烏が鳴くから
帰りましょ

宴のお話

 かつて『反政府軍』と呼ばれていた、仏教徒を中心とする集団がある。
 彼等は、比叡の山を拠点とし、狭霧兵部和敬が指揮を取る軍勢に抵抗した。
 勇戦の甲斐有り、また外部よりの助けも有って、勅命が降りるまで彼等は耐え抜き、遂には自由を勝ち取った。
 だが――犠牲は大きかった。
 何百と知れぬ罪無き者が、或いは戦傷、或いは病で命を落とした――その中には老剣客、高虎 眼魔も含まれている。
 そして、戦いが終わった今もただ一人、囚われの身に堕ちたままの少女――狭霧紅野が居る。
 戦はまだ、終わっていないのだ。
 然し此処に、勇者が一人在った。
 武の力量を見れば、人並みにはあらねど、数百の軍を相手取るには不足。
 智の働きを見れば、これも賢人ではあろうが、城に通ずる策を練る程では無い。
 だが、勇敢なる事は、彼の所属していた精兵集団、白槍隊に在っても群を抜いていた。

「待っていたまえ、副隊長……!」

 彼は夜陰に紛れ、二条の城を遠くに臨み、

「狩野 義濟、この槍に賭けて必ずや、君を救い出して見せようっ!」

 槍を掲げ、高らかに誓いを述べるのであった。

 さて、彼は此処で何をしているのであろうか。
 そもそも彼は、紅野の右腕として比叡山城に籠城し、共に戦った一人であった。
 紅野が一人で城を抜け、巨砲〝揺鬼火〟を沈黙させんとした時も、彼は紅野から直接、城を守ってくれと頼み込まれたのである。
 だが、そう言われて城に篭っていられる程、彼は大人しい性質でなかったのだ。
 追っていると悟られぬ程度の距離を開け、紅野を尾けた彼が見たものは、彼の上官たる少女が、いとも容易く敵の手に捕らえられる姿であった。
 この時、彼の胸に去来した思いは――嘆きも焦りも、困惑も無論浮かんだが、最大のものは『義憤』であったのだ。
 何か、言葉を交わしていた事は分かる。
 会話の内容まで聞き取りは出来ねども、紅野は、泣いていた。
 痛みや苦しみで泣くような少女でない事は、傍らで戦った経験から良く知っている。
 そんな単純な理由で、彼等には十分だったのだ。

「見ていろ、邪悪の牙城よ! 悪鬼の軍勢、幾千とて、この熱情に勝るものか!」

 ――と、狩野は己を鼓舞しながら、夜闇に隠れて二条城へ忍び寄っていた。
 今の二条城は、政府軍に、遠巻きに包囲されている。
 政府軍が一度、攻撃を仕掛けたのだが、狭霧和敬の手によって迎撃された後、包囲網を広く敷いたのだ。奇しくも比叡山城を、狭霧和敬が攻めていた時と良く似た形である。
 つまり二条城は現在、昼夜を問わず、攻撃に備えて張りつめている。如何に大きく気を吐こうとも、単身で二条城へ飛び込んで紅野を救出しようなど無理な話である。
 重々理解しているからか、先までの威勢は何処へやら、抜足差足、盗人の如しであった。





 狩野 義濟が目指すは、二条城の本丸である。
 大外を囲む塀を越え、広い中庭を越え、堀を越えた先に、本丸は有る。
 叶うならばこの空間を、一息に駆け抜けて行きたいところであろうが、

「ぐっ、ぐぬぬっ……!」

 狩野は物陰に身を潜め、行き来する物見の兵士を、恨めしげに睨みつけていた。
 予想以上に数が多いのだ。
 狭霧和敬の手勢は、言うなれば敗軍。雑兵の類はとうに逃げ出してしまっているかと思いきや、見知った顔がまだ幾つか有る。
 
「彼等も忠義の士と言うことかっ……!」

 その認識は、あまり適切では無い。
 むしろ彼等を支えるのは狂信である。
 〝大聖女〟エリザベートの教えを頑なに信じ、それ以外の真実を受け入れようとしない、狂信者達――彼等はそもそも、自分達が劣勢にあるという認識さえ無い。エリザベートの元、正しき道を歩む自分達には、必ずや勝利が待っていると信じているのだ。
 だから、士気も高い。
 敗軍に付き物の倦み、警戒の緩みというものが無い。全ての兵士が、己の出来る全ての事をしようと、爛々と目を光らせているのである。

 ――こういう敵は、厄介だ。

 狩野は、はやる心を押さえつけて機を待った。然し、待てども待てども、本丸正面の防備が緩む様子は無い。
 こうなれば堀に飛び込み、城の壁面をよじ登って、灯り取りの窓から忍び込むか――狩野が、そんな算段を立てていた、まさにその時であった。
 ぽんっ。
 と誰かの手が、狩野の背を叩いた。

「――――――っ!!!」

 飛び上がらんばかりに肝を潰しながらも、狩野は背後の何者かへと目掛け、振り向かぬままに槍を振るった。
 腹か胸を貫く軌道であったが、手応えは無い。代わりに、不意打ちを仕掛けた張本人は、刃を向けられたばかりとは思えぬ程に悠々と、狩野の頭を飛び越え、正面に立ったのである。

「きっ、君はっ……――!?」

 ほんの一瞬、狩野は、救いに行くべき当人が、自分の前に現れたかと見紛った。
 だが、狭霧紅野が帯びている空気と、〝彼女〟の空気は、色が違う。
 紅野が、常に張り詰め、焼け付くような炎であるなら、彼女は緩々と何処までも流れて行く、雲や水のようにつかみどころが無い。兵士の行き交う塀の内側に有って、まるで怖気を見せず、市中を歩くが如き顔である。

「……しーっ」

 狭霧 蒼空は――紅野の双子の妹は、子供を窘めるように、指を一本だけ立てていた。
 狩野は、襲撃者の正体を知って、尚更に驚愕を深めた様子であった
 姉と同じ作りの顔に、少し幼い表情のこの少女を、狩野も良く知っている。
 ぼんやりとした居住まいとは裏腹に、剣を持たせれば鬼か修羅か、魔域の剣の使い手――容易く背を取られたのも無理は無い。
 そんな少女が、自分を斬るでなく、何か言いたげな顔をしているのだから。

「……こっち」

「あっ……! 待、待つんだ、君っ!」

 蒼空は、狩野の袖を掴むと、ぐいと引いて歩き出そうとする。咄嗟に狩野は踏み止まり、逆に蒼空を物陰に引き込み、周囲の目から隠した。

「君、どういうつもりだっ!?」

「…………どう、いう?」

「僕を斬るのではないのかっ!?」

 声を極力――彼としては潜めて、問い質す。
 狩野は、直情径行ではあるが、愚かでは無い。背後を取りながら、斬りかかろうとしなかった蒼空が、自分に敵対するものでない事くらいは分かっている。
 だが、その理由が分からぬのだ。
 蒼空は、狭霧和敬の娘であり、彼の持つ駒で最も強力な一枚でもある。狭霧和敬と袂を分かった紅野や、それに与する自分とは、敵対する立場である――筈なのだ。

「紅野と、一緒に居た……?」

 蒼空の側も、狩野が誰であるかを認識しているようだ。疑念は色濃くなりながらも、狩野は調子を取り戻すべく、一度、深い呼吸をして、

「あ、ああ……君も知っているだろうっ、白槍隊にその人有りと謳われた僕こそがっ――」

 ぴとっ。
 と、蒼空の掌が、狩野の口を塞いだ。

「会いに行く、の?」

「……!」

 狩野は口を塞がれたまま、がくがくと首を縦に振り、その問いに答えた。それから、そっと蒼空の手を横へ押しのけ、

「会いに行くだけじゃない。……連れて帰るんだ!」

 力強く、宣言する。
 とうに狩野の目からは、困惑など全て消えていた。

「紅野は、彼女はもう、十分すぎるくらいに苦しんだ……そろそろ彼女は、誰かを助けるんじゃなく、誰かに助けられるべきなんだ! だから僕が! その役目を務める!」

 それが狩野の、ともすれば命さえ失いかねない単独行の理由であった。
 紅野の力が必要だとか、旗印に据えるだとか、そういう打算は全く無い――僅かに考えた事さえ無いのかも知れない。
 友軍と呼応し攻め入れば、成功率は跳ね上がるだろう。
 だが、政府軍が動くのを待つより、寸刻でも早く紅野を救いたいと、短絡に、性急に、彼は奔った。
 そういう男なのだ。だから紅野は、狩野 義濟を傍らに置いていた。
 そして、紅野と血を分けた蒼空もまた、この直情の愚かな男を――

