烏が鳴くから
帰りましょ

皇都の夜のお話

 二条城、地下。ひんやりと涼しい一室に、宴席が設けられていた。
 集まっている連中は、どいつもこいつも下賤の性が顔に出ている様な、ロクデナシの集まりだった。
 やたら痩せこけてきょろきょろと周囲を見回す者。肉の塊と紛う程に肥えて、胸肉を揺すって笑っているもの。壁に寄りかかって爪を噛みながら、料理を睨んで手は出さぬ者、等々合わせて八人。何れも若い男だが、共通項はやたらと色が白い事だ。

「やあ御歴々、良く参られた。俺の退屈しのぎに協力してくれるとは、本当に諸兄らは良い奴だなぁ」

 上座に座った狭霧さぎり 和敬かずたかは、彼らを愉快そうに眺めながら歓迎の言葉を掛けた。
 返る言葉は特に無く、愛想笑いと箸の音。時々は声を顰め、自分達を招いた政府高官の、見えぬ腹を探ろうと企む声もする。

「そう硬くなるな、俺は悲しいぞ。折角の美味を集めたのだ、喰え喰え、たんと喰え。なんなら酒も有るのだぞ?」

 余所余所しさが見える賓客達に、和敬は自ら酒を注いで回った。
 それからは、まるで和敬の悪辣に似合わぬ接待が続く。道化の様におどけて見せたり、太鼓持ちの様におだてて見せたり。腰は低く無いが軽い。来客を真実歓迎し、万感込めてもてなそうとするかの様な、まさに接客の鑑であった。
 人に慣れぬこの連中も、これだけ持ち上げられれば悪い気はしないらしい。酒の手伝いも有ってか気も大きくなり、上等の美味を汚く食い散らかして高歌放吟を始めた。
 こうなると見苦しい事この上無い。何せ、世間に慣れていない連中が酔っぱらっているのである。何処まで乱れて良いものか、その加減を知らぬのだ。
 盆を蹴飛ばす、杯を投げる、畳の上に反吐を撒く。一人ばかり青い顔をして引っ繰り返っているが、誰もそれを気に掛けない。もっと飲め呑めと煽てられて、酒壺に口を当てる阿呆まで居た。
 そうして、汗掻きの肥満男が、二度ばかり厠に立って戻った頃。和敬はすっくと立ち上がり、掌を二度打ち合わせた。

「よう、我がともがらよ。良い具合に茹だった頃だろう、少ぅし知恵を貸してほしいのだ」

 酔人に知恵を借りるなど、鉄砲水を障子紙で食い止めるが如き愚行である。が、和敬はやけに朗らかな顔のままで言う。

「お前達はどうにも、俺と同じで残酷残虐が好きだと聞いている。そこでな、趣向を集めたいのだ。どうだ?
 ……と言っても分からんな、こう聞こう。お前達が人を処刑するならば、どういう方法を取るか聞きたいのだ」

 狭霧和敬という男の人間性は、邪悪へ一直線に堕ちている。無意味な血を好み、無意味な死を楽しむ男である。
 だからと言おうか、和敬が手を尽くして集めた連中もまた、無意味な残酷を好む者達であった。最もこの二者の間には、決定的に大きな隔たりが有るのだが――

「そうだな、罪人の素性はこう決めよう。堺の街で一時期話題を攫った美男子、実は押し込み強盗だ。手口は残虐で、男と老人は殺して女子供は犯す。金は手に持てるだけ盗み、死体は戯れに刻んでぶちまける。
 或る時は犯した餓鬼に刃物を持たせて、親の死体を切り刻ませたとも言うぞ。ちなみに直ぐ飽きて、その餓鬼には親の後を追わせたそうな。
 翌日昼には祝言を上げる筈の男を惨殺し、その血の上で男の許嫁を犯していた所を捕えられた。当然だが反省の色は無し……さあてどうするよ、どうするね?」

 滔々と語ったこの罪状は、全てが架空のものではない。実際に一年ばかり前、堺の街で似た様な事件が有ったのだ。和敬の脚色が加わっているが、聞いた者の胸を悪くさせる様なやり口は、大筋ではそっくりそのままだ。

「俺ならば、こういう奴には報いを受けさせるべきと言うだろうな。いいや、世の中の大半がそう思うだろう。己の為した罪と同等以上の苦痛を、数倍する苦痛を。それでこそ死者の苦しみは晴れる。そうじゃあないか?」

「え――ぁ、ああ……うん」

 痩せこけた男の隣に座り、和敬はいきなり問いかけながら肩を組む。急に発言権を渡された男は狼狽し、幾度か咳払いをした後に、

「……その罪人が殺した人数の分だけ、回数を分けて肉を削いで殺せば良い」

「凌遅刑か、悪くないぞ。よーし、これも喰うか?」

 ぼそぼそと呟くように言えば、和敬は子供の様にはしゃぎ喜んで、更なる酒食を勧めた。痩せこけた男は、不思議と安堵の色を浮かべて溜息を吐いた。

「じゃあそうだな、お前どうだ。正当な罰を、法では収まらぬ正しき人の怒りを示すにはどうしたら良いと思うね、なあ?」

 続けて肥満体の男に問う。喰いすぎで余計に腹を膨らました男は、ふうふうと竈の様な音を上げながら何事か思考し、

「殺した人間の数だけ刺して……、犯した人間の数だけ犯させて……後は、海に」

「塩水に漬けるか、鮫を欺いたウサギのように。それも良いなあ、ようし飲め喰えもっと騒げ!」

 途切れ途切れ、短い言葉だと言うに、終えるまでやたら時間が掛かる。肥満体の男の背をばしばしと叩き、和敬はまた周囲を煽った。
 奇妙な事だが、人は自分が何か期待されていると気付いた時、期待に応えられる様に行動するらしい。ましてそれが自分の得意分野であれば、大きな努力も無しに成果を得られる訳で、これはもう水を得た魚となろう。
 つまりここに集められた者達は、日夜頭の中で、誰かを残酷に殺している連中なのだ。人を苦しめて痛めつける、そんな方法を常に妄想している、自分の優越を空想に見出す者達なのだ。

「手足と舌を斬り落として、野犬と烏に処理を任せる!」

「手間が省けてよいな、他には?」

「磔の後に市中引き回しを、血が出切るまで続けるのは?」

「普段と逆の順序か、面白みはあるな!」

 そこからはもう、好き放題言い放題である。
 陰気な男やら挙動不審気味の男やら、日の下に出た事も無さそうな色白の連中は、過剰に残酷な刑の案を並べたてる。例えば鋸挽き、例えば絞殺、一般的な刑罰に苦痛を加え、自分自身の独創性を主張するが如き提案の山。
 和敬が笑いすぎで喉を枯れさせる頃には、残酷処刑の数は五十にも及んだ。

「はっはは、ふぅ……いや愉快だ、お前達は良いなあ。流石に日夜思考を続けているだけは有る。特に良かったのはそこのお前だ、そうそこの針金の様なお前」

 座って一息つき、酒で喉を潤して声を戻してから、和敬は一人の男を指差し手招く。集まった連中の中で一番細く、髪を伸ばして顔を隠している男だった。

「いやあ良かったぞお前の案は。単に釘を打つでは磔刑の前準備に過ぎんが、然し箇所の選択の妙が有る。絵としてもさぞや映えるだろうなあ――」

 手招きされて近づいてきた男と肩を組み、和敬はさも親しげに背を叩いてやりながら残酷刑の案を褒め称え、

「――という事で一つ、俺に見せてくれんか?」

 痩せた男の手に、金槌と釘の束を握らせた。
 和敬の言葉を合図として、宴席に武装兵士が三十名程も踊りこむ。物々しい武装の彼らは、高手小手に縛り上げられた女を八人引きずっていた――招かれた男達と丁度同じ数だけ。
 さあ、と和敬は、痩せ男の背中を押す。何を言わんとしているのか、何をさせようとしているのか、もはや分からぬ者はいなかった。縛り上げられた女の一人が、無造作に痩せ男の前へと投げ出される。

「眼球から、だったかなあ? いやいや別に順序を変えても構わんのだぞ、耳からでも鼻からでも良い。最後の一本を打たれるまで生きていて、最後の一振りと同時に死ぬ、それさえ達成出来れば良いのだとも。こいつらは抵抗など出来んし、お前の邪魔をする者は俺が排除してやる、安心しろ。……どうした、顔色が悪いぞ?」

「ば……馬鹿っ、出来るか……!?」

 痩せ男は困惑していた。
 妄想の中で人は良く殺すし、所詮は妄想だから罪の意識など無い。が、現実に人を殺した事など無い――そんな事をする度胸を持ち合せていなかった。人を殴った事さえ無く、殴られた事も無く、痛みをまるで知らぬ男であった。
 然しこの男でなくとも、そも常識的な人間であれば、見知らぬ女を残酷に殺せと命じられても従うまい。良心が逆らうと言うより、人殺しという行為を恐れるからだ。痩せ男は釘も金槌も投げ捨て後ずさりした。
 和敬は露骨に落胆の表情を見せ、ぱん、と両手を打ち鳴らす。兵士達の中に紛れていた一人、鉄兜で顔を隠した和敬の側近が痩せ男を組み伏せ――その耳に、深く釘を突き刺した。

「いっ――? ぁあ、ああかああぁ、ぁ、痛……あぁあああぁああだああああっっ!?」

「何だお前、大声出せるのだな」

 突然の激痛。始めは何が何だか分からず、苦痛を認識した瞬間に叫び出した痩せ男を、和敬は楽しそうに見下ろしていた。
 鉄兜の側近は、手際良く痩せ男を仰向けにさせる。続けて釘を二本、左右の鼻の穴に押し込んだ。

「ふごっ、ごお゛お゛っ、お゛お゛ぉっ!? おあああぁっ、あああぁっ!!」

 言語として成立せぬ悲鳴。己の体に馬乗りになった相手を振り落とそうと、背が撓み腰が跳ね上がる。鉄兜の側近は、暴れ馬を乗りこなす様に、器用に体重を移動させてやり過ごす。
 開いた口から、舌。首から下へ狙いが映り、鎖骨の上のへこみ。肉の薄い脇の下、反対に頑丈な肘。逆手に握った釘が突き刺され、金槌による衝撃で骨を砕きながら押し込まれる。絶叫が止むのは最後の最後、両眼球から脳へと突きぬける様に、釘が二つ沈められた時であった。
 宴席が静まりかえる。未だに痙攣を続ける死体が一つ、静かに血臭を堪能する主賓が一人。招かれた八人の内、七人の生き残りは皆全て、壁を背にガタガタと震えていた。

「良いなあ! これは良い、良いやり方だ。普通に釘を打つよりよっぽど楽しいぞ! お前達の案は本当に良い! では次だ次、そっちのデブ。お前の案で面白かったのは……そうだな、鋸挽きだ。ほれ、確か足首からだったな?」

 痩せ男が惨殺される様を特等席で味わった和敬は、血と脳漿に濡れた顔のまま、肥満体の男を指差した。肥満男は血相を変えて、近くに立つ兵士から鋸を奪い取り――床に転がされた女の足に、木目を断ち切る荒い刃を当てた。

「そっちには焼き鏝を喉から腹へ。そっちのは縄で一日掛けて、だったな? ああ、去勢の案を出したお前、根の代わりに乳房でも斬っておけ。いやいや、今宵は楽しい夜だなあ、はっは」

 悲鳴、血飛沫、涙に嘔吐。小さく纏まった地獄の中で、和敬は心地好さそうに漬物を齧っていた。








「さて、どうだったね記者殿よ。こういう趣向の歓迎は?」

「悪趣味ですね、未開の非文明国家には似合いの絵で……あ、ちょっとそこの腕は動かして良いですか?」

 宴の来賓達が女を惨殺し、そして自分の考案した方法で自分自身が殺された頃合いの事。一人の少女が、血の海の上を土足で歩いていた。
 部品ごとに分かれた死体を蹴り散らかし、形の良いものだけを、表情が見えるよう仰向けに直し。嫌悪感は多大に顔に現れているのだが、それよりも尚強い高揚が彼女を突き動かしていた。
 少女は、日の本の人間には見られない、明るい金色の髪を持っていた。酸鼻を極めた床を見つめる目は青色で、白い肌も合わせ恐らくは大陸――西洋の人間なのだろうと窺える。

「悪趣味大いに結構、俺は自覚がある悪趣味なのだ。然し強烈な絵が欲しいとは記者殿の言葉だぞ」

「まあそうですけどね。そうですけど、こんな散らかして欲しいとまでは言いませんでした……その辺りに草鞋とか投げといてください、後は正規兵の装束も」

 記者殿と呼ばれた彼女は、丁寧に死体一つだけを他から遠ざけ、その周りに小物を並べ始めた。草鞋、刀の鞘、立ち切られた衣服。忽ちに宴席は、遺留品溢れる殺人現場へと変貌する。

「えーと、これくらいの角度で……『Leuchten』『Abschluss』」

 それから彼女は、腰に下げた箱の様な物を手に取る。筒状に突き出た部品の先に、磨かれ曲面を描く硝子が固定されている。これこそは西洋の科学技術の粋、『写真機』である。
 部屋の中を、眼もくらむばかりの光が覆った。次の瞬間、少女の手元には、床の様子を白と黒で描いた紙が現れていた。

「おう? 前に見た写真機とやらは、百も数える間じっとしていろなどと、しち面倒くさいものだった記憶があるが」

「流石に時代遅れです、それ。誰もかれも時代遅れ、そんな旧式を使うなんて有り得ない! それはね、兵部さん。科学は科学、魔術は魔術って切り分けてる石頭が作った古い道具。こっちは私が作った最新機種なんですよ!」

 紙をぱたぱたと手で仰ぎながら、少女は誇らしげに胸を張る。背を逸らして胸を強調する姿勢で、然しまるで色気の欠片も無いのは、体より二回りも大きいだぶついた衣服が原因であろうか。少なくとも日の本の少女達に比べれば、背丈も体の起伏も明らかに大きい。
 然して彼女は、自分の価値を容姿には見出していない様である。この国ならば人目を引くだろう金髪は、男の様に短く切りそろえられている。衣服も飾り気は無く、上着は先述のように大きなものだが、ズボンは丈も幅も脚に併せた機能重視の一品。靴は底が分厚く固く、釘を踏んだ程度ならば耐えられそうに見えた。

「して、記者殿よ。お前ならどうするね、どうするよ?」

「どうする、とは?」

 自分が作った絵――写真の完成度に満足した様子の少女に、和敬はまだ笑いが収まらぬまま問う。

「しらばっくれてくれるな記者殿、この宴席に参加したらだ。俺はな、人は生きる死ぬの場面に近づいた時、ようやっとその本性が出てくると思っている。だからお前の案も聞きたいのだ、お前が人を殺すならどうするよ?」

「えー……それって下手な答え返したら私も殺されるって奴でしょ?」

 丁度、その実例を自分の眼で見たばかりだ。少女は首を捻り、うんうんと唸りながら案を探す。

「別に殺す事ないじゃないですか。要は貴方、残酷なものが見られれば良いんでしょう? で、自分でもう色々と試してる。彼らの提案だって本当は、似た様な事を昔にしてたでしょうし。自分こそ残酷だって妄想の自慢合戦だと、何を言っても貴方は満足しないですよね」

