烏が鳴くから
帰りましょ

二日目

 人は人の侭、人の如く有るべし。日常は日常の侭、常の如く有るべし。物事にはそう有るべき形が存在し、それから外れない事が最善なのだ。
 茶碗は台所の何処に置いて、靴のローテーションはどういう組み合わせにするか。そんな些細な習慣すら、変わらずに有る事は素晴らしい。
 
「れーいむー、ご飯はー」

「私用の茶わんしか無いのよ、お皿に盛るから待ってなさい」

「お箸がないと嫌ー。どうしてこの家、箸が一膳しか無いのよー」

 だから、朝っぱらからずでんずでんと居間で寝っ転がっているこいつは、霊夢には非日常として無視してしまいたい存在だ。しまいたいのだが残念なことに、このサーヴァントは彼女と運命を共にする相棒、セイバーなのだった。
 昨日身につけていた鎧冑はどこかへやってしまっていて、着るのは簡素なワンピースドレス。薄緑の布地に白の飾りを散らしたその服は、冬の外出には向いていない様に見えた。

「魔力の供給は十分でしょ?食事なんてあんた達には必要無いでしょうに」

「あら、腹が減っては戦は出来ぬと言いますわ。美食は心の余裕なのよ」

「心の贅肉じゃないのかしら、あんたの場合……大体ね、うちでは美食なんて作らないわ。朝はご飯一杯とおかずが一品、三日に一度は味噌汁かお野菜。それがルールなの」

 倹約の意味も有るが、元々朝食の時間には、其処まで空腹を覚えないというのも理由の一つだ――補足するが、霊夢は極めて健康体である。

「……だから太れないのね、貴女。栄養はもっと沢山摂取なさい」

 細身であるという点は否定できず、霊夢は苦々しげな顔をした。

「煩いわよ、育てばあんたくらいにはなるわ」

 箸でご飯をかっこむ霊夢、スプーンとフォークで焼き魚を解体するセイバー。和食を洋食器で食べる暴挙を、彼女は苦も無くやってのける。
 焼き魚の背骨を丁寧に、原型のままに抜きとった。解した身は散らかす事なく、これまた丁寧に掬い上げ、租借音を聞こえさせずに飲み込む。
 どうやら霊夢が習い覚える事の無かった技術を、彼女は高ランクで会得しているらしい。

「御馳走様、おかず少ないからってお醤油掛け過ぎは良くないわ。美味しいのに」

「あーはいはいそうですか。私は貧乏舌なのよ」

 食べ物の好みも、上流のお上品な味付けに染まっている様に感じられ、霊夢はまた妬ましさに歯を軋ませる。
 平民は、調味料で食材の味を誤魔化して楽しんでいるというのに、セイバーを始めとした上流階級は、調味料を本来の用途、味を引き出す為に使うらしい。
 羨ましい妬ましい、伝説の橋姫でも神降ろししてしまったかの様な気分に、畳の上を転げ回りたくなる程であった。





 さて、朝食を終えた段階で霊夢は、自分が何かを忘れている事に気付いた。
 昨日と今日で、生活の相違点は二つ。朝食を作った量と、朝食を取る家人の数が、何れも倍に増えたという事だ。。
 これだけ日常に変化が齎されているのなら、隠蔽の手段を考えるべきであり、それを実行しなかったのならば、何らかのペナルティが課されても仕方が無い。
 善行にも悪行にも賢行にも愚行にも、全て等しく報いは訪れるのである。
 つまり霊夢は、自分なりの直感で、自分の行為に対するペナルティが訪れる事を。そして、勘が鋭い奴はもう一人いる事を思い出したのである。

「せん、ぱい……誰ですか、その人?」

「……あちゃー」

「あら、夜の蟲。昼間にも出るのね」

 ガラリと戸が開け放たれて、振り向けば其処には、触角に雪が被ったままの後輩の姿が有った。博麗家の合鍵を持つ一人、時偶に箸持参で朝食に参加したり、夕食に参加したりする者。
 普通の人間と言えば多大な語弊が有るが、かと言って霊夢の様に、自分から闘争に飛び込む様な存在でも無い。だからこそ彼女には何も気付かせぬままにするべきだったと、霊夢は内心で強く舌打ちした。

「えーと、リグル。これには深くもない話があって」

「誰、ですか、その人。うちの学校の生徒じゃ、ありませんよ、ね?」

 雪道を全力疾走してきたのだろう。陸上部の健脚も肺も、酸素を求めて大騒ぎしている。膝に手を当てて肩を上下させる姿は、競技終了後でさえ見た記憶がない。
 下手な嘘は彼女に通じない。彼女の勘の良さは、神掛かり的な物があるのだ。巫女である霊夢を差し置いて直接神霊に働きかけられるのではないかと、そう疑いたくなる程に。

「……ふーっ……一応、聞いてあげます。その人は誰で、何で此処にいるんですか!?」

「いや、どう答えたもんなのかしらね」

 本当に、どう答えたら良いものなのだろう。誰なのかと言われても、霊夢自身が良く分からない。なにせ、真名を知らされていないのだから。
 何で此処にいるか、という問いには答えられるが、これを正直に答えると、リグルを聖杯戦争に巻き込みかねない。かと言って嘘をつくには、余程考慮して矛盾の一切を消し去らないと、見抜かれる恐れがある。
――ところで、『恐れ』とはそもそも、何を恐れているのだろうか。霊夢は自らを省みる。
 此処は自分の家であり、両親亡き今の主人は霊夢。主人が客の誰を言えに招こうと、それが他の客にどう悪影響を及ぼすというのか。別に理由無く、ただ呼びたかったから呼んだ、では駄目なのか。
 そう考えると、そもそもなぜリグルが腹を立てているのか、そこから既に分からなくなってくる。自分は何か、彼女に詫びなければならない様な事をしてしまったのだろうか。

「これまで先輩、誰も家に泊めたりしませんでしたよね? どんな遅い時間でも、家に帰れって言いましたよね?」

「……? ああ成程、誰かを特別扱いしたから怒ってるのね?」

 それならどうにか理解出来る。Aには50の待遇、Bに100の待遇では、Aも立場がない。ましてや社会には序列というものがあり、その高い者は高待遇を得られるというのが基本認識だ。
 彼女の視点で見れば、霊夢との交流が長期間に及ぶ彼女自身は、きっとこの家の序列の高位にあるのだろう。どこから来たとも分からない流れ者など、そもそも序列の外に有る様に感じられる筈だ。
 然し、そうやって理詰めで答えを出して確認すると、リグルはまた少しむくれた顔になり、不機嫌を露わにした。
 どうしたもんだろう――と霊夢が悩んでいると、視界の端、呆れたとばかりに嘆息するセイバーが見えた。





