烏が鳴くから
帰りましょ

デュエット・滅離異苦離住魔巣

 ジングルベル・ジングルベル・鈴が鳴る。今日は楽しいクリスマス。
 右を見ればカップル、左を見ればカップル。ちょっと手前に熟年夫婦の雰囲気を出した、お役人様とその従者さん。
 ――が、みーんな女性。男という存在は、この世界に存在しない。
 元を辿れば15年前、とあるウイルスの爆発的拡散によって、この世界は全ての男性を失った。
 当然道行く人々も、父親を失ったり兄弟を失ったり、一つならず悲劇は背負っているし、何より決して子供は産めない。
 人類が静かに滅び行くことは、もはや決定事項であるのだった。
 
 とはいえ人間、百年先の不幸より、明日の楽しみに心を割く。
 例え世界が凄惨だろうと、この日ばかりは全ての人類が、愛と希望を胸に一時の団欒を――

「ねえ、飛鳥。今日は何処まで連れていってくれるの?」

「馬鹿だな、洋子。何処へも行かない――朝まで二人だけで、君の部屋で過ごそうよ――」

「飛鳥! その女、誰なん!?」

 ――否!
 今、この場は、たった一人の叫びによって修羅の巷と成り果てた。
 寒空をも上回る冷気は、二人の女から発せられたもの。仲睦まじく歩くカップルのうち、長身の女の腕に絡み付いて歩いていた少女と――

「だっ、誰だい、君は!?」

「すっとボケんで! 誰やのんその女、私には仕事が有るって言ったくせに……浮気なん!?」

 病院から抜け出してきたような恰好の、訛りの強い女が、冷気の元凶だった。

「えっ……あ、飛鳥、この人って……」

「知らない人だよ!」

「ウソや! 忘れたなんて言わさんで! あんたはいっつもそうや、絶対に自分の家には誘わへん、私の家ばっかり!
 食べるだけ食べて、人を弄んで、飽きたら帰るの繰り返しで……それでも、私は待ってたんやで!?
 なのに何で、何でそんな女を……っ! こん、浮気者!!」

 口の速きことマシンガンの如し。たった一言の反論も挟ませぬ怒気。
 そう、彼女は確かに怒っていた。長身の女に、その隣に仲睦まじく立つ少女に。
 だが――実を言うと彼女、この二人の何れとも初対面であった。

「返して、私の飛鳥を返して! あんたが何をされたからは知らへんけど、私はもう、この人から離れられへんのに……!」

「あ、飛鳥……! どういう事なの、ねえ!?」

「えっ、違、これはっ」

「返して!」

 もはや、無茶苦茶である。両側から腕をぐいぐいと引っ張られ、これが牛か馬なら八つ裂きになっていただろう有様の飛鳥嬢は、困惑で目が左右に泳ぎ回っている。
 だが、幸福な時間の、それも最大の場面から突き落とされた少女――洋子に、正常な判断が出来る筈も無かった。
 いや、正常な判断を、この女の勢いと言おうか、怨念じみた物が掻き消していた。

「っ……! 馬鹿っ、飛鳥の、馬鹿ぁああああああーっ!!」

「ま、待ってくれ! 洋子、ようこぉおおおおおおーっ!!」

 走り去る少女、洋子。その背に届かぬ手を伸ばし、血を吐かんばかりに叫び、膝から崩れ落ちる飛鳥。
 先程まで目に涙さえ浮かべていた女は、その様をカラカラと笑いながら見届けて、

「カーッカッカッカッカッカ! メリークリスマス・フロム・ヘル!」

 飛鳥の口に、林檎を丸ごと押し込み――次の瞬間、林檎は小さく爆ぜた。
 後に残るのは、自慢の美髪をアフロヘア―にされた、哀れな飛鳥嬢の姿であった。





「ふっふっふっふっふ……ふぁっはっはっはっは……ハーッハッハッハッハッハ!!!」

 女――物岳 良子(ものたけ りょうこ)の高笑いは、雑踏に消える事さえなかった。
 あまりの高笑いっぷりに近くのカップルが彼女を指さし、憐み半分嘲り半分でひそひそ何か話している。
 そんな光景さえ今の彼女には、怒りを燃やすガソリン――

 そう、彼女は憤っていた!
 陰鬱たる世界の現状を忘れ、色恋沙汰にうつつを抜かす阿呆共に! 必定の滅びを忘れ、目先の快楽に走る愚者共に!
 そう在って良いのか、未来を捨てて今日に耽るのは正しいのか! 僅かな享楽に溺れるよりは、人類の未来を築く手段を探さねばならぬだろう!
 仮にお前達が、未来など不要と言うのなら――それでも良い。そのままで良い。だが、だが――!

 じ ゃ あ 私 も 混 ぜ ろ よ 。

「爆ぜろ爆ぜろリア充どもー! 私のボムが光って唸ーる!」

 つまりは、そういう事であった。
 別に彼女は、世界を憂う賢人などではない。
 それは勿論、滅び行く世界を留められるなら、力を振るう事は躊躇うまい。然しこの夜の彼女は、極めて我欲に塗れた存在であった。
 曰く! 全てのカップルに別離を。
 曰く! 全てのプレイガールに制裁を。
 曰く! 半額ケーキをさっさと売り捌こうとするコンビニの雑な陳列に鉄槌を。

 夜が始まってより、既に彼女は、6つのカップルの関係性を爆破してきた。
 もはや無差別自爆テロ。恥も外聞も投げ捨てて、見知らぬ誰かを不幸に貶める。
 捨てる者が無ければ、人はこうも強く在れるのか――きっと彼女自身が、謎の昂揚と共に感じた疑問だろう。
 人を強くするのは怨念である。彼女の怨念は今宵、救世主の誕生日をにじり潰し、悪魔に覇権を引き渡さんとしていた。

「くっくっくっく……うーし、そろそろ狩場を変えるでぇ……。次はどないしょうかな、もっと搦め手を使うか……」

「……あなた、何してるの?」

「何、やて? 見て分からんかい、正義の行使や!」

 ナースの様な服装。寒さを避ける為にマフラー。林檎ボムを大量に乗せた籠が左手。先程使ったばかりの目薬を右手に、彼女は言い返す。

「見て分かるかい!」

 すっぱあん、と高らかな音が響く。酔っぱらいが彼女の頭を、平手で打ち据えたのだ。
 他人の格好にケチをつけたは良いが、この酔っ払いも大概である。
 白い雪と橙の灯り、緑や赤の飾りつけが並ぶ街の中――着ぶくれした、迷彩服。
 御叮嚀に都市迷彩、瓦礫に紛れる為の褪せた色合いは、道端で行き倒れていれば雪に紛れてしまいそうな程。肩に積もった雪も、これまたカモフラージュには持って来い。

