烏が鳴くから
帰りましょ

五日目、放課後――ハルピュイアの止まり木

「位置についてー、よーい!」

 スターターを掲げ、引き金を引く。撃鉄は雷管紙を叩き、高らかな破裂音を響かせる。100mの全天候トラックは、丁寧に雪掻きが施され、陸上部員達の足を妨げなかった。
 気温は5℃にも満たないが、100mを走り終えて戻ってくる者達は、誰もが汗を流している。たとえ半袖を着ていたとて、彼等が寒さを感じる事は無いだろう。
 が――たった一人、号令係を任された博麗霊夢だけは、長袖の中に手を引っ込めていた。

「ったく、自然の摂理に反しすぎよ」

「今時、冬眠なんて流行りませんよ」

 種族のアイデンティティを投げ捨てて、リグル・ナイトバグは白い息を吐いた。
 短髪の襟足まで汗に濡らした姿は、とても虫の妖怪には思えないほど、冬を満喫しているように見える。

「あんたらの体は流行り廃りに流されるの?」

「虫は誰より早耳なんです。だってどこにでも居ますから」

 快活な物言いにも、霊夢はじっとりとした視線を返す。昆虫が冬に活動するのは、あまり望ましいものではないと思っているからだ。
 大体にして生物は、その本来の有り方に従うべきだろう。尤も現代で、冬眠する種族など居れば、社会の変遷に追い付くのも難しいだろうが。

「はあ……長期休暇を求めるデモは?」

「女王権限で押し潰します」

「とんだブラック企業ね。あんたは経営者に向いてるんじゃないの」

 短距離練習のメニューの合間、霊夢はリグルを捕まえて、取り留めも無い話を続けていた。
 が――無為に時間を潰している訳では、勿論無い。

「……しっかしあんたら、この寒いのに良くやるわね。わたしゃ風邪が怖いわ」

「先輩も走りましょうよ。温まれば大丈夫ですって」

「そうは言うけどねぇ、最近は酷いでしょ? 街の方なんかじゃ、数日寝込むような風邪だって流行ってるそうじゃない。
 椛に聞いたわよ、あんたがなんか聞き付けてきたって。早耳のくせに、どうして私に言わないのよ」

 昼休みに拾った情報、真偽は定かならずとも、だったら入手元に直接問いただせば良い。
 安直な思考ではあるが、そもそも駆け引きを行使する様な相手では無く――

「……言う機会が無かったのは誰のせいでしたっけ?」

 ――実際に、答えは直ぐに返ってくるのであった。

「最近ですねー、朝に行っても夜に行っても、なんだか留守が多いですからねー。こそこそ夜遊びしてる誰かさんのせいで、私がお知らせできないのは不可抗力では無いかと」

「皮肉にしてはストレートすぎると思う……いや、ごめんって」

 早朝から起こしに来たり、夕食の時間に上り込んで来たり。そんな生活が普通になる程、リグル・ナイトバグと博麗霊夢の付き合いは長い。
 霊夢の側としては、特別に何か、親しくなる様な出来事が有ったとは思っていないのだが――別に関係を断つ理由も無かったので、そのまま付き合っていた、それくらいの関係であった。

「もう……次は本当に怒りますよ? それで、その話ですけど――」

「はいはい……」

 然しながら、霊夢も愚かでは無い。自分が認識していた距離感は、飽く迄自分だけの認識だと、何時頃からか気付いていた。
 気付きつつも、殊更に取り上げて今の関係を崩す事もなかろうと、何も言わずに居たのだ。
 今必要なのは、疑心を解決する事である。

「――とまあ、そういう話なんで……あ、ちょっと走ってきます」

 霊夢が話を途中まで聞いた所で、リグルは練習に戻っていく。その内容を整理すると――整理する程の事も無かった。
 椛が聞いてきたその通り、古明地さとりが夜の街を歩いていて、後をつけた三人ほどが風邪で寝込んだ。
 何も事件性は無い。因果関係さえ見いだせない事実だが、霊夢はどうにも気になって仕方が無かったのだ。

 トラックを走る陸上部員達を横目に、霊夢は思考を巡らせる。
 椛が〝又聞き〟と言ったのだから、リグル自身もまた別な誰かから聞いたのだろう、とは分かる。
 では、その誰かは、何故に古明地さとりの動向を気に掛けていたのだろうか?
 目立つ事無く、静かに暮らしている彼女を気に掛けるのは――友人のにとりか、或いは今の自分くらいでは無いかと、霊夢は思っていた。それだけに、動向を探るのに難儀するかとも思っていたので、寧ろ噂を聞いた事自体に驚いた程だ。
 単純に考えて、その〝誰か〟は――まだ見ぬマスターの可能性もある。
 夜間に市街地を歩き、古明地さとりの後をつける――意味を見出すとしたら、そんな所だろう。
 勿論、偶然に出くわしただけだったり、或いは個人的なストーカーだという可能性もあるが――当たって見るだけなら損は無い。

「あー、さぶい……どっこいしょ」

 長距離の練習メニューであれば、暫くは走り続けるのだろう。少しでも風の弱い所へと、霊夢が歩き始めた――その時、悲鳴が聞こえた。短く、直ぐに消える様な声ではあったが。

「……?」

 咄嗟に振り向いたが、セイバーがのんびり構えている以上、大事とも思えない。声のした方へ眼を向けると、雪の上に、陸上部の一人が倒れていた。

「あーらら。セイバー、何か有った?」

「貧血ではないかしら、さっきから青白い顔をしてたもの。〝あの〟魔法陣とは関係ないわ、ご安心あそばせ」

「そ、なら良いわ……っていや、良くないわよ」

 わっ、と校庭中に散らばった陸上部員達が、一斉に倒れた部員に近づいて行く。
 自分は部外者だという事も有り、霊夢は遠くから眺めるだけに留めたが――問題は、人の流れの中に、リグルも混ざっていた事だ。
 詳しく話を聞こうにも、この状況で割り込んでいける程、無神経では居られない。案の定、リグルは倒れた部員を担いで、保健室まで運んで行ってしまった。

「どうしたもんかしらねぇ」

「どうしましょうかしらねぇ。打つ手がないのなら、私の案を聞いて欲しいのだけど」

「……ん?」

 最初の案が破れ、溜息を吐いていた霊夢に、霊体化していたセイバーが呼び掛けた。
 霊夢は陸上部倉庫に、手にしていたスターターを片づけてから、適当な物陰に移動する。

「聞いてあげようじゃないの、話しなさいよ」

「光栄ですわ……実は、授業の合間に職員室に忍び込んできてね」

「あんたは忍ばなくてもいいじゃないの」

「手を使う必要があったからね……はい、これ」

 ひらり、一枚の紙を、セイバーが取り出す。それに目を通すと――こまごまとした文字列がぎっしり並んでいた。

「……住所録?」

「原本じゃないけどね。一部だけ印刷して持ってきたのよ――1年生のB組の」

 そこまで聞いた瞬間、霊夢はセイバーの手から、住所録を引っ手繰っていた。
 1ページに纏められた文字列は、目こそ疲れるものの、すぐに答えを見つけられた。

「やるわね、セイバー。古明地さとりの住所、確かに載ってるわよ」

「お褒めに預かり光栄ですわ。で、住所の地名に見覚えは?」

「あるわ。昨日の夜、確かに見た覚えがね」

 静かな住宅街の一角、面白みは無いが住むには良い場所――物静かな彼女が暮らすのには、確かに似合いの場所だ。
 だが肝心なのは、彼女が相応しい環境で生活している事ではない。
 昨夜、霊夢は地図の上で、この住所の近辺を見たばかりだ。謎の体調不良を赤い点で記し、線で繋いだ結果炙り出されたポイント――即ち、アサシン陣営が潜伏しているだろう範囲。古明地さとりの住所は、それに完全に合致していた。

「……どうする? マスターは貴女、従うわ」

「行きましょう。あれが相手なら、今のセイバーでも十分に勝てるわよ。暫くは温存しといて」

「仰せのままに」

 セイバーは再び霊体化し、霊夢はマフラーを翻す。学校から目的の住宅地まで、走れば20分も掛からないのだ。





 周囲より僅かに高くなった土地、新築ばかりの洋風住宅街。改札を見ながら歩けば、目的の家は直ぐに見つかった。
 他の家と形状はほぼ同じ。数件纏めて立て、安く売ったのだろうと邪推もしたくなるが――

「嫌な雰囲気ね。どう思う?」

「私からすると、住み心地が良さそうに見えますわ。使用人が居ればと条件付きで」

 ――古明地の表札が掛けられた家は、他のどの家よりも暗かった。
 まだ日中であり、窓から明かりが零れていないのは納得が行く。だが、その窓が丁寧に、目張りされているのは、霊夢の理解の及ばない所である。
 向こう側から新聞紙を貼り付けられ、隙間は完全にガムテープで塞がれ、きっと日光は侵入出来ないだろう。人が住まうには、些かならず心地悪い空間の筈だ。
 漂う空気も、不純。小さな羽虫が近づいてきては、家の壁に触れる前に、くるりと向きを変えて逃げていく。

「サーヴァントの気配は?」

「何も。暗殺者(アサシン)が相手では、信用し切れないけれど」

 既にセイバーは実体化し、周囲に目を光らせている。今のセイバーの隙を突くなど、あの黒い影のサーヴァントでも難しいだろう。
 霊夢もまた、制服の懐に右手を差し入れ、何枚かのお札を掴む。いざ有事となれば、咄嗟に対衝撃の結界を張れるだけの術を組み込んだ札だ。セイバーの守りと比べれば気休めの様なものだが、自衛の手段が有る事は、霊夢を深く安心させた。
 玄関の扉を押し開ける。鍵は掛かっておらず、踏み入ってみれば、玄関口には靴が二足。どちらも、土埃の着いた靴だった。
 暗い家の中だが、廊下の奥に、少しばかり明るい部屋が見える。それも、太陽の光では無く、恐らくは蛍光灯の、人工の灯りだ。
 土足のままで上り込み、がさり、がさり、荒い足音を立てて歩く。部屋に居る誰かは、きっともう気付いているだろう。
 構わず、霊夢は歩く。寧ろ、私は此処に居ると宣言せんがばかりに。

