烏が鳴くから
帰りましょ

一日目

 目覚まし時計というものが作られたのは、つい最近の事である。時間を刻む為の時計は、そも『幻想の幻想』の頃から存在したそうな。普及率は決して高くないものの、既に懐中時計も有ったという。

――ぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴ

 時計が存在したのなら、アラーム機能をくっつけるだけで良い。そこに思い当たるまでに、どうして数百もの年月が必要になったのだろう。ひょっとすると河童は、物凄く馬鹿な種族なのではないか?

――ぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴ

 いや、違う。彼等は眠りの貴重さを弁えていたのだ。
生物は規則的な睡眠を挟まずして健康的な生活を続行できないよう作られている。体が休息を求めるならあらゆる外敵を排除し、睡眠を履行出来なければならない。ならば、まどろみを切り裂く無粋は彼等の生活に存在する意味は無く、

――ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ

「ああ、もう煩い」

 ボタン部分に一撃加えてやると、目覚まし時計がぴっと悲鳴を上げた。睡眠に対する愚考察は強制中断され、ついでに意識も無理矢理に覚醒させられる。
 
「人間様には社会生活ってもんが有るのよ、もう」

 睡眠の崇高さを信ずるのは甘美な堕落だろうが、既に午前6時30分。着替えや食事、身だしなみを整えるなどの時間を考慮すると、二度寝は出来ない。布団は敷いたままでも良いだろうと部屋の隅に引きずっていき、姿見の前に立つ。死人が身に着けていそうな襦袢を脱いで、鏡に背を向け、姿勢を戻し、頬を掻いて思考を巡らせていた時、左手の甲に目的の物を見つけた。

「……ありゃ、本当だったかー……世の中、不思議な事もある物ね」

 驚きならば、表に出ないながらに存在した。この科学全盛の時代、〝そういう話〟は小説や漫画の中に見るばかり。何処か別の世界のお話が、自分の身に降りてくる幸運を望むべくもないだろう。だから、目に見える形として現れた奇跡とやらに仰天させられるのも仕方がない。
 反面、それを喜ぶだとか誇るだとか、そういう感情は薄かった様に思える。自分はそういう存在をどこかで信じていたし、知っているという確信が有った。記憶の中に経験として存在はしていないが、〝彼等〟の姿を明確に思い描ける。
 当たり前の様に人が空を飛んでいた『幻想の幻想』―――ああ、そういえば。

「次のテストってその辺りだったっけ、忘れてた」

 教科書の189ページからです、なんて担当教諭の声を、『彼女』は脳内で再生した。





 朝食は質素に白米と焼き魚で済ませた、面倒だからと言い換えても外れではない。通学路の長さを思えば朝食に30分以上を費やすのもやぶさかでは無いが、

「せんぱーい、起きてますかー? せんぱーい」

 玄関先で、低血圧とは無縁の元気そうな声が聞こえてくる。髪を結んだ鞄を持った、戸締り確認元栓締めオーケー、

「せんぱーい、起きないと上がりますよー。先輩ってばー」

 靴に爪先を入れる、踵を滑り込ませる、玄関に手を――

「おはようございます、せんぱ――あ」

 気の早い後輩は、合鍵で扉を開けてしまっていた。
 『彼女』の家はそもそも盗まれるような貴重品が無く、鍵を掛ける意味は薄い。それでも亡き両親の教えに従い、外出の際には必ず鍵を掛ける様にしている。
 そうなると家主がいない時間帯(もしくは家主が眠っている時間帯)、誰もこの家に入れない。だから『彼女』は、此処を良く訪れる人達に、合鍵を作って渡しているのだ。
 結果、少し遅い時間に帰宅すると、居間が寄り合い所の様になっている事もあるが……

「おはよう、リグル。もう少し遅く来なさいよ」

「駄目ですよ、朝練が始まっちゃいますから。放っておいたら先輩、目を覚ましそうにないですし。先輩だって所属はしてるんですから、顔を出すくらい……」 

「嫌よ、面倒くさい。3つも4つも掛け持ちしてるのに、朝まで運動してられないわ」

 寒いし、と小さく付け加える。家の外には見事な銀世界が広がっていた。雪掻き機を此処まで運びこむ物好きは無く、舗装道路に届くまでは数十m、白い大地。一直線に続いた足跡は、この小柄な後輩のもの。
――リグル・ナイトバグ。『彼女』より学年が一つ下の後輩で、陸上部の期待の新人。人里から魔法の森方面へ伸びる古い街の、これまた古い館に住んでいる。
 通学路の途中にあるからと、此処へ顔を出す様になってかれこれ1年になるだろうか。『彼女』の家を寄り合い所にしてくれている元凶にして、その連中の中心人物でもある。

「……で?どうだったのよ、あの話」

「えーとですね、寅丸先生の件だったら、根も葉もない噂話みたいです。そりゃそうですよね、あの人は誰かと手を繋いでても、その手首まで落っことしちゃいそうですし。

 それよりも面白そうなのが犬走先輩の方でしてね、どうにも男性の影がちらほら……」

「ほう、あの剣術小町が。それは聞き逃せないわ、続けなさい」

 この後輩が人の中心に居る理由は、偏にその情報収集能力にある。リグルは噂の気配に驚く程敏感で、そして噂の真偽の選択に長けているのだ。
 学校中、もしかしたらこの近辺、町内中、噂と名が付いているもので、彼女の知らぬ事柄は無いに等しい。一説には、町内の至る所に間者を放ち、住民を監視しているのではないかすら言われる事も……。

