烏が鳴くから
帰りましょ

明無、朱為

 火の粉が散っている。
 揺らめく炎の中、枯葉の形が崩れてゆく。
 赤や黄に染まった葉が、熱を浴び、その身の色を染み出させているようである。
 色が混ざって、橙になる。
 橙色の炎が、人の手に収まる広さで燃えている。
 ざかっ。
 炎を貫く、鋭い槍。
 朽ちて重なり、燃える葉を刺して、

「お芋、焼けましたよ」

 娘は枯葉の山の中から、丸々と太った芋を探り当てた。
 わっ、と子供が寄り集まって、手に手に串を持ち、火の中に突き込んで行くのを、娘は静かに笑って眺めていた。
 女とも、少女とも、何れとも呼び得る頃の娘である。
 芋の灰を払い落とし、ふうふうと吹き冷ましながら籠に入れる様は、童にも見える。
 芋を冷ましてかぶりつく子らを見る目は、母の如くにも見える。
 だが、その何れでも無い。
 歳の頃は十八、もうじき十九になるだろうか。
 この里ならば、成人とも見なされよう。
 童達と車座を作り、芋を喰む。
 熱いと言って舌を出し、芋を吹き、或いは手で仰ぐ。
 然し、そういう歳の娘のように、髪を飾ってはいない。背で一つに束ねるばかりで、簪一つも刺さない。
 飾り気の無い娘である。
 然し朴訥ではない。
 唇は紅を差したように赤かった。
 鍬や鎌を持ち、田畑に有るのが似合うだろう麻衣ながら、額やうなじにうっすらと汗を掻く時、娘は不思議と、歳を重ねて見えた。
 月日が重なる事で、初めて生まれる美が有る。
 木々の年輪、鍾乳洞、或いは波が削った海岸線。
 二十年も生きぬ娘は、そういう女であった。

「また焼き芋か」

「砂糖がなくとも、甘みは楽しめます」

 頬を軽く膨らませ、美味を楽しむ娘を呼ぶ声は、娘が背もたれにして居る木の上からであった。

「食べますか?」

「いらんわい。今日明日は腹を空にしておく」

「そんな、お腹空きますよ」

「さればこそ」

 樹上からぬうっと顔を突き出したのは、随分とごつい男であった。
 何せ、腕周りが子供の頭程もありそうな巨体なのだ。
 胸も腹も、米俵の如し。筋肉を思う存分盛り付けて、その上に更に脂肪を乗せたような、正に巨漢である。
 歳の頃は、娘よりは上に見えた。