「……おおっ、怪奇雪女」

「よくも私の事を他人に話しましたね……って違う違う違う。さっきの見てたんだけど、あれ、何よ。何してたの?」

「それは、行動の詳細を聞いている訳やあらへんな……? クックックックック……」

 悪の帝王も真っ青の悪人顔で、物岳 良子はほくそ笑む。さしもの酔っ払いもこれには引いて、がくりと体を仰け反らせた。

「ま、まさかっ!?」

「……そう、察しの通りや。世に蔓延る害じゅ――いや、〝リア充〟どもを駆逐する。それが私の、この夜に掛ける唯一の望み!
 あれはその為の芝居よ。クリスマスに浮かれて脳の蕩けたカップル共、見事に引っ掛かってくれおったわ……」

「何と言う事を……っ!」

 仰け反ったままの体勢は維持できず、すとんと尻餅をついた酔っ払いを見下ろし、悪の女王は高笑いを続ける。

「浮かれた頭で、自分は世界一幸せだと思っていた矢先に、恋人が外道の浮気者だったと知らされる……その絶望感たるや如何程か! 誤解が解ければええなぁ、簡単には解けへんやろなぁ!
 仮に誤解やと二人とも分かったかて、疑ったいう事実へ消えへんねん。喉に刺さったサンマの骨や、何時までも痛むでぇ……」

 そう、この計画は、その場しのぎの単純なものではない。
 互いに不信感を持ってしまった、ただそれだけの事実が有れば――クリスマスの為の急ごしらえカップルなど、容易く崩壊する。
 長い月日を重ねる事も無く! 潜り抜けた地獄も無く! ただ『クリスマスに一人とか有り得ないしー』なんて根性であつらえた絆など! 姦計の前には、容易く崩れ去るのだ!

「こっ、この……っ! 鬼! 悪魔! 手伝わせろ!」

「手伝うてくれるんですか! ありがとうございます! ほな行きましょか!!」

 そして幸運な事に、この酔っ払いもまた独り身――いや、世を憂う者であった。
 アルコール臭い息を吐き出しながら、拳を突き上げ怒りを叫ぶ。世の中、まっこと不公平だと。
 交友関係が狭かったが為に、友人達のクリスマス会の情報を聞き漏らし、かと言って数日で彼女を作るコミュニケーション能力も無く、雪降る街を一人、こっそり持ち出した角瓶で酔いながら歩いて――とうとう彼女は、キレたのである。
 手にしていた瓶を地面に叩き付け、路上の雪を僅かにアルコールで溶かしてみても気が晴れず。
 そんな折に見つけた悪魔を――どうして彼女が、見逃しておれようか。

「いざや進撃! 我々は之より、リア獣を屠る二頭の魔ぞ! 全てのカップルに鉄槌を!」

「デートスポット? 爆破しろ! 噴水壊して雨降らせ! リア充爆発、慈悲は無し!」

 こうして、どうしようもないタッグが結成されたのである。

「……で、あんさん、未成年やない? 飲酒あかんで?」

「大義と怒りは法律を踏みにじる」

 後半に続くかも知れない。





「まず、あんさんの腕を見せてもらおうかい」

「ん?」

「いや、腕まくりやのうてな。私の相方に据える以上、相応の覚悟とそれに見合った技量があるのか、っちゅう話や」

 さて、悪魔二匹は路肩に座り、コンビニの肉まんを齧りつつ、行動計画を組み上げていた。
 既に腕は披露した悪魔の一人とは違い、たった今参入した酔っ払いは、これが初陣なのだ。
 よもや幸せムードに押され、敵へ情けを掛けはするまいか。それだけが、物岳 良子の抱く懸念事項であった。

「ふ、フフフフフフ……見くびってもらっては困りますわね」

「なんでお嬢様やねん」

「確かに拙者、百発百中とは申さぬ。然し乍ら獲物を絞れば」

「いや、キャラ変えろ言うとるんやなくて」

「この緋扇 操、確実に潰せる類の〝カモ〟がいる……とくと御覧ぜよ!」

 酔っ払いに特有のハイテンションを保ちながら、迷彩服の酔っ払い(未成年)は、道行くカップルどもの観察を始めた。
 いずれも、今日こそが幸福の絶頂であると信じているような平和顔。幸せがぶっ壊れるなど、欠片も恐れていないような――まさに危機感を持たぬ面構え。

「ぐぐぐぐぐ……イ・ラ・イ・ラ・す・る~……!」

「そうや、怒りを炎に変えろ! お前の敵は誰や!」

「平和ボケのカップルどもだ! 」

 拳を突き上げ、気勢を上げる二人。肉まんの力で体温も十分に上がっている。

「赦せない事は、なんだ!?」

「まだまだスーパーも営業してる時間帯に、ホテル街へ消えていく連中が居る事だ!」

「そう、ホテル――……えっ?」

 が、二人の意思が完全に統一されているかと言えば、そういう事でも無いらしい。

「どいつもこいつもベタベタベタベタ、手が接着されたみたいな歩き方しやがって、どーせあれだろー? この後でもっとベタベタひっつくんだろーベッドの中でよー。寒~いなんて猫撫で声上げてる奴と大丈夫私が温めて上げるよなんてキザったらしい奴が、寒がる癖に服も着ないで――」

「……最近の子はヒネとるなぁ」

「恋がなんだー! 愛がなんだー! 結局は色欲に収束するんじゃないかー! 返せ! 私の純情とかその他諸々返せー!」

「操ちゃん操ちゃん。このままやと純情返ってくる前に、あんたの社会的地位が行方不明になるで。落ち着けって。その話は後で録音しとくから」

 仮とはいえ仲間となった者に対しても、保険は怠らない。これもまた悪魔の本領である。
 後々の大惨事の予兆も知らず、酔っ払いは暫し喚き続けて――

「……見つけた」

 とある一組のカップルを見つけて、ガゼルを前にしたライオンの様な表情で、そう言った。
 一見、とくに変わった所の無い二人組である。
 背の高い黒髪の女が、小柄な少女の手を引いている。黒髪はもこもことした厚着だが、少女は自分の金髪を見せびらかすかの様に、マフラーの類は身に付けていても、帽子などは被っていない。

