烏が鳴くから
帰りましょ

Adler

 腹の立つ作戦は幾らでもある。
 例えばお偉方が優雅なディナーを楽しんでいるだろう時間帯に、泥の中を這いまわって敵陣の後ろに回り込んだり、そんな戦闘が終わって美人の待つベッドへ膝を置いた瞬間、急遽決定される奇襲だったり。
 だが、私が腹に据えかねるのは、人的資源の無駄遣いだ。
人は増えない。それは、もう、誰もが知っている。だから、彼女達を失わない為に、私達が居る筈だ。だのに、前線に立つ彼女達を欺き、マズルフラッシュのパレードに、彼女達を追いやる役目を押し付けられれば、腹が立つのもお分かり頂けるだろう。
 けれども。それよりも尚、私を暗く、灼き続ける火は……――





「こちら管制塔サンドランダー、本日はAWACSの真似事にてお邪魔する。然し何だ、私も幼少期に旅客機に乗った事は有るが、諸君達はこうも安物のシートに腰掛けていたのか、腰痛が心配でならない。全機エコノミークラス症候群に十分留意し――」

「こちら地上管制アーダー2。サンドランダー、私語を慎め」

「何を言う、彼女達が空で居眠りでもして見ろ。地上にイーグルの雨が降るぞ。私も鷲(アードラー)、同胞が墜落するのは見るに堪えない。
 ……標的の距離は150――失礼、諸君達の流儀に揃えよう。80nmだ。インスタントのヌードルくらいは喰う時間が有るが、我々は既に祝賀会の用意を終えている。
 諸君、空腹のままで帰還するように。我々は基地に残した御馳走を、残した人員ではとても持て余すものである。以上、作戦開始!」

 空のやり方は、深い馴染こそ無いが、知人に幾度も聞かされた。真似事でまぁ、意気を煽る恰好はついたろうさ。
 それに、彼女達はプロだ。私の指示など無くとも戦えるだろうし――それに、標的は地上だけ。空対空の索敵等を主務とするAWACSが、あくせく働くような環境にはないと、十分に分かっていた。

「ターゲット、此方でも確認! なんだあれは、ハンバーガーとコークを平らげ過ぎたか?」

「ファルケ1よりサンドランダー、最近のコークはカロリーフリーばかりだぞ」

「ならポップコーンが元凶だな。諸君、存分に種子を弾けさせたまえ!」

 そして彼女達の翼の影は、地上の標的に近づいていく。
 レーダーに映る敵影は、馬鹿げてデカい。
 事前に飛んだ偵察機が持ち帰った映像には、もはや何と形容してよいかも分からない、怪物が映っていた。
 烏賊にも見える。虫にも見える。が、最も近いのは植物であった。
 30mにも及ぶ巨体の植物が、その体躯に更に倍する触腕を、幾本も蠢かせているのである。
 奴は、毎時数キロという遅々とした速度で南に向かっているが、このまま数日もすれば、市街地に到達してしまう。
 一つの街が備える程度の迎撃設備で、あの怪物を仕留めるのは難しいだろう。
 だが、彼女達、空の勇者であるならば――

「ファルケ全機、スマートボム!」

「ミーラン全機、スマートボム!」

「ようし、誘導ボムを滝と落とせ! デカブツを押し流してやれ!」

 あれも、生物には違いない。
 私達が相手にしているのは、核シェルターでもミサイル発射基地でも無い。十数機のマルチロール機が降らせる爆弾の雨を、耐える手段は――

「メーヴェ1よりサンドランダー、誘導爆弾消失!」

「は――!?」

 耳を、疑った。

「何が起こった!?」

「分からない、調べられるか!?」

「ノーとは言えないな、ドイツ人だ!」

「ならばヤーとでも言っておけ!」

 無論。目の前の機材の、パネルを叩く。
 横に座る管制助手が――急ごしらえの相方が、目にも留まらぬ速度で、種々のデータを、計器に入力していく。

「消失地点は!?」

 その彼女に、地上へ向けたレーダーから、高度を読み取らせる。

「消失は――おおよそ3000フィートです!」

「――1km程度か!」

 地上の景色を、モニタに写す。
 私達管制機は、地上から10000フィートの高空に居た。そこから数千フィート下に、彼女達が飛んでいる。
 そして、誘導型爆弾が消失したという高度には分厚い雲――