「……そんな訳でして、たまーに部活を早く切り上げたり、眠そうな顔で遅刻してきたり。そういう日の前後に限って、妖怪の山の自宅より更に奥側で見かけられるらしいんですね。 やたらと周囲を気にしながら歩いてたそうですし、これはもう誰か或いは何かと会う目的でも!」

「んー……まだちょっと弱いわ、それだけじゃまだ言い訳が色々出来そうだもの。何かこう、もっと分かりやすい、それだけで証拠になりそうな何かを……」

「御安心を。ちゃあんと破壊力十分な証拠を見つけてあります――あ、昇降口」

 過去、烏天狗を新聞業界から駆逐したナイトバグ家の嫡子、それがリグル・ナイトバグだ。
 彼女に気に入られれば街の噂を無条件に手に入れ放題となり、彼女を怒らせれば私生活に於いてプライバシーという概念は消失する。
 『闇に蠢く報道一族』などと揶揄されつつも、当の本人は無邪気そのものの愛らしい笑顔で道を行く――と、話を脳の半分で聞きつつ思考していると、『彼女』は何時の間にやら、目的地に到着してしまっていた。

「んじゃ、話の続きは放課後……いや、おゆはんの時で頼むわ。今日は早く帰るから」

「今日も、でしょ?偶には陸上部に顔を出しても……あ、そういえば」

「ん?」

 あまり高くない背を更に縮めるように、リグルは『彼女』の腰の高さまで頭を下げる。

「その……左手の包帯、どうしました?」

「寝ぼけて柱にぶつけた。痛かった」

 さも当然の事と言わんばかり、『彼女』は平然と虚言を弄する。包帯に関してあれこれ探られるのも面倒だ。事前に決めた嘘は、息と同様、自然に吐き出せた。

「はあ……気をつけてくださいよ」

 靴箱は学年別に分かれている、リグルの教室は1階、『彼女』の教室は2階、行き先も異なる。特に別れの言葉も無く、自然と彼女達の向かう方向は変わり、

「それじゃあ、また夜に会いましょう、霊夢先輩」

「んー」

 背中に聞こえる挨拶には、包帯が巻かれていない手を上げて――博麗霊夢は、簡単な挨拶を返した。




 霊夢が通う、私立命蓮寺高等学校には、200人程の学生が在籍している。単純計算で、一つの学年に70人未満、2学級。決して大きな規模の学校ではない。然しながらこの近辺の土地事情、制度と施設の充実度はマンモス校と肩を並べられる程だ。
 まず、私立校でありながら、学費が極めて安い。公立校と同程度か、奨学金制度や特待制度を用いればその数分の一。これは長く人里と共に在る寺院、命蓮寺の好意による物であり、平均より優秀な学生であるならば誰でも、この学び舎に籍を置く事を許されるのだ。
 私立校としての収益だけを見れば赤字だろうが、坊主丸儲け、懐は痛むまい。おのれの神社にお賽銭が入らない事も、学費に免じて許してやらねばと、霊夢は寛容な気持ちを抱いている。
 必修学科は、必要最低限のものしか行われない。進学を希望する者にはそれに必要なだけ、働きたいものには相応の時間と予備知識を与える。飲食業に就職したいなら衛生管理を学ばされ、プログラマ志望者にはHello worldからの実習を。学生の自主性を尊重する為、放任ではなく敢えて過干渉を貫く。
 学生生活を豊かにする為の施設は、ここ数年で更に進化を遂げている。1階の空き教室一つを使った自動販売機コーナーと、中ホールを占拠する購買。食堂は休憩室と隣接して作られ、近隣の主婦などが時々訪れる程の広さとなる。
 視聴覚室の再生装置は管理が緩く、放課後には映画の観賞会を行う連中もおり、プールは10コース50m、格技場では柔道剣道空手道と3種目が同時に練習を行える広さ。
 唯一存在しないのが図書室だが、これは紅魔大図書館との業務提携により、週1で移動図書館が派遣される。
 蔵書検索機能の正確性と、揃いの制服に身を包んだ有能な司書集団、約30名。彼女達の手に掛かればこの幻想郷で、見つからぬ本などあんまりない。
 以上の様に、この学校は極めて快適な環境にあり、霊夢は非常に学生生活を気に入っている。これから命を狙われる生活が始まるというのに、のこのこ外出しているのも、それだけが理由なのだ。

「おーい、博麗の。朝から机と仲良しだな」

 机にうつ伏せになっていると、丁度今朝、噂話を入手したばかりの彼女がやってきた。真っ白い髪が、窓からの太陽光を照り返し、二倍眩しい。

「あら、椛じゃないの。今日は寝坊しなかったのね」

「う……先手を打たれた、おのれ紅白」

 霊夢の先制のジャブは、思ったより深く決まったらしい。平気そうな顔をしているが、今の一言は結構言われたくなかったと見える。耳がぺたんとへたり、スカートから覗く尻尾も力無く垂れてしまっているからだ。
 ポーカーフェイスに騙される者も多いが、慣れ親しんだ者からすれば、犬走椛程に心の内が分かりやすい少女もあるまい。