「……ふふっ」

 意気や良しと見たか、或いは愉快に思ったか、兎に角、笑った。
 常に刀一振りだけを携え、眠たげな目で人を斬るだけの、異形の才。それが普通の少女のように笑った事を、狩野は意外に思ったか、戦時の城中に在りながら、少し気の抜けた顔をした。
 だが同時に、

 ――良く似ている

 とも、思った。
 双子であるからには当然の事だが、蒼空の笑った顔は、紅野のそれに良く似ていた。
 片や、数多の傷を刻まれた顔。片や、不自由無き事を強いられて育った甘い顔。
 それでも血を分けた二人は、同じ顔で笑うのだ。

「これ……」

 蒼空は、懐から何か、白い布を取り出すと、狩野の頭に、鼻と口元を隠すように巻き付けた。
 それから狩野に手招きをし、後に続けと促し――堂々と、本丸へ向かって歩いて行くのである。

「……! 待てっ、そこのお前!」

「おっ……!? いや、あれは……」

 無論、直ぐに哨戒の兵士が呼び止めんとしたが、別な兵士が直ぐ、呼び止めた兵士を引き留める。

「兵部卿のご息女だ、あの白い髪」

「えっ? あ、ああ……そうか……」

 狭霧 蒼空が猫よりも奔放に、好き勝手に城を出入りするのは、兵士達にも良く知れている事であったらしい――そして蒼空も、自分が何処を歩こうが咎められないと、これまた良く知っていた。
 〝供の兵士〟を一人引き連れた蒼空は、本丸の正門を堂々と潜り、城内へと入り込むのであった。




 城内は――意外な程に、静かだった。少なくとも狩野は、そう感じた。
 戦の中にある城だ。比叡山城で紅野は、始終大声を張り上げていたものである。
 だが、こんなものかも知れない、と思い直す。
 素人が群れを成した雑軍と違い、将官も兵卒も、全てがその為に鍛え上げられた軍勢――それが収まった城に、不要な音は響かぬのだろう、と。
 掃き清められた廊下、磨く事を怠っていない壁、襖――二条城の美しさは何も損なわれぬまま、然し此処はもう、日の本政府の拠点では無い。大悪・狭霧和敬と、それに与する罪人・エリザベートが支配する魔城であった。
 白槍隊の一員であった狩野は、城内の構造を知っている。狭霧和敬が、城の形を変えぬまま、地下を掘り広げて、幾つかの階層を増やしているという事も。目的地はその最下層に有る牢獄であった。

「そういえば、聞いてなかった」

 階段を降りながら、狩野は唐突に、今は彼の後ろを歩いている蒼空に言った。

「………………?」

「理由だ。君が、僕に手を貸した理由。聞いておかなくては気が済まない」

「……どうして?」

「どうしても! ただ情けを掛けられたのでは男がすたる! 企みの故であればそれを破ろう! 君が善意の持ち主である事を確信したいというのは、欲深い事だろうか!」

 兵士の目を気にせずとも良い状況になった為か、些かならず狩野は、平時の調子を取り戻している様子であった。
 だが確かに、蒼空はまだ、自分が狩野を助けた理由を口にしていない。
 猫の如き気紛れで、という事もあるやも知れない。然し、そう狩野が思えないのは、蒼空の目に、確固たる意思を見たからである。
 この少女は間違い無く、自分に手を貸そうとしたのだと、断言するに足る目であった。

「……昔ね」

「昔?」

「遊んだの」

 ぽつん、と、水溜りに水滴を落とすような、蒼空の声。小さな声だが、それは確かに波紋になって、狩野の耳から、胸の奥にまで届く。

「ずっと、ずっと、前だけど……手、繋いで、二人で遊んだの……覚えてる。いっぱい遊んだ……多分、朝から夜まで」

 蒼空は、思考と同速度の断片的な言葉で、過去を懐かしんでいた。
 きっと脳裏に描けるのは、断片的な、どれが真でどれが偽かさえ、あやふやになり始めた記憶であろう。
 二人が別たれる前、まだ二つか三つの幼子の頃。

「……楽しかった、から」

 それが、理由。
 それ以上のものは無い。
 それは、狩野と同程度には短絡的な理由であり――だからこそ蒼空は、狩野に手を貸したのだ。

 やがて狩野と蒼空は、最下層の牢獄に着いた。
 この階層は、太い鉄格子で向こうとこちらが区切られた大部屋になっている。〝向こう〟が牢で、罪人があらば何人だろうが、纏めて放り込むという仕組みだ。
 気の荒い罪人を幾人も、仕切の無い空間へ放り込めばどうなるのか――狭霧和敬の嗜好が、設計思想にありありと浮かんだ作りである。
 番兵はいない。置く必要が無いからだ。
 今、この牢に収められた囚人は、たった一人。枷も掛けられず、縄で縛られる事も無く、そのままに捕えられている。
 彼女は、牢の隅で壁を背に、膝を胸に抱き込むような恰好で横たわっていた。
 階段を下りてきた足音も、気配も感じ取っているだろう。少し目をやれば、降りてきたのが見知った顔であるとも知れる。
 だが彼女は、そうして救いの手に呼応する代わり、

「副隊長!」

 己を呼ぶ狩野の声が、まるで聞こえていないかのように、寝返りを打って壁と向き合った。
 それが、狭霧 紅野の――実父と実母の手で折られた少女の、今の姿であった。








 陰鬱たる牢の隅、虚ろな目のままで横たわる少女――それが狭霧紅野であると、狩野はにわかに信じられなかった。
 自分より幾つも年少でありながら、何千という命を背負って、実の父親に槍を向けたのが、狭霧紅野だ。華やかさは無いが強く、真っ直ぐな、つや消しの黒鉄の如き少女であった。
 それが、見る影も無く折られている――狩野は、怒りとも呼べぬ感情の燻りに、握り拳を震わせた。
 彼女の身に何が起こったのか、真実を狩野は知らぬし、だから誰にこの感情をぶつけて良いのかも分からない。然し激情が生むひりつく熱さは、間違いの無い真実であった。

「副隊長、僕だ! この僕が助けに来た、さあ立ち上がるんだ!」

 己の想いに潰されぬよう、狩野は声を張り上げながら、鉄格子に拳を打ち付けた。がん、と鈍い音がしたが、それは牢の闇に溶け、たちまちに霧散してしまった。
 紅野は応えない。
 壁を向き、横たわり、ただ呼吸を繰り返している。
 狩野の声が聞こえているのか、聞こえていないのかも定かではないが――いや、聞こえてはいるのだろう。然しその声が、心を揺さぶる事は無い。

 ――興味が無いのか。

 紅野の気性は、狩野が最も理解している。
 自分を、五体全て道具と認識し、目的達成の為に〝使い潰す〟少女だ。彼女に、〝道具は大切にしろ〟と説いたところで、心にどれ程響くだろうか――それよりは、

「僕達は勝った、比叡山の民草は解放された、君の成果だ!」

 ――こう言えば、動くか。

 狩野の読みは当たり、紅野はまた寝返りを打って、牢の外の狩野へ、憔悴した顔を向けた。
 捕らえられて日はそう過ぎていないが、顔色が白く、目の下の隈を目立たせている。眠りも喰いもせず、ただ呼吸を続けるだけの在り方が、表情に浮かび上がっているのだ。
 それでも、紅野は、唇を動かした。
 数日使っていなかった喉が、声の出し方を思い出すまで暫し掛かったが、

「……そ、か。勝った、のか」

 か細く、だが自分の言葉を噛み締める声であった。

「そうだ、勝ったんだ! 大陸の十字教徒が、拝柱教を教敵と認めた! 新型の銃を持った援軍が数百と、それに、錦の御旗――正義が、僕達に味方した!」

「はっ……遅いよ、あいつら……」

 端から、己らの力だけで、比叡山の包囲網を解ける筈は無い――それは紅野こそが、最も深く理解していた事だ。その打破の為、国内に居る十字教徒の、本国でもそれなりの力のあるものに働きかけていたのだが、返書が届く事は無かった。比叡山の防壁と、包囲網の分厚さが為である。
 だが、届いていた――救援の要請は届けられ、そして派兵された援軍の到着まで、比叡山は落城を免れた。

「よかった……」

 紅野は、疲れ果てた目を腕で覆い、長く嘆息するように息を吐いた。余人なら見落とすだろう口元の微笑は、蒼空さえ差し置いて、狩野だけが見出していた。
 道具の本懐は、目的を果たす事。比叡山の死守という目的を果たしたと聞いて、紅野は僅かの安息を手に入れ、

