烏が鳴くから
帰りましょ

偽教のお話

 旅も四日目、桜と村雨は、箱根の関所に差し掛かっていた。
 男が通るのは容易いが、江戸から出る女には厳しいのが関所の常。とはいえ、開国五十年もすれば、諸外国の女性運動家の方々の声も、国内には入ってきた。すっかりモダンな雰囲気に染まってしまった京の都などは、若い学士が気勢を上げて、男女平等を謳い始める始末である。
 そんな訳で、女性二人の旅とは言えど、通行手形さえあれば、関所は容易く通貨出来る筈だったのだ。

「……遅い! 何だこの行列は、どうなっている?」

 だと言うのに、なぜか関所の前には長蛇の列が完成してしまっていた。唯我独尊の桜にしては珍しく、真面目に順番を守ってはいるのだが、苛立ちが明らかに目に見えている。

「なんでだろうねー……ねえ、前の人。何が有ったか分かる?」

「いんにゃ、さっぱりだぁなあ。けんど、さっきから戻ってくるのはいても、関所通った奴は……ああ、まーた戻された」

 村雨は、前に並んでいた男に、列の様子を見て貰っていた。丁度その男はひょろりと背が高く、人の群れを遠くまで見渡せた
 その男の言うとおり、先へ進む事を諦めて山を下りていく者は見受けられるのだが、こちらから向こうへ通過出来た者が見つからない。これだけの行列が出来ていながら、誰一人として、関所を通行する許可が下りていないのだ。

「ううむむむ……このままではらちが明かんな。おい村雨、ちょっと行って鶏の啼き真似をしてこい」

「清少納言の昔より、日の本の関は函谷関より厳しいのでございます。無理に通りたいなら御輿と家をちょうだいよ」

「お前はなんと貪欲な臣下なのだろうなぁ……腕とは言わんが髷を切る程度の忠義を見せんか」

「髷なんかを信じて付いていった結果が伏兵。石亭から教訓を得るべきだと思うね」

 冗談と皮肉のぶつけ合いをしながらも、列は少しずつ進んでいく――が、やはり誰も関所の先へは進まない。戻ってくる人数が次第に増えてきた様な気がして、村雨はぴょんぴょんと跳ねながら、前方を覗き込んだ。

「……何か、人だかりが出来てるね。高札が立ててある、何が書いてるかは……流石に、ここからだと見えない」

「通行止めのお触れ書きか? ……よし、こういう時はだな、見てきた者に聞く方が早かろう」

 そう言うなり桜は、関所を通れず戻ってきた人の群れから一人の女を選んで、肩を掴んで引き寄せる。

「そんな訳でだな、あの高札の中身を教えて欲しいのだが」

「は、はい!? どういうわけですか!? ……いや、はぁ、教えてあげますけれどさ」

 いきなり引き寄せられた女は、あまり動じない性質の様で、驚愕に裏返った声をすぐに戻した。

「今日から通行料を一人につき五両取る、なんてめちゃくちゃが書いてあるんですよぅ。路銀は多めに持ってますけど、それでもちょっと金額が……」

「五両? なんとまあ、暴利な事だな……五朱ならばまだ分かるが」

「それでもちょっと高いよ……って、箱根関所って通行料取られたっけ?」

 およそ一両もあれば、一月の生活は成り立つのである。ただ関を通過するだけで五両も取るのでは、金惜しさに関所破りをする者まで出かねないだろうに。そもそもこの関所、通行量のやりとりなどという面倒な作業、幕府がきっぱりと止めてしまっていた筈なのだが。

「……ふむ、どうする? 素直に払うという選択肢は論外だが」

 女の肩から手を放してやり、まだ律儀に列に並んでいる桜。関所は通らねば西に行けないが、かといって五両など払ってしまえば、これから先の旅は、恐ろしい倹約生活となるだろう。我慢が嫌いな桜は、端からそれを勘定に入れていない。

「何をするにも、高札を立てた人の顔を拝むのが先じゃない?」

「よし、それで行くか」

 綺麗な解決法とは言い難いが、どうせ通れないのなら、列を為す意味もない。周りの非難の視線は気にせず、さっさと前へ進む事にしたのであった。





 さて、高札では有るが、これがどうやら、公的に作られた物には見えない。
 拾い集めた木を組み合わせて作ったような、支柱一つさえ不揃いの不格好な高札には、ミミズがのたうった痕跡の様な文字。

「酷い悪筆だな……まあ、読めん事も無いが。どれどれ……?」

「この関を通らんと欲する者、おのおの五両を置いて行くべし……うん、五両って書いてあるね」

 あまりにも理不尽な要求内容を、桜と村雨は、同じような角度に首を傾げながら読みあげていた。

「こんなもの、誰が素直に頷くのだ?」

「よっぽどのお金持ちでも嫌がると思うけど……」

 実際の所、五両も払って通過していく者は、長蛇の列が半分まで減っても、誰もいないのであった。

「そしてまた、続きの文言がなぁ。支払いを拒む者、我らが救世主の裁きがあると心得よ、聖言至天の塔教団……逆十字でも飾るのか?」

 通行料の金額を示す文章より更に読み進めれば、この悪質な文章の布告者の署名までが有った。桜がその字面から受けた印象では、耶蘇教に唾を吐く集団かの様に思われたのだが、

「それをひっくり返して飾ってる。最近はやりの、新しい切支丹の在り方を説く云々って言ってる集まり。ここ数年で始まったらしいよ」

 そのものずばり、耶蘇教の一派を騙る者達であるらしい。村雨が言うには、以下の通りであった。
 聖言至天の塔教団、俗に『拝柱教』とも言われる集団である。彼らは人里離れた山奥に教会を打ち立て、そこで集団生活を営んでいるらしい。教祖が任命した司祭が、その土地の教会の主。司祭より下の信者は全て平等で、日夜農業に従事し、作物を皆で分け合って生きているとか。
 彼らが外の世界と関わるのは、商品作物を売りさばき、代わりに米を買いあげていく時である。山奥ではやはり、田んぼを作るのは難しい様だ。
 ここまでの内容ならば、ただの農業集団でしか無かっただろう。だが、この様な高札を掲げる集団であるならば、そう大人しい連中では無い。

「……美しい娘はとりわけ神の恩寵に預かっているのだー、とか言ってさ、若い美人ばっかり教祖の所に集めてるんだって――あ、彼らは教祖を救世主って呼んでるんだけど。集められた人達は、そこで特別な訓練を受ける――」

「ふうむ、なんとも羨ましい、いや許しがたい」

 桜は、どこか馬鹿にした様な調子で、その話を聞いていた――羨ましいという部分だけは、多分に本音が漏れているが。

「――黙って聞け。訓練の内容が、人を騙して籠絡する事なんだってさ。で、商人の所とかに派遣して、連鎖的に信者を増やしていってる。『錆釘うち』の調べじゃ、今は信者が五千人とも六千人とも……」

「……そいつらは、本当に耶蘇教の一派なのか?」

 何かを嘲るような笑みを浮かべていた桜が、急に表情を戻して村雨に尋ねた。桜が気まぐれなのは今に始まった事でも無いので、村雨もあまり驚きはしない。

「うん。石から削り出した十字架に祈ってるってさ。彼らの救世主に祈り続ければ、天国へ続く梯子を上る事が出来るって―――」

「っははは……はは、なんだそれは! なんともまあなんとも愉快な教えだな、はっはは……!」

 かと思えば、突然腹を抱えて笑いだしたのには、流石に村雨も、思わず一歩引きさがってしまった。拝柱教の信仰とやらが余程おかしく聞こえた様で、滑稽本を読んでいる時にしか聞かせない様な、侮蔑混じりでは有るが楽しげな声であった。

「あー、おかしい。この国以外では数日で潰れそうな教義だな……まあいい、つまりこの高札、その馬鹿教団のものという事か」

「……えーと、うん。おかしいのはあなたもだと思うけど、うん。そういう事になるね」

 一歩引いた様子だった村雨だが、桜の言葉には同意する。そして、この面倒な状況をどうやって切り抜けたものかと考えていた。
 流石にこの様な事をしていれば、噂は数日で伝わり、幕府から兵でも送られてくるだろう。何もせずとも数日待てば、通過できない事は無い。ならば少々予定を変更して、麓の宿場街で一泊するかと考えていたのだが――

「馬鹿馬鹿しい、さっさと行くぞ」

 ――ひゅう、と風が吹いた様な気がした。高札が四つに切り分けられていた。

「……え、はい?」

 見れば、桜の手は腰の脇差に置かれていた。抜き打ちで一度、引き戻すに合わせて一度、合わせて二度斬り付けたものらしかった。乾いた道の上に、分断された板がカラカラと落ちる。

「おーい、手形はあるぞー、早く私を通さんかー」

「……だからさぁ、頼むからさぁ、こういう時に何も考えず行動に移すのはさぁ……ほうら、明らかに怪しいもの」

 関所の役人の下へ、通行手形の確認を要求しに行く桜の背を、肩を落としながら見送る村雨。すぐさま役人の一人が青い顔をして、斬り壊された高札の修復を始めた。
 これで面倒事に巻き込まれるのは確定である。こうなればもう、少しでも危険を避ける手立てを講じるべきだ。そう考えた村雨は、高札を直し始めた役人に、話を聞きに向かうのであった。





 同時刻、箱根山中にて。
 刀と短槍で武装した役人達が、一匹の犬を先頭に据えて、森の中を進んでいた。総勢三十人、重い具足を身につけていながら、並みの旅人よりは尚早く斜面を登っていく彼らは、間違いなく訓練を受けた兵士であった。

「どうだ、何か見つかったか?」

「先程からの足跡以外には、何も」

 隊列の中央、最年長の男が、犬を連れた若者に確認する。彼らは先程から、森の中の足跡を追っているのだ。
 武装信者の脅威を振りかざし、天下の往来を防げる拝柱教。彼らを排除する為の部隊は、既に派遣されていたのである。剣術と魔術に長け、屋内戦に特化した兵士三十名は、例え信者達が百名居ようが鎮圧する自信が有った。実績に裏付けされた、揺るぎ無い自信である。
 過去に於いてこの部隊は、打ち捨てられた古砦に立て籠った賊徒の鎮圧に駆り出された事がある。武器弾薬の貯蔵も大量、五十名以上の賊徒の巣へ忍び込んだ彼らは、半刻足らずで任務を完了した。賊徒側の死者八名、負傷者十四名、生存者は全て捕縛。鎮圧部隊側の死傷者は、火縄銃の流れ弾に腿を貫かれた者が一人居ただけであった。

「……気が進まねぇなぁ……」

 部隊を率いる最年長の男――青峰あおみね 儀兵衛ぎへえは、今回の任務を内心苦々しく感じていた。敵が悪逆非道の賊徒であるなら、容赦無く殴り倒して拘束し、引きずって凱旋する事を躊躇わない。だが今日の相手は、宗教という麻薬に毒され洗脳された人間である。
 無知故に、愚かであるが故に道具として扱われる者へ、磨き抜いた力を振るうのは、儀兵衛の好む所では無い。厳めしい顔つきの儀兵衛だが、その本質は善良な男なのだ。

「隊長殿、どうかなさいましたか?」

「いいや、何でもない……それよりな、そろそろ敵さんの手の中だ。結界破りの術を始めろ」

「はっ、了解です」

 特定の範囲への侵入を防ぐ、或いは侵入した事を察知する為の結界術が、もう暫く進んだ場所に張り巡らされている。足跡、犬の鼻を頼って進んできた道は、どうやら紛れも無く、拝柱教の教会へ続いているらしい。

「いいか、女子供は手っ取り早く、催眠魔術の後に拘束。それで眠らない奴は、出来るだけ優しく殴り倒しておけ。司祭って奴を捕まえて、そいつを脅して命令を撤回させる。散開は無し、全員抜刀」

