戦士ヴィルテンと凍土の狼退治
視界全てが白かった。
数本の枯れ木の他は起伏すら無い、無縁に続くかと思わんばかりの雪原。俺は重すぎる剣を杖にしながら、影すら見えぬ街へ、絶望的な南下をつづけていた。
「ぜぇっ、ひぃ……ここは何処だ、何処なんだよ……!」
返事は無い。クリック一つ、キーの組み合わせによるショートカットで立ちあがるヘルプ機能は、ここには存在しない。そもそも、入力媒体さえ有りはしない。この世界に交わる為には、凍傷になりかけている二本の脚と、もう持ち上げる事さえ覚束ない両腕を、どうにか鞭打って働かせなければならないのだ。
「出してくれよ、誰か! 俺は、俺は……」
叫ぶ為には、息を吸わなければならない。喉が凍りつきそうだ。実際に、鼻の中はもう氷掛けているだろう。豪奢な兜は残念な事に、呼吸器を保護してくれる設計になっていなかったのだ。疲労しきった俺の声は、きっと吹きすさぶ風に比べれば、妖精どもの羽音のように頼りないものだったに違いない。
膝までを雪に埋めたまま、俺は、背後に奇妙な違和感を覚えた。気配察知なんて上等な技術は持っていない、『サーチ』の魔法の効果を持つ消費アイテムの効果だ。敵が迫っている。もう、振り向くのも嫌だったが、背後から攻撃を受けるのもまた嫌だった。おそるおそる、俺は振り返り――狼の群れが、俺を追ってくるのに気付いてしまった。
「ひー―うわ、あああ、ああ、助けて、助けてえっ!」
オークションに出せば、リアルマネーで数百万円の値打ちが付くだろう剣を、ドロップ率0.00001%の盾を投げつける。重くてさっぱり飛ばない。足元に落ちて、雪の中に消えた。投擲したアイテムを雪原で再取得するには、足元を調べなけれならないのだった。つまり、拾い上げるという動作が必要だ。
もう、身を守るものは、分厚くて無駄に重いばかりの鎧と兜しかない。逃げ切れず、背中に二頭の狼が飛びかかる。俺は雪原にうつ伏せに倒されー―腕が引っ張られる。無理やり、仰向けに起こされようとしているのだ。
脚から頭まで覆っているこの防具は、序盤の雑魚敵である狼の牙など、決して通さないだけの防御力を誇る。だがデザインは、キャラクリエイトの恩恵を受ける為、顔面と手の部分がガラ空きだ。ヤバい、顔を腕で覆った。普段のプレイなら、素手の一撃で撲殺出来るというのに、防御は無いも同然に引きはがされる。
「嘘だろ、俺は……俺は、ワールドランク1位で、俺は――ぎゃあああ、ああがあああぁっ!?」
両腕に激痛。骨をあっさり噛み砕かれた。防御だって実装されている範囲でマックスまで振り分けているんだ、俺はドラゴンの炎だって耐えきれる体の筈なのに。
俺は世界最強の戦士、ヴィルテンに生まれ変わった筈だったのに。
「ええと……めんどくさいな、今日も円の一点買いで良いだろ。どうせ幾らでも増やせるんだ」
事の始まりは、ある朝の事。俺、観世 冬人 27歳は、リアルマネートレードに勤しんでいるところだった。
椅子に腰かけ、HMD を装着し、五感を完全に専用端末に同期させる事でログインするー―その世界の名は、『ワールドクリエイター』。日本が誇る純国産のMMORPGであり、お隣の国では劇薬扱いされ、政府による禁止命令さえ下る代物だ。
悪用しようと思うなら幾らでも使い道が有るだろう、世界最高の技術を、娯楽の為だけに用いる……全く贅沢な話だとは思う。が、その贅沢さが故に、世界中が魅了され、数千万とも言われるユーザーを抱えている。となれば、世界中の金もそこで動いているわけで、努力を重ねたものには相応の恩恵も有るのだ。
俺は今、ゲーム内の通貨(単位は、日本人に馴染みやすくG)を用いて、ネット銀行から円を買っている。交換レートは100000:1、レベル100前後のプレイヤーが6時間程頑張れば、缶ジュースの一本も購入できる相場だ。マウスに乗せた右手を動かし、カーソルを運び、入力欄に希望の取引金額を記入する。
1,000,000,000G――日本円にするなら、10000円。これが、俺の日収である。決して少ない金額では無い、それどころか下手な仕事をするよりよほど稼げている。学生の長期休業が重なる時期など、美味い時には日収が五万近くになる事も有った。俺は間違いなく、勝ち組みなのだと言いきれる。
ここまで稼げるようになるまで、初期投資も十分に行った。足掛け七年、プレイ時間は四万時間を超えている。宣伝の稚拙さで初期の注目度が低かった為、序盤の競争が緩かったのが、俺が今も独走している理由の一つだ。
だが、最近の俺は、少しばかり憂鬱であった。
「……ああもう、飯買いに行かなきゃ」
たまったゴミを蹴散らし、玄関までの道を作る。財布をポケットに詰め込み、高校時代のジャージを着こむ――今まで、下着姿だったのだ。着替えるのが面倒だったから。
そうだ、着替える事さえ現実では手間が掛かる。『ワールドクリエイト』の世界ならば、洗練されたメニューから装備品を選び、ワンアクションで上下の着替えが完了するというのに。
食事もそうだ。ゲームの中は、美麗な街を歩いて、異種族の美少女の売り子から、一口で一日行動出来るアイテムを購入する。現実は、ぼろアパートから狭苦しい田舎道を歩き、コンビニの店員に嘲笑われながらおにぎりとお茶を買う。
眠くなるという事さえ煩わしい。夢は時に奇跡の様な景色を産むが、それが『ワールドクリエイト』で実装できないレベルだった事はない。悪夢など見た日には寝汗が酷く、時間を無駄にさせられたという気分になる。その六時間をプレイに費やせたなら、どれ程に素晴らしいだろう。
「……あっちが本物の俺なんだ、今は仕事でこっちに来てるだけなんだ」
虚しい妄想と、分かってはいる。だが俺は、この世界に希望を見出せないのだった。
現在は午前八時、海の向こうのプレイヤーたちが活気づいている時間帯。ここで席を外すのは惜しいが、国内プレイヤーが本腰を入れる時間で無いだけマシだ。玄関に出て、サンダルを足に引っかけると――
「うーし、ここだここだ。ちゃちゃーっと開けちゃっておくれよ」
「了解しましたです、師匠!」
ドアの向こうで、誰かが話しこんでいるような声がした。
「……誰だよ、ったくもう……」
ドアノブがガチャガチャ音を立てている。用件が有るならチャイムでも使えばいいのに――と思って、俺は気付いた。チャイムを使いたくない用事、なのだとしたら? 開けてくれというのは、もしやこの扉の鍵を開けてしまえ、という事かも知れない。
「こ、こ、こ、こらぁっ!」
「ひゃあっ!?」
突然に大声を出した為、声が裏返った。内側から玄関を開け、ドアを思いっきり押して開いてやる。何かにドアがぶつかった手応えの直後、誰かを師匠と呼んでいた方の声が、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「人の部屋に、お前達何を――――を、お……?」
そこに居たのは、上がった悲鳴に負けず劣らず、頓狂な格好の二人だった。
引っ繰り返った少女は、背中から何か、白鳥の羽の様なものを付けている。ふりふりとしたドレスは、古代ギリシャ風のもの――なぜか、頭にわっかの飾り。
「あらあら、ものすごい元気にお出迎えありがとうございます、うふふ」
もう一人は、背の高い女。俺が175cmって所だから、立って並んだ感覚からして、170cm以上だろうか。こちらは羽こそ付けていないが、やはりギリシャ風の、布を体に巻いた格好である。保険のセールスマンもかくやという素晴らしい笑みを見せた女は、腰を直角に折って頭を下げ――
「ファイネスト天使代行業、『ワールドクリエイト』プレイヤー・ヴィルテン様を、アント・アスマの大地へご案内する為に参りました」
アント・アスマ、『ワールドクリエイト』のメイン舞台となっている大陸の名前。そしてこの格好、明らかにまともな人間ではない。確実に、やっかいな部類の人間だと分かる筈だ。
だが、女が再び顔を上げ、俺と目を合わせた途端、なぜかその言葉の真贋を疑う心が緩んだ。明らかなミス、失敗だ、普通の知性が有るなら疑ってしかるべきだったのに。
「上がらせていただいてもよろしいでしょうか? この姿、他の下界人には見られたくありませんの……」
長い赤毛――明るい茶髪ではなく、本物の赤――を靡かせ、周囲をきょろきょろと見まわす女を、俺は自室へと招き入れてしまったのだ。
「まあ、凄いお部屋……必要なものを最小限の空間に押し込めた、利便性重視の空間ですわね」
赤毛の女、天使代行業などと名乗る彼女は、ごみ溜めの様な部屋を見て、聞いた俺が呆れる様なお世辞を言ってのけた。
「ぇ、あー……ええと、とりあえず座ってください」
「お構いなく。私はこのままの方が楽ですの……と、唐突なのですがヴィルテン様」
「……あー、俺の名前は観世 冬人って言いまして……」
プレイヤーネームで呼ばれるのが気恥かしくなり、俺は自分から名乗り、訂正を促す。だが、女はあの営業スマイルを浮かべたままだ。
「いえいえ、これからの貴方は、望むのならばヴィルテン様となれるのです。アント・アスマ最強の戦士にして、最高の財力の持ち主。その一言が大陸の相場を変動させるVIPに……」
「……すいません、話が見えてこないんですが」
「この世界に、貴方は未練を残していますか?」
正直に言って、この女の言う事が荒唐無稽だとは感じていた。だが、その一言。未練の有無を問われた俺は、二の句を告げず押し黙ってしまう。
「一日の平均ログインは十六時間、睡眠時間の倍以上。そして、食事などに割り当てる合計時間の八倍……貴方は『ワールドクリエイト』で、現実の倍の時間を過ごす日々を送っているのです」
その通り、俺は世間的に言われる廃人という奴だ。完全にMMOに没頭し、それ以外の事をしたいとさえ思わない。生きるのに必要で無ければ、食事も睡眠も、全て削ってしまいたい程なのだ。
「私達は……そう、高い所から降りてきました。とあるお方の依頼を受けて」
「……その、依頼っていうのは……」
「ゲーム内の最高峰プレイヤー達を、実際にアント・アスマに転生させる事でございますわ」
だから、こんな言葉でさえ、俺は簡単にぐらついた。良い話には裏が有ると、理屈では知りながら、既に心は信じる方へと傾いていた。
「……はは、あんた、俺をからかってるんだろ。そんな事、出来る訳が――」
「出来る訳が無いという全ての声を、捩じ伏せてきたのが『ワールドクリエイター』でございます」
そうだ、そもそも全ての技術は、実現前は不可能とされていた。五感に直接アクセスし、三六〇度完全な視界と音響を提供する、そんなゲームが生まれる筈がないと、俺さえも高を括っていたのだから。そんな俺は初日にあの世界に魅了され、そして大学に行かなくなった。親を騙し騙しゲームを続け、三年が過ぎてばれる頃には、一日に5000円程は稼げるようになっていたのだった。
「ちょっと、話を聞かせてくれ」
「その為の私です。……少々愉快でない話ともなりますが、この世界も遥か昔は、とても文明的生活が送れる環境ではありませんでした。幾人かの英雄が地を切り開き、弱者の安寧を約束した事で、非力な人間は世界の支配者たる権利を得たのです……が、翻ってアント・アスマはどうでしょう?」
「それは、その……」
公式サイトに掲載されている、世界概要の項目を見れば分かる。大量の魔物に支配され、人間の居住区画は分断されているのが、あのゲームの世界観だ。その為、戦闘技術を持ったプレイヤーは、都市間の移動が出来ないNPCに持て囃されている。
「誰かが、英雄にならなければいけない。世界を切り開く剣が無ければ……魔物の群れを恐れぬ、最強の技術と装備の持ち主が。そして、世界最高の人脈の持ち主が……分かりますか? それが、貴方――ヴィルテン様なのです」
「………………」
今の俺からすれば、ゲーム中に登場するモンスターの殆どは、ソロプレイで容易に狩る事が出来る相手であった。世界を脅かす魔王さえ、ゲームのシステム上、何百回となく討伐している。世界にはびこる魔物の全ては、蹂躙されるべき雑魚でしかなかった。
「多くの民草が、英雄を待ち望んでおりますわ。そして貴方は、この世界に掛ける望みなど無い。ならば……」
「……どうすればいいんですか?」
嘘ならば、もうそれでも良いと思った。こんな嘘をつく理由が思い付かなかったからだ。金銭の要求も無い、この女に少しばかり従ってみても良いだろう……と、俺は思ったのだ。
「私の目を見てください。力を抜いて、楽にして……ただし、瞼は降ろさないでください」
立ったままの女が、腰を曲げ、椅子に座った俺の顔を覗き込む。髪と同じで真っ赤な虹彩の目だ。吸い込まれそうな、不思議な光を放っている。視線を外せなかったし、外そうとも思えなかった。
女がナイフを取り出し、自分の指先に傷を付けた。細い傷から、血が泡のように丸く膨らむ。それを女は舐め取り、舌で自分の指に塗りつけ――俺の唇に触れさせた。
「『お眠りなさい』、次の目覚めは大陸の屋根の下。『お眠りなさい』、貴方はヴィルテン、アント・アスマ最強の戦士」
目は閉じていない筈なのに、視界が暗くなっていく。暗闇の中に、赤い丸い物が二つ浮いている様な――ああ、あの女の目か。
それもやがて見えなくなって、部屋の時計の音さえ聞こえなくなる。
「さあ、目覚めましょう。貴方を、世界が待っています」
目を覚ました時、俺を照らしていたのは日光だけ。蛍光灯も、PCの灯りもない。小さな小屋の粗末なベッドの上に、鎧を身につけたまま、俺は横になっていた。
ああ、ここは確か、昨日のプレイを中断した宿だ。この景色は見た事がある……が、この臭いは知らない。太陽の光を存分に浴びた布団の臭いを、俺は知らない。
「お早うございます、もう朝ですよ、戦士様!」
左手の方角には部屋のドア。NPC、宿の娘の明るい声が、俺にこの世界の実感を与えた。
異世界の朝、初日。俺は立ちあがり、体を動かしてみる。世界最高の防御力と軽さを誇る鎧は、せいぜい分厚いコートを羽織っている程度の重量感しか無かった。だが、硬質の手触りは確かに本物だ。これまで、映像と音は実際に味わう事が出来ても、この様な物理的接触までは不可能だったのに――
「間違いない、本当に俺は、この世界にやってきたんだ……!」
喜びのあまり、おかしな笑いが喉から出る。抑えようともしないまま、部屋の中で思いっきり拳を突き上げてみる。黒く輝くナックルのパーツは、傷一つ無く、俺の指を守っていた。
「戦士様ー? もう、早くしないとご飯食べちゃいますよー!」
「あ、ごめん! 直ぐに降りるよ!」
宿の娘の声が、階段の下から聞こえてくる。俺は、早くNPCの誰かに会いたかった。扉を開けて、階段を下りようとして、ふと気付いた事が一つ。
「あれ……そういえば、一緒にいたあいつは……?」
この村は、比較的序盤の拠点だ。本来なら冬人が――戦士ヴィルテンが滞在する様な所ではない。ここに居た理由は、ゲーム内の知り合いから紹介されて、とある初心者プレイヤーのクエスト攻略を手伝おうとしていたからなのだ。
「あの人は、この世界に転生するにはレベルが足りなかったのです」
「うおわっ!?」
全く何の予兆も無く、背後に、あの赤髪の女が立っていた。服装も、俺の部屋に来た時と全く同じだ。
「この世界はアント・アスマであり、しかし貴方の世界でプレイしていたゲーム内空間とはまた別物なのです。この世界にアクセスできるのは、選ばれた一部の者だけ。平凡なプレイヤー達は、訪れる事は出来ません」
「そ、そうなのか……」
心臓を鎧の上から抑え、女の説明を聞く。もしかしてこの女は、所謂ヘルプ機能なのだろうか。俺が疑問を持った時だけに現れ、説明をしてくれる、という。
「……あれ、それじゃあ、プレイヤーが運営してる施設ってどうなるんだ?」
「全てはNPCが……いいえ、この世界に生きる人間が、代わりに行っています。全く問題は有りませんよ、はい……スープ、冷めますよ?」
「おっとと、急げ!」
どたどたと階段を駆け下りながら、女の言葉の意味を考える。つまり、レア物を扱う様な変動相場の店も、全てこの世界の住人が経営しているという事なのだろう。
じゃあ、この世界に転生したというのは、俺以外には居ないのか――そうなのだろう、俺こそは選ばれた戦士なのだから。何百回と利用した勝手知ったる宿、一回の食堂に降りた。
「はい、今日はパンとスープ、それから取れたての卵のオムレツですよ!」
この宿は、NPCの主人とNPCの奥さん、それにNPCの娘の三人で経営している――プレイヤー経営の宿、というものは無い。娘のグラフィックと音声データの美麗さは好評で、ゲームとしてプレイしていた時も、俺は何度かここへ足を運んだ。
とんでもない、今の方がよっぽど美人じゃないか。現実にどれほど近くても、ゲーム世界は所詮作りものだった。今の彼女は、どれだけ近くで見た所で、どんな拡大ツールを使った所で、テクスチャの粗なんかみつからないのだ。
彼女が作ったオムレツも、ちゃんと味がする――予想通り薄味で、なぜかそのくせにしょっぱい。宿の娘は味音痴という萌え要素をも備えているのだから無理は無い。設定だけだった味音痴を実感できる事にさえ、俺は感動していた。
「戦士さま、今日はどちらに向かわれるのですか?」
物腰の丁寧な主人、低い声もHMD越しではなく、実際にこうして聞くと、中々心地よいものだ。
「ああ、今日は少し街を見て回って……明日、クエストを片付けに出るよ」
「クエスト?」
「ん? ……ああ、ええと、狼退治だ。俺一人で十分さ、あの程度」
「そうですか、ありがとうございます」
宿の主人が頭を下げる――が、その時に俺は気付く。宿の娘が俺に、どこか恨めしげな目を向けていた事を。
「…………ん、どうか、したの?」
「あ、いえ! いいえ、なんでも有りません……」
「そう、なら良いんだけど……」
急に、オムレツの不味さが嫌になった。コンビニのおにぎりの方が美味いと思ったが、出された料理である、どうにか完食した。
食事が終わってから、宿を出て、街を散策する事にした。
戦士ヴィルテンの名は、この街では子供にさえ知れ渡っているらしい。ただ通りを歩くだけで、木の棒を持った戦士気どりの少年が駆けよってくる。その誰もが、俺に憧れの目を向け、瞳をきらきらと輝かせているのだ。
「ねえねえ兄ちゃん、兄ちゃんってすごく強いんだよね?」
「ずっと向こうの方に住んでるドラゴンとか、一人で倒しちゃうんだよね?」
「ああ、俺は今までに何百頭もドラゴンを倒してきたんだぞー、ハハハ」
「うおー、すっげー!」
子供に自慢話など聞かせながら、俺は見慣れた通りを歩いていく。
その建物にも見覚えは有るのだが、解像度が全く違う。そこに有るのだという実感が違う。たった一歩歩くだけでも、足に感じる重さが違う。