「じゃあ、もう私は要らないな」

 少しだけ明瞭になった声で、他人事のように、そう言った。

「要らない、だって……?」

「ああ。包囲が解けて、官軍の名も得て、国外からの援軍も得て……そうなりゃ、私みたいな小賢しい指揮官はいらない。これからやるのは戦争じゃなくて政治、攻防じゃなく復興だろ? だったら私の出る幕は無いし……」

「………………」

「疲れたんだ、もう」

 微笑を浮かべたまま、紅野は語り続ける。掠れた声も、喉が力を取り戻し、はっきりと聞き取れる声になり始めたというのに、紅野が零す言葉は、希望ではなく、弱音だった。
 狩野には、彼女の心が痛い程に分かった。
 隣に立ちながら、重圧を幾らかでも引き受けながら、彼女が背負うものはまるで軽くならないと、肌で感じながら戦って来た。だからこそ、紅野の見せる弱音が、己を苛む針にも思われるのだ。

「味方を死なせながら敵を殺すのも、実の親と殺しあうのも、もう疲れた。どうやれば守れるかって昼も夜も無く考えて、それが全部無駄になるのも、もう疲れた。自分が役立たずだって見せつけられながら、それでも頑張るってことも、疲れた……どうせなら私は、もっとはっきり無能に生まれるか、飛び抜けた天才に生まれてりゃ良かったんだ」

 人よりは強く――だが、人の域から抜け出せなかった凡人の、本心の吐露であった。
 生きる事に倦み、苦しむ事に飽き、もはや死をも厭わない。不要になった道具を、投げ捨てる事を躊躇わぬように。真っ直ぐ伸ばされた救いの手も、今の紅野には、苦痛を長引かせる毒でしかないのだ。

「……早く帰れ。蒼空そいつが居るなら、この城も出られるだろ」

「っ……!」

 狩野は、軋みを上げる程に歯噛みし、己の不明を恥じる。
 力になる、守ると定めた年下の少女を、此処まで言わせる程に疲弊させ――その上で更に、己は身を気遣われたのだ。

「恥じて顔を伏すのは、僕の為にしかならない」

「……あぁ?」

「けれど、それならそれで良いっ!」

 狩野はその場に座すと、額を、床に擦り付ける程も下ろして、

「すまなかったっ! 何も力になれなくて、変わってやれなくて、役に立てなくて……!」

 がっ、がっ、と幾度も床を、額と拳で打ちつけながら、絞り出すような声で、紅野に詫びた。
 頑強な体が為か、額は傷付かず、寧ろ床板がぎぃぎぃと軋み、小さな木片が飛び散る。それに構わず狩野は、繰り返し、詫びの言葉を続けた。

「……おい、止めろよ、みっともない」

「いいや、こうしなければ気がすまない、こうしなければ二度と君の顔を見られないっ!」

 がずっ、と、強く一撃。凹んだ床に額をめり込ませ、ようやく狩野は止まった。だが、顔は上げないままだ。

「本当にすまなかった……二度ともう、君一人を苦しませないから……頼む! 副隊長、僕と一緒に来てくれ。君はまだ生きるべき人だ、生きていいんだ、生きてくれ……!
 槍も格技も、学識も、君の力を必要とする場所が無数に有る! 比叡山を守り抜いた経験を、必要とする者が幾らでも居る!」

「……そりゃ、買い被りだよ。もう私に出来る事は無い」

「いや、まだ有る、一つ有るぞ! まだ君が初めてさえいない事だ……!」

 紅野はとうとう、牢の外に背を向けて、また床に横たわった。
 背後からの声も、聞こえては居るが、応じる為の心は動かない。床板の軋みや、上階からの隙間風と同様の、些事に成り果て――

「それは! この狩野 義濟の妻として、世に光を照らす事だっ!!」

「……は?」

 た、筈だった。
 然し狩野の愚の程は、常人の域には無かったのである。

「……はあああああぁっ!?」

「何を驚く事があるんだ! 類稀な美青年に美少女、剛勇の士と知勇兼備の将、釣り合いなら取れているだろうっ!」

「いや、違――意味分かんねえよっ!!」

 あまりに場を弁えぬ狩野の言葉には、もはや体を起こす気力さえ失っていた紅野が跳ね上がり、鉄格子まで詰め寄ってくる程であった。
 拳が届けば、殴りつけていたのかも知れない。
 然し殴られたところで、この愚かな男は、口を閉ざしはしなかっただろう。

「意味など必要無いっ! その羚羊が如き四肢も、内に秘める魂の実直なるも、広くは国を救う義心、狭くは民草を見捨てぬ侠心、面貌の傷さえもそのかんばせに有っては、麗しき眉目を飾る化粧と――」

「あー、あー、止めろっ! むず痒い、傷がむず痒くなるっ!」

 両手で耳を塞ぎ、長い白髪をばさばさと振り乱し、紅野は美辞麗句を止めさせようとした。無論、無駄な努力であった。
 狩野の語彙と呼吸が途切れる頃には、食事不足で白くなっていた顔は、耳まで赤く染まっていた。

「……お前、何時からそんな風に私を見てたんだよ」

「忘れた! 最初は同胞として、槍術魔術の技量に惚れた! けれど今では、異性である君に惚れている! 何処で変わったかは分からないが――少なくとも今、僕はそう思っている!」

 喚き疲れたか、鉄格子に背を預けて俯く紅野。その傍に、格子越しに狩野は寄り添った。

「君が命を要らぬというなら、君の命を僕にくれ。今度こそ、君一人に重荷を預けたりしない。全ての難事には僕が当たろう、君は後ろで見ていてくれ!」

 格子の隙間から、紅野の肩へ回される腕。紅野は弱々しく、手でそれを払いのけようとし――遠慮の無い腕の力に負け、抱き寄せられる。

「……私、今年で十七だぞ。お前、幾つだよ」

「二十六、いや二十七だったかも知れないが、なあに! 君より十年だけ長生きする自信はある!」

「だいたい、なんで私なんだ……他に幾らでも選びようが有るだろ……」

「選んだからこそ、君なんだ!」

「じゃあ選び方が間違ってるんだよ!」

「いいや、それは無いっ! それだけは誓って、絶対に無いと言い切れる!」

 ふっ、と、紅野の膝から力が抜ける。狩野の腕は格子の隙間から、彼女が倒れないように抱き支えた。
 力強い――だけではない。放さぬと、込められた力が告げている。

「……お前は馬鹿だ! とんだ大馬鹿だ!」

 紅野は、その腕に爪を立てた。
 血が滲む程に突き立てても、腕は揺るぎもしない。
 狩野 義濟という人間が、己の全てを無償で捧げた証が、その腕である。

「ああ、底抜けの馬鹿だ! だが、この馬鹿は、君を心から愛している!」

 天地に恥じるところ一つと無く、この愚者は愛を叫ぶのであった。
 その時、ひょうっ、と、地下の牢に風が吹いた。途端、牢の鉄格子の上端と下端が、壁面から切り離される。
 狭霧 蒼空の剣閃によるものであった。
 刀の一振りで、事も無げに鉄格子を切り落とした蒼空は、何時もの放浪と同じ足取りで牢に入り込むと、紅野の右手と、狩野の左手を掴み上げ、手を繋がせた。

「……ん」

「お――おっ? 何だ、君も祝福してくれるのか! 僕達の新しい門出を!」

「そ、蒼空、お前なぁ……」

 硬く、がっしりと、指と指を絡めるように繋がせて、更にその二人の手の上から、自分の手でぎゅうぎゅうと圧を掛けて。これで離れぬと、満足気に頷くや――

「……そやーっ」

 と、気の抜ける掛け声と共に、思い切り紅野の背中を突き飛ばしたのである。

「っ!? う、お、わあっ!?」

「むっ、むむ――ぅおおおっ!?」

 完全に不意を打たれた紅野は鼻から、手を繋いだままで引っ張られた狩野に至っては頭頂部から床へ接触した。
 掛け声の脱力ぶりとは裏腹、神域の剣技を生む蒼空の腕は、人間二人を吹っ飛ばすに十分な力を発揮したのである。

「い、ったぁ……何すんだ、お前……ほんと……」

「おんなじ」

 赤くなった鼻を抑え、紅野は恨めし気な顔をして――そして蒼空は、彼女には珍しく、屈託無く笑った。

「……えっ?」

「私は、ころばなかった。……その人はころんだ、紅野とおんなじで、ぴったり」

 その言葉が意味する所を、双子の姉はたちどころに理解した。
 遠く昔、幼い頃――姉と妹と、二人で手を繋ぎ、遊んだ日。紅野が何かに足を引っ掛けて転倒した時、蒼空は腕を引っ張られながらも、器用に身を捩り、両足で着地したのである。
 思えばその時が、彼我の才能の差を、双子が理解した日でもあった。それから間もなく、二人が別々に育てられるようになってからも、紅野は、己は妹に才覚で劣っているのだと感じながら生きていた。

