烏が鳴くから
帰りましょ

初陣

 更に幾日かが過ぎた。
 左馬の指導は相変わらず無茶が過ぎたが――この数日ばかりは、村雨に怪我をさせないように配慮していた。
 特に最後の一日――〝その日〟の前日などは、関節を伸ばす程度の運動だけをして、さっさと食事を済ませ、寝る用意を整えてしまった。

「すー、すー……」

「子供は寝るのが早いね、大したものだ。これで背が伸びないんだから不思議だよ」

 みつが安らかな寝息を立てている――左馬は布団の上に胡坐を掻いて、それを眺めながら呟いた。

「……師匠、寝ないんですか?」

「それはお前もだろう、村雨。日の出までに比叡に行くんだ、あと二刻も無いんだよ」

 布団を頭まで被った村雨は、左馬に背を向けたまま、か細い声で尋ねた。
 雲間に見える月は、爪のように細く薄くなっている。明日の夜にはきっと、完全に姿を隠してしまうのだろう。朔の前夜――即ち、戦の前夜であった。

「私は飲みたいんだ、どうせお前はろくに飲めないだろう? さっさと眠って、私の為に朝食を用意しろ」

「本陣で食事は用意されるって、堀川卿が言ってましたよ。今から飲むのも……あんまり感心出来ないんじゃ」

「喧しい」

 布団の上から、左馬は軽い手刀を落とす。頭を小突かれた村雨は、然し非難の声も上げず言葉を続けた。

「師匠、戦争ってしたこと有りますか?」

「大陸は五指龍の帝国で、辺境の内乱に何度か。……まあ、村一揆みたいなものだったよ、鎮圧側も反乱側も数百人程度だ」

 答え、立ち上がり、木窓を開ける。吹き込む夜気は秋の風、肌を冷たく撫でた。

「怖いか?」

「はい」

「死ぬのも、殺すのも」

「……はい」

 トクトクと液体を注ぐ音、酒精の匂い。窘めた所で左馬の酒癖は、とても止むものでは無かったが――

「私もだったよ、村雨」

 ――酔うのは、逃げる為でも有った。

「最初の戦場で、いきなり何度か死にかけた。二十三年生きて、本当に死ぬと思った事は……まあ、一度か二度だろう。ただ、その時は本気で泣いたよ。
 こんな所で死にたくないと、散々に見苦しく喚いて……誰も助けてはくれないから、喚きながら敵を殺した。帰ってから最初にした事は何だと思う? 川に頭から飛び込んで、飲めるだけ水を飲み、潰れかけた喉を余計に酷使したんだ」

 今なら平気だけれど、と気取った口振りで続けて、左馬は酒を腹に注ぐ。身を起こさぬまま、村雨は一人語りを聞いていた。

「お前には、兎角時間が無い。私の様に何年も掛けて、技を修める余裕が無い。だから戦場に連れていく、いいね?」

「はい」

 短い答えは、震えた声で伝えられる。

「私はお前を守らない、自分を守るので精一杯だからだ。だからお前は戦場の全てを、自分の目で見て動かなきゃならない、いいね?」

「……はい」

 次こそ――本当に、死が隣にある戦い。初めての戦で、村雨は初めて、本当に庇護者を持たず戦う事になる。

「お前が死んだら、私は桜に殴られるだろう。ただ、それだけだ。あいつが幾らとち狂ったところで、私を仇と断じて殺そうとする真似なんて有り得ない。
 お前が死んだら、その死体は戦場に投げ捨てられたまま。焼かれるか腐って、誰とも分からなくなる。死んだ後は本当に、綺麗さっぱり忘れ去られるんだ。知っているかい?」

 知っている――知り合いの誰かが死んだと聞いても、数か月もすれば、深い感慨など無く生きていける。もしかすれば自分も、昔そんな名前の奴が居たと、たまに思い出されるだけの存在に成り果てるかも知れない。

「……半刻だけ寝る、その間に考えろ。お前が選んだ事に何かを言えるのは、きっとお前と桜だけだ」

 言外に逃げろと言って、左馬は窓枠に腰掛け、目を閉じる。村雨は何も答えず布団から抜け出し、部屋の隅に纏め置かれた、新品の小手に腕を通した。
 夜が明ける前に小屋を出た二人を、みつは寝た振りを続け、ついぞ見送りなどしなかった。








「良く集まった、『錆釘』の勇士諸君よ。俺の為に死んでくれる事、まずは丁重に感謝しよう。死ね」

 政府軍の本陣は、比叡山の西側、洛中を背に置いて敷設されている。陣幕に畳を敷き脇息を置き、狭霧兵部和敬は尊大に寝っころがっていた。
 集まったは『錆釘』の精兵四十名。正規兵とは違い、武装も服装もバラバラの、見事に纏まりの無い集団である。幾人かは兵部へ、隠しもせず殺意を向けていた。

「これからお前達を、幾つかの部隊に振り分ける。給金は何処も同じだ、好きに選べ。だが、人数が多すぎた場合、俺が勝手に配置を変える。
 まず一つには本陣守護……俺の護衛だな。一つには最前線、殺してなんぼの商売だが歩合にはせんぞ。残りは適当に三方に回り、侵攻するそぶりだけ見せろ。
 つまり四十人ばかり借り受けたが、実際に戦闘に参加できるのは三分の一だろう……多分」

 煙管を咥え、火を付け――咽て投げ捨て、忌々しげに立ち上がる。燃えた草が畳みを焦がすが、それを草鞋で踏み躙る兵部の顔は、皺に似合わず幼く見えた。

「糞不味い。こんなものを吸う馬鹿の気が知れんな……ああ、命令は以上。質問はあるか? 無いな、良し、配置を勝手に決めて散れ」

 あまりと言えばあまりに短い命令の後、兵部は立ち去って行こうとする。その肩を掴んだ男が居た――丈の長い外套に身を包んだ男、葛桐だった。

「……無礼な奴だ、何用だ?」

「決める気が有るのか? ねえのか? この連中に好き勝手させて、配置が決まると思う盲じゃねえだろうが。
 俺は本陣に居させてもらう。後で入れ替えるだなんだ言い出すんじゃねえぞ」

 兵部の言をその侭に取れば、結局最後は兵部の一存で、兵員の配置を決定するのだ。
 『錆釘』の構成員が互いにどう決めようが、兵部が否と言えば配置は変わる。そう宣言したも同様である以上、頷けぬ者もいる――例えば葛桐のような金に煩いものであったり、

「私は最前線を。最前線を。それ以外の場所への配置は認めませんよ」

「おう、離堂丸か。言っておくが仲間首は手柄にならんぞ、寧ろ減給の対象だ。理解しているなら認めよう」

「持ち帰らねば良いのでしょう……ふふふ」

 戦狂いの狂人であったり、だ。すらりと背の高い女の顔に、村雨は見覚えが有った――何時ぞや堀川卿に呼び集められた時も、同僚の殺害許可を求めていた女だ。あの時と同じ、口だけを上下に開くやり方で、女は――〝十連鎌〟の離堂丸は笑っていた。

「それより皆、何故押し黙るのです? 私と共に雑兵を切り殺し楽しもうと、そう願う者はいないのですか?」

「居るわきゃあねえだろ。それよりおい、本陣守護は俺だけか。立ってるだけで良さそうだぞ、どうする」

 図らずもこの二人が、場を仕切る形となった。
 が――中々口を開く者がいない。好んで危険に触れたがる者も少ないが、かと言って安全な本陣に籠るのも、臆病者の誹りを受けかねない。
 結果、先に二つの席が埋まって、残りに配置されるのを待つ――そんな後ろ向きな算段をしているものばかりだったのだ。