「……で、まあそういう訳で」

「なんだか、すごく納得いきません」

 遅刻しない程度に丁寧に、順を追って、だが嘘をつかなければならない。この難題を解決したのも、誰あろうセイバーだった。
 彼女は自分の事を、10年前に博麗の巫女に世話になった者、と紹介した。10年前といえば霊夢の母、巫女として優秀で在るが故に名も忘れられた彼女の時代。
 徹底的にシステムとして働いた結果、個人としての記憶など、殆ど誰にも残さなかった彼女。そんな人を持ちだした訳だから、嘘も何も、リグルには判断の要素がない。

「でもさ、納得しないとあの子―――いやあの人、ずっとあの調子なのよ」

「そ、それは困りますけど……」

 それでも押しきれないと見るや、セイバーは畳にうつ伏せに倒れ込み、大声で泣き喚き始めたのだ。
 霊夢は同学年で背が高い部類だが、セイバーはそれより更に長身だ。どこかつんとすました容姿、物腰は食事の段で語った通りの洗練された姿。そんな大の大人が赤ん坊の様に叫び泣き、両手両足ばたつかせて駄々を捏ねる姿を見せられたら、怒りも何も有ったものではない。端的に言えば、見てはならない物を見てしまった様で、非常に気まずくなる。
 その上でセイバーは、善良な人妖を意の侭にする魔術でも知っているかの様に、たった一つの言葉でリグルを黙らせた。

『あの子はどこ、どうしていないの』。

 霊夢の母、先代の巫女が亡くなっている事は、この町の住民の殆どが知っている。
 真実はどうあれ彼女は、『遠方から亡き知人を頼ってきた身寄りの無い人間』という皮を被った。これを家の外に蹴りだすまでの無遠慮さを持つ者は、中々見つけられないのではないか。

「ほら、さあ。落ち着いたら帰ると思うし、そんなに幅は取らないし、母さん頼ってきたのに私が何もしないって、それもさぁ……」

「うぅー……」

 今のセイバーは、寝室に逃げ込んで泣いている(泣き真似を続けている)。襖の隙間から漏れてくる嗚咽は、古今東西のドラマに舞台を移しても、も名優と讃えられるにふさわしいだろう。リグルの触角が、眉と同じ様に下を向いていた。
 結局の所、リグルが先に折れるしかなかった。泣いて別室へ逃げ込んだ時点で、この争いはセイバーの勝利である。





 昨夜から今朝の騒動で霊夢は忘れていたのだが、サーヴァントは、そもそも常に実体化している必要は無い。寧ろ、利便性を考えるのならば、霊体化――実体を消し、文字通り幽霊の様になっていた方が良い。霊体である彼女等を実体化させるというのは、それだけでも魔力や霊力を消費する事になるからだ。
 とは言っても、セイバーは比較的消費効率が良い方なのだろうか。霊夢の最大霊力に比して、1日実体化させ続けて魔力消費は10%程度だろう。
 睡眠によって翌朝には、霊夢の霊力はほぼ回復している。聖杯が契約を仲介しサーヴァントをこの世界に繋ぎとめたのだから、霊夢自身の負担はかなり少ないのだ。
 だが、仮に。戦闘行動を行ったらどうなるだろう。
――『そうね。相性が最高の相手と当たって、宝具無しで勝てたら20%くらいの消費で済むかも』
 彼女達は規格外の魔力兵器だ。その中でもセイバーは、最高出力を誇る超攻撃的機体だ。どう頑張っても1日に4戦が限界、まだ見ぬ敵との相性を考えれば3、いや2戦から辛くなるか。
 そういう訳だから平常は、霊体のままで彼女を連れ回す事になる。

「もう、だったら何で昨日、さっさとそういう事……」

「ごめんあそばせ。だって霊夢なら普通に実体化のままでも行けそうかしらーって」

「私は永久機関じゃないわよ」

 姿は見えないが、そこにいる彼女に愚痴を零す。やたらと広い校庭の、昇降口までの道のりだ。
校門を潜ってから昇降口まで、100m以上もあるのは長すぎると生徒の不評を買っているのだが、世の中の学校には、校門から昇降口の間に十数軒の民家が並ぶ所もあるらしい。それに比べれば良心的――なのだろう、か?

「……まあいいわ、学校の中では出来るだけ話しかけないで。変に思われるから――ん?」

 不意に背を叩かれた者がそうする様に、霊夢は突然、ぴんと背筋を伸ばした。

「りょうかーい……って、どうしたの?」

「いや、ちょっと……気のせいじゃないわよね」

 異常が日常に紛れている気配が有った。冬の空気に似合わぬ湿気が有った。
 指先に怪我をした時、どうせ浅い傷だからと、血を手で拭うだけで済ませる。乾いた血は皮膚にこびりついて、重さも無いのに違和感を残し続けた。
 たった今感じた気配は、例えるならば、その程度の小さな異変である。直ちに体に影響を与える様な力強い異変ではない。
 だが放置しておけば、血に集るサメやハゲタカを際限なく引き寄せてしまいそうな。早く片付けてしまわなければ、何れ喰い殺される恐怖がそこにある。

「……セイバー。放課後、ちょっと付き合って」

「デートのお誘いかしら。屋上がいいわ、きっとあそこに腐肉喰らい(スカベンジャー)がいる」

 霊体のまま、セイバーは(おそらくだが)校舎の屋上を指差す。そこにはフェンスと、早朝練習に力を入れる吹奏楽部の姿が有るばかりだ。

「……へえ、分かるんだ」

「そりゃあね、簡単な探知魔術くらい使えるわよ。飛び道具でイラスト作って遊んでた時代の子よ?」

 奇妙な違和感の正体が何なのか、霊夢にはまだ、明確な理解は無い。だが、危惧なら大いに抱いている。
 セイバーが言う様なスカベンジャーがこの違和の主だとしたら、目的は? 腐った肉が置いてある筈もないこの学び舎で、腐肉喰らいは何をする?
 セイバーが言う捕食者は、ここで満足のいく食糧を見つけられなかった筈だ。空腹を感じたら、自分ならどうするだろう。霊夢は考え、瞬き一つの間も開けずに答えに至る。
 単純な答え、食材を料理すればいい。