「良いか、腹をかっ捌かれた時に、そこから飯やら糞やら零れて来てみろ。片付けに困るだろうが」

「サエバシ、また品の無い……」

 娘が困ったような顔をする、その目の前に、サエバシはずん、と降り立った。

「そうか?」

「そうですよ。貴方がこうだから、ほら」

 娘が、ぐるりと周りを指差す。
 童は品の無い口振りを好むものである。サエバシの言葉にげらげらと、腹を抱えて笑っている。

「なに、品性など無くとも生きては行けようともよ」

「貴方はでしょう。この子達が真似をしたら困りますよ」

「何が悪い?」

「口が悪い」

「ならば顔はどうだ」

「あら、顔を気にするなら、まずお髭を剃ったらどうでしょう」

「つれねぇなぁ……」

 鞠をつくようにぽんぽんと、二人は言葉を交わす。
 ――と、その様子を、じっと見ている者が居た。
 確か、十四になったばかりの少年である。

「ロクウじゃねえか。どうした、んな面で」

「お芋、食べたいのですか?」

 サエバシと娘が問うが、少年は首を左右に振るばかりである。
 二人と、それから芋を食う子供達を遠巻きに見ている少年の姿に、

「……あー」

 合点が行ったか、サエバシが頷く。

「おめえに用だと、アケナシ」

「あら……」

 少年は何も言わなかったが、首を振る事も無かった。
 サエバシはただ、でかい手で顎を掻きながら、何も言えぬ少年の顔を見ているばかりである。

「ごめんね」

 周りの子供達に一言詫び、アケナシは少年と歩いた。
 暫く、無言を貫く少年の後ろを、アケナシは歩き続けた。
 幾度か声は掛けたが、帰る返事は、くぐもっていて聞こえない。
 そうしている内に、林の浅い所に着く。
 少し行くと人が見えるが、向こうの声は、林の奏でる音に紛れて聞こえなくなる程の距離である。
 林の音は、生き物の和合だ。
 鳥が鳴くし、獣が動く。虫が葉を揺らして、地を這う。目を閉じて耳を澄ませば、奏でる音の全てが、生きている音と分かるのだ。
 暫しアケナシは、目を閉じていた。
 林の音に身を委ね、己と自然の境界にある、壁を取り払って立っていた。
 これが、アケナシの業。
 木々に溶け、風に溶け、林に溶ける、〝ただの立ち方〟。
 そこにいるのに、いると思えぬ、夢姿。
 そうした故など無い。
 アケナシはただ、

「……心地良いですねぇ」

 そう思ったから、浸っていただけなのだ。
 少年もまた、暫し時を忘れていた。
 目の前に、誰かが立っていると、その認識さえ無かった。
 林を流れる空気の中に、指を遊ばせて、立っていただけなのである。
 それが、やっと夢から覚める。

「あっ、あのっ!」

「あ……はい」

 アケナシも、形を戻した。
 少年は、たった一言を発した後、何も言えずに居た。
 口を開こうとするが、声が出ないようであるのだ。
 アケナシが近づこうとすると、顔を真っ赤にして引き下がる――それが暫し続いた後に、

「……ぁ、ぉ、お願いしますっ」

 赤染めの紐を、懐から取り出した。

「えー……と、ん……――っ!?」

 次に赤くなったのは、アケナシの方であった。
 アカヒモ――〝里〟の成人の義の一つである。
 己の血を染み込ませた紐を、意中の相手に渡す。渡された側が受け取れば、義は成立である。
 端的に言えば、夢の中のまぐわいだ。
 閨の〝やりかた〟を知らぬ子供を、身体は穢さぬまま、夢で作法を習わせる。相手役は、子供の側から打診は出来るが、既に誰かと夜を過ごした者に限られる。奇習と言えば奇習であるが、これが〝里〟の常道である。
 少年は、そういうものを持って、震えていた。
 受ける側は、断ることも出来る。夢の中の一夜とは言え、お前とは寝られぬと言われるのは――十四の少年には、辛かろう。
 だが、アケナシもまた、何も言えずに居た。
 赤くした顔を両手で多い、蹲って動かぬのである。
 暫しはそのまま二人して固まって居た。

「ロ、ロクウ、あのね……?」

 手の隙間からやっと目を覗かせ、アケナシは少年の中を呼ぶ。
 それから、袂に手を入れた。
 その手が取り出したは、赤く染まった紐であった。

「……だから、あの、受けられないの……」

 消えいるような声で、アケナシは言った。
 繰り返すが、アカヒモの義は、初めて夜を迎える子らを、年長者が導く義である。同じく、何も知らぬ者と紐を交わすのは許されていない。
 少年はまず、うろたえた。それから言葉で取り繕おうとして――泣いた。
 わあわあと泣くのではない。歯を食いしばって忍び泣いた。

「や、ちょっと、泣かないで……私がいたたまれないからっ」

 アケナシが宥めるも、少年は日が傾くまでの間、鼻をすすり続けた。





「……はぁ」

「災難だったのぅ、全く」

 それから、日が落ちて、代わりに月が昇った。
 秋空の、良い月である。
 虫の音は、昼間の林よりも賑やかに――然し耳に疎ましくはならぬ音色であった。
 すすきが揺れて、影も揺れる。その中に鈴虫が、月明かりを受けて見え隠れしている。
 ちょいと手を伸ばせば、捕まえられるだろう。
 アケナシとサエバシは、そういう夜を歩いていた。
 夜に里を抜けたは、都よりの早文が故である。
 昨今、鬼が出るという。
 端の寒村ではなく、都の真ん中にである。
 しかもそれが、真昼間だというのだ。
 白昼堂々と鬼が出て、それに人が気付かぬ内に、取って喰われる者が出たという。
 殿上人さえも、喰われたという。
 白昼の路上ともなると、退魔師里のものには、得手とせぬ戦地である。
 偉業を狩る術を行使する、その姿もまた、偉業。
 検非違使の手の者に、矢など射かけられては堪らぬ。
 人の目の前で、知られぬままに。
 なればこそ、アケナシであり、サエバシがゆくのであった。