「お、そうだ……確か、ここは……」
俺が足を止めた場所には、道具を預ける貸し倉庫が有った。俺の財産の大半は、そこに預けられているのだ。折角この世界に来たからには、じっくりと眺めていきたい。
「あのー、すいませーん」
「はぁい……ああら、戦士様。荷物の引き出しですの?」
無意味に色気がたっぷりの服を来た女性が、カウンターに凭れかかり、身を乗り出してくる。これまでもNPCとしてインパクトは有ったが、これは強烈だ。香水が好きだという設定が有ったが、女性の体臭と香水の香りが混ざると、こうも破壊的だとは知らなかった。
「ぁ、ぁはい、ちょっと倉庫に入りたいかなー、と思って……」
「良いわよぉ、こっちへおいでになって……ふふ、凄いんだから」
「あ、あれ……なんで、休業の看板を?」
貸し倉庫屋の女性は、緊急休業の看板――機能追加メンテ以外で見た事はない――を立て、俺をカウンターの内側、扉の向こうへ誘い入れる。従って付いていくと、扉に内側からカギを掛けてしまった。
「…………?」
「ヴィルテン様の倉庫は、この魔法鍵ね……対応する扉は、これ、っと」
この世界の貸し倉庫は、扉に鍵を差し込む事で、特定の異空間を開くものであるらしい。普段なら必要なものだけをカウンターで受け取るから、こうして踏み込むのは始めてだ。
「うおぉ……凄、これが俺の……!」
扉の向こうは、市民体育館の様な広さの空間だった。そこに、数えるのも面倒になる程の木箱が積み上がっていた。木箱の中身は、張り付けた紙に書いてあるが、装備品や金貨、換金用アイテムなど様々だ。あちこちに梯子が有るのは、それで登らなければ、上段の木箱を開けられないからだろう。積み上げる事が出来ないからと、そこに放り出された布袋でさえ、数十日分の宿代にはなるだろう高級アイテムがぎっしりと詰まっている。
「あいにく、こちらで預かっているのはヴィルテン様の総資産の5%前後……金額に換算して、30,000,000,000Gというところね……私の人生、何回分の収入かしらぁ……?」
三百億ゴールド、と、貸し倉庫屋の彼女は口にした。自分のゲーム内資産はこれまで把握していなかったが、それほどにもなっていたのか――この、序盤の街に預けてある分だけで。
ここまで膨れ上がっていたのなら、銀行業に投資するだけで、利子で食っていける――と、これまでの現実の考え方をして、俺は自分の馬鹿さに気付いた。
既に今の時点で、俺は毎日を豪遊した所で、使いきれないだけの金を持っている。この世界の宿一泊は、確か1000~5000Gというところの筈なのだ。毎日を最高の宿に宿泊した所で、一年の宿泊費は二百万Gにもならない。そんな金、俺には端金というにも軽い。
「ふふふふふ……そうか、俺は、俺は……! ははっ、俺は、これだけの人間なんだぞ……!」
「ええ、貴方は世界一の戦士様。素晴らしいお人なのよ」
自分が世界の支配者になった、そんな錯覚さえ覚えて、俺は高笑いを響かせる。声は倉庫の中に響いて、金貨の袋を振動させた。
ひとしきり笑い、自分の財産の実感を得て、俺はまた通りに戻ろうとした。と、背中に人の重さを感じる。振り向いてみると貸し倉庫屋の女性が、俺の肩に背後から手を掛けていた。
「……あのー、何か?」
「ねぇ、戦士様。貴方がとても強いのは知っているけれどぉ……夜の方も、やっぱり最強なのかしら?」
「え!? あ、ええ、夜っていうと、つまり男女の……」
いきなり飛躍した話題に、俺の喉がひきつった。頭の中では、このNPCのデータを思い出そうとする。この世界の事ならなんでも知っている、直ぐに記憶は見つかった。貸し倉庫屋の女性、セクシーな衣装と豊満な肢体で、男を誘惑して今の仕事の基盤を築いた……。
「ふふ。その顔だと――まだ何も知らない、そう見えるわよぉ? 勿体無いわ、折角の体を鎧に隠しちゃって……」
「ぁ、あ、待って下さい、俺は」
「教えてあげても……ふふ、良いのよ?」
咄嗟に俺は、彼女を振り払って逃げた。間違いない、彼女は俺の財産を巻き上げようとしている。根拠? そういうキャラだという裏設定が、彼女には用意されていたのだ、当然だろう。そしてあのままでは、俺は彼女の誘惑にころりと引っ掛かってしまったに違いない。
だが然し、考えてみれば二十七年の人生に於いて、異性にあの様に迫られた事が有っただろうか? 無い。バレンタインデーに義理チョコを貰った記憶さえない。同級生女子を地元の祭りに誘った時は、予定が有ると断られた――後で、友人がその女子と歩いているのを見かけた。
今の俺は、何をせずとも、女が向こうから寄ってくるのだ。今回は金目当てだったが、それもまさか、俺の財産全てを奪おうなどとは考えてもいるまい。もし、もし仮に、いつか俺がその気になったら――幾らかくれてやって、わざと騙されるのも良いかも知れない、と思ってしまった。
その後も、見慣れた街の見慣れぬ側面を、俺は一つ一つ堪能して回った。喧しいだけだと思っていたパン屋のおばちゃんは、改めてじっくり観察すると、非常に心を落ち着かせてくれる、親しみやすい顔をしていたことが分かった。街外れの館の未亡人は、設定年齢より明らかに数歳以上、外見年齢が若かった。熟女に興味は無いと言っていた俺が、その方向性を改める程に。
「ははは、最高の世界だ……そうだ、俺はこの世界の英雄なんだよな!」
夕食を終え、宿の二階の客室、ベッドの上で俺は笑っていた。この高揚感は、これまでの人生で一度も味わったことがない。敢えて似た状況を上げるならば、誕生日プレゼントの箱を手に、蝋燭の火を吹き消していた、本当に小さな子供のころ。狭い世界の全てが自分を祝福し、存在を無条件に褒め称えられたあの時に似ている。
「あいつは、こんな世界を味わってたんだよなぁ。俺が育ててやった癖に、はは……」
「ええ、そうなりますわね。貴方が操作していたキャラクターは、これに非常によく似た世界を経験していました」
「わっ!?」
忘れかけていた存在、赤髪の女が、何時の間にかベッドの脇に立っていた。
「あんた、どうして普通に出てこないんだよ?」
「私はこの世界の住人ではなく、システムです。普通に存在する事は許されないのですわ」
「ふうん……やっぱり、ヘルプ機能だったりする?」
「ヘルプ、兼データビューワーですわね。閲覧したいデータを、適宜検索し、提供いたします」
ぺこり、またあの、腰から曲がるお辞儀。どうやらこの女は、俺に専属の便利ツールと見て良いらしい。そんなものが有ると分かれば、さっそく使ってみたくなるのが人情だ。
「じゃあ、じゃあさ。NPCに設定されてる反応パターンって、どれくらい有るの?」
「パターンなどございません。無限通りでございます」
「無限!? すげえ、どういう作りなんだ……」
「……あらあら、まだこの世界について、認識が足りていないのでは有りませんかしら?」
人間がプログラムしたものならば、当然だが限界が有る筈だ。『ワールドクリエイター』の世界は広大だが、必ず何処かに果てがある。実際、村のNPCとの会話など、俺は殆どコンプリートしていた筈だが。
「ここは『ワールドクリエイター』の世界でありながら、同時に、本物の人間が生きる世界でもあるのです。存在するのは全て、一個の意思を持った人格。自分の知識と感情に基づき、その時々に応じて万事を判断する……反応パターンなど、そうなれば無限に生まれるのです」
「……生きてる人間と同じ……いや、生きてる人間そのものなんだな?」
「はい。ですので当然ながら、彼らにはHPという概念は有りませんし、好感度なども数値として閲覧は出来ません。閲覧できるとすれば所持金や装備品など、具体的に数値化できる要素だけですわ」
「その数値とかを、ちょっといじったりするのは?」
「その権限は私にはございません。世界の創造者が許可をお出しになれば、あるいは」
これまでも、計算プログラムを使用しない限り、好感度などは数値として見る事は無かった。やり取りやアイテムの贈与などで上昇する値を記憶しておき、そこから現在の値を推測していたのだ。やる事は何も変わらない、俺はそう認識する。
「そうかー……うん、やっぱりここは『ワールドクリエイター』だな――おっと、いけね」
頷き、ベッドの上で布団を被ろうとして、鎧を身に付けっぱなしだった事に気づく。外して、今日は寝て、明日も街を見て回ろう。なあに、どうせ狼退治なんて数分で終わるんだ。無傷で帰ってきて、あの子供達をまたはしゃがせてやるさ。
「……むむ、こっちの部品がこうで、ここが……外しにくいな、くそ」
鎧を外すという初めての体験に十分くらいは苦戦をしながら、俺は布団を被って、心地よい疲労に目をつぶる。
眠る前に、本当に些細な事が気になった。
「そう言えば……おーい、ヘルプ機能ー」
「はい、ここにおります」
名前を知らないが、システムに無理に名前を付ける事もないだろう。呼びかければ直ぐ、片時も離れていなかったかの様に、声が帰る。
「俺が、こっちに来ただろ? じゃあ、向こうの俺ってどうなってるんだ?」
「あちらの貴方には、こちらの世界でいう『wirten』――戦士ヴィルテンが成り替わっております。急に人間が消えるという不自然を世界は許しません、必ず数合わせの代償を要求します。貴方は戦士ヴィルテンの立場になり、戦士ヴィルテンは貴方の立場に。あちらの世界では戦士ヴィルテンが、貴方の部屋のベッドに横になっているでしょう」
「ははっ、運が無いなあいつ。あんなつまらない世界で、あんな男の立場にされちまったのか!」
世界最強の戦士だった男が、今は安アパートでごみに囲まれている。その光景を想像すると、俺はおかしくてたまらなかった。対岸の火事、他人の不幸は蜜の味。良く言われる事である。
充実した明日を夢見ながら、俺は何年かぶりに、好ましい睡眠というものを味わった。
異世界、二日目の朝――いや、昼間だった。窓から外を覗いてみると、既に太陽が高く昇っていたのだ。
普段の俺だったならば、決して生活のサイクルを乱す事は無い。ジャスト6時間眠れば、スイッチを入れた様に目が覚める筈だった。それが崩れたのも、やはり新しい世界の風土に触れた心地好い疲労感が原因だろう。
思えば今までの生活は、狭い部屋に一人で閉じこもり、延々と画面と睨み合う作業の様な物だった。それがどうだ、今の俺は世界最高の戦士様だ。街の子供、大都市の名士、ご近所のアイドルに至るまで全てが俺を讃える。
「……そういえば、なんでこんな時間に……?」
この宿に泊まったならば、娘さんのモーニングコールに加え、暖かい朝食がセットと相場が決まっている――味に関しては、昨日、幻想を打ち砕かれたが。
俺がこうして眠っているというのに放っておいて、一体何をしているのか。宿泊客を忘れたんじゃないだろうなと、俺は少しだけ不快な気持になった。
だが、一人でむすくれていても仕方がない。昨夜に苦労して外した鎧ともう一戦。構造は知っていたが、外すより装着が難しい。十五分も悪戦苦闘し、ようやく全ての部品を身に付けた。
「おーい、娘さーん……」
娘さんと呼ぶのも不自然な気がするが、しかしどう呼んだ物だろう。そう言えば宿の娘さんに、名前は設定されていなかった。NPCとしての名称が『宿の娘』、人の名前には不適切だ。
余計な事をあれこれと考えながら階段を下りたが、然し誰もいない。宿の主人もおかみさんも、見事に何処にもいなかった。
「……じゃあ、中央広場か?」
運営が年に数回開催するイベントでは、NPCが街の広場に集まり、普段とは趣の違う言葉を掛けてくれたりする。普段なら宿などの施設NPCは動かないのだが、ここはリアルな世界、そういう事もあるだろう。一人置いてけぼりにされた不満は有るが、俺もそこへ向かう事にした。お祭り騒ぎならば、戦士ヴィルテン様がいなくては始まるまい。
武器防具屋、食糧屋、貸し倉庫屋など、中核的施設の集まった通りを南へ進む。中央広場とは言いながら、三方向に広がった街である為、エリア移動してくると最初に到着するのが中央広場なのは、ネーミングの矛盾かも知れない。
噴水が目印の広場には、予想通りに大勢のNPC――いや、街の住人がいた。こう呼び直したのは、彼らが発している雰囲気に、とてもイベント時の浮かれ騒ぐNPC達と繋がらない重苦しさが有ったからだ。
建物の影から、彼らの様子を観察する事が出来た。誰も笑っていない。それどころか、何人かは石畳に膝を付いて泣いている。泣き叫ぶ者の肩を抱いて慰めてるのは教会の神父、然し彼もまた悲痛な表情を浮かべていた。
彼らは俺に気付いていない、なぜかそれに安堵してしまった。嘆く彼らの中に、自分が混ざっていてはいけないと思ってしまったのだ。これに似た居心地の悪さは――そう、小学校の同級生が事故で死んだ時に、葬儀に参列させられて以来だ。自分にとっての赤の他人が死んで、悲しむ事を強要されている様な――俺は、その頃から友人が少なかった。
「……おい、ヘルプ機能」
「はい、なんでございましょうかしら」
「何だよ、あれ。俺は、こんなイベント知らないぞ……!?」
呼びつければ、あの赤髪の女は直ぐに現れる。世界を知りつくした俺が知らない、所謂イレギュラーの事態に気が動転しながら、この出来事へのヒントを求めると、
「当然でございます。あれはイベントではございません。日常生活に於いて、起きて当然の出来事ですわ」
女はすう、と指を持ちあげ、人だかりの方を指差した。
「人が集まり過ぎていて見えませんかしら。でも、彼らにも生業が有る。きっともうすぐ、誰かが『片付け』に来るでしょう」
「……何の事だよ、はっきり言えよ」
しまった、止めておけばよかった、後悔が俺に圧し掛かる。知らない振りをして、俺はさっさと宿に戻っていれば良かったのだ。早々に剣と盾を構え、クエストの攻略に移れば良かったのだ。
赤毛の女は、どこまでも、どこまでも事務的だった。
「街の住人の一人が、狼に襲われて死にました。病気の父親の為に、森に群生する薬草を摘みに行った帰りです」
女が指で示した方向、人の群れが割れて、それが見えてしまった。衣服と肌の境目が分からない程に赤く染まった――きっと少女だったのだろう、死体を。
ヤバい、ヤバいヤバいヤバい、吐き気がする吐き気がする吐き気がする、涙腺が暴走する肺がストライキを起こす胃が反逆する、ガタガタガタガタガクガクガクガク、スケルトンソルジャーにでも成り下がったかの様に股関節も膝関節も笑う笑う笑う。
「うう……うぇ、げえっっ……げ、おえっ……」
「片足は無くなって、内臓もズタズタになって、普通ならその場で死んでいたのでしょうが……余程、帰りたかったのでしょうね。薬草を口に咥え、両手と残った足で雪の中を這いずり、臓物を引きずってまで街に戻ってきました。……ああ、出発したのは昨日の朝で、返ってきたのは今朝早く、夜明け前。あの森へ往復するには、常人なら半日は掛かりますからね」
朝食を済ませていなかったのが幸いだ。吐き出したのは胃液だけ、それ以上は腹に入っていなかった。四つん這いになってげえげえやらかす俺に、この赤髪の女は、どこまでも冷静に状況を解説していた。
「つまり、クエスト『凍土の狼退治』の冒頭部分ですわ。プレイヤーに対しては倫理の問題から語られずに居た真実が、これです。クエスト説明で死亡を告げられていただけの少女でさえ、この世界では生きていた……ええ、過去形です」
「……止めてくれ、止めろ……」
「ご質問は以上でよろしいのですか? 畏まりました」
言うだけ言って、赤髪の女は消える。俺も、一刻も早くこの場を立ち去ろうとした。世界最高の戦士が嘔吐している姿なんて、誰に見せられるというのか。早く、宿に戻って――
「戦士様、ですよね」
ふらふらと立ちあがって歩きだした俺の背に、涙交じりの声が突き刺さった。
「娘さん……」
「どうして、こんな所に居るんですか」
振り返れば、名も知らぬ宿の娘が、流れる涙を拭おうともせずに立っていた。
ぎゅっと両手を握りしめ、強く両足を張って立っている彼女は、俺よりずっとずっと強く見える。なんだかそれが怖くなって、目を逸らそうとした。
「私の友達が死にました、ハンナって子です。大きくなったら教会で、純白のドレスを着て結婚式を上げたいって、子供みたいな事を何時も言ってた子です」
「……ぁ、それは……ぅ、残念、だったね」
女の子を慰める言葉なんて知らない。長い事ワールドクリエイターをプレイしていれば、変な相談を持ちかけられる事も有った。だが、顔も知らない相手に持ちかけられる話なんて大した事が無くて、適当に相槌を打っていれば優しい人などと言われたのだ。
彼女は本気で悲しんでいるし――どういう事だろう、本気で怒っている。
「……ええ、とっても残念です。彼女のお母さんは早くに亡くなりました。お父さんは病気気味で、高いお薬が無いと咳が止まりません。息を吸えないくらいに辛いらしくて、発作が始まると、ハンナだけじゃ抑えられないくらいに体が跳ねます」
「ぅあ、その……」
「完全に咳を止める事は出来なくても、森の薬草で症状を緩和する事は出来ます。あの森に狼が住み着いた秋までは、ハンナが月に一度、薬草を集めに行っていました――でも、もうハンナはいません」
怖い。俺より20cmも小柄な彼女が怖い。本気の怒りをぶつけられた事なんて何時以来だろう。七年か、もっと長い。十年か、いやもっともっと前だ。下手をすれば十五年以上――小学生の時にまでさかのぼるのではないか。
親は厳しいとは言えなかった。周囲に友人がいなかったから、本気の喧嘩なんてした事はない。中学高校、小賢しさを磨いて目立たないようにしていた為、教員に叱りつけられた記憶も無い。俺の人生には、人と関わった経験というものが、ぽっかりと空いた穴の様に抜け落ちている。
「……どうして、早く退治に出向いてくれなかったんですか!? 簡単に倒せる、五分も有れば狩りつくせるって言ってたのに! あの森に入れないのがどういう事か知ってるでしょう!? 薬草も木の実も薪も取れない、他の街へ出かける事も出来ない! お医者様は狼が怖いって、秋から一度もこの街に来てくれないんです!」
激しく非難されているのに、彼女の声はいよいよ悲痛さを帯びていく。墓地で出るバンシーの金切り声なんて比べ物にならない、魂の籠った本物の感情――心が押しつぶされそうで、俺は彼女に背を向けようとした。
「……やっと、行くんですか。一週間も、食べて寝て子供と遊ぶだけで……」
「え? ……ちょ、一週間って――」
彼女が告げた日数は、俺に全く覚えのない事だ。俺は昨日、初めてこの世界に――反論しそうになって思い当る。俺は、この世界に居たヴィルテンと入れ替わった。もしかしたらあいつは、もう何日も宿に止まり、ただ食って寝て遊ぶだけの生活を送っていたのか?