 三十名の兵士が、それぞれ間隔を広げた上で刀を抜いた。ここからは臨戦態勢、愚痴も気軽に吐けない状況下である。



 程良く張りつめた緊張感の中、儀兵衛以下三十名は、結界をするりと潜りぬける。破壊するのではなく、自分が結界の一部であるかのように見せかける偽装で、反応をさせずに通過したのだ。彼らは足音も殺し、枯れ枝一つ踏まないようにして進んでいく。
 すると、木々の向こうに、白い壁が見えた。建築後、数年も経過していないだろう白壁は、この山中に似つかわしいものとは思えない。犬のクロは何を感じたか、尻尾を腹に巻いていた。
 儀兵衛は先頭に進み出て、その建物の全容を視認する。耶蘇教の教会とおぼしき建物の左右に、平屋の居住区域を付けくわえた、洋風の建築。屋根の上には巨大な十字架と、それに立てかけられた梯子の彫刻が有った――間違いない、拝柱教の教会だ。
 信者の歩く空間に罠は仕掛けられまい、つまりは居住区域からの侵入こそ安全であると、儀兵衛は踏んだ。右手で後続の者に合図を送り、音を立てぬようにして、建物の周囲を回りこむ。

「……行くぞ」

 三十人が一列になり、居住区通路と屋外を仕切る扉へ向かった。扉を潜った二十九人は通路を進み、一人は気付かれる事なく、扉の外で昏倒していた。





 儀兵衛の部隊の武器は、その作戦の遂行速度である。建物の中へ入り込んだ彼らは、重装備を物ともせずに走る。

「ちっ、思ったより居るなぁ……」

 叫ぼうとした信者の娘の口を手で塞ぎ、催眠魔術で速やかに意識を奪い、手を縛る。幾度も繰り返した一連の動作を、儀兵衛は淀みなく遂行していく。予想以上に数が多い――非武装の信者が、である。武装している者も数人は居たが、あっさりと眠らせて武器を奪った。
 楽な任務だ、もうじき建物左側居住区の制圧は完了する。おそらく最後の一人であろう少年を眠らせ、適当な部屋へ放り込んだ。

「負傷者、居るか?」

「ロ班五名、負傷無し」

「ハ班五名、負傷無し」

「ニ班五名、負傷無し」

 儀兵衛以下三十名は、イからへまでの六班に分かれている。儀兵衛が率いるのはイ班、儀兵衛含めて五名、負傷無しを自分の目で確認した。

「……ホとヘの連中はどうした……?」

「は……突入までは、私の後ろに居たのですが……」

 確認が出来たのは、二十名だけだった。部隊の三分の一にあたる十名が、点呼に応じない。戦力とも呼べない様な信者の鎮圧で、まさかそれだけの数がやられたというのだろうか――先を行く者に、異常の一つも感じさせず。

「……ハ、ニ、両班で前後の視界を確保しながら戻れ。ここから見えないって事は……外か、信者ぶち込んだ部屋の中だ」

 信者達の拘束に手間取っているというなら、後で叱りつけてやらなければないが、それでもいい。五名で前方、五名で後方を確認させながら、左側居住区の部屋を確認させていくと――

「……隊長、ホ班の連中が……!」

 確認に向かったうちの一人が、扉を開けて立ち尽くしていた。儀兵衛はすぐさま駆け寄り、部屋を覗き込む――ホ班五名が、拝柱教信者と同様、意識を失って拘束されていた。

「どういうこった……?」

「隊長、隣の部屋にはヘ班の奴らも……生きてますが、くそ、なんだこりゃ……!?」

 訓練された兵士達だ、混乱して騒ぎたてるような事は無い。だが、その表情に不安が浮かんだ事は、儀兵衛の目にはっきりと見て取れた。もはや、ホ・ヘ両班が、何者かに奇襲を受けた事は明らかなのだから。

「……全員、索敵に集中しろ。ただの信者は放っておけ、何か居るぞ……!」

 部隊全員があらゆる手段で、謎の襲撃者の位置を探る。或る者は蝙蝠を真似た音響探知、或る者は熱源探知、或る者は床を移動する振動の探知。儀兵衛も薄い簡易結界を張り、大きく動く者が居ないかを探り始めた。
 二十人の大の男が、固まったまま動けない。彼らは、自分から向かってくる相手なら、倍の数であろうが恐れずに突っ込んでいける戦士である。だが、見えぬ敵との戦い方など、そもそも儀兵衛でさえが知らないのだ。見えぬ敵とは戦えない、見える様にしなければならない。

「敵影一つ、真上です!」

 呼吸にさえ神経を擦り減らす緊張の中、最初に敵を捕捉したのは、温度差を視認するという索敵魔術を発動していた者だった。儀兵衛は反射的に、手にしていた刀で天井を突き上げる。手応えは無い、それでいい、大まかな居場所さえ分かったのなら。

「『千棘千針』『弾け飛べ』!」

 短詠唱の二連。天井裏で、儀兵衛の刀の切っ先が破裂する。鋭利な金属の塊が砕けて、破片が天井裏の狭い空間で飛散する。大粒の雹が降ってきたかと思うばかりの音が通路に響いた。
 儀兵衛が得意とする、刀一振りと引き換えに、敵に多大な損傷を負わせる破砕魔術。本来は敵の体に刀を突き刺して発動し、肉や臓器をズタズタに引き裂く為の――生け捕りにする為ではなく、完全な殺傷用の技だ。例え負傷者は出ていないにせよ、この敵に対しては殺害を止むを得ず。姿さえ見ていない相手に、儀兵衛はそのような裁定を下していた。

「……どうだ?」

 死んでいてくれと願いながら、切っ先の無くなった刀を降ろす。最初に敵を発見した部下に、喉を絞る様に声を出して確認する。

「敵影、動きません。誰か、音は」

「心音、呼吸共に正常、負傷は皆無と見受けられ――あ!」

 負傷は皆無、との報告に、儀兵衛は床を殴り付けたくなる思いだった。金属の破片が高速で飛散、体に深く突き刺さるあの破砕魔術は、至近距離に限り、一発一発が銃弾にも勝る殺傷力を誇るのだ。それが完全に防がれたのか――待った、今の部下の叫びは何だ。無意識に儀兵衛は刀を捨て、背の短槍を低く構えた。
 儀兵衛の頭上、天井が丸く繰り抜かれ、板が落下する。咄嗟の判断で廊下の壁側へ飛びそれを回避した儀兵衛は、天井裏から降り立った敵の姿を、ほんの一瞬だけ視認する事が出来た。
 川を泳ぐ蛇に似ている少女。それが、儀兵衛の受けた印象だった。頭の天辺から脚の先まで、一本の縄の様に起伏の無い体系がそう思わせたのだろうか。それとも床に降り立った瞬間の、体の全てを曲げて音を殺すしなやかさが理由だろうか。
 子供と言うには成熟していて、だが成人と呼ぶには幼い、意思の薄そうな顔。一切の衣服を身に付けず、凶器となる物も手にしていない――僅かな時間で見えたのは、そこまでだった。

「……消え、た……? おい、誰か――」

「居ます、そこに居ま――っぐお……!」

 少女は、瞬き一つの間に姿を消す。移動したのではない。少女はその場に居ながら、完全に誰の目にも見えなくなったのだ。動いていないと伝えようとした兵士が、喉を押さえて崩れ落ちる。

「く……擬態か、ちきしょう!」

 森林ならば草木を、平野でも土を被り、周囲の景色に紛れ込む戦術は存在する。だが、あの蛇の様な少女は、擬態する場所を全く選ばず、そして完全に風景に溶け込みながら動けるようだった。
 次々に儀兵衛の部下が倒れていく。喉か顎を打たれ、一撃で意識を狩り取られた彼らには、余計な負傷は只の一つも無い。慈悲深い蹂躙であった。

「く、ここかぁっ!」

「いっ……馬鹿、俺を殴るな――――げぇっ……!」

 横を通り過ぎた気配を頼りに短槍を振るった兵士もいたが、柄で同僚を殴りつけるだけに留まる。屋内で二十人が一か所に固まれば、こうなるのは予測出来ていた筈だ。奇襲を恐れるあまりに集まってしまった時点で、彼らの数の優位は、同士打ちの危険を増すだけの物でしか無くなっていた。同様の理由で、不可視の敵への対抗策としては常套手段の、広範囲攻撃魔術も選択できない。
 一人、また一人、床に倒れ伏していく。自分が最後の一人となっても、儀兵衛はまだ、この敵を仕留める事を諦めていなかった。

「……『堅壁貫く能ず』」

 狙ってくるのは喉か顎、範囲として考えればかなり狭い。その部位だけに、対衝撃の防御魔術を展開し、待ち構え――顎を、左から右へ打ち抜こうとする衝撃が有った。
 魔術障壁がその一撃を緩和し、意識を保つ事に成功する。それと同時に短槍を、自分の周囲全体を横へ薙ぎ払うように振り抜く。槍の穂先が儀兵衛の右手側を指した瞬間、短槍の柄に、硬い物を強かに打ち据えた手応えを感じた。
 あの感触なら腕か脚の一本は砕いただろう、そう確信した儀兵衛は、姿の見えぬ敵目掛けて、間髪入れず刺突を放った。先の打で居場所は掴んだ。高速の連撃は、習熟した部隊員の誰にも避けられぬ、必殺の技である筈だった。

「んな、んだとぉ……!?」

 槍の穂先が壁を刺す。獲物の鮮血は飛び散らない。逃げられたのかと歯噛みする儀兵衛の首へ、気管と頸動脈を同時に圧迫する手が伸びる。脳への血液供給を断たれた儀兵衛は、沈むように意識を失った。



 廊下に無傷で横たわる二十人の兵士。全てが的確に意識を狩り取られ、指一本動かす事も出来ずにいる。
 天井に開いた穴から彼らを見下ろすのは、あの蛇の様な少女だった。

「……予想以上に練度が高いですね……これは、拠点の移動を進言するべきでしょうか」

 自分が一蹴した兵士達へ高評価を下し、天井裏の暗闇に溶け込んでいく。入れ違いに駆けつけた武装信者が、兵士達を何処かへと引きずり連れ去った。








 役人たちもかなり渋ってはいたが、結局のところ、桜と村雨は関所を通過する事が出来た。通行手形などは全て揃っていたのだから、役人としては通さない訳にもいかないのだ。
 だが一方で、役人達は皆、言葉を尽くして二人を引き返させようともした。彼らには、旅人をどうしても先へ進ませたくない理由が存在している様だった。勿論の事、あの様な高札を役人が黙殺するどころか、破損の修復に当たっているとなれば、答えは自ずと見えてくる。関所役人は何らかの理由で、拝柱教に協力させられているのだ。
 そして、更に勿論ながら、役人達の諫言を聞き入れる桜ではない。通行人と拝柱教の板挟みに遭った役人達には、村雨も同情せざるを得なかった。

「然し、道中見事に何事も無かったなぁ。大の男どもがうろたえおって、見苦しい事だった」

「うーん……あんな事書いてた割には、確かにねー……でも、あなたはもう少し、他人の事情を考慮するべきだと思うんだ」

 ここは箱根の宿屋の一つ――の、露天風呂である。山中の木々を眺めながら岩風呂に浸かるという贅沢が、比較的安価で味わえるこの宿。部屋が埋まる前に確保しようと急いだ結果、二人はまだ日も高い内から、こうして温泉を楽しむ事になったのだ。

「然し、人がおらん。こうなると知っていれば、無理に急ぐ事も無かったのだが」

「反対側でも通行止めされてるのかなー……宿場街の割に、人がやたら少なかったもんね」

 貸切状態の広い露天風呂、村雨は湯船に仰向けで浮かんでいた。普段ならこの様な子供じみた真似、周囲の目が気になって出来はしないのだが、どうせ今は自分達しかいないのだ。

「で、桜ー、あなたは入らないの?」

「入るぞ? 入るが、もう少し待て。いや、いっその事手伝ってくれ」

「髪を切ればいいじゃない、頭が軽くなっていいと思うよ?」

 体と髪を手早く洗って湯船に浸かる村雨とは裏腹に、桜は未だに洗髪を続けていた。何せ三尺の長髪、長さばかりでなく量も多い。毛先まで丁寧に洗おうとすれば、優に村雨の数倍の時間を費やして、まだ足りない。
 旅の初日には、実は村雨も一度、桜の洗髪を手伝わされた。その時に知った事なのだが、桜の総髪の重さは、水を吸うと一斤(600グラム)以上にもなるのだ。水気を絞って乾かすだけでも一苦労であり、とても付き合っていられるものでは無かった。