「一講目が自習だとさ」

「あれ、確か英語だったわよね。どうしたのあのハングリータイガー」

 倒れた耳を起こしながら、椛は職員室で聞いてきたのだろう話題を霊夢に届ける。自習を喜ぶのは小学生まで。教員は居ないより居た方が良いと考えている霊夢は、担任教師の平和面を思い浮かべた。

「車の鍵を落としたので自転車漕いできます、だと」

「……ああ、そりゃ遅刻するわ」

 少し詳しく聞いてみると、職員室に立ちよった際に、雲居教頭に愚痴の様に教えられた事であるらしい。
 椛は剣道部部長ではあるが、公式試合に参加した事も無く段位も持たない変わり者だ。曰く、『剣は実戦と共にあり。敵を一人斬っても、次の敵に斬られたら負けだ』という事で、一対一で剣を振るう剣道というものに完全な信頼を寄せていないのだとか。
 剣道部に居るのは、『形式に閉じ込められる事を我慢するなら』練習相手に事欠かないから。
 こうして並べてみると、まっこと身勝手な奴ではあるのだが、

「そういう訳で、先生方にプリントを配るよう言われてな。ほら20枚」

「うわーい、自習時間をはみ出して家に持ち帰らないと終わらないわー」

 目上の人間に何か言われると、ほぼ確実に従う従順さが彼女にはある。彼女が部長をしているのは、面倒事を全て引き受けて平然としている生真面目さが理由なのだ。寒い廊下を歩きたがらない先生方になど、特に重宝されている。
 結果、目下の者には、嫌われるとまではいかないが疎まれる事ならばある。廊下も垂直に曲がるんだろうと揶揄される程、全てに於いて秩序を重んじる彼女だが――

「……んで、最近はどこをほっつき歩いてるのよ、椛。あっちは住宅地ばかりじゃない」

「それは聞いてくれるな、友人の自覚が有るなら」

――よもや、こんな話題でかまかけをする日が来ようとは、霊夢は思ってもいなかった。椛は珍しく、耳や尾ではなく眉根を下げて、この話題から離れようとする。

「友人に隠し事をするなんて酷いと思うわ。えーと、妖怪の山の中腹だったかしら。あの近辺は家の数に比べて若いのが少ないし、家屋以外の施設は更に少ないわ。もしも其処に限定して何かを調べようとしたら、何日で答えが出るのかしら」

「……回りくどい話は止めにしよう、要求は?」

「あーあ、何処かの妖精さんが、寝てる間に宿題を片付けてくれないかなー」

 普通の授業ならばいざ知らず、自習であるなら、真面目にやるも適当にやるも自分次第。だが、夜にまで引き継ぐ量となると、流石の霊夢も、健全な学生の真似を諦めざるを得なかった。

「……時間的には半分が限度だ。それで妥協してくれないなら仕方がない」

「うわあ、流石は椛。持つべきものは友人よね」

 やはり彼女は、犬走椛は扱いやすい存在なのである。
 秩序と法則性を愛するという事は、過程から結果を容易に推測出来るという事だ。数個先の答えまで見えているなら、彼女を誘導するのに障害となるものは無い。その点では、秩序的だが何処か先を読みづらい霊夢とは、似ている様で似ていない仲なのかも知れない。
 兎にも角にも霊夢は、今夜は徹夜を決め込む予定である。宿題を持ちかえる等は端から考えていない。自習時間で半分を、そして椛に半分を片付けさせ、学業も私用も両立する事とした。

「ところで、博麗の。包帯はどうしたんだ」

「これ?寝ぼけて柱にぶつけた、痛かった」

 また、この問いである。答えもほぼ同じだが、然し椛の反応は、目に頼るリグルとは少々異なる。

「ほー。血は出てない様だが、消毒薬も湿布も無しか?」

「いいのよ、面倒だもの」

 自分の席へと戻る直前、霊夢の手に鼻を近づけてひくひくさせていた彼女。見た目の印象に違わずの嗅覚である。
 これからは香水をつけて歩こうかと、単純な案を一つ練る。

「出費が増えるわねぇ……」

 決して潤沢とは言えない生活費を、何処から削るべきだろうか。これは、プリント以上の難題であった。





 彼女の学校生活は、おおむねこんなものである。昨日と殆ど変わらない日を過ごし、きっと明日もそう変わらない日を送る。変化の薄いと言えば悪く聞こえるが、平和で心地良い日々だ。
 自分も周囲も学問を身に付け、少しずつ人格を完成させていく。存在する個の質を高め続けながら同系のストーリーが連続する日常は、彼女を飽きさせる事がない。
 然し博麗霊夢は、この日常に非日常を付け加える。日が沈んでから昇るまで、1日の半分。冬である今は6割以上。睡眠の時間を差し引いた残りを、これから数週間、戦いへと費やす。

「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。 祖には数えて二十七の規律。降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。
 閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する――」
 
