烏が鳴くから
帰りましょ

明けの熊鷹のお話

 九月九日、早朝。曇り空だが、雨の降る様子は無い。風が涼しく、外を歩くには良い気候であった。

「然しなぁ、どこまで足を伸ばしたものやら。毎日出歩いても飽きが来るが、然し京で引きこもるのも勿体無い。どうする? 寺を巡るか野山を歩くか、或いは無意味に街を歩くか」

「本当に無計画だよね、あなた。せめて事前にさ、見ておきたい所くらい決めとけばいいのに」

 ひゅう、ひゅう、と風斬音。皇国首都ホテル中庭で、桜は、日課の素振りを行っていた。
 刀を振り下ろし、適切な位置で止め、また振りあげる。これが正しい素振りのやり方だろうが、桜の場合、完全に自己流だ。背まで切っ先を回した黒太刀を、地面を斬るギリギリまで振り下ろし、また背にまで引き戻す。往復距離は、正しいやり方の倍以上。そして太刀自体の重量も、並みの刀の数倍以上。然し、桜にとって、たかが太刀の重さなど如何程の物でも無いようで、一呼吸に二度の割合を崩さず、澄んだ空気を切り裂いていた。
 小さなあくびを噛み殺し、村雨はその様子を眺めていた。日の出から始めてそろそろ四半刻。太刀を振り下ろした回数は、千を超えた辺りで数えるのが面倒になった。後は見るとも無し、ただ視界に入れていただけだ。

「……はぁ、気楽そうな奴」

 村雨は、思わず溜息を付いた。京の街を訪れてから、既に厄介事に二度巻き込まれた。どうにもこの旅、ただ楽しむだけでは終わりそうにない。だと言うのに、桜はまるで、深刻さなど感じさせず、日々の娯楽を堪能しているのだ。

「別に、気負う事も無いではないか」

「ん……そーお?」

 運動量に満足が行ったのか、桜は素振りを止め、黒太刀を鞘に納めた。

「観光然り、戦いも然り、なる様になるし、好きにもなせる。ああだこうだと思い悩むより、まず動いてみれば良かろう。意外にな、ぶっつけで世の中どうにでもなるぞ?」

 もう体に眠気は残っていない様で、桜の足取りは確たるもの。肩を上下左右何れにも揺らさず、村雨の元へと歩み寄る。

「……そりゃ、あなたはそうだろうけどさー。普通の人には準備ってものが必要なの、お金とか地図とか荷物とか。街に出るなら買ったものを宿へ運ぶ手段、外を歩くなら日避けの被りもの、夜を待つなら提灯とかね。人の苦労も考えなさい――何するかこの」

 桜の鼻に指を突きつけ、村雨は小うるさい姑の様な口ぶりで言った。桜は笑って、その指をぱくりと咥えようとする。あっさりと逃げられ、脛に村雨の蹴りが入った。

「おお、痛い痛い」

「平気そうなくせにー……大体ね、あなたの場合は、どうにかなってるんじゃないの。無理やりにどうにかしてるの。で、それでどうにかならなかった部分を、私があちこち走り回って埋めてるの。分かって、頼むから分かって」

「結果的にはどうにかなっているという事だな、うむ」

「ちーがーうー」

 別に、会話が食い違っている訳ではないのだ。桜は、十分に村雨の主張を理解した上で、あえて答えを外して戯れているだけである。村雨自身、それを薄々感づいている様で、また脛への爪先蹴りを放った。靴が骨にぶつかって、ごつんと鈍い音を出した。
 中庭に第三者が駆けこんできたのは、丁度その時である。自分がいるという事を隠しもしない、ぱたぱたと喧しい足音で現れたのは、堀川卿の部屋に居た案内役の子供であった。

「お取り込み中、お邪魔します。手紙と伝言を預かってきました」

「どうした、早朝から。急ぎか?」

 桜が前に進み出たが、子供はその横をするりと擦りぬける。小さな紙を二つ折りにしただけの簡素な手紙を、一歩だけ後ろで控える村雨に差し出した。

「私に手紙……って事は、また?」

「はい、召集の令状です。内容に関しては口答で」

 半ば無視される様な形になった桜が不満げな表情を見せる横で、村雨は手紙を開き、そして直ぐに閉じた。本当に何の変哲も無く、ただ召集発令の旨を記しただけの手紙であったからだ。また、これが堀川卿の直筆だという事は、経た人の臭い――子供の臭いと、その下に薄く広がる香水の臭い――から、十分に窺えた。

「聞かせて、直ぐに準備をするから」

「うちの構成員が五人、殺害されました」

 あまりにも簡単に、数字が告げられた。桜はすうと目を細めて、心なしか重心を低くした様に見える。村雨は表情を強張らせ、一歩だけ後ろに下がった。

「発見は今朝。殺されたのは、恐らく三日くらい前――痛み方から判断したそうです。手紙が添えてあったらしく、それを見て直ぐ、堀川卿は村雨さんを呼ぶ事に決めました。心当たりは?」

「無い……とも、言い切れないのかな。すぐ行くよ、同じ建物だし」

「だな、荷物の用意は必要ない」

 いざとなれば、あれこれと思い悩む事は無い。優柔不断の性質とは無縁の二人であった。








「向こうも手が早いなぁ。耳も目も良く利くこっちゃ、おまけに見境は無いと来とる……あかんなぁ」

 堀川卿は相変わらず、平均四丈の金髪を掛け布団代わりにうつ伏せていた。が、目の下の隈は、以前村雨が見た時よりも一層濃くなっていた。
 桜と村雨が部屋に案内されて来ても、暫くは半分程眠っている様子で、二人にまるで気付いていなかった。目を覚ましてからも、体を起こしはせず、声にも力がこもっていない。

「……大丈夫なんですか?」

「ぜーんぜん。眠くて眠くてかなわへんよ……けど、もうちょい起きとらんとあかんのやね。話は伝えさせたやろ?」

 病人の様な顔の堀川卿を心配する村雨だが、その話題は長く続かない。堀川卿は事務的に、率直に用件に切り込んだ。村雨は一度だけ強く頷いて答える。

「今回やられたのは五人。共通点は無し、やらせてた仕事にも関係無し。ある者は地元商家の手伝い、ある者は荷運びの手伝い、ある者は寺社仏閣のちょっとした調査……つまり、ほぼ無差別っちゅうこっちゃね。運悪く夜に出歩いていた『錆釘』の構成員――殺された理由はそんな所やろな。
 それでな、据えてあった手紙やけど……ん、その前に、一つだけ確認しとくわ」

 堀川卿の髪が纏めて床を這い、背中側で一束になった。顔を隠す物は、今は何も無い。意識的に冷たく有ろうと心掛ける、指揮官の目が、そこにあった。

「前の件は、死人を増やさん為に、二人だけ切り捨てるのも止む無しっちゅう計画やった。結果的に、だーれも死なずに済んだ。本当に良い事や。
 けど、今回はもう五人も死んどる、これは明らかな意趣返しや。このままの状況が続くんやったら、向こうのやり口も、もうちょい過激になってくるやも知れへん。無道には腹も立つが、うちの好き嫌いで身内を殺される訳にはいかん――」

「まった、前提を端折り過ぎているぞ。一度落ち付け」

「――ぁあ、っと、そうやね。そうやった、これじゃなんにも分からへんわ」

 眠気が判断力を奪っているのだろうか。堀川卿の言葉は、説明が明らかに不足している。桜が指摘して漸く、本人もそれに気付いた様で、両目を擦って首を振った。
 構成員が殺害された、その事実は分かる。だが、それで何故、堀川卿がこれまでと反対の対応策を取ろうとしているのか、それが桜と村雨には知らされていない。末端の構成員二名を、いざとなれば躊躇なく切り捨てる計画を立てていた、冷徹な彼女らしさが見えていないのだ。
 更には、何故、ここに村雨を呼び付けたのか。何故、今回の殺人を『意趣返し』と判断したのか。開示されていない情報は、死体に添えられた『手紙』による物なのだが、それを読ませる前に、読んだ前提で語るから、意図が通じぬ言葉となるのだ。

「ふー……はい、これ。二人あてに五通、おんなじ中身で届いとる。半分くらいは汚れて読めへんやろうけど……合わせてみれば、分かるやろ?」

 赤ではなく、黒と茶。乾いた血液か、もしくはそれ以外の体液で汚れた手紙が五通。内容は全く同じものらしく、それぞれを照らし合わせれば、複雑怪奇な文章が――いや、文字の羅列が浮かび上がる。

「……読めん」

「うちの暗号だもん、そりゃ読めないよ。ええと、これは……」

 『錆釘』の中だけで通じる筈の暗号で書かれた文章。つまりは、内通者の存在をも示す物。事態が悪転していく気配を肌に感じつつ、村雨は暗号を解読していく。

「……『烏と狼の番いに面会を所望、十日にあの小屋の前で待つ』……? これって、まさか――」

「そう、あんた達をご指名っちゅう事や。桜さん、今回も巻き込んでしもうて、すいませんなぁ」

 狼、と解読出来た瞬間に、村雨の腹の底で、感情が何やらぐつぐつと煮えた。あの小屋、と読み取った時点で、この手紙は確実に、自分達を呼んでいる物だろうと察した。
 村雨を〝違う〟生き物だと知った――明確にでも、匂わせる程度でも――相手は、本当に数える程度しかいない。その中で、『錆釘』と敵対する可能性のある者はたった一人。先日の兵士達の統領、村雨自身は名を知らぬが、青峰儀兵衛だけだ。あの男から報告が登り、その結果、誘い出す為に五人が犠牲になったと言うのなら――

「――また会ったら、もう一回だけ殴っとこう」

「良い案だ、今は役に立たんがな。村雨、外出の用意を整えてこい」

 やや青白く褪めた顔で拳を握る村雨に、桜は手短に命令を出し、背中をぐいと押した。

「え?」

「良いから、行け。指定の日時は明日だ。今日は一日、気を休めるのに使う。財布を忘れるなよ、金が無ければなんにもならん。ほれほれ、早く」

 普段と然程変わらぬ調子で、桜は村雨の背を押し、部屋の外まで運んでしまう。押されている村雨は、あまりにいきなりの事で反論を忘れ、あっけなく部屋から押し出された。

「ちょっとー! こんな時に外出なんてー――」

 閉ざされた扉の向こうで、憤懣やるかたない声を出している村雨を放置し、桜は細い溜息をついた。

「……で、死体は?」

「見ます? 正直、見て楽しいものではありまへんえ?」

「構わん。病死ならいざ知らず、殺されたのだろう? ならば、な」

 堀川卿は立ち上がる代わりに、頭髪の一部で手の様な形を作り、部屋の奥を指差した。

「扉に鍵は掛けてません。好きに見て、好きに戻って来てくれればええどす」

「すまんな、壊しはせんよ」








 それから、一刻どころか半刻、いや四半刻も経たぬ頃合いの事。

「おい、そこの裾が長いのも一つ持ってこい。色は……そうだな、そっちの藍色で頼む」

「畏まりました。いやいや全く、店員冥利に尽きるお客様ですです、はい」

「……何がどうしてこうなった」

 三条大橋より西、煉瓦の建物が並ぶ街並みの、とある洋服店。桜の右手側には、大量の衣服が畳まれて積み重なっていた。
 長身の桜に合う丈の物は、その中に一着も無い。全て、骨格も華奢な少女向けの――つまりは、村雨の体に併せて選んだものである。

