烏が鳴くから
帰りましょ

我儘のお話

 またもや、暫く日が遡っての話。
 京都、神山。大型の獣の住みつかぬ山には、日中から酒の臭いが漂っていた。

「おーい、つまみが足りないよー、買っておいでー」

「はぁ……またですか?」

 立ち上がれない程に泥酔し、それでも飲み続けている松風 左馬に、村雨は白けきった目を向けた。
 何せこの女傑、村雨が弟子入りを志願してかれこれ六日、師匠らしい事をしていない。かろうじて一つ挙げるとすれば、三日前の道場襲撃程度のものだろうか。

「もうお金無いですよ」

 部屋の片隅に投げ捨てられた壺は、つい昨日までいくらかの紙幣が入っていた。左馬が『ちょっと遊んでくる』と言って持ち出して、今朝になったら一銭も持たずに帰って来たのだ。
 金が無ければ酒は買えない、村雨につまみを作る器用さは無い。怠惰な師に背を向けていると、後頭部に鈍痛が走る。中身が半分程残った酒壺を投げつけられたのだ。

「痛ぁっ……!?」

「金なんてどうにでもなるだろう、どうにでも出来る。二回目だ、さっさと行っておいで」

 理不尽な人間はどこにでも居る。自分は習う立場だと弁えていれば、あまり強く出られないのも村雨である。ずきずきと痛む頭を抱えて立ち上がると、

「ああ、頭は洗って行くんだよ。酒臭くてみっともない」

「――っ、はい……!」

 お前が言うなと言い返したくてならぬ村雨であった。








 冷たい水で頭を洗い、山を駆け下りて四半刻。三条大橋より東側、茅葺と瓦の並ぶ街並みに辿り着く。

「はーあ……何回目だろ、今日」

 村雨は西側に立ち並ぶ、煉瓦と鉄骨の建物へと溜息を零した。
 ついこの間まで、自分も向こう側で、豪勢な宿に泊まっていたのだと思うと、今の境遇に虚しさも覚える。少なくとも一日三度は食事を取れたあの時に比べると、今は昼の食費さえ事欠く有様なのだ。
 事が村雨一人で終わるのならば、これまでの稼ぎもあり、どうにかなる。問題はあの金喰い虫、左馬である。
 食事も酒も、とかくあれは贅沢を好む。季節に合わぬ魚やら、獣の肉ならば最上の部位やら――桜も金遣いは荒かったが、左馬のそれは異常な程だ。稼ぎがどれ程有ろうとも、底抜けの樽の様に流れ落ちるだけだろう。
 酒を買ってこいとは言われたが、どうせ戻れば次は食事の用意。今はまだ隠していた小銭が有るが、その時こそ本当に、手元には一銭も残らないのだ。
 貧すれば鈍すとは言うが、確かに金子の不足は心の余裕を奪う。村雨はああだこうだと考えながら、自然と足が覚えてしまった酒屋への道のりを歩いていた。

「えーと、これも買えないあれも買えない……ああもう貧乏くさーい」

 西側の街並みならば洋酒も並ぶが、こちらは日の本の酒ばかり。値段はピンからキリなのだが、ピンの側に傾いている商品が多い。自分の懐具合、更には数日分の食費を考えれば、一番安いものを選ぶ他は無かった。

「お嬢さん、最近よくいらっしゃいますが、お父さんが飲むん?」

「いーえ、馬鹿師匠が飲みます……まけてくれない?」

「あかん」

「ですよねー」

 微笑みを浮かべたままの店主ににべ無く断られ、村雨は素直に金を払った――自腹である。
 自慢の健脚も働かぬ程の疲労感に、肩を落として帰路を歩き始めたその時の事。なんとなく村雨は、気になる事が有って顔を上げた。

「……ん?」

 何とは言えないが、違和感が有る。出所を探るべく思考を落ち着けると、自分の鼻が捉えている臭いが、この場に似つかわしくないと気付いた。
 人の街の臭いは雑多だ。生き物の臭いから燃料、食品、生活雑貨――自然の数十倍の臭いが入り混じる。特に異質なのは金属の臭いだが――

「おじさん、何か悪い事した?」

「とんでもない、ワシは善良な仏門やで」

「……ああ、最悪だ」

 果たしてその臭いは、脂を吸った鉄の香り。洛中は未だに戦時下であると、寸刻だろうが忘れたは失策であった。
 がしゃがしゃと賑やかな足音を立てて、白備えの槍部隊が近づいて来る。彼らの視界に映る前に、村雨は物陰に身を隠した。

「御用改めである、店主!」

「はいな、ちぃとばかり待っておくれやー」

 白槍隊――洛中守護の精鋭部隊。太陽の下を堂々と歩いている村雨だが、彼らに見つかるのは非常に不味い。如何に短時間とは言え、顔を覚えられている危険も無いでは無い。
 咄嗟に身を潜り込ませたのは陳列棚の影。あまり上手いやり方では無かったが、然し気付かれていないのは、店主が直ぐに店から出て、白槍隊の視線を誘導していたからだった。

「ほんにまぁ、毎日毎日よう飽きない事でいらっしゃる。ワシしか居ない言うとんのになぁ」

「店主殿こそ毎日毎日、同じ言い訳を飽きない事だ。入るぞ!」

 揃いの装備の兵士達の内、胸に徽章を付けた者だけが口を利き、後は無言で行動する。一糸乱れぬ統率ぶりだが、兵士の顔の苛立ちは、やはり彼らも働かされている立場なのだと語る様だ。

「……おじさん、ばれちゃってたら不味いんじゃない」

「天地に恥じる事などなーんにもないで、ワシは。飽く迄もワシは」

 村雨はこそこそと、より大きな棚の影に隠れなおす。店主もどうやら、政府のやり方には従いたくないという人種の様で、荷物をそっとずらして隠れる場所を広げている。

「いや、やっぱり不味いって。なんで逃げてないのさー……」

 だが村雨は、いざとなれば走って逃げられる自分より、この店主が大丈夫かと気が気でなかった。
 つい半月ばかり前、一晩で何千もの死人を出した大虐殺。殺害の理由は単純に『仏教徒だから』などというものであった。
 数百年に渡って受け継がれた教義は、もはや文化として日の本に根付いている。それを理由に殺害するというのは、つまり誰をも無制限に殺すという布告にも取れる。遠方のならば兎も角、洛中のゴミ捨て場には、仏像やら経典やらが山積みされているのだった。

「ワシの歳まで生きれば十分、死んだら生まれ変わるやろ。生まれ変わらないそれ即ち、輪廻の解脱で万々歳や」

「現世を健全に楽しもうよ、家族だって居るでしょ」

 四十過ぎの店主だが、店の壁に飾られた品々は、少女が買い集めただろう可愛らしさ。娘か、或いは孫でも居るのだろうと村雨は気を回す。

「……半分に、なってしもたけどな」

 当たっては居た。確かにこの店主には、娘が二人『居た』。

「女房も死んだ、下の娘も死んだ。上の娘は来月嫁に出す、もう怖いもんなんぞありゃせえへん」

「……ごめん。半月前の?」

「ああ。お嬢さんは気にせんでええんよ」

 店先から見える住居の隅に、女物の衣服が畳まれていた。埃も積もらず、近くには無造作にかんざしも放置され、誰かが使っている様な有様だったのだ。
 朗らかな店主は悲しげに、諦念混じりに答え、商売人の微笑を保っていた。村雨はいたたまれず、隠れたままで膝を抱えた。
 酒屋の二階から、家具をひっくり返すような音がする。罪人を捕える為と銘打てば、押し込み強盗紛いの行動も許されるのか――憤りつつも、何をする事も出来ない。
 こういうのが嫌なのだと、村雨は悔しさに歯噛みした。
 夜の洛中を駆けずり回って、足りぬ力で人助けに励んだのも、元は単なる義務感であった。無事に生きる余裕を持っているからには、空いた手で誰かを助けるべきだろうと思ったからだ。
 だが、今はその余裕が無い。
 その筈だ。村雨自身に力が有った訳では無く、雪月桜の人外染みた戦力が有ったからこそ、村雨は他者を案じる余裕を持てた。今は自分の身の心配に手一杯で、とても他人に力を貸している余裕が無い。
 ただ一つの救いは、酒屋の店主がこういう事に慣れた雰囲気を出している点か。若い兵士達の目的が何かは分からないが、家探しの憂き目に遭うのも一度や二度ではないらしい。諦めの色に京者の意地悪さを軽く滲ませ、店主は階上の騒音を受け流していた。
 やがて兵士達も諦めたのか、どかどかと喧しい音を立てて駆け下りてくる。店の軒先で整列すると、やはり徽章を付けた兵士だけが口を開く。

「また来るぞ、店主! ……私用でも多分」

「はいなはいな、お仕事がらみならお断りや。お客さんとしてなら歓迎しますえ」

 足並みそろえ、土埃を上げ、白槍隊は向こうの通りへと去って行く。村雨はきょとんとした顔で、その背中を見送った。

「……あれ。割と馴染みだったりする?」

「そら、あれの親父さんがうちの馴染みやもの。棒切れ振り回す餓鬼の時分から、ながーい長い付き合いやで。
 ワシが仏教徒いうのも勿論知っとる、あの若造。あれがこの辺を任されてる間は、ワシは大丈夫やろなあ」

「なんだ、心配して損した」

 安堵の溜息と共に笑い飛ばし、笑ってから村雨は、改めて気の重さに溜息を吐く。

「で、本当の所は?」

「ん? ……お嬢さん、勘弁してくれへんか」

 なあなあで収まった様に見える場であったが、村雨の嗅覚は明らかな奇妙を嗅ぎ付けている。しらを切る店主であったが、村雨の視線が何処に向いているかを知れば、眉をハの字に下げてみせた。
 酒の並ぶ棚――の、一歩手前の床。見た目はただの木の床なのだが、その下から人間の臭いがする。腐臭や死臭ではなく、間違いなく生きた人間の臭いだ。

「……預かりものの姪っこや。両親がえらい信心深くて、まだ十三やちゅうに仏に帰依しとる」

 聞いて、村雨は考えるそぶりを見せた。
 両親は何処に、と尋ねる意味は無い。店主の表情の憂いは、そんな人間がもう居ないだろう事を如実に示している。

「何時までもは、無理だと思うよ」

 匿うにしても、上手いやり方とは言えない。逃がすべきだろうという答えに、村雨は程も無く辿り着く。

「分かっとる。せやけど、ならどうする?」

 同じ事を、店主も重々理解しているのだ。

「寺は焼かれた、親も焼かれた、念仏以外に芸も無い。せめてワシの目の届く所に置いときたい。普通の格好させてりゃバレへんやろが……万が一、万が一……!」

 実際の所、匿うよりも堂々と生活させていた方が安全だろう。
 人の信教は外見から計れず、有髪の尼であればなおさらである。ただの少女を仏僧と決めつけ、牽引する無法もあるまい――と、言い切ってしまえれば、どれ程に楽な事か。
 最初の襲撃で殺された者の内、冤罪が幾つ有ったかなど知れたものではない。人間の命を奪う奪わぬは、奪う側が一方的に決めつけるのだ。

「っとと、お酒やったな。お嬢さんのお持ちの額だと、これしか買えへんで」

「……忘れないなぁ、もう。そこはうっかりお金を受け取り忘れるとか」

「あかん」

 結局の所、村雨は自腹で安酒を一つ買い、

「ですよねー……あーあ」

 肩を落として帰路に付くのであった。








 気が晴れない時は、回り道をして帰りたくもなるものだ。村雨はわざわざ三条東を、更に東へと歩いていた。
 江戸とは異なる風情が、近代の気配が薄い街並み。端的に言えば――お行儀が良い、という所だろうか。
 住む人間の表情一つ、歩き方一つ取っても、江戸の様な野卑さが薄い。気取ったすまし顔が似つかわしい通りである。
 だが、活気が無かった。
 江戸だから、京だから、そういう事ではない。家屋の数に比べて人の臭いが少なく、また一人一人の目に力が無いのだ、

「……仕方が無いのかなー」

 壺の蓋の封を剥がし、酒の水面に顔を映す。村雨自身の目も、疲れがはっきりと浮き出ていた。
 身体的な疲労は薄いが、徒労感が精神を蝕んでいる。周囲の不幸に対して、自分がどれ程無力か実感した為だ。
 江戸からの度の間、潜った修羅は幾つも有るが、その何れも一人では切り抜けられなかった。力を得る為に師と選んだ人物は、稽古の一つ付けようとせず、この数日は無為に過ごしたとしか言えない。

「あ、やば……くも、無いかな、んー」

 向こう側から、赤地に金糸の伊達な兵装で、兵士の一団が歩いて来る。反射的に家と家の隙間に隠れてから、怯える自分を自嘲的に笑った。 何せ白槍隊の規則正しさに比べ、派手な兵士達と来たら、足並みはそも揃えるつもりさえ無く、抜き身の刀を地面に引きずって歩いている。口汚い雑談にかまけていて、道端の少女に回す気もなさそうだ。

「おーい、次はどこ行く?」

「見回り飽きたし〝狩り〟行かねえ?」

「それでいーんじゃね? 行きましょうや隊長、奢ってくださいよー」

 けだるげな口調だけはやけに揃えて、らしからぬ兵士達は西へと歩いて行く。一人の兵士は後ろを振り返り、離れて歩いている男に、いやに親しげにに呼び掛けた。

「ばっかやろー、俺の財布そろそろ空になんぞ? 逆にお前達が奢れよ、逆に」

「えー、だって隊長じゃないっすかー」

 隊長と呼ばれた男に、兵士達は敬意を欠片も見せない。苦笑いしながら歩く男がおかしくて、村雨はくすりと笑いつつ、物陰から彼の姿を覗き見た。

「……うわぁ、変な人がいる」

 すると、呆れた異装であった。
 まず腰から下を見れば、西洋風の脚絆に革の脛当て膝当て、腰の周囲には金属板を繋いだ草摺を、胴ではなく脚絆の帯に繋いでいる。足元は草鞋や草履でなく、これも獣の革の靴。見事に守りの固い戦装束である。
 翻って上半身を見れば――身に着けているのは、十徳羽織〝だけ〟。小袖も無ければ襦袢も無い、素肌の上に羽織りのみである。当然だが羽織りの構造上、胸から腹にかけては寒風に吹き曝しだ。
 隠れている事も無いと、村雨はさもただの通行人であるかの様に通りに戻る。兵士達とは逆方向、東側へ数歩歩いて――薄着の男と同時に、振り返って互いの顔を見た。
 村雨が浮かべていたのは、軽い驚きの色。男の表情もほぼ同色だが、こちらは幾分か冷静な、品定めする様な色合いが有った。

「おー……すっげえ、ちっけえわ細いわ、こんなもんなんだな」

 男は空を仰ぐ様にして、鼻を幾度かひくつかせる。それから、小馬鹿にした様な笑みを村雨に向け、

「安酒だなぁ、おい。もうちょっといいもん買ってやるか?」

「いらないよ、御免ね」

「そうかい」

 それだけの短いやり取りをして、先を行く兵士達を追いかけて行った。

「たいちょーう、あんなガキに粉かけて何やってんですかー?」

「煩え馬鹿ヤロー、俺はもっとボンキュッボンのが良いんだよ!」

 ぎゃあぎゃあと野良犬の様に、やかましく立ち去って行く兵士達。なぜか村雨は、彼らの背に不吉なものを感じ、暫くは動けずに居た。








 急ぎ足、かつ、兵士達に追い付かないように。村雨は酒屋へと舞い戻っていた。
 酒壺を左馬の元へ持ち帰る事もせず、真一文字に歩いて行ったのは――兵士の集団に、なんとも言えぬ嫌な予感を抱いたからだ。
 そして不幸にも、その予感は的中していた。

「おじさん、ちょっと!?」

 酒屋の店先では、店主が商品の陳列棚に倒れ掛かっていた。だらりと垂れた腕に血が伝っていたのを、村雨は目より先に鼻で嗅ぎ付け、急ぎ駆け寄り助け起こす。

「あかん、みつ……あかん、持ってかれた」

「しっかりして、聞こえる!? 誰が、誰に、何を――」

 うわごとの様に繰り返す店主を、表通りから見えない位置まで引きずって行き横たえて、村雨は幾度か頬を張る。荒っぽい起こし方だが――ゆっくりと介抱する猶予は無い。

「あのチンピラどもに、みつを……姪っこを連れてかれた……。下、下……」

 傷の具合は――致命傷には程遠い。突き飛ばされて頭を棚にぶつけた、その程度のものだろう。脳震盪で震える指先が、剥ぎ取られた床板を指していた。
 村雨は咄嗟に、床板の下の空間を覗き込む。隠れ場所としては上手く作られたもので、僅かな外の灯りを鏡が反射し、本も読める程度の明るさを確保した部屋――そんな所には、小さな仏像が堂々と鎮座していた。

「あっちゃあ……」

 思わず村雨は頭を抱えていた。これならば連行の言い訳も無数に立つだろう、そういう有様の部屋だったからだ。
 それから、暫し逡巡する。どうしたものか――どうしたいのか。

「頼む、預かりもんの娘なんや……死んだ弟に面目が立たん……頼む」

「あー……もー、本当にもう……!」

 不用心で一人、顔も知らない少女が連れ去られた。別にこの程度の事件だったら、あちらこちらで見つかるだろう。
 だが、居合わせてしまったものは仕方が無い。

「おじさん、ちょっとこれ貸して!」

「お、おう……頼む、誰か、誰か」

 知らなければそれで良い。完全に手遅れならば諦められる。だが、どうにかなりそうな所に居合わせてしまった。
 見て見ぬふりを出来ぬ様な正義感は持ち合わせない。然し、中途半端に関わってしまって、しれっと逃げ出す図太さも無い。村雨は部屋の片隅に放置されていた被衣かつぎを引っ掴むと、己の灰色の髪を隠して表通りに飛び出した。

「どうしろってのよ、まったくもー!」

 打つ手はまだ思いつかないが、とりあえずは走る。村雨の思考はかなりの度合いで、誰かに染められている様子であった。








 追うべき臭いは捕捉している。臭いが何処へ向かっているかも、あらかた予想は出来ている。ただ一つの問題は、追い付いてからどうするかという点であった。
 獲物を見つけるのは得意だが、村雨はあくまで〝探し物屋〟なのである。本来ならば荒事は任務の外だ。

「北、風上に三町……まだ気付かれてない筈だけど……うーん」

 地下の隠し部屋に残されていた臭い――連れ去られたという少女のそれは、大量の金属の臭いに囲まれ、北へと移動を続けていた。
 現在地は大橋の西側、三条の近代的建築群の一角である。煉瓦は木ほど風通しが良くないが、村雨の嗅覚は集団の規模を正しく捉えている。先程すれ違ったばかりの兵士達――確か三十人ばかりだと思っていたが、それより人数は減っている。十人ばかりだろうか?
 とはいえ、依然何か仕掛けるには無理な人数だ。村雨はもう少し近づこうかと考える――危険だとわかってはいるが。風向きが変わってしまったら、向こうからも察知されかねないからだ。
 唯一の優位は少数である事。人混みに紛れて近づく、そこまでは出来るだろう。近づいてから取る手を、幾つか考えてみる。
 一つ、駆け寄って少女を抱え上げ、全力で走って離脱する。