 月は消えた、雪は止んだ、生物の気配も遠ざかった。冷気は遠方の声を境内に運び、然して境内から抜けだす音は無い。詠唱の声は反響を伴い、一つの声質による合唱を始める。
――敷設式結界。霊夢が、この家で習い覚えた最初の一。通常の生物ならば見る事は叶わず、また踏み込むも適わない。そればかりか仮に近づいたとしても、踏み込もうと考える事すら無いのだ。
 結界は魔術の一つであり、世界の内に防壁を作りだす類の術だ。物理的、魔術的な干渉を拒絶し、内部の存在を守る為に使われる事が多い。
 古来より公共の場では、少なからず結界が存在する。家を囲む塀も、一つの結界と呼んで良いかも知れない。明確に閉ざされていなくとも、地面に線を引いて「立ち入り禁止」と書けば結界だ。そこに優秀な術者の手が加われば、只のライン一つが銃弾をすら止める壁に変わる。
 博麗の結界は、〝外〟と〝内〟を離絶する。〝外〟から〝内〟を守るのではない。〝内〟を〝外〟から切り離すのだ。
 博麗神社は変わらず其処にあり、然して今この瞬間は幻想郷に存在しない。結界の外の誰かは博麗神社を知覚出来ないし、それが存在する事すら忘れるだろう。
 だが、術を解いた瞬間には、その誰かは「神社が無かった事」にも気付かない。世界に存在しないものにどのような干渉が行われたか、そんな事は世界の内に居ては分からないのだから。
 星の灯りが薄れていく、夜の黒が霞んでいく。全ての色を塗りつぶして、境内を闇が取り囲む。博麗神社が外界から遮断された事を知らせる光の消失、指を鳴らせば境内の松明に火が灯る。

「――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 数日を掛けてたどたどしく描いた魔法陣。古の星の欠片を、死なせないままに集めた獣の血に溶かした溶液。刷毛に染み込ませて、雪を退かした石畳の上に塗り付けたものだ。
 こんなやり方は、数年前に亡くなった母には習わなかった。
 神棚を引っ繰り返してうっかり暴いてしまった、その時に見つけた一冊の書物、日記にも見える雑多な記述の中に混ざって、この儀式の存在は記されていた。
 閉ざされた境内に寒風が荒ぶ。常より露出の多い巫女服は、叩きつけられる風から肌を守らない。
 髪留めと揃えられた赤の、ノースリーブのシャツとロングスカート。数代を経てデザインの変わらないこの衣服を、霊夢は数日前に初めて仕立てた。事前の予想より安上がりだったのは、〝当代の巫女さん〟という肩書きの為に、呉服屋の主人が快く値引きをしてくれた為である。
 白布で作られた袖を通し、赤の紐で二の腕を結んで止める。大別して五つのパーツに分けられるこの服だが、装着は割と楽な部類。古来より妖怪との戦闘に明け暮れた『博麗の巫女』が身に付けるのだから、実用本位も頷ける。

「……さあ、全て整ったわよ。万事がオーケー、おいでなさい……!」

 必要とされるのは、聖杯にアクセスするだけの魔力でいい。自分自身の魔力量を鑑みれば、結界と灯りを維持しながらでも、しくじる要素はどこにも無い。
 博麗神社は幻想郷でも有数の霊地、世界からのバックアップは過剰に受けられる。駄目で元々と思って始めた事だが、それでも準備に数日を費やした。此処で失敗してお終いなどという、笑い話にもならない結末など許されない。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――!」

 フルスロットル、体内の魔力を、陣の許容量を超えて注ぎ込む。悲鳴を上げる陣の触媒を、根性が足りないと叱咤して更に鞭打つ。 流れ、溢れ、押し戻され、渦を巻き、決壊する。行き場を失った魔力の奔流は、悉く空間を越えて聖杯に流れ込み――


――霊夢の構築した世界は、内側から崩壊した。


「……うそ」

 境内を覆う敷設式結界が、硝子窓を叩き割った様に崩れていく。切り離していた雑音、獣と鳥の声が戻ってきた。だが、彼女が目を見張ったのは、自身の術が容易く破壊されたという小さな事ではない。あの文献が本当なら呼びだされる代物は、指の動き一つで結界を無に帰しても驚くに値しない。
 魔方陣の周囲の石畳は、数mに渡ってクレーターの中に沈んでいた。家か神社の中で召喚儀式を行っていれば、床がああなっていたかと思うと恐ろしい。だが、彼女の口が上手く閉じないのは、召喚の余波が物理的衝撃になる規格外の魔力の為でも無い。
 『あれ』は化け物以上の化け物だ。百の武装を以てしても、人間には勝利する手段が見えない。

「――霊夢?」

 それは、己が破壊を確かめるでもなく周囲を見渡し、召喚者の名を呼んだ。土の斜面を軽い跳躍で登り、彼女は霊夢の前に立つ。
 霊夢より少し背が高いだろうか。シルエットの起伏も、霊夢に僅かに悔しさを覚えさせる程度には豊かだ。ただ一言だけで、その声と発音は、教養人に育てられたのだろう響きを運び、弦楽の音色を思わせる。
 月に魅せられた瞳は赤く染まり、逆に月と星を魅せて惑わせるかのよう。彼女は、夜を〝在るべき所〟として其処にいて――

「聞くわよ、貴女が私のマスター?」

「ええ、そう――いや待って、あんた誰よ」

 その姿は、おおよそ霊夢の知識の中に、該当する者の無い姿であった。
 指で梳いているのは、きっちり腰で揃えた黒髪。肘、膝から先の四肢には籠手、具足の黒。胴体を薄手の金属板が、白銀の光と共に守護する。北欧神話を思わせる、羽を模した飾りの冑。剣の収まっていない、形ばかりの鞘。
 
