とおりゃんせ。 朱染めの夜道を。
「とーおりゃんせ、とおりゃんせ」「こーこはどーこの細道じゃ」
母子が夜道を歩きつつ、唇に歌を乗せていた。
獣も寄らぬ丑三つの、廃れた町の四つ辻である。
人影は無し。
気配も無し。
ただ、母が娘を抱いてゆくのみ。
母が歌うと子が答え、子が接ぐと母が続く。
ゆらゆら、歌が揺れている。
この地も、昔は人が住む土地であったが、二里先の町へ移ってしまった。
一つには虫。一つには寒風。一つに、山影で日が当たらぬ事。済むに適さぬ町であった。
人が去って、十年にもなる。
家屋は立ち枯れの木のように、啄まれて、傾き、時折は風に軋んでいる。
月は無く、薄雲が星を隠す。己の影を見る事さえ能わぬ有様である。陰気な町に似合いの、貼り付くような夜であった。
女は、あるじを失った家の前に立つと、竹筒に入れた油を撒く。
それから、かち、かちと何やら音を立てた。
火打石。
渇いた戸板に火花が散り、小さな火となった。
それが油に届いて、ごうと燃え上がる。
此処暫くの日照りで、からりと乾ききった廃屋は、あたかも巨大な松明のように、ぼうぼうと夜空に火花を散らした。
その火を背にして、女は、娘を地面に降ろした。
娘は、夜の一角を指差す。
「あれを」
そう言い、じっと、其処を見ていた。
然し、この娘に、見える筈が無いのだ。
娘には眼球が無かった。
左右の眼窩は空洞で、そこに闇が広がっているのである。
この夜よりも深く、暗く、果ての無い闇である。
仮に娘の眼窩に指を押し込んだのなら、小さな頭蓋には届かず、何処までも指は入り込んでいくのではないか。
或いはその身の全てが呑み込まれようと、娘の闇は埋まらぬのではないか。
空洞では無い。
娘の眼窩には、底無しの闇が詰まっている。
その闇から、つつと零れ落ちる、一筋の涙が有った。
瞼を伝い、頬へ落ちるまでは、それは赤かった。だが、頬を過ぎて喉へ渡り、衣の内へ消えて行くまでに、その涙は黒く染まってゆくのだ。
「……うふう」
女が、気味悪く笑って、襟を開いた。
襤褸とも紛う黒布の、内に隠れていたは、白銀の刃である。
而してこの刃、正道の刀では無かった。
刀剣の類でさえない。
鋏を、蝶番から分解した左右一降りずつ――女はそれを、手に取った。
揺らめく炎が刀身に映り、夜にまだらの灯りを散らした。
女は彫像の如く、毛先に至るまでの動きを止める。
炎が舌を伸ばし、熱風が遊歩する夜には、その姿はあまりに異質でありながら、同時に〝在る〟と思えぬ姿でもあった。
其処に、居る。
見れば、確かに有る。
だのに女は、消えもせぬのに、〝見えぬ〟のだ。
そうして火の粉を背に浴びながら立つ女の前に、娘は座って、闇の詰まった眼窩で空を見る。
「あれを」
そう言い、指差す。
指の示す空から、大きな、大きな翼の鳥が、音も立てずに降りて来る所であった。
梟にも似ている。
だが、顔は人だ。
老いている。
白髭を蓄えた温和な老人の顔が、梟の首から上に収まって、優しげに微笑み、降りて来る。
脚の代わりに備わった人間の腕が、娘へ向かって伸びた。
――じゃくっ。
女が、両腕を交差させてから、それぞれ外側へと振るった。
それで梟の腕は、地面に転げ落ちていた。
刀身二本で梟の腕を挟み、ただ一息に振るい、斬る。
荒く使って、刃に欠けは無かった。
「くふ、ふ、ふふふっふ、くく、か、はああはは、あっは」
情動は抑えられぬものである。女はさも楽しげに笑うのだ。
