かせてやろう。そういう意思が確かに、彼等の内に芽生えていたのであった。
 彼等は三方に別れ、迅速に馳せる。途中、巡回に歩く衛兵と遭遇などもしたが――声を出される前に意識を失わせ、その衣服を剥ぎ取った。
 村雨が、直接自分に付いて来るようにと指名したのは三人。その内、蜘蛛の阿羅は、村雨が小屋を出て直ぐに、その後を追って飛び出した。そして今また、残り二人も、自分達を振り回す長を追っている所である。

「ところで、無尺君」

「……なんだよ、おっさん」

 先行する村雨を追い、蛇上と無尺は並んで走っていた。
 蛇上が突然に横を向き、無尺に声をかけたが、その時に蛇上が浮かべていたのは、年少者をからかうのが楽しくて仕方がないというような、つまり厄介な年長者のそれである。
 どこかむすっとしたような顔で、真っ直ぐに正面だけを見て走る無尺に対し、

「失恋おめでとう、強くなれよ!」

 と、立ち止まっていれば背中でも叩いただろう程の馴れ馴れしさで、蛇上は言った。

「……! フーッ!!」

 牙も剥き出しに、無尺は唸った。それこそ、夜中に猫同士が争う際、甲高く立てる声によく似ていた。
 他の面々に比べて分かり易い理由で、村雨に付き従っていた者も居た、という事であった。








 獣の群れが、夜を這う。
 身を低く、光を避け、音を殺して忍ぶ。
 やっている事は、狩りと同じ――静かに近づき、必要ならば一瞬で仕留める。
 ルドヴィカ・シュルツを筆頭とした五人は、誰に気付かれる事も無く、目的の建物の奥へと進んでいた。
 建物というのは、寝所である。
 一棟まるごと、ただ眠る為に設けられた、贅沢の産物――然し華美では無く、欄間などに慎み深く、飾りを施している。
 護衛の兵士は、建物の周辺には多いが、建物の内側には殆ど姿が無い。主の安眠を妨げてはならぬという事か――それがルドヴィカ達には幸いした。
 数人ばかりを平和裏に気絶させ、物陰に押し込んで隠してしまえば、後は楽な潜入行であった。

「……どっち?」

「お高そうな香りは、こっちッス」

 ルドヴィカが行先を問えば、五人の先頭を進んでいた男が、首だけ振り返って答えた。
 床に膝と手を着き、這うように進んでいる男は、邪烙という。村雨と同等かそれ以上に鼻が利く。
 貴人が纏っているような香りは、間違いなくこの建物の、中央から漂っているという。

「ただ……嫌な臭いもするッスね。なんつーのか、こういうお時間にお会いしたくない感じの――」

 邪烙がそうまで言った時、ぎっ、と、少し離れた床が鳴った。
 ルドヴィカ達が歩いている程度なら、軋みはしない頑丈な床である。それを鳴らすのは、中々の巨体であった。
 いや――相当に、でかい。うっかりもすると、一本角の生えた頭が、天井を殴りつけてしまう程である。

「……げっ」

 鬼が居る。ルドヴィカは、己の目を疑った。
 身長は九尺もあるし、腕や脚の太さと来たら、下手な家の大黒柱などよりよほど太い。額より生えた角など、槍の穂先より鋭く光っている。
 日の本全体を見て、何百人と居るかも分からぬ鬼――その内の一人が、この寝殿の警護に当たっているのだ。
 実際に戦場などで出くわした場合、古の剣豪とて泣いて逃げ出したくなる程、鬼とその他の生物とは、基本の性能がまるで違う。異常に頑強で、大地を反す剛力を備える、数十倍の戦力を備えていなければ出会いたくないような相手だ。
 一度逃げよう――相手に見つかってはならぬと、ルドヴィカは後方を指差し、全員で後退しようと指示を出す。
 が、それで御しきれるような面々でも無いのである。
 床ではなく天井を、風のように這う影があった。あまりに高所である為、それはルドヴィカ達の目にすら映らず――天井を伝い、鬼の背後へ回り込んだ。
 そして――四肢に加えて、背に潜ませた四つの〝脚〟で鬼の背に取り付くや、その口と鼻を、ぶ厚い布で覆ってしまったのである。

「……!? っ、っ!!」

 背後からの襲撃者に対し、鬼は腕を後方へ振り回して払いのけようとするも――敵は背中にピタリと張り付いている。
 鼻と口を覆う布は、鬼の顔にべったりと張り付いて剥がれず――息を吸うも吐くも阻害する。
 叫んで誰かを呼ばれる事は無い、が――それでも、単体で尚、軍勢が手に余す大怪物を前にして、

「……ええい、しょうがないっ!」

 ルドヴィカは、後方に向けた指先を、鬼へと真っ直ぐ向けたのである。
 呼吸が出来ずにもがく鬼へ、真っ先に近づいたのは倫道――村雨が最初に部下とした三人の一人、熊の亜人であった。
 彼の武器は、腕。本性を現せば、重量は人の数倍もあろう巨木の如き腕を、背から頭上を越えるように思い切り振りかぶり――

「おっしゃああぁっ!」

「……んぐぉ、っ!?」

 鬼の横っ面を〝ひっぱたいた〟。
 熊の爪は確かに恐るべき凶器であるが、そも、爪など使わずとも、平手打ちの衝撃だけで人を殺すだけの力はある。
 渾身の一撃は、鬼の巨体を大きく揺るがせ――だが、鬼は倒れない。
 踏み止まったのでなく、倒れられなかった。
 顔を覆うように巻き付いた先程の布が、今は伸び、天井から鬼を吊るす紐のようになっているのである。

「……こんな奴じゃなく、お兄様を喰いたい」

「殺しちゃ駄目って村雨が言ってたでしょうが……」

 鬼の巨体をも吊り上げる糸――たがね 阿耶あやの、蜘蛛の糸である。
 止めなければそのまま、鬼の首筋に牙を立てて噛み切ってしまいそうな阿耶を止めながら、ルドヴィカは右手の拳を握り、鬼に近づいた。

「『Anmachen』」

 ばちっ、と鋭い音がして、それ以上に鋭く、ルドヴィカの拳が奔った。
 自分自身の筋肉の一部を感電させ、痙攣によって超高速駆動させ放つ右拳は、更に骨の代わりに腕に埋められた鉄骨によって、重さと硬度を得る。
 鬼の顎を、真下から打ち上げる拳――ごきん、と鈍い音がして、鬼の目玉がぐるりと白目を向いた。

「殺しちゃ駄目って、自分で言ったくせに」

「顎砕けたくらいで死なないわよ、糸解いてやんなさい。……で? 居た?」

 絡まる糸が解かれれば、鬼の巨体がぐらりと傾くが、倫道が昏倒する鬼を支え、倒れる音を鳴らさぬように横たえる。その横で邪烙が、鼻を鳴らしながら、手近の障子やら襖やらを開けて、部屋の内を覗き込む。

「……香の匂いやら女の匂いやらはあるんスけど、誰も居ないっスね……外れ引いたか、もしかして」

「もしかして?」

 空の部屋に鼻面を突っ込んでいた邪烙は、顔を外へ出さないまま、後手に南側を――ルドヴィカから見て、丁度左手にあたる方角を指差した。

「どっかでバレバレになってたかっスねー」

「え? ……うぇー、バレバレっぽいわね」

 ルドヴィカが嘆息し、それから身構える程度に時差は有ったが、暗闇の中からぶわっと、気迫といおうか、殺気とも呼べようものが湧き上がった。
 見れば、闇に溶ける黒衣を纏った、衛士よりも胡散臭い姿の――男か女かは分からぬが、集団がにじり寄って来る。
 得物は、刃物ではない。神聖な主君の住処を血で濡らさぬようにか、鋭く長い針が一本と――衣服より覗き見る腕や脚の太い事から、体術が得手と読み取れる。

「御庭番みたいなもんっスかね、あれ」

 頭巾の内側より、目ばかりをギラつかせる集団は、獣の群れをも竦ませる程の凄みを備えていた。

「さあね。……仕方がない、せいぜい賑やかにぶちのめすわよ!」

 ルドヴィカも此処へ来ては、すっかり開き直っていた。
 愚痴は後で、たんと村雨にぶつけてやろうと――緊張混じりの引き攣った笑みを浮かべながら、両の拳を高く構える。
 ぴしゃん、と雷光が、夜の寝殿に迸った。








「うひゃっ!?」

 無尺は頓狂な声を上げ、顔を両手で覆った。
 彼は丁度、瞳孔を極限まで拡大し、殆ど光も無い寝殿の中を探っていた所であった。

「おいおい、変な声出すなよ」

「煩いな、あの光を見ただろ……目が痛いんだよっ」

 亜人は夜目が利く者が多いが、こと無尺の暗視能力は極めて高い。が、それが祟り目でもあった。
 異様に広い敷地の中でも、ルドヴィカが放った雷光は遍く届き、それを無尺の目はしっかりと拾ったのである。あやうく倒れるまで仰け反った無尺を、蛇上がからかいつつ背中を支えた。

「……むこうが煩くなったけど、あれは?」

「おっぱじめたんだなぁ……都合がいい、俺達の方は手薄になるねこりゃ」

 耳を澄ませていると、建物の外、幾つも足音が南へ走って行く。
 ルドヴィカ達はどうやら、暴れると一度決めたら、これでもかと目立つやり方を選んでいるらしい。稲光のような先行やら、夜闇を劈く咆哮やら、静かだった夜はにわかに祭のごとき喧噪となった。

「で、標的さんはどこじゃいなと。見つけた?」

「見つかんない。……そっちももうちょっと頑張ってよ」

 次から次へと襖を開けながら――ついでに時折、襖の内側の人間を穏便に気絶などさせたりしながら、二人は寝殿の中を歩いていた。
 すると、二人の眼前に、天井から逆さにぶら下がる影が有った。
 鏨 阿羅あら――妹の阿耶あやともども、中堅どころの役人にでも居そうな真面目顔をした、蜘蛛の亜人である。

「うおっ」

「失礼、お嬢は何処に?」

 今度は蛇上が仰け反り、その背を無尺が支える番であった。
 そんな二人を余所に、阿羅は二つの目と、更に髪の中に隠れる残り六つの目――合わせ八つの目で、村雨を探していた。
 が、答えを言うより前に、当の本人が丁度、向こう側の廊下を曲がって、此方へやってくる所でもあった。

「おっ、流石お嬢、嗅ぎつけて来た」

「え、何、何々? 何か有った?」

 村雨の方も、一通り見つけた部屋を漁り、だが目標を発見できずに居た所である。それで一度合流しようとしたところ、蛇上のこの言葉――足音を立てぬ小走りでやってきた。

「何か有ったと言えば有ったのですが……その、どうにもこうにも、うむ、ええと」

 阿羅は天井から逆さに釣り下がったまま、眉根を下げて――この場合〝上げて〟となるのかも知れないが、困り顔を作っている。妹の無理を押し付けられている時も、大概はこの顔である。

「来ていただけませんか? 私ではどうしてよいものか、些か計りかねまして……」

「……うん……?」

 先導する阿羅だけが上下逆になったまま、その後を村雨達が付いていく。
 と、阿羅が向かったのは寝所として用意された部屋では無く、そこから幾分か離れた、物置のような場所である。その前に立ち止まった阿羅は、困ったようなといおうか、助けを求めるような顔をしていた。

「この中に、どうにもですね……誰か居るのは、確かなのでしょうが、その」

「ああー……」

 困ったような顔になるのは、村雨も同じであった。
 床板の軋むような音に、苦しげだが喜悦も混じった声と――端的に言うと、二人して励んでいる最中のような物音が、物置の戸の向こうからするのである。

「なんだい、この程度の事でまごついて――」

 戸の前で鼻を一度ひくつかせ、開けようか開けまいか逡巡する村雨――の横から、無尺が進み出て、戸に手を掛けた。
 一息、ぐいっと、思いっきりである。ぴしゃん、と小さく音が鳴る程、強く戸が開かれて、

「ひゃっ!」

「きゃあぁっ!?」

 高い悲鳴が二つ、殆ど同時に鳴った。

「あっ」

 戸の向こう側では、あられもない恰好をした女官が二人、折り重なるようにして逢瀬の最中であった。
 片方、年若であろう側が、年長の女に圧し掛かり、髪を首や背に張り付かせて、頬を上気させている――そういう光景を目にし、

「……ご、ごめん」

 開いた戸を、そのままに閉じる無尺であった。

「……『この程度の事でまごついて』?」

「おっ、女同士は想定外だろっ!?」

「私は何も見ておりませんゆえ、ええ」

 蛇上がねちっこく冷やかすのを、しどろもどろに反論する無尺と、その背後できっちり目を両手で覆い隠している阿羅。三者三様の反応を示している横で、村雨は未だに鼻をすんすんと鳴らしていた。

「ねえお嬢、流石に女同士だったら驚くよね? ね!?」

「いやいや無尺、お前は男と女が抱き合ってたってああなる奴だ、おっさんにはよーく分かる」

「嫁さんに逃げられたおっさんが偉そうに……!」

「あっ、あっ、それ言わないで、心に刺さる――っと、お嬢?」

 ぽんぽんと軽口をぶつけ合う二人を、村雨は横へ押しのけ、戸の正面に立った。
 戸の向こうの物音は静まって、時折、衣服を直してでもいるのか、衣擦れの音だけがするのだが――

「蛇上さん、無尺、走る用意。阿羅、ちょっと来て」

「……はぁ? っ、いや待って、目をふさっ」

 阿羅が止める間も無く、村雨は再び戸をあけ放つと、物置部屋の中へずかずかと踏み込んだ。
 改めて見てみれば、それなりの広さのある室内である。
 部屋の殆ど真ん中に、先の二人が身を寄せ合って座っていて、周囲には何やら、きっと宝物であろう美術品やら反物やらが並ぶ。
 村雨はその部屋を、真っ直ぐに突っ切って歩き――壁際に置いてある、質素な木箱の前で立ち止まった。

「阿羅、こっち来て、こっち」

「は……そこの二人、早く服を着なさい。私の目に毒だから」

 未だに律儀に目を手で覆いながら、阿羅は村雨が手招きするまま、その隣に立ち――そして村雨は、木箱の蓋を取り去った。
 その中には、人間が居た。
 服装もそうだが、顔立ちも、表情も、何か〝やんごとない〟人間が、箱の中に隠れていたのである。

「……あなたは?」

「つまらぬ下人にございます、お慈悲を――」

 まるで恐れなど感じていない風に、その男は言って、木箱の中で立ち上がった。
 何をしていたかは言うまでもない――覗き見である。この先客に、女官二人も気付いていなかったと見えてか、年若の一人が男を指さし、口をぱくぱくとさせていた。

「み、みっ」

 女官はそこまでを言って――はっと気づいたように、口を両手で覆った。
 が、遅かった。

「……確保! 逃げるよ、みんな!」

「ははぁっ!!」

 行動は迅速であった。
 阿羅の吐く糸が、忽ちにその男を縛り上げ、村雨がそれを肩に担ぐ。

「おおっ、攫われてしまうぞ。これ、狼藉者、せめて落ち着いて名乗ってはどうか――」

「暫くお静かに! 舌噛まれると困るからね!」

 この段階まで来ても落ち着き払った男に、一応の警告だけを発し、村雨は真南を目指して駆けだした。
 先に決めた通りである。南へ走り、皆と合流し、南の塀を超えて脱出する。
 その後は、まだ村雨の胸の内に仕舞っている。隠していると言うのでもないが、急ぎの策故、じっくりと言い聞かせる間も無かったというだけの事だ。
 村雨は、吠えた。
 人の声で叫ぶのではなく、狼が夜に遠吠えするが如く、低く長く、うねるように吠えた。
 耳にした者が本能的に、身を隠すか、或いは抗うかを選ばされるような、怖気を呼ぶ声。左右を並走する部下でさえが、軽く身震いを起こしていた。
 暗がりを抜けて、少し光の多い所が近づいて来る。松明の火だ。
 幾人かが松明を持ちより、地上に固定し、対象物を目視しようとした痕跡である。
 炎はゆらゆらと、光量の一定でない灯りとなり、それに時折、黒衣の集団が照らし出されていた。

「ルドヴィカ!」

「……! 見つけたの!?」

 黒衣の集団が包囲する中央に、ルドヴィカを含む五名が集まり、迎撃の体勢を取っていた。
 何れが有利かと見れば――既にルドヴィカ達の周りには、十数人ばかり、地に倒れ伏す黒衣衆の姿。
 もはや隠密行動など諦めて、全力で殴り倒す腹を括ったのであろう。ルドヴィカは両腕に磁力を纏わせ、砂鉄で腕を覆い、鎧に変えて振り回していた。
 それでも、敵の残りはまだ十数人ばかり――包囲は分厚い。それを見て取った村雨は、肩に担いでいた男を、蛇上に押し付けて先へ進み出たのである。
 黒衣衆から二人ばかりが、それまでとは訳の違う殺気を滾らせ、村雨へ襲いかかった。賊徒の長と見抜いたのであろう、必ず殺すと定めてか、心臓と眼球をそれぞれの持つ針が、最短距離で狙っていた。
 ひゅうっ。
 と、風が吹くような音がした。村雨の左右の拳が、引き戻される音であった。
 過たず一人に一撃、顎を討ち抜く打撃――鎧を身に着けぬ近代の格闘術である。これで二人が昏倒した。
 その二人が倒れるより早く、次もまた一人、村雨の左手側から、身を沈めて馳せ寄る者が居た。両膝を腕で抱き捉え、地面に引き倒そうという腹である。
 右膝が、その一人のこめかみを討ち抜く。これもまた、一撃であった。
 そして、次は村雨から走った。
 闇に紛れて背後に回り込もうとする者が居たのだが、如何に彼等が夜目が利くとは言え、それは人狼たる村雨以上では有り得ない。捉え、彼以上の速度で、彼の背を取った。そして背後より、右拳を回しこむようにして顎を打ち、昏倒させた。

「――――――」

 黒衣衆は、尚も村雨に襲いかかる。無言で為される連携と、任務に対する遂行意識は、恐るべきものであった。
 だが、村雨には届かない――物理的に、得物の切っ先が追い付かない。
 速度こそは村雨の、最大の武器である。軽量の不利も、尋常ならざる速度を以てすれば、十分以上に補えるのだ。
 一人に対し、一撃。迫る凶器に身を翻し、擦れ違いざまに急所を打ち、次々に沈めて行く。
 会敵より、ほんの数十秒の後、ルドヴィカ達を包囲していた十数人は、悉く意識を飛ばされていた。

「ん、行くよ」

「……ぁ、ああ、うん……うん!?」

 何が起こったのか、ルドヴィカの目では追い切れぬ光景であった。気付けば包囲が潰され、そして再び村雨は走り出しているのだ。
 呆気に取られたまま、それでも先を行く村雨を追うルドヴィカは――下手な愚痴も言えぬのではと、心中、肩を落とす。

「お嬢、強えなぁ……なぁ無尺、お前あれに勝てる?」

「……無理だろ、絶対」

「……だよなぁ。でもさぁ、お前そこはせめて、惚れた相手に負けを認めちゃ」

「煩いっ」

 そしてまた、同じように震え上がる部下も、二人ばかり居たのであった。
 合流し、倍の数になった群れは、もはや身を隠す事もせずに走る。
 南の塀の付近では、これまた亜人が五人ばかり、兵士を蹴散らして道を開けていた。
 思譲しじょう繕行ぜんぎょう奇璃過きりか杯出はいでやく――村雨に指名されたこちらの五人は、紛う事なき荒事好きである。
 道を塞ぐものは何も無い。
 そして村雨の走る先には、さしたる高さとも言えぬ塀がある。

「立ち止まれば間に合うが、どうする?」

 村雨に担がれたままの男は、のんびりと、諭すような口ぶりで言う。

「私を置いて逃げれば、まだ罪は軽いのであろうが、そのまま塀を越えれば大罪ぞ。今の内に遠く、遠国まで逃げるのが良いと思うが」

「残念ながら、お断りします」

 それを聞き入れず、村雨は跳んだ。
 かくして村雨とその部下、併せ十四人は、一夜で大罪人となった訳であるが――然しそれは、大々的に宣伝される事は無かった。
 このような事が知れ渡れば、責を負う者の首が飛ぶどころか、連座でまた幾つか首が飛ぶ程の大ごとである。
 そしてまた、三日後の戦に備え、二条城は慌ただしく蠢いている最中である事も幸いした。
 人攫い――というには、あまりに畏れ多い罪ながら、踏み越えた村雨はいっそ、すがすがしささえ有る顔で、夜の洛中を駆けるのであった。








