烏が鳴くから
帰りましょ

灰色の少女と黒い女

 ――春はあけぼのと、古の文人は言った。

 だが、春の夜も中々に良いものだ。
 冬より和らいだ冷たさが、程良く身に刺さるのが良い。
 程良く湿った、けれども肌に染み付かない冷えた空気を見に纏えば、短い夜を明かして書に耽る事も苦にならない。
 瞼が重くなった時は、窓を開け放つ。
 風が部屋に運び込むのは、芽生えたばかりの命の匂いと、死んでいく命の匂い。
 命が入れ替わり、世界が羽化する季節こそ、春なのだ。
 まだ、虫や蛙が鳴くには早いが、夜更かしになった鳥の声などは、木々の葉擦れの音に混ざって聞こえてくる。
 何となく、心浮かれる夜。
 軽くなった着物を羽織って、踏み固められた土の道を歩いてみれば、明瞭でない空がある。
 この、はっきりとしない空がまた、良い。
 秋の空は澄み渡り過ぎて、月があんまりにはっきりと見える。春の、朧がかかった空に、丸くなる途中の月が、雲間から顔を出すくらいの夜が良いのだ。
 欲を言うならば、冬と春の境目が望ましい。
 雲で和らげられた月光を、消えていく最中の雪が受けて、風に舞う花を照らす頃合いだ。
 花ならば、桜である。
 春の中で最も鮮やかに、そして最も短くその身を誇る、春そのものの色の花。
 それは問答無用に、己をこそ主役と定めている、絶対の花でもある。
 僅か数日で散るからなのか。
 僅か数日で散るからこそなのか。
 桜は他の何を省みること無く、自らの美を誇る。
 つまり春の美とは、〝留まらぬもの〟であろう。
 溶けて逝く雪の――
 日々姿を変える月の――
 長き冬を経て、短き春の為だけの咲く桜の――
 








「――それが、私の名の由来だとさ。私の師が、死ぬ前に語った」

「あららら……また縁起の悪い」

 夜――桜と村雨は、西へと歩きながら、語らっていた。
 桜の頬を伝った涙は拭い取られ、痕も残らずに消えているが、喉を痛めてのざらついた声は癒えていない。
 あの後、亡骸を葬った。
 抱き合うように果てた二人を引き離す事なく一つ所に埋めて、草木で土の上を覆った。
 やがて、獣が掘り起こすか、土に還るか――いずれにせよ、形が無くなって消えていくのだろう。
 二人が死んだ事を知る者は、桜と村雨の二人だけ。やがて彼女達――狭霧 紅野と狭霧 蒼空の記憶は、世界から薄れていく。
 桜の悲しみも、消えはしないが、やがて薄れていく。悲しみをやり過ごし、踏み越えて、日々を過ごすのが人間なのだ。
 さて――また、次の旅を始めた、桜と村雨である。
 子供のように泣きじゃくる桜に、村雨があれこれと話しかけている内に、話題が〝昔〟の事になった。
 それで桜が語ったのが、先の、人の名にそぐわぬ名の由来である。

「名を与えられたのは、何時だったか……五つか六つか、その辺りだと思う。十五で初めて名の意味を知った時は、流石に師を問い詰めようかと思ったが――」

「しなかったの?」

「私が斬って、死ぬ寸前だった」

「――――――」

「そんな顔をしてくれるな、我が師レナート・リェーズヴィエが望んだのだ。『俺を斬って行け、さもなくば斬る』と」

 桜は、遠い故郷の雪原を――生まれ落ちた地ではないが、名も無き子供が『雪月 桜』として育った地を思い描くように、左目だけを細めて空を見上げていた。
 日の本の空も、雪原の空も、夜の藍色は変わらぬのだろう。血濡れた過去を懐かしむ桜の表情は、不思議と穏やかであった。

「師はな、ずっと、死にたかったのだろうと思う」

「……そういう気持ち、私には分かんないよ」

 村雨は、桜の隣で、俯きながら歩いていた。
 足元に落ちた視線は、何を探すでもなく、ただふらふらと揺れている。
 二人の行く道は、月明かりに照らされている。
 地に芽吹いた若草が、夜風に揺れる姿さえ鮮明であった。

「死にそびれた、と、愚痴るのを聞いた事がある。最も幸せな時に死にそびれて、それから不幸ばかりを積み重ね――何処かで幸福に転ずるかも知れないと期待しながら、落ち続けていたのだと。
 ……こうも言っていた。私に会えて幸せだったと。だから、ここで死ぬのだと」

「幸せだから、死ぬ……?」

「もう、これ以上は望めないのだと、師の中で確信が有ったのだろうな。治療を拒んで吹雪の中へ――亡骸がどうなったかは知らん。……思うにあの言葉、生まれてたった一度、男に愛を囁かれたのかも知れん」

「ぶっ」

 しんみりと、静かな語り口から、いきなり桜らしくも無い言葉が出た為、村雨は思わず噴き出していた。
 その拍子に道の石に躓き、数歩ばかりよたよたと歩いてから、そこで桜の方へと振り返り、笑いを声に残したままで問う。

「たった一度? その顔で?」

「私に男が寄り付くと思うか? 女ならそれこそ選り取り見取り、浜辺の砂を手に掬い取るが如しだったが」

 普段は言わぬ事を言った桜への、冷やかし混じりの言葉であったが――然し、桜の返す刀の方が、切れ味は相当に鋭い様子である。

「大陸に居た頃は、美人がやっている宿を渡り歩けば、宿代など無くとも好きに食えたからな。日の本ではどうも、女一人でやっている宿というのは少なかったが、何も宿屋ばかりが寝床では無し、万年床でも壁と屋根が有れば上等なものよ。
 やはり、気性を言うのなら大陸より、日の本の女の方が私の好みではあったな。慎ましいと言おうか、恥じらいが有ると言おうか、そのくせにいざとなれば――」

「……むぅ」

 村雨は頬を膨らましてそっぽを向いた。
 こと、こういう冷やかし合いに関しては、村雨に勝ちの目が出た事は無いのである。

「はは、すまんすまん……今はお前だけだ、昔の事だ」

「むー」

 今度は桜が宥める側に回って、二人はまた暫く夜道を歩いた。
 朧の掛かった夜であった。
 月は、丸くなりもせず、消えもせず、半端な姿で空に有る。

「私は、幸せだ」

 桜が、ふいに、歩いていた道を脇に逸れた。

「……どうしたの、いきなり」

 村雨は、言葉と行動の双方を問い質しながら、桜が向かう方へ、その後を追って歩いて行く。
 桜は、平時より少し遅い程度に、ゆっくりと、何処かへ歩いて行く。
 その足運びが――尋常のそれとは違っていた。
 両の踵が、一時とて浮かばぬのだ。
 ただ歩くのとは違う、小さな歩法の変化を、然し村雨は鋭敏に嗅ぎ取っていた。