何て奴だ――とは、言えなかった。その暮らしはそっくりそのまま、俺の暮らしだったのだから。寝て起きて、ゲームに没頭し、合間合間に食い、寝る。そこに果たすべき義務は存在しない、自分の腹を満たす為の金銭さえ稼げればいい――或いは、既に稼げているからいい。
だから、俺がやったんじゃないとは言えなかったのだ。顔が焼けるように熱い。彼女を見ていれば、羞恥で押しつぶされて死んでしまいそうだ。これが恋愛感情によるものならば、どれ程気が楽だった事か。
「別な宿に移ってください。私達、もうしばらくしたら帰りますから……その間に、荷物を……」
「……分かった。今から行ってくる」
もとより、宿に戻る気は無い。戻れる自信、合わせる顔が無い――いや、これさえも建前だ。
宿の娘、宿の主人、おかみさん。優しく持て囃してくれる筈の皆に非難される事が怖かったのだ。
結局俺は、宿へは向かわなかった。あの建物へ踏み入る事さえ、今の俺には恐ろしい。その代わり、俺が集めた財産の下へ、つまりは貸し倉庫屋へと向かったのだ。
武器も盾も、このエリアの戦闘で最高効率を叩きだせる装備を持って行こうと決めた。どんな敵でも仕留められる汎用装備ではない。雪原戦闘に特化した魔剣と盾で、狼どもを塵芥へ帰してやろうと決めたのだ。そうでもしなければ、俺はもう、あの宿へ近づく事が出来ない。
柄でも無いが、義憤とやらで頭が痺れていたのかも知れない。あのハンナという子がされたより残酷に、狼達を殺してやらなければならないと、俺は思いこんでいた。
「はぁい、いらっしゃい。倉庫のご利用かしら、それとも私とイケない事? ……前者みたいね」
貸し倉庫屋の女性は、昨日と変わらずの妖艶さで、俺を誘おうとしていた。然し、直ぐにそれを諦めたのは、俺の顔色が死人の様だったからでもあるのだろうか。
「ああ、そうだ。これから、ちょっと本気で行ってくる」
「了解よ、着いてきて下さる?」
昨日と同じ様に、俺はカウンター奥の扉から、自分の財産の山の前に案内された。あいかわらず積み上げた装備や金は、どうやったら使いつくせるのだろう思う程の量だ。
だが、俺が探し求めていた装備は、倉庫の入り口付近に纏めて置いて有った。『雪原セット』と名付けられた剣と盾、そしてその他アイテムを纏めた道具袋だ。
「……これだ。これで、狼なんかは……」
剣も盾も、滞在エリアが雪原である場合のみ、ステータス全てに15~25%のプラス補正を加える、超強力なレア装備だ。単純なダメージの期待値であるなら、雪原での戦闘では、この組み合わせがゲーム中は最強だった。火力特化ではない片手持ちの剣で見るなら、単純攻撃力も高い。
ずっしりと手に来る重さに、俺は、武器を握っているのだと実感した。もう直ぐだ。7年の積み重ねを、俺は自分の手で試すんだ。
「ねぇ、戦士様。凄い顔をしてますわよ、どうしたの?」
「……あんたは、あれを見て平気なのか?」
俺は余程怖い顔をしていたのだろうか、それとも青ざめていたのか。何れにせよ、昨日と何も変わらない女性の態度が、俺はなんとなく気になった。誰かが辛い思いをしているのに、どうして平気な顔を――そんな、理不尽な怒りが原因かも知れない。
「ええ、平気ね。少し見に行ったけれど、別段どうとも思わなかったわ」
「人が死んだんだぞ!? それも、あんな酷い死にざまで……」
「珍しく無い事ですもの。あんな事でうじうじして、仕事をおろそかにはできないわ」
貸し倉庫屋の女性は、俺の理不尽さを受け流す様にしながら、手元の書類に何かを記述していた。装備、アイテムの預蓄状況の記録だろうか。
「悲しい事だけど、悲しみに浸るなんて贅沢よ。戦士様は、私に贅沢をさせてくださるの?」
「……どういう事?」
「今日の仕事をおろそかにして、明日のお客さんを失っても、私が一生食べていけるという安心を下さるの? そうしたら、私はあの広場で、他の誰よりも激しく泣いて見せてもいいわぁ……ふふ、泣き真似も、泣いていない振りも、どちらも得意だもの」
書類の記録を終え、紙の半分が、俺の受け取り控えとして渡される。
彼女が何を考えているのか、俺には良く分からなかった。悲しそうな顔には見えないが、言う事が底抜けに明るい訳でもない。昨日のように俺に迫ってくる事も無く、寧ろ一定の距離を置いている様にさえ感じた。
「冷たいんだな」
「かもね。昨日の改まった戦士様より、今の突き離す様な戦士様の方が好きだもの。お仕事が終わったら一杯やらない? 安いお酒でも、心地良く酔う方法を知ってるのよぉ……ふふ、ふ」
彼女は、俺に愛されたいと願っていないだろう。だが、俺に好意を向けられれば、彼女が喜ぶ事は確かだ。一方で彼女は、きっと身近な存在だっただろう街の住人が死んでしまっても、まるで悲しまないのだ。俺が死んだとしても、やはり悲しみはしないだろう。
軽い吐き気がする。惨殺死体を見てしまった時の様な、堪えがたいものではない。喉の奥に留めて置けるが、中々薄れようとしてくれない、重苦しい吐き気だ。頭痛までがそれに伴い、酷く酷く苛立ちが募る。
「……俺は、あんたが嫌いかも知れない」
今頃にして俺は、俺が好かれていない事に気付いたのだ。俺の人間性は、彼女の好意の対象外。そして、宿の娘からは嫌悪の対象だった。
何時も何時もそうだ。表で何か綺麗な事を言おうとも、大概の奴は、腹の底で俺を嘲笑う。俺という人間の人格を否定し、レッテルを張って指差し嗤う。
「死なないでねぇ、戦士様。貴方は、公的な遺言状を一切残していないんだもの……公の財産にするには惜しいわぁ……ふふ、ふふ」
良いだろう、戦士ヴィルテンの力を見せてやる。人格なんて所詮、実力の前では無意味なもの。そう知らしめてやらねばならない。俺は最強の戦士だ、狼なんかに負ける理由は無い。
荷物袋を担ぎ、倉庫を後にする。背後から、彼女のくすくすと籠る様な笑いが聞こえ続けた。
雪の中を歩いていく。剣と盾の与えてくれるステータス補正の為か、足は予想以上に軽く動く――とは言っても、膝も埋まる様な雪では限度があるが、今の俺は雪の重さを忘れている。
道を間違える事は無い。目を瞑っていても目的地に辿り着く自信がある程に、俺はこの世界を良く知っている、知り尽くしているのだ。
あれこれと考え事をしている間に、もう森が見えてきた。そこから狼を群れごと雪原に誘い出し、纏めて撃破するのが基本戦術だ。
「……やってやる、俺はやってやる、やってやる……!」
ここは『北の森』、狼の群れが住むエリア。序盤も序盤に、ソロでクリア出来る程度のクエストしか配信されない、安全地帯も良い所の区画だ。
但し、ここで安全なのは、この世界では俺だけだ。俺だけが力を持っていて、狼どもを雑魚扱いする事が出来る。あの町の誰もが恐れる狼を、俺は素手でさえあしらう事が出来る。
だが、それでは物足りない。過剰なまでに力を見せつけてやらなければ、俺の気が済まないのだ。
何故か。狼に食い殺された少女の為、かも知れない。俺に怒りを正面からぶつけてきた、宿の娘さんの為かも知れない。そんな風に、理屈は幾らでも並べたてられるが――本当はもう、気付いてしまっていた。
力有る戦士を求めている街の連中。なんてことは無い、それはつまり、自分に都合の良い労働力を欲しがっているだけではないか。望んだ時に戦地に向かい、危険に身を晒して問題を解決する便利屋を望んでいるだけではないか。
あいつらは便利屋に人格など求めていない。俺の人格なんて知ったこっちゃ無いだろう。だから、俺が役に立ちそうなら褒め称えて下へも置かぬ扱いをし、思うように動かないと知れば罵り、追い立てるのだ。
ならばお望み通り、力を見せてやろう。伝説の龍も冥府の王も抗えぬ、最強の力を見せてやろう。俺こそは戦士ヴィルテン、世界最強の剣士。結果だけが全てという世界なら、俺が何よりも正しい存在なのだ。
「居た……よーしよし、居やがったな……!」
目的の狼、その一体目は直ぐに見つかった。いつもアレは、森の入り口付近をウロウロしているのだ。所謂、斥候と言う奴である。
アレは高レベル帯のプレイヤーに対するトラップの様なものであり、一定レベル以上のプレイヤーを発見すると高らかに吠え、森エリアの全エネミーを呼び集めるのだ。
生半可なレベルであれば苦戦させられるだろう。だが、俺の様に高レベルプレイヤーであったのなら、一網打尽にする事はなんら難しいものでも無い。それどころか、撃破の効率が上がる為、寧ろ有り難い仕様であった。
「おい、さっさと仲間を呼べ!」
言葉は通じないだろうが、こちらに気付かせる事が出来ればそれでいい。後はあの見張り狼が勝手に吠えて、仲間を呼び集める筈だ。
「……あ、れ? おい、どうしたよ、仲間を呼べよ……お前だけじゃどうしようも無いだろ?」
そいつは低いうなり声を上げると、雪の上をすたすたと歩き、俺に近付いてきた。まるで、低レベルプレイヤーに遭遇した時の様な無警戒さで、だ。
俺の頭は一気に熱くなった。人間ばかりか、よりによって狼にまで舐められたのだ。俺は警戒に値しない雑魚だと言われたも同然だ――レベルが10も有れば倒せる雑魚敵に。
「てめっ、このやろおおおぉっ!!」
盾を体の前に構え、剣を高く振り上げて、唸る狼に向かっていく。こんな奴、一撃で斬り殺してやる。
剣が届く距離に入った瞬間、狼が視界から外れた。そう認識するより先に、左腕が急激に重くなった。狼が、鎧の上から噛みついていた。
「うおっ、あ、わっ!?」
痛みは無い。狼の牙で貫通出来る程、俺の鎧は脆くない。だが、狼は予想以上に重かった。小さい頃、犬にじゃれつかれた事は有るが、そんなものとは訳が違う。体が大きい分、重さが有る。そして、噛みついた状態から俺を引き倒そうとする脚、首も、尋常では無く力が強い。
「……っぐお、ああったぁっ!?」
持ち上げて投げ飛ばそうと、左腕に力を込めた。二の腕から肘に掛けて激痛が走る。無理に重量物を持ち上げようとして、筋がイカれてしまったらしかった。涙が出る程に痛い。零れた涙は、早々に頬の上で凍りつき始めた。
「くそ、離れろ、離れろこの雑魚、雑魚っ!!」
罵っても、狼に通じる筈は無い。
幾ら犬より大きいとは言っても、鎧を着込んだ俺よりは軽い筈だ。なのに俺は、狼に明らかに力負けしていた。揺さぶられ、幾度か倒れかける。膝までの高さが有った雪が幸運にも支えとなり、立っていられる様なものだった。
「ぉ、おおおおおああぁ!!」
そこで漸く俺は、自分が右手に構えている剣の存在を思い出した。腹一杯の空気を吐き出し、裏返った奇声を上げながら、剣を狼の背に振り下ろした。これまでなら、これで確実に殺せる筈だった。
いや、致命傷を与えたのは確かだ。俺の剣の威力はやはり凄まじいものであり、自由落下と然程変わらない速度であっても、狼の背骨に深く食い込んだ――そう、剣の速度は、自由落下と変わらない。俺は剣を振り下ろしたのではなく、構えた腕の力を抜いただけだ。
剣は、予想を超えて重かった。アイテムによるステータス補正が有るというのに、振り回せば肩が持って行かれそうな程だったのだ。
「ッグゥ、ウルルルル……ルル、ゥ……」
「っはぁ、は……ど、どうだ雑魚め、この……!」
一撃で殺せなかった相手の背から、剣を引き抜こうとする。背骨に剣は固く食い込んでいた。狼を踏みつけ、大根でも抜く様に引っ張らなければ取れなかった。
踏みつけた狼の肉、その下の骨は、とても固かった。野生動物の筋肉は人間の、それも俺の様に体を鍛えていないものとは――待て、待て、待つんだ。
何かがおかしかった。そうだ、おかしい事ばかりなのだ。
今までの俺は、狼一頭にてこずる様な男だったか? こんな狼など、片手で木に投げつけ、叩き殺せる戦士では無かったか? 雑魚的の代表例である狼など、数頭重ねて一刀両断してのける技量と力を持っているのではないのか?
いいや、俺はそんな事を出来る筈が無いし、した事が無い。俺は剣を持った事など無いし、狼に噛みつかれた事も無い。七年はまともに運動をしておらず――いや、いや、いや。
違う、この世界の俺は世界最強の剣士で、でも俺は実際に剣の振り方だって知らなくて魔法も何も使えなくて、違う俺は戦士ヴィルテン最強の男。
でも、でも、でも。だったら、今の俺はどうして――
「ぅう、うううううう……!」
――こんな狼一匹を、怖いと感じている?
「うわああああああぁ! 死ね、死ね、死ねえええ! 死んじまええええっ!」
遠からず死ぬだろう狼を、俺は何度も蹴り付けた。剣は重いから、振り上げて振り下ろす様な真似はしない。簡単に動かせる足で、踏みつける様に蹴り続けた。
何回目かで、もう死んでいただろう。だが、踏みつけた際にぴくりと動いたのが、まだ生きている様に感じられて、俺は暫く狼の死体を蹴り続けた。何かの視線を感じ、思わず顔を上げるまで。
「……ぅあ、あああ……馬鹿、有り得ないだろ……?」
気付けば森の中から、十数頭の狼が俺を観察していた。灰色の毛皮の大柄な連中のど真ん中に、真っ白の更に大きな奴が一頭。足元の狼がまだ若い未熟な固体だと、その時に気付いた。
もう、恥も外聞も意地も無い。狼共に背を向け、俺は逃げ出していた。
その結果がこのザマだ。
雪原に仰向けになり、両手は狼の牙で粉々に砕かれ、生きたまま貪り喰われている。つい先程までは痛みが有った、今はもう無い。ただ、ただ、寒かった。
「おい、なぁ、おい……聞いてるんだろ? 出て来いよ……!」
鉛色の空に向かって俺は叫んだ。俺が求めた人物は、これまでと同様に何の予兆も無く、俺の直ぐ近くに現れた。
「もしかして、呼びましたか?」
赤い髪の、天使の様な格好の女。そいつは今も、雪に足を沈める事なく、展示品の様な笑顔で立っていた。
「何なんだよこの世界、おかしいだろ!? 俺は世界最強の戦士で、俺は――」
「今更、何を言ってやがるんでございますか? 頭にウジ虫が湧いた揚句に蝿となって巣立って穴だけ残りましたか?」
俺は、この世界に俺を呼び寄せておきながら、何の力も与えなかった女を、言葉の限りに罵倒してやろうと思い、呼びつけたのだ。それが、たった二言で、決意を切り崩された。
営業用の笑顔を浮かべている癖に、その女の声は、やけにドスが利いていた。やくざ者が出るドラマなんかが有るが、それに出てくる登場人物にも劣らない程だ。
「貴方は、この世界に転生した。戦士ヴィルテンの代わりに、彼が築き上げた多大な財と装備、アイテム、知名度を受け継ぎ、最初から何もかも満たされた状態で人生を始めたのです。そこに不満が有るとでも?」
「あたりまえじゃないか! 俺は――戦士ヴィルテンは、こんなに弱い筈が無いぞ!?」
はぁ、と女は溜息をつく。俺の息は真っ白なのに、向こうには息の色が無い。きっと寒ささえ感じていないのだろう、不公平だ。
「お前はお前だろうが、このくそ甘ったれの図体ばかりでかい無能童貞がよォ? 何処かの戦士サマは強い、そりゃあ分かってるさ。だからと言って、お前が強い道理はねぇだろう!? 腹の弛んだ引きこもりが! 階段を上るだけで息を切らす豚が! 魔王や龍と互角に渡り合った戦士と、同格になれる理屈はねえだろう?」
目が据わった女は、とても服装に似つかわしくない汚い響きで俺を罵った。俺の身体的特徴ばかりか、些細なコンプレックスまでを指摘した揚句――続いた言葉は、完全に、俺の僅かな希望さえ殺してしまった。
「じゃあ……じゃあ、俺は!? 俺は、どうなるんだ!?」
「知らないよ、どうにかすれば良い。そんな立派な剣を、盾を、鎧を持ってるんだ。見張りだって、初心者どもがやるようにさぁ、仲間を呼べない距離まで誘い出して、ポーションでも使いながら削り殺せば良かったんだ。これだけ恵まれてる装備環境なら、その内、戦いにも慣れて――」
「デスペナ、デスペナは!? これ以上弱くなるとか、アイテムを取られるとか……」
女の目は、相手を憐れみ見下している人間に特有の、慈悲と高慢さを併せ持つものに代わる。は、と俺の言葉を、鼻先で笑い飛ばして言うには、
「んなもんねーよ、死ねば終わりだ。王様も奴隷も神の子も、死ねばそれまでアンコール無し。肉は獣の餌になり、武具は誰かが拾うだろう。これぞ素晴らしき世界の循環だよ」
デスペナルティを追っての復活、それさえも認められない。ここで死ねば、俺は狼の餌になるだけだという。嘘だ、信じたくなかった。どんな初心者プレイヤーだって、最初は何度か死にながらも、経験と技術を身につけて――
「大体よぉ、上等な死に方じゃね? 毎日毎日薄暗い部屋でHMD被って、カチカチカタカタやらかしてさぁ、七年も好きな事だけやって生きてきたんだ。普通の人間が費やせる時間の何倍も、娯楽って一点だけにさ?
その果てに、世界中の天才どもが努力して努力して努力しつくしてもたどり着けない、異世界冒険なんてスバラシイ体験までさせてやったんだ。お前の無能のケツ持ちなんてやってる程、私は暇じゃあないんだよ」
「頼む、帰らせろ、帰らせて――帰らせてください!」
両手を合わせて拝もうとしたが、その両手はもう、狼の胃袋に収まっていた。胸を狼に踏みつけられて、起き上がる事も出来ず、懇願する声は雪に吸い込まれて薄れていく。
「帰る? 今更どこにだい。お前はこの世界の人間から、その立場を奪い取って成り変わった。って事はだ、あっちの世界でお前の立場に、誰が居ると思う?」
「それは、ぁ――」
「そーうその通り、どんな怪物にも身一つで立ち向かう、世界最強の戦士様だ! 始まりは小さな狭い部屋かも知れないが、何せあいつは人間兵器。どんな世界のどんな国でも、自分の力だけでのし上がる。娯楽だってこの世界よりゃ、向こうの方が多いだろう。きっと毎日毎晩、良い酒飲んで女を抱いて、良い思いだけして百まで生きるんだろうねぇ……っはは、あーあ面白い」
無くなった手で、ログアウトの操作を繰り返す。メニュー画面は開かないし、当然、ボタンも一つも表示されない。
「とまあ、そういう訳で冬人くん、いやさ戦士ヴィルテン様。どうかどうかこの雪土の肥料と成り果て、春には美しい花を咲かせます様に。では!」
「いやだ、待って、いやだぁ! 何でだよ、俺は帰りたい、生きたい、死にたくない……! なあ、頼むよ、今度だけは……!」
女は、呆れた様な表情はそのままに、少しだけ諦めの様な色までも見せた。妙な既視感を覚えたが――それは、俺の母親が、俺に何度か向けた事の有る目だ。
「その言い訳、どんだけ使ってきた? 今だけ、次から変える、こう言う奴が何か改めたのを見た事が無いね。七年間、気付くチャンスは幾らでも有った筈だ……お前の生き方は、現実を生きちゃあ居ないってさ。お前の現実はこっちの世界だったんだ、だったらこっちで死ぬのがお似合いだろうが」
女は、俺に背を向けた。ああ、遠ざかる、立ち去ってしまう。あの女に見捨てられたなら、俺は本当に――
「今日から、今日から俺は変わる!! 外にだって出る、仕事も探す、だから――だから、助けてくれ! 助けてくれえええぇっ!!」
必死に、本当に死を覚悟して、俺は救いを求めた。生きて居られるなら、他に何も要らなかった。艱難辛苦の一切も、生きられるという報酬と比べれば、軽すぎるものだと思った。
気付けば、周りには狼もいないし、体の下に雪も無い――視界が暗転し、奇妙な浮遊感を味わっていた。赤い二つの光が、何時までも俺を睨み続けていた。
目を覚ますと、車の中だった。軽やかなエンジン音に、やたらとバスドラムが喧しいBGM。どちらも全く聞き覚えは無いものだ。
「……あれ、ここは……?」
「やっと起きたかい、このボンクラ。本当にお前、手足は細い癖に重いのな」
俺が寝そべっていたのは、大型自動車の後部座席。先程まで会話していた筈の声は、やたら近くから聞こえてくる。横に向けられていた体を、寝返りを打って、天井を向かせた。
「よっ、おはようさん――と言いたい所だが、もう夕方さ。さわやかな目覚めとは言い辛いだろうしねぇ」
「あんたは……あれ、ええと、え?」
俺の頭は、あの赤髪の女の膝の上に有り、女の頭はやや高い位置から俺を見下ろしていた。座る時まで、しゃんと背筋を伸ばしている女は、タバコを口に咥えて、煙を車内に充満させている。
あの、天使の様なひらひらした衣装は身につけていない。代わりに着こんでいたのは、髪と同色の、恐ろしい程に真っ赤なスーツであった。スラックスも赤、ネクタイも赤。下のシャツとネクタイピンだけが黒。右手には指輪を付けていたが、それもどうやらルビーで有る様で、赤だった。
体を起こそうとしたが、思うように動かない。何故だろうと考えたが、手足が動かせなかったからだと気付いた。
手足はまだ有るか? きっと俺の顔は、一瞬で真っ青になっていた事だろう――結論から言えば、有る。が、何かゴムチューブの様なものでグルグル巻きにされていて、全く動かせない状態になっていた。
「……ええと、なんで俺、縛られてるんだ……?」
「じたばた暴れられると困るからさ。外してやるから、もぞもぞとするのを止めてくれるかねぇ……あ、解くのめんどい」
女は、大ぶりのナイフを使って、ざっくりとゴムチューブを切った。自由に動けるようになったのはありがたいのだが、体の近くに刃物が有るのは、どうにも落ち着かない。
解放されて直ぐ、俺は体を起こして、座席にきちんと座った。膝枕というのは――相手が他の誰かなら兎も角――この女にされていると、只管に落ち着かないだけのものになる。そのまま喉にナイフを落とされるのではないかと、気が気でないのだ。
「変なツラしてるねぇ……大方、私を人殺しか何かだと思ってんだろ。まだ殺した事は無いよ」
「まだってなんだよ、まだって……」
「おお、いっちょまえの口の利き方だ。私には敬語を使え、じゃないとまたあの夢見せるよ」
「……夢? ――あ、あ……生きてる、俺、生きてる!?」
そう言われた瞬間に、ほんの数十秒前の記憶が蘇ってきた。狼どもに貪り喰われながら、雪原で果てる筈だった俺を襲う、唐突な浮遊感と暗闇。そして、そこに至るまでに経験した全ての出来事までも、僅かに遅れて一辺に、頭の中で再生される。
戦士様と持て囃され、鼻高々に街を闊歩した一日目。最低と罵られ、人格に価値を見出されていないと知られ、狼一頭さえロクに仕留められなかった二日目。これまでの人生に於いて、最悪の夢だった。
これから先、俺はことある毎に、あの夢を思い出してしまうだろう。無残な少女の死体や、手首から先が無くなった自分の腕、口元を赤く染めた狼の群れ――そんなものが永遠に、形を持った恐怖として、俺の頭にこびりつく。
「なんで、あんな事を……」
「それが私の仕事だからねぇ。週六シフトの天使様の代わりに、世のグズ共に救いを与えるのが私だよ」
「どこが救いだよ、どこが!?」
とてもじゃないが、良い体験などとは言えなかった。相手が女性で無ければ掴みかかっていたかも知れない――いや、俺にそんな度胸は無い。ただ、掴みかかりたいと一瞬だけだが、考える程度には腹が立った。
「……あんたねぇ、年収は幾らくらいになる?」
「え、ね、年収? なんでそんな事を聞くんだ……」
「敬語で話せと言ったろうが!! いいからさっさと答えな、余計な手間掛けさせて……」
「……今のペースなら、今年は450万から……500万くらいには、なる、なります」
女の剣幕に押されながらも、俺は自分の拠り所である、実際に稼ぎだす数値を示した。これは、俺が7年を経て漸く稼ぎだせるようになった金額であり、俺の努力の結晶だ。同年代の他の連中の、平均よりは余程稼いでいる筈だ。
然し、女はそれを、ガラス玉を掲げて宝石だと叫ぶ奴を見るかの様な目で嘲笑う。
「ほーう、そいつは結構結構。んで、一月の生活費と遊興費、それから課金の総額は?」
「……家賃が4万5千、食費が……一日に千5百円くらい。遊興費は殆ど使わなくて、課金は……月に、10万くらい」
「よーしよしよし、それじゃあ楽しいお勉強を始めようか。算数だ、何年ぶりだい?」
咥えていたタバコを灰皿に移して、女は両手を開き、掌を俺に見せる。指を一本一本曲げる様子は、まるで小学生に勉強を教える時のやり方の様で、また少し腹が立った。
「食費から察するに、お前は自炊はしてないね。スーパーにもいかない、コンビニで買ってると見た。それも、主食だけじゃあ無くて、飲み物だの菓子だの、余計な物を買う金額だ。動かないお前じゃ、そう腹が減る訳もないんだからねぇ……」
「ぐっ……」
図星である。片方の手で操作をしながら、もう片手でスナック菓子を摘み、ボトルのジュースを飲む。別に腹が減ってくる訳じゃなく、何か食べていると落ち着くのだ。レアな敵な湧くのを待っている間など、特に口寂しくなる。
「ってえ事は、だ。月に食費と家賃を合わせて9万、課金が10万だから……光熱費とか計算めんどくせ、合計がざっと20万。年間の生活費は240万って所だね。おーう、お大尽様ー」
「……だから、差し引きでこれからは、毎年200万以上は貯金出来る。それを、誰に文句言われる事も無い筈で――」
「まーあ待て待て、文章問題は終わってないよ冬人君。肝心なのは労働時間だ、これを考えてみようかねえ……」
収支で言うなら大きなプラスを出していると、俺の唯一にして絶対の誇りを主張しようとしたが、女はやはり聞く耳は持たない。だが――続く、極めて冷ややかな計算、岡目八目は、俺の僅かな自信さえ砕くものだった。
「お前は日に16時間、それを365日続けている訳だ。計算すると、おおざっぱだが5800時間って事になるねぇ。年収を500万として、単純に割れば時給は860円。成程、地方都市のフリーターからすりゃ垂涎物かも知れないよ。が……普通の仕事ってもんは、或る程度時間以上働いたり、深夜に出勤したりすりゃ、相応に手当ってものが付く筈なんだ。
仮に、時給700円のアルバイトだったとしようか。こいつは……ああ、12時から28時までの16時間労働をしたとする。この場合、まず最初の8時間は普通に働き、5600円を得る。分かるな?