「あー、そうだな、あとはそっちの柄を散らしたのも欲しい。古着の布か?」

「はい、上等の振袖をほぐして、日の本の柄だけを西洋の意匠に――」

「ちょっと待たんかーい!」

 積み上がった衣服の数が三十を超え、試着回数も十に届きそうになった段階で、とうとう村雨の堪忍袋は、緒が切れるどころか破裂した。

「あなた、旅費も滞在費も全部使い尽くすつもり!? 江戸にも帰れないじゃないの! あと荷物増えすぎる運べない少しは頭を使おうってつもりはないのかこの馬鹿ぁー!」

 息を継がず、である。怒りのあまりに時折は噛みそうになりつつも、ただの一息で村雨は、己が主の愚かさを糾弾し尽くした。

「えー?」

「えー、じゃない! 一日一着だって多すぎるでしょうが! 大体ねぇ、私はこういう無駄にひらひらした服は嫌いなの!」

 積み重なった衣服の中から、白と桃色で構成された華やかな一着を手に取る村雨。和装の様に上下が一つの布で作られているが、閉じる部分は胸側ではなく背中側。従者などの手を借りなければ、正しく身に付けられない舞踏会の為の着物だ。跳ねたり馳せたりを常とする彼女には、全く無用の長物であった。

「むぅ、似合うと思ったのだがなぁ。まま、食わず嫌いをせず一先ず身につけるだけでも……」

「却下! 店員さん、全部片付けちゃってくれて構わないよ」

「なっ、待て待て、せめてこれとこれとあれとそれだけでも……」

「一着にしなさい!」

 駄々をこねる子供を叱る、母親の如き言葉である。が、結局のところ、店を出た桜の手には、四着の洋服が収まった袋が有ったのだった。

「さー、次は装飾品でも探すぞー!」

「えーかげんにせー!」

 まだ、日は中天に達していない。これから半日、こうして叱り続けるのかと思えば、村雨も気が気ではなく――暫くは、桜の衣服に染みついた腐臭、死体の臭いも忘れてしまう。
 街行く者は、黒衣の女を叱り飛ばす西洋人の少女を、怪訝な目であったり、見世物を見る目であったり、何やら子犬子猫の仕草を見る目で見たりしながら通り過ぎていった。








 衝動買いの後は、大橋を渡って東、古き良き街並みへ。江戸でも見かける様な茶店の軒先で、桜は団子に喰らい付いていた。尚、買った荷物は左手にある。
 衣服四着の購入後、増えた荷物は――簪が二つ、扇子、指輪、髪を結ぶ飾り紐。髪飾りに関しては、桜はやたら拘るので、金額は恐ろしい事になっていた。道中、あまり褒められない手段で稼いできたと言えど、これは懐に大きな痛手である。

「……うがー……あんたはどうしてこう考え無しに……」

「だってなぁ、予想以上の掘り出し物だったのだぞ? 見ろこの銀色、しかも黒ずみが無い。ただの銀では無さそうだ――」

「ただの銀だったら良かったんだけどねー、安くて。取り立て、どうやって誤魔化すのよー……」

 代金は後払い。請求は全て、翌日日中に届くようにと手を回しているらしい。その時になって金が無いとなれば、さてどうなるか?
 力任せの取り立て、という可能性は、この際考慮せずとも良い。どだい無理な話だ。精々が商品を返却させられて、その上で破損や汚れにかこつけ、幾らかの金銭を要求される程度だろう。こちらに正当性が無い以上、払わなければ罪人だ。真っ当に生きたい村雨には、頭の痛くなる様な話であった。
 頭痛の元凶は大喜びで、黒髪に簪を通している。鉄の様だがもう少し固く、作られて長い様子だが錆も無い、不思議な材質だ。然しながら桜の冷たい顔立ちには、花をあしらった飾りでは少々可愛らし過ぎる。本人も自覚が有るのか、店の奥にあった鏡を覗きこんで、何とも言えぬ複雑な表情を作った。

「おい、村雨」

「……何よ――って、本当に何よ」

 むすくれた顔でそっぽを向いていた村雨は、名前を呼ばれて桜の方へと向き直る。あまり長くない前髪に、花飾りの簪が通された。

「うむ、やはりこの方が良いな……ああこら外すな外すな、勿体無い」

 無言で簪を引き抜こうとした村雨だが、その手を桜がぴたりと止めた。

「お前なぁ、着飾るのが嫌いという訳ではないのだろう? ならば楽しまんか。私の目を楽しませるのも仕事だと思え」

「……そーいう気持ちになれないの。分からない?」

 金銭の心配を抱えている時に、華々しい服装を楽しんではいられないだろう。そればかりではない、本当に深刻な問題は何も解決していない。簪を付けたまま、村雨は俯き、溜息をついた。
 『錆釘』構成員を狙った無差別の殺害と、死体に添えられた手紙の日時指定。相手の考えは読めないが、呼ばれたからには――これ以上の犠牲を減らす目的でも――応じる必要が有るだろう。そして、出向いた先で待っている誰かが、穏健派である可能性は非常に低いのだ。

「……なあ、村雨。ここの団子は口に合わんか?」

「はい? いや、そんな事も無いけど……」

 突然、桜が見当違いな事を言いだした。言われて村雨も気付いたが、折角出てきた団子を、まだ一本しか食べていない。尚、一人頭四本の割り当てである。

「なら良いのだが……うーむ、そうだな……よし、次は西側へ行くか。確か氷室を使って、氷菓子など出している店が有った筈だぞ。おうい、勘定!」

「えぇ、え、気が早いな、ちょっと」

 別に大好物という事も無いが、そこまで嫌いな味でも無い。ゆっくりと団子に手を付け始めた所で、桜は早々に勘定を済ませ、店を立つ用意を整えてしまった。そう急ぐ理由が何処にあると言うのか。村雨は、もう歩きだそうとしている桜を、呆れ顔で見つめた。








 市中を西へ西へ歩いていく途中、桜は突然、首をほぼ真横へ向けた状態で立ち止まった。

「おい、あれ、あれ」

「ん? ……馬車がどうしたのよ」

 指し示す方角を村雨が見れば、そこには三頭立ての馬車。京の都を周遊する、観光用の乗り物である。大きく回って所要時間は四刻程――途中途中、食事やら何やらで休憩を挟む――金持ちの娯楽である。

「丁度空いている様だ、乗るぞ」

「……駄目! これ以上の散財は駄目! 流石に宿が無くなる!」

 元々白い肌を更に青ざめさせ、村雨は全体重を以て桜を引き留めようとした。村雨程度の体重では、桜の歩みには全く影響しない。結局のところはずるずると引きずられて、

「おい、御者。二人なら幾らだ?」

「はい、六両の所を五両に負けさせていただきます。昼食、夕食の料金は込みで」

 人、これをぼったくりと言う。御者の拘束時間などを考えても、明らかにこの金額は暴利である。村雨は、首をでんでん太鼓の様に振って、却下の意を示した。

「良し、頼もうか。ゆっくり回れ、急ぎの用が有るでもない」

「あ、こら! 人の話を聞いてよ、聞いてってばー……!」

 そんな村雨をひょいと抱え上げ、桜は馬車へ乗りこんでしまう。そろそろ村雨も、怒り続けるのに疲れた様で、叫んではいても語気が弱くなってきていた。
 馬車に乗り、内側から扉を閉め、腰を落ち着けて御者に一声。三頭の馬が嘶いて、車輪がゆるりと回り出す。軋みも無く、揺れも小さい。技巧を凝らした、上等の馬車であるらしい。
 馬三頭に引かせるだけあって、馬車自体も中々に大きい。柔らかい二つの長椅子が、床に固定された机を中心に向かい合う作りだ。足元には絨毯が敷かれていて、客人の退屈を紛らわす為か、書物も幾つか置いてある。仏教の経典まで混ざっている辺り、中々の教養人が選定したものであろう。
 そんな快適な空間にあって、村雨の不満は、とうとう頂点に達した。

「ちょっと、桜! 普段からそうだけど、今日は酷過ぎるよ!? 場合が場合だっていうのに、呑気にお金をばらまく様な事をして……何考えてるのさ!」

 長椅子に浅く腰かけ、机に両手を付いて身を乗り出し、反対側に腰掛ける桜を睨みつける。今回ばかりは、納得行かねば一歩も引き下がらぬと、そんな決意が表情に浮かんでいる。いつもの様に受け流すなど、決して許しはしない。そういう気概が籠った詰問であった。

「……駄目、か?」

 きっと普段の様に無表情で、僅かに口角だけ上げて、答えを返すのだろう。村雨の予測を大きく外し、桜は、小さく一言だけ訊ねた。中指で右の瞼を引っ掻く――間が居た堪れなかったり、言葉を探したり、そういう時の癖を見せながら、であった。

「っ……むしろ、良いと思える方がおかしいんじゃないの?」

 気勢を削がれた村雨は、背もたれに体重を預け、両腕を組んでふんぞり返る。この場では自分が上なのだと主張しているかの様だ。対象的に桜は、膝に肘を乗せ、上体を沈める様な体勢で縮こまっていた。

「だってなぁ……お前、服を選んでも仏頂面だし、髪飾りも気に入らん様だし、団子も口に合わん様だし……」

「そーいう問題じゃ無かったんだけどさぁ……――あ」

 村雨は嘆息する。そも、村雨が買い物を楽しまなかったのは、着飾る事への執着の薄さもあるが、それよりも大きく心を占める問題が有るからだ。それを理解出来ていない筈も有るまいに――そこまで不満を覚えた所で、村雨も一つ、気付いた事がある。
 衣服を選ぶ間も、店から店へ移動する間も、桜は何時も以上に、村雨の表情を観察していた。何か一つ行動を起こし、それで結果が思わしくなければ、直ぐに別な行動を。せわしなく動き回っていたのはもしかすれば――

「桜……あのね、私は言われなきゃ分からない人なの。考えが有るなら、ちゃんと言葉にする。はい」

「……お前、気を張り詰め通しだっただろう。連絡を受けてからずっと、堀川卿の部屋でも市中でも、屋外屋内問わず。いかんぞあれは、あれでは身が持たん」

 大方、村雨の推察は当たっていた。今日何度目かの溜息を尽き、目を閉じ、額に手を当てる。呆れ果てているのは同じだが、そこから陰性の感情が薄れてきた事に、村雨自身が気付いていた。