「セイバー、用意を」

「イエス、マイマスター」

 抜刀。白刃が鞘を削る、耳障りな摩擦音。室内の温度が、数度も下がった様に感じられた。
 いや――本当に、下がっているのかも知れなかった。顕現するだけで大気を冷え込ませる程度、もはや不思議にもならないのだから。
 セイバーは普段のドレス姿に、初めて現界した時と同じ、白銀の戦装束を纏っていた。小手、具足、胴当て、兜、吊るされるだけの空の鞘。尤も、鞘はそれ以外にも二つある。白刃はセイバーの両手に抜かれているので、合計で三つの鞘を携え、彼女は歩いていた。
「……落ち着いてるわね、霊夢。おかしいとは思わないの?」

「静かすぎるし、奇襲もされない。おかしいって言えばおかしいわね」

「いいえ、そこじゃあないわ」

 隙間から光を覗かせるドア――その前に立ち、セイバーは霊夢へ振り返る。

「古明地こいしの事を、霊夢はどれくらい知ってる?」

「さぁ……気味の悪い子供だとしか知らないわ」

「じゃあ、古明地さとりの事は?」

「同級生の友人である後輩。ちっこい。それくらいしか知らないわ」

 唐突な問いだと、霊夢は怪訝な顔をした。

「……古明地こいしは、やりすぎた。必然よ」

 だが――利発な霊夢は、直ぐに問いの意図を理解した。
 セイバーがおかしいと言ったのは、この家の事でも、また家の主達の事でも無く――ほかならぬ主、博麗霊夢に対してだったのだ。

「まだ、死人は出てない筈よね」

「時間の問題よ」

「かも知れないわね。けれど霊夢、私が刃を抜いて立っているのは、生け捕りにする為ではないのよ」

 セイバーの表情から色が抜け落ちた。成人らしからぬ大きな目の光は、底に狂気さえ孕んで見える。
 言わんとする所は分かっていると、霊夢は小さく頷いただけだった。
 だが、それだけで十分に、セイバーは困惑した。人知を超えた英霊をして、霊夢の答えは、遠く理解の外に有ったからだ。

「霊夢、貴女はこの戦争に、自分の欲求を傾けてはいない筈。欲も無く憎しみも無く、貴女は誰かを殺せるというの?」

「殺すつもりは――」

「無い、とは言えないわね。だって私を、戦う為に呼ばれた私を、こうして随伴しているんだもの。貴女は良く知らない誰かを、大きな感情の揺れも無しに、あっさり殺そうと企んでいるんだわ。
 ええ、珍しくは無いわ。きっと私だってそうできるし、魔理沙も――アーチャーも、必要ならばやってのけるでしょう。けれど霊夢、貴女は――今の博麗霊夢は、唯の女学生ではなかったの?」

 平和な時代に、呼び出された筈。それがセイバーの困惑の主因であった。
 皮肉にも、死が遠ざかれば遠ざかる程、人の命は重くなる。死を実感できぬ時代に合って、人の死は敬遠すべきものだ。
 博麗霊夢は――誰かの死を、全く許容していた。

「……だから、殺すつもりはないわ。ただ、あんたがあいつらを殺しても、私は文句を言わない。
 今は良いわ。アーチャーの言う事を信じるなら、あの術を発動されたが最後、何人かは死ぬでしょう。何千人かが死ぬかも知れないでしょう?
 だったら一人――いや、二人くらい死なせたっていいのよ、きっと」

 いや、違う。
 霊夢は、無為の死を許容などしない。但しその精神は、飽く迄も〝多数〟――〝日常〟の構成要素だけに向けられているのだ。
 即ち、数千の人命の為に、二つの命を踏みにじる事を、正しいと信じて疑わない――そういう精神の持ち主が、彼女なのだ。

 それは、きっと数字の上では、正しい事に違いないのだ。
 善良な数千と、悪意ある1。何れを切り捨てて何れを生かすべきかなど、議論は既に尽くされて、もはや答えは決まっている。
 だが、その正しさを〝行使する〟など、誰が望むだろうか?

 望まない。善を為さんとする者が、例え1の命であろうと、切り捨てる事を嘆かぬ道理は無い。
 つまり博麗霊夢は、善く有ろうとする者では無いのだ。

「おしゃべりは終わり、向こうも待ちくたびれてるでしょ。行きましょうセイバー、まずは一組目よ」

 動かず――動けずにいたセイバーの隣に立ち、霊夢はドアを足で押し開けた。

 暗く、寒い部屋だった。
 灯りの無い小さな部屋には、家具は僅かに三つだけ。
 丸い机に椅子が二つ、後は家庭ごみが無造作に散らばる床。夜とも紛う黒の中――

「……霊夢先輩、チャイムは鳴らしてくれますか?」

「あっ、お姉ちゃん! 私、私、覚えてる? 忘れた? 忘れちゃった? 遊びに来たんだ!」

 古明地さとりの眠たげな目が、古明地こいしの壊れた瞳が、霊夢を見上げて浮かんでいた。






「土足ですか、屋内ですよ」

「洋風建築だし多目に見てよ、あんたの友人の同級生なんだし」

「繋がりが浅すぎると、そうは思いませんか? 情状酌量の余地は無いですね」

 古明地さとりは椅子に腰掛け、悠々と構えていた。
 呆れる程の胆力だと、霊夢は感じた。刀を二振りも構えた不審者に、突然家に上り込まれ、こうも平然としているのだから。
 テーブルの上の小さい盆に、クッキーが何枚か並んでいる。その内の一枚をつまみ、口へ運び――年齢からは想像も出来ない、奇妙な貫禄を、さとりは見せつけていた。

「……それで、用件は? まさか白昼堂々、盗人の真似も無いでしょう」

「私に会いに来たんだよね? お姉ちゃんたち?」

 一方で古明地こいしは、床にぺたりと、脚を開いて座っていた。
 霊夢の顔を見るや、丸い目を更に見開き立ち上がり――セイバーを見て、僅かに眉を動かす。然し、結局は白い顔に、底抜けの明るい笑顔を浮かべたままだ。
 鍔の広い帽子を被って、薄暗い部屋に居て――だが、彼女の口は赤々と、裂けた様な笑みを見せている。口の周りについているのは、さとりがつまんでいるのと同じクッキーの食べかすだろう。

「そう、あんたによ。ただ……さとり、どういうつもり?」

「どういうつもり、とは?」

 さとりが椅子から立ち上がる。霊夢は軽く身構えたが、セイバーは動こうとしなかった。実際、さとりは荒事に出ようとした訳ではなく、台所へ向かおうとしただけだった。

「あんた、一人暮らしだって言ってたじゃない。つまらない嘘を吐いて、何人を殺すつもり?」

「私の家族構成を、先輩に教える必要はないじゃないですか……仰る意味が分かりませんよ」

「とぼけないで」

 その背を追い掛け、霊夢も歩く。
 流し台には、現れていない皿が、幾つも幾つも重ねられている。何枚かの皿には罅が入り、今にも砕けて散りそうだ。蛇口を最大に開くと、水が平らな皿に打ち付けられ、ぱしゃぱしゃと飛沫を上げた。
 跳ね上がる水をコップに受けて、さとりはぐいと飲み干す。それから、振り向きもせずに霊夢に言った。

「とぼけてなんていませんよ。私ほど無害な学生はいません。……にとり先輩に対しては例外ですが。私が誰かを殺すなんてこと――」

「知らないなんて、言うんじゃないわよね?」

「――ええ、まあ」

 続けてさとりは、コップに水を満たし、霊夢についと差し出した。霊夢はそれを受け取って、その場でコップをひっくり返す。水が床を濡らしたが、さとりは表情も変えずに眺めるばかりだった。

「……妹のしている事くらい、姉は理解しているものですよ。けれど、あれこれ口出しする事でも無いでしょう?
 私は妹の自由を尊重します。それがどういう結果を齎そうと、私には関係ない」

「大した身勝手じゃないの。それじゃ、あんたの――妹? そいつがやってる事の意味も、十分に理解してるって事よね」

 流し場の直ぐ下、棚を開ければ、戸の裏側には包丁置き。そこから一本、霊夢は無作為に引き抜いた。
 選んだのは肉切包丁、使われた形跡は薄く、刃毀れ一つ無い。鋭利な切っ先は冷たく白く――すうと、さとりの首に向けられた。

「強盗の真似事ですか、霊夢先輩?」

「あんたの妹を止めて、サーヴァントを自害させなさい。そしたら素直に帰ってあげる」

「嫌だと言ったら?」

 霊夢が一歩、足を踏み出す。きっかり歩幅と同じ分だけ、包丁の切っ先がさとりに近づく。
 言葉による答えは不要。霊夢の目に温情は無く、否を通せば刺すと、視線で雄弁に語っていた。

「……〝博麗の巫女〟でしたね、そういえば」

「異変は早急に解決する。人妖を問わず、異変の原因は断つ。あんたが余計な事をしなきゃ、あんたは無事に居られるのよ」

「つまり、自分の為にこいしの自由を奪えと、先輩はそういうんですね?」

「安い買い物じゃないの」

 もう一歩。更に切っ先が、さとりの喉に近づく。
 細く白い首。掴めば容易く圧し折れそうな、野菊の茎の様な首。その皮膚を掠めるまで近づいた包丁の背を、さとりに劣らず白い手が掴んだ。
 古明地こいしの、小さな手だった。

「もー、お姉ちゃん、遊ぶのは私! 怒っちゃうよ? 私、本当だよ? 本当に怒っちゃうよ!」

「……いいや、あんたじゃないわ」

 霊夢は己の手に、恐ろしい程の重さを感じていた。
 僅か数センチを進めるだけで、肉を貫くだろう包丁の刃。それが、柄にいくら力を込めても、僅かにも進まないのだ。
 然し、その事に、何の違和感も抱かなかった――抱けなかった。

