烏が鳴くから
帰りましょ

思惑

「さて、皆さま。本日はようこそ、お集まりいただきましてありがとうございます」

 カムイ・紅雪は、なんとも平凡な挨拶で場を開いた。
 会議室は恐ろしく広いが、設置されたマイクが声を増幅し、隅々まで言葉は行きわたる。
 丸く配置された机には、何れも名の知れた研究者や政府幹部等、多数の人員が、幾度目かの会議とあって辟易した様子で並ぶ。
 何せ、過去に於いて机上の会議で、何かが解決した事など無かったのだ。
 この日もまた、無益な会議が通り過ぎるだけだろうと、多くの者は思っていた。

 だが、そう考える者ばかりでは無い。常の会議と趣を異にしているのは、ホストの素性から分かっているのだ。
 日本政府幹部・蛇花 みずちの忠犬にして、関東の一支部を預かるカムイ・紅雪。この女があろう事か主君の名でなく、〝自らの名〟を招待状に記した。
 そして実際に、みずちの姿は其処には無い――となれば、多々、思いを抱く者も出る。
 言うなればこれは、見えぬ思惑を暴く為の、腹の探り合いという訳だ。

「議題は何だ、私達も暇じゃねぇぞ……直ぐに部隊の再編と訓練が必要になる。こっちの連中は気が抜けすぎてる」

「ええ、承知しています。世界を渡り歩く貴女達に比べて、日本だけに留まる我々の練度は低いと――そういう事ですよね、楊教官?」

 315部隊指導教官、楊菊蘭――最初に口を開いたのが、恐らくはこの面々の中でも一番の大物だった。

「まずはここに居る全員、現状を理解してんだろな。鍛えても鍛えても、鍛えた端から死んでいく。生活圏維持の為の戦線は縮小し続けてるが、それでも追い付かねぇ程にだ。少ない人数を遠くまで派遣すれば、補給線の構築労力も馬鹿にならない。
 集まったついでだから言わせてもらうが、幾つかの都市群はもう廃棄するべきだ。その為に一度、大規模な作戦行動を……散々、提案してんだがな」

 小さな――周囲に比べれば小さな体で、戦闘員の常かヒールも履かず。だがマイクを通さずとも、戦場で鳴らした彼女の声は、会議室のどこまでも届く。
 すると、彼女に異を唱える様に、手が一つ上がった。皆の目が、そちらへと集まった。

「廃棄した都市の住民を、どうする」

「後方都市に収容する。一定の割合で戦闘部隊に徴収し、後退し縮小した前線の密度を高める。単純だろが」

「だから、その費用は何処から出す。資産を投げ捨てての撤収となれば、保障をしない訳にもいかないぞ」

 静かだが、凛と通る性質の声。スーツ姿の女幹部が、許可を待たずに発言を始めた。

「住居、家具、衣服。運べる量には限りがある、政府の予算で全てを賄うならいいだろうが、戦線維持に加えてその予算を何処が出す」

「政府からそんな無駄金は出せませ――」

 口を挟んだ眼鏡の女性に、スーツの女は――翔鶴と名乗る女は、刃物の様な視線を向ける。自分の発言、行動に水を差されるのが酷く不快と見えて、続く声のトーンはいくらか下がった。

「分かっている、黙れ。……最低限の生活さえ保障出来ない状態で、強制移住などさせてみろ。窃盗、略奪……治安の悪化は火を見るより明らかだ。治安維持を預かる我々としては、その様な提案に賛同は出来ない」

「じゃあ、どうすんだ。現実問題、今の規模の前線は支えられねぇぞ」

「前線を支えるのは後方の生活基盤だ。これを崩さない最低のライン――つまり、安心と快適さを引き換えにして不満を抱かないラインを、同時にその地域の全住人に与えられないなら、私は実行に賛成できないと言っているんだ」

 会議とは言いながら、議題すら明らかにならない内に、もう意見の対立が始まっている。議長を務める筈のカムイは、このやりとりに口を挟む事無く、常の様な微笑みを顔に貼り付けたままで話を聞いていた。
 尤も、このやりとりは長く続かない。互いの主張が平行線になる事は目に見えているのだから、第三者の視点――と、データが入らない限り、これ以上の主張を突き出す意味も無い。無用に会議が長引くのは愚者同士が争うからなのだ。

「日和未教官。今の、315部隊の練度はどうですか?」

「おっ、私か? ほう、良く私に聞いてくれた! この私の超越的指導の下、可愛い部下達は――」

「うるせぇ、端的に言え」

 さて、話題の転換の為だろう。カムイが話を振ったのは、里中日和未――こちらも315部隊の教育係である。楊菊蘭と二人で、対照的ながら良く纏まった二人組とも言われるが――この日も、彼女の暴走を止めるのは、楊一人では足りない様に見える。

「15歳というのは、やはり節目と見る者が多いのだろう。世界各国から、15になったからと入隊を希望する者が増えている。若い世代は根本的に、オスと戦う事の恐怖はあれど、躊躇が薄い。上の世代に比べて、短時間での習熟は非常に早い、と断言できる!
 故に、我々の練度は、平均、個人の頂点共に、確実に上昇の傾向にあると言っても良いだろう!」

「素晴らしい事ですね。貴女は優秀な駒を育ててくれます、今回も期待して良いのでしょう?」

 先程、翔鶴の言葉に割り込もうとして睨みつけられた眼鏡の女性が、今回もまた言葉の間に割り込んだ。
 発言の機を窺っていたらしいが、此処で言葉を発したのは――時節というより、相手が気に入らぬからやも知れない。
 世の中には、兎角気の合わない存在も居るものだが、例えばこのフェリシーと、里中日和未も、その一組だった。

「駒、だと……!?」

「あまり若い世代を使い潰すのは好ましくありませんが、然しそう何人もの駒を前線へ送り出せる程、余分な資金を小さな島国に回せはしません。より一人の戦力が高いというならばコスト削減を考え、貴女が育てた駒を選ぶのは間違いでは無いでしょう。
 良いですか、食糧を輸送するのにも弾薬を補充するのにもお金が掛かるんです。現状の規模の戦線維持は無理ですが、かと言って縮小作戦にそう何日も何日も掛ける事は出来ません。大体にして――」

 持参した地図を、手近なボードに磁石で貼り付ける――と、備え付けられたカメラが、それを前方の大型スクリーンに映し出す。
 議題が明確にならずとも、この話題は出るだろうと予測しての事か――抜け目のない事と、舌打ちの音は、マイクの音に掻き消される。

「たった数十キロ後方に、防備の整った都市があるんです。小都市の3つや4つを守る為に、兵站を無暗に広げる愚は冒せません。これ以上、前線を拡大したまま保とうと言うのならば、世界政府は糧食・弾薬の支援を打ち切らざるを得ないと――」

「馬鹿な! 食わず、弾も無く、それで戦いが出来るか! 私の教え子達を、世界政府は無為に死なせるつもりなのか!?」

「人の話は最後まで聞きなさい! それが出来ないというならば方法は二つ。前線都市の住人をその場に放置するか、或いは後方の都市まで輸送するかです。勿論、前者を選べば怨嗟の声は強まる。死ぬよりは良いと宥めて、逃がすべきだとは思いますがね。
 貴女は部下を後生大事に守っていれば良いでしょうが、それで食糧が湧いて出て、輸送経路が確保できると言うならば、そうしてごらんなさい!」

 こうなると、暫くは火が収まらない。当人同士、冷静なつもりはあるのだろうが――傍から聞けば、到底、冷えた会話には聞こえない。
 かと言って、宥める方法など有りはしないのだ――というのも、着眼点が違うだけで、この二人とも、基本的に大きく間違った事は言っていない。

「成程、確かに資金源が不足している、間違いないですね。こんな時代でも、見返りが無ければ動けない人は居る――彼女達も、生きねばならないのですから。
 かと言って、315部隊を筆頭として、精兵は得難きもの。叶うならば一人も死なせたくは無いし、前線縮小の間、オスの襲撃が無いとはとても考え難い……困ったものですねぇ」

 呑気な口調で無理に纏めたカムイだが、これは会議に出席するほぼ全員が、十分に理解している事であった。
 これが一つでも解決するのならば、そもこんな所で顔を突き合わせていないで、早急に実行するべきだ。
 実行に移せる明確な手段が無いから――彼女達は招待に応じて、僅かな糸口でも掴めないかと、模索しているのだ。