「いやだ、髪を斬ると力が出なくなる。衰弱死してしまう」

「あんたの髪は木の根っこか何かか」

 あまり長風呂をしていても、のぼせてしまう。村雨は湯から上がって、適当な岩に凭れかかって座った。暑さ寒さに弱いとは言わないが、どちらかと言えば涼しい方が好きな村雨は、自分の手を団扇の代わりにして顔を仰ぐ。

「そうだ、この髪から栄養を吸い寄せているのだ。だからこの通りほーれほれ」

「寝てる間に丸刈りにしてやろうかこのやろー」

 涼み始めた村雨の方へ、桜はわざわざ向き直り、自分の乳房を両手で持ち上げて揺らして見せた。村雨は手近な桶を拾って投げつける。あっさりと桶は受け止められ、勝ち誇った様な高笑いを返されてしまった。
 村雨が思うに、過度に女性的な胸は、全く人間には無用の長物である。授乳という用途に差し支えない程度の膨らみさえあれば、女性の胸はその役目を完全に遂行できる筈だ。それ以上に大きい場合、日常生活にさえ差し支えが有るだろう。

「どーせ子供なんか生まないんだろうにねー……ああもう世の中不公平だ」

 増してや桜という人間の嗜好を思えば、この先もきっと、男性との交際などは有り得ないのだろう。彼女の無意味に豊満な乳房は、生涯その本来の用途を為さない筈なのだ――だったら分けろよと、実はこれが村雨の本音である。

「ふっふっふ、良く食い良く動く事こそが、健全な体を育む最善手。お前は食う量が足りんと何度も言っておるだろうが。もっと肉を喰え、肉」

「……お金が無い時は狩りに出て、一日三食獣の肉だったりしたんだけどねー」

 食生活は、むしろ日の本の平均と比べて、米と肉に偏って食べている筈だ。ならば野菜が足りないのか、それとも食い慣れない魚介類にこそ、体系改善の手立ては有るのか。いっそゲテモノ食に傾けば良いのか。貧すれば鈍す、懐ではなく胸の貧しさに、村雨の思考は鈍っているのであった。

「ふむ、食生活の改善では駄目か……ならば生活習慣から変える必要があるな。何、比較的即効性の高い手段も有る、先人の知恵だ」

「……聞くだけは聞くけど、ろくな答えが返らない気がする」

 石造りの湯桁に腰掛け、足だけ湯船に踊らせている村雨の背後に近づいていく桜。背中を向けたまま、本当にそんな手段が有る物ならと、期待はせずに話を促す。

「古人曰く、揉めば大きくなるとか」

「あんた最低だ」

 背後で両手をわきわきと動かす桜の顔面へ、容赦無く左の裏拳を振り抜いた。狙いが外れて額に命中したらしく、手の甲に鈍い痛みが走った。本当に世界は不公平である。
 左手を摩りながら引き戻そうとすると、突然背後の桜がその手を掴んだ。背に柔らかい感触が二つ押し当てられ、密着された事に気づく。

「え、ちょ、何よいきなり……変な事するようだったら、次は本気で――――、っ……!?」

 先の発言が発言である。己の貞操を危ぶんだ村雨は、桜を振り払おうとした。だが、その動きは直ぐに中断され、村雨は完全に押し黙り、鼻をひくひくと動かし始めた。

「……二人と見るが、どうだ?」

「二人で良いと思う。刃物か、少なくとも鈍器は持ってる……拝柱教?」

 硫黄の臭いに紛れて気付くのが遅れたが、明らかに二つ、金属を身に付けた人間の臭いがしたのだ。気配を察知した桜の見立ても同様らしく、相手に聞こえない様、声を潜めて村雨に伝える。高札の警告を実現させる為、救世主とやらの使いが来たのだろうか。村雨は微風に乗って届く臭いから、敵戦力の分析を行っていた。

「他に心当たりは無いな……何れにせよ、この様な場所で刃物を持っているならば」

「私達への害意有り、と。先手を取る?」

 敵がいるのは、露天風呂を囲う柵の向こう側だろう。周囲の景色が良く見えるようにとの配慮からか、村雨や桜の跳躍力なら、容易く超えていける程度の高さだ。

「いいや、気付かぬ振りでもして誘う。まさかこの格好で外へ飛び出して、相手を追いまわす訳にもいくまい?」

 然しながら桜の言う事もその通りで、入浴中の格好のまま敵を追って、万が一にも大路に出られては堪ったものでない。ここは、相手からこちらに踏みこんで来てもらった方が、荒事に及ぶにもやりやすい。

「……じゃあ、向かって来るまで放っておくの?」

「うーむ、それも構わんが、何時までも監視されているのも気に入らんな。というわけで……」

「ん? 何か作戦でも……――」

 何か良案でも有るかの様な言葉に、座って片手を掴まれた格好で、振りかえらないまま村雨はその内容を問う。どの様な答えが返るにせよ、直ぐに実行できるようにと、感覚神経を研ぎ澄ませ――

「――ひぁうっ!?」

 桜は言葉の代わりに、村雨の胸に手を這わせてきた。薄い膨らみの心臓側へ、体を抱き寄せる様に回された右手を被せたのだ。村雨も、よもや荒事では無く色事に及んで来ようとは思いもしなかったらしい。叱りつけるなり振り払うなりすれば良い物を、おかしな声を上げて固まってしまった。
 つい先程まで湯に浸かり、上がってからも漂う湯気の中に座っていた為、村雨の肌はしっとりと熱い水気を帯びている。その上に重ねられた桜の手は、洗髪の為の石鹸が、まだ指に残っていた――尚、石鹸は、某国霧の都よりの輸入品である。開国当初に比べて値下がりしてきた為、そこそこの宿ならば、糠より客受けが良いと採用しているのだ。

「さ、さく――なにを、え、ぇ……?」

「……鼠を誘い出す、少し我慢しろ……まあ、体を洗われてるだけだと思え」

 石鹸が肌の上で滑り、泡立てられる。桜の掌が摩擦を失い、村雨の鎖骨から胸を通過し腹、腰までを往復し始めた。脇腹に石鹸の泡を塗られると、村雨はくすぐったさに身を捩り、また細く鳴き声を上げる。

「我慢、って、そんな……ぁ、ぁやあっ……」

 逃げ出そうとしても、後ろには桜の体が有り、左手首は未だに掴まれたまま。腕の中で足掻けば足掻く程に、ぬめる指に触れられた部位が擦れ、足が跳ねて湯面に波紋を広げる。

「……おおよそ誰かを襲うとするならばだな、かの義朝の例にも有る様に、まず風呂場は狙い目なのだ」

「ひや、でも、だからって、ふ……うぅ……」

 曲者に聞かせぬ為の耳打ちさえ、息が耳朶を撫で擽る、その感触が――疎ましいのだろうか、それとも心地好いのだろうか。抜け出そうとして前へ傾けていた体が、小刻みな震えに合わせて仰け反り、背後の桜へ体重が預けられていく。

「然しながら必殺を期す場合、この様に広い風呂場では逃げ切られる危険が有る……恥さえ忍べば、人の居る場所までは近いからな。では、どうする?」

「どうす、っくひ……や、やめ……! わかんな、分かんないから……!」

 湿度、湯気の熱さに加えて、体の内側にも熱が籠っているのを感じる。この感覚は以前にも何処かでと考えて――それが、桜と初めて出会った日の、あの川辺での事だと思い至った。

「……っぁ、ぁあ、あやだ、やめて、やめっ――――!?」

 耳を擽る吐息が離れ――首筋に、指よりも柔らかく濡れた何かが押し当てられた。それが舌だと気付いた時に、冷たくも甘美な刺激が背筋を走り抜ける。圧倒的強者に捕食されるにも似た快感が脳を焼き、自分の膝に凭れかかる様に体が折れた。
 襲撃者が動いたのは、そして桜が反応して立ちあがったのは、その瞬間である。火照って鈍った頭と目で、村雨はその光景を、ただ見ている事しかできなかった。

「しゃああああぁっ!」

「せやあああああっ!」

 柵を飛び越え、その跳躍のままに斬りかかってきた男女一組。何れも志井に溶け込める平凡な服装で有りながら、その手には十字架を模した短刀が握られていた。逆手に構えたその短刀は、胸を刺せば心臓を潰すだけの刃渡りと厚さを備えている。男の方は桜を、女の方は村雨を、ともに首筋を刺し穿ち、一撃で絶命せしめんと、彼らは気声を吐いた。

「……ぬお、な……あぎゃ、があぁっ!?」

「え……あ、おいっ!?」

 その二人はいずれも滞空中に、短刀を持った方の手首を桜に掴まれていた。着地して直ぐに蹴りつけてやろうと男は企み――足がまだ浮いている間に、手首からの異音を聞いた。本気で握りこまれ、骨が軋む音だ。悲鳴を上げようと口を開いた瞬間、桜は男の体を鞭のように振るい、風呂場の岩へ叩きつけた。
 人体を、大の男を事もなげに振り回し、そして容赦なく岩に打ち付ける。男は絶命こそ免れただろうが、複数個所で骨が砕けたか、起き上がる様子は全く見られない。襲撃者の女は、己の相棒がただの布切れの様に扱われた光景に目を疑い、そして獲物の見立てが甘すぎた事を知った。
 逃げようと判断する事さえ遅い。その思考が浮かんだ時には、桜の右手が、女の右肩を掴んでいた。指が骨まで食い込む程に掴み、そして左手で掴んだ女の右手首を、強引に背中側へ捻じ曲げる。

「いぎ、ぃあああっ、ぐああっ!?」

 女の体の中で、生木をへし折る様な音がする。苦痛に絶叫し蹲ろうとするが、腕を掴まれていて叶わない。それどころか桜は、折った腕を引いて、女を強引に立ちあがらせると、今度は左腕を掴んだ。

「覗きはいかんぞ、覗きは。私なら堂々と一緒に入るというのに……どれ、仕置きが必要だな」

 柔術や捕縛術などで見られる様な動きで、桜は女の左腕を背中側に捩じり上げ――後頭部を抑え、風呂の湯に沈めた。

「っ!? ――――! ――!?」

「いーち、にーい、さーん……十数えるまで上がってはいかんぞ」

 親が子供を風呂に入らせる時の様に、一回一回を長く引き延ばして数える。その声は、女には届いていない。叫んでいた所を突然沈められたのだ、鼻にも口にも湯が入る。その苦痛、水で同様にされてしまった時の非では無い。
 力任せに起き上がろうにも、腕関節を決められている上に、桜と女の膂力は、天と地ほども違いが有る。桜がゆるりと十を数えるまで、女はたんと湯を飲まされる羽目になった。

「さて、仕置きは楽しいが中断して質問だ。お前を送りつけてきたのは誰だ?」

「っげほ、けふ、ぐ……誰が言うか、この程度の――!?」

 女の顔を湯から引き上げ、嗜虐の愉悦に口角吊り上げる桜。女は気丈にも言い返そうとして、言葉の途中でまた、頭を湯に沈められる。
 桜は先と同様に、一つ一つをゆっくりと数え上げる。違うのは、数えあげる数字が五つ増えていた事だ。

「痛めつけるのは好きなのだがなぁ、素直な女はもっと好きだ。お前の主人は誰だ?」

「っげっぇ、がはっ……! ぅ、くどい、私は――がぼ、ぉご……!」

 模写と見えんばかりに、おなじやりとりが繰り返される。湯面に上る気泡の量は、そのまま女の苦しみを示しているのだろう。
 頭を湯に付けられるのは、水に沈められるよりまだ辛い。血が頭に昇り、暖められ、引き上げられても呼吸が落ち着くまで、かなりの時間が必要になる。そして桜は、その時間さえ与えず、一つの問いに答えなければまた沈めるという事を繰り返す。
 だが、女は口を割らない。桜がこの趣向に飽きたのは、五ずつ数を増やして三十に至ってからであった。

「ふうむ、強情な奴。気が強い女も嫌いではないが、素直で無いのは減点だ……さて、困ったな」

 女は、息も絶え絶えである。折られた肩からは激痛が走り続け、頭は湯に沈められて重度にのぼせた様な状態。ろくに息も吸えず酸欠で視界は暗く、腹は飲まされた湯の重みを感じる程だった。
 それでも、答えようとはしない。桜から見ればこの女、少々の訓練を受けているとは言えど、生来の暗殺者とは思えなかった。拷問を受ける訓練など積んではいるまい、ならばこの強情の所以は何か。信仰心とやらだとすれば、中々に洗脳の効力は強いのだなと、感心せざるを得ない。

