明無、朱為
火の粉が散っている。
揺らめく炎の中、枯葉の形が崩れてゆく。
赤や黄に染まった葉が、熱を浴び、その身の色を染み出させているようである。
色が混ざって、橙になる。
橙色の炎が、人の手に収まる広さで燃えている。
ざかっ。
炎を貫く、鋭い槍。
朽ちて重なり、燃える葉を刺して、
「お芋、焼けましたよ」
娘は枯葉の山の中から、丸々と太った芋を探り当てた。
わっ、と子供が寄り集まって、手に手に串を持ち、火の中に突き込んで行くのを、娘は静かに笑って眺めていた。
女とも、少女とも、何れとも呼び得る頃の娘である。
芋の灰を払い落とし、ふうふうと吹き冷ましながら籠に入れる様は、童にも見える。
芋を冷ましてかぶりつく子らを見る目は、母の如くにも見える。
だが、その何れでも無い。
歳の頃は十八、もうじき十九になるだろうか。
この里ならば、成人とも見なされよう。
童達と車座を作り、芋を喰む。
熱いと言って舌を出し、芋を吹き、或いは手で仰ぐ。
然し、そういう歳の娘のように、髪を飾ってはいない。背で一つに束ねるばかりで、簪一つも刺さない。
飾り気の無い娘である。
然し朴訥ではない。
唇は紅を差したように赤かった。
鍬や鎌を持ち、田畑に有るのが似合うだろう麻衣ながら、額やうなじにうっすらと汗を掻く時、娘は不思議と、歳を重ねて見えた。
月日が重なる事で、初めて生まれる美が有る。
木々の年輪、鍾乳洞、或いは波が削った海岸線。
二十年も生きぬ娘は、そういう女であった。
「また焼き芋か」
「砂糖がなくとも、甘みは楽しめます」
頬を軽く膨らませ、美味を楽しむ娘を呼ぶ声は、娘が背もたれにして居る木の上からであった。
「食べますか?」
「いらんわい。今日明日は腹を空にしておく」
「そんな、お腹空きますよ」
「さればこそ」
樹上からぬうっと顔を突き出したのは、随分とごつい男であった。
何せ、腕周りが子供の頭程もありそうな巨体なのだ。
胸も腹も、米俵の如し。筋肉を思う存分盛り付けて、その上に更に脂肪を乗せたような、正に巨漢である。
歳の頃は、娘よりは上に見えた。
「良いか、腹をかっ捌かれた時に、そこから飯やら糞やら零れて来てみろ。片付けに困るだろうが」
「サエバシ、また品の無い……」
娘が困ったような顔をする、その目の前に、サエバシはずん、と降り立った。
「そうか?」
「そうですよ。貴方がこうだから、ほら」
娘が、ぐるりと周りを指差す。
童は品の無い口振りを好むものである。サエバシの言葉にげらげらと、腹を抱えて笑っている。
「なに、品性など無くとも生きては行けようともよ」
「貴方はでしょう。この子達が真似をしたら困りますよ」
「何が悪い?」
「口が悪い」
「ならば顔はどうだ」
「あら、顔を気にするなら、まずお髭を剃ったらどうでしょう」
「つれねぇなぁ……」
鞠をつくようにぽんぽんと、二人は言葉を交わす。
――と、その様子を、じっと見ている者が居た。
確か、十四になったばかりの少年である。
「ロクウじゃねえか。どうした、んな面で」
「お芋、食べたいのですか?」
サエバシと娘が問うが、少年は首を左右に振るばかりである。
二人と、それから芋を食う子供達を遠巻きに見ている少年の姿に、
「……あー」
合点が行ったか、サエバシが頷く。
「おめえに用だと、アケナシ」
「あら……」
少年は何も言わなかったが、首を振る事も無かった。
サエバシはただ、でかい手で顎を掻きながら、何も言えぬ少年の顔を見ているばかりである。
「ごめんね」
周りの子供達に一言詫び、アケナシは少年と歩いた。
暫く、無言を貫く少年の後ろを、アケナシは歩き続けた。
幾度か声は掛けたが、帰る返事は、くぐもっていて聞こえない。
そうしている内に、林の浅い所に着く。
少し行くと人が見えるが、向こうの声は、林の奏でる音に紛れて聞こえなくなる程の距離である。
林の音は、生き物の和合だ。
鳥が鳴くし、獣が動く。虫が葉を揺らして、地を這う。目を閉じて耳を澄ませば、奏でる音の全てが、生きている音と分かるのだ。
暫しアケナシは、目を閉じていた。
林の音に身を委ね、己と自然の境界にある、壁を取り払って立っていた。
これが、アケナシの業。
木々に溶け、風に溶け、林に溶ける、〝ただの立ち方〟。
そこにいるのに、いると思えぬ、夢姿。
そうした故など無い。
アケナシはただ、
「……心地良いですねぇ」
そう思ったから、浸っていただけなのだ。
少年もまた、暫し時を忘れていた。
目の前に、誰かが立っていると、その認識さえ無かった。
林を流れる空気の中に、指を遊ばせて、立っていただけなのである。
それが、やっと夢から覚める。
「あっ、あのっ!」
「あ……はい」
アケナシも、形を戻した。
少年は、たった一言を発した後、何も言えずに居た。
口を開こうとするが、声が出ないようであるのだ。
アケナシが近づこうとすると、顔を真っ赤にして引き下がる――それが暫し続いた後に、
「……ぁ、ぉ、お願いしますっ」
赤染めの紐を、懐から取り出した。
「えー……と、ん……――っ!?」
次に赤くなったのは、アケナシの方であった。
アカヒモ――〝里〟の成人の義の一つである。
己の血を染み込ませた紐を、意中の相手に渡す。渡された側が受け取れば、義は成立である。
端的に言えば、夢の中のまぐわいだ。
閨の〝やりかた〟を知らぬ子供を、身体は穢さぬまま、夢で作法を習わせる。相手役は、子供の側から打診は出来るが、既に誰かと夜を過ごした者に限られる。奇習と言えば奇習であるが、これが〝里〟の常道である。
少年は、そういうものを持って、震えていた。