ここから、このバイト君は残業手当をもらう事になる……ま、100円も増えれば贅沢だろう。時給800円で、22時までの2時間。1600円が増えて、合計の収入は7200円。
さーあこっから深夜手当の時間だよー。22時から29時まで所が多いだろうから、残り6時間は全部が深夜手当の適用範囲。25%増しとして、驚くなかれ時給は1000円に突入。一気に6000円も増えちゃいましたー。合計は13200円だ。
……つまりだねぇ、お前は時給700円のバイト君より、1日の収入が3000円も少ないのさ。1年で見るなら、100万円以上も損してるって訳」
深夜手当とか、残業手当とか、そんな物は体験した事が無いから、良く分からない。だが、使われている数字は明確に、俺に損失を示していた。それは分かる。
「ちなみにあんたの場合、これだけ稼げるようになったのはつい最近。最初の2年くらいはまるで駄目で、その後3年くらいは日に5000円から6000円って所だった、こいつは調べがついている。そっから考えて、これまでに稼いだ総額を、1750万としてみようか。500万が2年、250万が3年だ」
金は稼げているんだ、それは俺の拠り所の一つだった。周りが何を言おうと、確かに稼げているのだから良いじゃないか、と。
「7年間、5800時間ずつ。計算が面倒にならないように、お前の総プレイ時間は4万時間としよう。さあ、時給は幾ら?」
こんな簡単な算数なら、少し鈍った頭でも解ける。1750÷4イコール437.5。時給438円のアルバイトなんて、どこの誰が応募してくるだろう。俺だって嫌だ。
「……そーいう事。ついでに言うなら、お前が稼げなかった頃の生活費、お前は親に出してもらってた、その分を返済しようと考えた場合……ああ、もう言わせないで欲しいね、分かるだろう? 大損だよ、大損。お前は決して、勝ち組みなんかじゃあ無かったのさ」
認めざるを得ない、少し考えれば分かる様な事実。沈黙の中、車は舗装道路を真っ直ぐに走り続ける。BGMは何時の間にか、聞きなれた『ワールドクリエイター』の音楽に――『雪中行・狼の森』に切り替わっていた。
「う、ぅ、っぐ……ぅえ、ぁ……」
酷く気分が悪くなった。その音楽を聞いているだけで、俺はあのフィールドを鮮明に思い描ける。という事はつまり、俺が狼に食い殺されそうになったあの場所さえ、完全に思いだせるのだから。自分の孤独な死の現場を、他人が観察している様に思い描ける。それは、どんなグロテスクな画像より、余程吐き気を催すものだった。
「おいおい、吐くんじゃないよ。汚されたら面倒だ――おうい、まだ着かないのー?」
「もうちょっとです、師匠!」
運転席から返ってきた返事は、確かこの女の連れの少女だ。見た目が15、6の少女が車を運転している事さえ、今の俺には指摘する余力が無かった。
口を手で押さえて俯いたまま、暫くは車に揺られていた。車体がガクリと揺れる程の急ブレーキで、目的地に到着した事を知らされた。海岸線沿いの、ただの駐車場。ラインを完全に無視して、斜めに駐車が完了している。
「さ、降りな。外なら幾ら吐いても構わない――ん、まあ、新鮮な空気を吸えば気分も変わるかねぇ」
後部座席のドアが開かれ、赤髪の女が社外に出る。その後に続いて気付いたが、この女は靴まで赤で統一していた。
何もかもが赤い、目への優しさが皆無の背を、俺は追う。どこへ行くのだろうか、何も聞かされていない。あの少女は車内に残る様だし、寒くなってきた時期であった為、海で遊ぼうという者もいない。砂浜には、俺達以外には、海鳥の気配しか存在しなかった。
「この辺りでいいかねぇ……ま、座んな。砂の上でも岩の上でも」
椅子の用意されていない浜辺で、海に張り出した岩に、女は胡坐を掻いた。おれも同様に、彼女に向かい合って座る。
「……実はねえ、私がお前をこうして引きずり出したのは、お前のかーちゃんの依頼なのさ」
「か――母さんが、ええ!?」
「息子が大学もやめて、何年もゲームだけやってりゃあ、そりゃ心配にもなるってもんだろうからねぇ。なけなしの金を集めて、そりゃもう見ちゃいられない程に頭を下げて這いつくばって……そうまでされちゃ、働かずには居られないさ」
母さんが、頭を下げて――その光景が、俺にはすんなりと想像できなかった。母さんの顔さえ、鮮明に思い出すのに、暫く時間が掛かった。優しくもなく、厳しくもなく、そこになんとなく居るだけの様な母親――それでも、俺を大学に行かせて、中退を決めた時も引き留めはしなかった。俺がやりたいと思った事を、全てやらせてくれた母親。
その代わりに母さんは、俺がやりたくないと思った事は、全くやらせようとしなかった。宿題もそうだ、習い事もそうだ、外に出るという単純な行動さえもそうだ。『ワールドクリエイター』だけやり続けていれば良かった俺は、その温さが心地好くて、したくない事は何もしなかった。
だから、俺がやりたいと思っていた事を、金を誰かに払ってまで止めようとする母さんの姿が、まるで思い浮かばないのだ。
「……母さんが。そうですか、かあさんが……は、ははは……」
然し、絵が浮かばなくても、一つ、分かる事がある。間接的にだが、俺はもしかしたら生まれて初めて、母さんに怒鳴りつけられたのかも知れない。自分が無能で無価値で、貴重な時間を浪費してきた存在だと、口汚く罵られたのかも知れない。
「頃合いかねぇ……おお、今日は晴れてる、最高だ。なあ、冬人」
「……なんですか? って、ちょちょ……掴まないでくださいって」
乾いた笑いを上げる俺の顔を、女はがしとわしづかみにした。力がそこまで有る訳ではないのだが、振りほどいて良いものか、と悩む。女の手は、俺の顔を無理やり右側――海の、水平線の方へと向けた。
「――ぁ」
俺は、日本海側の浜辺に居たらしい。岩の上から見た海は、百八十度、何の遮蔽物も無く、茜色に染まっていた。雲の合間を飛ぶ海鳥は、黒い影と成り、揺らめく海面に映る。寄せては返す波の飛沫は、ざあ、と耳に心地好い。丸い夕日は、今この瞬間、海の向こうへと消えていくさなかだった。
「解像度もfpsも無限大の夕焼けだ、綺麗なもんだねぇ。7年も引きこもってたお前じゃ、こんなもんは見た事無いだろう? ただの無能のお前だって、これが分かる感性は持ってると信じたいよ」
女の言葉、母の思いは、堪らなく悔しいし、屈辱的だ。自分の全てを否定され、7年という時間を無駄だったとされた。なのに――なのに、嬉しくて堪らない。
頬を涙が伝っていた。拭う事も忘れて、瞬きも惜しんで、太陽が水平線の向こうへと行ってしまう様を見ていた。視界はぐしゃぐしゃに滲んでいるし、それと同じくらい、俺の顔もぐしゃぐしゃになっていた筈だ。
ゴミの様な街並みに辟易して、退屈な日常に倦んで、俺は『ワールドクリエイター』に没頭した。あの世界は刺激的で、絵画の様な風景に満ちていた。
でも、こんな美しい景色を、俺は見たことが無かった。海風の潮臭さも、岩に座る尻の痛さも、靴に入った砂のざらつきも、そして夕日が目を刺す痛みさえ、全てが美しかった。
「……いらなかったんだ、なにも……」
夢に浸る為の仰々しい装置も、1時間置きに目覚める為のアラームも、柔らかい椅子も何も要らない。世界はただ、在るがままに美しかった。
「なぁ、冬人。このタイミングで、本当に申し訳ないんだがねぇ……ちょい、ちょい」
「……ん、なんですか……?」
日が海の向こうに消えて、夜が忍び寄って来る。うっすらと肌寒さを感じ始めた頃に、女に肩を叩かれた。涙を拭い、鼻水を啜り、最低限見られる顔を作って振り向いた。
「はいこれ、請求書。お前のかーちゃんに渡して」
差し出されたのは、小学校なんかで配布されていそうな、質の悪い1枚のA4用紙。大雑把に、これまた赤いインクで、呪いの手紙を思わせる乱筆が踊っていた。
項目は、女の言うとおり、請求書であるらしい。調査費用だの交通費だの、とにかく雑多な項目がずらりと並んでいる――が、最後の項目を見た瞬間、俺の感動は一気にどこかへ引っ込んだ。
「……サービス料、一千万也――は、はああぁ!?」
「私みたいな美人の膝枕で8時間も寝てたんだ。1時間100万円、それに長時間拘束の追加料金。妥当な請求だろう?」
「ば、馬鹿っ、こんな金を払える訳――」
払える訳が無いだろう。貧乏ではなくとも、裕福でも無い家計だ。知人や親戚に金持ちが居る訳じゃなし、どう転がってもそんな大金は生まれてこない。
「払えない、ってかい? それは困ったねぇ、私も慈善事業をしてる訳じゃないんだ。どうしてもって言うなら、別な形で払ってもらうしかない……まあ、目玉とか? 腎臓とか? 皮膚も結構使い道は有るし? もしくは――」
「そ、そんな悪徳借金取りみたいな……!」
片方無くても生きて居られるから大丈夫とか、そういう問題ではない。確かに、生きて居られるならそれだけでいいとは願ったが、内臓を持っていかれるなんて御免だ。女から逃れるように後ずさった俺だが、直ぐに片腕を掴まれる。そして女は、ぐうと身を乗り出して、
「――もしくは、お前のアカウントを私に売るか、だ」
これ以上無くむかつく程に清々しい笑顔を、俺に見せた。
「あ……あんた、もしかして最初っから……」
「アッハッハッハッハ、そりゃそうさぁ! まーさかお前の家みたいな所から、何百万も引きずり出せる訳無いだろう? お前があれだけの廃人っぷりを見せてなきゃ、そもそも仕事を蹴ってたってーの!
いやまあ、いい取引だと思うよ、うん。マイナス1千万を抱えたベリーベリーハードで人生を始めるか、100万と就職先をゲットしたイージーモードで人生を始めるか、それだけの選択肢だもの。私なら、迷う事なんて無いけどなぁ……」
「ったははは……ひでえ、あんたひでえ!」
俺のアカウントは、世の金持ち廃人ゲーマーがこぞって欲しがる、超高額の商品だ。売ろうとしてこなかったから値段の見積もりは無いが、強化値をカンストした武器を50本も売れば、100万なんて直ぐに稼げる筈。
つまりは、最初からそれが目的で、この女は俺を外へ引きずり出した。仕事を達成したという成果を作って、取り立てに正当性を持たせた。法に訴えれば勝てそうなやり方では有るが、それを選択した時に、どんな報復が在るか分かったもんじゃない。
女が、指をパチンと鋭く打ち鳴らす。女の人差し指に炎が灯り、取り出したタバコに火を着けた。あまりに突然の事で――更に言えば、あんな夢を見せられた事も有って――俺はその光景に、なんら疑問を抱かなかった。
「ジュリア=ファイネスト、ファイネスト天使代行業社長さ。これからは私を社長と呼びな。なあに、世界は面白いもんさ、こういう不思議も転がってるしねぇ」
「……了解です、社長」
タバコの煙を顔に吹き付けられながら、俺は頭を下げる。否と答える事は、請求書の赤文字が、彼女の赤目が、異様な重圧を放っていて、とても叶わなかった。
あれから数カ月。俺はジュリア社長の下で、『魔術師』の見習いなどという事をやらされている。
この科学全盛の時代、魔術なんて物が存在する事さえ俺は知らなかった。社長が言うには、世界にはまだ数千も数万も、魔術師という輩は存在するらしい――が、あまり表に出ないように各人が尽力する事で、一般人には存在を知られていないのだとか。
あの日、俺が悪夢を見させられたのも、社長がタバコに火を付けたのも、その魔術とやらの一端らしい。俺も修行の成果で、1分も有れば金属製スプーンを、ぐにゃぐにゃに曲げる事が出来るようになっていた。
魔術の勉強時間はきっかり8時間、うち半分は社長の講義で、半分は自分一人でも出来る基礎修練。睡眠時間は6時間も有れば足りる体になってしまっているので、残り10時間を、食事や仕事などに割り振る。
とは言っても、仕事なんて、そうたいしたものではない。社長お手製特殊モニタの前に座り、『ワールドクリエイター』のBOTを走りまわらせ、情報を集めるというだけの事だ。
本来ならHMDで無ければ見られない筈の画面を、平面のモニタに強制的に映し、数台を同時に監視する。面白そうな会話が聞こえてくれば、その会話のログを採集し、社長の助手の少女――そう言えば、まだ名前を知らない――に渡す。すると彼女がログを分析し、儲け話を探してくると言う訳だ。
最初の内は、どういう会話を集めればよいのか分からなかった。だが、その内に少しずつ理解してくる。あまりゲームに慣れておらず全体チャットで叫びまくる初心者、人数を集める事こそ至上と思い込むギルドのトップ、サーバー内では有名な廃プレイヤー。そういう連中の近くでは、金が動きそうな話題が有ったり、現実の生活が窺えそうな話題が有ったり、或いはプレイヤー同士の揉め事が有ったりと賑やかである。
BOTには、戦闘行為は一切させていないし、アイテム採集もさせない。ただ走らせ、会話を集めさせるのみ。仮に武力が必要になったら――その時は俺のアカウント、『wirten』が出動する。
あの日から俺は、このゲームを殆どプレイしていない。自由時間にログインしてみた事も何度か在るが、気が乗らない。街で宿の娘を見る度、クエストの張り紙を閲覧する度、雪原の狼達の記憶が蘇るのだ。あれ程に恋い焦がれた大地は、俺のトラウマとして、しつこく心に張り付いていた。
それでも、フィールドBGMを聞くだけで吐き気を催す様な、極端な状態にはない。ただ、これまでが狂ったように熱中していただけに、普通に戻る事さえ、異常に感じられているのかも知れない。
「……うっし、こんな所か……時間だな」
会話の採集は、社長助手の分析が追いつく程度にしなければならない。そうなると、仕事の間に何回か、比較的纏まった時間が出来る。そんな時、俺は、近所を軽く走りに行くのだ。体力が無ければ魔術師は務まらないという、社長の方針も理由である。
ファイネスト天使代行業の事務所は、場所は言えないが、どちらかと言えば太平洋側にある。太陽は山に沈み、山から昇ってくる。茜色に染まる海など、見るべくもない。
だが、季節に併せて移り変わる風景は、それはそれで心安らぐものだ。最近は道端に花も増えて、蝶などもひらひらと飛びまわるようになってきた。今日はうららかな小春日和、風は丁度、追い風だ。
「よーう、今日も労働御苦労、出来の悪い弟子君。タイムの伸びが悪い様だねぇ?」
「いや、これでも最初に比べればかなり良くなった方で……」
後ろから声がした――かと思えば、となりに声の主が移動した。赤ジャージに赤運動靴という、これまた派手な格好をした社長である。喫煙者の癖に恐ろしく体力がある様で、息も乱さずに喋っている。
「そういやさ、次の依頼が舞い込んだよ。結構な金額だ、こいつは完全に――つまり、要求された倍の結果を出して、3倍の金はせしめたい」
「あくどい、実にあくどい……もう少し手心加えて上げたらどうですか?」
俺自身も、自分で決めたペースでなら、支障なく会話は出来る程度に、体力は付いてきていた。まだ腹の肉は落ち切らないが、体は随分軽くなったように思う。
「それがさぁ、そーいう訳にもいかんのよ。依頼主はちょっとした会社の社長で、ターゲットはそのボンボン。『kaiza-』ってプレイヤー、知らない?」
「ああ、俺の鯖の……課金額が半端無くて、取り巻きの女キャラまできらきらさせてた奴でしたっけ。そっか、ボンボンだったのか……」
最近のプレイヤー事情は、会話ログを追うという仕事柄、かなり広く理解している。そう言う、いわば侮蔑混じりに話題にされる様なプレイヤーなら尚更だ。
「まずはゲーム内で、取り巻きをお前が奪え。現金は50万まで使っていい、どうせ向こうに請求するんだからねえ」
「貢ぎまくって、取り巻きをこっちに引っぺがせって事ですか? 『virten』でそれをやるのは拙いな……」
「ダミーアカウントはもう作ってあるよ。登録1カ月、ログインだけして放置して、プレイ時間は廃人級。課金と、それからアイテム譲渡を使って、ダミーを金キラに飾ってやりな」
社長の『廃人潰し』のやり方は、まずその居場所を切り崩す所から始まる。酷い時など、所属100人規模のギルドから30人程を買収し、内紛を引き起こして解体した事も有る――狙いは、ギルドリーダーただ1人だった。
が、今回は、それでは済まないらしい。「まず」と言った以上、もう1枚の札が在る。
「……で、社長は何時も通りに?」
「中学生の餓鬼だっていうしさー、今度はサキュバス風で行こうと思うのよ」
処女の血を媒介とした、超強力な幻術。五感の全てをジャックし、外部からの刺激で、思うように幻覚を展開させる。それが夢であるとは気付く事が出来ず、快感も苦痛も感じるが、決してその中で死ぬ事は無い。俺が見た世界も、それだ。
やけに楽しそうな社長の顔を見る限り、カイザー君とやらは、きっと巨大なトラウマを抱える事になるのだろう。女性恐怖症に陥らなければ良いが――と、余計な心配をしてしまう。
仮想現実の希薄な人間関係に溺れるくらいなら、少々のトラウマを抱いて現実に生きる方が良い。この世界、龍は見た事は無いが、魔術師は俺の隣に居る。レンガ作りの建物だって、海の向こうには幾らでも在る。地平線までの雪原だって、天を突く山脈だって、何処かには存在しているのだ――ただ、俺が知らないだけで。
「本当に社長、悪魔みたいですよね」
「天使様よ、天使さま。働かない神、週六シフトの天使、そして年中無休の私とお前。おーお、かくて幾何時を経たもうや」
廃人撲滅天使代行、開業時間は社長の気分次第。営業妨害にならない範囲で、ひっそり事務所を構えています。
数本の枯れ木の他は起伏すら無い、無縁に続くかと思わんばかりの雪原。俺は重すぎる剣を杖にしながら、影すら見えぬ街へ、絶望的な南下をつづけていた。
「ぜぇっ、ひぃ……ここは何処だ、何処なんだよ……!」
返事は無い。クリック一つ、キーの組み合わせによるショートカットで立ちあがるヘルプ機能は、ここには存在しない。そもそも、入力媒体さえ有りはしない。この世界に交わる為には、凍傷になりかけている二本の脚と、もう持ち上げる事さえ覚束ない両腕を、どうにか鞭打って働かせなければならないのだ。
「出してくれよ、誰か! 俺は、俺は……」