「顔も知らぬ父母には、強く生み落して貰った。父母代わりの師に、誰よりも強く育てて貰った。日の本の空気、日の本の街が肌に合っていた。幾人も殺して、幾人も気紛れに掬って、幾人もと擦れ違い――今、お前が傍にいる」

 びゅう――
 風が吹いた。
 桜の向かう方角から、三尺の黒髪をなびかせる程に吹いた春風は、花の色と匂いを満面と湛えていた。
 桜の向かった先には、見事な桜の木が有ったのだ。
 その木の下に、桜は立った。
 手を掲げ、己と同じ名の花が、ひらひらと散って逝く亡骸を、数枚ばかり手に取って――

「――これ以上の幸せが、有るのか?」

 その花弁を、拳の中に握り潰した。
 刹那、黒が閃いた。
 夜の闇、薄紅の花が月光を照り返して彩る仄明るさの中に、純黒の刀身が翻ったのである。
 何時しか『斬城黒鴉』が、桜の手の中に有った。

「桜……?」

 村雨は、思考に先んじて体を動かしていた。
 遠く、数歩の踏み込みを要する距離にまで飛び退いて、右半身を引き、右足に体重を乗せて。

「私は、私が正しいと思い続けて生きてきた。勝ち続けて来たからだ。たった一度、負けた事は有ったが、だが――今日の負けはな、それとも違う。
 ……紅野は、蒼空は、私が二度と追い付けないところまで逃げた。もう二度と、私があいつらに勝つ事は無い。あいつらの死に涙しながら、私はあの姿を美しいと思った……そう感じてしまったのだ。
 自分達を花になぞらえ、その最も美しく咲いた姿だけを残し、散った――これから先のどんな不幸も知らぬまま、幸福の絶頂の中に死んだ。あれは、完璧な死ではないのか?」

 ざ――と、周囲の草木が揺らめいた。
 風では無い。
 鳥や、野の小さな獣や、虫や、数多の生き物が異変を感じ、そこから離れていくざわめきであった。
 遥か離れた木に止まる梟さえが、夜鳴きを止める程の――
 怒気。
 否――殺気。
 だのに、その気配には、嘆きの声が伴う。

「なあ村雨、時代は変わるぞ。戦の形も、人の形も、世の在り方は何もかも変わる。その先に私のような、戦いだけが能の生き物が――お前のような、戦いを悦びとする生き物が、生きる隙間があるものか?
 私は……分からなくなった。これから先に幸せがあるのか、或いは今が最も幸せなのか……何も、何も分からなく」

「――――――」

 村雨は、桜が構えるのを見た。
 黒太刀『斬城黒鴉』の柄を両手でがっちりと、自らの筋力で骨を軋ませる程に握り込み、まるで真っ当な剣客のように正面で構えた姿。
 風は止んでいるというのに、暴風の如き圧が有る。
 眼光一つで人を殺し得る、狂の具現がそこに居た。

「……そっか、分からなくなっちゃったんだ……負け慣れてないから」

 だが。
 村雨は、困ったように笑って、それから構えを作った。
 両腕、篭手に覆われた前腕で、頭を左右から挟むように腕を上げ、両足で小刻みに体を跳ねさせ――

「今まで、勝ち続け来たんだもんね。自分が正しいと思った事を押し付けて、大体、何でも上手く行ってさ。だから私達は一緒に生きて来られたけど――紅野と蒼空は違う」

 村雨の構えに、殺意は無かった。
 戦う者が備えるべき威圧感が、まるごと抜け落ちたように、穏やかな空気のまま、村雨は構えていた。
 けれども、村雨と桜と、何れの表情に余裕が見えるかと言えば――
 それは、村雨だった。

「生きてて欲しかったんでしょう、でもそう出来なかった。生きている方が、二人は幸せになれるって信じて、押し付けに行って――もっと幸せな死に方を見ちゃったんだもん。迷うよね、桜なら。
 あなた、自分で気付いてるかどうかは分からないけど、大事なものの扱い方が上手くないから……私に触れてる時だって、本当はいっつも、これでいいのかってびくびくしてるでしょう」

 村雨の目が、月を見る。
 朧の雲に隠された半端の月が、灰色の瞳の中に収められた時、村雨の姿は既に、人と獣の間の形へと変わっていた。
 瞳と同じ灰色の体毛が、腕や脚を覆う、人狼の姿に。

「桜、安心して今の自分を信じていいよ」

「今の……?」

 構えを僅かにも緩めぬまま、微動だにせず桜は聞き返す。
 村雨は、揺らがぬ桜の視線を、柔らかく受け止めて応えた。

「そう。今思ってる事をそのまま――今この瞬間が一番幸せなんだって、思い込んでるそのまんまでいいの。だって私が、もう一度あなたを負かしてあげるから。
 ……あなたが、あの二人に押し付けようとしてた事……私があなたに押し付けてあげるから」

 そして――村雨は、吠えた。
 数里に轟き渡る狼の、骨身も凍るような咆哮であった。
 村雨と桜の他の、全ての生き物が、逃げる事さえを忘れて動きを止めた。
 先とは色の違う静寂が、しん、と腹の底へ染み渡って――

「ああ――私には過ぎた女だ、お前は」

 雪月 桜は、修羅の顔になった。
 黒髪を、身を覆う黒の衣を、翼の如く羽ばたかせて、低く地を飛び馳せた。
 そして、如何なる敵をも二つに断ちきるであろう至上の斬撃を、命よりも愛する少女の頭上へと振り落とす。
 行為こそは、違わず殺傷の技であるが――
 それは、愛を交わす夜を始める、呼び水の口付けと同義であった。








 それは、雪月 桜の生、そのものの重さの斬撃であった。
 受ける事など決して叶わぬ、防御ごと切り裂く、問答無用の一撃。
 これまでに桜が、幾本の刀剣を、幾組の甲冑を斬った事だろうか。
 生半の技と得物では、寸刻を防ぐ事さえままならぬのだ。
 ならば、如何すべきか――?
 村雨は、両腕の篭手を頭上で二つ並べ、桜の斬撃を待った。そして、それが自らの防御へ触れる寸前に、深く腰を落としながら踏み込んだ。
 身を沈める事で、振り下ろされる斬撃の相対速度を落としつつ、刃の付け根方向へ動く事で、刀身自体の速度の小さい方へと――つまり、真正面に逃げ込んだのである。
 だが、衝撃の桁は、村雨が知る〝攻撃〟の、あらゆるものよりも巨大な――天災の如きものであった。
 衝撃が篭手を突き抜け、肉を貫き、骨の髄にまで到達する。
 痛覚も触覚も、何もかも遮断する衝撃は、もし目を閉じていたならば、己の腕が消えたと信じたであろう程に際立っていた。

 ――次が来る!