「名前は答えられないわ、この格好も許していただけない? お気に入りの服だと、少し目立ち過ぎるんだもの……うふふ、姿なんてどうでもいいわよね。契約は完了、これより私の剣は貴女の為に。聖杯は必ず、私と貴女の物になるわ――勝つわよ、霊夢」

 誰ともつかぬ英霊は、敵の一つも見る事なく、自分の勝利を確信していた。





「変装ぅ? 魔力で作るとかじゃなく?」

「そうよ、変装。ウィッグは私の時代から有りますの。このお洋服もね」

 どうやら儀式の記述は全て本物で、霊夢は完全に成功したらしかった。居間のちゃぶ台に座布団を用意して、ゆのみで茶を啜っているのが〝サーヴァント〟。『語り継がれる幻想』、『物語になったモノ』、彼女を形容する為の言葉は幾らでも見つけられるだろう。
 何せ、あの儀式で呼びだされるのは、〝多くの言葉で語られた〟存在なのである。既に過去になり、だが忘れ去られる事はない、物語の主人公達。
 妖怪退治の逸話を持つ英雄や、人間を狩り続けた怪物、全てに君臨した王や神。彼女達を使い魔として使役する為の手順が、あの儀式という訳だ。
 彼女達は、生前の姿でこの世界に召喚される―――そう、生前。死に、そして語り継がれる様になる事。その畏敬が集まる事こそ、英霊となる条件。その信仰の総和は、八百万の神の何れにも勝る巨大で重厚なものとなろう。
 当然、その様な事、本来なら出来る筈もない。召喚者より遥かに格上の存在だ、呼びだす事すら敵うまい。そればかりか、召喚に用いる魔力だけで、並の術師の数百数千は枯れて果てるに違いない。
 仮に叶ったとして、命令に従わせる方法が無い。口先で騙すという手段は有るが、万が一を考えればそれは愚行だ。そして英雄に詐術を用いた者の末路など、悲惨な物にしかなり得ない。
 だから、彼女達を呼び寄せる事が適うのは、幻想郷に彼岸花が咲き乱れる年だけ。六十年に一度訪れるその時に、聖杯もまた力を蓄え、奇跡を顕現する。召喚者は聖杯に呼びかけるだけで良い。経路を作り彼女達を呼ぶのは聖杯の仕事だ。
 また聖杯は、彼女達を従える力と、彼女達を知る力を、選別したものに与える。従える力は、霊夢の場合は左手に刻まれた『令呪』。そして知る力は――

「……納得したくないけど、どうみても本物なのよね……」

「そうでしょう?〝それ〟が見えるなら、私の力も分かるって事よね」

 この能力自体には、呼び名は定まっていない。だが、それが当然であるかの様に、霊夢には己がサーヴァントの力が見えた。
 魔力の量だとか質だとか、そんな水かさと色で判断する様なぼんやりとしたものではない。明確な基準を持った数値で彼女の馬鹿げた戦力が理解出来る。ただ目視するだけで、サーヴァントの力量が、霊夢に伝わる様になっていたのだ。
 先達の巫女の残した書物には、サーヴァント達の能力を計る基準が記されていた。曰く、1を最小単位として10でEランク評価。+の数だけ、特定状況下で能力が倍加する。平均はCランク程と言われ、Bもあれば十分に武器として通用するだけの力。
 行儀よく背筋を伸ばし、お茶を啜る彼女はと言えば……筋力、A。耐久、B。敏捷、A。魔力、B。幸運、D――宝具、A++。瞬間的にはAの3倍を誇る化け物出力を得るという事だ。

「……何これ、大当たりじゃないの」

「そうよ、特賞前後賞大当たり。これで負けなんて有り得ないくらいのね。勝ちたいなら強い駒を得る事、その条件を最初にクリア出来たのよ、霊夢」

 それは当然嬉しい事だし、望むべくもない成果だ。例え彼女がどの時代の英霊であろうと、これほどの力の持ち主などそうは見つかるまい。召喚の為の触媒を使わずにこの結果、博麗の巫女の幸運は伊達では無い。
 だが、良い事が続けば、人は疑心暗鬼に囚われるものだ。霊夢は、彼女が自分の名を知っていた事が、不思議でならなかった。主と従の確認より先、名を問われた事が、大きな疑問として頭を占めていた。
 『博麗の巫女か』と問われたのならば、今の姿だ、頷けよう。何故彼女は、霊夢と。システムである巫女の役職を呼ばず、個人の名を知っていて、問うたのか?

