戦うということ
新兵の教育は、教育に向いた人材が行えば良いと思っていました。
そもそも私も、こうして賢そうな口振りをしてはいるものの、元は石頭の戦闘員な訳でして、誰かに何かを教えるような真似は向いていないと分かっているんです。
ですが、私がまともに戦えないとなった以上。私が推測する通りの戦果を挙げる駒を、一つくらいは用意しておきたい。
自分がそう出来るだろうと予測するのと、同じかそれ以上の成果を持って帰る腹心を、一人ばかり持っておきたかった。
そういう訳で私は、少し出費が嵩みましたが、近隣支部と、それから自分の所の兵士の中から、腕自慢を募ったんです。
腕と言いましても、この時代に求められる基準は、たった一つ。如何に〝オス〟を殺せるかです。
必要なのは、まず爪に引っ掛からない速度と、牙を見切る速度に、何をされても対応できる勘。後は、武器を振り回せる体力さえあれば――というのが、最低限の基準でしょうか。
然し、私が求めた基準は、それとは合致しません。
「よし、止め!」
目の前で、兵士達が競っています。
種目は〝柔道〟と〝空手〟の複合系と言いましょうか――但し、フルコンタクト。一本勝ちは有りません。
どちらかがギブアップするか、立てなくなればお終いという酷く単純なルールで、私は兵士達を競わせました。
こんなルール、実際の戦場では役に立たないと言う者も居る。それは、事実でしょう。
四足歩行のオスを投げたり、分厚い鎧を纏うオスを殴ったり、それに現実味は有るのか、無意味では無いかと。
ええ、確かに無意味なんですよ――殆どの場合は。
確かに並の兵士は、オスを持ち上げる事は出来ませんし、殴っても蹴っても然程のダメージを与える事は出来ません。
ただ、私は出来ました。
今は自由に脚の動かぬ身ですが、昔の私は、オスを投げ殺していましたし、刃より速いとなれば蹴りもしましたし、目を指で貫いたりもしました。
平均的な兵士に合わせて語るのは、必要な事です。
ですが、私はそんなものを求めてはいない。つまり、その時は、そういう事でした。
所謂、トーナメントのような形で競わせていますと、やはり後半になるにつれ、明らかに皆、疲労が見えます。
散々に殴られたり蹴られたり投げられたり――流石に〝兵〟というだけは有って、最低限の技術は身に付けた者同士、痛みは蓄積されるのですから。
酷い者ともなれば、勝利して数分後に脚の痛みを訴え、棄権させて調べてみれば、筋を痛めていたり――ままありました。
私は、最初から見ていた訳では無かった。残り四人が二人になる辺りから、実は、やっと見始めたんです。
それ以外は、私が興味を持つような兵士ではない。磨いて光る素材というなら、磨く腕の有る者に任せましょう。
私はその瞬間、直ぐに断ち切れる刃物が欲しかった――だから、二人が勝ち残るのを待ちました。
一人は、背の低い少女でした。私も小柄ですが、それと大差は無いでしょうか。鍛えているだけ有り、体つきは中々のものです。
もう一方は、こちらは見惚れるような長身の、良い顔をした女性――私と同じくらいの歳でしょうね。歴戦の雰囲気を漂わせていました。
勝ち残ったのはこの二人で、これからこの二人が組手をする。正直に言って、始めの合図を待って向かい合う二人を見た時、私はこう思ったんです。
ああ、決まったなぁ、と。
打撃も組み技も、かなり力に左右されますし、力は体格から生まれますのでね。体格負けという経験は、私だって無い訳じゃあないんです。
――始まってみれば、まるで勝負にもなりはしなかった。
片方が投げられ、もう片方は、投げられた相手が立ち上がるのを待つ。
立ち上がって、組み付いたらまた投げて、立つのを待つ。
立ち上がって来なければ蹴りを入れて、無理にでも引きずるように立たせて、投げる。