「はぁ……私、そこまで繊細じゃないよ。少なくとも、自分のせいで誰か死んだだとか、そんな見当違いの事は考えない。殺された五人は可哀想だけど、面識が有る訳でも無いしね」

「いいや、お前なら、幾らかは気に病む。理屈でそう言い聞かせようが、何処かで気に掛けて――それで、妙に仕事に力を入れる。お前はそういう性格だろう、村雨。そういう気負いはな、寧ろお前が危なくなるのだぞ?」

 気負うな、なる様になる。確かに今朝、桜が村雨に対して言った言葉だ。そして、桜の村雨評は、確かに当たっている部分が多いのだ。
 自分が誰かを救った結果、『錆釘』が逆恨みされ、同僚が殺された。そこに、自分の非を見つける事は難しいだろう。殺人者に全ての非難を浴びせ、解決策を探るのが、精神衛生上最も楽なやり方だ。だが――どうにもならぬ事を、くよくよ思い悩むのが人間である。
 もしかしたら、自分がもっと上手くやっていれば、彼らは死なずに済んだのではないか。無益な思考だと理屈で分かっているが、そんな事を、村雨は考えてしまう。無益だと分かっているからこそ、せめて次はやらせるまいと、迫る刻限に備えて気を張り続ける。

「考えるなとは言わんが、暫くは切り替えろ。向こうが刻限を定めたのだ、それまでは気を休めて良いではないか。お前の顔が曇っていると、私まで気が重くなってならんのだ」

 途中まで気を使う様な言葉を選びながら、結局最後には、主語が『私』になる。本当に桜は何時も通りだと、村雨は溜息交じりに笑った。
 どうやらこの女剣士は、本心から自分を心配し、気分転換をさせようと尽力していたらしい。その方法が、著しくずれたものであるとも気付かずに。女遊びには慣れた様子を見せる癖に、全く変な部分が鈍い事である。村雨はそれが――呆れるやら、おかしいやらで、珍妙な表情を作らずには居られなかった。

「……で? 結局、どの服に決めたの? やたらヒラヒラしたのばっかり選んでたけど、普通に着れそうなのって無い?」

「ん? おお、そうだな……これなどどうだ。西の大帝国でも、特に貴族連中の気に入りだと言うぞ」

 まず桜が取り出したのは、脚にぴたりと張り付くデザインの半ズボンに、首をくるりと襟が囲む、ボタン留めの前開きシャツ。踵の赤いハイヒールに、ジュストコールと呼ばれる腰部分が細くなった上着。西洋貴族の好みの衣装から、幾つかを引き抜いて簡略化した一式である。

「……え、動きづらそう」

「いやいや、脚は動かせるだろう。この上着もな、意外に軽くて肩の部分が柔らかく――」

「いや、踵がね? あとさ、それ、男物だよね」

「似合うと思ったのだが――ああ、いやいや、次だ次」

 不評である。踵が細く高い靴は、少し走ると簡単に圧し折れてしまう為、村雨は全く気に入らないらしい。が、それ以上に膨れ面をさせた要因は、上着のデザインがどう見ても――例えば肩のラインや、装飾の細かな意匠や――男性が身につけるものにしか思えなかったからだ。
 実際の所、『どうせ中性的な服装なんだしいっそ男装でもさせたら楽しいだろうな』という考えが、桜に無かったとは言えない。寧ろ、かなり大きかったと断定しても良いだろう。が、紆余曲折有って自分の女らしさに自信を持てない村雨には、それは傷を抉るが如き扱いだったのだ。

「よし、これならどうだ! ふっふっふ、これならばお前も文句はあるまい、両家の息女の衣服だと言うぞ?」

 膨れ面から空気を抜く為に、桜が持ちだしたのは、数十のリボンと総延長八尺にも及ぶフリルで構成された、ロングスカートのワンピースドレスである。畳んでいたとは言え、良くもこうかさばるものを持ち運べたものだと、村雨はおかしな感心をした。

「……ええと、私はどこの棚に飾られればいいんだろう」

「飾っておくなど勿体無い、動きまわらんか。ほれみろ、靴まで統一したこの飾りの意匠、全く見事な――」

「流石にこれはやりすぎだと思う。というかね? これで外歩いてたら、可哀想な子だと思われるってば」

 正直なところ――屋内でならば、着てみたくない事も無い。が、外を歩く時にこの服は無理が有ると、村雨は自分の顔立ちを鑑みて、冷静に判断を下した。せめてもう少し、分かりやすく少女らしい顔立ちであったのなら――僅かにでも傾いたのかもしれない。

「むむむ……では、ではこれならば!」

 自信を持っての提案四件の内、既に二件が叩き落とされた。が、まだまだ札に残りは有る。追い詰められて猶、桜は不敵な笑みを崩さなかった。

「……で、これは?」

「畚褌とさら――」

 言いきる前に村雨の爪先が、桜の顎を打ち抜き、首を垂直に跳ねあげていた。

「誰が着るかぁっ!?」

「水練にこれほど適した衣服も無かろうが!」

「何が悲しゅうて秋口に泳がにゃならんのじゃー! そもそもそんなもん服って言えるかー!」

 白布二つを手に、己が煩悩を強く主張する桜には、さしもの村雨も呆れを数周通り越し、怒りさえ通り越して疲労していた。が、それが己の義務であるかの様に、桜の言動に蹴りで答える事は忘れないのだった。
 馬車の御者が、お嬢さん方暴れないで、と悲しそうな声で宥めてくる。詫びを返したのは珍しく桜であった――村雨が、それどころではなかったからなのだが。

「はー……大体、なんでそんなもの売ってるのよあのお店は……」

「知らん、店員に聞け。……まあ、今のは冗談としてだな」

「冗談だったんかい」

「流石に街中であれでは、頭の病を疑われるわ。ほれ、今度こそまともな候補」

 己の言動の無茶苦茶ぶりを、どうやら十分に理解していたらしい桜は、急に落ち着いた様子で、残り一つの衣服を机の上に広げた。

「あれ、本当にまともだ。熱でもあるの?」

「第一声がそれか」

 淡い青の布地に、白絹の裏地を付けた、丈の長い衣服だった。上半身も下半身も一枚の布で覆う、小袖にも似た作りである。袖丈は長く、袖口は広く、黒い布の飾りがくるりと巻きついている。首周りは詰め襟となっていて、これからの季節には適した外見と見えた。
 最大の特徴は腰から下、左右に入っている切れ目――スリットだろうか。脚を大きく動かしたとしても、このスリットの為、布が引き攣れる事が無い。やろうと思えば馬に乗る事も、脚を高く振り上げる事も可能だろう。

「大陸の『旗袍』とか言う服だ。向こうに居る時には何度か見たが、日の本ではまるで見かけなかったのでな。丈も有っていたようだし、買っておいた」

「割としっかりした作りだねー、これ。腰回りが細すぎる気もするけど……」

「お前なら入るだろう。箱根の風呂の時より太っていなければ、これでも幾らか余裕は――おうふ」

 先程の様な全力の蹴りでなく、軽く手の甲で払う程度の打撃。村雨はじっくりと、机の上に乗った旗袍を観察する。
 確かに、腕や脚の長さも、腰回りや胸回りも、肩幅も、今直ぐにでも着られそうな程に合っている。軽く曲げた程度では皺も残らず、裏地を見るに、着心地が悪いという事も無いだろう。無意味な露出も少なく――スリット部分は意匠の問題だから目を瞑れば――本当に、桜が選んだにしてはまともな服だ。
 これを着て、外を歩く事を想像してみる。江戸の町でなら大いに違和感もあろうが、この帝都ならば、そういう事もあるまい。大陸の人間だと分かりやすい自分の容姿には、寧ろ日の本の衣服より、大陸のそれが似合うのではなかろうか。

「……悪くないじゃない、ありがとう。それじゃ、早速帰ったら――」

 以上より、村雨は本日初めて、満足気な表情を作って頷いた。それを見て、桜もようやっと、能天気な笑い方――軽く目を細める程度だが――を取り戻した。

「うむ、さっそく此処で着替えてみせろ、さあさあさあ」

 笑顔の維持は、ほんの数瞬。頬を平手でひっ叩く音は、心地よく京の街に響いたのであった。








 同時刻、とある建物の屋上から、〝その男〟は地上を見下ろしていた。
 もしかすれば、『見下ろす』という表現には語弊があるかも知れない。彼は目を固く閉じたまま、一瞬たりと開こうとしないのである。
 見れば、異装の男である。経帷子に手甲、脚絆、死装束を一揃い。だが、帷子に書きこまれているのは経文では無く、聖書の文言だ。まだ暑さも抜けきらぬ九月上旬、背負うのは鷹の羽を束ねて作った大羽織。袖を通さず、帯も結ばず、肩に引っかけているだけだ。
 そして、右手に持つのは巨大な弓。源平の戦の頃より、日の本の弓は長大であるが、然しそれにしても巨大だ。あまりの長さに、横に寝かせて持たなければ、取り回しも利かぬ程であった。

「哀れな、真実哀れな子羊よ……真理の教えも知らぬままに凶徒と化し、いたずらに天唾の愚を為すか……嗚呼」

 芝居掛かった大仰な身振りで、男は空を仰ぎ、嘆く。

「愚は罪過、無知は罪悪――大聖女の御為に、俺は罪人を撃ち抜こう。それで良いのだな、狭霧兵部」

「ああ、構わんぞ。俺の為に働けなどと、無理な事は、俺は言わん。あの聖女の為で良いからきりきり働け――日付けが変わってからな」

 男の背後には、狭霧和敬が立っていた。武術の心得でも有るのか音も無く近づいていたが、然し男は、和敬が屋上に現れる前から存在を感知していた。

「……確認しよう。死すべき者は、二条の城の近くに現れる。これは大聖女の御心に叶う事である。虚言ではないな、兵部?」

「向こうが怖気づかなければな。そうなったらそうなったで、適当に何人か撃ち殺して帰ってこい。間違いなく今夜の殺しは、大聖女エリザベートの理想の為に、通らねばならない道だともよ」

 矢を持たぬまま、男は左手で弓の弦を引き絞る。何も見ぬまま、遠くの山へ、弓を支える右手の人差指を向けた。

「ならば。俺は、俺は悪魔と蔑まれようが、殺す。貴様の言は信用せぬが、貴様の功の大なるは承知の上だ。至天の塔の為に、アーメン」

「大聖女と俺の共栄の為に、アーメン」

 弦がびん、と鳴る。弓が男の手の中で返る。ひぃ、やっ、と空気を裂いて、矢が大空を駆けて行く。番えもしなかった矢が、確かに空を飛んで行く。

「……面倒な奴は、扱いやすいもんだなぁ」

 狭霧和敬は、聞こえない様にとの配慮も無く、一言呟いて立ち去った。
 数里離れた山の中腹、一頭の鹿が、眉間を貫かれて倒れていた。








 結局のところ、なんのかんのと楽しい時間であった。
 買い物をして、外食をして、贅沢な馬車に揺られて街を回る。徒歩の節約旅とはまた違った趣である。

「くー……、すー……」

 二条城への道中。馬車の座席に横になり、村雨は寝息を立てていた。腹が満たされ、心地好い振動と暗さ、暖かさ。眠気も襲ってこようというものだ。
 机を挟んで反対側の長椅子、桜は腕を組んでそれを眺めていた。
 微笑みを浮かべながら口を閉ざし、もうどれだけの時間が過ぎただろうか。寝返りも打たず眠る様子を、さも愉快な芝居でも見るかの様に、飽かず桜は楽しんでいた。