「別に楽しくはないけど、後ろに居るのも性に合わない。私の美貌は当然、最前線で咲くべきだろう……なあ、村雨?」

「師匠、答えに困るんですけど……」

「なら答えるな。何はともあれ、これで最前線は三人……おや、女ばかりだ。『錆釘』の男どもは玉無しばかりになったのかい? ならば結構、皆で引き籠って貰おうか」

 左馬は、村雨の予想の通りに最前線を選んだ。つまりは村雨も、望むと望まざるとに関わらず、最前線へ引きずり出されるのだ。
 師の軽口に、何時ものような反応を返す事も出来ず、腑の底の恐怖を噛み殺し、皆の前に進み出る。村雨の体格は、集まった四十人の中では、飛びぬけて小柄であった。

「……はい、引き籠って貰っても……いや、逃げて貰ってもいいと思います」

「ほう、戯言を言うな、大陸の娘。いや然し驚いたぞその顔、何時ぞやの罪人の面ではないか」

 左馬の言葉を次いだ村雨の前に、兵部は大鋸を手に立った。桜を救い出した時、ほんの一瞬だが見られた顔は、忘れられていないようであった。

「逃げるような人は、どうせ役に立たないでしょう。怖いからって、怖いままで動かないんだったら、案山子を並べる方がいいでしょう? 私は怖いけど、仕方なく最前線に行きます。選べない人は帰ってしまえばいい、そうすれば死なないで済む――」

「それは寝ぼけた絵空事だぞ、小娘」

 狭霧兵部はただ一声で、村雨の言を切り捨てる。

「お前が言うのは、個々の闘争の延長に過ぎん。せいぜいが獣の群れ同士の餌場争いだな、実に下らん。人間同士の戦争という物を、お前は全く検討していないのだ。
 成程、ここで逃げれば戦では死なんだろう。だがな、人の社会の中で死ねば、刺殺される以上の苦痛を味わう事になるぞ?」

 大鋸の刃に、兵部は自分の指を当てた。皮膚一枚を裂いて、つうと流れ出た血は、真っ当な人間と同じで赤かった。

「幾つもの苦痛を見てきた俺が保証しよう、戦場の死は一瞬だが、社会による殺人は長期的な娯楽だ。事あるごとに冷やかな目を向けられ、お上からの恩恵も受けられず、或いは罪人として咎まで受けるというのだ。健全な生など望むべくもあるまいなぁ。
 向こうは向こうでもっと苦しいぞ、なにせ逃げる場所が無い。働き者だけが戦うなどすれば圧倒的な戦力不足、今宵一夜も持たずに落城するのだ。
 お前が如何に殊勝な心がけで臆病者共を逃がそうと、そいつらは後々、別な形で殺される。ならば今宵、強制的にだろうが戦わせる事で生を掴ませる――それこそが恩情であると思うが、違うか?」

 指に滲んだ血を、村雨の唇に擦り付ける。血で引いた口紅は鮮やかで、村雨の白い肌に映えた。

「さて、餓鬼を相手にして余計な時間を喰った。早急に決めてもらおう、何処へ行くか。百を俺が数えるまでに、己の行く先を決められぬ者は……戦の前の座興に殺す。良いな?」








 日が山から完全に顔を出し、洛中は人で賑わい始めるだろう頃合い――まだまだ、開戦には遠い。
 『錆釘』の構成員達は、提供された食事を食らいつつ、それぞれの配置された箇所へ移動していた。

「……長閑だねえ」

「ですね、今だけは」

 塩気の聞いた握り飯をぱく付きながら、村雨は左馬と並び、比叡の山を見上げていた。
 二人が配置された場所は、山の西側、最も広く開けた箇所。平時であれば参拝者達は、ここから上って本堂を目指す。
 だが今は――人の目で見える程度の距離に、既に柵が設置されている。恐らくもう暫くすれば、柵の後ろに弓兵でも配置されるのだろう。
 ここが最前線として、多くの兵員を配置された箇所である。周囲を何気なく見渡せば、西洋式の軍装をした兵士達が、直立不動で整列していた。

「……大変そうですね」

「だろうね、あいつらは力が無いから。私達は強いと信じられてるから、こうやって自由に動き回ってる。全く信用商売っていうのは楽なものだ。
 然しお前も、中々板についてるじゃあないか――私には敵わないとしても」

 左馬が軽く拳を振るったが、それは村雨の頭に向かって、真新しい兜に防がれた。
 村雨の装備は、速度を武器にする彼女にはそぐわず、中々に重厚なものだった。両脚を覆う具足は鋼、膝上と膝下で部品が分かれ、脚の動作を妨げない作りになっている。
 胴当て、胸当て、肩当。これも金属作りだが、体に触れる部分には、獣の革を宛がっている。左肩の装甲は分厚く、右肩は簡素。左腕は盾とする運用思想である。
 耳と後頭部を固く守り、更には鎖を数条も首に垂らし、首筋を保護している。顔面だけは完全に空いているが、こればかりは止むを得ないものだ。
 そして両腕――他のどの部位よりも分厚い鋼の小手が、両肘の先を手の甲まで覆っていた。
 並の少女ならば、その重量で走る事さえ侭ならぬだろうが、然し村雨は人狼。この程度の重量で、動きが鈍る事など無い。だが、慣れぬ金属を身に纏うと、鉄臭さが鼻に纏わりついて、村雨は居心地が悪くてならなかった。

「似合いますか?」

「似合う似合う、桜なんかが好きそうな格好だ。どうせだから家事もその恰好でやればいいんじゃないかな」

 冗談で聞いたつもりだった村雨だが、冗談で返されても、苦笑いしかできずに居る。

「いいや似合わない、全然似合わない! 子供は子供らしく、最近流行りの洋服でも着とりゃあいいのよぉ!」

 と――何やら喧しい声がした。村雨には少し懐かしい、東国訛りの混ざった声だった。

「ん……?」

「それをなんだお前達は、似合わない鎧なんかつけて。脱げ脱げ! ぱーっと景気づけに! ほら! ……勿論、何処まで脱いでも構やしねえぞ?」

 割り込んできたのは、七尺も有ろうかという巨体の男。どうやら村雨だけでなく、左馬にも言っているようである。
 言う本人も鎧姿だが、成程こちらは堂に入っている。腰に吊るした大刀も、武骨が故に似合いであった。

あざみか、お前は出無精組かと思ったよ」

「それは俺の言う台詞じゃあねえかい? 松風 左馬が上の命令に従うなんざ、天変地異の前触れかと思ったがよ」

「言ってくれるねぇ。……ああ、村雨。こいつの噂は聞いてるかい?」

 座ったままで巨体の男を指さし、左馬は村雨に訊ねた。

「……はい、多分。私が思ってる通りの人なら」

 村雨も、同僚の有名所であれば、何人かは知っている。例えばこの、輪にした鎖を首から下げたおかしな男――〝首飾り〟の薊も、その一人だった。

「知っててくれるとは嬉しいねぇ。井上 薊だ、宜しく!」

「そりゃあ、まあ……あれだけ有名だったら、名前くらいは」

「かか、有名人は辛いぜぇ。そんな目立つつもりは無かったんだがなぁ」

「嘘ばっかり。獅子奮迅の働きだったらしいじゃないか、あの時は」

 山賊やら盗賊やらの捕り物に駆り出され、大立ち回りを幾度も演じた、恐らくは『錆釘』でも三本の指に入る腕利き。それがこの、薊という男の評価である。
 気まぐれな性質であり、雇い主が気に食わなければ、仕事途中でも立ち去るという悪癖持ち。その為、腕の評価はさておき、あまり信用を置かれては居ないのだが――