「間違ってはいないぞ記者殿。俺は確かにそういう人間だ、思いついた事は大体試してきた。今宵の趣向とて実は初めてではないのだ」

「やっぱり悪趣味ですねー……だったら私は、貴方達じゃあ絶対に出来ない事をやります。且つ殺しません、勿体無いですから。とりあえず押し付けられるありとあらゆる罪を押しつけて、村八分にされる様子を取材し尽くします」

「記者殿、お前は残酷では無いが陰湿だぞ。俺も実行は出来るが、結果出るまでが長すぎて駄目だ……どこか行くのか?」

 酔いも手伝ってかケタケタと笑う和敬を背に、少女は襖に手を掛ける。

「ええ、ちょっと撮影場所の目途を付けに。あんまり時間も無いですしね」

 外見に無頓着な少女は、裾に飛び散った血も気にせず部屋を後にした。終始、死者に一片の同情も傾けない、これもまた異常者の一人であった。
 部屋に残されたのは和敬と、鉄兜を被った側近が一人だけ。兵士達は既に退出していたし、他は死体となっている。
 全く静かな部屋で、一つ大きなあくびをして、和敬はごろりと仰向けに転がった。側近がそっと横に座り、膝を枕の代わりに差し出した。

「まいったなぁ、どうも『錆釘』は刃向う様だぞ。脅しを掛けたのは失敗だったか」

「かも知れませんね……大人しく寝ているならば良いのですが、反抗してくれば少々面倒です。こうなれば強硬策を?」

「だなあ、さっさと潰しておきたい。が、まずは聖女殿との盟約を先に片付けたいのだ。初撃で五割方は片付けたい。荒事に慣れた『錆釘』相手ではそうもいくまい?」

 左手を血に遊ばせ、右手は扇子を持って顔を仰ぐ。半分眠った様な顔で和敬は言う。

「皇都防衛の主軍に通達しろ。神道・耶蘇教を覗いた全ての宗教は国家を腐らせる元である。我が国の発展は、排他的な教えによって百年以上も遅れている。故に全ての反逆宗教は、今宵この時を以て日の本より追放とする。
 従わぬ者には武力を以て相対せよ。反抗の言一つには百の矢を以て報いとせよ。全ての寺を打ち壊せ、全ての経文を焼き払え、僧侶は窯で煮て殺せ。そして必ず……必ず〝神代兵装〟を回収しろ。それこそがこの国の繁栄の道、世界に冠たる帝国の礎である。
 ……まあ、こんな所だな。演説は後で適当にやっておく、馬鹿は奮い立って張り切るだろうよ」

「承知しました。早速、全ての次第を整えます」

 もう一度あくびを零して、和敬は寝息を立て始める。側近が手を鳴らし、伝令の兵士を数人ばかり呼び集める。口伝で知らされた命令の重大さに、彼らは皆表情を強張らせていた。



 十月十五日深夜、雲の濃い夜であった。数十の寺社仏閣が炎を上げ、数百の怨嗟が渦を巻いた。数千の民草が、寝所で身を震わせていた。
 後に『洛中の大虐殺』と呼ばれる殺戮は、この夜から半年近くも続く事となる。
 五十年ぶりの内乱の気配を嗅ぎ取って、村雨は窓から夜空を見上げた。月はまだまだ、丸くなってはいなかった。








 まだ日も昇らぬ、靄の掛かった京都市中、皇国首都ホテル三階。そこは戦場の様相を醸し出していた。

「伝令が足りひん、非番もなんも引きずってきぃ! 何でもええからここへ連れ戻せ、はよう!」

 堀川卿が声を荒げている。両の足で立ち、かぁと目を見開いて、撒き散らされた書類を髪で掴んでいる。
 彼女を知る者からすれば、正しく異様な光景であった。自室から出てくる事さえ稀な彼女が、今は他の誰よりも活発に動いているのだ。
 夜の闇に紛れて市中に散らばった兵士達による、仏寺を標的としての虐殺。その余波は早くも無辜の民を巻き添えに、碁盤の目を悉く、屍で溢れさせんと広がり始めている。部屋へと駆けこんでくる者の何人かは、顔の皮膚に焦げを作っていた。
 焼け落ちた皮膚の下から、血と混じった組織液が滲みだしている。鉄と膿の混ざった様な臭いに、顔をしかめる余裕さえ、堀川卿には残っていなかった。

「市中に派遣された者の内、まだ五十三人に連絡が取れません! 派遣場所から考えるに、恐らく焼き討ちに巻き込まれたかと……」

「そっちは諦める、生きてそうなもんだけ連れ戻させえ! 絶対に戦闘はさせるな、抵抗もあかん逃げる事だけは許す! ええな!?」

 夜の帳はまだ深い。日光が街を照らすまで、恐らく半刻以上は時間があるだろう。だのに京の街は赤々と照らされて、近くの看板ならば文字まで読める程であった。
 堀川卿は苛立たしげに壁を蹴る。非力な彼女の事ゆえ、足に痛みが返るばかりである。
 それでも尚、もう一度繰り返す。自分自身が下した決断が、あまりにも人の情を顧みず、利害ばかりに走るものだという自覚が有ったからだ。
 彼女が下した命令は、『京都市中の全構成員を一時帰宅させ、全ての戦闘行為の回避』である。大概の業務を引き受ける『錆釘』は、寺社に雇われて働いている者もいる。その構成員達にさえ、襲撃を受けた寺社には力を貸さず逃げて来いとの命令を下したのだ。
 勿論、伝達が完了するまでに時間は掛かる。命が伝わらず、身を張って戦う者も出るかも知れない。そうなれば――その時は仕方が無いと、堀川卿は諦めていた。
 長い目で見れば、有事には逃げだす集団だという評価を受けるのは損失となるだろう。だが有能な人材をあたら死なせてしまうのは、下の下策である。汚名は荊道の果てに晴らせるかも知れないが、死者の命は帰らないのだ。
 なればこそ、今は屈従こそが利を得る道。非道の政府に頭を垂れ、或いは虐殺の前線に立たされる事が有ろうとも――唇の端を噛み切りつつ、堀川卿は、己の決断を貫くと腹を据えた。

「……第一波が収まるまでは静観や。死体の回収を済ませた後、全構成員に休暇を出す。並行して精鋭を選抜せえ、荒事特化で五十人ばかりな」

 五丈の金髪を手の様に動かし、目は一時たりと一つに留まらず。両の耳でそれぞれ別な音を聞き、次に下すべき命令を思案する。ふと窓から外を見降ろせば、政府の兵士が重武装で駆けていくのが見えて――

 ――ひぃ、と空気が鳴いた。
 堀川卿は、夜の黒が融解し、何かが零れ出すのを見た。
 黒の中から黒い影が、肩も揺らさず進み出る。兵士達は鎧を斬り裂かれ、刀を圧し折られてうつ伏せに倒れていた。
 倒れた兵士に追い打ちとばかり、頭への下段蹴りを打ちこんだ黒い影――それこそは、喜悦に顔を歪ませた雪月桜であった。

「さ――桜さん、村雨ちゃん!? あかん、戻りぃ! 今夜はあかん!」

 窓を開けて身を乗り出し、堀川卿は声の限りに叫んだ。石畳の上に立つ黒い影は、彼女を一瞥もせずに駆け去り、

「ごめんなさい、この人止めるの無理ですー!」

 灰色の少女が叫び返し、その後を追って走って行った。








「どこへ行くの、桜!」

「どこでも良い、寝て居られるか! 入れ食いだ、堀の鯉だ、これなら幾らでも食いついてくるぞ!」

 逃げ惑う人間か、追う兵士か。その他には誰の姿も見えない石畳を、桜は全速力で走っていた。
 馬鹿げた筋力が生む反動、それを支え切れる両足だ。加速こそはやや遅いのだが、いざ最高速へ達してしまえば、駿馬にも劣らぬ砲弾の如き速度となる。一歩ごとに石畳に罅を入れつつ、向かう方角は東であった。

「鉄の臭いが多すぎる、何人いるか分からない! 幾ら桜だって無理だってば!」

「雑兵のたかが百や千など如何程の事も有らん――そうら、第一波!」

 なぜならば――東には、寺社が多く集まっているから。即ち、空を焦がす火柱が、一際多くそびえ立っているからである。
 寺を焼き、炙り出された僧侶に止めを刺す為、政府の正規兵『皇都守護隊』は、二十名を一班として行動していた。桜が捕捉したのは、そのうちの一つであった。

「幾らか遅れて追って来い、巻き込んでしまうやも知れんからな……!」

「私の立場も考えてよ――ああもう、ほんとにもう!」

 俄かに下された虐殺命令に、兵士達は何れも神経を尖らせている。村雨は彼らに近付きたいとさえ思わず――桜は彼らへと、狂喜凶器を一切隠さずに迫った。
 兵士達の中で最も鋭いものが反応した頃には、桜は既に一人を殴り倒しつつ、一人を絞め落としていた。左手の指だけで気道と動脈を圧迫する、力任せの絶技である。
 誰か、と名を問う声に応える代わりとして、人間を無造作に投げた。地面と並行に飛んだ兵士は、数人の味方を巻き込んで倒れ伏す。

「てっ、敵しゅ――謀反人がぁっ!」

 数人が戦闘不能に陥って漸く、兵士達は自分が攻撃を受けている事に気付いた。
 その頃にはもう遅い。既に恐怖は蔓延し、そして襲撃者は蹂躙の愉悦に酔っている。切り捨てようと抜いた刀ごと、肋を折られて一人が崩れ落ちた。
 巨大な鎌で草を刈り取る様に、造作も無く兵士が散らされていく。殴られ、投げられ、峰打ちで吹き飛ばされ、踏みつけられ。誰一人と殺される事はなく、だが一人として無傷では逃れられない。戦線を離脱しようと企んだものから優先的に、桜は峰での殴打を食らわせていた。
 この夜に何が起きているのか――桜はまだ理解しきっていないし、理解する必要性を感じていない。内乱の類だろうとは思うが、それを突き詰めて考えようとしないのだ。
 理由はさておき、武装した兵士が、きっとただの市民をさえ殺そうとしている。ならばその渦中に飛び込めば、存分に蹂躙すべき的に出会えると思っていたのだ。
 二十人の兵士が全て地に伏すまで、数字を百も数えられなかっただろう。青痣一つ作らずに、桜はさも愉しげに笑っていた。

「ああ良いなぁ、京に来て良かった。まだいるぞ、まだまだ居る! まだまだ浴びさせてくれるのだ、嗚呼、嗚呼!」

 呵々大笑、夜天に響く。上命に背を押された兵士達よりも、それは残酷な声だった。
 留まっていたのは僅かな間。鋭敏な五感は直ぐに、次の獲物を見つけ出す。その集団が、今叩き潰した連中の二倍は集まっていて、かつ武装も上等であると見て取った瞬間、桜は嗤いながらまた飛ぶように馳せた。

「……冗談じゃないよ、もう」

 幸福の最中にある桜とは対極的に、村雨は震えを止められずに居た。
 風向きが幾度変わろうと、漂ってくるのは鉄の臭いと、肉が焦げる香りばかりなのだ。
 耳を澄ませば人外の聴力は、泣き叫ぶ童女の悲鳴を拾い上げる。咳き込む音が幾つか続いて、泣き声が止んだ。きっともう彼女は泣けないのだろうと思うと、恐怖より悲痛より困惑が膨れ上がった。
 何故、この様な事が起こっているのだ。この国はもう五十年ばかり、蒸気船でも眠りの醒めぬ太平にあった筈ではないか? ましてここは皇国の首都、帝のおひざ元だと言うのに。
 だのに今この瞬間も、誰かが誰かを殺している。恐らくは然したる理由も無く、その近くに居たというだけで殺している。今宵この街は、誰も安らかには居られぬ戦場と化した。
 然し村雨は、自分が死ぬ可能性など考慮していなかった。獣の本能が、自分の死を嗅ぎつけていないのだ。鼻を狂わせる元凶は、返り血で赤く染まった雪月桜である。
 この女の横に――或いは後ろにいる限り、自分に死は訪れないだろう。死神も敢えてこの女の前に現れるまい、回り道をして別な魂を狙う筈だ。無条件で確信出来る程に、桜の戦力は狂気の沙汰であった。
 村雨が殺人を嫌うから――たったそれだけの理由で、桜は己の殺人剣を封じている。自らの術技に枷をしつつ、命を取りに来る敵を無傷であしらうのは、技量の隔たりが天地程も有るからこそ為せる芸当だろう。
 人は何を思えば、殺傷技術を斯くも高める事が出来るのか。村雨はまるで想像も出来ず、想像という行為さえ嫌うかの様に首を振った。凶行の影に隠れて安寧を図る己が、少し情けなく感じられた。
 何かをせねばならぬ、村雨はそう思った。こうも人が死ぬ夜に、ただ生きてはいられないと思った。そして幸いにも村雨の鼻は、人間の生死を嗅ぎ分けるなど容易い事であった。
 桜の後ろを追いながら、時折脚を止めて鼻をひくつかせる。まだ水気の多い煙と、生きた人間の臭いがした。迷わず村雨はその方角に走る。
 今ちょうど桜に蹂躙されている兵士達が、火を放ったばかりの寺であった。足の弱い老僧が、別な僧侶の肩を借りて歩いている。二人の頭上に、燃え盛る梁が落下して――

「りゃあああぁーっ!!」

 間一髪、村雨は僧侶二人に駆けより、腕を強く引きよせた。転倒する二人の後方で、梁は木床を割っていた。

「ぁ――あ、恩に着る、娘!」

「いらないから逃げて、邪魔!」

 村雨にしてみれば、その言はまさに本音であった。今は――そう思った理由はまだ分からないのだが――何でも良いから人を助けたかった。死にそうな人間が、死に易い場所に居ては邪魔なのだ。
 もう一度だけ礼が聞こえたが、村雨はそれを聞いていない。次に捕捉した臭いと声は、炎の中に誰か取り残されていると伝えていたからだ。自分の脚ならば炎に撒かれる前に、十分駆け抜けられるとも分かっていたのだ。


 命を拾った二人の僧侶は、去り際、炎を背にした二つの影を見た。
 小さいながらも馳せ回り、誰となく助かる事を強要する――捨てられた犬の様な灰色。
 修羅の巷に酔い詠い、人を殺す者を蹂躙する――大翼を広げた烏の様な黒。
 洛中全ての兵士を数え、また死者を数えてみたのならば、この場で行われた小競り合いなど、ほんの些細な事に過ぎない。たかが数十人の兵士がなぎ倒され、たかが数人が命を拾っただけなのだから。
 だが――例え当人の思惑がどうあろうと、救われたからには、倒されたからには、恐怖も憧憬も畏怖も抱こう。
 夜が明けるまでに桜は二百人以上の兵士を昏倒させ、三つの掠り傷を負った。村雨は十二人の命を救い、二つほど火傷を負った。
 その様をじっと、二つの目が観察していた。死も生も暴力も悲劇も全て、ただ観察しているだけの傍観者は、