「……それにしても、無防備な」

 背中を少しだけ丸めて、膝を胸の内に抱え込む。なんとなく獣を思わせる格好だが、獣はもう少し眠る場所に気を配る――目を覚ます前に食い殺されては堪らないからだ。誰の前でも眠るのは、飼いならされた犬程度のものだろう。
 そう考えると、桜は一段と良い気分になった。
 この狼を飼い慣らせたとは、まだ思っていない。だが自分の目の前は安全な場所だと、その様には思われているのだろう。例えそれが自惚れに過ぎない思考だったとしても、気分の悪い事ではない。

「思えば短い付き合いだなぁ……まだ二月か」

 気紛れに雇い入れてみて、思ったより気骨が有ったから自分の物にしようとした。最初はその程度の、普段の遊びの延長だった筈だ。それが何時の間にか、代えの利かぬ存在に――手放したくないものになってしまっている。
 理由は何かと考える。容姿という点で言えば、可愛らしいが正直なところ、誰よりも飛び抜けている訳ではない。桜の二十年に満たない生の中で、村雨より美しい女は幾らでも見てきただろう。
 では、精神か? いいや、違う。村雨の心は強く出来ていない。軽くつつけば簡単に、生まれついての狂気に飲みこまれる程度のものだ。正義感は恐怖に飲みこまれ、いとも容易く霧消する。あの日、賊徒を殺す桜の前に立った時も、きっと一太刀浴びせれば泣いて逃げてしまっただろう。
 身も心も未熟で半端、取り柄といえば鼻と足くらいの平凡な少女――桜の村雨評はこんなものだ。だから桜は、自分がこうも村雨に惹かれる理由が分からず首を傾げ――

「……そんなものか、な」

 結局は、理由など無いのだと結論付けた。
 考えればその内、どこかで答えには行き当たるだろう。だが答えを得たとて何の意味が有ろうか、感情に理屈は要らぬのだ。そう己を断じて、不用意に正解を見つけてしまう、それだけは避けた。
 本当はきっと、狂った人間が獣に懸想している、そんなものなのだろう。戦いの為に戦いを望み、殺しの為の殺しを求める人狼の――禍凶まがつの本質に恋い焦がれているのだろう。
 凄惨な死体を前にして、村雨は何時も顔を曇らせて背け――同時に、目の奥に暗い光を灯す。あの光が美しいから、蛾のように誘われてしまった――それが桜の慕情の正体だ。
 随分と前から、桜はこの答えに気付いていて、そして気付かぬ振りをし続けていた。よりにもよって自分が村雨に惹かれた理由が、村雨自身の最も忌み嫌う一点だと有っては――

「――お前も難儀な奴だなぁ」

 桜は溜息と共に、村雨の寝顔に手を伸ばした。雪国育ちには見慣れた白い肌、まだ幼さの色濃く残る顔立ち、頬の柔らかさを指先で楽しむ。それからふと思い立った様に、その手をすうと下げ、首を伝わらせて鎖骨まで運び――

「何をするかこの」

「おのれ、鋭い奴め」

 指先が胸まで届く前に、村雨の靴が桜の顔面を捕えた。足の甲を使って額を打ち抜く、全く迷い無く良い蹴りであった。

「私、どれくらい寝てた?」

「さあてな。一刻か二刻か……少なくともほれ、もう真夜中だ。月が細いな」

 十分な睡眠を取った村雨は起きて直ぐ、明瞭な声で話し始めた。馬車の窓から外を見れば、雲は無いが暗い夜――夏の主役だった蛙は、いつの間にか虫に取って変わられていた。

「御者よ、この辺りで良い。後は歩いて行く……悪くない一日だったぞ」

「それはどうも。私も聞いているだけで楽しくなる一日でした、お嬢さん方」

 御者は桜達に背を向けたまま、京風の訛りを感じさせない、軟派な言葉で礼を返した。

「然し今は……夜の洛中は危ないですよ。馬の脚が無くてもよろしいので?」

「構わんさ。代金はここへ取りに来い、ほれ」

 馬車を降りながら、御者に渡してやるのは、宿の名前と部屋番号が書いてある小さな紙。桜の名前もそこに書きこまれていて、宿の者に見せれば直ぐ、誰の事か分かる様になっている代物だ。
 また懐が軽くなると思いながらも、もう村雨も文句は言わない。なる様になれと開き直り、夜気を肺に取りこんで背伸びをする、蹄と車輪の音が遠ざかり、鈴虫の声が少し近くなった様な気がした。








「気は休まったか?」

「まさしく気休め程度に……調子は悪くないね」

「そうか、行くぞ」

 二条城を左手に見ながら、桜と村雨は夜道を歩いていた。
 照明は持っていない。近くの建物から零れる灯りと、後は月明かりだけが供である。然し足取りに淀み無く、二人は目的地――先日焼き払われた、女郎小屋の跡地――へと向かう。

「堀川卿の部屋で何を見たか、知ってるよ」

「……だろうな、お前の鼻だ」

 村雨を追い出し、自分一人で死体検分を行った桜。然し、衣服に残った死臭を誤魔化す手段は無かった。今にして思えば、村雨の緊張の原因は、一つにこの死臭も有ったのだろう。

「死に方は? どんな風にやられてた?」

「全て、脳天から一直線に胴体を貫かれていた。傷跡は矢のそれに似ているが、鏃も木片も、死体の体のどこにも引っ掛かっていなかった……おまけに傷は地面に対して垂直だ」

 傷口から、遺留品から、加害者像を推測する事は、およそ争いごとでは常套手段である。

「どこにも……腹の中まで?」

「ああ、どこにも。堀川卿の話では、死体の近くに矢が落ちていた、という事も無いらしい」

 血生臭い話題を、共に表情も変えず続ける。これから敵地へ赴くのだと、頭を冷え切らせた二人である。もはやこの程度の話題で、心を乱す事も無かった。
 焼け焦げた木板は取り払われ、小屋の跡地に残るのは地下へ向かう階段だけだった。誰かが迷いこまないようにと、扉には厳重に金属の鋲が固定されていた。
 ここが、死体に添えられた書状で指定された場所。相手方の目的は分からないが、好意的な接触があるとは考えられない。

「で、向こうは何時出てくるのやら……時間の指定は無いからなぁ」

「義理は果たした、って事で。向こうの遅刻まで面倒見てられないし……暗い方が良さそうだし」

 大方、人目に付かぬが好ましい用件であろうと察しは付く。ならば夜目の利く村雨、火種を己の目に持ち合せる桜は、寧ろ夜間の戦闘こそが好ましい。瓦礫の上に腰掛け、二人はまた暫し身を休めた。

 それから、一刻も経過しただろうか。
 秋の夜風がひゅうと吹く。北からの風――その中に、多量の金属の臭いが混じっている事に気付き、村雨は低く身構えた。遅れて桜が、人の群れが近づいてくる気配に脇差を抜いた。

「そこな娘ども、何をしておる。女子供の出歩く時間ではないぞ」

 白い羽織を着た髭面の男が、同じ白羽織の集団を十五人ばかり引き連れていた。何れも刀を右手に抜いて、左手には二尺ほどの木剣を握っている。恐ろしく傲慢な口振りで、目の前の相手を弱者と決めつけている様な、そんな雰囲気が有った。

「何だお前ら藪から棒に。散歩か? それとも押し込み強盗か?」

「……無礼は聞き流してやろう、女。我等は神の死兵である。道を阻めば神罰が下るぞ」

 髭男はこれ見よがしに、刀の柄に括りつけた十字架を見せびらかす。が、どうにもその面構えは、信心という言葉から縁遠いものに見える。

「あー……嫌なのに会った。あれだよほら、寺社仏閣打ち壊して回ってるって、あれ」

 村雨はすぐ、この集団の正体に思い至る。『錆釘』で知らされた情報の一つ――京の街の夜、武士崩れが揃いの格好で、寺や神社を襲撃して回るらしいという話が有った。桜も村雨も京に来てからは、日の高い内にばかり出歩いていたことも有って――小屋での張り込みでは大きく動かなかった為――実物に遭遇するのは、これが初めての事だった。

「ほう、神の僕か。ならば横に避けて通れ、道は広いぞ」

「ますます無礼な! 貴様らは何を以て神兵の道に立ちはだかる。多神の邪教か、それとも仏に祈る者か?」

 恫喝する男には、荒事を楽しむ様な卑しい笑みが浮かんでいる。些細な事で因縁を付けるのはチンピラのやり口だが、どうにもこの羽織集団は、そういった分類に該当する存在らしい。
 桜は呆れたように首を振り、抜いた脇差を鞘に戻した。斬るまでも無い相手だとの判断だが、それがどうやら、男達を付けあがらせたらしい。

「神道、仏教はこの国を腐らせ、進展を数百年遅らせた諸悪の根源である。故に我ら神兵は、憂国の士と共に邪教の祭壇を打ち壊す。女、お前達もどうやら、正しき教えを知らぬ邪教の徒であるらしいな?」

「……狂信者ではなくゲラサの悪霊か。さっさと豚に取り付いて溺れ死ね」

 桜は右手で拳を作ったが、男達はそれにさえ気付いた様子が無い。集団の一人、頬のこけて目が細い男が、髭男の横にささと進み出た。

「俺達をあなどってますぜ、この女。ですがこいつ、目は冷たいが上玉だ。女衒に売り渡せば、使い古してからでも数両くらいには……なあ、親分?」

「親分じゃねえよ馬鹿野郎、隊長と呼べぇ。神の兵隊の部隊長様だぜ俺は……だからよ、何をしても神様の責任だもんな、いいんじゃねえか?
 ……ごほん。お前の如き不信心の悪魔は、我らが手により裁かれる必要が有る。跪き、その身を神兵への供物と為すが良い……へっへっへ」

 もはや語るに及ばず。髭男は木剣を腰の鞘に納め、下種な笑いと共に手を伸ばしてくる。十分に引き寄せ、一寸の距離で身を交わし踏み込み、桜は男の胸倉を掴む――桜の顔を、男の血が染めた。男の頭蓋の右半分が〝縦に裂けた〟のだ。