 夜――堀川卿は一人、自分の尾を枕に横たわりながら、天井を眺めつつ思案に耽っていた。
 堀川卿は、日の本の『錆釘』の、殆ど統括のような位置に在る。
 自分から表だって働く事は少ないが、人員の配置やら資金繰りやら、そういう裏方仕事を務める女である。
 この夜、堀川卿は、政府よりの要請にどういった返事をするか、頭を働かせていた。
 〝比叡攻めは三日後とする、最良の戦力を整えろ〟――狭霧兵部和敬、直々の厳命。
 朔の夜でなければ、比叡の山に攻め入る事は出来ないと、堀川卿は知っていた。それに例外があるとすれば、即ち比叡山を守る〝神代兵装〟の力が消え失せた時――つまりは比叡山の座主が死んだ時である。

 ――暗殺か。

 敵将の暗殺を謀るのは、戦ならば当然の事と、己に言い聞かせる。
 だが――死ぬのは、ただの僧侶。悪を為さず、善を積み上げて老いた僧侶である。
 そして、その死が齎すのは、より多くの死。
 守りを失った比叡山は、狭霧兵部の軍勢と――あの巨大砲〝揺鬼火〟に蹂躙されるだろう。
 その蹂躙に加わる兵士を、貸し出せというのだ。
 断る利点は無い。元より負けの見えぬ戦であるし、報酬は十分に与えられるとも知っている。
 然し、その戦とは真っ当な戦いでなく、弱者を一方的に殺戮するばかりの、地獄絵図を描く行為であるのだ。
 そういう行為を、喜ぶ者は多くない。望まぬ戦に誰かを駆り出し、誰かを殺させるというのは――心の痛むことであった。

「嫌やわぁ……」

 弱音を吐いても、聞き咎める誰もいない。堀川卿は存分に嘆き、髪に顔を埋めては、子供のように啜り泣きもした。
 そうしていると、ふと、耳に奇妙な音を聞く。
 足音だが、普段聞いているより数が多すぎる――十数人ばかりぞろぞろと、自室に近づいて来るようであるのだ。

「………………」

 基本的に、堀川卿の私室には、呼びつけた者以外の立ち入りは無い。
 案内役として、子供を一人ばかり使っているが、どう聞いても足音の重量は、その子供のものではない。
 夜分遅くに、招かれざる客が近づいているとなれば、堀川卿には心当たりが多すぎる。己が幾度殺されようと、世の恨みは尽きるまいと知っている女であるのだ。
 長い――最長の部位は五丈にも及ぶ髪が、部屋の床を這い、敷き詰められる。
 堀川卿の頭髪は、人間の指より精密に動く、一種の凶器である。いざとなれば、人の眼窩から侵入して脳髄を掻き回し、絶命に至らしめる事さえ可能である。
 来るならば、来い。
 そして――それで死ぬとしても、それはそれだ。
 一種の諦念さえ交えて身構えた堀川卿の眼前で、部屋の戸が押し開けられた。

「あのー、すいませーん……」

「……む、村雨ちゃん……? なんや、驚いたわぁ……」

 そこに居たのは、 『錆釘』に所属する少女――と、ぞろぞろと頭数を揃えた、亜人の群れであった。
 堀川卿の脳内分類では、村雨は、〝芯はあるが人の良い少女〟とされている。少なくとも、自分を害する存在ではない筈である。
 が――村雨が担いでいる〝荷物〟を見れば、その安堵も何処かへ消し飛んで行こうというものだ。
 その荷物は、村雨によって床に降ろされると、腕を蜘蛛糸で縛り上げられたまま、呑気にぐるりと部屋の内を見渡して言った。

「おお、堀川卿だな。日々の忠勤、誠にご苦労。在野に留めるには惜しいと、常々思うているのだぞ」

「は――はっ、い!?」

 話は変わるが、堀川卿は、権力者に対して顔が広い。
 一般構成員が到底出入りなど出来ぬような箇所に出向き、一人で商談を纏めたり、或いは何か助言をしたりと、兎角高貴な人間とは縁深いのである。
 が――それでも、顔を知らぬ相手も、居ると言えば居る。例えば、如何なる時も御簾の向こうにおわし、また堀川卿も平伏して接する相手だ。
 然し、声は覚えている。また、匂いも忘れる筈が無い。
 つまり――〝此処に居てはならぬ〟お方が目の前にいるのだと、堀川卿は気付いたのである。

「むっ、村雨ちゃん、どういう事なん!? 村雨ちゃん!?」

 普段の姿からは予想も付かぬ程俊敏に、堀川卿は村雨の肩を揺さぶった。見ようによっては、男に縋り付く愁嘆場にさえ見える程、泡を食った顔であった。

「えーと、その……あは、あっはははは」

「この娘に攫われたのだよ。堀川、寝床を貸してもらうぞ、よっぴて覗きは、流石に眠気が来る」

「さ、攫……わ、わわ、わ」

 そこで、折からの心的疲労やら何やらが、どうにも上限を振り切ったものであるらしい。堀川卿は、ぱったりと仰向けにひっくり返ってしまったのである。








「う~、う~……ううう」


 日付は変わり、帝国の暦を用いれば、1794年2月27日。すっかり日が昇ってしまってからとはなったが、漸く堀川卿は目を覚ました。
 自室の布団の上に移動させられ、額には濡らして絞った手拭いが乗せられている。まさに病人の待遇である。
 まだ視界が暗いようにも思えるが、それでも無理に目を開くと、真上から覗き込んでくる顔がある。

「あのー……大丈夫ですか?」

「うちは村雨ちゃんほど頑丈やないからなぁ」

 皮肉を返しても、真上にある顔は表情を変えない――村雨であった。

「……呆れてものも言えんわ」

「すいません」

 上体だけを起こし、堀川卿は嘆息する。
 村雨がしでかしたのは、ただの誘拐ではない。よりにもよって、この日の本で最も触れてはならぬ人物に対して、村雨はそういう事をしでかしたのである。
 素直に頭を下げる村雨をよそに、堀川卿は部屋の内をぐるりと見渡した。すると、部屋の真ん中の方に布団が敷かれていて、誘拐されて来た当人が、すうすうと寝息を立てているのが見えた。

「……説明して貰えるんやろね。場合によっては、村雨ちゃんばかりやない、うちの首まで飛ぶで」

「錦の御旗をお借りしようと思いました」

 村雨は、崩していた膝を畳み、その上に手を置いて言う。

「錦の御旗」

「はい。兵部卿よりもっと上から、比叡を囲む兵を引けと命じてもらう為です」

「出来ると思うてるんか」

 堀川卿の声は冷ややかであった。
 権力に対し、権力で反抗する――それが叶うというならば、確かに有効であろう。狭霧兵部が人を縛る術は欲と恐怖であり、利害である。即ち利害を以て切り離し得る。
 然しその対抗策こそは、狭霧兵部とさして変わらぬものなのである。
 権力者を脅迫し、自分に与するよう仕向ける――

「逆賊の手口や」

 つんと突っぱねるように、堀川卿はそっぽを向いた。

「私は、この国の人間じゃないですから」

 村雨の答えは、深刻さをまるで感じさせぬものであった。
 あまりの軽率さに、堀川卿は、つい先ほど横へ向けた首を、ぐるりと村雨の側に回す。

「ついでに言うと、そもそも人間でもありません。逆賊だとか、官軍だとか、そんな事は関係ないんです。私がそうしたいかどうか――それを貫けるかどうか。強いっていうのは、そういう事だと習いました」

「……松風 左馬に師事してたんやてねぇ」

「それも有りますが」

 言葉を区切り、村雨は堀川卿へ顔を寄せた。暴挙に開き直った、晴れ晴れとした顔である。

「あなたに、絶対に譲れないものはありますか」

「そういう事は、答えないようにしとる」

「私には、有ります。昔から意地は有りましたが、割と最近に、別なものに変わりました。その為だったら、世の中の決まりだとか伝統だとか知った事じゃない……それくらいに大事なものです」

「その為に死ぬとしても?」

「死にませんし、譲りません」

 まるで子供の我儘である。
 然し、この子供は、何処までも真っ直ぐに、全身全霊を以て、その我儘を通そうとする。

 ――変わった。

 目的が己の内でなく、外にあるからか。
 自分の為だけであれば、こうまで我を張れる少女ではなかった筈。堀川卿は、自らの目と耳をまず疑い――

「……駄目言うたら、噛み付かれそうやねぇ」

 諦めたように、首を左右に振った。
 こうなればきっと、村雨は譲らない。生来の意地っ張りが、かっちりと譲れぬものに噛み合ってしまったのだ。
 良し、と肯定は出来なかったが、もはや窘めたり、阻止を計ったり、そういう事は無意味であると、堀川卿は深く理解した。

「変革は何時も、外側からだ。それがこの国よ、のぅ、堀川」

「は――、っ!」

 諦念たっぷりに俯いた堀川卿を、親しげに呼ぶ声――いつの間にか〝男〟は目を覚ましていた。
 堀川卿は布団から跳ね起き、床に膝を着いて低頭する。
 〝男〟は横になったまま、その姿を見ずに続けた。

「五十年前よりも変わらぬ。大きな変革をもたらすものは、常に外から訪れる。あの時は黒船で、或いは今は、この異国の娘なのやも知れんよ……村雨と言ったか」

「……はい」

 名を呼ばれ、村雨は居住まいを正す。
 堀川卿との正対は、不敵ささえ滲ませていた村雨であるが、この男の前では、自然と背筋が引き伸ばされる。
 こういう資質は、生来のものかも知れない。
 言葉を一つ、二つ、飾りもせず発するだけで、その場の頂点は〝男〟となるのだ。

「私は、お前に与する事はできぬ」

「……!?」

 そして〝男〟は、当然の事を繰り返すかのように言った。

「私は狭霧兵部を、信頼はせぬが信用している。あの男の手により、この国は外の強国に肩を並べ、やがて追い抜くだけの力を手に入れると。その為に必要なのが、あの男の酷薄なる事と、〝大聖女〟――エリザベートの奇跡であると」

「それはっ……!」

「民の命を省みぬ、と誹るか」

 声を上げた村雨へ、〝男〟は手を翳して言葉を止めさせる。

「然り、である。私は、我が世の民の犠牲を以て、この国に恒久の平和を齎そうと思う」

 天上に立つ者は、或いは地上を這う者と、まるで違う目で世界を見ているのかも知れない。
 己を人間でないと称した村雨でさえが、〝男〟に、〝人でない何か〟を見る目を向けた。

「人には、生まれる時が定まっており、生まれる場所が定まっている。ならば為すべき事も定まっているのだろう。私は、それが天命というものであると思っている。私もまた、稀代の悪王として名を馳せるが為に生まれたのであろうよ」

「は……?」

 人でないものには、人の道理が通じない。〝男〟は全く穏やかに、道徳とはかけ離れた次元で、己の信念を語るのだ。
 譲らぬと、目が語る。
 頑な――というのは、違うのだろう。そも、他者の言を受け入れるという概念さえ、有るのかも分からない。
 天上の理屈を用いて、〝男〟は村雨を諭すのだ。
 もしかすればそれは、この国の〝人〟であれば、頭を垂れて無条件に受け入れるべきものであるのかも知れなかった。

「従って私は、狭霧兵部が為す行為を止めず、エリザベートなる女が神に成り代わるのを助けてやろうと思う。八百万の神にひとはしら加わった所で、天上の座が狭くなる事はあるまい」

「いっ――」

 村雨は顎を下に落とし、丸く開いた喉の奥からしばらく唸り声をあげて、それからやっと続く言葉を選んだ。

「――意味が分かんない」

「こ、こらっ、村雨ちゃんっ!」

 〝男〟が天上の理屈を振るうのに対し、村雨も、もはや〝人〟ではなかった。
 狭義の〝人間〟という意味ではない。或いは堀川卿など、〝人〟であるのかも知れない。
 〝人〟であるなら、必ず平伏すべき権威、絶対性――そういったものを、例え畏れながらであろうとも、拒む。
 その点を以て見るのなら、村雨は既に、人であろうとする事をやめていた。

「だって、この人、何言ってるのか分かりません! 誰かを犠牲にして? こ、こうきゅう……の?」

「恒久の平和を築く、と言った」

「そう、それ! もうそこからぜんぜん分からない! 高俅だか九紋龍だか知らないけど!」

 顔を青ざめさせた堀川卿の横で、村雨は一息にまくし立てる。

「理解ができぬと?」

「今生きてる人を大事にしないで、どうやってこの先を良くするのか、あなたが考えてる事は何も分からない!」

「ほほう」

 然し〝男〟には、暖簾に腕押しと言うべきか、まるで堪える様子が無い。鷹揚な顔のまま、静かに幾度か頷いて、村雨の主張を聞く――聞き流すばかりである。

「むー……!」

 遂に村雨も業を煮やした。がっしと、〝男〟の手首を掴んだのだ。

「おっ」

「来て!」

 足音荒く大股で――背がさして高くもないので、歩幅も推して知るべし――村雨は、堀川卿の部屋を出て行く。腕を引かれる男も、素直に引かれるままでそれに従った。

「むっ、村雨ちゃん!? 何処行くん!?」

「ちょっとお散歩して来ます!」

 部屋の扉を閉める事もせず、村雨は通路へ飛び出し、部下達がその後を追う。
 堀川卿が引き留めようとする余地も無い、全く突風の如き有様である。
 がらん、と途端に静寂の訪れた部屋の中で、

「村雨ちゃん……悪い人と付き合うから……」

 堀川卿は一人、胃痛の予感に頭を抱えていた。








 春の足音が近づいて尚も、京の大路には雪がたんと残っていた。
 どうにも今年の雪は根が深い。少し溶けたかと思えば、また継ぎ足すように振って来て目方を増す。
 然し、日中は風も穏やかに、日の光も和らぎ始め、ぶ厚く何枚も重ねていた衣を、一枚ばかり減らして丁度良い程になっていた。
 そういう具合の光の中を、貴人の女のように衣を担いで歩く男が――〝男〟が居た。

「のう」

「………………」

「これは、何処への御行ぞ?」

 今少し、精密に描写する。
 衣を担いで顔を隠しながら歩く〝男〟を先導するように、村雨が、赤心隊の羽織姿で歩いている。
 その二人から、心持ちいつもより大きく距離を開けて、ルドヴィカ・シュルツを始めとする、村雨の腹心たちが追いかけている。
 総勢十五人の行列である。
 流石に擦れ違う町民が、一度か二度、振り向いて目で行く先を追いかける程には、悪目立ちする光景であった。

「良いから、着いて来てください。自分の目で見て」

「何を。街か、それとも人か」

 村雨とて、癇癪で堀川卿の部屋を飛び出した訳では無いのである。
 村雨は〝男〟を、為政者が座す高みでなく、町人の視線に立たせたかったのだ。
 然し、その思惑は、どうにも〝男〟に見破られている様子であった。

「良く見てください。あっちを歩いてる人も、そっちの建物から覗いて来てる人も」

「幾年か、以前に見たより面に陰りがある。市街地での戦は短かったにせよ、心憂きはやはり戦火か」

「……分かってるくせに」

 被衣かつぎに隠れた顔に如何なる表情を浮かべてか、〝男〟の声に初めて、鷹揚さ以外の色が混ざった。
 鎮痛な声が示すのは、憂いである。

「なればこそ。なればこそこの国は、強く生まれ変わらねばならぬ。この痛みをこの都、この時のみに止める為にも」

 それでも尚、〝男〟は持論を譲らず、寧ろ増々誇るように、胸を張って歩くのだ。

「だーかーらー!」

 先を歩く村雨が振り返り、噛み付かんばかりに犬歯を見せて唸る。だが〝男〟は、考えを改める様子が無い。
 寧ろ、言っても聞かぬ幼子を宥めるように、しっとりと、言葉一つ一つ噛み締めるように言う。

「海の外は広い、私は父より聞かされた。この国が二千年以上に渡って積み上げた力は、海の外へ運べば、一吹きに消える蝋燭の燈火の如しであると」

 〝男〟は幾分か足を速め、村雨の横に並んだ。

「世界地図なるものを、見た事が有るか?」

「………………」

 無言で村雨は首を振る。
 大陸の、大帝国本土と周辺国家を描いた地図ならば、見た事がある。
 西に海を越えて直ぐの五指龍の国の地図も、見た事がある。
 だが、そういった巨大な国々を、一つに描いた地図であれば、見た事が無い。

「世界に比せば、この国は小さい。小さき者が大なる者に勝つには、弁慶を下した義経が如き、武と知が必要となる」

「……衣川は綻びました、巻き添えを連れて」

「それも力が足りぬ故、よ。糸が乱れぬように固く、固く結ぶ。それが私の天命であると、私は父より教えられた。そしてまた、私自身がそう考えている」

 〝男〟は脳裡に、世界の地図を焼きつけている。そして、その世界という枠の中で、日の本が如何に小さく、後進の国であるかを――或いは信仰とも呼べる程、強く信じている。
 歩む足がまた速まり、何時しか〝男〟は、この小集団の先頭を歩いていて、村雨がそれに付き従う形となっていた。
 強さとは何か――村雨の師、松風左馬の定義を借りるなら、どれだけ我儘で居られるかである。
 この瞬間、村雨は我儘の度合いで、この〝男〟に敗北を喫していた。
 まだ村雨は、こうまで無条件に、自分の理屈を信じては居られない。
 正しいと信じたものも、何らかの根拠を示した上で反論されると――その根拠に理解が及ばない事も含めてだが――抗戦の手立てが無くなるのである。
 それでも、何かは無いかと、村雨は目を動かす。すると――

「……あっ」

 その時に探していたものと、全く別なものを見つけた。
 老婆が如き白髪の、眠たげな目をした少女が、菓子を扱う店の前に立っているのである。
 狭霧 蒼空そうくう――狭霧兵部和敬の娘であり、剣技日の本一の達人。今の村雨の立場としては、日の本政府の所属という点は同じながら、関わり合いになる事も少ない相手であった。
 蒼空は、何をしていたという訳でもない。ぼんやりと、店先に並ぶ品物を眺めているようであった。
 だが、村雨には、それが何故か分からぬが、〝何かやる〟という予兆に見えたのだ。

「ちょっと――」

 声を掛けようと、〝男〟を放置して小走りになった村雨の目の前で、蒼空は売り物の饅頭を無造作に掴み、齧った。
 そして、店の主人が見ている前で堂々と、代金も払わずに立ち去ろうとするのである。

「――あ、こらっ! ちょっと待ったあっ!」

 大声で呼びとめながら、村雨は蒼空に追い付こうとした。
 ところが蒼空は、自分が呼び止められたという事にも気付かず、もう数歩ばかり、そのまま歩いて行くのだ。
 村雨が正面に回り込んで初めて、蒼空は、何か接触を図られていると理解したらしかった。

「あなた、お金はちゃんと払った?」

「……?」

 眠たげな目が丸く開かれ、蒼空は無言のままで首を傾げた。幼子に異国の言葉で語り掛ければ、こうもなろうかという無垢な顔である。

「お金。お饅頭、勝手に取ったでしょ。駄目でしょ?」

「……なんで?」

「いや、なんでって……当たり前でしょ!」

 様子があまりに幼いものだから、村雨も思わず、子供を窘めるような口振りになる。
 だが、蒼空はそれ以上に、子供以上に言葉が噛み合わぬのである。

「んー……お腹空いた、じゃ、駄目……?」

「駄目に決まってるってば、何言ってるの……おじさんも!」

「ほい!? 儂か!?」

「そう、おじさんも何で黙ってるの! 怒らなきゃ駄目でしょ!」

 あまりに噛み合わぬが為か、村雨の矛先は、菓子屋の店主にまで向いた。然し店主は、両手と首を同時に振ってこう言うのである。

「何時もの事やし、政府の偉いさんからお金貰うたりしたらどうなるか……怖いやろ、な?」

「はぁ……いや、怖いって、いやさあ……」

 往来のど真ん中、村雨は、右手に蒼空、左手に店主を置いて、双方平等に問い詰めていた。
 これがまた――端的に言えば、目立つのである。
 赤心隊の赤羽織に、異国の生まれとはっきり分かる灰色の髪。蒼空も洛中では、ちょっとした有名人ではある上に、村雨の後方にはぞろぞろと、がたいの良いのやら強面やらが十数人。
 この一団は、やたらと衆目を引いていた。