「……念の為に聞くわ。あんたの時代に有った、有名な出来事を一つ教えて」

「えー……? 何の為に変装してると思ってるのよ、正体がばれない為よ? 私達は物語の具現、ちょっとした事が誇張されてたりするんだから、正体は知られたくないの。ほら、お酒が苦手だって記述が残ってたら、アルコールをトン単位で持ってこられそうじゃない? 変装までして来たのもそんな理由、慌てて選んだのよこのウィッグとお洋服」

 両腕の籠手をカチカチと、まるで火打石でも使うかの様に打ち合わせるサーヴァント。悪戯気が4割、子供の様な単純な不満が6割の、本心を読みやすい表情である。

「鎧冑を洋服と呼ぶ事に私は異議を唱える……って、そうじゃなくて。いいじゃないの、私はあんたと戦うつもりはない。あんたを使役して、誰かと戦うのよ。貴女の事を知っていても、貴女にリスクは無いわ。むしろ相互理解は円滑な戦闘の手助けよ」

 自分のサーヴァントの正体を知らずして、これからの戦略を練るのは難しいだろう。どうせやるなら徹底して勝ちを狙いたい。霊夢がそう思うのも無理は無く、また主張に間違った部分も無い。サーヴァントは湯のみを置き、眉の間に皺を寄せた。

「むぅ、反論の余地が無い。でもね、正体は教えたくないわ、絶対よ。けど貴女は引きさがりそうにないからね……ええ、そうだったもの。教えてあげる。私の時代の出来事なら―――『永夜異変』。明けぬ夜の物語、なんてどうかしら?」

「永夜……それって、『幻想の幻想』時代の事?」

 幻想郷が今より遥かに小さく、そして遥かに不可思議な事で満ちていた時代。もう何百年も前の事だろうか。映像記録技術の無い時代の事ゆえ、当時の様子は文献でしか知ることは出来ない――その中で、最も危険であったとされる異変の一つが、『永夜異変』だ。
 
「今はそう呼ばれてるみたいね。そうよ、昔も昔の大昔。空を見上げれば烏天狗が飛び回り、宴席では鬼が大杯を傾ける時代よ。どうしてこんなに地味になったのかしら、幻想郷」

「え、烏天狗って空を飛んでたの?」

「……何の為の翼よ」

「飾りか上着代わりだとばかり」

 彼女は、ウィッグだという黒髪を指先に巻きつけながら、小さく溜息を零した。

「……はぁ。何処から説明したら良いのかしら。私だって当たり前の様に飛べるし、そもそも私の時代の弾幕ごっこは、皆が生身で飛んでたわ。それをしなかったのは白黒の魔女くらいで、飛べる事を不思議にも思わなかったわよ。……いや、弾幕ごっこも廃れてるんだっけ。何をして遊ぶのよ今の子供は」

 嘆かれるのも無理は無い。彼女の言葉が本当ならば、今はどれ程に夢の無い時代だろうか。人は空を飛べない、だから地を行く術を身に付ける。自動四輪車の普及率は年々伸びている。鬼などは文献と伝承の中にしか見つからないし、人が生まれつき持つ力には限りがある。
 霊夢が習い覚えた力は、博麗の巫女が代々引き継ぐ代物。幻想と共に有り続けた力だ。
 翻って生まれ持った力はといえば、『周囲から一歩だけ浮かぶ程度の能力』。〝それがどの様な集団の中であろうとも、必ず平均以上の力を取得できる〟という彼女自身の力は、結局努力を積まねばトップに立てないという点で、有っても無くてもあまり変わらないのだった。
 そう、一個人の力量を比べるなら、生まれついた瞬間に現代は、過去の幻想に遠く及ばないと定められている。かろうじて縋りつく為には、過去の幻想をそのままに引き継いでいなければならない。

「なんだか凄いのねー……まあ良いわ、秘密にしたいなら無理に聞かない。けどさ、だったらあんたを何て呼んだらいいのよ。ずっと『あんた』だと、時々困りそうなのよ」

「呼び名だったら聖杯に貰ってるわ。セイバー、と呼んで頂戴。最優のサーヴァントの名よ、誇っていいわ……と、霊夢。差し支えが無ければ、私からも質問させてもらいたいのだけれど」

「ん?構わないわよ、こっちはいまんとこ質問なくなったし……あとおせんべ残しといて」

 セイバー、それが彼女の寄り代となるクラスの名。主要三騎士の一角にして、最優のサーヴァントと称される。あの書物は三回目の聖杯戦争の際に書かれたものらしいが、過去の二回で最後まで勝ち残ったのは、何れもセイバーだったと記されている。
 力及ばずして負ける危険は失われた、後は戦略で負けなければ確実に勝利する。それが確定した時点で霊夢は、彼女にあれこれ問い詰めるのを止めようと思っていた。然し、質問されるというのなら別だ。知られて困る事も無い、何より――

「霊夢。貴女は、聖杯を何の為に求めるの?」

――この質問は、予測出来ていた。

「望みは無いわ、誰かに渡せないだけ。私の目の届かない誰かに、聖杯を与えられない。それが万能の願望機だというなら当然よ。私の知らない所で、誰かが私の世界を壊しかねないもの。そうね、無理に望むなら……参拝客が増える様に、って願ってみましょうか。私の日常を壊す全ては、無為に使われて消えるべきなの」

 一片の偽りなく、本心を口にする。
 博麗霊夢に、聖杯に委ねるべき願いなどない。日常に満ち足り己に満足する彼女に、叶わぬ望みはない。
 それは、生物の構造や物理法則的に、決して実現出来ない事など幾らでもある。有るのだが、それをどうしても実現する必要が、彼女には感じられないのだ。
 魚は地上を歩けないが、大海を悠々と泳ぐではないか。知性と文化有る人間が、そう在れぬ理由は無い。
 人は人の侭、人の如く有るべし。博麗の巫女は人の侭に、人に有らざる全てと接するのだ。