「な――ん、だこりゃ、ぁ……ぁが?」

「っひぃ……!? お、親分っ!? てめぇっ、コラァッ!!」

 割れた頭から脳が零れ落ちるまでの短い間、髭男は悲鳴も上げられずに驚愕して――やがて、胸倉を掴まれたままで死んだ。貧相な痩せ男が、桜に刀を向け――桜は茫然と空を見上げた。

「さ……桜、何を、一体――」

 村雨が、喉を引きつらせながら声を絞り出す。こうも呆気なく人が殺されたなら、それが悪人だったとしても、耐え難く感じるのが村雨だ。もしも桜が殺したのだと言うのなら――そんな思いさえ、彼女は持っていた。

「違う。私は何もしていない。私は――」

 空を見上げたまま、向けられる刀さえ意に介さず、桜は静かに否定する。驚愕の表情は既に薄れて消え去り、残るのは戦地に君臨する修羅の顔。

「――村雨、〝寄れ〟!!」

 髭男が頭蓋を割られる数瞬前、桜は確かに音を聞いた。風を斬り、何かが高速で飛翔する音を。今またその音が、幾つも幾つも聞こえた。男の死体を頭上に投げながら桜は叫ぶ。叫びながら、村雨の腕を引いた。
 夜天を赤々と炎が染める。ただ目視するだけで炎の壁を生む桜の眼――『代償』の力が発動し、そして即座に砕かれた。
 降り注いだのは矢の雨であった。桜を、村雨を、そして羽織の男達を目掛けて、一人につき一本の矢が〝垂直に〟落下する。

「ぎゃがっ……!? あが、痛え、痛えよぉおおおっ……!」

 炎の壁が威力を削いだ――その為だろうか。男達の幾人かは、即死出来ずに悲鳴を上げた。致命傷を負いつつも生きて、痛覚もまだ残っている。それが耐えられず、刀で己の喉を突く者も居た。
 無事に済んでいたのは村雨一人。桜が投げた死体は、落下してくる矢の勢いを削ぐ事に成功し――結果、二本の矢は、桜の左腕の骨に食い止められた。骨を貫通する威力を失っていたのだ。

「桜!?」

「っか、こういう事か……! 走るぞ、止まっていては死ぬ!」

 矢を引き抜く間も惜しみ、桜は南へ向けて走り始めた。夜とは言えど、京の街は碁盤の目。方角さえ過たねば、目的地には容易に辿り着ける。まるで迷わず、村雨もそれに追随した。
 数歩も走らず、桜の腕に刺さった矢は、氷が解けるかの様に消え去った。鏃に塞がれていた傷口から鮮やかな赤が溢れ零れた。
 痛みは相応に有るが、痛みだけで死にはしない。まずは出血を止めるべく、桜は懐に手を入れ、晒を解いて引きだした。袖ごと傷口に晒を巻き付け、右手と口を使って強めに縛り上げる。
 飽く迄応急処置、長時間このままでは腕が壊死しかねないが、宿まで逃げるだけなら持つだろう。桜の案はまず手当を済ませ、夜が明けてから敵を探す事だった。見えぬ位置、または距離に居る敵を探るには、昼間の戦闘こそが望ましいからだ。
 奇しくもそれは、桜と左馬とが夜陰に紛れて走った、あの夜と全く逆の策であった。

「桜、腕は!?」

 息も切らさず、村雨は走りながら問うた。その数歩後ろに矢が着弾し、石畳が砕けて散った。

「お前はどうだ?」

「大丈夫、掠りもしてない!」

「ならば問題無い、逃げ込め!」

 丁度進行方向に建物があった。夜間の事で扉を閉ざしているが、反物を扱う店らしい。躊躇わず桜は、扉を右肩で叩き壊し飛び込んだ。
 瓦屋根の建物。畳の上に土足で上がり込み、一度の深呼吸で心拍を整える。

「今のは、見えたか?」

「見えた。真上から矢が落ちてきて――人を、簡単に割った」

 灯りの無い反物屋の中で、村雨の眼が欄と光っている。死に怯え血に酔い、それは正しく獣の眼である。己の傷も軽く無いと言うに、桜は思わず口角を吊り上げた。

「下手人の臭いは有ったか?」

「分からない、手掛かりが薄すぎる。けど……近くに弓を持った人間は見えなかった」

「上々だ、見えない場所に――おう!?」

 桜の立つ位置から一歩だけずれた床に、天井を貫通した矢が突き刺さる。恐らくは瓦を砕いた際に軌道が歪んだのだろう――屋根の下でなければ確実に、桜の脳天目掛けて落ちていた筈だ。

「……安全地帯は無いな」

 再び二人は走り始める。矢が飛来する間隔は三十秒に一度程。立ち止まっていれば打ち抜かれるだろうが、動いていれば十分に回避出来る――動き続けていれば。
 如何なる手段かは分からぬが、敵は確かに遮蔽物越しに――それも、村雨の嗅覚の及ばぬ距離から二人を捉えている。見えぬ敵との戦いならば経験したが、然し手の届かぬ敵は初めてで――桜は冷や汗を掻きつつ嗤う。
 矢の飛来する間隔が狭まってきている事に気付くのは、そこから四分の一里も走った頃。獣のあぎとへ踏み込む真似になろうとは、まだ桜も村雨も自覚していなかった。








 夜天の元、その男は静かに弓を引いていた。
 狙う獲物は八町先を走っている。男の腕であれば容易く狙い撃てる距離――但し、止まっていれば。流石にこうも離れれば、到達までの時間差が無視出来なくなる。動きを予測しての射は、的を見ての射と同様には当たらないのだ。
 そう、男は〝見て〟いた。夜半の闇の中、建物の影に潜む獲物の姿を、瞼さえ開けず。

「奔れ、走れ、地獄まで。罪人の末路に似合いの徒労よ――『射』ッ!!」

 引き絞られた弦に沿い、虚空から矢が生まれる。男の一声と共に、その矢は高らかに夜闇へと吸い込まれて消えた。
 男は居ながらにして、その矢がまたも狙いを外した事を知る。獲物は存外に素早く、かつ勘の良い獣であるらしい。
 然し、それが何になろう――再び男は弓を引く。番えられた矢は三本、同時に空へと打ち上げられた。
 弧を描くのではなく、直線的に狙った箇所の上空まで飛来し垂直に落下――おおよそ物体としては有り得ない軌道を描く矢は、人の骨など容易く貫通する威力を誇る。
 これこそ過たず『錆釘』の構成員五人を殺害した攻性魔術、『薄明の鷹爪』。射を極めて、然して光を失った男が辿り着いた新たな境地。

「裁きの時は来たれり。我と我が弓と罪人の血を、大聖女の天道へ捧げ奉らん――『射』ッ!!」

 盲いた両眼が獲物――二人の女を睨む。
 〝盲目の射手〟扇殿おぎどの 矢代やしろは、祈り伏しながら遠矢を射た。








 刃を抜けば防ぎ得る。走り続ければ避け得る。
 だがそれだけだ。意識して動き続けねば、やがては脳天を貫かれる。頭蓋の厚みなど、この矢の前では精々が座布団の様な物だ。

「見えるか、村雨?」

「まだ全然!」

 広い路を斜めに突っ切り、時折は大きく進路を横へ曲げ、蛇行しながら桜と村雨は走っていた。
 仮に敵が、自分達を目視して射撃しているのなら、到達地点の予測をずらしてやれば避けられる。単純な対抗策だが、その予測は正しかったのか、暫くは危険な場面も無かった。
 然し走り続けるにつれて――目的地である『皇国首都ホテル』に近付くにつれて、矢の飛来する間隔が短くなる。三十秒に一度だった矢は、今は二十秒に一度。狙いも徐々に精確さを増し、髪を掠める数が増えてきた。

「然し村雨、京に来てからは走り通しな気がせんか!?」

「同感だけど言ってる場合かー――っとと、とお!」

 走っている間、殆どの矢は、二人の後方に着弾していた。ここへ来て次第に、眼前に矢が落ちる様になってきた。今も村雨の目の前で石畳が砕けた。村雨は咄嗟に右足を外側へずらし、垂直に横へ走って回避した。

「桜、これってやっぱり!」

「だな、間違いない! こうして進むにつれ、狙いが正確になっているという事は――!」

 旅人が旅先で命を狙われて逃げ込む場所は? その街の事を何も知らぬ者が、迎撃の用意を整える為に逃げ込む場所は? 可能性として高い場所の一つは――恐らくは、旅先での宿だろう。ましてやそこが、旅人が所属する集団の拠点としても機能している――いざとなれば保護を要請出来る。条件は整い過ぎている。
 そうだ、仮に自分が狩人ならば――村雨も桜も、同様に考えた。逃げ疲れた獲物が帰りつく場所は、この一か所だと予測が付く。

「――皇国首都ホテル屋上! あそこからなら街の半分くらい見える!」

「そうだ、それに違いない! で、分かったとてどうなるか――ハァッ!」

 自分達が逃げ込もうとしている目的地。そこに、魔弓の引き手は陣取っているのだろう。飛来した矢を脇差で斬り払いつつ、桜は暗闇の向こうを睨みつけた。ぼんやりと輪郭だけ見える建物の、屋上など見て取れる筈も無い。

「……拙いな、後退も視野に入れておく。朝まで凌ぐには……そうだ、使え」

「え、はい? ちょ、私に刀って、きゃっ!?」

 矢雨の降る間隔は、とうとう十秒に三本まで狭まった。もはや動くばかりでは避けきれない。桜は太刀で、村雨は脇差を渡されて、それぞれに己の身を守る。たかが矢の一本だが、高高度から落下してくるその衝撃は、村雨の腕を痺れさせるには十分過ぎた。
 止まらぬ死の雨に差す傘も無く、逃げ惑う様に走り続けてまた幾許か。漸く皇国首都ホテルの玄関が見えた頃――

「っは、はぁー……止ま、った?」

 ――突然、石をも穿つ矢の豪雨が上がった。
 ようやっと脚を止める事が出来た村雨は、まず周囲の環境を目視で把握しようとする。その時に初めて、自分の頬から血が流れている事に気づいた。回避出来たと思った矢の一本が、顔を掠めていたらしかった。
 皮膚一枚が切れただけで痛みは薄い。むしろ問題は、矢を受け続けて痺れた右手。握力を失いかけて、拳を握るも困難になっている。
 ホテル玄関との距離は、直線にして三十間ほど。桜と村雨であれば、五つ数える間に掛け込める距離である。獲物を此処まで追いつめて止めを刺さぬ、その理由は直ぐに分かった。

「桜、あれ……見える?」

「四階の窓の所だな。全く恐ろしい光景だ……っはは」

一階の高さを八尺として、地上より五間以上も高い場所に、数十本の矢が整列していた。支えも無く宙に留まる矢の群れは、何れも切っ先を地上に――ホテルの玄関に向けている。