梟は舞い上がり、今一度降下する。
女の頭蓋を啄まんと、その巨躯を以て、投石が如くに飛んだ。
それを女は、髪をも掠めさせずに避ける。
ぬるうり、と。
身をうねらせて、足を滑らせて、のたうつが如く。
女の足取りを例えれば、蛇の腹這いであろうか。
蛇が道を行く際、体をうねらせて、前へ、前へと進んでいく。
あの姿が、人の嫌悪を呼ぶ。
理屈では無い。気味が悪いと、厭うのだ。
それと同じに女の歩みは、ぞっとするほど気味の悪いものであった。
悍ましく、さりとて目を離せぬ、呪の如き歩であった。
女は梟に纏わりつく。
翼を斬り付け、追う。
足が速いとは見えぬに、梟は女を振り切れず、追い付いて啄む事もままならない。
腕が斬られ、翼を傷つけられ、思うように飛べぬのである。
女は無感動に、絡み付き、刃を振るう。
じゃくっ。
じゃくっ。
じゃくっ、
羽を一塊。
翼の縁を、ほんの一尺。
覗いた骨を寸刻みに。
じゃくっ。
背に跨り、耳を左右。
尾羽を。
じゃくっ。
翼を左右とも。
端から削って、削って、削ってゆく。
じゃくっ。
じゃくっ。
終に付け根まで斬り落とす頃、梟は路上に横たわっていた。
鳥か、芋虫かも定かでは無い姿。
だが、まだ、動いていた。
「か、っくくか、っか、きひっ、ひ、ひひいっ、きひ、ひきゃきゃきゃっ」
鳴いたのは、梟では無い。
女が、夜に、高らかに鳴いた。
頭頂鼻頬骨顎歯列眼球舌動脈気道。
ざくざくざくざくざくざくざく。
首。
じゃくっ。
「ゆきはよいよい帰りは怖いー」
「怖いながらも」
唄いながら、母娘が行く。
夜はとうに晴れて、日差しが母娘を照らしていた。
暖かい。
眠くなったか、娘が欠伸をして、母の腕の中でぐうと伸びをする。
その背を撫ぜながら、母は里への道を歩いた。
母子が夜道を歩きつつ、唇に歌を乗せていた。
獣も寄らぬ丑三つの、廃れた町の四つ辻である。
人影は無し。
気配も無し。
ただ、母が娘を抱いてゆくのみ。
母が歌うと子が答え、子が接ぐと母が続く。
ゆらゆら、歌が揺れている。
この地も、昔は人が住む土地であったが、二里先の町へ移ってしまった。
一つには虫。一つには寒風。一つに、山影で日が当たらぬ事。済むに適さぬ町であった。
人が去って、十年にもなる。
家屋は立ち枯れの木のように、啄まれて、傾き、時折は風に軋んでいる。
月は無く、薄雲が星を隠す。己の影を見る事さえ能わぬ有様である。陰気な町に似合いの、貼り付くような夜であった。
女は、あるじを失った家の前に立つと、竹筒に入れた油を撒く。
それから、かち、かちと何やら音を立てた。
火打石。
渇いた戸板に火花が散り、小さな火となった。
それが油に届いて、ごうと燃え上がる。
此処暫くの日照りで、からりと乾ききった廃屋は、あたかも巨大な松明のように、ぼうぼうと夜空に火花を散らした。
その火を背にして、女は、娘を地面に降ろした。
娘は、夜の一角を指差す。
「あれを」
そう言い、じっと、其処を見ていた。
然し、この娘に、見える筈が無いのだ。
娘には眼球が無かった。
左右の眼窩は空洞で、そこに闇が広がっているのである。
この夜よりも深く、暗く、果ての無い闇である。
仮に娘の眼窩に指を押し込んだのなら、小さな頭蓋には届かず、何処までも指は入り込んでいくのではないか。
或いはその身の全てが呑み込まれようと、娘の闇は埋まらぬのではないか。
空洞では無い。
娘の眼窩には、底無しの闇が詰まっている。