「……見出しは決まりね、急いで刷らなきゃ」

 ひらひらと夜風に紙を晒して、らんと目を輝かせる。
 風に揺れる紙には黒い染みが広がって――燃え盛る寺社を前に嗤う、雪月桜の背を描いていた。








 夜が明けるにつれて、皇都の惨状は誰の目にも明らかになっていく。
 雲一つ無い青空を、立ち昇る煙が黒く汚している。洛中に多数存在する寺社が、ただの瓦礫へと帰している。
 どれ程の人間が死んだだろう。焼け落ちた柱の下から、炭に成り果てた屍が引きずり出されて、荷車に載せられ運ばれていく。ただの一夜で、街は戦地と化していた。

「……酷いな、これは」

 戦の愉悦に浮かれていた桜でさえが、酸鼻極まる光景を見て、吐き捨てる様に言う。

「兵士は……多分、もう戻ったと思う。近くに臭いはないから……うん」

 精神、肉体の両面で披露を蓄積させ、村雨は漂う様に歩いていた。時折、道の脇にある瓦礫の中で、形が残っているものの傍に座る。そうした時は大概、そのすぐ近くに、人間だと辛うじて認識できる焼死体が埋もれていた。

「手伝って、私じゃこれ動かせない」

 複雑に積み重なった柱と屋根の残骸は、村雨の力ではとても持ちあがらない。桜は摘みあげる様に無造作に、死体を覆う瓦礫を取り除いた。
 そして、それだけ。どこかへ運ぼうとか、弔おうとか、行動を起こす訳でも無い。死体は幾らでも見つかるだろう、一つ一つ丁重に扱っている余裕は無いのだ。

「村雨、大丈夫か?」

「ちょっと火傷したくらいだから、平気」

「そうではない、阿呆が」

 僅かに休憩し、また直ぐに歩き始める村雨を、桜は襟を掴んで引きとめた。振り返った村雨の顔は、寝不足に拠る隈が浮き出ていた上に、血の気も引いて青白く寒々としていた。
 何が起こったかなど、まだ全容を把握してはいるまい。何か理不尽な事が起こって、大量に人が死んだと知らされただけだ。日が上って初めて、予想の数十倍もの人間が死んだと知らされ――村雨は、誰かの悪意の強さに押し潰されかけていた。

「さっさと帰るぞ、いいな」

「何処へ?」

 桜は、己の行為を悔いていた。昨夜、喜悦に任せて刀を振るうのではなく、炎と刀から目を背けて京を出ていれば――こんな村雨の顔は、見ないで済んだのではないか?
 そうだ、何事も度合いがある。死人が出たと聞けば不愉快だろうが、然し自分の目で見なければ耐えられもしよう。一つや二つの死体であれば、それは荒事も生業とする身、嫌悪を示せど直視は出来る。だが、数十数百と死体を見て、数千もの人間が死んだと聞かされるのは――死を忌み嫌う村雨には、重すぎる現実であろう。

「江戸へ、だ。今日明日で支度を整える、明後日に京を立つ」

「……うん、分かった」

 もはや桜には、この街に留まる理由など無かった。そして村雨には、桜の言に逆らう理由が見つけられなかった。
 日も高くなり始めた。まずは血と煤を落とそうと、宿への帰路に着いた時の事――

「勅命、ちょくめーい! 政府よりの公式発表であります、皆さま心するように!」

 擦れ違う誰の顔も、微笑み一つ浮かべてはいないというのに、聞こえてきたその声はいやに明るかった。殺気さえ感じられる程に強い視線を、桜は声の方向へ向けた。
 そこには高札が建てられていて、数十人ばかりの人だかりが出来ていた。皆、死人の様な顔である。が、そんな中にたった一人、晴れやかな顔をした少女が居たのだ。

「字が読めるならさあ読んだ、ついでにこれも一部どうぞ? 近代国家の礎は、正しき報道に有ると知りましょう!」

 野暮ったい格好だ、と桜は思った。西洋人に特有の金髪は、男の様に短く切られている。起伏に富む体もだぶついた衣服で誤魔化され、色気など何処にも見えはしない。声は力強く――だから寧ろ、この場では鬱陶しく――静まり返った街に響いていた。
 何事かと高札を見れば、刻まれているのは確かに、今上帝の錦の御紋。公の、つまりはこの国に生きるもの全てへの布告文は、おおよそ民権的な思考とは対極に走っていた。



 一つ――信教の自由の剥奪。宗教は害毒である、人心を惑わし道徳を狂わす。国家に蔓延る悪しき慣習の、その殆どは邪教が広めたものである。故に皇国政府は、神道もしくは『聖言至天の塔教団』以外の全ての宗教に傾倒する者、全てを大逆の罪に問う。
 一つ――邪教の信徒は全て残刑に処す。また、信徒を匿った者、信徒に金子一文であろうと融通した者もまた同罪とする。
 一つ――皇都守護隊に所属する部隊長以上の者に司法権を与える。
 一つ――全ての瓦版の撤廃。正しき知識を持たず、風説に惑わされた者が書く瓦版は、民衆の目を曇らせる害毒である。故に皇国政府は、政府認可の印を得た販売者以外が、瓦版並びにそれに準ずる物を配布した場合、その者を残刑に処す。



「……呆れたな、二百年は遅れた話だぞ」

 高札を全て読み終えた桜は、首を左右に振って嘆息した。その内容があまりに荒唐無稽で、とても政府の公的発表だとは思えなかったからだ。
 この様な法を敷いて、国が保てると思う者など居るまい。これが真実、戯言でなく実行されると言うのならば、日の本は遠からず内側から崩壊する。国政を知らぬ桜であろうが、そう断言してしまう程に、非近代的な布告であった。
 その思いは、この群衆達も同じく抱いたものであろう。呻く者、嘆く者、諦めを見せる者、何れにも力は無い。力無く項垂れる彼らの手に、少女は質の悪い紙を掴ませていた。

「そこのお二人さんもどうぞ、政府公認誌の第一号ですよ! 文明国家は民衆の知識の向上から、さあ読んだ読んだ!」

 桜は正直なところ、早々にこの場を立ち去りたいと思っていた。思っていたのだが――渡された紙に映った絵姿が、どうも覚えのある姿だったので、つい受け取ってしまった。

「あ――あれ、え? これって……?」

 その横では、やはり瓦版を押しつけられた村雨が、そこに印刷された絵姿――写真を見て、眠気に落ちそうな瞼を跳ねあげた。何せ映っていたのは桜の姿であったのだから。
 写真は、大きな書体で書かれた身出しの下に張り付けられていた。夜に黒装、黒の長髪、人だと言われなければ気付かない者もいるだろう。だが村雨からすれば良く見慣れた背、見間違える事も無い。

「怖いでしょう、鬼の形相でした。政府軍を殴り倒す非道の反逆者、市民も兵士もお構い無しに塵殺する怪物ですよ」

「は? 何それ、どっから出た話――」

「まあまあ、政府公認誌は嘘を付きません。政府の言う事これ即ち正しい事、皆さんは素直に信じましょう。信じるものは掬われるんですよ? こう、無知な民衆の泥水溜りから、綺麗な池に移すために、網とか何かで」

 高札を前に一人軽やかに歩く少女は、村雨の追及もするりと交わし、まだ瓦版を受け取っていないものの手に紙を押しつけていた。

「明らかに嘘じゃないこれ。何でよ、こんな時に良く作り話なんて出来るね?」

「何をおっしゃる。政府公認の私の記事を疑うのは、それ即ち政府の見解を疑う事になりますよ?」

 木組みで刷られたのだろう記事は、政府の判断の賢明を称賛し、反抗的な市民を糾弾するもの。掲載された写真に関しても、『任務中の兵士を襲撃した、残虐非道の人斬り』と――事実無根とは言えないが、誤解を招く様な記述をしている。
 政府の兵士が焼き打ちを仕掛けたのは、謀反に備えて銃器弾薬を溜めこんでいた寺社仏閣。炎が強くなったのは溜めこまれた火薬が原因で、家屋を無暗に巻き込まず火が収まったのは、やはり兵士の尽力が原因だと述べている。
 事実は対極だ。兵士達は火を放った後、熱と煙に炙り出される者を狩る為だけに待機していた。隣接する家屋に火が移ろうが、それを消しとめようなどとはしなかった。
 尽力したのは町人達であり、或る者は水の魔術を、或る者は風の魔術を、魔術を不得手とする者は建物自体を打ち壊し、己の危険と引き換えに街を救ったのだ。
 火の粉を浴びながら逃げ惑った民衆が、この記事を完全に信じる筈は無い。が、京もやはり広いのだ。どうしても被害の少なかった地域は、対岸の火事とばかりに夜間の虐殺を知り――そして他人事のようにこの記事を読む事だろう。そうなれば、疑う事もなく受け取る者も、また現れるに違いない。

「本当の事を書かないの? どれだけの人が死んだって思ってるのさ?」

「それに関しては、まだ公式の発表が無いので分かりませんね。ですが私は事実だけ書いてますよ」

 死に直接触れる側に立つと、蚊帳の外から眺めているだけの人間には、無性に腹立たしさを覚えるものだ。村雨は掴みかからんばかりの勢いで、短髪の少女に詰め寄る。

「……悪くない記事だな。この国の瓦版とは違って微に入り細に入り、近くにおらねば書けぬ事だ。いや中々に読ませる文だぞ」

 その気勢を削ぐように、桜はどこか呑気な声を出した。無理に押し付けられた瓦版、自分自身も悪鬼の具現とばかりに糾弾されている記事を読んで、桜は少女の文才を寧ろ称賛していた。

「ええ、そうでしょうそうでしょう、お目が高い! 私の発行する『新聞』は、いつもいつでも現場主義なんですよ! 聞きかじりだけで適当に書く前時代の遺物とは訳が違う、私ルドヴィカ・シュルツの書く記事こそ――」

「が、恐ろしく自己中心的だ」

 己の著作を称賛されて、喜ばしく思わぬ者もいないだろう。然して彼女、ルドヴィカは過剰に浮かれ、鼻も高々と誇らしげに胸を張る。自惚れの絶頂に居た彼女を叩き落としたのは、変わらぬ調子の桜の声であった。

「お前の文章は癖が強いぞ。私は、私が、私に……『私』という単語が何回出て来る? これでは街を語っているのか、それともお前を語っているのか分からんではないか。お前は事実を知らしめたいのか、それとも自分を主役に読本よみほんでも書いているのか?」

「な――私の記事を、創作物扱いですって!?」

 酒に火種を近づけたかの様に、ルドヴィカの感情は瞬時に発火し、色白の顔を真っ赤に染め上げた。どうやら桜の言葉は、何か彼女の触れられたくない部分に肉薄しているらしかった。

「いやまあ、大いに創作部分もあるのだろうが、そうでなくてな。お前の文章は自信過剰に過ぎる、と言っているのだ――ぅおう」

 桜の指摘は途中で打ち切られる。手の中に会った安紙を、ルドヴィカに引っ手繰られたからだ。あまりの剣幕に呆れながらも、桜は特に抵抗もせず、奪われるがままに任せておいた。

「……ふん、非文明人には分からないんでしょう、真実の崇高さが! 良文が優れているのではありません、事実に即した文章が優れているんです!」

 言い捨てて、背を向けて歩き去るルドヴィカ。足取りは荒々しいが、わなわなと震える肩は、寧ろ年齢より非力で幼いものにも見える。呆れたように見送る桜の横を――村雨が、すうと進み出た。

「これのどこが真実よ、自分で見てきたなら分かるでしょ!? 見ないふりなんてしないでよ、直ぐそこにだってまだ――」

 遠ざかる背に叫び、やや離れた場所に有る瓦礫を指差す。若い男達が秋空の下、汗と涙を流しながら、焼け落ちた柱を取り除いていた。その下から突きでていたのは――焼け焦げた、人間の腕であった。
 誰ももう、悲鳴など上げたりはしない。死体が市中に存在しようが、昨夜を境にこの街は、それを異常事態と思えない場所に変わったのだ。
 法螺を撒き散らして振り向きもしない少女がやけに憎くなって、村雨はその背に追いすがろうとする――石畳を蹴ろうとした足が、体ごと持ち上げられた。

「ここで喧嘩始めんのかお前……馬鹿になったか?」

「え……? あ、いや……そんな事は」

 村雨の襟を掴んで持ち上げていたのは葛桐だった。相も変わらず、人の群れに交じっても頭が突き出る男である。

「上が呼んでる、お前も来いとよ。金の臭いだ、逃がすんじゃねえぞ」

「上って……堀川卿? 私達を呼んでるって……何で?」

「知らねえ。給料は三倍出す、それだけ言われてんだ」

 道端にゴミを捨てる様な気安い動作で、葛桐は村雨を後方へ放り投げる。空中で回転、姿勢を立て直し、村雨は足から着地した。丁度そこは、桜の隣であった。

「久しいな、いつぞやの噛み付き男か。私に招待状は無いのか?」

「あぁ? ねえよ、お前は部外者だろうが。……が、まぁ……無くても別に良いんじゃねえか?」

 着地した村雨が勢いで一歩後退する。その背を抑えつつ、桜はゆるりと歩き始めた。
 高札の周りの人だかりは尚も膨らみ続け、そしてその中の一人たりとも、その布告を歓迎していないのは明らかであった。








 堀川卿の私室はやはり薄暗く、万年床が奇妙な存在感を示していた。だが今日ばかりは部屋の主も、自分の脚で立って来客を出迎えた。
 集められた人員を見るに、どうにも人相から気の短さが伝わってくる様な連中である。そして恐らく喧嘩の腕も、面構えに比例するだけのものは有るだろう。
 然し――桜に常に追随していた村雨には、彼らとて街のチンピラと大差無い様に感じられていた。辛うじて葛桐と、あと二人か三人は、相当な腕利きであろう。だが、一人で数十人を打ち倒せる様な怪物は、たとえ『錆釘』の内部にもそう居ないという事らしい。
 呼び集められたのは三十人ばかり――本当は五十人の元に伝令が走り、二十人は連絡が付かないか召集に応じなかったのだ。

「よう来てくれはった。挨拶は抜きや、本題だけで済まさせてもらいますえ」

 集められた彼らは、自分達が為さねばならぬ事を、既に幾つか予想していた。
 荒事自慢を掻き集めるからには、これは『錆釘』も本腰入れて、政府と一戦交えるつもりであろうか。敢えて少数に留めたのは、夜陰に紛れて奇襲を行わせる為だろう。ではいよいよ、大きく稼ぐ時が来たのか――そんな風に、彼らは考えていた筈だ。

「全員、皇国政府の兵士に対する一切の加害行為を禁ずる。また、朝的とされた者に対しての何らかの支援行為は、例え業務の内であっても罰則の対象とする。度を超す場合は討伐命令――殺害の依頼を、うち自身から出すで。
 分かりやすく纏めるんなら――うちら『錆釘』は政府の布告に完全服従する、っちゅうこっちゃ」

「馬鹿を言え!」

 呼び集められた者の中で、気の短そうな男が叫んだ。彼程では無くとも、集められた者の大半は、堀川卿の言に不服の声を上げた。
 道理が何れに有るか――自分達か、それとも無辜の民を虐殺する政府か。正当性は我らに有り、いざ戦えば賛同する者も有ろう。被害が拡大する前に、今この瞬間にこそ立ち上がるべきではないか? それが彼らの考え方である。
 併せて言うに、そうして日々の糧を得てきたのが彼らだ。生物として強い事、それだけを頼りに自分の腹を満たしてきた彼らだからこそ、争いもせずに屈服してしまう事に疑問を抱いたのだ。