「……絶対無理」

 人間一人を担いで走る――村雨なら、出来ない事は無い。が、前段階として兵士十人に接近し、反撃を許さず離脱出来るだろうか。考えるまでもなく出来る筈が無い。
 二つ、運良く兵士達の視線が、さらわれた少女から外れる瞬間を待ち、上手く引き寄せて逃げる。

「……ありえない」

 それが叶う幸運が有るなら、村雨は賭場で一財産築き上げただろう。大体にして兵士達の配置も分からないのだから、視線が外れる瞬間が有るかも分からない。ぐるりと取り囲んでいたり、鎖で少女が繋がれたりしていたらそれまでだ。
 三つ、どうにか煙幕の様なものを用意して、兵士達の視界を奪って逃げる。

「……これならまだ、まあ」

 ここまで思いついた案の中では、最も現実的なのがこれだった。
 肝心の煙幕をどうするかは別として、逃げ足ならば自信が有る。十三歳の少女一人担いだとて、並みの兵士には追い付かれまい。
 であれば問題は、如何に察知されずに近づくかという事と、何を使って目晦ましをするかであった。
 ただの通行人を装って、臭いの元へまず一町近づく。ここが橋の東側であれば、適当な建物の屋根に上るだけで相手を見つけられたのだろうが、あいにくとこちらは建物の背が高い。未だに兵士達の正確な所在は掴めていない。
 周囲の店を見渡して、村雨は何か役立つものが無いかと思案する。着物屋、茶屋、金物屋、冷やかす分には楽しそうだが、生憎と役立ちそうな何かは無かった。
 被衣に顔を隠していると、まじまじと他人の顔を眺めても気付かれない。橋の東と西で人の表情は異なるのか――そんな事が、ふと気になった。
 基本的な所では変わらない。少し疲れた様な、嫌になった様な、そんな顔つきの者ばかりだ。だが――時折、場違いな顔も混ざる。
 今日が幸せでたまらず、明日はさらに幸福になるだろうと信じている様な輝かしい顔。そんな奴は大概、布地から芳香漂うかの、金持ちらしい身形をしているのだ。
 金も力なんだなあと、村雨は唐突に気付いた。
 桜もこの街を歩くのに、憂いの表情など見せなかった。それと同じで金持ちは、自分の無事を保証されているのだろう。羨ましい事だと思う反面、持たざる者の嫉妬も湧き上がる。
 力さえ有れば――ああだこうだと悩まずとも、真っ直ぐに進んで少女を助け出せる。そもそも日中から酒を買う為に、街をふらふら歩く必要も無かった。
 然し、嘆いたとて無意味である。今ここで、村雨やさらわれた少女に無償の助けを送る者は誰も居ない。村雨がどうにかするしか無いのだ。
 更に一町進み、残りの距離は一町。ここまで来てしまうと、建物の配置もしっかりと見て取れる。兵士達の臭いは、通りに突き出た茶店から漂っていた。ちょうど軽い下り坂の突き当りに有る、入り口の広い店だ。

「うわっ、目立つなー……」

 赤備えの兵士達は、輪を作る様に座り込んで、茶店にはおいていないだろう酒を煽っている。全く良い迷惑だ、あれでは他の客も寄り付くまい。肝心の少女は――顔は初めて見るが、多分そうだろう――棒切れに手足を、猪の様に括り付けられていた。
 乱痴気騒ぎの度合いは目を覆わんばかりで、兵士達はいずれも見事な赤ら顔。酔いが脳髄にまで染み渡っているとはっきり見て取れる。あれならばもういっその事、正面から近づくという手も――

「……いや、やっぱり無理だ」

 ――血迷ったと、自分の案を村雨は即座に否定した。仮にも相手は兵士、人数も多い上に、向こうはいざとなれば援軍も呼べるのだから。
 ではどうするのかと、何度目かの逡巡に入った時――村雨は道端に、最近はやりの〝パン屋〟という物を見つけた。

「あ――あー、もしかして……!」

 画期的なひらめきであった。








 茶店『五百機いおはた』には、真昼間だというのに、酒の臭いが充満していた。

「でよー、あの店の女がケチくせえからよぉ、俺もブチっと来ちゃって」

「ぶん殴ったんだろ? 何度も聞いたっつうの」

「オチが違えよ。大体ぶん殴って来たのも向こうが先で――」

 口汚い兵士達の話題は、ほとんどが誰かを痛めつけたという話題ばかり。そうでなければ賭博の話か、或いはこの場に居ない誰かへの愚痴だった。

「本当によう、あの女の胸と来たらまるで板だ! 触っても固いばかりで面白くねえ」

「尻が板じゃねえだけ良いじゃねえか。お前のは釘より粗末だもんなあ」

「あぁ!? 喧嘩売ってんのか!?」

 元々薄い理性を酒で飛ばした兵士は、互いに罵り合い、時折は殴り合う。だが彼らには日常茶飯事な事の様で、制止しようと割り込む仲間もいなかった。

「ひっはははは……おいおい、歯ぁ折るんじゃねえぞ。喰いしばれねえと力が入んねえ」

「じゃあ殴るまでは良しって事ですね? こん畜生!」

 彼等を纏める若い――胸と腹を肌蹴させた羽織姿の――男も、やはり止めるでも無しに笑っている。彼は畳の上で座布団を枕に、そして縛り上げた少女の腹を足置きに寝転がっていた。

「で、お前ら。酔っぱらうのもいいがよ、順番は決めたのか?」

「順番? なんですか隊長、そりゃあ?」

 羽織男は、顔に浴びるように酒を飲む。飲み干しきれない分は畳を濡らし、部下の一人は呆れた顔になりながら、羽織男の言葉の意を尋ねた。すると羽織男は、ぎいと唇の端を吊り上げて、

「馬鹿野郎、一度に出来るのはせいぜいが二人だろ。一人二回として十周、どう並ぶんだ?」

「なーるほど、そこは考えてなかったすよ隊長。じゃあ俺が一番で――」

「却下。一番槍は隊長のもんって決まってんだ」

 兵士達から不平の声が湧き上がる――本心からの声でないのは、その場の誰もが分かっていた。隊長と呼ばれていながらこの羽織男は、敬意を払われない性質であるらしかった。

「じゃ、どこでやります?」

「ここで良いだろ。狭いし汚えが、団子有るもんな。おーい、五皿追加で持って来い!」

 茶屋の店主は、悔しさと悲痛さの入り混じる表情を商売用の笑みで押し殺し、兵士達に食わせる団子を焼いていた。代金は受け取っていない――ツケという言葉でごまかされた無銭飲食である。
 兵士達の傍若無人を、見て咎める者はいない。我らこそ支配者であると、赤備えの集団は哀れな少女に手を掛け――ようとして、がらがらと喧しい音に気付いた。

「隊長、あれって」

「ん、まあ、大八車だなぁ。当世流行りの、四輪型の」

 ちょうど正面入り口から見える坂を、大八車が下ってくる。通行人が一斉に道を開けた様は、まるで海でも割れたかの様で見応えが有った。
 特に変わった所は無い、普通の四輪型大八車である。木製の樽を三つ程並べている為、総重量は中々のものになっているだろう。押せば骨も折れようが、坂を下るならば重力が味方をしてくれる。

「しっかし隊長、あの勢いだと」

「そうだなあ、あの勢いだと」

 長い長い下り坂――大八車が近づいてくる間も、悠長に会話をしていられる程だ。既に兵士達は、羽織男を除いて腰を浮かせている。
 何故かと言えばこの大八車、押し手が誰もいないのだ。つまり、坂を下る勢いを削ぐ何者も無い――止まらないのである。

「こりゃ、突っ込んでくるんじゃねえっすか?」

「まあ、突っ込んでくるわなぁ。……何処の馬鹿だ」

 羽織男が毒づいた次の瞬間、大八車は茶店に突っ込み、破城槌の如き炸裂音を立て――木樽一杯に詰め込まれた小麦粉を、木片共々散乱させた。。

「うわっぷ、なんだこりゃ、酷え! うえ、目が痛、目が……!」

 衝突の衝撃で木樽が破損し、小麦粉は爆発的に拡散する。一瞬にして茶店の店先は、火災現場よりも尚視界の悪い、白一色の世界に変わり果てた。

「畜生、どこのどいつだ!? 面見せやがれ、ぶっ殺してやる!」

「馬鹿野郎、んな事言われて出てくる奴なんていねーよ……普通ならなあ」

 喚き散らす兵士達を余所に、羽織男だけは至って冷静であった。彼だけは変わらず立ち上がらぬままで――足の下から、少女の体が引き抜かれるのを確かに感じたのだ。

「おうお前ら、ちょっと酒盛り続けてろ。俺は走って来るわ」

 白煙を掻き散らし、羽織男は高々と跳躍する。屋根の上から通りを見下ろせば、恐ろしいまでの速度で、逃げていく人影が見つかった。
 北へ、北へ、少女を担いだ村雨が、人混みを擦り抜け走っていた。








 パン――大陸では至極一般的な食品である。
 主原料は小麦粉。元より日の本でも菓子やうどんなど、さまざまな食品の生産に使われているものではあったが、それもあくまで都市部の話であった。製粉の為の設備が、寒村などでは整っていなかったからだ。
 ところが開国以降、小麦自体の輸入開始も然る事ながら、やはり新技術の普及が、小麦粉の廉価化を齎した。高性能の大型碾き臼と、女子供でもそれを動かせる力――魔術の伝播、発展が故である。
 為に、日の本の首都である京の街、それも三条大橋西側の近代都市群では、パン食は比較的ありふれたものに変わっており、必然的に小麦粉を備えておく店も増えていた。村雨が茶屋に叩き込んだのも、そんな理由わけで大量に仕入れられていた小麦粉である。

「よし、よし、よーしっ! 上手く行ったぁ!」

 細い路地から路地へ、村雨は風の様に駆け抜けていく。肩に少女一人――然程村雨と体格は変わらない筈だが――を抱えても、健脚に衰えは見られなかった。
 擦れ違う者が振り返る頃には、既に五間は先に背中が有る――それ程に村雨は速かった。
 生来人狼とは、夜を徹して獲物を追い回す種族。その脚力を短時間に注ぎ込めば、人間一人の重量など如何程の事も無い。
 これならば逃げ切れる――追手を撒ける。視界の外へ消えてしまえば、後はいくらでも隠れ様は有る筈だ。夜まで上手く遣り過ごし、少女を比叡山の方角にでも逃げさせれば、味方は大勢いるだろう――そんな算段を、村雨は組み立てていた。
 適当な場所で、一度少女を肩から降ろす。手首と足首の縄を解き、口に噛まされた猿轡を投げ捨て、地べたの上に座らせた。

「えーと……あなた、みつって言うんだっけ?」

「はい? ……はい!」

 攫われた当の本人はと言えば、呆けた顔を漸く止めて、いやに明るい笑顔で返事をしてみせた。

「……元気そうで何より。走れる?」

 突然隠れ場所に踏み込まれ、縛り上げられ誘拐されて――そんな憂き目に遭った様には、どうしても見えないこの少女。村雨は一瞬呆れながらも、無意味と分かっている質問をした。

「ごめんなさい、あんなに速くは――」

「だよねー。じゃあ……隠れて行こうか。これくらい離れれば、暫く追い付かれもしないでしょ」

 亜人の全力疾走に十三歳の少女が、それも朝から晩まで仏教の経典を読んでいる様な少女が、付いて来られる筈が無い。村雨とて体力は無限では無いので、回復を待つ意味も兼ね、みつに自分で歩かせる事にした。
 周囲の物音、動き回る臭いに、細心の注意を払って進む。肝心なのは迅速にこの場を離れる事である。追手がどれだけ増えるか分からないのだから、隠れ潜むのも留まるのも良策とは言えないのだ。

「お姉さん、名前はなんて言うんですか?」

 が――口を閉じていないのが、この少女だった。

「……私、まだ十四歳だよ?」

「でも私よりお姉さんですよ。私は十三歳です!」

 村雨は一つ、溜息を零す。元気なのは良い事だが、時と場合に拠るだろう。

「じゃあ、それでいいよ。私は村雨」

「私はみつです、宜しくお願いします! ……あ、助けてくれてありがとうございました!」

 溜息を二つ目。良い教育を受け、天真爛漫に育った少女であるらしい――代わりに、危機意識は薄い。
 縛り上げられ攫われたというのに、結局助かってしまったから、他人事の様に感じているのかも知れない。然し度が過ぎる――村雨は立ち止まって、みつの肩を掴んだ。

「あのね、静かにして。急がなきゃないの、分かる?」

 少し声に棘を作る。叱られたと感じたか、みつはほんの少しだけ表情を暗くしたが――直ぐに、元の明るさを取り戻す。

「何処へ連れてってくれるんですか? ……もしかして、お山とか?」

 声を潜める程度の努力はしていたが、それが村雨の苛立ちを和らげたかと言えば、否。これ以上咎めるのも面倒になったのか、村雨は無言で歩いた。

「わー、一度行ってみたかったんです。お寺、街の中のしか見た事無くって……比叡山に行ってみたいなあって」

 だが、みつは喋り続けた。声を潜めてはいるし、足を止めもしないが、喋る事だけは止めようとしなかった。

「ね、ね、村雨さんは見てきた事有ります? お堂広いんでしょうねえ……経典だって読み放題なんでしょうし、それにそれに」

「あーもう、うっさい」

 村雨が声の棘を増やす。みつはビクリと体を震わせ、もう一段階声を潜めて――本当に、喋る事を諦めない娘だった。

「……ごめんなさい、お出かけ久しぶりなんです……前は三日に一回くらい、どこかに出かけてたのに……」

「そりゃあ良かったね、呑気な事で」

 外出など、村雨に取っては何ら珍しいものでもない。寧ろ外に出ない日の方が珍しい――外へ出なければ飯のタネにありつけない。年齢一つ違うだけで、何故この少女はこんなにも幼いのかと呆れ――ふと、村雨は気付いた。

「で、みつ。買い物はどうしてたの?」

「え? それは使用人が全部済ませてたので……。あ、でもでも筆や硯を選ぶ時は、私もちゃんと付いて行ってたんですよ! 写経に使う道具は良いものを――」

「あー……成程ね」

 幼い、幼くないではなく、そもそも社会経験を積ませてもらえていないのだ。
 男は働き女は家を守る、こんな考え方も何時までもは続くまい。が、概して富裕層は保守的であるから、きっとこの少女も、生活に必要な技能を与えられなかったのだ。

「次の春が来たら、伊勢参りに行く事になってました」

「伊勢? ……神道じゃないの。あれ?」

 思わず村雨は、振り返って聞き返してしまう。仏教に傾倒している彼女にしては、何やらおかしな単語が聞こえた気がしたからだ。

「本地垂迹です! 見分を広げるのは良い事だって、和尚様もお父様も――」

「ごめん、八百万やおよろず柱全部が仏様とか無理有ると思う……」

 成程と理屈には頷けど、どうしても納得しかねる理論を突き出され、村雨は思わず真顔で否定した。否定してから――少女の顔が、途端に曇り始めた事に気付いた。

「……みつ?」

「おと、お父様も、お母様も――連れてってくれるって、言ったのに」

 仏教の主張を否定したからか、村雨はほんの一瞬だけ思って、直ぐに思い違いを知らされた。

「言ったのに……! 皆で行くって、ちゃんと、ずっと言ってたの、にっ」

 思い違いの始まりは――そも、彼女を能天気なだけの少女と、そう受け取ってしまった所からだった。
 確かに恵まれて育ち、世慣れぬ少女ではある。だが、寧ろだからこそ、全てを失った反動は、あまりに大きい筈だ。失ってなお、仮初だろうと明るさを保っている――それは、村雨には無い強さだった。

「おちついて、みつ、静かに」

「ひ、ぐ――う、うっ、うーっ……」

 泣きじゃくる少女を宥めながら、村雨は自らの境遇を振り返る。
 思えば、自分は何も失っていない――だのに、〝まだ得ていない〟というだけで、湿っぽくうじうじとした思考を引きずっている。少なくとも平時の自分であれば、育ちの良いお嬢さん相手に苛立つような、僻みじみた事はしなかっただろう。
 そう考えてみれば、情けないのも自分であった。両親を亡くし、自らも窮地から拾い上げられたばかりの少女に、もっと配慮をしてやれなかったものかと――どこぞの女たらしなら呼吸する様にやってのけるだろうとも、併せて思った。

「……ごめんね、みんな辛いんだよね」

 足を止め、少女を座らせ、その肩をそっと抱いてやる。小柄な自分よりさらに華奢な骨格は、少し力を入れれば容易く圧し折れそうで、村雨はそれが何故か悲しかった。
 少女の頭を胸に抱いて、泣きたい侭に泣かせ――自分自身も、捻くれ始めた思考を真っ直ぐに戻す。休めねばならないのは体でなく、寧ろ心なのだと、疲れ果てて初めて気付いた村雨であった。



 だが――この日の気候が仏心を起こし、遅まきに村雨の味方をする。村雨は弾かれた様に顔を上げた。
 北から南へ吹いていた風が、ちょうど正反対に向きを変え――追手の臭いを村雨に届ける。それが、あまりにも近すぎた。

「よう、酒は結局安物一つか。だーから買ってやるって言ったのによぉ?」

 村雨達の後方四間に、チンピラ兵士達の隊長、羽織の男が立っていた。

「……お生憎様、知らない人の施しは受けたくないの」

 今まで村雨達は、追手の風上に居た。ならば――こうして追い付かれるのも、分からない事ではない。
 だが、早過ぎた。村雨自身の脚力を算段に居れれば、もう暫く休んでいても、十分に逃げ切れる筈だったのだ。

「知らない人からぶんどるのは良いのか? 全く躾けのなってねえチビだ……でもまあ、こっちのが?」

「こっちのが、何さ」

 食って掛かる様な物言いをしながら、村雨はみつを背中に庇う。両手とも拳を固く握って、これ見よがしに構えを取った。

「いや、まだ肉付きが良いなあと。同じガキならまだ、お前の方が心地良さそうだ。……んでお前、そのガキ連れてったって事の意味、分かってんの?」

 羽織男は、その拳も見えていないかの様に、無防備に間合いを詰めて来る。村雨の背後でみつが、数歩ばかり後ずさりをした。

「俺、こー見えても偉いんだぜ? 皇都守護隊が分隊の一つ、赤心隊の部隊長様だ。って事はつまり、俺は洛中で司法権を行使出来るって事――らしいのよ。
 いや、正直司法権がどうとか良く分からねーけど、あれだろ? 俺達で罰とか決めていいんだろ? 坊主や尼の連中にはよぉ」

