雪原の夢のお話
「太平、太平、天下太平。あっちの騒ぎも対岸の火事、ってかねえ。でがしょう、傘原様?」
「いや、全くだ源悟。ただね、出来るなら向こうの火も消してしまいたい。どうしたものかねぇ」
十月三十日、江戸の町。京の町は人死で大騒ぎだが、こちらは未だに緩やかな日々を送っている。今日も大八車がガラガラと、西へ東へ駆けまわっているのだ。
だが――奉行所の縁側で茶を啜っているこの二人は、心の平穏とは無縁であった。
現状、幕府は政府の下部機関となっている。故に政府の意向は、幕府も汲まねばならぬのだ。然し――そんな事を実行できる筈も無い。
深く考えずとも当然の事だ。仏教から真っ当な基督教から、その他雑多な宗教まで片っ端から皆殺し。それを真面目に実行したらどうなるか――江戸の町から人はいなくなるだろう。
京の治安維持部隊とて、馬鹿正直に仏教徒を殺し尽くしている訳では無い。信仰心の大小を問わねば、日の本の人間の九割以上は、仏教と何らかの縁が有る。だから手抜きは許されるが――全く一人も殺さない、という事も難しい。
「傘原様、どうにかならねぇんですかい? あっしら盗人なら平気で斬りますが、それ以外はちょいと、ちょいと」
「どうにかしたいねぇ。私も無体な事はしたくないんだが……どうもお奉行様が真面目で」
「真面目な方なら、こんな馬鹿げた命令は出しゃせんでしょうに!」
源悟は腹立ち混じりに、手にした巻紙を庭に叩きつけた。奉行直筆の命令書――特に信心深い何人かを選んでの殺害命令である。
罪状というならば、政府への反逆罪という事で、国家が認めた大罪を被せられる。だが――その正当性がどこに有るのかと、源悟は腹を立てているのだ。
源悟自身、善良な人間では無い――無かった。数十年の人生で、数百の人間を殺した立派な悪党だ。
生まれついて他者に化ける力を持ち、他者の記憶を奪い取ることが出来た源悟。その代償故か、彼は自分だけの人格を確立する事が出来なかった。殺人犯や狂人や、有象無象の記憶を取りこんで、殺人こそが愉悦であると信じる異常性を帯びていた。
それを――十年以上を掛けて矯正したのが傘原同心であった。牢に閉じ込め何年も何年も、数百の人格の内の一つとだけ対話をし、その一つだけに〝源悟〟という名前を冠する事で、他の人格を薄れさせ――やがて、主人格へ全ての記憶を統合するに至った。
元が悪党であるだけに、悪党のやり口は良く知っている源悟だ。今回の異教徒皆殺しの意味も良く良く分かる――半分ほどは娯楽目的だろう。本当に効率良く目的を為すならば、殺す相手はもっと選んで良い筈だ。
「お奉行様は結婚が遅かったからねぇ、奥様は若いし娘さんも幼い。今から閑職に落とされるのは嫌だろう、良く分かるんだよ」
「だからと言って傘原様が、貧乏くじ引いて良い道理は有りゃんすめえ」
上司の面目を保つ為、幾らか仕事はしなければならない――然し真面目に仕事に取り組めば、罪も無い町人を惨殺する事になる。どちらも選び難いが、選ばねばならぬ――傘原はそろそろ、自分が動かねばと思っていた頃合いだった。
丁度、その時の事である。奉行所の表が、俄かに騒がしくなる。岡っ引きの一人が、庭を大回りに走って来た。
「おや、仁八。どうしたね、事件かい?」
「事件じゃねえですが――源悟、姐さんがお戻りだ」
「ほう? 随分と早いお帰りだ、ちょいと失敬」
戻るのは年が明けてからになるだろうかと、のんびりとした予想を立てていただけに、突然の訪問に驚きを隠せない。兎角挨拶だけでもと表に走った源悟は――そこに居た桜の姿を見て、顎が外れたかの様に口を開けた。
「よう、源悟。久しいな」
「あ、あ、姐さん、どうしたんですか、そりゃあ」
桜の草履は、ズタズタに引き千切れていた。濡れ羽の黒髪は風に乱され、雨粒も合わさって頬に張り付き――だが、そんなものは些細な事だ。
荒事になれた源悟は、桜の小袖の左脇腹に血が滲んでいるのを容易に見つけていた。決して大量では無いが――うっかり怪我をしたとか、その程度の負傷で無いのは確かだった。
「箱根を越えた辺りでな、糸が持たなくなったらしい。済まんが医者を呼んでくれんか? 後は飯だ、四日分」
「四日――まさか、京から江戸まで四日で!?」
「うむ。……流石に眠い、勝手に上がるぞ」
残骸となった草鞋を脱ぎ棄て、畳の部屋に上がり――二歩だけ歩いて倒れ、そのまま眠り始める。
代わらぬ身勝手さに呆れつつ、連れの少女が居ない事に戸惑い、
「たっはぁ、分かんねえやこのお人は」
結局は頭を抱えて、どっかと座る源悟であった。
桜が目を覚ますと、もう夜も更けていた。
要求していた食事は、拳より大きく作られた握り飯十個で用意されている。大雑把で良い事だと被りつくと、やや強めの塩気が、流した汗を程良く埋めた。
脇腹の傷は、寝ている間に医者が縫い合わせたらしい。少なくとも血は止まっているし、痛みもかなり引いている。然して傷口を見てみれば、皮膚の変色は一片も収まっていなかった。
平らげて、直ぐに立つ。立ち上がり、自分の足で廊下を歩きまわる。勝手知ったる奉行所――江戸に滞在していた頃は、度々訪れていたのだ。
傘原が雑務に使っている部屋は、この時間まで魚油の火が灯されている。野暮ったい袢纏を纏った傘原同心は、書類の前で腕を組んで唸っていた。
「ううーむむむむ……そろそろ握りつぶすのが難しいぞー……いや、はや」
「難儀している様だな」
無遠慮に部屋に上がり込み、畳の上に胡坐を掻く。傘原は顔を上げ、人の良さが滲み出した様な表情を作った。
「本当にねぇ、役人はこれだから困る。上の命令がもう少し人間思いなら、こうも悩まずに済むんでしょうが」
傘原は立ち上がって、襖を閉め、障子の隙間から外の様子を窺う。近くに居るのは源悟一人、そう見て取って、また座った。
「本日は、何が御入用で?」
「北へ向かう。装備が欲しい」
傍若無人に生きる桜だが、やはり幾人かは、良好な関係を築いた者も居る。
例えば源悟の様に、舎弟紛いの扱いではあるが、互いに助けたり助けられたりの関係。燦丸の様に、利益での繋がりという側面は大きいが、それなりに親しく付き合っている関係。
そしてまた一つの形が、傘原同心との――言うなれば、純粋な取引相手としての関係だった。
「……今年の初雪は早い、もう降ってると聞きますが。生半の防寒着では持ちませんよ?」
「大陸でも通用する程度の物が良い。関東では無い、奥州まで足を伸ばすのだ」
奥州、と傘原は復唱し、天井を仰いで嘆息した。
「物自体は直ぐに揃いますが、丈を合わせるのに暫し掛かる。今から始めさせましょう、明日の朝にお渡しします。
その代わり、お代は今宵の内に頂きたい。出来ますかね?」
「物による。誰を、斬れば良いのだ?」
桜は、傘原に無心をする。傘原は桜に、真っ当な手段では片付かない厄介事を押しつける。それ以上は殆ど踏み込まず、他人の前でだけ、親しい知りあいの様な振りをする。それが、この二人の間柄である。
傘原同心は、善良さと細やかな気遣いで、町人からの支持も厚い。裏表の無い人と言われているが――とんでもない、こうも分厚い裏が有る。
「少し北に、お奉行様のお屋敷が有る。ご存じですね? あそこの奥方とご息女を、少しの間借り受けて欲しいのですよ。
寝所にはこの手紙を置いてきて下されば、後は私がどうにかします。……つまり、人攫いの真似事をしてください」
「ああ、あの茶店小町と乳飲み子だな。何処へ隠す?」
「目隠しをして、東に一町のボロ小屋へ。源悟を使って、屋敷の者にはそれぞれ、別の用事を与えてあります。貴女なら手間取ることも無いでしょう、桜さん」
傘原が仕上げた書面は、器用にも常の筆跡を、完全に誤魔化して仕上げられていた。几帳面に畳み、桜に渡して、本人はさっさと布団を敷き始める。
「源悟、お手伝いなさい」
「心得まして。ささ、姐さん、行きやしょう」
うむ、と応じて、桜は奉行所の庭に出る。そこには源悟が、顔も髪も覆ってしまう様な、幅広の黒い布を持っていた。
「……して姐さん、あのお嬢さんは一体?」
「話せば短い事ながら、話してやるには勿体無い」
「ちゃちゃ、酷え酷え。全く変わりやせんねぇ」
提灯などは持たず、夜の町を歩き始める二人。辻斬りも好んで寄らぬ異装である。
奉行の妻子が誘拐されたと、奉行所に知れ渡ったのは夜明けごろ。昼にはもう、妻子は無傷で奉行に返されたが――それ以来、この町奉行は、政府からの督促を無視するようになった。
邪教と誹謗して良民を虐殺するならば、次は必ず、妻子は骸となるべし。そんな脅し文句を読まされて、刃向う気骨は無かったのである。
翌朝には、既に北へ向かう装備は整えられていた。
年老いた猪の堅皮を用いた長靴、毛皮を三重に重ねて水も通さぬ脚絆、藁編みのかんじき。真綿をたんと詰めた洋風の外套を、腰丈の短い物を内側、膝丈の長い物をその上に。
成程これならば、例え野兎が凍りつく様な凍土であろうが、凍える事はあるまい。江戸の町では使い道が無い程の、防寒の一式であった。
「……こんなもの、どこから出てきたのだ?」
「私は物持ちが良いんでしてねぇ。まま、存分にお使いください、お代は確かに頂きました」
朝の冷気に襟巻で対抗している傘原同心は、それでもやはり寒いのか手を懐に、白い息を吐き出していた。
縄で括られ背負い籠に纏められた装備を、桜はひょいと右手に担ぐ。利き手を塞ぐのは本来好む事ではないが、やはり傷口に近い左腕は、思う様に動かせない。
「姐さんはまったくせわしねぇなぁ。来たと思えばもう行っちまう、余韻もくそも有ったもんじゃねえ」
「長居をする用件も無くてな。それに、そろそろ私の首も、相応の値打ちが付く頃だろう」
「はは、ずばりその通りで。奉行の野郎、騙し討ちして来いだのと尻を突っつきやがる」
二日や三日、体を休める為に滞在しても良いのだろうが――狭霧和敬も抜け目がない。既に江戸の幕府には、桜の首に賞金を掛けろと手を回していた。慎ましく生きるのならば、十数年は生きられる程の高額である。
尤も、その金に目が眩んで桜を突き出そうとする者はいなかった。仁徳が故では無く、自分の命を惜しんだが為である。加えて桜を物理的に拘束する手段など、日の本に幾つあるかという大問題も有った。
兎も角も、二度目の江戸出立。前回とは違って一人旅、向かう先も西ではなく東。急がねば雪が積もると、交わす言葉も少なに歩き始めた桜の耳に――しゃらん、と鈴の音が。続けて笛太鼓、賑やかな祭囃子が聞こえた。
長屋の戸が開き、物見高い野次馬が飛び出してくる。幾人かは屋根に上り、好奇の目をらんと輝かす。何事かと桜が振り向けば、朱と金と黒の絢爛の、大行列がそこに有った。
「いよっ、達磨屋ァ!」
髭の男が囃したてれば、若い旗持ちが応と答える。岡場所、品川、その中でも大店。達磨屋の花魁道中が、はるばると奉行所の傍まで足を伸ばして来たのだ。
早朝からの遠歩き、眠そうな顔の者もちらほら見えるが、何れも粋と酔狂に生きる連中。己の店の栄華を江戸中に誇らんと、あらん限りの騒がしさで、手に手に楽器を鳴らしていた。
「お久しゅう、主様……わっちにお顔も見せず、何処へ?」
その先頭を歩くのは、達磨屋の遊女、高松であった。
つんと棘の有る口調。だがその顔は、腹を立てているというよりも、子供の様に拗ねた表情で――艶やかな打掛姿に釣り合わず、桜は思わず、ぷっと吹き出す様に笑った。
「何だ、わざわざ見送りに来たのか?」
「わっちから来なければ、会わぬままになさいんしょう?」
心の内を言い当てられた様で、苦笑いを浮かべながら、桜は隣に立つ源悟を睨む。
「お前の仕業か?」
「へっへ。姐さんが寝てる間にちょいと走って……あいてっ!」
ごん、と小気味よい殴打音。たんこぶの出来た頭を抱えて、源悟は唸りながらも、してやったりという感情を顔に現していた。
江戸に滞在していた二年。その大半の夜を、桜は達磨屋の二階で過ごした。他の宿へ足を運んだ事も数度では無いが、必ず数日で飽きが来て、また達磨屋へ戻っていた。
店員達とは顔馴染みだ。客と店の間柄というより、隣人同士の様に気心の知れた関係である。客引きの若者など、今朝の別れに鼻をずずと啜りあげ、大袈裟に泣いて他の者に冷やかされていた。
何故、こうも足繁く通ったか――いや、留まったか。それは一重に、高松の存在が故だった。
色濃く血の香りが漂う女。倫理も道徳も投げ捨てて、欲の侭に生きてきた女。その生き様が魅力的だったから、桜は高松を幾度も抱いた。
「……もう、お前を抱いてやれん」
だから桜は、高松に会わぬままで、再び江戸を離れようとしていた。
人に生まれて獣に堕ちて、獣の侭で生きようとする女より――獣に生まれて、人と生きようと足掻く少女に、桜は強く魅せられた。己の心変わりを自覚したが故に、顔を合わせるのが気まずかったのだ。
「存じ上げてございんす。憎しや、わっちと飲み交わすより、幾段も色めいて美しき御髪……ほほ」
高松は口に左手を、桜の髪に右手を添えて、飽く迄慎ましやかに笑う。
惚れた相手が男か女か、その程度の違い、如何程の事も無い。ただ高松は、自分の傍らにある桜よりも、今の桜の方が美しいと感じたのだ。
だから――諦めた、諦めるしかなかった。せめて好いた女の、無事を願って見送りたかった。
店の者達まで付いて来たのは、これは完全に余興の延長か。些細な事でも賑やかしたがる、江戸の町人の悪い癖だ。賑やかで無ければ泣き崩れてしまったかもと、高松は店の者に感謝していた。
「……奥州の雪は重いと聞きんす。どうか、どうか、ご自愛を」
「ああ、行ってくる」
長く留まれば後ろ髪を引かれ、僅かにでも心が揺らぎそうになる。桜は新しい草鞋で、さあと土煙を上げて歩き始めた。
「主様!」
数歩ばかり行って、呼び止められ、立ち止まる。
高松は、桜に背を向けていた。打掛を剥ぐように脱ぎ棄てて、襦袢から腕を抜き、腰まで引き降ろす。野次馬達のどよめきが、倍以上も大きくなった。
高松の背には、多色刷りの鮮やかな刺青が施されていた。血を吸ったかの如く赤い桜の花を、丸い月が見降ろす夜景色。文字一つ無いが、それは起請彫りであった。
「お戻りの暁には、これに雪原を書き加え、わっちの誠の仕上げを致しんす。その折りには是非とも」
「ああ、是非とも見届けよう。楽しみが一つ増えた」
見送る者も無く、たった一人連れて江戸を出た朝と――嫉妬やら羨望やらの視線を、存分に背負って旅立つ今朝。
今の方が余程心地好いと、桜は笑いも止まらず東へ向かうのであった。
奥州への道は、東海道に比べてあまりに寂れていた。
賑わう街も幾つか有るが、江戸や京を見慣れてしまった目には、片田舎の村とさして変わらない。道は整備されておらず、所によっては砂利の為か、鋸の様な路面が出来ていた。
叶うならば馳せて行きたいが――知らぬ土地、案内人もいない。人の流れに乗る事も出来ない。傷を癒しながらの道中、自然と歩みは遅くなる。
水戸を抜けてから、仙台藩の城下に至るまで十日。北上し、南部藩の領地に至るまで、更に十日。
そして――目的地はさらに北西。奥羽山脈の麓にある、小さな村であった。
