烏が鳴くから
帰りましょ

『ダメツギノワタリ』

 小刀を、火で清める。
 決まりは無いけれども、柳の枝を落として、神棚で乾かした枝で、起こした火で。
 白い刃が、熱で曇って、冷め行けばその刀身には雫が残る。
 水の、小さな雫。
 鏡にも似た丸い粒に、映る不安気な顔は――

「これで、どうだい」

 老いた母親が、娘に言った。
 古びくすんだ布の切れ端を、母親は愛おしげに、大事に、手に乗せていた。
 娘が、短刀を手にする。
 右手に、逆手に持ち、左手の指を近づける。
 薄曇りの刃に映る顔は、不安を湛えて、少し怯えて――

「っ……!」

 けれども、決意は直ぐに訪れる。
 娘の指先に、赤い線が刻まれて、そこから血の球が膨らみ、つうと落ちていく。
 母親は、娘の血の雫を、捧げ持つ布で受けた。
 傷が乾き、血が止まるまで、静かに、動かずに。
 たつ、たつ、と落ちていく赤い珠を、母親は優しげな笑みを浮かべて見守る。

 「これはね、タガネ」

 娘の名――仮の名を、母親が呼ぶ。

「お前の産着だったんだよ、こんな小さな布切れが」

 真新しい白布を、娘の傷口に巻きつけて、しみじみと言う。

「大きくなったねぇ……」

「……お母さん」

 産着の端切れを、娘が切って、捩る。それは忽ちに、一本の短い紐になる。
 母の腹の中で眠っていた時、母体と娘を繋いでいたもの――それの、似姿とも見える、短い紐に。

「ありがとうね」

「そういうのは、嫁入りまで取っておくんだよ」

 この紐は、娘から、誰かへ渡すもの。
 与えられるのではなく、初めて、誰かへ捧げるもの。
 望んではならぬ人へ、唯一、伝える術。
 母との繋がりを絶って、少女はやがて、女になる。
 行ってきます、とは、言わない。
 行っておいで、とも、言わなかった。
 母親は眠り、娘は戸を開けて――出て、ゆく。
 その小さな家の裏手には、小高い丘がある。
 緑のさやさやと揺れる、南向きの丘である。
 娘はそこへ登って、里を眺めて過ごすのが、好きだった。
 昔は此処に、もう一人、並んでいた。
 十五も年が上の男――娘が幼い頃でさえ、若いながら、間違いなく、成人と呼ぶべき男。
 三つの頃は、背負われて、遠くを見た。
 五つの頃は、鬼ごとに付き合わせた。
 十二まで、並んで、空を見た。
 それから、あまり会えなくなった。
 男には、よい縁が出来たという。
 自分より六つも年上の、しかし男よりはずっと若い、気だてのいい女だと知っている。
 その名を聞いた時、娘は――諦めたのかも、知れなかった。
 仕方が無いのだと。
 自分は子供で、あの男は大人で、きっと兄のように、自分を見てくれていた。
 兄の幸せを、自分は祝うしかないのだと。
 兄の隣で晴れやかに笑う彼女を、祝福することが正しいのだ、と。
 けれども、娘は、この丘に来る。
 つまらぬ場所だ、山菜も無い。暇を余さねば、立ち止まる事もあるまい。
 一人で娘は、丘に立ち、手の中にある端切れを、強く、強く握りしめた。
 
 ――アカヒモの儀を、聞いた事はあるかい?
 母に尋ねられ、首を横に振った。その晩、母に、具に聞かされた。
 男を知らぬ女が、女を知らぬ男が、〝習い覚える〟が為の風習であると。
 血を、布に染み込ませ、紐のように――繋がりを示す、意味を持つように形作る。
 それを、既に〝済ませた〟者に送る。
 受け入れられれば、二人は夢で逢瀬を遂げ、作法を学ぶ。
 純な娘は、酷く赤面して、羞恥に身悶えもした。
 然し――この習わしに、縋りたいとも思った。
 明日、男は、婚姻の式を挙げる。
 里の者が盛大に祝い、盛大に飲み、騒ぐだろう。
 その夜から男は夫となり、妻のものになる。
 望んではならぬ人となる。
 娘は、丘を降りようとした。そして、男の家の、戸を叩くのだ。
 きっとあの男は、あの男ならば、いつかのように微笑んで、自分を迎えるだろう。娘は、そう信じている。
 その手に、このアカヒモを押し付けて、去る。
 それだけで良い。
 それだけで、伝えられる。
 受け入れられようとも、拒絶されようとも、抱き続けた思いの丈を、余さず伝えて――