「執行は別だ、って聞いた気がするけど。何処の国に倣ったやり方なの?」

 知らねえよ、と羽織男は笑い飛ばした。喉に音が引っ掛かる様な笑い方で、声だけで人品を判断出来てしまいそうな程、下賤の性根が浮き出ていた。
 然し、声以上に村雨を警戒させたのは、男が放つ臭いであった。血と鉄と脂、人死にが起こる現場に溢れている様な臭いに混じり――安酒と、幾人もの女の体臭。彼が率いる部下達の言動も合わせれば、これが碌でもない生き物である事は確かだった。

「諦めてくれない? じゃないと酷いよ、分かるでしょ?」

「あー、あー、言いたい事は分かる。でもよ、何時でも〝そう〟なるとは限らねえんだぜ?」

 村雨は、この男との対話に、言語を用いる意味は無いだろうと悟っていた。互いにぶつける言葉は、飽く迄戯れ程の意味も持たないのだ。仮に意味を見出すなら――村雨の言葉は、みつの恐怖を和らげる為。羽織男は反対に、みつの恐怖を煽り立てる為だった。
 羽織男が近づき、村雨の肩越しに、みつの腕に手を伸ばす。みつは怯え竦み、逃げる足さえ動かない。代わりに村雨が、伸ばされた腕を払いのけた。

「おー、痛え痛え。こりゃ暴行罪ってのでしょっぴいても良いな、あん?」

「……痛みなんて無いくせに」

 羽織男の腕は、鋼の様に硬かった。太い骨に頑強な筋肉の束を重ねた――凶器の領域に達した腕だ。弾いた村雨の手が、反対に僅かだが痛みを覚える。
 もはや村雨は、逃げる事を諦めていた。
 どうにもならなければ――噛みつこう、噛み裂こう。人には向けられぬ技の全て、この男にならば振るっても良い。何故ならば――

「近づかないで! 本気だよ!」

「ほー、そりゃ怖え。ぶるっちまうなぁ? だーが、人里育ちの狼じゃあ――」

 羽織男は両手を無造作にぶら下げ、がち、と上下の歯を打ち鳴らす。

「――猟犬の牙には勝てねえよ、ひん剥くぜ?」

 こいつも自分と〝同じ〟だ――灰色狼は牙を剥き、己から赤犬に飛び掛かった。
 獣二頭の、潰し合いであった。








 初撃、剣状突起――鳩尾に有り、比較的脆い尖った骨――への蹴打。型は荒いながら、矢の様に鋭い蹴りである。

「お、……おっ?」

 羽織男はそれを、半歩だけ下がりつつ腹で受け止め――不意を突かれた様な顔をした。
 ただの餌、子犬だと思っていた敵が、予想以上に鋭い牙を持っていたのだ。明らかに対応が遅れ、羽織男は背を丸める。

「し、やっ!」

 低くなった顎を狙う、再びの右爪先蹴り。並みの男が相手であれば、この一打で昏倒した筈だ。

「おー……? なんだこりゃ、チビの癖に強えな、ほーりゃっ!」

 だが羽織男は、村雨の蹴りより速く体を反らせて回避してのけ――戯れの様に蹴りを返す。
 地上を離れた足が、六尺の背丈より高く舞い上がり、鋭角に村雨の頭蓋目掛けて振り下ろされる。羽織男の重心は後ろに崩れ、両手もぶらりと下げたまま。だのに蹴りの軌道は馬鹿げて鋭かった。

「ひ――い、あっ!? 痛ぅー――」

 咄嗟に掲げて防いだ村雨の腕は、骨が着火したかの様な痛みに襲われる。闘争の昂揚も忘れる程の熱さだった。
 村雨を打ち据えた男の足は、行きと全く同じ軌道を辿り、放たれた元の位置に戻ろうとする。片足が浮いている――即ち、地に着いているのもまた片足のみ。痛む腕を抑えながらも、村雨は本能的に踏み込んでいた。

「――ぅう、あああアアァッ!」

 走り込む速度を落とさず、右肘を突き出す。少女の体重ながら速度は尋常の埒外、刺されば大の男を悶絶させるに足る――筈、だった。
 右肘の先が男の腹に触れたと、そう認識するより先に、村雨は空を見上げていた。男の足が着地前に軌道を捻じ曲げ、村雨の顎を蹴りあげていたのだ。

「ぁ、――あ、ぅ、あれ」

 膝が笑い、村雨は地面に座り込む。土の冷たさを足が感じて、漸く立っていない事に気付く始末だ。敵の前に無防備を、相当な時間晒してしまっていた。

「おー、おー、何だこりゃマジ凄えわ、いやマジで。こんなチビでもこんだけ動くとかよぉ、凄えなぁ? 流石に殺しの専門家だわ、雌まで徹底してやがる」

 だのに羽織男は、追撃をしようというそぶりも無かった。軽く体に触れた打撃の、その予想以上の重量感に感心し、動けもしない村雨を褒め称えていた。
 耳に届く声を、音と認識しないまま、村雨は立ち上がろうと足掻く。腰を浮かせた次の瞬間には、額が土に触れていた。体を支えようとした腕までが、村雨の意思を無視していた。

「んでもさぁ、喰うなら俺じゃなくね? むしろそっちのガキだろ、肉が柔いのは雄より雌ガキだぜ。そんなのも忘れるまで飼いならされたかよ」

 倒れ伏す村雨の耳元へ、男は訝る言葉を投げつける。両手を地面に付け、顎を地面ぎりぎりまで引き下ろした男は、一頭の野犬の如き様相であった。

「行儀が良いなぁ、狼さんよ。 人の真似事じゃ足りねえで、義士の真似までしてんだもんなあ。楽じゃねえだろ?
 楽になろうぜ、開き直れば世の中良いもんよ。拳だ足だと気取ってねえで――おっと!」

 羽織男の言葉は、村雨の指に断ち切られた。村雨は、男の耳を掴もうと手を伸ばしたのだ。
 無論、容易く捉えられる男ではない。手で地面を叩き、上体を跳ねさせて避け――然し、まだ立ち上がらない。蹲踞の姿勢から両手を地面に付けた、躾けられた犬の様な格好で、依然村雨に何事か呼び掛けていた。
 そうだ、この男は品性の悪さに似合わず、村雨を嘲りはしていなかった。ただ純粋に呆れ、疑問に思っているだけだ――何故、人の様な格好で、人の様な行動を取るのかと。
 答えの代わりに村雨は、身を小さく撓め、牙を剥き出しに唸りを上げた。強膜の白が水色を帯び、瞳孔は拡大し、愈々狂気を解放せんとして――喜悦の笑みだけは浮かばない。

「……お、少し美人に化けた。そのツラは良いんだけどなぁ、やっぱりまだ胸が薄――」

 ち、と擦過音が鳴った。村雨の靴が地面と擦れ、砂煙と共に立てた音であった。
 僅か一蹴り、不要に近づいた男への反撃――腕か肩を噛み千切らんと、牙を備えた口が大きく開かれた。

「――いや、脚腰は強えな。〝俺達〟の雌と比べても……おー」

「ぉご――っ、!? ぉえ、えああ、あ……っ!」

 その咥内に、男の指が滑り込み、舌を掴んで引きずり出した。
 自分の牙で舌を切断しては――村雨は口を閉じる事が出来ず、また男の手を引き剥がしも出来ない。未だに視界が歪むまま、痛みから逃れる為、必死で爪先立ちになる。

「兵部の旦那に――いや、勿体無えなあ。余って困るもんでもねえし、取っとくか」

 細首に、男の指が巻き付いた。左手一本で無造作に吊り上げられ、村雨の体重全てが気道に食い込む。

「……ぎぃ、ぁか、っ……! はぁ、が――」

 肺に空気が届かない。心臓は無情に鼓動を続け、全身に酸素を供給しようとする。
 手の指が痺れ、膝から下の感覚が消え失せ、僅かに残るのは頭蓋の内側――こめかみから蟲に食い破られる錯覚。痛みを圧迫感が押しのけ、眼球が光を捉えられなくなった。
 引き出された舌に伝う唾液の、粘性が一段濃くなって、飲み干せず喉に絡み付く。暗く冷たい泉に沈む様な、心地良くさえ感じる苦痛――村雨は意識を手放し、糸が切れた人形に成り果てた。








 曇り空の切れ間から、太陽が気まぐれに顔を覗かせた昼下がり。青峰あおみね 儀兵衛ぎへえは燻っていた。
 短槍も刀も、ここ数週間で多数の血を啜ったが――その殆どが、無抵抗の獲物だったのだ。

「……っけえ」

 石畳を蹴り飛ばしても、砂埃が上がるだけ。悪態を吐こうにも良い言葉が思いつかず、痩せ鳥の様に儀兵衛は呻いた。
 全くこの世は、長く生きれば生きる程、おかしな事ばかり気付かされる。
 幼少の時分には、老人が先に若者が後に、順序良く死ぬものだと思っていた。善人は報われ悪人は報いを受け、それが世の有り方だと思っていた。
 今も、そう在るべきだとは思っている。然しながら、実際にそうなっているとは思えない――自分自身が反証なのだから。
 暫く前ならば日没は、酒を煽る許可と同義で、好ましく待ち遠しいものだった。それが今では、血塗れの仕事を始める合図で――全く以て気の晴れぬ事であった。
 夕暮れまで、部下達には休憩を取らせている。儀兵衛自身はあても無く、ただ京の街を散策していた。何かを楽しもうとする余裕は無かったのだ。

「……ちっ、赤犬共が居やがった」

 小腹が空いたので、腹に何かを押し込むべく立ち寄った茶屋には、既に不愉快な先客が陣取っていた。
 〝赤心隊〟――狭霧兵部和孝の、いうなれば子飼いの兵である。結成されたのは数か月ばかり前の事だが、兎角素行が悪いとの評判で――それ以上に、危険な集団であった。
 個々の戦力ならば、洛中守護の〝白槍隊〟か、或いは儀兵衛率いる〝隙風集すきかぜしゅう〟――何時の間にか入り込むから、こんな名前を付けられた――か。非正規部隊なら『錆釘』の派遣兵達、彼等の方が余程強い。
 にも関わらず赤心隊が恐れられるのは、彼等の強い仲間意識と、彼等を束ねる長――冴威牙さいがという男の存在だった。
 彼が何処で生まれ、何をして育ったか知る者は少ない。だが、彼が上げた武功の程は、皇都守護の者なら誰もが知っている。
 ほんの一年前の事。拝柱教を非難する過激派の仏僧が、二十人ばかり薙刀を担ぎ、街を練り歩いた事が有った。飽く迄もただの脅しで、実際に武力に訴える予定は無かっただろうが――その前に立ちはだかったのが、冴威牙だった。
 結果は、死者が二十名に重症者十四名、軽傷五名を数える惨事となる。僧兵の首を蹴り折るだけでは飽き足らず、制止しようと詰め寄った兵士まで蹴り飛ばし、当の本人は涼しい顔をしていたのだ。
 結果、白槍隊が駆り出され、波之大江 三鬼の手に拠って、この若者は捉えられた。尋問を買って出た狭霧兵部とのやりとりも、未だ兵士達の間では、恐怖混じりに語り草にされる。

『おい、痩せ犬。何が欲しくてあんな事をした』

『特権。俺に好き放題させてくれ。そしたらあんたに、この国を好きにさせてやるからよ』

 捕縛された罪人に拘束もせず、兵部は無防備に近づいた。冴威牙もまた、殺せる間合いに獲物を入れつつ、何も手出しをせずに答えた。

『分かった、一年待て。殺すも犯すも好き放題だ、給料も良いぞ』

 僅か一度の会話で、冴威牙は一部隊を預けられた。そして一年後、兵部の言葉は現実になり、冴威牙率いる赤心隊は、それこそ好き放題に狼藉を働いているのであった。
 形の上では同僚、然し好んで近づきたい相手でも無い。遠巻きに見つつ、気付かれる前に離れようと、儀兵衛はそっと踵を返し――背後に立つ冴威牙に、その時ようやく気付いた。

「よ、兵部の旦那の使い走りじゃん。何やってんの?」

「散歩だ、悪いか」

 足音の無い男ではあるが、こうまで近づかれても気付けなかった自分に、儀兵衛は舌打ちしつつ答え――ぐうと目を丸く見開いた。

「おい、何だそりゃ。何処で攫ってきた?」

「右? 左? 左肩のは、仏像に手を合わせてたんで逮捕。右のは、左のを連れて逃げようとしたんで逮捕。すげえだろ俺、仕事してんのよ?」

 冴威牙は米俵か何かの様に、少女を二人担いでいた。手首だけを背中側で縛られた、極めて簡素な拘束――それでも、自力ではまず解けまい。何れも年端もいかぬ少女だが、その片方に儀兵衛は見覚えが有った。
 日の本ではまず見掛けぬ灰色の髪――二度ばかりであった、異郷の少女。敵対した事さえ有るが憎しみは無く、寧ろ救われた恩義と、それから少し気に掛けていた事が――

「餓鬼か、そんなガチガチ取り締まる事もねえだろう」

「ババアよりゃ若い方が良いんだよ。色気は無えけどなぁ、ひっはははは」

 言うだけ無意味とは分かっていたが、やはり良心に訴えてどうなる相手でも無い。儀兵衛は内心で歯軋りをしつつ、重心を心持ち爪先側に移した。

「……おいおい、俺達同僚だろ? んな怖い顔すんじゃねえよ」

「そうかね、自覚はねえや。荷物が重いだろ、その餓鬼どもは俺がしょっぴいといてやるよ」

「手柄泥棒は関心しないぜ、おっさん?」

 冴威牙は右足の踵を浮かせる――雑兵の槍より、余程危険な凶器である。意を通すには暴力も躊躇わぬと、殺意を明確に提示して、

「大体なぁ、色気は薄いが上玉二匹――ヤらねえで殺す手はねえよ、な?」

「か、――っ!」

 儀兵衛は嚇怒し、腰の短槍を引き抜こうとする。柄に手が届くより先、肘の裏を爪先で蹴り込まれ、間接に鈍い痺れが走った。

「ひっはははははは! お仕事頑張ってくれよな、掃除屋さんよ!」

「てめえ……てめえ、腐ってんのか!? あぁ!?」

 返事の代わりに笑いが響く。去り行く冴威牙の背を、儀兵衛は追えなかった。
 追えば確実に食い殺される、技量差を十分に弁えていたのだ。








 ずきずきと首に刺さる痛みで、村雨は意識を取り戻した。

「あった、たぁ……あれ、えと」

 目を開いてまず見たものは、何処かの畳。立ち上がろうとしたが、まだ視界に靄が掛かっていて、ろくに動けそうには無かった。
 が――仮に意識が明瞭だったとして、大きく動く事は出来なかっただろう。村雨の首には太い縄が巻きつけられ、もう一端は茶屋の柱に括り付けられていたからだ。
 何が有ったか――考えれば、直ぐに思い出せる。意識を失う前に何をしていたかも、その時に誰と行動していたかも――

「――みつ、居る!?」

 兵士に攫われた少女を、村雨は奪還しようとしていたのだ。自分が戦っている間に、少しでも逃げていてくれたら――そんな期待は、瞬きより速く砕かれる。
「おー、ここに居るぞ。やっぱり薄っぺらい胸してんなぁ、あーつまんね」
 直ぐ近くから聞こえた声に、村雨は反射的に顔を上げた。畳にうつ伏せになったまま、首だけ持ち上げた村雨の眼前で、羽織の男――赤心隊の冴威牙が、やはり首に縄を掛けられたみつを、背後から抱えて座っていた。
 咄嗟に村雨は飛び掛かろうとして、上体は浮かせたが立ち上がれず、胸を畳に打ち付ける。両手の手首が、背中側で縛られていた。

「何してんの、放して!」

「どっちを? お前、それともこっち? まー、どっちも放してやらねえけどなー」

 みつの口には猿轡が噛まされて、言葉が発せない様にされている。それでも必死に呻き声を上げ、首を振り足をばたつかせる様は、少女の無力をはっきりと知らしめている。
 手が使えないにせよ、立ち上がるだけであれば、少し時間を掛ければどうにかなる。村雨は仰向けになってから、首と背をばねの様に使って立ち上がると、冴威牙へ詰め寄ろうとした。首に掛けられた縄が邪魔をして、足の先もぎりぎり届かなかった。

「く、うーっ……!」

 仮に届いたとしても、痛打は与えられまい。それより先に村雨が組み伏せられるだろう――柱を中心に車座に、兵士達が酒を飲み交わしている。

「おおっと、抜かりねえよ。ちゃんと図って長さ合わせたんだぞ、いやほんとほんと」

 無理に進もうとすれば、ささくれ立った縄が喉に食い込む。力任せに引き千切れる様な代物では無い。安全圏に座った冴威牙は、これ見よがしに勝ち誇って嗤っていた。

「さっきの話の続きだけど、俺って偉い人なのよ。本当ならあのまんま絞め殺しても良かったんだけどよぉ……ま、生かしておいてやったって訳。感謝してくんね?」

「ふざけないでよ!」

 吠えながらも村雨は、自分は確かに一度、殺されていてもおかしくなかったと気付いた。
 意識を失ったまま、敵対者の前に放置される。抵抗は叶わず、何をされようが知る由も無い。下賤な物言いの男に不安を覚え、村雨は一度身を縮め、自分の体に鼻を近づけた。

「ひっはははは、まーだ何もしてねえよ。寝てる餓鬼に何かしてもつまらねえじゃん? それによ、ちょっと余興も思いついたし」

「……碌でもない事なんだろうね、その顔みたいに」

「いい男じゃんよー俺……えー、そんな酷え顔か?」

 憎まれ口を叩いても、冴威牙の優位は動かない。馬鹿にした様に、冴威牙は笑い続けるばかりだ。その軽口は、思いつきとやらが村雨の言う〝碌でもない〟事に当てはまると明言している様であった。

「いやさ、思いついたってのはよ、お前の扱いの事。別に俺達、人殺しが大好きって訳じゃないんだぜ。ちょっと良い思いさえ出来りゃ、後は寝床と飯だけで満足ってもんだ。
 ……ってな訳で、部下共にも大盤振る舞いと行きたいんだけどよ、お前ってアレじゃん。好き放題させんのも、なんか寝覚め悪くなんじゃん? だからまわしちまうのはあっちの餓鬼だけで、お前は俺が――」