「セイバー。私、ちょっとムカついてきたわ」

「良い傾向よ、マイマスター」

 何を仕掛けているのか、早い段階で突きとめる。日常は姿を変えず、在るがままそこになければならないのだから。
 義務感と同居する焦りを抱え、霊夢は昇降口で中靴に履き替えた。





 調査を放課後と定めたのは、昼休みには昼休みで楽しみたい事が有るから――だけでもない。やはり、人の数が少なくなる時間帯にならないと、大きな動きは取りにくいからだ。
 動けないのなら、今は今として楽しむべきである、と霊夢は考える。購買で安く買いあさったパン類を、牛乳と共に腹へ流し込んでいると、

「あーたたたた……相変わらずダンプカーみたいな奴だな、博麗の」

「ルーザードッグの遠吠えね、学食に行きなさい」

 購買人気パン争奪戦に於いて、体格で負けを喫した椛が、椅子ごとやってきた。
 あの戦争には勝ち方が幾つかあり、霊夢の場合は身長とリーチで、上から掻っ攫うのが常套手段。椛の様に細身ですばしっこい者は、スタートと同時に最前列へ踊り込みすり抜けるのが肝心。出遅れてしまったが最後、パワーと体格に勝る上級生の壁に押しつぶされ、押し出される羽目になる。

「友人甲斐がないぞ博麗のー……お前だってそんなに買い込んでも食べないだろ」

「食べるわよ。昼のおやつと放課後の間食で」

 そうっとあんバターサンドに伸びてきた椛の手を、霊夢は手首を突いて撃ち落とす。この学校の購買はやたら安く、食材を買い込んで弁当を作るより、場合によっては安上がりになる事も有るのだ。他人に譲るなどとんでもないと、これが吝嗇家の共通見解である。
「……小食だから太らないって訳でもないんだよな、やっぱり」

 耳を完全に寝かせた負け椛の涙を肴に、霊夢は実に美味しい昼食を平らげた。周囲の面々を見ると、やはり早い者は昼食を完了して雑談の時間と洒落込んでいる最中。
 小集団の中には更に小集団が生まれるのが常で、机は数か所に偏在している。霊夢などは少し外れた例で、敢えていうなら『全てに所属する無所属』だろうか。

「はー……何だかどっと疲れた……骨折り損のくたびれ儲けは辛いよ」

「これからはお弁当を持ってくる事ね。 ……ってこら、私の机に張り付くな」

 決して広くない机の半分以上のスペースを、椛は上半身で占領する。自分自身の机ではなく、此処は飽く迄、霊夢の机である。いつも背筋をしゃんと伸ばしている椛には、全く珍しい事であるが、

「んー、ちょっと休ませろー。今日はやたらダルいんだよー……」

「……まあ、良いけど……何が疲れたよ、この体力自慢」

 舌を出して耳を寝かせ、きっと尻尾までだらりと垂らしているだろう。学業の後に部活かバイト、その後で更に近所の手伝いで一働き、犬走椛は健康体の代表例だ。そんな彼女が、何故こうも――
 気に摺るまい、霊夢は自分にそう言い聞かせた。心当たりは有るが、どうせ明日には無くなっているものだ。余計な事を考えて心を乱しても仕方が無い。

「これ、あげる。食べたら自分の席に戻りなさいよ」

 椛の顔の前に揚げドーナッツを置いて、霊夢は教室を去る。歩いていれば、その内、暇をつぶす何かに遭遇するだろう。流れるまま、在るがまま。霊夢の休み時間は、一事が万事、その通りであった。





「……であるからして、私はそれを不必要と判断した訳だな」

「どうしてそういう結論になるかが分かりません。分かりますけど分かりません」

 時間的余裕に任せて生徒会室方面へ向かっていた霊夢は、学内で名物コンビと呼ばれている二人組を見つけた。
 この学校の生徒会は、良く言えば個性的、悪く言えば自分勝手な連中が集まっている。自己主張の激しい奴を優先して集めた結果、そいつらだけで小説の一つも書けそうな環境が生まれているのだ。だから覗きに行けば、それなりの退屈凌ぎにはなる。
 同じ事を考えている者は多い様で、休み時間の生徒会室は、数十人が集まる談話室になっている。複数クラス、学年の者が集まってワイワイ騒ぐこの気風は、好ましいものであると言えよう。
 そうなると必然、狭いからという理由であぶれる者も出てくる。だったら教室に帰れば良いじゃないかとは思うが、学生にはおかしな縄張り意識が有り、他のクラスに上がり込んでの談話というのは居心地悪く感じるらしい。談話室もとい生徒会室で親しくなった者同士は、結果的にその近辺の廊下を溜まり場にしている。
 2-A河城にとり、1-B古明地さとり、発明家とツッコミというおかしなタッグだった。

「今度は何を作ったのよ、にとり」

「おー、盟友よ良くぞ来た良くぞ聞いてくれた! 唐突だが霊夢、椅子は使わない時に置き場に困らないか?」

「まずは話題に何かクッションを挟みましょうよ。ほら、霊夢先輩が無表情で呆れてる」

 にとりとさとり、名前が似てるからとセットでからかわれたのが付き合いの始まりだというが、性格が似てるでもなし気性が噛み合うでもなしに、何故かこの二人は仲が良かった。
 にとりの方は常に工具セットを制服に引っ掛けて持ち歩き、さとりは小型ハリセンを持って追いかける。暴走が始まったら引っ叩いて「直す」らしい。古い家電の修理方ではないが。

「……椅子?うちじゃあ使わないけど、そうね……確かに、使わない時はそうかも」

「だろう、だろう?私はそこに着目してだね、全く新しい種類の椅子を開発したんだ! ほら、これを見てくれ!世紀の大発明だぞ!」

 何時もの様に無駄に自信満々に、にとりが取り出したのは、分厚い段ボール紙。幅は60cm程、長さは2m程度。何回か畳んで、持ち運び出来る程度の長さにしてある。正直な所、霊夢には、答えがもう見えてしまっていた。

「ああ、霊夢先輩。先にもう答えちゃって良いですよ。分かったみたいですし」

「……それを出汁巻き卵みたいにくるくるっと丸めて椅子にする、とか?」

「な、なにー!?私の発明を、見ただけで使い方まで看破するとは!?」

「それ、幼稚園の工作の本で見たわ」

 このやり方で作った椅子は、硬くて座り心地が悪いのだ。高さも中途半端でいけない。成程キャンプか何かで使うのならば、持ち運びが楽な椅子として良いだろう。だが、今は軽量パイプ椅子が安価で手に入る時代。何故、段ボールの椅子に座らなければならないのか。にとりの発想は、こういう根本的な部分から、何か欠けている事が多いのだ。

