烏が鳴くから
帰りましょ

五日目

 早朝、日が昇り始めた頃には、既にアリスは居間のソファに座っていた。
 時間としては、決して早くは無い。何せ冬であるから、空が明るくなる頃には、新聞は郵便受けに収まっている。
 普段より幾らか事故の記事が多い朝刊――それを読みながら、アリスはパックの紅茶を啜っていた。
 既に教科書類は鞄に詰め終わり、制服には袖を通し、コートは暖炉の直ぐ傍に吊るしてある。登校の用意は完全に整っていた。

「おはよー……あんた寝てないの?」

「二時間前まで横で寝てたわよ。おはよう霊夢、寝顔は険が無いわね」

「気持ち悪い事言うな」

 欠伸を噛み殺しながらも、霊夢は借りていたパジャマをアリスに投げつけた。
 こちらも既に着替えは済んでいるが、まだ体温が上がっていないためか、両手を互い違いに袖に押し込んでいる。

「寝不足は心配なさそうね、直ぐに出る?」

「ごはんくらい食べさせなさいよ、私が作ってもいいから」

 厚かましい事を言いながら、霊夢は西洋風のキッチンに入って行く。暫くガサガサと何かを探す物音が続いて――

「……あんた、何を食べて生きてんのよ」

「霞と雨露と隅っこの埃。右手の下の棚にクッキーの残りが有るわよ」

 めぼしい食糧を見つけられず、霊夢は溜息を零した。
 雪が多くなった場合、アリスは、食糧の買い出しを怠ける事が多くなる。どうせ食べずとも問題は無いのだから、面倒ならば買いに行かずとも良いのだ。
 アーチャーが同居人になってからも、サーヴァントに食事の必然性は無い為、結局食生活は変わらずじまいだったのだが――

「あんた、随分貧しい暮らししてるのね。住居費用に注ぎ込み過ぎなんじゃないの?」

「クッキー貪りながら人の家計を心配しないでもいいのよ、霊夢。早めに出て購買でパンでも買って頂戴」

 優雅に足を組み紅茶を楽しむアリスと対照的に、フローリングに胡坐を掻いてクッキーを貪る霊夢。
 境遇の格差を感じて、霊夢は湯気の立つ紅茶のカップを――自然、アリスの口元を眺めた。

 人形の様な、という感想は、きっとありきたりで陳腐だろう。だが霊夢には、その言葉が何よりもしっくり来るものだった。
 誰が作ったのかと最初に思ってしまう程――つまり、自然に構成されたとは思えない程、計算されつくした顎のライン。
 口を閉じている時、開いている時、動作している時、三様に異なって見えて、何れも美しく映える。
 紅茶を喉へ注ぐ為、くくと喉を反らした時など、肌の白さも相まって、大理石の彫像にさえ見えた。
 新聞記事を追う目は翡翠。長い睫毛に守られて、大きな瞳が左右へ――

「――――……ん? アリス、あんた……?」

 唐突に湧き出た違和感。霊夢は空になったクッキー缶を放り出し、ソファまで近づいて、アリスの顔を覗き込んだ。

「ん? 何か付いてたかしら、目鼻以外で」

「付いてる目が気になったのよ」

 霊夢は、ここ数日の記憶を手繰った。アリスとの接触が増えたのは、ここ数日の事だから断言は出来ないのだが――目の色が、違う気がする。
 比喩的な意味では無く、言葉通りの意味。霊夢の記憶が正しければ、アリスは青い目をしていた筈なのだ。
 それを意識させられた機会は二度。一度は彼女が指に包帯を巻き、自分も参戦すると宣言した時。そしてもう一度は、彼女が黒衣の影に叩き潰され〝壊された〟時――

「……あー、嫌な事思い出した」

 なまじ原型を保っているだけに、誰であるかがはっきりと分かる死体――いや、死体未満の肉体。早朝に思いだして、気分が良いものでは全くない。
 辟易した表情を隠しもしない霊夢に対して、アリスは新聞から視線を上げ、きょとんとした顔をしてみせた。