「私達が逃げ込もうとすれば、一斉にあれが落ちてくると言う訳か。どうだろうな、潜れると思うか?」

「……無理だね、あの距離じゃ幾つかは刺さる。その幾つかで――もう、動けなくなりそう」

「だな、困ったぞ」

 高高度から落下してくる矢でさえ、回避するのに難儀していたのだ。あれだけ近くなってしまえば、もう避ける事など適うまい。無理に押し通ろうとするならば、矢に射抜かれる事を覚悟せねばならない。

「高いな、どうやっても一足では届かん。途中に足場が有れば――いや、やはり三度は跳ばねばならんか」

 屋内から回りこめないなら、屋上まで跳び上がれば良いのだ。そう考えた桜は、然し建物の高さと引っ掛かりの無さに、その案を即座に否定する。

「朝まで睨みあう? 時間が経てば、誰かが何かおかしいって気付くだろうし……」

「……正直なところ、それが最良やも知れん。中の連中が動けば、屋上の射手も退く……かも、知れん」

「断定しないんだね」

 やけに静かになってしまった夜の街。耳を澄ませて、村雨はホテルの屋上を見上げた。
 角度の問題か、射手の姿は見えない。矢は確かに地上を向いて、血塗られる時を今か今かと待ち続けている。

「私が誰かを殺そうとするなら、そう簡単には諦めんからな。一度退く羽目になれば、その日の夜にでもまた殺しにかかる。
 生き物は眠らねば死ぬが、眠っている時間はあまりにも無防備だ。向こうからすればやっと見つけた獲物、簡単に逃がしてくれるとは思えんさ」

「だよね、私だってそうするよ」
 ただ立ち尽くして、時が流れるのを待つ。敵は動かず、己も動く事なく、時折は秋風が髪を揺らした。流れた汗も乾き、心拍も完全に平常の如くなる。
「んー……やっぱりさ、逃がしたくない」

 漸く空の黒が青に変わり始める頃、村雨は独り言のように言った。

「仇打ちとかそういうのは考えてないけどさ、あれを逃がすの、なんかやだ。安心して眠れなくなりそうだし……負けて逃げるみたいでカッコ悪いし」

「格好と命とどちらが大事だ? 無理に掛かれば死ぬぞ、お前」

「そりゃ命だけど、違うよ。今逃げたってまた狙われて、しかも他にも何人か殺されそうだし……だったら今夜、此処で捕まえたいの。その方が、桜だって良いでしょ?」

 理屈では正しい。確かにこの場であの射手を捕えられるなら、後顧の大きな憂いを断つ事となるだろう。だがそれは、自分達の負傷を逃れ得ず――或いは、命すら危険に曝す選択だ。
 桜は勇猛であるが、然し最終的には己と、己に近い存在を最優先する思考の持ち主だ。今、この場で戦って負傷するくらいならば、第三者が幾ら死のうが、好機を待つ為に決着を先延ばしにしたい。それが桜の、偽りの無い本音である。
 村雨は、寧ろ臆病だ。傷つきたくない、嫌われたくない。誰かが死ぬ事を嫌うのも、もしかすれば『死なれるのが怖い』という程度の感情かも知れない。
 だが。臆病が故に、先に待つ恐怖から目を背けたいが為に、敢えて村雨は恐怖と対峙せんとする。そして――

「……っふふふ、ふふ……っはっはははは……!」

 ――惚れた女に望まれて、無碍に出来る桜ではなかった。

「良いだろう、今夜この場所であの射手を拿捕する! だがどうする、私もお前もあそこまでは跳べんぞ? 翼でも生やすか、それとも矢を防ぐ城壁を持ってくるか!」

 高らかに笑い、右瞼を一度だけ中指で引っ掻いて、桜は右手の骨を鳴らす。左腕の出血は未だに止まず、肩にも幾つか矢傷が有り――然して、戦地へ赴く事に微塵の躊躇いも無い、それは羅殺の面だった。

「だね、私でもあなたでも無理。だからさ、桜――」

 恐怖に引き攣りながら、だが暗さの無い笑みを村雨は見せて、

「――ちょっと、大怪我してくれない?」

 あまりと言えばあまりな無茶を、事も無げに提案した。








 白み始め、あかく成り行く空を見上げ、扇殿 矢代は微笑んだ。今宵、殺人を済ませた者が見せるには、あまりに柔和な表情であった。
 光を失って久しい目だが、彼は確かに、夜明けの美しさに心を奪われている。彼の脳裏には確かに、白雲を朱に染める光が描かれている。

「嗚呼、嗚呼――暖かい。これこそが至天の光、聖道を照らす太陽の――大聖女よ」

 涙さえ流し、矢代は朝を讃える。朝を讃え、十字架を握りしめ、己が神と同一視する女を讃えた。
 おおよそ視覚情報に頼る人間に取って、光を失う事は、それまでの世界を奪われるにも等しい。生涯を費やした技術、情熱を傾けた娯楽、その大半を一度に奪われるも同然だ。
 矢代もまた、病に光を奪われた一人だった。幼き頃より弓を取り、天才よ神童よと崇められ、矢代もその期待に応え続けた。七つで三十間の的を射抜き、十の頃には馬上から一丁先の鐘を撃ち、成人する頃にはもはや、的を射るに矢さえ不要となった。
 才有る人間の元には、地位も名誉も順当に追い付いて来る。国士無双の弓取りと名の知れ渡った矢代は、その腕前を幕府に見込まれ、名誉師範として高禄を得た。屋敷を賜り使用人に傅かれ、多少は鼻も高くなるが、然し弓の道に打ち込み続けた。名声は、いよいよ留まる所を知らなかった。
 或る日、彼の栄達は終わりを迎える。一の矢が二の的を射抜くとまで言われた達人――それが突然、的はおろか己の手元さえ見えなくなったのだ。
 己の人生のほぼ全てを費やした技術が一夜で消える――その絶望は如何ばかりであっただろう。その恐怖は如何ばかりであっただろう。やるせなさに拳を振り回そうと、誰にも当たらず、ただ柱や壁を殴りつけるだけ。煽て持ち上げ続けた取り巻きは、気付けば見舞いにさえ来ず、使用人にも見放され――家中の足音が途絶えた時、矢代は自死を決意した。
 手探りで畳を這い回り、脇息も壺も引っ繰り返し、どうにか見つけた衣服は皮肉にも経帷子。盲人の目にはそれさえも分からず、寝巻の上に巻き付け、ふらりと街へ彷徨い出た。
 塀にぶつかり小石に躓きながら、足元の感触と水音から、自分が橋に辿り着いたのだと知った時――矢代は安堵に涙した。これ以上の苦しみを得ずに済むと信じて、手探りで欄干によじ登り、

『――いけませんっ!』

 弱弱しい女の手に引き戻され、見苦しく仰向けに倒れ込み、背を強かに打った。
 思い起こして、矢代は笑いを堪えられなくなった。肺が痺れて息もままならぬ自分の胸に、その女人は馬乗りになり、顔をひっ叩いて来たのだから。漸く声が出せる様になった時の、あの済まなそうな口振りと言ったら――まるで田舎の少女の様であった。
 矢代は思う。あの女の為ならば、己の罪過など恐ろしくは無い。死も無限の苦痛も、純朴な笑い声を聞く為ならば耐えられる。大聖女エリザベートの喜びの為に、扇殿 矢代は己の全てを、一分の迷いも無く差し出せるだろう。

「俺は――貴女の為に咎人となる。故にどうか、貴女は、貴女だけは……」

 だからこそ、矢代は苦悶する。大聖女は――あの女は――人が死ぬ事を良しとする、そんな女だったろうか? 有り得ない、蟻の死にさえ本気で涙を流す、彼女こそは正しく聖女である筈だ。誰も理不尽に死なずに済む世界を、誰よりも強く望んだ女である筈だ。
 そんな世界を作る為に、誰かを殺して――

「……貴女だけは、俺を赦してくれますか……?」

 朱の空が明るみを増す。東の山から日光が街に影を落とす一瞬、常人ならば目を眩ませるだろう時間が近づいている。その時こそが狩りの時、矢代が最も力を示す時間なのだ。
 迷いは今も絡みついている。だが、留まらぬと決めたのだ。
 大弓に矢を――虚空から創り出した――番えて引き絞る。動かぬ二人の的を、確かに射抜くようにと狙いを付け――的が走り出した事を〝見て取〟った。
 獲物の動く向きは? 過たず、仕掛けた矢の簾の下だ。焦れて愚策に走ったかと、嘲りは浮かんだが嗤えない。留めた数十の矢の制御を一声に解除する。
 僅かな風斬音も、数十束ねれば突風の如く鳴り響く。獲物二人はこの矢にて、剣山となって果てる――筈、であった。

「……、な、に……!?」

 石畳が爆ぜた。鏃の衝撃では無く、女の――雪月桜の蹴り足が固い足場を砕いたのだ。反動で桜の体は、三階の窓枠より高く舞い上がる。
 地上の一点を狙う為に、数十の矢は広く配置されながら、僅かずつ角度を付けられていた。言うなれば、桜と村雨をかなめの位置に見立てて、扇の骨の様に並んでいた。
 桜は敢えて、骨の一本に自ら飛び込む。一つの矢を甘んじて受ける事で、残りの矢を全て避けたのだ――代償も軽くは無いが。
 元より負傷していた左腕が、今度こそ飛来した矢に貫かれる。鏃は骨を抉り、肉片を纏ったままで石畳に突き刺さった。激痛に耐えながらも、桜は建物の壁面を蹴り、更に斜めに跳ね上がった。

「――『射』ァッ!!」

 建物の壁を蹴って跳ぶ――確かに高さは生まれるが、然し同時に、蹴った壁からは遠ざかるのだ。重力の制約に縛られる桜は、最高到達点から落下に転じ――その隙を見逃さず、矢代は番えた矢を放つ。
 心臓狙い、将に必殺の一射。ひぃと笛の音の如く、矢羽根が風を斬って鳴る。鏃は桜の胸に達するより遥か先――炎の壁に遮られ、更には太刀の切っ先に削ぎ落された。
 桜は五間の高さから、石畳の上に落下する。片腕がほぼ使えぬ局面で、両足と右腕だけで受け身を取り――然し、直ぐに動ける様子は無い。矢代もそれを分かっていて、すぐさま次の矢を生成し――

「……しま――、ぉお!?」

 走った獲物は一人。地面を蹴った獲物も一人。もう一人は何処に消えたのだ?
 頭上であった。桜は村雨を右肩に抱えて跳躍し、壁を蹴った瞬間、右腕の力だけで村雨を放り投げた。村雨は桜の手を蹴って跳び、一足で矢代の頭上まで達したのだ。
 矢代の早打ちは三秒に一射。遠地での戦いならば、指一本触れさせる事なく勝利を収められる。だが、この距離ならば――