相手が泣き始めるまで、延々とそんな事を、彼女は無造作にやってのけました。
ギブアップの声は有りませんでしたが、心が折れる音は誰にも聞こえましたから、審判が私に言いました。
「緋扇 操。新兵が、勝ちました」
「ほう……」
小さな体をして、誰にも噛み付きそうな目をした、怖い少女の勝ちでした。
私は翌日、彼女を訓練場に呼びつけました。
広いホールで、床には体操用のマットが敷いてあります。マットで作ったリングは、20m四方という所でしょうか。
これだけ広い空間を使った格闘技は、恐らく、過去に存在しなかったんじゃあないかと思います。
その真ん中で、私と彼女は、素手で向かい合いました。
――いや、厳密に言うと、私は違います。
私は、ろくに動かす事も出来なくなった脚を、強引に動かす為の補助具を付けています。
充電式で、ただ歩くだけならば問題は無いが、戦闘に用いるならば数分で充電が切れる、そんな装置。
これを私は、片脚に二本ずつ付けて、立っていました。
「……良いんですか、本気で」
「ええ、構いません。私がそう言ってるんですし、間違って私が怪我してもおとがめなし! ね、良いでしょ?」
「怪我人相手に本気を出せと?」
仏頂面で彼女は言います。
ああ、良い目をしてるなぁ。どうしてこの歳で、こんな目を出来るような子供が育つんだか、この世界。
こんな目、数か月は見ていない気がしましたよ。鏡を見ても映るのは、日に日に穏やかになる顔ですもの。
「そうですね、言い方を変えますか……支部長命令です。全力で、私を仕留めなさい。従わぬならば私の権限で――」
それでも、この技術を忘れる事は無い。
開手で、構えた。顎と鳩尾だけ守り、背を丸めた、少し低い構えです。
そうすると、向こうはやっと、私がただの怪我人で無いと知って――似た様な構えを、見せてくれました。
いや、少しは違いましたね。向こうは左手だけ拳にしていましたし、構えは低いながら、小刻みなステップも踏んでいましたから。
私の方が幾分か古風か――そんな事を思った時には、始まっていました。
左拳。
速く、固そうな拳骨が、私の右脇腹を狙って。
いきなり遊びの無い、相手を計るような事もしない、そして加減をしない打ち方をする子だ――少し驚かされまして。
右肘で受けながら、右手で、操の左肘の裏側を掴みに行きます。するりと腕が逃げていき、右掌が入れ替わりに、奥襟を狙って伸びてきました。
――反応が早いな、舌を打ちました。
なら、掴ませてやる。代わりに私も、左手でむこうの袖を掴んで、右手で奥襟を取り返す。
ぎ、と骨まで軋むような、力の膠着が有りました。ほうら、これでおあいこだ。ここから本当に始めよう。
右腕は操を引き寄せようとしながら、左腕が、引き寄せられまいと突っ張る。
そうすると向こうも、まるで同じように力を込めて、間合いをかっちりと固めるんです。
誰も見ていない時にこんな事を思うのもなんですが、やる気無く組み合ってるように見えるかも知れない。
兎に角、操は、動かせませんでしたし、私も動かされはしなかった。
「……しっ!」
埒があかないと踏んだか――操は、私に掴まれた袖を振り払って、右腕を自由にしました。
来た。
いや、来る。
支えに使っていた左腕で、逆に私を引き込んで、カウンター気味の右拳。
鼻狙いのそれを、私が額で受けて、操の左腕を両腕に抱え込む。
操の左手首を、左手で掴んで引き、肘を、尖った骨を私の右脇に抱えるようにして、体重を乗せ――
逃げた。
変形の脇固めに持っていかれる前に、操はその場で前転して逃げた。
上手いな、これも。外し方を知ってる訳じゃなさそうなのに。
呑気に思った私の――背後に、ひょう、と不吉な音。
振り返ろうとはしなかった。咄嗟に、首を横へ傾けた。次の刹那に、右肩を、ごつい石で殴りつけられたような衝撃が襲った。
何だ――何だ、誰だ!?