「あれかー……年齢差は面倒やで。片方が阿呆でも、もう片方が確りしとる事が多い。金髪が脳味噌までホワホワしとるとええが……」

「大丈夫、あれはイケる。ちょっと潰してくるから、適当な所でフォローと回収お願いね」

 傍目に見れば、さして弱点も見つからぬ二人組。
 しかして緋扇 操は、意気揚々と出陣していくのであった。





「ねえ、美也! 次は何処に行くの? そろそろお食事?」

「ん……んー……? えと、そうね……その」

 腕を引かれる金髪の少女は、きっと17か18歳という所だろうが、年齢よりも無邪気にはしゃいでいる。
 先を歩いている黒髪の女は、彼女を何処へ連れていこうかと、悩みに悩んでいるところだった。
 それでも、きっと気心の知れた仲なのだろう。足を止めて考え込む事はしない。
 雪に足跡を刻みながら、彼女達は一路、レストラン街へ向かっていた。

 さあ、その前に悪魔が立ちふさがる。
 二人の進路に仁王立ちするは、迷彩服の上にボロボロのコートを羽織り、手袋は無し――みすぼらしさを強調した操であった。

「……佳代子。この子、誰……?」

 黒髪の女は、目の前に突如現れた謎の少女を、自分の連れの知り合いかと――心なしか、不安げに震える声で尋ねた。
 金髪の少女が口を開く前に、操は――ああ、何と言おうものだろう。
 リア充への憎悪に塗れていた目は、酔いも手伝ってか潤み、今にも涙を零しそうに。アルコールと肉まんで体温は十分だろうに、今にも崩れ落ちそうな程、身を震わせ。
 物陰に気配を殺しながら、良子はほうと呟いていた。目的の為ならば、こうも己を偽れるのかと――正直な所、直情型の考えなしと侮っていたのだ。

「誰……? あんたこそ誰!? 誰なのよ……!」

 叫び声も、ヒステリックではあるのだが、その中に何処か寂しさの紛れ込んでいるような――いや、独り身の寂しさは有るだろうが――見事な芝居っぷりであった。

 操が、誰と問うたのは、黒髪の年嵩の女。
 ターゲットとしてスコープに納められたのは、金髪の少女の方だったのだ。

「佳代子……どうして、どうしてよ……! 今度は私を捨てるの……?」

「えっ、……あれ、えっと……え? あれ、誰だっけ……李緒じゃないし、咲でもないし……?」

 間違いなく、この二人は初対面だ。過去に偶然出会っただとか、そんなクリスマスの奇跡は無い。
 にも関わらず、少女は目の前に立つぼろコートを、初対面だと断じる事が出来なかった。
 それが、黒髪の女を不安に――底なしの泥沼に引きずり込む。

「お願い、捨てないで……佳代子ぉ……!」

 新雪とはいえ、既に数百数千の靴で踏み荒らされた路上。操は躊躇いもなくそこに膝をつき、少女の脚に縋り付いていた。

「分かってる、貴女がそういう人だって、女の子なんか取り替えの利く玩具だと思ってるって……! でも、でもっ、ぐすっ」

 嘘泣きを交えながら地面に這い蹲る操。道行く人の冷たい視線も、彼女にはまるで通じない。
 そして――金髪の少女は、その様を、酷く冷静に見下ろしていた。
 見知らぬ少女に縋り付かれ、べそべそと泣き言を言われれば、不審さに蹴り飛ばしたくもなろう。が、佳代子はまるでそんなそぶりも見せず、寧ろ慣れ親しんだ光景であるかのように落ち着き払っていた。

「……誰だっけなー……」

「ちょ、佳代子、どういう――」

「美也は黙ってて!」

 5歳か6歳か、とかく自分より年長だろう女を叱り付ける佳代子。美也はビクンと体を跳ねさせ、背筋を伸ばし、従者が如き姿勢で応えた。
 つまり、旗から見ればこんな光景である。愛らしい少女が、より幼いみすぼらしい少女を路上に這い蹲らせ、年上の女を横に控えさせている。
 つい先程まで、二人の間には甘い雰囲気が漂っていた筈だった。だのに今は――そんな空気は、微塵も無い。

「……分かってたわよ、もう……もう、私には飽きたんだって……! 今の玩具は、その根暗のでかぶつって訳ね!?
 ふん、あんたみたいにつまらない女、佳代子についていける筈無いわ!」

「そんな……私は、玩具なんかじゃ……――」

「とぼけたって無駄よ、見えたんだから……! せいぜい飽きられるまでを、一秒でも長くすることね……っ!」

 頃合いと見たか、操は立ち上がり、美也を指さして罵る。
 彼女の指摘は、どうやら美也の心の何かを鋭く突き刺したようで――元より落ち着かぬ目が、左右に泳ぐ速度が倍になった。
 言うだけ言って、二人に背を向け駆け出す操。適当な路地へと走り込んで――そして、二人の前からは姿を消した。

「……誰だったかなぁ……えーと、んー……地味すぎて覚えてないかもー……」

「あ……あの、佳代子……? ねえ、さっきの人って、ねぇ……ねぇ、ねぇ」

「ん? ……別に良いでしょ、貴女には関係無いじゃない。昔の事だし」

 取り残された二人の内、一人は然程、今回の事を苦にする様子は無かった。やはり、佳代子はこの手の事に慣れているのだ。
 然しながら、美也は違った。彼女は奥手で、しかも男の滅んだこの世界では、生まれてより長らく恋愛感情など知らなかった。
 だから、多少思う所は有れど、年下の佳代子に魅せられ、そして従っていた。
 恋人同士と、自認はしていただろう。そうでなくて、佳代子の手を引いては歩くまい。
 だが、そんな強固な思い込みでさえ、容易く崩れるのが、僅かな疑念の破壊力。ダムに打ち込まれた楔である。