 村雨は、咄嗟に、逃げの手を選んだ。
 後退する村雨の視界の中で、黒太刀『斬城黒鴉』の切っ先が、また高々と掲げられていく。
 刃渡り四尺――桜の腕と併せれば、おおよそ六尺の間合いを誇る化け太刀。
 村雨は二間も間合いを取ったが、それでもまだ不足と思える程、桜の間合いは広かった。
 息を吐き、腕を見る。
 村雨の腕は、何も変わらず、肩の先に繋がっている。
 だが――拳の握りが甘い。
 負傷では無い。衝撃が骨と肉を痺れさせ、思うように動かせないでいるのだ。
 村雨が行った防御の技に、しくじりは何一つ無かった。城壁をも斬る桜の斬撃を受け、自らの体ばかりか、身に着けた篭手さえ斬らせずに耐えたのだ。だというのに、その衝撃だけで両腕が、動きを鈍らせているのである。

「ひえー……」

 村雨は、また、拳を高く上げる構えに戻った。
 その両腕が、僅かだが震えている。痺れが抜けぬまま、意思の力で強引に、その位置に留めた構えであった。

「たった一撃なのに……馬鹿力め」

「寧ろ、一撃、良く耐えたものだな」

 そう、良く耐えたと言うべきだ。
 雪月 桜が全力で放った斬撃を、受け止められる者が、日の本にどれ程も居るだろうか――せいぜいが数人というところだろう。
 その内の一人に、村雨が名を連ねた事が、桜は嬉しくてたまらぬようであった。
 桜が踏み込み、また次の斬撃を放った。
 首狙いの、横薙ぎの斬撃であった。
 村雨は、今度は受けない。背を丸めるように頭を沈めて避けた。
 左から迫って来た刀が、右へ逃げて行くのを、頭髪が風に惹かれる感触で見届けながら、村雨は前へ出る。
 桜の腕の内側まで入り込めば、刃は届かぬと踏んだのだ。。
 だが――間合いを半分も詰めたところで、行った黒太刀が向きを変え、村雨の胴を狙って帰って来た。

「っ!!」

 両腕を合わせ、斬撃と垂直に篭手を構えながら、衝突の瞬間、村雨は思い切り左へと飛んだ。
 空中で、村雨の篭手に、黒太刀が追い付き――

 じゃぎいぃっ。

 火花が散った。
 黒太刀と篭手の摩擦で、篭手の表面が削れ、熱を帯び、光と共に弾け散ったのである。

「おお、これも避けたか。どちらかの腕は取ったと思ったが」

「あなたねぇ……平気でそういう事言うんだから」

 僅かにも跳躍が遅れていれば、桜の見立ての通りになっていただろう。
 村雨は普段のような口調を保ったままに、雪月 桜という大怪物と対峙する事の意味を、改めて理解していた。
 桜は、攻め疲れる事が無い。常識的な相手ならば、全力の攻撃を続けていれば、やがて疲労から動きが鈍るが、桜には当てはまらぬのだ。
 だから、防ぐ事さえ許されない。全て避けていくつもりで居なければ、何れは体力を削られた体が、防御動作をしくじり――
 死ぬ。
 その結末を村雨は、当然のように思い描いていた。
 雪月 桜は、自分を殺すだろうか。
 以前ならば村雨は、それは決してあり得ないと断言した。
 今は――そういう事も、有るかも知れないと答えるのだろう。
 戦いだ。互いが互いに、相手を殺し得る技をぶつける。ならば、万が一に死ぬ事も有るだろう。
 村雨はいつの間にか、死生の壁を踏み超えている。だのに、驚きも嘆きも無い上に――

 ――負かしてあげる。

 殺す、殺されないの話では無い――勝つと、村雨は誓っていた。
 そもそも、何故に桜は、村雨へ、こうも躊躇無く刃を向けられるのか。
 それは、村雨が求めたからである。
 否と拒み、刃を持つ手に手を重ね、そっと押し戻したのなら、桜は刃を鞘に収めただろう。そして、二度と村雨に刃を向ける事は無かっただろう。
 だが――それは、交愛の拒絶である。
 生の価値を感じたいと望む桜の、願いを踏み躙る、対話の拒絶である。
 桜は村雨を求めた。幸福の絶頂に有る今よりも、更なる幸福を、更なる愛を――叶わぬというならば、至上の眠りを。
 しかし村雨は、それに応えたばかりではなく、寧ろ、己から桜を求めたのである。
 頑迷な、今の桜のままで良い。その望みを捩じ伏せ、自分が望む形の雪月 桜へ変えてやる、と。精神と肉体の全てを用いて、桜の暴虐を受け止めてみせると、健気に微笑んだのだ。
 だから桜は、躊躇いを持たない。
 桜が抱いた迷いは、村雨によって昇華され、巨大な飢餓感へと転じた。
 己の欲望の全てに、耐えられる女がいる。自分をそのままに肯定して、その上で、一層の激しさを以て、求め返してくる女がそこにいる。
 なんたる淫らな情熱か――桜は、目の前の恋人が、まるで裸体のままに脚を開き、甘い声で己を呼んでいるようにさえ思えた。
 そうなれば、もう躊躇いなど抱けるものか。体の芯を貫いた情動に動かされる桜は、もはや己の理性さえ、枷にもならぬ有様であった。
 村雨を追い、桜が往く。股から頭まで高く抜けるような斬り上げを放った。
 村雨は後方へと跳び、刃から遠ざかる。
 そしてまた、遠間から桜へと踏み込んでいく。
 長大な間合いを利し、桜は迎撃の刃を幾度も振るった。
 首を狙い、脇腹を狙い、頭頂を狙い、股を狙い、何れも一撃必殺の斬撃を、出し惜しむ事なく、存分に振るう。
 村雨は、それを見事に防いでいた。
 桜の斬撃を正面から受け止めては、到底体が持たない。篭手の防御面を斜めに合わせて、受け流しながら、体を大きく動かして刃の軌道から逃げ回る。
 自分が桜の剣に対応出来ている――その事に驚きと喜びを同時に抱きながら、更にまた村雨は、疑念も僅かに残していた。

 ――こんなもんじゃない、筈。

 雪月 桜の技量が、この程度である筈が無い、と。
 自分が無傷のまま、何時までも逃げ続けられる相手ではないと、確信――いや、信頼していたのである。
 果たして、その懸念は現実となった。
 斬撃を防ぎながら逃げ惑う村雨の背に、何か巨大な重量物が触れたのである。

 ――木!?