「橋姫にトラウマでも? だったら色は変えておくわ、〝夜王の紅(スカーレッツ・スカーレット)〟で良いかしら」

「変えるって、やっぱりカラコンなの?」

「いいえ、戯れ。『Assemble.』」

 単言、己のみに強く意味を持つワードの詠唱。静かな発光の後、アリスの両目は、ルビーの様な赤色に変わっていた。

「え……何これ、凄い。どういうタネの手品……いや、魔術?」

 目の前で起こった不思議な出来事に、霊夢は思わず身を乗り出す。元々、瞳の色を観察しようとしていた所でそうした訳だから、危うく額がぶつかりそうだった。

「簡単なものよ。眼球の一部分だけ、反射させる光を限定するの。全部限定すれば墨になるし、強めに絞っただけなら貴女みたいな鳶色ね。
 博麗の術とは形式が違うだろうけれど、多分貴女だったら、数十分も有れば覚えちゃうんじゃないかしら?」

「はえー、魔術師って便利ねぇ……こりゃ変装とか楽だわ」

 翡翠から紅玉へ、色を変えた瞳を、霊夢はまじまじと眺めていた。本物の宝石の様にカットは施されていないが、然し窓に差し込む日光を跳ね返し、輝く緋色はまさにルビー。
 普段の青は理知的で、今朝の翡翠色は穏やかに優しかった。然し今の緋色は、人格を主張するのではなく、只管に外見を誇る傲慢さが有る。
 己の美しさを知り、それを魅せつけているかの様に、存在の強い赤色。事実彼女は――否定出来ぬ程、美しかった。
 鼻の先にアリスの体温を感じる程の至近距離、霊夢は止むを得ず認める。この顔を眺めていると飽きが来ない、と。
 アリス・マーガトロイドの居る光景は、完成された一枚の絵の様だ。彼女が表情に乏しい事が、その錯覚に拍車を掛ける。
 知らず霊夢は、アリスの目を――絵の主役をもっと良く見ようと、腰を軽く曲げて、頭を更に彼女へ近づけた。
 もはや、瞬きの際に睫毛が僅かに濡れる、その様子さえ見てとれるというのに、霊夢はまるで満足しようとせず――

「おや、朝から仲良しで良い事だな。夜にやってくれればもっと良いんだが」

「個人の嗜好をとやかく言う趣味は無いけど、無防備なのは頂けませんわ。……なにやってんのよもう」

 背後からのサーヴァントの声二つで、弾かれた様に背筋を伸ばした。

「セイバー、動いて大丈夫なの?」

 昨夜、瀕死の重症を負った筈のセイバーは、今はすっかり血色の良い顔をしていた。
 無論、万全ではない。マスターである霊夢には、セイバーがまだ、多量の魔力を、負傷の治癒に注いでいる事が感じ取れる。

「お陰さまで、お腹ぺこぺこだけど痛みは無いわ――お腹一杯ではありますけれど」

「人の恋路にとやかくは言わんが、非生産的だぞ同性愛は」

 アサシンの毒にやられているアーチャー共々、このサーヴァント達は、霊夢を冷やかして楽しもうと企んでいる。
 無事に安堵するやら気恥ずかしいやらで、霊夢は拳骨をこさえながら答えた。

「恋愛は第三次産業だし、私はそういう主義じゃないの。それよりも、あんた達はもう戦えるの?」

「一から育む所は第一次産業ではないかしら。正直まだまだ腕が重いわね」

「いやいや加工も必要だろう、関係性とは刻一刻変化して行くもんで――あ、私はあと二日欲しい」

 サーヴァントの恋愛談議も珍しいが、霊夢が聞きたいのはそこではない。重要な情報だけ意識に入れ、どうしたものかと考え込む。
 折良く今日は金曜日。放課後から明日、明後日と、束縛されることなく活動出来る日だ。
 可能で有るならば、二日の間に一つの陣営だけでも捕捉し――あわよくば、潰してしまいたい。
 当初の予想を超えて厄介な敵ばかりのこの戦争を、霊夢は一刻も早く終わらせたがっているのだ。