「店主殿、失礼。この少女の飲食分は私どもが支払いますので、ついては明細を……」

「お嬢、お嬢、一度どこかへ行こう。子供を叱るのは目立たない所が良いって、な?」

 流石に居心地が悪くなったか、村雨の部下の内から二名が、場を収めようと進み出た。たがね 阿羅と蛇上 離解(りかいである。
 冷静が取り柄の阿羅は、店主に金を握らせつつ、穏便に事を運ぼうとする。一方、自分も子持ちである蛇上は、蒼空がどういう少女であるかをなんとなく察して、まずこの場を離れようと提案した。

「むぅぅ……」

 村雨も、喉から唸り声を上げながら周囲を見回した。
 確かに頭を冷やして見れば、これ以上に人の目が集まるのも、何となく居心地が悪い。常ならば兎も角、今は〝男〟を連れ回している最中でもあるので、尚更に留まるのは愚策である。

「えーい、もう! お饅頭はそのままでいいから、ちょっとこっち来なさい! こっち!」

「……こっち……?」

 何も分からぬ様子の蒼空の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張るようにして、村雨は人通りの少ない細道へと向かう。
 その後を、部下達が、目立つ格好と少しでも抑えるようにと、身を縮めて負い掛け――

「おうい。捕まえておらねば逃げるぞ、おうい」

 〝男〟は群れの一番後ろを、これまたのんびりと歩いて追いかけるのであった。








 どれ程が経過したかというと、まだ然程の時間も過ぎていない。
 ほんの少しだけ太陽が傾いて、またほんの少し影が伸びたと、その程度の事である。
 場所は大いに異なって、細い通りを三つか四つか、東へと進んだ所であった。
 鴨川を挟んで西は、西洋風の街並み。東側は日の本に由来の、背も低い建物の並ぶ、のんびりとした街並みである。
 その中を、ぽつんと一人、狭霧蒼空が歩いていた。

「……おかね」

 掌に載せているのは、少額の銭――五枚の一文銭である。これで何をするかと言うと、これから餅を買いに行くのだ。
 店が何処にあるかは、普段より歩いている街であるので、十分に分かっている。
 だが、蒼空は、買い物と名の付く一切を、生まれてこの方、自分で行った事が無かった。
 為に、手の上にある金属が、どういうものであるのか、さっぱり理解が及んでいなかった。

「お嬢、なんで俺達はまた」

「しっ、黙って見てる」

 そして、己の手を見つめながら歩く蒼空を、十数間ばかり離れて尾行する影が――ぞろぞろと、在った。
 先頭に居るのは、村雨。その後に彼女の部下達が続いており、

「また盗みでもしでかすやら、それとも穏便に済むやら。いずれで踏んでいる」

「……いーから黙っててください、もー」

 〝男〟も誘拐された立場の自覚が無いのか、村雨の肩越しに、蒼空が歩いて行くのを眺めていた。
 如何に離れていようと、この人数では、蒼空には気付かれているだろう。だが彼等はこそこそと、物陰から頭だけを突き出して、蒼空を追いかけているのである。

「このような戯れで、私の心が揺れ動くと思っているのか?」

「………………」

 ふと、首を家屋の影に引っ込めながら、〝男〟は村雨に問うた。
 村雨は、直ぐに明言は出来なかった。思う事が複雑に絡み合っているからだ。
 そもそも今現在、村雨達が何をしているかというと、狭霧蒼空に買い物を学ばせている最中である。
 あまりの常識の欠落ぶりに、村雨が業を煮やした形であるが――それに〝男〟を巻き込んだ事にも、幾らかの理由は有るのだ。

「……あなたは、地図に乗らないような小さい道を、歩いた事がありますか?」

 村雨は、蒼空から視線を外さぬまま、後方の〝男〟に問う。

「ふうむ、答えに窮するな」

「世界地図がどうこう言ってたけど、そんなの、街で普通に生きてたら、ぜんぜん分からない事だと思います。
 あなたがどんなに広い目を持ってたとしても、それを分かり合える人なんて殆ど居ないって」

「解されぬ事も、王には――天上の意思には、また避けられぬ事であろう」

「じゃああなたは、普通に生きてる人達の事を理解してますか?」

 二つ目の問いだが、村雨は答えを待たない。隠れている体裁ばかりは繕うように、小さく曇らせた声のまま、〝男〟に問い続ける。

「『幾年か、以前』って言いましたよね。街を、普通に生きてる人の顔を見たのは」

「然り。これで多忙の身故な」

「その以前に、どれくらいのものを見たかは知らないけど……今度はちゃんと見てもらいます。外国がどうとか、百年先がどうとか考えない、今日はどうしようか、明日はどうしようかって考えてる、本当に普通の人の暮らしを」

「その行為を以て、そなたは私に何を伝えたい?」

 事が此処へ来て、漸く〝男〟の理解の外へ出たのか、〝男〟はまた、蒼空が歩いて行くのを眺め始めた。村雨が促すまま、見世物の観賞を再開したのである。

「実際に見てみると、なんだろ……色々と、思ってたのと違うって事が、結構ありますよって」

 村雨達が見ている中、蒼空は茶屋に辿り着き、掌に載せた銭を差出しながら、手近な店員に焼き餅を要求した。
 店員は五文の銭を受け取ると、代金に相応しく、焼餅を五つ、竹の葉に包んで渡す。
 それを受け取った蒼空は、何やらきょとんとした面持ちで、真っ直ぐに村雨の方へと歩いて来るのであった。

「気付かれておるようだが」

「いーんです! ……ね、どうだった? ちゃんと買えたでしょ?」

 村雨は、蒼空の正面に立って、大きく一つ頷きながらそう言った。すると蒼空も、こちらは小さくだが同様に、一つ頷いて返す。
 その動作に何か、ひっかかるものを感じ、村雨は蒼空の顔を覗き込んだ。
 幼げな風貌で見誤るのだが、近づいてみると蒼空は、村雨より三寸ばかり背が高い。下からぐうと、やや伸びをするように覗き見ると、

「……笑ってたけど……なんで?」

 蒼空は、先程の茶屋を指差して、村雨にそう問うのであった。

「なんで、って」

 村雨は、一連の光景を眺めていた。それでも始めは、蒼空が何を言っているのか分からなかった。
 笑う――何か、蒼空が嘲笑されたような場面が有ったか? 断言できるが、無い。
 それに、蒼空の問う様子も、負の感情からでなく、本当にただ、疑問に思ったというような調子なのだ。

「……あっ」

 だが、その内に村雨は、一つばかり思い当たる節を見つけた。そして同時に、その考えに至って、ほんの少しだが表情を暗くした。

「蒼空、今まで……食べ物を、勝手に取ってた時はどうだった?」

「……皆、こんな顔だった」

 蒼空は、村雨の顔を指差す。丁度、面白くない考えに辿り着き、曇ったばかりの顔である。
 ああ、やっぱり――村雨はそう呟いて嘆息した。

「普通はね、笑うの」

「……?」

「何かを売ってて、それをちゃんと買ってもらえたり。お料理をして、それをちゃんと食べてもらえたり。そういう時はね、笑うの」

「笑う……なんで?」

「なんでって、そりゃあ――」

 蒼空は、人の、好感情の笑顔を知らぬ少女なのではないか――村雨はそう気付いたのだ。
 代価を支払わず、売り物を略奪する――当然ながら、良い想いを抱かれる事は無い。
 だが蒼空には、それが普通の在り方だ。だから、食物を受け取る際に、相手が笑顔である経験など無かった。

「そりゃあ、嬉しいからもあるし、お仕事だからっていうのもあるし、そもそもそういうものだからっていうのもあるし……えと、んー……いや、嬉しいからかな、うん」

「嬉しい……」

「そ、嬉しいの。ちゃんとお金を貰えると嬉しいし、貰えないと悲しいの。だから何かを買う時は、ちゃんとお金を払う事!」

「………………」

 蒼空は暫しの間、視線を虚空に泳がせながら、耳から入って来た音の群れの処理に追われていた。
 村雨は柔らかい言葉を選んで伝えたのだが、実の所、どれ程に蒼空の理解が及んだものであろうか。
 まだ金銭の概念さえ、確りと分かっていない蒼空である。

「……ん。おかね、払う」

 が――それでも、理解したものが有ったらしい。蒼空は確かに一度、こくんと頷いた。
 何を理解したのか――〝嬉しい〟という、ぼんやりとした感情だ。
 自分に向けられる表情が、普段の如き暗いものでなく、笑顔であった事が嬉しかったのであろう。表情の薄い蒼空だが、口元がほんの僅か、緩い弧を描いていた。

「良し! んじゃ、それ冷める前に食べよっか!」

 ちなみにであるが、蒼空に銭を渡したのは村雨である。
 焼き餅の配分は、村雨が三つ、蒼空が二つ。その場に座して喰い始めた。
 洛中を歩き周り、程良く減った腹に、その暖かく香ばしき匂いは耐えがたきものであったのか、

「……俺も買ってくるわ」

「あ、私も行きます」

「じゃあ僕も」

 村雨の部下達もそれぞれ、ぞろぞろと茶屋へ向かった。
 茶と、餅と、道の端に腰掛けて喰らうのは、呑気であるが故に美味である。
 てんでに腹を満たして、幸福に浸っている顔の群れの傍ら――

「これ、私にも餅と茶をくれぬか」

「はいはい――って、小判? とんでもない、こら近隣数軒合わせてもつり銭が――」

「あーっとちょっと待ったー! 私が払うからおかまいなくー!」

 〝男〟も至極のんびりと、飯を食う輪に混ざるのであった。








 それから暫くして、狭霧蒼空は、鴨川の西側――つまりは西洋風の街並みを歩いていた。
 懐には、持っては居たが使い方を知らなかった『財布』なるものが収まっている。
 無論、銭も有る。
 有るどころか、少なからぬ――いや、かなりの金額が、財布の中に納まっている。
 蒼空は、金ならば持っていた。ただ、どうして使うものかを、本当にこの日まで知らなかったのだ。
 欲しいと思ったものは、父に言えば与えられたし、そも要求する前に、これが必要だろうと判断されたものが準備されていた。
 衣服も履物も、腹を満たす食物も、玩具も、不足した事が無い。
 それでも、例えば外出中に腹が減ったというような事があれば――蒼空は、店に並ぶ品を、自由に掴んで自分の物にしてきた。
 誰も咎めなかったのは、蒼空が、狭霧兵部の娘であるからと、それに尽きる。
 少額であれば、狭霧兵部と諍いを起こしたくないと、店が涙を呑んだ。
 あまりに金額が大きく、目を瞑っていられないとなった場合、狭霧兵部は意外な程、景気よく代価を支払って来た。
 つまり狭霧兵部は、蒼空を徹底的に、金銭のやりとりから遠ざけていたのである。
 いや――そればかりではない。
 姉の紅野こうやには、史学に戦術、武芸十八般に魔術を加えた十九般、己の持つほぼ全てを与えた。
 だのに蒼空には、読み書きさえ教えていない――蒼空は未だに、書物の一つを読み通した事も無いのだ。
 狭霧兵部和敬が、気紛れに娶った女に産ませた子は、珍しくも双子であった。同じ顔に、ただ瞳の色だけが異なる二人の赤子を見た時、狭霧兵部はにたりと笑ってこう言った。

「さあて、どちらを壊そうか」

 紅野と蒼空は、三つになるまでは、ほぼ平等に育てられた。同じ衣服、同じ食事、同じ環境――乳母まで同じに、である。
 だが、三つになった或る時の出来事がきっかけで、狭霧兵部は二人を、異なる育て方で壊そうと決めた。
 姉の紅野には、一切の愛情を与えず、代わりに持ちうる全ての技術と知識を。
 妹の蒼空には、一切の苦難を与えず、我慢も辛抱も無い生を。
 その何れも、虐待である。
 然し――より大きく壊れたのは、天分を多く持って生まれた妹であった。
 無双の剣技を誇る蒼空は、実は剣術など学んだ事が無い。
 父が刀を持つ様、兵士が刀を持つ様を見た、それだけである。
 天性の身体能力――いや、〝異能〟の身体操作技術だけで、純粋な剣の技量ならば、日の本の頂点に立っている。
 或いは、人としての正常な感性や、知性の〝代償〟なのやも知れない。
 然し狭霧蒼空にとって、そういうものは本来、全く無用の長物なのだ。
 強いという事は、物欲の全てを満たし得るという事だ。
 生きる為に必要なものは全て、蒼空は、自分の力で奪い取る事が出来る。
 まして蒼空の後ろには、己が働かずとも全てを与えてくれる、究極の保護者にして最悪の虐待者が居るのだ。
 だから、金など必要無かった。必要性を感じる瞬間など、一度も無かった。
 今でさえ蒼空に、〝代金は絶対に必要なのだ〟という認識はない。何かを引き換えに何かを得るという概念を、まだ把握していないからだ。
 だが――〝そうした方が嬉しい〟とは、分かり始めた。
 何故なら、餅の味が違ったのだ。
 店先から無造作に食い物を奪い、一人で喰らいながら歩く時とて、確かに美味は美味である。
 だが、店員に笑顔で見送られ、村雨にも笑顔で迎えられ、そうして喰った餅は、日頃から一人で食す飯より余程美味に感じられた。
 理由は、まだ分からない。
 分からぬが、どうせ喰うのならば、蒼空は不味い飯より、美味い物を喰いたかった。

「……たくさん有る」

 然し、胃袋の要領は有限である事を、蒼空は忘れていた。
 蒼空には、良く足を運ぶ店がある。西洋風の街並みに相応しく、煉瓦詰みで作られたその店は、煙突から吹き上げる煙まで、周囲の店と香りが違う。
 そこでは、獣の肉を焼いている。
 串に刺した獣の肉に、京人の好みからすれば強すぎるやも知れぬ味のたれを乗せ、轟々と燃える火で焼きあげた、粗野極まりない料理である。
 獣の種類は様々で、野鳥であったり、兎であったり、猪、鹿、潰した馬やら牛やら、なにやらと――兎角、喰えそうなものならば何でもという悪食ぶりである。
 昼日中、太陽が頂点から傾き始めた頃合いなど、店の周囲には、肉の油が焼けて溶ける、空腹をくすぐって逃がさない香りが立ち込める。それに釣られて近づけば、じゅう、と脂身が火に落ちて焼ける、心地良い音色を聞く事になるのだ。
 一度その音を聞き、その店の肉を喰うと、品が無い味ではあるが、やみつきになると評判であった。
 蒼空も、これまではふらりとそこを訪れて、良い具合に焼き上がっている肉に目を付けては、串ごと奪って行ったものだ。だがこの日は、串を手に取る所までは同じだが、店員に代金を渡した。
 蒼空は、特別な善行を為した訳では無い。当然の事を行っただけなのだが、店員もまた当然のように、笑顔で代価を受け取った。その後でかぶりついた肉の味は、やはり普段より美味であった。
 美味であったのだが――多い。
 餅を喰い、一度財布を取りに戻った後、蒼空は初めての買い物を楽しんだ。団子を喰い、茶を飲み、パンとやらも食べたし、砂糖菓子も味わった。その後で鹿肉串を五つもというのは、少女の胃袋には容量過多であったのだ。
 一本は喰い終わって、のこり四つを手に持ったまま、蒼空はふらふらと洛中を歩いていた。
 行先は未定。目的という目的もないまま道を行くと、次第に背後に気配を感じた。
 害意の類では無い――そういうものであれば、鋭敏に嗅ぎ取るのが蒼空である。むしろ、あまりに無防備な気配であったので、蒼空も身構えずに振り返った。

「…………?」

 そこに居たのは、小さな子供だった。
 三人、恐らく一番年長の者が十二か十三で、十歳程、七歳程と続く三人。背の高さも年齢に比例し、階段のようであった。
 彼等は、じっと蒼空を見ていた。
 いや、彼女を見ていたのではない。蒼空自身も、目の前にいる人間の視線が何処へ向いているかは読み取れた。
 手に持っている、鹿肉の突き刺さった串。
 彼等の目は一様に、其処へ注がれていた。

「……欲しい、の?」

 そう問うたのも、気紛れであった、
 今の満腹の自分では、持っていても手が塞がるばかりである。だからというのでもないが、蒼空は、三人の子供に訊ねた。
 すると三人は、互いに顔を見合わせた後、殆ど同時に頷いたのである。

「ん……はい」

 蒼空は、手に持っていた串を差出した。
 すると子供達は、掻っ攫うようにそれを手に取り、大口を開けて齧り付いたのである。
 まるで雪山を火で炙ったかのように、忽ちに鹿肉は、彼等の胃袋に収まった。
 どれ程に空腹であったのか――よくよく見れば、みすぼらしい衣服に疲れ切った顔の子供達である。
 その表情は、蒼空には見慣れた類のものであった。
 負の感情が主となった、影の差した顔。
 これまで意識した事は無かったが、そういう顔は蒼空にとって、決して好ましいものでは無かった。
 然しその表情は、腹に食物が収まった事で、一気に和らいだのである。

「あ……」

 その顔を見た蒼空は、言い知れぬ幸福感に包まれていた。
 生まれてより殆ど触れた事の無い、一切の敵意や害意を持たぬ、好意からのみ生まれる顔。
 存在さえ知らなかったものが、今は目の前にある。自分に向けて供給されている。
 蒼空は、まだ一本残っている鹿肉串を、子供達に手渡そうとした。

「……これもくれるの?」

「ん」

 蒼空は頷いたが、今度は子供達が、渡された串をどうするかに悩む番であった。
 人数は三人、肉は一つ。誰か一人が喰うのも平等とは言えぬが、三人で正確に分け合うのも難しい。
 そうして悩んでいると、道の端から一匹の子犬が走って来て、子供達の中で、一番年少の一人に飛び付いた。

「あっ、たろ!」

「たろ……?」

「こいつの名前!」

 子供達に負けず劣らずの、みすぼらしい姿の犬であった。
 生来の毛は白いのであろうが、土の色が毛に染みついたか、全体的にうっすらと茶色味を帯びている。
 毛並みも、つんと立っているような部分は無く、殆ど全体が、べったりと体にひっつく有様。その上で、痩せこけているのである。
 弱い犬なのだとも、見て分かる。
 あちこちに噛み傷やら、もしかすれば猫にまで負けているのやも知れないが、鋭い爪で引っ掻かれたような傷までもあるのだ。

「……たろ?」

 蒼空は、子犬の名を呼んだ。
 見た目はさておき、賢い犬であるらしい。己の名を呼んだ蒼空の方へ顔を向け、彼女の手に何が有るかを見て取ると、尾を振って近づいて来るのだ。
 子供達三人の目に、期待の色が浮いている。
 蒼空は、何を求められているかを理解し――たろの、子犬の頭に手を伸ばした。








 夜――村雨達は、また堀川卿の私室へと舞い戻っていた。
 住居は有るのだが、〝男〟を隠しながら、大人数で待機出来る場所となると、此処が最も利便性に長けているのだ。

「……もうなーんも言わん、村雨ちゃんの好きにしぃ」

「黙認ありがとうございます」

「皮肉やけどな?」

「でしょうね」

 精一杯、言葉に棘を含ませた堀川卿であったが、声に滲む疲れが、棘より余程強かった。
 皮肉を向けられた当の本人、村雨は、堀川卿の後ろに立ち、肩を揉み解している。
 せめて罪滅ぼしでもと、按摩の真似事をしているのだが、器用な村雨であるので、案外に具合も良い様子である。

「……その子、狭霧蒼空やね」

「知ってましたか」

「桜さんに一太刀浴びせた、兵部卿の娘――うちが知らん方が大ごとやわぁ」

 そうしながら村雨は、日中に何が起こったか、堀川卿に報告していた。
 報告とは言っても、考えてみると、随分とのんびりした日であった。
 〝男〟を連れて外へ出て、狭霧蒼空に買い物のやり方を教え、餅を喰い、その後はまた街を歩いて戻ってきただけである。
 その間、結局〝男〟は、自分の考えを改める旨の言葉を発しなかった。
 百年、千年の後の為に、この代の幸福を犠牲にしても、日の本を強国へと押し上げる。その為ならば狭霧兵部の悪行も、目を瞑り、その実務の力を買い上げると。
 実際に生きている人間を見せる程度で、揺るぐようなか弱い思想では無かったのだ。