「……遠いな」
十一月も終わりに近づいて――奥州は、記録的な豪雪に襲われていた。
此処までも道は悪かったが、それはまだ道と呼べるだけましだった。
今、桜が歩いているのは、道とも呼べぬただの平野。腰まで埋まりかねない程の大雪が、世界を白く染めている。
誰もいない。戯れに叫んでみようとも、声は雪に吸われて消える。見渡せば視界の全てに、生物の気配はおろか足跡も見つからなかった。
空は青く晴れ渡っていたが、然し日光が有ろうとも、この雪が溶けて消える事は無い。寧ろ表面だけが溶けてしまった為、夜間には氷になるだろうと予想出来た。
早くこの雪原を抜けてしまいたい――然し、目印になるものと言えば、自分の足跡くらいしか無い。ただ、ただ、桜は歩き続けた。
奥州の――それも、山脈より東の雪は、さらさらと乾いている。雨雲が山脈を東へ抜ける際、湿気を奪い取られるからだ。
然してこの粉雪は、積もれば圧縮され、重く硬くなる。積もった高さに比例せず、桜の脚が雪に埋まるのは、膝を少し過ぎる程度までだ。
一歩ごとに力を込め、脚を引き抜き振りあげ、可能な限り遠くへ振り落とす。新雪の上では、かんじきも気の慰めにしかならない。平地を歩く倍の時間を掛けて、半分の距離も進まなかった。
「雪は慣れているが……うーむ、遠い」
独り言が多くなる。そうでもせねば、足音と風の音以外、鳥のさえずりさえ聞こえてこないのだ。
気も狂わんばかりの静寂を、踏み散らし踏み散らし歩いて――まだ、何も見えてこない。
歩く事、辿り着く事ばかりを考えては、強靭な心も摩耗する。桜は自然と、己の過去に思いを馳せていた。
雪月桜が鮮明に思い描ける最も古い記憶は、雪に沈んだ己の右足だ。
今に比べればあまりにも小さい――弱弱しい、子供の足。引き抜こうと悪戦苦闘して、履いていた毛皮の靴が脱げた。
弾みで転び、仰向けになる。あの時も空は、残酷なまでに青かった。
周りに、風を遮るようなものは何も無い。分厚い外套も、小さな体を完全に守ってはくれず――抱きしめてくれる大人も、誰もいなかった。
何故、誰もいないのか。それは思い出せない。ただ――三歳の子供がただ一人、異郷の雪原を歩いていた事だけ確かに覚えている。
泣いていた様な気がする、喚いていた様な気がするが――なんと言ったのかは、やはり思い出せない。慰める者もなく、口を開ければ寒いだけなので、無理にでもしゃくりあげるだけに留めた。
三歳の幼児が己の感情を制し、泣き声を抑える――平時ならば無理だ。然し、そうしなければ死ぬと思えば、泣きたくとも泣けぬのだ。
歩いて、歩いて、歩き続けて――誰かの足跡を見つけ、心に歓喜が込み上げた。喜び勇んで足跡を追いかけ、数歩ばかり進んで気付く――これは自分の足跡だ、と。
目印の無い雪の上。大きな円を描き、結局は元の位置に戻ってきた。幼い思考力でも、自分の歩みが無駄だったとは気付いた。
ここまで思い出し、苦笑する。今の自分ならば、両足の歩幅を揃えて歩くなど容易い事だ。あの時にもそう出来ていれば――悔いても、時間は戻らない。
懐かしく、辛く苦しい記憶。思い返す頃には、日は遠くの山へ沈んでいた。
銀の大地を茜が染めて、眩しく、また果てなく美しい。これを一人で眺める事が惜しくてならず――また来ようかと、小さく小さく呟いた。
歩いても歩いても、雪原は続いていた。
ともすれば自分の目的を忘れかねない程、どこまでも続く白景色。空から照らす光源は、何時しか月に取って代わられていた。
思うに、太陽とは慈愛の具現である。闇を見通せぬ人間に、無条件で明かりを提供し、また暖かさを提供する。善人も悪人も、大人も子供も分け隔てなく――太陽が有るから、人は昼間に生きるのだ。
然して、月は無情である。美しく空に佇みながら、その温度を分け与えようとはしない。人が絶望しきらぬ様に光を与え――だが、闇の全てを照らしだしてはくれぬのだ。
もしも月の無い夜であれば、その小さな子供は、とうに歩みを止めて凍え死んでいただろう。
日が沈んで直ぐ、強い風が吹き始めた。雪が落ちて風に混じり、吹雪と化して雪原に吹き荒れた。
それが――記憶の中の出来事なのか、桜はもう分からなくなっていた。今、歩いている桜も、記憶の中の幼い桜も――いや、自分の名も忘れた小さな子供も、共に吹雪に翻弄されていた。
「寒いな……寒い」
きっと似た様な事を、幼い頃にも嘆いたのだろう。
幼子にとって世界とは、自分と親と、そして目に入る狭い地域だけ。両親が傍にいないという事は、敬虔な信徒が神の慈悲を失うにも等しい事だった。
「ああ、馬鹿馬鹿しい」
救いが得られない事は、神の愛を学んだ今ならば分かる。
助けを求めている内は、厳格な神は何もしない。助けに辿り着こうとしなければ、小さな火の一つさえ与えてくれない。
だが――幼子に、何が分かろうか。
おかあさん、おとうさんと呼び掛けた。誰も応えはしなかった。
何故、縋ろうとしたか――そう呼べば、人肌のぬくもりに包まれるのが常だった。身を刺す寒さから逃れたかったのだ。
求めても、求めても与えられないと知った時、幼子は過去を思い出そうとした。丁度、今の桜と同じ様に。
「懐かしい?」
「いいや、さっぱり」
人は死に直面すると、生き延びる為に過去の記憶を探るらしい。三歳の子供が縋る記憶に、生きる為の道など無かっただろうに。
「疲れたでしょ、休まない? 急がなくたって、土地は逃げていかないよ。逃げていくのはあなたの記憶だけ」
櫛の歯の様に抜け落ちる。縋る心が抜け落ち、流す涙が枯れ、己の名さえ薄れて果てた。誰にも呼ばれない名前など――覚えているだけ、無意味だったのだ。
「どうして、あの時に立ち止まらなかったの? そうすれば、今まで苦しむ必要は無かったのに」
全く、その通りだ。雪の上を歩くのは、堪らなく辛い行為だった。過酷というも生ぬるい、孤独を刻まれる旅だった。
「……寒かったからなぁ」
何故、足を止めなかったか――歩いていれば、少しだけ暖かかったからだ。脚の痛みより、肌の冷たさが辛かったから、動き続けようとしたのだ。
「ところで、お前は誰だ?」
遠い昔の様に、ただ一人で雪原を歩きながら――桜は、隣を行く声に問いかけた。
「私は私、あなたはあなた。私はあなたじゃないけど……あなたの中の一人だよ」
得心の行かぬ答えではあるが、成程、確かに聞き覚えのある声だ。それも一度や二度ならず、寧ろ近くに居る事を当然と思う程の――
「……なんだ、村雨か」
膝まで雪に埋もれる桜の横を、裾も濡らさず村雨は歩いていた。
ここに村雨が居る筈は無い。あの夜、仮初の別れを告げた――それを無為にするなど、決して有り得ぬ事なのだ。
「そういう名前、なのかもね。ダーもニェートも言い辛いけどさ」
口調、声の調子、記憶の中の村雨と何も変わらない。だが――例え村雨が極北の人狼だとしても、人の姿のまま、薄絹一枚で、この雪原を歩くとは思えない。
雪に足跡も残さず、村雨の姿をした何者かは、桜に速度を合わせて歩く。自然、顔の高さは普段と逆で、桜より上に置かれていた。
「何をしに来た?」
「あなたを止めようと。今からなら、多分戻る方が楽だよ?」
桜は耳を貸さず先へと歩み続ける。それを〝村雨〟は、弾む様に追いかける。
「寒いでしょ、寂しいでしょ? 進んでも誰もいない。何処まで行っても誰もいない。疲れるばっかりで、全然結果は見えてこないし……だーれも助けてくれない」
確かに、視界の何処にも人はいない。昔の、記憶に残る景色のままだ。
「でも、引き返せば人の街に戻れる。暖かい食事にお風呂、布団で寝る事だって出来るんだよ。あなたの好きな美人に御酌をしてもらって、好きな様に――」
「飯盛女を抱いて、か?」
「そーいうの、好きでしょ」
確かに、と苦笑しつつ、桜はやはり先へ進み続ける。横を歩く〝村雨〟が、幾分か不機嫌な顔をした。
「今は、あの時とは違うんだよ。戻ろうとすれば戻れる。戻る自由が有るのに、どうしてそうしないの?」
「そうだな……確かにあの時は、どうにもならんから歩いていたか」
自分の力でも、庇護者の力でも、決して救いには届かない。そんな時、人は無意識のうちに――大きな存在に、祈りを捧げてしまう。
信仰心の強いものならば、神を自分の支えにしようと、聖書の語句でも唱えるだろう。不信心な者でさえ、神の名を口にせずとも、助けてくれと何かに祈る。
だが――本当に、それこそ平原に積もった雪の様に、深く果てない絶望に晒された時――人は、差し出そうとしてしまう。
例えそれが、どれ程に無価値なものであろうと、自分が手放せるものであれば。
例えそれが、どれ程に崇高なものであろうと、手放し得るものであるのならば。
与えられるたった一つの救いを、自分の持つ全てと引き換えにしても良いと、人は祈りを捧げてしまう。
なぜならば、未だ手にしていない救いは、現在自分が手にしている幸福の総量を、常に上回るからだ。
疲れより、孤独より、死より――幼子が恐れたのは寒さだった。
この寒さから逃れる事が出来るなら、自分は何もいらない。
例え手足を失おうと、例え目や耳を失おうと、例え一生玩具や菓子を楽しめなくなろうと。
生まれ落ちてから今までの、愛された記憶の全てを失う事になろうと。
狭い世界の全ての娯楽を、全ての安寧を差し出そうとも、ただ寒さから逃れたかった。
〝神様、私は何もいりません。おとうさんもおかあさんも、おじいちゃんもあげます〟
〝だから、どうか。どうかこの寒さから、助かるための何かをください〟
夜の平原を、炎が赤々と照らしだす。種火も無ければ燃料も無い。虚空に出現した炎の壁は、瞬く間に雪を溶かし、桜の眼前に一本の道を創り出した。
夜天を炎の柱が焦がす。我此処に有りと叫ぶ様に、熱風は笛の如く轟いた。
あの夜も、こうして生き長らえた。救いの手が差し伸べられるまでの間、小さな体の熱を保ち、命を保ったのは――それまでの生の全てを捨てた、生涯最後の祈りだったのだ。
「今はもう、大丈夫だ」
力を得た。無限の凍土に晒されようと、凍えて死ぬことは無いだろう。
数百里の道を行こうと、鋼の健脚は疲れを覚えない。
「お前が誰かは知らんが、まるで余計なおせっかいだ。私はもう、寂しくない」
そして――永夜を一人で歩む事になろうと、もはや桜は、孤独に怯える事は無い。例え傍らに人影が無くとも、己は一人でないと信じているのだ。
横を歩いていた筈の〝村雨〟は、何時しか幼い子供の姿になっていた。桜はそれを抱き上げ、胸の中で己の体温を分け与えてやる。幼子は嬉しそうに目を細め、聞いたことの無い声で話した。
「代償持ちか、奇縁よの。何れも果ては死ぞ、知りて足掻くか」
「何十年も先の事だ。何れ死ぬなら、せめて死ぬまで楽しみたいではないか」
雪の中に作られた一本の道。海を割った預言者の様では無いかと、桜は己の不信心に笑う。
「そなたが捨て去ったものの重さを、分からぬではあるまい。父も、母も、全ての肉親をも――そなたは、刹那の祈りに換えた。
仮に永らえようと、そなたは決して、肉親を得る事は出来ぬ。子を為す喜びは、あの雪土に埋めて捨てたと思え」
「構わん。顔も覚えておらん親、どうせ生まれぬ子だ。今更、そんなものに未練は無い」
胸に抱いた幼子の声は、山彦の様に反響する。近くに居るのか、遠くに居るのかも分からなくなる。
だが、桜は、声の主が何処に居るのかを気に掛けもしなかった。躊躇いを、迷いを呼び起こし、引き変えさせようとする夢の魔か――そんなものだろうと思っていたのだ。
「顔を伏して生きるは気楽ぞ。苦痛に耐えるよりは寧ろ、快楽に耽りたいとは思わぬか?」
「日の光もろくに拝めぬ生など、剣禍の死より息苦しいわ。私は存分に愉悦に耽る為、遥々奥州まで足を運んだ……もう良かろう?」
桜は、幼子をそっと地面に降ろした。見れば、惚れ惚れする様な黒髪、吊り気味だが力の籠る強い目――幼子の顔は、桜に良く似ていた。
「うむ、良い。なれば来るが良い、此方が山へ。そなたの言が真で有るならば――そなたの身の毒、必ずや癒してみせようぞ。
……無論、此方に空言を申したと有らば――その罪業、必ずや身に還るであろうがの」
幼子は数歩ばかり先へ進んで、霞の様に姿を消す。その先には、揺らめく小さな光が見えた。松明か、或いは囲炉裏の火だ。
「……なんだ、随分近くまで来ていたのだな」
暫く歩けば、分厚い板戸の前まで辿り着いた。雪国の知恵か、屋根の様に板を張りだし、雪に埋もれない様に作られた玄関口――拳で叩き、呼び掛ける。
「旅の者だ、済まんが火と屋根を貸して欲しい! 宿代くらいは払うぞ!」
家の中で、誰かが立ち上がる気配が有った。それを最後まで確かめる前に、桜は急激な眠気に襲われる。
脇腹の傷は、自分の自覚以上に体力を削いでいるらしい。高々一日ばかりの雪中行で、こうも疲労に襲われるとは――他人事のように冷静に、桜は己を見つめていた。
板戸が開き、驚愕に息を飲む音。体が引きずられ、雪を払い落される。親切な家に当たったらしいと内心で感謝しつつ、口に出るのは全く違う言葉。
「……全く、最近は眠ってばかりだな」
宿を借りる家に礼を言うより、先に欠伸と高鼾。我ながら無遠慮だと思いつつ――桜の意識は、夜に飲み込まれて消えた。
時系列も何もかも、滅茶苦茶になった夢を見ていた。
最初の光景は、初めて刀を振るった時のこと。それまでに摸造刀などで散々鍛えていたから、重さに負ける事は無かった。だが、刃の美しさには心を飲まれ、暫くは呼吸も侭成らず立っていた。
次に浮かぶのは、日の本に辿り着いた時の事。里帰りとなる筈だが、まるで実感は無かった。異郷の地を踏む高揚を味わいながら――港に佇む者と言葉が通じる、違和感が暫く慣れなかった。
江戸へ足を踏み入れた時には、この素朴な町並みが、かつての首都かと驚きもした。日の本の熱情は建物でなく、人に現れると知ってからは、江戸の町が何よりも好きになった。
「……起きる? 笑ってるけど……?」
「起きない、起きないって」
懐かしく、また楽しい思い出ばかりを眺めていると、何処からか声が聞こえた。聞き慣れない声だが、まだ眠気が強かったので、気に掛けない事にした。
次に見えたのは――初めての、殺人の記憶。あまり楽しくも無いが、さりとて悪しとも言えぬもの。
自分の倍も有りそうな巨体の男が、雪原に這いつくばっている。右膝から下と、左大腿から下が、少し離れた位置に転がっている。
動けなくなっている相手の背に、幾度も刀の切っ先を落とした。これで殺せたという確信が無かったから、背の肉が粗方抉れ落ち、肋骨が逆に開くまで繰り返した。
殺して暫くは、自分が勝ったのだという達成感ばかりが先だって――夕食を前にした時、胃袋が食べ物を受け付けない事に気付いた。胃液まで吐き尽くして、一晩の悪夢に悩まされ、結局二日ばかりは絶食する羽目になった。
だがそれ以降、剣の腕は飛躍的に上達した。新たな技術を身に付けた訳でも、身体能力が極端に上がった訳でも無いのに、剣筋の冴えは、人が変わったかの様であった。