「アーチャーの説に賛成ね。あるがままの感情を加工するのだから、恋愛は第二次産業よ」

 が――何故か、アリスもまた、がっしりと話題に食いついてきた。

「へー、ほー、ふーん。仏頂面してあんた、そーいうのも興味有るんだ?」

 これ幸いと霊夢は、被害者役をアリスに押し付ける。
 面倒な役目は他人に任せ、自分は思考に専念しようという打算が半分。残り半分はやはり好奇心が原因である。

「あんたが恋愛語るとか予想外ね。何よ何、どんなのが好みなのよ?」

「あらん、霊夢ったら野暮ね。いたいけな少女に異性の好みを聞くなんて……で、どうなのかしら?」

 セイバーまで、一度止める振りはしつつも便乗する。
 色恋沙汰は何時の世も、女子の話題の最たる物であるのだ。

「好み……? うーん、そうねぇ」

 然して、アリス・マーガトロイドは――

「一に内面、二に外見。性別はどうでもいいかしら」

「……はい?」

 ――生半な相手ではなかったのである。

「内面が優れている事は最大の前提として、外見と内面の調和は重要よ。顔と精神にギャップは求めないわ。
 期待されている方向に、期待以上の美を。それさえ達成できているなら、性器の形質の差異なんてどうでも良くないかしら?」

 新聞を折りたたみ、紅茶のカップをテーブルに置き、アリスは立ち上がって背伸びをする。
 自分が発した言葉に、きっと彼女は、一片たりと違和を見出していないだろう。自分の思考は正常なものだと確信しているだろう。
 実際のところ、恋愛感情が他社の人格に対して抱くものであるとするならば、確かに性別は恋愛に関係無いのかも知れない。
 そういう言い訳は出来るにせよ、アリスが当然のように口にした言葉は、霊夢とセイバーの思考を暫しフリーズさせた。

「……あんたって、本当にアレよね。え、なに、本気?」

「本気になる程、恋愛に価値は見出さないけれど。ところで朝食はいいの?」

 コートを羽織り、紅茶のカップを洗い場に運ぶアリス。早くも登校の用意は整っているらしい。
 その背にどう声を掛けていいか分からず硬直する霊夢に、アーチャーが苦笑しつつ肩を叩いた。

「まあ、アレだな、うん。だから私はとやかく言わん。お前もとやかく言わないでやってくれよ」

「言わないけど、言わないけれど、少し先行きが不安になった」

 朝から何とも言えぬ疲労を感じ――代わりに、空腹は忘れた霊夢。
 結局はクッキーをいくらか頬張った程度で、雪道を掻き分け通学するのであった。



 金曜日の校舎は、明日への希望に満ち満ちて、中々に明るい雰囲気を保っていた。
 体調不良などを起こしている生徒もあまり見受けられず、外から覗き込んでいるだけならば、この校舎が戦場に成り得るなどとは思えない。
 それ程に平和な空気の中、ちょうど頃合いは昼休みである。

「それで、何処から調べる算段にする?」

「どーしようかしらねぇ。直感で行く?」

 霊夢とアリスは、教室の隅に余っている机を挟み、昼食を取りながら相談していた。
 どうせ昼休み、あまり聞く耳立てる者もいないが、その上で重要な語句は暈しての会話。聞かれても然程困る事は無い。
 霊体化したセイバーは常に傍に控えているし、アーチャーは校舎を歩き回っているが、いざとなれば直ぐに戻ってくるだろう。
 寧ろ人目が多いだけ、襲撃を受ける危険も低く――少なくとも、霊夢はそう考えている。

「まず古明地よね、怪しいの」

「そうね、一年生の古明地さとり。そう多い苗字でも無いし……少なくともこの学校には、彼女しか居ないわ」

 そして二人が何を相談しているかと言うと、残りのマスターを炙り出す算段である。
 自分達を差し引いた5の陣営の内、確認出来ているサーヴァントは四体――だが、マスターは一人だけ。
 その一人も顔と名前が分かっているだけだし、一陣営に至っては影も形も見ていない。

「……やっぱり、私達も別行動した方がいいのかしら」

 アリスは、指を組み合わせた上に顎を乗せ、ほうと溜息を吐きながら言った。
 逆に考えると、霊夢とアリスの二人は、少なくとも既に四陣営に存在を知られている。
 彼我になぜこうも情報の格差が有るのか――やはり行動の指針が原因だろう。
 日常生活は崩すまいという霊夢の指針は、必然、外出をせざるを得なくなる。
 外出時、サーヴァントを連れ歩かない方策はない。さもなくば二人は忽ちに、骸を路上に晒すだろう。サーヴァントからの奇襲に霊夢とアリスだけでは、瞬き一つの間も持ちこたえられない。
 その上に霊夢達は、自分から相手陣営を探して歩き回るのだから、どうしても自分がマスターだと喧伝する事になる。サーヴァントを引き連れ歩く人間を見て、誰がマスターでないと考えるだろうか。