「……なんだ。お前も、覚えてたのか」

 そんな記憶も、こうして突き付けられれば、懐かしく楽しい思い出に過ぎなかった。
 あの時に別たれた道は、決して一つになる事は無いだろう。
 だが――十数年を経て妹は、己の代わりに姉の横へ立つべき者を見出し、連れて来た。

「なんだよ……覚えてたんなら、そう言ってくれよ……」

 〝あの日〟に心を囚われ、心を苛まれていたのは、自分だけでは無かったのだ。そう知った時、紅野の心の何処かに有った氷塊は、数滴の涙となって溶け、流れ落ちた。

 ――生き延びてしまうのも、悪くない。

 己の生に価値を見出さなかった少女は、今、初めて、生きる事に前向きに成れたのであった。

「行こう。……槍を貸そうか?」

 狩野が言い、上階への階段へと歩き出す。

「要らないよ、適当に見繕う」

 その直ぐ隣に、紅野が並んだ。
 牢に囚われていた間、義足ばかりは残されていたが、他は暗器一つに至るまで全て取り上げられている。だが、元より武器の質には拘らぬ性質である。

「あー、その、なんだ」

 既に上階には、侵入者を捉えるべく、兵士達が集まっているだろう。いや、もう直ぐにでも、階段を駆け降りて来るに違いない。
 そうなれば、暫くは言葉を交わせない――だから紅野は、先に、

「こっ、……これからも、宜しく頼む……義濟」

 己の側近〝だった〟男の、姓では無く、名を呼んだ。
 その言葉に狩野が応えるより先、二条城内の兵士は、地下牢へぐわっと雪崩れ込んだのである。








 幾度もの戦で淘汰された、狂信を胸に抱く兵――決して、容易な敵ではない。
 だがそれ以上に、今、この城から抜け出そうとしている三人の力は、そして気の充実は、絶人の域に有った。
 数名の槍や刀を、狩野の槍は器用に防ぎ、石突による打撃で一人一人、着実に沈めて行く。
 紅野は徒手であったが、武芸十八般に魔術のしめて武芸十九般を身に着けた武人である。打撃、投げに、得意とする氷結の魔術を用い、敵兵から槍を二振りに刀一振りを奪い取っていた。
 そして、やはり蒼空の腕前は、この中に有っても卓越している。
 蒼空が少し息を吸ったと見えた瞬間、その姿は掻き消え、離れた位置に現れた時には、数人が地に伏している。何れもが峰打ちで、命は奪っていないが、これで慈悲を与えぬのなら、忽ちに血の海が生まれていた事だろう。

「道を開けたまえ! 君達では僕達と戦いにならない!」

 地下牢へ押し入った兵士達を全て打ち倒し、狩野は上階へと駆け上がりながら、まだ立ちはだかろうとする彼等に牽制する。
 事実、狭霧紅野と狭霧蒼空の双子が手を組んだ時点で、この日の本に、二人を阻める者など無いのだ。その上に狩野 義濟でさえが、雑兵の十や二十では止められぬ武芸者である。
 正に、道に人無きが如し。
 足を止めず、ただひたすらに直進し、階段を駆け上がり、彼等は地上階へと出た。
 もう直ぐそこには、本丸の正門が有る。
 あれを越えれば、身を隠す場所も多い内庭に出る。外塀を乗り越えればもう、城の外だ。

「紅野!」

「なんだ、義濟!」

 並び、駆けながら、二人は互いに名を呼んだ。

「幸せになろう!」

「……こっぱずかしい事言うんじゃないっ!」

 群がる雑兵を蹴散らし、もう、彼等の道を遮る者は無い。
 正門を内側から封鎖していた番兵さえ、彼等の姿を見れば持ち場を放棄する。
 かんぬきを、手で取り外すでなく、狩野が槍で真ん中から断ち割った。
 遂に、門は開いた。

「よし、やったっ……――」

 本丸の外へ、狩野が真っ先に飛び出し――

 じゃりっ。
 
 と、硬質なようで湿った、不快な音が――僅かに遅れて激痛が、狩野の両脚を襲った。

「――っぎゃ、あああっ!?」

 狩野は、両膝を、皿が削られる程の深さに斬られていた。
 鋭利な刃物の一閃では無く――鋸の、細かい刃で、力に任せて引き斬ったのだ。
 脚は繋がっているが、殆ど動かせもせぬような有様になった彼の頭を、体重を込めて踏みつけ、

「おい、主賓が着飾るのを怠ってどうする。馬子にも衣装という言葉を知らんのか」

 正門の外で待ち構えていた狭霧和敬は、血濡れの大鋸を肩に担ぎ、酷薄に、楽しげに大笑していた。








 本丸の外には、希望が待つ筈だった。然し、狭霧和敬はそれを、存在一つで断ち切る男であった。
 彼の持つ刃――大鋸『石長いわなが』は、狩野と、それから幾人かの、真新しい血で濡れている。景気付けにか、誰かを切り捨ててから、此処へ来たもののようであった。

「たかだか三人の賊徒にも及ばぬとは、全く役に立たん兵士どもだ」

「……その三人の内の二人は、お前の娘だよ。どういう気分だい、賊徒の親」

「俺の教育が成功した、という証だな。何れも良い玩具に育った」

 だが、と狭霧和敬は続けて、大鋸を高々と翳すと、

「玩具風情に、勝手に持ち主の元を離れる権利は無い――俺の娘のくせにまだ分からんのかあっ!!」

 あまりに理不尽な怒りを、夜闇も震える程に撒き散らした。
 狩野は、槍を杖にして立ち上がろうとし――その前に、紅野と蒼空の双子が進み出る
 二人は既に、各々の得物を構えていた。
 紅野は、雑兵から奪い取った無銘の槍が、二振り。
 蒼空は、紫の刀身を持つ妖刀『蛇咬』。
 三つの凶器が、父親の喉元へと向けられていた。

「おお、俺を殺す気か、親不孝者」

「……あんたは私達を、平然と殺すだろ?」

 親しみなど一片も無いやりとりの後、僅かの膠着が有って――

 ひゅおっ。

 音と共に、蒼空が〝消えた〟。
 瞬き一つの時間も経ぬ合間に、蒼空は狭霧和敬の背後に現れ――そして、和敬の首から、明らかな致死量の血液が吹き上がる。
 だが。
 和敬の首に食い込んだ刃は、そのまま、幾ら蒼空が引こうとしても、傷口に噛み止められ、引き抜けぬままであった。

「……!」

「ふん……痛みは消えんのか」

 忌々しげに呟いて、和敬は背後へ振り向く。血は流れ続けるが、それが和敬の動きを鈍らせる事は無い。
 あまりの異常に反応が遅れた蒼空の、刀を持つ手首を、和敬は両手でがっしりと掴んでいた。

「お前……! それは、エリザベートの!」

「そうだ、あの女の術だ!」

 紅野は、父の身に起こった異変に見覚えが有った。
 幾度殺そうとも、忽ちに身を復元する不死――〝大聖女〟エリザベートの〝奇跡〟である。それが狭霧和敬の身にも宿っていたのだ。

「……っ!」

 蒼空が、掴まれた腕を振り払おうとする――相手が〝本来の〟狭霧和敬であるなら、振り解ける筈だった。
 然し、手首に食い込んだ指はまるで剥がれず、そして両足も、地に根を張ったが如く動かない。
 逃げられぬ蒼空の顔面目掛け、和敬は額を叩き込んだ。
 ごっ。
 と、えげつない音がして、蒼空の膝が揺れる。

「りゃあああぁっ!!」

 その背後より、紅野が、二槍を携えて突きかかった。
 左右の槍でそれぞれ、和敬の肩関節を狙う、腕の動きを殺す突き。傷口の中に槍の柄を残し、再生を阻害する狙いであった。
 この突きを和敬は、半身になって片方だけ――右肩を狙ったものだけ躱した。左肩を貫いた槍は、切っ先が反対側の首から突き出す程に深く突き刺さったが、然し和敬の命を奪うには至らず、

「そら、くれてやるぞ!」

「え――っ、がっ!?」

 そして和敬は、自由な右手で蒼空の髪を鷲掴むと、紅野目掛けて投げ飛ばした。
 人間一個が、矢のような速度で飛ぶ。受け止めた紅野は踏み止まれず、蒼空と縺れるように、地面に倒れ込む。
 すかさず、二つ重なった体の上――蒼空の背を、和敬は体重を乗せて踏みつける。