思えば生き物を殺すのは、精神的な壁さえ乗り越えてしまえば簡単な事なのだろう。たった一人を斬り殺しただけで、それ以降、刃は随分と軽くなった。
後は、とびとびに記憶が流れて来る。洞窟で盗賊を踏み殺し、草原で決闘相手を斬り殺し。遊女を抱く傍ら、強盗の首を捻り壊し。瞼の裏に繰り返されるのは、他者の命を奪った記憶ばかりで――終に、雪の夜の夢に辿り着く。
桜は、東へ行きたいと師へ告げた。自分が生まれた土地を、一度見て来たいからと。彼女の師は、ならば自分を殺して行けと告げた。
吹雪の中、二人は殺し合った。既に桜の技量は師を上回り、大きな傷を負う事も無く、彼女は師を斬殺した。
それが、四人目。彼女が〝雪月桜〟として完成する為の、最後の生贄。以降、桜は、人を殺して嘆く事は無くなった。
「……ほらー、起きそうだってば。やめよう?」
「大丈夫、大丈夫。それよりほら、一緒にやろうよ」
また、誰かの声が聞こえた。こういう時は大概、眠気が薄れて来ているのだ。
気付けば、手足に暖かみを感じていた。丁度、暖炉の火に当たっている様な――少なくとも、屋内に居る事は確かだ。
「あれ、あれ……こんがらがっちゃった、どうしよ……?」
「ああもー、ちゃんと順番にしないと駄目なの! ほら、三つに分けて!」
桜は、そうっと薄目を開けて、声の主の顔を見てやろうとした。
十二、三歳程だろう少女が二人、桜を挟む様に座っている。何をしているのかと思えば、彼女達は何れも、桜の髪を一房つかんでいた。
どうにも彼女達は、三つ編みを作って遊んでいるらしい。が、あまり長い髪を扱った事が無い様で、手付きがどうしてもたどたどしいのだ。
「ねえ、さとー……指に絡まっちゃったんだけど」
「ええ? なんでこんな事も出来ないのよ? ほら、手を貸して」
少し気の弱そうな声が、おどおどともう一つの、少し気の強そうな声に助けを求める。気の強そうな声の少女は、ぐいと体を乗り出して、もう一人の少女の手を掴み、絡まった髪を解き始めた。
この二人、まだ桜が目を覚ました事に気付いていないらしい。あんまり没頭しているので、桜はつい、悪戯の気を起してしまった。
「ひぅ!? い、今なにか……?」
そうっと左手を動かし、気の弱そうな少女の背をつつき、直ぐに手を元の位置に戻す。弾かれた様に背後を振りむき、だが何も見つけられずに居る少女の姿は、なんとも言い難く面白みが有った。
「え、何、何……? いきなり叫んで、なんなのよ――――……ひゃあっ!?」
気の強そうな少女は、訝しげな顔で目を細めた。桜の腹の辺りに手を置いて、ぐいと身を乗り出す。前方に意識が集中している所で、今度はその背に、桜の右手が迫る。中指の先で的確に、へその裏側、背骨の真上を叩くと、少女は身を仰け反らせて悲鳴を上げた。
「さ、さと……!?」
「いいいいい、今、何かいた!? いたわよね!?」
軽い混乱状態に陥った二人の少女は、身を寄せ合って周囲を見渡す。が――視線の高さは、彼女達の胸より高い位置に有る。肝心の悪戯の元凶は、未だに床に寝ているというのに。
「……さき、お父さんはまだ、よね……?」
「今日は山に入るって言ってたから……夕方には戻ってくる、と……思う……」
薄目を開けて見ていると、よく表情の変わる二人である。驚愕から怯えの表情に切り替わり、そして何らかの決意へ。心の移り変わりが、こうも漏れ出ている人間は滅多にいない。
やがて二人は、どちらが言うとも無しに、背中合わせに座って、小さく震え始めた。
それぞれに懐中から取り出したるは、一振りの短刀。驚かせすぎたかと思い、声を掛けようとした桜は――気の強そうな少女の手にしているのが、己の所有する短刀だと気付いた。
「おい、それはどうした」
「――っ、ひゃあああああぁっ!?」
「――きゃあああああああぁっ!?」
跳ね上がる程、二人の少女は驚いてみせた。気性は事なれど、良く似た二人であった。
完全に眠っていると思っていた人間に、いきなり声を掛けられた――そればかりでは、こうまで驚きもするまい。訝しがりながらも、桜はゆうと立ち上がる。
立ち上がって見て気付いたが、この少女達、年の頃に比べて背が低い。為に、長身の桜は、かなり極端な角度で二人を見下ろす事となった。
「見た所、私の短刀の様だが。子供が持つには危険な代物だぞ?」
総鋼造り、足の指に落とせば爪が割れる重量。鈍器としても使える様な、呆れた強度の短刀である。こうも酔狂な品を、子供に持たせる親もいるまい。桜は、その短刀が自分の所有物だと確信を持っていた。
「な、なな、な――――……っ、子供じゃないわよ、子供じゃ! じゃない、誰よあんた!?」
「えと、これは私達が貰った――じゃなくて、いやそうなんだけど、その、えと」
慌てぶりも二者二様なのだが、狼狽する表情は良く似ている。姉妹なのだろう、と見えた。
来客に吠えかかる子犬の様な、〝さと〟と呼ばれていた少女。対して〝さき〟と呼ばれていた少女は、少なくとも対話の意思が見える。桜は首の角度を変えぬまま、目だけを下に向けた。
「まずは礼を言う。長旅で傷も開きかけた所だ、屋根を借りられたのは有りがたい。ささやかなりと謝礼もしたい所だが――」
目が覚めてから、桜の体は妙に軽かった。理由は至極単純である。
「この村の宿は前払いか? 服が残っているだけ良しと見るべきか、ふむ」
持ち物が、殆ど消えているのだ。
身に付けていた物は、小袖と丈の短い外套、長靴を残して消えていた。行方知れずとなった装備は、丈の長い外套、脚絆、かんじき――財布、短刀、脇差、黒太刀。
外と内から窓を塞がれた小屋は、囲炉裏の炎に照らされている。見渡しても、それらの装備は見つからない。そして、さとが桜の短刀を持っている以上、装備がどうなったかは推して知るべしである。
「えー……と。御免なさい、余所者が踏み入る〝通行料〟だって兄さんが――」
「さきは黙る、こいつが悪いんだから良いのよ! 服は残してやったじゃない!」
「ふむ、一理ある。流石に全裸では私も凍え死ぬだろうな」
こういった風習も――頷けないではなかった。屋根を火を貸すだけ、寧ろこの集落の者は親切なのかと思わぬでもない。ないが、腰と背の軽さは、やはり心地好く感じられない。
「で、どうすれば通行料は返してもらえる。雪下ろしくらいなら手伝うが」
「えっ、じゃあ早速この家の――じゃ、なくて。あんたもっとおどおどしなさいよ、生意気なのよ!」
自分より一尺と三寸も背が低い少女に生意気と言われれば、桜も苦笑以外の表情を作れない。諦めた様に首を振って、さき一人を視界に入れた。
「礼と挨拶、それに話がしたい。家の者は居るか?」
「家の……え、と……父さんは山に入ってるし、兄さんは〝雪蔵〟に居るから……母さんが、近くにいる、かも。
あ! でも、出来れば外に出ないでもらった方が……」
人見知りの気が強いのか、それとも姿勢を低くしない桜から威圧を感じているのか、兎角さきはおどおどと話す。ちら、ちらと玄関口の方へ視線を向けるのは、誰か帰って来るのを待っているのだろうか。
が――それを待っていられる程、桜は気が長くない。
「やれ、面倒な事になったものだ」
「ちょ、ちょ、外へ出るなって行ってるでしょ! 待てこら、このーっ!」
さとが裾を掴んで引き留めようとしていたが、雪程の重さも無い。桜は軽い欠伸をしながら、長靴に足を通し、小屋の外へ出た。
目を刺す様な照り返し。雪に覆われた村は、痛いほどに眩しかった。
既に日は高く――だが、江戸や京の様な騒々しさがない。然してこの静けさは、決して寂しさと同義ではなかった。
南東に向いた玄関――桜には懐かしい、風除室を備えた――を潜れば、すぐそこには、雪を掻き分ける逞しい中年女。
「あんら、やっと起きたのかいねぼすけさん。ちょっと待ってな、お夕飯の用意をするからねぇ」
「……それは一体、どれだけ後の話だ?」
胴体も腕も、笑い方も太い中年女に、桜は呆れ笑いを浮かべて問う。
「なーに、男連中が帰ってくりゃ直ぐ、日が沈む頃のことさぁ。……それとも、もう腹が減ったんかい?」
中年女は、積もり固まった雪の上にどっかと腰を降ろして言った。
さとの慳貪な歓迎に比べれば、随分と好待遇だ。どういう事かと桜は首を傾げ、中年女の隣に腰を降ろす。外套の裾から雪の冷たさが伝わって、座り心地は決して良くはなかった。
「面影はあるな。あの二人の母親か?」
「んだよ、あたしさ。さとはいっつもうるさいからねえ、あんたも疲れたろぉ?」
「ん、まあ余所者相手なら、あんなものではないのか? ……いやそもそも、私に出す飯が有るのか?」
からからと中年女は笑って、桜の肩をばしばしと叩く。中々に力強い手であった。
「三千石を甘く見ちゃいけないよ、旅人さん。あんた十人食わせたって、倉はまだまだたんと余ってるさ」
ほう、と桜は驚嘆した。
見れば、狭い土地である。東西は高い山に遮られ、南北に貫いて川が一本。高低差も大きく、冬の訪れは早く、豊かな土地には思えない。
そんな疑念は、やはり表情に表れていたのだろう。中年女はまた豪快に笑って、西の山を指差した。
「山ン主 様がいらっしゃるんだ、山も畑も田も豊か。ばあさまのばあさまくらいの頃は、時々は飢えたって話も聞いたけんどな。
今もうちの旦那が、籠り損ねの熊を狩りに行っとるよ。一頭取れば皆で喰える、日の入りまでには戻んだろうさ」
「皆で、か」
日の本の熊は、蝦夷に住む種類を除いては、決して巨体とは言い難い。肉も内臓も骨髄まで、無駄無く喰らう文化があるのだろう。
それが――なんとなく懐かしく、桜には感じられた。自分が育った土地の、少ない食物を食い尽くす風習にも似ている、と。
然し熊とは。そんな思いもまた、桜の偽らぬ本心であった。
確かに不味くは無いのだが、どうにも癖の強い肉だ。仕留める難しさのこともあり、他に食う物があるならば、そちらを食う方が効率は良いだろう。
敢えて熊など――それも、冬眠をし損ねた固体を探すなど、或る意味では余裕の表れなのか。食料を得ることより、熊を食うという事に意味があるのだろうか?
「ああ、いんや? そんな事は考えちゃいんねえさ。山が有るから狩りに行く、簡単だろぉ?」
然し、実際に深読みの内容を尋ねてみると、一笑の元に否定された。
「成程、簡単だな。好ましいものだ」
随分と動物的な文化だ。己の連れの、単純な欲求に似ていなくも無いと――思わず、桜も破顔する。
「んだから、今夜はゆうるり休んでいきな。こんなところまで来るんにも、何か訳があるんだろ?
うちの村の女衆は、外のもんなら何でも好きでねぇ。ほうら、あれとかあれとか」
中年女がひょいと指差した方向に、桜も目を向けてみる。
成程、作業の合間合間、ちらちらと好奇の目を向けてくる者が幾人か。その何れもが、分厚く着膨れした女である。
男も居ないではないのだが、こちらは奇妙なことに、殊更に桜を見ようとしない。意識的に顔を背け、視界に居れず通ろうとしているかの様だ。
「ふうむ、私は王朗の世評か」
「あん、その心は?」
「えんぎが悪い」
暫し中年女は考え込み、ようやく思い当たると、かっと吹き飛ばすような笑い方をした。
「んだんだ、他所の女に目をやると、山ン主 様が機嫌崩すってなぁ。んだから山に入る男衆は、あんたを見たがろうとしねぇのよ。勿体無ぇが、べっぴんさんだんに」
「そうかそうか。然しお前、存外に学があるのだな」
羅貫中を謗りながら、暫く二人は雪上で話し込む。体温で雪が僅かに溶け、衣服の尻に染み込むのは不快だが、概ね愉快な時間であった。
「おっかあ! 何してんだ、んなやつと!」
然し暫しの平穏は、憤りを大いに表した声に妨げられる。
雪を激しく蹴り散らして、青年と少年の中間くらいの男が、鼻息も荒く歩いて来た。氷点下の雪国で激しく歩くものだから、頭からは白い湯気が立ち上っている。
「他所もんとくっちゃべるなって言ったべや!? しかもまた外さはあ連れ出して!」
「んだどもさきとさととさ置いどいてもどうにもならんべや! ほに言うだけ言って何さもしねえで!」
現れるなり叫んだ彼に対して、中年女も強い口ぶりで返した。
語気の強さに比べて、声や表情に敵意がない。親しい間柄で、こういう会話さえ日常茶飯事なのだろう。そういうことは桜にも伺えたのだが――
「……ん?」
首が斜めに傾き、瞬きを幾度か繰り返し、桜は会話の内容を理解しようと努めていた。
一度文字に書き下してしまえば、なんとなく意味は分かる。だが、カ行が酷く濁る東北の訛りは、関八州の言葉に慣れ親しんだ桜には、聞き取ることも難しいのだった。
「おい、そごん余所もん――そこの余所者! おらがさ村に上り込んで、なも払わねでうろつくでねえ! とっとと中 さ戻れ!」
「……うーむ、言わんとするところは分かるのだが。私もな、寝起きで少しは体を動かしたいと」
「なんねえっ!」
雪を踏み荒らして詰め寄ってきたこの男も、やはり小柄であった。骨はがっしりと太いが、顔の筋の薄さといい、まだまだ育ちきっていない感が有る。背丈でいうなら、桜より四寸も低い為、近づけば近づく程、互いの視線の角度が大きくなった。
「ところで、お前」
「んだ?」
聞きなれぬ音ばかりで混乱した表情ながら、桜は一点、特に気になる事を見つけて呼び掛ける。険しい顔をしていた男は、途端、目の力を抜いて口をぽかんと開け答え――直ぐに、また顔を戻すことになる。
「お前は山に入らんのか? 他の者は狩りに出ていると言うが」
「――っ、やがましゃあっ!」
まだ少年と呼ぶ方が相応しいかも知れない男は、火が付いた様に激昂した。何事かと訝る桜をよそに、中年女はまたからからと笑って、
「ぶはっはっはっ、言ったらはあ可哀想だべさぁ! 鉄砲ばまだ下手ぐそで山さ入れでもらえねえのよ富而 ったらよ! 図体ばかりでかくなってからに留守番だと!」
「おっかあ、余計な事さ言うでねえつってんだべ! こら余所者、笑うなぁ!」
外には強い性質らしい富而は、しかし母親に掛かれば見た目よりなお幼い子供扱い。桜はそれを見て、思わず吹き出してしまい、口元を手で覆った。
「そら、とっとと戻れ戻れ! おっとうさ戻って来たらお前 の事さ決めっけえな!」
「おお、おお、分かったから押すな、引っ繰り返るぞ」
背を押される桜は、無理に踏みとどまろうとしない。富而は茹で上がったかの様な顔色で、富而の母はまだ笑っている。見知らぬ土地の事とは言え、なんとも長閑な事であった。
だから――不意の悪寒も、一瞬は、気のせいだろうと無視をした。
「お……?」
錯覚――かも知れない。だが、桜は、何者かに見られている様な気がしてならなかった。
視線を感じた方に顔を向ければ、そこには雪を被った山脈が連なっている。
西風から湿気を奪い、乾いた雪を降らせる元凶。この小さな村を肥沃な土地とする源流。その山肌の、葉も落ちた木が――獣の様に、吠えた気がした。
「止まるんでねえ!」
「分かった分かった……やれ、他人様の家とは気を使うな」
無理にまた屋内に押し戻され、見られている感覚は消えてしまう。桜は裾の雪を払いながら、山に思いを馳せていた。
変わらず雪は雑音を吸い込み、村は静かに美しかった。