 巨木であった。
 村雨は桜の剣撃から逃れる内に、知らず知らず、木を背後に置くように追い込まれていたのである。
 後退する脚が止まり、ほんの一瞬、生じた心の空隙。割り込むように桜の黒太刀が、横薙ぎに払われた。
 首でもない。腹でもない。胸を両断する軌道であった。
 長大な刃が、村雨の背後の巨木に食い込んだ時も、桜の腕は止まろうとせず――寧ろ、速度をそのままに腕を振り抜く。
 刃は、水を潜るように、巨木の幹を通り抜けた。
 刃に十分な長ささえあれば、巨木は一刀のもとに斬り倒されていたのだろう――そういう斬撃であった。
 だが、その斬撃の後に、村雨の亡骸は無かった。

「あっぶなぁー……!」

 桜が振り抜いた黒太刀の刀身――横薙ぎに振るった為、刃を寝かせ、腹を上に向けた――その上に、村雨は跳び乗っていたのである。

「ほぉ――懐かしい」

 桜が、長い息を吐いた。
 京への度の途中、島田宿での騒動で、桜と村雨は一度だけ――桜は大いに加減をしていたが、拳を交えた事がある。
 あの時、村雨は、桜が突き出した拳の上に立って見せた。その事を思い出し、懐かしんだのであるが――要求される技量が、天と地ほどに開いている。
 殺意無く放たれた拳と、殺意を以て振り抜かれた刃では、力も速度も危険性も違う。拳は、飛び越え損ねても体を打たれるだけで済むが、刃に対してこの技をしくじれば、死ぬのである。
 この難行をやってのけた村雨の頬には、玉のような冷や汗が伝っている。
 村雨とて、楽な手だと選んだ訳では無い。この技こそが最善手であると考え、絶望的なまでの危険と向かい合いながら――この優位を勝ち取ったのである。

「桜、降参する?」

「まさか、そんな勿体無い事を――」

 桜の言葉が終わるより先、村雨は、黒太刀の腹の上を走る。
 歩数は、小さく二歩。桜の右手首を右足で踏み、制動する。
 体全体の速度が、末端に伝達される。
 左足が大きく外側から回しこむように放たれて、桜の頭を横から強かに――
 がごっ、
 と、打った。
 瞬間的に、瞬き一つより短い時間だが、桜の意識が飛ぶ。
 不安定な足場から放ったというのに、恐ろしく重さの乗った蹴りである。
 人狼の卓越した平衡感覚や、強靭な四肢の筋力を総動員した蹴りは、もはや爪や牙にも引けを取らない、村雨の凶器と化していた。

「りゃああぁっ!!」

 もう一発――同じ個所から、村雨が蹴りを打つ。
 大外に突き出した左足を、斜めに打ち下ろすように、桜の頭蓋へとぶつけた。
 桜の膝が、僅かに揺れた。
 然し、そこまで。桜は、右手のみで黒太刀を保持したまま、左手で村雨の足を捉えに行く。
 村雨は、桜の右手の外側へと踏み込んで、その反撃から逃れた。
 村雨を見ぬままに、桜が右腕を振るうも、村雨は腰を落としてそれを逃れ――
 打つ。
 拳も足も、順序を定めず、その瞬間に最も力を込めて打ち出せる部位を選び、まるで立ち木にでもするように、がむしゃらに打つ。
 一撃一撃が、恐ろしく速い。
 桜は、村雨を正面に置こうと、体の向きを変える。だが、村雨はそれに合わせ、桜の右手側に留まろうと移動し続ける。

「教えた覚えは無かったがな!」

 桜の右目は、殆ど視力が無い。だが、殊更に言うことでもないと当人が思ったが為、他者に口外した事も無いのだ。
 然し村雨は、それを知っているかのように、桜の死角へ留まり続けようとする。

「見れば分かるって!」

 村雨の爪先蹴りが、桜の右脇腹へ喰い込んだ。
 常人ならば、骨が圧し折れるか、内臓に衝撃が届くような、村雨の体格に見合わぬ重い蹴りである。
 桜は、筋力だけで耐えた。
 腹に力を籠め、めり込んでくる靴の爪先を、逆に押し返してしまったのだ。
 岩か石壁を蹴ったような衝撃が、村雨の足に返る――体が押し戻され、桜との間合いが開く。

「やばっ……!」

 瞬時に村雨は、姿勢を低くし、桜の右膝へと組み付いて行った。
 遠い間合いのままでは、黒太刀がまた、防ぎ続けられぬ破壊力で向かって来る。それよりはまだ、膝や肘の間合いが良い。
 桜が、村雨の背へ肘を落とそうとする。
 並みの相手なら受けても良いのだろうが、村雨はこれも、必死で逃げた。
 膝を掴んだ状態から左手を伸ばし、桜の腰の帯を掴み、それに自分の体を引き付けるようにして桜の背後へ回り込み、
 後頭部を、右拳で、全力で打ち抜いたのである。
 鈍い音と共に、桜がよろめき――手の握りが緩んだ。
 好機であった。
 村雨は、背後から桜の右手首を取り、背中側へ捻り上げた。
 桜の右肩を左脚で跨ぎ越え、両大腿の間に桜の右上腕を挟み込み、手首を捻りながら肘を引き延ばす――流れるような動作で、関節を極めた。
 極めながら、桜の親指を掴み、外へ開かせた。
 力では、村雨は桜に敵わない。直ぐにも指は畳み込まれたが、然し、後頭部への打撃による一瞬の緩みが、桜の手から黒太刀『斬城黒鴉』を取り落とさせた。

「ぬ、ぉ――っ」

 桜の右腕は、完全に伸び切っていた。いや寧ろ、通常の動作で伸びる範囲より、ほんの少し広く、肘が開かれていた。
 村雨は、折るつもりだ。
 全身の力を込め、桜の肘を破壊せんと体を反らした。
 みしっ、
 と、一度だけ、鈍い音がした――ような、村雨には、そんな気がした。
 だが、手応えは返らなかった。

「……おお、危ない。少し落ちていたぞ」

 桜は、村雨を腕に絡み付かせたまま、あっさりと腕を、本来の角度に戻していた。
 先の音は、桜自身の筋力が、桜の骨を軋ませた音であった。
 雪月 桜が、身体機能の全てに枷を掛けず動く時の、まだ暖まり切らぬ体が発する悲鳴――駆動音、予兆。
 それが、触れた手を伝わって、村雨に、耳からではなく体内まで、直接響いたものだったのだ。
 右腕を捕えられたまま、桜は、左手で村雨の右足首を掴み――
 ぐんっ。
 刀を鞘から抜くように、右腕から引き剥がした。
 片腕である。
 村雨の、総身から絞り出した膂力に、雪月 桜は、たった一本の腕で勝ってみせるのだ。
 そして、小柄とは言え人間大の生物を、片腕で〝振るった〟。
 遠心力が体を浮かせ、地面と平行にされたまま、村雨は槍か棒のように振り回される。
 村雨は、視界が、とんでもない速度で入れ替わり続けるのを見ながら――次の攻撃を予測し、背を丸め、両腕で頭を覆った。