「捕えろ! ……おい、紅野。下手に動けば、妹の首が落ちるぞ」

「ぐっ……こ、このっ……!」

 そして、城内の兵に命令を下しながら、手にした大鋸の刃を蒼空の首に当て、皮膚一枚が切れる程度に喰い込ませた。
 蒼空は未だに、顎を打たれた衝撃が抜けず、意識が朦朧としたまま――逃げる事も、抗う事も出来ない。
 僅かにでも希望を探ろうと、紅野は、視線を横へ走らせた。
 視線の先では、膝を斬られて立ち上がれぬ狩野 義濟が、十数人の雑兵の棒に打たれ、縄を掛けられていた。

「後、僅かだった、とでも思ったか?」

 嘲りをたんと滲ませて、和敬は紅野を見下ろし、笑った。
 鉄兜の側近――吉野が其処へ近づいて来て、蒼空と紅野を、折り重なったままに縄で縛り上げる。
 それから吉野は、二人の首筋に、一度ずつ針を刺した。
 紅野を捕える折に用いた麻薬より、幾らかは薄い――意識は残し、体も動かせぬ事は無い程度にのみ、自由を奪うような代物だ。然し、縄を掛けられた二人には、その程度の薬でも、十分以上に拘束力を発揮した。

「生憎だが俺はな、そういう願望を圧し折るのも大好きなのだ」

 揺れる視界に、紅野は、己が引きずられて、何処かへ運ばれて行くのを感じ取った。
 狭霧和敬の高笑いを聞きながらも、喉も引き攣り、思うように声が出ないが、
 叶うのならば、悔しいと泣きたかった。




 二条城の、内庭の一角にて、宴が開かれていた。
 遠巻きとは言え、政府軍に包囲された城。その中で反逆者が行うものとはとても思えない程、悠長に用意された宴である。
 楽器の数こそは少ないが、優美な音曲が朗々と奏でられている。
 戦場の如き陣幕に、飾り布が被せられ、それが松明の灯りで照らされ、絢爛の花の如くに浮かび上がる。
 美食を尽くした膳が幾つも並べられ、その前には、狭霧和敬の子飼いの兵や将、更には、彼と通じたが故に政府軍へ戻る事も出来ぬ朝臣などが座していた。
 無論、冴威牙や紫漣といった、ならず者崩れの私兵までが居る。此処に居ない者を数えるなら、たった一人、波之大江 三鬼のみ、城外に陣を敷いている為、不在であった。

「よう、時勢を読み損ねた馬鹿ども」

 狭霧和敬が彼等へ向けた第一声が、それである。
 つい数日前まで、政府軍の指導者であった彼は、今では全く無官の罪人と成り果てた。それでも尚、この男は、未だに上座で膝を崩しているのであった。

「愈々、お前達の死も間近だな。道連れが欲しいか、それとも助かる術が欲しいか?」

 自軍の敗戦を心から愉しむように笑いながら、まだ望みがあるかの如き口振りで言うのである。
 事実、彼はまだ、己が完全に負けたなどと思っていない。寧ろ、これから勝つ為の手筈を整えているのだ。

「まあ、飲め飲め、大いに食え。今宵は面白い見世物を用意してある」

 その中で〝余興〟を味わおうという余裕さえ、彼には有った――己の娘を道具として。
 彼は背もたれ替わりに、捕えた娘二人を使っていた。
 紅野と蒼空の二人を華々しく着飾らせ、その両腕をお互いの背に回させて、手首を鎖で繋いでいる。あたかも二人が互いを慈しみ、抱擁し合うかの姿での拘束であった。
 そして――座に囲まれて広く取られた空間に、槍一振りを持たされた狩野 義濟が、繋がれもせずに投げ出されていた。
 こういう光景を見せられれば、何が起こるのか、狭霧和敬の部下にはもう見当が付いている。気紛れな、残酷な座興が繰り広げられるのである。
 それを止めようという骨のあるものは――とうに生き残ってなど居ない。

「運んで来い」

 ただ唯々諾々と、狭霧和敬の命に従うばかりの兵士達は――この狂宴の場に、年端もいかぬ子供達を引き立てて来た。

「くっ……外道と言えど傑物と思っていたが、ただの無益な外道に堕ちたか、狭霧和敬!」

 膝を斬られた狩野は地に座したまま、槍をかざして吠える。
 引き立てられた子供達――彼等は皆一様に、薄汚れた服を着て、疲れ果てた顔に怯えの表情を浮かばせていた。何処かより捕え、このような機の為、留め置いたものであろうと伺い知れた。
 幼く弱き者への無道に、狩野は怒りを露わにする。然し、怒りが彼の脚に力を与える事は無く、

「何を今更。とうに知れた事を、大仰に喚くな」

 狭霧和敬は、狩野の叫びを一笑に付すと、大鋸『石長』を手に立ち上がる。
 引き立てられてきた子供達は三十人ばかり、上も十二か十三、下は五か六か――その中で、特に幼い一人を選んで、首を掴んで宙吊りにすると、

「遊戯を始める。こいつらを生かすも殺すも貴様次第だ、狩野 義濟」

 宣告しながら、その子供の腹に大鋸を当て――真一文字に引き斬った。
 背から断てば、直ぐにも死んだのだろうに、痛みこそあれ直ぐには死なぬ腹――もだえ苦しむ幼き哭声は、地獄の顕現したが如き惨劇である。
 その声を、血飛沫を、心地良さそうに浴びた狭霧和敬は、また別な子供を捕まえ――

「これで、あの男を刺せ」

 と言い、子供の手に、短刀を押し付けたのである。
 今宵の趣向は、そういうものであった。

「止めろっ! 止めろ――義濟、逃げろっ!」

 拘束されたままの紅野が叫び、鎖を引き千切ろうとするが、まだ薬物の抜け切らぬ体では立つ事もままならない。それに目もくれず、狭霧和敬はこう続けた。

「一人、三度だ。三度、狩野 義濟を刺す事が出来たら、生かして帰してやる。……そして当然だが、狩野 義濟にも反撃を許す。俺は公平な男でな」

 そして、短刀を持ち震える子供の耳へ、にたりと笑みを貼り付けたままの口を近づけると、

「なあに、子供の力で刺す程度なら死なぬさ。たった三度、腕か脚を刺せば良いだけだ――なぁ?」

 と唆して、背を強く叩き、押し出した。

「あのように死にたくは無かろう?」

 割られた腹から臓腑を巻き散らし、だがまだ辛うじて息がある幼い体――それを見せられて、幼い子供に、道を選ぶ力など残りはしなかった。
 泣き喚きながら、短刀を持ち、駆け寄ってくる子供。狩野 義濟は、逃げろと叫び続ける紅野の声を聞いたが、

「……それは出来ない」

 両手を広げて、ただ、刃が届くのを待った。
 そして、それが幾度も繰り返された。
 最初の刃が突き立った時、狩野は、この痛みは耐えられると、己に確信を抱いた。
 腕の肉を浅く抉る刃――これをたった三度繰り返せば、一人、誰とも知らぬ子供の命が助かる。
 高い買い物か? そうでないのか?
 狩野は、極めて安い買い物だと、認識していた。
 狩野 義濟は、直情にして正義心に満ちた男である。
 その素性を知らずとも、子供である――弱者であるというだけで、無条件に、彼等を救わねばならないと思っている。何故なら、自分は強いからだ。
 強さとは、単純に、肉体の強弱だけを指す指標では無い。
 恐怖を前にして踏み止まれるか否か――心根の強弱をも、現すものだ。
 これから、己の肉を抉る苦痛が、数十度も繰り返されると約束された。だがそれは、狩野の心を殺すには不足の刃である。
 寧ろ狩野は、子供達の心をこそ、案じた。
 最初に短刀を握り、狩野の腕を一度抉った子供は、他者を傷つけた事の罪悪感と、噴き出す血の恐怖に、身をすくませてしまったのである。