「……そう、やっぱり霊夢ね、それでいいわ。私の願いは――これだけは約束する。私の願いは私にしか影響を及ぼさない、小さな小さな願いだって、ね」

「ふぅん、分かったわ……じゃあ、そろそろ歯を磨いて寝ましょうか。明日も早いわ」

 仮に彼女の願いが全ての終焉だったとしても、霊夢は彼女のマスターになった。令呪を残しておく限り、マスターはサーヴァントに対する絶対の優位性を確保出来る。だから、彼女の願いを知る必要など無く、その対策を練る必要も無かったのだが――

「ねえ、セイバー。その小さな願いって、結局は何なの?」

 些細な知的好奇心を、無理に抑える事も無いと、結局はそれを尋ねてしまう。

「本当に、小さな願いよ」

 座布団を押し入れに片付けた彼女は、遠い何処かに視線を飛ばした。
 それは、もう過ぎ去った何時か、無くなってしまった何処かを懐かしむ様で。死に際した人間が走馬灯を見る、還る事への羨望を抱いた目で。

「……私が愛したあの時間を、もう一度」

 何故だろう。霊夢には彼女が、酷く羨ましく、また疎ましく思えた。






閉じよ(みたせ)! 閉じよ(みたせ)! 閉じよ(みたせ)! 閉じよ(みたせ)! 閉じよ(みたせ)! 繰り返すつどに五度、ただ満たされる刻を破却する!」

 物部布都は、運命という不定形の存在に、激しい怒りを覚えていた。
 数百の年月を待ち続けた。夢が夢を失い、力の根源は枯れて果て、死の果てに辿り着いたのは似非の不死。
 強者と新たに生まれながら、より強い者の下に甘んずる他無かった主。あの飛鳥の昔の様に、病床に伏す主。千四百の眠りの果てに数十年の自由を経て、また数百年の不自由に甘んじた主。
 斯様な理不尽を許してなるものか、その天の差配を許してなるものか。怒りが刃となるのなら、剣に隊列を組ませて神の座も滅ぼすが我が意気、と。
 彼女は、己が主への忠義と崇拝が故に、幻想郷という世界をさえ、嚇怒で焦がさんばかりであった

「……いけるか、布都」

「大事なし、我に任せよ。お主は魔力の供給を怠るな」

「おう。しくじるなよ、成功したら褒めてやる」

 贄の牛の血と水銀で描かれた魔方陣、満面と水の如く魔力を蓄える。その上に浮かぶ小舟は、小さな触媒の霊的な重さで、喫水線を遥かに越えて沈む。
 
 「――命を下す(つげる)!  汝の身は我等が下に、我等が命運は汝の剣に! 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ!」

 死への道を閉ざし、欲の行き先を閉ざした身。魔力という概念など、知って会得するは容易い事であった。沸点が無限に高い液体を熱して、体積を二次関数的に膨張させていくイメージを作る。
 液体は世界だ、自身は熱だ。熱の働きを以て世界は膨れ上がり、やがて器から零れ落ちる。その零れ落ちた力を掬い取り、望む所に注ぐのが、彼女が辿り着いた魔力の運用――所謂、魔術の形であった。
 小舟に水を注ぐ。物理的な接触では無い。溢れだした魔力で、魔力の波に船を飲み込ませた。触媒が魔方陣に触れ、ぎいぎいと軋み唸りだす。
 幾度も重ねた予行演習と違わぬ過程、全ては事前の調べの通り。もう間もなく、二千年の悲願は形として成就する―――!

「誓いを此処に! 我は常世総ての善と成る者、我は――」

「――待て」

 右手の甲、令呪に激痛が走る。抱えて蹲ろうとして、腕が引き戻せない事に気付いた。強い力で掴まれている、ともすればその指が肉を裂いて骨へ達せんがばかりに。

「っが、何をする屠自古――!?」

 この儀式は決して失敗を許されぬもの。あらゆる外法外道を避けず万事整えたは、我等が主への忠義が故ではないか? さては仇敵への仕打ちかと、咄嗟に浮かんだ邪推は、然し目の前の光景に否定される。

「――布都、その、手」

「手……? ……あ、う、うぁああぁああああっ!?」

 違う。屠自古の手ではない。かの亡霊は、あの場から動いていない。
 この手はあろう事か、布都が作りだした魔方陣の内より伸びている。〝未だ召喚の終わらぬまま〟〝己が主への明確な反抗意思を伴い〟、このサーヴァントは彼女の腕を掴み絞めあげているのだ―――!