「ところで、フェリシー嬢。糧食のコストに関しては、これは落とせば兵の士気に関わるものではありますが……武器弾薬に関しては、これは抑える事は可能ですか?」

「……? 戦闘員の人数を減らし、各々が近接兵装にての戦闘を心がけるならば、理屈の上では可能ですよ。今の戦い方は、小銃の引き金に指をかけっぱなしで無駄が多い。銃器の手入れもずさんで、直ぐに代替品を用意しなければならない。どこかの能天気な教官さんは、ご同僚に銃器の扱い方を学んではどうですかね?」

「……骨董品の様な銃を押し付けて良くも言う。暴発、或いは弾詰まりで、この数年にどれだけの物が死んだと思う! 戦場での武器の整備には限界がある、だから後方輸送が途絶えては私達は戦えないとあれ程――」

 そして、彼女達を悩ませる問題の一つとして――武器の、供給というものがある。
 十五年前、単純に人口が半減した。その後、人は減り続け、都市も破棄され続けている。つまり、工場と、それを動かせる人間が減ったのだから――世界に溢れかえっていた筈の銃器も、需要に対し供給が、少しずつ間に合わなくなり始めている。
 オスと人間の力関係は――これは、一概には言い難い。一部の、政府からも特定の戦力と認識されている者達は、小型のオス複数ならば単騎で討伐し得る。だが、それ以外の――寧ろ九割九分以上の者は、重火器に身を固め、数人で群れて、やっとオスと張り合えるのだ。

「ならば、銃器に頼らない人選を行えば良いでしょう。丁度、貴女の妹は、人類最強と名高いんですから、彼女を中心とした小隊をもっと頻繁に運用すれば――」

「雛未も人間だ、同時に二か所には留まれない!」

 だから、一部の精兵の負担が大きくなる。
 幾ら金銭的な報酬であがなおうとしても、こればかりは限界がある。死ねばそれまで、溜め込んだ金も使えない。悩ましい事に強者程、金銭に価値を見出さなくなるのだ――十分以上に、所持しているが故に。
 かと言って、弱兵を一晩で精兵に変える魔術など、誰も使えない。そして新たな才能は、もう二度と生まれては――



「……里中 雛未を、増やせるとしたら?」

 それは、戯言にしか受け取れぬ響きだった筈だ。
 然し、常に顔に貼り付けられた微笑みを取り払って、カムイ・紅雪が発した声は――続く足音に、声に、強く裏打ちされた。

「制式装備のリストを見ましたが、まあなんてくだらない審美眼の持ち主が選んだ銃なのかしら。
 パスタを茹でるしか能の無い連中のベレッタに、屑油で固めたくず肉で肥え太ったコルトのディフェンダー。ピストルよりピストレ作りに熱を上げたFNの小銃。9mm! 9mm! 5.56! 気の小さい連中だ!」

 会議場に、堂々と遅参した女は――居並ぶ誰の顔に目をくれる事も無く、すうと伸びた背に、外套の袖をはためかせた。
 どよめきが幾つか起こり――翔鶴が、その護衛の早乙女椿が、同時に刀の柄に手を伸ばす。何故ならばその女は、反政府的な人種でさえ有る筈だからだ。

「トーラスはどうだ、12.7mmが撃てる……てめぇ、何しに来やがった」

「ブラジル人はバレットよりサッカーボールに親しむべきだ。……然し驚いたわ、殆どの者とは初対面ですが、どうやら皆さま私を知っていてくださる様で、まことに結構、まことに光栄」

 楊菊蘭が冷やかな歓迎を示すも、女は足を止めず、この会議室では、便宜上、最も入り口から遠くに座っている、カムイの前に立つ。
 すると、カムイはすぐさま椅子を降りて立ち――機械の補助無しでは歩く事もままならぬ彼女が、立ち――空いた椅子に女は腰掛け、目の前の机を足置きにした。

「親愛なる歓迎を感謝しますわ、日本の方々。ドイツ人と日本人は嫌いじゃない、鼻持ちならない英国ジョークが飛んでこない上に、食事も余程上等でいらっしゃる。然し銃器に関するセンスは頂けない、この世界でまだSi vis pacemとは、9条で抜けた臓腑を取り戻していないと?
 ……失敬、名乗り遅れました。私はブランディーネ、これよりは皆さまの、良きビジネスパートナーとなれますかと」

 ブランディーネ――その名を、顔を、皆が知る理由が有った。彼女こそは西洋最大のマフィア、ブランディーネファミリーを束ねる長であるからだ。
 おおよそマフィアだのヤクザだのと反社会的な組織は、世界に秩序が有ってこそ成り立つものである。然るに彼女は、世界が滅びへ向かう最中に、完全な営利団体として組織を再構築しながら、然しマフィアの気風――政府へ服従せず、自らを最大の規律と生きる――を保ち続けた。
 手を出さぬ限りは噛まれない。だが、決して従わず――仮に手を出せば、手首どころか肩も、果ては首まで噛み千切る。理知ある獣と呼ぶのが相応しい、危険人物であった。

「ビジネスですって? 生憎と世界政府は、モルヒネやコカインを買い漁る余裕は有りません。人間なら買うかも知れませんが、戦闘員のレンタルでも?」

 金銭関係の話題に敏いフェリシーは、マフィアのボスが同室に居るからか、明らかに居心地の悪そうな顔になる。それでも、先手を取りたいのだろう、些かならず棘を声音に含ませて問うた。

「ドラッグ? はっ、ビジネスの土壌を腐らせるばかりの貧困な発想ね……貴女は商人になれないわ。買い手の脳をすかすかのスフレに仕立て上げて、どうやって利益を出せというのかしら。
 ……話題が見えない阿呆でも無いだろう、私が売りに来たのは銃器・弾薬だ。程度の低い雑言には、鉛が代価と決めている」

 営業様の作り笑顔と声から、恐らくは自然体だろう微笑と、ドスの利いた声に。自然に切り替わりながらブランディーネは、自分の大腿をテーブル代わりに、幾つかの書類を手元に広げた。

「結論から言おう。我がブランディーネファミリーは、蛇花みずちとその旗下に、一人当たり2丁の拳銃、1丁の小銃、そして適量の弾薬を無償提供する事が決まった。その上で、世界政府が正式に認定した戦闘部隊に対しては、通常流通の六割減で我が社の銃器を提供する事を、視野に入れている」

「ろくっ……!?」

 方々で、電卓を叩く音がした。目を丸くして、動きも取れぬ者がいた。
 おおよそあり得ぬ数値だと、誰もが考えた。利を求める商人ならば、決して口にはせぬ数字であると。

「……代償は、何を求めるつもりですか?」

 フェリシーは、電卓もペンも、何も手にはしていなかったが、眼鏡の位置をしきりに直しつつ、言葉の真意を問い質す。両手とも机の上には無く――隣に座っているものが見れば、背後に控える護衛の、スーツの裾を引いて、何事か合図をしているのが伺えただろう。

「欲しいものは、三つだ。まず一つには工場を建てるだけの土地、一つにはそれよりの輸送手段。これだけの特化で提供するからには、危険を冒して大洋を渡る事は出来ない。拠点をこの日本の、関東地区の、安全な都市に頂こう。
 それから輸送手段だが――戦地まで届けろとは、私の部下に命ずる事は出来ないのでね。供給を受ける部隊が、工場まで取りに来てくれる事を条件とする。……何、それを踏まえても十分に安いだろう、諸外国のぼろ工場から劣化コピーを掻き集めるよりは」

「お前の部下をこの国の、それも大居住区に住まわせろという事か。土地ならば幾らでもあるが、ならば居住区の外にしてもらおう! 共通の言語を扱えない者が増えるだけで、治安は酷く悪化する……看過は出来ない!」

 翔鶴が、立ち上がらんばかりの権幕で吠えた。
 事実、多国籍の部隊を編制するというのは、ある一面で、治安の悪化を引き起こす要因となる。日本は経済的に富んでいて、だからパンデミックの後も迅速に復旧を開始したが――だからこそ、人が流れ込み、都市の多国籍化が進んだ。
 翔鶴の任は、治安維持を引き受ける治安維持部門、通称〝無法者取締り科〟の長。オスとの戦いに人類が戦力を注ぎ込む中、こうして会議の場で発言するだけの権力を得ているのは、この部門が日本政府に欠かせぬ事の証でもあった。