「あ、にとり先輩が絶望してます。凄いですね、こんなに躁鬱の振れ幅が大きい人も珍しい。ほーらほらどうしたんですか天才発明家さん、数日思案の末に良い子の工作に辿り着いた気分はー?」

「う、うおおおおおおおおおおお!?」

 打ちひしがれるにとり、死人に鞭打つさとり。吼えるにとり、冷ややかな目をするさとり。もしかしてこの2人は仲がいいと言うより、面白いからさとりがくっついているだけなのではないか? 霊夢の脳裏に、そんな予感が走る。

「正解ですよ、霊夢先輩。中々勘がするどいですね」

「……私の心を読むな」

 分かっている、と言わんばかりの顔で、さとりが深く頷いた。
 コンビでいる時は良いのだが、こうしてにとりが脱落している時、この数歳下に見える小さな後輩は、誰にも扱い辛い存在となる。
 別に彼女は、心を読んでいる訳ではない。ただ、古明地さとりという少女は、恐ろしく人の表情に敏感なのだ。カードギャンブルをやらせれば連戦連勝、特にポーカーでの強さは神域のギャンブラー。今も、霊夢がさとりに向けた視線と、場の状況から思考を推測し、どうとでも取れる言葉を投げてきた。
 思考に先回りをされる居心地の悪さを感じて、霊夢は、床と一体化し嘆くにとりを助け起こそうとして―――

「あたっ」

「あ、ごめんなさい」

 急に動いた為、横をすり抜けようとしていた誰かにぶつかってしまった。先に詫びられてしまった、こちらも詫び返そうと振り向けば、その背中は既に数m先。とはいえ、後ろ姿だけでそれが誰なのかは分かる。
 パーツの比率を計算機で算出しながら組み上げた様な手足に、一本一本を手作業で作った様なきめ細かさの金髪。常に背筋を伸ばして、自分の周囲の何物にも興味を向けずに歩いていくその姿。一挙手一投足、プログラム制御されているのかと思わんばかり、優美に進む脚、足音。

「相変わらず、孤高が服を着て歩いてるみたいな人ですよね、アリス先輩」

「本当にね。凄いもんだと思うわ、ありゃ天性よ。天性の孤高だわ」

 アリス・マーガトロイド、どんな集団にも属さない孤高の華。友人グループ、部活動、委員会、その他あらゆる集団を、彼女は無益だと感じているらしい。誰かと連れだって歩いている姿は見た事が無いし、雑談に興じる光景も観察されていない。
 霊夢は少なくとも1年と数カ月、同じ学級で彼女を観察してきたが、分からない事〝しか〟ない。

「ねえ、さとり。アリスって、何を考えて暮らしてるのかしら」

「私は人形の気持ちまでは分かりません、霊夢先輩」

 人形、言い得て妙。だが少しばかり酷い言い方でも無いだろうか。親しくも無いアリスを、霊夢は心の内で弁護する。
 段ボール椅子を解体するにとりを置き去りに、霊夢もまた教室へ戻る事にした。休み時間は、まだ数分ばかり残っていた。





「……多分、ここが起点、スイッチ。他にも何か所か、合図に呼応して発動するしかけが有ると思う」

 放課後、屋上、太陽は既に地平の向こうに消えた。早朝から感じた違和の元凶は、不可視の魔方陣として存在した。成程、近づけば明らかに空気が粘っこい。重いだけではなく、呼吸器にこびり付く様な湿っぽさが漂っている。

「ありがとう、セイバー。その何か所かを特定できない?」

「其処までは難しいかしらね、私の専門外だもの。キャスターのクラスなら、昼寝しながらでも出来るのでしょうけど」

 両手を肩の高さに上げて、セイバーは首を左右に振る。

「はぁ……最優のクラスでも無理なものは無理なのね」

「私は全能じゃなくて万能なの、勘違いしないで頂戴」

 霊夢が持つ魔術知識は、博麗の巫女として受け継がれた結界の術と、妖怪退治の攻撃的術式ばかり。この様に、長時間の周到な用意の末に発動させる大魔術となると、解読は難しい。内容が分からぬ事には、下手に手出しも出来ないのだ。

「ねえ、セイバー。どうしてあんた、これをスカベンジャーの術だって思ったの?」

「それはね、んー……説明し辛いんだけど、感覚的なものよ。魔力が無きゃ何も出来ない私達は、魔力の増減にかなり敏感なのね。校門を潜って直ぐ、意識してないと髪を何本か抜かれる様な嫌な刺激が有った。これが人間だったら、魔力から魂までを抜かれつくして倒れるんじゃないかって……」

「魂を、抜く?」

 聞き捨てならない言葉を、聞いた気がした。
 生物にとって魂は、心臓や脳と同様に欠けてはならないものだ。脳や心臓の一部が損傷しようと、生きていた人間の事例は幾つかある。それと同様に、魂も傷がついた程度なら、生きている〝だけ〟の状態を続ける事は容易い。

「そう、魂を。これは存在の中心を吸い取る魔術なんじゃないかしら。ただ、先に殻を壊さないと、中身を吸い取れないのよ。口吻が細いのか、顎が弱いのか。私達サーヴァントなら、魔力の殻を吸い取って霊核。人間なら同様に殻を取り払った後、魂。この術の範囲内では、全ての生物が衰弱して……最後は、無傷の死体の完成」

 だが、破壊を伴う物理的接触が無くとも、魂には傷を付ける事が出来る。魂喰いの妖怪は過去に存在したというし、その生態を模した魔術も存在したらしい。霊的な手段を用いれば、外見や内臓に傷を残さず人を壊し、葬る事が出来る。魂は、人間の最大級の弱点なのだ。
 確かに殺しの手段としては効率が良いだろう。ただハイスコアを狙うのならば、人の多い場所に爆弾を仕掛けるのが最善手。学校という舞台を選択したのは、賢いやり方だ。
 このような大規模魔術は、現在の幻想郷からは失われている。十中八九、サーヴァントの仕業と認定して良いだろう。設置と発動の瞬間には魔力を消費するだろうが、回収分で釣りが有り余る。