「……まさか」

 いやな、予感がした。
 幾度も戦場を渡った――空では無く、地上だが。すると、何時頃からか、備わり始めたものがある。
 理由も無く直感的に、危険を嗅ぎ分け、それに恐怖する力。
 私は、黒く濁った、分厚い雲が恐ろしかった。

「なら、直接叩き込むまでさ! ファルケ全機、私に続け!」

「待て、ファルケ1!」

 改めて知る。空は、早い。
 通信の内容を理解し、その名を呼んだ時、3機の荒鷲が地上に鼻面を向けていた。

「戻れ! 死ぬぞ!」

 これ以上無い、端的な言葉を伝えた時――

「ファルケ1から3、ロスト!」

 ――レーダーから、ファルケ隊が消えた。
 無線を通じ、全機の動揺が伝わってくる。彼等のレーダーにも、同胞の消失は見て取れたのだろうか。

「くそっ、何だ! 〝何〟が起こっている!?」

 困惑、理解出来ぬ己への苛立ち。私は叫び散らしながら、計器を、瞬きもせずに睨んだ。

「こちらミーラン2、高度3000まで降下したが操縦が利かない! ベイルアウトをする、無事を祈っててくれよ!」

 だが、無情にもこの空は、私に思考の休息を与えない。

「待っ――ミーラン2、ベイルアウトは駄目だ! どうにかしてその〝雲〟を抜けろ!」

 ベイルアウト――機体を放棄、地上へと降り立つ行為である。
 簡単な技術では無い。失敗し、命を落としたパイロットとて居るという。
 だが私は、彼女達がベイルアウトに失敗し、地上に叩き付けられる事は恐れていなかった。
 恐れていたのは、もっと別な無残であった。

「そうしたいがこいつが休みたがってるんでね。どうしたサンドランダー、何時もの軽口で応援してくれよ」

 引き留められない。私の声は、彼女達を留まらせる理由にならない。
 私は空を知らない鷲だ。

「駄目だ、ベイルアウトを禁ずる! 折れた羽でも良いから戻って――」

「ミーラン2、ベイルアウト!」

 機体が撃ち捨てられ、パイロットが空中に投げ出され、パラシュートが展開する。
 降下しながらあいつは、無線機を取り出し、チャンネルを開いたらしい。

 ――やめてくれ。もう、先は分かった。

「こちらミーラン2、パラシュートは正常に開いた。いっそこのまま、地上のデカブツの偵察でも――」

 確実に来る、悲劇。

「――あ、え、……え? あ、あああああぁぁあぁああっ!?」

 全機に解放された無線より、悍ましい程に悲痛な叫びが轟いた。

「ぁあ、ああ、なんだ、熱い!? 熱い、熱っ、腕が! 私の腕が! 手が! 手がああああっ!!」

 見えないでも、もう、分かった。
 地上1kmに停滞する雲の正体は――高密度の、酸の霧。
 そこに、あいつは、降下していったんだ。箇所によっては航空機すら熔解する雲の中に。

「ああああぁ、あっ、あつ、痛い、痛いぃっ! 助けて、誰か助けて、隊長、隊長ぉ!! 誰かぁあああ!!!」

 ――不味い。

「全機、〝ミーラン2との交信を切断〟し――」

 これ以上を聞かせてはいけない。私の決断は、少し遅かった。
 皆が、あの雲の正体を知った。
 そして、その時には――あれが、悪夢と言うものか。
 人類の誇る英知の翼が、酸の雨に打たれている。
 航空力学の結晶が溶け落ちて、地上に塗装と金属片をひっきりなしに降らせる。
 操縦系が狂い始めたか。レーダーに映る航行の線が乱れていく。
 数百時間を費やして鍛え上げた兵士達が、泣き叫び、母の名を呼んでいる。