受ける側は、断ることも出来る。夢の中の一夜とは言え、お前とは寝られぬと言われるのは――十四の少年には、辛かろう。
だが、アケナシもまた、何も言えずに居た。
赤くした顔を両手で多い、蹲って動かぬのである。
暫しはそのまま二人して固まって居た。
「ロ、ロクウ、あのね……?」
手の隙間からやっと目を覗かせ、アケナシは少年の中を呼ぶ。
それから、袂に手を入れた。
その手が取り出したは、赤く染まった紐であった。
「……だから、あの、受けられないの……」
消えいるような声で、アケナシは言った。
繰り返すが、アカヒモの義は、初めて夜を迎える子らを、年長者が導く義である。同じく、何も知らぬ者と紐を交わすのは許されていない。
少年はまず、うろたえた。それから言葉で取り繕おうとして――泣いた。
わあわあと泣くのではない。歯を食いしばって忍び泣いた。
「や、ちょっと、泣かないで……私がいたたまれないからっ」
アケナシが宥めるも、少年は日が傾くまでの間、鼻をすすり続けた。
「……はぁ」
「災難だったのぅ、全く」
それから、日が落ちて、代わりに月が昇った。
秋空の、良い月である。
虫の音は、昼間の林よりも賑やかに――然し耳に疎ましくはならぬ音色であった。
すすきが揺れて、影も揺れる。その中に鈴虫が、月明かりを受けて見え隠れしている。
ちょいと手を伸ばせば、捕まえられるだろう。
アケナシとサエバシは、そういう夜を歩いていた。
夜に里を抜けたは、都よりの早文が故である。
昨今、鬼が出るという。
端の寒村ではなく、都の真ん中にである。
しかもそれが、真昼間だというのだ。
白昼堂々と鬼が出て、それに人が気付かぬ内に、取って喰われる者が出たという。
殿上人さえも、喰われたという。
白昼の路上ともなると、退魔師里のものには、得手とせぬ戦地である。
偉業を狩る術を行使する、その姿もまた、偉業。
検非違使の手の者に、矢など射かけられては堪らぬ。
人の目の前で、知られぬままに。
なればこそ、アケナシであり、サエバシがゆくのであった。
「このままならば、朝方には着こう」
「宿は?」
「地図など頭に入れてあるわい」
巨体を存分に、ずっしりずしりと鳴らして、サエバシがアケナシの前を歩く。
野党も好んでは寄り来るまいという巨躯が、八尺は有ろうかという鉄杖を持って歩いている。
「鬼とは言いますが、どう見ます」
「はったりよ」
サエバシは、ただ一言で切り捨てる。
「西国を旅した時に幾らでも見たわ。人に紛れて斬りつける、鬼は鬼でも小鬼の類よ。夜では本物の鬼が怖うて、出ておれぬだけよ」
博識の男である。腕の利く寄せでもある。
日の本の、端から端まで渡り歩いたと豪語するだけはあり、人の知らぬような話ばかりをかき集めている。その中に、此度の事例と似たものも見つかったらしい。
「たんともったいぶって、難儀と言って、せしめて帰ろうかい」
「お土産の菓子が買えるくらいで良いですよ」
アケナシは、この男に、交渉ごとの殆ど全てを任せていた。
里の為に金は受け取らねばならぬが、アケナシは欲の薄い性質である。ともすれば己が必要なだけを取り、そのままに帰りかねない。
サエバシは寧ろ、欲が深すぎるきらいも有るが、際限は弁えているのであった。
西も東も、空は暗い。丁度今が、夜が最も濃い時間であるらしい。
天地が共に眠っていて、その間に人間が二人だけ取り残されているようであった。
言葉は少ない。
それで良い。
多くを語る程、知らぬ間柄でも無いのだ。
巨躯の後ろを、娘が着いて歩いた。
やがて、遠く向こうに篝火が見えるようになった時、サエバシが足を止めた。
「アヤカシですか」
アケナシは尋ねながら、得物の大挟を抜く。相手がアヤカシであろうが、盗賊の類であろうが、平等に有用な刃である。
「……おう」
強張った声で、サエバシは答えた。
秋の夜寒が、色を濃くした。
風も無いままに、冷気が流れてくるのである。
それは意思を持つかのように、地を這って、二人の足にまで届くのだ。
這い登る。
脚から背へ、首筋へ。
もはや問うまでもない。アヤカシの予兆であった。
月が雲間に消えて行った。
ざあぁ。
ざぁ。
始め、アケナシは、雨音かと思い、空を見た。
空は変わらず紫紺のままに、僅かに雲を被ったばかりである。
それより幾分も低いところから、その音はなって居た。
月に届かぬ低空が、罅割れ、翼を覗かせて居た。
「……っ!?」
ざあぁ。
ざぁ。
ひび割れた空から、雪崩出る、黒い鳥。
鴉。
群れを為した黒い翼が、打ち鳴らした羽を、アケナシは雨音と思ったのだ。
闇夜に黒が広がっていく。
見通せぬ闇は、人の恐るものである。
理知を得て、力を得ても、決して払えぬ根源的恐怖。
闇への畏れ。
夜。
翼を引き連れ、夜が来る。
それは唐車の中より、下界の住人を睥睨していた。
御簾の向こうに覗く白い肌、黒い髪。
濡れ羽鴉の黒を、その女は手に重ね、己の指に流して戯れていた。
膝には少女を抱いている。
髪を乱し、衣を乱した、あられもない姿の少女である。
女は、髪を梳く片手間に、少女を弄んでいた。
膝の上にうつ伏せにさせた少女の、首筋に指を置き、つつと背まで滑らせれば、少女は切なげな声を上げる。
高く通る声――猫の夜鳴きより幾分も甘い声。
言葉にならぬ喘ぎに耳を傾けると、もっと、と少女は強請っていた。
だが、少女がどれ程に先を求めようと、果てを望もうと、女がそれを与える事は無い。
ゆるゆると指を遊ばせ、時折耳を食み、何事か囁いて、芯に灯る熱を煽るばかりである。
そうしながら、女は、己の興をも煽っていた。
心地良しと、笑う。