「このままならば、朝方には着こう」

「宿は?」

「地図など頭に入れてあるわい」

 巨体を存分に、ずっしりずしりと鳴らして、サエバシがアケナシの前を歩く。
 野党も好んでは寄り来るまいという巨躯が、八尺は有ろうかという鉄杖を持って歩いている。

「鬼とは言いますが、どう見ます」

「はったりよ」

 サエバシは、ただ一言で切り捨てる。

「西国を旅した時に幾らでも見たわ。人に紛れて斬りつける、鬼は鬼でも小鬼の類よ。夜では本物の鬼が怖うて、出ておれぬだけよ」

 博識の男である。腕の利く寄せでもある。
 日の本の、端から端まで渡り歩いたと豪語するだけはあり、人の知らぬような話ばかりをかき集めている。その中に、此度の事例と似たものも見つかったらしい。

「たんともったいぶって、難儀と言って、せしめて帰ろうかい」

「お土産の菓子が買えるくらいで良いですよ」

 アケナシは、この男に、交渉ごとの殆ど全てを任せていた。
 里の為に金は受け取らねばならぬが、アケナシは欲の薄い性質である。ともすれば己が必要なだけを取り、そのままに帰りかねない。
 サエバシは寧ろ、欲が深すぎるきらいも有るが、際限は弁えているのであった。
 西も東も、空は暗い。丁度今が、夜が最も濃い時間であるらしい。
 天地が共に眠っていて、その間に人間が二人だけ取り残されているようであった。
 言葉は少ない。
 それで良い。
 多くを語る程、知らぬ間柄でも無いのだ。
 巨躯の後ろを、娘が着いて歩いた。
 やがて、遠く向こうに篝火が見えるようになった時、サエバシが足を止めた。

「アヤカシですか」

 アケナシは尋ねながら、得物の大挟を抜く。相手がアヤカシであろうが、盗賊の類であろうが、平等に有用な刃である。

「……おう」

 強張った声で、サエバシは答えた。
 秋の夜寒が、色を濃くした。
 風も無いままに、冷気が流れてくるのである。
 それは意思を持つかのように、地を這って、二人の足にまで届くのだ。
 這い登る。
 脚から背へ、首筋へ。
 もはや問うまでもない。アヤカシの予兆であった。
 月が雲間に消えて行った。
 ざあぁ。
 ざぁ。
 始め、アケナシは、雨音かと思い、空を見た。
 空は変わらず紫紺のままに、僅かに雲を被ったばかりである。
 それより幾分も低いところから、その音はなって居た。
 月に届かぬ低空が、罅割れ、翼を覗かせて居た。

「……っ!?」
 ざあぁ。
 ざぁ。
 ひび割れた空から、雪崩出る、黒い鳥。
 鴉。
 群れを為した黒い翼が、打ち鳴らした羽を、アケナシは雨音と思ったのだ。
 闇夜に黒が広がっていく。
 見通せぬ闇は、人の恐るものである。
 理知を得て、力を得ても、決して払えぬ根源的恐怖。
 闇への畏れ。
 夜。
 翼を引き連れ、夜が来る。
 それは唐車の中より、下界の住人を睥睨していた。
 御簾の向こうに覗く白い肌、黒い髪。
 濡れ羽鴉の黒を、その女は手に重ね、己の指に流して戯れていた。
 膝には少女を抱いている。
 髪を乱し、衣を乱した、あられもない姿の少女である。
 女は、髪を梳く片手間に、少女を弄んでいた。
 膝の上にうつ伏せにさせた少女の、首筋に指を置き、つつと背まで滑らせれば、少女は切なげな声を上げる。
 高く通る声――猫の夜鳴きより幾分も甘い声。
 言葉にならぬ喘ぎに耳を傾けると、もっと、と少女は強請っていた。
 だが、少女がどれ程に先を求めようと、果てを望もうと、女がそれを与える事は無い。
 ゆるゆると指を遊ばせ、時折耳を食み、何事か囁いて、芯に灯る熱を煽るばかりである。
 そうしながら、女は、己の興をも煽っていた。
 心地良しと、笑う。
 喉奥からくつくつと、打ち鳴らすように笑う声は、ぞっとする程に艶やかで、おぞましい程に蠱惑的で――