「本当にどうしたんだい、お前なら戦場は選べるだろう」

「ここが一番、金が多く貰えると踏んだのよ。手柄を上げりゃあその先で、もっと儲かる仕事にありつけるかも知れないしな」

「守銭奴に転職したのかい? ……しかし相変わらず、無駄にでかい」

 村雨と左馬は、道端に設けられた椅子――参拝者を休憩させる為の、木の長椅子に座っている。一方で薊は地面に胡坐だが、それぞれの顔の高さは殆ど変らない。

「金は大事だろぉ? いーやまあ、俺はもう十分に持ってんだがよ」

「お金ねー……。私の知り合いにも、あなたみたいな人が一人いるよ」

「葛桐って奴か? あいつも腕が立ちそうだが、なあに、一緒にしてもらっちゃあ困るってもんよ! ……で、お前誰だ」

「あ、ごめん。私は村雨、一応は同僚だから宜しく」

 握手を求めた伸ばした村雨の手は、薊の手にすっぽりと包まれてしまう。体格も確かに大きいが、それ以上に手の大きい事と来たら、川辺のふきの葉の如しである。

「凄い手だね……」

「自慢の商売道具よ。こうでもねえと、こんな得物は振り回せねぇ。三つ胴、五つ胴はお手の物、最っ高の一振りだぜぇ?」

 吊るした太刀は、もはや鉈か大包丁と呼ぶ方が正しいだろう分厚さ。これを薊の巨体が振るえば、確かに人の胴体など、薄紙の如く切り裂いてしまうだろう。
 人殺しの道具を誇るのは、平時ならば褒められた事でも無いのだろうが――ここは開戦前の最前線。寧ろ健全な鼓舞であった。

「然しなぁ、夜まで退屈で仕方が無い。場合が許せば俺一人で突っ込むんだが……これじゃあなあ」

 薊は足元の小石を拾い、登山道目掛けて投げつける。矢のような速度で飛んで行った石は、見えない壁に阻まれ、跳ね返らずに落ちた。

「ほう? 踏み込めないとは聞かされていたが、こうなるのか」

「試しちゃみたんだがなぁ、何度も何度も。ただの一歩も踏み込めねぇ、そもそも踏み込む場所がねえ感覚だよ。世の中分からねぇ事だらけだが、分からねぇにも程があらぁな。
 ああくそ、先駆けの功が欲しいんだがなぁ。並んで飛び込むんじゃ褒賞も増えやしねぇよ」

 比叡の山に隠された〝別夜月壁よるわかつつきのかべ〟――その防御はやはり堅牢無比。気が急く薊も、一歩たりと先へ進む事が出来ない。

「金、金、お前らしくもないな。使わない金が有り余ってるだろう?」

 薊と旧知の仲の左馬は、彼の言動に違和を感じ、座ったまま首を傾げた。その答えとして、薊は巨体をぐにゃりと曲げ――巨大な手で顔を覆った。

「……おい、薊?」

「それがなぁ、俺もなぁ、ちょっと金が必要になる用事が出来てなぁ……うほぉう」

 まるで純粋な乙女がそうするかの様に、地面に寝ころび転げまわり――薊はその巨体を限界まで縮め、羞恥に悶えている。端的に言えば、気味が悪い絵面である。

「呆れた。金喰い虫の女でも出来たかい?」

「まだだ、まだなんだが……ちょっとな、金の掛かりそうな女なのは確かで……」

「まだって、まだ告白もしてないって事?」

 恥じらいたっぷりに、薊は村雨の問いに頷いた。七尺超えの大の男がするには、奇妙としか言いようの無い姿である。

「で、馴れ初めは」

「師匠、どうしてそういう話にばっかり食いつくんですか」

「良いじゃないか、面白いだろう? お前の話はちょっと、まあ……うん、あれだったが」

 他人の色恋沙汰と聞けば、首を突っ込まずにはいられないのが左馬。軽くつつけば、薊はあっけなく口を割る。

「……それが、そのう。数日前に道で擦れ違って、びびっと来て、その」

「えっ、擦れ違って。……えっ、それだけ?」

 村雨が聞き直す横で、左馬は消し炭でも喰ったような顔をしていた。

「それで良く、人となりなんて分かったよね。顔だってそんな一瞬じゃ、じっくりとは見られないだろうけど……」

「おう、良く見れなかった。だからちょっと来た道を引き返して、茶店で団子を喰ってる所を物陰から――」

「薊。お前の図体でそういう事をすると、ただの変質者にしか見えないっていうのは分かっているかい?」

「自覚しとるわい!」

 大音声と共に、薊は地面に頭突きをかました。周囲の兵士が何人か、何事かと振り返って槍を構えたが、すぐに元のように整列し直した。
 周囲の視線に気まずくなったか、薊も暫し狼狽えた顔を見せたが、気を取り直すのも早い。額を地面に打ち合わせた格好のままで言葉を続ける。

「……物陰から見てたら、その、なぁ。茶を飲む一挙動まで……綺麗で、おぅ。何か話すとっかかりでも無いかと、三日くらい同じ茶屋の影で――」

「薊、正気になるんだ。今のお前はかなり気色悪い」

 左馬の言葉も耳に入らないのか、薊の独り言めいた言葉は続く。村雨は苦笑いを浮かべながらも、全く否定するという事も出来ずに、その話を聞いていた。
 少なくとも――大の男が取るには女々しい行動に過ぎるとしても、悪人ではないらしい。気が先走って行き過ぎただけの、ただの純真な男。見ていて悪い気はしなかった。
 然し、その思考の矛盾に、村雨はすぐに気付いた。

「……手柄って、やっぱり」

「一番槍、一番首。この鎖にな、首を吊るして帰るのよ」

 ――〝首飾り〟の薊。その異名の由来は、刈り取った首を鈎針に刺し、鎖に繋げて吊るす、戦場装束にある。戦闘の佳境に入れば、二十近い敵首を吊り下げて歩く姿は、悪鬼羅刹も怯え竦むと恐れられた。
 悪人でない、きっと間違いではない。善人が人を殺して飾り、それを誇れる場所に――今から自分も身を投げ込むのだ。

「あー……ちっこいの、いや村雨。顔が白いぞ?」

「生まれつき。大陸の出だもん」

「おう。訛りが無いんで分からなかったぜ」

 冗談で返した村雨だが、自分の顔色の悪さは、小手の金属面に映っていた。

「村雨、寝ておこう。日の入りと同時に開戦だ、あと……多分、四刻は寝ていられる」

「……はい、師匠」

 布団も何も無し。木を背もたれに、椅子は石か地面。
 村雨は寝苦しさを感じない。故郷の枯れ木よりずっとずっと、背凭れは上等であった。








 日が傾く、地に茜が差す。空気が孕む臭いが変わった。
 草木と土の優しい臭いから、鉄と人体の臭いへ。張りつめた空気は、兵士一人一人の恐怖の総和である。
 これから起こる事を望むものなど、十指で数える程も居ないだろうに、人死には間もなく訪れる。

 村雨は、兵士達の最前列に居た。
 『錆釘』の精兵十人が、一列に横に並ぶ。その背後には政府軍の兵士、数にしておよそ二千五百。

「壮観だねぇ、これは。こんなものは見た事が無いよ」

 背後に並ぶ槍の列に、左馬が上ずった声を発した。昂揚と緊張と恐怖とが、全て混ざり合った声であった。

「初めての女みてぇな事を言うなぁ」

「事実初めてだよ、薊。この規模の戦場に出向いた事は無い。お前はどうだ?」

 横に立つ巨漢へ、顔を見ないまま左馬は問う。薊の顔も左馬と同じで、数種の感情が混ざって引き攣っていた。

「おう、俺も初めてだ」

「つまり童貞か。そのまま死ぬなよ、死にきれないぞ」

「馬鹿女、戦場の事だよ。俺もこの規模は初めてだ……そっちのはどうだ?」

「最後にやった殺し合いは、商家の夫婦喧嘩の仲裁だったなぁ」

 火縄銃を九つも背中に括り付けた男が、薊の言葉に戯れ返した。笑ったのは数人ばかり、何れも『錆釘』の面々だった。政府軍の兵士達は、笑うどころか軽口に耳を貸す余裕さえ無い。