「ん? 私じゃないのー? だってだって、お姉ちゃん、私のサーヴァントが邪魔なんでしょ?」

「ええ、邪魔ね。だからさっさと消えて貰いたい、その為に来たのよ。だけど……あんた達、これはどういう事?」

 霊夢の問いは、具体性を欠いていた。
 包丁を持つ手の力を抜くと、こいしも刃から手を放す。霊夢が一歩引き下がれば、こいしは、さとりと霊夢の間に割り込んで――その正面に、セイバーが向かい合った。

「霊夢。貴女が前に出る事は無いわ……こんな陰気な場所では。
 貴女の考えは良く分かる。けれど、古明地さとりはもう、貴女の〝日常〟の一部では無いのよ」

「そうですね、何を今更。私は出来る限り、静かに暮らしていた筈ですから。
 親も親戚も誰もいない。友人だって作らない。ただ、妹と――こいしと二人で、平穏な暮らしが出来れば良い。
 そこに霊夢先輩は要らない、割り込む場所は無いんです。だからもう、帰ってください」

「うん、うん。だよね、お姉ちゃん! 私にはお姉ちゃんだけ居ればいいの、ねっ!」

 さとりは、自分の前に立ちはだかるこいしを、逆に自分の背後に庇おうとした。
 然し、こいしは両手を広げて動かない。あたかも自分は壁であり、さとりを守るものだと主張する様に。

「だから、えーと……霊夢さんと、そっちのサーヴァントさん。今日はもう、バイバイしようよ!
 お姉ちゃんが居るんだもん、私だってそっちだって、一杯遊んじゃ駄目でしょ?
 そんな事、本当は霊夢さんだってしたくないって、きっとそう思ってるよね?」

 奇妙だった――保護者の如き口振りで守られるさとりが。狂気を〝演じる〟声が、次第に明朗に成り行くこいしが。
 姉妹は何れも、己の有り方から離れて壊れ始め、そして二人で均整を取り続けていた。

「……あんたの言う通りよ、悔しいけどね」

「じゃあ、今日はこれまでにして――」

「いいや、そうはいかないわ」

 古明地こいしの言葉は――霊夢の真意の一点を、正しく突いていた。
 霊夢の生活に、古明地さとりという妖怪の存在は、殆ど影響を及ぼさない。だが彼女は、同級生の友人である。
 発明癖が祟り、興味本位の接触は有れど、友人という友人は少ない河城にとり。その近くに何時も立つ、小柄で淡々として辛辣な、少し生意気な所のある後輩。決して、嫌いではなかった。
 叶うならば霊夢は、彼女を無事に退場させたかった――偽らぬ本心である。

「〝私〟の考えなんてどうでもいいでしょ? 必要なのは、『病結界異変』を迅速に解決する事。
 その為だったら、犯人を〝匿う〟奴の一人や二人、死なせたって構わない」

 然し一方で、霊夢は〝博麗の巫女〟である。
 人の侭、全ての人妖と対峙し、全ての異変を解決する。そこに一切の例外は無く、そこに一辺の慈悲も無い。
 幻想郷のシステムとして、霊夢は自分を認識し、駆動させている。行動理念に感情など、無用の長物でしかない――筈、なのだ。

「……こいし、それに霊夢先輩? 何の話をしてるんですか? そこの人、何とか言って……」

 いつしか、こいしの顔から笑顔が消えていた。さとりは不安げな――年よりも更に幼く見える――表情で、居合わせた三人の顔をかわるがわる見ていた。

「お姉ちゃんを苛めないで、帰って!」

 こいしは、小さな手足を精一杯に広げ、さとりの体を僅かにでも隠そうとするかの様に立つ。
 丸く大きな瞳に、既に狂気は感じられない。浮かぶのは理知と、溢れんばかりの怒りである。

「いいえ、帰らないわ。……さとり、そいつに言いなさい! あんたにサーヴァントなんか要らないって!」

「霊夢! 躊躇わないで、早く!」

 怒鳴る様に――或いは懇願する様に、霊夢が叫んだ。
 こいしと睨み合いながら、霊夢を背に庇いながら、セイバーが行動を促した。

「……え? え、ぇと。え……? あの、霊夢先輩……?」

「良いからさっさと! 〝サーヴァントを捨て〟て、〝聖杯戦争から手を引〟かせなさい!
 そうしたら命は助けてやるって言ってんのよ!」

「霊夢!」

 流し台に積まれた皿が、騒音を上げて砕ける。戦闘態勢に入ったセイバーの、抑えきれず溢れた僅かな魔力が、物的な衝撃となって周囲を叩いたのだ。
 家鳴りがぎぃぎぃと喧しい。だが、誰もその音に、耳を貸すなどしなかった。

「……やだ。やだ、この子は――こいしは、もう我慢なんて、しなくても」

「分からず屋……! 〝古明地こいし〟なんて、〝どこにもいない〟のよっ!」

 霊夢の手から、包丁が放たれた。
 刃を先に、真っ直ぐに。十分な速度を以て――こいしの顔面へと。
 こいしが避ければ、さとりが刃の餌食になる。いや、そもそも――3mも無い距離からの投擲だ、近すぎる。
 頭蓋の強度が有れば、致命傷にはならないだろうか? いや、眼球から脳にまで届けば、死に至らしめる事は容易い筈だ。

「……言ったな、お前は」

 包丁の刃は、〝こいし〟の小さな手に〝握り砕かれ〟た。
 飛来する刃を掴みとり、金属の刀身を素手で握り、造作も無く砕く。
 常軌を逸した技――いや、力だった。とても、小柄な少女がやってのける事では無かった。
 ――〝こいし〟の声には、並みならぬ憎悪が込められていた。




「……こいし? 駄目じゃない、そんな事しちゃ……手が、手が、ああ、なんで」

 古明地さとりは、白い顔を更に青白く染め、幽鬼の如き様であった。
 〝こいし〟の手を取り、そこに傷が無い事を見て取り――怯え、震える。

「ねえ、なんで、こんな事しちゃ――こいし、貴女はなんで、」

 気付いてはならぬ事であった。
 何れは気付いてしまう事であった。
 気付かぬ様にカーテンを閉ざし、光から逃れて暮らしても――窓から差し込む光は、無情に鏡像を映す。
 砕け散った刃の破片に、映った顔は酷く臆病そうで――

「何処、なの?」

 いない。いなくなってしまった。

「あの子は、何処?」

 いる。今もその瞳は、泣き出しそうな顔を見つめている。

「こいしは、何処にいったの……?」

 ――〝古明地こいし〟は〝どこにもいない〟。





 人の悪意は、何時の世も変わらない。
 数千年前も、数百年前も。きっと数百年後も、数千年後もそうだろう。
 些細な欲望を堪え切れず、他者を虐げて己を満たす。つまる所、それが進歩の原動力でもあったのだから。

 だが――欲望の発露は、一つの形で留まらない。
 人は所詮、自分の常識から大きく外れた発想を生み出せない。
 だから、他者に触れぬ人間の欲望は、些細なこじんまりとしたものとなるのだ。

 然し、知識は伝播する。
 言葉に乗って、紙に乗って、電波に乗って、人の欲望の形は流布される。
 それは例えば、文学という形式であったり、劇画という形式であったり、映画という形式であったり――
 何れにせよ人間は、己の到底思いつかぬ欲の形に、容易く触れられる様になったのだ。


 古明地さとり、古明地こいし――彼女達二人は、他者の思考を読む事が出来た。
 飽く迄も見えるのは、その瞬間の思考のみ。然し、心の内の声を、余さず聞き取る事が出来たのだ。
 ならば――必然、無数の悪意からも、目を逸らす事は出来ない。

 聞くまいと思えども聞こえてくる。後ろを歩く誰かが、隣に座る誰かが、何を考えているのか。
 単純な害意であれば、身を守れば良いだけ、寧ろ気楽であった。
 彼女達が苦しんだのは、〝理性で押さえようとしている〟悪意だったのだから。

 理由も無く殴りたい、殴ってはいけない。言葉の限りに詰りたい、そんな事をしてはいけない。
 蹴り、踏みつけ、踏みにじりたい。そんな事をしてはいけない。いけないけれど、襤褸切れの様に扱いたい。
 あの首を絞めたらどんな顔をするだろう。あの腹の中に詰まっているのは、赤い臓器かそれとも黒いのか。
 小さな手足、細い体。組み伏せればどうにでも出来るだろう。そうだ、何時でもそう出来る。
 してはいけない。でもそうしたい。すれば犯罪だ。犯罪じゃなければ。ばれなければ。でも止めておこう。
 ○○したい。○○に○を開け、思うが侭に○○したい。○を○○○とし、その○で○○したい。
 二人は日夜、方向性さえ定まらぬ悪意の渦に、心を削られていた。
 
 そして――古明地こいしは少しだけ、姉より心が弱かった。
 他者への無関心を貫ける程、一人でいる事に慣れていなかった。
 誰かに嫌われていても、笑っていられる程の逞しさが無かった。
 自分に向けられた悪意の渦を、乗り切るだけの力が無かった。

 古明地さとりの心に、鮮明に焼きついた一つの光景。
 洗面所から廊下を通り、階段を上り、二人の寝室まで、刷毛で広げたかの如く続いた血痕。
 ベッドの上でこの上なく幸せそうに息絶えていた妹を、その手に握られた彼女自身の眼球を――





「あ、あああ、ああああ……!」

 壊れてしまった。
 家庭も、幸せも、そして心も。

「ああああああぁ、あ、嘘よ、そんな……私が、嘘、いや」

 それを、取り戻したかった。
 たったそれだけの願いは――もう、思い出せない。

「いや、嫌だ嫌だ嫌だ、やだ……そんなの、やだぁっ!! ぁあああ、あああああぁあぁああっっ!!」

 泣き狂いながら、さとりは何故か笑っていた。
 窓ガラスに映った自分の顔が、誰よりも愛した妹に良く似ていたからだった。

「……セイバー、ごめん、お願い」

「仰せの侭に、マスター」

 霊夢はもはや、〝古明地さとり〟と言葉を交わす事など出来ないと知った。
 ここに居るのは――もはやさとりでもこいしでもない。人格さえ入り混じった、壊れた妖怪である。
 セイバーは殊更に無表情を繕い、二刀を振りかざした。