「今朝方、政府から正式に書状が届いた。それによるとな、うちらから五十人ばかり、邪教攻めの先兵を借り受けたい言うとるんよ。当然の事やけど、これは普通に殺しもしてもらう依頼になるわな。
 せやから、あんた達を集めた。正式な要請やから、そう無碍にする訳にもいかん。可能な限り良質の兵隊を送りつけて、その分稼がせてもらおう思うとるんよ。人数が少ないのは……まあ、しゃーないわ。
 報酬は正規の五倍を提示されとる。ヨボヨボの爺婆や喧嘩も知らん頭でっかちの坊主連中を、一日に何人か殺せばそれだけで一月遊べる金が入る。逆にこの任務、拒否するなら相応の罰則も有りや。今回はなりふり構っとられんさかいな」

 部下から向けられる疑念も、まるで意に介さず堀川卿は言葉を続ける。感情の籠らない声である。そして、命令は酷く非人道的なものであった。
 然して命令を与えられた彼らは――彼らの半分以上は、その非道を良しとする側に傾き始めた。
 通常の五倍の報酬と、そして敵は弱者と確定した存在。雇用主は政府、おそらく支給される装備一式も上等の品だろう。人脈の形成も期待できる。
 正義だ道理だという言葉は、居心地の良いものだ。然し腹は膨れないし、雨風寒さは凌げない。先程不平の声を上げた男でさえ、報酬という言葉を聞けば、表情から暗さが消えていた。

「良く働いたもんには、正規兵として小部隊を任せる事も検討しとるらしいで。その為なら……少々の無理な任務でも、あんた達はやってのけるやろ?
 ……質問があれば答える。無ければ意思確認、それから配属の通達や。誰かいるか?」

 三十人近い集団の中で、まずは中年の男が手を上げた。

「俺は今、一月の契約で警邏に雇われてるんだが……そっちはどうすれば良い?」

「代わりの人員を二人回す。向こうから貰うのは引き続き一人分の給与でええ、不足はうちらで補填します。今回の特別要請は、全ての雇用契約より優先度を高く認識してもらいます、ええね?」

 分かった、と男は短く答えて手を降ろす。

「政府への完全服従が『錆釘』の方針と決まった……という事ですが、では方針に背く構成員の殺害は」

 また別な手が上がった。背の高い女の手だった。

「許可する、特例や。今回の任務に限り、法度の同胞殺しにも目を瞑ったる。例えそれが〝あんたらの誤認による事故だったとしても〟な」

「……誤認による事故だとしても……ふふ、了解しました」

 質問者の女の口が、ぱっかりと上下に裂けた。集められた者達のどよめきの大半は、信じ難い事を聞いてしまったという困惑だったが――二人か三人が、明らかに喜悦に顔を歪ませていた。村雨の見立てで、恐らく葛桐と同等か――或いはもう少しばかり強いかも知れない様な連中だった。

「ほな意思確認をするで。全員、床で悪いがお座り……これから確認を取る」

 その他に質問の手は上がらなかった。不満が無いという意味でも無かろうが、堀川卿はこれ以上、結論を先送りにする気も無い様だ。

「うちの方針に従うならそのまま話を聞け。気に食わん奴は――立て」

 迷い無く立ち上がったのは、村雨ただ一人であった。ほぼ反射的に、噛み付く様な気勢で立った村雨を、堀川卿は冷たい目で見ていた。

「私は……納得できません。あのやり方を認めるんですか!? 何人が死んだかも分からないのに……!」

「うちは認めるよ、村雨ちゃん。この国を動かす人間達が決めた事を、たかだか数百数千の頭が覆せる筈ないものなぁ……
 昔っからこの国はそういうもんやろ? 帝が決めて下が動く、幕府が決めて下が動く。やっとる事はなーんも変わらへんわ」

「その決定が間違ってるのに、どうして!」

 この場で堀川卿の言葉に異議を唱えたのが村雨だけであった理由は――取りも直さず、彼女ただ一人が周囲に比べて幼すぎた為であった。
 他の誰も、政府が正しい事をしているなどと考えてはいないのだ。明らかに政府の行動は道理に欠けている、従えば即ち悪行に手を貸す事ともなろう。
 だが――権力の衣を纏った悪行は、許される行為なのだ。寧ろ権力に弓引く事こそ、例え正義に基づいていたとしても許されざる事となる。
 ならば、善悪など語るも虚しい事であるならば、利に身を委ねるも人だろう。

「……何人死んだかは、確かに分からへんけど。『錆釘』の構成員は少なくとも、二十人以上死んどるで。これ以上死人を増やすくらいなら、余所の誰かだけ殺して済ますわ」

 何一つ意義を唱えない者達は、自分の利を選んだだけだ。堀川卿は、『錆釘』という組織の利を選択しただけだ。己の感情以外に利する所ない選択をする村雨こそ、この場ではただの幼子であった。

「おい待て、聞き捨てならん事を言うな」

 然して幼子の純粋さを、良しとする者も居るのである。

「『全ての雇用契約より優先度を高く』……私がどれだけの金を払ったか知らんのか? 『錆釘』とはなんと客に冷たい場所だろうなぁ」

 本来なら構成員しか通されない筈の部屋に、雪月桜は平然と立っていた。

「……桜さん、相変わらず自由な人どすなぁ……申し訳あらへん、納得してくれませんか?」

「無理だなそれは。『代わりの人員を二人回す』だと? 冗談ではないぞ、こいつの代わりがどこに居るものか」

 一人、両手を強く握りしめて立つ村雨の肩を、桜は軽く引き寄せて左腕に抱いた。集められた構成員の内に調子の良い者が居たらしく口笛が一つ聞こえた。

「代役は、出来るかぎり手を尽くさせてもらいます。美人さんが好きなら二人でも三人でも」

「十人だろうが断る。下手な代役など送りつけてみろ、そいつの肋と合わせて、お前の首も圧し折るぞ」

 背の鞘の留め具を外す。蝶番が開き、黒太刀『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』の柄が、桜の右手に握られた。

「私が買ったものを、誰が取り上げるのも許さん。無理を通すと言うのなら、この場に居合わせた者も皆殺しだ」

 その言葉に、咄嗟に身構えた者が居た。殺しを許可されて嗤っていた三人は、何れもが逃げる為に腰を浮かせた。葛桐だけは呆れ果てた様に溜息を付き、胡坐を掻いたまま座っていた。

「さてどうする堀川卿とやら。虎の子の部下を失うか、或いは小娘一頭を手放すか。利を考えるならば悩む事もあるまい?」

「……妥協できるのはここまでどす、それ以上はこっちも体面がある。それを分かってくれはるなら……村雨ちゃんが何をしようと、気付かへん様にしときましょ」

 堀川卿もまた獣である。言葉だけの脅しを掛ける者と、本当に行動に移せる者の違いは嗅ぎ分けられる。桜ならば実行するだろうし――そして実際に、この場の者を皆殺しにしかねない。彼我の力量差を鑑みれば、頷く他に手は無かった。

「うむ、理解が有ってよろしい。戻るぞ村雨、そろそろ眠い、添い寝でもしろ」

「……ん」

「どうした? 誰がするかー、などと喚かんのか? ……ではな、堀川卿とやら」

 鞘を閉じ、桜は堀川卿の部屋を後にする。敢えて追う者など誰も居なかった。








「まーったく! ああいう時はな、適当に話を合わせて頷いておけば良いのだ。徒労だと分からんのか?」

「………………」

 自室に戻った桜は、太刀と脇差だけ外してベッドに転がった。
 村雨はベッドの縁に腰掛け、両手を握りしめたまま小さく震えていた。言いたい事は幾らでも有るのだろうが――それを言葉として、上手く伝えられない事がもどかしくてならない。苛立ちにも似た感情が渦巻いて、どうにもならなくなっていたのだ。

「おい、村雨。お前そんなに、正しいだの間違ってるだのが気になるか?」

「……そんな事じゃない!」

 強く叫んでみても、言葉は後に続かない。また黙り込んでしまって――桜が体を起こした。

「人助けが趣味という奴は、まあ見た事は有るな。だがお前は……そういう考えでは無かった筈だ。もう少し保身に長けていると思っていたがなぁ……何故だ?」

「何が」

「火に飛び込むのは、恐ろしくなかったのか?」

 獣の本能は、火に過剰に近付く事を許さない。人間とて同様に、理性が有れば火傷を恐れる。人でもあり獣でもある村雨が、炎を恐れない道理も無いのだ。

「……あの時は、そんな事分からなかった。ただ……誰か生きてる人がいてさ、自分がどうにか出来そうだって思ったら、勝手に足が動いてただけだもん」

 だが――例えば、井戸に子供が落ちてしまったとしよう。その子供が例え自分の親類でなくとも、もしかすれば個人的に好感を抱いていない相手であろうとも――人間は不思議と、その子供を助けたくなるものだ。
 そう、人間は自分の利害に関わらず、無条件に身を賭して他者を救う事がある――救いたくなる事がある。それを良心と呼ぶのは、きっと正しい解釈ではない。自分が何かをしなくてはという、それは寧ろ義務感に近いものなのだ。

「でも、何人か助けてみたって、結局その何十倍も何百倍も死んで……」

 だから村雨は苦しんでいる。大きな傷も負わず、強力な庇護者も持つからには、持たざる者を助ける義務が有る――言語化できぬ領域で思い込んでいる。

「……じゃあ何よ、私がした事って!? 意味無いじゃない、何も変わらない……気休めにもならない! 私なんかじゃ何も出来ない、出来なかった!」

 痛むのは良心などではない。何も出来ぬ自分の非力、それを嘆いているのだ。思う事を為せぬ己の弱さに苦しんでいるのだ。

「なのに誰も、どうにかしようなんて思ってない、真っ直ぐ見ようともしない……! 余所見をして嘘をついて……もっと、綺麗なものだって思ってたのに!」

 ならばせめて、誰かの力を頼りたかった。ほんの僅かでも良い、力を貸そうという意思だけでも良い。その後押しさえあれば、自分の行為を正しいと裏付けてくれれば――或いは自分の非力に目を瞑って、徒労を繰り返せるのかも知れない。
 そうだ、所詮は八つ当たりにも似た感情なのだ。勝手に理想化した人間像から周囲が遠ざかっている、それが我慢ならず喚いているだけだ。
 本当は村雨とて、『錆釘』が政府に尻尾を振る理由を推察できる。政府公認誌とやらが、民衆に嘘を振りまく理由を推測できる。だが、そうして理屈を突き詰めて考えて行くと、人間が汚いものであるという結論が出てしまいそうで、だから分からない振りをしていたのだ。
 何時しか村雨は、膝を涙で濡らしていた。悲しみではない、怒りでもない、ただ悔しさだけが渦巻いている。頬を濡らす涙を拭いもせず、子供の様にしゃくりあげ――背に温度を感じて振り向いた。

「まずお前はな、もう少し我儘になるべきだ」

 村雨の小さな背は、桜の胸に抱かれていた。

「私が無茶をしようとしても、お前は大概受け入れて……ああだこうだと言いながら、結局は最後まで横に居る。もう何度繰り返した事だろうなぁ? 江戸でも道中でも、京に来てからもまるで変わらん。いつもお前は肝心なところで一歩引き下がる。
 ……だがな、村雨。その一歩を下がらずに押してみれば、世の中以外と通るものだ」

 背から回された手は、小さな傷跡が無数に残っていた。その内の一つ、幾らか新しいものが気になって、村雨は自分の手をそっと重ねる。似た様な事が有ったなと考えて――その時は、未遂で終わっていたとも思い出した。

「あの初めの日。殺されるかも知れないと怯え泣きながらも、お前は私の前に立ちはだかった。人が死ぬのを見たくないという我儘で、私の〝殺したい〟という我儘を捩じ伏せたのだ。なら……もう一度、それが出来ぬ筈もあるまい?」

 人を守るのも、所詮は我儘なのだと桜は言う。人を傷つける行為と救う行為と、過程だけを見るのならば、本質的に大きな差は無いのだ。ただ結果を重んじるものだけが、この二つを区別する。

「……どうしろって言うの」

「どうしたいのだ」

 桜の手の古傷に、村雨がそっと爪を立てる。薄皮に爪が食い込んだが、辛うじて血管には届かなかった。

「言えば、手伝ってくれる?」

「ああ」

 短い相槌、頷いて生まれる小さな振動。それだけの答えが、村雨の涙を止めた。

「私は……知っちゃったもん、知らないふりはできない。昨日のあれが続くんなら止めさせたいし、せめて見つけた人は助けたい。それで……それで、できるなら、できるだけたくさん助けたい」

「理由は有るか?」

「無いよ、多分。そうしたいって思っちゃったからそうするの。それが……誰かの迷惑になっても、そんな事は知らない。助けられなかったら多分、私はずっとこんなふうに、ウジウジしながら生きてく羽目になっちゃう」

 くぅ、と桜が唸った。美酒を一息で飲み干した時の、酒精が喉を焼く辛さと快楽の一体となった熱さ。それを堪能するかの様な声であった。村雨を抱く腕が、少しばかり力を強めた。

「ようし、江戸に帰るのは暫く後だ。まずは馳せるぞ、意味も無く。無暗にやたらに走りまくって、見えた所からどうにかしよう。それでな、どうにもできる事が無くなったらまた馳せるのだ」

 深い考えなど何もない。ただ反射的に体を動かし、眼前に存在するものごとだけを解決する。獣よりも獣に近い、本能的な生き方だ。
 それはどれ程に視野の狭い事だろう。だが、そも一人や二人の人間が、そう大きな事をできる筈もなければ、する必要も無いのだ。

「……そうしようとする、理由は?」

 自分への問いと同じ事を、肩越しに桜の頭に触れながら村雨は問うた。

「有るぞ、明確な理由が一つだけ有る。」

 答えに、寸拍の迷いも無い。

「惚れた女にねだられて、これに応えずに居られるか。村雨……私はな、お前の笑い顔を見る為ならば、道化にも修羅にも成り果てる」

 桜は己の思う様に、村雨の我儘を最大限叶える事、それだけの為に刀を振るうと決めていた。
 戯れの様に、或いは戦の高揚に任せて、口にした事は幾度か有った。自分の所有物だと、他者に対して宣言した事も有る。然しそれらの言葉は、所詮は上滑りして流れ落ちるだけのものだった。

「私は、お前が好きなのだから」

 この日初めて――雪月桜は、村雨に愛を告げた。

「――ぁ」

 村雨は、火を飲みこんだかの様に、体内から熱が込み上げてくるのを感じた。口を開けて熱を逃がそうとすれば、吐き出す溜息は凍えたかの様に震えていた。
 喉が渇き、胸が早鐘を打つ。唾を飲み込んでも、まだ正しく声が出せそうにない。背に感じる暖かさが急に膨れ上がった様な気がした。
 贈られた言葉に何も返せないのは嫌だと、村雨は無理にでも言葉を探した。何も見つからなかった。だから、桜の腕の中で身をよじり、体を後ろに向かせた。
 すぐ傍に、桜の顔が有る。慣れぬ者では表情を見分けられぬ氷の面貌に、今は誰が見てもそうと分かる笑みが――柔らかく解けた笑みが浮かんでいた。
 暖かくて眩しくて、村雨は目を閉じた。乾き始めた頬に息使いを感じる。衣服越しに伝わる熱より少しだけ熱かった。心臓に近いぶんだけ、熱かった。
 白昼のまどろみにも似た暖かさに揺られる村雨は、頭をぐいと引き寄せられたのを感じてまた目を開ける。先よりも桜が近くに居て、更に近づいて――