「そっちの爺さん、あんたはどうだい」

「開国の時に……盛岡藩で、海戦してきたのが最後じゃな」

「へぇ、アボルダージュに混ざってきたのか。どうだった、百人切りでもしてきたかい?」

 火縄銃の男は、隣に立つ老人に訊ねた。白髪、白髭、得物は刀が一振り。指の分厚いことは、格闘家にも劣らない、健康的な老人である。

「いいや、斬り込まれた方だ。斬り込んだ側は蜂の巣、一匹残らずな。俺は一人も斬っちゃあいねぇ……平和な戦争だった」

「おじいちゃん、昔の自慢は止めてください。疼きが止まらなくなるじゃないですか」

 老人の横には離堂丸――長身の女。農耕用の鎌を十本、金属の棒と交互に繋いで輪の形にした、奇妙な形状の武器を手にしている。輪の一か所を外せば、十本の鎌は金属の鞭に早変わりという、珍しいが扱いづらいだろう凶器だ。

「けぇっ、色ボケの餓鬼が」

「色は色でも赤色です……ふふふふふ、ああ楽しそう。楽しいでしょう、皆さんも、ねえ。これから楽しい人殺しですよ?」

 離堂丸は夢見心地で、背後の兵士を振り返る。今、この戦場で最も血色の良い彼女は、夕日に照らされて無用の美貌を晒していた。美しいからこそ、血臭を感じさせる言葉が、或る者の心を削り、或る者に決死を覚悟させた。

「……皆さんノリが悪いですねぇ。最悪死ぬだけなのに」

「死ぬ以上の最悪は無い、って言うのが共通見解なのだろうさ。なあ、村雨」

 左馬の言葉に、村雨は無言のままで頷いた。
 何も言えぬまま、そっと手を伸ばす。虚空を進んだ手は、ある一点を境に、どうしても前へ進められなくなる。
 これが――〝別夜月壁よるわかつつきのかべ〟の、絶対無敵の障壁。破る事は決して出来ない――そも、壁の内と外の空間を断絶させる為、破れたとしても進めない。
 たった半日、朔の夜だけ、この壁は力を失う。つまり、今、兵士達を照らす夕日が、山の向こうへ完全に沈んでしまった瞬間から、戦が始まるのだ。
 無駄口を叩く特権――戦闘が始まっても生きていられるという自負心――を持つ者以外は、皆、刻一刻と傾く太陽に、祈るような目を向けていた。

「ところで、薊」

「なんだ、〝九龍〟」

 左馬は、鋼の六尺棒を肩に担いだまま、薊に軽く呼び掛ける。刃は付いていないが、殺傷力なら十分に備えた凶器。そんな物を持ちながら――

「お前、本当に童貞だったりする?」

「………………」

「なんだ、そうなのか」

 笑っていたのは数人ばかり。火縄銃の男にあの老人、それから他にも『錆釘』の精兵が四人ばかり、何れも男である。開戦直前の精神状態は、些細な冗談でも、腹を痛める程に彼等を笑わせた。

「ぅぇ、お!? おい、お前達! 違う! 女の前でそんな事を、いや違う!」

「……薊さん、苦労するね」

 村雨の同情の視線を余所に、薊はぎゃあぎゃあと吠えるように叫ぶ。それが余計におかしいのか、周りの連中はげらげら笑い続け――

「はっは、それじゃあ確かに死ねないね。告白もまだ、ヤるのもまだ、功より先に急ぐものが有ったんじゃあないか?」

「若いの、あどばいすっちゅうもんをするとじゃな。女を口説くのは戦場が一番成功しやすいぞ」

「貴様ら喧しいわ! っかぁ、片っ端からぶん殴ってやろうか!?」

 薊が拳を振り回せば、流石に巨体の迫力、笑い声は収まってくる。が――僅かに訪れた静寂に、くすりと一つ、音が混じった。

「っふふふ、気にしないでもいいでしょう。人殺しの腕前に、童貞も処女も関係ありません。私だって処女ですからね……ふふふ」

 くすくすと笑いながら、離堂丸が言った。薊は救われたような顔をして、ぱあと表情を輝かせ――

「……尤も、落ちぬ城と落とせぬ兵士では、価値に天地の差が有るのは当然ですが」

「ぐっ、ぅううおおおおおおおおおっ!!」

 ――持ち上げてからの止め。居たたまれず、薊は絶叫した。








 戯れ続けて――何時しか太陽は、爪程の細さになっていた。

「全体、聞け! これより我々は、登山道を直進し、本堂まで攻め込む! 事前の通達のように――」

 政府軍の兵士の前で、小隊の長と思われる男が、割れ鐘のような声でがなり立てる。背後に聞きながら、村雨は手を地面に触れさせ、前傾姿勢を取っていた。
 すすり泣く声が聞こえる。呪詛の呟きが聞こえる。誰も心安くは居られず、統制も完全ではなくなっている。
 それを窘める者は居なかった。抑えられるものではないし、また、指揮を執る者さえが、戦を前に気を張り詰めているのだから。

「……薊さん」

「おう」

 最前列から更に一歩、薊が前に出る。村雨はその背に、消え入りそうな声を投げた。

「告白は、するつもり?」

「おう、勿論よ。あの人が喜びそうな土産でも見繕って、真正面からしてやるぜ」

「じゃあ――」

 死ねないね、と言おうとした。喉がひりつき、村雨はそう言えなかった。死を意識させる言葉を、音として発する事さえ躊躇われたのだ。

「だなあ、うん。死にたかねぇし、俺は死なねぇ。景気が悪いってんだ、てやんでぇ。
 こちとら〝首飾り〟の薊だぜ、町人上がりの兵なんざ、何百集まろうと敵じゃあねえ!」

「頼もしい。先駆けはやはりお前だ……私は後ろをついていこう」

 普段の横暴は何処かへ影を潜め、左馬は大人しい事を言う。その違和さえ、村雨は違和だと感じられずに居た。
 非日常が始まる。号令は、空を埋めた濃紺――夜の色だった。
 四方八方から法螺貝が、銅鑼の打音が鳴り響く。音が何を意味するか――気付く前に、村雨は叫んでいた。
 いや、皆が叫んでいた。何も思わず分からずに叫んで、一斉に走り出したのだ。
 月の出ない夜、天然の灯りは何も無い。一歩毎に暗くなり行く参道を、薊を戦闘に『錆釘』の精兵が、そして政府軍の兵士が後を追う。
 石段を駆け上り、恐らくは五十段も上った頃。風が山肌を吹きおろし、村雨は最初の敵を嗅ぎ付けた。その時には周囲の兵も、同様に敵を察知していた。
 早速の交戦――初手を取ったのは、比叡山側。ざあと音を立て、何十もの矢が、先陣を切る村雨達に降り注ぐ。

「避けろ、この程度!」

「はい!」

 左馬に言われるまでも無く、村雨は側面に大きく跳躍し、余裕を持って矢を回避した。他の精兵も、避けるなり矢を打ち払うなり、手傷を負った気配は無い。
 が――更に後方では幾人かの兵士が、頭蓋を貫かれて倒れ果てていた。ほんの一瞬、村雨はそれを見て――何を思う、暇も無かった。