「ツギが出おった……!」

 サエバシが呻き、地に胡座を掻いた。
 引く者も無く、唐車がゆく。
 眷属の翼で空を黒に染め上げ、からからと。
 都を目指しているのだ。
 羽音に交じり、少女の啜り泣く声に交じり、

「誰ぞ」

 問う声は針の如く、二人の足を縫い止めた。
 コトツギノワタリ。
 とどめてはならぬアヤカシ。

「……っ!」

 サエバシは答えず、胡坐のまま、鉄杖をしゃんと鳴らして、両手を合わせた。
道のど真ん中である。
 車が進めば、ぶつかる。
 サエバシの巨躯であれば、巻き込む車輪が欠けもしよう。
 車はゆかず、其処に在る。

「行かせてはならぬ」

 サエバシが言う。
 修験者が如き様相で、サエバシは何やら言の葉を舌に乗せる。
 祈りでは無い、言葉である。

「さあさ、お立合い、お立合い!」

 商売人が如き、口上であった。

「どんと構えた一石俵、十斗のマスの太鼓腹、どんと叩けばぐおうと唸る、髭をば弾かばびんと鳴る」

 サエバシは、言葉で寄せる。
 人もアヤカシも問わず、音調の中に交えた呪で引き寄せ、選り分ける。

「如何なる楽器か、さてお立合い。これなる楽器は天下の名物、飯を食わせりゃ自ら鳴らす! 酒を入れればなおさら良いよ、寝言ひょろろと笛を吹く!」

 言葉に意味は無い。ただ、その揺らめきにこそ本質が有る。
 サエバシが声を発した時、其処は既に、寄せの場となっているのだ。

「赤子泣かせばこれをば置いて、髭むく面が百面相! 効果覿面、たちどころ、泣く子も笑う、お立合い!」

 耳を貸せば、術中である。
 いつしか、アケナシが消えていた。
 いや、其処には居るのだ。
 歩いている。
 然し、誰にも見えていない。
 サエバシが人の目を寄せて、アケナシは夜に溶ける。
 気配を霧の如く薄めて、アケナシは唐車の御簾を押し上げた。
 黒衣の女が、そこに在った。
 髪の長い女である。
 己の髪を肩掛けにして、まだ余る端を、膝に抱く少女へ重ねて、肌を隠している。
 女の髪に覆われた少女は、完全な裸形であるより、寧ろ扇情的である。
 白肌に、口で吸った赤が差し、それが黒髪の隙間から覗いているのだ。
 魅入られそうであった。
 事実、アケナシは、得物を振り翳したまま、暫し動けずに居た。
 この女がアヤカシか。
 それは、夜霧の如くに立ちこめる妖気を思えば分かる事だ。
 だが――美しい。
 淫猥な添え物を膝に抱えて、自らはすました顔をしている女を、僅かにも美しいと思うてしまった。
 それが、アヤカシの毒。

「動くな」

 たった一言、アヤカシの女はそう言った。アケナシの手足は、岩の如く、動かなくなった。
 呼吸以外の全てがままならぬアケナシの横を、女が通り過ぎ、路上に立つ。
 傍らには、未だ衣を纏わぬ少女を携えていた。

「そこな下郎」

 女はサエバシを足蹴にし、傲慢に満ちた声を浴びせた。
 顔を踏みつけにして、睨むとも無く、嘲るとも無く、見下ろしているのである。
 その目に、サエバシもまた縛られた。
 寄せの身を真名で取り返す暇も無い。真名を握る主が動けぬのだ。

「賢しき事よ。我が道の上に座し、おうおうとけだものが如き声を上げて、自ら妨げとなるか」

 ざあぁ。
 ざぁ。
 女の背に、翼が生えた。
 いや、そう見えただけだ。
 無数の鴉が、女の後ろに集まり、羽ばたいて、一対の翼と紛う姿になったのである。
 嚇怒。

「此方を、誰と思うたか」

 翼が、暴風と化した。
 幾十か、幾百か、数えるも悍ましき黒羽が、サエバシの体に群がった。

「ぐっ、ぐむっ」

 漸く喉ばかりが、縛りを解かれた。
 女の、ほんの気紛れである。

「があっ、ああ、が、う」

 もはや言葉では無い。
 怪異を寄せる、呪を交えた言葉では無い。
 サエバシは己の、本質からの声を発し、吠えていた。
 啄まれ、肉が削がれ、骨が欠ける。
 巨躯のサエバシは、常人の倍は肉が有る。
 それだけ、群がる鴉の数も多かった。