 ギン、と鋭い音は、その刀が受け止められた証拠。
 〝こいし〟は――いや、暗殺者(アサシン)は己の本性、痩せた女の姿に戻っていた。
 両手に掴むのは、杭にも似た短い金属。二対一組の凶器は、セイバーの一撃を防いで、損傷は見られない。
 腕は衝撃に痺れている筈だが――目に浮かぶ怨念の濃さは、如何なる凶器よりも強く、セイバーの足を止めた。

「ああ、こいし、ああ……そうだ、私は……!」

「マスター……――さとり! 何も思うな、忘れな! そうりゃあたしらは……ずっと、続けていけるんだ!」

 泣き喚きながら、さとりは少しずつ、己の目的を思い出していく。
 そうだ、彼女が聖杯戦争に身を投じたのは、妹の幻影と『家族ごっこ』をする為ではない。
 例えアサシンが、さとりの幸福はこれだと信じようと、さとり自身はそう考えない。

 霊夢は、左手の甲に熱を感じた。
 マスター同士が近づけば発する、疼きの様な感覚――それが、一際強くなった。
 直感的に霊夢は、セイバーの後ろに完全に隠れ、自分自身の周囲に結界を張り巡らせた。
 簡易な防御結界――サーヴァントの攻撃に対しては、如何程の効果も無いかも知れないが。

 さとりの両目に浮かび上がる赤い文様――鋭角的な花弁の如き形状、それぞれに一画ずつ。
 残る一画は何処に現れたものか、それは霊夢の知る所では無かったが――

 ――古明地さとりは、己の両手で持って、二つの眼球を抉り出した。

「っ、マスター、何やってんのさぁ!?」

「アサシン……令呪を以て命ずる……! 〝法具を開帳し〟〝私を連れて巣へ潜れ〟……さあ!」

 言葉が途切れるか否かの折に、セイバーが指示を待たず飛び出した。
 彼女が振るう二つの刀は、内側からガラス窓を破る程の衝撃を以て、アサシンの体に――背から出現した四つの脚に叩き付けられた。
 本来の力の差であれば、一撃で肉片にも成りかねぬ程の斬。受け止めたは令呪の力と、アサシンの本質たる〝異形〟の怪力が為。

「……お前が、お前達が悪いんだ! あたしはこのままでも……悪くないと、そう思ってたんだ! なのに……!」

 アサシンの魔力が――魔術を用いぬサーヴァントでありながら、如何なる魔術師にも備え得ぬ程に、力が膨れ上がる。
 圧倒的な暴を身に纏って、だがアサシンは悲痛に叫び、床に手を触れさせた。
 十指の内、両手の親指を除いた八本から、床を這って広がる魔力の糸。拡散速度は恐らく、音を超える。

「逆らえない、もう止められない……呪うぞ、地上の人間。呪うぞ、博麗の巫女!」

 伝承の具現――宝具。今こそその真名が、令呪という最大のブーストを受けて解き放たれる。


瘴気満つ(ゲエンナ)――大窯の底(フィルドミアズマ)!!』


 臓腑を溶かす蜘蛛の毒が、獲物を喰らわんと蠢き始めた。






 初めて遭遇した時から、分かっていた事だった。
 古明治こいしと名乗る少女が、本当は誰なのか。何者であり、普段は何をしていて、そして何処へ住んでいるのか。
 霊夢はそれを知って、敢えて先手を取らず、正体を確かめに踏み込んだ。

「……愚策だった……!」

 否にして、然り。
 確かに同じ顔に同じ声。言動にまるで差異はあれど、その姿を下級生の古明地さとりと結びつける事は、霊夢にとって難しくなかった筈だ。交渉のそぶりも見せず強襲すれば、或いは宝具の発動を許す事無く、仕留められたかも知れない。
 だが――誰が、そう出来ただろうか。
 後輩に。同級生の友人に。同じ学び舎に通う、小柄な女学生に。敵〝かもしれない〟というだけで、斬殺の命を下せただろうか?
 先に手を打っていればと、霊夢は悔やんだ。殺していればとは思わない、思えない。この寸拍、その発想にさえ至らなかった。

「りゃああぁっ!!」

 セイバーが今一度、斬撃を放つ。刃は届かない――黒谷ヤマメはさとりを抱えて、天井に張り付き難を逃れた。
 枯れ木の如き病弱な四肢――対照的に分厚い甲殻を備えた、背より伸びる四つの脚。先端に備えた爪は、自重の数十倍を吊り支える鋼にして――〝病(やまい)〟の様を示す宝具。
 マスターを腕に抱えたまま、ヤマメは天井に溶けて消える。戸の隙間から病毒が忍び込む様に、アサシンはあらゆる壁を擦り抜ける事が出来るのだ。
 天井を破壊して追う事は出来たかも知れない。だが、セイバーとて視覚情報を主として戦う者だ。市街地でその様な暴挙に出て、自分が交戦中であると、複数の敵に知らしめる事もあるまい。
 それよりも、優先すべき事がある。八方に散らばって行った魔力の行方だ。

「あれも宝具、今のも……どっちが本物よ!?」

「どっちも! 宝具の二つくらい、珍しい事じゃない――私もだからね」

 一つのサーヴァントに、宝具が一つと決まっている訳ではない。考えられる事ではあったが、今の霊夢にはそんな事さえ驚愕に値した。というより――全ての事物を、今は冷静に受け止められずに居る。
 決断が鈍った。だから好機を逃した。次の決断は迅速に行うべきだろうが、そう思う程に焦りが脳を灼く。セイバーの呟きがどれ程に重要な事であろうと、この時は意識出来ずに居た。
 然し、立ち止まったままでの愚考は、この少女の性質と相違する。直ぐに〝行動しながら〟の思考を開始した。

 家の外へ飛び出し、目的は無くとも周囲を見渡す。何か、思考の手がかりは無いものか。巣へ潜れと、さとりは言った。素とはどこの事だ――? 

「セイバー、引き籠るのに必要な物は?」

「屋根、壁、食糧……人妖のも、サーヴァント(わたしたち)のも」

 雨風、他者の視線に銃弾を避けられる環境。外へ出ずに生きる為には、食糧は不可欠――水は水道さえあれば十分。

「逆に聞くわよ霊夢。それが揃う場所は?」

「……白玉楼通りのショッピングモール群。住宅地方面だと大型スーパー――……いや、違う、違う!」

 蜘蛛が巣を張るのは、決して一瞬で出来る芸当では無い。時間を掛け、得物を捉えるに十分な強度と、己が動き回る為の足場を組む。
 今から巣を張りなおすのではなく、過去に張り巡らせた糸を流用するのであれば――住宅街にある古明地家から、〝古明地こいし〟が徒歩で歩き回れる範囲内にある施設が有力だろう。
 だとすれば一か所、これ以上は無い場所が有る。壁は厚く天井は高く、調理前ではあるが大量の食糧を有し、何よりも多くの人妖が集まる場所。古明地さとりが歩いていたとて、誰も疑問を抱かない場所――!

「セイバー、担いで。学校まで走って!」

「了解、マスター!」

 女性が女学生を担いで道を走る――奇妙な姿ではあろう。
 だが然し、人目をはばかる余裕など、今は無かった。





 私立命蓮寺高等学校は、放課後に特有の賑やかさに包まれていた。
 今日はもう学業に手を染める事なく、思う存分に趣味と部活動に時間を捧げられる。そうなった時の学生達は、社会人とは違い疲れを知らない。
 広い校庭だが、トラックは陸上部と野球部、それにサッカー部が団子になってランニングをしている為、恐ろしく狭くなっていた。
 校舎のベランダには吹奏楽部。屋内では音が喧しいからと、外へ向けてパートごとに、タイミングを合わせず音を吹き鳴らす。金管楽器は冷たかろうが、彼等彼女等の額からは、湯気がもうと立ち上がっている。運動部並みの運動量、汗の量も並ではない。
 が――文科系かつ運動量というならば、負けていないのが合唱部だった。
 声量を保ち、一日に数十曲――或いは数百曲を歌い通す体力を保つには、筋トレが必要不可欠。三年の女子部長など、腹筋が八つに割れているともっぱらの噂である。

「あー、あー、あーあーあー……あーあ」

 そんな部活も、今日は週に一度の自習日、つまりは休日。ミスティア・ローレライは一人、屋上で発声練習を行っていた。
 天性の美声もトロンボーンに掻き消され、校庭までは届かない。だが、溜息の理由は、そんな事では無かった。

「……あーん、もー! しゃんとしなーい……」

 翼をぱたぱたと羽ばたかせ、両手もそれに負けずばたばたと振り回す。子供が駄々をこねるような姿である。


 彼女の歌声の魅力は、人を無条件に引き寄せる色気にある。
 とは言っても彼女の場合、年齢や外見の幼さも有って、いわゆる女性的な色気は薄い。どちらかと言えば中性的、或いは少年的な色合いが強い――強かった。
 その声が、自覚できる程に変わってしまっている――ここ数日ばかりで。
 原因が何か、自分では分かっていない振りをしていた。然し、見えぬ振りばかりもしていられないので――闇夜でも夜目は梟並に利く――真っ直ぐに見つめる事にした。昨日の夜の事だった。
 そうすると、ベッドの中で身悶えをする羽目になる。掛布団を蹴り飛ばし、枕を投げ捨て、シーツはぐしゃぐしゃにして、寝不足に悩み、そして今朝は寝坊で遅刻ギリギリだったのだ。
 上級生達には褒められた。顧問にも、今日は調子が良いのかと、非常に上機嫌で尋ねられた。調子の良さが数日も続くと、上達の理由を何人にも聞かれたが――

 ――言える訳も無かった。

「あー! あー! あーーー! うあーん! どーしよー!」

 発声練習の筈が、大声を出す練習に変わっている。ひとしきりじたばた暴れて、屋上に積もった雪の上に、仰向けに寝っ転がった。
 声の色が変わった理由は、数日前の上級生の気まぐれに有った。
 普段は超然と――と言うより、何を考えているか良く分からない変人やも知れぬが――孤高を貫く彼女が、自分の声に耳を傾け、足を止めた。
 そればかりでは無い、話しかけてくれたのだ。必要が無ければ、一日誰と会話せずに居られそうな、あの彼女が。
 最初は何か、機嫌を損ねたのかと思った。僅かに怯えながら尋ねてみれば、全くそのような事は無い。寧ろ彼女は――自分の声を、好きだと言ってくれた。
 困惑しつつも嬉しかった。ああも真っ直ぐに褒めてくれる人は居なかったから。だから胸の高鳴りも、称賛を得た喜びだけに起因するものと思い込んで――高鳴りが膨れ上がり、呼吸が苦しくなって漸く、この感情が何かを理解した。