「……佳代子。今迄何人くらい、その……私と、同じようなこと、したの……?」

「え? ……そんなの、美也に関係ないじゃない……」

「関係有るわよ!」

 普段なら、これで会話は終わっただろう。
 だが、既に悪魔に毒された女は、それで納得をする筈が無い。

「わ、私だって……私だって、聞く権利は有るわ……! 答えてよ、あの子は誰!?」

 遠く、人混みに紛れながら、操はこの会話を聞いていた。
 終わった――あの二人は、もう終わった。これ以上、盗み聞きするまでも無い。
 案の定、黒髪の女は、顔を抑えて走り去り――金髪の少女は苛立たしげに、近くの店の看板を蹴り飛ばしていた。





「……なんちゅうやっちゃ……」

 一仕事を終えて帰還した操を、良子は何か、化け物でも見るような目で迎えた。
 技量と言うならば、きっと己が上だろうという自覚はある。もっとスマートに片を付けられる、と。
 だが――ただ一つ、真似できぬ事が有った。

「ふん、あの程度……温いわよ」

 意気揚々と戻った操だが――彼女は一体、どれだけの物を捨てただろうか。
 まず、あの場で見ていた殆どの人間が、今日の異常事態を暫くは記憶するだろう。
 道のど真ん中、ズボンを汚す事も構わず、誰かの脚に縋り付く――惨めだ、酷く惨めだ。
 後ろ指を指されるよりも、人は恐れる事が有る。己の矜持に傷をつけられることだ。
 操は、矜持というものが何も無かった。
 泥に塗れようが、靴痕に晒されようが、彼女の望みはただ一つ――他者の幸福の妨害! その為ならば、己の幸福など知ったことかと!
 もはやヤケッパチ、捨て身の境地。彼女がおらずとも実の所、そこそこに良い働き口を持っていて幸福な良子には、そこまで己を捨てる事は出来ないのであった。

「で、どう? これなら認めてくれる?」

「……まだや。二つばかり質問をさせてもらう。ええな?」

「いいとも、勿論」

 酔っ払いは、いやに上からの目線で応え、ぐいと胸を反らして立った。
 火のついた花火を扱うかのように、良子はあまり近づかぬながら――

「一つ。なんであの二人のうち、ちっこい方を的にしたんや?」

「二人の目線を見れば、そんなものは簡単に分かるわよ」

 勝ち誇った顔の操は、雪の上にどっかと座る。
 いかにも講義を始めますといった風情の顔は、他者の苛立ちを喚起する類のものでもあった。

「金髪の方の目は、あっちこっち定まらず飛び回ってた。建物だったり擦れ違う相手だったり、足元だったり。
 逆に黒髪の方は、ずっと連れの目を見てたわ。何を欲しがってるのか探る様に――飼い主の機嫌を窺う犬の目よ」

「ほー……」

 妥当だと、良子は感じた。自分も、あの二人のどちらが主導権を握っているかと聞かれれば、金髪の少女と答えただろうと。
 その根拠に関しても、大きくは変わらない。そこへ辿り着けた事を、良しとした。

「で、それだけか?」

「いーや。あの金髪、ちょっと酔ってたし。平静の判断力を失ってなかったら、ああ簡単に騙されてはくれないでしょ。
 あの歩き方と声の調子で、寒くて赤くなってるのか、酔っぱらってるのかくらいは分かるわよ。
 黒髪のはオドオドしてそうで、あんまり口を挟んでこないだろうと――いや、こっちは確信かな」

「そこや、聞きたいのは」

 だが、良子にはどうしても分からない事が有った。
 他にも隙のある獲物は幾らでも見つけられただろうに――操はピンポイントで選んだ獲物を、見事に喰い殺した。

「あの二人なら確実に仕留められると、何で判断した?」

 くくく、と喉が小刻みに鳴った。操の笑声であった。

「……あの黒髪の、手首を見た?」

「手首? ……ちょっと痣が出来とったなぁ……――」

 物岳 良子は一流である。数分も人を眺めていれば、気になる事の一つや二つ、頭に留めておく。

「――まさか!?」

「そう、そのまさか。あれは間違いなく〝縄の痕〟だったのよ!」

 だが――よもや、観察はおろか、可能性の考慮さえしていなかった。
 〝そのまさか〟と言われても、それを理解する事さえ難しい。いや、理解出来てたまるか。
 常人は袖口から除く手首を見て、縄の痕だと判別できる筈が無いやろ、と。

「あれを見れば直ぐに、あの二人の関係は見える……傍若無人な主人と、振り回される駄犬。でも、犬に先を歩かせているんだから、意思を奪うまでは躾けてない!
 甘いわ、チョコケーキの上の砂糖菓子より甘い。大方、犬に逃げられて乗り換えたばかりで、厳しく躾けるのを躊躇したんでしょうよ。だから、焚き付ければ手を噛ませる余地は見えた。
 忠義を尽くすのが生きがいの犬を、簡単に吠えさせるにはどうする?」

「………………」

「自分の主人が、忠義を尽くすに値しないと見せつける。自分を捨てる〝かも知れない〟主人に、仕える理由は無いって言い訳を与えてやる。躾けの完了していない犬は、所詮野良犬よ。ボスになりたがるに決まってるじゃない」

 この時、良子は考えていた――こいつ、色々と危険だ。主に、つれて歩くと自分まで社会的に死にそうな、という意味で。
 だが、それでいい。それだから良い。
 どうせこの夜は、全てのカップルを破壊する為の夜。ならば多少の劇薬も――いや、王水だろうが、用いるべきだ。
 何より――

「ようし、分かった! あんさんを同士と認めるでえ!」

「はっ、光栄であります!」

 ――いざという時、切り捨てても良心が傷まない。
 というかもう、この場で斬り捨ててもええんやないかな。
 そんな打算たっぷりに、良子は酔っ払いの肩を抱き寄せた。

 まだまだ夜は長い、獲物はごまんと溢れている。
 行け! 戦え! 寂しき我が身の為に! 世間体など投げ捨てて!
 そして願わくば同僚さん達は見て見ぬふりしてください頼みますから。

 きっと、まだまだ続く。





「で、どうする? さっきはああ言ったけど」

「分かっとる。物理的に、どうにもならん事はある」

 コンビニエンスストアの雑誌コーナー前。それぞれ別な雑誌を立ち読みしながら、二人は計画を練っていた。
 いかに恨みが天を焼き尽くそうとも、事実、戦えるのは二人。一つのカップルを壊すのに、数秒で仕事が終わりはしない。
 つまりは、道行く全てのカップルを、的にする事は出来ない。どうしても対象を絞る必要が有るのだ。