「仮にその様な施設を作るのならば、我々の管轄の下、個人単位まで所有兵装を管理させてもらう。物資の購入は、搬送は政府側の指定した業者に行わせ、我々が指定した居住区域外に、18時以降の滞在を認めない」

「夜間外出禁止は呑もう、血気盛んな連中だと自覚は有る。だが、我らの銃はプライドの具現だ。これに管理番号を付与し、ロッカーに投げ込んで鍵を掛ける様な無粋は許さん。それを通すのならば、銃器の提供は無しだ」

 言語の壁は未だに分厚い。正面からぶつかる事も予測していたか――ブランディーネは、一歩だけ退く。退きながらも切るカードは、他の誰が切る事も出来ない物である。
 問題が、治安の維持だけに在るならば、翔鶴はこのまま引かずに居ただろう。だが――今回は、問題が其処に留まらない。自分の管轄の外であるにせよ、戦闘部隊への安定した武装の供給は、決して欠かせぬ事と理解している。故に、それを専門とする者が動かぬのならば、下手な事は言えぬと口を閉ざした。

「では、ブランディーネ殿。私の耳は確かに、条件を3つと聞いたぞ。貴女はまだ2つしか提示していない、残り1つをどうぞ示したまえ! その内容次第では、私もあれこれと言わねばならぬだろうからな!」

 入れ替わる様に口を開いたのは、里中日和未である。滅多に見せぬ他者への敬称を用いながら、然し場合によっては対立する事も辞さないと示す――これもまた、退く事を知らぬ立ち方だった、
 そも人と人の交渉は、退かぬ者が勝つ事が多い。知に働かせて生きる人種では無いにせよ、日和未もまた、場数を踏んだ女である。
「里中日和未、315部隊の指導教官、貴女に問いを頂いたのは恐悦至極。貴女と楊教官の御声さえ有れば、実現出来るのが第3の希望ですのよ。……単純に言えば315部隊の制式装備として、『Blandly A15』を始めとする我が社の装備を採用していただきたい、と――」

「現物は有んのか、この目で見ねぇと判断は出来ねぇ」

 だが、ここでは楊菊蘭が口を挟んだ。彼女の本業は狙撃手であり、銃器全般の扱いに長ける。採用するのならば自分が見てから――その判断は、当然のものであった。
 そして当然の問いならば、商売人として、商品見本を用意するのもまた当然。ブランディーネは、自分自身は机上に足を組んだままで指を鳴らし、部下の一人にケースを運ばせた。
 楊の前にケースを置いて、自分自身はすぐさま壁まで後退した部下。躾けが行き届いた事だと感心しながら、楊はケースを開き――その中に並んだ、銃器部品に目を通した。

「……『Blandly A15』はバラした事があるが、こっちの小銃と……散弾銃か? これは初めて見る奴だな……」

 ――部品を手に取り、組み上げ、また分解する。
 細かな整備が難しい、補給の少ない戦場を仮定するなら――少々の歪み程度は耐える事と、分解が容易く、かと言って動作不良は起こさない。それさえ叶うならば、引き金が堅いだの銃身が重いだの、取り回しの不便には目を瞑る。
 ブランディーネの持参した武器は、見事にその設計思想に沿って作られた、まさにオスを殺す事だけを想定した武器であった。
 恐らくは至近距離からの発砲を視野に入れているのだろう、重心バランスは良いとは言えず、精密な狙いは付け難い。だが、一度に装填できる弾丸の数は、同口径の銃に比べれば多く、また強度も高い。

「……扱いづれえ」

「慣れて貰う。時代に流されて思い違いをする連中も居るが、他者の命を奪うというのは、中々に難しい事だ。我々は、引き金を引いた時に銃弾が飛び出す仕組みを作る。それが命中するかどうかは、貴女達の仕事だろう。違うか?」

「いや、確かにそうだ。この程度なら……」

 几帳面に、最初にケースに収まっていた時と同じように、楊は銃器全てを分解して元に戻す。暫く口を閉じた侭、適切な言葉を探していた様に見えたが――

「日和未、悪くはねぇ。安く数を集められるなら、それに越した事もねぇ」

 一応ばかり〝良し〟を出した。
 だが、眉間の間の皺が何時もより深いのは、輸送の問題である。

「……が、これを取りに来るのは面倒だな。私らはあちこちに飛ぶ。わざわざ日本に舞い戻って、武器だけ抱えてまた出かけろってか?」

「それに関しては、私達が受け持ちます――既に我が主、蛇花みずちより命が下りていますので。私を経由しての発注であれば、生産の完了、コンテナ等への積み込みが完了次第、空輸か海輸か手を講じましょう。
 代金はそのまま、ブランディーネファミリーへ回してくださって結構。世界政府との交友関係を強められるなら、安い投資と言うものです」

 然し、今度は――漸くというべきかも知れないが――カムイが、言葉で呑んだ。

「が。思うにですね、315部隊だけに過酷な任を与え続ける事が、間違っている。私はそう、考えているのです。
 これから人類は、一個の強大な戦力に頼りながら、オスと戦わなければなりません。然し、人間は必ず疲労する。だからこそ私は――先程も言いました様に、里中雛未を増やさねばならないと。つまり、単独にてオス複数と対抗し得る戦力を、増やさねばならない」

 ぶん、と蛍光灯が唸って、会議室の照明が、小さな幾つかを残して消えた。代わりに強い光が、カムイの背後に備わったスクリーンを照らし――そこに、映像が流れ始める。それは、都市の一区画での戦闘を記録したものだった。
 最初の数十秒は、特に目を惹く何物も無い。強いて言えば、気を急いた新兵が味方の射線に飛び出し、頭を西瓜の様に砕かれたくらいのもので、ブランディーネはそれを鼻で笑った。
 肝要なのは、その次だ。

「……ああ、こいつか……くそデカかったな」

「むむっ……! これは、大した面構えだな……!」

 歴戦の315部隊教官が、二人揃って呻いた。それ程に、映像に収められたオスは、化け物じみていた。
 周囲の建造物や、戦っている兵士と比較して――体躯は優に15m程も有ろう。身を包む白銀の体毛は、銃弾を弾いている所からして、金属程度の強度は備えていると伺える。
 敏捷、凶暴、反応も速い。そこに映っていたのは、もはや怪物と呼ぶ事さえ不足と感じさせる、狼の帝王の姿であった。
 どよめく会議室――その中で、カムイは立ち上がる。スクリーンの手前、僅かに高くなっている台座に、歩行補助の機械脚をがしゃがしゃと鳴らして上った。

「皆様、どうかご静粛に。……この映像に収められているオスは、私がかつて、富士の森林地帯で遭遇したものです。私が率いた部下は悉く殺され、私自身もまた、脚に大怪我を追い、ただ立つ事さえ苦心する身の上となりました。速度も力も然る事ながら、最も恐るべきは強度で――」

 映像の中では、二人の兵士が、銀狼と戦っている。銃弾は幾つも吸い込まれ、そして曲刀が身に叩き込まれるが、銀狼は怯みもしない。その様な斬撃では、白銀の体毛の一房たりと落とせず――むしろ衝撃が疎ましいと、ますます猛り狂った。

「ご覧頂ければ分かります様に、もはやこのオスに対しては、小銃程度の貫通力では何ら効果を生みません。榴弾投射器、対装甲車料を前提とした機銃、爆薬……つまり、個人が携行する物としては限界に近い火力を備えた兵装で始めて、対抗が可能と見ています」

「判断の根拠は!?」

 会場の一画から声が上がった。酷く汗を流しているその女は、少なくとも此処では映像でしかない存在に、肝を潰した様子だった。

「体毛の一部を採取し、徹底的な分析を行いました。それに関しては私より、専門の方々から伝えた方が宜しいでしょう」

 言うなりカムイは、檀上で一歩後退する。事前の仕込みは万端整っていると見えて、動画の消えたスクリーンには、代わりにスライド写真が映った。
 この写真を見て、感嘆の声を上げるものも居れば、きょとんと呆けた顔を晒す者も居る。実際の所、大半の者は、写真に何が納められているかを理解は出来なかっただろう。