「わあああああぁーーっ!?」

 唇と唇が触れる寸前、村雨は頓狂な叫び声を上げながら、桜を思い切り突き飛ばした。反動で村雨自身が、ベッドから転げ落ちて床に引っ繰り返った。

「なんだ大げさな、初めてという訳でも有るまいに。なあ?」

 殊更に残念そうな表情を作りながらも、明らかに桜は愉しげな声である。仰向けになった村雨を見下ろしくすくすと笑う。何時もより少しだけ無邪気な音だった。

「ばっ、いきなり何を――すっ、すき、って、え……?」

 鮒か鯉の様に口をぱくぱくさせる村雨。立ち上がる事も忘れて、覆いかぶさる桜を見上げている。膝が額にくっつく様な、傍から見ればなんとも間の抜けた姿であった。
 腕ではなく足首を掴み、桜は村雨を引き上げる。自分の横に寝転がせ、自分は枕に頭を預けた。

「寝るぞ村雨、まずは寝る。起きたら飯を食って……それから、お前の好きにしろ」

「ん……」

 普段の村雨であれば、寝床の位置が気に食わないとまた喚いたかも知れない。

「分かった、そうする。寝る」

「良し」

 だが――眠気のせいと彼女は言うだろうが――今日の村雨はいやに聞き分けが良かった。
 大の字で寝る桜の腕を枕に、膝を抱える様に身を縮め、くうくうと小さな寝息を立て始める。太陽はそろそろ、空の真ん中へ届く頃合いであった。








 昼に眠って夜に起きる。贅沢な怠惰を貪り終えて、桜と村雨は街を駆けていた。
 目的は――もしかすると、無いも同然。ただうろついて、争いごとでも有れば介入し、人助けでも出来そうなら助けて通る。
 行く先は村雨の鼻に任せ、道は己の脚に任せる。民家の屋根さえ足場として、二人は気の向くままに走る。

「どうだ、居るか?」

「東、一町! 多分、二十人から三十人……誰かを追ってる!」

「ようし、行くとするか!」

 この夜は、どこにも火の手が上がらなかった。燃やすべき建物はもう無いのだ。その代わりに兵士達は、人間を狩りだそうと槍を振りかざしていた。
 追われているのは、例えば僧侶だったり、例えば在家の仏教徒だったり。或いはその親類縁者や友人など、つまりは邪教の徒とされた者達だ。
 然し、一つ前の夜に比べて街は静かだった。炎は幾らでも燃え広がるが、刃物一振りが奪う命は限られている。例えば仏の御名に縋ろうとしない不信心者などは、余程の不運でも無い限り、高鼾で眠る事さえ出来るのだ。
 焼き打ちの爪痕は僅かにも言えておらず、町人達の疲労は相当に蓄積している。だから彼らは、赤の他人が外で追いまわされていようが、手助けをしようなどと考えない。
 だからこそ、かえって楽だった。少なくとも桜と村雨は、この状況に感謝をしていた。救うべき人間は少ない方がいい、あまり多ければ取り零してしまう。この人助けは自己満足の押しつけなのだから、失敗して死なれる割合は少ないのが望ましいのだ。
 斯くも身勝手な理屈を構えて、桜は兵士の集団に正面から斬り込む。僅かに遅れて村雨は、追われていた僧侶の腕を掴み、兵士の臭いが無い方へと案内した。
 別に桜も村雨も、仏僧に思い入れが有る訳ではない。全くの偽善であるが――然し結果は伴うのだ。
 僧侶の安全を確保し、兵士が散り散りに逃げ去ったのを確認し、二人はまた民家の屋根へ跳び上がる。高い位置に居れば遠くも見え、遠くからの臭いも察知できるからだ。
 屋根から屋根へと跳ね馳せる様は、大鳥が空を飛ぶにも似ていた。髪も衣服も太刀も黒。夜の黒に混ざれば、部品ごとに見分けられる者も少ない。故に桜の姿は、人が大翼を背負っているかにも映る。
 その様は、兵士達にどれ程の恐怖を振りまいただろう。黒翼が月を遮ったかと思えば、隣に立っていた筈の味方が鎧を砕かれ地に伏しているのだ。己が頼りと構えた槍が、根から折れて刃を失っているのだ。
 夜天から零れ落ちた黒が、兵士の群れを翼で撫でる。ただの一払いで、数十の兵士は皆倒れ伏す。残された傷は打撲であったり骨折であったりと様々だが、然し誰一人として致命傷は負っていなかった。
 そしてまた、村雨に助けられた者達もまた、夜を羽ばたく大鴉を確かに見ていた。
 逃げ惑う己の背後に降り立ち、追手を鎧袖一触捩じ伏せる女。振りかざす刀までも黒で、だが刃は返されたまま――僅かな慈悲が寧ろ恐ろしい。命を取り合う戦場に於いて、この女だけは最大限に手加減をしながら、無傷で戦い抜く事が出来るのだという印と見えた。

「次、どこだ!」

「ま、待って……流石に走りつかれた……ひー」

 数十数百と叩き伏せ、桜はまだ息も上がっていなかった。かたや村雨は、救出対象を担いだり引きずったりで、かなりの疲労が蓄積しているらしい。道の片隅にぺたりと座り込んで、白い息を吹きあげていた。

「……相変わらずの化け物めー」

「今宵は調子が良くてな。相手の動きが随分と遅く見える」

 言葉の通り、この夜の桜は、掠り傷一つさえ負って居ない。村雨の目には、仮に後ろから襲いかかろうが、今の桜に気付かれず接近する事は出来ぬと見えていた。

「ところで村雨、気付いているか?」

「え……何を?」

 心身の充実が、感覚を刃の如く研ぎ澄ませる。桜は懐から短刀を取り出し、振り向きもせぬまま後方へ投げた。

「よっ、と。落し物ですよー……取材拒否って事ですか?」

 十数間後方から聞こえた声は、飛来した短刀にまるで恐れを抱いていない。短刀の腹を手で弾き――いや、弾いていない。
 彼女の手の甲は、短刀の腹に張り付いていた。手の平を上に向けようが、短刀が地面に落下しないのだ。下手糞な作り笑いを浮かべ、ルドヴィカ・シュルツは写真機を構えていた。

「覗き見とは趣味の悪い。昼間のあの外人か?」

「見られて拙い事でも? 密会現場にも見えませんが……ああ、犯罪行為の最中でしたか」

 少女が手にした写真機が白い光を放つ。路上に伏した兵士達が照らし出され――その光景は忽ちに、一枚の紙に収められる。

「別にいいんですけどね、貴女達が何をしようが。犯罪行為は良いネタです、平和な記事より読む人が多い!

 ……けれど気に入らない事がありまして、わざわざこうして出向いてきたんです。Guten Abend,お時間宜しいですか?」

「Добрый вечер,構わんぞ。下らぬ話でなければだがな」

 ルドヴィカは腕を振りもせず、捕えた短刀を投げ返す――撃ち返す。桜は鞘でそれを受け止め懐に戻した。

「気に入らないのはお互い様だよ、奇遇だね」

「ええ、本当に。昼間の続きでもしましょうか、先手は譲って差し上げます」

 現れるなりルドヴィカは、村雨と火花を散らし始めた。
 どうにも気に入らない相手というのは、やはり何処かには居るものだ。
 互いが互いの主張を受け入れられない、行動を認められない。その程度の擦れ違いなら、世の中に腐る程も転がっているだろう。だがこの時、村雨はなんとなくだが、この少女の事を、自分が最も嫌いな類の人間だと感じていた。

「真実がどうのって言ってるけどさ、結局は嘘の塊だよね、あれ。読んで呆れたよ、人間はここまで嘘をつけるものなんだって。
 沢山の人が死んで、それを自分の目で見てきた癖に……あなた、恥ずかしくは無いの?」

「嘘だ本当だって拘るのが分かりませんよ。つまらない真実って何の役に立ちますか? ま、未開国家の愚民の前じゃあ、こんな事は言えませんけどね」

 村雨の髪の色、自分よりまだ白い肌の色を見て、大陸の出身であると感づいたのだろう。自分の著作を売りつけるべき相手ではないと見て、ルドヴィカは、昼間に見せなかった本音を振りまき始めた。

「例えば、何処かの誰かが兵士に殺されたとして、それが何か珍しい事でしょうか? この国って確か、上に媚び諂う国民の集まりじゃありませんでしたっけ? だったら寧ろ、兵士が殺されたってお話の方が面白そうじゃないですか。あれ、生きてましたか?
 ……どっちでもいいですね。精神性や正しさなんて、面白さの前には無価値なんですよ!」

「面白ければ、本当の事はどうでもいい? それで、誰にどんな迷惑を掛けても? 動物じゃない、あなたは人間でしょう。良心が無いの?」

「良心は野良犬に食わせました。飼い犬だと舌が肥えてて駄目でしたね」

 村雨も、邪悪な人間は幾らか見てきた。神の名を我欲の為に振りかざす者、知識欲の為に人の心身を蹂躙する者。同行する桜でさえが、躊躇せぬという点では最悪の殺人者である。
 然し村雨は、そういった悪党である彼ら彼女らに、実は一片の親しみを感じていた。何故かと言えば――彼らはある面で、恐ろしく正直であるからなのだ。
 自分自身の本質を良く弁えて、本心に従うべく生きる。その為に他者を虐げようと、それをなんら恥じる事も無い。それは――村雨の生き方とは、遠く離れた在り方でもある。
 村雨は人狼だ。殺傷行為を愉しみとし、殺した獲物の肉を最高の馳走とする種族――言わば、人の敵である。己の本性に従おうとすれば即ち、人の秩序から遠く離れて生きる事になる。
 それは――人の様に生きたいと願う村雨には受け入れられない事だ。人の外に生まれながら人の社会に憧れた村雨には、決して許せない事であったのだ。

「どうせね、つまらない話を書いたって誰も読みゃしないんです! 馬鹿な連中は高尚な事実より、分かりやすい虚飾を好みます。
 逆らうより従う方が楽――ならば従う事に正当性を! 権力こそ正義、反権力は悪。頭を垂れる事こそ賢いと、噛んで含めて言い聞かせましょう!
 衆愚を導く私こそ、実はあなたの稚拙な正義なんかよりよっぽど役に立つんです。分かりますか?」

 舌を噛まぬ事に驚く程の早口である。時折声が上ずりながら、ルドヴィカは村雨に、額をぶつける程に詰め寄っていた。

「分かる訳無いじゃない。自分だって分かってなさそうな癖に」

「……なんですって?」

 二人の背丈の差は四寸前後。近づいてしまうと、結構な角度で村雨は見降ろされる。だが――不思議と威圧感を感じる事は無かった。

「弱虫、臆病者」

 ルドヴィカの胸倉を掴み、村雨は短い言葉で罵った。たった二つの単語が、ルドヴィカの白い顔を赤く染めた。

「他人を見下して偉そうな事言ってるけどさ、じゃあ、あなたはどうなのよ。自分が書いてるものを読んで楽しいの?
 いいや、それは無いね。あなた絶対、自分が書いてるものを楽しんでないよ。それどころか……多分、すっごくつまらないって思ってるでしょ」

 村雨が嗅ぎつけたのは――自分に良く似た生き物の臭いだった。種族としてでは無い。思考、人格という一面で、村雨はルドヴィカに、自分との類似点を見つけていたのだ。
 自分の望む様に生きる事ができない。自分の望みの一つを通そうとすれば、もう一つの望みを通せなくなってしまう。自己矛盾を一つ抱えてしまったが為に、それに縛られて身動きを取れずに居る。それが、この二人の共通点である。
 それと察した理由、断言出来た理由は――村雨自身が、ルドヴィカの書いた文章を読んだからだ。

「違うなら言ってみなよ。事実を書いていなくても、これは素晴らしい出来栄えですって。言えないでしょ?」

 主語に『私』が幾度も出現する、自意識の強い文章。努めて客観的にあろうとしながら、最終的になんらかの主張をせねば気が済まない論理展開。それは確かに、事実を伝えようとする文章として適さないものだろう。ルドヴィカのそれは、創作の分野に馴染むものである様に見えた。
 寧ろ――創作の為に筆を取った、村雨にはそう見えていた。未開国、辺境と見下す世界の果てで、報道などする為に始めた執筆ではなかろう、と。

「駄目な自分が怖いからって、周りを見下すのは……面白いの?」

「……く、このぉっ……!」

 自分が書きたいと思わぬものを、称賛を得る為だけに書き続ける――誰よりも卑屈な、阿諛追従を言い当てられる。ルドヴィカはもう、下手な作り笑いすら浮かべられず、屈辱に涙さえ浮かべていた。

「知った口を利くなぁっ!」

 大振りの拳が、村雨の頬を打ち据えた。

「何すんのよ、痛いじゃない!」

 お返しとばかり、ルドヴィカの顎が、村雨の拳に打ち上げられる。
 両者とも一つずつ拳を振るって、互いへの敵意を確認した。やがて、どちらからとも無く一歩後退して――

「舐めんな痩せ犬ッ!」

「黙れ捻くれ者ッ!」

 おおよそ少女同士の喧嘩とは思えない、拳足による正面からの打ち合いを始めた。
 どんな理屈を並べようが、人間は感情の生き物だ。爆発した感情を、敢えて抑える方法など無い。

「……はぁ。楽しそうだな、どうしたものか」

 割り込もうと思えば容易かろう。止めようと思えば、意識がこちらに向いていない、造作も無い。然し桜は何れも実行せず、石畳の上に胡坐を掻いて、酒の小瓶の蓋を開けた。

「うっかり死ぬなよー、負けそうなら適当に逃げて来ーい」

 もはや周囲の声など聞いていないのだろうが、一応は村雨にそれだけ告げて、桜は月と酒盛りを始めた。
 未だに丸くならない、半端者の月であった。








 あまりに幼い喧嘩であった。
 身を守る術も知らない者同士が、然し避ける事さえ考えずに打ち合いをする――となれば、

「ったいわね犬っころ!」

「お互い様でしょうが! あと犬言うな!」

 少女二人の顔は、忽ちに青痣だらけと成り果てた。
 だが止まらないし、引き下がらない。痛みも疲労も、殴り合う二人の足枷とはならなかったのだ。
 村雨がルドヴィカの顎を打ち上げる。腰に触れる様に構えた拳を、手の甲からぶつかる様に振り抜く、変則的な打撃だ。体重はまるで乗らないのだが――人外の速度でそれを補い、えげつなく重い衝突音を響かせる。
 ルドヴィカは、歯を食いしばって耐えた。身長の利を活かし、肩の上から回し込む様な軌道で右拳を振り落とす。視界がぶれた為に狙いが外れ、村雨の左肩を手首で打つ羽目になった。