誰でも無い、操です。
操は関節技から逃れる為だけに前転したのではなく、そのまま私の右肩に、胴回し蹴りの要領で左踵を降らせた。あんまりおかしな角度から打ってきたものだから、私が対応出来なかった。
痛い――恐ろしく、痛い。
目算で55kgは無いだろう、52kgという所か――そんな軽量の少女が、出来る打撃とは思えない程に痛い。右腕が痺れて、操の左腕を解放してしまう程。
これ幸いと、次の打が来る。受ければ、倒れてしまいそうだ。
けれど、操。お前はこんな技を知らないだろう?
私は、防ぎはしなかった。無防備に拳を待って――すると、操が拳を止め、狼狽した顔を晒した。
ほうら、やっぱり引っ掛かる。
私がやったのは〝泣き真似〟。右肩を左手で庇って、泣きそうな顔をしただけだ。
それでこの新兵は、面白いように引っ掛かり――隙を見せたから、組み付いてやる。
慌てても、もう遅い。お前の体は後ろに傾いてる。
お、右足だけ後ろに残したな? 器用な奴、反応も早い。
けれどそれじゃあ駄目だな、左足を右腕で掬い上げて、胸を胸で押して崩してやる。
操が、仰向けに倒れた。
その腹に、私が座ろうとする。
両足を上手く絡ませて、ガードポジションだけは確保に来る――つくづく、上手い。
それでも、目を見れば分かる。お前の視界はぐちゃぐちゃだろう?
受け身を取らせないように、絡み付いて押し倒したんだ。マットに頭を打っただろう。
こんなガードポジション、有るも無いも似たようなもんだ。
「お――おォォっ!」
喉の、久しく使っていない部分を働かせて、私は吠える。
吠えながら、幾つも拳を落とす。
腹に当たった。
胸に当たった。
肩に当たった。
顔に、幾つも当たった。
この辺りで操が息を吹き返し、まずは私の腕を掴みに来る。
掴ませない。その腕を、逆に殴りつけて弾いて、もう一度腹。
腹筋も強い――が、これなら貫ける。拳の、中指を立てて打ち下ろした。
げはっ、とかぐえっ、とか、面白い悲鳴が上がる。痛いだろうが、そういうもんだ。
もう一発、顔――と思うと、然し操はまだ動く。両脚が私の首目掛けて迫ってくる。
ぞっとした。首を退いた次の瞬間、操の両脚が獣の牙のように閉じた。
あのままなら、三角絞めを決められていたか――確り決まれば数秒で落とされる。
すると、閉じた脚が、今度は真っ直ぐに私へと振り下ろされてくる。
また、踵だ。背を打たれた。今度は私が、ぐうっ、と汚い声を上げた。
先に立つ。操が立とうとする。手を差し伸べてやる。
ああ、また引っ掛かった――操が素直に手を伸ばしてきたので、顎を蹴り上げる。
ぐらついた所で、顔へまた拳を、右、左、右、右。
左手で襟を掴んで、右、右、右、右。
おや、いつのまにか見学者が居る。怯えているみたいだな。
いーや、私は優しいもんだ。見ろ、目も唇も鼻も、きちんと避けて殴ってやってる。
耳だって打たないし、喉もあまり狙わない。頬骨だけ狙って殴ってるんだ。
おい、聞こえてるか、操。聞こえないだろうな、声になんか出してないんだ。
でも聞けよ、そして見ろよ、私を。
取り繕った仮面が剥がれて、何時かの蛇の牙に成り下がってる私を。
痛いんだぞ私だって。右肩が痛むし、背筋もびきびきと鳴るし、拳も痛いし。
でも、こういうもんが戦いなんだ。ほら、ガード上げるな、次は腹行くぞ。
お前がやってきたのは、実践的だろうが、組手なんだよな。
オスは待ってくれないし、人間はもっと待ってくれないぞ。
何だお前、こんな簡単な手に引っ掛かりやがって。それで生き延びられるとでも思うのか。
私は散々にやられたぞ。傭兵なんてのはろくでなしの屑の集まりだ。
腕自慢を叩き伏せて良い顔をしてたら、寝てる間に取り囲まれたりな。
お前だって、そうならないと言い切れないだろう。
でも、それでお前が負けたって、お前は文句を言えないんだ。
だって、勝った奴が正しいんだからな。
立ち上がれなくなって、殴り返せなくなったら負けで、そうなったら何も文句を言えないんだ。
それが、そういうもんが戦いだろうが。
「やめ、……っ、ぁ、や――」
そろそろ、拳の痛みが酷くなってきた。
打撃を止めて、ついでに襟を掴んだ手も離す――操は何か、蚊の羽音のような声では言ったが、そのまま私に寄り掛かるように倒れてきた。
ずし、と重さが胸に乗る。頬からの血が、緑基調の戦闘服を赤く濡らしている。
腕がだらんとぶら下がって、呼吸に合わせてゆらり、ゆらり。
重いなぁ、と思った。
その時、だった。
私の膝が、急に力を失った。
なんだ!?