「……悪い事は言わんから、お返しせぇ。何か有ったら、村雨ちゃんの首一つで贖い切れんで」

「あはは……その時は、まぁ、大陸に戻るという事で……」

「取り残されるうちの身にもなって? な?」

 手の如く自在に動く毛髪が、村雨の脚に絡み付いてぎりぎりと締め上げている。負傷はしないが、些か痛みを感じる力加減が、堀川卿の感情を示しているようであった。
 〝男〟は部屋のほぼ真ん中に、布団を敷いて横になっている。
 街を歩くという程良い運動の為か、夢見も良いのだろう顔で寝息を立てており、虜囚の緊張などまるで感じていない様子であった。
 もう暫くすれば、他の面々にも眠気が来るだろう。事実、肩を揉まれている堀川卿など、時折首がかくんと落ちて、そのまま寝てしまいそうな様子さえあった。
 蛇上 離解りかいが村雨の横へ、正に蛇の如く静かに歩み寄ったのは、そういう頃合いであった。

「お嬢よ、あの蒼空って子、本当に大丈夫なのかねぇ……」

「……? 大丈夫、って?」

「いや、勘よ。おっさんの勘というか、経験則って言うか……」

 蛇上にも、十歳の娘が一人いる。村雨も会った事が有るが、年の割には確りとした、将来が楽しみな才女であった。
 その娘を蛇上は、妻に逃げられ、一人で育てて来たという。言うなれば、子供を見るという事に関しては、村雨より一日の長が有った。

「……子供ってもんは、そうそう簡単に良くならんよ。十何年掛けて出来上がったもんを、一日で全部変えられる訳がないんだって」

「後ろ向きだね、蛇上さん」

「まぁ、ねえ……」

 村雨が少し鼻をひくつかせると、数刻前のものではあろうが、酒の香がした。
 酔いを今まで引きずっているのか、それとも酔いに逃げようとして逃げ切れていないのか――何れにせよ蛇上は、懸念を抱いている。
 実を言うと、村雨も、期待はしていたのだ。
 自分が接した事で、狭霧蒼空が新しい概念を知って、それで画期的に人間として成長をしないものか――確かに指摘されれば、甘い考えである。
 だが少なくとも、今日見ていた限りでは、上手く行っていたのだ。
 商品を求めるのには金銭が必要であり、金銭を差出す事で、代償として何かを得られる。そういう〝商取引〟のやり方を、表面をなぞる形であろうと覚えさせた。それで彼女は、これまでより正常な人間になると――村雨は、期待していたのだ。
 蛇上の溜息は、静寂の広がり始めた部屋の内に、やたらと良く響いた。そして、その残響を掻き消す音が、少し遠くから近づいてきた。

「ん?」

「おっ」

 音とほぼ同時、真っ先に気付いたのは村雨と、犬の亜人である邪烙じゃらくであった。
 今日、昼に出会ったばかりの、あの少女の臭いだ。『錆釘』の事務所には、些か場違いとも思える臭いである。
 衣服やら、手足やらに、斬った人間の返り血が浸み込んだ、紛う事なき人殺しの臭い。幼げな風貌と不釣り合いな、死を予感させる臭いに――

「……っ! 構えてっ!」

 ――真新しい、血の臭いが、僅かに。
 ぎい、と扉が開け放たれ、狭霧蒼空が、室内へと入って来る。
 彼女は真っ直ぐ、真っ直ぐ村雨の方へと近づいて来ると――あまり上手では無いが、笑った。
 その顔を向けられると、自分は心地良くなると知った。
 何かを求める際には、代価が必要になるとも知った。
 だからなのかも知れない。蒼空は、村雨に頼みごとをしようとして、自分が差しだせる最良のもの――下手くそな笑顔を差出したのである。

「……これ」

 だが、彼女が右手に、無造作に掴んでいた〝もの〟は、既に息絶えていた。
 口の周りには血をべったりと貼り付けた、みすぼらしい子犬。
 首が有らぬ角度に折れ曲がり、前足も一本、骨が突き出す程の傷を追っている子犬の亡骸を、

「これ、直して」

 狭霧蒼空は、無垢そのものの瞳で掲げ、ねだった。
 呻きを手で塞ぎ、一歩たじろいだ村雨の前で、蒼空は幼子の無邪気さを以て、そう願うのだ。

「……なんと、醜い」

 目を覚ましていたか、はたまた眠っていなかったのかは分からぬが――〝男〟はかぶりを振り、嘆くのであった。








 ボロ布を突き破って、枯れ枝が飛び出している。そんな風にも見えただろう。
 だが、そのボロ布には目玉が有るし、裂け目からはだらりと舌も垂れ下がり、舌を伝って血がこぼれ落ちている。
 薄汚れて痩せこけた体とは言え、それを力強く運んでいた四肢も、今は振り子のように揺れるばかり。
 首と前足のへし折れた、子犬の亡骸。
 それを狭霧蒼空は、右手に掴んでいた。

「な――」

 手で押さえた口から、村雨は呻き声を零した。

「何言ってるの、あなた」

 丁度、嘔吐を堪えて喉に登る呻きと、喉が引きつって発する裏声の混ざったような響きであった。

「壊れた」

 その声も、声の裏にある村雨の感情も全く斟酌せず、蒼空は子犬の亡骸を、村雨の手に押し付ける。
 邪気の無い瞳だ。
 自分の行為に後ろめたさを感じていない人間だけが見せる、澄み切った目であった。

「無理に決まってるでしょっ……!?」

 亡骸を奪うように抱いた村雨は、自分の腕の中の小さな肉塊が、とうに冷え切っている事を感じていた。
 尤も、触れずとも既に、鋭敏な鼻が、ほんの僅かに漂い始めた死の香りを嗅ぎつけている。
 こうなった生き物は、二度と、呼吸をする事はない。
 遡及はならぬ現実がそこに有る。

「…………?」

 蒼空は、目の光を変えないままで首を傾げた。そして、部屋が暗いから〝荷〟が見えていないとでも思ったか村雨に近づき、顔の高さまで〝それ〟を持ち上げた。

「〝その子〟は、どうしたの」

「動かない……これ、変」

「何処から、何で連れてきた!?」

 村雨は、人の姿のまま、獣の如き響きを伴って吠えた。
 理性が有るものならば、幾許かの怖気を呼ぶ、天性の捕食者の声――ともすれば敵意とさえ取られてもおかしくはない、凶暴な声であった。
 だが、激昂と言うには、鋭さが足りないかも知れない。むしろ癇癪だとか、悲鳴に近い叫びでもある。
 それは、わけがわからぬものに相対した獣が、尾を腹に巻き込みながら牙を剥き出す構図に似ていた。

「……っ」

 そして、その時に初めて、蒼空の表情は強張った。
 自分が何をしたのかは、未だに分かっていないだろう。だが――戦場での敵意とは別種の、〝なにかよくないもの〟を感じ取ったのだ。
 いいや――更に言うなら、蒼空は怯えていた。
 自分が知らぬ感情が、目の前で轟々と燃えている――それが恐ろしくなったのだ。

「……ぁ、え、っと……」

 蒼空は、村雨を正面に置いたまま、後ずさりして部屋を出て行こうとする。
 一歩、行く。
 すると村雨が、それを追った。
 また逃げるように一歩
 追いかけて一歩。
 次第にその両輪が早回しになって――た、たん、たんっ、と小気味良い音を鳴らし始める。

「ぅ、うーっ……!」

 何時しか蒼空は、村雨に背を向けて走り始めていた。そして村雨は、その蒼空を、子犬の亡骸を抱いたままで追いかけていた。
 その何れもが尋常ならざる健脚である。雹が降り注いだが如くけたたましい音が廊下に響き、忽ちに遠ざかって聞こえなくなった。
 余韻が失せれば、重苦しい静寂ばかりが其処に有る。
 軽口で紛らわすには、あまりに――

 ――あまりに、〝なんだ〟?

 わからぬ。
 今の光景はなんであったのか――それが、取り残された者達の思いであった。
 起こった出来事を言葉にしてみれば、〝物を知らぬ子供が子犬を殺した〟というだけだ。
 悲劇ではあろう。幼稚が故と、非難も容易かろう。
 だが、そういう事では無いのだ。

「……ひっでえ」

 蛇上が、ぽつりと、腹に溜めた息を細く吐きながら零した。
 誰も、肯定も否定もしなかった。それ以外に形容する言葉を持ち合わせなかったからだ。
 たった今、目撃した光景が、己の腹中に生んだ思い――それを正しく言葉に出来ず、彼らは沈黙を続けた。

「酷いとは、あの娘が、か」

 その静けさを破って、嫌悪感に満ちた声を鳴らしたのは、〝男〟であった。

「或いは、狭霧兵部が、か?」

答えは無い。誰も、〝男〟の顔を見ようとすらしなかった。だが、沈黙の末にようやっと蛇上だけが、〝男〟の前で平伏もせずに言った。

「あんた、イカれてるな」

「――――――」

 後にも先にも、この〝男〟にこのような口を利く者は現れるまい。蛇上は哀れみを湛えた目で〝男〟を見ていた。








 夕刻の街を、二つの影が馳せてゆく。
 人の姿をしながら、その二つは、人の域を明らかに超えた速度であった。
 先を行くのは狭霧 蒼空、それを追うのが村雨である。
 夜が近づいたとは言え、未だに人が多く出歩いている洛中を、南西に突っ切る二人――

「はっ、はぁっ……!」

 その内、肩で息をするのは、村雨だけであった。
 走ろうと思えば、一夜中を走り続ける事さえ叶う健脚の村雨である。だが今は、蒼空を見失わぬように追うのがやっとなのだ。
 速い。
 人の隙間を抜けて行きながら、その速度は一時たりと緩む事が無い。
 動きの方向を変える時、生物は必ず、一方向の運動に於いては減速を必要とする。例えば突き出した拳を引き戻す瞬間、例えば左にやった手を右へ払う瞬間は、それまでに動いていた向きと、別な方向へ加速を行わねばならぬのだ。
 いや――これはもはや、生物に限らず、物体全てに適用される法則である。
 その世界の中でたった一人、狭霧 蒼空だけが、加減速の過程を省略している。
 眼前に障害物が現れた時、蒼空は、その直前で瞬時に静止する。そして、静止したと認識が及ぶより先、真横へ一歩だけ走り、再び静止。正面へまた走り出すのだ。
 人の隙間を縫うように、減速と方向転換を繰り返す度、村雨は少しずつ、蒼空に引き離されて行く。
 然し恐るべきは、それ程の絶技を為して尚、蒼空には余力が有るという事だった。
 蒼空はただ、目的地へ村雨を誘導しているだけだ。何かから逃げている訳でも、何かと戦っている訳でもない――全力を尽くす理由が無い。その蒼空に、渾身の力を振り絞る村雨でさえが追い付けぬのだ。

 ――これには、絶対に届かない。

 村雨は、直感的にそう悟った。
 投げ上げた石が落ちるように、鉛が水に沈むように、それは当然の事と、村雨には認識された。
 或いは、ただ真っ直ぐに走るだけであれば、何時かは追い付けるようになるのかも知れない。
 だが、世界の法則を裏切った方向転換だけは、生涯を賭しても得られる筈が無いのだ、と。
 生物が心身を鍛え上げる事で到達する領域と、一線を画した天上の技――それが蒼空の疾走であるのだ。

 ――届かないなら、せめて。

 村雨は跳び、家屋の屋根に乗り、足場とした。
 これならば、人を避けて右往左往する必要は無い。ただ真っ直ぐ走り、隣家に飛び移れば良いだけの事だ。
 地を行く蒼空と、高所を行く村雨。
 追い付けぬまでも見失わぬように走り続けて――やがて、洛中では些か、賑わいの少ない所へと辿り着いた。
 少し南に歩けば、直ぐに茂みや川の支流の有るような、街の外れ。蒼空はそこで、ようやく立ち止まった。

「ひー……ちょ、いきなり走って、なんなの――」

 それに遅れる事、数十ばかり数えてか、村雨が息を切らしながら追い付く。
 額から目にかかる汗を拭い、空を仰いで、呼吸を整えようと息を吸い――

「――……!」

 嗅ぎ取ったのは鉄の臭い。
 然しそれ以上に鋭く、敵意を――殺気を村雨は感じ取った。
 あまりにあけすけに、方々へ撒き散らすような強い感情――咄嗟に身構えた村雨を、然しその殺気は素通りした。

「う、わああああ、あああああぁっ!」

 決死の叫びと共に物陰から、蒼空へ向けて走り出したのは、三人の子供だった。
 彼等は手に手に、何処から見つけてきたものか、刃も半ば錆びた短刀を握って――それを振り翳し、蒼空へと迫るのだ。
 あまりに、遅い。
 子供の脚でもあるし、距離も開き過ぎていた。何より――相手が、狭霧 蒼空であった。
 蒼空は、彼等が自分に近づいてくる間、じっと留まって、彼等の顔を見ていた。
 見慣れた顔――敵意が、憎悪がそこに在った。

「――――――」

 一時、蒼空は困惑した。
 彼等は確か、自分に笑顔を向けた者達であった筈なのだ。
 同じ顔、同じ体型、動作の特徴も同じ。だのに表情が変わっただけで、蒼空へ与える印象はまるで異なる。
 笑顔を見せていた時の彼等は、蒼空にとって、〝言い知れぬ幸福感を与えるもの〟だった。
 だが、今の、蒼空が見なれた顔をしている彼等は――

「……むぅ」

 〝要らないもの〟であった。
 己の異能を振るうまでもない。ゆったりと腰の刀に手をやり、蒼空は三人の子供を――その先頭に立つ、最年長の一人を迎えるべく、踏み出した。
 怒りに顔を歪ませた彼が、叫びと共に突き出した刃は――あまりに、あまりに遅い。
 その軌道をしかと目で追った蒼空の、左手の指が、鯉口を切った。

「馬鹿っ!」

 その時、村雨が、蒼空の右手を抑えつつ、子供を突き飛ばすように、二人の間に飛び込んだ。
 咄嗟の事ゆえに加減をしくじったか、子供が三尺も後ろにつっ転ぶ勢いであったが、その様を村雨は見届けていない。
 村雨は、背後に子供達を置き、蒼空と正対するように飛び込んだのだ。

「なにやってんの、この馬鹿っ!」

 それは、或いは双方に、全く同時に掛けられた言葉であったのだろう。
 勝てる筈も無い相手に刃を向けた、その愚。
 振るうまでも無い相手に刃を振るおうとした、その愚。
 何れをも村雨は、大喝した。
 胸に抱いていた子犬の亡骸は、数間離れた草の上に横たえられている。

「た――たろ! たろっ!」

 尤も年少の子が、短刀を投げ捨て、その骸に駆け寄り、掻き抱いて慟哭する。
 嘆きの強さは、まるで肉親を失ったかの如くであったが――きっと、そうなのだろうと、村雨は思った。
 彼等の素性は知らぬし、何があったかの仔細も知らぬ。
 だが、三人の衣服のみすぼらしい事が、安穏とした生き方を許されぬ身であると語る。
 そういう彼等にとって、きっとあの子犬は、肉親と同様であったのだ。

「何をしたの、蒼空」

 村雨は、敢えて蒼空の名を呼んだ。

「……遊ぼうとしたら、噛もうとした。驚いて叩いたら、ちょっと壊れて……」

 こんな風に、と言いながら、蒼空は幾度か、左の平手で空を切る真似をして――

「それでも、まだ噛もうとするから……こうした」

 右手を一度、虫を叩き潰すかのように、上から下へと振り下ろした。
 獣の命に貴賤は無いと、そう説く者も居るが――実際に、虫を殺すのと獣を殺すのと、同じように出来はしない。犬猫を蹴り飛ばす事も躊躇う善人が、腕に止まる蚊を、眉一つ動かさずに殺す事も有る。
 その時の蒼空の目は、丁度、そういう顔――目の前の存在に価値を見出さず、己へ不利益を与えるものを、無感動に損壊する人間の目であった。

「壊したら、駄目そうだった、から……直してもらおうと思った。……けど、もういい。それ、もう直さなくていい、要らない」

「う、ううっ……! ぐううっ……!」

 子供達は、再び刃を向けようとはしないながら、怒りに打ち震え、涙を流しながら歯軋りをした。
 家族同様に愛したものを、例え子犬であろうと、殺された。全く価値のないものであるように、引っ叩いて殺されたのだ。
 それも、何処までも無理解のままに。
 蒼空は子犬の〝命〟が奪われた事さえ、或いは気付いていないのかも知れない。
 彼女にとっては、うっかり玩具を壊してしまい、今となってはその玩具の未練も消えたと、それだけの事だ。それだけの事だと伝わってしまうから、子供達は皆、奥歯も軋む程に泣き、悔しがるのだ。

「……蒼空、あんたは」

 然し――彼等の怒りを吹き消す程、瞬間的に吹き荒れたのは、それ以上の怒気。

「あんたは……頭沸いてんのかぁっ!!」

「――っ!」

 腰程の高さから、殆ど垂直に顎を打ち上げんとする、奇怪な軌道の拳が奔った。
 村雨の、不意を突く奇拳の一つである。
 下手な武道家なら顎を割られるこの拳を、蒼空は身を仰け反らせ、拳をやり過ごす。
 村雨の拳を、蒼空は目で追った。
 高く天頂目掛け振り上げられる、丸く固められた拳――殴りつけられれば、さぞや痛いだろう。
 そういう武器を、自分に振るったという事は、つまり目の前に居るのは敵なのだ。蒼空は、そう認識して――分からなくなり始めた。
 自分へにこにこと愛想の良い顔を向けていた者が、何と分からぬうちに、次々に敵へと変わって行くのである。
 燕の羽ばたきよりも鋭利に、空気との擦過音ばかり残して、村雨は拳を引く。
 一発は感傷に任せて振るった拳だが、その後は腰の右側に、刀の鞘に見立てたが如く置かれている。
 何時でも抜ける形――敵意は緩んでいない。
 何故?
 蒼空にはそれが分からなかった。

「う……」

 四つ、敵。敵で無かった筈のもの。
 その目が――目玉八つが、蒼空を睨め付けている。
 我の一挙手一投足、見逃すまいと、敵意と共に注がれる視線は、今の蒼空には、実体の刃より尚も――

「なんで……そんな顔するの」

 悍ましいやら、

「なんで、怒るの……っ」

 恐ろしいやら、

「だから直してって、直してって言ったのにぃっ!!」

 然し何よりも、悲しく突き刺さった。
 蒼空は村雨へ、己が持ち得る最大の――戦場に於いてのみ解放する最大速度を以って、飛び掛かっていた。
 迎撃は、左掌。
 蒼空の右肩にそれは触れたが、その衝撃も妨げとならず、蒼空は村雨の懐へ――〝徒手〟で、飛び込んでいた。

「っ、ぐうっ!?」

 体当たりの衝撃で、村雨と蒼空は、縺れ合いながら草地に倒れ込む。
 受け身を取った村雨の腹の上に、蒼空が跨って、右手を拳骨に作っていた。

「うううぅっ!」

 その拳を、癇癪に任せ力一杯、蒼空は村雨の頭目掛けて振り落とした。

「おわっ!?」

 上を取られているとは言え、起き上がれぬような工夫も無ければ、拳とて児戯の如く、大きく弧を描いて振り下ろされる。
 然し、速度だけは尋常でないのだ。
 初動を見る前に、恐らく狙われるだろう箇所を防ぐ――勘に任せて村雨は、まず初段を肘で受けた。
 ごきっ、と、鈍い音がした。

「あっ、ぁ――ぁあ、う、ううっ……!」

 村雨の肘ではない。蒼空の、握りの甘い拳からである。
 人を殴るにも技量は要求される――なまじ速度に長けるが為、却って手に戻る衝撃も大きかったのだ。
 その痛みも合わさって、尚更に蒼空の顔が歪み、また村雨は、隙を見逃さずに上体を起こすと、蒼空にぴたりと体を貼り付けるようにしながら、器用に体勢の上下を入れ替えた。
 蒼空の両脚に、村雨の胴が挟まれている――これで相手が松風左馬だとか、そうでなくとも柔術の心得が有るものならば、村雨も胆を冷やそうものだが、相手は大きな童であった。

「……っ!? 痛、ちょっ、痛い、いたぁっ!?」

「うーっ、ううううぅっ! あー!」

 言葉も無くして泣き喚きながら、なんと蒼空は、村雨の髪を右手で掴みながら、顔に左手の爪を立てたのである。
 まだこれならば、殴られる方がやりやすいというものだ。
 顔へ伸びてくる手を払い、手首を掴んで抑えながら、頭で蒼空の胸を押し込むようにして、大暴れする童子から逃れようとする。
 爪が届かねば平手打ちに、足をばたつかせて靴をぶつけても見たり、正しく握られぬままの拳で、肩やら背中やらを構わず打ったり――その何れも、村雨を揺るがすに足るものでは無いのだが、煩わしいし、痛い。