喉奥からくつくつと、打ち鳴らすように笑う声は、ぞっとする程に艶やかで、おぞましい程に蠱惑的で――
「ツギが出おった……!」
サエバシが呻き、地に胡座を掻いた。
引く者も無く、唐車がゆく。
眷属の翼で空を黒に染め上げ、からからと。
都を目指しているのだ。
羽音に交じり、少女の啜り泣く声に交じり、
「誰ぞ」
問う声は針の如く、二人の足を縫い止めた。
コトツギノワタリ。
とどめてはならぬアヤカシ。
「……っ!」
サエバシは答えず、胡坐のまま、鉄杖をしゃんと鳴らして、両手を合わせた。
道のど真ん中である。
車が進めば、ぶつかる。
サエバシの巨躯であれば、巻き込む車輪が欠けもしよう。
車はゆかず、其処に在る。
「行かせてはならぬ」
サエバシが言う。
修験者が如き様相で、サエバシは何やら言の葉を舌に乗せる。
祈りでは無い、言葉である。
「さあさ、お立合い、お立合い!」
商売人が如き、口上であった。
「どんと構えた一石俵、十斗のマスの太鼓腹、どんと叩けばぐおうと唸る、髭をば弾かばびんと鳴る」
サエバシは、言葉で寄せる。
人もアヤカシも問わず、音調の中に交えた呪で引き寄せ、選り分ける。
「如何なる楽器か、さてお立合い。これなる楽器は天下の名物、飯を食わせりゃ自ら鳴らす! 酒を入れればなおさら良いよ、寝言ひょろろと笛を吹く!」
言葉に意味は無い。ただ、その揺らめきにこそ本質が有る。
サエバシが声を発した時、其処は既に、寄せの場となっているのだ。
「赤子泣かせばこれをば置いて、髭むく面が百面相! 効果覿面、たちどころ、泣く子も笑う、お立合い!」
耳を貸せば、術中である。
いつしか、アケナシが消えていた。
いや、其処には居るのだ。
歩いている。
然し、誰にも見えていない。
サエバシが人の目を寄せて、アケナシは夜に溶ける。
気配を霧の如く薄めて、アケナシは唐車の御簾を押し上げた。
黒衣の女が、そこに在った。
髪の長い女である。
己の髪を肩掛けにして、まだ余る端を、膝に抱く少女へ重ねて、肌を隠している。
女の髪に覆われた少女は、完全な裸形であるより、寧ろ扇情的である。
白肌に、口で吸った赤が差し、それが黒髪の隙間から覗いているのだ。
魅入られそうであった。
事実、アケナシは、得物を振り翳したまま、暫し動けずに居た。
この女がアヤカシか。
それは、夜霧の如くに立ちこめる妖気を思えば分かる事だ。
だが――美しい。
淫猥な添え物を膝に抱えて、自らはすました顔をしている女を、僅かにも美しいと思うてしまった。
それが、アヤカシの毒。
「動くな」
たった一言、アヤカシの女はそう言った。アケナシの手足は、岩の如く、動かなくなった。
呼吸以外の全てがままならぬアケナシの横を、女が通り過ぎ、路上に立つ。
傍らには、未だ衣を纏わぬ少女を携えていた。
「そこな下郎」
女はサエバシを足蹴にし、傲慢に満ちた声を浴びせた。
顔を踏みつけにして、睨むとも無く、嘲るとも無く、見下ろしているのである。
その目に、サエバシもまた縛られた。
寄せの身を真名で取り返す暇も無い。真名を握る主が動けぬのだ。
「賢しき事よ。我が道の上に座し、おうおうとけだものが如き声を上げて、自ら妨げとなるか」
ざあぁ。
ざぁ。
女の背に、翼が生えた。
いや、そう見えただけだ。
無数の鴉が、女の後ろに集まり、羽ばたいて、一対の翼と紛う姿になったのである。
嚇怒。
「此方を、誰と思うたか」
翼が、暴風と化した。
幾十か、幾百か、数えるも悍ましき黒羽が、サエバシの体に群がった。
「ぐっ、ぐむっ」
漸く喉ばかりが、縛りを解かれた。
女の、ほんの気紛れである。
「があっ、ああ、が、う」
もはや言葉では無い。
怪異を寄せる、呪を交えた言葉では無い。
サエバシは己の、本質からの声を発し、吠えていた。
啄まれ、肉が削がれ、骨が欠ける。
巨躯のサエバシは、常人の倍は肉が有る。
それだけ、群がる鴉の数も多かった。
「ぬがあぁっ、あ、が、ぎゃあぁっ」
四肢を振り回し、群がる鴉を払おうとする。
だが、顔を踏みつける女の足は、露程も揺らぎはしない。
一羽を叩けば、叩いたその手の、指を啄まれた。
一羽を蹴れば、蹴ったその足の、腱を啄まれた。
その内、半分程に減ったサエバシが、口から血を吹き出した。
ふしゅうっ、と吹き上がった血は、雨の如くその場に降り、女は己の眷属を傘として、その一滴も浴びず、唐車へと戻って行く。
「要らぬ手間を」
未だ動けぬアケナシの耳に、女が、そう言った。
「ミトリ、打ち捨てよ」
「ねえさま、取らないのです?」
「うむ」
裸形の少女にそう命じて、女は車の中、脇息に身を預けた。
「のう、そこな狩人よ」
動けぬまま。
然し、目も耳も働く。
アケナシは女を見、その声を聴いた。
「此方は、之より内裏へ向かう。此方を待つ姫が居る故にの。よってそなたは、今宵は要らぬ」
慈悲は持たぬ声である。動けぬまま、アケナシは――涙を流し、啜り泣いていた。
何時しか唐車の周囲には、有象無象のアヤカシが群れていた。
人のようなものも、そうでないものもいた。天を衝く巨体の鬼も居た。
蜘蛛も、蛇も、蜥蜴も、あらゆるアヤカシが集った。
「捨てろ」
「はいっ」
少女は、未だに動かぬアケナシの身を、唐車の外へ蹴り出した。
ついぞ声は上がらなかった。
そうして、見る者も無かった。
たった一人、この夜、理性を保っていた女の心は、既に内裏の姫を攫い、どう愛撫し鳴かせるかに有ったのである。
それから、幾月かが過ぎた。
秋が終わり、冬が来て、年が明けた。
里は変わらず、何も変わらぬ日々を繰り返していた。