 理解した瞬間から、ミスティアの声は美しくなった。ただ愛らしいばかりではなく、足を止めて長く聞いていたいと思わせる、他者を誘引する力が増した。然しミスティア本人が、それを喜んではいなかった。

「どうしよう、どうしよう……上手く歌えないよう……」

 周囲の評価は良い、それは確かだ。だが、皆が褒めている声は、〝彼女〟に褒められたあの声とは違った。
 好きだと言ってくれた、わざわざ近くに来てまで聞いてくれた声。もっと長く聞かせたい、もっと良くして聞かせたい――もっと楽しませて、喜ばせて、褒められたい。そう願えば願う程、声は元の自分と違うものになっていく。
 ミスティア・ローレライは、少し幼すぎたのかも知れない。幼くて、そうでありながら、音に敏感過ぎたのだ。
 声に生まれた差異――本来なら成長と呼ぶべきそれを、己の不調と取り違え、元に戻そうと歌い続ける。だが、正しく歌おうとすればする程、上達は愈々留まる所を知らず、艶歌の性は強まるのだ。

「……ちゃんと歌わないと……泣いてちゃ駄目だ、がんばれ私! おー!」

 つまる所、ミスティアは、あまり賢くは無いのである。
 賢くは無いのでくよくよしてはいるが、実際は簡単に解決する悩み事――〝彼女〟に実際に聞かせてみれば良いだけなのだ。
 益にならぬ悩みを抱え、もう一度発声練習からやり直そうと、息を胸一杯に吸い込んだ時――

「―――……っ」

 冬の大気は冷たい。だが、肺よりも尚、背筋に寒気を感じた。妖怪も人も区別無く備わっている、異質への本能的な――敵意というべきか、嫌悪というべきか。そんなものが背筋を駆け上がり、首を擽ったのだ。
 そうっと背後を振り向く。特に何か、おかしなものが有った訳でも無く――ただ、古明地さとりが。同学年の物静かな少女が、そこに座っていただけだった。

「あれ……? さとりだよね、どうしたの?」

「いえ、特に……歌を聞いていただけですよ」

 目を閉じ、音を楽しんでいたのだろうか。そういう客も聴衆にはまま見掛ける。音を楽しむのに、他の情報は極力排除するという物好きだ。
 ミスティアは、自分にそう言い聞かせる。先程の悪寒は、きっと勘違いだろう。大人しく無害なこの少女を、恐れる何事も有りはしない。

「楽しそうな声。好きな人が出来ましたか?」

「えっ……えっ!? いや、えっ、そんな事無いよっ!?」

 薄暗い事を思っていると、いきなり図星を突かれてしまった。
 自覚は有る。明確に言葉にしていないだけで、ミスティアは早い話が、〝彼女〟に惚れてしまったのだ。

「ふふっ、分かりやすい。もう少し上手にごまかしたらどうですか、にとり先輩じゃないんだから」

「いや、違う、違うってば! いきなり変な事を言われたから驚いて――」

「良いんですよ隠さなくて。三日前からでしょう、歌い方が変わったのは」

「――……っ!! ああも―! あーもーっ!!」

 連続で本心を言い当てられて、ミスティアは声の限りに叫んだ。肺活量に自信のある彼女をして、息切れを起こさせる程に叫んだ。
 雪が積もる屋上に手を着き、肩で息をするミスティアを、さとりは目を閉じたままで笑い、近づいて肩を叩いた。

「……いいじゃない、相手が女の人でも。誰も変に思わないわよ」

「うーっ……どうして分かるのよー。秘密にしてよね、本当に……?」

 洞察力に優れているのは知っていたが、そうまで知られていたとはと、ミスティアは顔から火が出る思いであった。
 そもそも古明地さとりという少女が、誰かの色恋沙汰に興味を持つなど、計算の外だった。
 そんな事をするくらいなら上級生の教室へ行き、河城にとりの発明品に毒を吐いて楽しんでいるだろうと、そういう認識しかなかったのだ。

「秘密、秘密。約束するわよ」

 だが然し、少し面白くも有り、そして楽しくも有った。
 自分に無関心だと思っていた同級生だが、こうして話をしてみると、普通の少女ではないか。
 目を閉じたままで小指を差出し、指切りをしようとするさとりは、何とも優しく柔らかい微笑みを浮かべていた。

「……それじゃあ、指切り。嘘ついたらハリセンボン投げつけるからね!」

「大丈夫よ。貴女がアリス先輩に恋焦がれて、夜も寝られず身悶えしているなんて言わないから」

「ほら言ったー! いきなり言ったー! もー!」

 早速約束を破った同級生――いや、新たな友人候補。仕返しと頭をひっぱたいてやるつもりで、ミスティアは右手を振り下ろした。
 古明地さとりは目を閉じたまま、それをやすやすと避け、後方に一歩下がった。

「……えっ?」

「大丈夫。夢の中で先輩に迫られて、それを受け入れちゃって自己嫌悪した事も。夢の続きを見直そうと、二度寝にチャレンジした事も。
 ラブレターを書いて靴箱に入れようとしたけど、先に入ってたラブレターの封筒が豪華で、見比べて引き下がっちゃった事も――」

 優しく、優しく、(さとり)は毒の液を零す。
 胸の内に扉が有るとしたら、その鍵はミスティア自身が持っている筈だった。だのに今、鍵はさとりの手に奪い取られている。

「ああして顎を持ち上げられた時、少し期待をしちゃったのを自分で思い出して、授業中に変な呻き声を出しちゃったり。休み時間にはアリス先輩の様子を覗き見に行ったらしいわね。霊夢先輩と並んでいると、絵になるから悔しいって思ったのね……分かるかも。暗いわ、黒いわ、でも健全な嫉妬。緑の目にはなれないみたい。
 自分以外の誰かと親しそうなのを見て、寧ろ安心したなんて良い子ねぇ。あっ、でも今貴女、私を怖がってるでしょう」

 ミスティアが後ずさる。さとりが目を閉じたまま、完全に歩調を合わせて追う。
 見られていたのか? いいや、それは無いと思った。見ているだけで推測するにしても、彼女の言は細かにミスティアの心を言い当てていた。

「……さとり。あ、あなた……目、どうしたの?」

 何よりも、閉ざされた瞼の、平坦さが怖かった。

「知りたい? じゃあ――」

 動けない。蛇に睨まれた蛙――いや、小鳥の雛の様に。手足は酷く震えているが、倒れ膝を着く事さえ侭成らない。
 肩を掴まれ、少し前屈みにさせられる。こうして漸く、小柄なさとりと、顔の高さが合った。
 さとりが泣いている――泣いた様に見えた。流れる涙が赤い、泣いてはいない。泣いているのは自分だ。赤く糸を引いて持ちあがる睫毛と凹んだ瞼に覆われたそこには――

「良く見てね、ほうら」

「ひっ――!? きゃ、あああああああぁぁぁああぁあぁっ!?」

 二つの空洞。引き千切られた視神経が、僅かにはみ出す血濡れの眼窩。さとりの両手から屋上に、ころりと眼球が二つ転がった。
 色気も艶も無い悲鳴、断末魔の様だ。それさえ、十数台のトランペットに掻き消される。虚ろな洞から目を離せぬまま、それでも恐怖から逃げようと、震える膝に鞭打つミスティアに――

「おお、美味そうな小鳥ちゃん。可哀想にねぇ、いただきます」

 ――黒谷ヤマメの蜘蛛脚が、背後から毒爪の抱擁を施した。






 森の上空。自分の体が不可視になった奇妙を味わいながら、私達は飛んでいた。

「アーチャー、何処へ向かってるの!?」

 防風の術は施しているが、防音までは想定していない。風切り音もここまでくれば、ライブハウスの轟音もかくやと喚き立てる。私は声を張り上げ、前に座る少女に訊ねた。

「私も知らん、だが霊夢の所だ! あれを追い掛けてるだけなんだからな!」

 返る声も叫んでいる。少なくとも私の声よりは力強いが――まだ、足りない。校庭でアサシンと一戦交えた際の声と比べれば、回復の不足は聞いて取れる。
 霊夢の前では二日と言い、私の前では三日と言った、回復までの時間。それはまだ一日さえ経過していないのだ。
 単純計算で、回復したのはせいぜい二割未満。この状態での戦闘行為を、望ましいとは思えない。

「精度は確かなの!?」

「ああ、あいつらの動きはセンチメートル単位で把握できる! 時速200km前後、速いぞ、何かを追ってるな!」

 もはやアーチャーの技量に関して、何かを疑う事は無くなった。
 だから、高速道路でも有り得ない速度を聞いて耳を疑う。移動しているのはセイバーだけではない、霊夢も共に居る筈だ。霊夢は当然だが人間で、結界術は使えるとしても――

「――まさか、隠蔽術も無しで、生身のまま!?」

「ああ! セイバーが背負って屋根から屋根! 視界の隙間を狙っちゃいるが、何人かには見られてるな! 私らみたいにかくれんぼはしちゃいない!」

 尚更の異常事態だった。
 霊夢は――博麗霊夢は、平穏を望む人物だと思っていた。少なくとも、人の目に付く所で、その様な行動に出る人間では無いと。
 とんでもない! 確かに平穏は望み、平穏を保つ為に彼女は行動するだろうが――

「巫女っていうのは、〝そういうもの〟なの!?」

「いっつも〝そんなもん〟だ! 博麗の巫女の天秤は、絶対に軽重を間違えない――本物ならな!
 自分の欲求なんか何処にも無い、異変の解決の為だけに走る! 障害は全て取り除き、何も省みない、自分さえもだ!」