「ミーラン1、3、ロスト! ファルケ隊の反応は!?」

「先程の消失から、やはりありません、ただの一機も――!」

 管制助手が、泣きそうな顔で、叫びながら言う。

「Ficken(くそっ)、Ficken! 全機に命令する、操縦可能な機体は全て、機首をベースに向けろ! 捨てられる兵装は地上に捨てろ! これは私のオーダーでは無い、最上級の指揮系統からの厳命と思え!」

 言うまでも無い。留まれと命じても、皆は逃げようとしただろう。

 嗚呼――だが、落ちていく。

「シュヴァーン隊、全機ロスト!」

「誰か――誰か、抜けた奴は!?」

「一機か二機か、分かりません――幾つか、戦域外へ離脱!」

 たった、それだけか――視界が暗くなるようだった。
 目の前の計器に倒れ込んで、眠ってしまいたい。
 鏡を見れば、きっと冷や汗と涙で、化粧が少し崩れているんだろうなと思った。その見苦しい顔を隠すように、組んだ腕の中に、頭を沈める。

「――ぁ」

 誰かが、管制機の中の誰かが、小さく呟いた。
 それが私には恐ろしく不安を掻きたてる声だったから、跳ね起きて、レーダーをまた睨む。
 ただ一機、酸の雨の中心へ突っ込んでいく奴が居た。

「……何をしている」

「見ての通りよ」

 無線を取り、問う。
 地上に居る時と全く同じように、両足で立ち、少しふんぞり返り、口元にマイクを運んで、私は問う。
 すると彼女は、まるで散歩に出かける前であるかのように、平然と言うのだ。

「見て分からないから聞いている」

「あれを、倒す」

 簡単に言う奴だ――ああ、聞き覚えのある声だ。
 よりにもよって、どうして残ったのがお前なんだろうな。無線機を握る手が震える。

「……戻れ」

 一人で倒せる筈が無いと――私は、まず、思い込んだ。
 それから、出来ぬ事も無いと算段を付け直す。
 その時に数式に代入した値の、残酷さに、私の声は締めつけられたような掠れ方をした。

「出来ないわ」

「戻れ、命令だ!」

 誰が、誰に命令するというのか。
 これが上部からの命令であれば――奴らはきっと、彼女を止めはしない。進めと命じて、その勇気を称えるだろう。

「あれがこのまま市街地に向かったら、どうなると思ってるの? この先の街には、燃料タンクが有るのよ」

 ならばこの命令は、他ならぬ私が、彼女へ送るオーダーであった。
 分かっている。だから、この規模の防衛線を敷いた。
 あの街が落とされるというのは、この地域の軍隊の半分が、抱え込んだ戦車やら戦闘機を動かせなくなるという事だ。
 だから、何としても――それは、分かっている。

「ごめんね、何時も嫌な知らせをさせて」

 あいつは、きっと地上でそう言う時と、同じ顔をしているんだろう。
 私は目を閉じ、あいつの顔を思い描きながら、それに向けて愚痴を零し始めた。

「全くだ、地上も空も変わらないよ。いつも良い奴から死んで、残った可哀想な奴に、私か別な誰かが知らせるんだ。
 お前は知ってるか? 残された家族が私達を見るあの目。あんなものを何度も見せられてみろ、ベッドで美女に溺れたくなる気持ちも分かるだろう。
 娘を失った母親は辛いが、あれはまだ、何処かに諦めが見える。突き刺さるのは、姉を失った妹だ。希望と庇護者を同時に無くして、自分一人で生きていけと、いきなりこんな世界に投げ出されるんだからな。私の頬を殴る拳が、どれだけ非力で震えているかを知っているのか?
 言いたい事はまだまだあるんだぞ、宿屋のアンナは変わらずのらりくらりだし、この間見掛けた美人は恋人持ちで、食事どころか声を掛けた瞬間にひっぱたかれたんだ。ここ暫く自宅で料理をした事は無いし、外食に出れば外れの店を引く。そんな可哀想な私に、これ以上心労を増やす気か?」