「そりゃ無いわね。引き籠りはごめんよ、私はアウトドア派なの」

 アリスの提案を、霊夢はあっさりと蹴り飛ばした。
 サーヴァントと行動を別にするならば、確かにマスターは何処かへ隠れ潜む必要がある。が――その場所を、霊夢達は確保出来ていない。

「結局さぁ、今まで通りしかないんじゃない? 夜にうろついて、偶然見つけたら仕留めて。非効率的だけど、その内向こうも動くでしょ」

「危険ばかり嵩む案だと思うわ、賛同しづらいわね。それだったらまだ、何処かに隠れて待つ方が――」

「その場所が無い、ってのが問題なのよ」

 方針は、未だに纏まりそうも無かった。
 一時休憩として、昼食の接種に専念する。朝食が限りなく質素だった為、霊夢はやや多めにパンを買い込んでいた。
 ごってりと餡子にマーガリンを混ぜ込んだ『あんバタ』や、油たっぷりの『揚げドーナツ』、そして口の周りを汚す事確実な『シュガーバタートースト』。
 コンビニで買うよりは余程安いのだから、多少の贅沢も目を瞑って良いだろうと、霊夢はそんな風に考えていた。

「……バターとマーガリンで油が被ってない?」

「良いのよ、油を入れなきゃ車は走らないの」

 だから、味の偏りにも目を瞑る。
 今はとにかく腹を満たして、一秒でも長く歩き回れる様にしておきたい。美食よりカロリーの、これもまた合理的思考であった。

「お前はガソリンよりもシャフトグリスが必要だろ、博麗の。だからガソリンは私にくれないか」

 そんな思考を妨げる様に、鼻をひくつかせながら寄ってきたのは、犬走椛である。

「私はせいぜい二輪車って事?」

「カクカクしすぎだから滑らかになれって事。夜更かしと悪巧みの相談か?」

「盗み聞きは関心しないわよ」

 実際の所、声量が少し大きすぎたきらいは有る。指摘されて初めて気づき、霊夢はつんとした口調で答えた。
 鼻だけでなく耳まで良く出来ているのか、結構な距離は有った筈だが、会話の大半は聞かれていたらしい。

「夜遊びの相談も関心しないな。なんだなんだ、何処へ行くつもりなんだ? 夜の街に繰り出すのか?」

「発想がおかしいわよ、あんた。もうちょっと健康的な発想しなさいよ」

「これ以上無い程に健全だと思うが。学生の夜遊びなんて、せいぜいが市街地で屯するくらいのものだろう」

 近くの空席の椅子を引き、椛はちゃっかりと会話の輪に紛れ込んで来る。何時もの事ではあるので、霊夢は飽きれながらも、邪見に扱う事はしなかった。

「で、古明地がどうしたって? あいつもあれで、色々と噂を聞く奴だけど」

「どうもしないっての、本当にあんたは何時も――ん?」

 他愛ない噂話は、休憩時間の花である。今日も所詮、その程度の話題だと霊夢は思っていた。
 だが、椛が持ち込んだ話題が、よりにもよって自分達が一番知りたい相手の話題(かもしれない)と聞けば、黙っては居られない。

「……聞いてあげるわよ、喋りたいんでしょ?」

「横柄な奴め、噛みついてやるぞ」

 ギザギザの牙を剥き出しにして、がちんと打ち合わせ――それから椅子に深く腰掛け、椛は声も潜めず語り始めた。
 古明地さとりは、交友関係の狭い後輩である。つるむ相手と言えば河城にとり程度のもので、同級生に殆ど友人が居ない――と言うよりも、自ら人を避けているきらいが有る。
 例えば、クラスメイトに遊びに誘われたとしても、彼女はまず応と答えない。学校が終了すれば家に直帰するし、その家が何処にあるかさえ、知っている者は少ないのだ。

「良く夜に出歩いてる奴らから聞いたらしいんだけど、古明地がこっそりと夜歩きしてるのを見たらしいんだな。
 あんまり楽しげに歩いてたもんだから、声を掛けようか迷ってる間に行ってしまった……って事らしいけど。
 だから本当の所、本人かどうかは確認出来てないらしいんだが――」

