『コトツギノワタリ』
「あけぬれば くるるものとも たわぶれん」
夕を夜に還す頃、黒羽が里に降り落ちた。
はら、はら、と降るる雨の如く、然して漂う浮き葉の如く、揺れながら地に届いたは、手に余る程の禍つ羽。
十二の単にただ一つとて、人の纏うべき色は無し。
黒白(こくびゃく)に、空の紅屍を染めて、
「こえこそきかば ことつぎわたらむ」
かぁ。
夜を落として、渡る唐車。
簾を掲げて妖が除く。
閉ざせや。
閉ざせや。
先触れの鴉が、口々に鳴く。
「今宵の我が臥所は、何れぞ」
夜を纏うて雪の化粧、化生を連れて、行き、待ち、寄る。
かぁ。
「あれを」
引く者の無い車から、間白の腕を伸ばすぬし。
指す先には、枯れ伏し、褪せた屋根。
閉ざした戸の隙間から、覗き見る者、一人とて無く――覗き見た不埒者、既に余さず、此処に亡く。
かぁら、かぁらと回る車輪が、土に畔を刻み、残す。
車が止まる。
「いざ よはふけぬ このとひらかせ」
ぎぃ。
命じられるまま、内外の隔ては口を開けた。
夜のあるじが車を下りる。
長大に過ぎる黒髪を、己が翼とはためかせ。
夜闇を縫うた艶絹を、帯を乱して従える。
止まり木を定めたならば、その意、その威、異を唱える誰があろうか。
「たれぞ、あるか」
在る。
矢雨が起こって、横薙ぎに、夜のあるじの衣を割いた。
「ほ、ぅ」
嗤うたか、嘲ったか。声は、鏃に潰される。
絡繰仕掛の連弩が、家人の名代と、大妖を迎えた。
数十か、数百か、矢は突き立ち――消えて失せる。
衣に一筋の傷も残さず、指先の血で、紅をさす。白肌に赤が彩る笑みの、そのあやしきこと、あかきことは、
「此方を、誰と思うたか」
酔夢に耽るが如きたわぶれの言継ぎ。
人の払われた大路の真中に、夜のあるじは羽ばたき、降り立つ。
すると、いずこよりか声がする。
『こんな夜更けにたれかなく 来よ来よおとめとたが恋ふる』
ほう、と讃えて、夜が矛先を捻じ曲げた。
『その声、ひとにあらざれば、耳をふたぎてみどりご泣かせ。よばひかき消しただただ泣かせ、その泣く声が護りたり』
媚声や、良し。
愛しき天の火の、熱さは無く。
懐かしき墓所の、腐れた臭いも無く。
ただ雪の如く細やかに、月の如く眩き、花の如き儚げな声である。
節をあてがった、良き歌である。
『かき消えざるとき、そのをとめ――』
「笑え、音が濁る」
舞う少女が、櫓の上に在った。
高く掲げた梯子の上の、二間四方の櫓に立ちて、秀声美踏、讃歌は絢爛。散る花の美を示す、少女が独り、在った。
夜のあるじは、空を飛ばずにゆく。
夜のあるじは、はしごに手を掛け、ただびとと同じように、声のもとへゆく。
「何をか嘆く、嘆くな人よ。涙は美味なれど、涙声は聞き苦しい。此方が為に、笑い、捧げたてまつれ」
少女は、舞いを続ける。
夜の中に在りて、少女は一際、星と比してさえ眩く在った。
櫓こそは、戸こそ無くとも、やはり内外の隔てである。
地上には無く、然して遥か高みを知らず、はざまを漂う者の留まる宿が、櫓である。
その定まらぬかたちが、夜のあるじの興をそそったか。
不定形の祭壇たる櫓の上に、ただ一つ確かな贄を求めて、梯子を、嬰児が如き無邪気を振りまいて、登る。
「笑え」
『――笑ひ野へたち帰り来ぬ。黄泉路ももはや、』
登りて見れば、狭き檻。
舞手の横へ、あるじが立った。
『ありはせぬ』
その首に、白刃が沈んだ。
あるじの首と、何れがと白を誇る刃が、一つ。
胸を狙い、また一つ。
腹を狙い、また一つ。
七日七晩の加持祈祷で、たんと功徳をくろうた刃が三振り。
必浄、免れぬ浄めの刃を、突き立てたは紅顔の美少年。
今が盛りの若き躰に、熱気はそのまま、十の若子。
憤りのままに、大妖の身に、刃を入れた。
「……正道の怒りに、私憤の苦味が混ざっておる。美味とは言えぬ、誰ぞ」
「その顔から、その声で、そういう口を利くな……っ!」
今宵のあるじの顔は、この少年の、かつては恋うた女の顔。
然してその喉が発するは、似ても似つかぬ艶めいた呪詛。
赦してはならぬ、とどめてはならぬ、腑の底に火を溜めた少年を、
「此方を、誰と思うたか」
百倍する怒気が、呑んだ。
少年の身は、忽ちに黒く染まる。
数百の鴉が、少年に群がり、肉を啄ばみ始めたのである。