諦めねば先へ進めぬ事を、皆が知っている。死を常に隣人として、折り合いを付けて生きているのが、この里の者であるのだ。
その日は皆で集まり、少量ながら餅をついていた。
都で鬼を払い、たんまりとせしめた者が、もち米も合わせて持ち帰ったのである。
どん。
どん。
力一杯に杵を振り下ろすと、臼が、がっしりとそれを受け止めた。
新しい年を祝うに、好ましい晴れの日であった。
椀に汁を注ぎ、小さく千切った餅を浮かべる。
良くついた餅は、歯にもさして引っ付かず、噛めばほんのりと甘味をかもす。
汁物は少し塩気が強いが、それも甘味を引き立たせる、年に一度の贅沢である。
この日は、憂さの全てを忘れられる。
そういう日の事であった。
ざわ、と風が騒ぐ。
風に乗る、人の声の色が変わる。
それは里の北から、南へと抜けていった。
ざりっ。
ざりっ。
何かを引きずる音が、里の真ん中を、広場へと向かって行く。
引きずられているのは、半ばから圧し折れた大鋏の片刃であった。
また片手には、襤褸布の包みであった。
包みの中には、とうに肉も腐り落ち、渇いて罅割れた骨が収まっている。
引いているのは、娘であった。
少女とも女とも分からぬ頃の。
何れとも呼べる頃の。
誰か、その娘の名を呼んだ。娘は答えず、歩いた。
見紛う筈も無い。
飾らずとも、手入れされていた髪は、鬼が如く振り乱されて。
目は幽鬼が如く虚ろに。
時折口から笑声を零すのだが、それも、奇怪な呻きにも聞こえる。
そして――娘の腹は、丸く膨らんでいた。
其処に居た、年嵩の女が、娘に駆け寄り、腹に耳を当てる。
とん、とん、と小さな、だが確かに打ち鳴らされる鼓にも似た音を、年嵩の女は聞き――顔を青くして後ずさった。
娘は何も見えぬかのように、椀で鍋の汁を掬い、啜り、餅を手で掴んで喰らうと、
「おっきくなろうねぇ」
優しく、己の腹を撫でた。
アケナシは、誰のとも知れぬ子を身籠っていた。
それからまた、季節が過ぎた。
里は空気を変えぬまま、春を迎えていた。
命の訪れる季節――雪が溶け、眠っていた草木が芽吹く。やがて花が開いて、虫がそれに遊び、何処へともなく飛んでゆくのだろう。
獣までが浮かれる季節。
閉ざした窓の内に、風が踊った。
里の端に、一つ、小屋が有った。
普段は、きちりと戸を閉めて、窓を閉ざしていたのだが、この日は風も心地良いので、僅かに戸を開けていた。
真新しい小屋だった。
建材の具合を見るに、一年も経ってはいないのだろう。
生木の臭いが残っているようにさえ思える。
隙間から外へ零れてくる空気も、その生木の香を含んでいたが――そればかりでは無い。
甘い、爛熟した、異質な香りが混じる。
それに引かれて、少年が一人、ふらふらと小屋に寄り、戸の隙間を覗いた。
暗い小屋の内に、誰がいるのか。
少年は、それを知っていた。
音を立てぬように、戸の隙間に体を割り込ませ、小屋の内へ入る少年。
暗く、甘い香の漂う空間は、その中で呼吸をするだけで、少年の頭を鷲掴みにし、揺さぶるようであった。
咽せる程に、濃い、女の匂い。
小屋の内にはたった一人、アケナシが座していた。
これは、誰だと。少年は呟き、問うていた。
知った顔だ。知った手足だ。
だが、知らぬ表情に、知らぬ香り。
あの娘は、こういう、唇を歪めるような笑い方をしなかった。薄っすらと弧を描いて、唇の端を持ち上げるだけだった。
誰だ。
あの娘は――
「ロクウ……?」
アケナシが、少年の名を呼ぶ。
いつかと変わらぬ、優しげな声音。
大きく膨らんだ腹を抱えて、アケナシは膝で歩き、少年に寄った。
少年は、魔に魅入られたが如く、動けずにいた。
寄るなとは、言えぬ。
恋い焦がれた女の顔なのだ。
動けぬ少年の前に、アケナシは手を差し出した。
何も言わず、手を出していた。
そうして、虚ろな目のままで笑うのである。
後退りする少年を、アケナシは追わない。だが、手は降ろさなかった。
渡せば良いと。
壊れた目が、少年に言っていた。
受けられるからと。
その時に少年は悟る。
狂気と正気は、並列して存在し得る。寧ろ、元より狂うているのが、この里ではないのか。
ただ、他よりも僅かに、狂気が膨れてしまった。
それがアケナシの、成れの果てなのだと。
少年は既に、アカヒモの儀を終えていた。少年より一回りも年嵩の、ふっくらした女が相手であった。
変わらぬ里だが、人は変わる。
アケナシも、変わり果てた。
だが、根を張っている奥底ばかりが、あの日から一歩と進んでいないのだ。
少年も、いつかの様に泣いた。
忍び泣きの音に割って、何か、呻きが聞こえた。
少年が顔を上げれば、アケナシが腹を抑え、床に蹲っていた。
苦しんでいる。
然し、笑っている。
けたたましい、おぞましい、人とも思えぬ、化鳥が如き笑声。
少年は小屋を出て、人を呼ぶ為に走った。
生まれたのは、女の子であった。
取り上げた産婆は青い顔をして、アケナシに、生まれたばかりの娘を渡した。
赤ん坊には眼球が無かった。
眼窩二つには、何処まで続くとも分からぬ闇が広がっているのである。
産声は母の笑声に似て、つんざくように高かった。
産後の疲労と痛みで朦朧としながら、アケナシは我が子を抱いた。
腕の中に、しっかと抱えて、
「あら、かわいい」
その頬に口付けをし、頬擦りをした。
眼球の無い赤子は、母の顔を見る時だけ、普通の赤子のように愛らしく笑うのであった。
生きている。
アヤカシの娘の体温は、人より少し高いように思えた。
春の日差しよりも、暖かかった。
花を吹き散らす風の中に、アケナシは我が子を抱いて歩み出て、
「――――――」