「らしい、が多すぎるわよ」

「仕方ないだろう、又聞きなんだから。で、そこからがちょっと怖い話だ。
 古明地は薄暗い路地から出てきたそうなんだけど、屯してた連中、ちょっとその路地を覗き込んだらしいんだな。
 ……別に、何かが居た訳じゃない。居た訳じゃないんだが――そいつら、次の日から揃って三日寝込んだ」

 霊夢は露骨に訝しむ顔をし、アリスは片方の眉をぴくりと動かすだけに留める。何れにせよ、興味深い話ではあった。

「種を明かすと、酷い風邪だったらしいけどな。気怠さが凄くて体が重くて、熱は低いのにろくに動けない。
 医者に診せたら、喉とか鼻の中とか、かなり爛れてたっていう風に聞いてるよ」

「……ぞっとしない話ね」

 だろう? と同意を求める椛は、耳も尻尾も垂れ下がっていた。怖いもの無しの椛ではあるが、形の無い存在は苦手らしい。
 怪談話を楽しむ女学生、そんな形容が相応しい表情に、霊夢は何時の間にか笑いを零していた。

「そんな訳だから、あの古明地には近づかない方が良いかも知れないぞ? だってほら、その、祟られたりしたら嫌だろう。
 君子危うきに近寄らず、そっとしとくのが賢い賢い……ってな」

 小さく身震いしてから、椛は椅子を足で押しのけるように立ち上がる。

「どっか行くの?」

「お前を見てたら私も腹が減った、パン買ってくる」

「あ、ちょっと」

 懐に手を入れ財布を探す椛。その肩を霊夢が叩いて呼び止めた。

「行くならその前に、その話を誰に聞いたか言って行きなさいよ」

「一年のリグル・ナイトバグだよ。今日は珍しく一人で登校しててな、途中からちょっと付き合ったら聞いた。
 良く走りこんでるよな、お前もたまには陸部に顔出してやれ」

 答えは簡略に。椛はそれだけ告げると、やや速足で歩き始める。購買のパンは無限では無いのだ。
 取り残された霊夢とアリスは、顔を見合わせて暫く押し黙り、

「……あんたはどうする?」

「今回は見、貴女に任せるわ」

 リスクの分散で、意見の一致を見た。
 有体に言えば――どうにも、胡散臭かったのだ。








 放課後。霊夢はセイバーを引き連れて、さっさと家に帰ってしまった。
 マスター探しをしたい気持ちはあるだろうけれど、今のセイバーの状態では、とても戦闘なんて出来ない。夜に奇襲を受けない様にと祈りながら、回復を待つしか無い筈だ。
 が――それは私も同じことだったりする。

「そろそろ治らないの?」

「無理だなー、どうやってもあと三日欲しい」

 授業から解放された私は、学生服を着たアーチャー、偽名北白河ちゆりと共に街を歩いていた。

「しかし、どうだアリス? やっぱり学生になっといて良かっただろ。怪しまれないもんな」

「そうかしら……まあ、否定はしないけれども」
 
 確かに傍から見る分には、ただの学生同士の交友に――見える、のだろうか?
 実際に同級生なのは間違いない。然しながら身長は、小学生と高校生程の差が――数値にすれば20cm近くの差が有る。自分が現代っ子なのだと自覚した。

「いやまあ、そこはどうでも良いのよ。肝心なのは」

「治すには、だろ。分かってる、分かってるってば」

 それはさておき、現状は正直な所、逼迫している訳でも無いが芳しくない。
 正直に言えば、少し拍子抜けしている。何せマスターを直接殺害しようというサーヴァントは、あの一件以来お目にかかっていないのだから。
 だが、仮に狙われた場合、果たして自分が無事に切り抜けられるのか――贔屓目に見て、かなり難しい筈なのだ。