「これは、今の映像に映っていた個体――〝特定警戒種・四足獣型14番〟の体毛、その断面図の拡大写真です。目を開けるだけじゃなく、ちゃんと見てるかしら?
 この特徴的な環状構造は、研究職になくても、もしかしたら見覚えがあるかも知れないわね?」

「城ヶ咲 撫子さんです。今回の分析に於いて、三区一号支部の研究員の、総指揮を取って頂きました」

 空隙に滑り込む様に、場の主役が入れ替わる。居並ぶ高官達の前でも、幼子を相手取るかの口振りは変わらず、撫子はレーザーポインターでスライド写真の一点を示した。

「三層に渡る組織は、本来ならば硬質蛋白質――ケラチンで構成される筈の物と、全くの同形を示してるわ。但し、体毛一本の直径が3mmは有るから……単純に、20倍から30倍の相似形ね。引っ張り強度は直径の二乗に比例するから、仮にこれが本来のそれと同じ材質だったとしても――」

「撫子、分かり易く頼む。習ったが、専門じゃない」

 議場の多くの者を代弁するかの様に、翔鶴が不機嫌面で口を挟む。すると撫子は、寧ろ我が意を得たりと言わんばかり、ぱあと顔を輝かせ――

「あら、クズちゃんもちゃんとお仕事してたのね、えらいえらい? それじゃあ、簡単に教えてあげる。
 あのオスから採取された体毛は、人間の毛髪と完全な相似形を保ちながら、然し全てのケラチンが、鋼鉄に近い金属に置き換わっている――と言えば、分かるかしら。特定警戒種14番は、私達が蛋白質から爪や髪を作るのと同じ様に、鉄分から体毛を作り――恐らくは骨も、爪も牙も作っている、と私は推測しているわ。
 これは仮にだけど、肋骨と胸骨が体重を支えられるだけ発達していたら――心臓はそれこそ、分厚い鎧を纏った様になっているのじゃないかしら?」

 銀の狼王が、帝国を維持する理由を、推測ではあるが告げた。
 そうなれば、だれも心安らかにはいられない。つい先程、大量の銃器を得られる目途は付いたが――それが無為に帰す程の怪物が、この国を牙城と選んだのだから。

 然し――これは、演出に過ぎない。手際よく整えられた――お膳立てされた、とでも言い直すべきか。静まり返った空間を賑やかすのは、再びスクリーンに映る戦闘記録の映像であった。
 たった二人の、それも新兵が、かの巨狼に挑む。大方、喰われて死ぬのが終いだろうと思った観衆の目を、白光が揺さぶって覚まさせた。

「ところで、撫子さん。その体毛――いや〝体鋼〟は、熱に強いものでしたか?」

「いいえ、強度はさておき、生物の纏うものだもの、過剰な耐熱性は不要なのかしらね。摂氏600度を超えた辺りから融解が始まるから、加工した所で、熱に晒される部品には使えないわ」

「そうですか、それは幸運でした――〝彼女〟はどうも、運がいいらしい」

 記録映像の中、カメラがズームして捉えたのは――長大な刀身を持つ、奇妙な機械刀。柄を、担い手の少女が操作したかと思いきや、刀身は忽ちに赤熱を始め、そして終には白光を放つまでになったのだ。
 ごう、と振り抜かれた熱刀身は、然し狙い定めた頭では無く、銀狼の尾を切り落とすに留まったが――その意を、皆が理解する。
 たった今、あの怪物は鋼鉄の体毛に覆われた、いわば鎧を纏ったも同然と知ったばかりだ。にも関わらず映像の中の刃は、容易くその尾を切り落とした。
 誰かが、こう考える。あそこで戦っていたのが新兵では無く、歴戦の精兵であり、そして十数人で包囲出来ていたのなら――?

「……兵の数が増やせないならば、個々人の戦力を増さねばならない。制式装備に関しては、少なくとも銃器の、入手の目途が立ちました。ならば次は、白兵戦に於ける装備でしょう。
 あの映像の兵士は、私の部下ですが――彼女が所有するのは『S-103携行型』、〝ヴォルフ・コレクション〟から提供された品です」

 会議場がどよめくのはもう何度目か、数えている者もいないだろうが、それでも飽きずに驚愕し続ける者がいるのは、やはり真っ当な神経ならば耳を疑わざるを得ないからだ。

「……おい、カムイ。西と東の二大マフィアを呼びつけて、なんだ。島国にゴッサム・シティでも作るつもりか?」

「高層ビルが夜景を彩る、活気溢れる街ならば、やがて造らざるを得ないでしょうが……楊教官、あまり私を虐めないで頂けますか?
 いや然し、彼女達の技術は捨てたものでは無い。個人携行可能な兵装として、これ程に優秀な装備は少ないのですから。例えば、只今ご覧いただいた『電熱ブレード』を始め――」

 かしゃ、かしゃ、とスライド写真が切り替わる。写っているのは何れも奇抜で、だが使う者の腕さえ伴えば、確実にオスを屠る凶器。

「試作型で改良の余地は有りますが、ヴァイブロブレードを実用可能な域に高めた『S-109手甲型〝ライガー・ミーア〟』。写真ではナイフだけを移動させていますが、実用段階では各種の武装を瞬時に手元に送る『S-129改〝アームズセレクター〟』……ヴォルフ・コレクションは莫大な資金を、技術革新へ惜しみなく注ぎ込んでいます。
 また、技量を必要としない装備としては、軽量にして強度の高いプロテクターや軍靴、傾向可能装備数を増やす為のバックパック等……端的に申し上げましょう。我ら蛇花みずち旗下〝鬼灯衆〟は、これらの装備の採用により、負傷率を六割と八分、軽減に成功しており――」

 カムイは、まるでスポークスマンにでもなったかの様に、ヴォルフ・コレクションの装備を喧伝し続ける。その胡散臭さを最も強く嗅ぎ付けたのは、やはり翔鶴――治安維持に携わる者であった。
 最大の違和感は、商売敵の商品が宣伝されるのを、安らかに聞き流しているブランディーネの存在だ。場で最も尊重されねば気が済まぬと言った風の女が、こうして静かに椅子に座る事に甘んじている――似合いもしないと、感じた。

「……会議中、済まない。部下から連絡が入った、早急に出向かねばならない。議事録さえ送り付けてくれれば、全て目を通すし、必要な資料は提供しよう。工場の敷地に関しては、候補地を……カムイ支部長に伝える。構わないな?」

「おや、お仕事ですか、お疲れ様です。そうしてくださるなら大いに結構、お心遣いに深く感謝致します」

 だからだろう。翔鶴は早々に、この会議に見切りを付けた。腹心の椿を伴って、振り向きもせずに会議場の扉へ真っ直ぐに向かい、ぎいと押し開けて廊下へ出て行く。その間、何時もの険しい顔は度を増して、何か腹を立てた様な気迫さえ撒き散らしていた。

「やはり日本人は忙しい。競歩の平均記録ばかり伸びる国民性だな、エレガンスに欠ける。……が、会議を躍らせるばかりなのも愚行だ、里中教官、楊教官。そろそろ私に答えを賜りたいが、果たして我が社の銃器は、貴女達のお眼鏡に適うものだったかな?」

 一人、幹部が退場して、場の空気は締めへと向かい始めた。ブランディーネは足をおろし、代わりに机に腰掛けながら、商談の帰結を問う。
 此処までのやり取りは言うなれば――この瞬間の為の、布石である。
 全ての前提は、此処で315部隊の教官達が、首を縦に振ってこそ。横に振るのであれば、商談はそれでお終いだ。
 尤も、現状では今回の商談を蹴る事に、政府としての利は薄い。戦線の拡大・縮小を問わず、武器の慢性的不足は否めないのだから、それが安価で手に入るなら、マフィアでも盗人でも頼りたいのが本音だろう。
 だが――楊菊蘭は、迷っていた。利益だけを鑑みるならば、応と頷いてしかるべきだろうが――彼女は、頷いてはならぬと、心の何処かで感じていたのだ。
 勘では無い。明確に理由を言語化出来る。だが、この場で口に出すつもりは無い。だから、陽性の気性の相棒を、視線で牽制しつつ、思考を最大速度で回していた。

「結論は――」

 急かす様に、再度、問う声。それを制止しようと楊菊蘭は、〝待て〟と口に出そうとした。出そうとしたが――見た光景が、声を喉の奥に引き換えさせた。
 カムイが、日和未に何事か耳打ちをしていた。本当に短い時間で、長い言葉は伝えられなかった筈だ。だが、恐らくは数個の言葉だけで、日和未は陽性の顔に影を差しつつ――