叫ぶ為には、息を吸わなければならない。喉が凍りつきそうだ。実際に、鼻の中はもう氷掛けているだろう。豪奢な兜は残念な事に、呼吸器を保護してくれる設計になっていなかったのだ。疲労しきった俺の声は、きっと吹きすさぶ風に比べれば、妖精どもの羽音のように頼りないものだったに違いない。
膝までを雪に埋めたまま、俺は、背後に奇妙な違和感を覚えた。気配察知なんて上等な技術は持っていない、『サーチ』の魔法の効果を持つ消費アイテムの効果だ。敵が迫っている。もう、振り向くのも嫌だったが、背後から攻撃を受けるのもまた嫌だった。おそるおそる、俺は振り返り――狼の群れが、俺を追ってくるのに気付いてしまった。
「ひー―うわ、あああ、ああ、助けて、助けてえっ!」
オークションに出せば、リアルマネーで数百万円の値打ちが付くだろう剣を、ドロップ率0.00001%の盾を投げつける。重くてさっぱり飛ばない。足元に落ちて、雪の中に消えた。投擲したアイテムを雪原で再取得するには、足元を調べなけれならないのだった。つまり、拾い上げるという動作が必要だ。
もう、身を守るものは、分厚くて無駄に重いばかりの鎧と兜しかない。逃げ切れず、背中に二頭の狼が飛びかかる。俺は雪原にうつ伏せに倒されー―腕が引っ張られる。無理やり、仰向けに起こされようとしているのだ。
脚から頭まで覆っているこの防具は、序盤の雑魚敵である狼の牙など、決して通さないだけの防御力を誇る。だがデザインは、キャラクリエイトの恩恵を受ける為、顔面と手の部分がガラ空きだ。ヤバい、顔を腕で覆った。普段のプレイなら、素手の一撃で撲殺出来るというのに、防御は無いも同然に引きはがされる。
「嘘だろ、俺は……俺は、ワールドランク1位で、俺は――ぎゃあああ、ああがあああぁっ!?」
両腕に激痛。骨をあっさり噛み砕かれた。防御だって実装されている範囲でマックスまで振り分けているんだ、俺はドラゴンの炎だって耐えきれる体の筈なのに。
俺は世界最強の戦士、ヴィルテンに生まれ変わった筈だったのに。
「ええと……めんどくさいな、今日も円の一点買いで良いだろ。どうせ幾らでも増やせるんだ」
事の始まりは、ある朝の事。俺、
椅子に腰かけ、
悪用しようと思うなら幾らでも使い道が有るだろう、世界最高の技術を、娯楽の為だけに用いる……全く贅沢な話だとは思う。が、その贅沢さが故に、世界中が魅了され、数千万とも言われるユーザーを抱えている。となれば、世界中の金もそこで動いているわけで、努力を重ねたものには相応の恩恵も有るのだ。
俺は今、ゲーム内の通貨(単位は、日本人に馴染みやすくG)を用いて、ネット銀行から円を買っている。交換レートは100000:1、レベル100前後のプレイヤーが6時間程頑張れば、缶ジュースの一本も購入できる相場だ。マウスに乗せた右手を動かし、カーソルを運び、入力欄に希望の取引金額を記入する。
1,000,000,000G――日本円にするなら、10000円。これが、俺の日収である。決して少ない金額では無い、それどころか下手な仕事をするよりよほど稼げている。学生の長期休業が重なる時期など、美味い時には日収が五万近くになる事も有った。俺は間違いなく、勝ち組みなのだと言いきれる。
ここまで稼げるようになるまで、初期投資も十分に行った。足掛け七年、プレイ時間は四万時間を超えている。宣伝の稚拙さで初期の注目度が低かった為、序盤の競争が緩かったのが、俺が今も独走している理由の一つだ。
だが、最近の俺は、少しばかり憂鬱であった。
「……ああもう、飯買いに行かなきゃ」
たまったゴミを蹴散らし、玄関までの道を作る。財布をポケットに詰め込み、高校時代のジャージを着こむ――今まで、下着姿だったのだ。着替えるのが面倒だったから。
そうだ、着替える事さえ現実では手間が掛かる。『ワールドクリエイト』の世界ならば、洗練されたメニューから装備品を選び、ワンアクションで上下の着替えが完了するというのに。
食事もそうだ。ゲームの中は、美麗な街を歩いて、異種族の美少女の売り子から、一口で一日行動出来るアイテムを購入する。現実は、ぼろアパートから狭苦しい田舎道を歩き、コンビニの店員に嘲笑われながらおにぎりとお茶を買う。
眠くなるという事さえ煩わしい。夢は時に奇跡の様な景色を産むが、それが『ワールドクリエイト』で実装できないレベルだった事はない。悪夢など見た日には寝汗が酷く、時間を無駄にさせられたという気分になる。その六時間をプレイに費やせたなら、どれ程に素晴らしいだろう。
「……あっちが本物の俺なんだ、今は仕事でこっちに来てるだけなんだ」
虚しい妄想と、分かってはいる。だが俺は、この世界に希望を見出せないのだった。
現在は午前八時、海の向こうのプレイヤーたちが活気づいている時間帯。ここで席を外すのは惜しいが、国内プレイヤーが本腰を入れる時間で無いだけマシだ。玄関に出て、サンダルを足に引っかけると――
「うーし、ここだここだ。ちゃちゃーっと開けちゃっておくれよ」
「了解しましたです、師匠!」
ドアの向こうで、誰かが話しこんでいるような声がした。
「……誰だよ、ったくもう……」
ドアノブがガチャガチャ音を立てている。用件が有るならチャイムでも使えばいいのに――と思って、俺は気付いた。チャイムを使いたくない用事、なのだとしたら? 開けてくれというのは、もしやこの扉の鍵を開けてしまえ、という事かも知れない。
「こ、こ、こ、こらぁっ!」
「ひゃあっ!?」
突然に大声を出した為、声が裏返った。内側から玄関を開け、ドアを思いっきり押して開いてやる。何かにドアがぶつかった手応えの直後、誰かを師匠と呼んでいた方の声が、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「人の部屋に、お前達何を――――を、お……?」
そこに居たのは、上がった悲鳴に負けず劣らず、頓狂な格好の二人だった。
引っ繰り返った少女は、背中から何か、白鳥の羽の様なものを付けている。ふりふりとしたドレスは、古代ギリシャ風のもの――なぜか、頭にわっかの飾り。
「あらあら、ものすごい元気にお出迎えありがとうございます、うふふ」
もう一人は、背の高い女。俺が175cmって所だから、立って並んだ感覚からして、170cm以上だろうか。こちらは羽こそ付けていないが、やはりギリシャ風の、布を体に巻いた格好である。保険のセールスマンもかくやという素晴らしい笑みを見せた女は、腰を直角に折って頭を下げ――
「ファイネスト天使代行業、『ワールドクリエイト』プレイヤー・ヴィルテン様を、アント・アスマの大地へご案内する為に参りました」
アント・アスマ、『ワールドクリエイト』のメイン舞台となっている大陸の名前。そしてこの格好、明らかにまともな人間ではない。確実に、やっかいな部類の人間だと分かる筈だ。
だが、女が再び顔を上げ、俺と目を合わせた途端、なぜかその言葉の真贋を疑う心が緩んだ。明らかなミス、失敗だ、普通の知性が有るなら疑ってしかるべきだったのに。
「上がらせていただいてもよろしいでしょうか? この姿、他の下界人には見られたくありませんの……」
長い赤毛――明るい茶髪ではなく、本物の赤――を靡かせ、周囲をきょろきょろと見まわす女を、俺は自室へと招き入れてしまったのだ。
「まあ、凄いお部屋……必要なものを最小限の空間に押し込めた、利便性重視の空間ですわね」
赤毛の女、天使代行業などと名乗る彼女は、ごみ溜めの様な部屋を見て、聞いた俺が呆れる様なお世辞を言ってのけた。
「ぇ、あー……ええと、とりあえず座ってください」
「お構いなく。私はこのままの方が楽ですの……と、唐突なのですがヴィルテン様」
「……あー、俺の名前は観世 冬人って言いまして……」
プレイヤーネームで呼ばれるのが気恥かしくなり、俺は自分から名乗り、訂正を促す。だが、女はあの営業スマイルを浮かべたままだ。
「いえいえ、これからの貴方は、望むのならばヴィルテン様となれるのです。アント・アスマ最強の戦士にして、最高の財力の持ち主。その一言が大陸の相場を変動させるVIPに……」
「……すいません、話が見えてこないんですが」
「この世界に、貴方は未練を残していますか?」
正直に言って、この女の言う事が荒唐無稽だとは感じていた。だが、その一言。未練の有無を問われた俺は、二の句を告げず押し黙ってしまう。
「一日の平均ログインは十六時間、睡眠時間の倍以上。そして、食事などに割り当てる合計時間の八倍……貴方は『ワールドクリエイト』で、現実の倍の時間を過ごす日々を送っているのです」
その通り、俺は世間的に言われる廃人という奴だ。完全にMMOに没頭し、それ以外の事をしたいとさえ思わない。生きるのに必要で無ければ、食事も睡眠も、全て削ってしまいたい程なのだ。
「私達は……そう、高い所から降りてきました。とあるお方の依頼を受けて」
「……その、依頼っていうのは……」
「ゲーム内の最高峰プレイヤー達を、実際にアント・アスマに転生させる事でございますわ」
だから、こんな言葉でさえ、俺は簡単にぐらついた。良い話には裏が有ると、理屈では知りながら、既に心は信じる方へと傾いていた。
「……はは、あんた、俺をからかってるんだろ。そんな事、出来る訳が――」
「出来る訳が無いという全ての声を、捩じ伏せてきたのが『ワールドクリエイター』でございます」
そうだ、そもそも全ての技術は、実現前は不可能とされていた。五感に直接アクセスし、三六〇度完全な視界と音響を提供する、そんなゲームが生まれる筈がないと、俺さえも高を括っていたのだから。そんな俺は初日にあの世界に魅了され、そして大学に行かなくなった。親を騙し騙しゲームを続け、三年が過ぎてばれる頃には、一日に5000円程は稼げるようになっていたのだった。
「ちょっと、話を聞かせてくれ」
「その為の私です。……少々愉快でない話ともなりますが、この世界も遥か昔は、とても文明的生活が送れる環境ではありませんでした。幾人かの英雄が地を切り開き、弱者の安寧を約束した事で、非力な人間は世界の支配者たる権利を得たのです……が、翻ってアント・アスマはどうでしょう?」
「それは、その……」
公式サイトに掲載されている、世界概要の項目を見れば分かる。大量の魔物に支配され、人間の居住区画は分断されているのが、あのゲームの世界観だ。その為、戦闘技術を持ったプレイヤーは、都市間の移動が出来ないNPCに持て囃されている。
「誰かが、英雄にならなければいけない。世界を切り開く剣が無ければ……魔物の群れを恐れぬ、最強の技術と装備の持ち主が。そして、世界最高の人脈の持ち主が……分かりますか? それが、貴方――ヴィルテン様なのです」
「………………」
今の俺からすれば、ゲーム中に登場するモンスターの殆どは、ソロプレイで容易に狩る事が出来る相手であった。世界を脅かす魔王さえ、ゲームのシステム上、何百回となく討伐している。世界にはびこる魔物の全ては、蹂躙されるべき雑魚でしかなかった。
「多くの民草が、英雄を待ち望んでおりますわ。そして貴方は、この世界に掛ける望みなど無い。ならば……」
「……どうすればいいんですか?」
嘘ならば、もうそれでも良いと思った。こんな嘘をつく理由が思い付かなかったからだ。金銭の要求も無い、この女に少しばかり従ってみても良いだろう……と、俺は思ったのだ。
「私の目を見てください。力を抜いて、楽にして……ただし、瞼は降ろさないでください」
立ったままの女が、腰を曲げ、椅子に座った俺の顔を覗き込む。髪と同じで真っ赤な虹彩の目だ。吸い込まれそうな、不思議な光を放っている。視線を外せなかったし、外そうとも思えなかった。
女がナイフを取り出し、自分の指先に傷を付けた。細い傷から、血が泡のように丸く膨らむ。それを女は舐め取り、舌で自分の指に塗りつけ――俺の唇に触れさせた。
「『お眠りなさい』、次の目覚めは大陸の屋根の下。『お眠りなさい』、貴方はヴィルテン、アント・アスマ最強の戦士」
目は閉じていない筈なのに、視界が暗くなっていく。暗闇の中に、赤い丸い物が二つ浮いている様な――ああ、あの女の目か。
それもやがて見えなくなって、部屋の時計の音さえ聞こえなくなる。
「さあ、目覚めましょう。貴方を、世界が待っています」
目を覚ました時、俺を照らしていたのは日光だけ。蛍光灯も、PCの灯りもない。小さな小屋の粗末なベッドの上に、鎧を身につけたまま、俺は横になっていた。
ああ、ここは確か、昨日のプレイを中断した宿だ。この景色は見た事がある……が、この臭いは知らない。太陽の光を存分に浴びた布団の臭いを、俺は知らない。
「お早うございます、もう朝ですよ、戦士様!」
左手の方角には部屋のドア。NPC、宿の娘の明るい声が、俺にこの世界の実感を与えた。
異世界の朝、初日。俺は立ちあがり、体を動かしてみる。世界最高の防御力と軽さを誇る鎧は、せいぜい分厚いコートを羽織っている程度の重量感しか無かった。だが、硬質の手触りは確かに本物だ。これまで、映像と音は実際に味わう事が出来ても、この様な物理的接触までは不可能だったのに――
「間違いない、本当に俺は、この世界にやってきたんだ……!」
喜びのあまり、おかしな笑いが喉から出る。抑えようともしないまま、部屋の中で思いっきり拳を突き上げてみる。黒く輝くナックルのパーツは、傷一つ無く、俺の指を守っていた。
「戦士様ー? もう、早くしないとご飯食べちゃいますよー!」
「あ、ごめん! 直ぐに降りるよ!」
宿の娘の声が、階段の下から聞こえてくる。俺は、早くNPCの誰かに会いたかった。扉を開けて、階段を下りようとして、ふと気付いた事が一つ。
「あれ……そういえば、一緒にいたあいつは……?」
この村は、比較的序盤の拠点だ。本来なら冬人が――戦士ヴィルテンが滞在する様な所ではない。ここに居た理由は、ゲーム内の知り合いから紹介されて、とある初心者プレイヤーのクエスト攻略を手伝おうとしていたからなのだ。
「あの人は、この世界に転生するにはレベルが足りなかったのです」
「うおわっ!?」
全く何の予兆も無く、背後に、あの赤髪の女が立っていた。服装も、俺の部屋に来た時と全く同じだ。
「この世界はアント・アスマであり、しかし貴方の世界でプレイしていたゲーム内空間とはまた別物なのです。この世界にアクセスできるのは、選ばれた一部の者だけ。平凡なプレイヤー達は、訪れる事は出来ません」
「そ、そうなのか……」
心臓を鎧の上から抑え、女の説明を聞く。もしかしてこの女は、所謂ヘルプ機能なのだろうか。俺が疑問を持った時だけに現れ、説明をしてくれる、という。
「……あれ、それじゃあ、プレイヤーが運営してる施設ってどうなるんだ?」
「全てはNPCが……いいえ、この世界に生きる人間が、代わりに行っています。全く問題は有りませんよ、はい……スープ、冷めますよ?」
「おっとと、急げ!」
どたどたと階段を駆け下りながら、女の言葉の意味を考える。つまり、レア物を扱う様な変動相場の店も、全てこの世界の住人が経営しているという事なのだろう。
じゃあ、この世界に転生したというのは、俺以外には居ないのか――そうなのだろう、俺こそは選ばれた戦士なのだから。何百回と利用した勝手知ったる宿、一回の食堂に降りた。
「はい、今日はパンとスープ、それから取れたての卵のオムレツですよ!」
この宿は、NPCの主人とNPCの奥さん、それにNPCの娘の三人で経営している――プレイヤー経営の宿、というものは無い。娘のグラフィックと音声データの美麗さは好評で、ゲームとしてプレイしていた時も、俺は何度かここへ足を運んだ。
とんでもない、今の方がよっぽど美人じゃないか。現実にどれほど近くても、ゲーム世界は所詮作りものだった。今の彼女は、どれだけ近くで見た所で、どんな拡大ツールを使った所で、テクスチャの粗なんかみつからないのだ。
彼女が作ったオムレツも、ちゃんと味がする――予想通り薄味で、なぜかそのくせにしょっぱい。宿の娘は味音痴という萌え要素をも備えているのだから無理は無い。設定だけだった味音痴を実感できる事にさえ、俺は感動していた。
「戦士さま、今日はどちらに向かわれるのですか?」
物腰の丁寧な主人、低い声もHMD越しではなく、実際にこうして聞くと、中々心地よいものだ。
「ああ、今日は少し街を見て回って……明日、クエストを片付けに出るよ」
「クエスト?」
「ん? ……ああ、ええと、狼退治だ。俺一人で十分さ、あの程度」
「そうですか、ありがとうございます」
宿の主人が頭を下げる――が、その時に俺は気付く。宿の娘が俺に、どこか恨めしげな目を向けていた事を。
「…………ん、どうか、したの?」
「あ、いえ! いいえ、なんでも有りません……」
「そう、なら良いんだけど……」
急に、オムレツの不味さが嫌になった。コンビニのおにぎりの方が美味いと思ったが、出された料理である、どうにか完食した。
食事が終わってから、宿を出て、街を散策する事にした。
戦士ヴィルテンの名は、この街では子供にさえ知れ渡っているらしい。ただ通りを歩くだけで、木の棒を持った戦士気どりの少年が駆けよってくる。その誰もが、俺に憧れの目を向け、瞳をきらきらと輝かせているのだ。
「ねえねえ兄ちゃん、兄ちゃんってすごく強いんだよね?」
「ずっと向こうの方に住んでるドラゴンとか、一人で倒しちゃうんだよね?」
「ああ、俺は今までに何百頭もドラゴンを倒してきたんだぞー、ハハハ」
「うおー、すっげー!」
子供に自慢話など聞かせながら、俺は見慣れた通りを歩いていく。
その建物にも見覚えは有るのだが、解像度が全く違う。そこに有るのだという実感が違う。たった一歩歩くだけでも、足に感じる重さが違う。
「お、そうだ……確か、ここは……」
俺が足を止めた場所には、道具を預ける貸し倉庫が有った。俺の財産の大半は、そこに預けられているのだ。折角この世界に来たからには、じっくりと眺めていきたい。
「あのー、すいませーん」
「はぁい……ああら、戦士様。荷物の引き出しですの?」
無意味に色気がたっぷりの服を来た女性が、カウンターに凭れかかり、身を乗り出してくる。これまでもNPCとしてインパクトは有ったが、これは強烈だ。香水が好きだという設定が有ったが、女性の体臭と香水の香りが混ざると、こうも破壊的だとは知らなかった。