「……が、狂信者という事ならば……だ。こういうやり方は、どうだ?」

 もう、腕を抑えていなくとも、女は逃げようとする力も無い。髪を掴んで頭を湯から引き上げてやり、桜は短刀を拾い上げた。女が手にしていて、腕を折られた際に手放した、十字架を模った一振りである。
 短刀の切っ先が、女の喉へ近づく。死の恐怖は有ったのだろうが、女はやはり気丈に、歯を食いしばって悲鳴を堪えた――が、その切っ先が顔へ向かうと、にわかに女の顔色が変わる。

「拝柱教とやらの教祖は、『美しい娘はとりわけ神の恩寵に預かっている』と説くのだそうだな。成程、お前は美しい。芸さえ仕込めば、一晩で二両か三両は取れる上玉だ。さぞや恩寵とやらに預かっているのだろうなぁ……」

「……いや、ひ……ゆるしてくださ……」

 桜は、命を取るという脅しの無意味さを理解した。信仰の為に死んだのならば、それは殉教として崇められる行為な。己が信じる神の下へと、美しいままに送られる、至純ともいえる最後なのだ。

「鼻を削ぎ、歯を引き抜く。舌も噛めぬ様にして女衒に売り渡してやる。豚の様な顔の女でも、夜鷹になれば十文は稼げるだろう。最下層の下劣な男共に穢されて、病に身を腐らせ死ぬが良い」

 女の鼻柱に短刀の刃を添えて、桜はくく、と愉快そうに笑う。真に迫るのは当然の事、桜は半ば本気なのだ。仮に必要と有らば、一刀の下に女の鼻を削ぎ、歯を一本一本指で引き抜くだろう。その間、きっと凄惨さに顔をしかめる事は無い。その程度の惨劇、数えるのも億劫になる程に作り出してきた。

「……さて、もう一度聞くが……お前を送りつけてきたのは、どこの誰だ?」

 信仰の拠り所、自分を凡百の信者と分け隔てる価値を奪われ、女としての尊厳を奪われ、自害すら許されず緩やかに殺される。自分が過去に描いた最悪の図を塗り替える脅迫に、女の精神は耐え抜く事を放棄した。

「せ……聖言、至天の塔教団――拝柱教司祭、ガルシア太瀬様です!」

「ふむふむ、その司祭とやらの居場所は?」

「箱根山中、関所より十二丁――たっ、たすけて、たすけてくださいっ……!」

「よしよし、それでいい……やれやれ、体が冷えてしまったな」

 首筋に手刀を落として、桜は女を昏倒させた。先に岩に叩きつけた男の方へ、重ねる様に放り投げる。命を狙われて汗もかかず、息一つ乱す事も無い。全てを平時の様に、まさに片付けたのだった。

「ん……おお、そうだ。村雨、何を潰れているか。私が湯に浸かったら直ぐに出る、着替えを済ませておけ」

 湯船に脚を沈めた所で、湯縁にぺたりと倒れている村雨に気付く。背をぺちぺちと叩いて、先に上がっている様に促した。髪の色に掛けている訳ではないが烏の行水の桜である。

「ぅう、うう~……!」

「……ん?」

 村雨は、横になったままでぷるぷると震えていた。寒いのだろうかとも一瞬思ったが、湯気の暖かさ、顔色、それは無いと桜は判断する。むしろ顔色はと言えば、まさしく茹で上がった様な赤色。腑に落ちたり、と桜はまた喉を鳴らし、

「ああ、腰でも抜けたか? いやすまんな、以前もそうだが、お前がああも敏感だとは――」

 言葉の途中であった。横たわった姿勢から、手足を総動員し高らかに――自らの背の倍程も――村雨は跳躍する。その軌道の鮮やかさに見惚れた桜は、おお、と嘆息し、次の瞬間には湯面に大きな飛沫があがった。桜が湯に沈んだのである。
 落下の加速度を伴い、体全体を伸ばし、両足の裏で顔面を踏みつける様な蹴り。軽量の村雨をして桜を吹き飛ばすだけの威力を産む、必殺の大技であった。

「溺れて死ね馬鹿馬鹿馬鹿っ!」

 蹴りの反動で空中後転、軽やかに着地した村雨は、足取りも粗く露天風呂から去っていく。

「……ううむ。あいつ、思っていたよりやるな」

 二拍遅れて浮かび上がった桜は、受け止め損ねた一撃の威力を堪能しながら、他人事のように寸評を下すのであった。








 風呂場から一刻も早く離れたかったのか、村雨は体が乾き切る前に着替えを済ませていた。
 襲撃者二人との戦い――と言うよりは、一方的な暴行だろうか。早急に片を付けた為か、その音を聞き咎められることは無かったらしい。村雨達以外に殆ど客もいない宿でが、従業員が退屈そうにしていた。

「ねえ、おじさんおじさん、どうして今日はこんな空いてるの?」

「ん? ああ、そうだねぇ……まあ、ちょっと色々と有るんだよ」

 玄関口から入ってすぐ右手の所では、宿の主人と思われる老齢の男が、来ない客を待って座布団に正座していた。余程暇を持て余しているのか、時折はあくびをかみ殺し、滲んだ涙を拭っている。

「偶にはこういう日も有るのさ……ああ、平和だねぇ。お茶飲むかい?」

「ううん、要らない。それよりさ、やっぱりお客さんが来ないのって、あの通行止めのせい?」

 湯のみを持ち上げた老齢の男は、瞬き二つ分だけ動きを止める。それから、何事も無かったかの様に、あまり上等な香りはしない茶を啜った。

「そうかも知れないし、違うかも知れないねぇ。まあお嬢ちゃん、うかつな事は言わないものさ。高札には従ったかい?」

「私の連れが滅茶苦茶な奴でね、字が汚いって読むの拒否してた」

「はっはっは、聞かなかった事にしておくよ」

 座布団の横の床に座る村雨に、男は顔を向けない。全く別な方向を見たまま、茶を啜りながら、飽く迄も預かり知らぬ事と言った風情で言葉を続ける。

「もう何日かしたら、賑やかになるのかもねぇ。だけど、今は駄目なんだ……はーぁ、困った困った。高札を立てた人達が、その内、この宿にも来るかも知れないよ」

「その時には、私達がいたら迷惑になるのかな?」

「うちは宿屋だよ、お客さんを泊めるのがお仕事だ。お客さんが居て迷惑だ、なんて事は言えないねぇ。だけど、その時に偶然出かけたりしてくれてたら、色々と面倒な事が減っていいかなぁ……」

 この男――宿の主人の意図は明白である。高札の内容は苦々しく思っているが、壁に耳あり、はっきり口にする事を憚っているのだ。

「ふうん、そうなんだ……あ、そうだ、おじさん。私達、ちょっと用事が出来ちゃったんだ。それでね、早めに宿を引き上げようと思うの」

「おや、それは残念だね、仕方がない。それじゃあお代の方なんだが……」

「二人で三十文、でいいよね? 布団を使った訳じゃないんだし」

 高札破りの犯人を宿に置いておけば、どんな厄介が舞い込むか分からない。既に舞い込み済みだと知らない宿の主人は、正当の料金を要求しようとする。機先を制したのは村雨であった。

「はっは、怖いお嬢ちゃんだ。うちは銭湯じゃ有りませんよ、お部屋で休みもしなさった。三十文というのは、そりゃお一人様のお値段にもならんでしょう……お二人で八十文かねぇ」

 流石に飯も食わさず布団も貸さずで、真っ当な宿泊料の請求は出来まいと見たか、請求金額を随分と引き下げてくる。どうせこの金額もはったりで、最後は五十文くらいに抑えるつもりなのだろうと、村雨も疑ってはいた。

「んー……ちょっと高いなぁ。それだったら、普通に泊まってちゃんと宿代を払うよ」

「急ぎの用なんじゃなかったのかい?」

「予定は未定って良く言うじゃない」

 やはり、商人というのは難敵である。小さいものであろうが、利益を簡単に手放しはしないのだから。どうやって認めさせたものかと思っていると、ずるずると何か引きずる様な音が聞こえてきた。

「おお、ここに居たか、村雨。出かける準備は良いのか?」

 姿を見せたのは、まだ髪から湯気が立ち上っている桜と、引きずられている襲撃者の男。そして、折れていない方の腕を背中に捩じりあげられた、襲撃者の女であった。
 宿の主人は、にこやかな表情を保ったまま顔を青ざめさせる。宗教団体といさかいを起こすのは損、だからこそ回りくどい言い方までしていたというのに、その配慮を完全に粉砕する奴が出てきたのだから。宿の主人は、手ひどく痛めつけられた二人が、拝柱教の信者だと分かっていた。何せ襲撃前、露天風呂に近付くなと、わざわざ念を押しに来た二人だったのだ。

「……あはは、こういう事なんだよねー……だからさ、おじさん。出て行って上げるから、宿代は無かった事にしてくれない?」

 もう、こうなってしまえば聞き分けの良さを発する必要など有るかと、村雨も開き直った。否と答えれば居座るぞ、そういう脅しの意図が言外に含まれていた。

「あっははははは……ひえぇ、敵わん敵わん、参りました。せめてそちらのお二人は、手当の為にも置いていって頂けませんか?」

「こちらの男は構わんぞ。女の方は駄目だ、道案内をさせる」

「では、その様に。勿論お代は頂きませんとも、頂きませんから、あの、早めにお立ちになって下されば幸いです」

 こうなれば儲けより厄介払いだ、保身に走る早さは流石に老練である。平身低頭する宿の主人を背に、桜は早々に玄関口を出ていった。

「ごめんね、ごめんね、でもお金の方があんまりね……じゃ、さようならー!」

 柔らかい表情の中、宿の主人の口元が、歪になっているのを村雨は気付いてしまう。が、旅の恥は掻き捨てとも違うが、どうせもう会わぬ人間だ。自分が何時の間にかずうずうしくなっていた事を、村雨はたっぷりと理解させられたのであった。








 襲撃者の女の腕を捻り上げ、鼻に短刀を突き付けながら、桜は道案内をさせていた。
 目的地は、拝柱教の司祭とやらが居る教会である。殺すつもりで人を送り込んでくるならば、寧ろ自分から出向いて叩き伏せようというのが、桜の魂胆であった。
 村雨としても、襲撃を警戒しながら旅を続けるよりは、安全を確保しておきたい所だ。手を出してくる相手を先に叩く、その方法に異論は無い。敵の本拠地に踏み込むのは賢い手段ではないとも思ったが、然し他のやり方も見つからないのだ。
 どうせ、一宗教団体の狂信者如きで、この化け物も怯え竦む怪物を傷つけられる筈も無い。人格的な面では兎も角、強さという一点に於いては、村雨は桜に絶対の信頼を寄せていた。

「おい、村雨。この方向で間違いは無いのか?」

「んー……そうだね、臭いが残ってる。さっきの男と、そこの人の臭い」

 敵対者の道案内を、完全に信用する訳にはいかない。村雨の嗅覚という裏付けを取って、正しいと断言できる道を辿っていく。
 草木生い茂る山では有るが、何度も人が通った形跡か、はっきりと道が出来ていた。それを辿っていくだけだったから、然程難しい探し物でもない。道を誤る事なく、四半刻に少し足りない程に歩いた頃である。

「あの、あの白い建物です……ほら、その木の向こうに見える……」

「おお、あれか。中々に大きな教会だな、どこからその金を集めたやら」

 案内をさせていた女が指差した方向に、まだ遠くは有るが、白塗りの壁が見えた。桜は片目をつぶり、もう片目だけで、その建物を眺めている。
 日の本にも外国文化が流れ込んでいるとは言え、この箱根の辺りはまだまだ、江戸に風習が近い。ましてや山中ともなれば、その西洋風の建築の違和感は計り知れなかった。緑の中に割り込んだ白は、自然の中に紛れ込んだ不自然と呼びかえても良いものだった。