歩行補助の機械脚が、操の後方に投げ捨てられていた。
外されたのだ――分かった時には、私はマットの上に尻餅をついていた。
顔に、分厚いものが迫る。操の右膝だった。
視界に火が駆け巡った。黒と白が交互にやってきて、それから天井が見えた
眉間を思い切り打ち抜かれ、首が反ったのだろう。引き戻すより先、今度は視界が、マットに変わった。
操が、私を、両腕だけで持ち上げていた。
馬鹿力め!
殴りつけるが、手が届くのは腹と胸。腕だけで打つ打撃に威力は無い。
蹴りは――もう、打てない。
ふう、と浮いた。それから、落ちはじめた。
ごうごうと加速していく。マットが近づく。
顎を引いて、受け身を取ろうとする。
顎の下に、操の右足が入った。背を丸める事も赦されなかった。
嗚呼、それだよ、操。
なんだか私は随分といい気分になって落ちて行った。
お前も結構やるじゃないか。それくらいやっていいんだよ、戦いなんて――
ずどん。
――衝撃。
よし、決めた。
――激痛。
こいつを、
――明滅
――暗転。
私にしよう。
――静寂。
私はどうも、こいつにこっぴどく負けたらしかった。
そもそも私も、こうして賢そうな口振りをしてはいるものの、元は石頭の戦闘員な訳でして、誰かに何かを教えるような真似は向いていないと分かっているんです。
ですが、私がまともに戦えないとなった以上。私が推測する通りの戦果を挙げる駒を、一つくらいは用意しておきたい。
自分がそう出来るだろうと予測するのと、同じかそれ以上の成果を持って帰る腹心を、一人ばかり持っておきたかった。
そういう訳で私は、少し出費が嵩みましたが、近隣支部と、それから自分の所の兵士の中から、腕自慢を募ったんです。
腕と言いましても、この時代に求められる基準は、たった一つ。如何に〝オス〟を殺せるかです。
必要なのは、まず爪に引っ掛からない速度と、牙を見切る速度に、何をされても対応できる勘。後は、武器を振り回せる体力さえあれば――というのが、最低限の基準でしょうか。
然し、私が求めた基準は、それとは合致しません。
「よし、止め!」
目の前で、兵士達が競っています。
種目は〝柔道〟と〝空手〟の複合系と言いましょうか――但し、フルコンタクト。一本勝ちは有りません。
どちらかがギブアップするか、立てなくなればお終いという酷く単純なルールで、私は兵士達を競わせました。
こんなルール、実際の戦場では役に立たないと言う者も居る。それは、事実でしょう。
四足歩行のオスを投げたり、分厚い鎧を纏うオスを殴ったり、それに現実味は有るのか、無意味では無いかと。
ええ、確かに無意味なんですよ――殆どの場合は。
確かに並の兵士は、オスを持ち上げる事は出来ませんし、殴っても蹴っても然程のダメージを与える事は出来ません。
ただ、私は出来ました。
今は自由に脚の動かぬ身ですが、昔の私は、オスを投げ殺していましたし、刃より速いとなれば蹴りもしましたし、目を指で貫いたりもしました。
平均的な兵士に合わせて語るのは、必要な事です。
ですが、私はそんなものを求めてはいない。つまり、その時は、そういう事でした。
所謂、トーナメントのような形で競わせていますと、やはり後半になるにつれ、明らかに皆、疲労が見えます。
散々に殴られたり蹴られたり投げられたり――流石に〝兵〟というだけは有って、最低限の技術は身に付けた者同士、痛みは蓄積されるのですから。