「ぐぐ……いーかげんにしろーっ!!」

 仕返しと、村雨も拳でなく平手を作って、思い切り蒼空の頬目掛けて振り抜いた。
 普段なら決して命中せぬ一打であろうが、涙で視界も定かでない蒼空は、避ける事もままならず、すぱんと小気味良い音が響く。

「ひっ、ひぐ――ぅあああああ、あああああああぁあん!!!」

 そうすれば、より喧しく、蒼空が泣く。
 いよいよ少女二人の取っ組み合いは、幼児が玩具でも取り合うかの如き様相を呈し始めて――

 ずしん。

 と、その時に音が鳴った。

「――あれ」

 村雨の周囲が、突然に暗くなる。
 元より日は傾いていたが、それで山際から差し込んでいた光を、更に遮った者があるのだ。
 それは、村雨の背後に居た。
 というより、背後にそびえ立った、とする方が適当であろう。
 臭いを探るより、振り向くより、その影の長さを見る事が、それが何であるかを知る最良の術であった。
 だが、村雨が悟るより一寸早く、巨大な拳が二つ、ぬうと持ち上がり、
 ごっ、と蒼空の頭に。
 ごずんっ、と村雨の頭に、それぞれ落ちたのであった。

「何をしているかっ!!!」

 寺の鐘もかくやという大音声は、一丈二尺八寸の巨体より発せられたもの。
 波之大江三鬼が、少女二人に拳骨を落とし、怒鳴り付けたのであった。








 並の男に倍する巨漢が、ぐわっと拳を振り上げると、どうなるか。
 身の丈に比例した腕の長さは、大の男の頭程もある拳を、一丈五尺の高さにまで持ち上げる。城の天井もぶち抜いてしまうような高さである。
 そこから拳が、唸りを上げて落ちたのである。

「ぎゃんっ!」

 蒼空は犬のような悲鳴を上げて、両腕で頭を抱えて蹲った。
 その足元には、頑丈な靴の形がそっくりそのまま、蒼空という印を地面に押したが如く刻まれていた。
 が、それはまだ、ましな方である。

「――――――」

 村雨は完全に白目を向いて、仰向けに引っ繰り返っていた。
 雪月桜をも凌ぐ、日の本一の剛力の一撃。不意を突かれては、到底耐え切れるものでは無かったのだ。

「常には見ぬものを見ようとて、洛中の南端まで足を運んでみれば、仮にも将たるものが二人して何をしている! 嬰児が如くに泣き喚き掴み合い、挙句に――」

 波之大江三鬼は、地面にどっかと胡坐を掻いた。
 座したとて、並の大男と、頭の高さは遜色なく、三角の小山の如き姿である。その山から、開口一番に飛び出したのは説教と、

「――……これはなんとした、村雨」

 この場の状況に、説明を求める言葉であった。
 掴み合いをしていた二人を、少し離れて見ている子供が三人、何れも泣きはらした酷い顔をしている。
 彼等の内、一番の年少だろう一人が胸に抱いているのは、みすぼらしい子犬の亡骸。
 何かが有ったのだと、聡からずとも分かろうものだ。

「………………」

「ぬ」

 だが、問うた相手は、大の字に天を仰いでいるのである。
 三鬼は自らの無精髭をぽりぽりと爪で掻いたのち、座布団のように広い掌を振り上げると、

「むんっ!」

 村雨の近くの地面を、思いっきり引っ叩いた。
 ばずんっ、と、まるで皮袋が内から破裂したかのような音がして、少し離れた所で土が一塊、ぼっこりと盛り上がる。その喧しさに村雨は、「わっ」と叫んで跳ね起きた。

「起きたか」

「起きたか、じゃないっ! ……ったたた、あたたた……」

 目を覚ましてみると、頭頂は大きな瘤が出来ているし、衝撃が首となく背骨となく伝わっており、兎角全身の痛みに苦しむ村雨であった。が、己の痛みに悶えていられる状況で無いとは、鬼の形相から察せられた。
 ぎょろりと目玉をひん剥き、ぎりとかみ合わせた歯列には牙が二つ突き出し、墨で書いたが如き太眉の間には、幾層もの皺が寄り集まっている。

「何が、御座ったか」

 三鬼は、その場の誰にと定めずに問うた。
 尤も、蒼空も、子供達三人も泣き通しであるので、答えられたのは村雨だけである。
 仔細こそ分からぬが、蒼空が子犬を殺した事。その子犬が、子供達にとって、どうやら大切な存在であったらしい事。子供達が蒼空を刺そうとし、蒼空も迎撃しようと身構えた事。村雨がそれを妨げ、掴み合いになった事。そして――蒼空は子犬を「壊した」と言って、荷物のように運んできた事まで。

「ぬぅ……」

 一通り話を聞き終えると、三鬼は両腕を胸の前で組み、暫し思案に耽った。
 その顔は厳めしかったが、然し恐怖を与える類の表情では無い。むしろ村雨など、瘤の痛みに呻きながらではあるが、安堵をさえ感じるものであった。
 やがて三鬼は、座ったままで手を伸ばし、泣きじゃくる蒼空の肩に、巨大な手の半分だけを乗せて言った。

「蒼空よ、悲しいのか」

「悲しい……?」

 俯き泣いている蒼空は、聞き慣れぬ言葉を掛けられて、両目を手で擦りながら、視線だけ持ち上げて三鬼へ向けた。

「左様。拙者が聞くに、蒼空よ、お主は悲しんでいるように聞こえる。ただ、今までに一度も悲しまなかったが故、悲しいという事を表せぬ、それさえも悲しんでいるのだ。
 ままならぬよなぁ、周りが何を言うているかも分からんのだ。何ゆえに怒鳴られたかも、刃を向けられたかも分からんのは、さぞ苦しかったろうよ」

 三鬼の強面には、慈悲の顔が浮かんでいた。もしくはそれは、父親の顔とも呼ぶべき表情であった。
 癇癪を起こして泣き喚く娘を、宥めて落ち着かせる、低く静かで重い声。耳を傾けずにはおれぬ強さが、その芯に通っている。

「悲しいというのは、嫌な事なのだ。食事が不味い、人形が壊れた、そんな些細な事だとて、悲しい事だ」

「……人形、壊れたら……直すか、取り替える」

「直しも取り替えもせず、壊れたままの人形だけ持たされていたら、蒼空は嬉しいか?」

「………………」

 否を示すように、蒼空は小さく首を振る。

「そうだ。自分の大事なものを損なうのは、とても悲しい……嫌な事だ。誰かがお主の人形を壊してしまったら、蒼空は怒るか?」

「……ん」

 今度は、是を示し、頷く。その拍子に、蒼空の頬を伝っていた涙の雫が、たつん、と足の甲に落ちた。

「だから、友人であり家族である者を奪われた、彼等も怒った」

「でも……、だから、直してって……」

 蒼空は、幾度めか、「直して」という言葉で望みを現した。
 その言葉を使う度、浮彫になるのは、この少女の、それこそ〝悲しい〟人との乖離であった。
 もはや村雨も、蒼空に対し怒りを抱く事は無い。目を伏せ、その顔を見るのも辛いというように、草っ原の上で膝を抱えていた。

「殺した者は、還らん」

 そして、遂に三鬼は、蒼空に言った。

「生きているものの命を奪うのは、壊すではない、殺すという。そしてな、殺したものはもう二度と、同じように治す事など出来ぬのだ。丁度お主が、これまでに戦場で斬り捨てた、幾百の兵と同じように。
 ……ただの一度でも、斬り殺した兵士が、再び立ち上がって向かって来た事は有ったか?」

「――――――」

 蒼空は左右に首を振りつつ、元より白い顔を、更に青ざめさせていた。
 まだ、三鬼の言葉の全てを理解はしていない。だが、このままに聞いていれば、何か恐ろしい事を知るのではないかと、そういう予感に襲われていながら、耳を塞ぐ事も、超絶的な脚力を以て逃げ出す事も出来なかった。

「生き物が死ねば、二度と戻る事は無い。だから、残された者はとても悲しむ。もうその人間と遊んだり、何もせずただ並んで寝ていたり、同じ飯を食う事が出来なくなるからだ。
 この子供達も、だから嘆いたし、お主に対して激しく怒った……お主がきっと、自分がそうされたら、そうしたように」

「……ぁ、ぅ」

 無双の剣士たる狭霧蒼空は、戦場を恐れた事が無い。だのに、非力な子供の目に心を掻き乱され、怯えもし、また泣き喚いたのは如何なる訳であったか。
 知らぬものであったから、恐ろしかったのだ。
 他者の感情など、己の心に留める事もせず生きてきた蒼空が、他者によって心地良さを得られると知った時、他者から苦しみをも得るようになる事は必然であった。

「お主は、彼等を、深く悲しませたのだ」

 誰に習わずとも、幼子に共通する、心の動きがある。
 他者を傷つけた事を自覚した際、己を締め付けるように苛む呵責。
 〝悪い事をしてしまったのだ〟と知り、悪を為した己が恐ろしくて、また悲しくて――狭霧蒼空は一層高い声で、わあわあと泣き叫んだ。
 その口からは、或いは当人も気付かぬままに、「ごめんなさい」という謝罪の言葉が、幾度となく零れ落ちていた。
 大泣きに泣いて顔をぐしゃぐしゃにした蒼空を、そのままに泣かせておきながら、三鬼は座ったまま、子供達三人の方へ向き直った。
 彼等もまた、涙は枯れていない。理不尽に奪われた怒りも恨みも、僅かには緩んでいないだろう。
 だが――彼等から見て蒼空は、身体の強さはどうあれ、既に〝弱いもの〟であった。自分より弱く幼いものを、如何に恨みを抱いているとは言え、害する事が出来る程、彼等の心根は捩じれていなかった。

「すまぬ」

 その三人の前で波之大江三鬼は、地に額が触れる程、深々と頭を下げた。
 戦場に在りては、大鉞の一振りに、十数人の兵を血煙へ変える怪物――それが今、浮浪児の兄弟の前で、地に伏していた。

「此度の蒼空の失、元より赦される事でなく、拙者にも蒼空にも詫びるに足る言葉が御座らぬ――誠より、申し訳が無い。然しながらこの娘子は、拙者が主君と仰ぐ者の子であり、そなた達の刃にかかるを見過ごす事も出来ぬ。故に――」

 頭を上げ、鎧を外し、その下の大小袖の併せを払えば、その下には仁王像さえも凌ぐ、鋼の如き肉体が有る。それを三鬼は晒して、こう続けた。

「望むならば、蒼空でなく、拙者を刺し貫き給え。生来頑強にしてこの図体、手緩くば死にもせぬが、些かなりと気は晴れよう。……握りが甘くば指を痛める、留意せよ」

 結局、その身に刃が突き立つ事も、この日にこれ以上、誰かが傷つく事も無かった。








 蒼空は泣き疲れたか、波之大江三鬼の肩に担がれたまま、静かに寝息を立てていた。
 あの後、当然ではあるが、子供達が蒼空を許す事は無かった。
 親しきものを、例え子犬とは言え理不尽に奪われた事は、きっと彼等の内に幾年も、恨みとして残るだろう。
 だがその恨みは、その為に誰かを傷つけたいと願う程の強さにまで育たなかった。
 理由の一つには――やはり、死んだのが人でなく、犬だったという事もあるだろう。
 然しそれ以上に、誤って子犬を殺したのは、幼子よりも尚も幼い、白にして痴である少女だった。弱いものを憎み続ける事が出来る程、子供達は強くなかったのだ。

「……手間を掛けさせた」

「そうでもないよ」

 巨体で以て、ずしん、ずしんと足音を鳴らして歩く三鬼の横を、村雨が小走りで着いて行く。

「……哀れな娘なのだ、蒼空は」

「あんなのが父親じゃあ、ねぇ……」

 狭霧兵部を指して、村雨は〝あんなの〟と評したが、彼を主と仰ぐ三鬼は、村雨の放言を嗜めはしなかった。
 時折、ぽつり、ぽつりと、とりとめもない会話をしながら、二人は二条の城に着く。槍を構える門番は、数十間先に三鬼の巨体を見た時には、既に門を開け放っていた。
 場内は武家の城として相応しく、質実剛健、虚飾よりは機能という作りであるが、然し一切飾り気無いという事もなく、襖を広く使って描かれた山河の絵図に、洛中らしい雅を示している。
 太い廊下の左右に、それぞれ高峰の絵が聳えているのを見れば、まるで己が仙人となって、雲に乗り飛んでいるような趣さえ有った。
 そうして、天上の心地のままで階段を登り、天守閣より一つ下の高階に至ると、そこからは景色が違っていた。
 西洋風、なのである。
 壁の建材こそ日の本由来なのだが、襖の一つとてなく、代わりに幾つか、廊下側から引いて開ける扉が有る。
 床には絨毯が、汚れの一つと無く敷かれて、素足でも床の冷たさを感じない。
 下の階層では、殺風景を慰める美は襖の山河であったが、この階では額縁に西洋の宗教画が収まって、行儀良く壁に掛かっていた。

「うわぁ……」

 村雨も、よもや日の本政府の主城である二条城、その上層に、これ程に国外の流儀に染まった空間が有ろうとは思っても居なかった。驚嘆に声を上げると、その横を三鬼が、迷いなく一室の扉を開けて、巨体を押し込むように潜って行った。
 その後を追って村雨が入った部屋は、成る程廊下と釣り合いの洋室であったが、物の少ない空間であった。
 家具は寝台が一つと、刀を置く掛台のみ。他には、床に幾らか布の端切れと、棒切れとが散らばっている。
 人形を、それが纏う衣服ごと、手で引き裂いたものであった。
 先に村雨は、城中の様相に驚した。然し今は絶句して、木製の腕を拾い上げるばかりであった。

「飽きると、壊すのよ」

 寝台に蒼空を横たえた三鬼は、部屋のど真ん中に胡座を掻いた。小山の如き鬼が座しても、蒼空の私室は、狭さを感じない程に広い。 

「人形も、衣服も、靴も、邪気無く喜んで選ぶというに、飽きれば呆気無く捨てる。何時ぞやは、部屋一面に散らばった人形の首で、足の踏み場も無い有様であった。……然し、悪気は無いのだ」

「……代わりが有るから?」

 乾いた、軽い、腕の模造品をその場に置いて、村雨が問う。「左様」と三鬼は頷きながら、眠る蒼空が寝返りを打つのを見ていた。

「人も、要らぬのだろうなぁ」

 鬼が、泣きそうな声で言った。

「何も不足せなんだから、何も大事に思わぬようになったのだ、蒼空は。誰も大事でなかったから、初めて人を斬った時も、顔色一つ変えず欠伸をしておった。
 己の娘でないにせよ、否、ないからこそ蒼空が不憫でならぬ。あの父でさえなければ、母さえあればと、こういう時に思わざるを得ぬ」

 三鬼が泣き言を言うと、その分厚く巨大な体さえが小さく縮んだようにも見える。村雨は神妙な顔をしてその隣に在った。
 そこで村雨は気付いたが、蒼空の呼吸は、寝入った人間のそれより明らかに回数が多かった。何時の間にか目を覚ましていたのである。

「どうだろね、蒼空」

「………………」

 呼べば、無言のままぐるりと寝返りを打ち、蒼空は村雨の方へと向き直った。
 立ったままの村雨を、横になったまま見上げる目は、泣き腫らして赤くもなっていたが、然し何時ものように茫洋と、何処まで深いかも覗かせぬ目に戻っている。
 その目のまま、蒼空は右手を持ち上げた。
 刀を握る手でありながら傷の一つと無い綺麗な指が、村雨の顔を指す。

「大事な、って……?」

「ん?」

 起きていたかと呟く三鬼を余所に、蒼空が問うた相手は村雨であった。
 言葉少なの問いであったが、それは十分に真意として村雨に通じた。

「無くしたくないもの、取られたくないもの、そういう〝物〟かも知れないし、遊んだり、歌ったり、好きな〝事〟かも知れないけど、私の場合はね」

 堂々と胸を張って、だが幾分かの気恥ずかしさを隠せないはにかんだ笑いと共に、村雨は答えた。

「一緒に居たいって思う人の事」

「いっしょに……」

 寸時して蒼空は寝台から降り、まだ眠気の残る足取りで歩いた。そして――答えの代わりと、俯く三鬼の首を抱いて、針のような髭を蓄えた面に頬を寄せた。
 三鬼は人の倍も広い強面を一杯に使って、まずは目を丸くして狼狽え、次には口をあんぐりと開いて真意に至る。それから、ぐしゃぐしゃと顔が崩れ始めて、

「〝お父さん〟の面目躍如、だね」

「……喜ばせてくれるでないわ」

 鬼が、ぼろぼろと涙を流して泣いた。








 夜。
 やがて来る朔に備えるが如く雲の陣が敷かれた、暗い夜であった。
 細く伸びた月を覆い隠す雲からは、光が時折、指の形も分からぬ程度に零れて来る。
 見通しの利かぬ、闇。
 その闇よりは、少しだけ光が多い空間が有った。
 事務方、兵員など、多くの人員を有する『錆釘』であるが、その内の誰も招かれずには近付こうとしない一室――堀川卿の私室である。
 部屋の主たる堀川卿は、床に伏し、上座に主君を仰いでいた。
 堀川卿の五丈敷きの超長髪が、金色の海の如く〝男〟の周囲に広がり、屏風も無い部屋であるが、貴人の在るべき輝きばかりは有った。

「のう、堀川」

「はい」

「私の言は、何か間違うておったかな」

「…………」

 〝男〟は堀川卿に詰問する。
 脇息も使わず脚を組んで背は伸ばし、何処を見るともなく目を泳がせて、〝男〟は答えを求めている。

「私はこの国を強く変える。百年、千年の大計の為ならば、この時代を捨てる事も、我が名を暗君として青史に残す事をも厭わぬ。それが尊く生まれた者の義務であろう」

「………………」

 堀川卿はまだ言葉を挟まなかった。〝男〟の問いに、続きが有る事を嗅ぎ取っていたからだ。
 果たして〝男〟は貴人らしからず膝を崩し、平伏する堀川卿の方へと身を乗り出して言った。

「私は、正しいか?」

 迷いの故は、己が言葉に対し向けられた、幾つもの目であった。
 狭霧蒼空が子犬の亡骸を手に掴んで現れた折、その場に居合わせた村雨の部下達は、「酷い」と嘆いた。
 対して〝男〟は――「醜い」と評した。
 その時、向けられた目が、〝男〟に迷いを呼んだのである。

「私は何故、哀れみを施された。答えよ、堀川」

 〝男〟は、己の正当性を疑った事などなかった。道理に照らすならば、当代の数万人と引き換えに未来の億を救う事は、全く正しい行いであると信じていたからだ。
 然し、人とも獣ともつかぬ者達が〝男〟に向けた目は、〝男〟からすれば〝対話にも及ばず〟という落胆さえ混じったものと見えたのである。
 その故を知りたいと下された上命に対し、堀川卿は頭を垂れたまま――陰鬱と、響かぬ声で応じた。

「……僭越ながら。申し上げるにあたり、褒美を頂きとうございます」

「ふむ、褒美。そなたらしくも無いが、聞こう」

 〝男〟が先を促した、その時である。
 床に広がった五丈敷きの金髪が、ひゅると巻かれて立ち上がり、〝男〟の周囲に幾つもの尖塔が如く立ち上がったのである。
 その先端には、髪の中に隠していたと見えてそれぞれに短刀が編み込まれ、切っ先を〝男〟に向けている。

「否と言わせぬ構え。乱心したか、堀川」

「如何にも。この嘆願、聞き入れられねば、御首掻き切って、その血で偽勅をしたためまする」

 堀川卿は、床に面していた顔を上げた。

「我等への褒美として、狭霧兵部和敬討伐の勅を頂きたく」

「……ほう」

 血の気は引いて、だが理知は些かも消えていない、凄絶な美貌が其処に在った。








 堀川卿の髪は、一本一本が彼女の意の侭に動かし得る、手足の如きものである。
 それが部屋の扉を内側から閉ざし、窓を閉ざし――そして〝男〟に刃を向けていた。
 金糸が暗がりの部屋に、鋼を連れて踊っている。
 誰の介入をも許さぬと、堀川卿は腹を括ったのである。