「このあたりから、人の臭いが混ざり過ぎてるね……うん、何人居るかは分からない。数え切れないくらい。……なんか、金属の臭いが結構強めに混ざってる」

「武装していると?」

「多分。でも……なんだろな、私達と別な方向から続いてる臭いが……武器持ってる人達は、外から来たのかも。どっちにしても、あの建物に臭いは向かってる」

「そうか、ならば当たりだな」

 罠を恐れていないのか、それとも仕掛けている筈がないと高を括っているのか、桜は正面から建物へ近づいていく。いつかの、盗賊の洞窟に赴いた時と同じだ。
 そして、結果論では有るのだが、その行動は成功する。信者も歩きまわる筈の場所に、罠を仕掛けておく様な真似は出来なかったらしい。何者かの襲撃を受ける事も無く、桜は、教会の大扉の前に辿り着いた。
 扉の向こうでは、おそらく指導者であろう立場の者が、大声を張り上げて説教をしている。漏れ聞こえる言葉を聞いて、桜はまたおかしそうに、クスクスと喉の奥から笑うのだった。

「……桜、どうするの?」

「知れたこと、このまま踏み込むのよ。が、暫し待て……おい、ここにはどれだけの人間が居る?」

「はっ、はぃい! 信者が百二十六名、うち戦闘訓練を受けたものが二十五名……と、捕虜が三十名です!」

 すっかり牙を抜かれた女は、軽く鼻を突かれるだけで、聞いていない部分まで事細かく口にする。村雨からすれば、正面突撃などは無茶な話であり――桜からすれば、とてもではないが食い足りない数だ。然しながら、それよりも気になるのは、捕虜という項目である。

「……捕虜? どこから捕まえてきた?」

「あ、朝方で私は関わっていませんが……幕府側の兵、三十人が地下に閉じ込められています……信者の居住区に、攻め込んできたので……」

「三十人を捕虜? え、戦闘訓練受けたの、二十五人って……?」

 村雨は、耳を疑った。宗教団体の行う戦闘訓練というものが、どのような内容なのかは知識がない。だが、まさか幕府の兵士を捕虜にしてしまえる程の戦闘力を持っているのか――兵士というものは、戦う事が仕事だと言うのに。

「桜、ちょっとヤバくない……? 裏側とかに回り込んでさ、いきなり司祭に不意打ちして人質にしちゃうとか……」

「面倒だ、却下」

「やっぱりそうだよねー……はい、分かってました。無駄な質問してすいません」

 いざ突撃となったら、自分は桜の背後に隠れている事にでもしようか。最初から弱気を見せている村雨であった。

「あ、あの……此処まで案内したのですから、その、私は……?」

「おお、そうだな、そうだった。案内御苦労、お役目御免だ」

 この先に不安しか抱えていない村雨に対し、ようやく解放されるという事で、襲撃者の女は安堵の表情を見せた。緊張の糸が緩み、反動で涙すら零す女は、その場を逃げる様に立ち去ろうとして――

「待て、別な仕事だ」

 後ろから、折れていない方の肩を、桜に掴まれた。
 女は、浮遊感を味わった。自分が仰向けに空を見上げていると気付いた。帯と肩を支えに、高く掲げられているのだ。

「ええ、えええ、待ってください、止めて、そんな」

「求むるぞ、さらば与えたまえ。門をたたく者は開かるるなり!」

 脚をばたつかせる抵抗は、何の意味も生まない。桜は女の体を毬か何かの様に、閉ざされた扉へと投げつけたのだった。








「――故にわれらが救世主メシアである大聖女エリザベートは、この国を、神の御心を説く為の拠点としてお選びになったのである。大聖女の悲願である塔の建築が達成された時、我らもまた彼女の導きによって、天の国での永遠の生を得るのである!」

 聖言至天の塔教団司祭、ガルシア太瀬久蔵おおせきゅうぞうは、勤勉という言葉からは程遠い男であった。米問屋の家の二男坊として生まれた彼は、高度な教育を受ける機会を、望めば幾らでも手に入れられた筈だった。然し彼は、自分を磨き価値を高めるという事に、何の利益も見いだせなかったのだ。生まれついて金は有る、欲を張らなければ生きていく事は出来る。周囲の勧めの通りに流されているのは、彼に取って幸福な生き方だったのだ。
 だが、その様な生き方を続けて、報いを受けない筈が無い。業を煮やした親に勘当を受けた彼は、その日に食う物さえ困る有り様と成り下がる。聖言至天の塔教団――拝柱教に出会ったのは、物乞い生活の最中であった。
 最初の印象は、なんと馬鹿な連中が、もっと馬鹿な連中を騙しているのだろう、という物だった。何処かの阿婆擦れ女を崇めれば、死後に良い生活を出来るなど、世迷言もいい所だ、と。然しながら彼は同時に、それを説く司祭の恰幅が良く、そして非常に上質の絹を身に纏っている事にも気付いたのだ。
 馬鹿を騙せば良い暮らしが出来る、久蔵には容易い事だった。嘘を付くのは得意であった上に、久蔵は背が高く、銅鑼の様に大きな声をしていたのだ。胸を張って大声で、借り物の主張を説く。それだけで何時の間にか久蔵は、司祭として信者百人以上の上に立つ暮らしに辿り着いていた。

「この人の世を見るが良い、なんと浅ましく醜い世界だろうか! 貧者は愈々貧し、富者は更なる富を得る。善き人が富むのではないのだ! 然し善良なる我らが天の国に至るならば、悪にして栄えた者を百倍したよりも貴い、真なる反映を得られるのである!」

 善人が救われるなど、有りはしない。賢い奴が得をするのだ。商家に生まれた久蔵は、それを本能の域で知っていた。
 こうして聞こえの良い言葉を並べるだけで、馬鹿は己の善性とやらを示す為に、幾らでも財産を貢ぐだろう。塔の建築費用などと言っていたが、どうせ救世主とやらの放蕩に消えるのだ。幾らか分け前を頂いても、誰も文句は有るまい。上納金から少しずつ抜き取った隠し財産は、実家の米問屋の財とは比較も出来ない、巨大な金額になっていた。

「さあ、我らが神に、そして救世主に祈ろう! 我らの上に救いが降りてくださる様にと!」

 三十になるかならぬかの年齢だが、久蔵は、世の中が楽なものだと思っていた。馬鹿は幾らでも居るから、それを踏み台にし続ければ、自分は決して低い位置に落ちる事がない。

「そして、我らはまた神に誓おう! 我らは唯一無二の教えに従い、また唯一無二の教えを広げていくのだと! 一人でも多くの迷える子羊に、我らが真理を分け与えるのだと!」

 信者達の歓声、拍手を浴び、今日これからの過ごし方を考える。もう、司祭としての退屈な仕事は終わった。ここからは権限を利用し、信者を好きな様に使って、私的な楽しみを満喫する時間だ。久蔵は既に、自室に呼ぶ女性信者を、何人か見繕った所だった。
 門の外より声がする。何処かで聞いたような一節を、自分の好きなように書き変えた冒涜の文句だ。信者達の何人かが異変に気付き、背後の扉を振り返る。人間が、扉を破って飛び込んできた。

「リ、リタ!?」

 久蔵は驚愕する。扉を破って教会に入ってきた――放り込まれたのは、関所を破った者を処分しに向かわせた、リタという腕利きの女だったからだ。久蔵が預けられた武装信者の中で、最も身体能力に優れた一人、それに加えて別な男まで付けてやって、送り出したというのに。
 リタの右腕は、明らかに不自然な方向に曲がっている。骨が折れているのは、医学の素人の久蔵でさえ分かった。
 横たわるリタを大跨ぎにして、一人の女が教会に踏み込んだ。黒衣を纏い、長大な刃を背負い、長い黒髪を翼の様に靡かせる――全てが黒いその女は、ただ一つ赤い口を裂き、凄絶な笑みを顔に張り付けていた。

「――古の人に『偽り誓う勿れ、汝の誓いは主に果たすべし』と云える事有るを汝ら聞けり――然り、然り。お前は神に誓った」

 立ち並ぶ信者の群れが二つに割れる。全ての目が、聖なる場として定められた空間に、穢れを齎すかの黒に囚われていた。

「されど我は汝らに告ぐ、一切誓うな。天を指して誓うな、神の御座なれば也。地を指して誓うな、神の足だいなれば也。エルサレムを指して誓うな、大君の都なれば也。己が頭を指して誓うな、汝頭髪一筋だに白くし、また黒くし能わねば也!」

 然して、その口より矢継ぎ早に繰り出されるは聖句であった。悪魔の様に黒い女は、我こそ預言者の代行たらんと、そこにいる信者達を糾弾している様でさえあった。

「悪魔よ去れ! 儀典を奉じ、偽信を掲げ、善良なる子羊を惑わす蛇よ! その祭壇は貴様の様な邪悪の徒の立つ場では無い!」

「な、何奴、無礼な、名乗れ!」

 指を向けられ、悪魔と謗られた。平時の久蔵であったのなら、慣れ親しんだ詭弁に任せて、逆に黒衣の女を批判したのかも知れない。だが、信用していた部下の敗北と、天雷が如き叱責の前に、平常心を保てなかった。自ら、相手に名乗りを許してしまった。
 女は、背の鞘の金具を外し、長大な太刀を、床に垂直に突き立てる。そして脇差を右手に抜き、真っ直ぐに横に突きだした。信者達がどよめく、動揺が伝染していく。

「――スニェグーラチカ教会『異端審問官』、これより背教の輩に裁きを下す」

 太刀は縦の柱、女の腕は横の柱。その影は十字架を描いていた。楚々たる白壁を四つに裂く、断罪の証を描いていた。


 スニェグーラチカ教会とは、大陸に存在する、超穏健派の耶蘇教の小教会である。他宗教にも寛容であり、ましてや他教を弾圧する役人など任命した事は、二百年の歴史に一度たりと無い。
 それは、雪月桜という女が持つ知識と威容を総動員しての、堂々たるはったりであった。








 正しく、驚き呆れるという言葉が適切だろう感情を、村雨は抱いていた。一体人はここまで、信じてもいない神に対して忠誠を示す事が出来るのか、と。
 おおよそ雪月桜という人間を顧みるに、彼女の生き方に敬虔さという言葉は全く似つかわしくない。我欲に塗れ、殺生を躊躇わず、酒食女色を慎むそぶりさえ無く――そも、同性愛に耽溺する事が、耶蘇教の生き方から遠く外れていた。
 一通りの悪徳に膝までを濡らした桜が、教会で聖句を説く。それはまさしく、冒涜者による礼賛であった。

「司祭を名乗りて異端を説く背教者、ガルシア太瀬に問う! 善良なる信徒を誑かし財を掠め取り偽の聖女に譲り渡す、その正義は何ぞや!」

 脇差の切っ先を司祭に向け、桜は真なる怒りを腹中に留めるかの様な形相で、問答を仕掛けた。その怒気が偽りのものであろうと知りながら、村雨は、この一手が齎す効力を既に感じとっていた。

「偽の聖女とは、貴様こそ何を言うか! 我らが救世主は、信者が為の祈りの場をこの地上に齎すのだ! 財貨無くしてはただ一つの小屋も建たんわ!」

 教えを誰かに説いている以上、その教えに関しての問答をし向けられたならば、答えない訳にはいかない。桜は、あの司祭がにわかの似非宗教家である事に、何か確信が有ったのだろう。そしてどういう事か、桜は耶蘇教の聖書とやらを、流れるように暗唱してのけるのだ。

「一体お前たちは神殿に祈るのか、それとも神に祈るのか。イエスは神殿を欲したか、この世の財を欲したか!? そうあれかしと祈るのであれば、この地上の如何なる不浄な場所であろうが、それは全て教えの庭となる。だからこそイエスは一所に留まらず、卑しき家の一つ一つまでを訪れたのだ!」

 村雨には、桜の言葉の内容が、おそらくは半分程も理解出来ていなかっただろう。だが、男の些細な反論を掻き消す様に、桜がわざと声を張り上げている事は分かる。近くに立っていれば耳に痛みを感じる程の声量で次がれる言葉が、信者達の動揺を拡大していくのも、肌に感じとる事が出来る。

「続けて問う! お前達が聖女と奉ずる者は、如何なる道理の下に救世主の名を騙るのか!?」

「大聖女エリザベートは我らの罪を赦し、我らを天の国へ導いてくださるお方である! 彼女は言葉一つにて病をいやし、また祈り一つにて悪霊を払う。これが救世主で無くして何と呼ぼうか!」