酷い者ともなれば、勝利して数分後に脚の痛みを訴え、棄権させて調べてみれば、筋を痛めていたり――ままありました。
私は、最初から見ていた訳では無かった。残り四人が二人になる辺りから、実は、やっと見始めたんです。
それ以外は、私が興味を持つような兵士ではない。磨いて光る素材というなら、磨く腕の有る者に任せましょう。
私はその瞬間、直ぐに断ち切れる刃物が欲しかった――だから、二人が勝ち残るのを待ちました。
一人は、背の低い少女でした。私も小柄ですが、それと大差は無いでしょうか。鍛えているだけ有り、体つきは中々のものです。
もう一方は、こちらは見惚れるような長身の、良い顔をした女性――私と同じくらいの歳でしょうね。歴戦の雰囲気を漂わせていました。
勝ち残ったのはこの二人で、これからこの二人が組手をする。正直に言って、始めの合図を待って向かい合う二人を見た時、私はこう思ったんです。
ああ、決まったなぁ、と。
打撃も組み技も、かなり力に左右されますし、力は体格から生まれますのでね。体格負けという経験は、私だって無い訳じゃあないんです。
――始まってみれば、まるで勝負にもなりはしなかった。
片方が投げられ、もう片方は、投げられた相手が立ち上がるのを待つ。
立ち上がって、組み付いたらまた投げて、立つのを待つ。
立ち上がって来なければ蹴りを入れて、無理にでも引きずるように立たせて、投げる。
相手が泣き始めるまで、延々とそんな事を、彼女は無造作にやってのけました。
ギブアップの声は有りませんでしたが、心が折れる音は誰にも聞こえましたから、審判が私に言いました。
「緋扇 操。新兵が、勝ちました」
「ほう……」
小さな体をして、誰にも噛み付きそうな目をした、怖い少女の勝ちでした。
私は翌日、彼女を訓練場に呼びつけました。
広いホールで、床には体操用のマットが敷いてあります。マットで作ったリングは、20m四方という所でしょうか。
これだけ広い空間を使った格闘技は、恐らく、過去に存在しなかったんじゃあないかと思います。
その真ん中で、私と彼女は、素手で向かい合いました。
――いや、厳密に言うと、私は違います。
私は、ろくに動かす事も出来なくなった脚を、強引に動かす為の補助具を付けています。
充電式で、ただ歩くだけならば問題は無いが、戦闘に用いるならば数分で充電が切れる、そんな装置。
これを私は、片脚に二本ずつ付けて、立っていました。
「……良いんですか、本気で」
「ええ、構いません。私がそう言ってるんですし、間違って私が怪我してもおとがめなし! ね、良いでしょ?」
「怪我人相手に本気を出せと?」
仏頂面で彼女は言います。
ああ、良い目をしてるなぁ。どうしてこの歳で、こんな目を出来るような子供が育つんだか、この世界。
こんな目、数か月は見ていない気がしましたよ。鏡を見ても映るのは、日に日に穏やかになる顔ですもの。
「そうですね、言い方を変えますか……支部長命令です。全力で、私を仕留めなさい。従わぬならば私の権限で――」
それでも、この技術を忘れる事は無い。
開手で、構えた。顎と鳩尾だけ守り、背を丸めた、少し低い構えです。
そうすると、向こうはやっと、私がただの怪我人で無いと知って――似た様な構えを、見せてくれました。