「ぁ、ぁはい、ちょっと倉庫に入りたいかなー、と思って……」
「良いわよぉ、こっちへおいでになって……ふふ、凄いんだから」
「あ、あれ……なんで、休業の看板を?」
貸し倉庫屋の女性は、緊急休業の看板――機能追加メンテ以外で見た事はない――を立て、俺をカウンターの内側、扉の向こうへ誘い入れる。従って付いていくと、扉に内側からカギを掛けてしまった。
「…………?」
「ヴィルテン様の倉庫は、この魔法鍵ね……対応する扉は、これ、っと」
この世界の貸し倉庫は、扉に鍵を差し込む事で、特定の異空間を開くものであるらしい。普段なら必要なものだけをカウンターで受け取るから、こうして踏み込むのは始めてだ。
「うおぉ……凄、これが俺の……!」
扉の向こうは、市民体育館の様な広さの空間だった。そこに、数えるのも面倒になる程の木箱が積み上がっていた。木箱の中身は、張り付けた紙に書いてあるが、装備品や金貨、換金用アイテムなど様々だ。あちこちに梯子が有るのは、それで登らなければ、上段の木箱を開けられないからだろう。積み上げる事が出来ないからと、そこに放り出された布袋でさえ、数十日分の宿代にはなるだろう高級アイテムがぎっしりと詰まっている。
「あいにく、こちらで預かっているのはヴィルテン様の総資産の5%前後……金額に換算して、30,000,000,000Gというところね……私の人生、何回分の収入かしらぁ……?」
三百億ゴールド、と、貸し倉庫屋の彼女は口にした。自分のゲーム内資産はこれまで把握していなかったが、それほどにもなっていたのか――この、序盤の街に預けてある分だけで。
ここまで膨れ上がっていたのなら、銀行業に投資するだけで、利子で食っていける――と、これまでの現実の考え方をして、俺は自分の馬鹿さに気付いた。
既に今の時点で、俺は毎日を豪遊した所で、使いきれないだけの金を持っている。この世界の宿一泊は、確か1000~5000Gというところの筈なのだ。毎日を最高の宿に宿泊した所で、一年の宿泊費は二百万Gにもならない。そんな金、俺には端金というにも軽い。
「ふふふふふ……そうか、俺は、俺は……! ははっ、俺は、これだけの人間なんだぞ……!」
「ええ、貴方は世界一の戦士様。素晴らしいお人なのよ」
自分が世界の支配者になった、そんな錯覚さえ覚えて、俺は高笑いを響かせる。声は倉庫の中に響いて、金貨の袋を振動させた。
ひとしきり笑い、自分の財産の実感を得て、俺はまた通りに戻ろうとした。と、背中に人の重さを感じる。振り向いてみると貸し倉庫屋の女性が、俺の肩に背後から手を掛けていた。
「……あのー、何か?」
「ねぇ、戦士様。貴方がとても強いのは知っているけれどぉ……夜の方も、やっぱり最強なのかしら?」
「え!? あ、ええ、夜っていうと、つまり男女の……」
いきなり飛躍した話題に、俺の喉がひきつった。頭の中では、このNPCのデータを思い出そうとする。この世界の事ならなんでも知っている、直ぐに記憶は見つかった。貸し倉庫屋の女性、セクシーな衣装と豊満な肢体で、男を誘惑して今の仕事の基盤を築いた……。
「ふふ。その顔だと――まだ何も知らない、そう見えるわよぉ? 勿体無いわ、折角の体を鎧に隠しちゃって……」
「ぁ、あ、待って下さい、俺は」
「教えてあげても……ふふ、良いのよ?」
咄嗟に俺は、彼女を振り払って逃げた。間違いない、彼女は俺の財産を巻き上げようとしている。根拠? そういうキャラだという裏設定が、彼女には用意されていたのだ、当然だろう。そしてあのままでは、俺は彼女の誘惑にころりと引っ掛かってしまったに違いない。
だが然し、考えてみれば二十七年の人生に於いて、異性にあの様に迫られた事が有っただろうか? 無い。バレンタインデーに義理チョコを貰った記憶さえない。同級生女子を地元の祭りに誘った時は、予定が有ると断られた――後で、友人がその女子と歩いているのを見かけた。
今の俺は、何をせずとも、女が向こうから寄ってくるのだ。今回は金目当てだったが、それもまさか、俺の財産全てを奪おうなどとは考えてもいるまい。もし、もし仮に、いつか俺がその気になったら――幾らかくれてやって、わざと騙されるのも良いかも知れない、と思ってしまった。
その後も、見慣れた街の見慣れぬ側面を、俺は一つ一つ堪能して回った。喧しいだけだと思っていたパン屋のおばちゃんは、改めてじっくり観察すると、非常に心を落ち着かせてくれる、親しみやすい顔をしていたことが分かった。街外れの館の未亡人は、設定年齢より明らかに数歳以上、外見年齢が若かった。熟女に興味は無いと言っていた俺が、その方向性を改める程に。
「ははは、最高の世界だ……そうだ、俺はこの世界の英雄なんだよな!」
夕食を終え、宿の二階の客室、ベッドの上で俺は笑っていた。この高揚感は、これまでの人生で一度も味わったことがない。敢えて似た状況を上げるならば、誕生日プレゼントの箱を手に、蝋燭の火を吹き消していた、本当に小さな子供のころ。狭い世界の全てが自分を祝福し、存在を無条件に褒め称えられたあの時に似ている。
「あいつは、こんな世界を味わってたんだよなぁ。俺が育ててやった癖に、はは……」
「ええ、そうなりますわね。貴方が操作していたキャラクターは、これに非常によく似た世界を経験していました」
「わっ!?」
忘れかけていた存在、赤髪の女が、何時の間にかベッドの脇に立っていた。
「あんた、どうして普通に出てこないんだよ?」
「私はこの世界の住人ではなく、システムです。普通に存在する事は許されないのですわ」
「ふうん……やっぱり、ヘルプ機能だったりする?」
「ヘルプ、兼データビューワーですわね。閲覧したいデータを、適宜検索し、提供いたします」
ぺこり、またあの、腰から曲がるお辞儀。どうやらこの女は、俺に専属の便利ツールと見て良いらしい。そんなものが有ると分かれば、さっそく使ってみたくなるのが人情だ。
「じゃあ、じゃあさ。NPCに設定されてる反応パターンって、どれくらい有るの?」
「パターンなどございません。無限通りでございます」
「無限!? すげえ、どういう作りなんだ……」
「……あらあら、まだこの世界について、認識が足りていないのでは有りませんかしら?」
人間がプログラムしたものならば、当然だが限界が有る筈だ。『ワールドクリエイター』の世界は広大だが、必ず何処かに果てがある。実際、村のNPCとの会話など、俺は殆どコンプリートしていた筈だが。
「ここは『ワールドクリエイター』の世界でありながら、同時に、本物の人間が生きる世界でもあるのです。存在するのは全て、一個の意思を持った人格。自分の知識と感情に基づき、その時々に応じて万事を判断する……反応パターンなど、そうなれば無限に生まれるのです」
「……生きてる人間と同じ……いや、生きてる人間そのものなんだな?」
「はい。ですので当然ながら、彼らにはHPという概念は有りませんし、好感度なども数値として閲覧は出来ません。閲覧できるとすれば所持金や装備品など、具体的に数値化できる要素だけですわ」
「その数値とかを、ちょっといじったりするのは?」
「その権限は私にはございません。世界の創造者が許可をお出しになれば、あるいは」
これまでも、計算プログラムを使用しない限り、好感度などは数値として見る事は無かった。やり取りやアイテムの贈与などで上昇する値を記憶しておき、そこから現在の値を推測していたのだ。やる事は何も変わらない、俺はそう認識する。
「そうかー……うん、やっぱりここは『ワールドクリエイター』だな――おっと、いけね」
頷き、ベッドの上で布団を被ろうとして、鎧を身に付けっぱなしだった事に気づく。外して、今日は寝て、明日も街を見て回ろう。なあに、どうせ狼退治なんて数分で終わるんだ。無傷で帰ってきて、あの子供達をまたはしゃがせてやるさ。
「……むむ、こっちの部品がこうで、ここが……外しにくいな、くそ」
鎧を外すという初めての体験に十分くらいは苦戦をしながら、俺は布団を被って、心地よい疲労に目をつぶる。
眠る前に、本当に些細な事が気になった。
「そう言えば……おーい、ヘルプ機能ー」
「はい、ここにおります」
名前を知らないが、システムに無理に名前を付ける事もないだろう。呼びかければ直ぐ、片時も離れていなかったかの様に、声が帰る。
「俺が、こっちに来ただろ? じゃあ、向こうの俺ってどうなってるんだ?」
「あちらの貴方には、こちらの世界でいう『wirten』――戦士ヴィルテンが成り替わっております。急に人間が消えるという不自然を世界は許しません、必ず数合わせの代償を要求します。貴方は戦士ヴィルテンの立場になり、戦士ヴィルテンは貴方の立場に。あちらの世界では戦士ヴィルテンが、貴方の部屋のベッドに横になっているでしょう」
「ははっ、運が無いなあいつ。あんなつまらない世界で、あんな男の立場にされちまったのか!」
世界最強の戦士だった男が、今は安アパートでごみに囲まれている。その光景を想像すると、俺はおかしくてたまらなかった。対岸の火事、他人の不幸は蜜の味。良く言われる事である。
充実した明日を夢見ながら、俺は何年かぶりに、好ましい睡眠というものを味わった。
異世界、二日目の朝――いや、昼間だった。窓から外を覗いてみると、既に太陽が高く昇っていたのだ。
普段の俺だったならば、決して生活のサイクルを乱す事は無い。ジャスト6時間眠れば、スイッチを入れた様に目が覚める筈だった。それが崩れたのも、やはり新しい世界の風土に触れた心地好い疲労感が原因だろう。
思えば今までの生活は、狭い部屋に一人で閉じこもり、延々と画面と睨み合う作業の様な物だった。それがどうだ、今の俺は世界最高の戦士様だ。街の子供、大都市の名士、ご近所のアイドルに至るまで全てが俺を讃える。
「……そういえば、なんでこんな時間に……?」
この宿に泊まったならば、娘さんのモーニングコールに加え、暖かい朝食がセットと相場が決まっている――味に関しては、昨日、幻想を打ち砕かれたが。
俺がこうして眠っているというのに放っておいて、一体何をしているのか。宿泊客を忘れたんじゃないだろうなと、俺は少しだけ不快な気持になった。
だが、一人でむすくれていても仕方がない。昨夜に苦労して外した鎧ともう一戦。構造は知っていたが、外すより装着が難しい。十五分も悪戦苦闘し、ようやく全ての部品を身に付けた。
「おーい、娘さーん……」
娘さんと呼ぶのも不自然な気がするが、しかしどう呼んだ物だろう。そう言えば宿の娘さんに、名前は設定されていなかった。NPCとしての名称が『宿の娘』、人の名前には不適切だ。
余計な事をあれこれと考えながら階段を下りたが、然し誰もいない。宿の主人もおかみさんも、見事に何処にもいなかった。
「……じゃあ、中央広場か?」
運営が年に数回開催するイベントでは、NPCが街の広場に集まり、普段とは趣の違う言葉を掛けてくれたりする。普段なら宿などの施設NPCは動かないのだが、ここはリアルな世界、そういう事もあるだろう。一人置いてけぼりにされた不満は有るが、俺もそこへ向かう事にした。お祭り騒ぎならば、戦士ヴィルテン様がいなくては始まるまい。
武器防具屋、食糧屋、貸し倉庫屋など、中核的施設の集まった通りを南へ進む。中央広場とは言いながら、三方向に広がった街である為、エリア移動してくると最初に到着するのが中央広場なのは、ネーミングの矛盾かも知れない。
噴水が目印の広場には、予想通りに大勢のNPC――いや、街の住人がいた。こう呼び直したのは、彼らが発している雰囲気に、とてもイベント時の浮かれ騒ぐNPC達と繋がらない重苦しさが有ったからだ。
建物の影から、彼らの様子を観察する事が出来た。誰も笑っていない。それどころか、何人かは石畳に膝を付いて泣いている。泣き叫ぶ者の肩を抱いて慰めてるのは教会の神父、然し彼もまた悲痛な表情を浮かべていた。
彼らは俺に気付いていない、なぜかそれに安堵してしまった。嘆く彼らの中に、自分が混ざっていてはいけないと思ってしまったのだ。これに似た居心地の悪さは――そう、小学校の同級生が事故で死んだ時に、葬儀に参列させられて以来だ。自分にとっての赤の他人が死んで、悲しむ事を強要されている様な――俺は、その頃から友人が少なかった。
「……おい、ヘルプ機能」
「はい、なんでございましょうかしら」
「何だよ、あれ。俺は、こんなイベント知らないぞ……!?」
呼びつければ、あの赤髪の女は直ぐに現れる。世界を知りつくした俺が知らない、所謂イレギュラーの事態に気が動転しながら、この出来事へのヒントを求めると、
「当然でございます。あれはイベントではございません。日常生活に於いて、起きて当然の出来事ですわ」
女はすう、と指を持ちあげ、人だかりの方を指差した。
「人が集まり過ぎていて見えませんかしら。でも、彼らにも生業が有る。きっともうすぐ、誰かが『片付け』に来るでしょう」
「……何の事だよ、はっきり言えよ」
しまった、止めておけばよかった、後悔が俺に圧し掛かる。知らない振りをして、俺はさっさと宿に戻っていれば良かったのだ。早々に剣と盾を構え、クエストの攻略に移れば良かったのだ。
赤毛の女は、どこまでも、どこまでも事務的だった。
「街の住人の一人が、狼に襲われて死にました。病気の父親の為に、森に群生する薬草を摘みに行った帰りです」
女が指で示した方向、人の群れが割れて、それが見えてしまった。衣服と肌の境目が分からない程に赤く染まった――きっと少女だったのだろう、死体を。
ヤバい、ヤバいヤバいヤバい、吐き気がする吐き気がする吐き気がする、涙腺が暴走する肺がストライキを起こす胃が反逆する、ガタガタガタガタガクガクガクガク、スケルトンソルジャーにでも成り下がったかの様に股関節も膝関節も笑う笑う笑う。
「うう……うぇ、げえっっ……げ、おえっ……」
「片足は無くなって、内臓もズタズタになって、普通ならその場で死んでいたのでしょうが……余程、帰りたかったのでしょうね。薬草を口に咥え、両手と残った足で雪の中を這いずり、臓物を引きずってまで街に戻ってきました。……ああ、出発したのは昨日の朝で、返ってきたのは今朝早く、夜明け前。あの森へ往復するには、常人なら半日は掛かりますからね」
朝食を済ませていなかったのが幸いだ。吐き出したのは胃液だけ、それ以上は腹に入っていなかった。四つん這いになってげえげえやらかす俺に、この赤髪の女は、どこまでも冷静に状況を解説していた。
「つまり、クエスト『凍土の狼退治』の冒頭部分ですわ。プレイヤーに対しては倫理の問題から語られずに居た真実が、これです。クエスト説明で死亡を告げられていただけの少女でさえ、この世界では生きていた……ええ、過去形です」
「……止めてくれ、止めろ……」
「ご質問は以上でよろしいのですか? 畏まりました」
言うだけ言って、赤髪の女は消える。俺も、一刻も早くこの場を立ち去ろうとした。世界最高の戦士が嘔吐している姿なんて、誰に見せられるというのか。早く、宿に戻って――
「戦士様、ですよね」
ふらふらと立ちあがって歩きだした俺の背に、涙交じりの声が突き刺さった。
「娘さん……」
「どうして、こんな所に居るんですか」
振り返れば、名も知らぬ宿の娘が、流れる涙を拭おうともせずに立っていた。
ぎゅっと両手を握りしめ、強く両足を張って立っている彼女は、俺よりずっとずっと強く見える。なんだかそれが怖くなって、目を逸らそうとした。
「私の友達が死にました、ハンナって子です。大きくなったら教会で、純白のドレスを着て結婚式を上げたいって、子供みたいな事を何時も言ってた子です」
「……ぁ、それは……ぅ、残念、だったね」
女の子を慰める言葉なんて知らない。長い事ワールドクリエイターをプレイしていれば、変な相談を持ちかけられる事も有った。だが、顔も知らない相手に持ちかけられる話なんて大した事が無くて、適当に相槌を打っていれば優しい人などと言われたのだ。
彼女は本気で悲しんでいるし――どういう事だろう、本気で怒っている。
「……ええ、とっても残念です。彼女のお母さんは早くに亡くなりました。お父さんは病気気味で、高いお薬が無いと咳が止まりません。息を吸えないくらいに辛いらしくて、発作が始まると、ハンナだけじゃ抑えられないくらいに体が跳ねます」
「ぅあ、その……」
「完全に咳を止める事は出来なくても、森の薬草で症状を緩和する事は出来ます。あの森に狼が住み着いた秋までは、ハンナが月に一度、薬草を集めに行っていました――でも、もうハンナはいません」
怖い。俺より20cmも小柄な彼女が怖い。本気の怒りをぶつけられた事なんて何時以来だろう。七年か、もっと長い。十年か、いやもっともっと前だ。下手をすれば十五年以上――小学生の時にまでさかのぼるのではないか。
親は厳しいとは言えなかった。周囲に友人がいなかったから、本気の喧嘩なんてした事はない。中学高校、小賢しさを磨いて目立たないようにしていた為、教員に叱りつけられた記憶も無い。俺の人生には、人と関わった経験というものが、ぽっかりと空いた穴の様に抜け落ちている。
「……どうして、早く退治に出向いてくれなかったんですか!? 簡単に倒せる、五分も有れば狩りつくせるって言ってたのに! あの森に入れないのがどういう事か知ってるでしょう!? 薬草も木の実も薪も取れない、他の街へ出かける事も出来ない! お医者様は狼が怖いって、秋から一度もこの街に来てくれないんです!」
激しく非難されているのに、彼女の声はいよいよ悲痛さを帯びていく。墓地で出るバンシーの金切り声なんて比べ物にならない、魂の籠った本物の感情――心が押しつぶされそうで、俺は彼女に背を向けようとした。
「……やっと、行くんですか。一週間も、食べて寝て子供と遊ぶだけで……」
「え? ……ちょ、一週間って――」
彼女が告げた日数は、俺に全く覚えのない事だ。俺は昨日、初めてこの世界に――反論しそうになって思い当る。俺は、この世界に居たヴィルテンと入れ替わった。もしかしたらあいつは、もう何日も宿に止まり、ただ食って寝て遊ぶだけの生活を送っていたのか?