「手は二つやね。一組でも多くを叩き潰すか」

「あるいは、質を求めるか」

「せやね、質やろう」

 質――はて、どういう事だろうか? それは、人の思考の構造によるのだ。

 端的に言って、不幸の度合いとは主観である。自分が不幸だと思うから、不幸なのだ。
 つまり他人の軽微不幸も、観察者が絶大な不幸だと感じれば、少なくとも観察者にはその通りになる。、
 そして――他者の不幸を感じる為には、他者を理解していなければならない。

 と、いう事は。
 より他者の不幸を感じたいと思うならば、知り合いを狙えという事である。
 この結論を躊躇いもなく繰り出す当たり、二頭の悪魔は十分に狂っていたのかも知れない。
 だが、正気にして大義はならぬものなのだと、歴史が幾度となく証明したではないか。
 我らは官軍、賊徒を討ち果たす。賊が身内であろうと――それを、躊躇ってはならぬのだ!

「……となると、骨やなぁ。この雪の中、知り合いを探す? それも、おちょくってええようなのを?」

「思ったより難儀だねぇ……えーと、あれは?」

 緋扇 操が指さした先には、くるくる髪に眼帯の薄着の少女。おっそろしく寒そうな恰好で――別な少女に、手を引かれている。
 なんと言おうか、もはや下着も見えるんじゃないかと言おうか、むしろ下着で歩いているんじゃないかと言おうか。
 そんな彼女の格好を知ってか、手を引く少女は方々に、敵意の視線を振りまいている。

「見覚え有るし、何より幸せそうでムカつく。あれにしようよ、ねえ」

「……あかん。あれは……連れが不幸そうな顔をしとる……。同類や思うて見んかった事にしといたれや……」

「そういうなら、まぁ……」

 さて、一組スルー。

「……じゃあ、あっちの鉄パイプは?」

「あれカップルや無いやろ。数百歩譲っても不良カップルや、放っておいても勝手に喧嘩別れするわ。
 若い身空で家庭持って片方が働かなくなった結果、もう片方がギャンブルに嵌って崩壊するタイプや」

「あーほうかい」

 ひゅおう、と風が吹いた。自動ドアが開いて、コンビニに冷風が吹き込んだのだが――つまらぬボケに対する、叱責なのかも知れない。
 何はともあれ二人は、未だに雑誌と外を交互に見ていた。
 誰を餌食にするか。得られる不幸の多寡は、やはり落差で決まるだろう。
 普段と打って変わって幸福の絶頂に居る奴を――叩き落としたいと、目が行く先は。

「……あんさん。あれ、あれ」

「どれ、どれ……あれ、ありゃ」

 見知った顔ではあった――が、あの顔が何故こんな所を歩いているのかと聞かれると、首を全力で傾げたくもなるような顔。
 二人は思わず面を突き合わせ、同時にニタリと微笑んだ。

「メリークリスマス――」

「フロム・ヘル!」

 悪魔は迅速に計画立案に移る。コンビニ店員の鋭い視線も、今の二人にはまるで通じぬ小雨であった。
 なお、雑誌は買って出たようである。






「コートはこれで良いですね、次は……ああそうです、コルセットを仕立てないと……」

「冬にしか着ないというのに、なぜ一式を仕立て直すんです、フラウ・フェリシー。またウエストが増えたのですか?」

「ま……またとは何ですか! 増えてません! レディの嗜みです!」

「下着まで一通り……どうせ私しか見ないでしょうに」

「貴女に見せた覚えも無いんですけどね!?」

「洗濯物が溜まっていましたので、つい。洗濯機を回すくらいは頑張りましょう」

 やいのやいのと賑やかに、街を歩く二人が居た。
 騒がしいカップルは多々有れど、この二人はどうにも趣が違う。
 何が違うかと問われれば、立ち位置。真新しいコートに身を包んだ女の二歩ばかり後ろを、スーツ姿の少女が、両手一杯の荷物を持って追随している。
 カップルというよりは主従関係に見えるやも知れないが、実際の所はその通りだから仕方が無い。

「……はぁ、全く、駄犬を叱り付けたら疲れました。そろそろ食事にしましょう、ユーリ、何処か私に妥当な店を選びなさい」

「運動不足だから体力が――」

「お黙りなさいっ!」

 ――いや、これが本当に主従の会話かと問われれば、悩む者とて多かろうが。
 寒空の下でもうっすら汗をかいた上司とは反対に、膝下のダウンコートを羽織って尚も涼しげに、荷物持ちをさせられている部下は歩いていた。
 本人達の会話はどうあれ、何れも表情に陰りはない。この雪の夜を、彼女達なりの方法ではあるが、楽しんでいるらしかった。

「フェリシー様! 此処にいらっしゃいましたか!」

「お探し申し上げておりました、フェリシー様!」

 が――悪魔はそこに爆弾を仕掛ける。
 他人の幸せ? くそくらえ! 踏みにじれ! 蹴り潰せ! 泥靴で足蹴にステップ・ワン・ツー。
 突如目の前に現れ、雪の上で片膝をついた二人を見て、フェリシーは怪訝な顔をしながら――

(えっ。えっ……? えーなにこいつらちょっと待って何!? 何者!? 誰!? なんか気持ち悪い!)

 ――静かに、混乱を引き起こしていた。
 そりゃ、見ず知らずの人間にいきなり跪かれたら驚くのも無理はない。寧ろ表情に出さないだけ見事と言うべきなのだろう。
 頼れる部下を顧みても、首を振るばかりで助け舟は出ない。

「……貴女達は?」

 結局自分が出るしかないのだと、内心泣く泣く、フェリシーは尋ねた。

「はっ! 我々はカムイ・紅雪の命令の元、フェリシー様の部下として配属された者でございます!」

「兵卒二名、如何様なりと使い潰してくれれば本望と、言伝預かっております。以降、ご指示を仰ぎたく!」

「えっ? …やだ、なにそれ怖い」

「フラウ・フェリシー。本音が漏れています」

 無論、そんな話は無い。フェリシーの怪訝な表情は、あまり好きではない名前を聞いてますます色濃くなる。
 生易しい相手なら適当にあしらいもしようが、相手はなにせ毒蛇の牙。本人はさておき、その上に控える蛇花みずちを敵に回すのは――得策ではない前に、怖い。
 だって怖いでしょ、私より11歳も年下のくせにあの目は尋常じゃないし部下は狂信的だし自分の事を神様とか言ってるし何考えてるか分からないし。あの子絶対、裏では気に入らない部下とか処分してますよね。見せしめとかするタイプの子ですよね、やだ怖い。
 という事なので、可能ならば接触もしたくない相手だというのに、運悪く日本の関東地方で暫く仕事をする必要がある為、どうしても顔を合わせなければならない相手だったりする、それがカムイ・紅雪である。