絹も、鋼も、骨も、脂も、みな平等に。
頭髪も、眼球も、余さず。
苦悶の叫び、死を嘆く醜態、怨念さえも集め束ねて、
「ふぅい」
夜のあるじは、腹をさすった。
腹を満たして、眠りも足りて、残る一つの欲さえも、
「みぃつけた」
見たす可し。
夜のあるじは、衣から抜け出た。
黒だけを重ねた十二の単、それを置き去りに、舞手をかき抱く。
二つのかいなのみならず、溢るるばかりの黒髪と、双眸、魂までも、少女を抱く。
そして、深く口付けた。
幼げな少女の背を、仰け反らすように。
垂れ下がる黒髪の中に、少女を溶かすように。
抗う手が弱り果て、やがては自ずから、あるじの首に回された頃――
「ことつぐものの、か……く、くく、かか」
少女の舌を吸い、喉を指で擽りさえずらせながら、あるじは肩を小刻みに震わせ、愉悦の耐え難きを示す。
しんと、音の消えた夜の大路に、その笑声と、咽び泣く少女の声だけが、果ても無く続くような趣さえ孕んで、鳴る。
爪さえ朱に飾り立てた手を虚空に伸ばし、何をか掴もうとしながら、少女は〝嗚呼〟と啼く。
そうして、誰にいざなわれるとも無い侭に、祈りを模したが如き舞手の衣から、四肢を抜いて、柔肌を夜に晒した。
あやかしの腕の中で、少女は、己さえ知らぬ振りを舞い、知らぬ嬌声で歌い、誰も知らぬ顔で求めた。
交愛を、夜に抱かれて、少女は存分に舞った。
やがて、夜が過ぎ行き、空に青が立ち込める頃。
櫓の上には、少女が一人、立っているだけであった。
艶やかに舞った、あの少女である。
「良き体よ……が」
声音ばかりが、違っていて、
「背が足りぬ」
十五の、幼げな躰が、二十を過ぎたか、高く伸び、
「髪も足りぬ」
肩までの黒髪が艶を増して、腰を過ぎ、足首を過ぎるまで伸びて、
「紅も足りぬ」
小指で、唇を撫ぜる。
少女の姿は、女になった。
ねぐらへ還る鳥の群れが、夜の終わりを告げて鳴く。
硬く閉ざされた扉が、閂を外し、錠を外し、戸板を外して、朝日の下に人を吐き出す。
遥か西の空には、未だに一つ、黒が残っている。
化け鴉の一段が、唐車を抱えて、何処か、何処かへ――
――かぁ。
夕を夜に還す頃、黒羽が里に降り落ちた。
はら、はら、と降るる雨の如く、然して漂う浮き葉の如く、揺れながら地に届いたは、手に余る程の禍つ羽。
十二の単にただ一つとて、人の纏うべき色は無し。
黒白(こくびゃく)に、空の紅屍を染めて、
「こえこそきかば ことつぎわたらむ」
かぁ。
夜を落として、渡る唐車。
簾を掲げて妖が除く。
閉ざせや。
閉ざせや。
先触れの鴉が、口々に鳴く。
「今宵の我が臥所は、何れぞ」
夜を纏うて雪の化粧、化生を連れて、行き、待ち、寄る。
かぁ。
「あれを」
引く者の無い車から、間白の腕を伸ばすぬし。
指す先には、枯れ伏し、褪せた屋根。
閉ざした戸の隙間から、覗き見る者、一人とて無く――覗き見た不埒者、既に余さず、此処に亡く。
かぁら、かぁらと回る車輪が、土に畔を刻み、残す。
車が止まる。
「いざ よはふけぬ このとひらかせ」
ぎぃ。
命じられるまま、内外の隔ては口を開けた。
夜のあるじが車を下りる。
長大に過ぎる黒髪を、己が翼とはためかせ。
夜闇を縫うた艶絹を、帯を乱して従える。
止まり木を定めたならば、その意、その威、異を唱える誰があろうか。
「たれぞ、あるか」
在る。
矢雨が起こって、横薙ぎに、夜のあるじの衣を割いた。
「ほ、ぅ」
嗤うたか、嘲ったか。声は、鏃に潰される。
絡繰仕掛の連弩が、家人の名代と、大妖を迎えた。
数十か、数百か、矢は突き立ち――消えて失せる。
衣に一筋の傷も残さず、指先の血で、紅をさす。白肌に赤が彩る笑みの、そのあやしきこと、あかきことは、
「此方を、誰と思うたか」
酔夢に耽るが如きたわぶれの言継ぎ。
人の払われた大路の真中に、夜のあるじは羽ばたき、降り立つ。
すると、いずこよりか声がする。
『こんな夜更けにたれかなく 来よ来よおとめとたが恋ふる』
ほう、と讃えて、夜が矛先を捻じ曲げた。
『その声、ひとにあらざれば、耳をふたぎてみどりご泣かせ。よばひかき消しただただ泣かせ、その泣く声が護りたり』
媚声や、良し。
愛しき天の火の、熱さは無く。