 異常な存在が街を馳せ、それを誰かが目にする。そんな事態はもしかすれば、目の錯覚と言い逃れられるだろう。
 だが、数十や数百の死は取り消せない。だから、先んじて防ごうとしたのだ。
 例え己の好む〝周囲の平穏〟を磨り潰そうとも、より多く広くの平穏を守る。利は通り、道義に叶う事だが、

「じゃあ――じゃあ、霊夢は」

「やるだろうな、〝博麗の巫女〟はシステムだ! 駄目だと認定すれば、人だろうが妖怪だろうが、一切を斟酌もせず――!
 くそっ! だから見張ってたんだ、〝こうなってたら困る〟から!」

 言い淀んだ言葉の続きを、アーチャーは過たず受け取った。

 彼女は――博麗霊夢は、敵対者を殺すのか。
 そうなるだろうと、理解していた筈だった。今、改めて事実を受け止めて、私は――きっと、青ざめていただろう。
 誰かが誰かを殺す様を、私は未だ、見た事が無い。
 小さな虫を、獣を、実験の為に殺した事は有る。人妖の様に歩き口を利く者が、死に逝く様など見た事が無い。
 彼女はこれから、その光景を作りに行くのだと、そう思ってしまったのだ。
 そしてきっと、彼女は遠からずの行動に移るだろう。
 彼女の行く先に何が待ち受けていたとしても、最優の従者を従えて、きっと――

「で、どうするんだ!」

「え……?」

「お前が、一体、どうしたいのかだ! 霊夢を手伝うのか黙って見てるのか、それとも霊夢を裏切るのか!」

 アーチャーは思考を止めさせてくれない。先送りにしたかった事を、いきなり突き付けて来た。

「は――はあぁ!?」

 だが――だとしても〝これ〟は、私に聞いて良い事だったのだろうか?
 互いに敵対しなければ利が有ると、私と霊夢は同盟関係にある。それを――積極的に維持するか、何もしないか、裏切るかと言うのだ。

「今の時点で、セイバーだけには勝ちが見えない。アサシンには勝てる、鎧の奴は妖夢が倒す、妖夢にも勝てる。 後は分からんのが二体だが、恐らくその内片方はキャスター、私が十分にやり合える相手の筈だ――パチュリーは参加してないしな。
 だから、お前が勝ちたいと思うんなら、アリス。今がチャンスだ、今しかないと思え!」

「何を言ってるのよ!?」

 アーチャーはこの瞬間、霊夢達の身を案じるのではなく、彼女達を出し抜く手を考えている。
 然し私が声を荒げたのは、彼女らしからぬ理論の構築にあった。
 それは決して、彼女の善良性を信じているからではなく――

 アーチャーの推察は、常に理由の元に下される。今の彼女の言葉は、多分に願望を孕んだ、現実味のない物に聞こえたからだ。
 アサシンには勝てる――確かに一度は撃退した。だが、もう一度勝つには、少なくとも回復を待たねばなるまい。
 妖夢――魂魄妖夢、ウォーリア。怪物二体を手玉に取る怪物を、例え相性の良し悪しは有れど、容易く仕留められるとは思えない。
 ましてや、正体不明のサーヴァント二体など、勝てると算段を付ける筈があるだろうか。

 それは、無い。
 短い時間だろうと、彼女と接していれば、違和感に気付く。
 根拠も無い称賛を語って、無謀に飛び込んでいくのが流儀では無い筈だ。幾重もの計算に重ねて、数十の策と罠を用意する。それが彼女の――魔術師の始祖たる者の、戦い方の筈だ。

「……アーチャー、もう一度言うわ! 私に、この戦争に掛ける望みは無い!」

 つまり彼女が問うていたのは、私の意思だ。
 私が勝ちたいと望めば、勝てぬとは言わず、戦うのだろう。
 私が勝ちを譲りたいというのならば、躊躇わず霊夢達に力を貸すのだろう。
 その選択を邪魔しない為の、似合わぬ大言壮語――それがきっと、彼女の言の意味だ。

「そうか、じゃあ決まりだ――セイバーを全力で援護する、良いな!」

 私に叶えるべき望みは無い。私はただ、この戦争を生き延びたいと思った――願ったのではなく――だけだ。
 その為の最善策は、霊夢を支援し、他の五騎のサーヴァントを悉く仕留めて、

「分かった――もう一度だけ、また死んでやるよ」

 嗚呼、そういえば。いつかは結局、その時が来るのだった。

 最後の生き残りが、彼女で無いとするならば――彼女は何時か必ず、今一度の死を迎える。
 それがセイバーの刃によるものか――はたまた、私の命令によるものかは分からない。
 分からないが、ただ。彼女は己を殺す為に、他者に力を貸すと宣言したのだ。

「……! 見えたぞアリス、学校だ! セイバーが飛び込んでいった、テストスレイブも張り付いてる!」

「状況は!?」

「聞くな、出来れば見るな、最っ低だ……!」

 森を抜け、市街地の上空に出る頃。霊夢達はとうに動きを止め、目的地――私立命蓮寺高等学校に飛び込んでいた。
 何が起こっているのかは、二つを以て推測できる。過去にアーチャーが説いた、学校に仕掛けられていた結界の詳細。そして今のアーチャーの声。即ち、この二つだ。
 箒がぐんと加速する。もはや姿勢制御など念頭に置かず、アーチャーはただ速度だけを求める。
 一刻も早く辿り着きたい。一刻も早く戦いたい。惜しむべき魔力を湯水の様に放出し、速度を増し続けるアーチャーを――


 ――――ひょ、おう。


 音は、遅れて聞こえた。
 黒衣に身を隠したサーヴァントが、風も巻き上げずに追い抜いて行った。






 自動車を追い抜いて、家屋を三件跨ぎに飛び越え、セイバーは直走る。その背で風を受けながら、霊夢は思考を凍りつかせていた。
 自分は失策をした。ぬるい考えがミスを生んだ――次はしくじるまいと。それは明らかに、意気込みが強すぎる余り、他の思考に転ずる柔軟性を持たないものであった。
 進行方向からは、もはや探知を行わずとも、サーヴァントの気配を色濃く感じられる。隠れるつもりが無いのか――或いは、見つけて欲しいとでも言うのか。

「これ以上、させないわ……!」

「ええ、させない。でも霊夢、〝どうする〟つもり?」

 セイバーの懸念は戦場にあった。
 そこが学校であろうと、夜間ならば問題は無かった。日は傾き始めているが、今はまだ夕方――当然ながら学生も残っている。
 機密保持は捨ててしまったとして、厄介なのは、殺すべきでない障害物の数だ。
 現時点のセイバーの移動速度は、時速200km――秒速55m。これでもまだ、全速力ではない。戦闘行為の最中ならば、瞬間速度は更に増す。そしてセイバーの重量は、武器防具を含めれば60kg以上。さて、これで正面衝突でもしてしまえば――?
 そうならずとも、刀一振りで工事機械以上の破壊力を生む、圧倒的な力を頼りに戦うのがセイバーだ。針の穴を通すような技量は無い。巻き添えにせぬ自信は持てないのだ。

「どうもしない。どうにかする、手立てがあるの?」

 霊夢は悩まない――悩もうとしなかった。
 何故ならば、もう校庭が見えていたからだ。部活動の時間だろうに誰も居ない――鳥の影さえ見えない、寒々とした校庭が。
 セイバーの目ならば、校庭の雪に残された足跡まで見える。多少の風は吹いているだろうに、足跡は殆ど崩れておらず、この寂しさは長時間続いたものでないと分かる。
 校舎に目を向けてみれば、ベランダも屋上も、居るのは踏み荒らされた雪ばかり。人影は全て屋根の下、壁の内側へ消えてしまったのか、或いは――?

 最後の跳躍に加え、短距離の飛翔。セイバーが屋上に着地した瞬間、霊夢はその背から飛び降り、懐から数枚の札を取り出す。
 何れも、護身用にするならば威力が過剰に過ぎる、攻撃的な術を封じたもの。霊夢はこれを、人妖問わず、生き物に使った事は無い。
 然し、使い方は心得ている。どう発動させ、どの様な結果を生むか、物言わぬ無機物で試し続けた。対象が少し動き、少し言葉を発する物になった所で――

「何も変わらないわ。セイバー、最大の警戒を払って」

「言われなくても!」

 決意を言葉と発するに合わせ、セイバーは屋上の床を――四階の天井を踏み抜いた。
 階段を下りていくのは、敵方も予測している筈だ。虚を突くというよりは、虚を〝突かれない〟為の方策。セイバーは既に、戦闘の為だけに思考を回転させている。
 天井の破片と共に、まずセイバーが。ついで霊夢が飛び降り、すぐに背中合わせになった。

 四階――静かなものだった。天井から吹き込む風と違って、廊下の空気は暖かい。近くの教室で暖房をつけているのか、ごうごうと音が零れていた。
 人の動く気配は無い。床に降り立った際の反響が、数秒先まで残る程に。己の呼吸音が寒々と響き、純粋な生き物がこの階層に、たった一体しかいないと告げている。
 廊下の奥まで、誰も見えない。霊夢はそれを確認し、振り返ろうとして――セイバーが肩越しに、手を伸ばして頭を押さえた。

「振り向く前に。事故現場を見た事がある?」

「目の前で、一度。胴体が真っ二つで赤黒い内臓がゴロゴロ、それより酷い?」

 止めはしないと、セイバーは手を引いた。下がって行く手を追う様に、霊夢は背後を振り返り――

「……何、あれ」

「正直に言うと、分かりかねますわね。いいえ――」

 セイバーが見ていた先には、誰かの骨が落ちていた。
 一つと欠けぬ完全な人体標本。うつ伏せで、右手を伸ばして倒れている。
 骨の周囲には赤黒い水溜り――漂う悪臭は、もはや何が元凶かも分からない程に混ざっている。
 鼻を手で覆って近づく霊夢の、一歩後ろをセイバーが歩き、生臭い水溜りに指を触れさせて――口へ運び、舌で指先を舐る。