「獣より酷いね、かしらが頭だから?」

 村雨は敵愾心を隠さない。今にも噛みつかんばかりの表情――実際、間合いに入れば噛みつくだろうが――のまま、手首の縄を外そうと図る。

「良い男だとか、笑わせないで。あんたなんかより、その辺の犬の方がまだ男前だよ」

 腕の動きを気取られぬ様、言葉は途切れさせない。

「へえ、俺は犬と同じ扱いか。酷えなあ、酷く傷ついたぜ」

 然し、村雨の魂胆など、あっけなく見破られている。悪態を飄々と受け流しつつ、僅かに腰を浮かせた冴威牙であったが――

「違うよ。犬以下で、人以下。どっちもなのに、どっちよりも酷いね」

「……あぁん?」

 風が蝋燭を吹き消す様に、冴威牙は嘲笑の色を失った。

「餓鬼。今、なんつった?」

 己が、このふざけた男の何か――矜持の根幹を踏みにじってしまった。村雨は引き戻せなくなってから、ようやくその事に気付き――だが、今更どうにもならない。

「人にも犬にも、どっちにも劣ったケダモノだって言ったんだよ。自覚は有るでしょ?」

「てめぇ、おい」

 自覚など――掃いて捨てる程に有るだろう。冴威牙が村雨を〝そう〟だと見抜いた以上、村雨が冴威牙を〝そう〟だと気付かぬ道理は無い。
 己が聞き捨てておけぬ言葉を投げつけて、少しでも冷静さを欠かせようという算段が――予想より深く刺さってしまった。内心の僅かな恐怖と共に、村雨は、この男の正体の一端を嗅ぎ付けた。

「すごいね、周りの皆には教えて――いや、そんな度胸は無いよね。群れの上に立ちたがるみたいだしさ、〝知られた〟ら蔑まれるって知ってるでしょ」

 互いに人でも獣でも無く――亜人であるのなら、何を嫌うかは分かる。そして、日の本の人間が、亜人にどういう思いを抱いているかも、だ。自分自身をも斬り付ける様な言葉を、村雨は矢継ぎ早に投げかけつつ、手首の縄を緩めようとする。

「ためしに聞いてみたらいいじゃない。自分が何者なのか知って、それでも従ってくれるかってさ! 掌返しは見てきたよ、しないって言い切れる立派な部下じゃ――」

「うるせえぇっ!」

 冷静さを失わせる、その算段は的中した――度が過ぎた。冴威牙はふざけた男の皮を脱ぎ捨て、凶狗の本性を怒声に表した。
 抱えていたみつを、投げ捨てる様に畳に降ろし、村雨の髪をわし掴む。そのまま腕を振り下ろせば、村雨は再び畳の上に、芋虫が如き格好で這う羽目になった。

「あうっ……痛いな! 放してよ!」

「黙ってろ糞餓鬼! どんだけ甘ったるい生き方したか知らねえが、役立たずの耳で良く聞いとけ!」

 予想以上の怒気を浴びせられ、村雨は委縮し――だが、気付かれぬ内に、手首の縄だけは解いてのけた。両手首を捻り、少しずつ隙間を広げるやり方で――そうして引き抜いた手を、畳に着いた瞬間に踏みつけられる。

「こいつらはなぁ、知ってて付いて来てんだよ! 俺を嘲ったから、俺が叩き伏せて、俺が餌をやって、金も酒も手柄も、女も好きにくれてやって――あああぁっ!!」

 もはや村雨は、何を言おうともしなかった。抵抗さえ無意味かと思えば、意思と無関係に四肢の力が抜けた。

「何でてめえは、俺と同じなくせして――んな事を平気で言えんだよ、このアマァッ!!」

 吠え狂う冴威牙の手は、力の加減を忘れている。後頭部を掴まれた村雨には、指が頭蓋に入り込むかとの錯覚さえ有った。

「あーあ、ああなっちまった。どうすんべ?」

「どうするもなんもなあ、俺しーらね。たいちょー、こっちのそろそろヤっちまって良いすかー?」

 車座になっていた兵士達は、獲物の片方を諦めた様で――つまりは、もう片方の獲物だけを毒牙に掛けようと、律儀に許可を求めた。

「ああ、やれ……! この餓鬼の目の前で、見せつけて犯し殺せ!」

「ちょっ――何考えてんの!? この最低野郎、人でなし!」

 罵る声が震えている。人間一人程度の重量、村雨なら跳ね飛ばせない筈も無かったが、その発想に辿り着く事も無い。犬が尾を腹に巻くように、これ以上の禍が自分に及ばぬ様、怯え竦むだけが今の村雨で――

「黙ってろ、つっただろ? あっちが死んだら次はてめえだ、死体も十分に使ってやるよ!」

 ――頭を伏せても災厄は去らない。諦念に塗れた灰色の瞳は、猿轡を噛まされた少女に群がる、屈強な兵士達の背を見ていた。

 その背が――巨大な足に蹴り散らされた。
 巨体の男であれば、人の顔程もある足とて珍しくないが、〝それ〟は人の胴体程も有った。
 きっと〝彼〟からすれば、手心を加えての一撃だったのだろう。だが、巨木の如き薙ぎを受けた兵士達は、壁に罅を入れる程強く叩き付けられた。

「貴公達、無法の申し開きは有るか!」

 一丈二尺八寸、二百四十七貫。鬼灯の目の巨躯は、地を揺るがさんばかりの音声を鳴らした。








 鼠が猫を恐れる様に、虫が鳥を恐れる様に。或いは、人が闇を恐れる様に。本能からの恐怖とは、常に理屈の外に君臨する。

「白昼よりの無法、蛮行! 貴公達、そっ首叩き落されようと異論は無いな!?」

 怒声一つが柱を揺らす。眼光一つが室温を引き下げる。兵士数人を蹴り散らした鬼――波之大江なみのおおえ 三鬼さんきは、まさにその恐怖を体現した怪物だった。
 巨体が屋根の下に収まる為に、背を撓めては居るが、今にも後頭部が梁を押し上げそうな程。天井近くに有る顔は、人を睨み殺さんばかりである。鬼の激昂の程が伺えた。

「お、ま――待て待て待て、白槍隊が俺になんの用だ、援軍なんざまだ頼んじゃいねえぞ!?」

 暴虐の絶頂に居た冴威牙が、見るからに怯えている。組み伏せられている村雨さえ、痛みより恐怖で動けずにいた。
 鬼は一歩で――並みの人間の二歩より遠いが――冴威牙に近づくと、座布団の様な手で頭蓋をわし掴む。砂利を掴むかの如き無造作振りであった。

「あたた、痛っ、痛え! 何すんだよ、コラッ!?」

「知れた事、無法者を断首せんが為、川原まで引っ立てる所存よ」

 手足をバタつかせて吠える冴威牙だが、怒りの程は三鬼が遥かに上だ。威嚇が届くべくも無い。
 背から体重が消えて、村雨は咄嗟に立ち上がる。兵士達を突き飛ばして、みつを抱え上げると、すぐさま茶屋の隅に積み上げられた、座布団の影に入り込んだ。
 兎角、何からも隠れたかったのだ。赤心隊からも、冴威牙からも、割って入った鬼からも。みつの猿轡を外すより早く、村雨は自分の膝を胸に抱え、きゅうと身を縮めていた。

「止めろこの筋肉馬鹿! 俺もアンタもどっちも部隊長、権限は同じだろうが!? 大体そこの雌餓鬼二匹は――」

「言い訳は地の獄卒に述べよ。拙者は唯、洛中の治安を守る者なれば」

 喚き散らす冴威牙の声に、三鬼は耳を傾ける様子も無い。簡素な答えの代わりに、指の力を僅かに――頭蓋がへこまない程度に強めた。

「あたたたたた絞めるな痛え放せ! そこの餓鬼は大罪人だ、兵部の旦那が決める分にはよぉ! んじゃあ殺す生かすは俺の勝手で――ぎゃあっ!?」

 ぶおう、と突風が起こった。三鬼が冴威牙を、屋内から路上目掛けて投げ捨てたのだ。固い地面にぶつかった筈が、石の水切りの様に弾んで、冴威牙は十間も先の石畳に落下した。
 既に赤心隊の兵士達は、蜘蛛の子を散らす様に逃げ出している。自分達の長が、鬼に襲撃されたと言うに、助けに入るつもりは毛頭無いらしい。

「娘子、怪我はござらんか。賊徒崩れの兵が無礼を――む?」

 人一人を小石の如く投げ捨てた鬼は、それが僅かな労でさえなかったかの様に、平然と視線を屋内に戻す。

「……ふむ、奇縁に御座る」

 戻して――一人、合点した様に頷いて、積み重なった座布団に背を向ける。その端から見えていた灰色の髪を、鬼が見咎める事は無かったのだ。
 ずうう、ずううと地響き鳴らし、鬼は冴威牙に詰め寄って、拳を振り上げた。平屋の屋根より高く置かれた拳は、子供の頭蓋より巨大であり――それを三鬼は躊躇せず、冴威牙めがけて振り落とす。
 生き物一頭、肉塊にしてのけるだけの威力が有る――根拠など無用、村雨にはそう断言出来た。だが、冴威牙の足は器用にも拳を受け――止めず、体の横へ流した。

「あっぶねぇ! てめぇこの、本気で殺しに来やがったな!?」

「左様」

 吠えながら冴威牙は跳び退さり、両手を地に触れさせる。正しく猛獣の、それも肉食獣の取る構えである。蹴りを主体とする冴威牙の戦法には、似つかわしく無い様にも思えただろうが、然しこれこそ冴威牙の、獣性を解き放った姿であった。
 対する三鬼も、得物の大鉞こそ備えていないが、徒手にても無双の大怪物である。一触即発、引き絞られた弓、矢を放てば何れかが死ぬ――いっそそうなれと、村雨は強く願った。
 然し、悪運の強い奴というのは、悪人であるものだ。

「お待ちください、三鬼様、冴威牙様」

 歌うように話す女が、二人の間に割って入った。
 当世風に、肩に届く前に切り揃えた髪。振袖の空色は鮮やかだが、鵲の柄は派手に過ぎず――だが、右肩から背中に掛けてを、大きく露出させている。異装の程は冴威牙と同等であった。

「人目に付きます。燃えるのは分かりますが、床の外も見ませんと」

 右手には、大工の使うような錐――を、倍も伸ばした様な凶器。磨かれているが輝きが鈍く、拭い切れない脂が見える。小綺麗な見た目通りの女では無いらしい。

紫漣しれん、すっこんでろ!」

「紫漣殿、下がりなされ! この距離では拙者、巻き込まぬ自信が御座らん!」

 血走った目の二人に警告されても、女はそこを動かない。戦いの気配も怪物二人も、何恐れんやと言わんばかりの面構えである。

「冴威牙様、貴方でもこの方には勝てません。けれど三鬼様、貴方はこの人を殺せませんよ」

「それは、如何なる所以に御座る」

 ふふ、と女は短く笑い――白い背中から、それよりも尚白い一対の翼を広げ、冴威牙の体を覆い包んだ。

「私が庇いますから。三鬼様に女性は殺せないでしょう? 奥様が怒りますからね。
 いえ……怒られるというなら二人共。公衆の面前で、どうして喧嘩なんてするんですか、もう」

「喧嘩って……いや、俺は別によぉ、んな事したいわけじゃ……」

 幼子を諭す様な物言いに、冴威牙がばつの悪そうな顔をする。

「喧嘩じゃないですか。途中から聞いてましたよ、あんな子供二人の事で……」

「え、待て、何処で聞いてた」

「屋根の上です。早い話が、その二人が異端者、賊教の信者だと示せば良いのでしょう。冴威牙様は何故、そう判断したんです?」

「そりゃあ、踏み込んだあの部屋見りゃ分かるだろ。仏像やら経典やら、古市かと思ったぜ」

 冴威牙がそう言うと、女は幾度か毬のように頷いて、それから三鬼の巨躯を見上げた。

「お聞きの通り、という事です。確認もせず、独断での処罰というのは、如何に三鬼様でも怠慢ではありませんか。
 それに、冴威牙様も。女の子とみたらそういう事ばっかりして……めっ、ですよ?」

 今にも戦いが始まりかねない場に、自分が害されない自信でもあるのか、紫漣という女は大の大人二人を叱る。
 すっかり機を失したと、いつの間にやら三鬼も冴威牙も、構えを解いて立っていた。何とも言えぬ表情をする二人を後目に、紫漣は茶屋の暖簾を潜る。
 屋内に居ると、この女の小柄さが目立つ。村雨とさして変わらず、身長は五尺程しか無い。その為か、無遠慮に広げられた翼は、実際より一回りも大きく見えた。

「ご自分の目で見て。黒と決まればその場所で……それでよいでしょう、ね?」

 細い手を伸ばし、村雨とみつの腕を掴む。か弱く見えた紫漣だが、爪は猛禽類のように分厚く、指は大蛇の如く強く絡み付いた。








 あまりに場が変わりすぎて、村雨の思考は現状に追い付かないでいた。
 拘束は解かれ、腕を掴まれているだけ。単身で逃げようと思えば、逃げられない事は無い筈だったが、そうしようという発想さえ無かった。
 同時に捉えられたみつも、同じ境遇に有るのは気付いていたが――どうでもいい、とどこかで思っていた。
 出会ったばかりの赤の他人に、慮る余裕など向けられない。用意された境遇は、死ぬか、弄ばれてから死ぬかのいずれかなのだ。
 ならば何も考えず、何も感じぬままにやり過ごそうと――無意識に、村雨は殆どの事を諦めていた。
 思えば、諦めを知ったのは何時の事だろう。幼少期の我儘をたしなめられるような、些細な事ではなく――心からの願いを、諦めざるを得なかったのは。
 最初が何時なのかは、思い出す事も出来まい。だが、一つだけ言えるのは――この旅を始めてから、村雨は諦めの感情を忘れていたという事だ。
 何時も傍らに桜が居た。理不尽なまでの暴力で、いかに些細な我儘だろうが押し通す女が。その無法の分け前を得て、村雨も意を通してきたのだ。
 今は、誰もいない。
 包囲網を蹴散らす拳も、爪牙を防ぐ太刀も無い。自分がこんなに弱い生き物だと、村雨はこの日まで思った事も無かった。思う事さえ虚しく、ただ腕を引かれるまま歩いて、辿り着いたのはあの酒屋だった。

「冴威牙様、ここなんですね?」

「おう、間違いねえ。おら、鬼さんよぉ! がっちりと証拠を見せてやるよ!」

 床板は、力任せに剥ぎ取られたそのままになっている。冴威牙は意気揚々と、そこから床下を覗き込んだ。

「……ん? ありゃ?」

 すぐに、間の抜けた声が聞こえた。

「あらあら、どうしました冴威牙様」

「……ねぇ。ねえぞ、ねえ!」

 覗き込むだけでは飽き足らず、冴威牙は床下の空間に上半身から降りる。続いて紫漣が足から、三鬼は巨体の為に頭だけを押し込んだ。

「ふむ……これが、証拠に御座るか?」

「あら、信郭の新書。良く買えましたね」

 成程確かに、そこには人が生活していたと思しき空間が有るのだが――有るのは布団が一組と、それから卑俗な艶本が幾つか。とても仏僧が隠れ潜む様な、そんな雰囲気ではなかった。

「な、ちげっ、こんなんじゃねえよ! もっとこう、仏像なんかゴチャゴチャ置いてあって――ああ!?」

 書物から衣類から布団から、冴威牙はひっくり返して探すのだが、何も見つかる事は無い。そればかりか――

「くそっ、あの親父、逃げやがった! 逃げやがったな畜生!」

 酒屋の店主さえ、どこかへ姿を消していた。
 紫漣がくすくすと笑っている横で、鬼の顔がより凶悪に変わった。冴威牙目掛けてぬうと手が伸びる。襟首を捕まえ、引き揚げようとする腕は、さながら数間もある大蛇の如しである。

「おいっ、止めろ! 逃げられたんだ、嘘じゃねえ! 一切合財持ち出して――」

「この短時間に、斯様な真似が出来るとぬかすか」

 もはや聞く耳持たず。三鬼は冴威牙を引きずり出し、今にも捻り殺そうとする。
 巨大な手で頭を掴み、もう片手で胴体を掴み、雑巾のように絞ろうとした――その手を止めたのも、やはり紫漣であった。

「持ち出された、かも知れません。最初から無かった、かも知れません。誰も分からないでしょ?」

「……ぬ」

 吊り上げられた冴威牙の足にぶら下がり、体を振り子のように揺らして遊ばせながら、紫漣は変わらず窘めるような言い方をする。

「冴威牙様、諦めましょう。職務熱心は良い事ですが、物証無しに動くのは良くない事です。
 それに三鬼様。冴威牙様が悪かった、という確証も無いのですから……あまり酷い事をしないでくださいね」

 捉えられている村雨からすれば、これは好機だった。縄も鎖も無い。掴まれているだけならば、振り払って逃げる事は出来る。が――それに思い当たるより先、村雨は部屋の隅に取り残された小さな仏像に目が向いていた。
 着物の影になっており、しかも本当に、角にぴったりと収まっている。良く見れば気付く程度のものだが、見落とすのも無理は無い。
 もし、それが冴威牙の手に収まれば。今度こそ改めて、無法の執行に道理が付与される。
 だというのに、村雨は未だに、能動的に動けずにいた。
 さりげなく足で隠すなり、もしくは喋って周囲の意識を引き付けるなり、出来る事はあった筈なのだが――何もせず、無為に、それを見ているだけ。
 一度諦めてしまったからか――全て、成るがままに流されているだけなのだ。一点をぼうと見つめる村雨の視線は、やがて誰かに気付かれてしまうだろう――いや、気付かれてしまった。

「……ですから、お二人とも」

 紫漣は、村雨の腕から手を離し、部屋の隅へと歩いて行く。
 あれを拾われて、お終いだ。そんな事を思いながらも、村雨は何をするでも無かったが――紫漣は小さな仏像を、振袖の裾に隠してしまった。

「もう、喧嘩は程々にしなさいっ! どっちもお勤めがあるのに、たった二人相手に何してるんですかっ!
 ほら行った行った、皇都守護隊が指示待ちで動けないでいますよ!」

「ぬぬ、ぬぅ……ええい、紫漣殿に出られてはどうにもならぬ!」

 三鬼は、怒りとも苛立ちとも取れぬ呻きを漏らし、冴威牙を地上に投げ出した。

「私でなくとも、ね? 三鬼様は優しい方なんですから、無理な事はしちゃ駄目ですよ。さあさ、冴威牙様も先に帰っててください、みんなを一度集めないと……どこ行っちゃったのかしら」

「ん、おう。悪いな、助かったぜ、紫漣!」

 まず三鬼が、普段にさらに倍する足音を立てて去っていく。危険から脱したと見るや冴威牙も調子を取り戻し、肩で風切って走り去った。

「お役に立ててなによりです、冴威牙様……」

 床下の空間から、紫漣はその姿を見上げていて――どこか夢見心地の、乙女のような顔をしていた。冴威牙の影が角を曲がって見えなくなったころ、やっと視線を現に戻し、裾に隠していた仏像を拾い上げる。