所変わって、日は遡り。桜が出立して二日後の、京の山中の事である。
「困った、実に困った。いや、本当に考え無しに動くのはいけないな……困った」
松風 左馬は、地面に胡坐を掻いて唸っていた。
悩みごとの元凶は、気紛れ混じりに拾った弟子――つまり、村雨の事である。
困らされる様なじゃじゃ馬では無い。寧ろ、少々の視野の狭さは有るが従順で、扱いやすい弟子である。
然しながら――従順故に、教えた事を片っ端からこなして行く。
それ自体に問題は無い。が、教える事が早々に尽きたのだ。
「……こんなのは初めてだしなぁ」
元々俗世に交わらず、隠者染みた暮らし方をする左馬である。他人に自分の技術を教える――未だかつて、そんな経験は無い。
勿論、左馬自身、体術を独学で身に付けた訳では無い。師匠と呼べる人物は何人か居て、それらから技術を譲り受けたのだが――
「あいつ、私より動けるじゃないか」
基本的な技術を教えこむ前に、左馬は村雨の〝性能〟を試した。
筋力、持久力、柔軟性、敏捷性、五感の鋭敏さに四肢末端の強度。即ち、技術を叩き込む前の段階、基礎体力である。
幾ら細く小柄だとは言え、亜人であるならば、真っ当な人間と比べられる体力では無い。左馬自身、そうは分かっていたが――少々、予見が甘かったのだ。
弟子入りを赦した初日、まずは鼻を圧し折ってやろうと、走り込みに付き合わせた。たんと食事を取らせた後、日の入りから日の出まで、山から山へ走り続けたのだ。
が、一晩走り続けて尚も、村雨はまだ動けそうな様子を見せていた。汗を流し、呼吸も荒いが、走れと言えば直ぐに走り出しただろう。
人狼は天性の狩人である。雪原で一晩だろうが得物を追い回し、一刻に駆け抜ける距離は約八里。低く、そして硬い土に覆われた日の本の山など、村雨にとっては平地と同じ様なものなのだ。
翌日は早朝から、薪を割らせて運ばせた。が――こちらも、同世代の少女達に比べてみれば、目を見張る様な重量を動かしてのける。筋肉の構造が、どうやら生まれ付いた時点から、人間とは違っているらしい。左馬が担げるのと然程変わらぬ量を運んでいた。
昼食は手短に済まさせて、次は積み上げた薪を跳び越させる。跳躍力に関して言えば、これはもう明らかに、村雨は左馬を上回っていた。
家屋の屋根まで軽く飛び上がる脚力、積み上げた薪など柵にもならない。膝を軽く曲げ、伸ばす程度で伸び超える姿を見せられれば、もう呆れて溜息を吐くしかなかった。
「これだから半獣は嫌いなんだ、全く……ああ、もう帰って来た」
修行を付けると決めて三日目の今日は、街に酒を買いに行かせた。とある店でしか置いていない銘柄で、左馬が走っても往復半刻は掛かる距離だが――
「戻りました、師匠!」
「おつかれさま、早いな化け物、合格だよ」
四半刻と少々。見送る際に飲み始めた酒が、まだ回っても来ない頃合いである。
そう、左馬の困り事とは、この弟子の体力の水準が、ものによっては自分を大きく上回っている事であった。
まずは体力、忍耐力。技術を叩き込むのは後と考えていたが、然し体力は、この時点ですでに合格点に達している。
「それじゃ、今日こそは……?」
「ああ、二言は有るけどその気分じゃない。飲んだら始める、余所行きの用意をしてで待っておいで」
かと言って、何を教えれば良いのか。酒壺を受け取った左馬は、顔に浴びる様に白酒を煽りながら、未だに悩んでいた。
時間を掛けて良いならば、例えば三年も使って良いのならば、これだけの素材、ひとかどの武芸者に仕立てる事は出来る。だが、時間が無限に有る筈も無い。
最初は、適当に体力を付けてやって、幾つか簡単な技でも教えてやれば十分かと思っていた。弟子入りの際の啖呵も、己を知らぬが故の大言壮語だろうと見くびっていた。
ところがどっこい、大言壮語を実現出来そうな体力である。これは〝適当に〟教える訳には行かないな、と思ったのだ。
「……だけどなぁ、拳打一つで五年は掛かるだろうに」
ぶつくさ言いながらも左馬は、着物の上に一着、分厚い羽織を重ねて立ち上がった。
「行こうか、一番大事な事を教えてあげる。……これで辞める奴が多いんだ、また」
「……? 分からないけど、分かりました」
足早に山を降りはじめる左馬を、村雨は普通の歩幅で追いかける。
「ところで、師匠」
「ん、なんだい?」
「どうせ降りるんなら、別に私がおつかい行かなくても良かったんじゃ」
ごつん、鈍器染みた音がした。石より硬い、左馬の拳が音源だ。
「生意気言うんじゃない、きりきり歩けい」
「私は罪人じゃないです、師匠!」
左馬とは全く違う理由で、村雨も頭を抱えるのであった。
活気の消え失せた京の街を、それでも西へ西へと進めば、ようやく幾分か喧しい所へ出る。
かの金閣より更に西、中心から外れた代わりに、粗野な雰囲気が漂う町――その一角に、奇妙な通りがあった。
店が無い。反物、骨董は言うに及ばず、端切れも紙も櫛も、軽食さえその通りには売っていない。宿も無ければ遊女屋も無く、然して民家の一つも無いのだ。
代わりに、道場が幾つも並んでいた。大小、扱う武芸の種類を問わず、道の左右にずらりと看板が並ぶ――正に壮観である。
「はりゃー……何ここ凄い、汗臭い」
「男所帯ばっかりだからね。良い遊び場だ、もう見られてる」
当然の様に、治安は悪い。ゴロツキが力欲しさに武術を学んでいる、そんな連中ばかり集まった場所だ。
いや――武術を身につけようなど思い立つ者なら、力を振るいたがるのは寧ろ自然。寧ろ人格者の方が珍しいだろう。
「じゃあ、今日は何処に殴りこもうかな。希望はあるかい?」
「待った、師匠。いきなりにも程が有ると思います」
当然の様に松風 左馬も、力を振るいたがるゴロツキ崩れに分類される。心底楽しそうな顔で、直ぐ近くの道場の門へ足を向けた。
「村雨、お前に教えておくよ。この通りにはたった一つだけ、絶対に守らなきゃいけない規則が有る」
「それは?」
「やられたらやり返す事――たのもー!」
薄っぺらな板戸に、いきなり蹴りを打ち込む左馬。こういう手合いには慣れているのか、慌てもせずに大柄な男が出て来て――左馬の顔を見れば一転、鬼の形相となった。
「貴様ッ、何をしに来たァッ!?」
「弟子の教育。今日はとりあえず、全員潰して行こうと思うから……まあ、覚悟したまえよ」
互いに知った顔なのであろう。左馬の挑発に、大柄な男は、寸鉄を握りこんで殴りかかる。右の、巨大な拳であった。
「ちょ、ししょ――」
いきなりの事に、村雨は何が何やら分かっていない。せめて状況を知りたいと、左馬を制止しようとして――まるで無意味だと、直ぐに気付かされる。
左馬の左腕が、男の右手首をかち上げる。そうしてガラ空きになった脇腹へ、硬い靴を履いた爪先が突き刺さった。
「えげ、ぇっ……!?」
大柄な男が体を折り曲げる。頭の、顔面の位置が低くなった。左馬はそこへ、跳ね上がりながら右膝を叩き込んだ。
仰向けに男は倒れ、大量の鼻血を噴きあげる。前歯が幾つか口の外に飛び出し、鼻は無残に折れ曲がっていた。
「と言う事で、こいつらは私にやり返してきます。はい、迎え討ちましょう」
おどける様に左馬は言って、拳を腰の高さに留める構えを取った。小さく細かな跳躍を繰り返す、日の本にはあまり見られぬ武芸の型であった。
治安の悪い通りでは有るが、然しこの通り、秩序立っては居る。道場ごとに互いの力の程を知り、自然と順列を付け合っている。あまりに順列が遠い相手へは、喧嘩を仕掛けぬが暗黙の了解なのだ。
然し左馬は、順列など全く気に掛けず、どこへも問答無用で上がり込む。言うなれば鼻つまみ者、この通りでは酷く嫌われた女であった。
それがいきなり門弟を殴り倒したとあっては、黙っていられぬのが道場主と、その高弟達である。どかどかと足音がして、長い廊下の向こうに、数人ばかり姿を現した。
「村雨、お前はハッキリ言ってずるい、気に入らない。だから馬鹿正直に、技なんて教えてやりたくない。
その代わりに、私や桜の様な人間になる為に、一番大事な事をこれから教えてやる」
「え……は、はいっ!」
ぴ、と反射的に背筋を伸ばしてしまった村雨。その姿は、もはや左馬の視界には入っていない。彼女が見ているのは、血走った目の男達だけだ。
「不作法者めが、土足で上がるかァッ!」
「最初の文句がそこかい? 薄情な奴ら……はいやっ!」
大声と共に最初の一人が、容赦無く槍で突き掛かってくる。心臓を狙った穂先を右に避け、喉仏へ左一本貫手。一撃で沈黙、体がゆうと傾いた。
次の男は刀を持っていた。踏み込みは早く、中々の腕前であることは見て取れたが――左馬は、槍の男が倒れ切る前に胸倉をつかみ、あろうことか盾の代わりにして飛び込んだ。
「なっ、三笠――ぎあっ!!」
上段に構えた刀は、同胞を斬る事を恐れたか、結局振り下ろされる事は無かった。代わりに左馬の右手が、刀の男の顔に触れていた――?
「……あれ、え、そんな……?」
「がああっ、あああぎああいいい、いっ、貴様、貴様ァアァアアッ!」
村雨には最初、ただ、左馬は手を触れさせただけの様に見えた。
だが、男が苦しみ過ぎている。何故か――左馬の右人差し指と薬指が、第二関節から不自然に曲がっている事に気付いた時、村雨は背筋に寒気さえ走った。
「あー、生温い。雪の日には悪くないんだけどね」
人差し指は右目に、薬指は左目に。左馬は容赦なく、刀の男の眼球を潰し、視力を奪い去っていた。
苦痛に身を丸めた男の首筋に踵を打ち込んで、指に付いた血は衣服で拭う。それからニヤリと笑って、再び拳を腰に添えて――
「さあ、次だ! 安い看板だが、酒代の足しにはなるだろう!?」
もはや男達も、我から飛びかかろうとはしていない。左馬の立つ位置は、同時に二人が襲いかかれぬ、狭い玄関口。もう少し手前に来なければ――恐ろしくて、戦えないのだ。
それを分かってか、左馬は事も無げに踏みだそうとした。行きがけの駄賃とばかり、槍の男の喉にもう一つ突きを入れ、意識の無いまま血を吐かせてからである。
「……待てこの馬鹿ぁっ!!」
この無法を、村雨が耐えられる筈は無かった。無防備に晒された左馬の後頭部へ、石を投げる様な格好で殴りかかった。
途端、村雨は、世界の天地が入れ替わるのを見た。
拳を取られ、足を払われ、頭から床に落とされる。接地の瞬間、左馬の右足が顎へ添えられるのを感じ――その足が、最後の加速を与えた。
床板に頭を突き刺され、逆さになったまま硬直し、それから棒切れの様に倒れ伏す。一連の過程を左馬は見届けもせず、残る得物へ襲いかかった。
悲鳴も怒声もこの通りでは、公権力を呼ぶ引き金とはならない。影も伸びぬ程度の時間の後、左馬は己の獣性を存分に見たし、四肢の全てを朱に染めて嗤っていた。
「――はっ!?」
村雨は、意識を取り戻すと同時に立ちあがっていた。何故、自分は意識を失っていたかを暫し考え――頭が床に叩きつけられた事を思い出した。
思い出した瞬間、村雨は顔を青ざめさせながら、鼻で息を吸い込んだ。周囲から漂う血の臭い、激情は沸点に達する。
「や、もう起きたのかい。やっぱり蘇生も早いな、ますます気に入らない」
「……なんで、あそこまでするのよ」
教えを受ける立場だ、という事は忘れた。上下関係など意に介さぬ程、巨大な怒りが村雨を突き動かしていた。
目を奪う、喉を潰す、そこまでせずとも左馬は勝てた筈だ。
今になって考えれば、この道場の――剣術道場らしいが――門弟達は、然程強くも無かった。左馬にして見れば、それこそ朝飯前に片付けてしまえる程、技量の隔たりは大きかった。
だのに左馬は、殊更に残酷な技を用いて、過剰に相手を破壊したのである。それが、村雨には気に入らなかったのだ。
返答次第では殴りかかると、言葉の外で叫ぶ様な視線。左馬は、意識を失った大男、道場主の背を椅子に座りながら答えた。
「これが、私の武術の本質だからさ」
「弱い者虐めの、こんなやりすぎなのが本質!?」
無慈悲な響きだった。村雨は大きく詰め寄って、正面から左馬を睨み据える。
「ああ、そうだとも。大体にして大成しない奴は、この本質を履き違えるからそうなるんだ」
左馬は――信じ難い事だが、常よりも真摯な表情で、諭す様な口ぶりで村雨に言った。
「武術は、勝つ為の武器だ。より迅速に、より確実に、そしてより大量に打ち倒す為の道具なんだ。
例えば、子供でも刃物を持てば大人を殺せる様に。例えば、非力な女でも魔術を身につければ、大男を捩じ伏せられる様に。
元々弱い奴が使う事で、元々強い生き物に勝てる様になる道具――そう、道具。それが武術の本質だ」
左馬は、自分の言葉に一片の疑問も持たず言い放つ。強固な持論への信望は、揺れぬ視線に現れていた。
「刀を首に振るったら、死ぬのは当たり前だろう。槍を心臓に突き刺したら、死ぬのは当たり前だろう? なのに武技を相手に用いて、相手が死なないと高を括っている方がおかしい。違うかな?」
丸く変形した拳――幾万もの受打の末、骨から皮膚まで全てが、壊す為に特化した手。左馬は、そんな凶器を村雨の顔に翳す。
「お前が欲しがってるのはこれだよ。牛若になれる笛じゃない、大楠公の景光でもない。〝目的〟は好きに選べるが、〝手段〟はぶっ壊す事しか選べない、酷く面倒な道具だ。
……いいかい、武術で強くなろうって言うのはつまり、『これから私は人殺しの道具を、日夜離さず身に付けます』って宣言するのと同じ。殺しても殺されても仕方が無い、そんな生き物に成り下がる決意なんだ。良い鉄は釘にならないって言うが、つまりお前はロクデナシの仲間入りをするんだよ。
だから、今日はまず見せてやった。この凶器を存分に使うと、どういう事が起きるかを、さ」
眼前で、錐より鋭そうな指先が蠢くのをぼうと見ながら、村雨はその言葉を受け止め、噛みしめていた。
本音を言うならば、まるで承服できぬ言葉であった。左馬の人生哲学がどうあれ、村雨は、殺さぬ為に武術を求めたのだから。
じゃれつく幼子を取り押さえるのに、殺してしまう大人は居ない。互いの力量差が大きければ、殺さず、負傷すらさせず、相手を無力化する事は可能だ。村雨が求めているのは、この生ぬるい流儀を貫ける抑止力である。
が――同時に、心の奥深い部分では、左馬の意見に賛同しても居た。
強く無ければ貫けない目的とは――即ち、暴力無しに達成できぬものだ。
平和的解決は理想だが、誰もが聞く耳を持つ訳ではない。そうせねばならぬ時は、躊躇わず力を振るわねばならない。目的がどれ程に正しかろうが、力無くては達成は覚束無いのだから。
村雨は、自分が為そうとしている事が、間違っているとは思っていない。だが、今の自分の力で、それを達成できるとも思っていない。
「――――……っ!」
だから、何も言えなかった。
まだ痛む頭を抱えながら、床板を思い切り殴りつけた。少し板は軋んだが、罅を入れる事も侭成らない。
「お前はまだ、その程度だ。三月耐えてごらん、人を殴り殺せる様にしてやる。その後で――殺すか殺さないかは、好きにすれば良いとも。