「いぎっ……!? ぁ、ったぁ……」

「言ってくれたわね、このぉっ!」

 より深く当てたのは村雨。だが、より痛みを訴えているのも村雨である。肩を押さえて蹲る彼女を見降ろし、ルドヴィカは脛を顔面に叩きこむ様に蹴り抜いた。咄嗟に両前腕で防御して――威力に負け、村雨は仰向けに転がった。
 転がされた勢いに、自分の脚力も合わせ、村雨は一度大きく後退する。立ち上がった場所のすぐ後ろでは、桜が月と酒盛りを続けている最中であった。

「手伝うか?」

「要らない!」

「だろうなぁ。然しお前、危ないぞ」

 短いやりとりだが、桜の言わんとする所は、村雨には伝わっている。どういう仕組みかは検討付かぬが、ルドヴィカの拳足はいやに重いのだ。手数がこのまま同じであれば、軽量の村雨は確実に打ち負ける。
 とは言え、ルドヴィカも所詮は少女に過ぎない。体重が村雨の倍も有るわけではなかろう。打撃の速度だけならば自分が勝っているというのに、何故こうも威力に差が有るのか、村雨はとんと予測が付けられなかった。
 身体強化の魔術であれば、魔力の流れを嗅覚で察知する村雨なら、そういうものが発動していると何となく分かるのだ。だが、この場に魔術の用いられた痕跡、残り香は無い。

「然し、良い脚をした女だなぁ」

「……言ってる場合か好色女」

 唐突に、桜はルドヴィカを指差し、のんきな声で言ってのけた。思わず村雨は、刺す様な視線を桜に向ける。

「そうではないわ。そういう意味も有るが……ああ、前を見ろ前」

「え――ぁ、わあっ!?」

 桜に促されて振り向けば、そこにはルドヴィカが、両手を組み合わせて振りあげていた。両拳の打撃は、再び村雨の肩に落ちる。骨まで衝撃が浸透し、村雨の指先がびりびりと痺れた。
 言い掛けた言葉を酒と共に飲みこんで、桜はやはり笑っていた。良い脚と褒めたのは外見の事ばかりでなく、機能性が為でもある。
 良く鍛えられて引きしめられ、うっすらと脂肪も乗って防御を重ねている健康的な脚――衣服の上から、桜が見立てた感想がそれであった。殴る蹴るよりも走る跳ぶ、格闘より競技に適した肉付き、と見えたらしい。
 脚は全身を支える土台である。土台が強ければ、動きの一つ一つも鋭く重く変わる。打撃の重さの理由、一つには下半身の強さが上げられるだろう。
 然し、それだけでは説明が付かない威力であった。
 打撃の速度、体格から察せられる体重を考えれば、ルドヴィカの拳足はそう威力が高くない筈なのだ。だのに村雨は、まるで凶器で殴りつけられたかの様な痛みを感じ、実際に痣を作っている。

「……どういう仕掛けよ、もう」

「種明かしは要るか?」

「要らないっ!!」

 だが、解けぬ謎に苦しみながら、桜から答えを受け取る事は拒んだ。拒んで踏み込んで、頭からぶつかった。戦いながら考え事を出来るほど村雨に余裕は無いのだ。
 頭の重量を武器と化した体当たりは、ルドヴィカの腹部に突き刺さる。水袋を叩いた様な平たい音がした。

「うげぇ、え――っ、ぇぁああ、ああっ!」

 横隔膜がせり上がり、胃袋を押し上げる。腹の中身をぶちまけたくなる様な苦痛を抑え、ルドヴィカは叫び、また闇雲に腕を振るった。無防備に晒された村雨の背へ、右前腕を撃ち落とす。技術も速度も無い、だがいやに重さのある打撃だった。
 効いた――いや、無理な体勢が祟った。村雨はうつ伏せに崩れ落ちる。辛うじて手で頭を庇ったが、肺が思う様に空気を取り込まない。
 呼吸が回復し離脱出来る様になるまで、村雨が要した時間は極めて短く――その短い間に、ルドヴィカは靴の底で、思い切り村雨の頭を踏みつけた。

「っほら、ほらっっ、どうしたぁ! 憎まれ口でも叩いてみなさいよ! あぁ!?」

 二度、三度、全ての体重を乗せた踏みつけが重ねられる。見ているだけだった桜が、脇差を手に、腰を浮かせた。
 その日出会ったばかりの相手へ、人はこれほどの憎悪を蓄積できるものなのか。殺害すら厭わぬかの如き暴力は――寝返りを打つように村雨が身を交わし、一瞬だが止む。
 地団太を踏むように落ちたルドヴィカの足。寸拍の隙を逃さず、村雨はその足首を掴んで引き倒す。立ち上がり――追撃はしない。自分自身の回復を図り、再び後退した。

「はっ、はっ……! ここまでやるんだ、アハハハッ……!」

 後頭部には鈍痛、額からは激しい出血。鼻血も出ているし、目の周りや頬には青痣。痛々しい顔のままで村雨が嗤った。
 嗤って――そして、牙を剥く。何時しか村雨の犬歯は、肉食獣に特有の、鋭い牙へと変化していた。
 いや、変わったのは歯だけではない。皮膚の上からは見えないが、顎関節は可働域を増し、かつ接合を強固に。肘、手首も柔らかく、常人ならば有り得ない程に反る様に変わる。
 然して村雨が曝け出した異形の最たるものは、丸く開いた瞳孔と、水色を帯びた眼球の白。夜の僅かな光をさえ逃さぬ、獣の目であった。

「……殺すなよ、村雨」

「大丈夫だよ、大丈夫……フフ、だーいじょーうぶっ!」

 石畳を爆ぜさせ、村雨が跳んだ。

「えっ、うそ、速――」

 つい先程まで足蹴にしていた敵。頭を散々に打たれた筈の、立ち上がる事さえ難しい筈の敵。それが自分に倍する速度で、さも愉しげに飛び込んでくる。ルドヴィカは我が目を疑う間も無く、喉に拳を打ちこまれた。

「げえぁっ……!? ぁあ、あ」

 意地で耐えられる耐えられないと言った、精神論を超える一撃。呼吸器を外から押しつぶされ、涙と悲鳴が同時に零れた。
 追い打ちの右拳は首筋、左爪先は脇腹。左右の肘で鳩尾へ二連撃、膝を踏むように足裏蹴り。これまでの稚拙な殴り合いを払拭するかの様に、村雨の打は全て、人体の脆い部分を狙っていた。
 それが――面白い様に当たる。
 人間はどうしても、攻撃を『放たれてから』回避は難しい。人の反射速度では、来たと察知するより先に、相手の拳が届いてしまう。だから殆どの人間は、例えば肩や腰、脚の動きから相手の意図を察し、事前に自分が動いて拳を防ぐのだ。
 村雨の打は、初動が恐ろしく読みづらかった。上体を反らしたかと思えば、そのまま横に弧を描いて拳が飛ぶ。地面に手を着いて逆様に立ち、そこから地に足を着くまでに四度も蹴る。膝と足首の僅かな挙動で跳躍し、落下の勢いのまま、踵を振り落とす。何れもが、打撃戦の素人であるルドヴィカには読めず、防ぎ得ず、避けられぬ物であった。
 たった十数秒の攻防にて彼我の優位は逆転する。地に伏すルドヴィカを見降ろし、村雨は唇に触れた血を啜った。切れた額から流れた血は、鼻筋を伝って顎にまで届いていた。

「あー……っはは、ははハッハハハハ……! ああ、すっきりした……」

 勝ち誇る様に嗤う村雨。侮辱と受け取ったのだろう、ルドヴィカは立ち上がらぬまま、拳で石畳を殴りつける。
 だが、彼女を発火させたのは、それに続く村雨の一言。

「……死なないでよ? 私は、殺しちゃいたくはないんだしさ」

「――ッ! Verdammte Scheisse――『Anmachen』!!」

 口汚く罵り叫び――〝雷に打たれた様に〟跳ね起きた。
 短い頭髪は全て逆立ち、体はがくがくと痙攣し、目の焦点は合わず――死に体で、ルドヴィカ・シュルツは立っていた。

「……一刻は寝ているかと思ったが……村雨、気を付けろ。死ぬぞ」

 今宵は見立ての狂う夜である、そう桜は感じていた。短い時間に村雨もルドヴィカも、おおよそまともに立てないであろう程、互いを殴り蹴りつけあった。だのにどちらもが立っていて――

「ッハハハ、ハハ……だよね、続けないと。続けないと、さあ!」

 これからが幕開けとばかりに構えている。もはや忠言など無意味であった。

「殺してやる、ぶっ殺してやる――ぅああアァッ!!」

 ルドヴィカが石畳に右手を触れさせ、吠える。その声に応じる様に、右腕が目を焼くが如き閃光を発し――黒い何かに覆われて、光が消える。村雨の鼻が、魔力の流れを感知した。
 何が起こったかと考えるより先、ルドヴィカはただ一足で三間を踏みこみ、黒く変わった腕を、村雨の腹目掛けて振るった。
 速いが、今の村雨に見えぬ速度ではない。余裕を持ち両腕で受け止め――村雨の体は、そのまま空中へ跳ね上げられた。

「ィッ――うあ、アァアアッ!?」

 その威力は、先程までの比ではなかった。受けた腕は一撃で内出血を起こし、衝撃は腹を貫いて背骨にまで響く。村雨の短い生涯の中で、恐らくは最大の痛みであった。
 更に――衣服の袖が、その下の皮膚が、ヤスリに掛けられた様に削れていた。その時に初めて村雨は、ルドヴィカの腕の正体を――そして、打撃の異常な重さの理由を悟った。
 彼女の腕を覆った黒――それは砂鉄である。地面に大量に散らばっている、だが拾い集めるには骨の折れる金属――それをルドヴィカは、己の右肘から先に纏っていた。

「……気に入らないのよ、生まれつき恵まれた連中ってのは……!」

「だからと言って〝そう〟までするか。筋金入り、いや――」

 酒を捨て、桜は完全に立ちあがっていた。鞘から抜け出そうとする脇差を抑えながら、二歩だけ二人に近付いた。

「――骨金入り、とでも言いなおすべきか。打の重さも、短刀を防いだ手法も、それならば納得が行く。右腕だけか?」

「だれが答えるかっての……舐めるな天才どもォッ!」

 砂鉄を纏った腕――金属の強度と重量に、人の腕の万能性を加えた武器。ルドヴィカはそれを掲げ、地面に膝を着いた村雨の首目掛け、腕を全力で振り抜いた。
 肘の裏側が、村雨の喉を掬いあげる。喉の皮膚が避け、気道と血管は同時に強く圧迫される。打点は重心より遥かに高く、村雨は腰を中心に後方に回転、後頭部を地面に打ちつけた。

「――かァ、ッ……、うぁ……、ぅ」

 何かを掴むように手を伸ばし、空気を求めて舌を突き出す。四肢も肺も全てが狂って、村雨の意識は暫し何処かへ消えていた。
 その様を見降ろして、ルドヴィカの表情はまるで晴れていない。村雨の胸倉を掴み、額と額を突き合わせ、何も映さぬ瞳を睨みつける。

「偉そうに……よくも偉そうに! 生まれつき強いくせに、努力なんてなにも要らないくせに――!」

 村雨とルドヴィカは、端的に言えば同族嫌悪でこれ程の潰し合いをしていた。
 真っ当な人間に憧れ、人間の様に生きていきたいというのに、己の本質は殺傷欲求に満ちた化け物。そんな矛盾を抱えた村雨と――
 書きたい物を書いて認められず、認められる為には自分が厭う『虚飾』『捏造』『阿り』に満ちた記事を書く。そんな矛盾を抱えたルドヴィカと――

「楽しくなんかないわよ! ちっとも面白くないわよ! だから――だから何だって言うのよ!?」

 似た者同士、傷を舐め合う事も出来ただろう。だが、見たくも無い事実を常に付きつけられるのだから、そんな相手と落ち着いて向き合う事など出来はしない。
 そしてまた、自分達が似ていると自覚しているのは村雨だけである。ルドヴィカからすれば村雨は、自分が持たぬ物を持つ恵まれた存在なのだ。
 自分が書いた文章を読んで楽しいか。村雨の問いに、血を吐く様な叫びを返しながら、額を幾度も打ち合せる。相手にも――そして自分にも平等に痛みを与える行為。ルドヴィカは今の自分が嫌いで――だから、自分を殊更に傷つける。

「私だって、自分が読んで楽しいって思える様なものを書きたいわよ! それが出来ないからこんな辺境まで流れて来てんのよ!」

 強くなる為ならば――己を鍛える方法も、安易に使える武器も、それこそ幾らでも有る。だのにルドヴィカは、自分の体を切り刻んで作り直す事を選んだ。 肘から先を、膝から先を、切り開いて骨を取り出し、代わりに鉄の骨を押し込む。神経を筋肉を腱を繋ぎ直す行程は、どれ程の苦痛を伴ったであろうか。