「……ふう。駄目ですよ、本当に間が抜けてるんだから。見つかってたらどうするつもりなんですか?」

 掌よりも小さな仏像を、ぽんぽんと弾ませながら、紫漣は村雨に言う。立場上、敵対する相手への言葉でさえ、やはり窘めるような響きがあった。

「え、あ……あり、がと……ぅ」

 助けられた――これも受動的な結果だ。村雨は何をしたでも無いが、情けを掛けられて助かった。その事にさえ、何の感慨も無い。

「そうか、見つかってても良かったんでしょう? そうです、そうに違いないです。だって見つかれば、あの人の事だから、もしかしてって」

「え……? あの、ちょっと」

 だが――ただ二歩だけ歩いて近づいてきた紫漣から、村雨は後ずさりして逃げようとした。

「いつも、いつもそうですからね。みんな若いし、そういう目的で従ってるから、長として当然の事だって。でも、あの人は絶対に、こんな痩せっぽちの餓鬼なんて選ばない筈なのに」

 狭い床下部屋だ、すぐに壁にぶつかる。無事を拾ってようやく、村雨に感情が舞い戻ってきた。この女は、冴威牙より三鬼より怖い、と。

「……この屑雌が」

「ひっ……!?」

 しなやかな指が、猛禽の爪が、村雨の襟を掴んで、体を壁に押し付けた。紫漣の目は、薄暗い床下部屋の中で、爛々と丸く光っている。

「冴威牙様に色目を使うな、痩せ狼! 罪人ぶってまで、あの人のお情けを頂こうなんて――汚い、汚らわしい! お前なんか野良犬相手に腰を振って、餌を集ってるのが似合いなんだ!」

「ぁ――やっ、離れろっ!」

 どれほど猛ろうとも、紫漣の力は然程強くない。村雨が腕を振るえば、体ごと紫漣は吹っ飛んだ。
 紫漣が壁に叩き付けられ、床に倒れ伏す。その間に村雨は、みつを肩に担いで跳躍。床の上に戻ると、脇目も振らずに駆け抜けた。

「待て、淫売っ! 目を抉ってやる、冴威牙様を見た目を抉ってやる――っ!!」

 背を叩く呪詛を振り払い――足を止める頃には、既に市街地を抜け、神山のふもとに辿り着いていた。








 意識を失っていた間、相当な時間が経過していたのか、既に日は傾いている。夕日に照らされながら、村雨は深く息をついていた。
 複数種の敵意に晒され、命と尊厳を失い掛け――身体より精神が、疲労の極みに達している。木を背もたれにして、村雨は空を仰ぎ、深呼吸を繰り返す。
 目は閉じている。何かを見たいと思えないのだろう、瞼を下ろした上に、更に腕で顔を覆っていた。

「……助かった、かな」

 誰も答えない。否も応も、些細な軽口も聞こえない。代わりに何か、唸るような音だけが聞こえた。

「みつ……?」

「むー、むー!」

 言葉が聞こえない訳である――村雨は目を開けて、みつの口の猿轡を外してやった。

「ぷはっ! ……はー、はー……はい、多分……?」

「あー、ごめん、気付かなかった……大丈夫?」

 追手の臭いは無い。安全を確保出来て、やっと村雨にも、他人を心配する余裕が戻って来たらしい。地面に手を着いて荒く呼吸するみつの背を、とんとんと軽く叩き、撫で擦った。

「大丈夫、っです……ふぅ。ちょっと手首痛い、ですけど……怪我は、してません」

「そう、良かったー……」

 安堵の溜息を、ようやく一つ。緊張のし通しで引き攣っていた喉が、大量の空気を要求する。木では固くて背が痛いと、村雨は草の上に寝っころがろうとした。

「……みつ、何してるの?」

「えへへー」

 着地する予定より随分早く、村雨の首の下降が止まる。みつが自分の脚を、枕の代わりに差し出していた。

「嬉しいけど、何もそこま――」

「あのっ、ありがとうございましたっ!」

 遠慮する声を掻き消し、みつは座ったまま、深々と頭を下げた。あまり長くない前髪が、村雨の鼻の先に触れる、

「……お礼言われる事、してないよ」

 村雨からすれば、事実であった。結局逃げ切る事は出来ず、捕まって連れ戻され、あわや身を穢される寸前まで――助かったのも幸運が重なったからである。

「いいえ、そんな事ないです! 村雨さん、助けようとしてくれました!」

 だが――みつが礼を述べたのは、結果ではなく過程に対してであった。

「急に踏み込まれて、縛られて、担ぎあげられて……本当に、本当に怖かったんです。誰も助けてくれない、見てたのに、見ても目を逸らして――」

 結果が伴わずとも、無謀にもみつを救おうとしたのは、あの場では村雨だけだった。多くの者は事なかれを貫いて、近づこうとさえしなかったのだ。
 賢いのは、近づかなかった者達である。結果的に何も出来ないのなら、巻き込まれないようにするのが賢明だ。
 然し、賢いからといって何になろう。少なくとも、みつの心を捉えたのは、無謀な愚か者であった。

「村雨さん……私の為に、こんなに傷ついて……」

「痛、沁みる沁みる……」

 そう――捉えた。捉えてしまった、というのが正しいのだろう。
 村雨が転んだ際にできた、かすり傷や僅かな痣。そんなものをみつは、愛おしげに指でなぞった。大きな痛みではないが、ひりひりと断続的に痛みが起こり、村雨は顔をしかめた。

「私、どうしたら良いんでしょう」

「……どうしようね、そういえば」

 みつの伯父は行方をくらました。僅かな時間に仏典も仏像も、その他さまざまな証拠を隠滅した手立ては見事であったが、然し行方を示す手がかりも無い。有ったのかも知れないが、探す余力は無かったのだ。

「んー、んー……どうしようどうしよう、『錆釘』に回す……無理かなぁ、うーん……」

 父母も無く、頼れる親族を失い、天涯孤独となった少女。道を示してやれる程、村雨も大人では無いのだ。
 が――年少の筈のみつが、この時は大人びて言った。

「村雨さん、お傍に置いてください」

「うん、だね――えっ」

 反射的に安請け合いしてから、何を言われたか理解できずに聞き返し、体を起こそうとする。みつの顔が邪魔をして、起き上がる事は出来なかった。

「……えっ?」

「私、行ける所はありません。行きたい場所も……どんな場所が有るか、知りません。じゃあ、好きな人と一緒に行きたいです」

 村雨は、口をぽかんと開いたままで硬直した。

「えーと、今、なんて言った?」

 実際は聞こえていたのだが、聞こえた言葉を信じられなかったのだ。小指で耳をほじり、もう一度の言葉を促す村雨に、

「好きです! 初めて会った時から! だから――だから、お傍においてください!」

「……却下ぁっ! そういう事は少し考えてからにしなさいっ!」

 みつは、あまりに堂々と叫び返した。自分は村雨に一目惚れしたから、傍に置いて欲しいというのだ。
 当然、村雨が受け入れられる筈もない。それもそうだろう、彼女とは今日が初対面だし、思い人は別に居るのだ。何より、みつの直情は、世間知らずのお嬢様の、ほんの気の迷いだと決めつけていた。

「大体ね、出会って一日も立ってないのに、そういうのはおかしい! いや、その前に女同士だし――あ、いや」

 が、否定の内容を言いかけてから、それは自分にも返ってくると村雨は気付く。結局、言葉は最後まで続けず、代わりに頭を抱えて胡坐を掻いた。

「迷惑はかけません! お料理だってお裁縫だって、それにお掃除だってちゃんと覚えますから!」

 その背中に縋り付き、みつは必死に懇願する。振り払う訳にもいかず――涙の滲む感触を、背中に受けた。

「じゃないと……私、もう、何処にも……お願いです、村雨さん……」

「あー、なんでこうなるかなー……」

 この少女は、自分とは違う育ち方をしてきたと、村雨はそう思っていた。それは間違っていないが――少しずつ、境遇は似てきたとも。
 異郷の地に住まうか、親族を失ったかの違いはあるが、自分一人で生きねばならぬのは同じ。良く知らぬ相手を、出会ったその日に好いたのも――悔しながら、同じ。

「……私が決められる事じゃないんだ。けど……頼んでみる」

 そう思えば村雨は、彼女を無碍には出来なかった。

「あ……ありがとうございますっ!」

「行こう、結構歩くよ」

 道すがら、腕に纏わりつく体温は、鬱陶しいが悪くないと、村雨はそう感じていた。そう感じる程度には、どこぞの女好きに毒されていたのであった。








「――成程、成程、そんな紆余曲折が有ったから、酒の代わりに子供を連れ帰ったと」

 松風 左馬は、何処に隠してあったものか、安酒を浴びるように――というより、実際に顔に浴びながら――村雨の話を聞いていた。
 買い出しに出てより、赤心隊と遭遇し、鬼が介入し、そして見逃されるまで。一部始終を、分かる限りで事細かく、村雨は左馬に伝えたのだ。

「でも、仕方が無く――」

「ああ、はいはい、確かに。仕方が無いのかもね、お前は弱すぎる。切り抜ける技量も無いんだろう? 仕方無い、仕方無い」

 その返礼が、これである。酒臭い息を村雨の顔に吹き付けながら、左馬は小馬鹿にしたような顔で、村雨とみつを交互に見た。

「で、酒は?」

「だから、その……逃げる途中で、多分どこかで落として……」

 村雨は手ぶらである。街へ降りた理由も、酒を買いに行く為だったのではあるが、村雨からすればそれどころではなかった。
 然し、他人の事情を斟酌する左馬ではない。さもつまらなさそうな顔をして、空の酒壺を壁に叩き付ける。

「役に立たないね、お前。 ……それと、そっちの尼っ子。みつって言ったかい?」

「は、はいっ!」

 板の間に正座していたみつは、名を呼ばれて居住まいを正す。目の前ののんだくれは、座るどころか上体を起こしさえしていないというのに。

「お前、金は持ってるのかな?」

「え……と、もしもの為にって、これくらい……」

 金銭の話題になると、みつの表情は一息に曇った。保護者を全て失った今では、彼女が収入を得る手段など無い。外出の予定も無かった為だろう、そっと取り出された財布には、一分銀が二枚ばかり入っていた。

「ふん、話にならないね。それじゃあ、炊事に洗濯、掃除、狩り。酒代の調達くらいは出来るんだろうね?」

 みつは、無言で首を振る。蝶よ花よと育てられた娘なのだ。
 左右に揺れる首が止まる前に、左馬は足で枕を引き寄せる。肘の下に枕を置いて、脇息の代わりに凭れ掛かって、

「村雨、捨てておいで」

 犬か猫を扱うような口ぶりで、たった一言言い捨てた。

「は……?」

 何を言われたのか――しばらくは理解が及ばず、村雨は瞬きを繰り返すばかりだった。
 だが、左馬の冷たい声、目。分かりすぎる程に、言葉の意図が分かってしまう。

「……ふざけないで!」

「ふざけているのはお前だよ、村雨。ただでさえ一頭、面倒なものを背負い込んでるんだ。この上に無駄飯喰らいを増やしてどうする?
 お前が養うのならいいけれど、その娘の分の家賃は私に払ってもらおう。前金で、今この場で、ついでに言うなら買ってくる筈だった酒と一緒に」

 出来る筈も無い事だと、左馬自身が良く知っているだろう。何せ要求する〝家賃〟とやらは、左馬の一存でどこまでも吊り上げられる。無理難題を突き付けて、みつを追い出そうとしている――村雨は、そう受け取った。

「こんなところで、放り出せるわけないじゃない! ここをどこだと――」

 ここは夜の山だ。大型の獣こそ居ないが、慣れぬ身で歩くのは危険に過ぎる。村雨の健脚であれば、四半時で市街地との往復も出来るが、箱入りの令嬢では、一刻かかって山を下りられるかどうか。
 更に言えば――山を下りた後、どう生きれば良いのだろうか。
 働き口を見つけるか? 身元の保証も無く、雑巾がけの一つも満足に出来ない少女には酷な事だろう。
 寺に駆け込むか? 自分が罪人であると――理不尽だが、悪法も法だ――証明する事になってしまう。第一、駆け込めるような大きな寺は、洛中にはもう残っていない。
 残るは一か所、比叡山ばかりだが――数千の兵士が包囲する山へ、みつが辿り着ける方策など有りはしない。
 端的に言えば、左馬は、緩やかに野垂れ死にしろと、みつへ言ったも同然なのだ。

「ここがどこか? 私の家だよ、居候。捨てに行かないならそれでもいい。が、私がお前に何かを教える事は……ああ、二度と無いだろうね。
 さあ、行ってこい、併せて酒も買っておいで。寝静まってる頃合いだ、どうにでもなるだろうさ」

 言うだけ言って、左馬は万年床に潜り込んでしまう。反論を聞く耳は持たずと、すぐに寝息を立て始めた。

「この、お前は……っ!」

 腹を立てれども、村雨は何も出来ない。
 仮にも師と仰ぐ相手だ。まだ何を教わった訳でなくとも、村雨が一人で立つ為に、これより学ばねばならぬ相手なのだ。
 苦渋の表情を浮かべる村雨の、肩をそっと、みつの手が抑えた。

「……ごめんなさい。やっぱり私、お邪魔なんですよね……だから、良いんです」

 さも殴りかからんばかりの権幕に見えたのだろう。実の所、村雨が左馬に、何を出来る筈もなかったのだが。

「良いって……言い訳ないでしょ!?」

「いいえ、本当に良いんです。これ以上は、村雨さんが……だから」

 みつは、村雨の制止を振り切って、小屋の出口へと向かう。礼儀正しく頭を下げて――それっきり、夜の山へ抜け出して行った。

「あ――待って、待ってってば!」

 すぐさま、村雨も後を追おうとする。靴に踵を滑り込ませ、臭いを頼りに走り出そうとすると、

「然し、お前も情けないね。なんだいあの様は」

 眠ったかと思えた左馬が、壁の方を向いたままで言った。

「……え?」

 あの様は、と。左馬は確かに、見てきたように言った。

「罪人みたいに縛られて、犬っころには組み伏せられて、おまけに途中で諦めた。衆目の中で犯されるのが、そんなに楽しみだったかい?」

「――っぐ、ぅ……っ!!」

 見てきたように――などでは無い。左馬は自分の足で街に下り、村雨とみつが捕らわれているのを見て――何もせず、ただ帰っていたのだ。
 もはや村雨に、平常の心など望むべくもなかった。扉を閉めるなど考えもせず、みつを追って走る。
 その背を見送りもせず、左馬はまた寝息を立て始めた。








 出遅れたのは、会話の一つか二つ分。小屋の灯りが消えてしまう前に、村雨はみつに追い付いた。
 夜目の利かない人間が、一人で夜の山を歩くなどもってのほかだ。そう説き伏せ、下山する為の道のりを、村雨はみつに同行した。

「……ごめんね」

「いいんです。いいえ、こんな事までしてくれて、ありがとうございます……やっぱり」

「え?」

 途中まで言いかけた言葉を、みつは一度飲み込んでしまってから、

「やっぱり、一人は怖いですし……あはは、言っちゃった」

 こぼれた言葉をごまかすように、夜に似合わぬ明るい笑顔を見せた。

「……これから、どうするの?」

「どうしましょう? ……あ、えーと……まず、どこかのお寺を探します!」

「洛中で焼け残ったお寺、多分、もうどこにも無いよ」

 酷だが、事実である。僧侶が京より逃げ出そうと、兵部の手勢は容赦なく、無人の寺まで焼き払っているのだ。

「じゃあ、堺でもどこでも行きます! これ以上、村雨さんに迷惑は掛けられませんから――」

 がさり、と近くの草むらが揺れた。

「――ひっ!? あ、なんだ……」

 急に大声を出したみつに驚いて、狐が飛び出してきただけの事。村雨は驚きもせずにいて――なおさら、みつの行く先が不安になった。
 村雨は、みつに思い入れが有る訳でもない。偶然に出会ってしまっただけの、素性さえ良くは知らぬ相手だ。だが――知ってしまったものは仕方が無い。
 何も知らなければ、みつがどのような目に遭おうと、心は僅かに痛んだだけだろう。そうではない。村雨は一度、彼女を助けようとしたし、同じように捕えられもした。
 同情、連帯意識、そんな表現も出来るかも知れない。だが、最も適切なのは――見過ごす自分が、嫌だったのだ。

「ねえ、みつ。もし、もしもさ……料理を覚えるなら、何からにする?」

「えっ? えーと、えーと……うーん……なんにしましょう……?」

 唐突な質問にも、みつは真剣に答えを探す。頭を抱えて一通りは唸って、それから、結論を出せないままで村雨の顔を見た。

「逆に、村雨さんは、好きな食べ物ってあります?」

「お肉」

「じゃあ、おいしいお肉の焼き方からにします! 前に牛鍋屋さんで、おいしいお肉を食べました!」

 単純な答えだった。村雨は思わず笑ってしまい――みつの手を握って、足を止めた。

「……村雨さん、どうしました?」

「んー。おいしい料理、食べたくなったの」








 戸口で物音がする。松風 左馬は目を覚ました。

「……村雨かい? ちゃんと捨ててきたんだろうね、あれ」

 そうでない事は分かっていた。足音は二つ有ったし、呼吸音も二つ。別な誰かを拾ってきたのでない限り、村雨は左馬の言いつけを守らなかった。
 村雨は返事をせず、靴だけは脱いで小屋へ上がり――左馬の枕元に立つ。

「……何のつもりかな?」

 言葉は返らない。尋常ならぬ気配を察した左馬が起き上がるより先、村雨は小さく跳躍し、彼女の胴の上に跨った。

「ぅ、おっ……!?」

「っしゃああぁっ!!」

 怒気を存分に込めて、村雨が拳を振り落す。狙いは過たず左馬の顔、腕に防がれたが、鼻の骨程度なら折れそうな勢いだった。
 それでは諦めず、二発、三発、四発――繰り返すうちに、幾つかは頬を掠め、額を打ち据える。
 いかに技量がかけ離れていようと、この体勢は、圧倒的に上の側が有利なのだ。たとえ徒手格闘の達人たる左馬であろうと、村雨の拳打の全て、受け止められる筈が無い。

「ちっ……こら、何のつもりだ!」

「煩いっ!」

 会話に乗らず、村雨は続けて拳を繰り出す。その光彩は次第に青みを帯び、口元には笑みが浮かび始めた。
 腹を圧迫されているだけでも、体力は消耗する。左馬は深呼吸をしようと、一瞬ばかり口を大きく開き、

「い――ぃいやあぁっ!」

 見過ごさず、村雨は一度背を逸らし、最大の加速をつけて拳を振るおうとする。
 然し――それこそが左馬の罠であった。元よりこの程度の運動で、左馬が呼吸を乱す筈が無かったのだ。

「――がっ、ぁ……!? ぁ、ああ」

「強い、が、荒い。ついでに甘い」

 左馬の爪先が、村雨の後頭部を捉える。一撃で意識は刈り取れずとも、村雨の体はぐらりと傾き――左馬は苦も無く、体勢の上下を入れ替える。
 村雨の両足で胴を挟まれたままだが、あっけなく脚を外して跨り返し、顎に右手を添え、