「どうした、刺して来い!」

 すると狩野は、努めて平時の如き底抜けの明るさを取り繕いながら、腕を曲げて力瘤を作り、それをぱぁんと叩いて見せたのである。

「え、あっ……?」

「君の力で三度刺そうが、三百も刺そうが――この狩野 義濟、それで死ぬような男じゃあないっ!」

 狼狽する子供の前で、動かぬ脚は胡坐に組み、槍を地に置いて、狩野は堂々と胸を張った。

「で、でもっ……でもっ!」

「何を恐れる事がある! 柄を握って、刃は真っ直ぐに向けて、ただ二度、刺して引くだけだ! それだけで命が助かるというなら、そうしない理由があるかっ!!」

 更には、怯えて動かぬ子供を叱咤する。
 自分を刺せ、と。自分が助かる為に、他人を傷つけろ、と。本来、それは、決して褒められるべき教えでは無いのだろうが――

「さあっ! 来いっ! ……来るんだっ!!」

「う――うっ、うああああぁっ!!」

 有無を言わせぬ迫力、気迫が、狩野の声に込められていた。
 更に二度、狩野の腕を抉る刃。痛みはまだ、使命感と昂揚に紛れて薄れていた。

「よーし、良くやった、次っ! 誰でも来い、この僕が受け止めてやろうっ!!」

 立つ事も出来ず、武器も持たず、拳足の一つとて振るわぬが――これが狩野 義濟の、最期の戦であった。








「おお、頑張るものだ。どれだけ持つと思うね、どう思う」

「さあ……あと数人、持てば良い方かと」

 返り血が浴びる程の至近距離で、狭霧和敬が、惨劇を観賞している。その傍らに立つ側近、吉野が、冷淡に状況を評している。
 やっと数人が、狩野の体を抉った。
 十数箇所の傷口より血を流しながら、未だに狩野は、普段通りの自信に満ちた笑みを崩していなかった。
 だが――既に狩野は、己の計算が甘かったと、思い違いを知らされていた。
 子供の力とは言え、肉を切り裂かれる苦痛が、もう十数度も訪れた。傷口の全てが、発火したような熱を持ち、一瞬と休まず、痛みを狩野に訴えている。
 痛みは、累積する。
 先の一度より、次の一度。その次の一度。突き刺される度、体を苛む痛みの総和は、留まる所を知らずに拡大していく。
 激痛という言葉も生温い痛みは、果たして、あとどれ程に繰り返されるのか。

「……っ、次っ! さあ、次だ、来いっ……!」

 まだ、短刀を握っていない子供は、二十人以上も残っていた。
 先の一人が終わり、今度短刀を握ったのは、髪のやけに短い少女であった。恐らくは捕えられた後、戯れにか、斬り乱された髪であろうと見えた。
 ざぐっ。
 血の油がこびり付き始めた短刀は、始めより些か切れ味が鈍っていたが、狩野の大腿に沈み込んだ。

「ぐっ……!」

 思わず苦痛に呻き、咄嗟に狩野は、手で口を塞ぐ。
 聞かせてはならない――子供達にも、紅野にも。己が苦しんでいる事を、知らせてはならない。それが自分の勤めだと、痛みに泣く四肢に言い聞かせる。

「さ、さあ……あと、二回っ!!」

 二回――では無いのだ。
 残り、六十回以上。
 確約された痛みは、まだ、まだ長く続く。
 だが、痛みは、恐れるべきものではなかった。
 狩野が恐れたのは、痛みに負けて道を違える自分であった。
 また一度、体に刃が迫る。
 皮膚が斬られる瞬間に、まずは小さく鋭い痛みが、先触れとして伝わって来て――直ぐにも、筋肉がぶつぶつと立ち切られる、鈍く熱く、激しい痛みが訪れる。
 刃が引き抜かれれば、傷口に、風や汗や、他の傷口から流れた血が流れ込む。そしてまた、呼吸で上下する肩の動きさえ、傷口を震わせ、びりびりと焼かれるが如き苦痛を残す。
 その全てを、狩野は、余裕の笑みと共に耐えねばならなかった。
 誰に命じられた訳でも無いが、それが己に課した義務。強く育った自分は、まだ育たぬ子供達の枷となってはいけないと、己へ命じるのである。
 血が失われ、視界が揺らぎ始めるが、然し目に映ったものが何であるかを見紛う程には、正気を失っていない。
 彼の目に見えるのは、安堵のままに立ち尽くす子供の顔、或いは皆が〝それ〟を終えて行くのを見ながら、出来る筈だと自分を奮い立たせる子供の顔、或いは――固く目を閉じ、時折呻くように「やめろ」と声を発するだけになった、紅野の顔であった。

 ――心配するな。

 胸を叩こうとしたが、腕が思うように動かず、声も出ない。だが、狩野は確かに、内心でだが、そう呟いた。








 それから――どれ程の時間が過ぎたものであったか。
 幾度と無く狩野 義濟は、己の決断を後悔し、迫る短刀を槍で打ち払おうかと、気の迷いを起こした。
 その度に、歯を食い縛り、爪を掌に突き立て、己の愚考を罰する。
 そうしている内に、爪が何枚か剥がれた。強く噛み合わせた奥歯が、咬力に負けて根から折れた。
 然し、合せて九十以上の短刀を身に受けながら――狩野 義濟は、まだ生きていた。

「は……はは、はははっ……っははははは、はっはははははは……!」

 笑う。
 気がふれたのではない、誇らしいのだ。
 無限にも思える程に繰り返した苦痛を、遂に耐え抜いた事――誰とも知らぬ子供達の為に命を賭けようとした、自分の意思を曲げなかった事が、だ。
 きっとこの体は、もうすぐ、動きを止める。
 然しその前に、確かに自分は、この戦に勝ったのだと――狩野 義濟は、勝利を誇るように笑って、それから槍を杖に〝立ち上がった〟。

「おおっ、見ろ、吉野! 立ったぞ! 馬鹿は凄いな、道理が通らぬ事をする!」

 膝を斬られ、多量の血を流し、今にも息絶えんばかりの姿で、狩野は歩いた。
 槍を杖にし、距離にすれば僅かに一間も無い所にいる、狭霧和敬へと向かい、歩き、

「……は、は……ぁあああああああぁっ!!」

 槍を振り翳し、狭霧和敬の心臓目掛け、思い切り突き出したのである。
 その一撃は、届いた。だが、如何なる術か、不死の法を得た狭霧和敬は、僅かにも揺らぐ事無く、棒立ちのままであった。

「殺してやらんぞ、俺は」

 惨酷な追い打ちは、刃では無く、言葉である。

「お前が最後の力で暴れようが、俺はお前を殺さん。お前はあの餓鬼共の刃に刺され、あ奴らの手で死ぬのだ。あ奴らは皆、お前を殺した事で命を得たと、これから死ぬまで、己を苛み続けるのだ。
 いや然し、良い見世物であったぞ、狩野 義濟! お前がよもや、俺をこれ程に愉しませてくれる忠臣であったとはなぁ!!!」

 狩野の最後の望みは、狭霧和敬が言い当てたように、敵の手で死ぬ事であった。それも見透かされ、嘲笑われながら、然し狩野は、どうしようもなく〝狩野 義濟〟であった。

「紅野、すまない……! し、幸せにっ、幸せに生きてくれっ!!」

 ひゅう、と風を撒き、翻る槍の穂先。赤々と咲く、血の大輪。
 狩野 義濟は己の心臓を、自らの手で貫き、果てたのである。
 その凄絶な死を、愉しむは狭霧和敬ばかり。側近の吉野でさえが気取られぬように、そうっと目を背ける程であった。

「あ……ぁ、義濟……ぁ、ぁ、あぁぁ、義濟、おい、義濟……!」

 紅野は、鎖で繋がれた両手首を、届かぬと知りながら、血の中へ伏す体へ伸ばした。
 微笑みを浮かべた死に顔は、血を失い、白く変わり果て――腕も脚も、傷の無い部位は、一つと無い。
 羞恥に頬を染めるような美辞麗句も、余人には笑い飛ばされるばかりの大言壮語も、もう二度と奏でられる事は無い。
 己に生きる意味を見出させた男の、無惨な亡骸が、そこに無造作に、落ちていた。
 聞く者の耳から浸み、脳裡に毒となり突き刺さるが如き声が、宴の場に響いた。紅野が身を捩り、天を仰ぎ、言葉さえ失って発した、悍ましき咆哮であった。
 全ての希望を失った人間の、断末魔の声。
 理知ある人ならば、誰をも震わせる叫びを背に、狭霧和敬は輝かしく破顔し、己の座へ戻った。

「余興は終いだ! その屍を片づけろ!」

 引きずられ、人であった事さえ忘れられたように扱われる亡骸へ、既に狭霧和敬の興味は抜け落ちていた。
 彼の脳裏を占めていたのは、次の惨酷事は何が良いかと、ただそれだけで、