 答えは、無い。
 アフターバーナーが点火されて、それでも彼女が駆るイーグルは、常とは比べ物にならぬ速度。
 もしかすれば、もう、そうしなければストール(失速)し、落ちるのかも知れない。
 燃料が、燃えていく。
 本来の巡航速度であれば、数時間は飛行可能なイーグルであるが、アフターバーナーを点火し速度を上げれば――十数分で、燃料は空になる。
 それでも、機首を逆に向ければ、黒雲の広がる空域から抜け出せる筈だ。
 彼女には――生粋の空の女には、それが、十分に分かっていた筈だ。

「……最後に一度だけ、繰り返す。本作戦は生還こそが至上命令であり、自ら死を選択する行為は、私の独断にて軍法会議に掛けられるに値するものである。機首を返し、基地へ帰還せよ。当作戦は失敗に終わった、帰還せよ!

 笑う声が、聞こえた気がした。
 彼女の声が震えていると気付いた時、

「戻れ! 今すぐだ、戻れ! 生きて戻れ! 勝手に死ぬな、ふざけるな、馬鹿野郎、戻れ!」

 私もまた、喉を潰すような声で、床を踏み鳴らしながら喚いていた。

「当管制機、これ以上留まる事は出来ません! 霧が――登ってきます!」

 管制助手の声は、半分も聞こえていなかった。私が叫び続けていたからだ。
 それでも何時の間にか、戻れ戻れと喚いていた私こそが、基地へ鼻面を向けていた。管制機のパイロットが判断したらしい。

 そして、大鷲は飛ぶ。

 羽をもがれ、爪を割られ、嘴は欠け。

 在りし日、空に舞った王の姿は、どこにも無い。

 それでも、たった一つ。プライドを冠毛と共に纏い、


「死ぬな、ヒンメル!」


「Bis an den Tag, an dem wir uns wiedersehen!」





 溶けかけたF-15は、オスの巨体に突き刺さり、残る全ての燃料と、ヒンメル・イェーナを巻き込んで爆発。その部品の一つさえ、遂に回収は叶わなかった。
 あれから、私は空に登った事が無い。
 空は広すぎるし、寝るのにも食うのにも不便するし、美女は歩いていない。
 人が地上に生まれたのは何故かと聞かれたら、ドレスが其処にあるからと答えたいくらいだ。
 私は、地上に生きるべき女だと、知った。

 それでも――空に生きた、女達が居た。
 彼女達の誰もが、死を望んで死んでいった訳では無いのだろう。
 地上で生きた女達と同じで、生を望みながら、逃れられぬ死に堕ちていったのだろう。
 だが、彼女達は、私には眩しかった。
 私はこうして生きていて、今も、誰かが死ぬのを見続けている。
 地上は狭いし、おかしなしがらみも多い。人間は呪詛を吐きながら、人間とも殺し合いをしている。

 空には、それが無かった。
 たった十数人の女達と飛んだ空には、人の争いなど無かった。
 誰もが人の為に命を賭し、そして死んでいったのだ。
 そこに私欲は介在せず、ただ、悲劇だけが有った。悼むべき悲劇だけが、告がれる英雄譚の顔を借りて、在った。
 彼女達は眩し過ぎて、だから私には直視が出来ない。アードラーはもう一度、あの空へ上がる事は無いだろう。
 私は地上から、何時までも、彼女達を羨み続ける。

 何気なく、ふと、空を見上げる事がある。
 昔は、西から東、東から西と、旅客機が飛行機雲をたなびかせて飛んでいた。
 今、空を支配しているのは鳥達だ。人間から空の支配権を取り返した鳥達が、悠々と、私達の滅びを見下ろしている。
 大きな翼にいっぱいのプライドを乗せて、ひょう、と鳴いて。
 彼等が、彼女等が空を飛ぶ時、私は右手を口元に持っていく。何も無い空間に親指を押して、幾度か咳払いをしてから、こういうのだ。

「こちら管制塔サンドランダー。ヒンメル・イェーナ、帰還せよ。繰り返す――」

 今日も、空にイーグルは見えない。
 あの空が、きっと――人類の最期の、空だった。