「私に不意打ちを仕掛けたいなら、もっと精進する事だね。……『破ッ』!」

 一声、左の拳で打ち抜く。駄目押しで脳を揺らされ、村雨は今日二度目の気絶を経験した。

「……ん、少しはましになったか。全く、私の美しい顔を……」

 みみずばれの出来た頬を抑え、左馬はぐちぐちと呟いた。








 ここ暫く、まともな目の覚まし方をしていない気がすると、村雨はうんざりしながら起き上った。
 確か、殴られる前は夜だった。今は、戸の隙間から朝日が差し込んでいるし、外には鳥の鳴き声も聞こえる。
 痛む顎を抑えようとして――体に布団が被せられていると気付いた。
 左馬の小屋に、布団は一組しかない。村雨はいつも、床に丸まって寝ていたのだが――

「起きたかい馬鹿弟子、もう朝食の時間だよ」

 小屋の真ん中には小さな丸机が置かれ、左馬が胡坐を掻いて、その前に座っていた。
 丸机には、もうもうと湯気の立つ飯櫃と、湯に通して程良くしなった野菜。菜っ葉に牛蒡、大根などだ。それに加えて芋の煮つけに、鶏肉がさっと火を通して添えられていた。

「やれやれ、小間使いの真似事はお前がするって聞いたんだけれどねぇ。師匠に働かせるだなんて、行き届かない奴だ」

「え……これ、師匠が?」

 村雨には、全てが意外に思えた。自分が布団で寝ていた事も、朝食を左馬が用意していた事も――

「あ、村雨さん、おはようございます!」

 ――みつが、左馬と共に食卓を囲んでいた事も。

「ほら、さっさと座るんだ、食事が冷める。冷たい食事を食べさせる気かい?」

「え……? ええと、はい……頂きます」

「頂きまーす!」

 しっかりと両手を合わせ一例。みつは余程腹を減らしていたのか、令嬢に似合わぬ大口を開けて食事に取りかかっている。

「このお煮つけ、美味しいですねー」

「だろう? 流石は私、料理までも完璧だ。ほら、村雨もお食べ、勿体無い」

「あのー、師匠……と、みつ?」

 和気藹々とした食卓の風景。違和感ばかりがつのり、村雨はそっと手を上げた。

「ん?」

「どうしました?」

「いやさ、あのー……私、結構覚悟を決めて殴りかかったつもりだったんですけど」

「そうだね、中々の形相だった。気合は十分、だが力量が不足しすぎていたね」

 短い言葉で受け流され、村雨に返す言葉も無い。黙々と白米を腹に落とし込み続け――

「あああああもう、なんなのよー!」

 いたたまれず、吠え、丸机に額を打ち付けた。
 それもそうだろう。勢い込んで討ち入りし、殴り倒して己の我を通そうとした結果――殴り倒され、丁寧に布団に寝かされ、目を覚ましたら美味な食事が用意されている。おまけに討ち入りの理由になった少女は、敵と仲良く食事を楽しんでいるのだから。

「はっははは、甘い甘い。桜と行動してたんだ、この程度のやり口は慣れてると思ったんだけどねぇ。
 やりづらいだろう、はねっかえりにはこういう手が利くんだ。力一辺倒で勝てると思ったらいけないよ」

「うー……」

 左馬の言う通りである。仮に左馬が、前夜の慳貪な態度を続けていれば、村雨はすぐにでも殴りかかっただろう。倒されても倒されても食らいつく――根負けさせるつもりだった村雨だが、左馬は数歩上を歩いていたのだ。

「むやみに揉め事に首をつっこみ、いらない相手を助けようとして、勝てない相手に喧嘩を売る。どれもこれも、武術の道じゃあ下の下だ。が――村雨。昨日のお前はたった一つ、正しい事をしている」

 恐ろしく美麗な箸使い。箸先を一寸も濡らさぬ左馬は、言葉を発する時は、律儀に咥内のものを飲み込んでいた。穏やかな表情に、だが油断の無い目――成程、この女は桜の友人たり得る存在なのだ。

「私が最初に言った事で、一生貫くべき真理――〝我儘を通せ〟だ。お前は唯々諾々と、私の我儘に従っていたが――そんな奴が、武に生きられる筈が無いんだよ。
 いいかい、我意を通せ。己の道を塞ぐ者は、例え誰であろうが叩き潰せ。それが友人でも情人でも、例え私であってもだ。言い換えれば、私に殴りかかる度胸の無い奴に、私は何かを教えてやる気は無いよ。
 ……だが、まあ、今朝くらいは良しとしよう。今は一先ず――」

 端を丸机に置き、左馬は座布団の上で、体の正面を村雨に向ける。

「――悪かったね、お疲れ様。無事で何よりだ、二人とも」

「し、ししょ、ぅ――う、うっ……」

 優しい言葉で労られる――本当に些細な事だ。だが、ささくれ立った村雨の心に、これほど響くものも無かった。誰かが作った暖かい食事も、久しく縁のないもので、空腹の胃に染み渡った。
 涙で視界が覆われて、食事もまともに続けられない。震える肩を、みつがそっと抱いていた。
 やがて、胸の内から突き上げるような情動が収まり、村雨が朝食を平らげた頃。左馬が食器を片づけつつ、ふと、何気ない事の様に言った。

「六日後、ちょっと戦場に出向く。村雨、お前もついておいで」

「戦場……何処ですか?」

「比叡山だ。それまでにお前に、最低限の技術を叩き込む。勝つためとは言わないよ、とりあえず生き延びられれば良い。死ななきゃ大体、どうにかなるもんだ。
 が――まずは昼食を済ませてからだな。少し寝坊しすぎだ、今から仕込みを始めないと」

 食器を台所に重ねて放置し、左馬が大きく伸びをする。食事を終えてすぐに食事とは、喰う事ばかりの生き方だと思わないでもないが――

「村雨、ひとっ走り買い出しを頼む。そろそろ米の備蓄が心許ないんだ」

「はい、師匠――」

 満腹した村雨は、涙を拭って立ち上がる。膝を曲げ伸ばしして、何時でも走り出せる様子を見せて、

「――嫌です!」

「はひ? えっ、村雨さん!?」

 近くに居たみつの腕を掴み、肩に担ぎ上げると、一足で戸口まで飛ぶ。靴を履き、扉を蹴り開けて外へ飛び出し――

「ちょっと散歩してきます、お昼もよろしく!」

「あ、おい……いや待て、待った!」

 人間一人抱えたまま、呆れる程の速度で走り去る。あまりの事に、左馬も制止を忘れ、叫ぶ以外の事は出来ずにいた。
 追おうとして小屋を飛び出せば、村雨の背中は十数間も先。溜息を吐くと、視線とは別の方向から、左を呼ぶ声がした。

「よお、別嬪さん。あのお嬢さんはどうだった?」

「悪くないね、少し気が長すぎたが。一皮は剥けた、後はどうにかなるだろうけれど」

 がしゃ、がしゃと鳴るのは、金属のぶつかり合う音。武装した人間だが、左馬が彼に、警戒心を向ける事は無い。

「然し、優しい。俺達にもちょっとは、その優しさを向けて欲しかったがね」

「お前こそ。親しくも無い半獣の雌を、良くもそこまで心配出来るもんだ――儀兵衛ぎへえ

 服の端に枯葉を引っ付けて現れたのは、〝隙風集すきかぜしゅう〟の青峰あおみね 儀兵衛ぎへえだった。

「ちょいとな、恩も有ったし、気になってた。まあ、一方的なもんだ」

「若い方が良いのかい? 酷く薄情だね、お前は」

「あんたに情を抱く程、入れ込んじゃあいねえよ」

 さも知り合いの様に話す二人だが――交友は、まだ浅い。以前の、地下妓楼焼き討ちの数日後、街で偶然に顔を合わせただけである。
 が、左馬は退屈を持て余していたし、儀兵衛も仕事の憂さが溜まっていた。共通の話題も有り、飲酒という趣味も有り――それなりに、親しい間柄となっていたのだ。
 尚、左馬の感覚でいえば、〝それなり〟というのは、行きずりの男女の仲程度を指すのだが――

「……礼を言うよ。あれが死んでたら、私が桜に殺される所だった」

「そりゃ怖え。あの女傑に狙われたくはねぇなあ……はっは、役に立てたんなら何よりだ。
 ま、礼はあの鬼殿に言ってくれ。二つ返事で走ってくれたぜ、疲れ知らずのお人だよもう」

 ――兎角、引っ付かず離れ過ぎずの距離感で、二人は消えた背の方へ眼を向けていた。
 そう何度も何度も、偶然が一人を救う筈は無い。村雨とみつが無事に生き延びたのは、実は儀兵衛の尽力が有ったからだった。
 二人が捕らわれているのを見るや、赤心隊に良い印象を持たぬ三鬼の元へ走り、彼を口説き落として走らせる。それと同時に、自分も腕利きの部下を二人ばかり引き連れ、茶屋の近くに潜んだのだ。

「しっかしなあ、あん時ゃ笑っちまったぜ。おんなじ場所に、知った顔が隠れてんだものよぉ」

「煩いね、あそこ以外にいい場所も無かったし――村雨の奴、自力で逃げ出せそうに無かったんだもの」

 似たような恰好で、似たような場所に隠れていた左馬を見て、自分は要らぬ世話を焼いたかと思った儀兵衛だったが、人手が多いに越した事は無い。恩義のある少女が無事に助かったのを、喜ばしく思うのであった。

「で、儀兵衛。もののついでに、一つばかり頼まれてはくれないかい?」

「礼次第で、中身次第だがね。俺だって職が有る、あんまり無茶は――」

 渋る儀兵衛に口付け、左馬は言葉を止めさせる。背丈の差を埋めるには、爪先で伸びあがっても、儀兵衛が背中を丸めねばならなかった。

「礼はこれと、後で続きを。駄目かい?」

「……だから、頼みごとの中身次第だっつうの」

 額に手を当て、首を振る儀兵衛。口調とは裏腹に、既に受け入れるつもりは定まっている様子である。

「お前の部隊の端っこに、私と村雨を入れてくれ。六日後だけで良い」

「六日後――朔か?」

「ああ」

 儀兵衛の眉間に、しわが増えた。

「洒落にならねえぞ、多分」

「良いんだよ。曲りなりにも桜の連れだ、その程度の修羅は潜れるだろうし――潜って貰わなきゃ困る。
 肝心なのは力でも技でも無い。心だ――思考の持ち様なんだ。分かるだろう?」

「ああ。新兵も古参も、技の程は大して変わらねえ」

 言葉少なに、儀兵衛は頷く。頷いて――左馬の膝の裏に、踵を引っ掛けて押し崩した。

「礼は先払いで貰うぞ、良いな」

「あれは鼻が利くんだ。体を洗う時間は、残しておいてもらえるかな?」

 きい、きい、と鳥が鳴く。木の枝に並んで、山には珍しい獣を見下ろしている。

「……やれ。覗きだなんて、無粋だね」

 左馬が投げた石は、一羽の翼を掠める。ぎゃあ、と一声大きく鳴いて、無粋者はいなくなった。








「では、第一の講義を始めよう。臆病な奴は大体、この段階で諦めるんだ」

「ししょー……私、始まる前からボロボロです……」

 午後、昼食を終えて。村雨は小屋の外で、草の上に正座させられていた。
 頭には一つ、大きなこぶ。昼食の当番をさぼり、逃げた罰として殴りつけられたのだ、

「自業自得だね。さあ、立て、立つんだ。踵の腱を切らないように、体を慣らしながらね」

 左馬は川で水浴びでもしてきたものだろうか、髪を僅かに湿らせている。体温は十分に上がっている様子で、秋だというに、首には一筋の汗が伝っていた。

「まずは、村雨。殴り合いをするのに、何が重要だと思う?」

「何が……? えーと、力と速さと技の……どれか一つ?」

「外れだ」

 左馬は、顔の横に右手を、掌を村雨に向けてかざした。

「この手を、殴りつけてごらん。力一杯、目一杯にだ。ほんの僅かの手加減もしてはならないよ」

「……? はい、分かりました」

 力一杯――良しと、村雨は拳を握る。二歩ばかり後退し、息を肺にたっぷり吸いこんだ。

「ふー……、りゃあぁっ!」

 助走をつけて飛び込み、一撃。大きく山なりに繰り出された拳は、左馬の掌にぶつかり、盛大な破裂音を生み出した。

「おお、良い感じだね。もう一発!」

「せりゃあぁっ!」

 もう一度後退、飛び込みながら突き上げる拳。銃声と聞き違えたか、方々の茂みが揺れ動く。

「良し、続けろ! 止めろと言うまで繰り返すんだ!」

「はああぁっ、ああっ!」

 打ち続けるにつれ、村雨はこつを掴んでいく。獲物は逃げないのだから、どれ程に大振りでも、より体重を乗せられるように。次第に村雨の拳は、耳を塞がんばかりの炸裂音を響かせるようになり――

「『佩也ッ』!」

「え――あぐっ!?」

 振りかぶった拳が届く前に、左馬の掌底打ちが、村雨の腹を捉えた。ただの一歩も踏込はしなかったが、腰を落とす勢いを、側面への力に変えての一打――軽量の村雨では、足も容易く浮いて跳ね飛ばされた。
 背を丸めて着地しようとも、一度弾んで、うつ伏せに落ち直す。

「……とまあ、これが有名な寸勁だね。ちょっとコツを掴めば、腹筋を貫いて内臓を叩き潰す技になる。これ、覚えておくように」

「けほっ、こほ……ぅえ。師匠ー、反撃は無しでしょー……?」

「誰がそんな事を言った」

 朝の優しさはどこへやら。眉一つ動かさず、左馬は言う。

「さあさあ立つんだ、続き続き。まだ止めて良しとは言ってないよ」

「うー……ぅらぁっ!」

 腹の痛みは然程でもない。恨み言も呟きたかろうが、村雨は左馬の手へ、再び拳を打ち込み始める。
 だが――勢いは、先程より劣る。回転数は変わらないが、一発ごとの音が軽いのだ。
 左馬の目に、その理由は明らかだ。腰が引けている――重心が後ろに置かれている。いつでも飛び下がれるように、村雨は構えているのだ。

「……『刺ッ!』」

「わっ!? ……あ、その、ごめんなさい」

 案の定、左馬が踏み込むそぶりを見せるだけで、村雨は大きく飛び退いた。
 指示に背き、おまけに怯懦まで見せた。罰の悪そうな顔をする村雨だが――その色はすぐに失せた。左馬が満足気に頷いていたのだ。

「村雨、怯えたのは何故だい?」

「何故って……殴られたくなかったから、ですけど」

 両腕を組み、近くの木によりかかり、左馬は無闇に格好をつける。村雨の言に、やはり頷きを幾度か返した。

「喧嘩の基本だ、殴れば相手も殴り返してくる。自分が一方的に殴るなんて、普通だったら有り得ないんだよ。自分が殴られるのは嫌なもんだ。が、殴られるのは仕方が無い。じゃあどうする?
 流石にお前は半獣だ、逃げ足に全く躊躇が無い。正解の一つと見なして良いだろうね」

「……? ええと、今のは逃げるので正解……?」

「いや、逃げるのでも、だ。殴り合いをするのに重要なのは、考え方を変える事。逃げるのは恥ずかしい事じゃあないし、必要なら不意打ち騙し討ちも良し。後ろ頭を殴って逃げれば、お前が殴られる事は無い。簡単だろう?
 敢えて言うなら、少し怯えすぎだがね。もう少し腹を据えておかないと、勝てるものも勝てなくなるよ」

 軽く武をたしなんだ程度の人間と、全く武を知らぬ人間と。肉体の素質に然したる差が無くとも、徒手にて競えば優劣は明白。何故か?
 それは、僅かな技量の差よりも、むしろ思考の差異が結果を生んだのだ。
 眼前に拳が迫った時、目を瞑るか、顔を手で覆うか、打ち払うか。隙を見せた相手へ、背を向けるか、鼻っ柱を殴るか、顎を打ち抜くか。一瞬一瞬の選択を、『倒す』ために傾けられるか否か――それが、武を知る者と、知らぬ者の差なのである。

「だから、まずお前には……殴り合い、そのものに慣れてもらう。いきなり殴りかかられて、面食らってしまわないようにね。今日は日暮まで、これ一本に絞ろうかと思うよ」

「分かりました、師匠! ……で、どういう特訓をするんですか?」

 村雨が訊ねるや、左馬は木から離れ――日の本ではあまり見掛けない構えを取った。
 踵を浮かせ、拳は高く、そして小刻みに跳ねるように体を揺する。前後左右全ての方向に、思うが儘に馳せるための構えであった。
 本来ならば、敵対者の刃を避けつつ、確実な打撃を打ち込むのが狙いなのだろう。然しながら村雨は、左馬が誰からも逃げるつもりは無く、寧ろ追うための構えを取ったのだと悟った。

「……師匠。先に特訓の内容を聞いていいですか?」

「日が暮れるまで、私に殴られろ。防ぐも避けるも全て赦すが、私は絶対に手を止めない」

 ああ、やっぱり。視界を拳が埋め、暗転するまでの短い間、村雨はそんな事を思っていた。








 結局、日が暮れるまでの間に、村雨は八回ばかり昏倒する羽目になった。
 一度殴り倒され、起き上がってからは、まず頭を徹底的に守った。腹への打で意識を散らされ、顎を手刀で打ち抜かれた。
 二度目に目を覚ましてからは、間合いを取る事を意識した。速度では村雨が上回る筈だが、どうしても引き剥がしきれない。暫くは上手く身を躱していたが、何時の間にか小屋の壁に追いやられ、壁と靴に頭を挟まれた。
 三度目ともなると、村雨は逆に、左馬を組み伏せようと踊りかかった。頭を腕で守り、速度に任せて飛び込み、地面へ捻じ伏せ組み討ちに持ち込む。戦術に誤りは無いが、実現出来る計画では無く、膝を顎に合わされた。
 こうも繰り返し叩き伏せられると、村雨の目も次第に慣れてくる。もはや完全に避けようなどとは思わず、腕や肩を打たれるのは諦める。その代わり、急所だけは必死で守りつつ、撃たれっぱなしにならぬよう、蹴りを幾つか返した。
 が――最後は結局ジリ貧になり、自棄になって突き出した拳の外から、足を回しこまれてこめかみを蹴りぬかれる。視界の外からの一撃は、反応さえ叶わなかった。
 その時点で、まだまだ日が高かったのだから、後は推して知るべし。大きな怪我が無いのは左馬の技量が故だが、それでも体が傷むのは避けられなかった。

「村雨さーん、大丈夫ですかー……?」

「あんまり大丈夫じゃない、かなー……あったたたたた」

 みつが手ぬぐいを水に濡らし、村雨の顔を拭っている。打たれて腫れた頬は、触れられれば痛むが、冷たさが心地良い。

「うー、頭がガンガンする……いくらなんだってありゃ無茶だー……」

 ぶうたれながら、村雨は小屋の床に、仰向けに転がったままで居る。まだ起き上がれる程に回復していないのだ。
 夜が更ける前に、夕食の用意もしなければならない。痛む体に鞭打ち、厨房まで這って行こうとすると、既に美味そうな臭いが漂ってくる。