「……貴女、思った程強くないわよね」

「言ってくれるな、私は人間だったんだぜ。あと魔力不足が否めない」

 ここまでに遭遇したサーヴァント――セイバー、アサシン、褪色の狂霊に漆黒の影、この中でアーチャーが勝利出来るのはどれだろう?
 セイバーと狂霊の二者は、恐らく一対一では問題外。懐に飛び込まれた瞬間、アーチャーはバラバラに引き裂かれかねないのだから、勝利には少なくとも数kmの間合いが必要になる。
 あの漆黒の影には――不意打ち気味に一矢報いはした。が、手の内が割れた状態で正面から戦えば、相当の不利は否めない。アーチャーの得意とする遠距離戦闘も、あの速度の前にはほぼ無意味となるだろう。
 そうなると、勝ちの目が見えるのはアサシンだけだ。あれとは既に一度戦闘し、アーチャーも相手の札を幾つか見ている。
 元々の戦闘力に劣るアサシン以外、どれ一つとして勝てそうにないと言うのは、中々気の重い事だ。

「はーぁ」

「溜息吐くな、幸せが逃げるぞ」

「幸せは逃げないわ、歩けないもの」

「いやいや、あいつらは軽いからそよ風で吹っ飛ぶんだ」

 本当に他愛ない会話をしながら、雪掻きの施された歩道を歩く。見た目だけは平和である。
 けれども私は、この減らず口のサーヴァントにどういう感情を抱けばいいのか、それを考えるのに忙しく、平和を堪能しては居られなかった。
 アーチャー――霧雨魔理沙は、無能でも愚かでも無い。知恵も知識も度胸も有り、発想を形にする実行力もある。アサシンとの戦闘の折りに見た横顔は、小さな体に似合わず、歴戦の戦士染みた風貌だった。
 強さ、相性という面で見れば、確かにこの聖杯戦争に於いて、このアーチャーは強者と言い難い。だが、彼女と共に戦うならば、或いは私は命を保ち、この戦争を切り抜けられるかも知れない、と思うのだ。
 ――そう、〝かも知れない〟なんて、そんな程度に。
 別に、死にたい訳ではない。が、生き延びなければならない理由も、良く良く考えれば見つけられないのだ。
 内臓の大半を潰されて死にかけた時も、今にして思えば――死んでしまっても、困る事は無かった。ただ、視界の白が退屈で仕方がなかったから、どうにか目覚めようと足掻いただけだ。
 私には、自己保存の本能が無い。生き物ならば〝自分を重んじなければならない〟という固定概念を、引きずって歩いているに過ぎない。死ぬよりは生きている方が良いだろうが――死んだら死んだで、それで良いとさえ思っている。
 だが、そんな考えを、この小さな従者(サーヴァント)には告げたくないのだ。
 理由は無い――思いつかない。なんとなく嫌だ、という様な感情論で、無機質な自分の生死観を隠そうとしている。非合理的だが、思いつかないのだから仕方が無い。
 何せアーチャーと来たら、一度は死を経験した身であるくせに、とんでもなく生を謳歌しているのだ。食事の度に目を輝かせるし、家電製品を見れば隅々まで撫でまわす。アスファルトやコンクリートなんてありふれた代物でさえ、彼女は化石入りの大理石を見たかの様に興奮する。
 きっとアーチャーは、叶うならば生き長らえたいと、前向きに願う人間だっただろう。怯えるのではなく、生をより楽しむ為に、積極的に死を遠ざけようとする人間だっただろう。
 そうだ、私が彼女に対して感情を持て余すのは――彼女が私から遠すぎて、理解が及ばないからなのだ。

「なんで、貴女と私なのかしらね」

「ん?」

「組み合わせ」

 うーん、とアーチャーは一声唸って、腕を組んで首を傾げた。
 ざっくざっくと雪を掻き分けていた足も止まって、暫くは思考に没頭していた彼女だったが、

「私じゃ駄目だったか?」

 自分の顔を指さして、アーチャーはそんな事を言った。

「いや、駄目って訳じゃないけど」

「じゃあ、いいんじゃないか、理由とか。私だって別に、お前がマスターで困ってない」

 今度は私がうーんと唸って、

「そんなものなのかしらね」

「そんなもんだぜ、多分」

 何も解決はしていないのだけれど、とりあえず良しと言う事になってしまった。





「で、結局何処へ行くつもりなのよ」

「寺子屋の生徒が授業の終わりに、遊びに行くとしたら何処が相場だ?」

「ショッピングモールかゲームセンター、或いは駅ビルって線もあるわね。
 少なくともこの近辺は、駅どころか線路も走ってないと思うけれど」

 随分と歩かされる。何時の間にやら街の中心から外れて、家もまばらな地域に来てしまった。
 ここまで来ると、軽い食事を取ろうにも、8時で店仕舞のスーパーマーケットしか見つからない。飲食店の類など無いのだ。
 代わりに自然は豊富。時折は何処かの学生が、生物の生態研究の為に訪れるとか言うが――断言すると、退屈な地域である。