いや、少しは違いましたね。向こうは左手だけ拳にしていましたし、構えは低いながら、小刻みなステップも踏んでいましたから。
私の方が幾分か古風か――そんな事を思った時には、始まっていました。
左拳。
速く、固そうな拳骨が、私の右脇腹を狙って。
いきなり遊びの無い、相手を計るような事もしない、そして加減をしない打ち方をする子だ――少し驚かされまして。
右肘で受けながら、右手で、操の左肘の裏側を掴みに行きます。するりと腕が逃げていき、右掌が入れ替わりに、奥襟を狙って伸びてきました。
――反応が早いな、舌を打ちました。
なら、掴ませてやる。代わりに私も、左手でむこうの袖を掴んで、右手で奥襟を取り返す。
ぎ、と骨まで軋むような、力の膠着が有りました。ほうら、これでおあいこだ。ここから本当に始めよう。
右腕は操を引き寄せようとしながら、左腕が、引き寄せられまいと突っ張る。
そうすると向こうも、まるで同じように力を込めて、間合いをかっちりと固めるんです。
誰も見ていない時にこんな事を思うのもなんですが、やる気無く組み合ってるように見えるかも知れない。
兎に角、操は、動かせませんでしたし、私も動かされはしなかった。
「……しっ!」
埒があかないと踏んだか――操は、私に掴まれた袖を振り払って、右腕を自由にしました。
来た。
いや、来る。
支えに使っていた左腕で、逆に私を引き込んで、カウンター気味の右拳。
鼻狙いのそれを、私が額で受けて、操の左腕を両腕に抱え込む。
操の左手首を、左手で掴んで引き、肘を、尖った骨を私の右脇に抱えるようにして、体重を乗せ――
逃げた。
変形の脇固めに持っていかれる前に、操はその場で前転して逃げた。
上手いな、これも。外し方を知ってる訳じゃなさそうなのに。
呑気に思った私の――背後に、ひょう、と不吉な音。
振り返ろうとはしなかった。咄嗟に、首を横へ傾けた。次の刹那に、右肩を、ごつい石で殴りつけられたような衝撃が襲った。
何だ――何だ、誰だ!?
誰でも無い、操です。
操は関節技から逃れる為だけに前転したのではなく、そのまま私の右肩に、胴回し蹴りの要領で左踵を降らせた。あんまりおかしな角度から打ってきたものだから、私が対応出来なかった。
痛い――恐ろしく、痛い。
目算で55kgは無いだろう、52kgという所か――そんな軽量の少女が、出来る打撃とは思えない程に痛い。右腕が痺れて、操の左腕を解放してしまう程。
これ幸いと、次の打が来る。受ければ、倒れてしまいそうだ。
けれど、操。お前はこんな技を知らないだろう?
私は、防ぎはしなかった。無防備に拳を待って――すると、操が拳を止め、狼狽した顔を晒した。
ほうら、やっぱり引っ掛かる。
私がやったのは〝泣き真似〟。右肩を左手で庇って、泣きそうな顔をしただけだ。
それでこの新兵は、面白いように引っ掛かり――隙を見せたから、組み付いてやる。
慌てても、もう遅い。お前の体は後ろに傾いてる。
お、右足だけ後ろに残したな? 器用な奴、反応も早い。
けれどそれじゃあ駄目だな、左足を右腕で掬い上げて、胸を胸で押して崩してやる。
操が、仰向けに倒れた。
その腹に、私が座ろうとする。
両足を上手く絡ませて、ガードポジションだけは確保に来る――つくづく、上手い。
それでも、目を見れば分かる。お前の視界はぐちゃぐちゃだろう?