「……何で?マスターになるくらいの奴なら、こんなので死なないって分かるでしょ?」

 ただしそれは、相手が普通の人間の場合である。
 マスターとして選ばれる者は、多かれ少なかれ、力を持つ者である事が多いという。霊夢は博麗の巫女、言うまでもなく結界術を扱える為、この程度の魔力吸収など、意識すれば容易く防げる。例えこの術が全力で発動された所で、霊夢自身は、自分は平然と生き延びるだろうと自信を持っていた。
 なら、他のマスターとて無力ではあるまい。何らかの防衛手段は持っている筈。そう考えるのは、思考の飛躍とはいえないだろう。
 無差別に人を殺して、だがマスターの命は奪えそうもない。合理的思考に基づけば、その殺人にも意味が有る筈で――

「あんた達ってさ、人妖の魂を喰うの?」

 霊夢が辿り着いたのは、この答えだった。

「そうよ、私達はそういう存在。霊体ですもの、他者の魂は力の源だわ。そりゃ胃袋の要領と同じで許容量は有るけれど、食べれば食べる程に力は増していく。もしも弱小サーヴァントを引き当てたなら、どうやって勝利するか……戦術、戦略、そんな天才的な頭脳を使わなくても、こういう地道なやり方が有るの」

 術の影響も無いというのに、霊夢は軽いめまいを覚えた。
 聖杯戦争というのは、サーヴァントとマスターの戦いではないのか? 見つけた書にはそう書かれていたし、霊夢自身、勝ちを狙うなら最短距離で敵を叩く。昼間の日常は一切傷つく事なく、夜に敵を葬り、静かに事は進む――それが聖杯戦争だと、霊夢は思っていた。
 こうして昼間の生活に、自分の日常に、誰かが牙をむくなど思っていなかった。そんな事は、有ってはならない事だ。

「セイバー、この術の起点を壊せる?」

「私じゃ無理そうだけど、貴女なら出来るわ。上に貴女の結界を張るだけで良いと思う。一度、術者の魔力から切り離されたら、この術の起点は力を失って――」

 ひゅう。

 頬を斬る様な一陣の風が、屋上の静寂を擦り抜ける。茜色の雲に乾いた空気、冬の寒さ――に、不純物が一滴。肌の上から肉を冷やすのが自然の冷気。違和の雫は、霊夢の肺腑を内側から冷やし、骨の凍る錯覚をすら生んだ。
 居る。誰か、何か、分からない。だが、確かにそこには〝居る〟のだ。
 脳裏を駆け廻る警鐘、振り向けば防護フェンスの上に―――

「―――悪いんですが、それは暫くお待ちくださいな」

 黒衣の死神が、能面を手に微笑んでいた。






「―――セイバー!」

「任せてなさい! 霊夢は自分に結界!」

 黒いローブ、目深に被ったフード。足首まで黒い布に覆われて、止まぬ風に身を揺らす。左腕はローブの中に隠れていて、おどけた能の面は右手に。中指と人差し指に挟んで、振り子のように揺らしている。
 影に溶け込みそうな程に、その影は黒かった。

「マスターが結界、サーヴァントが攻撃? 成程成程、バランスが良いですねぇ。ですが御安心を、私はマスターを狙うつもりは有りませんので―――」

 霊夢が接近に気付かなかった訳ではない。その影は気配を隠す事もなく、魔力を抑える事もなく、轟音を立てて現れた。だというのに、霊夢が振り向くより先に、影が其処にいた、理由は一つしかない。

「―――いえ、まあ。狙うつもりなら、もう既に首を頂いております、が」

 その影は、霊夢の感知範囲外からフェンスの上まで――100m以上の距離を、霊夢が気付いて振り向くまでの間に埋めてそこに立ったのだ。領域を支配する結界術師の索敵を、全くの無用の長物とばかり嘲笑い、目晦ましも何も行わず速度だけで打ち破って現れたのだ―――!

「ランサーかしら、その速さ。霊夢を狙わなかったのは余裕って奴?」

「いえいえ余裕などございません、そうして良いならそうしていましたとも。ですが私にも、並々ならぬ複雑な事情がありまして……」

 黒衣の死神―――新たなサーヴァントは、よよとしなを作って目頭を抑える。……おそらく、目頭だろう。太陽に取って代わった遠くの街灯が、フードに大きな影を作っている。
 見た所では、目立つ武器は持っていない。過去に存在した幻想の一つならば、武器か術を見ればその正体は知れる筈だ。隠蔽していると見るべきか、武器を持たないサーヴァントと見るべきか。
 武器、というなら。セイバーは武器をどうするのか、霊夢はまだ知らなかった。
 剣士(セイバー)というからには剣を使うのだろうが、まさかいきなり正体を明かす事はすまい。
 何処かで武器を調達するか、或いは魔術で以て生成すると考えるのが自然だが、

「霊夢、事後承諾だけど借りたわよ!」

 からん。木製の鞘が、屋上のコンクリートの上に落ちる。セイバーは、一振りの刀を右手に構えていた。白木の鞘、片刃の反りの無い刀身。強度こそ低いが、どこか神聖な、懐かしい気配の――

「――って、それうちの神社の御神刀!?」

「なんか良い雰囲気出してたからね、借りてきちゃった。これいいわ、いけそういけそう。……それじゃ、始めようかしら。あんまり待つのも飽きたでしょう?」

――き、ぃい。
 前方180度、全てのフェンスが同時に軋みを上げた。

「ぉぉお、おっ? っととおっ!」

 敵のサーヴァントが飛び降りると同時、軋んだフェンスが「ずれる」。形状を保ったままで数センチ程ずれて、重力に逆らえず、張り出した3階ベランダへと落下していった。
 斬ったのか? そこに居ながら、刃も届かせず、金属製のフェンスを? にわかには信じ難く――いいや、疑う意味も無い。彼女達は、そも規格外中の規格外。理の外の存在である。

「……い、ぃいやあぁっ!!」

 敵が着地するまでにの時間、自由落下に身を委ねている内に、セイバーは己が身を弾丸と変える。一足未満で間合いを詰めて、余力で体を留め、前進の勢いそのままに敵の胴を横薙ぎに――