「見ろ、大盾じゃあ! 全く懐かしいやり口じゃのう!」

「おう、古風な戦術だなぁ!」

 白髪の老人が、矢の飛来元を指して笑う。登山道側面の茂みに、黒塗りの大盾が――木と竹を重ねて作られた大盾が備えられている。その後ろには弓兵が、飛来した矢と同数だけ隠れていた。
 古風と笑った薊は、弓兵に目もくれず真っ直ぐに走る。何故ならば――彼等が再び矢を番える事は無いからだ。
 素人上がりの弓兵が、二射を立て続けに、正確には行えない。次の矢を手に取り、弦を引いた時には、彼等は政府軍の兵の波に飲まれた。
 悲鳴、怒声は聞こえない。兵士達の足音と、恐怖を散らす為の叫びは、数十の断末魔など容易に掻き消した。いとも容易く、瞬く間に、数十の命が消えたのだ。
 あまりと言えばあまりな――使い捨てと言われても、否定の出来ぬ配置である。事実、彼等が得た成果は、不運な数人の命を奪う事に過ぎなかった。
 だが――それで十分。ほんの一瞬でも足を止めさせ、そして政府軍の先頭を、可能な限り左右に広げさせる事。それだけが数十の兵士の、命と引き換えに期待された成果だったのだ。

「……! おい、横へ行け! 危ねぇ!」

 火縄の男が、先を行く薊に叫ぶ。答えを返す前に、薊は大きく横へ――石段を離れ、土の地面まで逃れる。後続の『錆釘』の精兵も、〝何か〟に感づいたか、同様に動いた。
 だが、後方の兵士達は――弓兵に僅かにでも足止めされ、自然、大勢が横並びの配置になった。中央の兵士はどう足掻こうと、後ろから進んでくる兵士に押され、留まる事も避ける事も出来なくなる。
 石段が、縦に爆ぜた。
 兵士の群れの中、火柱が立ち上がる。石段の下、地面に隠された大量の火薬が、これもやはり埋められた金属筒に誘導され、垂直に火と金属片を吹き上げたのだ。
 火薬の爆発の前に、雑兵の防具など――まして西洋風の軽装、薄紙程の役にも立たない。焼け焦げた躯が、引き裂かれた躯が、後続の兵士の頭に降り注ぐ。

「おおっ……! 埋め火、やはり古いのお!」

「おじいちゃん、はしゃぐと腰を痛めますよ!」

 老人は器用にも、進行方向に背を向け、後ろ向きのままで斜面を駆け上がる。横を走る離堂丸は、死の臭いが楽しくて仕方が無いのか、隠さぬ笑顔で老人を窘めた。
 狂い始めた――皆が、狂い始めた。
 人が目の前で、或いは背後で死んでいるというのに、誰も足を止めない。何かに突き動かされ、ただ、ただ、前へ進む。
 勿論それは、後続の兵士が状況を見ずに進んでくる以上、立ち止まっていては人に踏みつぶされかねない、という事もある。だが、それを差し引いても――

「次が来るぞ、見えてるかいお前達!」

「おう、ありゃあ丸太だなあ――いや、違うかぁ!?」

 ――死とは、こうも軽いものなのだろうか。
 続いて斜面を転げ落ちてくるのは、巨大な丸太が数十本。山の木を切り倒し、枝を切り払ったのだろうが――そこから立ち上がる白煙から、ただの重量兵器で無い事は明白。
 精兵十人は何れも、丸太を跳躍で避けた。斬るにも受け止めるにも、重量と隠された〝何か〟の予感が、それを許さなかった。案の定、丸太は更なる加速を受けて、後方の兵士達を巻き込んで――また、爆ぜる。
 埋め火の混乱収まらぬ兵士の中に、続けて次の火種を叩き込む。成程、有り得ぬ手ではない。十分に予想できる事であろう。だが、村雨が思ったのは、そういう事では無かった。
 自分が後ろの兵士の中に居たら、あれを防げたのか? 無理だと、一言で結論付けられる。左右も後方も道は埋まって、正面から死が向かってくるのだ。火薬の爆発による熱風、飛来する小片を体に受けて生きていられねば――確実に、死んでいただろうと。
 だが、兵士は何千と居る。埋め火が殺したのは数十人。火薬丸太も、一本で十数人を殺した程度で――死者はこの時点で、概算で二百。多いが、全てでは無い。
 つまり兵士達は、自分が配置された立ち位置の為に――実力では無く運の為に、或る者は死んで、或る者は生き延びた。今の自分の様に、能動的に回避する事さえ許されなかったのだ。

「村雨、同情するな――前だ、来るぞ!」

「え――は、はいっ!」

 僅か、ほんの僅かの間に、政府軍を混乱が覆う。それを見逃さず登山道を、比叡山側の兵が攻め寄せてきた。
 夜闇に埋め火、噴煙――視界の不利に加え、立ち位置の高低差。更には、士気の低い政府軍の兵に対し、背水の陣の比叡山兵。ここに置いて装備と練度の差は、埋められ、そして覆される。
 先程は、矢による接触から始まった。今回は――何か小さな、壺のような物の投擲と、火の魔術の二段攻勢。人狼の鼻ならずとも、壺の中に入っている液体は、油だと十分に嗅ぎ取れた。

「っはは、徹底してるねえ……!」

 火薬が二つ、油に火。こうも火に拘った戦術を組むのは――人間も動物であるという、簡単な事実が故だろう。理性があろうとも、闇と火は怖いのだ。
 恐怖は伝播し、冷静な判断力を奪い、そして統率を崩す。白煙の中で油が燃え――人も同じだけ、燃えていた。

「落ち着けぇい! こんな手、長くは続かねえ! 火薬も油も有限だ、山で補給は出きゃあしねえんだ! もう使い尽くしたに決まってらあなぁ……なら、こっちのもんだ!」

 薊は、恐れていなかった。物量ならば、自分の背後の兵士達が上。今の不利は奇襲によるもので――白兵戦に持ち込めなかったが為。これよりは乱戦、数と力が物を言う。
 かあ、と一声。薊は戦闘の敵兵を頭から両断し、返す刀で二人ばかり、腰の上下を別れさせた。

「威勢がいいのう!」

「異性は知らないくせに……ふふふ」

 老人は刀を――鞘に納めたままの筈だが、一人を切り倒している。薊の右手側では離堂丸が、鎌の刃を敵の喉に刺し、肉を一塊抉っていた。
 然し、怖気づく敵兵は居ない。そればかりか、彼等の周りで留まろうとする者も居ない。薊達が見えないかのように、只管に先へ進み、進路を塞いだ者を殺そうと突きかかる。

「師匠……これは!?」

「こういうもんだ、分かれ!」

 村雨は、理解が追い付かず、答えを外に求めた。左馬は、自分に斬りかかってきた敵兵の顔を、鋼の棒で叩き潰しながら答えた。
 誰かを無視できる戦いなど、村雨は初めて経験した。自分を殺そうとした者が、次の瞬間には自分への関心を失い、他の誰かを殺しに行く――そんな思考を、理解できる筈が無かった。

「千と千の殺し合いだ! 一に拘る馬鹿が居るか、走れ!」

 両軍の兵が入り乱れ、互いに互いを斬り合い、刺し合っている。彼等は皆、特定の誰かを恨んでいないのだ。
 恨みも憎しみもない殺し合い――気付けば隣で、名も知らぬ誰かが死んでいる。脚を止めているのが恐ろしく、村雨は師の言葉に従って走った。
 だが、先へ進んだのではない。大きな円を描くように、敵兵の周囲をぐるりと回って、茂みへ逃げ込んだ。進めば数百を超える敵の中、戻れば噴煙と混乱の中。何れも死と隣り合わせなのだから。
 茂みの中で呼吸を整える村雨の横で、左馬もまた、肩で息をしていた。運動量は決して多くはないが、やはり精神的な圧迫は、この女傑をして疲労に追い込んでいた。