「ぬがあぁっ、あ、が、ぎゃあぁっ」

 四肢を振り回し、群がる鴉を払おうとする。
 だが、顔を踏みつける女の足は、露程も揺らぎはしない。
 一羽を叩けば、叩いたその手の、指を啄まれた。
 一羽を蹴れば、蹴ったその足の、腱を啄まれた。
 その内、半分程に減ったサエバシが、口から血を吹き出した。
 ふしゅうっ、と吹き上がった血は、雨の如くその場に降り、女は己の眷属を傘として、その一滴も浴びず、唐車へと戻って行く。

「要らぬ手間を」

 未だ動けぬアケナシの耳に、女が、そう言った。

「ミトリ、打ち捨てよ」

「ねえさま、取らないのです?」

「うむ」

 裸形の少女にそう命じて、女は車の中、脇息に身を預けた。

「のう、そこな狩人よ」

 動けぬまま。
 然し、目も耳も働く。
 アケナシは女を見、その声を聴いた。

「此方は、之より内裏へ向かう。此方を待つ姫が居る故にの。よってそなたは、今宵は要らぬ」

 慈悲は持たぬ声である。動けぬまま、アケナシは――涙を流し、啜り泣いていた。
 何時しか唐車の周囲には、有象無象のアヤカシが群れていた。
 人のようなものも、そうでないものもいた。天を衝く巨体の鬼も居た。
 蜘蛛も、蛇も、蜥蜴も、あらゆるアヤカシが集った。

「捨てろ」

「はいっ」

 少女は、未だに動かぬアケナシの身を、唐車の外へ蹴り出した。
 ついぞ声は上がらなかった。
 そうして、見る者も無かった。
 たった一人、この夜、理性を保っていた女の心は、既に内裏の姫を攫い、どう愛撫し鳴かせるかに有ったのである。





 それから、幾月かが過ぎた。
 秋が終わり、冬が来て、年が明けた。
 里は変わらず、何も変わらぬ日々を繰り返していた。
 諦めねば先へ進めぬ事を、皆が知っている。死を常に隣人として、折り合いを付けて生きているのが、この里の者であるのだ。
 その日は皆で集まり、少量ながら餅をついていた。
 都で鬼を払い、たんまりとせしめた者が、もち米も合わせて持ち帰ったのである。
 どん。
 どん。
 力一杯に杵を振り下ろすと、臼が、がっしりとそれを受け止めた。
 新しい年を祝うに、好ましい晴れの日であった。
 椀に汁を注ぎ、小さく千切った餅を浮かべる。
 良くついた餅は、歯にもさして引っ付かず、噛めばほんのりと甘味をかもす。
 汁物は少し塩気が強いが、それも甘味を引き立たせる、年に一度の贅沢である。
 この日は、憂さの全てを忘れられる。
 そういう日の事であった。
 ざわ、と風が騒ぐ。
 風に乗る、人の声の色が変わる。
 それは里の北から、南へと抜けていった。
 ざりっ。
 ざりっ。
 何かを引きずる音が、里の真ん中を、広場へと向かって行く。
 引きずられているのは、半ばから圧し折れた大鋏の片刃であった。
 また片手には、襤褸布の包みであった。
 包みの中には、とうに肉も腐り落ち、渇いて罅割れた骨が収まっている。
 引いているのは、娘であった。
 少女とも女とも分からぬ頃の。
 何れとも呼べる頃の。
 誰か、その娘の名を呼んだ。娘は答えず、歩いた。
 見紛う筈も無い。
 飾らずとも、手入れされていた髪は、鬼が如く振り乱されて。
 目は幽鬼が如く虚ろに。
 時折口から笑声を零すのだが、それも、奇怪な呻きにも聞こえる。
 そして――娘の腹は、丸く膨らんでいた。
 其処に居た、年嵩の女が、娘に駆け寄り、腹に耳を当てる。
 とん、とん、と小さな、だが確かに打ち鳴らされる鼓にも似た音を、年嵩の女は聞き――顔を青くして後ずさった。
 娘は何も見えぬかのように、椀で鍋の汁を掬い、啜り、餅を手で掴んで喰らうと、