「危なっ! 加減ないですねえ貴女!」

 止められた。敵サーヴァントは刀の腹を蹴りあげつつ上体を逸らし、軌道の逸れた刃の下を潜り抜けて、セイバーの後方へと回り込んだ。振り向く間を惜しみ、目視を伴わず背後の空間を斬るセイバーの刀。それをまた、今度は足の裏で押し込む様な蹴りで打ち返す。
 弾かれた刃を引き戻して振り向くまでの、ゼロコンマにも満たない時間で、攻守は交代した。
 蹴る、蹴る、蹴る。手も魔術も使わず、そのサーヴァントは蹴りの豪雨を降らせる。脛を狙っての爪先蹴り、手首を狙う足刀、踵で鳩尾を打ち上げる背面蹴り、足の甲を用いた廻し蹴り。洗練された武術とは違う。高い身体能力で脚を振り回す、喧嘩にも似た野卑な蹴撃―――!
 だが、セイバーも負けてはいない―――いや、技量では勝っていると言ってもいい。敵が放つ蹴りの全てを、後退する事なく左手で打ち払い打ち落とし、合間に刀で突きを放つ。線の斬撃に比べて攻撃範囲は狭くなるが、一度に加わる力は比較にならない、突き。
 然して突きを回避するだけならば、軽く刀の側面を叩いて、自分自身の体をずらしてやればそれでいい。黒衣の影は余裕を以て対処する。後退しながら蹴りを放ち、突きを避ける為に側面へ動き、時折は背後を取ろうと潜り込み。
 セイバーは引き離されただけ踏み込み、横へと跳躍し、振り向きざまに首狙いの斬撃を放ち。
 二者は決して必殺の間合いを外さぬまま、立ち位置を変え続けながら斬り蹴り結ぶ。

「斬れないわね、どういう足をしてるのよ?」

「自慢の美脚ですとも、はい」

「馬鹿にして!」

 敵サーヴァントの減らず口を叩き潰さんと、セイバーは大上段から刀を振り降ろす。悪手だ。破壊力こそ比類無いが、相手はセイバーを速度で上回る。唸りを上げて振り下ろされた刀が、敵サーヴァントの頭が有る筈の空間に到達した時には、

「……若い子は堪え性が無いですねえ」

「なっ……!?」

 能面を紐で顔に固定し、両手を空けた敵サーヴァントは、セイバーを背後から抱きしめる様に組みついていた。左腕で左肩を抑え、右手で刀を持つ右手首を掴み、胸を背に押し付けて大きく動く隙間を潰す。
 組み打ちで勝とうというつもりではあるまい。この短時間の攻防、力ならセイバーが数段上だと見えた。なら、自らの最大の武器である速度を殺して、黒衣の狂鳥は何を企む?
 跳んだ。セイバーが斬り裂いたフェンスを背面跳びで、彼女を掴んだままで、敵サーヴァントは学校の屋上から、我が身を大地へと投げ出した。階数にして四階、十数m。早送りされた映像の様な、不自然な加速で、二者は絡み合って落下する。

「セイバー!?」

 彼女の事は心配いらない、霊夢の理性はそう伝える。この程度の落下なら致命傷にはならない、敵とのスペック差は歴然。寧ろ、マスターという枷を失った彼女は、遠慮無しに周囲を巻き込みかねない攻撃すら放てる筈で―――
 問題というなら霊夢の方に有る。彼女自身、感知の対象範囲には自信がある方だ。地上で戦闘を再開した2人を、霊夢は今も補足している。
 だが、彼女ははっきりと理解させられた。サーヴァントには人間の術など、破るまでも無い児戯なのだと。セイバーから離れてしまえば、霊夢を守る者は誰もいない。彼女は、害意を持つ者に背後に立たれるまで気付けないかも知れない。
 危険だ。ここに一人で居るのは、漁夫の利狙いのハイエナに、わざわざ新鮮な肉を喰わせる様なものだ。二人が視界から消えて、探知網に反応するだけの存在となった瞬間、霊夢は階段を一足抜かしに駆け降り始めた。
 日の短い冬、夕暮れの境界は夜に浸食された。廊下も教室も照明を落とされて、自分の足が何処を踏んでいるか把握し辛い。こうして視界に制限を加えられて初めて、自分がどれだけ経験則に任せて歩いているか再認識する。慣れ親しんだ廊下をブレーキ無しに曲がり、靴箱から外靴を引きだした。
 履き替える時間が惜しい。だが、内履きの耐久性で外に出るのも、万が一を考えると良しとは出来ない。戦えないなら一瞬でも長く逃げなければ。靴に足を取られてお終い、では間抜けすぎるではないか。
 学校指定の内履きが並ぶ下足箱。ただ一足だけ残されたブーツ、それを見落としたのは迂闊だったと悔やむしかない。




 一分も掛からずに、霊夢は屋上から校庭まで駆け降りた。だがその時間は、サーヴァント達には長すぎる程の時間だった筈だ。
 互いに広いフィールドを好む為だろう。戦場は、校庭の中央へと移動していた。
 常に踵を浮かせ腰を落ちつけさせず、数分の一秒も止まらずに馳せる敵サーヴァント。大地に根差した両足を柱とし、鉄槌の如き一撃でそれを迎撃するセイバー。
 人間である霊夢の目には、行動の後の残像が線として映るばかり。空を支配した夜陰が、視認の難易度を跳ね上げる。屋上での戦闘より、両者とも数段速い。主という足枷が無ければ、彼女達はこうも化け物じみているのか。
 取分け敵サーヴァント、黒衣の影の速さは、霊夢の認識速度を遥かに越えている。
 視界の右端に影が映ったかと思えば、その時には左端で方向転換を終え、また姿を消す。
 昇降口から彼女達までの距離は50m以上。人の視界が120°程とするならば、かのサーヴァントは200m近い距離を瞬時に消し去る。彼女が道を行くのではなく、道が彼女の為に自らを消滅させているのでは、と思わされる程だ。
 駆け抜ける侭に脚を突き出し、爪先を鏃の如く突き出す。地に伏せ、跳ねると共に脚を振り上げ、足甲で顎を打ち抜かんとする。急ブレーキでセイバーの空振りを誘い、肘を狙って後ろ廻し蹴り、踵にて砕こうと企む。反射速度と卓越した敏捷性、バランス感覚は、如何なる場面からでも攻撃に転ずる事を可能とする。
 それでも霊夢は、これならば勝てると安堵していた。
 敵サーヴァントの蹴りは、チェーンソーよりも鮮やかに木々を両断していくだろう。だが、あの死神の脚が伐採機なら、セイバーの剣はビル解体の鉄球だ。迎撃の度に轟く金属音は、これだけ離れていても隣室の事の様に聞こえてくる。ただの神社の御神刀が、彼女の手に有るというだけで、岩塊をすら砕く兵器となる。
 如何にあの死神が強靭な脚を持とうとも、1秒ごとに数百mを休まず駆け続けている。疲労は少なからず蓄積する。その上でセイバーのあの一撃を、〝彼女に向かって進みながら〟脚だけで受けているのだ。
 あれだけの速度が有れば、壁にぶつかるだけでもダメージは大きいだろう。増してやセイバーの振るう刀の衝撃は、壁が自分から高速で向かってくる様な物。自らの武器である速度が、自らの脚を痛めつける。このままに均衡が続けば、数分の後には勝敗は決するかに見えた―――セイバーの勝利という形で。
 だから黒衣の死神が立ち止まろうと、その位置がセイバーより十数mも離れた場所であろうと、霊夢の警戒心は正常に機能しないままに勝利の確信ばかりを告げていた。