さあ、分かったら立て、昼食にしよう。強くなりたければ唯々諾々、暫く下積みを続けることだね」
「……分かりました、師匠」
弱ければ何も貫けない。自分の流儀も意地も、力を得るまでは眠らせておこうと決めて――村雨は奥歯を強く噛みしめ、血臭漂う道場を後にした。
「いや、全くだ源悟。ただね、出来るなら向こうの火も消してしまいたい。どうしたものかねぇ」
十月三十日、江戸の町。京の町は人死で大騒ぎだが、こちらは未だに緩やかな日々を送っている。今日も大八車がガラガラと、西へ東へ駆けまわっているのだ。
だが――奉行所の縁側で茶を啜っているこの二人は、心の平穏とは無縁であった。
現状、幕府は政府の下部機関となっている。故に政府の意向は、幕府も汲まねばならぬのだ。然し――そんな事を実行できる筈も無い。
深く考えずとも当然の事だ。仏教から真っ当な基督教から、その他雑多な宗教まで片っ端から皆殺し。それを真面目に実行したらどうなるか――江戸の町から人はいなくなるだろう。
京の治安維持部隊とて、馬鹿正直に仏教徒を殺し尽くしている訳では無い。信仰心の大小を問わねば、日の本の人間の九割以上は、仏教と何らかの縁が有る。だから手抜きは許されるが――全く一人も殺さない、という事も難しい。
「傘原様、どうにかならねぇんですかい? あっしら盗人なら平気で斬りますが、それ以外はちょいと、ちょいと」
「どうにかしたいねぇ。私も無体な事はしたくないんだが……どうもお奉行様が真面目で」
「真面目な方なら、こんな馬鹿げた命令は出しゃせんでしょうに!」
源悟は腹立ち混じりに、手にした巻紙を庭に叩きつけた。奉行直筆の命令書――特に信心深い何人かを選んでの殺害命令である。
罪状というならば、政府への反逆罪という事で、国家が認めた大罪を被せられる。だが――その正当性がどこに有るのかと、源悟は腹を立てているのだ。
源悟自身、善良な人間では無い――無かった。数十年の人生で、数百の人間を殺した立派な悪党だ。
生まれついて他者に化ける力を持ち、他者の記憶を奪い取ることが出来た源悟。その代償故か、彼は自分だけの人格を確立する事が出来なかった。殺人犯や狂人や、有象無象の記憶を取りこんで、殺人こそが愉悦であると信じる異常性を帯びていた。
それを――十年以上を掛けて矯正したのが傘原同心であった。牢に閉じ込め何年も何年も、数百の人格の内の一つとだけ対話をし、その一つだけに〝源悟〟という名前を冠する事で、他の人格を薄れさせ――やがて、主人格へ全ての記憶を統合するに至った。
元が悪党であるだけに、悪党のやり口は良く知っている源悟だ。今回の異教徒皆殺しの意味も良く良く分かる――半分ほどは娯楽目的だろう。本当に効率良く目的を為すならば、殺す相手はもっと選んで良い筈だ。
「お奉行様は結婚が遅かったからねぇ、奥様は若いし娘さんも幼い。今から閑職に落とされるのは嫌だろう、良く分かるんだよ」
「だからと言って傘原様が、貧乏くじ引いて良い道理は有りゃんすめえ」
上司の面目を保つ為、幾らか仕事はしなければならない――然し真面目に仕事に取り組めば、罪も無い町人を惨殺する事になる。どちらも選び難いが、選ばねばならぬ――傘原はそろそろ、自分が動かねばと思っていた頃合いだった。
丁度、その時の事である。奉行所の表が、俄かに騒がしくなる。岡っ引きの一人が、庭を大回りに走って来た。
「おや、仁八。どうしたね、事件かい?」
「事件じゃねえですが――源悟、姐さんがお戻りだ」
「ほう? 随分と早いお帰りだ、ちょいと失敬」
戻るのは年が明けてからになるだろうかと、のんびりとした予想を立てていただけに、突然の訪問に驚きを隠せない。兎角挨拶だけでもと表に走った源悟は――そこに居た桜の姿を見て、顎が外れたかの様に口を開けた。
「よう、源悟。久しいな」
「あ、あ、姐さん、どうしたんですか、そりゃあ」
桜の草履は、ズタズタに引き千切れていた。濡れ羽の黒髪は風に乱され、雨粒も合わさって頬に張り付き――だが、そんなものは些細な事だ。
荒事になれた源悟は、桜の小袖の左脇腹に血が滲んでいるのを容易に見つけていた。決して大量では無いが――うっかり怪我をしたとか、その程度の負傷で無いのは確かだった。
「箱根を越えた辺りでな、糸が持たなくなったらしい。済まんが医者を呼んでくれんか? 後は飯だ、四日分」
「四日――まさか、京から江戸まで四日で!?」
「うむ。……流石に眠い、勝手に上がるぞ」
残骸となった草鞋を脱ぎ棄て、畳の部屋に上がり――二歩だけ歩いて倒れ、そのまま眠り始める。
代わらぬ身勝手さに呆れつつ、連れの少女が居ない事に戸惑い、
「たっはぁ、分かんねえやこのお人は」
結局は頭を抱えて、どっかと座る源悟であった。
桜が目を覚ますと、もう夜も更けていた。
要求していた食事は、拳より大きく作られた握り飯十個で用意されている。大雑把で良い事だと被りつくと、やや強めの塩気が、流した汗を程良く埋めた。
脇腹の傷は、寝ている間に医者が縫い合わせたらしい。少なくとも血は止まっているし、痛みもかなり引いている。然して傷口を見てみれば、皮膚の変色は一片も収まっていなかった。
平らげて、直ぐに立つ。立ち上がり、自分の足で廊下を歩きまわる。勝手知ったる奉行所――江戸に滞在していた頃は、度々訪れていたのだ。
傘原が雑務に使っている部屋は、この時間まで魚油の火が灯されている。野暮ったい袢纏を纏った傘原同心は、書類の前で腕を組んで唸っていた。
「ううーむむむむ……そろそろ握りつぶすのが難しいぞー……いや、はや」
「難儀している様だな」
無遠慮に部屋に上がり込み、畳の上に胡坐を掻く。傘原は顔を上げ、人の良さが滲み出した様な表情を作った。
「本当にねぇ、役人はこれだから困る。上の命令がもう少し人間思いなら、こうも悩まずに済むんでしょうが」
傘原は立ち上がって、襖を閉め、障子の隙間から外の様子を窺う。近くに居るのは源悟一人、そう見て取って、また座った。
「本日は、何が御入用で?」
「北へ向かう。装備が欲しい」
傍若無人に生きる桜だが、やはり幾人かは、良好な関係を築いた者も居る。
例えば源悟の様に、舎弟紛いの扱いではあるが、互いに助けたり助けられたりの関係。燦丸の様に、利益での繋がりという側面は大きいが、それなりに親しく付き合っている関係。
そしてまた一つの形が、傘原同心との――言うなれば、純粋な取引相手としての関係だった。
「……今年の初雪は早い、もう降ってると聞きますが。生半の防寒着では持ちませんよ?」
「大陸でも通用する程度の物が良い。関東では無い、奥州まで足を伸ばすのだ」
奥州、と傘原は復唱し、天井を仰いで嘆息した。
「物自体は直ぐに揃いますが、丈を合わせるのに暫し掛かる。今から始めさせましょう、明日の朝にお渡しします。
その代わり、お代は今宵の内に頂きたい。出来ますかね?」
「物による。誰を、斬れば良いのだ?」
桜は、傘原に無心をする。傘原は桜に、真っ当な手段では片付かない厄介事を押しつける。それ以上は殆ど踏み込まず、他人の前でだけ、親しい知りあいの様な振りをする。それが、この二人の間柄である。
傘原同心は、善良さと細やかな気遣いで、町人からの支持も厚い。裏表の無い人と言われているが――とんでもない、こうも分厚い裏が有る。
「少し北に、お奉行様のお屋敷が有る。ご存じですね? あそこの奥方とご息女を、少しの間借り受けて欲しいのですよ。
寝所にはこの手紙を置いてきて下されば、後は私がどうにかします。……つまり、人攫いの真似事をしてください」
「ああ、あの茶店小町と乳飲み子だな。何処へ隠す?」
「目隠しをして、東に一町のボロ小屋へ。源悟を使って、屋敷の者にはそれぞれ、別の用事を与えてあります。貴女なら手間取ることも無いでしょう、桜さん」
傘原が仕上げた書面は、器用にも常の筆跡を、完全に誤魔化して仕上げられていた。几帳面に畳み、桜に渡して、本人はさっさと布団を敷き始める。
「源悟、お手伝いなさい」
「心得まして。ささ、姐さん、行きやしょう」
うむ、と応じて、桜は奉行所の庭に出る。そこには源悟が、顔も髪も覆ってしまう様な、幅広の黒い布を持っていた。
「……して姐さん、あのお嬢さんは一体?」
「話せば短い事ながら、話してやるには勿体無い」
「ちゃちゃ、酷え酷え。全く変わりやせんねぇ」
提灯などは持たず、夜の町を歩き始める二人。辻斬りも好んで寄らぬ異装である。
奉行の妻子が誘拐されたと、奉行所に知れ渡ったのは夜明けごろ。昼にはもう、妻子は無傷で奉行に返されたが――それ以来、この町奉行は、政府からの督促を無視するようになった。
邪教と誹謗して良民を虐殺するならば、次は必ず、妻子は骸となるべし。そんな脅し文句を読まされて、刃向う気骨は無かったのである。
翌朝には、既に北へ向かう装備は整えられていた。
年老いた猪の堅皮を用いた長靴、毛皮を三重に重ねて水も通さぬ脚絆、藁編みのかんじき。真綿をたんと詰めた洋風の外套を、腰丈の短い物を内側、膝丈の長い物をその上に。
成程これならば、例え野兎が凍りつく様な凍土であろうが、凍える事はあるまい。江戸の町では使い道が無い程の、防寒の一式であった。
「……こんなもの、どこから出てきたのだ?」
「私は物持ちが良いんでしてねぇ。まま、存分にお使いください、お代は確かに頂きました」
朝の冷気に襟巻で対抗している傘原同心は、それでもやはり寒いのか手を懐に、白い息を吐き出していた。
縄で括られ背負い籠に纏められた装備を、桜はひょいと右手に担ぐ。利き手を塞ぐのは本来好む事ではないが、やはり傷口に近い左腕は、思う様に動かせない。
「姐さんはまったくせわしねぇなぁ。来たと思えばもう行っちまう、余韻もくそも有ったもんじゃねえ」
「長居をする用件も無くてな。それに、そろそろ私の首も、相応の値打ちが付く頃だろう」
「はは、ずばりその通りで。奉行の野郎、騙し討ちして来いだのと尻を突っつきやがる」
二日や三日、体を休める為に滞在しても良いのだろうが――狭霧和敬も抜け目がない。既に江戸の幕府には、桜の首に賞金を掛けろと手を回していた。慎ましく生きるのならば、十数年は生きられる程の高額である。
尤も、その金に目が眩んで桜を突き出そうとする者はいなかった。仁徳が故では無く、自分の命を惜しんだが為である。加えて桜を物理的に拘束する手段など、日の本に幾つあるかという大問題も有った。
兎も角も、二度目の江戸出立。前回とは違って一人旅、向かう先も西ではなく東。急がねば雪が積もると、交わす言葉も少なに歩き始めた桜の耳に――しゃらん、と鈴の音が。続けて笛太鼓、賑やかな祭囃子が聞こえた。
長屋の戸が開き、物見高い野次馬が飛び出してくる。幾人かは屋根に上り、好奇の目をらんと輝かす。何事かと桜が振り向けば、朱と金と黒の絢爛の、大行列がそこに有った。
「いよっ、達磨屋ァ!」
髭の男が囃したてれば、若い旗持ちが応と答える。岡場所、品川、その中でも大店。達磨屋の花魁道中が、はるばると奉行所の傍まで足を伸ばして来たのだ。
早朝からの遠歩き、眠そうな顔の者もちらほら見えるが、何れも粋と酔狂に生きる連中。己の店の栄華を江戸中に誇らんと、あらん限りの騒がしさで、手に手に楽器を鳴らしていた。
「お久しゅう、主様……わっちにお顔も見せず、何処へ?」
その先頭を歩くのは、達磨屋の遊女、高松であった。
つんと棘の有る口調。だがその顔は、腹を立てているというよりも、子供の様に拗ねた表情で――艶やかな打掛姿に釣り合わず、桜は思わず、ぷっと吹き出す様に笑った。
「何だ、わざわざ見送りに来たのか?」
「わっちから来なければ、会わぬままになさいんしょう?」
心の内を言い当てられた様で、苦笑いを浮かべながら、桜は隣に立つ源悟を睨む。
「お前の仕業か?」
「へっへ。姐さんが寝てる間にちょいと走って……あいてっ!」
ごん、と小気味よい殴打音。たんこぶの出来た頭を抱えて、源悟は唸りながらも、してやったりという感情を顔に現していた。
江戸に滞在していた二年。その大半の夜を、桜は達磨屋の二階で過ごした。他の宿へ足を運んだ事も数度では無いが、必ず数日で飽きが来て、また達磨屋へ戻っていた。
店員達とは顔馴染みだ。客と店の間柄というより、隣人同士の様に気心の知れた関係である。客引きの若者など、今朝の別れに鼻をずずと啜りあげ、大袈裟に泣いて他の者に冷やかされていた。
何故、こうも足繁く通ったか――いや、留まったか。それは一重に、高松の存在が故だった。
色濃く血の香りが漂う女。倫理も道徳も投げ捨てて、欲の侭に生きてきた女。その生き様が魅力的だったから、桜は高松を幾度も抱いた。
「……もう、お前を抱いてやれん」
だから桜は、高松に会わぬままで、再び江戸を離れようとしていた。
人に生まれて獣に堕ちて、獣の侭で生きようとする女より――獣に生まれて、人と生きようと足掻く少女に、桜は強く魅せられた。己の心変わりを自覚したが故に、顔を合わせるのが気まずかったのだ。
「存じ上げてございんす。憎しや、わっちと飲み交わすより、幾段も色めいて美しき御髪……ほほ」
高松は口に左手を、桜の髪に右手を添えて、飽く迄慎ましやかに笑う。
惚れた相手が男か女か、その程度の違い、如何程の事も無い。ただ高松は、自分の傍らにある桜よりも、今の桜の方が美しいと感じたのだ。
だから――諦めた、諦めるしかなかった。せめて好いた女の、無事を願って見送りたかった。
店の者達まで付いて来たのは、これは完全に余興の延長か。些細な事でも賑やかしたがる、江戸の町人の悪い癖だ。賑やかで無ければ泣き崩れてしまったかもと、高松は店の者に感謝していた。
「……奥州の雪は重いと聞きんす。どうか、どうか、ご自愛を」
「ああ、行ってくる」
長く留まれば後ろ髪を引かれ、僅かにでも心が揺らぎそうになる。桜は新しい草鞋で、さあと土煙を上げて歩き始めた。
「主様!」
数歩ばかり行って、呼び止められ、立ち止まる。
高松は、桜に背を向けていた。打掛を剥ぐように脱ぎ棄てて、襦袢から腕を抜き、腰まで引き降ろす。野次馬達のどよめきが、倍以上も大きくなった。
高松の背には、多色刷りの鮮やかな刺青が施されていた。血を吸ったかの如く赤い桜の花を、丸い月が見降ろす夜景色。文字一つ無いが、それは起請彫りであった。
「お戻りの暁には、これに雪原を書き加え、わっちの誠の仕上げを致しんす。その折りには是非とも」
「ああ、是非とも見届けよう。楽しみが一つ増えた」
見送る者も無く、たった一人連れて江戸を出た朝と――嫉妬やら羨望やらの視線を、存分に背負って旅立つ今朝。
今の方が余程心地好いと、桜は笑いも止まらず東へ向かうのであった。
奥州への道は、東海道に比べてあまりに寂れていた。
賑わう街も幾つか有るが、江戸や京を見慣れてしまった目には、片田舎の村とさして変わらない。道は整備されておらず、所によっては砂利の為か、鋸の様な路面が出来ていた。
叶うならば馳せて行きたいが――知らぬ土地、案内人もいない。人の流れに乗る事も出来ない。傷を癒しながらの道中、自然と歩みは遅くなる。