「狭霧兵部の、討伐とな」

「国家百年の大計を求めるならば、必定、為さねばならぬ事と存じます」

「あの男程に戦に長けた者、謀略に長けた者を、そなたは知っていると言うか」

「いいえ」

「ならば狭霧兵部を除く事は、我が国の力を削ぐ事になりはせぬか」

「いいえ」

 〝男〟は「ふう」と溜息を吐くと、その場に寝転がろうとした。だが身動ぎをすると喉元に短刀が近づいて、その動きを阻害するのだ。
 座したまま、前を見据えて聞けと――命じる立場にあるのは〝男〟ではなく、堀川卿であった。

「まずは貴方様の分からぬ事を申し上げましょう。貴方が「醜い」と言ったあの娘に、私が、我等が、如何なる思いを抱いたか」

「ふむ?」

「……哀れと、そう思いました」

「哀れ、か」

 その言葉が全く知らぬ言葉であるかのように、〝男〟は「あわれ」と、音をそのままに幾度か繰り返す。
 空虚な響きである。
 音だけは同じ形をしているが、他の誰かから発せられれば鮮やかに胸を締め付ける赤い言葉が、〝男〟が発すれば枯草か藁の色なのだ。

「あれは狭霧蒼空、兵部卿の次女。気狂いと評判で、実際に死屍を連れ来て発した言葉も「直せ」と道理の分からぬ言葉でありました」

「全く醜い有様であった。天地、人の理を知らぬ、悍ましい様であった」

「我等はそう思いませぬ。あれは人の理を〝与えられなかった〟、悲しく哀れな幼子の姿でございます」

 堀川卿は膝でずずいと前へ出る。亜人たる彼女の目は、灯りを閉ざした部屋の中でも、〝男〟の表情の変遷を捉えている。
 今、〝男〟の顔に、鷹揚たる主君の面影は無い。理の通った答えを求める個人の、堅い顔が在るばかりだ。それを見た堀川卿は、奥歯をきりと一度鳴らしてから、次の言葉を選んで続けた。

「始めに一つ。そも人が人と〝成る〟為には、何が必要と考えまするか」

「問答か?」

「否、これは年長者よりの説教にございます」

「ほっ」

 その言葉があまりに意外であったのか、刃を向けられているというに、〝男〟は思わず手を打って前のめりになった。
 常々、敬意に満ちた言葉以外を浴びぬ身。驕慢の質は持たぬといえど、慣れぬ言葉も有ろうものだ。

「虫は生まれたその時に虫、鳥は生まれたその時に鳥、獣は生まれたその時に獣と成ります。然し人は、生まれたその時は、まだ獣に過ぎませぬ。人が人と成るには、人に導かれねばなりませぬ」

「………………」

「貴方が人として育ち、今こうして私の言葉を解する耳と知恵を持つのは、貴方を育てた人間の恩恵ではございませぬか。いいえ、もっと狭く絞るのならば、貴方に君主としての自覚を、使命感を、気構えを与えたは、貴方の亡きお父上ではありませぬか」

「……嗚呼」

 然りとも否とも言わぬが、〝男〟は呻き声で、堀川卿の問いを肯定した。

「故に人と成った者は皆、例外無く誰か人に育てられた恩を受けております。望む事すらなく――人に成らぬ獣に望む理知も無く――与えられた恩が、我等を人として育てました。
 その恩を十分に与えられずに育ったが、あの狭霧蒼空という娘なのです。命の尊きを知らず、死の悲しきを知らず、また屍が再び動くとさえ思い違うその哀れを、貴方は嘆きもせずただ醜いと詰った! それは只人の在り方であり、貴方のお父上が望んだ主たる者の在り方ではございますまい!」

 愈々堀川卿は立ち上がって〝男〟に詰め寄り、その爪先が〝男〟の膝に触れるまでも近づいた。
 その口から零れる怒気に、常の怠惰の気配は微塵も無い。厳格の霊が乗り移ったが如き、峻厳たる声の響きである。

「狭霧兵部が作る国とは即ち、あの形なのです。人が人として育たぬ、狂気にさえ至らぬ、幼きが故の過ちに満ちた――貴方の言葉を借りるなら〝醜い〟、我等の言葉を以てするなら〝哀れ〟な国!
 先の世代に託す為、今の世代を絶やすと言うのならば、先の世代を育てる〝親〟は、果たして誰が務めるのか! 狭霧兵部の治下に在りては、〝誰も居ない〟と答えましょう! 比叡の山を仏門を悉く根絶やしにしようと企てるが如く、日の本の良民は悉く、あの男の些細な楽しみの為に殺し尽くされるのだと!」

 ざんっ、と、〝男〟は立ち上がった。
 何を言うでもなく立ち、堀川卿の顔を、良く見えぬままで見下ろす――固く強張った顔のままで。

「……二つ。あの子犬の家族は、何をしたと思いまするか」

「子犬の家族とは、親犬か」

「いいえ、子犬と共に暮らしていた、痩せた浮浪児達にございます。彼等は掛けた短刀を以て、一騎当千の剣士である狭霧蒼空へ突きかかろうとしました」

「斬られた、のか」

「止めが入らねば、斬られていたでしょう」

「恐れぬのか」

「恐れをも覆い隠すのが、家族を奪われた者の嘆き。私も子が一人、江戸に逃がしておりますが、我が子に毛ほどの傷をも受けようならば下手人の命など露草の如く詰み取りましょう。
 仮にお父上が安らかに病床にて崩御なされたのでなく、誰か悪党の手にかかったとあれば、貴方は赦せまするか」

「……否、であるな」

「左様ならば、民も同じなのです。狭霧兵部の悪行により死んだ幾千もの良民の――父母兄弟、子孫、朋友、主従、その他形を問わずに関わった多くの者が、狭霧兵部を憎みます。その業を後押しすると言うならば、貴方の御名を以て業を為したも同様となり、衆怨は天にも届きましょう」

「己が悪名を、私は恐れぬ」

「私が恐れるのは、貴方への怨嗟が募り、この世を乱す事のみでございます」

 金髪、金眼、堀川卿の容姿は、日の本に在りては際立った異形である。その両眼がくわっと見開かれると、世から隔絶した感が、常にも増して大きくなる。すると「この世」と国を語るのが、碁盤を上から見下ろすようにぴたりと嵌るというか、似合うのである。
 先に〝男〟は、史書の中に己が如何に刻まれようと、それは意に介さないと答えた。だが堀川卿が指摘するのは、〝男〟という個人の事ではなかった。いや寧ろ〝男〟が永代の悪名を被る事など、どうでも良いという風情でさえあった。

「天下は〝狭霧兵部とその傀儡の王〟を共に憎み、やがては反乱の狼煙を上げましょう。……国力が増そうと、海の外に領土を増やそうと、例え世界の全てを版図に収めようと、人の感情までは支配できませぬ。必ず誰かの憎悪が何時か、狭霧兵部を殺します。その時、狭霧兵部が国の主柱と成っているのなら、この国も共に崩落するまでの事。つまり国の柱たる貴方が、狭霧兵部を重用してはならぬのです」

「むむ……」

「即ち貴方が狭霧兵部をこの後も重用すると言うなら、貴方が望む百年の大計は、貴方が安んじようと望む民草の手により崩れ去るのです、お分かりですか」

「………………」

 暫し〝男〟は、立ち上がったその姿勢のまま、少し首を反らせて、天井を睨みつけていた。
 天井には何も無い。だがその向こうには、どれ程とも知れぬ程広い空が広がっている。それを感じているのである。

「堀川よ」

「はい」

「国とは、なんだ」

 視線が降りぬまま、問いばかりが下りた。問うたばかりの〝男〟の手は、堅く握りしめられ、指の隙間から血が滲んでいた。

「私は父を敬愛している。だから父が遺したこの国を、私は世界の一等に育て上げたいと、そう思った。私の時代を捨てようとも、未来は必ず父の望んだ強国が生まれるであろうと」

「……恐れながらそれは、国を〝領地〟と見、民を〝付属〟と見なすお考えです。やがて入れ替わる民を眼中に置かず、不変である天土こそ国であるとする」

 何時しか堀川卿は、〝男〟を囲む刃を退かせていた。
 戸も窓も抑え込まず、力の後ろ盾無く、一人と一人として〝男〟に説いていた。
 何を、か。
 道である。
 幾百幾千の才を束ねる『錆釘』の長は、今、王佐の臣たらんと賢を振るっていた。

「違うのか」

「国とは、人。今、貴方と同じ時に同じ空の下に生きている、民草の全てが国なのです。貴種も下賤も隔てなく、老若も問わず、一切全て、ただ一人と踏み躙ってはならぬ貴方の国……お父上が愛された国とは、つまり」

「……そうか」

 膝から〝男〟が崩れ、木板の床の上に、ごつんと堅い音を立てて横たわる。
 助けを求めるでも無く、痛みに呻くでもなく、仰向けになって見えぬ空を掴むように手を伸ばし――

「我が父が愛したは、山でも川でも無く、人であったか」

「はい」

 その目の縁に一滴、溜まっていた水が零れて落ちる。それが呼び水となったか、暫し〝男〟は動かぬまま、声無き嗚咽を漏らしていた。
 やがて嗚咽が収まり立ち上がった時には、その顔には何か、濁りの抜けた川の如くすがすがしいものが宿っていた。
 男となった者の顔であった。

「……礼を言おう、堀川」

「及びませぬ。それよりは」

「分かっておる」

 堀川卿は再び座し、頭を垂れる。五丈敷きの金髪は、彼女の纏う衣の上に織り絡み合い、金糸の被衣を乗せたようであった。
 それから許しを得て、〝男〟の耳に口を寄せると、幾つかの策を囁いた。
 その全てに〝男〟は「良し」と言い、そして日の昇らぬ内に、闇に紛れ元の住まいへと舞い戻ったのである。
 何時しか、日を跨いでいた。
 1794年2月28日、日の出前の、鳥の目覚めより早くの出来事であった。








 〝男〟と堀川卿の密談は、後世に、史実として語り継がれるものであろう。
 天下の大勢を動かす事件とは、隠密裏に起こり、表層に現れる時は既に完了されている。そして、後日つまびらかとなった時、幾分かの整形を経て、司書に刻まれるのである。
 然しながら、人の流れとは、表に現れるものばかりではない。
 この時、全く平行してもう一つの流れが、洛中に生まれていた。
 それは堅牢の獄より起こったものであった。

「……湿っぽいなー……」

「風通し悪いですもんねえ」

 明かり取りの窓の他、風の流れる道も無いような牢獄の中、まるで日の下で交わされるが如き呑気な会話が行われていた。
 当事者二人は、はっきりと互いの顔が見える距離にまで近付いている。
 二人を隔てる木組みの格子は厚く、生半の刃では食い込みもせぬ程。とは言え、その内に収まっている囚人に、実はこの牢を破るなど造作も無い事なのだ。
 杉根 智江――本名、ジーナ・ファイネスト。
 日の本にはまだ数少ない〝魔術師〟――要するに、魔術という学問に対する学究の徒、学者である。
 だが、象牙の塔に籠る学者であるならば、彼女が投獄の憂き目に遭う事は無かっただろう。
 ぞっとする程冷たく美しい顔に微笑の仮面を貼り付けながら、腹に潜むのは狂気。かつてはその狂気が赴くまま、数多の人間を切り開き、切り刻み、知的好奇心の贄とした。
 その知識と技術を有用とされて生き永らえているが、首が落ちていたとて、なんら不思議では無い罪人なのだ。

「こんな所でじっとしてると退屈で仕方が無い。ちょっとこっち入って来ません? ほんの一時のお楽しみにぃ……」

「却下」

「ちぇーっ」

 そんな彼女が、言葉で戯れている相手は村雨であった。
 狭霧蒼空が寝付いてから、その足でこの牢獄まで赴いたのである。
 村雨もまた、かつて智江の術策に落ち、危うい目に遭った一人。近づいて来いと手招きされれば、寧ろ警戒を示すように、とんっ、と後方に飛び跳ねて間を空けた。

「元気そうでなにより」

「どーも、人生は何時も愉快なものです。……んで、ご用件は挨拶だけで?」

 雰囲気ばかりは和やかに、智江は村雨に尋ねる。すると村雨は、格子の内から手が伸びてきたとて、僅かに指が届かない位置まで近づき直し、その場に腰を下ろした。

「力を貸して欲しいの」

 話の切り出しは、突然であった。

「……ほう? そりゃまたどういう風の吹き回しで。他の誰でもいざ知らず、よりにもよってこの私?」

「そう、あなた。私が知ってる中で、一番強いけど扱いやすそうな人」

 思わぬ事を言われたと、智江は暫し言葉を止める。
 目を眇めて、少し遠くにある村雨の顔を見るに、冗談を言っているようにも見えず、さりとて緊張も見えない。自分の意思が通ると、確信しているような顔なのだ。

「……中身にもよりますが、聞くだけは聞きましょ」

「中身を選んでもらうつもりはないかなー、『はい』だけ聞かせてもらうつもり」

「そりゃ横暴な」

 会話も、主導権を渡そうとしない意思が見える。
 要求するものを明らかにせず、どうとでも言い換えられる余地を残し、承諾だけを求める――賢いというより、悪どい、善人がやらない類の交渉手段だ。そういう事を、表情を強張らせもせずに実行できる少女であったかと、智江は酷く訝った。

「ふむ……ふむ、分かりました。引き受けましょ、受けましょうとも。但し交換条件くらいは提示させてくださいな、ね?」

「聞くだけは聞いてあげる」

 自分の言葉をそっくり返されて、智江は何とも言い難い渋面を作った。
 然しそこは大悪党。瞬き一つで気を取り直し、直ぐに元通りの微笑を引き戻すと、

「そうですねえ、こういう所じゃあ娯楽が無くて退屈で仕方が無い。村雨ちゃんで一晩たっぷり遊ばせて貰えるなら、お手伝いもやぶさかじゃあありませんがねえ」

 自然に滲むより明らかに色濃く、好色の笑みを唇に載せ、舌を蛇のように蠢かせた。
 村雨はそれを、特に表情も変えずに見ていたが――突然、羽織の内側に縫い付けた袋から取り出したものがある。

「……ん?」

 智江が目をくうと細めて見てみれば、それが胡桃であると分かった。大振りでごつごつした、小石のような強度のある胡桃だ。
 それを村雨は、自分の口に放り込むと――
 がきっ。
 ごりっ。
 ばりっ。
 と、骨の髄から寒気を呼ぶような音が幾度か鳴った。
 鳥が高所より落下させても、滅多に割れない胡桃の殻を、村雨は事もなげに噛み砕いたのであった。

「私、噛み癖酷いらしいけど大丈夫?」

「……うわーお、テリブル」

 荒事の度に相手を殴っていては拉致があかないと、力をひけらかす目的で持ち歩いていた胡桃であったが、狙い通りの効力を発揮した様子である。骨まで噛み折られては堪らぬと怖気付く智江に、村雨は好機と見たか、追い撃ちをかけるようにこう言った。

「この歯で噛まれるのが自分なら、我慢も出来るだろうけど……〝あの子〟はどうかなー?」

「――ぁあ?」

 人には、触れてはならぬ部分が有る。それは弁えている村雨だが、敢えて〝その場所〟へ踏み込んだ。
 案の定、智江は微笑の仮面を瞬時に消し去り、冷たく凍て付いた目となって、村雨の観察を始めた。
 村雨は意識して後退し、可能な限り暗がりに身を紛れ込ませる。寸分の隙とて、この相手に晒すべきでは無いと知っているからである。

「あの子、サーヤって言うんだってね。何処の国の子? 我慢強い方だったりする?」

 提示したのは、智江が右腕と傍に置く、異国の少女の名であった。
 その少女を守る為、桜の太刀を受け、智江は右腕を失っている。片腕と引き換えにする事を躊躇わぬ程、寵愛しているのだ。
 今、その少女は智江とは別の牢に居る。数日に一度は面会もしているし、必要とあらば助手として呼び寄せる事も有るが――今の智江は、サーヤの所在を知らない。

「あなたが快く協力してくれるなら、あの子も少しは美味しいものを食べられるだろうし、痛い目に遭わなくても済むし――」

「……おい」

 分厚い木組みの格子を、智江の細腕が殴りつけた。
 非力であろう筈の一撃が、牢全体を軋ませる衝撃を生む。魔術による強化としても、その度合いが尋常ではなかった。全力で振るうのならばこの牢は忽ちに打ち破れるのだと、雄弁に語る一撃であった。

「殺しますよ、貴女」

「そしたらあなたが桜に殺される。二人で幸せに暮らすのと、二人で別々のお墓に入るのと、私だったら絶対に迷わないけどなぁ?
 早く決めた方が良いよ。私が戻って「駄目だった」って言うか、もしくは私が戻らなかったら……分かるよね?」

 努めて村雨は声も明るく、時候の挨拶程の深刻さも無く、智江を脅迫していた。
 対する智江は、暫しの沈黙に入る。
 冷え切った顔の内側、どれ程に腸が煮え繰り返っているか伺い知る術も無いのだが――笑みも無く、戯れるような言葉も発しない智江は、生来の酷薄な顔立ちがより一層浮き彫りになる。
 その時、空気の流れに変異が生じた。
 人間なら気付かぬだろう微量な〝臭い〟が、牢の外より流れ込み、智江の方へと流れて行くのである。
 魔術行使の――それも、自分の内に在る分だけでなく、外より魔力を掻き集めて発動する、より大きな結果を為すものの予兆である。

「――っ!」

 村雨は咄嗟に〝格子へ近づいた〟。そして、鍵を用いて牢を開け、己が何時でも内側へ飛び込めるようにしたのである。
 己の五体を武器とする村雨が最も力を発揮するのは、密着に近い至近距離。智江が何か行動を起こす前に、先手を打てる距離にまで、村雨は接近したのであった。
 智江の思考速度は極めて速く、また思考の段階も常人とは構造を異にする。この時、智江は眼前の光景を瞬時に分析し――実力行使という手を捨てた。

「あーくそ、とっ捕まえた時にさっさと脱がして楽しんでおけばよかった! 私の馬鹿!」

 ふてくされた子供のように牢の床に仰向けになった智江は、手足をばたつかせてぎゃあぎゃあと喚き始めた。
 既に微笑の仮面は貼り付け直し、顔だけ見るなら善良な、心優しき女の擬態を再開している。

「……そうしてたら、あなた多分、桜に首斬られてると思うよ」

「貴女が「私は凌辱されました」ってばらさなきゃ大丈夫な予定だったんですうー。大体は泣き寝入りしてくれるから問題ない筈だったんですうー。勿体無えー!」

 さて、そうして下衆な後悔をひとしきり叫んだ後、智江は牢の中で立ち上がり、同じく牢内に入り込んだ村雨と正対する。
 いざ腹を括ってしまえば、当代随一の才人である。既に目の奥では、無数の算段を巡らせているのであろうか、時折視線が空へ泳ぐ。

「して、私は何を」

「ちょっとね、大砲をどうにかして欲しくって」

「……あのね、アイアムアドクター、ノット機械技術者。オーケイ?」

「砲手は人間がやるんでしょ? だから――」

 村雨は、智江に何事か耳打ちする。
 背丈が八寸も違うので、背伸びばかりでは耳元に届かず、智江の頭を掴んで引き寄せるようなやり方であったが――その企みの仔細を聞くと、微笑みは仮面でなく、愉快を覚えたものへと深まった。

「……ようがす、やったりましょ。代わりに約束は、確かに守って頂きますよ」

「快諾ありがとう、約束は守るよ」

 そして村雨は、封書を智江に押し付けて牢を去る。
 屋外に出ても暗さは変わらず、ただ風の有無ばかりが違う。新鮮な空気に触れ深呼吸する村雨に、近づいてくる者があった。

「あのろくでなしを使おうとは、貴女は頭がイカれちまってやがるのでございますか?」

「自覚は多分に。いいから、早く行っちゃって」

 敬語というものを履き違えた独特の口調は、つい先程まで話題に上がっていたサーヤ――智江の助手たる少女のものであった。
 十歳前後だろうかという小柄な体に、日焼けなく生来のものであろう色黒の肌、癖の強い黒髪――村雨とはまた違うが、異国の生まれと分かる外見。少なくとも、日の本の少女で無い事は確かである。
 智江が投降し、語句に囚われるに辺り、彼女もまた、幾分か警戒の緩い牢へと収監され、時折は智江の元に呼び出される身となっていた。
 そんな彼女は、すっかり旅支度を整えた姿であった。
 懐奥には胴巻きを隠しているが、その中には旅費が、明らかに囚人が持つとは思えぬ金額で収まっている。