「図書館、このあたりにあるだろ? あそこで勉強会でもしようかなーって」

「……図書館だったら、駅前の図書館がお勧め。こっちのはちょっと……なんていうか、ふつうにうちの学校の方が本が有るわ」

 この近辺には、確かに図書館が一つだけ有る。使うのはもっぱら、絵本を求める近所の母親達か、或いは暇を持て余す老人くらいのもの。少し移動手段を持っていれば、駅前まで出れば、三階建ての大型図書館を利用出来るのだ。

「あれじゃ私には物足りない。古書が足りなすぎるし――目当ての本は、絶対に無いって言いきれるからな。
 絶対にこっちじゃあなきゃ駄目なんだ。悪いが付いてきてもらうぜ」

「まあ、良いけれども」

 一度動き出せば、有無を言わせないのがアーチャーだ。否も応も無く歩いては居たのだが――やはり遠い。
 森の木々の間を通る車道には、中央線も書かれていなければ、縁石の様な物も置いていない。
 が、めったに車も通らないので、車道のど真ん中を歩いていても問題が無い――無い無い尽くしだ。

「で、やっぱりあそこなの?」

「そう、あそこだ。いやー、やっぱり分かりやすいなぁ、あいつらの趣味」

 それを、暫く退屈を押し殺しながら歩き続けていると、湖の畔に出る。
 立地条件も悪ければ、所有する蔵書数も物足りない。こんな所まで付き合わされて何をするのかと、文句の一つも出そうになるが――

「さ、行くぞアリス! ちょっと走ろうぜ、ここは寒い!」

「あ! ……もう、私はインドア派だってのに……」

 やたら楽しそうなアーチャーを見れば、その声も引っ込んでしまう。
 これまた長い橋を渡り、湖の真ん中にぽつんと浮かぶ小島――その唯一の施設、『紅魔大図書館分館』へと駆け込んだ。





 『紅魔大図書館分館』――仰々しい名前にも程がある。
 成程、名前に相応しい真っ赤な建築物。右を向いても左を向いても、真っ赤な壁で目に悪い。目を背けて床を見ても、こっちはこっちでやはり赤い。
 駅前に建っている本館は、こんな趣味の悪い色はしておらず、勉学に励む者達を受け入れる聖地であるというのに。

「落ち着かないわー」

「本を読むのにはな。ほら見ろ、見事に閑古鳥」

 数人ばかり、本を読みに来たのか雑談をしに来たのか、そんな集団が出来ていた。子供に絵本を読ませておいて、自分は椅子に座っているだけの主婦だったり、特にする事も無いので散歩ついでに立ち寄る老人だったり――過疎集落の様な雰囲気だ。
 棚の数も少なく、首を一度右から左に動かすだけで、全てを視界に収める事が出来る。個人の家としてならば広いが、公共の建物にしては狭すぎる。
 こんな所では目ぼしい本も無いだろうけれど、それでも時間潰しに――と、歩き出そうとした途端、

「待て待て、そっちじゃないそっちじゃない」

「ぐえっ」

 アーチャーに襟首を掴まれた。身長差が有るものだから、背骨が直角に後ろ折れしかける。

「……ったたたた、少女にあるまじき悲鳴が出た……何すんのよ」

「何が悲しくてこんな所で読書しなきゃならんのだ、違う違う」

「図書館で読書以外に何をするのよ。人形劇でもお披露目?」

 ぷっ、とアーチャーが噴き出した。そんなおかしい事は言っていない筈だが、どうもツボが分からない。

「そうだな、何時かまたやって貰うかな。おーい司書さん、何処に居たー?」

「図書館ではお静かに……あれ、あれ?」

 少し大きな声で叫ぶアーチャーに、眠たげな顔の司書が近づいて来る。
 友人(表面的には)の愚行を詫びようかと思った私だったが――口を挟もうか、迷ってしまった。
 赤毛の司書の眼鏡の向こう、眠たげな目が一瞬で大きく見開かれ、