「やっと止まったわね、疲れた?もう二度と走らなくても良い様にしてあげるわ」

「御冗談を。私は30分以上動かずに居ると死んでしまうんですよ」

 動きを止めた敵を前に、セイバーは漸く息を吸い込んだ。
 屋上から転落し砂利の上に叩きつけられ、更に蹴りの暴風を防ぐこと約2分、全身の重さを一転に集中し速度と併せるあの一撃を防ぎ続けるには、力を入れ続ける他は無かった。刀を振るう毎に吐気、鉄脚を止める毎に吐気。息を吸おうとしたのなら、その瞬間の脱力を狙われる。負ける気はしないが、あのままならばセイバー自身も体力を削られていき、何処かで大きな負傷をしていたかも知れない。
 嫌な相手だ、心底そう思った。博打に出てくれるなら、そこに全力を注いで一太刀に斬り潰す。最良の安全策を、更にリスクを薄めて行使してくるが為、捉える事も儘ならない。
 然しリスクを冒さない以上、総合的な能力で勝る自分が最終的には勝てる、それも事実だろう。
つまり敵サーヴァントは、決して勝利に繋がらない戦法を何時までも続けていて、セイバーは勝利の瞬間をずるずると引き延ばされながら体力を消費させられているのだ。漁夫の利を狙う第三者など居たのなら、垂涎物の好機と映っただろう。
 焦らず、だが迅速に勝たねばなるまい。相手も流石に速度は落ちてきた、後十数回の接触で捉えきれる筈。刀を受けさせて脚を止め、掴んで地面に引きずり倒し、急所を貫いて一撃で仕留める。組み合えば力の差は、勝負にもなるまい。赤子の手を捻るより容易く組み伏せられる。ならば先手を取り行動を誘発すれば、体力の回復を計らせず―――。

「……ううん、困っちゃいましたねぇ。私じゃどうも勝ち目が薄い様で……」

 だというのに、踏み込めない。こちらが動けば向こうも動く、向こうはこちらより速い―――そんな、物理的な話ではなく。
 間合いを詰めるな、過剰に接近するな、セイバーの中で誰かが叫び、心を掴んで押しとどめる。私が勝つには今までの戦法を捨てず、あの展開を繰り返せというのだ。
 そうすれば勝てる、勝てるのだから動くな。絶対に動くな。止めろ、考え直せ。本能は勝利を告げるのではなく、負けを恐れて彼女を引きとめている。

「きっと、私の知り合いの誰かなんでしょうねぇ。お互いに正体を明かせないのは寂しいものです。どうです、ここは一つ昔馴染みのよしみ、今夜を無かった事にしてお互いに手を引くというのは―――」

「笑わせないで。今の状況が対等だと思う? 貴女を斬るわ、斬って私は凱旋するの」

 ふう。黒衣の死神は、子供を宥める親の様な態度で溜息をつく。交渉の決裂、いや交渉のテーブルにつくだけの条件を用意出来ていない事を知ったのだ。
 速度の差はあれ、背を向けて逃げようとするならば、振り向く間にセイバーに背中を斬られるだろう。セイバーの力なら、その一撃を十分に致命傷に出来る。戦闘を継続すれば、聖杯戦争初日にして、最初の脱落者が生まれる筈だ。
 ……筈、だった。と言い変えるべきだ、訂正する。





 砂塵が舞う、風避け代わりに植えられた木々が悲鳴を上げる、校舎の窓ガラスが軋む。『それ』を中心として円形に発せられる圧は、空気の流動を因とするもの。

「―――仕方ないわね、手加減したげないわ」

 黒衣の死神、風の暴魔は、圧の発生源に立ちながらローブを揺らす事も無かった。

 屈みこみ、地に両手を付ける。人差し指と中指、親指に体重を被せる。薬指と小指を、バランスを保つ為だけに添える。左膝を胸に抱え込み、右脚は後方に軽く曲げたままに置き、踵を持ち上げる。

 前傾姿勢――いや、低すぎる。
 獣の狩り――いや、まだまだ低い。

 例えるならば―――陸上競技のクラウチングスタート。速さを追求した人間達の、一つの答えの形だった。





 サーヴァントの争いの射程外(或いは射程という概念すら無為やも知れぬが)にいた筈の霊夢は、平和的な競技の為に発展した筈のその構えが、如何な拳足よりも恐ろしい物に思えた。
 汗が冷える、汗を掻いていた事にすらこの瞬間に気付く。背に氷柱を突き通された錯覚すら有る。
 あの黒衣のサーヴァントは、数値を見るならばセイバーに遠く及ばない。遠距離、補足している時間が短いからだろうか、幾つかのステータスは虫喰いの様になっていて見えないが、筋力と魔力、攻撃に影響するだろうステータスは何れも、セイバーを下回っている。

「……セイバー」

 勝てる筈、そう信じたい。信じたいのに、勝てないと『勘』が訴える。あの構えに勝つには、今のセイバーの刀では駄目だ。その様な貧弱な武器では、持ち主ごと破壊されてしまう。
 アレは『宝具』だ。サーヴァントが最悪の兵器である所以の、形を為した伝説。真名を解放されずして渦を巻く暴風、敵サーヴァントの黒に染まった魔力、その規模。一人の術者が数度の生涯を経て、尚も蓄積出来ぬ程の、器を逆に飲み干さん程の常識外れ。

「セイバー、宝具を―――!」

 霊夢(マスター)の言を待つまでも無い。彼女(サーヴァント)は御神刀を捨て、両手を体の前で組み合わせた。
 彼女の宝具は、発動までに時間を要するのか。それでは足りない、足りないのだ。仮に瞬時に転送されたとして、それを振り上げるまでのタイムラグすら惜しい。それだけの時間があれば、あの死神は―――

「……あら、お客様」

 校庭が、爆ぜた。瞬きはしていない、視線を外してもいない。だが、そこに〝居た筈〟の敵サーヴァントは〝居ない〟し、セイバーもまた其処にいる。異常が起こったとするなら、霊夢の後方、校舎の方から聞こえた音くらいで、