「――臓腑と血が混ざっている。素材は良いけど酷い味、コックの首を落としなさい」

「味? まあ、グルメでいらっしゃること……ぅげ」

「少なくとも、人間のじゃあないわ。肉と内臓をミキサーに押し込んで、血と一緒に回せばこうなるかしら。
 ……あの結界の効果は、〝対象の内臓の融解〟だったと記憶しているけど」

 アサシンが張り巡らした結界法具、『瘴気満つ大窯の底(ゲエンナ・フィルドミアズマ)
の効力は、範囲内の対象全て無差別に、内臓等を融解して殺害する。加えて、そうして対象の抵抗を完全に奪い、体内に残る魔力を吸収する。
 一人一人からの吸収量は微量。数をこなして獲得する為に、被害者を完全に殺してしまうのは、決して得策と言えないのだが――
 もはや、損得は彼女達に於いて無価値であろう。セイバーは再び、床を蹴り砕き、下の階へ移動した。

 三階――静かなものだが、こちらにはまだ希望があった。呼吸の音が増えていたからだ。
 それも、弱弱しい代わりに数が多い。だのに、廊下に人が居ないのが、奇妙と言えば奇妙である。教室に押し込まれているだけだと気付くまで、時間は掛からなかった。
 手近な教室の扉を、手ではなく足で蹴り開ける。そういえば、ここは普段使っている教室だったと――気付くのと〝見た〟のはほぼ同時だった。

「ここに居たのね。貴女の同級生?」

「……上級生も、後輩も、教員も」

 人が、積まれていた。
 床一面に倒れた人間の、その上にまた人間が重ねられている。高さは三列、この程度の重量ならば潰れて死ぬ事もあるまいが――凄惨だった。
 最下段に置かれているのは、顔が蒼白いかまたはどす黒く、呼吸は浅いか、或いは殆ど止まり掛けている。
 二段目に重ねられているのは、それよりまだマシな有様だったが、不調ははっきり見て取れる。幾人かの口の周りには嘔吐痕――血交じりの黒ばかり。瞬きや口の動きが有る――放っておいて、死にそうには見えなかった。
 そして、最上段に重ねられているのは。きっとこれは――

「新鮮な、食事かしら」

「……あんたもこんな事してたの?」

「ノーコメント。ただし、死ねば血肉の味は落ちるし、勿論魔力も霧散していく。殺すならば食事の直前、それがセオリーよ――牛馬の肉も同じね。
 下から順に喰う。直ぐに死なせる筈の食材程――乱雑に扱うんでしょう、きっとね。行きましょう」

 これ以上、この部屋に用は無い――セイバーはそう言って、廊下に出ようとした。霊夢はそっと手を翳し、挙動だけでセイバーを止めた。
 言葉を発さぬまま、床に転がる人間を踏みつけ、最上段に積み重ねられた者に近づく。手を取り、喉に触れ、口元に耳を近づけた。

「……見ているものは?」

「野球部男子、呼吸は強い。文化部女子、脈が弱い気がする。投擲競技、息が弱い。長距離走、顔色は悪いけど心音は――」

「つまり、貴女の考えだと」

「体力依存。元気な奴ほど死に難い――他にも色々とあるでしょうけど」

 例外は有るだろう。一番下で、今にも死にそうになっている連中の中に、サッカー部のエースの顔も見えた。
 発動の起点に近いか遠いか――そんな偶然が、生死を分ける、或いは分けたのだろう。これから先、この中のどれ程が生き残るかは分からないが――
 生きているなら、それで良い。廊下へ出ると、〝そいつ〟が居た。

「助けて! 助けて! 殺されちゃうわ!」

「……良くもまあ、忍び寄ってこれたわね」

 きぃきぃと甲高い作り声で、少女が叫んでいる。霊夢は、それが気配も感じさせず近づいてきた事に、内心の恐怖を散らす様に毒づいた。
 この少女の顔――〝顔面の皮膚〟に、霊夢は見覚えが有った。声は声で、別に聞き覚えが有った。

「助けて霊夢先輩、襲われて殺されちゃう! 背後から突き刺されて毒を流されて、お腹の中身をどろどろにされて死んじゃう!
 ああ、どうして助けてくれないの? 最近になって仲良くなった金髪の子に、懐いてる後輩が鬱陶しいから?」

 〝顔からずれて浮いた皮膚〟は、後輩のミスティア・ローレライのものだろう。彼女の最も美しい部位――声だけは、古明地さとりのものにすり替わっている。

「……違いますね、びっくりする程。今の先輩は誰かさんを嫌い過ぎて、他の人はどうでも良くなってます。可哀想とさえ思ってくれないんですか、私を?」

「セイバー、斬って」

 霊夢の命令が全て声に成る前に、セイバーは動いていた。瞬き一つの間に、さとりの居た空間を薙いで、直ぐに霊夢の傍らに戻る。
 だが、その刃がさとりを捉える事は無かった。さとりの体は天井に張り付き――それを、巨大な蜘蛛脚が支えていた。

「……無駄ですよ。巣を這った蜘蛛に、スズメが勝てる筈が無い。だからせんぱぁい、私を憐れんで?
 軽やかに歌う声帯も、淡い恋心を刻んだ心臓も、素晴らしい未来を夢見る脳髄まで、どろどろに溶けて吸い上げられて――最後に私は何を願ったか。
 〝助けて〟〝助けて〟〝アリス先輩〟〝会いたい〟〝助けて〟〝逃げて〟……良い子だったんですよ、私。死ぬ直前に誰かを顧みたのは、今の所は私だけなんです。
 ねえ、聞きたいですか? 他の……そうですね、20人ばかりがどんな事を考えたか。みーんな〝死にたくない〟とか〝怖い〟とかばっかりで、それ以外の事はなーんにも思い浮かばないんです。誰も、誰も、ええ、だれも――!」

 口が動くにつれて、顔に被せた皮膚がずれていく。下から半分だけ除く顔は、血と、良く分からない体液と、涙で濡れていた。

「……それ以上、口を動かすんじゃあ」

「誰も! 喜んで死ぬ奴なんかいない! じゃあなんで、なんでこいしは! こいしだけが! 私の妹だけが!?」

 床をだんと踏みつけて、さとりが叫んだ。顔に纏った皮膚を、引き千切る様に剥ぎ取りながら、空の眼窩を見開いて。

「あんな楽しそうに、嬉しそうに、どうして死んで――ああ、でも大丈夫よこいし。お姉ちゃんも一緒だもの、ほら、見えるでしょう?
 あなたとおんなじで、もう何も見えないの。もう怖くないの、だから大丈夫なのよ……ふふ、ふふふ」

「……最初に私が言った通りでしょう。こいつは狂ってる、殺すしかないって」

 セイバーは今一度、刀を構えた。
 初撃を回避されたのは、アサシンが――黒谷ヤマメが所持する固有スキル、『蜘蛛の巣:A+』による所が大きい。
 限定的な低ランク『陣地作成』スキルを兼ねるこの技能は、黒谷ヤマメが潜伏する地点を彼女の〝巣〟に見立て、彼女の狩りに最適の空間へと変える。
 飽く迄効果が適用されるのは、姿を確認されるまでの一撃のみ。だがその一撃は、虫が空を飛んで蜘蛛の巣に囚われるのと同様に、知覚困難にして致命打に成り得る。
 しかし、それはつまり、初撃さえ防げばそれ以降は与し易いという事でもある。

「おおっと。殺されちゃあ困るねぇ、その子は私のマスターさぁ……っはは、酷いや。動かんでおくれ、この子達が死ぬよ?」

「はぁ……――あっ!?」

 だから、保険を掛けた――人質を取った。
 天井から逆さに顔を出したヤマメは、両手にそれぞれ、霊夢の見知った顔を吊り下げていた。
 右手で首を掴まれて、犬走椛が。左手で頭蓋を掴まれてリグル・ナイトバグが。床に足は届かず、宙吊りにされていた。

「あんた達、どうして……!」

「だって霊夢先輩、他に中の良い子が居ないでしょう? 皆、ほとんどがどうでも良さそうに思ってるのに、少しだけ――本当に少しだけ、その二人には優しい。だから、こうするんです」

 視力を、眼球を失った筈のさとりは、何にぶつかりもせず、天井から吊るされた二人に寄り添う。

「先輩……駄目っ、逃げて、早く……!」

「博麗の、か……こいつらはヤバい、警察を……」

 きっと、そう調節したのだろうが――二人には、明瞭に意識が有った。
 見れば外傷も無い。傷つけず、命に障りの無い様に、さとりはこの二人を捉えさせた。
 セイバーは独断で救出を図ろうと身構えていたが、例え敏捷性で劣るアサシンだろうと、この距離で斬りかかって、人質を盾に出来ぬ事はあるまい。条件を突き出されるまで、そして霊夢の命が有るまで、迂闊には動けなかった。

「狙いは何よ、さとり」

「助けたいんですよね、きっと。私への怒りばっかりじゃなく、そういう感情が混ざり始めてます。しかも……冷静に考えてる、先に言うと当たりですよ。
 そう、私は交渉をしたいんじゃない。ただ、この二人の片方だけは助けてあげようと思ってます、嘘じゃない。だって二人を失ってしまったら、比べて嘆く事はありませんから、先輩への枷になりませんしね。
 ああ、人質役の二人には伝わりにくいでしょう。言葉にしてさしあげますか?」

「……ふざけんじゃないわ!」

 怒声。霊夢は懐から、数枚の札を取り出す。
 小規模の炸裂を引き起こす、下級妖怪退治の為の札。頭蓋にでも貼り付ければ、人間一人の命を奪うなど、造作も無い危険物だ。
 だが、使えなかった。さとりの言葉は正しい――救えるという希望を見せられると、それに簡単には逆らえなくなるのだ。
 希望を餌に霊夢を引き寄せ、さとりは暗く微笑んだ。

「アサシン。霊夢先輩が指名した一人だけを、無傷で解放しなさい。もう一人はどうでもいい、食事にしても良いし、盾に使っても良いわ。
 先輩、聞いての通りです。私は一人だけ、貴女に助けさせてあげたい。良いでしょう?」

「あーぁ、私のマスターは酷いこった。早く選ぶんだね、あんた。わたしゃ命令が無くっちゃ、この結界を止める事は無い。
 悩んでる間に他が誰もかれもくたばって、全滅さようならじゃ笑えやしないさぁ……どうするね?」