「おっきくなろうねぇ」

 優しく、己の腹を撫でた。
 アケナシは、誰のとも知れぬ子を身籠っていた。
 それからまた、季節が過ぎた。
 里は空気を変えぬまま、春を迎えていた。
 命の訪れる季節――雪が溶け、眠っていた草木が芽吹く。やがて花が開いて、虫がそれに遊び、何処へともなく飛んでゆくのだろう。
 獣までが浮かれる季節。
 閉ざした窓の内に、風が踊った。
 里の端に、一つ、小屋が有った。
 普段は、きちりと戸を閉めて、窓を閉ざしていたのだが、この日は風も心地良いので、僅かに戸を開けていた。
 真新しい小屋だった。
 建材の具合を見るに、一年も経ってはいないのだろう。
 生木の臭いが残っているようにさえ思える。
 隙間から外へ零れてくる空気も、その生木の香を含んでいたが――そればかりでは無い。
 甘い、爛熟した、異質な香りが混じる。
 それに引かれて、少年が一人、ふらふらと小屋に寄り、戸の隙間を覗いた。
 暗い小屋の内に、誰がいるのか。
 少年は、それを知っていた。
 音を立てぬように、戸の隙間に体を割り込ませ、小屋の内へ入る少年。
 暗く、甘い香の漂う空間は、その中で呼吸をするだけで、少年の頭を鷲掴みにし、揺さぶるようであった。
 咽せる程に、濃い、女の匂い。
 小屋の内にはたった一人、アケナシが座していた。
 これは、誰だと。少年は呟き、問うていた。
 知った顔だ。知った手足だ。
 だが、知らぬ表情に、知らぬ香り。
 あの娘は、こういう、唇を歪めるような笑い方をしなかった。薄っすらと弧を描いて、唇の端を持ち上げるだけだった。
 誰だ。
 あの娘は――

「ロクウ……?」

 アケナシが、少年の名を呼ぶ。
 いつかと変わらぬ、優しげな声音。
 大きく膨らんだ腹を抱えて、アケナシは膝で歩き、少年に寄った。
 少年は、魔に魅入られたが如く、動けずにいた。
 寄るなとは、言えぬ。
 恋い焦がれた女の顔なのだ。
 動けぬ少年の前に、アケナシは手を差し出した。
 何も言わず、手を出していた。
 そうして、虚ろな目のままで笑うのである。
 後退りする少年を、アケナシは追わない。だが、手は降ろさなかった。
 渡せば良いと。
 壊れた目が、少年に言っていた。
 受けられるからと。
 その時に少年は悟る。
 狂気と正気は、並列して存在し得る。寧ろ、元より狂うているのが、この里ではないのか。
 ただ、他よりも僅かに、狂気が膨れてしまった。
 それがアケナシの、成れの果てなのだと。
 少年は既に、アカヒモの儀を終えていた。少年より一回りも年嵩の、ふっくらした女が相手であった。
 変わらぬ里だが、人は変わる。
 アケナシも、変わり果てた。
 だが、根を張っている奥底ばかりが、あの日から一歩と進んでいないのだ。
 少年も、いつかの様に泣いた。
 忍び泣きの音に割って、何か、呻きが聞こえた。
 少年が顔を上げれば、アケナシが腹を抑え、床に蹲っていた。
 苦しんでいる。
 然し、笑っている。
 けたたましい、おぞましい、人とも思えぬ、化鳥が如き笑声。
 少年は小屋を出て、人を呼ぶ為に走った。
 生まれたのは、女の子であった。
 取り上げた産婆は青い顔をして、アケナシに、生まれたばかりの娘を渡した。
 赤ん坊には眼球が無かった。
 眼窩二つには、何処まで続くとも分からぬ闇が広がっているのである。
 産声は母の笑声に似て、つんざくように高かった。
 産後の疲労と痛みで朦朧としながら、アケナシは我が子を抱いた。
 腕の中に、しっかと抱えて、

「あら、かわいい」

 その頬に口付けをし、頬擦りをした。
 眼球の無い赤子は、母の顔を見る時だけ、普通の赤子のように愛らしく笑うのであった。
 生きている。
 アヤカシの娘の体温は、人より少し高いように思えた。
 春の日差しよりも、暖かかった。
 花を吹き散らす風の中に、アケナシは我が子を抱いて歩み出て、

「――――――」

 己だけの名で、その子を呼んだ。