「……受けよう! 銃の扱いは楊の本分だが、その提案を受諾する。カムイ支部長には早速、東海一区前線まで、兵員千名分の発注を行いたい!」

 ――力強く、言い放った。
 まるで躊躇いなど無いかの様に――無いと、錯覚させる様に。相棒の意など問う事も無く、殆ど独断の形で、日和未は、制式装備の変更を決定した。





「はるばるの御足労、ありがとうございます。存外にフットワークの軽い方ですね」

「お前の様に、鋼造りの足をしていないからだ。……約定を違えるなよ?」

「ええ、勿論。尤も、もはや私一人が何かを違えた所で、私が歯車に轢き潰されるだけでしょうが」

 会議は終了し、参加者達も、本来あるべき所へ帰った。だがブランディーネは、来賓用の部屋を更に改装させた、要塞じみた強度の壁の内側に居た。
 カムイに書類とコートを持たせ、自分自身は浴槽に体を沈め。首と腕だけを湯の外に出し、連れてきた部下の一人に髪を洗わせている。
 此度の来日の目的は、言うまでも無く市場の拡大。狙いはただ一つ、〝315部隊への制式採用〟であった。
 人類最強と称される、里中雛未を所有する部隊ともなれば、その影響力は大きい。彼女達が常に所持し、手に馴染ませた武器とあらば、世界各国の戦闘部隊もこぞって模倣を始めるだろうと踏んで――最初は、敢えて利益を捨てる。
 生産拠点を日本に置き、輸送の費用は全て日本政府に押し付けるとなれば、それでも損失までは受けない筈だ。それで耐えながら、制式装備との看板と、安定した供給を武器に、現存する全ての銃器に取って変わる――大雑把にいえば、それがブランディーネの目論見であった。

「それで? 会議の後、お前に発注を申し出た者はどれだけ居た?」

「リストを用意しましたが、濡れた手では触れられないでしょう。読み上げますか?」

「そうしろ、私は暫く湯に浸かる。この国は悪くない、食はまがい物ばかりだが多岐に渡り、似非の寝台に似非の風呂は、何れも本家と異なった形で成熟している。こういう国だから、お前の様な生き物も生まれたか?」

 薄い紙の束を捲るカムイに、ブランディーネは目を閉じたまま――開けると泡が入りそうなのだ――問う。瞼の下の眼球が、恐らくは己を覗き込んで居るのだろうと、カムイは後退しようとする脚を抑え込んだ。

「……さあて、私は善良な女ですから。世界の平和の為に、人類の繁栄の為に、どうかお力をお貸しください社長。そうすれば私は貴女達に、相応の礼を為す予定は有ります」

「空々しい。蛇の真似事をするお前は、蜥蜴か、それとも只の抜け殻か?」

 暴君は、衣を纏わずとも暴君だ。足で湯船の泡を跳ね、起伏激しい感情の一端を示す。

「お前はこの国と同じだ。本質を弁えぬ侭に模倣を始めて、仕上がってみれば全くの別物。舌に乗せた毒の味は、主人のそれには遠く及ばない」

「私がホストでは、ご不満が?」

「不満も何も無い。蛇の女王閣下では、こんな商談の締結は出来ないだろう。これは、曲がりなりにも朝貢を遂げたお前への忠告、助言だと思え。
 味音痴のイギリス人なら知らないが、私達は美味に触れている。欺かれると思うなよ?」

「ええ、勿論。敵わない相手には、矛を向けないのが私ですから。貴女の利益は私の利益、そう心得ていますとも」

 笑みを貼り付けたままで受け答えをするカムイに、ブランディーネの部下は、銃口にも似た視線を突き付けている。だが、女傑本人は至って平静に、湯で顔の泡を落とし、仮面を眺めて――

「耳を貸せ、ジャポネーズ」

「は、耳を……?」

 言われるままに――と言うよりも、命じられるままに。カムイはブランディーネへ、身を乗り出すように耳を差し出し――襟首を、掴まれる。

「……おや」

「此の期に及んで動じないのは、裸の女一人、二本の腕だけで殺せると思い上がっているからか? 私が嫌いなものは、出来の悪いウィットに脂っこいばかりのフィッシュアンドチップス、それから〝思い上がった脚無し蜥蜴〟だ」

 襟の裏から引き剥がされる、小さな電子部品。湯船に引き込まれ、電子回路の隅々まで浸水したそれは、小型の盗聴器であった。
 つまりはカムイの発した言葉と、カムイが身近に聞いた言葉は、全て誰かへ筒抜けとなっていて――そしてこれは、カムイ自身が知るところでもあった。

「ビジネスパートナーのよしみで、たった一度、慈悲をやろう。次に私を侮ることが有れば、お前の耳孔は縦に二つ並ぶ事になる。分かったか、カムイ・紅雪」

「……ええ、海よりも深く」

「結構。では、盗み聞く者もいなくなった、改めて商談に移ろうか――」






「あっ、あっ! あーもー、マダムー、気付かれたー! というか気付かれてたー!」

「構わないわぁ、此処から先は後でも推測が出来るもの……物流を追うだけの事でしょう?」 

 西の暴君が湯浴みを楽しんでいる頃、東の魔女はこれまたのんびりと、寝台に体重を預けていた。
 窓の無い部屋だ。郷に入りては郷に従えと、畳や襖を用意させても、寝床だけは高くなければ落ち着かぬのか。調和を乱した空間に、むしろ快を見出したのやも知れないが――そこに電子機器まで運び込めば、歪さはグロテスクの域にまで及んだ。
 護衛は部屋の外に遊ばせて、部屋の内には二人ばかり。その内の片方は、ヘッドホンを両手で抑え、音曲を楽しむ様に首を振りながら盗み聞きをしていたが――盗聴器が壊れると同時に、ぽんとヘッドホンを投げ捨てた。

「でもさ、でもさ、気にならない? 今を時めく死の商人様の、お取引先のリストだよ?」

「ぜーんぜん。そんなものよりもっともっと、心ときめくものがあるじゃない!」

「……あー、あー、あー」

 寝台の上、艶然と座しながら――幼子の如くはしゃぎまわるマダム・ヴォルフ。腹心のマデレーネは、主の歓喜の理由を察していた。

「15mの巨躯! 鋼の体毛! 跳躍し、馳せる……! 動物なんてものじゃない、恐竜よ……嗚呼、素敵!
 檻は作れるかしら、鉄格子も食いちぎってしまうわね。地面を掘り進むなら、きっと捕えて置く事なんて出来ないのよ……!」

 ヴォルフ・コレクションを〝組織〟として見るならば、これは資金を集め技術を高める、方法はさておき至極真っ当な団体である――が、その長だけは、少々毛並が違う。
 飽く迄もマダム・ヴォルフの目的は〝娯楽〟である。世界が終わろうが終わるまいが、それは彼女の関心事項と記するに値せず、ただ楽しむ事さえ出来るのならば、それで良かった。

「ご執心? でもでも確かに、流石の私もアレを閉じ込めるのは無理! 殺しちゃう方法なら考えたけど、駄目ー?」

「駄目」

「ちぇー」

 会議の場には赴かず、資料だけを用意させ、会話は盗聴器から盗み聞きして録音し――酷く怠惰に堕落しながら、この二人は議題全てを聞き届けていた。
 彼女達の関心事は議場には無く、肝要な部分のみを抜き出せば良いと、或る種の米国的合理主義――無論、享楽主義の精神とは対照的ではあるが。そして実際にマダム・ヴォルフには、会議の大半は、まるで関心に値しない事だった。
 自社で開発する軍用アーマーは、確かに利率が高く、世界政府制式装備として採用されれば、継続して利益を生む。とはいえ『ヴォルフ・コレクション』全体の収益を見るならば、仮にこの話が立ち消えしたとして、大きな損失が出る訳でも無い。だのに東方の島国にまで赴いたのは――大きな餌が、ばら撒かれたからだ。

「生かしておかなければ、無意味なのよ。その為にわざわざ、舞台を用意させたんじゃないのぉ?」

「んまーねー、本当に用意してくるとは思わなかったけどー。リストには目を通した?」

「勿論! 既に〝演目〟まで決めてあるわ。建物一つ一つも、どれを娼館にして、どれは生活スペースにするか。根本から圧し折れたビルが有るでしょう、あれは野外演劇場にするのよ!」