己だけの名で、その子を呼んだ。
揺らめく炎の中、枯葉の形が崩れてゆく。
赤や黄に染まった葉が、熱を浴び、その身の色を染み出させているようである。
色が混ざって、橙になる。
橙色の炎が、人の手に収まる広さで燃えている。
ざかっ。
炎を貫く、鋭い槍。
朽ちて重なり、燃える葉を刺して、
「お芋、焼けましたよ」
娘は枯葉の山の中から、丸々と太った芋を探り当てた。
わっ、と子供が寄り集まって、手に手に串を持ち、火の中に突き込んで行くのを、娘は静かに笑って眺めていた。
女とも、少女とも、何れとも呼び得る頃の娘である。
芋の灰を払い落とし、ふうふうと吹き冷ましながら籠に入れる様は、童にも見える。
芋を冷ましてかぶりつく子らを見る目は、母の如くにも見える。
だが、その何れでも無い。
歳の頃は十八、もうじき十九になるだろうか。
この里ならば、成人とも見なされよう。
童達と車座を作り、芋を喰む。
熱いと言って舌を出し、芋を吹き、或いは手で仰ぐ。
然し、そういう歳の娘のように、髪を飾ってはいない。背で一つに束ねるばかりで、簪一つも刺さない。
飾り気の無い娘である。
然し朴訥ではない。
唇は紅を差したように赤かった。
鍬や鎌を持ち、田畑に有るのが似合うだろう麻衣ながら、額やうなじにうっすらと汗を掻く時、娘は不思議と、歳を重ねて見えた。
月日が重なる事で、初めて生まれる美が有る。
木々の年輪、鍾乳洞、或いは波が削った海岸線。
二十年も生きぬ娘は、そういう女であった。
「また焼き芋か」
「砂糖がなくとも、甘みは楽しめます」
頬を軽く膨らませ、美味を楽しむ娘を呼ぶ声は、娘が背もたれにして居る木の上からであった。
「食べますか?」
「いらんわい。今日明日は腹を空にしておく」
「そんな、お腹空きますよ」
「さればこそ」
樹上からぬうっと顔を突き出したのは、随分とごつい男であった。
何せ、腕周りが子供の頭程もありそうな巨体なのだ。
胸も腹も、米俵の如し。筋肉を思う存分盛り付けて、その上に更に脂肪を乗せたような、正に巨漢である。
歳の頃は、娘よりは上に見えた。
「良いか、腹をかっ捌かれた時に、そこから飯やら糞やら零れて来てみろ。片付けに困るだろうが」
「サエバシ、また品の無い……」
娘が困ったような顔をする、その目の前に、サエバシはずん、と降り立った。
「そうか?」
「そうですよ。貴方がこうだから、ほら」
娘が、ぐるりと周りを指差す。
童は品の無い口振りを好むものである。サエバシの言葉にげらげらと、腹を抱えて笑っている。
「なに、品性など無くとも生きては行けようともよ」
「貴方はでしょう。この子達が真似をしたら困りますよ」
「何が悪い?」
「口が悪い」
「ならば顔はどうだ」
「あら、顔を気にするなら、まずお髭を剃ったらどうでしょう」
「つれねぇなぁ……」
鞠をつくようにぽんぽんと、二人は言葉を交わす。
――と、その様子を、じっと見ている者が居た。
確か、十四になったばかりの少年である。
「ロクウじゃねえか。どうした、んな面で」
「お芋、食べたいのですか?」
サエバシと娘が問うが、少年は首を左右に振るばかりである。
二人と、それから芋を食う子供達を遠巻きに見ている少年の姿に、
「……あー」
合点が行ったか、サエバシが頷く。
「おめえに用だと、アケナシ」
「あら……」
少年は何も言わなかったが、首を振る事も無かった。
サエバシはただ、でかい手で顎を掻きながら、何も言えぬ少年の顔を見ているばかりである。
「ごめんね」
周りの子供達に一言詫び、アケナシは少年と歩いた。
暫く、無言を貫く少年の後ろを、アケナシは歩き続けた。
幾度か声は掛けたが、帰る返事は、くぐもっていて聞こえない。
そうしている内に、林の浅い所に着く。
少し行くと人が見えるが、向こうの声は、林の奏でる音に紛れて聞こえなくなる程の距離である。
林の音は、生き物の和合だ。
鳥が鳴くし、獣が動く。虫が葉を揺らして、地を這う。目を閉じて耳を澄ませば、奏でる音の全てが、生きている音と分かるのだ。
暫しアケナシは、目を閉じていた。
林の音に身を委ね、己と自然の境界にある、壁を取り払って立っていた。
これが、アケナシの業。
木々に溶け、風に溶け、林に溶ける、〝ただの立ち方〟。
そこにいるのに、いると思えぬ、夢姿。
そうした故など無い。
アケナシはただ、
「……心地良いですねぇ」
そう思ったから、浸っていただけなのだ。
少年もまた、暫し時を忘れていた。
目の前に、誰かが立っていると、その認識さえ無かった。
林を流れる空気の中に、指を遊ばせて、立っていただけなのである。
それが、やっと夢から覚める。
「あっ、あのっ!」
「あ……はい」
アケナシも、形を戻した。
少年は、たった一言を発した後、何も言えずに居た。
口を開こうとするが、声が出ないようであるのだ。
アケナシが近づこうとすると、顔を真っ赤にして引き下がる――それが暫し続いた後に、
「……ぁ、ぉ、お願いしますっ」
赤染めの紐を、懐から取り出した。
「えー……と、ん……――っ!?」
次に赤くなったのは、アケナシの方であった。
アカヒモ――〝里〟の成人の義の一つである。
己の血を染み込ませた紐を、意中の相手に渡す。渡された側が受け取れば、義は成立である。
端的に言えば、夢の中のまぐわいだ。
閨の〝やりかた〟を知らぬ子供を、身体は穢さぬまま、夢で作法を習わせる。相手役は、子供の側から打診は出来るが、既に誰かと夜を過ごした者に限られる。奇習と言えば奇習であるが、これが〝里〟の常道である。
少年は、そういうものを持って、震えていた。