何て奴だ――とは、言えなかった。その暮らしはそっくりそのまま、俺の暮らしだったのだから。寝て起きて、ゲームに没頭し、合間合間に食い、寝る。そこに果たすべき義務は存在しない、自分の腹を満たす為の金銭さえ稼げればいい――或いは、既に稼げているからいい。
だから、俺がやったんじゃないとは言えなかったのだ。顔が焼けるように熱い。彼女を見ていれば、羞恥で押しつぶされて死んでしまいそうだ。これが恋愛感情によるものならば、どれ程気が楽だった事か。
「別な宿に移ってください。私達、もうしばらくしたら帰りますから……その間に、荷物を……」
「……分かった。今から行ってくる」
もとより、宿に戻る気は無い。戻れる自信、合わせる顔が無い――いや、これさえも建前だ。
宿の娘、宿の主人、おかみさん。優しく持て囃してくれる筈の皆に非難される事が怖かったのだ。
結局俺は、宿へは向かわなかった。あの建物へ踏み入る事さえ、今の俺には恐ろしい。その代わり、俺が集めた財産の下へ、つまりは貸し倉庫屋へと向かったのだ。
武器も盾も、このエリアの戦闘で最高効率を叩きだせる装備を持って行こうと決めた。どんな敵でも仕留められる汎用装備ではない。雪原戦闘に特化した魔剣と盾で、狼どもを塵芥へ帰してやろうと決めたのだ。そうでもしなければ、俺はもう、あの宿へ近づく事が出来ない。
柄でも無いが、義憤とやらで頭が痺れていたのかも知れない。あのハンナという子がされたより残酷に、狼達を殺してやらなければならないと、俺は思いこんでいた。
「はぁい、いらっしゃい。倉庫のご利用かしら、それとも私とイケない事? ……前者みたいね」
貸し倉庫屋の女性は、昨日と変わらずの妖艶さで、俺を誘おうとしていた。然し、直ぐにそれを諦めたのは、俺の顔色が死人の様だったからでもあるのだろうか。
「ああ、そうだ。これから、ちょっと本気で行ってくる」
「了解よ、着いてきて下さる?」
昨日と同じ様に、俺はカウンター奥の扉から、自分の財産の山の前に案内された。あいかわらず積み上げた装備や金は、どうやったら使いつくせるのだろう思う程の量だ。
だが、俺が探し求めていた装備は、倉庫の入り口付近に纏めて置いて有った。『雪原セット』と名付けられた剣と盾、そしてその他アイテムを纏めた道具袋だ。
「……これだ。これで、狼なんかは……」
剣も盾も、滞在エリアが雪原である場合のみ、ステータス全てに15~25%のプラス補正を加える、超強力なレア装備だ。単純なダメージの期待値であるなら、雪原での戦闘では、この組み合わせがゲーム中は最強だった。火力特化ではない片手持ちの剣で見るなら、単純攻撃力も高い。
ずっしりと手に来る重さに、俺は、武器を握っているのだと実感した。もう直ぐだ。7年の積み重ねを、俺は自分の手で試すんだ。
「ねぇ、戦士様。凄い顔をしてますわよ、どうしたの?」
「……あんたは、あれを見て平気なのか?」
俺は余程怖い顔をしていたのだろうか、それとも青ざめていたのか。何れにせよ、昨日と何も変わらない女性の態度が、俺はなんとなく気になった。誰かが辛い思いをしているのに、どうして平気な顔を――そんな、理不尽な怒りが原因かも知れない。
「ええ、平気ね。少し見に行ったけれど、別段どうとも思わなかったわ」
「人が死んだんだぞ!? それも、あんな酷い死にざまで……」
「珍しく無い事ですもの。あんな事でうじうじして、仕事をおろそかにはできないわ」
貸し倉庫屋の女性は、俺の理不尽さを受け流す様にしながら、手元の書類に何かを記述していた。装備、アイテムの預蓄状況の記録だろうか。
「悲しい事だけど、悲しみに浸るなんて贅沢よ。戦士様は、私に贅沢をさせてくださるの?」
「……どういう事?」
「今日の仕事をおろそかにして、明日のお客さんを失っても、私が一生食べていけるという安心を下さるの? そうしたら、私はあの広場で、他の誰よりも激しく泣いて見せてもいいわぁ……ふふ、泣き真似も、泣いていない振りも、どちらも得意だもの」
書類の記録を終え、紙の半分が、俺の受け取り控えとして渡される。
彼女が何を考えているのか、俺には良く分からなかった。悲しそうな顔には見えないが、言う事が底抜けに明るい訳でもない。昨日のように俺に迫ってくる事も無く、寧ろ一定の距離を置いている様にさえ感じた。
「冷たいんだな」
「かもね。昨日の改まった戦士様より、今の突き離す様な戦士様の方が好きだもの。お仕事が終わったら一杯やらない? 安いお酒でも、心地良く酔う方法を知ってるのよぉ……ふふ、ふ」
彼女は、俺に愛されたいと願っていないだろう。だが、俺に好意を向けられれば、彼女が喜ぶ事は確かだ。一方で彼女は、きっと身近な存在だっただろう街の住人が死んでしまっても、まるで悲しまないのだ。俺が死んだとしても、やはり悲しみはしないだろう。
軽い吐き気がする。惨殺死体を見てしまった時の様な、堪えがたいものではない。喉の奥に留めて置けるが、中々薄れようとしてくれない、重苦しい吐き気だ。頭痛までがそれに伴い、酷く酷く苛立ちが募る。
「……俺は、あんたが嫌いかも知れない」
今頃にして俺は、俺が好かれていない事に気付いたのだ。俺の人間性は、彼女の好意の対象外。そして、宿の娘からは嫌悪の対象だった。
何時も何時もそうだ。表で何か綺麗な事を言おうとも、大概の奴は、腹の底で俺を嘲笑う。俺という人間の人格を否定し、レッテルを張って指差し嗤う。
「死なないでねぇ、戦士様。貴方は、公的な遺言状を一切残していないんだもの……公の財産にするには惜しいわぁ……ふふ、ふふ」
良いだろう、戦士ヴィルテンの力を見せてやる。人格なんて所詮、実力の前では無意味なもの。そう知らしめてやらねばならない。俺は最強の戦士だ、狼なんかに負ける理由は無い。
荷物袋を担ぎ、倉庫を後にする。背後から、彼女のくすくすと籠る様な笑いが聞こえ続けた。
雪の中を歩いていく。剣と盾の与えてくれるステータス補正の為か、足は予想以上に軽く動く――とは言っても、膝も埋まる様な雪では限度があるが、今の俺は雪の重さを忘れている。
道を間違える事は無い。目を瞑っていても目的地に辿り着く自信がある程に、俺はこの世界を良く知っている、知り尽くしているのだ。
あれこれと考え事をしている間に、もう森が見えてきた。そこから狼を群れごと雪原に誘い出し、纏めて撃破するのが基本戦術だ。
「……やってやる、俺はやってやる、やってやる……!」
ここは『北の森』、狼の群れが住むエリア。序盤も序盤に、ソロでクリア出来る程度のクエストしか配信されない、安全地帯も良い所の区画だ。
但し、ここで安全なのは、この世界では俺だけだ。俺だけが力を持っていて、狼どもを雑魚扱いする事が出来る。あの町の誰もが恐れる狼を、俺は素手でさえあしらう事が出来る。
だが、それでは物足りない。過剰なまでに力を見せつけてやらなければ、俺の気が済まないのだ。
何故か。狼に食い殺された少女の為、かも知れない。俺に怒りを正面からぶつけてきた、宿の娘さんの為かも知れない。そんな風に、理屈は幾らでも並べたてられるが――本当はもう、気付いてしまっていた。
力有る戦士を求めている街の連中。なんてことは無い、それはつまり、自分に都合の良い労働力を欲しがっているだけではないか。望んだ時に戦地に向かい、危険に身を晒して問題を解決する便利屋を望んでいるだけではないか。
あいつらは便利屋に人格など求めていない。俺の人格なんて知ったこっちゃ無いだろう。だから、俺が役に立ちそうなら褒め称えて下へも置かぬ扱いをし、思うように動かないと知れば罵り、追い立てるのだ。
ならばお望み通り、力を見せてやろう。伝説の龍も冥府の王も抗えぬ、最強の力を見せてやろう。俺こそは戦士ヴィルテン、世界最強の剣士。結果だけが全てという世界なら、俺が何よりも正しい存在なのだ。
「居た……よーしよし、居やがったな……!」
目的の狼、その一体目は直ぐに見つかった。いつもアレは、森の入り口付近をウロウロしているのだ。所謂、斥候と言う奴である。
アレは高レベル帯のプレイヤーに対するトラップの様なものであり、一定レベル以上のプレイヤーを発見すると高らかに吠え、森エリアの全エネミーを呼び集めるのだ。
生半可なレベルであれば苦戦させられるだろう。だが、俺の様に高レベルプレイヤーであったのなら、一網打尽にする事はなんら難しいものでも無い。それどころか、撃破の効率が上がる為、寧ろ有り難い仕様であった。
「おい、さっさと仲間を呼べ!」
言葉は通じないだろうが、こちらに気付かせる事が出来ればそれでいい。後はあの見張り狼が勝手に吠えて、仲間を呼び集める筈だ。
「……あ、れ? おい、どうしたよ、仲間を呼べよ……お前だけじゃどうしようも無いだろ?」
そいつは低いうなり声を上げると、雪の上をすたすたと歩き、俺に近付いてきた。まるで、低レベルプレイヤーに遭遇した時の様な無警戒さで、だ。
俺の頭は一気に熱くなった。人間ばかりか、よりによって狼にまで舐められたのだ。俺は警戒に値しない雑魚だと言われたも同然だ――レベルが10も有れば倒せる雑魚敵に。
「てめっ、このやろおおおぉっ!!」
盾を体の前に構え、剣を高く振り上げて、唸る狼に向かっていく。こんな奴、一撃で斬り殺してやる。
剣が届く距離に入った瞬間、狼が視界から外れた。そう認識するより先に、左腕が急激に重くなった。狼が、鎧の上から噛みついていた。
「うおっ、あ、わっ!?」
痛みは無い。狼の牙で貫通出来る程、俺の鎧は脆くない。だが、狼は予想以上に重かった。小さい頃、犬にじゃれつかれた事は有るが、そんなものとは訳が違う。体が大きい分、重さが有る。そして、噛みついた状態から俺を引き倒そうとする脚、首も、尋常では無く力が強い。
「……っぐお、ああったぁっ!?」
持ち上げて投げ飛ばそうと、左腕に力を込めた。二の腕から肘に掛けて激痛が走る。無理に重量物を持ち上げようとして、筋がイカれてしまったらしかった。涙が出る程に痛い。零れた涙は、早々に頬の上で凍りつき始めた。
「くそ、離れろ、離れろこの雑魚、雑魚っ!!」
罵っても、狼に通じる筈は無い。
幾ら犬より大きいとは言っても、鎧を着込んだ俺よりは軽い筈だ。なのに俺は、狼に明らかに力負けしていた。揺さぶられ、幾度か倒れかける。膝までの高さが有った雪が幸運にも支えとなり、立っていられる様なものだった。
「ぉ、おおおおおああぁ!!」
そこで漸く俺は、自分が右手に構えている剣の存在を思い出した。腹一杯の空気を吐き出し、裏返った奇声を上げながら、剣を狼の背に振り下ろした。これまでなら、これで確実に殺せる筈だった。
いや、致命傷を与えたのは確かだ。俺の剣の威力はやはり凄まじいものであり、自由落下と然程変わらない速度であっても、狼の背骨に深く食い込んだ――そう、剣の速度は、自由落下と変わらない。俺は剣を振り下ろしたのではなく、構えた腕の力を抜いただけだ。
剣は、予想を超えて重かった。アイテムによるステータス補正が有るというのに、振り回せば肩が持って行かれそうな程だったのだ。
「ッグゥ、ウルルルル……ルル、ゥ……」
「っはぁ、は……ど、どうだ雑魚め、この……!」
一撃で殺せなかった相手の背から、剣を引き抜こうとする。背骨に剣は固く食い込んでいた。狼を踏みつけ、大根でも抜く様に引っ張らなければ取れなかった。
踏みつけた狼の肉、その下の骨は、とても固かった。野生動物の筋肉は人間の、それも俺の様に体を鍛えていないものとは――待て、待て、待つんだ。
何かがおかしかった。そうだ、おかしい事ばかりなのだ。
今までの俺は、狼一頭にてこずる様な男だったか? こんな狼など、片手で木に投げつけ、叩き殺せる戦士では無かったか? 雑魚的の代表例である狼など、数頭重ねて一刀両断してのける技量と力を持っているのではないのか?
いいや、俺はそんな事を出来る筈が無いし、した事が無い。俺は剣を持った事など無いし、狼に噛みつかれた事も無い。七年はまともに運動をしておらず――いや、いや、いや。
違う、この世界の俺は世界最強の剣士で、でも俺は実際に剣の振り方だって知らなくて魔法も何も使えなくて、違う俺は戦士ヴィルテン最強の男。
でも、でも、でも。だったら、今の俺はどうして――
「ぅう、うううううう……!」
――こんな狼一匹を、怖いと感じている?
「うわああああああぁ! 死ね、死ね、死ねえええ! 死んじまええええっ!」
遠からず死ぬだろう狼を、俺は何度も蹴り付けた。剣は重いから、振り上げて振り下ろす様な真似はしない。簡単に動かせる足で、踏みつける様に蹴り続けた。
何回目かで、もう死んでいただろう。だが、踏みつけた際にぴくりと動いたのが、まだ生きている様に感じられて、俺は暫く狼の死体を蹴り続けた。何かの視線を感じ、思わず顔を上げるまで。
「……ぅあ、あああ……馬鹿、有り得ないだろ……?」
気付けば森の中から、十数頭の狼が俺を観察していた。灰色の毛皮の大柄な連中のど真ん中に、真っ白の更に大きな奴が一頭。足元の狼がまだ若い未熟な固体だと、その時に気付いた。
もう、恥も外聞も意地も無い。狼共に背を向け、俺は逃げ出していた。
その結果がこのザマだ。
雪原に仰向けになり、両手は狼の牙で粉々に砕かれ、生きたまま貪り喰われている。つい先程までは痛みが有った、今はもう無い。ただ、ただ、寒かった。
「おい、なぁ、おい……聞いてるんだろ? 出て来いよ……!」
鉛色の空に向かって俺は叫んだ。俺が求めた人物は、これまでと同様に何の予兆も無く、俺の直ぐ近くに現れた。
「もしかして、呼びましたか?」
赤い髪の、天使の様な格好の女。そいつは今も、雪に足を沈める事なく、展示品の様な笑顔で立っていた。
「何なんだよこの世界、おかしいだろ!? 俺は世界最強の戦士で、俺は――」
「今更、何を言ってやがるんでございますか? 頭にウジ虫が湧いた揚句に蝿となって巣立って穴だけ残りましたか?」
俺は、この世界に俺を呼び寄せておきながら、何の力も与えなかった女を、言葉の限りに罵倒してやろうと思い、呼びつけたのだ。それが、たった二言で、決意を切り崩された。
営業用の笑顔を浮かべている癖に、その女の声は、やけにドスが利いていた。やくざ者が出るドラマなんかが有るが、それに出てくる登場人物にも劣らない程だ。
「貴方は、この世界に転生した。戦士ヴィルテンの代わりに、彼が築き上げた多大な財と装備、アイテム、知名度を受け継ぎ、最初から何もかも満たされた状態で人生を始めたのです。そこに不満が有るとでも?」
「あたりまえじゃないか! 俺は――戦士ヴィルテンは、こんなに弱い筈が無いぞ!?」
はぁ、と女は溜息をつく。俺の息は真っ白なのに、向こうには息の色が無い。きっと寒ささえ感じていないのだろう、不公平だ。
「お前はお前だろうが、このくそ甘ったれの図体ばかりでかい無能童貞がよォ? 何処かの戦士サマは強い、そりゃあ分かってるさ。だからと言って、お前が強い道理はねぇだろう!? 腹の弛んだ引きこもりが! 階段を上るだけで息を切らす豚が! 魔王や龍と互角に渡り合った戦士と、同格になれる理屈はねえだろう?」
目が据わった女は、とても服装に似つかわしくない汚い響きで俺を罵った。俺の身体的特徴ばかりか、些細なコンプレックスまでを指摘した揚句――続いた言葉は、完全に、俺の僅かな希望さえ殺してしまった。
「じゃあ……じゃあ、俺は!? 俺は、どうなるんだ!?」
「知らないよ、どうにかすれば良い。そんな立派な剣を、盾を、鎧を持ってるんだ。見張りだって、初心者どもがやるようにさぁ、仲間を呼べない距離まで誘い出して、ポーションでも使いながら削り殺せば良かったんだ。これだけ恵まれてる装備環境なら、その内、戦いにも慣れて――」
「デスペナ、デスペナは!? これ以上弱くなるとか、アイテムを取られるとか……」
女の目は、相手を憐れみ見下している人間に特有の、慈悲と高慢さを併せ持つものに代わる。は、と俺の言葉を、鼻先で笑い飛ばして言うには、
「んなもんねーよ、死ねば終わりだ。王様も奴隷も神の子も、死ねばそれまでアンコール無し。肉は獣の餌になり、武具は誰かが拾うだろう。これぞ素晴らしき世界の循環だよ」
デスペナルティを追っての復活、それさえも認められない。ここで死ねば、俺は狼の餌になるだけだという。嘘だ、信じたくなかった。どんな初心者プレイヤーだって、最初は何度か死にながらも、経験と技術を身につけて――
「大体よぉ、上等な死に方じゃね? 毎日毎日薄暗い部屋でHMD被って、カチカチカタカタやらかしてさぁ、七年も好きな事だけやって生きてきたんだ。普通の人間が費やせる時間の何倍も、娯楽って一点だけにさ?
その果てに、世界中の天才どもが努力して努力して努力しつくしてもたどり着けない、異世界冒険なんてスバラシイ体験までさせてやったんだ。お前の無能のケツ持ちなんてやってる程、私は暇じゃあないんだよ」
「頼む、帰らせろ、帰らせて――帰らせてください!」
両手を合わせて拝もうとしたが、その両手はもう、狼の胃袋に収まっていた。胸を狼に踏みつけられて、起き上がる事も出来ず、懇願する声は雪に吸い込まれて薄れていく。
「帰る? 今更どこにだい。お前はこの世界の人間から、その立場を奪い取って成り変わった。って事はだ、あっちの世界でお前の立場に、誰が居ると思う?」
「それは、ぁ――」
「そーうその通り、どんな怪物にも身一つで立ち向かう、世界最強の戦士様だ! 始まりは小さな狭い部屋かも知れないが、何せあいつは人間兵器。どんな世界のどんな国でも、自分の力だけでのし上がる。娯楽だってこの世界よりゃ、向こうの方が多いだろう。きっと毎日毎晩、良い酒飲んで女を抱いて、良い思いだけして百まで生きるんだろうねぇ……っはは、あーあ面白い」
無くなった手で、ログアウトの操作を繰り返す。メニュー画面は開かないし、当然、ボタンも一つも表示されない。
「とまあ、そういう訳で冬人くん、いやさ戦士ヴィルテン様。どうかどうかこの雪土の肥料と成り果て、春には美しい花を咲かせます様に。では!」
「いやだ、待って、いやだぁ! 何でだよ、俺は帰りたい、生きたい、死にたくない……! なあ、頼むよ、今度だけは……!」
女は、呆れた様な表情はそのままに、少しだけ諦めの様な色までも見せた。妙な既視感を覚えたが――それは、俺の母親が、俺に何度か向けた事の有る目だ。
「その言い訳、どんだけ使ってきた? 今だけ、次から変える、こう言う奴が何か改めたのを見た事が無いね。七年間、気付くチャンスは幾らでも有った筈だ……お前の生き方は、現実を生きちゃあ居ないってさ。お前の現実はこっちの世界だったんだ、だったらこっちで死ぬのがお似合いだろうが」
女は、俺に背を向けた。ああ、遠ざかる、立ち去ってしまう。あの女に見捨てられたなら、俺は本当に――
「今日から、今日から俺は変わる!! 外にだって出る、仕事も探す、だから――だから、助けてくれ! 助けてくれえええぇっ!!」
必死に、本当に死を覚悟して、俺は救いを求めた。生きて居られるなら、他に何も要らなかった。艱難辛苦の一切も、生きられるという報酬と比べれば、軽すぎるものだと思った。
気付けば、周りには狼もいないし、体の下に雪も無い――視界が暗転し、奇妙な浮遊感を味わっていた。赤い二つの光が、何時までも俺を睨み続けていた。
目を覚ますと、車の中だった。軽やかなエンジン音に、やたらとバスドラムが喧しいBGM。どちらも全く聞き覚えは無いものだ。
「……あれ、ここは……?」
「やっと起きたかい、このボンクラ。本当にお前、手足は細い癖に重いのな」
俺が寝そべっていたのは、大型自動車の後部座席。先程まで会話していた筈の声は、やたら近くから聞こえてくる。横に向けられていた体を、寝返りを打って、天井を向かせた。
「よっ、おはようさん――と言いたい所だが、もう夕方さ。さわやかな目覚めとは言い辛いだろうしねぇ」
「あんたは……あれ、ええと、え?」
俺の頭は、あの赤髪の女の膝の上に有り、女の頭はやや高い位置から俺を見下ろしていた。座る時まで、しゃんと背筋を伸ばしている女は、タバコを口に咥えて、煙を車内に充満させている。
あの、天使の様なひらひらした衣装は身につけていない。代わりに着こんでいたのは、髪と同色の、恐ろしい程に真っ赤なスーツであった。スラックスも赤、ネクタイも赤。下のシャツとネクタイピンだけが黒。右手には指輪を付けていたが、それもどうやらルビーで有る様で、赤だった。
体を起こそうとしたが、思うように動かない。何故だろうと考えたが、手足が動かせなかったからだと気付いた。
手足はまだ有るか? きっと俺の顔は、一瞬で真っ青になっていた事だろう――結論から言えば、有る。が、何かゴムチューブの様なものでグルグル巻きにされていて、全く動かせない状態になっていた。
「……ええと、なんで俺、縛られてるんだ……?」
「じたばた暴れられると困るからさ。外してやるから、もぞもぞとするのを止めてくれるかねぇ……あ、解くのめんどい」
女は、大ぶりのナイフを使って、ざっくりとゴムチューブを切った。自由に動けるようになったのはありがたいのだが、体の近くに刃物が有るのは、どうにも落ち着かない。
解放されて直ぐ、俺は体を起こして、座席にきちんと座った。膝枕というのは――相手が他の誰かなら兎も角――この女にされていると、只管に落ち着かないだけのものになる。そのまま喉にナイフを落とされるのではないかと、気が気でないのだ。
「変なツラしてるねぇ……大方、私を人殺しか何かだと思ってんだろ。まだ殺した事は無いよ」
「まだってなんだよ、まだって……」
「おお、いっちょまえの口の利き方だ。私には敬語を使え、じゃないとまたあの夢見せるよ」
「……夢? ――あ、あ……生きてる、俺、生きてる!?」
そう言われた瞬間に、ほんの数十秒前の記憶が蘇ってきた。狼どもに貪り喰われながら、雪原で果てる筈だった俺を襲う、唐突な浮遊感と暗闇。そして、そこに至るまでに経験した全ての出来事までも、僅かに遅れて一辺に、頭の中で再生される。
戦士様と持て囃され、鼻高々に街を闊歩した一日目。最低と罵られ、人格に価値を見出されていないと知られ、狼一頭さえロクに仕留められなかった二日目。これまでの人生に於いて、最悪の夢だった。
これから先、俺はことある毎に、あの夢を思い出してしまうだろう。無残な少女の死体や、手首から先が無くなった自分の腕、口元を赤く染めた狼の群れ――そんなものが永遠に、形を持った恐怖として、俺の頭にこびりつく。
「なんで、あんな事を……」
「それが私の仕事だからねぇ。週六シフトの天使様の代わりに、世のグズ共に救いを与えるのが私だよ」
「どこが救いだよ、どこが!?」
とてもじゃないが、良い体験などとは言えなかった。相手が女性で無ければ掴みかかっていたかも知れない――いや、俺にそんな度胸は無い。ただ、掴みかかりたいと一瞬だけだが、考える程度には腹が立った。
「……あんたねぇ、年収は幾らくらいになる?」
「え、ね、年収? なんでそんな事を聞くんだ……」
「敬語で話せと言ったろうが!! いいからさっさと答えな、余計な手間掛けさせて……」
「……今のペースなら、今年は450万から……500万くらいには、なる、なります」
女の剣幕に押されながらも、俺は自分の拠り所である、実際に稼ぎだす数値を示した。これは、俺が7年を経て漸く稼ぎだせるようになった金額であり、俺の努力の結晶だ。同年代の他の連中の、平均よりは余程稼いでいる筈だ。
然し、女はそれを、ガラス玉を掲げて宝石だと叫ぶ奴を見るかの様な目で嘲笑う。
「ほーう、そいつは結構結構。んで、一月の生活費と遊興費、それから課金の総額は?」
「……家賃が4万5千、食費が……一日に千5百円くらい。遊興費は殆ど使わなくて、課金は……月に、10万くらい」
「よーしよしよし、それじゃあ楽しいお勉強を始めようか。算数だ、何年ぶりだい?」
咥えていたタバコを灰皿に移して、女は両手を開き、掌を俺に見せる。指を一本一本曲げる様子は、まるで小学生に勉強を教える時のやり方の様で、また少し腹が立った。
「食費から察するに、お前は自炊はしてないね。スーパーにもいかない、コンビニで買ってると見た。それも、主食だけじゃあ無くて、飲み物だの菓子だの、余計な物を買う金額だ。動かないお前じゃ、そう腹が減る訳もないんだからねぇ……」
「ぐっ……」
図星である。片方の手で操作をしながら、もう片手でスナック菓子を摘み、ボトルのジュースを飲む。別に腹が減ってくる訳じゃなく、何か食べていると落ち着くのだ。レアな敵な湧くのを待っている間など、特に口寂しくなる。
「ってえ事は、だ。月に食費と家賃を合わせて9万、課金が10万だから……光熱費とか計算めんどくせ、合計がざっと20万。年間の生活費は240万って所だね。おーう、お大尽様ー」
「……だから、差し引きでこれからは、毎年200万以上は貯金出来る。それを、誰に文句言われる事も無い筈で――」
「まーあ待て待て、文章問題は終わってないよ冬人君。肝心なのは労働時間だ、これを考えてみようかねえ……」
収支で言うなら大きなプラスを出していると、俺の唯一にして絶対の誇りを主張しようとしたが、女はやはり聞く耳は持たない。だが――続く、極めて冷ややかな計算、岡目八目は、俺の僅かな自信さえ砕くものだった。
「お前は日に16時間、それを365日続けている訳だ。計算すると、おおざっぱだが5800時間って事になるねぇ。年収を500万として、単純に割れば時給は860円。成程、地方都市のフリーターからすりゃ垂涎物かも知れないよ。が……普通の仕事ってもんは、或る程度時間以上働いたり、深夜に出勤したりすりゃ、相応に手当ってものが付く筈なんだ。
仮に、時給700円のアルバイトだったとしようか。こいつは……ああ、12時から28時までの16時間労働をしたとする。この場合、まず最初の8時間は普通に働き、5600円を得る。分かるな?