「うっかり智江に見つかったりしないように、ちゃんと遠くまで行っててね。この手紙持っていけば、宿は『錆釘』で借りられるから」

「至れり尽くせりでございますね……」

 江戸へ厄介払いされるのである。
 小悪党には成れるが、大悪党には成りきれぬ、半端者の村雨であった。








 その翌日――つまりは3月1日の、明け方の事。
 前夜に訪れた使者の導きで、村雨は正装――政府に属する赤心隊の羽織姿で、背には黒太刀を括りつけた――にて、開かれた門を潜った。
 洛中に在って最も尊く、最も冒し難い聖域とも言える地である。
 たった数日前に忍び込んだ折は塀を越え草陰に潜んで馳せたものであるが、この日は左右に並ぶ松明の列が、村雨とその部下達を迎えていた。

「……とっくに攻撃は始まってるわよ。比叡攻めは」

 村雨の横に、もはや副官面が板に着いてしまったルドヴィカ・シュルツが、思い切り眉根を寄せて並ぶ。
 村雨以下、赤心隊の一部は加わっていないが、この時既に比叡山では、巨砲〝揺鬼火〟が、城壁に砲弾を炸裂させた後であった。

「分かってる」

 無論、戦局がどうなっているかなど村雨には分からない。ただ、交戦は開始しただろうとは、時間の経過で分かっている。
 その答えが悠長に聞こえたのか、ルドヴィカは小声で早口になり捲し立てた。

「兵部卿の顔、本気だった。……いやそりゃ、いっつもとんでもない事をやらかす奴だってのは分かってるけど、あの時の面構えは尋常じゃなかったわよ。絶対に何かろくでもない事企んでるわ」

「だろうね、分かってる。……だけど安心して」

 それを、受け止めるというよりは受け流すようにして、村雨は歩いた。すると前方に、厳かな雰囲気を醸し出す、貴人であろう男が一人立っていた。
 その男は使者であった。
 書状を捧げ持ち、ずうと息を吸い、両足を踏ん張って、

「勅命である!」

 と、言った。
 その言葉を受けた村雨は、かねてより知っていた風な顔をしながら、その場で地に膝を着く。と、部下達も皆それを見習って同じようにした。
 知っていた風――いや、実際に村雨だけは堀川卿より聞かされていた。赴く場所に何が待っていて、どう振る舞えば良いのか、全てである。
 だから村雨の心中は、澄み渡って晴れやかであった。
 使者は書状を開き読み上げる。この言葉は即ち、天上の言葉と同一である。

「従五位下、兵部少輔の宣を授く! 謹んで受け候え!」

 兵権を司る兵部省の、空白となっていた官職――兵部小輔。一介の部隊長程度が受けるには、破格の位であった。
 昇殿が許される地位――と呼ぶよりは、かつて一部の大名が与えられていた官職と同等、と言えば良いだろうか。
 即ちこの時、村雨には、公家や武家と等しいと言っても過言でない身分が与えられたのである。
 無論、この抜擢には理が伴う。
 続けて使者は、また別な書状を開き、こう発したのである。

「兵部少輔に命ず。兵部大輔、堀川卿の指揮下にて軍を率い、朝敵、兵部卿狭霧和敬を討伐せよ。為に兵士五百を率い、また兵部大輔に与える二千の兵と合わせ比叡山の救援に当たれ。その後には余勢を借り、邪教の主エリザベートを討伐せよ!」

 命が下ると同時、周囲より、ぐわっと歓声が上がった。朝廷の公家達や衛士達、現状に心を痛めていた者達が、遂に時を得たと喝采を叫ぶ声であった。
 もう目を伏せ非道が為されるのを見過ごす理由は無いのである。彼等は天に拳を突き上げ、躍り上がって、勅命が下った事を喜んだ。
 その歓声の中、村雨は深く頭を下げ拝命の意を示した。そしてまた別の使者が捧げ持つ旗を恭しく受け取った。
 それは日輪を誂え、天照皇太神の名をも綴った、勅を表す旗であった。
 村雨は旗を高く翳し、応、と叫んだ。周囲の歓声は一層に増して、雲さえ揺るがさんばかりであった。

「……は? あら、ららあ、えっ?」

「言ったでしょう、安心だって。……私達の勝ちだよ」

 周囲が夜空に意気を上げる様を、ルドヴィカはまだ十分に理解出来ていないようであったが、それを余所に村雨は、東の空に視線を飛ばしていた。
 直ぐにも五百の兵士が、周囲の歓声さえも掻き消す、巨大な声の波となって姿を見せる。彼等は一様に、村雨が着る羽織に合わせたか赤の鎧兜を纏い、長槍一つ、腰には刀と、正規の兵士の軍装であった。
 村雨は彼等の前に立ち、頷いて、そして歩き始める。
 向かうのは、東――比叡山。
 調練の行き届いた兵士達は、己が上長となった村雨の後を、整然と隊列を整えて追う。
 御所の門を潜り、大路へと出て――すると方々から、武器を持った兵士達が走り寄り、隊列の後方へと加わって行くのだ。
 その内の幾人かは、村雨の前へ進み出て軍令を取り、参戦の許可を求めた。

「天下の浪人、羽佐間の寛治、一族郎党三十名を引っさげ参った」

 と、古風な大鎧姿で加わるものあれば、

「河内の僧、詠念、比叡を救うとあらば微力なれど」

 などと言って加わる僧兵も、五や十では利かなかった。

「後ろに着いて来て!」

 来る者を拒まず、誰にも等しく、村雨はそう答える
 勅により村雨に与えられた兵は五百だが、日輪旗の下、兵数は見る間に膨れ上がってゆく。
 彼等は皆、与すべき者が立つ日を待っていたのだ。
 仮にもし、日輪旗を持つ者が、村雨でなく他の誰かであったのなら――きっとそれでも、彼等は集ったのであろう。
 そういう時節であった。
 天の時が、人に、立つ事を求めていたのだ。
 然し、村雨でなければならぬ事も、在った。

「隙風衆、青峰 儀兵衛。加勢の認を頂きたい」

 黒い洋風の軽軍装で揃えられた一団が、疾風の如く現れる。その長、青峰儀兵衛は、村雨とも縁浅からぬ、幾度か袖振り合わせた者であった。
 元より中年ではあるが、顔には以前より皺が増えたようにも思われる。然し、皺を刻んだ苦心さえ忘れたように、彼は覇気に満ちていた。

「私の隣に立って、副将を務めて!」

「…………!」

 村雨は彼を一瞥し、足を止めないまま、そう指示を与えた。
 他の兵と同様に、後列に加わろうとしていた儀兵衛は、思わず目を見開いて、

「……まだ覚えてたか、嬢ちゃん」

「結構思いっきり殴っちゃったからねー、あははは」

 いつぞや殴られた頬を、無意識に手で庇った。
 儀兵衛ばかりではない。加わった者の中には、村雨が見覚えのある顔――〝看板通り〟で道場を開いている武芸者なども居たし、町人に紛れて機を窺っていた兵士崩れの者も居た。
 村雨はかねてより根を回していた。洛中を巡り、雪降ろしやら何やら手伝って回りながら――誰が何に不満を持っているだの、誰は強いだの、そういう話を掻き集めていた。そして、その中でもこれと見た者には、こっそりと話を持ちかけていたのである。
 何時か、自分が立つ時は力を貸せと。
 半信半疑で待っていた彼等であったが、前夜、戸を叩いて呼びに来た声に――そして今、日輪旗を掲げて歩く姿を見るに、信じぬ事など出来なかった。
 鴨川を超える頃には、与えられた兵の半分くらいには志願兵が集まった。それを見て村雨は、広い河原にて一度立ち止まり、彼等を横に並べ、その前に立った。

「――――うぉう」

 そうして見れば壮観である。
 つい数刻前まで、たった十数人の群れを率いていた筈の村雨は、何時の間にか数百の兵を前にしているのだ。
 だが――元来、人狼とは群れを成す捕食者である。その中に生まれ落ちた村雨もまた、他者を率いる事が当たり前のようにさえ感じられていた。
 言葉を発するより前に、村雨は笑っていた。かかと大笑するのではなく、目は戦場にありながら、牙を剥くように唇の吊り上がる凶暴な笑み――そしてその色も塗り潰す、達成感に満ちた笑みで。

「……集まってくれて、ありがとう」

 それから村雨は、何と言えば良いのか分からなくなった。
 こうして一所に集まった彼等であるが、その前に立つ自分は、彼等に命令を与える程、大した存在なのか。
 偶然にも時節に恵まれ、その中を上手く立ち回っただけの自分が――

「みんな――」

 けれども、一つだけ分かる事が有る。
 善だとか悪だとか、そういう小難しい動機ではないのだ。
 利害だけを考える程に、此処へ集まった彼等は聡くはないのだ。

「――もう、我慢しなくていいよ!」

 気に入らぬのだ。
 狭霧兵部が作る世の中の形が気に入らない――突き詰めて言えば、此処に集まった連中の想いはそれであった。
 義でも理でもない、感情こそが彼等の背を押し、拳を高く空へ突き上げさせる。
 意気、空を焦がす火柱の如く、数百の咆哮は束ねられ、洛中の大気を揺るがしていた。








 そして、時が重なる。
 杉根智江の手より奪い取った書の文面に、雪月桜は目を走らせていた。
 世辞を言っても下手な字が、そこには綴られている。
 文章も、口で話すならば流暢だろうに、文字にしてしまうと、まるで子供が書いたような拙さだ。
 それでも――稚拙な文から、伝わるものがあった。
 隔てた月日と、その間に為した事。見た物。触れた者。
 抱いた思いと、変わらぬ想いと。
 それらが全て一時に、桜の胸中へ流れ込んで来るようであった。
 他の誰にでもなく、たった一人に当てて書いた拙文は、読み辛くもあり、だからこそ幾度も同じ個所を読み返し――

「――――!」

 最後の一文は、「この手紙より早く着いてたらごめん」と締めくくられていた。
 来る。
 何らかの成果を伴って。
 そうと知った時、桜の体は自然と動いていた。
 罅の入った城壁の外、開け放たれた西門の外へ、跳ぶように馳せていた。
 門の外には、屍の腐敗臭や血の臭いが、悲惨な戦場の残り香として漂っている。
 桜が討ち取った兵士の亡骸は、政府軍が幾人か回収したと見えて、ほんの少しは数が減っていた。
 とはいえ、それでも尚、修羅の野である。
 白雪は踏み荒らされ、血で溶け、蹴り散らかされた、惨たらしい光景が広がっていた。
 その惨状の中を、真っ直ぐに突っ切ってやってくる一団が有った。
 群れの頭の方に並んでいるのは、赤の鎧兜に身を包み、長槍を翳す五百の兵士。歩数歩幅を合わせ、同じ高さに槍の穂先を掲げる、規律正しき一隊である。
 その後方に、左右に広く引き伸ばされた形で続くのは、装備も雑多な、町人や浪人や僧侶などを掻き集めた有象無象の群れである。此方も二百か、或いは三百か、十分に戦力たる一隊であった。
 彼等は旗を掲げていた。勅を表す、日輪の旗であった。

「おお……っ」

 桜が、その壮観たる光景に溜息を零すとほぼ同時、後方の城壁からも、外を覗き見ていた兵士が城内の仲間に呼び掛ける、興奮しきった声が聞こえた。
 城外の兵がその声に呼応して、我等此処に在りと吠える。
 咆哮に呼応した城内の兵が、よくぞ来たと雄叫びで出迎える。
 二重の大音声が比叡の山に轟き、それは城ばかりか、山全てを震わす力と化していた。
 だが――桜には、何も聞こえていなかった。
 その左目は、隊列の先頭で胸を張る少女へ釘付けにされ、僅かにも動く事は無かった。
 背も、髪の長さも、目に見えて変わった部分は何も無い。
 伊達振りをひけらかす赤羽織姿は見慣れぬものなれど、惚れた欲目か、似合いであると思う。
 然し何よりも、顔が良かった。
 自分の隣で日に日に逞しく育った顔が、自分の見ていない間に、より強く、より美しく育っている。
 見届けられなかったのが寂しくもあり、出会いをやり直しているような驚きもあり――そんな想いの全てを塗り潰す程に、愛おしさが込み上げる。

「桜、お待たせ」

「……うむ」

 兵を後方に置き留め一人歩み寄って来た村雨を、桜は両腕の中に抱き締め、首筋に顔を埋めた。赤子が母親に縋り付く姿にも似た、無心に存在を求める抱擁であった。

「我儘聞いてもらって、ありがとね」

「構わん」

 肩に預けられた桜の頭の、返り血が固くこびり付いた髪を手で梳きながら、村雨が優しい声で言い、桜は掠れ気味の声で返す。
 互いに相手の顔が見えぬ形だが、どんな顔をしているかは分かっていたから――桜は顔を上げず、村雨も覗こうとはしない。

「今度は私が助けるから。許してもらった分だけ、あなたの我儘を聞いてあげるから」

「ああ、頼む」

 代わりに、抱擁が決して緩まぬよう、村雨は桜の首に両腕を回した。
 熱が近づき、鼓動が近づく。
 其処に昂りは無かった。ただ、計り知れない程に広大な安堵感が、二人の心を満たしていた。

「ずっと待たせてごめんね、桜」

「村雨――」

 互いの名を呼びあいながら、抱擁は続く。桜の顔は誰にも見えぬままだが、村雨の目には確かに、うっすらと光るものが滲んでいた。

「――お前、本当に胸は育たんな」

 が、その言葉は無情であった。滂沱の涙とて一瞬で引かんばかりの、残酷なまでに事実だけを告げた言葉であった。
 ごしゃっという音がその言葉の後に続く。村雨が桜を突き飛ばしながら、右膝で顎を思いっきりかち上げたのである。

「ひ――久しぶりに言う事がそれかいっ!」

「ぐおぉ、ぉ……久しぶりに会った恋人に膝蹴りとは、薄情な奴……」

「こ、こいびっ、いきなりそんな――って、誰のせいかっ!」

 並み居る武術家を打倒し、五体これ凶器となるまで磨き上げた村雨の膝蹴りである。並みの戦士ならば顎を叩き割られて昏倒しようものであるが、そこは雪月桜、痛みに呻きつつも両の足でしかと立っている。その正面で村雨は、ぎゅうと握った拳を震わせながら、白い顔を真っ赤にして吠えかかっていた。

「然しだな、肩も腕も前より幾分か膨らんで、これならば胸の方もと期待してみれば、増しているのは硬さばかりとは――」

「喧しいっ!! そういう事を言うなら――桜、今あなたすっごく臭いよ!?」

「く、臭い!?」

 今度は桜が狼狽する番であったが、無理も無いと言えば無理も無い。
 と言うのも、現状の桜が纏っている臭いときたら――数十か数百人分の返り血の臭いに、政府軍が投擲した屍の腐臭、火薬やら金属やら戦場につきものの臭いと、当然だが当人の汗と。
 それでも人間なら、周囲の悪臭で鼻も慣れてしまうのかも知れないが、村雨の鋭敏な嗅覚にはかなりの刺激であった。
 つまり、かなり我慢をしていたのである。
 図らずも「我儘を聞く」という宣言を証明した形ではあったが――

「お前……私を女だと忘れておらんか!? 流石に傷付くぞ、いや傷付いたぞ……!」

「その言葉そっくりそのままお返ししてやろうじゃない、あんたの頭は色事ばっかりか!」

「おのれ労わりという言葉を知らぬ奴め……こうしてくれるわ!」

「わっ!? 放せ、はーなーしーてー!」

 ――何処にその体力が残っていたかというような喧しさである。
 先程より尚も強く、村雨をがっしと腕の中に抱き留めた桜は、決して逃がすまいと、村雨の背中で両手指を引っ掛けている。
 そして村雨は、身をじたばたと捩って拘束から逃れようとするのだが、そこは怪力の桜の事、一寸の隙も生まれない。
 周囲の兵士達も、このやりとりに割り込んで行く事も出来ず、なんとも言い難い表情で見ているばかりである。
 その内、村雨が桜の脛に蹴りを五、六回も叩き込んだ後の事――ふっと、桜の腕の力が緩んだ。

「――あっ」

 その隙に腕を振り解いた村雨は、直ぐに気付いて、崩れ落ちる桜の体を支える。頭を肩に預けられていた時以上にずっしりとした重みが、村雨の体に寄り掛かった。
 なんと桜は、村雨を抱き締めたままで眠っていたのであった。
 つい先程まで他愛無い口論をしていたばかりだと言うのに――村雨は溜息を吐いて、それから、他の誰にも見せないような優しい微笑みを浮かべて、桜の体を肩に担ぐ。

「……疲れてたんだね、桜」

 微動だにせず寝息を立てる体を抱えたまま、村雨は比叡の西門を潜った。
 後続の兵士達が入場し、また城内よりも幾人か、中心の立場であろう者達が進み出て来る中、村雨は一人、まるで違うものを探していた。
 果たして、それは直ぐに見つかる。
 雪を溶かした水を張った、巨大な鍋である。
 戦場より戻った兵の喉を潤す為に用意された鍋は、そのままで鹿やら猪やらを丸ごと煮る事も出来るだろうという大きさであった。

「それ、冷めてる?」

「はい? ……はぁ、火を落として暫く立ちますが、ぬるいくらいかと」

「ん、ありがと」

 鍋の横にいた男に訊ねれば、男は意図を察しかねるという顔をしながらも律儀に答える。
 すると、村雨は人懐っこい笑顔を作って礼を述べた後、

「よいしょっ」

 担いでいた桜をその鍋に投げ込み、更に自分も鍋の中に飛び込んだのであった。
 横の男が珍妙な声を上げるのも構わず、村雨は更に暴挙に出る――桜の纏う衣服を剥ぎ取って、鍋の外へ放り出すのである。

「誰かー! それ洗っといてくれるー!?」

 そして、大量の水を使ってごしごしと、着物を手洗いする要領で、村雨は桜を〝洗濯〟し始めたのである。
 手足も髪も、こびり付いた返り血を擦り落とし。顔を洗ってやる時は、頭ごと水の中に沈めもしながら、ざっぱざっぱと豪快に水を跳ねさせ、洗う。
 そんな扱い目覚めぬ辺り、桜の疲労の程もかなりのものであったのだろうが、然し〝雑〟なやり方であった。

「あんた、ちょっと! 後ろの連中への命令とか、城の状況把握とか――」

 村雨の補佐を務めるルドヴィカが、至極真っ当な進言をするのだが、

「全部任せた! 儀兵衛さんと適当に相談して良い感じに宜しく!」

「適当、って――あんたコラァッ!」

 いかんせん今の村雨に、その他の事項を聞き入れる度量など残っていない。
 恋は盲目と言うが、成程まっことその通りであった。








 こうして比叡山の包囲網は完全に解かれ、疲弊した城兵には休息が、そして満腹して尚余りある程の兵糧が届いた。
 城中の残兵に加えて、十字教徒の援軍が三百、村雨に与えられた官兵が五百に、志願兵が三百前後。一時に膨れ上がった戦力は、然し錦の御旗を得て、一兵残らず士気を昂らせていた。
 これより比叡の軍――いや〝日の本政府〟の軍は、再編成の後、二条城への攻撃を開始するであろう。
 〝逆臣〟狭霧兵部和敬と、それに与する〝大聖女〟エリザベート討伐の戦は、比叡山に顕現した地獄より平穏であろうと、誰もが信じている。
 1794年3月1日、後の史書に、一つの内乱の終わりとして記される日。
 雪月桜と村雨は、遂に再開を果たしたのであった。







 夢も見ぬ深い眠りから、雪月桜は目覚めた。
 見上げているのは、比叡山中にある本堂の天井。背には、平素に用いていた煎餅蒲団とは違い、賓客に用いるものか柔らかい蒲団の感触を覚える。
 体を起こすと、自分が真っ白い襦袢を着ている事に気付く。晒も髪を結んだ紐も解かれている。
 枕元には掛台が二つ置かれている。
 一つには脇差『灰狼』と、呪切りの太刀『言喰』が。
 もう一つには黒太刀『斬城黒鴉』が、鞘に塵一つも無く鎮座していた。
 立ち上がり、両手をひゅるりと刀に見立てて振り回す。筋、腱、骨、五体の一切が思うように動く。
 風圧に靡いた三尺の黒髪は、根元から毛先まで手櫛を通せるような、元の艶めかしさを取り戻している。
 雪月桜の、万全の姿であった。