――あんな音を、昔々に聞いた気がする。私の手を引いていた人が、私の目の前で吹き飛び、物言わぬ赤い塊になったあの時の、小さな子供の目から見れば世界の全ては巨大に過ぎて肉親とは最も近くに居るが故に常に視界を埋めてそれは巨大で強大でだからその強大な存在がより大きな鉄の塊に弾き飛ばされた時に子供の小さな世界は理解不可能の境界線を踏みにじられてしまって、平等平等人類一切皆平等、下賤高貴上等下等老若男女に分け隔て無し骸は肉と骨の塊皮膚で覆われ血の袋破けて弾けて赤紅朱

「―――いむ、霊夢!」

肩を揺す振られ、霊夢は思考を戦場に引き戻した。敵が視界の中に居ない事に、改めて気付いた。

「セイバー、あいつは!?」

「校舎に飛び込んで、屋上から何処かに飛んだ! 逃げられた! ……違う、そんな事より、あいつが……!」

「何、どうしたの!? 分かりやすく説明して!」

 霊夢にもセイバーにも怪我は無い。真名の解放は行われず、黒衣の死神は撤退したらしい。
 あの爆発的な速度はなんだったのか? 逃げるための目晦ましに土を巻きあげるなど、中々に姑息なやり方だ。どうしてわざわざ校舎の中を通って行ったのか、進行方向に有ったからなのだろう――
 そんな思考も、自分への誤魔化しでしかないと、霊夢は自覚していた。。

「……誰かに見られた、私より先にあいつが気付いた。私なら脅すくらいにしたかも知れないけど、あいつは逃げたいからって面倒を避けた……!」

 階段を駆け降りた時より、霊夢の脚は速く動いていたかも知れない。逃げ出してきた校舎へと舞い戻り、靴は履き変えず、最短距離で『其処』へ。非情口のランプの下、鉄の悪臭振り撒かれる、階段の踊り場へと馳せた。

「……なにやってんのよ、もう」

 もう『それ』と形容した方が正しいだろう『彼女』を見つけて、霊夢はそんな言葉を口にしていた。
 〝死因〟は腹部への打撲による内臓の破裂、出血多量だろうか。鑑識ならぬ身で分かる事ではないし、知識があろうと、『彼女』は背中も潰れてしまっていて、手で触れても何が何だか分からない。
 比喩ではなく目に止まらぬ速度で腹を打たれ、壁に背を叩きつけられ、『彼女』は破損していた。手足も無事、首から上も無事、彼女が誰なのかは、階段の下から見上げただけでも理解出来た。
 衣服の上から、左胸に触れる。流れた血が冷え固まり、冷たくてガサついた衣服。拍動は感じられない。鼻や口に手を向けても、いつまでも呼吸は行われない。顔に死の絶望は浮かんでおらず、『彼女』は赤に染まって尚、何時もの表情を保っていた。
 ああ、戦争なんだなあ。他人事のように、霊夢は嘆息した。
 無関係な誰かが巻き込まれて、何も分からずに死んでいく。そういうのは自分の知らない所で起こってくれれば良かったのに。
 戦争の参加者である霊夢は、自分に都合の良い願望を、加えて大きな後悔を抱いた。日常は平和に平穏に、些細な変化だけを伴って繰り返されなければならない。一個の人間の死という変化は、あまりにも大き過ぎる。
 認められる筈がない、認めてはいけない、認めるものか。あの破壊者を、許しては―――

「霊夢、治癒の術は? 私だと、本当に些細な事しか出来ないの」

「……え?」

「治癒。助けたくない? 目撃者だから、死んでしまった方が良いって言うのは分かるけれど。 こんな危険な遊びだもの、世の中に知られたら大変だわ。こういう事は秘匿すべきで―――」

「ま、待って! 治癒? 蘇生じゃなく?」

 出来ない事はない。専門ではない、応急処置の為に身に付けている程度だが。
 本来は病を払う為、病を患者と切り離す、結界術の応用の技術。負傷に対して用いるなら、概念的に死と危険を遠ざけ、自己治癒への道を繋げるものとなる。
 死の概念を完全に払うには、人1人を蘇生させるのと対して変わらない魔力や霊力の消費が必要だが、遠ざけて回復を祈る程度なら、私の魔力残量全て注ぎ込めば十分。

「ええ、治癒。生きてるわ、ギリギリだけど。死に限り無く近づいてて、でも生きてる。命さえ繋ぎとめられるなら、優秀な治療術者の所に運びこむだけの猶予は作れるわ。」

「分かったわ、運んで頂戴。貴女に供給する魔力、最低限まで抑えるわよ。妖怪の山まで行けば、そういう事が出来る奴に心当たりが―――」

 本当に生きているとは、思っていなかったし、まだ思えない。人間、こうも壊されたら死ぬしかないだろう。一目見てそう思う程、彼女は潰されていた。だが、助かるかも知れないと聞いたなら、それを試してみるしかない。
 道中の危険を思わない訳では無かった。魔力不足の侭に襲われれば、セイバーも全力を発揮できない。先程の敵が戻ってきたならば、逃げるという手段すら行使できずに殺されるだろう。
 知った事ではない。

「尊命、謹み承る。世を分かつ神、事分かつ言、川を隔てて三千の灯。流れに委ねて万の大火、億の対価を置き留む―――」

 『彼女』を、ネガティブな概念から可能な限り『切り離す』。あらゆる災厄は彼女の外にあり、遠く無関係な場所へと打ち捨てられる。たった三の小節で、もう魔力の数割を持っていかれた心地だ。
 彼女の存在は世界から隔離する事なく、負の概念だけを選択して遠ざける為の結界。それはさながら、夜道に煌々と明かりを灯し、地を這う虫を駆逐する様なものだ。人の目と手では追いつかない、だから自動索敵・排除の術を組み込む。結界への侵入者を探知する術も、転ずればこの様に使用出来るのだ。

「――彷徨う勿れ、祈りは此処より彼方に。惑う事勿れ、彼方の地は汝の為には在らず。
 我が言に依れ、依りて留まれ、留まるならば与えられん。内は外を知らず外は内を忘る、汝は知らぬまま赦される者なり。
 『単層隔離結界・祓(やくさいなんじをしらず)』」

 魔力探知網、正常作動完了。自動索敵・迎撃(フルオートアクション)スタート。
 博麗の結界術は簡略化されたプログラムだ、システマチックに合理的。発動させたのなら後は魔力を流し込み続けるだけで、装置は動作を続ける。
 『彼女』の骨格は既に元の形状を取り戻しつつあり、セイバーはそれに気付きながら、それを霊夢に伝える事はなかった。