懐かしき墓所の、腐れた臭いも無く。
ただ雪の如く細やかに、月の如く眩き、花の如き儚げな声である。
節をあてがった、良き歌である。
『かき消えざるとき、そのをとめ――』
「笑え、音が濁る」
舞う少女が、櫓の上に在った。
高く掲げた梯子の上の、二間四方の櫓に立ちて、秀声美踏、讃歌は絢爛。散る花の美を示す、少女が独り、在った。
夜のあるじは、空を飛ばずにゆく。
夜のあるじは、はしごに手を掛け、ただびとと同じように、声のもとへゆく。
「何をか嘆く、嘆くな人よ。涙は美味なれど、涙声は聞き苦しい。此方が為に、笑い、捧げたてまつれ」
少女は、舞いを続ける。
夜の中に在りて、少女は一際、星と比してさえ眩く在った。
櫓こそは、戸こそ無くとも、やはり内外の隔てである。
地上には無く、然して遥か高みを知らず、はざまを漂う者の留まる宿が、櫓である。
その定まらぬかたちが、夜のあるじの興をそそったか。
不定形の祭壇たる櫓の上に、ただ一つ確かな贄を求めて、梯子を、嬰児が如き無邪気を振りまいて、登る。
「笑え」
『――笑ひ野へたち帰り来ぬ。黄泉路ももはや、』
登りて見れば、狭き檻。
舞手の横へ、あるじが立った。
『ありはせぬ』
その首に、白刃が沈んだ。
あるじの首と、何れがと白を誇る刃が、一つ。
胸を狙い、また一つ。
腹を狙い、また一つ。
七日七晩の加持祈祷で、たんと功徳をくろうた刃が三振り。
必浄、免れぬ浄めの刃を、突き立てたは紅顔の美少年。
今が盛りの若き躰に、熱気はそのまま、十の若子。
憤りのままに、大妖の身に、刃を入れた。
「……正道の怒りに、私憤の苦味が混ざっておる。美味とは言えぬ、誰ぞ」
「その顔から、その声で、そういう口を利くな……っ!」
今宵のあるじの顔は、この少年の、かつては恋うた女の顔。
然してその喉が発するは、似ても似つかぬ艶めいた呪詛。
赦してはならぬ、とどめてはならぬ、腑の底に火を溜めた少年を、
「此方を、誰と思うたか」
百倍する怒気が、呑んだ。
少年の身は、忽ちに黒く染まる。
数百の鴉が、少年に群がり、肉を啄ばみ始めたのである。
絹も、鋼も、骨も、脂も、みな平等に。
頭髪も、眼球も、余さず。
苦悶の叫び、死を嘆く醜態、怨念さえも集め束ねて、
「ふぅい」
夜のあるじは、腹をさすった。
腹を満たして、眠りも足りて、残る一つの欲さえも、
「みぃつけた」
見たす可し。
夜のあるじは、衣から抜け出た。
黒だけを重ねた十二の単、それを置き去りに、舞手をかき抱く。
二つのかいなのみならず、溢るるばかりの黒髪と、双眸、魂までも、少女を抱く。
そして、深く口付けた。
幼げな少女の背を、仰け反らすように。
垂れ下がる黒髪の中に、少女を溶かすように。
抗う手が弱り果て、やがては自ずから、あるじの首に回された頃――
「ことつぐものの、か……く、くく、かか」
少女の舌を吸い、喉を指で擽りさえずらせながら、あるじは肩を小刻みに震わせ、愉悦の耐え難きを示す。
しんと、音の消えた夜の大路に、その笑声と、咽び泣く少女の声だけが、果ても無く続くような趣さえ孕んで、鳴る。
爪さえ朱に飾り立てた手を虚空に伸ばし、何をか掴もうとしながら、少女は〝嗚呼〟と啼く。
そうして、誰にいざなわれるとも無い侭に、祈りを模したが如き舞手の衣から、四肢を抜いて、柔肌を夜に晒した。
あやかしの腕の中で、少女は、己さえ知らぬ振りを舞い、知らぬ嬌声で歌い、誰も知らぬ顔で求めた。
交愛を、夜に抱かれて、少女は存分に舞った。
やがて、夜が過ぎ行き、空に青が立ち込める頃。
櫓の上には、少女が一人、立っているだけであった。
艶やかに舞った、あの少女である。
「良き体よ……が」
声音ばかりが、違っていて、
「背が足りぬ」
十五の、幼げな躰が、二十を過ぎたか、高く伸び、
「髪も足りぬ」
肩までの黒髪が艶を増して、腰を過ぎ、足首を過ぎるまで伸びて、
「紅も足りぬ」
小指で、唇を撫ぜる。
少女の姿は、女になった。
ねぐらへ還る鳥の群れが、夜の終わりを告げて鳴く。
硬く閉ざされた扉が、閂を外し、錠を外し、戸板を外して、朝日の下に人を吐き出す。
遥か西の空には、未だに一つ、黒が残っている。
化け鴉の一段が、唐車を抱えて、何処か、何処かへ――
――かぁ。