 〝目録〟をぱらぱらと捲りながら、マダム・ヴォルフは歓喜する。
 納められたのは――『土地』と『建物』、それから『人間』の名前。端的に言えば、街を丸ごと一つだった――但し、廃棄予定の。
 先の会議で、前線縮小とそれに伴う都市幾つかの放棄は、ほぼ決定的となった。つまりそれらの都市は、完全に政府の管理から外れる訳だが――ならば、それを誰かが支配して、悪い道理が有るものか。それが、マダム・ヴォルフへ商談を持ちかけた、カムイの第一声であった。

 破棄される街に、死んだ筈の人間達。死人ならば何をしようと――そも、この世界で人権を叫ぶ事も虚しいだろうが。

「〝獣の檻〟は街の中央、廃屋に囲まれた広場でどう? 実はもう設計図も書きあげてたりー」

「広く作るのよ、走り回れるように、人が逃げられる様に……。喰われる恐怖に叫ぶ子を見ながら、生き延びた子を抱きながら、次は貴女がああなると誰かに囁いて――」

 倒錯の宴を夢見ながら、ヴォルフは〝招待状〟を綴り始める。
 たった数人の好事家の為に、何十何百の少女を嘆かせる過激な演目を、優美な筆跡で記して。どうせ世界が終わるなら、退廃の美徳を積み重ねるのも、きっと後、数年の事と何処かで悟りながら――。






「ああ、全く……! 何ですかあれは! なんでマフィアなんか顔を出すんですか、もう……!」

「どうどう、どうどう、落ち着いてください」

「私は馬じゃない! 蹴り殺しますよ駄犬!」

 政府高官用に宛がわれた部屋。フェリシーは部屋着に着替えを済ませてから、ようやっと溜まった鬱憤を吐き出すように喚き始めた。
 そもそも、世の中には算数さえ出来ない馬鹿が多すぎると、これがまずフェリシーの憂鬱の一つである。金も兵糧も、どこからか湧いて出てくるというなら苦労は無い。そんな奇跡は起こり得ないからこそ、自分が電卓を叩き、数字の羅列と睨み合って、適切な兵糧管理を行っているのだと。
 前線にもっと兵士を送れと、どこかの部隊の教育係は喚く。だが、それに従ったとしたら――兵站を支える後方都市に、どれだけの負担を強いる事になるのか。
 フェリシーは決して、人間想いの性格では無い。後方に負担を与えたがらないのは、単純にそれが資金繰りを難しくするのと――怨嗟が、自分に向きかねないからだ。
 追い詰められた人間は、貧すれば鈍すと、兎角愚かになる。愚か者に着け狙われて命を危険に晒すなど、到底許容できるものではない。彼女に取って最大の関心事項は、己の命なのだから。
 だから、理解出来ない事も多い。自分の命を投げ打ってまで戦おうとする連中や、そんな連中を守る為に、他者への献身を強要する女など。理解してやる必要性すら感じないし――何故か、その女こそが、自分より強い支持を受けていると知っては、苛立ちすら感じる。

「今日もまた、日和未教官と大喧嘩でしたね」

「喧嘩……ゼックス、貴女は言葉を選びなさい」

「申し訳ございません」

 そして、部下――ユーリ・フランチェスカは、悪びれる様子も無いのだから、疲労の度合いが跳ね上がる。
 とはいえ、その疲労を癒すべく飲み物を用意するのも、横たわった際に背や脚を揉み解すのもこの部下なのだから、よもや足蹴にする訳にも行かず、なのだ。

「ところで、今日の会議への招集は……あれは結局、何だったのですか? 随分と賑やかでしたが……」

「……ああ、あの会議ですか。ふん、あんなものはただの、見栄の張り合いに過ぎません。最初から答えが見えている問題に、馬鹿がぎゃあぎゃあと噛み付いただけの事です!
 決定事項として通達すればいいだけの事というのに、大物ぶりたいが為に、人を遠方から呼びつけて置いて……ああ、腹が立つ……」

「カムイ支部長がお嫌いですか?」

 忠実――と、呼んでいいのかは分からない部下の問いに、フェリシーはベッドの縁に腰掛けたまま、苦々しげな顔をする。

「好き嫌いでいうなら、ああいう人間は嫌いです。あれだけじゃない、マフィアも嫌いだ、里中日和未も嫌いだ、みんなみんな大嫌いです! なんであんな連中ばっかり集まる会議に……うううぅっ」

 命を繋ぐ為に戦った事は有るが、決して勇敢な性質では無い彼女だ。緊張の糸が切れ涙ぐむ様は、とても年齢に似合いとは見えない。靴を脱げばヒールのごまかしも聞かず、一回りも小さくなった様に見える。
 だが、慰めるように置かれたユーリの手は、手の甲でぴしりと打ち払われる。それに悲しむでもなく、小さく詫びの言葉だけ述べて、ユーリはフェリシーから一歩だけ遠ざかった。

「……ゼックス、書簡を作りなさい。ブランディーネファミリーに送ります」

「は……文面は、どうしますか?」

「貴女が適当に決めていいです。内容としては……〝世界政府とフェリシー個人は、ブランディーネファミリーを、武器の提供が続く限り支援し続ける〟と」

 表情の薄いユーリだが、この言葉には僅かに驚愕を示す。その様な話は、事前に何も聞いていないからだ。仕事、大外交渉ともなれば、相手方の言葉に反応を誤らない為にも、事前に最低限の説明は有る筈だが――

「独断、ですか?」

「当然ですよ。まさか本部に稟議を上げて、認可が下るのを待てと?」

「後から、面倒な方々にお叱りを受けるかと思いますが。貴女がそれで良いと言うのなら構いませんが、然し――」

「……ユーリ」

 主人の言動が、疲労からの迷いごとでは無いかと気を回す部下――首から下がるネクタイを掴み、フェリシーは強く引き寄せた。
 前のめりになり、近づく首。距離による動揺は無いのか、ユーリは目だけを横に向け、主の行動の真意を探ろうとする。

「ユーリ、私が何故、今まで生きて来られたか、分かりますか?」

「……いいえ」

「人の死臭に敏感だったからです。誰が生き延び、誰が死にそうかを嗅ぎ分け、生き延びそうな者に手を貸す。巻き添えを食って死ぬなんて間抜けな事はごめんだ、必ず生きて帰りそうな者を助け――彼女の後ろに隠れて、弾を避けて生き延びたんですよ。
 いいですか、カムイ・紅雪は必ず早死にする。あんな生き方をしていて、長生きできる筈も無いんだ。そうすると、彼女が作った〝流通ルート〟が宙に浮く」

「ブランディーネファミリーとの、貿易のルートが?」

「向こうだって商売だ、この時世に政府相手のルートを手放したがりはしないでしょう。だから、先んじて逃げ道を作ってやるんです。仮にカムイ・紅雪が死んだとしても、全く同等の商いを――或いはそれ以上の規模で、商談を行えるルートを、今から」

 ネクタイを掴む手が引いて、ユーリはたたらを踏んで後退する。フェリシーはそれを見届ける事も無く、眼鏡を外してベッドに横になった。

「鼻を鍛えなさい、駄犬」

「はい、畏まりました。……ところで、もう寝るんですか?」

「疲れましたからね……って、こら!? 無理に入って来るな、狭いでしょうがっ!」

 主君に戯れながらも、まだこの人を踏み越えて行くのは難しいかと――思う心を誤魔化す様に。ユーリはぎゃあぎゃあ騒ぐ主を宥め透かしながら、自身も早々に寝てしまおうと決めた。






「大馬鹿野郎! 安請負をしやがって……あれがどういう意味か、分からない訳じゃねえだろう!?」

「はっはっは、そう叫ぶんじゃないぞ菊蘭! 私の耳は至って正常だ!」

「なら私を名前で呼ぶんじゃねえ! それにな、耳は正常だろうが、頭の中身を正常だとは思えねえぞ!」

 帰路――楊の運転する車内は、怒声と笑声が飛び交う、小戦場と成り果てていた。
 楊が腹を立てているのは、相棒の軽率な決定に対してだった。
 制式装備の変更――それ自体は、コストを抑えられるから、決して問題は無い。問題はそれを手元に届けさせる為のルートにある。