「あきがれの かれやをのぞむ ほおずきの このみぞささぐ もちていかせよ」

 歩いた。
 小さな丘の、緩やかな斜面を、自分の足で歩いた。
 枯れ葉を踏み、破り、歩いてゆこうとして、
 
「おおぅい」
 
 呼ばれた。
 幾度か夢に、見た声に。
 振り向き、手を――

 風が、吹いた。

 声の元へ、手を伸ばした娘から、赤く染めた布切れを奪って、
 ひゅおう、ひゅおうと、丘を泣かせて、
 風は吹いて、何処かへ消えた。
 娘は、寂しくなった手を顧みず、声の主を探した。
 丘を駆け上がって、駆け下りて、また登って、幾度も幾度も繰り返して、

「……あ」

 男は、ずっと向こうで、明日には妻になる女と、仲睦まじく歩いている。
 それを見つけて娘は、ようやっと、心から笑った。

「いいんだ、もう」

 自分の聞いた声のように、都合良く近くにいる兄は、もう居ないけれど。
 好きになった相手はまだ、健康で、近くに生きている。
 これ以上、何を臨もうか。
 もう十分だと、娘は知って、高く笑った。
 明日にはあの女を、誰かよりも美人に飾り立ててやろう。
 あの男が里一番の幸せ者であると、誰にも知らしめてやるのだ。
 その式で、誰よりも大きな声で笑ってやる。
 小さな娘の、恋の終わりで――少女の、始まりであった。



 風が吹く。
 風が、流れる。
 その遥か風上に、黒い群れが有った。
 呆れるほど必死に、それは羽ばたいていた。
 ばさ、ばさと、羽が抜け落ちて流れる、凶兆を生むほどに羽ばたいていた。
 里を過ぎて、何処かへ流れていく風を、無数の黒鳥が作っていた。そして――

「ようし、ようし。誰の手も触れぬまま、よくぞ此処まで飛んで来よった。愛でたし、目出度やのう」

 赤く染まった端切れを、女が捕まえていた。
 黒の小袖一枚を、帯も止めずに纏う、黒髪の女である。
 髪が、恐ろしく長い。
 足首を過ぎて、重さに逆らうように一度持ち上がってから、また地面へ向かう程。真っ直ぐに伸ばせば、一丈にも及ぶのではあるまいか。
 そんな女が、流れてきた端切れをつかんで、己の小指に巻きつけたのである。
 「初夜の夢の相手が此方とは、果報者の娘よのう。良い良い、存分に愛で鳴かせてやろうぞ」
 からからからり、涼しげに女は笑う。
 どうにもおかしな事に、おぞましき身の上のこの女が、この日はさして畏れを振りまかぬのである。
 寧ろ、無邪気でさえあった。
 娯楽があれば、純に楽しもうという趣さえ垣間見せる、風流に満ちていた。
 が――邪ではある。
 美しい顔には、たんと企みが満ちている。
 童の悪戯よりは、どうも性質が悪そうな。
 然し、生きるの死ぬのという話には、なりそうもない。
 この女の緊張感の薄さに理由を見出すならば、命のやりとりなどついぞあり得ないだろうという、予見が理由やも知れない。
 然して、悪辣。
 命とは比にならねども、この妖が狙うは〝純情〟である。
 奪われたら戻らぬのは同じことだ。
 寧ろ、奪われた事を本人が自覚出来る点では、痛ましいのやも知れず。
 されどこの妖がうそぶくには、

「ヒキテの手に行くよりは良かろうて、のう?」

 布切れに、そう言う。

 「これよりこの里、アカヒモの儀は、全て此方が意の為す処と変ず。全ての乙女は我が耳目を楽しませ、空いた指舌を潤す沢となれ!」 
 呪詛か言祝ぎか、女は重く言い放ち、

「ああ、夜が楽しみじゃのー、楽しみじゃのー」

 朝日を待つ子供より、落ち着かぬ様子であった。