受ける側は、断ることも出来る。夢の中の一夜とは言え、お前とは寝られぬと言われるのは――十四の少年には、辛かろう。
だが、アケナシもまた、何も言えずに居た。
赤くした顔を両手で多い、蹲って動かぬのである。
暫しはそのまま二人して固まって居た。
「ロ、ロクウ、あのね……?」
手の隙間からやっと目を覗かせ、アケナシは少年の中を呼ぶ。
それから、袂に手を入れた。
その手が取り出したは、赤く染まった紐であった。
「……だから、あの、受けられないの……」
消えいるような声で、アケナシは言った。
繰り返すが、アカヒモの義は、初めて夜を迎える子らを、年長者が導く義である。同じく、何も知らぬ者と紐を交わすのは許されていない。
少年はまず、うろたえた。それから言葉で取り繕おうとして――泣いた。
わあわあと泣くのではない。歯を食いしばって忍び泣いた。
「や、ちょっと、泣かないで……私がいたたまれないからっ」
アケナシが宥めるも、少年は日が傾くまでの間、鼻をすすり続けた。
「……はぁ」
「災難だったのぅ、全く」
それから、日が落ちて、代わりに月が昇った。
秋空の、良い月である。
虫の音は、昼間の林よりも賑やかに――然し耳に疎ましくはならぬ音色であった。
すすきが揺れて、影も揺れる。その中に鈴虫が、月明かりを受けて見え隠れしている。
ちょいと手を伸ばせば、捕まえられるだろう。
アケナシとサエバシは、そういう夜を歩いていた。
夜に里を抜けたは、都よりの早文が故である。
昨今、鬼が出るという。
端の寒村ではなく、都の真ん中にである。
しかもそれが、真昼間だというのだ。
白昼堂々と鬼が出て、それに人が気付かぬ内に、取って喰われる者が出たという。
殿上人さえも、喰われたという。
白昼の路上ともなると、退魔師里のものには、得手とせぬ戦地である。
偉業を狩る術を行使する、その姿もまた、偉業。
検非違使の手の者に、矢など射かけられては堪らぬ。
人の目の前で、知られぬままに。
なればこそ、アケナシであり、サエバシがゆくのであった。
「このままならば、朝方には着こう」
「宿は?」
「地図など頭に入れてあるわい」
巨体を存分に、ずっしりずしりと鳴らして、サエバシがアケナシの前を歩く。
野党も好んでは寄り来るまいという巨躯が、八尺は有ろうかという鉄杖を持って歩いている。
「鬼とは言いますが、どう見ます」
「はったりよ」
サエバシは、ただ一言で切り捨てる。
「西国を旅した時に幾らでも見たわ。人に紛れて斬りつける、鬼は鬼でも小鬼の類よ。夜では本物の鬼が怖うて、出ておれぬだけよ」
博識の男である。腕の利く寄せでもある。
日の本の、端から端まで渡り歩いたと豪語するだけはあり、人の知らぬような話ばかりをかき集めている。その中に、此度の事例と似たものも見つかったらしい。
「たんともったいぶって、難儀と言って、せしめて帰ろうかい」
「お土産の菓子が買えるくらいで良いですよ」
アケナシは、この男に、交渉ごとの殆ど全てを任せていた。
里の為に金は受け取らねばならぬが、アケナシは欲の薄い性質である。ともすれば己が必要なだけを取り、そのままに帰りかねない。
サエバシは寧ろ、欲が深すぎるきらいも有るが、際限は弁えているのであった。
西も東も、空は暗い。丁度今が、夜が最も濃い時間であるらしい。
天地が共に眠っていて、その間に人間が二人だけ取り残されているようであった。
言葉は少ない。
それで良い。
多くを語る程、知らぬ間柄でも無いのだ。
巨躯の後ろを、娘が着いて歩いた。
やがて、遠く向こうに篝火が見えるようになった時、サエバシが足を止めた。
「アヤカシですか」
アケナシは尋ねながら、得物の大挟を抜く。相手がアヤカシであろうが、盗賊の類であろうが、平等に有用な刃である。
「……おう」
強張った声で、サエバシは答えた。
秋の夜寒が、色を濃くした。
風も無いままに、冷気が流れてくるのである。
それは意思を持つかのように、地を這って、二人の足にまで届くのだ。
這い登る。
脚から背へ、首筋へ。
もはや問うまでもない。アヤカシの予兆であった。
月が雲間に消えて行った。
ざあぁ。
ざぁ。
始め、アケナシは、雨音かと思い、空を見た。
空は変わらず紫紺のままに、僅かに雲を被ったばかりである。
それより幾分も低いところから、その音はなって居た。
月に届かぬ低空が、罅割れ、翼を覗かせて居た。
「……っ!?」
ざあぁ。
ざぁ。
ひび割れた空から、雪崩出る、黒い鳥。
鴉。
群れを為した黒い翼が、打ち鳴らした羽を、アケナシは雨音と思ったのだ。
闇夜に黒が広がっていく。
見通せぬ闇は、人の恐るものである。
理知を得て、力を得ても、決して払えぬ根源的恐怖。
闇への畏れ。
夜。
翼を引き連れ、夜が来る。
それは唐車の中より、下界の住人を睥睨していた。
御簾の向こうに覗く白い肌、黒い髪。
濡れ羽鴉の黒を、その女は手に重ね、己の指に流して戯れていた。
膝には少女を抱いている。
髪を乱し、衣を乱した、あられもない姿の少女である。
女は、髪を梳く片手間に、少女を弄んでいた。
膝の上にうつ伏せにさせた少女の、首筋に指を置き、つつと背まで滑らせれば、少女は切なげな声を上げる。
高く通る声――猫の夜鳴きより幾分も甘い声。
言葉にならぬ喘ぎに耳を傾けると、もっと、と少女は強請っていた。
だが、少女がどれ程に先を求めようと、果てを望もうと、女がそれを与える事は無い。
ゆるゆると指を遊ばせ、時折耳を食み、何事か囁いて、芯に灯る熱を煽るばかりである。
そうしながら、女は、己の興をも煽っていた。
心地良しと、笑う。