「……とにかく! なんの事か全くわかりません、分かるように説明しなさい!」

 尤もな要求である。しかし、この言葉を聞いた二人は、さも目眩を起こしたかの様に体を揺らがせるのだった。

「……!? そんな、どういうこっちゃ……!? 操ちゃん、話はもう通ってるちゃうんか!?」

「え、え、だって! だってカムイ支部長が言ってたし!
 〝五日前の会議で決まった事だ〟って……私そうきいたもん!」

「五日前……っ!?」

 その時、フェリシーに電撃走る――とまでは言わないが、恐ろしい程の悪寒は走り回った。
 五日前といえば確かに、カムイ・紅雪と少々の打ち合わせをした日で――夕食も、その時に馳走になっている。
 が、食前酒と、食後の口直しの一杯とが恐ろしく強かった様で、フェリシー自身、途中から記憶が定かでは無い。
 目を覚ませば、何故か自分が支部長室のベッドで寝かされていて、カムイは朝風呂から戻ってきたのかバスローブ姿。

(いや、いやいやいやいやいや、無い! 無いでしょう、絶対!)

 そりゃあ、無い。
 フェリシーに出された酒は何かと言えば、アイリッシュウィスキーのスポーツドリンク割。それは沈む。
 ちなみに、似た色をしてはいたが、カムイが飲んでいたのはただのスポーツドリンクに、適当な栄養ドリンクを混ぜた物。
 何時か、論争が起こった時の搦め手として、カムイが撒いておいた毒だったのだが――

(アホ支部長のおかげで、付け込む隙は見えた! こいつぁチョロそうだぜぃ!)

(自分が酔って何を言うたか、覚えとるもんなんぞおらんわい! 心の隙間をお埋めします、虚飾と疑念のセメントで!)

 ――自分の上司の策謀を、こんな事に使い潰す阿呆と、便乗する阿呆。
 二匹の悪魔は一瞬で意思の疎通を完了し、二人向かい合ってぎゃあぎゃあと喧嘩の真似事を始めた。

「大体やな、あんたが確り話を聞いてくればこんな事には……! 見ぃ、フェリシー様もお困りやないけ!」

「でも、支部長言ってたし! 『もっと従順な部下が欲しいと、フェリシーさんが言ってました』って! 『従順で有能な部下を、叶うなら二人ばかり』って!」

「えっ!? いや、貴女達、待ちなさ――」

 事実無根のマシンガンに、フェリシーは泡を食って割り込もうとした。
 が、インドア派の声量など、この二人の前にはあっさりと掻き消される。狼狽え、ユーリの表情を窺おうにも、見事に普段と同じ無表情が立っているだけ。

「じゃあこれはどういう事や!? 私かてなぁ、あんなうだつの上がらん奴上にするよりゃ、世界政府のエリートを上司にしたいんじゃあ! 期待させるだけさせよってからに!」

「知らないってば! ……あ、ちょ、待った! 待って、思い出した、これが有った!」

 喧嘩の振り――の最中、操が、良子を手で制止し、懐から一枚の便箋を取り出す。蝋で封をされた便箋の表面には、細ペンの繊細な筆記体で、〝Alles Liebe Frau Fèlicie(我が愛しのフェリシー様)〟などと書いてあるものを、操はこれまたはっきり、フェリシー主従に見えるように掲げている。
 そろそろこの辺りで、フェリシーの顔色が青を通り越して白くなり始めているのだが、それで手加減をする悪魔では無かった。

「えーと……えーと、そうだ。……フェリシー様、カムイ・紅雪より言伝と書簡でございます! 『次の夜もまた、臥所を暖めてお待ちしています』と――どういった意味でありますか!?」

 十五歳、世界最年少という立場を存分に振るい、純粋な振りをしてみせる操。腹の内のどす黒さは、酔いも手伝って、何処へも零れはしないようである。
 愈々追い詰められた政府役人は、背後に控える従者へと向き直って、酸素を失った金魚の様に、口をぱくぱくと開かせる。
 それに対して、従者の言葉は――

「……それでは、私はこれで。荷物をお返しします、フラウ・フェリシー」

 ――突き放す様に冷やかであった。
 荷物をフェリシーの手に押し付けると、軽くなった身を、早足で運び、場を去るユーリ。人混みに黒い背が消えていくのを、フェリシーはただ、何も出来ず見ているだけで――

「フェリシー様、それではご命令を!」

「何なりとご命令を! 荷運びであろうとなんだろうと承ります!」

 悪魔二匹はやいのやいの、思考の暇も与えまいと騒ぎ続ける。
 雪の中、従者は去り、そして訳の分からぬ二人。キャパシティは遥かに下方。

「……っ、帰りなさい! 良いから、放っておいて! 放っておいてくださいよ!」

「はっ、畏まりました!」

 主命を得た。二匹は顔を再び顔を見合わせ、そして一礼し、走り去る。
 取り残されたは、買い物袋を両手に下げて立ち尽くす、女がたった一人だけであった。





 雪の降る公園のベンチ、フェリシーは一人座り込んでいた。
 両手の荷物の重みが手に食い込み、足も疲れ、肩で息をしている。
 寒い――が、汗はまだ乾かないし引かない。

「……なんで? なんで? どうして……?」

 今日は、なんの日だったっけ。フェリシーはそんな事を思っていた。
 世間様が浮かれ騒ぐクリスマス。毎年毎年、仕事を言い訳にしながらも、羨ましいと何処かで思っていた。
 徐々に朽ち果て、何れは消える人の世界――刹那的な楽しみだろうと、構わない。
 たった一日くらい、死の恐怖を忘れるくらいに騒いで悪い事が有るのか、と。