 人質が有効だと、さとりは他の誰よりも深く理解していた――心の内が見えるのだから。
 現在進行形で霊夢が悩み、決断を下せずにいるのを、キャンパスの上の絵の様に眺めている。
 殺してしまえば、人質など無意味だと知りながら――片方は死んでしまっても良いと、これも本気で考えていた。

「くっ……どうするの、マスター」

「……あんたなら、あの二人を同時にぶんどったりは」

「出来ない、きっと」

「そう」

 霊夢は心を冷たく凍らせる。
 短い問いと、短い相槌。吊るされた二人の顔を、交互に見やった。

「あんた達。助かったらまず、どうするの?」

「は、え……? まず、助かったら……あ、そんな事、分からないです……」

 リグルは怯えている――無理も無い。捕食者に頭を掴まれて、怯えるなと誰が言えるだろうか。

「ふーん、そう。あんたはどうよ」

 それを、たった一言で、霊夢は斬り捨てる。斬った舌刀を返して、椛に切っ先を向けると、

「……悪いが、逃げる。逃げるぞ、私は」

 椛にも同じく、怯えは見えた。スカートの端から除く尾を丸めているのが、分かりやすい証拠だ。
 だが――こちらは、どうしたいかを答えた。
 〝どうしようも分からず立ち尽くす〟のではなく、〝戦いの邪魔にならぬ様に立ち去る〟と分かった時、

「そう。じゃあ、椛を放してもらえるかしら」

「……っ、先輩、なんで……!?」

 リグルが、喉に閊えた様な声を出した。椛は何も言わなかったが――安堵は目に見えて浮かんだ。
 霊夢の意思表示に合わせ、古明地さとりは幾度も幾度も頷いて、そしてアサシンは苦々しげな顔で――

「そら、よっ……ぉ」

 椛を廊下の上に投げ捨て、そしてリグルを自分の体の正面に、盾として翳した。

 二つ、アサシンに――黒谷ヤマメに誤算が有ったとしたら。
 一つには、セイバーの霊夢に対する理解度を見誤った事。
 そしてもう一つに――己の善良性をも、軽視していた事があげられるだろう。

 主が、不要と断じた。たったそれだけを根拠に、セイバーは躊躇なく、アサシンに斬りかかっていた。
 盾として掲げられた少女を、もはや意にも介さず。刀を濡らす血の種別が、一つ増える事に、何の感情も抱かぬ様でさえあった。
 廊下に小さな擂鉢状の穴が空く。一歩の踏込みに力を籠め、体を矢の様に飛ばしたセイバーを、アサシンは正面から迎えて――

「――ちぃっ!!」

 咄嗟に取った行動だから、きっとアサシン自身も、その意図を理解出来ていないのだろう。
 彼女は己の蜘蛛脚四つを交差させながら、セイバーに背を向けた。
 体の正面に抱えていたリグルを、セイバーの斬撃から〝庇ってしまった〟のだ。
 そうなれば――恐らくはこの聖杯戦争で、最大の威力の斬撃が、防御の上からだろうが、背を襲う。
 刃物が産むとは思えない、鈍く沈む激突音。剣風と衝撃が、内側から窓ガラスを軋ませ、幾つかを砕け散らせた。
 その場に留まろうというアサシンの意思は、台風の中の傘も同じ。僅かばかりの忖度もされず、打ち砕かれ、廊下を跳ねた。

「……あっさりと決めましたね。未練がましく思ってた癖に、結局は簡単に、いらないって切り捨てたんですねぇ……?」

「邪魔にならない方を選んだのよ。あんたを……」

 今度こそ、霊夢は戦える。手にした札に霊力が満ちた。

「あんたを殺しやすいようにね――『破砕退魔陣・単(なんじあらがうことなかれ)』!!」

 霊夢の手から放たれたのは、数枚の札の内、一枚だけ。さとりは避けきれず、腕を掲げて防いだ。
 札が腕に張り付き――爆ぜる。範囲は狭いが、然しその威力は高く――肉ばかりか骨までが、破片を飛散させた。

「あっ……? あっ、あぅ、あ――ああああぁっぁぁぁうあぁっ!?」

 痛みは遅れて届いたのか、痛みをそうだと認識できなかったのか――さとりが悲鳴を上げるまで、僅かな間が有った。
 その隙に霊夢は、さとりの足元に二枚の札を投擲。何れもが床に張り付いて、そしてきしきしと異音を立て始めた。

「二に二を重ねて四方の緊、四に転じて三界の縛! 『妖縛陣・二重(ふたえ)』――留まれっ!」

 不可視の蛇が絡み付く。脚を止め、腕を縛り、舌を絡め取って自由を奪う。
 本来ならば抵抗は容易い筈の、〝多重拘束〟の巫術。だが、理性と片腕を失った相手ならば、真っ当な抵抗を望むべくもあるまい。

「んん、んーっ……!」

「セイバー、近寄らせるな。あんたが仕留めなくても良い、止めておきなさい」

 もう一枚、最初に投擲したものと良く似た札を取り出し、手に握り込む。霊力を再度充填して、確実に敵を殺せるように、細心の注意を払う。
 動きは止めた、後は近づいてもう一つだけ、首にでも〝退魔陣〟を重ねれば良い。妨害する敵は、セイバーが押し留めて居る。
 近接戦闘ならば、アサシンがセイバーに叶う筈は無い。成程、良く持ちこたえていたが――霊夢の元へは、到底たどり着けもしないだろう。

「……異変は解決する。老若男女を一切問わず、人も妖も区別無く――博麗の巫女は人の侭、全ての異変を解決する!」

 誰に言ったものだろうか。きっと、自分に言い聞かせたのだ。
 最後の札が発動し、古明地さとりを絶命させる筈の、僅か手前に――


 ――――ひょ、おう。


 風の音は、後から聞こえた。


「霊夢……! 何が有ったの、教えて頂戴!」

 霊夢が音源に振り返った時には、全てが急変していた。
 アサシンを追い詰めていた筈のセイバーが、今は居ない。何が起こったのか、アサシンさえが理解出来ずに居るのか、呆けた表情は英霊らしさの欠片も無い。
 僅かに窓枠に残っていたガラスさえ、今は粉々に砕けて散っている。廊下は夕日がガラス片に反射し、朱に染まって鮮やかだった。

「いいや、聞かなくても分かる。あれが全て悪いっていうのはな……! やるぞアリス、腹を括れ!」

 霊夢の傍らに、アリス・マーガトロイドが。
 二人とアサシンの間に、アーチャー――霧雨魔理沙が立っている。
 そしてセイバーの気配は、霊夢が意識を他に裂いた数秒の内に、数kmも遠ざかっていた。










【ステータス情報が更新されました】

【クラス】アサシン
【真名】黒谷ヤマメ
【マスター】古明地さとり
【属性】混沌・善
【身長】154cm
【体重】38kg

【パラメータ】
 筋力B  耐久D  敏捷D
 魔力B  幸運C  宝具C++

【クラス別能力】
 気配遮断:A+
 サーヴァントとしての気配を遮断する。完全に気配を絶てば発見することは不可能になる。
 ただし、自ら攻撃を仕掛けると気配遮断のランクが低下する。

【保有スキル】
 怪力:B
 一時的に筋力を増幅させる、魔物・魔獣が保有する能力。使用中は筋力をワンランク上昇させる。
 英霊としての格は低いアサシンだが、反面怪物・反英霊としての適性は高い。

 変化:C
 自分の姿を変化させる。ただし、姿形が変わろうとその能力は変化しない。
 老人に変化しようが幼子に変化しようが、アサシンの筋力や耐久が低下する事はない。
 あまりにかけ離れた存在への変化は不可能。

 蜘蛛の巣:A+
 潜伏期間に比例して攻撃の命中率が上昇する。低ランクの陣地作成を兼ねる特殊スキル。

【宝具】
『瘴気満つ大窯の底(ゲエンナ・フィルドミアズマ)』:ランクC++ 対軍宝具
 黒谷ヤマメの蜘蛛としての霊性が、病気を操る程度の能力と合わさったもの。
 大規模な結界術にも似た宝具であり。8つの魔法陣で取り囲んだ空間が効果範囲となる。
 結界は発動前でも周辺の生物から魔力を吸い上げ、自動的に術式を維持。
 一度発動すれば、結界内の生物の臓腑を溶かし、死に至らしめる呪いを撒き散らす。
 この呪いで殺害された者は、魔力と魂が散逸する事がなく、死体に暫くの間留められる。
 液状になった臓腑を啜る事で、黒谷ヤマメは最高の効率で、魔力と魂を喰らう事が出来るのだ。
 また、魔法陣は簡易の警報装置の様な役目も果たし、周囲で魔力の変動が起こるか、陣が破壊された場合、
 即座に術者である黒谷ヤマメがそれを知る事が出来る。
 この呪いへの対抗手段は強い魔力を持つ事であり、基本的にサーヴァントに有効な宝具ではない。
 寧ろこの宝具を用いて自らを強化する事こそが、英霊の中では弱い部類に入る黒谷ヤマメの基本戦術である。


『服わぬ八握脛(アレネ・ドゥ・シャトー・ディフ)』:ランクC 対人宝具
 あまりに雑多な特性を併せ持つ黒谷ヤマメの、〝病〟と〝土蜘蛛〟の要素が具現化したもの。
 両腕両足とは別に、背から合計四本、巨大な爪を備えた蜘蛛脚を出現させる。
 黒谷ヤマメは、この爪に触れた『非生物かつ固体』を、無条件で通過する事が可能になる。
 これは、その物体の所有権に左右されない効果であり、つまり他者の所有する武器であろうが、或いは鎧であろうが貫通する。
 爪で刃を受け止めることさえ出来れば、黒谷ヤマメは武器による攻撃を全て〝擦り抜けて〟回避するのだ。

 また、魔術的な結界が施されていない空間に対しては、あらゆる壁を無為に帰して侵入を可能とする。
 病が忍び寄るが如く敵マスターの枕元に現れ首を狩る――暗殺者の名に相応しい宝具である。