水戸を抜けてから、仙台藩の城下に至るまで十日。北上し、南部藩の領地に至るまで、更に十日。
そして――目的地はさらに北西。奥羽山脈の麓にある、小さな村であった。
「……遠いな」
十一月も終わりに近づいて――奥州は、記録的な豪雪に襲われていた。
此処までも道は悪かったが、それはまだ道と呼べるだけましだった。
今、桜が歩いているのは、道とも呼べぬただの平野。腰まで埋まりかねない程の大雪が、世界を白く染めている。
誰もいない。戯れに叫んでみようとも、声は雪に吸われて消える。見渡せば視界の全てに、生物の気配はおろか足跡も見つからなかった。
空は青く晴れ渡っていたが、然し日光が有ろうとも、この雪が溶けて消える事は無い。寧ろ表面だけが溶けてしまった為、夜間には氷になるだろうと予想出来た。
早くこの雪原を抜けてしまいたい――然し、目印になるものと言えば、自分の足跡くらいしか無い。ただ、ただ、桜は歩き続けた。
奥州の――それも、山脈より東の雪は、さらさらと乾いている。雨雲が山脈を東へ抜ける際、湿気を奪い取られるからだ。
然してこの粉雪は、積もれば圧縮され、重く硬くなる。積もった高さに比例せず、桜の脚が雪に埋まるのは、膝を少し過ぎる程度までだ。
一歩ごとに力を込め、脚を引き抜き振りあげ、可能な限り遠くへ振り落とす。新雪の上では、かんじきも気の慰めにしかならない。平地を歩く倍の時間を掛けて、半分の距離も進まなかった。
「雪は慣れているが……うーむ、遠い」
独り言が多くなる。そうでもせねば、足音と風の音以外、鳥のさえずりさえ聞こえてこないのだ。
気も狂わんばかりの静寂を、踏み散らし踏み散らし歩いて――まだ、何も見えてこない。
歩く事、辿り着く事ばかりを考えては、強靭な心も摩耗する。桜は自然と、己の過去に思いを馳せていた。
雪月桜が鮮明に思い描ける最も古い記憶は、雪に沈んだ己の右足だ。
今に比べればあまりにも小さい――弱弱しい、子供の足。引き抜こうと悪戦苦闘して、履いていた毛皮の靴が脱げた。
弾みで転び、仰向けになる。あの時も空は、残酷なまでに青かった。
周りに、風を遮るようなものは何も無い。分厚い外套も、小さな体を完全に守ってはくれず――抱きしめてくれる大人も、誰もいなかった。
何故、誰もいないのか。それは思い出せない。ただ――三歳の子供がただ一人、異郷の雪原を歩いていた事だけ確かに覚えている。
泣いていた様な気がする、喚いていた様な気がするが――なんと言ったのかは、やはり思い出せない。慰める者もなく、口を開ければ寒いだけなので、無理にでもしゃくりあげるだけに留めた。
三歳の幼児が己の感情を制し、泣き声を抑える――平時ならば無理だ。然し、そうしなければ死ぬと思えば、泣きたくとも泣けぬのだ。
歩いて、歩いて、歩き続けて――誰かの足跡を見つけ、心に歓喜が込み上げた。喜び勇んで足跡を追いかけ、数歩ばかり進んで気付く――これは自分の足跡だ、と。
目印の無い雪の上。大きな円を描き、結局は元の位置に戻ってきた。幼い思考力でも、自分の歩みが無駄だったとは気付いた。
ここまで思い出し、苦笑する。今の自分ならば、両足の歩幅を揃えて歩くなど容易い事だ。あの時にもそう出来ていれば――悔いても、時間は戻らない。
懐かしく、辛く苦しい記憶。思い返す頃には、日は遠くの山へ沈んでいた。
銀の大地を茜が染めて、眩しく、また果てなく美しい。これを一人で眺める事が惜しくてならず――また来ようかと、小さく小さく呟いた。
歩いても歩いても、雪原は続いていた。
ともすれば自分の目的を忘れかねない程、どこまでも続く白景色。空から照らす光源は、何時しか月に取って代わられていた。
思うに、太陽とは慈愛の具現である。闇を見通せぬ人間に、無条件で明かりを提供し、また暖かさを提供する。善人も悪人も、大人も子供も分け隔てなく――太陽が有るから、人は昼間に生きるのだ。
然して、月は無情である。美しく空に佇みながら、その温度を分け与えようとはしない。人が絶望しきらぬ様に光を与え――だが、闇の全てを照らしだしてはくれぬのだ。
もしも月の無い夜であれば、その小さな子供は、とうに歩みを止めて凍え死んでいただろう。
日が沈んで直ぐ、強い風が吹き始めた。雪が落ちて風に混じり、吹雪と化して雪原に吹き荒れた。
それが――記憶の中の出来事なのか、桜はもう分からなくなっていた。今、歩いている桜も、記憶の中の幼い桜も――いや、自分の名も忘れた小さな子供も、共に吹雪に翻弄されていた。
「寒いな……寒い」
きっと似た様な事を、幼い頃にも嘆いたのだろう。
幼子にとって世界とは、自分と親と、そして目に入る狭い地域だけ。両親が傍にいないという事は、敬虔な信徒が神の慈悲を失うにも等しい事だった。
「ああ、馬鹿馬鹿しい」
救いが得られない事は、神の愛を学んだ今ならば分かる。
助けを求めている内は、厳格な神は何もしない。助けに辿り着こうとしなければ、小さな火の一つさえ与えてくれない。
だが――幼子に、何が分かろうか。
おかあさん、おとうさんと呼び掛けた。誰も応えはしなかった。
何故、縋ろうとしたか――そう呼べば、人肌のぬくもりに包まれるのが常だった。身を刺す寒さから逃れたかったのだ。
求めても、求めても与えられないと知った時、幼子は過去を思い出そうとした。丁度、今の桜と同じ様に。
「懐かしい?」
「いいや、さっぱり」
人は死に直面すると、生き延びる為に過去の記憶を探るらしい。三歳の子供が縋る記憶に、生きる為の道など無かっただろうに。
「疲れたでしょ、休まない? 急がなくたって、土地は逃げていかないよ。逃げていくのはあなたの記憶だけ」
櫛の歯の様に抜け落ちる。縋る心が抜け落ち、流す涙が枯れ、己の名さえ薄れて果てた。誰にも呼ばれない名前など――覚えているだけ、無意味だったのだ。
「どうして、あの時に立ち止まらなかったの? そうすれば、今まで苦しむ必要は無かったのに」
全く、その通りだ。雪の上を歩くのは、堪らなく辛い行為だった。過酷というも生ぬるい、孤独を刻まれる旅だった。
「……寒かったからなぁ」
何故、足を止めなかったか――歩いていれば、少しだけ暖かかったからだ。脚の痛みより、肌の冷たさが辛かったから、動き続けようとしたのだ。
「ところで、お前は誰だ?」
遠い昔の様に、ただ一人で雪原を歩きながら――桜は、隣を行く声に問いかけた。
「私は私、あなたはあなた。私はあなたじゃないけど……あなたの中の一人だよ」
得心の行かぬ答えではあるが、成程、確かに聞き覚えのある声だ。それも一度や二度ならず、寧ろ近くに居る事を当然と思う程の――
「……なんだ、村雨か」
膝まで雪に埋もれる桜の横を、裾も濡らさず村雨は歩いていた。
ここに村雨が居る筈は無い。あの夜、仮初の別れを告げた――それを無為にするなど、決して有り得ぬ事なのだ。
「そういう名前、なのかもね。ダーもニェートも言い辛いけどさ」
口調、声の調子、記憶の中の村雨と何も変わらない。だが――例え村雨が極北の人狼だとしても、人の姿のまま、薄絹一枚で、この雪原を歩くとは思えない。
雪に足跡も残さず、村雨の姿をした何者かは、桜に速度を合わせて歩く。自然、顔の高さは普段と逆で、桜より上に置かれていた。
「何をしに来た?」
「あなたを止めようと。今からなら、多分戻る方が楽だよ?」
桜は耳を貸さず先へと歩み続ける。それを〝村雨〟は、弾む様に追いかける。
「寒いでしょ、寂しいでしょ? 進んでも誰もいない。何処まで行っても誰もいない。疲れるばっかりで、全然結果は見えてこないし……だーれも助けてくれない」
確かに、視界の何処にも人はいない。昔の、記憶に残る景色のままだ。
「でも、引き返せば人の街に戻れる。暖かい食事にお風呂、布団で寝る事だって出来るんだよ。あなたの好きな美人に御酌をしてもらって、好きな様に――」
「飯盛女を抱いて、か?」
「そーいうの、好きでしょ」
確かに、と苦笑しつつ、桜はやはり先へ進み続ける。横を歩く〝村雨〟が、幾分か不機嫌な顔をした。
「今は、あの時とは違うんだよ。戻ろうとすれば戻れる。戻る自由が有るのに、どうしてそうしないの?」
「そうだな……確かにあの時は、どうにもならんから歩いていたか」
自分の力でも、庇護者の力でも、決して救いには届かない。そんな時、人は無意識のうちに――大きな存在に、祈りを捧げてしまう。
信仰心の強いものならば、神を自分の支えにしようと、聖書の語句でも唱えるだろう。不信心な者でさえ、神の名を口にせずとも、助けてくれと何かに祈る。
だが――本当に、それこそ平原に積もった雪の様に、深く果てない絶望に晒された時――人は、差し出そうとしてしまう。
例えそれが、どれ程に無価値なものであろうと、自分が手放せるものであれば。
例えそれが、どれ程に崇高なものであろうと、手放し得るものであるのならば。
与えられるたった一つの救いを、自分の持つ全てと引き換えにしても良いと、人は祈りを捧げてしまう。
なぜならば、未だ手にしていない救いは、現在自分が手にしている幸福の総量を、常に上回るからだ。
疲れより、孤独より、死より――幼子が恐れたのは寒さだった。
この寒さから逃れる事が出来るなら、自分は何もいらない。
例え手足を失おうと、例え目や耳を失おうと、例え一生玩具や菓子を楽しめなくなろうと。
生まれ落ちてから今までの、愛された記憶の全てを失う事になろうと。
狭い世界の全ての娯楽を、全ての安寧を差し出そうとも、ただ寒さから逃れたかった。
〝神様、私は何もいりません。おとうさんもおかあさんも、おじいちゃんもあげます〟
〝だから、どうか。どうかこの寒さから、助かるための何かをください〟
夜の平原を、炎が赤々と照らしだす。種火も無ければ燃料も無い。虚空に出現した炎の壁は、瞬く間に雪を溶かし、桜の眼前に一本の道を創り出した。
夜天を炎の柱が焦がす。我此処に有りと叫ぶ様に、熱風は笛の如く轟いた。
あの夜も、こうして生き長らえた。救いの手が差し伸べられるまでの間、小さな体の熱を保ち、命を保ったのは――それまでの生の全てを捨てた、生涯最後の祈りだったのだ。
「今はもう、大丈夫だ」
力を得た。無限の凍土に晒されようと、凍えて死ぬことは無いだろう。
数百里の道を行こうと、鋼の健脚は疲れを覚えない。
「お前が誰かは知らんが、まるで余計なおせっかいだ。私はもう、寂しくない」
そして――永夜を一人で歩む事になろうと、もはや桜は、孤独に怯える事は無い。例え傍らに人影が無くとも、己は一人でないと信じているのだ。
横を歩いていた筈の〝村雨〟は、何時しか幼い子供の姿になっていた。桜はそれを抱き上げ、胸の中で己の体温を分け与えてやる。幼子は嬉しそうに目を細め、聞いたことの無い声で話した。
「代償持ちか、奇縁よの。何れも果ては死ぞ、知りて足掻くか」
「何十年も先の事だ。何れ死ぬなら、せめて死ぬまで楽しみたいではないか」
雪の中に作られた一本の道。海を割った預言者の様では無いかと、桜は己の不信心に笑う。
「そなたが捨て去ったものの重さを、分からぬではあるまい。父も、母も、全ての肉親をも――そなたは、刹那の祈りに換えた。
仮に永らえようと、そなたは決して、肉親を得る事は出来ぬ。子を為す喜びは、あの雪土に埋めて捨てたと思え」
「構わん。顔も覚えておらん親、どうせ生まれぬ子だ。今更、そんなものに未練は無い」
胸に抱いた幼子の声は、山彦の様に反響する。近くに居るのか、遠くに居るのかも分からなくなる。
だが、桜は、声の主が何処に居るのかを気に掛けもしなかった。躊躇いを、迷いを呼び起こし、引き変えさせようとする夢の魔か――そんなものだろうと思っていたのだ。
「顔を伏して生きるは気楽ぞ。苦痛に耐えるよりは寧ろ、快楽に耽りたいとは思わぬか?」
「日の光もろくに拝めぬ生など、剣禍の死より息苦しいわ。私は存分に愉悦に耽る為、遥々奥州まで足を運んだ……もう良かろう?」
桜は、幼子をそっと地面に降ろした。見れば、惚れ惚れする様な黒髪、吊り気味だが力の籠る強い目――幼子の顔は、桜に良く似ていた。
「うむ、良い。なれば来るが良い、此方が山へ。そなたの言が真で有るならば――そなたの身の毒、必ずや癒してみせようぞ。
……無論、此方に空言を申したと有らば――その罪業、必ずや身に還るであろうがの」
幼子は数歩ばかり先へ進んで、霞の様に姿を消す。その先には、揺らめく小さな光が見えた。松明か、或いは囲炉裏の火だ。
「……なんだ、随分近くまで来ていたのだな」
暫く歩けば、分厚い板戸の前まで辿り着いた。雪国の知恵か、屋根の様に板を張りだし、雪に埋もれない様に作られた玄関口――拳で叩き、呼び掛ける。
「旅の者だ、済まんが火と屋根を貸して欲しい! 宿代くらいは払うぞ!」
家の中で、誰かが立ち上がる気配が有った。それを最後まで確かめる前に、桜は急激な眠気に襲われる。
脇腹の傷は、自分の自覚以上に体力を削いでいるらしい。高々一日ばかりの雪中行で、こうも疲労に襲われるとは――他人事のように冷静に、桜は己を見つめていた。
板戸が開き、驚愕に息を飲む音。体が引きずられ、雪を払い落される。親切な家に当たったらしいと内心で感謝しつつ、口に出るのは全く違う言葉。
「……全く、最近は眠ってばかりだな」
宿を借りる家に礼を言うより、先に欠伸と高鼾。我ながら無遠慮だと思いつつ――桜の意識は、夜に飲み込まれて消えた。
時系列も何もかも、滅茶苦茶になった夢を見ていた。
最初の光景は、初めて刀を振るった時のこと。それまでに摸造刀などで散々鍛えていたから、重さに負ける事は無かった。だが、刃の美しさには心を飲まれ、暫くは呼吸も侭成らず立っていた。
次に浮かぶのは、日の本に辿り着いた時の事。里帰りとなる筈だが、まるで実感は無かった。異郷の地を踏む高揚を味わいながら――港に佇む者と言葉が通じる、違和感が暫く慣れなかった。
江戸へ足を踏み入れた時には、この素朴な町並みが、かつての首都かと驚きもした。日の本の熱情は建物でなく、人に現れると知ってからは、江戸の町が何よりも好きになった。
「……起きる? 笑ってるけど……?」
「起きない、起きないって」
懐かしく、また楽しい思い出ばかりを眺めていると、何処からか声が聞こえた。聞き慣れない声だが、まだ眠気が強かったので、気に掛けない事にした。
次に見えたのは――初めての、殺人の記憶。あまり楽しくも無いが、さりとて悪しとも言えぬもの。
自分の倍も有りそうな巨体の男が、雪原に這いつくばっている。右膝から下と、左大腿から下が、少し離れた位置に転がっている。
動けなくなっている相手の背に、幾度も刀の切っ先を落とした。これで殺せたという確信が無かったから、背の肉が粗方抉れ落ち、肋骨が逆に開くまで繰り返した。
殺して暫くは、自分が勝ったのだという達成感ばかりが先だって――夕食を前にした時、胃袋が食べ物を受け付けない事に気付いた。胃液まで吐き尽くして、一晩の悪夢に悩まされ、結局二日ばかりは絶食する羽目になった。