「自分のままじゃ通用しないなら――変わるしかないじゃない、全部! 全部! 全部! 体だって心だって――誇りだって!」

 その痛みさえ、自分を否定する慈愛なのだ。
 ルドヴィカ・シュルツは、酷く歪んでしまった少女だった。







 ルドヴィカ・シュルツは、田舎の地主の家に生まれた。
 近隣の家々に比べて明らかに裕福な環境下で、彼女は然程の不自由も無く、また厳しい規律なども無く育てられる。
 両親は、飛び抜けた聖人でも無いが善人で、愛情も十分に注がれた。恐らく彼女は、世界の水準から考えるに、相当幸せに育った人間である。
 そしてまた、彼女は容姿も悪くはなく、そして生まれつき賢く、また一部の魔術に才を見せていた。自分自身の体に電流を走らせる魔術――握手した人間を驚かす程度の、悪戯心から発見した技術であった。
 幼い子供にとって世界とは、極めて狭い範囲で形成されている。両親に愛され、周囲の子供の誰より賢く運動神経も良く――彼女はまさに、自分の世界の女王であった。女王として君臨する事こそ自分の権利であると思っていたし、それだけの能力が有った。
 彼女を取り巻く誰もが、彼女を讃えた。ある者はその愛らしさに、ある者はその大人びた口振りに、ある者は足の早さに。そして両親は、彼女の存在自体を無条件に肯定し、全霊の愛を注いだ。
 その環境は、彼女が集団教育を受ける様になってからも変わらなかった。彼女は賢かったから、他の子供が指を折って数える様な計算を、やすやすと暗算で片付けてみせた。字の読み書きも誰より早く覚えたし、その為に一切の努力など必要なかった。相変わらず足の早さは、どんな男の子よりも上だった。
 が――時々、彼女も気付く事があった。昔より周りの皆は、自分の愛らしさを褒め称えないようになったと。飾り気のない衣服で、異性を意識しない振舞いをする彼女よりも、男子に受けの良い少女が身近に居た為であった。だが彼女は、自分の方が容姿は上だと信じていたから、内心で嫉妬しつつ何もしなかった。
 歳を重ね、教育の内容は高度に成り始める。ルドヴィカはやはり、彼女が属する集団の中では、優秀とされる一人であった。
 実際学力だけで見るならば、同地域同世代二百人ばかりの中で、彼女は上から二番目か三番目。一日の半分を学問に当てる物好きが一位を走り、その次をやはり勉強家の少年か、もしくは自主学習などした事のないルドヴィカが追う形であった。
 然し周囲は、やはり彼女をこそ最も賢い者だと褒め称えた。彼女が努力する姿など誰も見た事が無く、そして彼女は常に結果を出し続けていたからだ。
 その一方で――自慢だった足の早さは、体の大きくなっていく男子に次々と追い抜かれていった。だがその頃には、男子と女子の体力差など誰もが知っていたから、やはりルドヴィカは女子の中で一番の健脚と称賛されていた。尤も、駆け比べなどする機会は殆ど無くなっていた。
 周囲の学生が勉学に励み、そして彼女に届かぬ程度の学力で低迷していた頃、彼女は読書に夢中になっていた。読む分野は決まっていて、大概は冒険小説であった。子供向けに平易な文章で掛かれ、どれも似た様な展開だが、寧ろ変わらない事を安心出来る様な作品群。二十か三十も読み漁って本棚に並べ、来訪する友人にそれとなく誇った。
 更に時が経って――彼女の友人の幾人かは、親元を離れる為の用意を始めていた。彼女の家は別として、その地域は、決して裕福な土地ではなかったのだ。
 或る者は学問で身を立てようとし、或る者は魔術に傾倒し、或る者は縫製などの技術を磨き――ルドヴィカは相変わらず、一度読んだ本を読み返す様な事ばかり続けていた。別に彼女には、焦る理由が無かったのだ。
 同世代で学力を比べて、その頃でも彼女は、上から二十番以内には居た。相変わらず自主的な学習はしていなかったが、それでも一度聞き習った内容の七割方は覚えられた。応用力は有ったから、暗記が苦手だろうが問題は無かったのだ。
 一方で――容姿を褒められる事は無くなっていた。彼女自身は変わらず愛らしい外見なのだが、短く切った頭髪や飾り気の無い衣服、そして子供の頃から然程変わらない振舞いは、年頃の少女に求められる美しさとは別なものだったのだ。
 結局彼女は、親の援助を当てにして、数十里ほど離れた街へ出た。生まれて初めての一人暮らしであったが、料理は提供される寮生活だった。彼女は、より上位の学問を修められる学院へ積を置いたのだ――他にやりたい事も無かったから、だが。
 その千人ばかりの集団の中で、彼女の学力は、大体中間のやや高めという所であった。低くは無いのだが、集団に埋没してしまう程度のものだ。常に周囲から称賛を浴びていた彼女にはそれが耐え難く――これも生まれて初めて、彼女は自主的に努力をしようとした。
 そして、愕然とする。彼女は全く、努力の方法など知らなかったのだ。何をすれば知識を増やす事が出来て、何をすればその知識を応用する技術が身に着くか、何も知らないで生きてきたと悟ったのだ。
 そうなれば試行錯誤しかないが――稚拙な努力は結果を伴わない。唯一の趣味である読書の時間さえ削って費やした努力は、彼女の名を周囲に知らしめるには至らなかった。
 結果を生まない努力は虚しいものである。だが彼女は、自分は優れた人間であると信じていたから、直ぐに諦める事はしなかった。三日三晩の徹夜など日常茶飯事、常に目の下に隈を作り、食事も一日に一度か二度。不健康極まりない生活で、結局は結果など生まれなかった。
 周囲が学問を楽しみ、余暇に生を謳歌する様を見ながら――ルドヴィカは机に張り付いて書物を睨み、まるで理解できぬ数式を紙に書き写し、暗号としか映らぬ文章をただ読み返し続けた。そして或る日、教授の問い掛けにまるで答えを返せない自分と、それを嘲笑う周囲に気付いて――彼女は、学問を捨てた。
 かろうじて食いつなぐだけの仕事は見つけた――両親の伝手を頼って。荷物を運んだり、通行人を店に呼び込んだり、知恵も創意工夫も必要無い仕事である。退屈で体力ばかり使って、大した給金も得られなかった。
 休みは多いが、遊ぶ金が無かった。古本屋で適当な冒険小説を買い、幾度も幾度もページが擦り切れる程も読み返す。その内に――この程度なら自分も書けるのではと、そう思う様になっていた。
 実際に彼女は語彙が豊富で、文法に大きな誤りも無く、比較的美しい文章を書く事が出来た。初めて書きあげた小説はそこそこの評価を得て――その後、『ありきたり』の一語で切り捨てられ収入には繋がらなかった。三月を掛けて仕上げた自信作であった。
 悔しくて、納得がいかなくて、彼女は更に執筆に打ちこんだ。世間に認められた作品の多くは、自分が書く文章よりも見苦しく、整っていないと信じていたからだ。物語には文章の美醜より内容が求められると、気付いたのは半年も後の事だった。
 未知の世界を尋ね、あらゆる困難に向き合い打ち勝つ主人公――そんなものを、努力を知らず世界を知らないルドヴィカが、描ける筈も無かった。それに気付いた時、彼女は創作さえも諦め、事実の列挙だけで認められる『報道』に逃げ込んだ。
 意外な事に、彼女が作った個人新聞は、その街で中々の評価を得た。日常の些細な出来事から近所を騒がす軽犯罪まで、一人の少女の視線から書く記事は、随筆を楽しむ様な感覚で読まれていたのだ。
 評価を得れば、より良い物を作りたがるのが人間だ。ルドヴィカもその例に洩れない。より大きな話題を、より人目を引く話題を、より正確に詳細に――そんな折り、時節が彼女に悪魔の契約を持ちかけた。
 不幸にして、彼女が暮らす街の近郊で内乱が勃発した。剣で、槍で、弓で、魔術で、大砲で、何人もの人間が無残に死んでいった。
 ルドヴィカが恐れたのは、自分の個人誌を読む者がいなくなる事だった。書く事は幾らでも転がっているのに評価する者がいないのでは、書いている意味がなくなってしまうではないか。本末が転倒している事に、最早気付く事さえ出来なかった。
 そして、その危惧が杞憂だった事は直ぐに知れる。争いの最中で書いた彼女の記事は、離れた街に暮らす者から、これまでに無い程の高評価を得たのだ。
 曰く、『戦場の真実を語っている』――死体の壊れた様を描写しただけの記事が。『悲劇を余す所なく伝えた』――兵士が略奪と強姦に励む様を、こっそりと撮影しただけだ。そこに人の美徳は無く、ただ醜いものを並べただけだというのに――彼女の理解の外で、彼女は高く評価された。
 だから気付いてしまった。人間は、自分に影響が無いと確信できるのならば、他者の身に降りかかる残酷さを楽しむ事が出来るのだと。他者の不幸を堪能する事で、自分の幸福を噛みしめる事が出来るのだと。
 思えば自分も、他者の無能を嗤う事で、優れた自分に安堵を抱いたものだった。他者より劣る自分を忌み嫌うのは、その裏返しでもある筈だ。
 ならば――ならば自分は、もっと残酷な愚衆を楽しませてやらねばなるまい。それこそが自分への――正当ではないだろうが――評価に繋がるのだ。
 結局は挫折した学問、飛び抜ける事は出来なかった魔術、とうとう少し優れた程度に終わった身体能力、平均より上という程度の容姿。つまらない才能ばかり持ち合せた自分が、たった一つ、他者より優れている点は――残虐を好む民衆真理に気付き、自らも残酷を厭わない事。
 その時からルドヴィカ・シュルツは、より凄惨な戦地を求めて世界を彷徨い、より無残な死体を探して回る様になった。
 死体が綺麗であれば壊し、潰し、崩し、掻き混ぜて映す。見ても居ない殺害現場を、さも見たかの様に煽りたて――創作して、触れまわる。
 それを恥じる心は有ったが――称賛への渇望が上回った。彼女はただ幼いころの様に、自分の世界の女王でありたかったのだ。








「あ、あああぁっ、うあああっ――! 消えちまえ、消えちまえ、消えちまえぇっ!!」

 吠えねば胸の内から張り裂けかねない程、ルドヴィカの感情は高まっていた。言葉も綴れぬまま叫び、額を村雨に叩きつけ続ける。顔を染める赤は、返り血も己の血も混じり、もはや境界を探す事は出来なくなっている。
 才を持つ者が憎く、そして羨ましかった。努力などせずに強く在る者が妬ましかった。
 そんな卑小な理由で他人を痛めつける自分が、どうしても好きになれない。だからだろう、鋼の腕も脚も使わず、脆い頭蓋を凶器に変える。いっそ世界も自分の頭も偶発的な事故で、砕けて消えてしまわないかと願う様に。
 意識が朦朧としながらも、黒く渦巻く負の感情だけを支えに、ルドヴィカは執拗に頭突きを繰り返した。

「おい、もう止めろ。そうまでする事も有るまい……おい!」

 桜の警告も今のルドヴィカには届かない。鋭い声も虚しく響く。
 皮膚ばかりか肉までが抉れ――このままならば、やがて骨まで到達するだろう。顔を潰してまで続けるには、あまりに得る物の薄い喧嘩である。
 もはや酒の肴にするには、血生臭さが濃過ぎるのだ。此処に於いては桜さえ、傍観に徹する事など出来はしない。右手には太刀、左手に脇差、殺害さえ止む無しとの構えを見せた。
 だが、桜は踏み込まなかった。力無く項垂れていた村雨の、掌が桜に向けられていたからだ。

「――ぉ、……ぁあ」

「……何だ、聞こえんぞ!」

 頬の裏側は歯でズタズタだ、口を開けば血が零れる。赤く染まった歯と唇で、村雨は何事か呻き――強く、足を踏み鳴らした。

「ぁ、――な、ぁ……!」

「ぎゃっ、あああっ!? あ、ぁあが……、っあ……」

 打ちつけられる額を手で止め――そのまま両手の爪をルドヴィカの傷口に突き刺す。
 己が繰り返す痛みはまだ耐えられるが、他者から与えられる新鮮な痛みは――ましてそれが獣の爪によるものとなれば、刃物で抉られたも同然だ。八つ当たりの様な心の置き様で耐え切れる苦痛ではない。
 胸倉を掴む手が緩んだ隙に、村雨はルドヴィカを突き飛ばし――血濡れた顔で桜を睨みつけた。

「来るなあっ! これは私のだ――私が始めたんだ!」

「村雨……お前」

 裂傷打撲傷擦過傷、数える事など出来はしない。例え微笑んでいたとしても、少女には許されない形相であっただろう。
 痛みの上に痛みを重ね、苦痛はもはや熱に変わっている。神経を炎で炙られるが如き熱――それが村雨を突き動かしていた。

「何で始めたとかもう分かんない……けど、途中じゃやめられない! 引っ込みが付かない、向こうも、私も!」

 どれだけ下らない理由にせよ、一人と一頭だけで始めた闘争だ。二人のどちらかが動ける以上、第三者がこの争いを止めるなど出来ない――当事者が、村雨が許さない。

「駄目だ、死にかねんぞ!」

「止めるなら桜、あなたでも……!」

 生存さえが価値を持たない。二個の生物が己の優位を競うだけの争いに――強さ以外の価値は介在し得ない。

「来なよ拗ね者、これじゃ死ねないよ!」

「か――は、はァアアアアア……ああくっそ、むかつくわ……!」

 夜気に白く溶ける息。煙の様に吐き出して、ルドヴィカはゆらりと立ち上がる。四肢の筋肉に電流を流し、意思とは無関係に痙攣させて動かす――自らを操り人形と化す曲芸。今のルドヴィカは、通常発揮できる力の数割――いや、ともすれば倍の力で手足を動かせる。
 対する村雨に、もう引き出しは無い。生まれ持った人外の身体能力を、敵と見做した者へ行使するだけである。己の芸の無さを頼りなく感じ――この程度で良いのかもしれないと、村雨は己を肯定した。
 所詮、無い物ねだり同士の喧嘩なのだ。
 十分な才を持ちながら活かしきれず、他者の才を羨むばかりのルドヴィカ。一方で、人ならば決して得られぬ能力を持ちながら、更に人の特権を羨む村雨。
 ならば、片手落ち同士で良い。方や技、方や体、その程度のぶつかり合いで良い。
 やがて二人は、申し合わせたかの様に進み出て、それぞれに拳を振り被った。自分が最も力を込められる位置に、込められる角度で備え――

「っしゃあああああぁっ!!」

「そおおらあぁっ!」

 鋭い気勢は村雨、打の重さに見合った叫びはルドヴィカ。何れも相手の顔を狙って、渾身の拳を放った。
 やはり拳速では村雨が上回る。打撃の軌道も、腰から一直線に打ち上げる村雨の拳は、大きく弧を描くルドヴィカより短い距離を走る。
 極限まで研ぎ澄まされた村雨の神経は、手の甲がルドヴィカの頬に触れた事さえ感じとった。勝った――確信した瞬間、人の温度が下へと逃げた。

「――あ、れ?」

 村雨の拳は空を切る。ルドヴィカは身を屈め、村雨の肘の下へ潜り込んだのだ。
 体重を乗せた渾身の一打、空振れば体勢も流れてしまう――この場合は腰が周り、背を向ける事になる。晒された無防備な背に、ルドヴィカは蛇と化して絡みついた。

「く、ぇ――――」

 鉄骨が仕込まれた腕が、村雨の細首に巻き付く。腕力に、鉄骨同士が引きあう磁力を加えた絞首は、僅か数度の瞬きの間に村雨の意識を刈り取っていた。
 静かな、静かな決着であった。








「そこまで、お前の勝ちだ」

 首筋に触れた冷たい感覚に、ルドヴィカはようやく現に連れ戻された。気付けば腕の中で、一人の少女が意識を失っていた。
 腕を解くと、少女の体が地面に落ちる。瞼は開いているが、瞳は裏側まで回ってしまっていた。

「おお、おお、良くも痛めつけた……ふむ」

 意識を失った少女――村雨の胸に、桜が耳を当てていた。小さく頷き、背と胸を手で挟み圧迫する。

「が……生きていたから良しとしよう。死んでいたらお前を殺していたぞ」

 村雨の喉から、血の飛沫が吹きあがる。これまで呼吸が止まっていたのだろう、薄い胸が上下を始めて、ルドヴィカは漸くその事に気付いた。
 途端、痛みが襲ってくる。額は肉が抉れているし、四肢の筋肉はところどころ断裂している。拳の皮は向け、白い肌が赤と黄と混ざった色に変わって、自分で見るにも痛々しくてならなかった。

「……私は、……あれ、ああ、そうか……勝ったんでしたっけ」

「頭は冷えたか? 大した暴れぶりだった、止めるべきかと幾度も迷ったな」

「止めてくれれば良かったでしょうに……あーくそ、すっげえ痛い」

 皮膚の向けた拳を舐めて、ルドヴィカは痛痒感に顔を歪める。

「お前、存外に柄が悪いのだな。都会派気取りは表面だけか」

 桜はからからと笑い、飲みかけの酒瓶をルドヴィカへ放り投げた。反射的に受け取ってしまったルドヴィカは――酒は嗜まない為に――それを、そっと地面に置いた。

「……みっともないったらありゃしない。肴にはなりました?」

「ああ、途中までは上等だったぞ。……少しばかりやり過ぎだがな、あれでは殺し合いだ」

 けっ、と不貞腐れた様にそっぽを向いて、ルドヴィカは押し黙ってしまった。肩が震えているのはきっと寒さが故では無く――

「泣くな、泣くな。勝った者が泣いては、負けた者の立場が無いぞ」

「……強い奴らはいつもそうだ。上から下へ、一方的な物言いばかりで……皆が自分と同じ事を出来ると思い込んで。あんた達くらい傲慢になりたかったですよこんちくしょう」

 下らぬ喧嘩に勝ちを得て、ルドヴィカに達成感など微塵も無かった。立ち上がれない程の疲労感と、己への嫌悪が募ったばかりであった。
 劣等感で、生き物一匹殺しかねない程の卑屈――しかも振るった先は、自分よりもまだ幼いだろう相手。僅かな矜持をさえ、自分で踏みにじったのだから。