「そぉ――ぅらあぁっ!!」

 桜は、村雨を投げた。
 半ばまで刃が通り、それでも聳え立っていた桜の巨木へ。
 村雨の体は、まるで破城槌のように叩きつけられ、巨木の幹を圧し折っていた。








 ――私は、幸せだ。

 雪月 桜は、夜気を腹の底まで吸い込みながら、春の香の中で陶酔に浸っていた。
 体に刻まれた痛みが、酷く心地良いのだ。
 特に、首――頭蓋へ集中した打撃が、首を痛めつけている。
 関節を極められた右肘は、負傷する前に引き戻したが為、さしたる痛みは無いが、僅かの違和感は有った。
 顔の皮膚は、右目の周辺が裂けて血を流している。血が目に入ろうが、元々見えぬ右目だと、拭う事は無かった。
 正常な筈の左目も、視界がぶれている。
 頭部への打撃が脳を揺さぶり、桜の身体機能を少しずつ壊し始めていた。
 全身全霊で体を駆動させながら、自分が全力を発揮出来ていないのを、桜は如実に感じ取っている。
 村雨の技量が、桜の力を封じているのだ。
 刃の間合いを外し、容赦無く死角を狙い、正々堂々と封殺を企む――己の力が及ばぬ事を知っている者の戦い方で、村雨は桜と張り合っている。
 重さの乗った、良い蹴りだった。
 打たれたのがか弱い子供ならば、誇張抜きに首が飛んでいてもおかしくない、人域を外れた蹴り。充分に鍛えた武術家でさえ、まともに受けるのなら、死を前提に考えねばなるまい。
 そんなものを、視界の外から――つまり、防御出来ぬように、打ち込んできた。
 だが、桜は知っている。
 村雨にはまるで、桜に対する殺意など無いのだ。
 有るのは、信頼感。この〝獲物〟は、この程度の攻撃で死にはしないと知っているから、全力で蹴る、全力で打つ。
 万が一にも、やり過ぎてしまうという事が無い――そう信じているから、加減をせず、弱点を狙う。
 一方で村雨は、桜の殺意にも気付いているだろう。
 憎しみの一片たりと混ざらない、単純な、純粋な殺意を撒き散らし、桜は村雨へと近付いて行く。
 振り回し、巨木がへし折れる程に投げつける――殺意無くては出来ぬ技だろう。
 少なくとも、他の誰がそうでないと言おうとも、雪月 桜はそうだった。
 自分が全力で戦うなら、途中で手を止めぬ限り、相手が死ぬ。自分の全力を受け続け、自分に勝る者など居る筈も無い。そう信じて、これまでを生きてきた。
 それが――ほんの数か月で、二度、裏切られた。二度、負けたのだ。
 力への確信の揺らぎは、力に支えられた絶対の自我の揺らぎでもあった。
 それでも一度目は、悔しさと、敗北に勝る恐怖が、桜に折れる事を許さなかった。
 自分が戦えぬなら、自分ばかりでない、この少女をも失うのだと――己への落胆以上に恐ろしい事、片恋に焦がれていた少女を失う恐怖が、桜を支えて、敗北を乗り越えさせた。
 それから、さしたる時間も過ぎていない。
 桜は強くなった。だが、村雨は、それ以上に強くなった。
 戦いの技量という面でも、精神の面でも、見違える程に強く育った。
 桜はもう、村雨を守らなくても良い。それどころか、自分の背中を預け、窮地には助けを求める事さえ出来る。
 村雨が生きていく為に、雪月 桜が手助けをする必要は無くなったのだ。
 だが、桜は気付いていた。
 村雨が生きる為に、自分の存在を必要としなくなったとして――自分はどうしようもなく、村雨を必要としているのだ、と。
 平坦な道を歩くだけの時間も、村雨が隣に居るならば、それだけで飽きる事など無い。
 幾百幾千の敵を前にしたとて、村雨が隣に居るならば、不敵に笑って戦いに挑むだろう。
 飯を喰らう姿、眠る姿、自分以外の誰かと話す姿さえ、それを眺めているだけで、心は安らぎで満たされる。
 共に過ごすひと時の為、命の全てを賭けても良いと言える程に、雪月 桜は村雨を愛しているのだ。

 ――幸せな恋をした。

 桜は、敗北に慣れていない。

 ――私など、もう要らぬのかも知れん。

 勝ち続ける己こそが〝雪月 桜〟なのだと、かつての桜は信じていた。
 一度の負けで揺らぐ事があろうと、その揺らぎを心の底に眠らせて、戦の終わる日を待ち望み、血飛沫の中に刀を振るって来たのだ。
 それが、二度目の敗北で、崩れた。
 狭霧 紅野と狭霧 蒼空、二人の望みを力で止められず、そして二人の死を、心が、美しいものだと感じてしまった。
 完膚無きまでに、自分は負けた――それが、悔しくもなかった。
 一度、負けた。その事が桜に、諦めを覚えさせたのかも知れない。或いは、既に揺らいだ己への信頼が、悔しいと感じる事すら放棄したのかも知れない。
 村雨は、強くなった。きっとこれからの生の間、幾度も勝利と敗北を重ねながら、その何れをも糧にし、強く、強く、死の間際まで強くなり続けるのだろう。雑事にあれこれと頭を悩ませ、余計な気苦労を背負い込みながら、ぎゃあぎゃあと文句を喚きつつ、その全てを投げ捨てずに生きていくのだろう。
 全くそれは眩い生き方だと、桜は思った。
 利害の有無を問わず、村雨の周りには人が集まって、人の中で村雨は生きていく。その中には、桜より賢い者も、桜より善良な者も――もしかすれば、桜より強い者も、現れるかも知れない。
 自分は――雪月 桜は、弱くなった。
 きっと、技量を言うならば、自分はまだ強くなる。だが、そういう表面的な部分では無く――武力への矜持や、意思を押し付ける傲慢さ、蹂躙を良しとする冷淡さ――強さに繋がる悪徳が、自分の中で薄れて行くのを、桜は感じている。
 村雨とは違う、暗闇に紛れて黒い翼を広げる生き方が、自分なのだ、と。
 人として生きる事が、強さに繋がるのが村雨であるなら、良き人であろうとする事が弱さに繋がるのが雪月 桜であると、桜は信じているのだ。
 今日より明日、明日より明後日、自分は弱くなっていく――

 ――怖いな。

 強い自分が、壊れていく。
 村雨に愛を告げ、愛を受け入れられた自分が、過去のものへと成っていく。
 何時の日か、自分が、村雨に遠く及ばぬ弱い生き物になる日、その隣に果たして村雨は立っているのか――?
 自分は、村雨の眩さに耐えて、その隣を歩き続けられるのか――?
 先の事は分からない。
 分からないから、怖いのだ。

 ――それでもな、一つだけは分かるぞ。

 それは、今、この日の事だ。
 照らす明かりは月と星だけの、世界に染み渡るような夜の中、正面から向かい合う愛しき敵の姿。
 自分を見透かして――理解して。
 自分の思惑を否定する――その恐怖は錯覚だと慰める。
 確かな今の幸福を抱き、共に眠ろうと迷い言を囁いた自分を、言葉では無い、力で思い知らせようと、至上の愛を拳愛に乗せてくる村雨が居る。
 雪月 桜は弱い生き物では無いと信じ、致命の技を、絶命に足る技を、殺意無きままにぶつけてくる村雨が居る。
 この信頼がある限り、桜は、自分がまだ、強い生き物で居られるように思えた。
 あの日、村雨と結ばれた夜と同じ、強い存在のまま――まだ、村雨の傍に居て良いのだと、肯定されているようだった。
 至福――
 刻まれた痛みの一つ一つに、泣けるような幸せを感じる。
 桜は、悠々と、取り落とした黒太刀を拾い上げ、両手で保持し大上段に掲げると、圧し折れた巨木に寄り添うように横たわる村雨へ近づき――