 だん、と力強く一歩を踏み出し、また桜は詰問する。司祭の顔は、事が思う様にならぬ怒りに赤く染まっていた。ここが信者達の前で無いのならば、問いを黙殺して、部下に命じて殺害させればよいだけだというのに――自分達の救世主の正当性を問われるというのは、この司祭には人質を取られているも同然だった。

「主は言えり、汝ら人に惑わされぬように心せよ、多くの者我が名を冒しけり我はキリストなりと言いて多くの人を惑わさんと! 人は人を赦す事は出来るが、人の罪を赦す事は能わず。罪を赦されるは主であり、また天であるとさえ知らぬか!」

 床に突き立てた太刀を引き抜き、桜はまた一歩、足を踏み出す。既に切っ先は祭壇に届く距離。二つに割れた信者の波は、彼らが信心を寄せる司祭が、この世ならざる者に断罪されているのでは無いかと疑い始めた。一寸でもそう思ってしまえば、罅の入った心は容易く砕ける。

「全くこの男は、この教会は白い墓の様だ。美しく飾り立てられながら、その内面には背教が髑髏の様に収まっている! お前たちまでこの男の様になるか、似非信心の壁に囲まれた穢れに堕ちるか!?」

 信者達の心の揺れが、どよめきとなって伝わったのだろう。桜は祭壇の前で信者達に向き直り、そして彼らの信心に止めを刺すべく、大口を開けて空気を肺に取りこんだ。

「救世主イエスの教えに従うそぶりを見せながら、この男がお前たちに、ろくに聖書を説くさえしなかった事が良く分かる。お前達が大聖女と崇める女が、お前達の無知を嘲笑い、地獄へ堕ちていく様を味わっている事が良く分かる! 誰一人疑問に思わないのか、悲願である『至天の塔』の冒涜を!」

 誰かが答えを返すいとまは与えない。床を踏み鳴らし、虚空に太刀の刃を走らせ、殺意を振りまいて牽制する。

「創世記に曰く、かつて天地の全てが一つの言葉を用いていた頃の話だ。シナルの地に集まった人々は、天に至る塔を建てんと欲した。名を高めんが為とも、神の座に近付こうとしたとも、またノアの洪水に対する復讐とも言われている――然し、それは赦されぬ事であった。故に主は降り立ち、人々の言葉を乱して済む地を散らし、人は異郷の者と語らう事さえ侭ならなくなったのだ」

 信者達の動揺はここへ来て、司祭への不信感へ、そして教義への僅かな不信へと転化する。彼らの司祭は、尋問官を名乗る女に対して、何一つ有効な答えを示す事が出来ていない――そも、反論は声量で掻き消されているようなものだが。神の教えを説いて司祭に勝るその女が、次に批判の対象として掲げたのは、彼らが悲願とする『至天の塔』だった。

「分かるか? 既に神が赦されぬと定められた暴挙を、エリザベートという女は為そうと企てている。不浄の財を集め、不義の教えを説き、正しい祈りの言葉一つ、己を信じる者に与えはしない! これが悪魔の仕業でなくてなんだ、誘堕の蛇でないならば何だと言うのだ!?」

 教えの根幹を否定され、反論の為の学は、信者達には与えられていない。上から押し付けられた教義を機械的に信仰し、教団に尽くす事が正しき在り方だと信じ込まされていたからだ。それが今、激しく揺らいでいる。

「……故に私は此処に使わされた、異端の教えを広める悪魔を殺せと命じられた。偽司祭ガルシア太瀬、お前には裁きが与えられる」

 既に、一般の信者は無力化した。力を奮うにあたって、邪魔になる物は無い。桜はそう判断して、また司祭へと向き直り、一歩。とうとう四尺の太刀の切っ先が、司祭の喉元に届いた。

「ひぃ……こ、殺せっ! この女を殺せぇっ!!」

 殺される、そう思ってしまえば、普段の様に外面を取り繕ってはいられない。信者達の中に――激しく動揺する彼らの中に紛れた、自分の部下。武装信者二十五名に、太瀬久蔵は命を下した。
 桜はニィと唇だけで笑い、手の中で太刀と脇差の刃を返す。似合わぬ熱信教徒の仮面を捨て、ようやく本性に立ち返る事が出来るのだ。








 まず二人、息を合わせて、短刀を腰に据えて体ごと飛び込んでくる。右手の太刀、左手の脇差、何れも峰を使い、その胴を厳しく打ち据えた。肉に刀身がめり込んでから、引くのではなく、更に力を入れて押し込む。外側へ腕を開き切れば、飛び込んだ二人はそれぞれ逆方向に飛び、壁に背を打ちつけて崩れ落ちた。
 攻防の隙を狙った三人目が、右膝を砕こうと足から滑りこんでくる。右足を高く振り上げて回避し、顔面に足の裏を振り落とした。死なない程度の加減こそは有るが、後頭部を強かに打ちつけた武装信者は、一撃で完全に動きを止める。
 四人目、五人目、六人目、次の攻め手は三者連続。先頭の一人が正面から飛びかかり、その体を遮蔽幕の代わりとして、二人が低い姿勢から喉を狙うものだった。踏みつけられて昏倒した武装信者を蹴り上げ、飛びかかってきた四人目を撃ち落とす。同時に喉を狙った刃は身を反らせて回避し、入れ違うように刃の峰を用い、彼らの脇の下を、体が吹き飛ぶ程に打ち据えた。
 襲撃者の足並みに乱れが見えた。無鉄砲な者は我先にと進み、臆病者は立ちすくむ。賢い者は、どちらに併せて動けば良いかを思案した結果、一瞬だが行動が遅れた。
 七人目、柄で顎を打たれる。八人目、突きを回避され、その隙に鳩尾へ膝蹴りを受ける。九人目、十人目、纏めて太刀の峰で薙ぎ払われた。十一人目が投げた短刀は、脇差にそのまま打ち返され――拙いと思った時には、踏み込んだ桜が、彼の胸の中心へ肘を打ち込み、体を打ち上げていた。

「……っく、近づくな、射を揃えろ!」

 武装信者の中でも首領格と思われる男の号令に、五人が従った。二間間合いを取り――桜なら一足で踏み込める距離だが――腰に付けていた小弓に矢を番える。全員が番えたと見た瞬間、首領格の男が矢を放った。僅かに遅れて、残りの四人が、ほぼ同時に矢を射る。桜の前方百八十度に位置した射手の矢だ。魔術を以て防ごうにも、詠唱が間に合わぬ距離の筈であった。
 最初の矢が弓から離れた瞬間、一切の前兆を伴わず、炎の壁が立ち上がる。それは物理的な硬度を融資、飛来した矢の全てを、まるで雪玉であるかの様に防ぎ落した。桜の持つ『代償』の力、視認するだけで発動する灼熱の防壁であった。

「汝殺すなかれと主はおおせになった。私は、お前達愚か者を殺さない。愚かな者にはまだ、救われる望みが有るからだ」

 炎の壁の向こうで、桜は脇差を鞘に納める。太刀ただ一振りを右手で高らかに掲げ、地が震えて生まれた様な声で告げた。
 炎が消えてしまうと同時に、首領格の男の首が、桜の左手に掴まれた。咄嗟にその手を掴み返した男だったが、強烈な頭突きを受け、意識が飛ぶ。力の抜けた男の体を、桜はまた、自分に矢を射かけた一人へ投げつけた――これで十三、過半数を無力化したのである。

「然し、邪悪な者は救われる事がない。この世に在りて害を無限に為す者は、誰かが殺さねばならぬのだ――例え殺した者が地獄に堕ちようとも」

 既に率先して桜へ飛びかかる者はいない。誰かが一歩を踏み出すまで、自分もその場で足踏みを続ける日和見ばかりだ。相手が尋常の強さであるなら、数で押し切る事も出来よう。だが、この相手には自分が百人居ても足りぬかも知れぬと、彼らは恐れに飲み込まれていた。

「さあ一切の希望を捨てよ、これより私はカロンとなろう! 我が行く末は憤怒の地獄、貴様等が逝くは第六の火圏! 主の赦しを与えられぬままに死にたい者は、この白墓の内に留まるが良い!」

 桜が、太刀の刃を返す。これまでの峰打ちを捨て、斬り殺していくとの意思表示だ。もはや勝ち目など無いと悟らされた武装信者十二名、そしてそも抗う術など持たない信者達に、桜は狂気を孕んだ笑みのままで近づいていく。

「に、逃げろ、逃げろーっ!」

 誰か一人が叫んだ、それが堤防に開いた穴。信者達は雪崩を打つ様に、破られた正面の扉から教会を抜け出していく。信仰心を捨てた訳で無かった。信仰心を持つが故に、地獄に堕ちる事を恐れたのだ。悪魔と断じられた司祭の伴をし、悪の嚢に振り分けられる事を恐れたのだ。
 詰め込まれた信者がいなくなってしまえば、そこは酷く寂しい空間だった。白壁に人の温かみは無く、飾りでしかない祭壇には、野卑を絵にした様な男が立っているだけ。怒りで顔を紅潮させながら、同時に恐怖で醜く歪んだ顔は、聖職者を騙るにはあまりに粗末な滑稽さであった。

「……色々と言いたい事は有るけど、お見事」

「お前こそ、中々に見事。良い仕上げであったぞ」

 両掌を何度か打ち合わせながら、村雨は何かおかしなものを見る様な目で、桜の隣に立った。
 実は、逃げろと叫んだあの声は、他ならぬ村雨の物であった。主体性を持たず、他者に流される事でここまで辿り着いた集団だ。切っ掛けを一つでも与えてやれば、瓦解するに違いないと踏んだのだ。
 結果は、村雨の予想を超えて、意図せぬ領域で完全であった。信者達には聞き慣れぬ声音であっただろうが、百人を超える信者全てを記憶し、あの状況下で冷静に判別できる者などはまず居ない。

「全くもう、どこで覚えたのさあんなの……白々しさが凄くて、笑いを堪えるのに苦労したんだけど?」

「まあ、気にするな。教えてはやるが、今はあの男を締め上げるのが先だ。と言っても、もう邪魔をする力など残ってもおらんだろうが」

 既に、司祭は手持ちの兵力を失ったも同然だ。一般信者の心は離れ、武装信者は戦闘継続が不可能。これまでの厳めしさの仮面を脱ぎ捨てたとは言え、刃渡り四尺の太刀を手にした桜は、依然として恐怖の対象である。

「くぅ、おお……! この、このクソ女、俺の教会のっ! 俺の、俺の信者をぉっ!」

 歯ぎしりして喚いても、司祭ガルシア太瀬には、桜に対抗する手段が一つも無い。ただ喚き散らし、捉えられるばかりに思えた。
 桜が伸ばした手が、虚空で何かに触れたかの様に食い止められる。それと同時、桜は、己の首に何かが巻きつく感触を、確かに味わった。

「……おい、村雨。お前の鼻は、何かを捉えているか?」

「え? 何かって、何を……?」

 何の音も聞いていない。村雨も、臭いを感知していない。視線を落としてみても、自分の首には何も触れていない。だというのに桜には、間違いなく首を腕で絞められている実感が有った。首の筋肉で血管と気道をこそ守っているが、それは、決して愉快な感触では無かった。

「……っ、らあぁっ!」

 桜は、左拳で、自分の後頭部より更に後ろを殴りつける。手応えはないが、同時に首が絞められる感触も消えた。

「外したか、ふむ」

「どういう首をしているのでしょうね。成程、此処の武装信者では勝てない訳です……だから、欲を出すものではないと進言しましたのに」

 いぶかしげな顔で振り向いた桜の左手側、おそらくは三間程の距離から声が聞こえる。桜が聞いた限りでは、村雨よりは少しばかり大人びた、だがまだ少女と呼ぶが正しいだろう声。自分の攻撃の失敗を他人事のように語る、その感情の起伏の薄さが――どういうわけか、桜は気に入ってしまった。