ここから、このバイト君は残業手当をもらう事になる……ま、100円も増えれば贅沢だろう。時給800円で、22時までの2時間。1600円が増えて、合計の収入は7200円。
さーあこっから深夜手当の時間だよー。22時から29時まで所が多いだろうから、残り6時間は全部が深夜手当の適用範囲。25%増しとして、驚くなかれ時給は1000円に突入。一気に6000円も増えちゃいましたー。合計は13200円だ。
……つまりだねぇ、お前は時給700円のバイト君より、1日の収入が3000円も少ないのさ。1年で見るなら、100万円以上も損してるって訳」
深夜手当とか、残業手当とか、そんな物は体験した事が無いから、良く分からない。だが、使われている数字は明確に、俺に損失を示していた。それは分かる。
「ちなみにあんたの場合、これだけ稼げるようになったのはつい最近。最初の2年くらいはまるで駄目で、その後3年くらいは日に5000円から6000円って所だった、こいつは調べがついている。そっから考えて、これまでに稼いだ総額を、1750万としてみようか。500万が2年、250万が3年だ」
金は稼げているんだ、それは俺の拠り所の一つだった。周りが何を言おうと、確かに稼げているのだから良いじゃないか、と。
「7年間、5800時間ずつ。計算が面倒にならないように、お前の総プレイ時間は4万時間としよう。さあ、時給は幾ら?」
こんな簡単な算数なら、少し鈍った頭でも解ける。1750÷4イコール437.5。時給438円のアルバイトなんて、どこの誰が応募してくるだろう。俺だって嫌だ。
「……そーいう事。ついでに言うなら、お前が稼げなかった頃の生活費、お前は親に出してもらってた、その分を返済しようと考えた場合……ああ、もう言わせないで欲しいね、分かるだろう? 大損だよ、大損。お前は決して、勝ち組みなんかじゃあ無かったのさ」
認めざるを得ない、少し考えれば分かる様な事実。沈黙の中、車は舗装道路を真っ直ぐに走り続ける。BGMは何時の間にか、聞きなれた『ワールドクリエイター』の音楽に――『雪中行・狼の森』に切り替わっていた。
「う、ぅ、っぐ……ぅえ、ぁ……」
酷く気分が悪くなった。その音楽を聞いているだけで、俺はあのフィールドを鮮明に思い描ける。という事はつまり、俺が狼に食い殺されそうになったあの場所さえ、完全に思いだせるのだから。自分の孤独な死の現場を、他人が観察している様に思い描ける。それは、どんなグロテスクな画像より、余程吐き気を催すものだった。
「おいおい、吐くんじゃないよ。汚されたら面倒だ――おうい、まだ着かないのー?」
「もうちょっとです、師匠!」
運転席から返ってきた返事は、確かこの女の連れの少女だ。見た目が15、6の少女が車を運転している事さえ、今の俺には指摘する余力が無かった。
口を手で押さえて俯いたまま、暫くは車に揺られていた。車体がガクリと揺れる程の急ブレーキで、目的地に到着した事を知らされた。海岸線沿いの、ただの駐車場。ラインを完全に無視して、斜めに駐車が完了している。
「さ、降りな。外なら幾ら吐いても構わない――ん、まあ、新鮮な空気を吸えば気分も変わるかねぇ」
後部座席のドアが開かれ、赤髪の女が社外に出る。その後に続いて気付いたが、この女は靴まで赤で統一していた。
何もかもが赤い、目への優しさが皆無の背を、俺は追う。どこへ行くのだろうか、何も聞かされていない。あの少女は車内に残る様だし、寒くなってきた時期であった為、海で遊ぼうという者もいない。砂浜には、俺達以外には、海鳥の気配しか存在しなかった。
「この辺りでいいかねぇ……ま、座んな。砂の上でも岩の上でも」
椅子の用意されていない浜辺で、海に張り出した岩に、女は胡坐を掻いた。おれも同様に、彼女に向かい合って座る。
「……実はねえ、私がお前をこうして引きずり出したのは、お前のかーちゃんの依頼なのさ」
「か――母さんが、ええ!?」
「息子が大学もやめて、何年もゲームだけやってりゃあ、そりゃ心配にもなるってもんだろうからねぇ。なけなしの金を集めて、そりゃもう見ちゃいられない程に頭を下げて這いつくばって……そうまでされちゃ、働かずには居られないさ」
母さんが、頭を下げて――その光景が、俺にはすんなりと想像できなかった。母さんの顔さえ、鮮明に思い出すのに、暫く時間が掛かった。優しくもなく、厳しくもなく、そこになんとなく居るだけの様な母親――それでも、俺を大学に行かせて、中退を決めた時も引き留めはしなかった。俺がやりたいと思った事を、全てやらせてくれた母親。
その代わりに母さんは、俺がやりたくないと思った事は、全くやらせようとしなかった。宿題もそうだ、習い事もそうだ、外に出るという単純な行動さえもそうだ。『ワールドクリエイター』だけやり続けていれば良かった俺は、その温さが心地好くて、したくない事は何もしなかった。
だから、俺がやりたいと思っていた事を、金を誰かに払ってまで止めようとする母さんの姿が、まるで思い浮かばないのだ。
「……母さんが。そうですか、かあさんが……は、ははは……」
然し、絵が浮かばなくても、一つ、分かる事がある。間接的にだが、俺はもしかしたら生まれて初めて、母さんに怒鳴りつけられたのかも知れない。自分が無能で無価値で、貴重な時間を浪費してきた存在だと、口汚く罵られたのかも知れない。
「頃合いかねぇ……おお、今日は晴れてる、最高だ。なあ、冬人」
「……なんですか? って、ちょちょ……掴まないでくださいって」
乾いた笑いを上げる俺の顔を、女はがしとわしづかみにした。力がそこまで有る訳ではないのだが、振りほどいて良いものか、と悩む。女の手は、俺の顔を無理やり右側――海の、水平線の方へと向けた。
「――ぁ」
俺は、日本海側の浜辺に居たらしい。岩の上から見た海は、百八十度、何の遮蔽物も無く、茜色に染まっていた。雲の合間を飛ぶ海鳥は、黒い影と成り、揺らめく海面に映る。寄せては返す波の飛沫は、ざあ、と耳に心地好い。丸い夕日は、今この瞬間、海の向こうへと消えていくさなかだった。
「解像度もfpsも無限大の夕焼けだ、綺麗なもんだねぇ。7年も引きこもってたお前じゃ、こんなもんは見た事無いだろう? ただの無能のお前だって、これが分かる感性は持ってると信じたいよ」
女の言葉、母の思いは、堪らなく悔しいし、屈辱的だ。自分の全てを否定され、7年という時間を無駄だったとされた。なのに――なのに、嬉しくて堪らない。
頬を涙が伝っていた。拭う事も忘れて、瞬きも惜しんで、太陽が水平線の向こうへと行ってしまう様を見ていた。視界はぐしゃぐしゃに滲んでいるし、それと同じくらい、俺の顔もぐしゃぐしゃになっていた筈だ。
ゴミの様な街並みに辟易して、退屈な日常に倦んで、俺は『ワールドクリエイター』に没頭した。あの世界は刺激的で、絵画の様な風景に満ちていた。
でも、こんな美しい景色を、俺は見たことが無かった。海風の潮臭さも、岩に座る尻の痛さも、靴に入った砂のざらつきも、そして夕日が目を刺す痛みさえ、全てが美しかった。
「……いらなかったんだ、なにも……」
夢に浸る為の仰々しい装置も、1時間置きに目覚める為のアラームも、柔らかい椅子も何も要らない。世界はただ、在るがままに美しかった。
「なぁ、冬人。このタイミングで、本当に申し訳ないんだがねぇ……ちょい、ちょい」
「……ん、なんですか……?」
日が海の向こうに消えて、夜が忍び寄って来る。うっすらと肌寒さを感じ始めた頃に、女に肩を叩かれた。涙を拭い、鼻水を啜り、最低限見られる顔を作って振り向いた。
「はいこれ、請求書。お前のかーちゃんに渡して」
差し出されたのは、小学校なんかで配布されていそうな、質の悪い1枚のA4用紙。大雑把に、これまた赤いインクで、呪いの手紙を思わせる乱筆が踊っていた。
項目は、女の言うとおり、請求書であるらしい。調査費用だの交通費だの、とにかく雑多な項目がずらりと並んでいる――が、最後の項目を見た瞬間、俺の感動は一気にどこかへ引っ込んだ。
「……サービス料、一千万也――は、はああぁ!?」
「私みたいな美人の膝枕で8時間も寝てたんだ。1時間100万円、それに長時間拘束の追加料金。妥当な請求だろう?」
「ば、馬鹿っ、こんな金を払える訳――」
払える訳が無いだろう。貧乏ではなくとも、裕福でも無い家計だ。知人や親戚に金持ちが居る訳じゃなし、どう転がってもそんな大金は生まれてこない。
「払えない、ってかい? それは困ったねぇ、私も慈善事業をしてる訳じゃないんだ。どうしてもって言うなら、別な形で払ってもらうしかない……まあ、目玉とか? 腎臓とか? 皮膚も結構使い道は有るし? もしくは――」
「そ、そんな悪徳借金取りみたいな……!」
片方無くても生きて居られるから大丈夫とか、そういう問題ではない。確かに、生きて居られるならそれだけでいいとは願ったが、内臓を持っていかれるなんて御免だ。女から逃れるように後ずさった俺だが、直ぐに片腕を掴まれる。そして女は、ぐうと身を乗り出して、
「――もしくは、お前のアカウントを私に売るか、だ」
これ以上無くむかつく程に清々しい笑顔を、俺に見せた。
「あ……あんた、もしかして最初っから……」
「アッハッハッハッハ、そりゃそうさぁ! まーさかお前の家みたいな所から、何百万も引きずり出せる訳無いだろう? お前があれだけの廃人っぷりを見せてなきゃ、そもそも仕事を蹴ってたってーの!
いやまあ、いい取引だと思うよ、うん。マイナス1千万を抱えたベリーベリーハードで人生を始めるか、100万と就職先をゲットしたイージーモードで人生を始めるか、それだけの選択肢だもの。私なら、迷う事なんて無いけどなぁ……」
「ったははは……ひでえ、あんたひでえ!」
俺のアカウントは、世の金持ち廃人ゲーマーがこぞって欲しがる、超高額の商品だ。売ろうとしてこなかったから値段の見積もりは無いが、強化値をカンストした武器を50本も売れば、100万なんて直ぐに稼げる筈。
つまりは、最初からそれが目的で、この女は俺を外へ引きずり出した。仕事を達成したという成果を作って、取り立てに正当性を持たせた。法に訴えれば勝てそうなやり方では有るが、それを選択した時に、どんな報復が在るか分かったもんじゃない。
女が、指をパチンと鋭く打ち鳴らす。女の人差し指に炎が灯り、取り出したタバコに火を着けた。あまりに突然の事で――更に言えば、あんな夢を見せられた事も有って――俺はその光景に、なんら疑問を抱かなかった。
「ジュリア=ファイネスト、ファイネスト天使代行業社長さ。これからは私を社長と呼びな。なあに、世界は面白いもんさ、こういう不思議も転がってるしねぇ」
「……了解です、社長」
タバコの煙を顔に吹き付けられながら、俺は頭を下げる。否と答える事は、請求書の赤文字が、彼女の赤目が、異様な重圧を放っていて、とても叶わなかった。
あれから数カ月。俺はジュリア社長の下で、『魔術師』の見習いなどという事をやらされている。
この科学全盛の時代、魔術なんて物が存在する事さえ俺は知らなかった。社長が言うには、世界にはまだ数千も数万も、魔術師という輩は存在するらしい――が、あまり表に出ないように各人が尽力する事で、一般人には存在を知られていないのだとか。
あの日、俺が悪夢を見させられたのも、社長がタバコに火を付けたのも、その魔術とやらの一端らしい。俺も修行の成果で、1分も有れば金属製スプーンを、ぐにゃぐにゃに曲げる事が出来るようになっていた。
魔術の勉強時間はきっかり8時間、うち半分は社長の講義で、半分は自分一人でも出来る基礎修練。睡眠時間は6時間も有れば足りる体になってしまっているので、残り10時間を、食事や仕事などに割り振る。
とは言っても、仕事なんて、そうたいしたものではない。社長お手製特殊モニタの前に座り、『ワールドクリエイター』のBOTを走りまわらせ、情報を集めるというだけの事だ。
本来ならHMDで無ければ見られない筈の画面を、平面のモニタに強制的に映し、数台を同時に監視する。面白そうな会話が聞こえてくれば、その会話のログを採集し、社長の助手の少女――そう言えば、まだ名前を知らない――に渡す。すると彼女がログを分析し、儲け話を探してくると言う訳だ。
最初の内は、どういう会話を集めればよいのか分からなかった。だが、その内に少しずつ理解してくる。あまりゲームに慣れておらず全体チャットで叫びまくる初心者、人数を集める事こそ至上と思い込むギルドのトップ、サーバー内では有名な廃プレイヤー。そういう連中の近くでは、金が動きそうな話題が有ったり、現実の生活が窺えそうな話題が有ったり、或いはプレイヤー同士の揉め事が有ったりと賑やかである。
BOTには、戦闘行為は一切させていないし、アイテム採集もさせない。ただ走らせ、会話を集めさせるのみ。仮に武力が必要になったら――その時は俺のアカウント、『wirten』が出動する。
あの日から俺は、このゲームを殆どプレイしていない。自由時間にログインしてみた事も何度か在るが、気が乗らない。街で宿の娘を見る度、クエストの張り紙を閲覧する度、雪原の狼達の記憶が蘇るのだ。あれ程に恋い焦がれた大地は、俺のトラウマとして、しつこく心に張り付いていた。
それでも、フィールドBGMを聞くだけで吐き気を催す様な、極端な状態にはない。ただ、これまでが狂ったように熱中していただけに、普通に戻る事さえ、異常に感じられているのかも知れない。
「……うっし、こんな所か……時間だな」
会話の採集は、社長助手の分析が追いつく程度にしなければならない。そうなると、仕事の間に何回か、比較的纏まった時間が出来る。そんな時、俺は、近所を軽く走りに行くのだ。体力が無ければ魔術師は務まらないという、社長の方針も理由である。
ファイネスト天使代行業の事務所は、場所は言えないが、どちらかと言えば太平洋側にある。太陽は山に沈み、山から昇ってくる。茜色に染まる海など、見るべくもない。
だが、季節に併せて移り変わる風景は、それはそれで心安らぐものだ。最近は道端に花も増えて、蝶などもひらひらと飛びまわるようになってきた。今日はうららかな小春日和、風は丁度、追い風だ。
「よーう、今日も労働御苦労、出来の悪い弟子君。タイムの伸びが悪い様だねぇ?」
「いや、これでも最初に比べればかなり良くなった方で……」
後ろから声がした――かと思えば、となりに声の主が移動した。赤ジャージに赤運動靴という、これまた派手な格好をした社長である。喫煙者の癖に恐ろしく体力がある様で、息も乱さずに喋っている。
「そういやさ、次の依頼が舞い込んだよ。結構な金額だ、こいつは完全に――つまり、要求された倍の結果を出して、3倍の金はせしめたい」
「あくどい、実にあくどい……もう少し手心加えて上げたらどうですか?」
俺自身も、自分で決めたペースでなら、支障なく会話は出来る程度に、体力は付いてきていた。まだ腹の肉は落ち切らないが、体は随分軽くなったように思う。
「それがさぁ、そーいう訳にもいかんのよ。依頼主はちょっとした会社の社長で、ターゲットはそのボンボン。『kaiza-』ってプレイヤー、知らない?」
「ああ、俺の鯖の……課金額が半端無くて、取り巻きの女キャラまできらきらさせてた奴でしたっけ。そっか、ボンボンだったのか……」
最近のプレイヤー事情は、会話ログを追うという仕事柄、かなり広く理解している。そう言う、いわば侮蔑混じりに話題にされる様なプレイヤーなら尚更だ。
「まずはゲーム内で、取り巻きをお前が奪え。現金は50万まで使っていい、どうせ向こうに請求するんだからねえ」
「貢ぎまくって、取り巻きをこっちに引っぺがせって事ですか? 『virten』でそれをやるのは拙いな……」
「ダミーアカウントはもう作ってあるよ。登録1カ月、ログインだけして放置して、プレイ時間は廃人級。課金と、それからアイテム譲渡を使って、ダミーを金キラに飾ってやりな」
社長の『廃人潰し』のやり方は、まずその居場所を切り崩す所から始まる。酷い時など、所属100人規模のギルドから30人程を買収し、内紛を引き起こして解体した事も有る――狙いは、ギルドリーダーただ1人だった。
が、今回は、それでは済まないらしい。「まず」と言った以上、もう1枚の札が在る。
「……で、社長は何時も通りに?」
「中学生の餓鬼だっていうしさー、今度はサキュバス風で行こうと思うのよ」
処女の血を媒介とした、超強力な幻術。五感の全てをジャックし、外部からの刺激で、思うように幻覚を展開させる。それが夢であるとは気付く事が出来ず、快感も苦痛も感じるが、決してその中で死ぬ事は無い。俺が見た世界も、それだ。
やけに楽しそうな社長の顔を見る限り、カイザー君とやらは、きっと巨大なトラウマを抱える事になるのだろう。女性恐怖症に陥らなければ良いが――と、余計な心配をしてしまう。
仮想現実の希薄な人間関係に溺れるくらいなら、少々のトラウマを抱いて現実に生きる方が良い。この世界、龍は見た事は無いが、魔術師は俺の隣に居る。レンガ作りの建物だって、海の向こうには幾らでも在る。地平線までの雪原だって、天を突く山脈だって、何処かには存在しているのだ――ただ、俺が知らないだけで。
「本当に社長、悪魔みたいですよね」
「天使様よ、天使さま。働かない神、週六シフトの天使、そして年中無休の私とお前。おーお、かくて幾何時を経たもうや」
廃人撲滅天使代行、開業時間は社長の気分次第。営業妨害にならない範囲で、ひっそり事務所を構えています。