 ――今、私は愛されている。

 空気が、鳴くように弾けた。
 桜の超高速の斬撃が、黒太刀の長さで更に加速され、切っ先が音を超えた、その証であった。
 然し、村雨は、それを逃れていた。
 桜が近づき、振りおろしの動作に入る直前、跳ね起きて、桜の刃から逃れたのである
 まだ、村雨には力が残っている。それが桜には、嬉しくてならなかった。
 どれ程に鍛え上げ、どれ程に修羅の場を潜り、自分の予測の及ばない領域に踏み込んでいるのか、考えるだけでも胸が躍る。

「――村雨! 共に死ぬか!」

 それが、この〝今〟を、〝今〟のままに留められる術ならば。
 命も要らぬ。未来このさきも要らぬ。過去これまでを積み上げた、この身さえも要らぬ。

 ――叶うなら、終わるな、この夜よ。

 桜は永遠に、村雨と、戦いを続けていたかった。








 ――目を覚ましたら、桜の顔が有った。

 まるで、なんでもない日の朝みたいに、横になった私を見下ろしてる、あの人の顔。
 でも桜は、何時もの朝の少し眠そうな雰囲気じゃなくて、なんというか――物凄い顔になっていた。
 笑ってるのは確かだ。
 見方によっては怒ってるようにも見えるんだけど、怒ってはいない。もともとキツい目を更に吊り上げて――左目は更にぐわっと見開いてるけど、多分、怒ってる訳じゃない。
 こんな楽しそうな顔、中々見せてくれないや――
 なんて、思った矢先、何か嫌な予感がした。

「――っ!」

 跳ねる。
 手足を全部使って、立ち上がり切らない内に体を横へ動かし、横たわっていた場所から逃げた。
 それに、ほんの一瞬だけ遅れて、桜の刀が、もう私の目にも見えないような速さで、地面を抉り飛ばした。
 あれが、桜の全力の――当てるとか当てないとか、騙す騙さない、防ぐ防がない、そういう事を全部〝無視〟する一撃。
 一番力を入れられる、真っ直ぐな振りおろしの為に、体の中で一番高い位置――頭上に、垂直に立てた刀を構える。
 横へ動くか後ろへ下がるかすれば躱せるのが、誰だって見て分かるし、頭を狙って振り下ろして来るんだろう事も分かる。
 でも、防御は出来ない。
 見て――いや、見えなかったけど、分かる。あれを受ければ、私の体は、防御に使った篭手ごと真っ二つにされる。
 多分、桜は、私より強い。でも、それ以上に、武器の違いが大きすぎる。
 いつだったっけ、師匠も愚痴ってたっけ……お酒を飲みながら。こっちが刀を殴っても、向こうは痛くも痒くも無いのに、こっちが一回斬られたら死ぬっていうのは不公平だろう――だっけ。
 あの時は、また変な事言ってるなあって思っただけだったけど、今は師匠とおんなじ気持ちです。刀ってずるい。

 ――あれ、そういえば。

 私は今、何をしてるんだっけ?
 思い出す。
 目を覚ましたら、桜が、攻撃の態勢に入ってた。だから、私が逃げて、桜はまた構えた。
 えーと。
 ああ……そうだ。私は今、桜と戦ってて、思いっきり木に投げつけられて――

「っ、た、痛ぁ……!」

 思い出した瞬間、左腕の、骨の何処かから、凄い痛みが飛び出して来た。
 骨の中から肉に染みて、肌にまで刺さってくるみたいな、本当に、飛び出すって表現がぴったりの痛み。
 木に投げつけられて、ぶつかる瞬間、左腕の篭手で防御した。多分、その時の衝撃で――折れたか、罅が入ってる。
 いや、多分、ちょっと折れてる。前にそうだったし、まず間違いない。
 とんでもなく強い――強すぎる。
 この数か月、かなりの無茶をしてきた。戦場に連れ出されて、矢と槍の中を走り回りもしたし、道場破りの真似事で何回も殴ったり殴られたり蹴られたり投げられたり極められたり。人殺しを捕まえてもみたし、この国で一番偉い人の誘拐もして、そして、最後の戦を終えて、やっと此処に居る。
 その中で出会ったどんな怪物より、桜の方がよっぽど怖いと思った。
 桜はきっと、この戦いの中で機会があれば、私を本当に殺すんだろう。
 その後で――きっと、私を何処か、誰にも見つからない場所にでも運んで、そこで自分も死ぬ。そういう綺麗な形の死に方とか好みなんじゃないかな、多分。江戸でも時々、心中物の本とか読んでたし。
 でも、間違い無く言えるのは、桜は、私が大好きなんだって事。これはうぬぼれじゃない――でも、惚気だったりはするかも知れない。
 私は誰よりも、桜の事を知っているんだって、私は思ってる。

「――村雨!」

 名を呼ばれて、構えで応えた。
 踵を浮かせて、両腕は頭を挟むように置いて、少し右足寄りに体重を乗せて。拳より足の方が、自由に打ち出せる形になる。
 正直、まだ動けそうな自分に驚いてる。
 昔の――桜と出会う前の私だったら、絶対に立ち上がれなかった。
 今だって、体のあちこちが悲鳴を上げてるし、息を吸って吐くだけでも背中が痛むけれど、でも、痛いだけだ。
 動ける。
 桜が、あの大上段の構えから攻撃に移る前、両腕と両肩の筋肉に力を込める予兆を見て、刀が動くより先に、横へ動いて逃げられる。
 私は強くなった。
 桜に守られるだけの私じゃない。桜の隣に並んで歩いて、隣に並んで戦える私になれるようにって、強くなった。
 でも――だから、かな。桜を寂しくさせちゃったのは。

「共に死ぬか!」

 桜は、どう殺しても死にそうにない顔で笑いながら、私の方に近づいて来る。
 まだ、両腕に力は入っていない――幾ら桜だって、あの〝斬り降ろし〟は、そうそう乱発できるものじゃないんだろう。
 巨大な岩を動かそうとすると、最初はゆっくりと動いて、力が伝わるにつれてだんだんと、速く動くようになる。
 それと同じで、桜の両腕に力が全て伝わるまでに時間が掛かり――伝わり切ったら、動き始めた岩が止められないのと同じで、絶対に止まらない斬撃が、目に見えない速さで降りて来る。
 避け方を間違ったら即死だな、なんて、呑気に考えたりもしながら、