「今の声は、え……? うそ、居ない、臭いが無い――」

「村雨、お前はそこの男を捕まえろ! 居るぞ、何かが確かに居る。これは面白い相手だ、私に寄こせ!」

「あ、うん……分かった!」

 状況は把握出来ていないが、敵がいる事は分かった。そして、自分が何を求められているか、も。僅かに気を取られている間に、司祭は既に何処かへと逃げ出していた。だが、こちらは臭いを追う事が出来る。床に両手を付いた獣の姿勢から、村雨は逃げた司祭を捕えるべく走りだした。
 村雨が向かったのは、居住区の方角。建物の中央に位置する教会には、何も知らぬ人が覗き込んだのなら、立っているのは桜だけだ。

「追うなよ、お前が追えば私もあちらに向かう。あいつなら生かして捕えるが、私ならまず斬り殺す」

「殺せば地獄に堕ちると、貴女自身がおっしゃったのでは?」

「聞いていたのか? 地獄など私は信じておらん」

 だが、声は二つ。その内やや高い方は、教会の中を歩き回っている為か、音の出所が一定していない。

「信じぬものを理解している、とでもいうのですか?」

「信じるものを理解せぬ、それがお前達の在り方だろう。逆が存在せぬ道理が有るか」

 姿は見えず、声はする。隠蔽魔術に長けた相手か、それともまた別種の異能か。それを探る事よりも、問いに答えてやる事の方が重要であると、なぜか桜は感じていた。不可視の敵もまた、存在遮断からの奇襲を刊行しようとしてこない。

「もしもエリザベート様の教えが偽の真理だと言うのなら、では何が正しい事なのでしょう」

「知らんわ。そんなものは自分で考えろ」

 突き離す様な言葉を向けても、反応が見えないのはつまらないと思った。顔を見て答えてやりたかったが、その為にはまず捕まえる必要が有る。太刀も腰に戻し、桜は両手を軽く開き、正中線に沿わせて構えた。

「……私は、自分で考えた事が有りません。命令をこなしていれば、それで良かったので」

 少女の声は、自分を嘆いたり悔んだりしている様には聞こえない。事実を挙げて、それに関して解けぬ疑問を見つけ、その前に立ち往生している様な――算術の問題に何処から手を付けて良いのか分からない、出来の悪い生徒の様な声であった。

「では、今受けている命令は?」

「教会の敵を排除せよ。つまり、貴女に対する殺害命令です」

 命令の復唱は、思考をする必要が無い事だ。全く迷いなく、少女の声は言い切った。

「そうか。なら、やるとするか」

 号砲の代わりは、そっけない一言。押し黙った少女は、その存在の手掛かりを完全に消し去ってしまった。








 少女の放った一撃目は、いきなり桜の目を狙ったものだった。視覚を奪う意味も有るが、眼球は鍛えられない弱点である。右手親指と人差し指を使い放たれた一手を、桜は左手を軽く持ち上げて防ぐ。見えた訳ではない。顔の大半を大雑把に覆う事で、見えぬままに防御をしたのだ。
 続けざまに右爪先蹴り、すかさず脚を引き左拳による鉤打ち、何れも桜の腹に突き刺さる。こちらは防御の横を通り抜け、遮る物もなしに命中した。
 腹に感じた衝撃に併せ、桜が右手を伸ばし、肩の高さを横に薙ぎ払う。手応えは無い、避けられた。その時には少女は、床にしゃがみ込んでいた。床についた手を軸に体全体を回転させ、伸びた足で放つ水面蹴り。桜の右膝に、それが叩きこまれる。
 跳ね起き、少女は桜の側面に回る。右拳で顎、左拳と右膝で脇腹と続けざまに打った。左背足による上段回し蹴りが後頭部を狙ったが、命中前に、桜が少女の居る方角へ向き直った事で、右側頭部を打ち据えるに留まる。

「ほう、これはこれは……」

 頭に感じた衝撃を追って左手を伸ばす、空を切る。踏み込みと共に右手を伸ばす、指先が少女の体を掠めた。桜は打撃ではなく、掌握を狙って手を繰り出す。然し、少女は捕まらない。一つの流れを終えれば次、また次、位置を変えて攻撃を続けているのだ。
 そしてまた、その打撃の一つ一つが、少女の物とは思えない程に重い。身体強化の術でも使っているのか、それとも質量変化と硬化の並列だろうか。体に触れてからの押し込み、芯まで響かせる力が極めて強いのだ。
 桜は、心底愉快そうだった。顎を蹴り上げられながら、右手を伸ばす。中指が少女の首に引っ掛かった、直ぐに外された。かと思えば、背中を強く蹴りつけられる。振り向きざまに左手を伸ばすと、続けて放たれていたらしい蹴り足と、空中で衝突する。その反動で少女は後方に引いたのか、もう一度手を伸ばしても、何にも掠りはしなかった。

「楽しいなぁ、実に楽しい。全く全く、阿呆の司祭の下に置くには惜しいぞ」

 最初の目を狙った一撃以外、どれ一つとして、桜は回避出来ていない。だというのに、やはり楽しげな様子は変わらないまま、桜は両腕を顔の高さにまで上げた。胸から上だけを守る、正面すらろくに見えない構え。それは、攻撃を捨て去った様にさえ、見えるのかも知れない。

 然し、焦りを覚えていたのは少女だった。ここまで命中させた打撃に、何れも手心は加えていない。一つ一つが、或いは呼吸を断ち、或いは転倒させ、或いは意識を狩り取る為の打であったのだ。それが、桜には全く通用しない。
 姿が見えない事を利点とし、予備動作の大きさを全く意に介さない、右足裏で押す様な蹴りを放つ。ガラ空きの桜の腹部にそれは命中し、然し後方に倒れたのは少女であった。壁を強く押した時と同じ様に、反動で後方に押し返されたのだ。

「くっ……ぇえ、いやぁっ!」

 転倒し、すぐさま立ち上がり、裂帛の気合と共に拳を放つ。声は隠蔽魔術により完全に消し去り、拳は身体強化の術を用いて、並みの男なら軽く殴り倒せる程の威力を持たせてある。それがやはり腹へ命中して、桜は息を詰まらせる様子も無い。
 拳を引いて反動を付け――と、悠長に戦えはしなかった。衝撃の向かってきた方向へと、桜は手を伸ばしてくる。この動きも少女から見れば、少しずつ早くなっている様に思えていた。
 実際の所、手の動く速度は、あまり変わっていない。ただ、少女が攻撃してから桜が反撃に映るまでの時間が短くなっているのだ。最初は、三発も四発も拳を打ち込めそうだった。今は、一つ拳を打ち込んだなら、直ぐに離れなければ捕まるという予感が有る。
 あと幾つ、拳を打ち込み、足を叩きつければ、この女は倒れるのだろう――僅かにでもよろめくのだろう。攻撃を与えている筈の少女だが、その手足は既に、痛みを訴える程の状況にあった。

「……ふむ。楽しいが、こんなものか……まだ温いな」

 ついに、桜は、顔を守る腕さえ降ろした。ただ平然と立って、見えぬ相手を追いまわす事さえ止めてしまった。その構えは決して、戦場に有って良い類の平穏さではなく、

「どうした、疲れたか。それともまだ、聞きたい事でもあるのか?」

 隙を見せた相手には、躊躇せずに攻めるべし。少女は、習った通りに実行に移す。全身に掛けていた身体強化の術を、右腕だけに集中して掛け直した。自分の動きは気取られる筈がない、正面から――念を入れて、慎重に足音を消して接近する。手の届く間合い、人差し指と中指だけを伸ばし、右手を掲げた。
 一切の予兆を排除した、眼球への攻撃。眼球を抉り、眼窩から脳を狙う、慈悲を忘れた文字通りの必殺。身体強化が生んだ高速の、目でなくとも肉を抉る事は可能だろう指先の刺突は――

「無いなら、次は私の番だ。異論は認めんぞ」

 いとも容易く、桜の左手に受け止められていた。指の股の間に中指を入れられ、残りの指を掌に包みこまれる、完全に捕えられた形で、だ。
 右手を引きつつ、左手で桜を殴りつけて逃れようとした。楔を打たれた様に右手は動かず、左手は桜の顔に届く前に、軽く右手で打ち払われる。

「何で、見え――」

 完全に姿は消していた筈だ、予兆など掴めない筈だった。そういう術だと教えられ、疑いもせずに使い続けてきた。信頼ではなく盲信、それ以外を知らぬという術が破られ、少女は次の手を見つけられず、捕えられたまま硬直した。

「手が此処で、腕がこう……肩、首。背は思ったより有るな、身も適度に締まっている。良い鍛練を受けてきた様だが……」

 桜の右手が、少女の右手首を掴む。そこから前腕、肘、肩へと、指先が伝っていく。姿の見えない相手がどういう体付きなのか、脳裏に想像図を作る為だ。肩から鎖骨、一度降りて脇腹、また肩。その手に対して、少女は、これをどうしたら良いのかと迷い続けていた。

「……所詮、人形の侭では何も出来ぬのよ。少しは自分で考えろ、という事だ」

 肩、鎖骨、桜の指が伝い――それが首に巻き付いた時、ようやく少女は、この場での対抗手段に思い当る。首を絞める手を引きはがし、呼吸と血流を確保せよ、身を守る手段のうちの一つだ。

「ぎぃ、ぁっ……ぐ、お゛お゛ぁ……、ぁ、っか……」

 指の一本も外す事は出来ない。少女の苦しげな声は、やはり魔術の支配下に置かれ、外へ漏れる事は無い。抵抗する手の力が、桜の呼吸一つ毎に弱くなっていく。こめかみを内側から押し上げられる様な痛みが、視覚も聴覚も全て霞ませていく。
 桜は左手を伸ばし、少女の左胸に触れさせた。心音は伝わる、まだ高い体温も伝わる、生きている。満足気な笑みを零し、見えぬ体を引き寄せた。

「考え方は教えられんが、知識ならばくれてやる。来るか?」

 きっと耳が有るのだろう位置へ口を寄せ、薄れていく意識にも伝わる様に、桜は少女を――平たく言うなら、口説いた。

「……っぁ、が……、い、ぁ……――――」

 どう答えよう、こんな場合のやり方を習った事はない。迷った少女だが、なぜか思いついてしまった言葉を口に出そうとした。押しつぶされた気道では正しい発音も出来ず、言い直す前に、少女の意識は途切れた。

「……さて、もう村雨も、あれを捕まえた頃だろう」

 気絶した少女を肩に担ぎあげ、桜はのんびりと歩き始める。村雨の足なら、あの司祭を取り逃がす事も無いだろう。そして、実力行使の必要が出たのなら、まず負けはするまい。旅の相方として選んだ村雨を、桜は十分に信頼していた。








「おーうい、どうだー、捕まえたかー」

「捕まえたには捕まえたけどー……うーん、喜べない状況になってるからちょっと来てー」

 先の戦闘で気絶させた少女を担いだまま、村雨の向かった方角へと歩いていく桜。少し声を張り上げて呼びかければ、なぜか床の下から答えが返ってきた。

「んん? どうした、床でもぶち抜いたか?」

「地下室に居るに決まってるでしょー、左の部屋の床が持ち上がってるから、そこから降りてきて」

「ああ、こっちか……中途半端な仕掛けだな」

 村雨の声に従って、近くに有った部屋に入れば――ちなみに、桜から見た場合は右であったのだが――確かに、その部屋の床が持ち上がり、階段が見えている。おそらくは有事の際に脱出する為の、地下の隠し部屋なのだろう。特に警戒する事も無く、桜は階段を下りていった。
 地下室は、外の灯りを取り込める作りになっている様で、名称から受ける印象より随分明るかった。だが、教会の無機質な白壁をそのまま使っている為に、納骨堂の様な雰囲気も有った。
 村雨が居たのは、階段のすぐ下である。司祭ガルシア太瀬が昏倒して倒れており、その背の上に座っていた。

「無傷で仕留めたか、やるな」

「階段降りてたから背中蹴っ飛ばしたの、そしたら勝手にのびちゃった。図体でかいのにどんくさいね……と、質問に答えた所で次は私の詰問の番です、そこに直れ」

 桜と少女の戦闘が終わるより随分早く、この司祭は勝手に気絶してしまっていたらしい。余計な心配こそはしていなかったものの、やはり安堵の表情を桜は見せる。然しながら対照的に、村雨は、余計なものを連れて帰った子供を見る母親の目になっていた。