「冴威牙! 先の戦の褒美を取らす!」

「……おう」

 次いで呼ばれた名と、褒美という言葉に、満座がざわめいた。
 先の戦の結果を見れば、数千の軍勢を動員しながらの大敗である。褒美と称しながら、大将を務めた冴威牙に、罰が与えられるものと、誰もが思っていた。
 だが――狭霧和敬は、まだ、己が負けたとは思っていないのだ。
 名を呼ばれ、座から進み出た冴威牙の横へ立った狭霧和敬は、妙に浮かれた様子で、冴威牙を上座へと促し

「冴威牙。狭霧の家に、婿に入れ」

「……は!?」

 答えを待たず、冴威牙を、自分の隣席へと座らせた。

「俺もそろそろ、孫の顔を見たいと思ってな。だが、どうにも俺の娘は、良い歳にもなって姉妹離れが出来ておらんようだ。引き剥がすのも不憫だろう、どう思うね」

「………………」

 さしもの冴威牙も、己の理解を越えた問いである。何も応えられずに居る内に、手に持たされた盃に酒が注がれる。狭霧和敬、手ずからである。

「本妻は紅野にしろ、蒼空は妾でいい。来年には孫の顔を見たい、善処しろ」

 その時――冴威牙は漸く、この男が己に何を望み、何を求めているかを悟った。
 成程、褒美ではあるのだろう。だがそれ以上に、この処遇は、二人の少女への責め苦であった。
 己の血から生まれ、別々に育った少女二人を、決して殺さぬように苦しめる事を、狭霧和敬は望んでいる。
 自分はその為の道具であると知った冴威牙は、注がれた酒をぐいと飲み干すと、

「……応よ、親父」

「せいぜい励めよ、婿殿」

 顔に浮かぼうとする表情の全てを噛み殺しながら、次の酒を強請り、飲む。
 その背後では、抱き合うように繋がれた紅野と蒼空が、吉野の手で軽々と担ぎ上げられ、何処かへと運ばれて行った。








 狭霧和敬によって開かれた惨酷の宴は、主賓たる二人の少女が居なくなってからも続いた。
 命を助けると唆され、自ら刃を握り、狩野 義濟を刺した――彼等が未だに、解放されていないのだ。
 彼等は、周囲の兵士に槍を向けられ、身動ぎさえ許されず立ち尽くしたままに居る。
 一度、確かに彼等に訪れた筈だった安堵の色も今は無く、寧ろ以前より色濃く、恐怖と絶望が、彼等を彩っていた。

「おそらく、明日だ」

 その表情を肴に、咽返るような血臭を鼻で吸い込みながら、狭霧和敬は美食を堪能していた。
 膳の美に比べて、行儀は酷く悪い。まさに『がっつく』という表現が適切な喰い付きぶりである。

「明日には連中、攻撃してくるだろう。つまりは明日、俺達が勝つという事だ」

「しかしながら、兵部卿!」

 その言に、異を唱えた者が居る。
 八重垣 久長――波之大江三鬼の副官を務める、若き知将であった。

「我等は寡勢、城は包囲され、そして義と道理は彼方に在り! 如何にして勝利を掴もうと仰るのか!」

「……八重垣か。やけに吠えるな、何が言いたい」

「我等は既に賊軍! こうなれば速やかに城を明け渡し、正道の裁きを待つが得策と思われる!!」

 がん、と膳を蹴りつけ、狭霧和敬は大鋸を手に立ち上がる。
 八重垣はその場に座し、ふんぞり返り、それを迎え討つ。

「戦以外に能の無い若造が、良くも正義だなんだと抜かした」

「貴公の元で戦うは武門の恥、これよりの死には些かの名誉も御座らぬ! ……仮にも武人を、あのように嬲り殺すとは、人の為して良い事かっ!!」

 八重垣が吠えていられたのは、それまでだった。次の言葉を発しようと息を吸った次の瞬間、彼の太い首に大鋸の刃が喰い込み、一瞬で骨までを挽き断ったのである。
 座に戦慄が走り、静寂が色濃くなる。
 或いは他にも、八重垣と同様に思い、立ち上がる機を待った者とて居たのかも知れない。然し彼等も、義憤そのままに口を開いた生首が掲げられ、内部に溜まった血を滴らす様を見ては、声を上げる事も出来なかった。
 もはや狂気、恐怖に、この空間は埋められていた。

「……嗚呼、なんて酷い」

 それを突き崩すような嘆きと共に、修道服を纏った女が、血の海に足を浸した。
 〝大聖女〟エリザベート――この戦の元凶の一人、拝柱教の主であった。
 死者を悼み、エリザベートは涙を零していた。
 その涙に、一切の偽りはない。底抜けの善意を以て、エリザベートは、言葉を交わした事も無い、八重垣の死を嘆いている。
 だが――嘆きながらも彼女は、落ちた首と、別たれた胴と、それぞれに手を触れた。
 すると、エリザベートに触れられた亡骸が、どろりと融解を始めたのである。
 固形であった筈の屍は、黒い水に――油の如くに変わり果て、宴席に広がる血溜まりと混ざり合う。
 やがてその赤黒い池の中に、小さな珠のようなものが浮かんだ。それをエリザベートは拾い上げ――

「私と共に生きなさい……いつまでも、どこまでも」

 その珠を、飲み込んだ。

「命の蓄えは、そろそろ足りたか? 俺はそこまで溜め込めんぞ、二十も食えば腹を下しかねん」

 自分の席へと戻った狭霧和敬は、相変わらず行儀悪く食物を食い散らかしながら、エリザベートに問う。

「……ええ。貴方が殺した何百、何千の命が、私の道を……天へ至る道を支えてくれます」

 彼女には珍しく、返す言葉には、僅かに棘が有った。
 然しその棘も、宴席の他の者達――狭霧和敬の他に居並ぶ諸将――へと向けられる時には、すうと影を潜める。

「もはや私は不死。あらゆる文献に語られながら、一度として人に奇跡を与えなかったあらゆる神に代わり、私が全ての民へ正義を授けましょう。……この戦は聖戦、故に貴方達は勝つのです!」

 エリザベートの言葉は、その主張だけを聞くならば、常に叶わぬ理想を叫ぶようなものである。
 だが、この女の姿を目にして、直接に声を聞くと、不思議とその主張が、真実であるように感じられるのだ。
 何故ならば、エリザベートは心から、己の言葉を信じているからである。
 自分は勝つ。
 幾千の命を踏み台に得た、不死の躰を用い、必ずや勝利を奪い取る、と。
 日の本一国を犠牲にしてでも、世界の全てを救う事が己の使命だと、この女は心底信じていた。

「兵部卿」

 エリザベートは、狭霧和敬を、既に剥奪された官位で呼ぶ。
 す、と持ち上げられた指は、返り血で服を染めたままの、囚われの子供達をさしていた。

「おう」

「その子達に、慈悲を。皆、もう十分に苦しんで――」

「それは、ならん」

 僅かにも思案する事なく、狭霧和敬は、エリザベートの願いを切り捨てる。
 今宵、流れた血の凄惨さは、決して戦の夜にも引けを取らない濃度であったが、この男はまだ満ち足りる事を知らぬのだ。

「たかが三十、されど三十。喰らっておけ、大聖女殿。殺しは俺達が引き受けてやろう」

 そう言って狭霧和敬は、右手を高く掲げ――振り下ろすと同時、矢雨が、子供達の頭上に降り注いだ。





 二条城より数町離れ、広くに敷いた政府軍の陣営。
 腰の引けた陣よ、臆病者の布陣よりと誹る声も有ろうが、然し、その規模は相当のものであった。
 元より洛中に有った兵に、民間よりの志願兵やら、隣国西国を問わずの援兵や、海を越えてまで集った兵さえ居る。規模を言うなら、二万を越えているだろう。
 これ程に膨れ上がった軍勢を暴徒と為さず統率出来ているのは、政府軍の人材の厚みもあるが、やはり高い士気が故であった。一つ同じ目的に向かい進む集団は、少々の事で瓦解などしないのだ。
 尤も、その士気の高さも、ひと月もふた月も保てる類のものではなく、迅速に城を落とすべきではあるが、彼我の兵数の差は十倍以上にもなろうか、野分が藁束を吹き飛ばすが如くの攻城戦となる筈であった。
 実際、そうはならなかった。
 第一陣として攻め掛かった、最新鋭装備に身を固めた十字教徒の部隊五百は、完膚なきまでに粉砕され、追い散らされたのである。

「……死なない兵ですと?」

「はっ。……確かに銃弾は、奴等の頭を撃ち抜いた筈。だのに三度まで、あの城内の兵士達は立ち上がるのです……!」

 その、追い散らされた第一陣の生き残りが、政府軍の総大将と、その他並み居る諸将の前で報告を行っていた。
 総大将――狭霧和敬に変わって新たに兵部卿に任命された、中大路なる朝臣は、長い髭を指で梳きながら暫し口を閉じ、