「ぃいい――いやあああああぁっ!!」

 ――この距離ならば、人狼の速度に勝る筈も無い。
 落下の勢いを爪先に乗せ、村雨は矢代の左肘を蹴り抜いた。関節からの異音、矢代の顔が苦痛に歪む。着地した村雨は、両手を地に付けて、四足獣の狩りの構え――超前傾姿勢を取った。

「あんたは……ちょっとやり過ぎだ!」

 人間がどうとか亜人がどうとか、体裁を繕う余裕は無い。最大最速、最高戦力を動員出来る形で、村雨は最後の警告を放つ。

「大聖女よ、俺に力を……貴女の理想を遂げる、僅かばかりの力を――っ!」

 利き腕を痛めた弓取りは、然し戦いを諦めない。

「……っはっはっは、いや愉快愉快」

 仰向けのまま雀が飛び交う空を見上げ――痛みも忘れ、桜はからからと笑っていた。








 跳躍、空中からの奇襲、戦闘態勢への移行。流れる様な動作の結果、村雨と矢代やしろの間には、一間の距離さえ開いていなかった。
 かたや亜人、かたや盲人の射手。日は既に街を朱く照らしている。全ての環境は村雨に味方している。

「ふ――はいっ!」

 前方へ飛びこんだ勢いを両腕で殺し、村雨は身体能力任せに右脚を振るう。地を払う様な水面蹴りは、矢代の脛を強く打ち据えた。
 脚を払われ、痛みも有って矢代が前方につんのめる。跳ねる様に村雨は立ち上がり、両掌で矢代の顎を突き上げた。

「おごっ――っ!?」

 歯と歯が衝突し、火打石の様に音を鳴らす。爪先立ちで背筋を伸ばし、矢代は僅かな時間、意識を何処かへ飛ばした。徒手格闘はまるで覚えの無い矢代だ、首を鍛えた事も無いのだ。
 然し、膝が屋上の石床に落ちるより先、飛ばされた意識は強引に引き戻される。身体の脆弱さを精神力で補い、矢代は踏み止まり、痛めた左腕で殴り返した。
 瞼を閉じたままで、やはり狙いは正確。村雨の側頭部へと放たれた突きは呆気なく回避される――人狼の目には遅すぎたのだ。
 一方で、村雨もまた、格闘技の素人である。高い身体能力を活かしきる技が無い。故に力任せに、速度任せに再び脚を振り回した。靴の固い爪先が、矢代の脇腹に食い込んだ。

「ぉっ、……!」

 骨にも強い筋肉にも守られていない部位にめり込む程の衝撃。声にならぬ声を上げ、矢代の体がくの字に曲がる。
 おおよそ打撃戦として成り立っていない、所詮は喧嘩程度の争いである。が、当事者である二人はいずれもが、決してこの場は譲れぬと決意を総身に示していた。

「かぁああ、ああぁ――『射』ァッ!」

 右手に掴んだままの大弓を、目を閉じたまま獲物へ向け、一声と共に矢を放つ。これがせめて、五間の間合いも有れば当たったのだろうが――距離の優位性無くして射手に勝ち目は無い。
 矢が放たれるより先、鏃の向く方向から逃れる様に、村雨は円を描いて側面へ逃れた。矢はまるで見当違いの方向へ飛んで行き、そして眼前には隙を曝した敵がいる。

「すうぅ……――ぃいやっ!」

 勝つにはここだ、村雨はそう思い、可能な限りまで息を吸い込んだ。その内の数分の一だけ吐き出して、矢代へ再び飛びかかった。
 適当に作って振り回した拳が肩を打つ。やみくもに振りあげた靴が肋骨を叩く。殴ろうとして間合いをしくじり近づきすぎたが、然し肘が鎖骨に命中した。息継ぎ一つせず、村雨は拳足を繰り出し続けた。
 どこを狙うでもなく、ただ目の前の敵を痛めつけながら思う――人間一人を殴り倒すのは難しい、と。
 射手の逃げ足より、村雨の追い足は早い。速さの差で、突き出す手足は面白い様に矢代の身に吸い込まれていく。然し、打を重ねても重ねても、村雨は手を休めようとしなかった。
 或る側面では、仕方が無い事だった。人を殴るにも経験と技術は必要だ。どちらも大きく不足している村雨には、自分の打が成果を上げているという確信が無いのだ。
 今にも相手が殴り返してくるか、或いは奥の手を披露してくるかと気が気でない。気を緩めれば自分が同じ目に遭う、それが怖くて堪らない。ある種の怯懦が、村雨の猛攻を支えていた。
 ただ――それだけではない。骨で骨を殴り、拳は傷つき掌は腫れあがり、疲労も痛みも蓄積して尚、村雨が休まない理由は――?

「はっ、は……は、っははは……!」

 単純に、楽しかったのだ。
 自分が生物として優れていると知る、それが悪い気分である筈が無い。強者として思うがままに弱者を蹂躙する、それに愉悦を覚えぬ筈が無い。一切の遠慮躊躇なく行動する特権は、誰しもが行使できるものではないのだから。
 嘘だと言うのならば。他者を嬲る事に悦を覚えぬと言うならば、理屈を捩じ伏せて思い返すが良い。何らかの勝負事に於いて――それが例え駆け比べでも囲碁でも、或いは些細な賭博でも――勝利とは心地好いものだ。自分の優位性の確認に快楽を見出す、それは決して後ろめたい事ではない。
 誰しも勝ちたいのだ。負けを殊更に喜ぶ者など居ないのだ。勝つ事が全てではない――然り。だが、勝利を得て良いのならば、それを敢えて逃がす道理は無いだろう。
 だから、もしも自分の勝利が正当性に支えられるのならば。他者を思うが侭に嬲り、その才と努力の一切を否定し、痛めつける事が必要とされるのならば――

「ははっ、はは、あはははは……!」

 ――勝利の過程を楽しんで、悪い理屈も無いだろう。
 必要なのだから。勝たなければ他の誰かが犠牲になるのだから。勝つ為にはこうしなければいけないのだから。だから、最早反撃の力が残っていない相手を、どれ程に殴りつけ蹴り飛ばしても良いじゃないか。だって向こうは何人か人間を殺しているんだ。
 そう、自分は義務を果たしているだけの事。その手段として、自分が少しばかり楽しい方法を選んだだけだ。別に殺そうと言う訳じゃあなし、

「――ぁ、あ!?」

 自己弁護に過ぎぬ理屈を構築しながらの拳打蹴撃。その雨を止ませたのは、村雨自身の理性であった。
 この戦場は、六階建ての建物の屋上。そして生憎この建物は、屋上に柵が設置されていない、極めて安全性に乏しい構造をしている。
 あまりに打撃を重ね過ぎて、大きく矢代を後退させてしまった――つまり、落下寸前まで追い詰めてしまっていた事に、村雨は気付いたのだ。
 落とせば死ぬ。体術に長けていないらしいこの相手を落とせば、まず間違いなく転落死する。直感的に気付いたが故に拳を引いた村雨の、ガラ空きになった腹を、矢代は踏むように蹴り飛ばした。

「うぇ――……っ!」

 横隔膜がせり上がり、肺に溜めこんでいた息が全て吐き出させられる。一瞬だが村雨は完全に動きを止め、そして矢代は蹴りの反動で自ら後退した。

「うぐ、おぉ……! 背神の徒が、おのれ聖道に逆らうかぁっ!」

 吠えつつも矢代は、己の圧倒的な不利を認識していた。この間合い、そも矢を番えて弓を引く猶予さえ与えられない。仮に矢を番えたとしても、指を離す僅かな時間の間に、的は眼前から消えているのだから。
 距離が欲しい。せめて五間――いや三間の距離が欲しい。矢代が活路を見出したのは背後――屋上の外、地上までの空間であった。たっ、と石床を一蹴り、小さな跳躍であった。

「あ――馬鹿っ!?」

 敵の叫びを聞きながら。そして、己がふわりと浮きあがる様を第三者の視点で見ながら、矢代は弓の弦を引く。
 そも扇殿 矢代は未熟な魔術師である。身体強化の術もままならぬし、防性の魔術も一つとして扱えない。幼少の頃より習い覚えたは弓の道のみ、余所見などしている暇は無かったのだ。
 その矢代をして健常者以上の視界を得る技巧――それこそは、広域探知の永続魔術『熊鷹の眼』。攻性魔術『薄明の鷹爪』と対になるこの術は、周囲の映像を直接脳裏に刻み込む。
 対象範囲は、〝術者〟ではなく〝対象者〟の任意。つまり、術を〝施された〟矢代の任意に、最大で三里四方にも及ぶ。おおよそ空から見下ろせる場所であれば、矢代に見えぬものなど無いのだ。
 今も矢代は、屋上に一人取り残された敵の姿を目視し、狙いを付けている。
 自分は転落死するかも知れないし、生き延びるかも知れない。それは運の定める所だ。だが、それと引き換えに、確実に敵を一人殺す事が出来る。それが矢代の目算で――大きな誤算でも有った。

「ぁ――ぁああああ、ああっ!」

 吠えて、跳んだ。矢代が跳躍から落下に転ずるその瞬間、村雨もまた、矢代を追って跳躍したのだ。

「な、にを……!?」

 無謀に無謀を返す愚行。矢代は暫し、射手としての役割さえ忘れた。弦に矢も番えられず――そして、利き手の手首を掴まれる。
 村雨の爪先が、左手が、屋上の僅かな段差に引っ掛かる。空中に有る矢代の体を右手で――加えて、死装束の帯に噛み付いて捕まえ、強引に引き戻そうとしたのだ。
 無論、叶う筈も無い。村雨は矢代を支えたまま、屋上からの逆さ吊りになる。血が頭に上り、汗が髪から落ち、そして唇の端から唾液が頬を伝った。

「――貴様、俺に情けを掛けるかっ!」

 否も応も応えられない。首を振る余裕も無い。そして、村雨にそんなつもりは一片も無い。
 敢えて言うならば、逃がしたくなかったのと、いきなりの事で深く考えず動いてしまったという所だろう。目の前で誰かが飛び降りようとした、引きとめよう。そんな反射的な思考で動いた結果、自分まで落ちかけているだけの事だ。

「放せ」

 利き手を掴まれ、弓は引けない。矢代に戦う術は無い。凄味を聞かせたつもりだろう声は、何故か弱弱しく震えていた。村雨の踵が、靴から抜け落ち始めた。

「放せ――放さぬかっ!!」

 拘束から逃る為に腕を振り回そうとして――自分と村雨の置かれている状況を〝見て〟しまう。第三者の位置から、自分達が今にも転落しようという様を見てしまう。
 途端、恐怖も――それから、真っ当な人間としての感情も噴き出してきた。
 善良な人間であれば、他人を無碍に不幸へ巻き込んで、それを良しとする事は出来ない。このまま共に転落する事を、矢代は仕方なしと諦められなかったのだ。
 だが、村雨も強情である。人外の顎の力で、固く矢代を捉えて放さない。結果、最初に折れたのは、意思も何も無い村雨の靴であった。
 咄嗟の場面で、人はその本質を示す。刃を向けられて尚も怨まない、それは余程の聖人で無くては出来ぬ事だ。
 元々、躊躇無く殺すつもりであった筈だ。理性は今も、敵は殺すべしと叫びを上げている。事実矢代は、殺しの為に弓を取り、殺す為に今宵、己の身を投げ出したのだ。
 だのに矢代は、己を貫けぬ弱者でもあった。相手が見せた弱みに付け入り、出し抜いて笑う事が出来ぬ小心者であった。少女一人と心中しかねない局面で――