「……お前、あいつと同じ戦場に出た事は有るか?」

「カムイ支部長とか? 数年前、どこかの戦場で並んだらしいと記録には有るが、あまり記憶には無い」

「そーだろうよ、大した奴じゃなかった。二本足相手にはめっぽう強かったが、金で動くだけの猪武者。作戦立案やらなんやらに、噛んだ事なんざ一度も無かった。記憶に引っ掛かるような奴じゃねえんだよ」

「……ほう。それにしては、随分と印象が違うな。イメチェンというものか?」

 た、と大きな舌打ちをして、楊はアクセルを強く踏み込む。エンジンが凶暴に唸りを上げて、前後に誰も居ない道路で、装甲車は速度を上げた。

「人間が変わるのは、そりゃ有る事だ。だが、根の部分までを大きく変えられる筈がねぇ。何処まで行っても傭兵は、自分を基準に動くしか出来ねぇんだ。そんなもんだろうが」

「いやいや、そうは言うがな菊蘭! かの御仁の提案は、実状に沿ったものだったろう。戦線を縮小するにせよ、維持するにせよ、確かに此処の戦力を伸ばす必要が有る。新たな武装の採用で、生存率向上と予算削減が同時にこなせるのなら――」

「……肝心なのはそこじゃねぇ、ってのも分かってるな?」

 追突事故など起こり得ない道路だ。楊は首を横に向け、相棒の反応を窺う。日和未は正面に顔を向けたまま、一度だけ頷いて、その長い黒髪で顔を覆った。

「ああ、勿論。輸送を行うのが蛇花みずち旗下の兵という事は……今後、彼女のご機嫌取りが、少し重要になるな」

「あの蛇は、利益を考えねぇ……考える必要がねぇからだ。良いか、あんなのの機嫌を損ねて、武器の供給を絶やしてみろ。弾切れで部下を死なせて、『お前が死ぬのは安全地帯の蛇姫様が不機嫌だからだ』とでも言うつもりか?」

「そうは言わない、言いたくない。だから、方法は考えるさ。いくら蛇花みずちとは言っても、日本政府の思惑を、好き勝手に捻じ曲げられる訳じゃない。しっかりと釘を刺して、きびきび働いてもらうとも!」

 俯きながら、声の強さは変わらない。それが楊には、空元気を作っていると感じられて、僅かばかりの間、沈黙が車内に漂う。
 こうして声を翳らせるのは、自分自身の選択を、完全には信じていないからだ。それが楊にも伝わって、車内の空気を重く沈める。
「……問題は、それだけじゃねえ。私達がああいう会議の場で、デカい顔をしていられる理由が分かってるか?」

「ああ……雛未と、可愛い生徒達のおかげだ。……勿論、素晴らしく素敵でウルトラグレイトな私自身の力が――」

「そうだ、私達が〝315部隊〟の教育係だからだ」

 日和未の言葉を途中で断ち切ったのは、続く言葉が無益なものと知っているからであり――実際の所、己を賛美する単語以外が、その先に続く事は無い。だが、日和未の自画自賛の、真意を楊は良く知っている。
 口を動かしている間は、自分の嘘を自分で信じられるからだ。皆が死ぬ事は無い、自分で助けられる、そう言い続ければ、自分の嘘を信じて僅かにでも安堵していられると――虚しいと知りながら、偽り続けているからだ。
 だから時々、楊はその嘘を暴く。残酷だが、それが勤めだと思っている。

「あいつらは、私達を信じてくれている、良く懐いてくれている。私達が行けと言えば死地にも赴くし、行くなと言えば頑なにそこに留まるだろう。だから政府の連中は、私達を高官扱いする……315部隊を、最強の部隊を手放したくないからな。逆に言うと、私達の権力っつーのはだ、15のガキに鉛筆の代わりに銃器を持たせて作った武力に裏打ちされたもんなんだよ。
 それがな、あの話の裏を考えてみれば……これから先、蛇花みずちの手勢は、政府の他の連中に先んじて、大量の銃器を集められる様になる。兵の質を装備と人数で補って、私達の椅子をぶんどりに来たんだ。分かってんな?」

「分かっている……カムイ支部長に、聞いた」

 がくん、と装甲車が揺れた。ブレーキを強く踏み込み過ぎた為だろう、あやうく楊は額をハンドルに打ち付けかけた。
 日和未の言葉が、楊には信じられなかったのだ。権力にしがみ付く性質では無いが、権力が有るから、自分の生徒達を守る事も出来る。世界最強のブランドが、安く使える大量生産の武力に取って変わられたのなら、その後も自分の生徒達を、同じ様に守れるのか――否、と答えるだろう。

「てめぇ、何を言われた……あいつはてめえに、何を吹き込んだ!?」

 日和未の胸倉を掴み、引き寄せようとして――力では敵わない。逆に楊が、助手席側へ乗り出す羽目になる。激昂する相棒の手を、傷に塗れた手で押し下げ、日和未は絞り出すように言葉を零した。

「……武器が潤沢に揃い、装備が整えば、一部の戦力に頼る必要が無くなる。これまで、後方支援が精一杯だった部隊が、前線に出る事も可能になる。そうすれば、315部隊に――雛未に、休暇を、もっと与えられる、と……」

「は……?」

「カムイ支部長はこう言ったんだ。『15歳の〝子供〟に、未来を担う〝希望〟に、これ以上の危険を背負わせられない。貴女の口添えでブランディーネファミリーと友好関係を築けるなら、315部隊の少女達を……妹さんを、戦わせないで済む』って……」

 もはや、囁く様にと形容するのが相応しいだろう程に、日和未の声は掠れていた。楊は、彼女の服から手を放すと、運転席のシートを後方に倒し、身体を完全にシートに沈めてしまう。

「……呆れて言葉もねぇよ、馬鹿」

「済まない、菊蘭。私は間違っているよな……?」

「間違ってる、間違ってるが……――姉としちゃ、間違ってねぇよ……」

 車を暫しそこへ止め、楊は腕で顔を覆う。
 間違っていると言わざるを得ないこの世界が、楊は大嫌いだった。






 誰にも先んじて議場を離れた翔鶴は、既に自分の執務室へと舞い戻っていた。
 書類との格闘も、部下の報告の整理も後に回し、始めるのは地図との睨み合い。
 外国人の、それもマフィアなる人種を、果たして何処へ留めるべきか。妥当な土地の候補は頭の中に幾つか存在したが、然し安く請け負う事は出来なかった。

「翔鶴はん、お茶、入れさせたで」

「ああ、助かる……待て、なんだその茶菓子は」

「土産や言うて、カムイの部下に押し付けられまして」

 盆に乗って運ばれてきた湯呑には、湯気の立つ緑茶。横に添えられた小皿には、小さな砂糖菓子が鎮座している。
 この時代に、こんな細やかな細工を楽しむ者もあるのかと、感嘆する程度には洒落た菓子も――翔鶴には、意図を含んだ手紙に見える。

「椿、フランス語かドイツ語、もしくは英語を話せるか?」

「関東の言葉も、よう話しません」

「そうか……なら、これから教える。幾つかの単語だけでも、聞き分けられる様になれ」

「……ドイツ語に、英語も?」

 フランス語に関しては、必要と言われた理由が、椿にも十分に分かっている。マフィアは問題を起こす物と前提に置いて、その連中を取り締まる際に、言葉が全く通じないでは確かに不自由するだろう。
 が、母国語以外を酷く嫌うフランス人――多少偏見かもしれないが――に対応する為に、他の二国の言葉まで必要とするからには、

「ヴォルフ・コレクションも日本に来る、と?」

「間違いなく、な。この国の何処かに、必ず生産の拠点を作り……必ず、人間を商売道具にする。ふざけた連中だ、私の目の黒い内は、この国で好き勝手な事をさせてたまるか!」

 翔鶴の机の上には、短時間で部下に掻き集めさせた、ヴォルフ・コレクションの資料が有った。
 そこに記されているのは、明確な証拠こそは揃っていないものの、人を人と思わぬ悪行の数々。見るにつけ、翔鶴は頬の傷が痛むのを感じた。
 人権は、常に守られるものでは無い。劣悪な環境から、這い出せずに留まる者も居るだろう。だが、踏み躙られる者達が、そのままに在って良い道理は無い――そんな正義感が、翔鶴には有った。
 だから、彼女は治安を守る立場となる。華々しくオスを狩る戦闘部隊ではなく、内地で人間を相手にする臆病者とそしられながら、崩れ続ける秩序を、一瞬でも長く保とうと足掻く。