「厄介ですのう」

 状況とは裏腹、のんびりとした声であった。

「然しまあ、決して勝てぬという事ではないようで」

「はぁ……?」

 報告を行った兵士が、惚けたような顔を晒す前で、中大路は髭を指に絡めたまま立ち上がる。

「三度まで立つなら、四度まで斬れば良いのです。囲めば、四倍の兵よりは与し易い。そういうものなのだと理解して、恐る事無く戦えばよろしい。
 ……とは言え、恐れ知らずの兵が無数に居るでも無し、困りましたのう」

 困る、困ると言いながら、チラチラと視線を横へやるのである。
 その視線の先に居たのは、堀川卿であった。
 〝さる高貴な男〟を説き伏せた後、政府軍に補佐役として加わった堀川卿は、能ある怠け者の中大路の代わりと、あれやこれや面倒事を背負わされているのだ。
 が、堀川卿とて、百鬼夜行の如き『錆釘』を取り纏める女。中大路の要求など、他の無理難題に比べれば容易いものと、随分に気が楽そうな晴れやかな顔である。

「この戦、なんも向こうさんを皆殺しにする戦やありまへん。拝柱教教祖エリザベートと、狭霧和敬の両名さえ討ち取れば、それでええ。四方から緩々と、攻めるでなく、引くでなく纏わりつかせておいて、何処か一方から精兵を進ませ、首魁二人を討ち取る。そういう手筈がよろしおす」

「精兵ですとな。ほう、当てがありますかな?」

「お代金さえ頂ければ、三百人までなら」

 すす、と堀川卿の髪のひと束が、細々と文字の書き込まれた紙を、中大路の手へ滑り込ませた。中大路はそれを見て、ほんの一瞬、左側の眉をぐんと持ち上げたが、直ぐにまたのんびりとした顔へと戻り、

「では、采配も含めて、頼みますかのう」

「ほな、全権は確かにお借りします」

 少し横へ歩くと、どっかりと胡座で腰を落とし、本来自分が座していた箇所を明け渡した。
 空いた席に、堀川卿が座った。
 普段は五丈超の金髪に、顔も体も隠れているような堀川卿だが、この日は背中の後ろに、まるで屏風のような形に髪を纏め、日焼け知らずの顔を晒していた。

「……長かったなぁ、ほんまに」

 そして堀川卿は、前任者を真似るように、ゆったりと集座へ語り掛けた。

「ここまで来るのに、随分と掛かってしもた。各々、無くしたものも、腹が立ったことも、悲しかったり悔しかったり、色々な事があったやろうけど……全部、終わりに出来る日が来た。待ってたものがようやく、実を結んだんよ。
 ……なあ、うちらは、この戦で何を得たと思う?」

 答えは待たない。堀川卿は瞑目し、緩やかに首を左右に振った。

「なぁんにも、無い。色々無くして、これからやっと降り出しに戻せる。そっからはキツいやろなぁ……無くした分を取り返して、まだ余るくらい、この日の本を大きく、大きくしていかなあかん。もしかしたらこの戦より、ずっと辛い事ばかり待ってるかも知れへん」

 けれど――と、継ぎ足される言葉。堀川卿は、その世長けて落ち着いたかんばせに、ぎょっとする程に幼げな笑みを浮かべた。

「きっと、キツくても、楽しい! 毎日毎日、こんな事は嫌だ、もう止めたいて呻きながら寝床に入る必要は無い! 誰かを殺したくない、誰かを死なせたくないって泣きながら、悪夢から目覚める必要は無いんや!」

 ざん、と靴が地を擦る音を鳴らし、堀川卿は立ち上がる。諸将がそれに倣い、やはり、立った。
 彼等は何を思うのか。
 高揚か、それとも去りし悲劇への哀悼か。涙するものも、目を輝かせるものも、不敵に笑うものも、それぞれに。
 意思の統一は見られぬ彼等だが、一つ、間違い無く、共通して抱く想いが有る。

「さあ――〝こんな所〟で長々と立ち止まってはおれへんよ。この国を強く、大きく――死んだもんに誇れるような国に叩き直す! その為にも、まずはさっさと、謀反人の討伐に行こか!」

「応っ!!!」

 ――勝って、戦を終わらせるべし。

 政府軍二万の、その末端に至るまでが強く望んだその願いは、気焔となって春の空を焼いた。

「開戦! 伝達の花火を! まずは初手――思い切り驚かしたろ! 政府軍正規部隊は、東の部隊をまずは残る三方に移動させ、前線を推し進めえ! 『錆釘』の構成員は東、城門が空き次第、第一波として雪崩れ込む! 死なん程度に突っ込んで、あかん思うたらら後詰に任せて逃げえ!」

 各武将が、或いは小隊の隊長が、各々、己の成すべき事の為に馳せて行く。
 とうにこの国に於いて、珍しくも無くなった戦の気配。
 然し彼等の目は、己の道に影が落ちていないと知る者の、輝かしい光に満ちていた。
 そうして馳せる者達――大きな波のうねりとなった彼等の中を掻き分け、堀川卿の元へと歩いてくる者達が居た。
 一人は――黒の小袖に黒袴。黒の帯、黒太刀、濡羽の髪。鎧兜の如き無粋は身に付けず、ただ刃のみを携える。
 一人は――この頃の伊達衣装も何処へやら。簡素に洋服を、シャツ、ズボンとそれだけ。防具と武器を兼ねてか、両腕を覆うのは、分厚い鋼の籠手。
 雪月 桜と、村雨であった。

「よう」

 桜は、まるで古い知己にでも呼び掛けるような口振りで、片手を上げ、立ち止まった。

「あら、桜さん……村雨ちゃんも」

「久しいな、色々と世話になった」

 桜は堀川卿の前で、小さくだが頭を下げた。彼女がするにしては珍しい行為に、堀川卿も驚きを隠せず、口元を手で隠し「あら」と面食らった様を見せた。

「これで終わりにするのだろう、私達は何をすれば良い。……尤も、知恵働きを期待されても困るが」

「そうどすなぁ、桜さんにはやっぱり、前線で戦ってもらうのが一番どすやろ。けどもう少し、出るのを待ってもらおと思うとります」

「ほう、その意は」

 軍の先頭で斬り込む事を考えていた桜であったが、出番が先だと聞かされると、気勢を削がれたか眉の端を下げる。

「さっき、中大路様が言うてましたやろ。死んで三度立つ兵は、四度斬ればよろしい。なら、幾度立つか分からない相手は、どれだけ斬ればええ?」

「……エリザベートの事か」

 謎掛けとしては、難易度の低い問い。桜が答えれば、堀川卿はまた直ぐに言葉を繋ぐ。

「何十回か、何百回かは分からへんけど……向こうの兵士を見て推測するなら、エリザベートは完全な不死やない。どういう術を使うとるのかは知らんし、桜さんが何度も斬りつけて、それでも死なんような相手やけど……きっと、何時かは死ぬ。
 その為に桜さんには、力を温存してもらいます。雑兵と打ち合わず、門を破ったりもせず、ゆったりと歩いて進んで、エリザベートの前に立ち、そして――」

「斬れ、と」

 堀川卿は、言葉よりも数段も明白に、強く、頷いた。
 それから顔を上げて見れば、桜の表情は普段通り――氷像の如く緩まぬ、余人には色の見出せぬものである。然し堀川卿は、その無表情が否を意味するのでなく、ただ雪月 桜が万全である事をのみ、示しているのだと理解していた。
 次いで、その横に立つ少女に目をやって、

「村雨ちゃん」

「はいっ」

 名を呼べば、快活な声が返る。

「……村雨ちゃんには、最初に思うたより散々に困らされたなぁ、もう……悪い人とお付き合いするから悪い子になるんよ」

「あははは……言い返す言葉もございません」

「けど、悪い子で大変結構。戻ってきたら、面倒なお仕事ばっかりたーんまり押し付けたるさかい、きばってらっしゃい!」

 堀川卿の髪の一束が、ひゅるりと村雨の後方に回り込んだかと思いきや、その背をばしんと引っ叩いた。激励の一撃であった。

 その時、桜達が居る政府軍本陣より西側――つまり二条城の方角から、突如、轟音が鳴り響いた。
 火薬による爆発とは違う、もっと単純な接触による破壊音。鈍器の打撃音を、数百倍にしたようなものと言うのが正しいだろうか。
 それが、開戦の合図。
 最後の戦が始まる、号令の音であった。