「あ、もうお料理は出来てるみたいですよ?」

「……だね。何あれ、どんな体力よ」

 せめて食材を切るだけでもと思っていた筈が、既に全ての段階を、左馬が終わらせて皿に盛りつけている。
 動いていた時間は同じだというに、どうしてこうも動き回れるのかと、村雨は体を引きずりつつも嘆息した。

「体力じゃあないさ。お前みたいに殴られてたら、私だっていずれそうなる」

 朝食の時程は優しくなく、左馬は自分の茶碗に白米を盛り付けると、一人で食べ始めてしまった。変わらず箸使いは丁寧、動きは美麗なのだが、早回しのような食事の光景である。たちまち茶碗の半分まで、見事に空にしてしまった。

「じゃあ、もっと手加減してください……」

「却下。なんで私がお前に合わせるんだ。お前が殴られないようになれば、それで万事が解決じゃあないか。
 ほら、さっさと座ってお食べ。食べるのも特訓の内……いやまあ、お前には不要かもしれないけれどね」

 やっとの事で村雨も、丸机の前に座る事が出来た。一度体を起こしてしまえば、程良く体温も上がり、意識も鮮明になり始める。

「なんたってお前達は、鍛えるまでもなく強いんだ。ああ腹が立つ、半獣なんて全部くたばってしまえばいいのにね。
 俊敏性も持久力も――基礎筋力なんて、比べるだけ馬鹿馬鹿しい。お前を鍛えるのに、体作りなんて無意味なんだが」

 時折、左馬は酷い憎まれ口を叩く。その時だけ、彼女の声は、呪詛を紡ぐように暗くなる。
 だが、すぐに声音は元に戻り、床板の一枚を引っぺがす。引きずり出された酒の壺を見て、どれだけの備蓄が有るのかと、村雨は呆れ果ててものも言えなかった。

「ところで、村雨」

「はい?」

 上品に食事を勧めながらも、飲酒の時だけは、この女は見苦しくなる。浴びるように酒を飲みながら、左馬が村雨の名を呼んだ。

「お前、武器の類に心得は有るかい?」

「武器ですか? えーっと、護身用に短刀を持たされた事なら、何度かありますけど……まともに使った事は一度も……」

「ふん。じゃあ防具だ、鎧に袖を通した事は?」

 身軽さが身上の村雨だ、そんな経験は無い。問いの意図が分からぬのか、言葉を発せず首を振った。

「そうかい、それじゃあちょっと大変かも知れないね」

「……? 鎧、着るんですか?」

「そのうちだ。みつ、食器を片づけておいてくれるかい。私はちょっと、食後の運動に行ってくる」

 十分に喉を潤し、頬に赤みも差し始めた左馬は、足取りは確かに立ち上がる。

「あ、行ってらっしゃいませー!」

「ししょー、行ってらっしゃーい……」

 にっこりと笑顔を見せて手を振るみつを見て、村雨も同じように、疲労の浮かんだ作り笑顔を見せる。

「おや、何を言ってるんだい?」

 が――引きつる村雨の頬を、左馬は楽しげに掴んだ。

「ひひょー、いふぁいれす、うあ、え」

「眠くなるまで続きだよ、続き。さーあ今夜は寝かせないぞー」

「ねふぁへて、おへはいらからねかへてー……!」

 頬を引っ張られたままの叫びは、それはそれは悲痛な響きを伴って、夜の神山に響き――








 それが、三日続いた。
 朝食を食べ、ひたすら殴られて倒れ、目を覚まして昼食を取り、また倒れて起きて、夕食を食べて殴られる。
 他の事など出来る筈も無く、ただ拳の雨に晒されるだけの生活が、三日も続いたのだ。

「うーん、飽きたねぇ。そろそろ次にしようか」

 呑気に言う左馬の横では、村雨が大の字になって倒れている。

「だったら、ひー……、もうやめましょうよ、こんなのー……、ぜー……」

 意識は有る。口を動かせるだけの余力も有る。が――腕には青痣、顔は腫れと切り傷で、年頃の少女らしからぬ面相になっている。

「なんだか、顔の形、変わってきた気が……」

「気のせいだ、少なくとも骨格は無事の筈だよ。手応えで分かるもの」

「でも、左目開くのが大変なんですけどー」

 瞼が腫れ上がっている為だろう、村雨の視界の左側は、普段の半分程しか見えていない。
 これでも打たれる数は随分と減ったのだ。日の出から昼まで打ち合いをしても、昏倒するのは二度で済むようになった。
 最低限、打たれてはならない場所だけは確実に守り、例え打たれたとしても、大きな痛手に繋がらないように。それは、勝つ為の技術などでは無かったが、少なくとも武の一端だった。
 即ち、負けない事。敗北を喫せず、やがて訪れるだろう好機を待つ為の、逃げの技術であった。

「ははっ、確かに凄い顔だ。暫くはその顔を休ませてあげよう、外出するよ、みつも付いておいで」

「はいっ! ……左馬さん、どこへ行くんですか?」

 みつもまた、山の生活に適応してきたらしくで、手際良く食事の後片付けを澄ませていた。皿は既に井戸水で洗い終わった後らしく、棚に戻すのは後回しにされている。外出という言葉が、余程心を弾ませたようだ。

「まあ、ちょっと街に出ようかと思う。明後日は朔だ、装備も整えないとね」

「装備ですか……? あ、っていう事は……!」

 左馬の言葉に、村雨も思い当たる所があり、ぽんと両手の掌を打ち合わせる。

「ああ、『錆釘』に顔を出そう。給金も欲しい所だし、堀川卿の胃も心配だ」

「そんな事言うんなら、もっと足繁く顔を出しても――あたっ!?」

 拳骨を頭に落とされ――そうになり、咄嗟に村雨は、腕で頭を覆った。痣が出来ていた箇所を殴られれば、防いだとはいっても、やはり痛いのであった。








「然し、私達はどういう人間に見えるんだろうね」

 二条の城を横目に通り過ぎ、三条の通りへ向かいながら、左馬が突然に呟いた。

「どういう?」

「ああ。つり合いの取れない組み合わせだろうに。絶世の美人が一人、外国の小娘が一人に、線香臭い娘が一人……少なくとも家族には見えないだろう?」

「師匠、朝から飛ばしますね」
 村雨の問いに、左馬は自分の顔を指さした。彼女の自意識過剰ぶりは、もう慣れてしまったのか、村雨は冷めた目である。

「家族……そうですね、家族です。あ――いや、もしかしたら恋人とかも」

「みつ。お前は一度、生物としての正道に立ち返る事を考えたまえ……やれやれ、私の美貌は同性愛者まで引き寄せるんだね」

「えっ? 違いますよ左馬さん。貴女じゃなく――いひゃいいひゃい、ひっひゃららいれ」

 外出に浮かれたみつの頬を、左馬が軽く掴んでいる。村雨に同じ事をするときよりは、幾分か加減をしているのが、頬の変色具合で分かった。

「師匠の場合、その喋り方をやめるだけで、そういう人が遠ざかるんじゃないですか? だって、その、ちょっと男っぽいですし」

「ところがあの桜と来たら、色気のある女が一番の好みらしく――いや、宗旨替えしたのかも知れないな。だとすると確かに、身の危険を感じないでもないけど」

「……あ、それって酷くないですか」

 友人に恵まれない左馬は、村雨の顔――に加えて、胸や腰回りなど――をじろじろと眺め、心底悩むような顔を見せた。言葉の意図が掴めてしまい、村雨は唇を尖らせる。

「酷いものか、酷いのは私の方だ。どうせ連れ歩くんなら、美男子を三人ばかり連れていたかったよ。
 ……いや、一人くらいは渋いのを入れてもいいかな。おまけで三枚目も一人ばかり――」

「何の話ですか」

「侍らす男の話。しかしお前、茶々を入れるのが上手いな」

 東海道からの旅路の中で、連れの言動に釘を刺すのも、すっかり慣れた村雨である。左馬の捻くれた称賛に、どうもと一言だけ返した。

「ほんとにもー……もう少し健全な話は出来ないもんですかね? 昼間っから恋がどうの侍らせるがどうのって……」

 横を歩く人間が変わっても、話題の程度が変わらない事を、村雨は嘆く。
 いや、一人一人の度合いは軽くなった代わりに、二人に等しく突っ込みを入れなければならないのは、むしろ平常心を保つ難易度が上がったと言えるだろう。辟易に溜息をつくと、ここ三日の疲労が、肩にずっしりと食い込んだ。

「恋路のどこが不健全だ、おぼこ娘のような事を。お前だって十四、男の一人や二人は知ってるだろう?」

 が――左馬の大雑把な感情は、村雨の疲労を考慮しなかった。

「……はい?」

「だから、十四にもなれば、男に抱かれた経験の一度や二度は有るだろう? 恋愛沙汰にならないにせよ、そんなものは酒のつまみのようなものじゃないか。お前が言う程に大層な話題でもなし、今更恥じらう何が有るんだい?
 そうだ、ちょうどいい機会だし、詳しく語って聞かせてくれ。」

 ――世の中には、自分以外の視点を、まるで持てない人種がいる。松風 左馬が、そうである。

「な……べっ、別に良いじゃないですか!」

 村雨の声は、後半から見事に裏返っていた。師匠の横暴には慣れてきた所であったが、攻め手の種類が変わりすぎたのだ。
 これで相手が桜だったのなら、迷わず顎を蹴りあげていただろう。そうしないのは、まず確実に反撃を受けるとわかっていたからだった。

「どうせ退屈な道中だし、一から十まで話すんだ。さあ早く早く、このままじゃ目的地に着いてしまうよ」

「着くならそれでいいじゃないですかもうー……!」

「私を飽きさせる気かい? こういう話の機会は少ないし、それに――」

 左馬と目を合わせないように、首を横へ向けて歩く村雨。だが、左馬は、わざわざその視界に入るように動き、ちょいちょいと指を招くように動かす。
 促されるように首を上げた村雨が見たのは、

「――ほら、みつが生き生きしてる」

「……私、すっごく聞きたいです!」

 両の目をらんらんと、それこそ猫のように輝かせたみつの姿であった。
 もはや村雨に、あれこれと言い返す気力は残っていなかった。両手と首をだらりとうなだれ、死人の如き足取りで歩きながら、左右からは艶事話を促される。あまりと言えばあまりに、滅多に無い状況だった。

「ほらほら、仔細一切事細かに。なれ初めは? どんな男だった? いやまずは何時頃の事だったかと――」

 味方が居ないと知って、村雨の抵抗が薄れたのを見て取ったか、左馬はますます増長する。普段の気取った口調へ、幾分かの軽薄さを上乗せし、口を閉ざす村雨を煽りたてた。

「で、まず最初は? 日の本に来てからか、それとも来る前かい?」

「………………」

 沈黙を保ったまま、村雨は左右に首を振る。その頑なさに、ようやく左馬は、自分の常識との乖離に気付いた。

「……ん? もしかして、まだだったり?」

 今度もやはり無言のまま、村雨は張子の虎のように小刻みに頷く。

「なんだ。お前、まだ処女か」

 再び、左右の首振り。左馬が怪訝な顔をする。

「ん? ……あれ、おかしいな。どういう事だい?」

 しばし腕組みをしたままで、左馬は必死に知恵を回す。ほどなくして、左馬自身の常識には無い答えに辿り着き、あまり心地良くない顔をした。

「……まさかとは思うが、女相手だとか」

 今一度、応の意味で頷く村雨。沈黙が続き、足音ばかりは途絶えない。左馬は、普段の傍若無人を忘れ、恐る恐るという風に聞いた。

「……まさかのまさかで、桜だったりする?」

 応も否も無かったが、無反応が――加えて、熱病のように赤く染まった顔が、十分な答えを為していた。

「う、うん。……いいんじゃないかな! 人それぞれで!」

「師匠、聞いといて引くの止めてくれます!?」

 左馬は僅かに一足で、二間ばかりも後退していたのであった。








 『錆釘』の事務所は、相変わらず雑然としていた。
 以前に顔を出した時より、心なしか広くなったように、村雨には感じられたが――それは、人員の減少に伴い、空間に空きが出来たからだった。
 改めて、何人も死んだのだと思い知らされる。昼の明るさに紛れていても、この街は未だに戦場なのだ。

「や、諸君。堀川卿は起きてらっしゃる?」

「あ……あんた、珍しいな。何の気まぐれだ?」

 書類仕事をしていた男が、左馬の呼びかけに顔を上げる。僅かに瞼を持ち上げ、また直ぐに、視線を書類に戻してしまった。

「あの人は奥の部屋だ、起きてるんだか寝てるんだかは知らん。が……あんたが行けば、流石に起きるだろうよ」

「と、言うと?」

「酷くお疲れだ、俺が行っても扉が開かん……というより、開けてもらえん。通れるのは配膳係くらいのもんで、出てくるのは厠と風呂と着替えの時だけ。天岩戸を決め込んでるよ」

 事務方の男は、後方の通路を親指で指し示す。曲がりくねった通路の奥には、分厚い鉄扉が有る筈だ。
 日の本の『錆釘』、その全てを統括する堀川卿。大層な肩書の割に、生活態度は相変わらずであるらしい。

「ありがとう、ちょっとアメノウズメになって来よう……村雨、行くよ」

「踊るんなら呼んでくれ、見に行くからよ」

 はいはい、と左馬は適当に答え、村雨の名前――だけを呼んだ。

「……あれ? 私は?」

「部外者はそこでお留守番、良いね?」

「はーい……」

 不承不承といった風情のみつを置き去りに、堀川卿の部屋へ向かう二人。
 通路を進めば進む程、照明が弱くなっていく。風を取り込んでいない為か、室温は寧ろ暖かいのだが――

「……村雨」

「はい。血の臭いです」

「やっぱりかい?」

 ――寒気がする鉄臭さ。人外の嗅覚ならずとも、左馬でさえが嗅ぎ付ける程に色濃い。
 市街地にそびえ立つ建築物の、一つしかない扉の向こうの部屋――よもや侵入者の狼藉などと、あろう筈も無いのだが。

「破ろうか、扉」

 左馬は拳を作り、大きく背に回して構えた。動かない物体を破壊する為の、威力の追及に全てを捧げた型だった。

「いいえ、大丈夫だと思います……動いてますし」

 然し、村雨はそれを制止する。
 扉の向こうから聞こえる物音――室内を歩き回る足音やら、独り言を呟く声やら。その声音が堀川卿のものだと聞き取れた為、村雨は左馬に従わなかった。
 大扉を四度、内側に聞こえるように叩く。足音が止み、しばしは無音が続いた。

「……お入り」

「失礼します」

 軽く押せば、施錠されていない扉は、見た目以上に軽く開いた。
 一般構成員のあつまる部屋は、窓が外の光を取り込んでいる。通路まではまだ、その光が残っていたが、堀川卿の執務室までは届かない。蝋燭が三本ばかり、それが照明の全てで――爛と光る、金色の目。

「……堀川卿?」

 暗室の中に浮かぶ目が二つ――合わせて血の臭いも、音も無く扉に近づいて来る。左馬が身構えなかったので、村雨も棒立ちのまま出迎えると、

「やーん、村雨ちゃんやー! 生きとったー!」

「うわぶっ……!?」

 両手に加え、五丈の頭髪を二束も使い、堀川卿は村雨に抱きついてきた。
 上等な着物もそうだが、それ以上に堀川卿の頭髪は柔らかく、肌触りが良い。このまま居眠りをしてしまいたくもなるが――金糸にこびり付く赤黒さと、鉄の臭いがそれを妨げた。

「もうなぁー、桜さんが斬られただとか死んだだとか、噂ばっかり聞こえるんやもん……何処行ってたん? 怪我とかしてへん?」

「あ、あの……あなたこそ、大丈夫ですか?」

 紅も差さない顔で頬ずりしてくる堀川卿の、言動はさておき目が尋常でない。村雨は逃げこそしなかったが、ただならぬものを感じ、重心だけは後ろ足に乗せた。

「大丈夫よー、ちょい寝てへんだけ。それより村雨ちゃん、お茶でもしてく? 舶来物の上等なのが――」

「うちの弟子を歓迎してくれるのは良いが」

 堀川卿のやたら明るい声を断ち切り、左馬はずかずかと部屋に上り込んだ。足取りに迷いなく、部屋の奥へ進んだ左馬は――

「……仕事疲れが酷いようだが、何か有ったのかい?」

 ――血に濡れた、布の切れ端を拾い上げた。

「僧服の切れ端だ。〝元の〟色を見るに、端も端の坊主のものらしいが……もう血の臭いもしない。何日も前のものだね」

「あらん、左馬さんまでウチらのお仲間入り? 大したお鼻どすなぁ」

「半獣と一緒にするな、女狐」

 何時から見抜いていたものか――左馬は堀川卿へも、村雨へ時折向けるものと同じ目をする。人によっては、背筋を凍てつかせんばかりの視線の強さだったが、堀川卿はそれに怯えもしない。
 そも、怯えるという感情さえ置き忘れてきたかのように、堀川卿の目は空虚だった。ぽっかりと開いた目の奥、金色の瞳は、村雨を映している筈なのに、焦点が何処かへ飛んでしまっていた。

「……何か、有ったんですか?」

「ええのええの、村雨ちゃんは気にせえへんで。それより左馬さん、何か御用? あんさんが出て来はるなんて珍しいどすなぁ?」

 漸く解放されても、村雨は動けない。一方で堀川卿は、飛び跳ねるように部屋の奥へ戻ると、重ねられた畳の上、万年床に飛び乗った。

「顔を見せない悪い子が、時々帰ってくるんやったら……そら、お金の無心と相場が決まってます。違う?」

「当たりだ。私とこの馬鹿弟子に、新品の装備を頼みたい」

「装備……構へんよ。既製品でええなら、今日直ぐにでも持って帰れます。種類は?」

 左馬の要求――ここまでは堀川卿も、どこか壊れたままの目を保って答える。

「胴に小手、脚絆、兜。直撃だけ防げればいいが――朔までに揃えてくれ」

「……朔?」

 然し、左馬の言葉を聞けば、目の光に理知が戻った。

「三日後どすえ?」

「知っているよ、だから既製品でいい。が、戦場でいきなり壊れるのは勘弁してほしいな」

「最大限の事はします。が――」

「金額の事ならば、十倍の仕事で返してあげよう。問題はあるかい?」

 自負心に満ちた左馬とは裏腹に、堀川卿の表情は硬い。
 朔の夜に何が有るか――彼女は良く知っている。比叡の山に立てこもる〝謀反人達〟が張り巡らせた防壁、〝別夜月壁よるわかつつきのかべ〟が力を失い、侵攻が可能となるのだ。
 政府軍の包囲が完了してから、未だに朔は来ていない。即ち、三日後の夜が初めての、本格的な正面戦闘となる。
 どれ程の規模の戦闘になるかは、未だに誰も予想出来ていないが――五十年の太平に守られた日の本では、それも無理のない事だ。ほぼ誰もが経験した事の無い戦場へ、左馬は村雨を投じようとしているのだ。