「……全く、何を考えてあの女は、マフィアなどと手を組んだ。破滅思想でも抱いてるのか……?」

 会議のホストの顔を思い浮かべれば、翔鶴は椅子を荒々しく軋ませ、憤りを露わにする。
 どだい、一個人が御しきれるものでは無いのだ。背後に控える巨大な影も、何時までも寛容に笑っているとは限らない。やがて手を切るという時に、切り離されるのは末端――カムイ・紅雪は、切り離しやすい蜥蜴の尾に過ぎない。
 それを、理解していない筈も無いだろうに、何故ああも嬉々として、破滅を呼ぶ方へ自らを運ぶのか――それが、理解出来ぬ事でもあった。

「……あれは……カムイはそんな事、きっと僅かにも思うたりせえへん。そんな自殺めいた事、する奴やない」

「知った様な口振りだな。……いや、実際に知っていたか。椿は、ならばどう見る?」

 然し、早乙女椿には、カムイの思惑の一端が――理性で解するのではないが、感情の領域で、嗅ぎ分けられた。
 かつて、同じ主を仰いだ上司と部下――離れたとは言え、まだ日は浅い。だから、断言できる。

「……分からへん。けれど、うちもカムイも〝見捨てられる〟のがどういう事か、嫌という程に知っとる。マフィアと何時までも仲良く、対等な関係では居られない……それもきっと、うちらより深く分かってる筈なんや。
 せやから、カムイがそういう方法を選んだんなら……切り捨てられても、良いように。保険を掛けるくらいは、しとる筈や」

「具体的に、あの女ならどうすると?」

「誰にも知らせず、一人で、何か別な話を進める。……あれの主人、蛇花みずち、……にも、伏して」

 過去、カムイを部下として傍に置いた椿は、彼女の思考の傾向を知っている。
 自分が良かれと思った事ならば、誰を顧みる事なく、椿にさえ知らせる事も無しに完遂した――誰かの命を奪う様な任だったとしても。それは、自分が頼れるのが、自分だけだと知っているからだ。
 例え、脚の代わりに策謀を纏ったとしても、その根幹が変わる筈がない。他人の財、他人の武力に寄生していたとて、最終的に手元に残るのは、自分自身の体と脳髄だけなのだと――忘れるには、彼女達の過去は、陰惨に過ぎた。
 言葉にして見れば、具体性など何処にも無い、酷く抽象的なものだが――

「そうか、分かった。つまり、警戒する先はまだまだ増えるという事だな……ああ、どいつもこいつも面倒な事を!」

 竹を割った様な『現在の主』は、椿の忠言を最大限受け止めて、だが深く悩まなかった。
 今から、全てを見通す事は出来ない。ならば、常に目を離さず、万が一の折には初動を早めて。
 先見の明よりも、寧ろ即興の知恵、判断力こそが翔鶴の武器であり、優柔不断とは対極にある人格は、椿を惹きつけた理由の一つである。

「翔鶴はん、一つだけ、聞いてええか?」

「なんだ、椿」

 湯呑を片手でがしと掴み、熱い茶を一息に半分も呑み干して、湯気の混ざった息を吐きながら、翔鶴は部下の方へ向き直る。そうしてみると椿は、落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
 いつかも、こんな顔を見たと、翔鶴は思い出す。叱られるのを恐れる子供の様な――そんな印象さえ受ける、怯えた顔。、

「……思い出したか?」

「隠せへんなぁ……。そうや、何度も聞いて何度も言われたし、もう翔鶴はんも聞き飽きてると思う、けど……カムイを見る度、嫌でも思い出すんや……。
 時々、本当に、戻りたくなる。戻っても、同じ事が待ってると分かっとる。必要なのはオスを斬る化け物〝紅鬼〟で、別にうちやなくてもええんやて、知ってて……でも、戻りたくなるんや。甘い毒に痺れて、あの人の下で、眠りたく……――」

 椿の嘆きを断ち切るのは、肩に置かれた翔鶴の手。先程まで湯呑を掴んでいた手は、着物越しにでも熱を与える。力強く、指が肩に沈んだ。

「聞かれてはいないが、答えてやる。私が傍に控えろと命じたのは、刀でも無い、狂信者でも無い、早乙女 椿という一個の人間だ。お前が望む限り、私はお前の理由となるだけの人間で居てやる、そう言った事を忘れても居ないし、これからも変えるつもりはない。だから、何度でも言うぞ。〝お前は私を守って良い〟んだ、何十回でも何百回でも言ってやる」

 肩から離れた手が、盆の上の茶菓子を掴み、口へ運ぶ。その様を椿は、ぼうと霞んだ視界に、見るとも無く納めていた。手で拭っても涙は止まらず――仕方が無いと、流れる侭に任せる。
 生きていたいと、思えた。それが嬉しくて、たまらなかった。





「あ。支部長、やっと終わったんですか……で、何をしに来たんです?」

「棘のあるお出迎えですねぇ……何ですかこのおバカさん、年長者を労わりなさい!」

「……カムイ、元気、見えるます」

 カムイは、暖房も聞いていなければ灯りも付いていない自室を嫌って、部下の宿舎に潜り込んでいた。
 寝る用意を整えていた緋扇 操は、夜間の来訪者を決して歓迎はしなかったが、一応は上長という事もあり、蹴り出さずには置く。
 そして李紅花は、二人のやりとりを、眠い目を擦りながら眺めていた。

「労わるのは良いですけど、ここ、ベッドは二つしかないですよ。知ってるでしょうけど」

「まあ、私が割り振った部屋ですからねぇ。何時の間にか増えてるって事も無いでしょうし……勝手に子供とか生みませんかね」

「ベッド、増えない。カムイ、言う、ペット」

「紅花ちゃんがダジャレを理解した……!? 凄い、素晴らしい進歩ですよ!」

「夜中に騒ぐなアホ支部長……あ、こら、布団剥ぐな!」

「だってー。寒いですしー。良いじゃないですか、操は紅花ちゃんのベッドにでも居れてもらえばー……ああ、あ、ちょっと、操、手加減してくださいよ怪我人相手に、あー……」

 既に真夜中と言って差し支えない時間帯だが、カムイと操はベッドの柵越しに、掛け布団の綱引きを始める。
 勿論、現役の兵士と、脚に後遺症の残るカムイとでは、端から勝負にも成りはしない。結局、布団の所有権は元の位置に変える。

「もー、この子ったら無駄に元気が有り余って……いや、良い事ですよ、良い事なんですよ。願わくばその元気を、五年も十年も続けていって欲しいものです。私が死んだ後もね」

「……いきなり、何言ってんですか。殺しても死にそうにない癖に」

 布団に包まり、壁を向いて横になる操だったが、首と目を後方に捻って、床に引っ繰り返ったカムイを見やる。大の字にごろんと仰向けに、カムイは天井を見上げ、しみじみと呟いていた。

「別にー? だって操が私を粗雑に扱うからー、このままじゃ風邪を引いて死んじゃうかも知れないなーって思ってー」

「インフルエンザでくたばっちまえ! 寝る! ……少しでも心配した私が馬鹿だった」

「操、素直、違うです。良くない、駄目、悪い子、おバカさん」

「あんたも真似する相手を選べ! 黙って寝てろ!」

 頭上を飛び交う、時間を忘れたかの賑やかなやりとり。カムイはそれを楽しみながら、目を閉じ、眠気に身を任せる。
 機械の脚に頼ったとて、自分が戦えるのは、あとどれ程の期間か。知恵を巡らせたとて、世界が綻びを大きくしては、自分はそれに追い付けるのか。
 思い悩む事は多々有った。眠れぬ夜とて、幾つも数えた。だが――この、眠りを阻害する筈の喧噪は、寧ろカムイを安らげる。

「早く寝るんですよ、二人とも……貴女達は、私の切り札なんですから」

「いきなりなんだ、気味悪い……あんたがさっさと帰ってくれば、早く寝てたんですよ」

「?安、支部長……あー……おやすみなさい、です?」

 失った物は多いが、これが晩年なら悪くは無い。
 明日も多忙だろうと思えば自然に頬は緩み、カムイは一時、己を惰眠の牙に任せた。