喉奥からくつくつと、打ち鳴らすように笑う声は、ぞっとする程に艶やかで、おぞましい程に蠱惑的で――
「ツギが出おった……!」
サエバシが呻き、地に胡座を掻いた。
引く者も無く、唐車がゆく。
眷属の翼で空を黒に染め上げ、からからと。
都を目指しているのだ。
羽音に交じり、少女の啜り泣く声に交じり、
「誰ぞ」
問う声は針の如く、二人の足を縫い止めた。
コトツギノワタリ。
とどめてはならぬアヤカシ。
「……っ!」
サエバシは答えず、胡坐のまま、鉄杖をしゃんと鳴らして、両手を合わせた。
道のど真ん中である。
車が進めば、ぶつかる。
サエバシの巨躯であれば、巻き込む車輪が欠けもしよう。
車はゆかず、其処に在る。
「行かせてはならぬ」
サエバシが言う。
修験者が如き様相で、サエバシは何やら言の葉を舌に乗せる。
祈りでは無い、言葉である。
「さあさ、お立合い、お立合い!」
商売人が如き、口上であった。
「どんと構えた一石俵、十斗のマスの太鼓腹、どんと叩けばぐおうと唸る、髭をば弾かばびんと鳴る」
サエバシは、言葉で寄せる。
人もアヤカシも問わず、音調の中に交えた呪で引き寄せ、選り分ける。
「如何なる楽器か、さてお立合い。これなる楽器は天下の名物、飯を食わせりゃ自ら鳴らす! 酒を入れればなおさら良いよ、寝言ひょろろと笛を吹く!」
言葉に意味は無い。ただ、その揺らめきにこそ本質が有る。
サエバシが声を発した時、其処は既に、寄せの場となっているのだ。
「赤子泣かせばこれをば置いて、髭むく面が百面相! 効果覿面、たちどころ、泣く子も笑う、お立合い!」
耳を貸せば、術中である。
いつしか、アケナシが消えていた。
いや、其処には居るのだ。
歩いている。
然し、誰にも見えていない。
サエバシが人の目を寄せて、アケナシは夜に溶ける。
気配を霧の如く薄めて、アケナシは唐車の御簾を押し上げた。
黒衣の女が、そこに在った。
髪の長い女である。
己の髪を肩掛けにして、まだ余る端を、膝に抱く少女へ重ねて、肌を隠している。
女の髪に覆われた少女は、完全な裸形であるより、寧ろ扇情的である。
白肌に、口で吸った赤が差し、それが黒髪の隙間から覗いているのだ。
魅入られそうであった。
事実、アケナシは、得物を振り翳したまま、暫し動けずに居た。
この女がアヤカシか。
それは、夜霧の如くに立ちこめる妖気を思えば分かる事だ。
だが――美しい。
淫猥な添え物を膝に抱えて、自らはすました顔をしている女を、僅かにも美しいと思うてしまった。
それが、アヤカシの毒。
「動くな」
たった一言、アヤカシの女はそう言った。アケナシの手足は、岩の如く、動かなくなった。
呼吸以外の全てがままならぬアケナシの横を、女が通り過ぎ、路上に立つ。
傍らには、未だ衣を纏わぬ少女を携えていた。
「そこな下郎」
女はサエバシを足蹴にし、傲慢に満ちた声を浴びせた。
顔を踏みつけにして、睨むとも無く、嘲るとも無く、見下ろしているのである。
その目に、サエバシもまた縛られた。
寄せの身を真名で取り返す暇も無い。真名を握る主が動けぬのだ。
「賢しき事よ。我が道の上に座し、おうおうとけだものが如き声を上げて、自ら妨げとなるか」
ざあぁ。
ざぁ。
女の背に、翼が生えた。
いや、そう見えただけだ。
無数の鴉が、女の後ろに集まり、羽ばたいて、一対の翼と紛う姿になったのである。
嚇怒。
「此方を、誰と思うたか」
翼が、暴風と化した。
幾十か、幾百か、数えるも悍ましき黒羽が、サエバシの体に群がった。
「ぐっ、ぐむっ」
漸く喉ばかりが、縛りを解かれた。
女の、ほんの気紛れである。
「があっ、ああ、が、う」
もはや言葉では無い。
怪異を寄せる、呪を交えた言葉では無い。
サエバシは己の、本質からの声を発し、吠えていた。
啄まれ、肉が削がれ、骨が欠ける。
巨躯のサエバシは、常人の倍は肉が有る。
それだけ、群がる鴉の数も多かった。
「ぬがあぁっ、あ、が、ぎゃあぁっ」
四肢を振り回し、群がる鴉を払おうとする。
だが、顔を踏みつける女の足は、露程も揺らぎはしない。
一羽を叩けば、叩いたその手の、指を啄まれた。
一羽を蹴れば、蹴ったその足の、腱を啄まれた。
その内、半分程に減ったサエバシが、口から血を吹き出した。
ふしゅうっ、と吹き上がった血は、雨の如くその場に降り、女は己の眷属を傘として、その一滴も浴びず、唐車へと戻って行く。
「要らぬ手間を」
未だ動けぬアケナシの耳に、女が、そう言った。
「ミトリ、打ち捨てよ」
「ねえさま、取らないのです?」
「うむ」
裸形の少女にそう命じて、女は車の中、脇息に身を預けた。
「のう、そこな狩人よ」
動けぬまま。
然し、目も耳も働く。
アケナシは女を見、その声を聴いた。
「此方は、之より内裏へ向かう。此方を待つ姫が居る故にの。よってそなたは、今宵は要らぬ」
慈悲は持たぬ声である。動けぬまま、アケナシは――涙を流し、啜り泣いていた。
何時しか唐車の周囲には、有象無象のアヤカシが群れていた。
人のようなものも、そうでないものもいた。天を衝く巨体の鬼も居た。
蜘蛛も、蛇も、蜥蜴も、あらゆるアヤカシが集った。
「捨てろ」
「はいっ」
少女は、未だに動かぬアケナシの身を、唐車の外へ蹴り出した。
ついぞ声は上がらなかった。
そうして、見る者も無かった。
たった一人、この夜、理性を保っていた女の心は、既に内裏の姫を攫い、どう愛撫し鳴かせるかに有ったのである。
それから、幾月かが過ぎた。
秋が終わり、冬が来て、年が明けた。
里は変わらず、何も変わらぬ日々を繰り返していた。