「……村雨ちゃんの右手側、壁まで進むと、扉があります。その奥から好きなだけ、丈の合うもんを持ってお行き。殆どは未使用品やし、一度や二度では壊れへんやろ」

「ありがたいね、頂こう。村雨、おいで」

 暗い室内だが、目を凝らせば、確かにそこにも小さな扉が有った。部屋の間取りから考えて、然程の広さは無いだろう。『錆釘』の備品というより、堀川卿の私物だろうか――村雨はそう思いつつ、小さな扉のドアノブに手を掛け、

「……!? ……堀川卿、お客さんですか?」

「ん……? あらら、気の早いお人どすなぁ……まだ何も分かっとらへんいうに、もう。早う隠れて隠れて、あんまり好ましくないお客様やさかいな」

 まず、村雨が。ついで堀川卿が、不作法な来客の臭いを嗅ぎ付けた。
 臭いの主は、この空間が我が城であるとでも言わんばかり、ずかずかと上り込んでくる。それが誰なのか――村雨はすぐに理解してしまい、小さな扉の向こうへ潜り込んだ。

「左馬さん、あんさんはこっちこっち。お偉いさんどす、ご挨拶しぃ」

「やれ、面倒な事を。面倒に見合うだけの報酬は得られるのかい?」

「財貨が望みならくれてやるぞ、賊徒どもの首と引き換えに」

 村雨が身を隠し、堀川卿が布団の上から床に下りて直ぐ。鉄扉を蹴り開けて、白髪混じりの男が踏み込んだ。
 左馬は、その男の顔こそ見た事が無かったが――腰につるした大鋸の、血錆が饒舌に名を名乗る。

「どないしはりました、兵部様? こんな所にわざわざお出向きで」

「何、また兵を借りたいと思ったのと――罪人の拿捕に協力願いたい。堀川卿の為には常々、何となく力を尽くしていますのでな」

 狭霧兵部和敬――皇都の兵権を預かる男は、血臭漂う部屋に鼻を引くつかせ、心地よさそうに目を細めた。








 狭霧和敬――並みならぬ男である。
 身長は六尺、日の本の人間としては、かなりの長身の部類。白髪が混ざり始めた年齢だが、背筋が曲がる事も無い。
 眼光鋭く足取りに淀み無く、剣の腕は一つの道場で、師範を務められる程。幾多の書をそらんじ、それ以上に多くの人間の顔を覚え――決して、忘れる事は無い。

「然し快適だなぁ。俺の部屋もこういう具合に、薄暗くしておいても良さそうだ。そうすれば――」

 だが、この程度の才能であれば、大勢はおらずとも、然程珍しくも無い部類だろう。

「――屍の腐臭も、適度に抑えられるのだがなぁ」

 この男の最大の特異点は、無意味な殺人嗜好であった。
 兎角、人が死ぬのが好きで仕方が無い。死に方が無残であればある程に心地良く、死の副産物も同様に楽しむ。
 即ち、血の海の中で食事を取り、腐臭に塗れて書物と親しみ、肉片の隣で眠る――そのような生活が、自分の楽しみだと自覚している。だから、余人が趣味に耽るが如く、日常生活の隣に、誰かの死を置きたがるのだ。

「いや、何より寝床の位置が良い。どれ程に血を広げても、布団に些かの汚れも着かぬ。貴殿の万年床は、退屈な上長どものようですなぁ」

「積極的に汚れはる、兵部様が変わりもんなんどす。……ご用件を、お早く」

 堀川卿は、袖で口元を抑え、首はそっぽを向けながら、話の続きを促した。こうしなければ狭霧兵部は、長々と戯れを続けかねないからだ。

「いやいや堀川卿、気が急くのは江戸者の悪い癖と、貴女は常々おっしゃるではないか。俺も江戸者ゆえ、西国の風流に倣おうと思いましてなぁ。
 それに気付いたのですよ、苦しみも緩やかに長く長く。俺のやり方は苛烈に過ぎて、女子供では一日も持ちませんからなぁ……」

 床に広がる五丈の金髪。血の汚れが落ちないそれを一束掬い上げ、兵部は鼻を近づけた。

「流石は堀川卿、俺以上の拷問の名手だ。この髪に抉られて白状せぬ罪人など、千に一人もおりますまいな。
 尤も、知らぬ事は吐けぬもの。どこまで甚振ろうとも、進展無き事も多々有りましょうが、そこはそれ、娯楽の一つと割り切りましょうて」

「戯れの度合いが分からん人は、関を問わずやすけない人どす。御用は?」

「おう、言葉に棘が有りますぞ。仕事疲れの賜物と、好意的な解釈をしておこうとは思いますが――俺も人の子だと忘れなさるな。
 ついうっかりの過ちで、人死にが数件ばかり増えましょうと、気にならぬなら別ですがな」

「……えずくろしいわぁ、あんた」

 傍から見ていれば、恐ろしく険悪な会話であった。
 堀川卿は敵意を隠さず、兵部も悪意を隠さない。政府と『錆釘』は、表面上は良好な関係を続けている筈だが――こうもなりふり構わずとはと、左馬は訝りながら観客を続ける。

「最上の世辞に感謝しましょう。が、俺が来たのは世辞を頂く為ではない。そろそろ〝例の物〟が幾つか仕上がったかと思い、受取に来た次第でしてな。
 先程お伝えした通り、まずは兵員を。野戦の技能に長け、殺しを躊躇わぬ者を可能な限り借り受けたい」

「野戦……? 比叡の山はもはや砦。必要なんは城攻めの用意ではありまへんの?」

 堀川卿の疑問は、当然の事であった。
 狭霧兵部が手にせんと狙う〝別夜月壁〟――それが隠された比叡の山は、幾多の防柵と防壁に加え、堀を巡らせた城塞となっている。古来より大名達とさえ戦ってきた仏教の武力が、結集した最後の砦なのだから、堅牢さは並の城の比ではない。

「……本当に、えげつない人」

「理解が早くて何よりですぞ、堀川卿」

 それを、野戦用の編成で攻めるという事はつまり――狭霧兵部に、比叡山を落とすつもりなど無いという事なのだ。
 脱走を許さぬように、包囲は厳重に、野戦の用意は整え。だが、城壁を崩す装備の一つも無く、扱う人材も無く――これでは、攻城戦など出来る筈が無い。
 だが、どうせ〝別夜月壁〟の力で、堅牢無比の城塞だ。戦闘行為さえ月に一度、それも夜の間しか行えないのであれば、城壁を乗り越えて内部に侵入するなど、あまりにも無理がある。
 つまり狭霧兵部は、比叡山三千の良民を、悉く干し殺そうと企むのであった。

「兵の配備はとうに済んだ。日没より夜明けまでの間、俺達は山を登り、水源と兵糧の輸送路を探り、潰す。当然ながら迎撃はあるだろうが、そこはそれ、『錆釘』の腕利きをお借りできれば、町人崩れの兵士など物の数では無い。
 従って堀川卿が心配なさる兵の無駄死にも、極めて最小限に抑えられるという訳ですな。役立たず数人を切り捨てて有能な兵を生かせるならば、全く効率の良い事ですとも」

 狭霧兵部は、堀川卿の性格を十分に理解している。大の為に小を切り捨てるのは厭わないが、だのに自分の行動を何時までも省みては、他の手が有ったのではと悩む女だと。
 なればこそ、軽い戯れの言葉でさえ、十分に心に突き刺さる針になると確信して、兵部は嬲り続けたのだ。

「では答えを聞きましょう。俺の策に従って死なせても良い兵士は、果たして幾人渡してくださるのですかな? 加えて〝あれ〟は、もう運び出して良い頃合いで?」

 だが、それも飽きたらしい。急に退屈そうな表情に変わった兵部は、事務的な口調で堀川卿に訊ねる。

「……野戦なら、かき集めて三十人。それ以上は、今はどうにもなりません」

「三十? それはまた随分とけち臭い。如何なされた、心が狭いですなぁ?」

 これ見よがしに兵部は首を傾げ、疑念有りと顔を作る。対する堀川卿は、首を横に背けたままで答えた。

「山間部を主戦場とした野戦――こうも限定された状況で、捨石以上の仕事を出来る人員なんて何人もおりません。下手に連れ出して死なれても、死亡手当で兵部様の懐が痛むだけどす。
 それに、時間も不足。輸送や偵察、或いは攻城兵器の専門ならば、洛中に何人か集めとります――そういう前提の用意やもの。何処の誰が比叡攻めに、野戦専門の部隊編成を想定しはります?
 一騎当千とまではいかずとも、雑兵五十以上の働きはする精鋭を三十。千五百の兵に相当する戦力に、兵部様は不安がお有りどすか?」

 遠巻きに包囲するだけの戦で無いのならば、多かれ少なかれ、『錆釘』の側にも被害は出る。有象無象の群れを戦に出すよりは、少数の精鋭だけに戦わせたい――堀川卿は犠牲を厭う。

「幾らか人の目星は付けとります。が――野戦と言うなら何人かは削って……お貸しできるのは、これだけどす」

 ついと突きだしたのは、人名がつらつらと書かれた一枚の紙。並んだ名前は五十程も有るが、その内の幾つかに、堀川卿は筆で、

「そうか、そうか。それは確かに困りものですな、人手が不足しているのでは。ですが堀川卿、俺から言わせて貰うならば――」

 対極的に、犠牲を望むのが狭霧兵部であった。

「――俺に嘘を吐くな、娼婦崩れの化け狐めが」

 堀川卿の顎を掴み、顔を自分の方に向けさせ、額に額を打ち付ける。威嚇する様な表情こそしないが、狭霧兵部の目は、血の気が通わぬ人形の様に鈍く光っていた。

「洛中の人の出入りを、俺が調べていないとでも思ったか。『錆釘』の腕利き共の顔を、俺が覚えていないとでも思ったか?
 この名簿には、俺が見た顔の内、かなりの数が抜けている。〝首飾り〟の薊、〝十連鎌〟の離堂丸、破鋼道場の片谷木までも、ものの見事に抜けている。何れもここ数日で、洛中で確かに見掛けた顔だがなぁ……?」

「薊は敵前逃亡の前科持ち、離堂丸は身内まで殺しかねへん。片谷木の偏屈は、隊列を組ますには致命しょ――」

「そのような事はどうでも良い。戦場に混乱を齎すなど、俺の想定の内ではないか。
 ああ、確かにお前の案で十分だろうとも。町人崩れに槍を持たせた所で、お前が集めた兵に俺の手勢が有れば、それは豆腐を拳で崩すが如き惨状を生むだろうとも。
 だが舐めるなよ? 賊徒共の指揮を執るのは、誰あろうこの俺の娘なのだ。ならば最大最悪の地獄を以て、門出を祝ってやらねばならんだろうが!」

 もはや反論を許さぬと、顎を掴む手が首に移る。指が喉へ食い込むその刹那――節くれだった手は、岩のように固い、左馬の拳に弾かれた。

「止めておくんだ、見苦しい。貴方はもっと冷徹な方と聞いていたが」

「冷徹かもしれんが、それ以上に俺は趣味に生きていてな……〝九龍〟の松風 左馬か」

「お見知り頂き真に光栄。これも一応は私の雇い主だ、手荒な真似は止めてくれたまえ」

 意識的にか無意識にか――兵部と左馬は向かい合った後、ほぼ同時に一歩ずつ後退した。開いた空間の広さは、互いが手を伸ばしても届かない程度。左馬には遠いが、大鋸を得物とする兵部には近すぎる――互いに手出しの出来ぬ距離である。

「あまり無体を働くのであれば、貴方と堀川卿の問題は、私には関係無い。自分の上司に暴行する輩を、叩き潰すのもやぶさかではないんだが」

「いつぞや擦れ違った時も思ったが、なんとも自負心に満ちた顔だなあ松風 左馬。俺に勝てると信じているように見えるぞ」

「勿論、私が負ける筈は無いだろう? ところで、貴方は目的一つの為に、別な目的を忘れる癖が有るようだけど……〝あれ〟ってなんなんだい? 荷物か何か?」

「……おお」

 言われてようやく思い出したか、兵部は手と手をぽんと打ち合わせた。

「そうだそうだ、それも用件の一つだった。いや何、既に運び出す用意は整えているがな、一応ばかり確認もしておきたかったのですよ。堀川卿、今回は何台仕上がってますかな?」

「十二。仕上げてから常温で二日、頃合いかと思いますえ……兵部様にはと、限定して」

「重畳、では頂いて行きましょう。裏口にもう、俺の部下が回っております。何時ものように上り込み、何時ものように引き取ります。異論は――」

 ――予兆は無かった。物音がした訳でも無かったが、兵部の視線は部屋の隅、小さな扉に縫いつけられた。言葉を途中で断ち切り、暫しは其処を見続けて――

「兵部様?」

「――何でもない。それでは堀川卿、約束の手勢〝四十〟は、日が昇る前までに、本陣に集結させるように。出来ぬとはおっしゃいますまいな、まさか?」

 結局、狭霧兵部は、堀川卿の提案に付け加えて要求し、鉄の大扉から去って行く。真っ直ぐ伸びた背は、己の言動に些かの呵責も覚えぬと見えて――左馬は、兵部の足音が消えるまで、拳を解かずに構えていた。








 小さな扉の向こう、やや黴臭い倉庫の中で、村雨は身を縮めていた。
 堀川卿の部屋以上に暗い所だが、僅かな光さえ差し込んでいれば、村雨の目で十分に見とおせる。確かに此処には、数々の武具が保管されていた。
 作られて、そのまま倉庫に仕舞い込まれたのだろう。時々誰かが掃除しているのか、埃は被っていない。大きさは様々だが、一番小さなもので、どうにか村雨の体に合うかという所だった。
 静かな部屋だ。扉一枚挟んでも、向こうの会話は良く聞こえる。
 だから――狭霧兵部が楽しんでいるだろう事も、村雨には十分に理解できた。理解できたが故に、この人間を理解できなかった。
 人の好みは様々だ。それが分からぬ程、綺麗な世界ばかり見て生きていない。財貨の為に他者を欺き、私欲の為に他者を傷つける。己の意を通す為ならば、誰かの命を奪う事さえ、躊躇わない者とて居るのだ。
 だが――それら全ての無道は、何らかの目的が有った。どれ程くだらないものだとて、目的は目的だ。狭霧兵部和敬は、無道こそが目的であるが為、村雨の理解から遠く外れて――だのに、共感できてしまった。
 無条件の殺傷欲求を、耐えるか楽しむかの差異はあれど、村雨は狭霧兵部を自分の同類だと認識していた。育ちや環境に由来せず、生まれ持った本性から殺しを楽しむ凶、或いは狂。
 では、何故にあの男は。自分とは違う、純粋な人間である筈の狭霧兵部は、そう生まれついてしまったのか?
 理解が及ばないモノは、即ち恐怖の対象となる。村雨は初めて、亜人が日の本で忌み嫌われた理由を、肺腑に沁みつく程に理解した。この男とだけは、決して道を同じくする事は無いだろうと、強く確信していた。
 扉の向こうでは、狭霧兵部が用件を終えて、立ち去る前口上を告げている。最後の最後まで悪辣な物言いで去ろうとする兵部へ、村雨は最大限の敵意を向け――同等以上の怖気が、跳ね返って戻って来た。
 声も、明確な行動も無く、そもそも姿を見られてさえいない。だのに村雨が抱いたのは――心臓を掴まれたかの如き恐怖と、些かの昂揚だった。
 扉の向こうに居る男の、冷たい感情が零れてくるようだ。薄い扉を透過して、欲に満ちた視線を肌に感じる。
 狭霧兵部は間違いなく、周囲の誰をも殺したいのだろう。だが、その中で得に誰をと問うならば――それは自分だと、村雨は何故か、根拠も無しに確信した。
 何故ならば、自分も同様だからだ。
 強い者程殺したい、それが人狼の本性だ。単純な戦闘力という基準で見れば、恐らく兵部より、僅かに左馬の方が腕が立つ。にも関わらず村雨の本能は、狭霧兵部を殺せと喚く。
 殺意の理由は――分からない、分かる気がしない。今はそれで良いから、兎角駆け出したがる脚を抑えるのに、村雨は全力を尽くしていた。

「出ておいで、もう帰ったよ」

 臭いが十分に遠ざかって暫く。左馬の声に従って、村雨は扉を開ける。
 擦れ違うように、左馬が扉を潜る。取り残された堀川卿の顔は、ますます憔悴しきって影が差していた。

「……大丈夫ですか?」

「全然。けど、こんなんいつもの事やもん。しゃあないしゃあない、そやろ?」

 言葉とは裏腹に、とても平気そうな顔には見えない。思わず足を踏み出した村雨だが、堀川卿の手に制止された。

「村雨ちゃん、あれが兵部卿や。皇都の兵権を司るお偉いさんで……聞いての通り、酷い人」

「酷い、で済ませて良いんですか……?」

「ま、ウチも同じくらいには酷いからなぁ。何処でも上司なんちゅうもんは、部下を食い潰して生きると相場が決まっとるんやから。
 喜んでやるか、面倒がるか、その程度の違いしかあらへんもの……せやろ?」

「……いいえ」

 村雨は黙って首を横に振った。

「喜んでないから、違うんじゃないですか。だからそんな……何日も寝てないような、酷い顔になってるんでしょ?」

 堀川卿は自分と同一の人種では無く――ならば、狭霧兵部とも違う種別の生き物だ。正しい有り方から外れているが為、堀川卿は苦しんでいるのだろうと、村雨は感じている。
 制止する手を横へ押しのけ、堀川卿の肩を抱く。細く弱い体は、震えもなくしゃんと立っているが、軽く触れただけでよろめく程力が無い。
 これが正常だ――村雨は安堵した。人の死を忌み嫌う事は、決して間違いではないと信じて良いのだ、と。胸一杯の安堵を込めて、堀川卿を抱きしめた。

「……なんや、随分大人びたなぁ、村雨ちゃん。ちょっと会ってなかっただけなのに……」

「三日合わざれば括目すべきは、男だけじゃないんですよ」

 誰も、戦わないものなど居ない。
 戦場に出る者も出ない者も、皆、己の戦を為している。末端の兵が戦場で槍を向けあう間、堀川卿のような生き物が、筆と舌で戦っている。
 ならば――もはや蚊帳の外ではいられまい。村雨の腹は決まった。

「おい、村雨、こっちおいで。この辺りなんか良いだろう、ちょっと腕を通してみよう」

「はい、師匠!」

 がらんがらんと倉庫の中身を引っ掻き回しながら、左馬が村雨の名を呼ぶ。張れるだけの声を張って、村雨は師の元へ馳せた。