「……どうしてよぅ……」

 それが、何故。
 収入は平均より随分多いし、消費する娯楽も持ち合わせない身の上。多少の衝動買いは痛くも無い。
 けれど、その荷の重さが――こんな物は要らなかったと、自分を笑っているようだ。
 街灯が雪を、そしてベンチに座るフェリシーを照らす。丸い光の外は、既に黒に沈んでいる。
 これから、帰らなきゃ。自宅とは呼べない、海外滞在の仮の住まいに、戻る方法を模索した。

 車は何処に有ったか――駐車場は、随分遠くに有った筈。それに、自分は鍵を持っていない。
 もう宿を取ろうか――今、この時間から、ホテルの部屋を取れる道理が無い。
 歩いて帰ろうにも知らぬ街。浮かれて歩いていたから、道を覚える余裕など無かった。

 どうして、こんな事になったのか。
 自分はただ、人並みに幸せになりたかっただけなのに。

 10代も前半の頃、世界が壊れた。
 それからは矛盾の日々。生きる為に、死の危険に晒される。
 顔も知らない誰かの為に使い潰され、顧みられる事も無い、チェスのポーンよりも惨めな身の上。
 身の回りに居並ぶのは、それを当然と思い込んで、死も厭わない狂人の群れ。

 死ぬのは怖いと、嫌だと、叫びたかった。
 そうすれば見下され、より悲惨な運命に押しやられる。だから、悲鳴を飲み込んで生きた。
 臆病な顔に謀略の仮面を被せて、ようやっと、ここまで這い上がった。
 人が増えないのに、消耗品に堕ちた世界で――自分だけは、消費者に舞い戻った。

 そうして、ふと気づいた事がある。
 いつ捨てられるとも分からない消耗品達は、死を恐れないが故か、愚かが故か、日々を刹那的に楽しんでいる。
 この必滅の世界を、一日たりと見逃すまいと、楽しみながら生きている。

 羨ましいと、思わぬ筈があろうか。
 例えその楽しみが、死を恐れぬ愚から生まれたものであろうと――己に理解出来ぬ故のものであろうと。
 心を弾ませる何かを、求めてならぬ筈があろうか。

「……ぅ、う……ふえぇっ……」

 俯くフェリシーの頬を、涙が伝った。
 顔の曲線を辿って、顎まで。一滴、二滴、膝に落ちる。
 何時しかそれは、途切れ途切れる事無い雨の様に、真新しいコートを濡らして――

「大の大人が、屋外で何をしてるんですか」

 ――唇を濡らした涙が、白い指に拭い取られた。
 フェリシーはその時初めて、ここ数分ばかり、自分が雪に晒されていなかった事に気付いた。

「……ゼックス……? なんで……何時から……?」

「ちょっと、五分ばかり」

 ベンチの背後、ユーリが傘を差して立っていた。
 傘に積もった雪は、ほんの僅かだが厚みがあって、動かず立っていた事が分かる。
 フェリシーは振り向いたまま動けずに居た。視界がぼやけたまま、見慣れた顔をぼうっと見つめて――

 ――その時の表情は、録画するに値するものであった。

 傘を持つユーリの右手を良く見れば、何処で調達したかビデオカメラが一台。僅かだが聞こえる駆動音。

「持っててください」

「……えっ? いや、はい……」

 突き出された傘をフェリシーが受け取ると、ユーリは足元で何やらがさがさとやり始め――

「はい、だいせいこーう」

 ――ひょいと持ち上げたのは、木を組み合わせて作った手持ちの、『ドッキリ大成功』なんて書かれた看板だった。

「……はい? え? ……え?」

「イエーイ」

 無表情のままに抑揚も無く勝ち誇るユーリ。あまりといえばあまりにシュールな光景である。
 事情を理解出来ないと、目が右往左往するフェリシーを余所に、ユーリは静かに語り始めた。

「貴女は、特に何もしていないそうですよ。さっさと寝てしまったから、ベッドまで運ばれたというだけで。
 いい年してあの通りだった貴女が、親しくも無い人に何か出来る筈も無いのでしょうが……それはさておき」

「ま……待ちなさいゼックス、話が見えませんよ!?」

 此処まで――ユーリが立ち去ってから、フェリシーが公園のベンチに辿り着き、再び合流するまでに30分と少々。
 待つ時間は長いというが、客観的に見れば、たったそれだけだ。

「カムイ支部長にからかわれた、という事で。はい、支部長さんからお土産です」

 その間に、ユーリはやってのけた。
 ホームセンターに立ち寄り、ベニヤ板とカラーガムテープで手持ち看板を作り。
 何処かの誰かが悪党に成り果てない様に、脚本を練り。
 そして――主人好みのケーキを選んで、購入した上で、彷徨い歩く上司を発見する。

 これほどの過程を、僅かに40分足らずでやってのけた手腕は、まさしく驚嘆に値すると言えよう。
 職務にこの才能の全てを注ぐなら、主従関係は逆転するのではないか――そうとさえ思える程の、神技であった。
 いや寧ろ、世界平和の為にもフェリシー嬢の胃の為にも、そうした方が良いのかも知れないが――

「……ゼ、ゼックス、わたしはっ、ぅ、私は……あんな事……っ!」

「はい、フラウ・フェリシー」

「私はっ……! 私は、あんな事っ、……絶対に、言いませんからね……!」

「でしょうね、きっと」

 ――それを、ユーリは望まない。
 幾ら邪見にしても、粗雑に扱っていても、時々は泣かせても。その全ての反応が、心地良い。
 怒鳴られ叱られ、もっと真面目にやってくれと懇願されても。その全ての声が、心地良い。
 自分が上に立ったのならば、きっと関係性は崩れ去る。心地良さは消えて失せるだろう、と。