「霊廟の術師、お前達を知っている。お前達の主も知っている。お前達は過去に未練を持たぬものだろう、酷く酷く都合が良い。だが、駄目だ。その手順では駄目だ!」

 その声は、他者に命ずるが自分の在り方であると、完全に弁えていた。生まれ付いての強者だけが持つ、無条件の優越を誇る声であった。

「駄目とは、何が、だ。お前は誰で、何故そこに」

「問いは後にしろ! 令呪はまだ使うなよ、勝ち目が減る。私は聖杯を得る為に戦うのだ、負けへ繋がる一切を赦しはしない! 我が命に服従せよ、我が言葉に頭を垂れよ、お前達の主の為に!」

 高圧的だ、そう言う他にあるまい。
 サーヴァントとマスター、二者の関係性はこの名称にある。例えサーヴァントがどれだけ強かろうと、マスターには三度の絶対命令権が存在する。仮にマスターがサーヴァントの自害を願えば、それは容易く実現してしまうのだ。
 その様な大事に至らずとも、サーヴァントはその存在自体が巨大な一つの魔法のようなものだ。現界の為に魔力を必要とし、戦闘行為の為に魔力を暴食する。
 マスターとの不和は不利益しか招かず、ならば従順を装うくらいの事はするだろうと、布都は予想をしていたのだが。

「甘かった、か」

「そうだ、お前達は甘すぎる。所詮は『ごっこ』しか知らぬのだろう? 私は殺すぞ、躊躇わず殺す、誰だろうとだ! 敵でも味方でも、お前すらも殺す! 始まる前に敗者となるサダメを厭うなら、我が命に従え!」

 このサーヴァントは、力の数十分の一も出していないだろう。人がトンボの羽を掴む程度の感覚に違いない。それでも布都は痛みに涙を流し、泣き喚くのを意地で堪えて、滲む目で奴を睨みつける程だ。
 屠自古は動けない。寧ろ動かないで居てくれた事がありがたい。今の自分達ではとても敵わぬ相手なのだから。
 いや、幻想が幻想であったあの時代でさえ、一介の尸解仙と亡霊では、きっと太刀打ちできぬ存在であろう。彼女には、彼我の力量差が、それこそ焼印の様に刻まれた。

「……なあに、一つだけでいいんだ。それだけ聞いてくれたら、私はお前に完全服従してやるよ。な、それでいいだろ?等価交換って奴だよ、うん。ギブアンドテイク」

「信用しろと、ぐ、ぅあ……そう、言うか?」

「勿論さ、約束は守るよ。私は律儀なんだ、お前達と同じにしないで欲しいね」

「なら手を離せ!腕がちぎれるわ馬鹿者が!」

 おっと、とおどけた様子で、サーヴァントは布都の腕を解放した。血の流れが戻り、手に温かみが戻る。死人の冷たさは、懐かしむものでは断じて無い。サーヴァントの手の届かぬ範囲まで後退する―――この部屋の何処にいても、一足で詰められると悟る。

「……望みを言え、この化け物め」

「化け物かぁ、人は化け物を倒す為に努力するもんだがね。騙し打ちは勘弁。……まあ良いや、お前は私と契約するんだろう。触媒がそいつなんだ、そういう事だ。だけど私は私だ、私のままでお前には従えない。そして私は生憎と、力が足りちゃいないんだよ」

「力が、足りない?」

 このサーヴァントの言葉として、それはあまりに似つかわしくない響きだった。暴虐を具現化した様な力、自負と高圧を煮溶かして固めた様な言葉。自分を絶対者と信じて、全てを弱者と見下す、〝それ〟はそういう存在に思えたのだから。

「ならば何とする、いにしえの鬼よ」

「知れた事さ、補うのよ。つまりだな―――」

 つらつら並べられる言葉を聞いている内に、布都の頭も冷えてくる。
 このサーヴァントはどうやら、意図的な威圧を仮面として被れる者らしい。相手を怯え竦ませたら仮面を外して、割と友好的な砕けた本性を見せる。つまりは、暴力に物を言わせて社会に生きる種類の者なのだ。
 言い方はおかしいが、小狡い奴。策略という程の事は出来ないだろうが、生き方をほんの少し楽にするコツを心得ているのだ

「……正気か、鬼よ」

「正気だからやんなっちゃうのよ、もう」

 掌を上に向け、首を傾げる軽薄な動作。友好的な一面を押し出していると見える。

「良いからやりなさい。じゃないとさっきみたいに掴んで、今度は令呪を引きちぎるわよ」

「良かろう、その言を承諾する。然し我等は、その為の文言を……」

「そんなのは私がどーにかするわよ! ほら、私に続いて詠唱しなさい! あ、そっちで魔力送ってたタンク係、お前も準備するんだよ」

 僅かな間も耐えられぬのか、両手を振りかざしてウガーとばかりに吼えるサーヴァント。慌てて魔力の供給を再開した屠自古を視界の端に於いて、布都は幾許かの安堵を感じていた。

「誓いを此処に! 我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者!」

 悪鬼の笑みを浮かべ、サーヴァントは高らかに、己を召喚する為の文言を謳い上げる

「されど我はこの眼を混沌に曇らせ侍らん!」
「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし!」

「我、狂乱の檻を望む者! 汝はその鎖を手繰る者!」
「汝、狂乱の檻に囚われし者! 我はその鎖を手繰る者!」

 感情に生きながら、理性を道具として用いる獣。理性を鎖と断じて、自らを狂気に投げだした真正の魔。
 この怪物は主の命ずるが侭、全ての敵対者を、敵対せぬ者をすら、果ては己が狂気すらも蹂躙して支配下に置くだろう。
 理知的な笑みが狂気に飲まれて消えるその刹那、英霊は親指を立て、召喚者への称賛の意を示した。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 膨大と言うも不足な魔力の奔流が、暗い霊廟を遍く照らす。
――この戦い、我等の勝利だ。物部布都は、確と信じ、断言した。