その闇から、つつと零れ落ちる、一筋の涙が有った。
瞼を伝い、頬へ落ちるまでは、それは赤かった。だが、頬を過ぎて喉へ渡り、衣の内へ消えて行くまでに、その涙は黒く染まってゆくのだ。
「……うふう」
女が、気味悪く笑って、襟を開いた。
襤褸とも紛う黒布の、内に隠れていたは、白銀の刃である。
而してこの刃、正道の刀では無かった。
刀剣の類でさえない。
鋏を、蝶番から分解した左右一降りずつ――女はそれを、手に取った。
揺らめく炎が刀身に映り、夜にまだらの灯りを散らした。
女は彫像の如く、毛先に至るまでの動きを止める。
炎が舌を伸ばし、熱風が遊歩する夜には、その姿はあまりに異質でありながら、同時に〝在る〟と思えぬ姿でもあった。
其処に、居る。
見れば、確かに有る。
だのに女は、消えもせぬのに、〝見えぬ〟のだ。
そうして火の粉を背に浴びながら立つ女の前に、娘は座って、闇の詰まった眼窩で空を見る。
「あれを」
そう言い、指差す。
指の示す空から、大きな、大きな翼の鳥が、音も立てずに降りて来る所であった。
梟にも似ている。
だが、顔は人だ。
老いている。
白髭を蓄えた温和な老人の顔が、梟の首から上に収まって、優しげに微笑み、降りて来る。
脚の代わりに備わった人間の腕が、娘へ向かって伸びた。
――じゃくっ。
女が、両腕を交差させてから、それぞれ外側へと振るった。
それで梟の腕は、地面に転げ落ちていた。
刀身二本で梟の腕を挟み、ただ一息に振るい、斬る。
荒く使って、刃に欠けは無かった。
「くふ、ふ、ふふふっふ、くく、か、はああはは、あっは」
情動は抑えられぬものである。女はさも楽しげに笑うのだ。
梟は舞い上がり、今一度降下する。
女の頭蓋を啄まんと、その巨躯を以て、投石が如くに飛んだ。
それを女は、髪をも掠めさせずに避ける。
ぬるうり、と。
身をうねらせて、足を滑らせて、のたうつが如く。
女の足取りを例えれば、蛇の腹這いであろうか。
蛇が道を行く際、体をうねらせて、前へ、前へと進んでいく。
あの姿が、人の嫌悪を呼ぶ。
理屈では無い。気味が悪いと、厭うのだ。
それと同じに女の歩みは、ぞっとするほど気味の悪いものであった。
悍ましく、さりとて目を離せぬ、呪の如き歩であった。
女は梟に纏わりつく。
翼を斬り付け、追う。
足が速いとは見えぬに、梟は女を振り切れず、追い付いて啄む事もままならない。
腕が斬られ、翼を傷つけられ、思うように飛べぬのである。
女は無感動に、絡み付き、刃を振るう。
じゃくっ。
じゃくっ。
じゃくっ、
羽を一塊。
翼の縁を、ほんの一尺。
覗いた骨を寸刻みに。
じゃくっ。
背に跨り、耳を左右。
尾羽を。
じゃくっ。
翼を左右とも。
端から削って、削って、削ってゆく。
じゃくっ。
じゃくっ。
終に付け根まで斬り落とす頃、梟は路上に横たわっていた。
鳥か、芋虫かも定かでは無い姿。
だが、まだ、動いていた。
「か、っくくか、っか、きひっ、ひ、ひひいっ、きひ、ひきゃきゃきゃっ」
鳴いたのは、梟では無い。
女が、夜に、高らかに鳴いた。
頭頂鼻頬骨顎歯列眼球舌動脈気道。
ざくざくざくざくざくざくざく。
首。
じゃくっ。
「ゆきはよいよい帰りは怖いー」
「怖いながらも」
唄いながら、母娘が行く。
夜はとうに晴れて、日差しが母娘を照らしていた。
暖かい。
眠くなったか、娘が欠伸をして、母の腕の中でぐうと伸びをする。
その背を撫ぜながら、母は里への道を歩いた。