受け身を取らせないように、絡み付いて押し倒したんだ。マットに頭を打っただろう。
こんなガードポジション、有るも無いも似たようなもんだ。
「お――おォォっ!」
喉の、久しく使っていない部分を働かせて、私は吠える。
吠えながら、幾つも拳を落とす。
腹に当たった。
胸に当たった。
肩に当たった。
顔に、幾つも当たった。
この辺りで操が息を吹き返し、まずは私の腕を掴みに来る。
掴ませない。その腕を、逆に殴りつけて弾いて、もう一度腹。
腹筋も強い――が、これなら貫ける。拳の、中指を立てて打ち下ろした。
げはっ、とかぐえっ、とか、面白い悲鳴が上がる。痛いだろうが、そういうもんだ。
もう一発、顔――と思うと、然し操はまだ動く。両脚が私の首目掛けて迫ってくる。
ぞっとした。首を退いた次の瞬間、操の両脚が獣の牙のように閉じた。
あのままなら、三角絞めを決められていたか――確り決まれば数秒で落とされる。
すると、閉じた脚が、今度は真っ直ぐに私へと振り下ろされてくる。
また、踵だ。背を打たれた。今度は私が、ぐうっ、と汚い声を上げた。
先に立つ。操が立とうとする。手を差し伸べてやる。
ああ、また引っ掛かった――操が素直に手を伸ばしてきたので、顎を蹴り上げる。
ぐらついた所で、顔へまた拳を、右、左、右、右。
左手で襟を掴んで、右、右、右、右。
おや、いつのまにか見学者が居る。怯えているみたいだな。
いーや、私は優しいもんだ。見ろ、目も唇も鼻も、きちんと避けて殴ってやってる。
耳だって打たないし、喉もあまり狙わない。頬骨だけ狙って殴ってるんだ。
おい、聞こえてるか、操。聞こえないだろうな、声になんか出してないんだ。
でも聞けよ、そして見ろよ、私を。
取り繕った仮面が剥がれて、何時かの蛇の牙に成り下がってる私を。
痛いんだぞ私だって。右肩が痛むし、背筋もびきびきと鳴るし、拳も痛いし。
でも、こういうもんが戦いなんだ。ほら、ガード上げるな、次は腹行くぞ。
お前がやってきたのは、実践的だろうが、組手なんだよな。
オスは待ってくれないし、人間はもっと待ってくれないぞ。
何だお前、こんな簡単な手に引っ掛かりやがって。それで生き延びられるとでも思うのか。
私は散々にやられたぞ。傭兵なんてのはろくでなしの屑の集まりだ。
腕自慢を叩き伏せて良い顔をしてたら、寝てる間に取り囲まれたりな。
お前だって、そうならないと言い切れないだろう。
でも、それでお前が負けたって、お前は文句を言えないんだ。
だって、勝った奴が正しいんだからな。
立ち上がれなくなって、殴り返せなくなったら負けで、そうなったら何も文句を言えないんだ。
それが、そういうもんが戦いだろうが。
「やめ、……っ、ぁ、や――」
そろそろ、拳の痛みが酷くなってきた。
打撃を止めて、ついでに襟を掴んだ手も離す――操は何か、蚊の羽音のような声では言ったが、そのまま私に寄り掛かるように倒れてきた。
ずし、と重さが胸に乗る。頬からの血が、緑基調の戦闘服を赤く濡らしている。
腕がだらんとぶら下がって、呼吸に合わせてゆらり、ゆらり。
重いなぁ、と思った。
その時、だった。
私の膝が、急に力を失った。
なんだ!?
歩行補助の機械脚が、操の後方に投げ捨てられていた。
外されたのだ――分かった時には、私はマットの上に尻餅をついていた。
顔に、分厚いものが迫る。操の右膝だった。
視界に火が駆け巡った。黒と白が交互にやってきて、それから天井が見えた
眉間を思い切り打ち抜かれ、首が反ったのだろう。引き戻すより先、今度は視界が、マットに変わった。
操が、私を、両腕だけで持ち上げていた。
馬鹿力め!
殴りつけるが、手が届くのは腹と胸。腕だけで打つ打撃に威力は無い。
蹴りは――もう、打てない。
ふう、と浮いた。それから、落ちはじめた。
ごうごうと加速していく。マットが近づく。
顎を引いて、受け身を取ろうとする。
顎の下に、操の右足が入った。背を丸める事も赦されなかった。
嗚呼、それだよ、操。
なんだか私は随分といい気分になって落ちて行った。
お前も結構やるじゃないか。それくらいやっていいんだよ、戦いなんて――
ずどん。
――衝撃。
よし、決めた。
――激痛。
こいつを、
――明滅
――暗転。
私にしよう。
――静寂。
私はどうも、こいつにこっぴどく負けたらしかった。