「冗談じゃない!」

 私は、桜へ向かって進む。
 拳と足、牙――私の武器はこれしかない。
 桜の間合いは、体から一尺半離れたくらいから始まって、六尺先まで。
 私の間合いは、完全に触れ合ったところから、広く見積もって三尺。
 武器の性質の違い、戦い方の違いが、間合いの差を作る――とにかく、踏み込まないと何も出来ない。
 桜は、剣士らしくなく、無造作に、両足を交互に出して歩いて来る。その右足が着地して、左足が浮いた瞬間、私は一気に踏み込んだ。
 ひゅっ。
 予兆無く、刀が降って来る。
 右足一本だけを軸にして、殆ど腕の力だけで、桜は刀を振り下ろして来た。それでも、師匠に連れ出された戦場で見た、どんな剣よりずっと速い一閃だった。
 受ける?
 それとも、横に流す?
 自分が左側に跳びながら、右腕の篭手で外に弾けば、これなら流せるくらいの威力だ。けれど、真っ直ぐ進むのに比べて、詰められる距離が短くなる。
 両腕の篭手を交差させて、交点で受ければ、そのまま真っ直ぐに進める。けれど、何処かが折れてる左腕に衝撃が響いて、きっと滅茶苦茶に痛い。
 私は、受ける方を選んだ。
 一瞬の事だから、どっちがいいのかなんて冷静には考えられない。ただ私は、桜に近づきたかった。
 がんっ! って音と、金槌何十回分かの衝撃を一回に合わせたような痛みが左腕に走ったのが、殆ど同時。間合いを一歩、奪った。
 もう一歩――
 進むより速く、視界の右側で、桜の左肩が大きく動いたのが、見えた気がした。
 殆ど勘で、右の篭手を頭に斜めに被せつつ、身を沈めて前へ――刀が篭手にぶつかり、滑るように反対へ抜けて行った。
 防いだ――折り返しが来る!
 前に出した右足を軸に、体を左回転させる。
 向かって来る刀じゃなく、それを握る桜の手首に右腕を叩き付けて喰いとめながら、背中で桜の胸を押し――

「だあぁっ!」

 回転の勢いを左腕に乗せ、肘を、桜の左脇腹へ。左腕が痛むけど、そんな事は忘れた。
 止めた手首に右手を掛け、肩の上に担ぎながら引く。前のめりになった桜の体を、自分の背に乗り上げさせ、腰で跳ね上げて投げる。
 桜は、受け身を取ろうともしないで、少し背中を丸めただけで地面に落ちた。
 その顔を、思いっきり踏んだ。
 頭を、横から蹴った。
 刀を持った手首を捕まえたまま、投げ落とされた桜が反撃に移る前に、桜の頭を揺らして置きたくて――固い踵に体重を乗せて、踏み蹴った。
 踵で踏めば、子供でも大人を殺せるって、師匠に習った。死ぬ技だから、使う時は出来るだけ加減をしてきたけど――桜になら、全力を出して良い。
 頭が、どんな石が落ちてるかも分からないような地面に触れている状態から、靴を履いたままで踏むような暴挙も、桜になら、やっていい。
 だって――桜は、私よりも強いから。
 ほら、直ぐに動いた。
 私の足を掴もうと、桜が左手を動かす。大袈裟なくらいに飛び跳ねて、私は桜の手から逃げた。
 桜は、顔の血を袖で拭いながら、まだ笑って、すらりと立ち上がる。
 これでまた、近づく所からやり直しだ――楽しいなぁ。
 強い生き物と戦うのは楽しい。これは、私が人狼だからかも知れないし、もしくはそういう生まれとか関係無しに、私がそういう性格なのかも知れないけど、兎に角、楽しい。
 桜も、私と同じような生き物――強い相手と戦って勝つのが、大好きな人間だ。

 ――桜は、楽しんでくれてる?

 そうだ。なんて、答えが聞こえたような気がした。
 これも、うぬぼれじゃない。今、私は間違いなく、桜を楽しませている。
 今、この瞬間、この幸福を抱いたままで死んでしまっても良いって思えるまで、桜を私に溺れさせている。

 ――でもね、桜。あなただけじゃないんだよ。

 桜の横薙ぎの斬撃を躱しながら、空いた脇の下に拳を撃ち込む。
 すぐにやってくる次の斬撃を篭手で受けて、押し戻される。
 低い姿勢で近づくと、膝が迎撃に迫って来た。これなら受けても死なない――喰らいながら、思いっきり腹に蹴りを打ち返した。
 殴る、蹴る、防ぐ、躱す。繰り返す度、体の全てに手応えが帰る。
 私の全てに触れた桜の体を、打ち、打たれる、もう熱にまで変わった痛みの手応え。
 誰を殴る時よりも、胸の空く想いだった。
 誰を蹴る時よりも、胸の昂る想いだった。
 誰を防ぐ時よりも、胸の躍る想いだった。
 誰を躱す時よりも、胸の高鳴る想いだった。
 強い相手と戦っているから、幸福なんじゃあない。
 桜と戦っているから、私は幸福なんだ。

 ――ごめんね、不安にさせて。

 私は、桜が好きなのに。
 強いあなたが好きなんじゃなくて、あなたそのものが好きなのに、そう言ってあげた事、あんまりなかったかも知れないや。
 だから、怖くなったんだよね。
 あなたはどんどん丸くなっちゃって、我慢する事を覚えて――いい人になっちゃった。昔のまんまの、もっと性格が悪くて、横暴で、残酷な自分だったら、紅野や蒼空を死なせなかったって思ったんでしょう?
 自分が弱くなっていくみたいで、だから、私が離れていくかも知れないって思ってさ。
 馬鹿みたい。
 そんな事で捨てるような相手だったら、体を許しちゃいませんよーだ。
 あれ、かなり勇気を出したんだからね?
 初恋の相手は、同じ群れのちょっとかっこいい男の子で、この国に来てからも、いいなーって思った人は全部男の人で、そんな私がさ、女のあなたを好きになって――
 おかしいのかも知れない、気の迷いかも知れないって自分に言い聞かせても、あなたはずけずけと私の頭の中に居座り続けるんだもん。本っ当に厚かましい!
 ……けど、まぁ、そんな人を好きになる私も大概だって事だよ。
 私は、あなたじゃなきゃ駄目。
 私を好きだって言ってくれたあなたとじゃなきゃ、私は駄目なの。

 ――それに、あなたは。

 桜は、弱くなってなんかいない。
 誰かの心に寄り添って、誰かの事を想う――そう出来るようになる事が、弱くなるって事の筈が無い。
 だって、私がそうだった。
 人間のみんなが好きで、誰とでも仲良くしたい、仲良くなりたいって思ってた私より、あなた一人の為にって思った私の方が強くなれたんだもん。
 誰かを大事に想うって事は、強くなれるって事。
 だから、桜が私を想ってくれるなら――あなたは、何時までも強くなりつづける。私がどんなに強くなっても、追い付けないあなたのままで、何時か――私とあなたのどっちかが死ぬ、その時まで。
 だから、あなたは今のままで良いの。
 ちょっと意地悪な所は残ってても、割といい人になっちゃったあなたのままで、私の隣に居て欲しいの。