「肩のそれ、何よ。引っぺがして連れてきた訳じゃないでしょうね」

「これは最初からだ、私では無いわ。私がその様な事をすると思うのか」

「思う。不幸にも実体験から推測できる」

「推論は極めて正しいが、こいつが裸なのは元からだ。隠蔽術、服には効き目が無いのやも知れんぞ?」

 村雨は、桜が悪癖を存分に発揮して、気に入った相手を持ちかえったのかと思ったのだ。実質は大きく外れていないのだが、一部だけ桜は念入りに訂正する。見方を変えれば、浮気を問い詰められて弁解している様にも見えるか。

「……はぁ、つまりあの見えない何かの正体がそれって訳ね。どうするのよ、本当に……」

「信者が住んでいた場所だ、探せば服など幾らでも見つかるだろう。とりあえずは関所まで連れていって……その後どうするかは、こいつに決めさせよう」

「決めさせようって、役人に引き渡さないの?」

 司祭を椅子にしたまま、村雨が桜の顔を見上げる。何を言っているのか、と問いただす様な不満げな表情だ。命を狙ってきた集団の一人なら、突き出してしまえと考えるのは、決しておかしな事では無い。

「その男は引き渡す、関所に不当な要求をし、天下の交通を妨げた首犯だ。私達も殺されそうになったのだから、恐れながらと訴え出る理由は有ろう?」

「じゃあ、そっちの肩の荷物は?」

「透明な何かを仕留めたらなぜかこいつが倒れていたのだ。そこに因果関係は有るまい」

「たーっぷりと有る気がするけどねー。ちゃんと繋いで自分で世話しなさいよ?」

 だが、桜がそうしないと決めてしまった以上、何かを言って意見を曲げさせる事は出来まい。村雨は何時もの様に諦め半分、桜の言に従う事に決めたのだった。
 警戒心は薄れていない様で、肩に担がれた少女に顔を近づけ、その臭いを確かめた。本当に武器は身につけていないのかの確認と、人ごみなどに消えても判別が出来るようにとの用心だ。尤も、臭いまでを隠蔽してしまうこの少女の術は、村雨とは相性がかなり悪そうではあるが。

「では、行くとするか。流石に今から三島まで歩くのはちと遠い。関所にその男を付きだしたら、箱根の中で宿を選ぶぞ」

「昼間に泊まった場所はもう無理だろうけどねー……あそこのお風呂、広くて良かったのに」

 そろそろ教会を立ち去ろうという桜の言葉に、村雨は小さく跳ねるように立ち上がる。桜は、司祭の襟を掴み、無理やりに起き上がらせて、左肩に俵の様に担いだ。

「……運びづらくない?」

「いや、別に」

 人間二人を抱えて山を降りるのかと呆れたが、こと力という分野で桜を心配する必要などなかったと、村雨は思いなおす。どの様な環境であれ、地下は愉快な場所とは言えない。早々に立ち去ろうと、階段に足を掛けた。

「お待ちを。この地下道の奥に、捕虜兵士三十名が投げ込まれています」

 背後から聞こえた声に村雨が振り返ると、桜に担がれた少女が、布団干しの姿勢から首だけを起こしていた。

「なんだ、蘇生が速いな。捕虜、とは?」

「今朝、この教会に襲撃を掛けた兵士達です。ガルシア様の身に付けた十字架が、そのまま鍵となっています」

 言葉につられて、司祭の十字架に目をやる。成程確かに、十字架の一辺に窪みが刻まれている。村雨は、司祭の首から十字架を外そうとして――紐が引っ掛かって面倒だったので、無理に引っ張って千切った。

「奥でいいんだよね?」

「はい。一つの広い牢に纏めて入っている、かと。私が知っている限り、ここに牢は一つしかありません」

「ん、りょうかーい。桜、それに何か服着せといて。私はちょっと牢屋開けてくるからさ」

 この十字架、高く売れそうだ。信心深い者には決して言えない思いを抱きながら、村雨は牢の鉄格子を開けに向かう。程無くすれば、特に大きな負傷も無い兵士達は、自分の足でしっかり地面を踏みしめて帰る事になるだろう。

「ふむ、こういう時の指示は受けていたのか?」

「いいえ、いかなる時でも、捕虜を解放しろという命令は受けていません。ただ、そうした方が良いのかと思いました」

「はは、良し良し」

 少女を肩から降ろし、桜は上機嫌にからからと笑いながら階段を上がっていく。最後の一段の部分に腰を掛け、戻ってくるだろう村雨を待ちながら、少女に言った。

「考えるとは、それでいいのだ。さあ、さっさと服を選んで来い、麓に降りるぞ」








 かくして、箱根山中の拝柱教教会司祭ガルシア太瀬は、武力を盾に不当な要求を行ったことで、幕府の役人に捕縛された。後の調査で、司祭の命令で人を殺したと証言した者が出た事、また司祭が信者の財を掠め取っていた事が明らかになる。複雑な思惑が有ったものか死刑には至らなかったが、長く牢に捕らわれる事となったと言う。
 翻って拝柱教そのものには、なんのお咎めも無かった。ガルシア司祭は自分の行動を、教主エリザベートの命によるものであると証言したにも関わらず、である。
 また、箱根教会の信者達は、自分達の依って立つ場所を失った事になる。然してその人数の何割かは、別な地域の拝柱教教会に向かったのだそうだ。外部の人間に強く言われようと、自分が信じてしまった物を、容易く捨てる事はならないのだ。
 では、その何割かを覗いた残りはどうであろうか? 或る者は家に帰り、或る者は旅に出て、また或る者は他教の教会の門を叩いた。そして彼らはまた、新たな地に至った理由をこう語るのであった――黒い翼の天使が降りてきた、と。

 然しながら、その一連の件は、全て数日後の事である。関所に一度立ち寄り、箱根宿へとまた向かう桜と村雨には、全く預かり知らぬ事だ。通行止めの札は撤去され、江戸側から箱根宿へ向かう人の流れは、せき止められていただけにかなりの物になっている。これは宿を選ぶに困ると、少しばかり不安が生まれる村雨であった。

「はーあ、お礼はされたけど礼金は無しかい、世知辛い世の中だねー」

「お前、だんだんとスれて来たな。菓子の一つで喜ぶ無邪気さくらい見せんか」

 役人達には何度も頭を下げられたが、茶と茶菓子を振舞われた程度で、正式な礼も何も無し。もともと関所役人程度に其処までの権限もあろう筈無いのだから、仕方がないと言えば仕方がない。捕虜にされていた兵士達からも、貰えたのはやはり礼だけであった。

「今はお菓子よりお金なの、下手したら割高の宿しか残ってないかも知れないんだから……もう、あの教会にでも泊まれば良かったかな、宿泊設備整ってるし」

「悪くは無いな、神とやらが居るなら喜んで迎えてくれるだろうよ。あいつ、真から詫びれば大概の事は赦すぞ。なぜかイチジクには厳しいが」

「うん、言ってる事が分からない」

 学の有無という点で言えば、村雨はかなり知識が無い部類である。『錆釘』としての活動で得られる情報ならば一通り記憶しておくのだが、書物の内容などは、正直言えば滑稽本以外は目を通さない。

「あのイエスとか言う男な、時節悪く実が付いてなかったと腹を立てて、イチジクは二度と実を付けないようにと呪いよったのだ。余程の罪人だろうが、信仰心さえ有れば赦すと無意味に寛容な男なのだがなぁ」

「……なんでまた、そんな変な事に詳しいのよ。全く縁のなさそうな話なのに……あれ、結局どこで覚えたの?」

 だが、信仰心の薄さという点で言えば、自分よりむしろ桜の方が度合いは激しいと、村雨は思っていた。だからこそ、桜が聖句を告いだ事が不思議でならなかった。そう言えば、後で教えると言われていた事もあり、この折りに聞いておくかと話を向けると、

「ああ、言ってなかったな。私は一応キリシタンなのだ、全く神を信じてはいないが」

「……はい?」

 あまりと言えばあまりに、耳を疑う様な事を言われてしまった。村雨が思い描くする聖職者というのは、己の身を削って他者と神に奉仕する、いわば慈愛が人間と化した存在の事である。こんな血生臭く、そして身勝手に生きるものである筈がない、と考えていたのだから。

「本当だぞ? 師が熱心なキリスト教徒でな、なし崩しに知識は叩きこまれたし、洗礼まで受けさせられた。スニェグーラチカ教会の信者名簿でも漁れば、私の洗礼名も何処かに有る筈だ」

「はらー……それなのになんで、こんな生き物が出来上がるのさ」

「おい待て、随分な言い様ではないか」

 桜は笑い飛ばす様に言うが、村雨はやはり信じられなかった、と言うより信じたくなかった。幼少期より正しいと教え込まれた事の一切に反抗する生き方など、そう簡単に理解できるものではない。自分の価値観を今から正反対にしろと言われて、それが実行できるだろうか?
 そしてまた、神の正しい教えとやらに満たされて育った筈の人間が、この様に己の道だけを信仰する生き物になってしまう事も、村雨は信じたいと思えなかったのだ。実際にそうなってしまった実例が、隣を歩いているにも関わらず、である。

「大体だな、聖書とやらが曲者なのだ。誓ってはならないと説きもしながら、別な項目では誓いの在り方について説く書物だぞ? 何を信じて何を信じなければならんかなど、自分で選べねば矛盾が過ぎてたまらんわ」

「んん……良く分からない。難しい本なんだって事は分かる」

「へぇ、そうなのですか……そういう記述も有ったのですね」

 一つの書が矛盾を内包するなど、特に珍しい事でも無いのだろうが、現状で混乱の渦中にある村雨では理解が及ばなかった。軽く頭を抱える様にして歩いていると、後方から声が聞こえる。
 だが、振り返ってもそこに誰の姿も無い事は、良く分かっている。ただ絹ずれの音に草鞋が地を滑る音、そして人の声と臭いが有るばかりだ。

「おお、聖書なぞ、所詮は人が書いたものだ。神の子の言葉を記述していようが、何処かでおかしくもなるだろうて」

「ならば私達は、どの様な根拠に則って、どの言葉を信じれば良いのでしょう」

「それこそ自分で考えろ、他人に聞く事でも有るまい」

「あー、ちょっとちょっと、お取り込み中失礼二人とも」

 姿の見えない少女と桜の会話に、村雨は体ごと割り込んだ。ずるずると宗教談義をされるより先に、明らかにしなければならない事があるのだ。

「……この人、なんで付いてきてるの?」

「いやまあ、付いてくるなら好きにしろと言ったら、本当に来てしまってな」

「深い理由も有りませんが、私が留まる場所が無くなってしまいましたので」

「……あのねー、旅費は二人分の往復程度しか想定して無いの!」

 えー、と桜がぼやき、頬を膨らまし口をとがらせる、分かりやすい不満の表情を見せる。後ろの少女はそもそも見えない、どんな顔をしているのやら。村雨としては、彼女が自分の旅費を持ち合わせていないのなら、このまま同行させる訳にはいかなかった。

「私、旅費が掛かりませんよ。いつも旅先では、屋根裏に忍んで寝ていました」

「……いやさ、食費とか着替えとか」

「適当な場所を見繕って失敬していましたが」

「泥棒じゃん!?」

 そして、この少女は問題の本質を理解していないのかも知れない。存在を完全に消せる少女は、確かに最高の盗人になり得るのだろう。が、万が一それがバレてしまったら、村雨達まで道連れにしょっぴかれかねない。

「気付かれない様に実行すれば、大概の行動を咎められることは無いのだと習ったのですが……」

「捕まらないのと悪くないのは別なの、小さい子でも知ってる事でしょ?」

「へぇ、そうだったのですか……成程、覚えておきます」

 桜も大概だったが、この少女はどうやら、それ以上に世間と常識を知らないらしい。やっぱり置いて行こうと言うつもりで、半ば疲れた様な表情で振り向けば、満面の笑みを浮かべた桜が其処に居る。

「そういう訳だから、いざとなったら走るぞ。なあに、捕まらなければ問題は無い」

「嫌だー、私はもっと安全な旅をしたいんだー!」

 旅は道連れ世は情け、この女、情け容赦無し。厄介な道連れを一人増やし、京への道はまだまだ続くのである。その内、頭痛か胃痛で自分が倒れるのではないかと、村雨は気を揉むのであった。