諦めねば先へ進めぬ事を、皆が知っている。死を常に隣人として、折り合いを付けて生きているのが、この里の者であるのだ。
その日は皆で集まり、少量ながら餅をついていた。
都で鬼を払い、たんまりとせしめた者が、もち米も合わせて持ち帰ったのである。
どん。
どん。
力一杯に杵を振り下ろすと、臼が、がっしりとそれを受け止めた。
新しい年を祝うに、好ましい晴れの日であった。
椀に汁を注ぎ、小さく千切った餅を浮かべる。
良くついた餅は、歯にもさして引っ付かず、噛めばほんのりと甘味をかもす。
汁物は少し塩気が強いが、それも甘味を引き立たせる、年に一度の贅沢である。
この日は、憂さの全てを忘れられる。
そういう日の事であった。
ざわ、と風が騒ぐ。
風に乗る、人の声の色が変わる。
それは里の北から、南へと抜けていった。
ざりっ。
ざりっ。
何かを引きずる音が、里の真ん中を、広場へと向かって行く。
引きずられているのは、半ばから圧し折れた大鋏の片刃であった。
また片手には、襤褸布の包みであった。
包みの中には、とうに肉も腐り落ち、渇いて罅割れた骨が収まっている。
引いているのは、娘であった。
少女とも女とも分からぬ頃の。
何れとも呼べる頃の。
誰か、その娘の名を呼んだ。娘は答えず、歩いた。
見紛う筈も無い。
飾らずとも、手入れされていた髪は、鬼が如く振り乱されて。
目は幽鬼が如く虚ろに。
時折口から笑声を零すのだが、それも、奇怪な呻きにも聞こえる。
そして――娘の腹は、丸く膨らんでいた。
其処に居た、年嵩の女が、娘に駆け寄り、腹に耳を当てる。
とん、とん、と小さな、だが確かに打ち鳴らされる鼓にも似た音を、年嵩の女は聞き――顔を青くして後ずさった。
娘は何も見えぬかのように、椀で鍋の汁を掬い、啜り、餅を手で掴んで喰らうと、
「おっきくなろうねぇ」
優しく、己の腹を撫でた。
アケナシは、誰のとも知れぬ子を身籠っていた。
それからまた、季節が過ぎた。
里は空気を変えぬまま、春を迎えていた。
命の訪れる季節――雪が溶け、眠っていた草木が芽吹く。やがて花が開いて、虫がそれに遊び、何処へともなく飛んでゆくのだろう。
獣までが浮かれる季節。
閉ざした窓の内に、風が踊った。
里の端に、一つ、小屋が有った。
普段は、きちりと戸を閉めて、窓を閉ざしていたのだが、この日は風も心地良いので、僅かに戸を開けていた。
真新しい小屋だった。
建材の具合を見るに、一年も経ってはいないのだろう。
生木の臭いが残っているようにさえ思える。
隙間から外へ零れてくる空気も、その生木の香を含んでいたが――そればかりでは無い。
甘い、爛熟した、異質な香りが混じる。
それに引かれて、少年が一人、ふらふらと小屋に寄り、戸の隙間を覗いた。
暗い小屋の内に、誰がいるのか。
少年は、それを知っていた。
音を立てぬように、戸の隙間に体を割り込ませ、小屋の内へ入る少年。
暗く、甘い香の漂う空間は、その中で呼吸をするだけで、少年の頭を鷲掴みにし、揺さぶるようであった。
咽せる程に、濃い、女の匂い。
小屋の内にはたった一人、アケナシが座していた。
これは、誰だと。少年は呟き、問うていた。
知った顔だ。知った手足だ。
だが、知らぬ表情に、知らぬ香り。
あの娘は、こういう、唇を歪めるような笑い方をしなかった。薄っすらと弧を描いて、唇の端を持ち上げるだけだった。
誰だ。
あの娘は――
「ロクウ……?」
アケナシが、少年の名を呼ぶ。
いつかと変わらぬ、優しげな声音。
大きく膨らんだ腹を抱えて、アケナシは膝で歩き、少年に寄った。
少年は、魔に魅入られたが如く、動けずにいた。
寄るなとは、言えぬ。
恋い焦がれた女の顔なのだ。
動けぬ少年の前に、アケナシは手を差し出した。
何も言わず、手を出していた。
そうして、虚ろな目のままで笑うのである。
後退りする少年を、アケナシは追わない。だが、手は降ろさなかった。
渡せば良いと。
壊れた目が、少年に言っていた。
受けられるからと。
その時に少年は悟る。
狂気と正気は、並列して存在し得る。寧ろ、元より狂うているのが、この里ではないのか。
ただ、他よりも僅かに、狂気が膨れてしまった。
それがアケナシの、成れの果てなのだと。
少年は既に、アカヒモの儀を終えていた。少年より一回りも年嵩の、ふっくらした女が相手であった。
変わらぬ里だが、人は変わる。
アケナシも、変わり果てた。
だが、根を張っている奥底ばかりが、あの日から一歩と進んでいないのだ。
少年も、いつかの様に泣いた。
忍び泣きの音に割って、何か、呻きが聞こえた。
少年が顔を上げれば、アケナシが腹を抑え、床に蹲っていた。
苦しんでいる。
然し、笑っている。
けたたましい、おぞましい、人とも思えぬ、化鳥が如き笑声。
少年は小屋を出て、人を呼ぶ為に走った。
生まれたのは、女の子であった。
取り上げた産婆は青い顔をして、アケナシに、生まれたばかりの娘を渡した。
赤ん坊には眼球が無かった。
眼窩二つには、何処まで続くとも分からぬ闇が広がっているのである。
産声は母の笑声に似て、つんざくように高かった。
産後の疲労と痛みで朦朧としながら、アケナシは我が子を抱いた。
腕の中に、しっかと抱えて、
「あら、かわいい」
その頬に口付けをし、頬擦りをした。
眼球の無い赤子は、母の顔を見る時だけ、普通の赤子のように愛らしく笑うのであった。
生きている。
アヤカシの娘の体温は、人より少し高いように思えた。
春の日差しよりも、暖かかった。
花を吹き散らす風の中に、アケナシは我が子を抱いて歩み出て、
「――――――」
己だけの名で、その子を呼んだ。