だがそれ以降、剣の腕は飛躍的に上達した。新たな技術を身に付けた訳でも、身体能力が極端に上がった訳でも無いのに、剣筋の冴えは、人が変わったかの様であった。
思えば生き物を殺すのは、精神的な壁さえ乗り越えてしまえば簡単な事なのだろう。たった一人を斬り殺しただけで、それ以降、刃は随分と軽くなった。
後は、とびとびに記憶が流れて来る。洞窟で盗賊を踏み殺し、草原で決闘相手を斬り殺し。遊女を抱く傍ら、強盗の首を捻り壊し。瞼の裏に繰り返されるのは、他者の命を奪った記憶ばかりで――終に、雪の夜の夢に辿り着く。
桜は、東へ行きたいと師へ告げた。自分が生まれた土地を、一度見て来たいからと。彼女の師は、ならば自分を殺して行けと告げた。
吹雪の中、二人は殺し合った。既に桜の技量は師を上回り、大きな傷を負う事も無く、彼女は師を斬殺した。
それが、四人目。彼女が〝雪月桜〟として完成する為の、最後の生贄。以降、桜は、人を殺して嘆く事は無くなった。
「……ほらー、起きそうだってば。やめよう?」
「大丈夫、大丈夫。それよりほら、一緒にやろうよ」
また、誰かの声が聞こえた。こういう時は大概、眠気が薄れて来ているのだ。
気付けば、手足に暖かみを感じていた。丁度、暖炉の火に当たっている様な――少なくとも、屋内に居る事は確かだ。
「あれ、あれ……こんがらがっちゃった、どうしよ……?」
「ああもー、ちゃんと順番にしないと駄目なの! ほら、三つに分けて!」
桜は、そうっと薄目を開けて、声の主の顔を見てやろうとした。
十二、三歳程だろう少女が二人、桜を挟む様に座っている。何をしているのかと思えば、彼女達は何れも、桜の髪を一房つかんでいた。
どうにも彼女達は、三つ編みを作って遊んでいるらしい。が、あまり長い髪を扱った事が無い様で、手付きがどうしてもたどたどしいのだ。
「ねえ、さとー……指に絡まっちゃったんだけど」
「ええ? なんでこんな事も出来ないのよ? ほら、手を貸して」
少し気の弱そうな声が、おどおどともう一つの、少し気の強そうな声に助けを求める。気の強そうな声の少女は、ぐいと体を乗り出して、もう一人の少女の手を掴み、絡まった髪を解き始めた。
この二人、まだ桜が目を覚ました事に気付いていないらしい。あんまり没頭しているので、桜はつい、悪戯の気を起してしまった。
「ひぅ!? い、今なにか……?」
そうっと左手を動かし、気の弱そうな少女の背をつつき、直ぐに手を元の位置に戻す。弾かれた様に背後を振りむき、だが何も見つけられずに居る少女の姿は、なんとも言い難く面白みが有った。
「え、何、何……? いきなり叫んで、なんなのよ――――……ひゃあっ!?」
気の強そうな少女は、訝しげな顔で目を細めた。桜の腹の辺りに手を置いて、ぐいと身を乗り出す。前方に意識が集中している所で、今度はその背に、桜の右手が迫る。中指の先で的確に、へその裏側、背骨の真上を叩くと、少女は身を仰け反らせて悲鳴を上げた。
「さ、さと……!?」
「いいいいい、今、何かいた!? いたわよね!?」
軽い混乱状態に陥った二人の少女は、身を寄せ合って周囲を見渡す。が――視線の高さは、彼女達の胸より高い位置に有る。肝心の悪戯の元凶は、未だに床に寝ているというのに。
「……さき、お父さんはまだ、よね……?」
「今日は山に入るって言ってたから……夕方には戻ってくる、と……思う……」
薄目を開けて見ていると、よく表情の変わる二人である。驚愕から怯えの表情に切り替わり、そして何らかの決意へ。心の移り変わりが、こうも漏れ出ている人間は滅多にいない。
やがて二人は、どちらが言うとも無しに、背中合わせに座って、小さく震え始めた。
それぞれに懐中から取り出したるは、一振りの短刀。驚かせすぎたかと思い、声を掛けようとした桜は――気の強そうな少女の手にしているのが、己の所有する短刀だと気付いた。
「おい、それはどうした」
「――っ、ひゃあああああぁっ!?」
「――きゃあああああああぁっ!?」
跳ね上がる程、二人の少女は驚いてみせた。気性は事なれど、良く似た二人であった。
完全に眠っていると思っていた人間に、いきなり声を掛けられた――そればかりでは、こうまで驚きもするまい。訝しがりながらも、桜はゆうと立ち上がる。
立ち上がって見て気付いたが、この少女達、年の頃に比べて背が低い。為に、長身の桜は、かなり極端な角度で二人を見下ろす事となった。
「見た所、私の短刀の様だが。子供が持つには危険な代物だぞ?」
総鋼造り、足の指に落とせば爪が割れる重量。鈍器としても使える様な、呆れた強度の短刀である。こうも酔狂な品を、子供に持たせる親もいるまい。桜は、その短刀が自分の所有物だと確信を持っていた。
「な、なな、な――――……っ、子供じゃないわよ、子供じゃ! じゃない、誰よあんた!?」
「えと、これは私達が貰った――じゃなくて、いやそうなんだけど、その、えと」
慌てぶりも二者二様なのだが、狼狽する表情は良く似ている。姉妹なのだろう、と見えた。
来客に吠えかかる子犬の様な、〝さと〟と呼ばれていた少女。対して〝さき〟と呼ばれていた少女は、少なくとも対話の意思が見える。桜は首の角度を変えぬまま、目だけを下に向けた。
「まずは礼を言う。長旅で傷も開きかけた所だ、屋根を借りられたのは有りがたい。ささやかなりと謝礼もしたい所だが――」
目が覚めてから、桜の体は妙に軽かった。理由は至極単純である。
「この村の宿は前払いか? 服が残っているだけ良しと見るべきか、ふむ」
持ち物が、殆ど消えているのだ。
身に付けていた物は、小袖と丈の短い外套、長靴を残して消えていた。行方知れずとなった装備は、丈の長い外套、脚絆、かんじき――財布、短刀、脇差、黒太刀。
外と内から窓を塞がれた小屋は、囲炉裏の炎に照らされている。見渡しても、それらの装備は見つからない。そして、さとが桜の短刀を持っている以上、装備がどうなったかは推して知るべしである。
「えー……と。御免なさい、余所者が踏み入る〝通行料〟だって兄さんが――」
「さきは黙る、こいつが悪いんだから良いのよ! 服は残してやったじゃない!」
「ふむ、一理ある。流石に全裸では私も凍え死ぬだろうな」
こういった風習も――頷けないではなかった。屋根を火を貸すだけ、寧ろこの集落の者は親切なのかと思わぬでもない。ないが、腰と背の軽さは、やはり心地好く感じられない。
「で、どうすれば通行料は返してもらえる。雪下ろしくらいなら手伝うが」
「えっ、じゃあ早速この家の――じゃ、なくて。あんたもっとおどおどしなさいよ、生意気なのよ!」
自分より一尺と三寸も背が低い少女に生意気と言われれば、桜も苦笑以外の表情を作れない。諦めた様に首を振って、さき一人を視界に入れた。
「礼と挨拶、それに話がしたい。家の者は居るか?」
「家の……え、と……父さんは山に入ってるし、兄さんは〝雪蔵〟に居るから……母さんが、近くにいる、かも。
あ! でも、出来れば外に出ないでもらった方が……」
人見知りの気が強いのか、それとも姿勢を低くしない桜から威圧を感じているのか、兎角さきはおどおどと話す。ちら、ちらと玄関口の方へ視線を向けるのは、誰か帰って来るのを待っているのだろうか。
が――それを待っていられる程、桜は気が長くない。
「やれ、面倒な事になったものだ」
「ちょ、ちょ、外へ出るなって行ってるでしょ! 待てこら、このーっ!」
さとが裾を掴んで引き留めようとしていたが、雪程の重さも無い。桜は軽い欠伸をしながら、長靴に足を通し、小屋の外へ出た。
目を刺す様な照り返し。雪に覆われた村は、痛いほどに眩しかった。
既に日は高く――だが、江戸や京の様な騒々しさがない。然してこの静けさは、決して寂しさと同義ではなかった。
南東に向いた玄関――桜には懐かしい、風除室を備えた――を潜れば、すぐそこには、雪を掻き分ける逞しい中年女。
「あんら、やっと起きたのかいねぼすけさん。ちょっと待ってな、お夕飯の用意をするからねぇ」
「……それは一体、どれだけ後の話だ?」
胴体も腕も、笑い方も太い中年女に、桜は呆れ笑いを浮かべて問う。
「なーに、男連中が帰ってくりゃ直ぐ、日が沈む頃のことさぁ。……それとも、もう腹が減ったんかい?」
中年女は、積もり固まった雪の上にどっかと腰を降ろして言った。
さとの慳貪な歓迎に比べれば、随分と好待遇だ。どういう事かと桜は首を傾げ、中年女の隣に腰を降ろす。外套の裾から雪の冷たさが伝わって、座り心地は決して良くはなかった。
「面影はあるな。あの二人の母親か?」
「んだよ、あたしさ。さとはいっつもうるさいからねえ、あんたも疲れたろぉ?」
「ん、まあ余所者相手なら、あんなものではないのか? ……いやそもそも、私に出す飯が有るのか?」
からからと中年女は笑って、桜の肩をばしばしと叩く。中々に力強い手であった。
「三千石を甘く見ちゃいけないよ、旅人さん。あんた十人食わせたって、倉はまだまだたんと余ってるさ」
ほう、と桜は驚嘆した。
見れば、狭い土地である。東西は高い山に遮られ、南北に貫いて川が一本。高低差も大きく、冬の訪れは早く、豊かな土地には思えない。
そんな疑念は、やはり表情に表れていたのだろう。中年女はまた豪快に笑って、西の山を指差した。
「
今もうちの旦那が、籠り損ねの熊を狩りに行っとるよ。一頭取れば皆で喰える、日の入りまでには戻んだろうさ」
「皆で、か」
日の本の熊は、蝦夷に住む種類を除いては、決して巨体とは言い難い。肉も内臓も骨髄まで、無駄無く喰らう文化があるのだろう。
それが――なんとなく懐かしく、桜には感じられた。自分が育った土地の、少ない食物を食い尽くす風習にも似ている、と。
然し熊とは。そんな思いもまた、桜の偽らぬ本心であった。
確かに不味くは無いのだが、どうにも癖の強い肉だ。仕留める難しさのこともあり、他に食う物があるならば、そちらを食う方が効率は良いだろう。
敢えて熊など――それも、冬眠をし損ねた固体を探すなど、或る意味では余裕の表れなのか。食料を得ることより、熊を食うという事に意味があるのだろうか?
「ああ、いんや? そんな事は考えちゃいんねえさ。山が有るから狩りに行く、簡単だろぉ?」
然し、実際に深読みの内容を尋ねてみると、一笑の元に否定された。
「成程、簡単だな。好ましいものだ」
随分と動物的な文化だ。己の連れの、単純な欲求に似ていなくも無いと――思わず、桜も破顔する。
「んだから、今夜はゆうるり休んでいきな。こんなところまで来るんにも、何か訳があるんだろ?
うちの村の女衆は、外のもんなら何でも好きでねぇ。ほうら、あれとかあれとか」
中年女がひょいと指差した方向に、桜も目を向けてみる。
成程、作業の合間合間、ちらちらと好奇の目を向けてくる者が幾人か。その何れもが、分厚く着膨れした女である。
男も居ないではないのだが、こちらは奇妙なことに、殊更に桜を見ようとしない。意識的に顔を背け、視界に居れず通ろうとしているかの様だ。
「ふうむ、私は王朗の世評か」
「あん、その心は?」
「えんぎが悪い」
暫し中年女は考え込み、ようやく思い当たると、かっと吹き飛ばすような笑い方をした。
「んだんだ、他所の女に目をやると、
「そうかそうか。然しお前、存外に学があるのだな」
羅貫中を謗りながら、暫く二人は雪上で話し込む。体温で雪が僅かに溶け、衣服の尻に染み込むのは不快だが、概ね愉快な時間であった。
「おっかあ! 何してんだ、んなやつと!」
然し暫しの平穏は、憤りを大いに表した声に妨げられる。
雪を激しく蹴り散らして、青年と少年の中間くらいの男が、鼻息も荒く歩いて来た。氷点下の雪国で激しく歩くものだから、頭からは白い湯気が立ち上っている。
「他所もんとくっちゃべるなって言ったべや!? しかもまた外さはあ連れ出して!」
「んだどもさきとさととさ置いどいてもどうにもならんべや! ほに言うだけ言って何さもしねえで!」
現れるなり叫んだ彼に対して、中年女も強い口ぶりで返した。
語気の強さに比べて、声や表情に敵意がない。親しい間柄で、こういう会話さえ日常茶飯事なのだろう。そういうことは桜にも伺えたのだが――
「……ん?」
首が斜めに傾き、瞬きを幾度か繰り返し、桜は会話の内容を理解しようと努めていた。
一度文字に書き下してしまえば、なんとなく意味は分かる。だが、カ行が酷く濁る東北の訛りは、関八州の言葉に慣れ親しんだ桜には、聞き取ることも難しいのだった。
「おい、そごん余所もん――そこの余所者! おらがさ村に上り込んで、なも払わねでうろつくでねえ! とっとと
「……うーむ、言わんとするところは分かるのだが。私もな、寝起きで少しは体を動かしたいと」
「なんねえっ!」
雪を踏み荒らして詰め寄ってきたこの男も、やはり小柄であった。骨はがっしりと太いが、顔の筋の薄さといい、まだまだ育ちきっていない感が有る。背丈でいうなら、桜より四寸も低い為、近づけば近づく程、互いの視線の角度が大きくなった。
「ところで、お前」
「んだ?」
聞きなれぬ音ばかりで混乱した表情ながら、桜は一点、特に気になる事を見つけて呼び掛ける。険しい顔をしていた男は、途端、目の力を抜いて口をぽかんと開け答え――直ぐに、また顔を戻すことになる。
「お前は山に入らんのか? 他の者は狩りに出ていると言うが」
「――っ、やがましゃあっ!」
まだ少年と呼ぶ方が相応しいかも知れない男は、火が付いた様に激昂した。何事かと訝る桜をよそに、中年女はまたからからと笑って、
「ぶはっはっはっ、言ったらはあ可哀想だべさぁ! 鉄砲ばまだ下手ぐそで山さ入れでもらえねえのよ
「おっかあ、余計な事さ言うでねえつってんだべ! こら余所者、笑うなぁ!」
外には強い性質らしい富而は、しかし母親に掛かれば見た目よりなお幼い子供扱い。桜はそれを見て、思わず吹き出してしまい、口元を手で覆った。
「そら、とっとと戻れ戻れ! おっとうさ戻って来たらお
「おお、おお、分かったから押すな、引っ繰り返るぞ」
背を押される桜は、無理に踏みとどまろうとしない。富而は茹で上がったかの様な顔色で、富而の母はまだ笑っている。見知らぬ土地の事とは言え、なんとも長閑な事であった。
だから――不意の悪寒も、一瞬は、気のせいだろうと無視をした。
「お……?」
錯覚――かも知れない。だが、桜は、何者かに見られている様な気がしてならなかった。
視線を感じた方に顔を向ければ、そこには雪を被った山脈が連なっている。
西風から湿気を奪い、乾いた雪を降らせる元凶。この小さな村を肥沃な土地とする源流。その山肌の、葉も落ちた木が――獣の様に、吠えた気がした。
「止まるんでねえ!」
「分かった分かった……やれ、他人様の家とは気を使うな」
無理にまた屋内に押し戻され、見られている感覚は消えてしまう。桜は裾の雪を払いながら、山に思いを馳せていた。
変わらず雪は雑音を吸い込み、村は静かに美しかった。
所変わって、日は遡り。桜が出立して二日後の、京の山中の事である。
「困った、実に困った。いや、本当に考え無しに動くのはいけないな……困った」
松風 左馬は、地面に胡坐を掻いて唸っていた。