「おぉ、届け……届けっ!」

 矢代は弓を捨て、空いた手を伸ばした。何処へ、誰へという訳ではない。偶然でも良いから何かを掴めぬかと、

「届けえええぇっ!!」

 己と、出来るならもう一人ばかり、命を救いたいと足掻いた。
 跳躍の勢いで壁から遠ざかるばかりの体が、何かを掴める筈が無い。能動的に為せる事は無く、ただ落下するばかりの身の上だ。救えぬから、などと善人の如き言葉は吐かぬだろうが、矢代は悔しくてならなかった。

「……相変わらず、手間のかかるガキだな。あぁ?」

 声より先に、二条の鎖が届いた。先端に枷の付いた長い鎖だ。一つは村雨の足首、一つは矢代の手首に届き、それぞれを固く固定する。
 がしゃあん、と喧しく金属音が響いた。矢代は、村雨は、五階の窓を過ぎるより速く宙づりに固定されていた。

「はひゃ……、ぁー? あれ、え、これって?」

 顎が疲れて口を開き、そこで漸く村雨は、自分が鎖で捕えられた事を知る。ぶらりぶらりと振り子のように揺られながら、鼻をすんすんと鳴らし、覚えも深い雪原の臭いを嗅ぎつけた。
 鎖はたった一挙動で引き戻され、時間を巻き戻したかの様に、村雨と矢代は高々と舞い上がる。身体能力に勝る村雨だけは、足から屋上に着地して、

葛桐クズキリ!」

「おう、朝っぱらから煩えぞ」

 久方ぶりに出会った、半獣人の顔を見上げた。丈の長い洋風の外套、顔を隠す為の鍔広の帽子。まるで変わらぬ衣服に、二条の長い鎖が加わっていた。

「あれ、なんで? 本当に京に来てたの?」

「稼げそうだからな。事実、稼げた。暫くはここに腰を降ろす……で、お前は? 観光してたんじゃねえのか」

「あははー……まあ色々と有りまして」

 葛桐は六尺六寸の長身を屈め、村雨の足首の枷を外す。投げつける事で獲物を拘束する特殊な鎖は、きっと『錆釘』お抱えの鍛冶屋に作らせたものだろう、確と〝Rusty Nail〟の刻印が施されていた。

「……本当に使ったんだ、あの紹介状」

「昨日の昼な。あの狐女、中々足元を見やがったが……悪くねえ女だ」

 島田宿の騒動の後、もしかしたらと渡した書状。気が向けばどうかという程度の提案だったのだが、葛桐は律儀に紹介に答えたらしい。

「……ありがと、助かった」

 同胞の息災と自分の無事と、両方を祝って、村雨は犬歯を見せて笑った。
「今回の給料、半分寄こせよ」

「あははー……三分の一じゃ駄目?」

「駄目」

 葛桐はそれだけ言って、鎖を引きずって去って行く。懐が寂しくなる予感と、これからの仕事が少しばかり面白くなりそうな予感と、二つが合わさって何とも言えぬ感覚であった。








 引き上げられた際、屋上の石床に頭をぶつけて意識を失った矢代は、薄暗い部屋で眼を覚ました。
 利き腕の手首に枷が付けられているが、それ以外の拘束はされていない。立ち上がるのも、走り回るのも自由だろう。
 だが、持ち慣れた大弓は無かった――見つけたが、数歩離れた位置に落ちていた。拾おうとして一歩歩いた瞬間、後方から声を掛けられた。

「やっと起きたか。あれだけの矢を撃つ癖に、お前存外に脆いのだな」

「俺は……俺は、どうなった?」

 左腕を包帯で吊った桜が、胡坐を掻いて座っている。振り向きもせぬまま矢代は訊ねた。

「相変わらず十字架教徒は恐ろしいな。勝ちたいからと飛び降り自殺か、自殺を神は許さんぞ?」

「俺は神を崇めるのではない。神の元へ続く聖道を辿らんと、我が大聖女に従うだけだ」

 黒衣、黒太刀、黒の長髪。死を想起させる不吉な姿が神を語る。矢代の心に神の名は響かなかった。

「大聖女か、それは良い女か?」

「……神聖にして穢すべからず。慈愛に満ち、道理を知り、天地に則を齎す力をも持つ。大聖女の意思に従う事こそが、神に分かたれた言葉さえも一つに為す唯一の道だ」

 『大聖女』を語る矢代の声に、畏怖の響きは微塵も無い。敬愛すべき存在を褒め称える、盲信が生んだ言葉である。

「おや……宗教家だと思っていたが、寧ろ自分自身が神気取りなのか」

「愚弄するかっ!?」

 激して振り向き、弓を構えようとする。弓をまだ拾い上げていない事に気付き、矢代は強く舌打ちをした。

「愚弄しているのはお前達だと思うがなぁ。真っ当な十字教徒であれば、人殺しだの自殺だのを喜びはせんぞ。お前もそうだろう」

「何を――」

 桜の指摘は、矢代自身が抱いていた疑問と全く同じであった。故に矢代は、これまでの様に声を荒げる事も出来ず、一歩引き下がるに留まった。

「どこぞの預言者も言っていただろう、汝殺す勿れと。如何な理由が有れど、神とやらは殺人に寛容ではないぞ? むしろあれはな、自分の言い付けに背く奴は手酷く扱う男だ。大概の篤信者はそれを分かっているから、自分が殺されようが殺しはしないと意地を張る。馬鹿馬鹿しいが、貫けばいっそ清々しい姿だな」

「死ねば、殺されれば全ては水泡に帰す。聖道を天下に敷く為に――」

「多少の殺しは赦される、か? ではその言葉、大聖女とやらの前で直接言ってみろ。本当にそいつが慈愛の持ち主だと言うなら、悲しげな顔でお前を諭すだろうよ。もしも肯定しよったのなら……まあ、神気取りの偽物だな。さっさと撃ち殺してしまえ」

 自分自身の思考に籠り、自問自答を幾ら繰り返せども、結論が変わる事は一度足りと無かった。だから矢代は、外に答えを求めて自分を騙していたのだが――この死の臭いのする女は、まるで加減無く事実ばかり吐く。矢代は、自分が放った矢に自分が貫かれる様な錯覚を感じた。

「ならば――ならば、如何にして愚道を正す、愚集を導く!? 貴様らが如く旧きに囚われた者が、新しきを阻む壁となる! ならば俺は大聖女の為に、その壁を砕く先兵と――」

「だからだな、その女に直接聞いてこいと言うのだ。聞いた限りでは良い女らしいが、性根まで真っ当かどうかは見てみねば分からん。が、お前ならば会いに行けるのだろう?
 然しな、一つばかり覚えておけ。捨て石になったつもり、悲劇の主役になったつもりで居るかも知れんが……お前の咎を誰が負う? 善人ならば善人である程、己の為の因果の全て、己で負おうとするだろうよ。
 お前が一人殺す度、その大聖女とやらの背にお前が死体を積み上げているようなものだ。別に足腰が強ければ良いがな、細腰の女ならば何処かで潰れて死ぬぞ。女の為にとほざいて、惚れた女を殺したいのか?」

 人殺しが、人殺しの非を謳う。矛盾があまりに大きすぎて、耳を傾けるにも値しない理屈であるとさえ受け取れる筈だった。

「――では、では俺は、何をして、何の為に」

 だが、己の正当性を信じられずにいた矢代は、真っ直ぐ立つ事さえ難しくなる程の頭痛に襲われていた。
 そうだ、喜ばしい筈が無い。貴女の為にと死体を捧げて、あの大聖女が喜ぶ筈が無い。
 彼女の理想の為に、全てを捧げる覚悟は出来ている。死ぬ事も、自分自身が忌み嫌われる事も、まるで恐ろしくは無い。だが、野の花の様に素朴で暖かいあの笑顔を、己の咎で曇らせるのは――それだけは、

「それだけは、駄目だ……駄目だ」

 弓も拾わず、矢代は歩き始めた。部屋の扉へ向かう彼を、誰も引き留めようとはしなかった。

「監視は付けるそうだぞ、下手な事をすれば私が斬りに行く。お前と、お前の仲間と纏めてな。だが、まあ……歯抜けではもう、人は殺せまい」

「言うとくけど、監視は十人以上おりますえ。うちのお仲間を殺した報いは……後々、たんと払ってもらいます」

 扉が閉ざされ、部屋には二人だけ――桜と、堀川卿だけが取り残される。この部屋は堀川卿の私室であったのだ。

「優しい事だな、殺さんのか」

「ああ言う面倒くさい男はんはね、ちょいと尻を叩けば分かりやすく動いてくれはります。どうせ蜥蜴の尻尾、頭か胴体を潰せるのやったら、放っておいてもええどすやろ」

 自分の髪を布団にして、相変わらず堀川卿は寝姿のままであった。温和な声だが、浮かべた笑みが引き攣っているのは、自分の部下を惨殺した犯人を見送った、その怒りが故だろう。
 別に殺しても問題は無かった。これから先に同様の襲撃が起こらない、それを確信出来るだけで十分な利益だ。それを敢えて殺さず返したのは、桜とのやりとりを聞いていたからだ――事と次第によっては、己が直々に殺すつもりであった。

「桜さん、相変わらず申し訳ありまへんなぁ。うちのもんでもないのに、あれこれと巻き込んで働かせてしもうて」

「何構わん、好きで首を突っ込んでいるだけだからな。どうせ礼を言うのならば――」

 ひらり、ひらり、桜は何枚かの紙を投げる。当たり前だが、丸められもしない紙は、投げても宙を漂って落ちるだけだ。落ちた紙を堀川卿の髪が捕まえ、手元に引き寄せた。
 裏返し、紙の内容を見る。名前と、何処かの店の名前と、そして最後に金額――

「――り、領収書?」

「昼ごろに取りに来るよう伝えてある、そろそろだな。まあ合わせても十両にはならんさ」

 昨日に買いあさった衣服、京都周遊の馬車代、そして飲食費。一日の豪遊で、良くもまあこれだけ使えたと感嘆せざるを得ない金額である。

「接待費で落とす……訳にもいかへんなぁ。とほほ……」

 自腹を切るしかあるまいと、情けない声を出す堀川卿。その姿を背に、桜は悠々と自室へ戻っていくのであった。