「ふーむ。確かに、私は強いと思うがな」

「自分で言いますかよ」

「事実だからなあ。いやまあ、我ながら理不尽だと思うぞ。他人の数十年の鍛練の成果を、私は数年で上回って生きてきたのだから」

「だーかーらー」

 顔を背けていると、後頭部に耳触りな自慢をぶつけられた。
 鬱陶しいと、ルドヴィカは桜を見ずに小石を投げた。軽く受け止められて投げ返される。背中に当たったが、額の痛みに比べればどうと言う事は無かった。

「悔しいか? だが、世の中は大概理不尽なものだ。私にしてからが、何故私ばかりこうも強いか検討がつかん。努力と成果は比例しない、それはどうやら事実らしいな。
 ……然し、だからと言って私が努力していないと見るのは早計だ。村雨に関しても然り、だぞ?」

「一々言いまわしがむかつくんですが。嫌味ですか」

「まあまあ、最後まで聞け。と、ついでに見てみろ」

 桜の右手が、ルドヴィカの視界を覆った。面倒くさそうにルドヴィカは払い除けたが、然し懲りずに手は戻ってくる。根負けして観察を始めてみると――その手の傷の多さ、皮膚の分厚さが、武術を志す者でさえ滅多に到達しえない領域に達していると気付く。

「まな板の様な手だろう? どれが何時の傷だなどと分からん。幾度も皮が向け、直りきる前にまた素振りで手をズタズタにして、ようやっと作った手だ。……十五年程は掛かったな」

「十五……幼児の頃から、刀なんか?」

「他には何も無かった。鏡さえ無いような暮らしだったのだ」

 しみじみと桜は言って、拳を作って見せた。金槌よりも堅そうな拳を、ルドヴィカは自分の拳で突きながら問う。鉄骨と骨が皮膚越しにぶつかり合って、ごつごつと音を立てた。

「説教は好きだが苦手だ。そうだな……お前も一先ず、十五年とは言わんが五年ばかり何かに腰を据えて打ちこんでみろ。どうせ後七十年ばかりは生きるのだろう?」

 桜はすうと立ち上がって、村雨を肩に担ぎあげ――思いなおしたのか、膝下と背に腕を差し入れて抱えた。

「……亜人の寿命を、知っているか」

「さあ、人間と同じくらいじゃないんですか?」

「それがまた色々でなぁ。長命の者など、三百年も生きた爺を見た事は有るが――」

 桜は数歩だけ歩いて、雲の隙間の月を見上げた。僅かに離れた背を追って、ルドヴィカも立ち上がった。

「一度だけ抱いた蜘蛛女は、三十にならんで死んだ。翼のある連中は大体が短命で、四十かそこらで死ぬそうだ。人狼は割と長生きと言うが……五十を超えた例は誰も知らんとさ。村雨なら残り三十年という所か」

 短いな、と。ルドヴィカは反射的に、そう呟いていた。三十年後の自分は想像できなかったが、きっと生きているとは、漫然と考えていた。

「本当ですか、それ……?」

「学者とやらの言う事が正しいなら、な。私とてあれこれ調べてみたのだ。お前が婆になって死ぬまでに、お前は村雨の倍の物を見られる。全く人間とは恵まれた生き物だなぁ――」

 桜は小さく首を振る。憂いの無い声音であった。それからまた二歩ばかり歩いて、ふと振り向いて、

「おい。あの新聞、私はまだ読みかけだったのだぞ。全部読ませろ、あと続きはまだか?」

 言いたい事だけ言い渡し、今度こそ宿へと去って行った。

「……続き、か」

 ルドヴィカは、夜寒に一人で取り残される。体中の痛みはまるで和らぐ様子が無いのだが、もう悪態を吐く気力も無い。横になれば二度と立てる気がしないので、負傷した体に鞭打って歩いた。歩きながら――翌日の記事の書きだしを、どうするかと考えていた。








 宿に戻ってから村雨は目を覚まし、翌日は体中の痛みに苦しみながら一日を寝て過ごした。
 余すところなく打撲か筋肉痛で、立ちあがろうとすると骨が軋む。顔を洗えば傷に染みて、眠気など一瞬で吹き飛んだ。然し疲労が抜けきらず、消えた睡眠欲はまた襲ってくる。そんな事の繰り返しだったのだ。
 その間、桜も全く外出などせず、やはり怠惰に日を過ごした。食事は宿の者に部屋まで運ばせ、退屈を紛らわすのは政府公認誌『つぁいとぅんぐ』――ルドヴィカの書いている瓦版である。

「うー。うー……痛い痛い痛いー……」

「殴られたのだから仕方が無い。我慢だ我慢」

「うがー」

 喧嘩に負けた悔しさと痛みとで、とかく心の休まらぬ村雨であった。
 その次の夜には、少なくとも顔の腫れは引いた。村雨はこれならば大丈夫だと、再び街へ打って出る事を提案したが――

「駄目だ、ならん」

「行かないと。今だって、窓の下を兵士が……」

「駄目だ」

 桜が、頑として許さなかった。
 確かに村雨の言う通り、この夜も政府の兵士は、焼け残った仏寺の周囲で僧侶や信徒を狩っていた。
 当人たちばかりではなく、僅かにでも庇う姿勢を見せた者を――そして冤罪だろうが兵士に疑われればやはり殺害の対象。あの焼き打ちから僅か三日で、京の街はこの異常事態に適応していた。
 即ち、誰も誰かを助けようとしない不文律の構築。助けに入ろうとすれば諸共に殺される。だから、誰かが兵士に追われていようと見て見ぬ振りをする。そして、夜が明けるまでは家の中に籠っていれば、余程の不運でも無ければ無事で居られる。
 余程の不運と言うのは、例えば上官の目を逃れた一平卒が、何気なく略奪をしようと民家を訪れた場合――そしてその家に、妙齢の娘など居た場合である。正当防衛とて兵士を殺さば、即ち大逆の謀反人なのだ。
 今朝もまた、大勢が死んだと報せが届いていた。寝不足で隈を広げた堀川卿が、仕事の合間に伝令を飛ばして伝えてきたものだ。
 焼き打ちの日を頂点として、日に日に死人の数は減っているのだが、それは京の人口が減っているからでも有る。殺された者と、それに数倍して京から逃れる者と。皇国の首都は明らかに活気を失っていた。

「所詮は自己満足だ、その為に危険を冒すなど言語道断。他人をどうこう言いだすよりもな、己を守れる程度にならんか」

「ぐぬぬぬ……」

 言い返す言葉も無く、村雨は枕を殴りつけて八つ当たりをした。まだ骨に痛みが残っていて、やるせなさが増すばかりであった。

「そうそう、あんた弱いんだから寝てりゃいいのよ。やーい役立たず」

「誰が役立たずかー! ……ん?」

 腹立ち紛れに怒鳴り返し、それから村雨は、自分を嘲った声の出所に疑問を抱く。鼻をすんと鳴らし、直ぐにその正体は判明した。外開きに出来ている窓を、渾身の力で押し開き――ばん、と一つ、手応えが有った。

「あーーー……っぶねえこんちくしょう! 私じゃなきゃ死ぬわよこれ!」

 声が落下していき、二つほど下の窓の近くで止まる。村雨は外を覗く気にも成らず、代わりに桜が呼び掛けた。

「おう、ルドヴィカとやら。此処は何階か分かっているか?」

「七階ですね、地上から少なくとも15m以上の高所です。落ちたら死ぬっての本当に……」

 壁の内側に組み込まれた鉄骨、それに自分が発する磁力で吸い寄せられて、ルドヴィカは落下を免れていた。
 そも七階まで、こんな方法で上ってくる事自体がおかしな話ではあるのだが、思考の経路がおかしな人間は見慣れている為、桜も村雨もそこへは触れなかった。
 桜はルドヴィカを引き上げてやり、部屋の中へ案内する。西洋風の客室、土足でも非礼には当たらない。

「こんな時間にどうした、道に迷ったか? いやそれとも夜這――」

 言いきる前に、村雨の右上段回し蹴りは桜の後頭部へ。ルドヴィカの左裏拳は桜の喉へ打ちこまれていた。

「――お前達、仲が良いな」

「御冗談を。……こんなのと仲良し扱いなんて堪らないわ」

「ちょっと、それはこっちの台詞だと思うけど?」

 微動だにせぬ桜を挟んで、村雨とルドヴィカは火花を散らし合う。忽ちに一触即発、慳貪な雰囲気が漂って、

「……あんたに用はないの、こっちの説教くさい人に用事。お時間よろしいですか?」

「構わんぞ、早起きする予定は無い」

 先に目を逸らしたのはルドヴィカ。敵意があっさり薄れた事に、村雨は拍子抜けした顔を見せた。
 ルドヴィカは、旅人が良く使っている様な袋を背中に括りつけていた。そこから一枚、くるくると丸めて細くした紙を取り出した。

「掲載許可を頂きたく。……読んでみなさいよ」

「ほう、挑んできたか」

 目の前に突き出された巻紙を受け取り、桜はその文面を読み始める。あまり几帳面さの窺えない、読めれば良いという程度の字ではあったが、それでも内容の理解に差し支えは無かった。
 その文章は――やはり一日二日で、飛躍的な向上はしていない。相変わらず文章は主観的であるし、物語的に盛り上げようという構成の為、結論は文章の後半で述べられる事が多い。事実を伝える文章としてルドヴィカのそれは、相変わらず欠陥品であった。

「なんだ。お前、意外と読ませるではないか」

 だが、熱が有った。これこそ己が書きたいものであると、腹から声を絞って叫んでいる様な――荒々しい熱気が、その文章には込められていた。
 桜は一言称賛を贈った後、最後まで口を開かず、目だけを動かして文章を読み進めた。愉快げな笑いでは無かったが、満ち足りた様な顔で頷き、薄く笑みを浮かべた。

「何よ何よ、私にも見せて見せて」

「あっ! こら、あんたはいいのよあんたは!」

「まあまあ。そう言うな減る物でも無し」

 村雨が横から手を伸ばし、反対側からルドヴィカが制止しようと身を乗り出してくる。丁度間に挟まれて、桜は満悦な顔をしながら、ルドヴィカの頭を手で押さえた。
 その隙に村雨は、先程まで桜が読んでいた巻紙に目を通す。未だ印刷用の木組みをされていない下書き、書きあげて推敲すらされていない様な生の文章――村雨は、そう面白いとは感じなかった。
 別に村雨は、こう言った文章が好きなわけではない。単純な娯楽的読み物なら好むが、報道はもう少し事実だけ集めて並べて欲しいと思った。だから、ルドヴィカの文章を楽しむ事は出来ない。
 だが――この文章を、強く否定する理由は無くなっていた。
 例えそれが一人の少女による、所詮とある一面から見た物でしか無いとしても――ルドヴィカが綴った記事の下書きは、事実を描こうと努めた痕跡が見えた。
 複数の意味に取れる言葉は、なるべく使わないように。推察は飽く迄推察だと断りを入れ、そして布告文などは引用元を明白に。もしかすればそんな事は、物を書く人間ならば出来て当然の事だったのかもしれないが――

「……普通に書けるんじゃない、前のはなんだったのよ」

 呆れ果てたと溜息一つ零し、村雨は巻紙を突っ返した。

「構わんぞ、そっちの写真とやらも。顔が幾らか知られたとてな、そう面倒な事も無かろうよ。どうせ目立たぬなどとは無理な話だ」

「では、お言葉に甘えて。明日には京中にバラ撒きますよ、衆愚の目を引くには継続ですから!」

 軽い跳躍で、ルドヴィカは窓枠に飛び乗った。短い髪は夜風にも靡かない。外へ半分ほど身を乗り出して、首だけぐるりと後ろに向けた。

「……村雨だっけ、あんた」

「そうだけど、何?」

 無理な角度で振り返っている為、ルドヴィカの顔は右半分しか見えない。村雨は、その半分の顔を睨みつけた。

「後でもういっぺん絞め落とす。それまで勝手に死ぬんじゃないわよ」

「……は?」

 やり返す言葉を待たず、ルドヴィカは重力に身を任せる。落下の途中、四肢から発した磁力で壁に張り付き、矢守の様に馳せて石畳に降り立つ。兵士達が隊列を組んで行く後ろを、彼女は健脚を振るって追い掛けていった。

「なによあれ、意味分かんない。また喧嘩売ってきたの?」

「だなぁ、余程お前は気に入られた様だ。買ってやれ買ってやれ、何年先の事かは知らんがな」

 憤然と肩肘張る村雨の背を、桜はやや強く叩いた。

「好きに言うねー、この顔が見えないの? この腫れあがった顔が?」

「よーく見えているとも。お前ばかりでない、向こうも散々な顔をしていたしな」

 かっかと笑って、桜はベッドに仰向けになる。何が楽しいか、暫くはそのまま笑い続けて、

「長生きはせねばならんぞ。なぁ、村雨」

 ふと思いついたように、そんな事言った。

「時々年寄りくさいよね、桜って」

 随分と丸くなった月を見上げて、村雨は諦めたように首を振る。不思議と今は、何かをしなくても良いだろうと、気を楽にして構えていられるのだった。





 翌日の朝、京の街にばら撒かれた――後の世では〝情報テロ〟などという呼び方もされる――瓦版。その一部抜粋は、以下の通りである。

『――悪鬼羅節が如き形相の、兵士の馬手には血槍一振り。それを翼でさあと一撫で、撫でて切り捨てまさに撫で斬り、黒衣黒剣黒羽の、女丈夫一人出でにけり。
 翼を為すは其が黒髪、みどりに椿のを纏う。背に負う太刀の長大なるは、天地を裂かんと睨むべし。
 剣閃の速き事、音声の大なるは雷鳴にも似たり、性情と剣禍は炎に似たり。天より落ち、燃え広がり、五十の槍襖を灰に帰さんとする。
 はてこれは如何なる悪虐かと我訝るに、思えばかの兵士達とて、無辜の民衆を犬鶏の如く追い回し終には白刃に掛けし事数百数千。
 なればかの女丈夫、如何に数十の兵士を昏倒せしめんとても、大凡悪おおよそあしと我言うに能わず。正道なり。
 我、其を讃えて謳わんならば、凶鳥・黒八咫此処に有りと詠むべし』

 個人誌『つぁいとぅんぐ』は、政府より発行禁止の指定を受け、旅客ルドヴィカ・シュルツは旅の宿より姿を消した。
 最後に刷られた紙面を飾るのは、数十の兵士に囲まれて不敵に笑う、凄絶に美しい女の姿であった。