「……村雨、怪我は?」

「無い筈で――あ」

 呼吸を整えようとした時、村雨は、自分の頬から血が流れている事に気付く。矢か、槍か、避けた筈のどれかが掠っていたらしい。

「軽傷です」

「無傷か、それは良い。薊がどこに居るか、見えるか?」

「はい……横から敵を避けて、先へ進もうとしてます。『錆釘』の他の人も同じで――」

 夜目と鼻を使って、周囲の動向を探る。血の臭いが多すぎて、鼻は殆ど麻痺していたが、先程まで近くに居たのが幸いして、薊の位置は十分に見つけられた。

「ああ、きっと正面は諦めたんだろう。流石に無理だ、一月がかりで築いた防衛線を破るのはね。いや、出来ない事は無いだろうが――」

「一晩じゃ無理だ、俺もどーいけん」

 何時の間にか村雨の横に、火縄銃の男が倒れ込んでいた。負傷は見えないが、疲労の度合いは寧ろ左馬や村雨よりも酷い様子である。

「大きく側面――北か南まで回って、道を使わないで攻める方が良い。此処は――ちょっと酷すぎる、一張羅が血だらけだ」

「どこだって酷いとは思うけどねえ。ところでお前は?」

「俺は八島、八島陽一郎。新入りなんで宜しく頼むよ、先輩さん。……まあ、俺の事はどうでもいいじゃないの」

「確かにね。もう少し渋い方が好みだし」

 かっ、と唾を吐くような笑い方で、八島は直ぐ立ち上がる。左馬も村雨も、その後に続いて立ち上がり、薊の進んだ先へと走った。 段々と黒を増す夜の中でも、薊の進んだ道は分かりやすい。参道を赤々と染めた血の道には、両断された人体がごろごろと転がっているのだ。進むこと百歩程で、三人は薊に追い付いた。

「よう、久しぶりだな……三人だけか」

 返り血で全身を赤に染めた薊は、陽気な声で左馬に呼び掛け――期待より人数が少なかった事に、少なからぬ落胆を見せた。

「ああ、百年振りに会った気がするよ。他の連中は?」

「爺様と離堂丸なら――ほれ、向こう。後は知らん」

 薊が指さした方向では、離堂丸が十連鎌をぐるぐると回転させ、比叡山方兵士の一人を〝削り取って〟いる所だった。その様子を老人は、刀を鞘に納めたまま、平然と眺めていた。
 周囲に、他に兵士は居ない。この辺りに配備されている敵兵は、歩哨か或いは、前線から逃げ出した者ばかり。政府軍の兵に至っては、未だに此処より百歩も下で、乱戦に巻き込まれているのだ。

「進むかの、それとも戻るか。俺はどちらでも構わんぞ、わっぱ共よ」

「おじいちゃん、もう少し待ってください。もうちょっとで半分終わるんですから」

「死んでるぞ、十分だろう。自分まで薄っぺらになりたいなら、好きなだけ残ってもいいんじゃね?」

 八島が窘めるも、離堂丸は目を丸く見開いてそちらを見るばかり。また直ぐ、視線を敵兵に戻し、削る作業を継続した。

「……やれやれ。大男に爺さん、キチガイ女。それに少女と怖いねーちゃんと、後は俺だけかぁ? どーすんのよ、これじゃ小屋も落とせねーぞ」

「そりゃあ城攻め用の部隊じゃないからねぇ。私達は野戦組、城攻めは政府に任せればいい――が、その野戦もどうしたもんか」

 左馬は周囲を見渡す。ここは登山道からやや外れた山の一角。敵は居ない――居ない所へ進んだのだから当然だ。
 だが、敵が居る所へ攻め込むならば――数百人単位が、先の様な罠を仕掛けて待つ中へ進む事になる。手が足りないのは明らかだ。

「……合流するなら北じゃろ。南は少し道が良いが、それだけ伏兵も置ける。北側の荒れ具合ならば、敵さんの監視の目も届くまいて」

「じーさん、この山は詳しいのか?」

「年寄りは何でも詳しいもんじゃい」

「……成程なあ」

 貫禄たっぷりの老人の言葉に、八島は深く頷いた。
 実際の所、老人の助言が無くとも、その手しかないと、八島は考えていた。彼は狙撃手、戦闘に地形が深く関わる以上、戦の前に地図は幾度も目を通す。記憶の通り、確かに山の北側は、ろくな道も無い所だった筈だ。

「何でもいい、最初に本丸に――」

「薊さん。お寺、お寺」

「――本堂に、俺が斬り込めりゃあこっちのもんだ! 北だな、行くぞ!」

 八島の些細な訂正は素直に受けて、薊は真っ先に北へと向かう。
 他の五名も――そも村雨は、左馬の意向に従う他は無いのだが――異論を唱えないのは、ここから攻めるのが無謀だと感じていたからだ。
 一騎当千――猛者を称える言葉の一つ。彼等は、この言葉が大袈裟な例えでしかないと、己が恐怖を以て悟った。
 誰も皆、一人で行動したいとは思えなかったのだ。








 葛桐は、本陣に居た。
 当初の希望を押し通し、比叡山西側に敷かれた本陣で、狭霧兵部の護衛を務めていた。

「……おい、おっさん。どういうつもりだ」

「なんだ、無礼な野良――あー、野良……なんだ、〝野良何か〟」

 が――想定した光景と、今見ている物が違い過ぎた。

「前線、総崩れじゃあねえのか? 相手は町人崩れの雑兵、って話だったが」

「そうだなぁ、役に立たん連中だ。音を聞くに、爆発で粉微塵に砕け散ったのだろうよ」

 狭霧兵部は呑気に、側近の膝を枕に転がりながら、葛桐の問いかけに応じた。
 既にこの男は、数十の斥候を用いて、前線で何が起こっていたかを十分に理解している。埋め火と火薬丸太で約二百の兵が死に、煙幕に隠されての奇襲で更に百人以上が死に。今この瞬間も、石段の途中で兵士達は、比叡山側の兵を食い止めている。
 だが――地形の高低差に士気の多寡。政府軍の前線部隊は押されている――いや、押し切られようとしている。

「おっさん。此処に集めた兵はどれだけだ」

「二千五百。恐らく三割は死んだだろうな。これが平地の野戦なら、とうに遁走している所だろうよ」

 三割と、兵部はこともなげに言った。葛桐はそれを頭の中で、七百五十という数字に直した。
 死体は見ておらずとも、死臭は山ほど嗅ぎ付けた。だが――実感は未だに湧かない。日常から外れすぎた数字だからだ。

「……おい、どうすんだ?」

「どうもせん。どだい正面から攻め込もうなど、勝ち目が無いのは分かっていただろうに。前線を選ぶとは酔狂な馬鹿どもだなぁ。
 然し流石は俺の娘。最低限の基礎だけはおろそかにしていない……飛角金銀全て落としては、やはり勝ち目が無いな」

 狭霧兵部もまた、己が一晩で生んだ損害を、まるで重要事と思っていないようだった。
 兵員の無為の損耗を、良しとする指揮官が居る筈も無いが――この男は、七百五十の兵を死なせ、顔色一つも変えていない。そればかりか――心地良さそうに、笑みさえ浮かべているのだ。

「このままじゃあ、負けるんじゃねえのか?」

「そうだなぁ、前衛は負けたな。ほれ見ろ、ばらばらと逃げて来ている。次は督戦隊を用意せねばならんかなぁ……。
 まあ良い。無学なお前に教えてやるが、向こうの手は下策だ。戦が今宵だけ、それも一刻足らずで終わるならば良かったが――」