「……魔理沙さん、どうしてここに?」

「返してた物を借りに来たぜ。あいつは何処だ?」

 この時代には知られる筈の無い真名が、その口から告げられたからだ。





「生きてたなんて思いませんでしたよー。なんですか、結局気が変わったんですか?」

「そんな馬鹿な。私は人間だぜ、生きてる筈がないだろ?」

 赤毛の司書とアーチャーは、肩を並べて歩いている。私はその後ろを、あっけにとられたままで歩いていた。

「ちょっ……と、何処まで降りるのよ」

 図書館の奥に閉架図書室――そこまでは分かる。分かるのだが、片隅の床に隠された階段までは読めなかった。
 細腕の司書が、分厚い床をいとも容易く引っぺがした光景も凄絶だったが、寧ろ私が驚いたのは、地下から立ち上る空気の清浄さだった。

「エアコンとか使ってるの?」

「いいえ、地下に電気は引いてません。勿体無いですし、ねえ?」

「あいつには不要だよな、苦手そうだし。絶対録画とか出来ないだろ」

「ええ、テレビのチャンネルを変えるのにも苦戦してましたよ」

 私には誰の話題なのか分からないが、二人は旧知の友人の様に語り合いながら歩いている。きっとこの赤毛の司書は、『幻想の幻想』時代から生きているのだろうと――突拍子もない事だが、無理なく信じられた。

「なあ、アリス」

 唐突に、アーチャーが私の名を呼んだ。

「何?」

「今のお前には早すぎるかも知れないんだが……私の状況が状況だ。ちょっと我慢して貰うぞ」

「話が見えないわよ」

 先を行くアーチャーの顔は見えない。だが、その小さな背に似合わぬ力は感じ取れる。
 同じサーヴァントを除いては、恐らくこの地上に敵無しであろう彼女が――緊張しているのも、感じ取れた。

「見えなくても良い、その内に見えてくる。見えちまった方が大変なんだろうが……配慮してやる暇が無い。
 本当なら切りたくない札だ、軽々しく使っちゃならないカードだ。そこだけ思いだし――覚えておけよ」

 階段を最後まで降りて、分厚い扉の前に立つ。ドアノブも何もない扉は、赤毛の司書がそっと触れると、向こうから自然に口を開けた。



「〝あれから、二百十八万と七千九百四十三冊。六億と六千二百六十五万、跳んで二十八頁を読み進めた〟」

 ――その声は、耳を介してではなく、頭の中に直接紛れ込んできた。

「〝四十万以上の日没を超えて、四千以上の季節を超えた。そこを泳いでるのは湖の主、初代から数えて百二十二番目〟」

 目の前に開けた空間は、夢の中を歩くかの様に、現実から離れた所に有った。
 水圧を度外視したかの様に薄いガラス壁――そう、水圧。この空間は図書館の地下、湖の中に存在している。
 高い透明度、存在すら意識出来ない程の厚さのガラス。〝彼女〟が指さした先には、5mはあろうかという巨大なナマズが泳いでいた。

「〝けれども、まだ見終わらない。貴女に関わっている時間は、出来るなら極力抑えたいのだけれど〟」

 林の様に並び立つ書棚。高さは私の背丈の倍もあり、並ぶ書物には僅かの隙間も無い。蔵書の傾向は雑多――存在する全ての書を、ひとところに集めた様な風情。
 蛍光灯でも、また蝋燭の炎でも無い不思議な灯りは、林立する書棚の影を揺らめかせている。

「相っ変わらずつっけんどんな奴だなー、偶には日光浴してるのか?」

「〝髪が傷むからしないわ。粗野な貴女と一緒にして欲しくないわね、人間止まりの貴女と〟」

 きぃ、きぃ、と金属のこすれ合う音。何時の間にか私の隣には、一台の車椅子が止まっていた。

「一緒にするなら――せめて、こっちじゃないかしら」

 次の声は、間違いなく耳から聞こえた。私は咄嗟に音の方角、車椅子の有る方向に向き直る。そこには一人の少女が、膝掛毛布の上に本を乗せて座っていた。

「ようパチュリー、ぜんそくの調子はどうだ?」

「貴女の顔を見たら悪化したわ。ご機嫌よう、歓迎するわよアリス」

 歓迎されている――とんでもない。車椅子の少女の冷たい目に、私は思わず後ずさりしていた。