悩みごとの元凶は、気紛れ混じりに拾った弟子――つまり、村雨の事である。
困らされる様なじゃじゃ馬では無い。寧ろ、少々の視野の狭さは有るが従順で、扱いやすい弟子である。
然しながら――従順故に、教えた事を片っ端からこなして行く。
それ自体に問題は無い。が、教える事が早々に尽きたのだ。
「……こんなのは初めてだしなぁ」
元々俗世に交わらず、隠者染みた暮らし方をする左馬である。他人に自分の技術を教える――未だかつて、そんな経験は無い。
勿論、左馬自身、体術を独学で身に付けた訳では無い。師匠と呼べる人物は何人か居て、それらから技術を譲り受けたのだが――
「あいつ、私より動けるじゃないか」
基本的な技術を教えこむ前に、左馬は村雨の〝性能〟を試した。
筋力、持久力、柔軟性、敏捷性、五感の鋭敏さに四肢末端の強度。即ち、技術を叩き込む前の段階、基礎体力である。
幾ら細く小柄だとは言え、亜人であるならば、真っ当な人間と比べられる体力では無い。左馬自身、そうは分かっていたが――少々、予見が甘かったのだ。
弟子入りを赦した初日、まずは鼻を圧し折ってやろうと、走り込みに付き合わせた。たんと食事を取らせた後、日の入りから日の出まで、山から山へ走り続けたのだ。
が、一晩走り続けて尚も、村雨はまだ動けそうな様子を見せていた。汗を流し、呼吸も荒いが、走れと言えば直ぐに走り出しただろう。
人狼は天性の狩人である。雪原で一晩だろうが得物を追い回し、一刻に駆け抜ける距離は約八里。低く、そして硬い土に覆われた日の本の山など、村雨にとっては平地と同じ様なものなのだ。
翌日は早朝から、薪を割らせて運ばせた。が――こちらも、同世代の少女達に比べてみれば、目を見張る様な重量を動かしてのける。筋肉の構造が、どうやら生まれ付いた時点から、人間とは違っているらしい。左馬が担げるのと然程変わらぬ量を運んでいた。
昼食は手短に済まさせて、次は積み上げた薪を跳び越させる。跳躍力に関して言えば、これはもう明らかに、村雨は左馬を上回っていた。
家屋の屋根まで軽く飛び上がる脚力、積み上げた薪など柵にもならない。膝を軽く曲げ、伸ばす程度で伸び超える姿を見せられれば、もう呆れて溜息を吐くしかなかった。
「これだから半獣は嫌いなんだ、全く……ああ、もう帰って来た」
修行を付けると決めて三日目の今日は、街に酒を買いに行かせた。とある店でしか置いていない銘柄で、左馬が走っても往復半刻は掛かる距離だが――
「戻りました、師匠!」
「おつかれさま、早いな化け物、合格だよ」
四半刻と少々。見送る際に飲み始めた酒が、まだ回っても来ない頃合いである。
そう、左馬の困り事とは、この弟子の体力の水準が、ものによっては自分を大きく上回っている事であった。
まずは体力、忍耐力。技術を叩き込むのは後と考えていたが、然し体力は、この時点ですでに合格点に達している。
「それじゃ、今日こそは……?」
「ああ、二言は有るけどその気分じゃない。飲んだら始める、余所行きの用意をしてで待っておいで」
かと言って、何を教えれば良いのか。酒壺を受け取った左馬は、顔に浴びる様に白酒を煽りながら、未だに悩んでいた。
時間を掛けて良いならば、例えば三年も使って良いのならば、これだけの素材、ひとかどの武芸者に仕立てる事は出来る。だが、時間が無限に有る筈も無い。
最初は、適当に体力を付けてやって、幾つか簡単な技でも教えてやれば十分かと思っていた。弟子入りの際の啖呵も、己を知らぬが故の大言壮語だろうと見くびっていた。
ところがどっこい、大言壮語を実現出来そうな体力である。これは〝適当に〟教える訳には行かないな、と思ったのだ。
「……だけどなぁ、拳打一つで五年は掛かるだろうに」
ぶつくさ言いながらも左馬は、着物の上に一着、分厚い羽織を重ねて立ち上がった。
「行こうか、一番大事な事を教えてあげる。……これで辞める奴が多いんだ、また」
「……? 分からないけど、分かりました」
足早に山を降りはじめる左馬を、村雨は普通の歩幅で追いかける。
「ところで、師匠」
「ん、なんだい?」
「どうせ降りるんなら、別に私がおつかい行かなくても良かったんじゃ」
ごつん、鈍器染みた音がした。石より硬い、左馬の拳が音源だ。
「生意気言うんじゃない、きりきり歩けい」
「私は罪人じゃないです、師匠!」
左馬とは全く違う理由で、村雨も頭を抱えるのであった。
活気の消え失せた京の街を、それでも西へ西へと進めば、ようやく幾分か喧しい所へ出る。
かの金閣より更に西、中心から外れた代わりに、粗野な雰囲気が漂う町――その一角に、奇妙な通りがあった。
店が無い。反物、骨董は言うに及ばず、端切れも紙も櫛も、軽食さえその通りには売っていない。宿も無ければ遊女屋も無く、然して民家の一つも無いのだ。
代わりに、道場が幾つも並んでいた。大小、扱う武芸の種類を問わず、道の左右にずらりと看板が並ぶ――正に壮観である。
「はりゃー……何ここ凄い、汗臭い」
「男所帯ばっかりだからね。良い遊び場だ、もう見られてる」
当然の様に、治安は悪い。ゴロツキが力欲しさに武術を学んでいる、そんな連中ばかり集まった場所だ。
いや――武術を身につけようなど思い立つ者なら、力を振るいたがるのは寧ろ自然。寧ろ人格者の方が珍しいだろう。
「じゃあ、今日は何処に殴りこもうかな。希望はあるかい?」
「待った、師匠。いきなりにも程が有ると思います」
当然の様に松風 左馬も、力を振るいたがるゴロツキ崩れに分類される。心底楽しそうな顔で、直ぐ近くの道場の門へ足を向けた。
「村雨、お前に教えておくよ。この通りにはたった一つだけ、絶対に守らなきゃいけない規則が有る」
「それは?」
「やられたらやり返す事――たのもー!」
薄っぺらな板戸に、いきなり蹴りを打ち込む左馬。こういう手合いには慣れているのか、慌てもせずに大柄な男が出て来て――左馬の顔を見れば一転、鬼の形相となった。
「貴様ッ、何をしに来たァッ!?」
「弟子の教育。今日はとりあえず、全員潰して行こうと思うから……まあ、覚悟したまえよ」
互いに知った顔なのであろう。左馬の挑発に、大柄な男は、寸鉄を握りこんで殴りかかる。右の、巨大な拳であった。
「ちょ、ししょ――」
いきなりの事に、村雨は何が何やら分かっていない。せめて状況を知りたいと、左馬を制止しようとして――まるで無意味だと、直ぐに気付かされる。
左馬の左腕が、男の右手首をかち上げる。そうしてガラ空きになった脇腹へ、硬い靴を履いた爪先が突き刺さった。
「えげ、ぇっ……!?」
大柄な男が体を折り曲げる。頭の、顔面の位置が低くなった。左馬はそこへ、跳ね上がりながら右膝を叩き込んだ。
仰向けに男は倒れ、大量の鼻血を噴きあげる。前歯が幾つか口の外に飛び出し、鼻は無残に折れ曲がっていた。
「と言う事で、こいつらは私にやり返してきます。はい、迎え討ちましょう」
おどける様に左馬は言って、拳を腰の高さに留める構えを取った。小さく細かな跳躍を繰り返す、日の本にはあまり見られぬ武芸の型であった。
治安の悪い通りでは有るが、然しこの通り、秩序立っては居る。道場ごとに互いの力の程を知り、自然と順列を付け合っている。あまりに順列が遠い相手へは、喧嘩を仕掛けぬが暗黙の了解なのだ。
然し左馬は、順列など全く気に掛けず、どこへも問答無用で上がり込む。言うなれば鼻つまみ者、この通りでは酷く嫌われた女であった。
それがいきなり門弟を殴り倒したとあっては、黙っていられぬのが道場主と、その高弟達である。どかどかと足音がして、長い廊下の向こうに、数人ばかり姿を現した。
「村雨、お前はハッキリ言ってずるい、気に入らない。だから馬鹿正直に、技なんて教えてやりたくない。
その代わりに、私や桜の様な人間になる為に、一番大事な事をこれから教えてやる」
「え……は、はいっ!」
ぴ、と反射的に背筋を伸ばしてしまった村雨。その姿は、もはや左馬の視界には入っていない。彼女が見ているのは、血走った目の男達だけだ。
「不作法者めが、土足で上がるかァッ!」
「最初の文句がそこかい? 薄情な奴ら……はいやっ!」
大声と共に最初の一人が、容赦無く槍で突き掛かってくる。心臓を狙った穂先を右に避け、喉仏へ左一本貫手。一撃で沈黙、体がゆうと傾いた。
次の男は刀を持っていた。踏み込みは早く、中々の腕前であることは見て取れたが――左馬は、槍の男が倒れ切る前に胸倉をつかみ、あろうことか盾の代わりにして飛び込んだ。
「なっ、三笠――ぎあっ!!」
上段に構えた刀は、同胞を斬る事を恐れたか、結局振り下ろされる事は無かった。代わりに左馬の右手が、刀の男の顔に触れていた――?
「……あれ、え、そんな……?」
「がああっ、あああぎああいいい、いっ、貴様、貴様ァアァアアッ!」
村雨には最初、ただ、左馬は手を触れさせただけの様に見えた。
だが、男が苦しみ過ぎている。何故か――左馬の右人差し指と薬指が、第二関節から不自然に曲がっている事に気付いた時、村雨は背筋に寒気さえ走った。
「あー、生温い。雪の日には悪くないんだけどね」
人差し指は右目に、薬指は左目に。左馬は容赦なく、刀の男の眼球を潰し、視力を奪い去っていた。
苦痛に身を丸めた男の首筋に踵を打ち込んで、指に付いた血は衣服で拭う。それからニヤリと笑って、再び拳を腰に添えて――
「さあ、次だ! 安い看板だが、酒代の足しにはなるだろう!?」
もはや男達も、我から飛びかかろうとはしていない。左馬の立つ位置は、同時に二人が襲いかかれぬ、狭い玄関口。もう少し手前に来なければ――恐ろしくて、戦えないのだ。
それを分かってか、左馬は事も無げに踏みだそうとした。行きがけの駄賃とばかり、槍の男の喉にもう一つ突きを入れ、意識の無いまま血を吐かせてからである。
「……待てこの馬鹿ぁっ!!」
この無法を、村雨が耐えられる筈は無かった。無防備に晒された左馬の後頭部へ、石を投げる様な格好で殴りかかった。
途端、村雨は、世界の天地が入れ替わるのを見た。
拳を取られ、足を払われ、頭から床に落とされる。接地の瞬間、左馬の右足が顎へ添えられるのを感じ――その足が、最後の加速を与えた。
床板に頭を突き刺され、逆さになったまま硬直し、それから棒切れの様に倒れ伏す。一連の過程を左馬は見届けもせず、残る得物へ襲いかかった。
悲鳴も怒声もこの通りでは、公権力を呼ぶ引き金とはならない。影も伸びぬ程度の時間の後、左馬は己の獣性を存分に見たし、四肢の全てを朱に染めて嗤っていた。
「――はっ!?」
村雨は、意識を取り戻すと同時に立ちあがっていた。何故、自分は意識を失っていたかを暫し考え――頭が床に叩きつけられた事を思い出した。
思い出した瞬間、村雨は顔を青ざめさせながら、鼻で息を吸い込んだ。周囲から漂う血の臭い、激情は沸点に達する。
「や、もう起きたのかい。やっぱり蘇生も早いな、ますます気に入らない」
「……なんで、あそこまでするのよ」
教えを受ける立場だ、という事は忘れた。上下関係など意に介さぬ程、巨大な怒りが村雨を突き動かしていた。
目を奪う、喉を潰す、そこまでせずとも左馬は勝てた筈だ。
今になって考えれば、この道場の――剣術道場らしいが――門弟達は、然程強くも無かった。左馬にして見れば、それこそ朝飯前に片付けてしまえる程、技量の隔たりは大きかった。
だのに左馬は、殊更に残酷な技を用いて、過剰に相手を破壊したのである。それが、村雨には気に入らなかったのだ。
返答次第では殴りかかると、言葉の外で叫ぶ様な視線。左馬は、意識を失った大男、道場主の背を椅子に座りながら答えた。
「これが、私の武術の本質だからさ」
「弱い者虐めの、こんなやりすぎなのが本質!?」
無慈悲な響きだった。村雨は大きく詰め寄って、正面から左馬を睨み据える。
「ああ、そうだとも。大体にして大成しない奴は、この本質を履き違えるからそうなるんだ」
左馬は――信じ難い事だが、常よりも真摯な表情で、諭す様な口ぶりで村雨に言った。
「武術は、勝つ為の武器だ。より迅速に、より確実に、そしてより大量に打ち倒す為の道具なんだ。
例えば、子供でも刃物を持てば大人を殺せる様に。例えば、非力な女でも魔術を身につければ、大男を捩じ伏せられる様に。
元々弱い奴が使う事で、元々強い生き物に勝てる様になる道具――そう、道具。それが武術の本質だ」
左馬は、自分の言葉に一片の疑問も持たず言い放つ。強固な持論への信望は、揺れぬ視線に現れていた。
「刀を首に振るったら、死ぬのは当たり前だろう。槍を心臓に突き刺したら、死ぬのは当たり前だろう? なのに武技を相手に用いて、相手が死なないと高を括っている方がおかしい。違うかな?」
丸く変形した拳――幾万もの受打の末、骨から皮膚まで全てが、壊す為に特化した手。左馬は、そんな凶器を村雨の顔に翳す。
「お前が欲しがってるのはこれだよ。牛若になれる笛じゃない、大楠公の景光でもない。〝目的〟は好きに選べるが、〝手段〟はぶっ壊す事しか選べない、酷く面倒な道具だ。
……いいかい、武術で強くなろうって言うのはつまり、『これから私は人殺しの道具を、日夜離さず身に付けます』って宣言するのと同じ。殺しても殺されても仕方が無い、そんな生き物に成り下がる決意なんだ。良い鉄は釘にならないって言うが、つまりお前はロクデナシの仲間入りをするんだよ。
だから、今日はまず見せてやった。この凶器を存分に使うと、どういう事が起きるかを、さ」
眼前で、錐より鋭そうな指先が蠢くのをぼうと見ながら、村雨はその言葉を受け止め、噛みしめていた。
本音を言うならば、まるで承服できぬ言葉であった。左馬の人生哲学がどうあれ、村雨は、殺さぬ為に武術を求めたのだから。
じゃれつく幼子を取り押さえるのに、殺してしまう大人は居ない。互いの力量差が大きければ、殺さず、負傷すらさせず、相手を無力化する事は可能だ。村雨が求めているのは、この生ぬるい流儀を貫ける抑止力である。
が――同時に、心の奥深い部分では、左馬の意見に賛同しても居た。
強く無ければ貫けない目的とは――即ち、暴力無しに達成できぬものだ。
平和的解決は理想だが、誰もが聞く耳を持つ訳ではない。そうせねばならぬ時は、躊躇わず力を振るわねばならない。目的がどれ程に正しかろうが、力無くては達成は覚束無いのだから。
村雨は、自分が為そうとしている事が、間違っているとは思っていない。だが、今の自分の力で、それを達成できるとも思っていない。
「――――……っ!」
だから、何も言えなかった。
まだ痛む頭を抱えながら、床板を思い切り殴りつけた。少し板は軋んだが、罅を入れる事も侭成らない。
「お前はまだ、その程度だ。三月耐えてごらん、人を殴り殺せる様にしてやる。その後で――殺すか殺さないかは、好きにすれば良いとも。
さあ、分かったら立て、昼食にしよう。強くなりたければ唯々諾々、暫く下積みを続けることだね」
「……分かりました、師匠」
弱ければ何も貫けない。自分の流儀も意地も、力を得るまでは眠らせておこうと決めて――村雨は奥歯を強く噛みしめ、血臭漂う道場を後にした。