「いえ、まあ……貴女の部下になりたがる人も、殆ど居ないでしょうが」

「怒りますよ!? いやもう泣きますよ!?」

「もう泣いてるくせにー。やーい」

「あー! あーーー! あーーーーー!」

 だから――だから、彼女の主は、たった一人。
 臆病で、抜けてる所が多くて、生活も少しだらしなくて。見ていないと不安で仕方ないが――見ているだけでは、物足りない。

「……ところで、フラウ・フェリシー。私はお腹が空いたんですが」

「奇遇ですね、私も駄犬が勝手に逃げ出したせいで空腹ですよ! ええ!」

「どうせフラウ・フェリシーのお財布ですし、近くのホテルでディナーを予約しておきました。部屋へ運ばせますか? レストランで食べますか?」

「皮肉を言ってるって分かってます!? 分かってますかゼックス!?」

 寄り添って、軽口を叩いて、そんな風に歩きたい。
 ユーリは全く自然に、ベンチの買い物袋を両手に引っさげた。
 それを見てフェリシーは、傘を差して立ち上がり――

「……ゼックス、荷物が濡れると困ります。入りなさい」

 ――そう言って、暫しは待った。
 従者は飽きもせず無表情の侭、肩に雪が積もるのを待つばかりで。

「……ああ、もう……ユーリ! 入りなさい」

「はい、フェリシー」

「私は道を知らないんです、早く連れていきなさい! 私が風邪を引いたらどうするんです!」

「私にうつりますね、きっと。その時は有給を頂きます」

 黒と白、対照的な二輪のコート。何れも雪に濡れないように、肩を寄せ合い、夜道を歩く。
 さく、さくと踏みしめた薄い氷に、ユーリは、自分の顔が写るのを見た。
 そして、まだ涙が乾かない自分の上司が、転倒にびくつきながら歩いているのを――目が、足元に向いているのを見て、

「……可愛らしい人」

 聞こえない程度に呟いて、くすりと喉を鳴らし、笑った。





「いやー、ぶち壊してやったでー!」

「ぶち壊してやったわー!」

 奇声を――いや、気勢を上げる悪魔二匹。
 もはや士気は絶頂! この夜を於いて他に、我が生の頂点が訪れる事は無し!
 全てのカップルに鉄槌を、全てのリア充に制裁を! 愈々理想は燃え上がる!

「おう、次は誰や! 出て来たらんかい、やっちゃるけんのー!」

「天地に隔て無し、皆一様に堕ちるべーし! 潰せ! 潰せ!! 潰せ!!!」

 なんとも賑やかに、離別を誘う悪魔タッグは、夜の街を行く。
 が――ふと、それを引き留めるものがあった。

 ――ぐう。

「……ん? あんさんのお腹?」

「いやいや、そっちの音じゃ?」

 両方である。
 夜更かしをして歩き回り、テンションを上げていれば、それは腹も減る。
 コンビニの肉まんで充電したエネルギーなど、嫉妬の炎で燃え尽きたに決まっているのだ。

「……はー……それじゃ、どっかで何か食べよっかー……」

「そーやねー、今日はどこのファミレスも24時間営業だろうし……」

「あー、でもファミレスなんてカップルの巣窟やで。甘ーいムードが漂ってるんやでー……」

「うっわー、それ行きたくなーい。チョコレート溶かして飲んでる方がマシー……」

 さりとて、彼女達は聖夜を嫉む者。幸せ一杯のレストランなどに近づけば浄化されかねない。
 二人ならんで空腹の身を抱えながら、またコンビニでも有りはしないかと目を走らせていた。

「……はーぁ。結局、今年も独り身やったなぁ……」

 ぽつり、良子が呟いた。

「止めてよ、寒くなるから……ぅぅう」

「ごめんなー、でもなー……今日ってクリスマスやろ? イブももうちょっとで終わるんやろー?
 ……結局、リア獣共は群を為してるし、私達はボッチ継続やんかー」

「〝達〟なのにボッチも変な話だけどねー……あっはっは」

 操も寂しさたっぷりに呟き返す。
 まっこと、虚しい勝利である。得た物は少なく、失った物は極めて大きい。
 たった一夜の為、理知も恥も投げ捨てた二人――行き着く先は、頭痛の種。

「……〝達〟? そっか……そうやね、そうやった」

「え? どうかした……?」

「此処に、戦友がおったわ」

 良子は足を止め、ざ、と靴を鳴らして、操に正面から向きなおった。

「やっ、止めてよ、なんか恥ずかしい……」

「今日はどうも、おおきに。おかしな事に付き合ってもらったばかりか、十全に活躍してくれた。
 おかしな過ごし方やとは思うけど、そんな悪くないクリスマスイブやったと思うで? ん?」

「……急に改まってー……」

 落ち着き払えば、成人と少女。場数が違う、切り替わりの速度が違う。
 先程までの怨念もどこへやら、そこにはすがすがしく笑う女――物岳 良子の姿と、

「……でも、その……ありがと、私も楽しかった……多分、きっと」

 俯き、ぶつぶつと、途切れ途切れにではあるが。緋扇 操もまた、どこか達成感に満ちて晴れやかであった。
 多くの言葉は要らない。死地を潜れば、皆が友である。
 リア充の群れという地獄を走った彼女達は、きっと戦友と呼ぶにふさわしい存在であった。

「……イブは終わったけど……まだ、クリスマスだよね」

「ん? ……そうやね、そういえば。はよ返らんとなー、寒い寒い寒――」

 くい、と良子の袖を引く操。寒さに震える良子とは別に、彼女も少しばかり震えていて――

「――食事、してかない……? ね、ねえ、例えばさ、ファミレスとかでも良いから……まだ、帰りたく、なぃ……」

「……操ちゃん」

 ふっ、と小さく大人びた笑いを見せて、良子は操の手を取った。
 先んじて歩き始め、向かう先はきっと、何処か深夜も営業しているファミレス。
 悪魔にも友情は有るのだと、何処かの巨躯が泣いた気がした。


「操、その女は誰ですか!?」

「ぐえっふう!?」

 ――それをぶち壊す、一声!
 物陰から走り出た女は、操の腹へ頭突きをかますと、そのまま両膝をもろ手刈。路上に仰向けに叩き付けた。
 疾風が如き手腕は正しく達人の物――否。狂人の物であった。
 狂人? 何に狂った? 今更問うべじ何が有るか!

「私というものが有りながら! こんな……こんな女に! 浮気者!」

 果たして何杯を飲んだのか、べろんべろんに酔っぱらったカムイ・紅雪は、操の胸倉を掴み揺すぶる。
 それを見ていた良子は、面白い様に顔色を変え――

「みっ、操ちゃん!? 私の純情を弄んだんか! この鬼! 悪魔!」

 頭をがくがく揺らされながら、操は一言だけ零した。

「……もうええわ」

 ありがとうございました。
 きっと、もうつづかない。

 貴女からメリー・クリスマス。
 私からはメリー・クルシミマス。
 全てのカップルに祝福を、阿呆二人に笑いと暖かいスープを。
 そして――一組の主従に、安らかな目覚めを。