 ――桜が、刀を振り上げる。私は、桜の正面に立つ。

 嬉々として私の打撃を受けて、私を殺そうと斬り返して来る桜。
 今日、この日、一番の幸せの中で死にたいって、我儘を言う桜。
 ごめんね。
 その我儘だけは、聞いてあげられない。
 代わりに、この後は、いっぱい我儘を聞いてあげる。
 朝寝坊してる時も、まだ眠いって言うなら、一緒に布団の中で昼まで過ごしてあげる。
 旅先で美味しいものが食べたいって言うなら、ちょっとの無駄遣いくらい大目に見てあげる。
 危ない事に首を突っ込む時は、一応止めはするけど、決着が付くまで横に居てあげる。
 夏の熱い中に、黒い服を着たままでべたべたとくっ付いてくるのも、仕方がないから許してあげる。
 茶屋で美人に声を掛けるのは――あれは、やっぱり許してあげない。
 旅先で女郎屋を探すのも禁止。滑稽本を部屋の隅に積み上げておくのも禁止――隠しておくなら許す。
 でも、何処にだって行っていい。
 海の向こうの大陸でも、誰も名前を知らないような島でも、何処へだって着いて行くよ。

 ――桜の両腕が、両腕が、力に満ちて、一回り膨れ上がる。

 だから、今日は、私が我儘を通す。
 私は桜に勝ちたい。

 ――来る。

 ずっと、私より強かったあなた。これからも、私より強く生き続けるあなたに、今日だけは勝ちたい。
 あなたの我儘を許さないくらい強い私になって、私の我儘を、あなたに聞いてもらいたいの。

 ――私は、私と桜の間合いが交わる距離へ、最後の一歩を踏み込んだ。

 桜。
 いままで、桜から貰ってばっかりだった言葉を、これからは沢山返すよ。
 大好き。
 綺麗な顔も、無茶苦茶な性格も、訳が分からないくらいに強い所も、傍迷惑な行動理念も、地味な服の趣味も、なんでも、あなたのものだったら全部、大好き。
 時々、子供みたいな駄々をこねるけど、そんな所だって大好き。
 愛されてないのか、なんて、そんな寂しい思い、もう二度とさせてあげないから。毎日、何回でも、飽きるまで好きだって言い聞かせてやる。
 私自身より、私は、あなたが好き。
 今までに出会った、誰よりも。
 そして、これから出会う誰よりも。
 いつか私が死ぬ時は、あなたに、傍に居て欲しい。
 けれどあなたが死ぬ時、最後に笑って見送る私でもありたい。
 殺してしまったら、あなたの隣に居られない。
 でも、殺したいくらいに愛しています。
 あなたに殺されるなら、どんなに幸福でしょうか。
 でも、私を殺したあなたの事を思えば、どうしたって死ねません。
 愛しています。
 命を賭けて。
 愛しています。

 ――だから!








 東の山の端に、朱色の光が差す。
 何時の間にか空は、夜の衣を藍に変えて、今また空そのものの色へ変わろうとしていく最中であった。
 遠く逃れていた鳥の声が、獣の息遣いが、野山に帰る。
 その、光と音の雨の中に、二人は居た。

「ふ、ふっ――ふふ、はははっ」

 雪月 桜は、高らかに笑っていた。
 その手の中には、黒太刀『斬城黒鴉』が有る。
 名に違わず、二条の城さえ斬り崩した名刀は――その刀身を、村雨の左肩、皮膚一枚に喰い込ませて静止していた。
 空を仰ぐ桜の目は――左目だけ。
 右の眼球が、抉り出され、村雨の手の中に有った。

「はは、は……はははっ……!」

 眼窩を、血が埋める。だが、その血は僅かに、涙で薄められていた。
 桜は空を仰ぎ、笑いながら、嗚咽を零していたのである。
 残る左目からは透明の、空洞の眼窩からは赤混ざりの涙を頬に伝わらせ、桜は夜明けの風を思い切り肺に吸っては、それが空になるまで笑い、泣いた。
 何が勝敗を分けたか。
 技量か――否。
 それは、意思であった。
 この時を永劫に、繰り返し続けたいと、留まり続けたいと、そう願う者が――この先へ進みたい、新たな時を見たいと、強く願う者に破れた。そう言うのも良いだろう。
 だが、事をもっと端的に表すならば――
 村雨の我儘が、桜に勝った。
 つまり、それだけの事であったのだ。

「駄目だ! やはり、まだ死にたくない!」

 赤い涙を袖で拭い、桜は空へと叫んだ。
 その声に、悲しみの色は無い。
 全ての空虚が満たされた、安堵と充足感の生む、穏やかな叫び――宣言であった。

「私も――」

 村雨も、同じ空を見て――それから、右手の中に視線を落とした。
 手の中の、桜の右の眼球を、村雨は口の中へ投げ込み、噛み砕き、嚥下して――

「――私も、あなたと生きていたい!」

 未だ刃を携えたままの桜の、胸の中へ飛び込み、その背へ腕を回すと、心臓二つを押し近づけるように抱き締めた。
 命の音がする。
 二つ。
 二人ともが、生きている。
 そしてこれからも、生きていく。
 幾年か、幾十年か――五十年には届かぬだろう時を、二人は、共に生きていく、生きていける。そう告げる鼓動が、二人の胸の中に響いていた。
 朝の光が、山から伸びる。
 代わりに、夜の影が消えて行く。
 三つの目は、新たな朝の訪れと、春の野の美しさを目の当たりにした。
 春の色は、命の色。
 春の光は、命の光である。
 新たな季節に生まれた命が、それぞれの輝きを全うせんと生き始める、眩いばかりの季節であった。

「村雨、行くぞ」

「何処へ?」

「さあて、な。一先ずは西だ……ところで、火種はあるか?」

「火種……あるけど、何で?」

「目の奥を焼こうかと」

「却下! お医者様に見てもらう!」

「とは言ってもなぁ……恋人に目玉を抜かれましたとでも、言うのか?」

「そ、それは……その……」

 桜と村雨もまた、新たな季節に、新たに生き始める。
 けれども、もう、二人に冬が来る事は無い。
 季節が巡り、緑の葉は紅に染まり、川面に氷が張ろうと、空をひらひらと踊る蝶が、幾度死に、幾度生まれようと――
 二人を別つものは何も無い。
 死さえも、その力は無い。

「なあ、村雨」

「先に言わせて」

「ん?」

「愛してる」

「……ああ、私もだ」

 それは、桜の花の散る夜の事であり、若草が青々と背伸びし始める夜明けの事でもあった。

 二人の旅人が、沈む月を追うように、西へ、西へと歩いて行った。

 黒い、黒い、真っ黒の、烏のように黒い女と――

 白にもなれず黒にもなれぬ、灰色の狼たる少女の――

 どうにも物騒で血生臭くも、愉快で、にぎやかで、あっけらかんと過ぎて行く日々が、まだ見えぬどこかに転がっているようであった。