 欠伸と共に兵部は立ち上がり、己の後方に居並ぶ兵――狭霧兵部自身の、真の精兵達に目を向けた。

「――鬼殿よ、ご用意は」

「白槍隊、候補生も含めて二百。拙者を先頭とし、錐の如く駆け抜けましょうぞ」

 波之大江 三鬼を筆頭とした、皇都守護の最精兵。野戦も攻城戦も、恐らくは防衛戦も、戦をするならば日の本で最強であろう部隊だ。彼等は皆、戦の音に緊張しながらも、決して怯えては居なかった。

「上々。ならばその中から、一人だけ俺に貸して頂きたい。宜しいか」

「無論の事、ご令嬢はお返し致す。戦地で死なせては、拙者も奥方に顔向けが――」

 人の腹を揺らすがごとき重低音。三鬼の声を、兵部は大鋸を突き付けて遮った。

「〝亡き〟妻だ、良いな?」

「……承知。失礼致した」

 巨躯の腰を直角に折り曲げて、三鬼は己の失言を詫びる。そうしたとて、まだ兵部より頭の位置が高いのは、鬼の体躯のなせる業であった。

「鬼殿よ、貴公は勘違いをしているぞ。確かに借り受けるのは蒼空そうくうだが――おれはあいつに、『錆釘』の精兵を追わせる気でいるのだ」

「……なんと。真に御座るか?」

「おうよ、当然の事。何もこちらで雑兵相手に、あれを縮こまらせる事も有るまいに、なぁ?
 足跡の追い方程度は身に付けさせた、あれ一人で北側は十分。東と南は十分な兵を置いた――ここの雑魚とは違い、練度も装備も十分なものをな。押し切れはせんだろうが、山の半ばまでは進むだろうさ」

 それに、と言葉を付け加え、狭霧兵部は歩き始めた。のんびりと散歩に出るような風情で――登山道の石段に足を掛けた。

「兵部殿、何をなさる」

「小隊責任者を斬首しに行く、あまりにも役に立たん。『錆釘』の役立たず共は、俺の後ろで俺を護衛しろ。遅れた者も斬首刑だ――特別に朽ち刃の斧でな。
 では行こう俺の下僕共。進軍、進軍、血の池地獄を進軍だ。きっと心がときめくぞ、素晴らしい死が待っている」

 大鋸を携えた兵部は、石段を駆け下りる自軍兵士に近づき――撫でるように、その首を切り落とした。

「……まだ前線の方がマシじゃねえか……!」

 先へ先へ進んでいく大将を追って、葛桐も止むを得ず走った。可能な限り戦うまいとしていたが、荒事は不得手では無いのだ。
 だが――誰が好き好んで、死の海に飛び込むのだろうか。楽な仕事と踏んでいただけ、葛桐の苛立ちは強かった。

「道を開けろ雑魚共、俺が通るぞ! ……ふむ、全滅する程度の少数にしておけば良かったか」

「進め、進めい! 兵部殿に遅れを取っては、我ら白槍隊の名折れぞ! 進めい!」

 比叡山側の進撃は、斜面を駆け下りる勢いも加わって苛烈なものであり、既に政府軍の陣形は崩れ去っていた。そこへ――先に居た兵を払い散らして、狭霧兵部以下、二百名弱が躍り出た。
 その攻勢は――例えるならば、大鉈で草を刈り取るが如き有様であった。
 比叡山軍の最前列と、白槍隊の最前列が衝突し――次の瞬間、比叡山側の二割以上が、地に倒れ伏す。そうして崩れた所へ、楔を打ち込むかのように、白槍隊は先へ先へと進んでいくのだ。
 乱戦であるが為、火薬も矢もおいそれとは使えない。白兵戦で全てを決めるとなれば、職業兵士に、町人が叶う筈は無い。
 中でも恐るべきは、やはり狭霧兵部の鋸捌きと、三鬼の大鉞であった。
 まるで歩を緩めず、一歩進むごとに一人を切り倒す兵部。ただ一度得物を振るえば、数人を纏めて肉塊に帰す三鬼。この二人の修羅振りだけで、比叡山側の兵には怯えが浮かび――そこを突かれ、死んでいく。

「こりゃあ、洒落にならねえな……がああぁっ!」

 葛桐は、己から敵を仕留めようとはしない。突きかかってきた男を捕まえ、その喉を食い千切って投げ捨てながら、先を行く兵部の背を見ていた。
 最初からこうしていれば――きっと、死ぬ兵士は何割も減らせたのだろう。それを分からぬ無能ではあるまい。
 だが、先に弱兵を進ませ、無為に死なせた事で、精鋭たる白槍隊は、主たる戦力を大きく失う事なく進軍出来た。
 敵の中で、兵部に背を向ける者が増え始めた。無防備な背中に、白槍隊の攻性魔術――主たる属性は、これまた火である――が吸い込まれ、哀れな身を燃やして行く。

「よう、野良何か。お前は随分と無精なようだが、どうだ、この祭りは?」

「……最ッ低だ」

「そうかそうか、それは良い。追え、逃がすな!」

 ほんの僅かの間に覆った戦況――とはいえ、これも所詮は、広い戦場の一角に過ぎない。勝利をより盤石なものとする為、狭霧兵部は更なる進軍の指令を出した。

「赤いなあ、空が赤い。素晴らしい夜だ、酒が飲みたいな」

 火を好むのは、狭霧兵部と――比叡山側指揮官との、共通した性質であるらしい。西も東も南も北も、空は悉く燃えていた。








 薊を先頭として、『錆釘』の前線組――の内、合流できた六人は、山肌を伝って北を目指していた。
 成程、酷い道程だ。箇所によっては数間もある崖を、岩に指を引っ掛けて上らねばならない。常人ならば進む事さえ出来ぬ――だが、彼等の前では平地も同様である。

「村雨、伏兵は居るかい?」

「……分かりません、鼻が麻痺して」

「お前は肝心な時に……はぁ」

 進行方向から争いの音が聞こえるようになった頃、左馬は村雨に訊ねる。村雨は僅かに鼻をひくつかせ、直ぐに首を振った。血と火薬の臭いで、村雨の鼻はろくに働いていないのだ。

「仕方ねーさ、風も悪い。腹が立つことに無風だぜ……どーすっかねえ、無警戒で突っ込む? 勿論あんた達だけで」

 八島が冗談めかした口調で混ぜ返す。言葉が上っ面のものだけだというのは、まるで笑いもしない口元と、常に左右に動き続ける目が語っている。

「こういう時こそ男が前に立つべきじゃないかい? か弱い女に酷い事を言うね」

「俺は狙撃手、盾が無いと先に進めねーの」

 そりゃそうだ、と左馬は素直に納得し、近くの木の枝に飛び乗った。
 視点を高くして目を細めても、肝心の戦場の様子は伺いにくい。やはり月の無い夜、加えて木々の生い茂る山。夜目が利こうとも限度は有るのだ。

「眺めはどうです? 人死には良く見えますか?」

「下よりは見えるが、見たければ近くまで行く事を進めようか」

 離堂丸は必死に背伸びをして、行われている殺し合いを愉しもうとしている。左馬の言葉を聞くと、かくりと一つ頷いて、早速とばかり歩き出した。

「ん? お、おいおい待て待て、待てってんでぃ。先陣は俺だ、一人で何処へ」

「ちょっとあそこの殺し合いに混ざりに。早くしないと終わってしまいますよ?」

「終わるんならいーんじゃねえの? 楽に金だけ貰えて」

 いいえ、と離堂丸は首を振り、真新しい傷のある手で、まだ良く見えぬ戦場を指さした。

「……おぅ、傷はどうした。血も止めやしねえで、危ねえじゃねえか」

「ちょっと槍が掠めました……それはどうでも良いんです。問題なのは、あそこから逃げ出しているのが、殆ど政府軍の兵士だという事なんです」

 六人の内、浮世から離れた離堂丸を除き五人が、一斉に顔を強張らせる。

「……良く見えるね、村雨でも無理な距離と暗さだ」

「まあ、私も魔術師の端くれですから。……殆どの兵士が、山を下っている。山を登って逃げる者は居ない……不思議ですね。ここの敵の腕は、西側に待機してた者達より優秀です、武器も良い」