「起きたんだ」

「おう」

 襖を足で開け、村雨が本堂に入ってくる。
 盆の上に、白米を山盛りにした茶碗と、湯気の立つ味噌汁を入れた椀。小皿には漬物と、何か獣の干し肉を数切れと――朝食とも昼食ともつかぬ時間帯であるが、それを運んで来たのであった。
 寝起きの食としては中々に豪勢で、籠城中の粗食に慣れた桜には、染みる程に美味と感じる飯であった。
 それから着替えを始めた。
 襦袢を脱ぎ、裸形となった桜の胴に、村雨が晒を巻きつけてゆく。
 腹の上に幾重にも、臓腑を守る鎧として硬く硬く巻きつけ、背の側で一度結ぶ。それから、残った布で胸を、やや強く圧し潰すように巻き留めた。
 晒に軽く爪を立て、爪の硬さを腹に感じぬようになってから、黒の小袖を纏い、袴を穿く。
 脇差も、太刀までも佩くのではなく帯に差して、黒太刀を背負う。
 何れも一つと欠けてはならぬ、桜の〝正装〟である。

「私は、どれだけ寝ていた?」

「丸一日とちょっと」

「そんなにもか……道理で力が有り余っている」

「そんなに?」

 力瘤を誇示するように腕を曲げてみせる桜が、あんまり子供染みて見えて、思わず村雨は吹き出しそうになる。

「おお。疑うなら、今からでも閨で教えてやろうか?」

「馬鹿」

 然し、その次に続く戯れを聞けば、村雨は顔を赤らめながら桜の胸を拳で叩く。軽く細やかな音で、痛みもない拳である。

「……ほんっとうにこういう所は直らないんだから……山に籠ったのに、お念仏の一つも唱えなかったの?」

「生憎私は洗礼を受けた身でな。大体にしてその程度で掻き消える程、安い煩悩なぞ持ち合わせておらんわ。刀、美酒、美食、歌舞音曲に閨房、全て望むだけ味わってこその命ではないか」

「はぁー……ったくもう、まったくもう……」

 全く、何も変わっていない、と。呆れたようにも、また懐かしむようにも、村雨は小さく首を振った。放言ぶりは頭痛の種だが、その頭痛さえが懐かしく思えた。
 然し――変わったものとて有る。
 それは、桜自身の変化でもあるだろうし、表に出さぬそれを嗅ぎ分けられるようになった、村雨の変化でもあるのだろう。かかと高笑いする桜の頭を捕まえ、顔を自分の方へと向かせて、村雨は問うた。

「……〝刀〟は、本当に楽しめた?」

「……いいや」

 真っ直ぐに射抜いて来る目を見れば、桜も戯れに逃げられない。目を伏せ、素直に答えた。

「私は……戦とは、楽しめるものだと思っていた。それまでの争い事は必ず私が勝っていたからだ。ところが驚いた事に、本物の戦というものは、私がどれだけ一人勝ちしてもまるで意味の無いものでな。私が何人も斬り殺している間に、別な所で何人も殺されていたよ」

「――――」

「飯は日に日に不味くなるし、昨日見た顔を今日も見られるとは限らん。屍体を投げ込まれた時は鼻がたちまち駄目になった。砲撃は――これはどうにもならんと諦めた。
 夜も心安らかには眠れん、娯楽も無い、一人寝は寒いし寂しいしで、何一つ良い事など無かったぞ」

 桜は、己が辛かった事ばかりを語る。
 だが――桜は結局、比叡の山に入る前に持っていたものは、何一つ失っていないのだ。
 失ったものは悉く、自分の所有物ではない『赤の他人』に属するものばかり。
 何も変わらぬように見える桜に、たった一つ変わったものがあるとすれば――気紛れでなく芯から、他者の苦しみを嘆くようになった事であった。

「なあ、村雨。楽しくない事をやるのは、自分から選んだとしても嫌なものだなぁ」

「うん、うん」

「戦とは、嫌なものだなぁ」

 何事も無いように零す愚痴に、村雨が返すのも、ただの相槌だけ。慰めの言葉も無い。
 嫌だ、嫌だと繰り返す桜の隣で、うん、うんと、桜が飽くまで幾度も幾度も、村雨は頷き続けた。
 やがて――桜が憂さを言葉にしてすっかり吐き出してしまった後、村雨はそっと、桜の背を押した。

「それじゃあ、行こうか……終わらせに」

「うむ。全く、こんな面白みの無いものは、さっさと終わらせるに限る!」

 力強く言い放ち、桜は障子をぐわっと開いて、縁側から本堂の外に出た。
 既に本堂の前には、食い、飲み、眠り、鋭気を存分に取り戻した兵士達が、官兵も民兵も入り混じり、雑然と並んでいた。
 彼等は、桜が本堂より現れたを見て――それから、村雨がその後を追って現れたを見て、雑語を挟まぬままにさざめいた。
 その眼前で桜は、黒太刀『斬城黒鴉』を抜いた。
 刃渡り四尺の黒太刀の、切っ先をすうと空に向ければ、その威容は絶人の域。兵士達は皆、言葉を呑んだ。

「これよりは、誰も――」

 彼等に、桜が呼び掛けようとする。それを村雨が、片手を口の前に翳して制した。
 桜は粛々と、村雨の制止に従う。
 この群れの長は村雨なのだと、認可したのだ。
 村雨は完全な人の姿でなく、腕や胸、腹に灰色の体毛を纏う、亜人の本性を表に現している。人と離れた己の姿を、寧ろ誇示するが如き様相であった。
 そして、村雨が己の群れに与えたのは、呼び掛けではなく問い掛けであった。

「誰も、不幸になる必要なんか無い。そうだよね?」

 思えば――長い戦であった。
 実際の期間をこそ思えば、古の戦には、それこそ十数年と続いたものもある。洛中の焼き打ちより始まった内乱は、一年を経ずして終結しようとしているが――それは飽く迄、書に記した墨の痕として、後世が定める基準でしかない。
 戦に関わってしまった誰もが、苦しみを味わった。その苦痛は、果たして何時晴れるものかも分からぬ、無限地獄にも思える月日であった事だろう。

「戦の前と後を、目を閉じて比べて見たんだ……そうしたら私達って、どう考えても不幸になってるんだよね。色んなものを失くして、沢山の人とお別れをして、新しいものは何にも手に入らない。取り上げられるばっかり。
 誰だって、不幸になりたいなんて思ってないのに、そう思ってる同士で戦を起こして、誰も幸せになれなかった。今だって、幸せを取り戻してない人が沢山居る……酷いよね」

 殺し合った当人達は、誰か戦を望んでいたのか――?
 きっと、戦を生業とする一部の武人を除いては、誰も戦を望みなどしていなかった。
 ただ日々を平穏に、何事も無く生きていられるのなら、それが幸せである筈だったのだ。
 取り戻せない幸せ――それは、過去となった日常。灰となった建物や、奪われた命や――そういうものが当たり前のように有った、何時かの風景である。

「でも、さ。これ以上、不幸になる人を増やさないくらいの事だったら、私達で出来るんじゃないか、って思うんだ」

 村雨は言葉を区切り、兵士達一人一人、端から端までを見渡す。
 義気に燃えた男が居る。次の言葉を待つ、忠義の士と見える者が居る。そして、誰に憚る事も無く、涙している者が居る。
 嘆く事にさえ、人は力を必要とする。
 地獄の針山の上に在りては、涙さえも枯れ、哭声を為す喉も潰れようものだ。僅かなれど平穏を取り返して漸く、彼等は泣く事が出来たのだ。
 だから涙を誇りこそすれ、憚る事は無い。村雨も何時しか、涙を頬に落としながら、拭いもせずに声を張り上げていた。

「私達は、包囲されてた筈の比叡山に集まってる。それは、皆の勝ちが集まったからだと思う。
 官兵の皆は、荒れた洛中でも規律を失くさないで、守らなきゃないものを守り切った。動きたい時にじっと耐えるのは、動いて潰されるよりずっと勇気のいる事だよ。
 兵士じゃないのに武器を取ってくれた街の皆も、下手に反抗したりしないで今まで我慢してくれた。だけど、逆らわないけど屈服もしないで、兵部卿を許さないって気持ちを弱らせなかった。そうじゃなかったら、もしかしたらなし崩しに、この国が兵部卿の物になってたかも知れない。
 それから――比叡山で戦った皆、お年寄りも子供も、お坊さんも……あなた達が一番、誰よりも辛かったと思う。ありがとう、耐えてくれて、まだ戦うって言ってくれて――生きててくれて。
 皆、自分のやり方で戦ってくれて……だから私達は、此処に集まれた。だからもう、我慢なんか必要無い!
 もう誰も苦しませたくない! 誰だって死なせたくない! それくらいの我儘、誰も言わないなら私が言ってやる! 自分の幸せだって、誰かの幸せだって、もう一個だって譲ってやるもんか! 皆が重ねてくれた小さな勝ちに、あと一つだけ大きな勝ちを重ねるまで、絶対に止まってなんかやるもんかっ!!」

 最後はもはや、泣き声も半ばまで混じった叫びとなっていたが、村雨の声は確かに、居並ぶ兵士達の隊列の最後尾にまで響いた。
 誰かが同じように、涙しながら空に吠えた。
 ぽつぽつと、群れの中に起こった咆哮の衝動は、瞬く間に周囲へ広がる。やがて彼等は声を揃え、一つの群れは一頭の巨大な獣となってときの声を上げた。
 決して道を違えるまい――狭霧兵部を討伐し、国を安んじるまで、残り僅かな道程を踏み外すまい。不退転の意が、彼等の芯に突き刺さったのであった。
 熱狂の渦は、声の限りに吠え、叫び、泣き続ける。それは、抑える事を美徳とされる感情を、思いの侭に解き放つ陶酔を伴って、何時止むとも知れぬままに続いた。








 その熱を肌でひしひしと感じながら、然し離れた所から、その様を見ている者が居た。
 一人はハイラム=ミハイル・ルガード。遥か西の〝帝国本土〟から命を受け、『ヴェスナ・クラスナ修道会』信徒から成る三百の銃兵を組織し、比叡山包囲軍の側面を突いた男である。
 彼の横に並び、村雨達が上げる気炎に手を合わせ拝んでいるのは、紫の袈裟を纏った大男であった。僧形だが、学問より寧ろ僧兵としての技を修めるのが似合いそうな、骨格の頑強な男である。歳は五十と少々であろうか、袈裟の色を鑑みれば、若い部類と言っても良かろう。

「良き熱、良き熱、人は熱を失くしては生きられぬ。消えた火が今一度灯りましたな」

「人を戦に駆り立てるは貧困か空腹か熱狂か、何れにせよその他を顧みる事も出来ない盲目の枷であるとは思うが、然し祈りにも似た熱狂ならば度が過ぎて死ぬという事も無いのは安全無比で誠に結構。――が、よもや座主殿までその熱に浮かされるとは思いませなんだがさて、新たな座主殿は戦の熱を好まれる性質でいらっしゃるか」

「熱とは戦のみ伴うものにあらず。凶事は忌むべきなれど、門徒の瞳に光が戻っております。喜ばずにおれようか!」

 一呼吸にて振るうハイラムの長広舌は、些かの翳りも無く健在である。然し〝座主〟と呼ばれた大男は、涼しげな顔でそれを受け流す。
 比叡の山の座主は、エリザベートの放った〝蛇〟に毒殺された。この大男は、その空席に新たに任命された僧侶である。
 任命には朝廷の認可が必要となるのだが、令を記した書状は、実は堀川卿がしたためたものを先んじてハイラムに渡し、朝廷の事後承諾で有効性を持たせたという代物であった。
 何故、僧侶の地位を定めるのに、朝廷よりの沙汰が必要か。それは、日の本に於いてただ一人、比叡の座主のみが『別夜月壁よるわかつつきのかべ』を起動し、制御し得るからである――と言うより、座主に任命されて秘伝の儀を終える事で、制御の術を得るのである。
 拠って今、比叡の山には、例え巨砲〝揺鬼火〟の砲撃であろうと、決して貫けぬ防壁が復活しているのであった。

「……さて、さて、ところで座主殿、私はかねてより疑問に思っていた事があるのだがね」

 と、ハイラムは、彼にしては珍しく、短い所で息を継いで、座主に問うた。

「ふむ、迷える子を導くは宗教者の勤め、答えてしんぜよう」

「新たな座主殿は冗談がお好きと見えるが――と、否、否、冗句の巧拙を論じて優越を定める戯れは後の愉しみとしておこう。
 ……私はこれで狭量な性質と自負していてね、偉大なる枢機卿猊下と我等が父の名に於いてこの任を拝命したまでは良いが、どうしても知らずには居られぬ疑問がある。これを氷解せしめずにこれより先の戦に望んでは、或いは躊躇逡巡が足を引く枷となり、あらぬ場にて不覚の矢に倒れぬとも断じられぬのでね」

 存分に舌を走らせたハイラムは、座主の隣に立ったまま、首だけを横へ向けた。そして、穏やかな横顔に向けたのは、罪人を付け狙う狩人の、獲物を見定める目であった。

「仏教とは、なんだ?」

 ハイラムは、己が言う通りに、狭量の性質が強い。己が正しいと信じる教義こそ正当のものであるという、考えの凝り固まった部分が有るのだ。
 聖書の一般的な解釈より己の認識を優先するという、或る種近代的な思考でもあるのだが――その彼の知る中に、仏教というものの知識は無い。
 知らぬものは肯定も否定も出来ぬ。果たしてハイラムは、仏教徒とは己の神の敵であるのかそうでないのかを見定めようとしていた。
 抽象的な問い――その意図を、如何様にでも解釈できる。質問者の中にある正解を見つけるのは、極めて難しい形の問い。それを受けた座主は、にかっと唇の端を吊り上げ、顔に皺を幾筋か増やした。

「ならば先にお教え願いたい事が有るが、果たして耶蘇教とは、何か?」

「問いに問いを返すは幾分か卑怯の謗りを免れ得ぬ術とも思う所ではあるが――」

 元より、聞くより語るが得手のハイラムである。水を向けられるでもなく、一度言葉を区切って、思い切り息を吸い込んだ。

「我らが偉大なる父とその子とが地上にもたらした唯一絶対の教えにして、地上を生きる全ての人間が規範とすべき道徳集、社会運営を円滑と為す為の滑車。善良なる者の助けとなり悪しき者は罰則を与える根拠であり、善悪を知らぬ中道無垢の赤子をして我らが父の子と育つまでに運ぶ馬車であり、またやがて死す日に死を恐れず残す者を嘆かせぬ慰めでもある。
 ……が総括すると、〝人が正しく生きる為のもの〟とでも言えば良かろうかね。だから私を含めた修道会の同胞は誰しも、偽の聖女エリザベートの存在を看過出来ぬのだよ」

 一呼吸、であった。
 彼の心中でこの答えは、決して揺るがぬ鋼の柱として聳え立っている。迷いなど何もない答えであった。

「なれば御仏の教えは、些かお主には緩やかに過ぎるやも知れぬ、ハイラム殿」

「苛烈は自覚の上だが、私は断食を耐えられる程の胃袋を持ち合わせていないとも」

「身体ではない、心根の事である。そも釈迦牟尼尊者は何不自由無い王族の元に生まれて、不自由が無い身の上に悩み、不自由多き俗世にて悟られた。その教えが転がりに転がって、この日の本へ辿り着いたところ、のんびりした気風に染まって、教えもまたのんびりと緩やかになったものでな」

「――――」

 一方でまたこの座主も、己の中に答えを持った人間である。
 一つ正しいと信じた道を数十年、一日と止まずに歩み続けた者の言葉は、早口というのではないが、淀みが無かった。

「死ねば仏、という言葉がある。頭髪全て削ぎ落として、日夜念仏三昧の拙僧も、狭霧兵部の如き悪鬼でさえも、死ねば全て隔てなく仏! ……ああいや、本義は違いますがな。落つれば同じ谷川の水というように、拙僧が考えているだけの事。谷川の水はやがて海へ流れてゆくが、何処かから空へ返って、いつかまた雨となって下界に降る――これを輪廻と呼ぶ。この輪から抜け出す事を目的とするのが仏教であるが、然し不思議とこの国の仏教徒は、輪から抜ける事を嫌がる節がある」

「ほう、ほう。教義に背く事が、教徒の望みとは極めて奇妙、珍奇の沙汰」

「いやこれが案外に、奇妙でも不思議でもない。死ねば仏とは即ち、我々凡俗とは異なる世界に旅立ってしまわれるという事で、大層目出度いが寂しいもの。それよりは幽霊として近くにいるなり、いつか生まれ変わって帰ってくると思うなりした方が、別れの悲しみも癒えるのが早いではないか!
 ……よってこの坊主が思うに仏教とは、正しき者は死後と次の生に於いて報われると説き、それによって生に安らぎを与える――即ち、〝人がよく生きる為のもの〟である」

 何本か抜けて足りなくなった歯を見せ、座主はからからと笑った。陽気な音は、己が例え悲哀を背負ったとしても、微塵も零さぬ堤のようであった。
 これもまた、一廉の人物である――無条件にそう思わせるだけの力が、座主の声には有った。或いは、信心に対する絶対の確信が、彼の言葉に説得力を与えているのやも知れなかった。

「……私の立場として、輪廻転生は否定すべき思想ではあるのだが――〝よく生きる為〟というのは良いな、上人殿」

「はっはっは、良かろう」

 異なる道を歩む二人は、同じ方向を向いて並びながら、それぞれのやり方で朗らかに笑い声を上げた。
 或いは穏やかに、或いは劇的に、反狭霧兵部の気勢は高まる。もはや二条の城が陥落するのは時間の問題であると、誰もが思っていた。
 そこへ、ざかざかと雪を蹴散らす、不吉な音が割り込む。
 修道服の若者が、血相を変えて駆け寄って来たのであった。

「司教――ハイラム司教!」

「……その堅苦しい肩書きを我が名に連ねて呼び立てるとは一体何事か――」

 若者の服には、明らかに血の汚れが――それも、まだ真新しい汚れが付着していた。あまりに新しい為か、触れれば指を濡らすような、日光を浴びると鈍く光りつつも、黒くなり始めた血である。
 未だに村雨が呼んだ熱気は失せぬまま、若き修道士は、ハイラムと座主の二人だけに告げた。

「二条城攻略に先んじて進軍した、我が修道会の同胞五百……その大半が……!」








 堀川卿に率いられ二条城を包囲した二千の軍が見たものは、この世のものとは思えぬ悍ましい光景であった。
 二条城の窓という窓、矢狭間という矢狭間から、人間の部品が釣り下がっているのだ。
 解体され、手足の組み合わせも不正確に飾られている亡骸は、『ヴェスナ・クラスナ修道会』が二手――比叡山と、二条城――に分けた内の片方、五百の兵を虐殺したものであった。
 生き延びたものは僅かに数人。その他は殺し尽くされ、飾りに使われなかった亡骸は、進軍を阻む柵のように、城門付近に無造作に積み上げられている。
 地獄の形が、其処に有った。

「……俺の愉しみは、これまでとなるか。どう思うね、どう思う」

 真新しい頭蓋骨を短刀で削り、盃を作りながら、狭霧兵部は吉野に問う。
 この日、吉野は鉄兜を外し、素顔を晒してただ一人狭霧兵部の側に侍していた。

「なりません。これまでもこの先も、貴方は老いて死ぬまで誰かを殺し続ける方です。五百の死で満足してくださらない、欲の深い業の深い――」

「黙れ、差し出がましい」

 狭霧兵部は血と臓腑の匂いに満たされ、この上も無く上機嫌であった。
 頭蓋を切り取られた生首を戯れにぽんと蹴り飛ばすと、中に収まっていた脳漿が飛び散って、それで尚更に興を得る。

「……紅野を呼んで、宴でも開くか」

 その思いつきもまた大層に愉快であったか、狭霧兵部は声を上げて笑い、笑いながらまた叫ぶように言うのだ。

「戦の前の景気付けだ、俺の鋸を持って来い! 酒もだ、飯もだ、出し惜しみはするな! 主賓は俺の娘なのだ、大いに祝うぞ!」

 己が遂に朝敵となった事を、この男は知っている。だからこそ何に遠慮する事も無く誰をも殺す事が出来ると――それが嬉しくてならぬ。
 狭霧兵部、いや狭霧和敬は、愈々魔王の如き狂相を露わにして、新しい盃に酒を注ぎ始めた。