 合流すべき味方が総崩れでは――ここに留まるのは、危険ではないか。息を整えながら、五人は無言で視線を交わす。
 奇妙な事は、最も進軍しやすいだろう西側の兵より、進軍に向かぬ北側にこそ精兵が配置されている点だ。如何なる采配かは分からねども、先程より厄介な敵の中に飛び込むのに、味方が弱兵となっては――

「いっそ、大将首を狙うかの?」

 老人が突然、散歩に誘うかの口調で言った。薊と離堂丸は目を輝かせ、村雨と八島は何を言うかとばかりに目をひんむく。左馬は木から降りて、手足を曲げ伸ばしながら、どちらかと言えば薊達に近い顔を見せていた。

「おじいちゃんに賛成です。少数の利を押しましょうよ」

「無論、俺が先頭でだ。柵だの堀だの、俺達にゃあ何でもない。どうせ寺だぜ、奥まで入りゃあこっちのもんよ」

 先へ進みたがる二人は、早くも得物を構え、今この瞬間にも交戦を始められそうな様相である。

「いやいやいや、危ないっしょ。俺達は鬼じゃないのよ、流石に死ぬっての」

「……私も、味方がこれだけで進むのは遠慮したいかなーって……ねえ、師匠?」

 一方で、これ以上の無茶を厭う二人は、味方が居る方角に目を向けていた。どうにか他と合流するか、叶わぬならいっそ敗走してしまおうさえ思う――自分の命こそ、至宝なのである。

「………………」

 ただ一人、左馬だけは結論を急がなかった。腕を組み、暫し思案に耽り、

「……良いんじゃないか? 今となっては良案だろう」

 穏健派である村雨の肩を叩き――言外の拒否を許さぬと意を示しながら言った。

「おいおいおいおいおい、まともなのは俺だけかよ? いや、死ぬって、死ぬっつーの! せめて東側にでも合流するか――」

「生き延びるだけなら、確かに退くのが良策だろうね。この人数ならそう気取られない、逃げ足だって十分に有る……が、今夜で終わる戦でも無いだろう?」

 ぐいと親指だけで示すのは、自分達の後方の空。松明と火薬と魔術の火で、空は赤々と燃えている。

「今夜の内に指揮系統を潰せたら、後は私達が出るまでも無い。今夜、然したる成果を上げられなかったら、次の朔にも私達は駆り出されるだろう……私は構わないけれどね。
 今宵から次の朔までは一月。その間に向こうが、どれ程の防備を整えられるか……誰か、正確に分かるかい?」

 当然だが、誰も答えられない。
 完全に包囲された山の中で、どの程度の軍備を整えられるか――ここが比叡山でなければ、皆がそう断言できよう。
 だが、此処は日本仏教の一大拠点。長きに渡って蓄えられた武器・弾薬・資材はどれ程になるだろうか。時間を開ければ開ける程、陥落は難しくなるかも知れず――

「……うむ、決まりじゃあ。ならば行くぞ、わっぱども。真っ直ぐ斜面を上がれば、何れ森も開けるわい」

「おうよっ! ……こらまて爺さん、先頭は俺だって言ってんでい!」

「あらあら、お爺ちゃんも童貞の人も元気ですねぇ。腰を痛めないでくださいよ」

 三者三様、意気揚々――薊のみ一抹の悲哀も混ぜて――山の斜面を、音も無く駆け上がる三人。その背を、村雨と八島が、そして進軍を提案した筈の左馬が、暫し見送る。

「……怖いねーちゃん、あんたは行かねーの?」

「行くさ。だが、何か頭に引っ掛かっててね……なんだと思う?」

 横目で視線を向けられて、村雨は首を傾げる。左馬の抱いた懸念が、まるで見当が付かないのだ。

「さーあな、あんたの頭の中の事は分からんよ。ただ……」

「ただ?」

「俺は正直、広い所に出るのは勘弁して欲しいんだがねぇ……はーあ」

 溜息を吐き、肩を落とす八島。怠け癖の奉公人のような事を言うが――細い目に宿るのは、決して弱い光では無い。

「大体さぁ、おかしーと思うんだよねぇ。今日び戦争なんて、誰が好き好んで近づいて斬り合い刺し合いするってーの。海の向こうじゃドンパチ鉄砲で撃ち合って、バンバン火の玉だ雷だって、魔術ぶつけ合うのが主流だぜ?
 そういう戦争する時は、まずは身を隠す所を確保した上で、十分な数を使ってじわじわ押し込むのが常套手段だと思うのよ、俺」

「妥当だろう。この国では採用されていないが」

「それよそれ、採用してねーのがおかしいんだってーの」

 愚痴は多大に零しながらも、八島は先を行く三人を追う。左馬と村雨も、それに追随した。
 軽快に馳せながら、八島の声は蚊の羽音のように小さくなる。それでも、村雨の耳であれば、十分すぎる程に聞き取れた。

「こっちの大将はアレだもの、そりゃ戦術の杜撰も頷ける。だがさー、向こうさんは命がけの筈だろうよ? それがあんな素人崩れの、当たらない矢しか打てない連中を、古風な大盾の後ろに控えさせてさぁ……。あんまりチョロ過ぎて、逆に俺様の脳裏には、酷い未来予想が立っている訳よ」

 悲観的な予測――だが、理が無いとは言えない推理。
 比叡山側の兵士達に、ここから逃げる先など無い。負ければ蹂躙され――恐らくは、命まで奪われる。最悪を極めた結末が待っているのだ。
 此処へ来て、何を惜しむ事が有るのか。だのに、先に遭遇した敵兵は、明らかに戦術を考慮しない集団だった。

「……ああ。あれは釣り餌だ。埋火や油壺を効率的に使う為に、〝捨て兵〟として置かれたに過ぎない。私らはまだ、向こうの真っ当な連中と交戦していない」

「そーゆー事。やんなっちゃうねぇ、あいつらクソ足はえーわ……って、おい」

 遠くなった背を追い、気付けば少し先には、木々の列の終わりが見えた。その向こうには赤々と松明の火――きっと敵陣営だろう。

「お喋りの止め時かい?」

「ちっくしょ、舌を止めると心臓まで止まりそうでやーなのよー」

 今更、音で察知されるなどは懸念していないが、衝撃で舌を噛むのは避けたい。八島と左馬は、奥歯がぎぃと悲鳴を上げる程に歯を食いしばった。
 斜面を駆け上がり、木々の列から抜け出して、開けた空間へ。戦に先立ち提供された地図を信じれば、そこから暫くは遮蔽物も無い空間で、その先にまた森が有る筈だった。
 そうならなかったのは――思えば、不可思議でも何でもない。数十年前ならばいざ知らず、魔術が普及した現代に於いて、千以上の人手を用いれば、実現不能とは言えまい、が――
 村雨達の前方、おおよそ五十間先。十丈を超える城壁が、ずうとそびえ立っていた。








「……嘘だと言ってくれよ、お-い」

「ウソもシジュウカラも居やしない。残念ながら現実だよ、これは」

 八島の泣き言を、窘める左馬さえ、声に力が無かった。
 眼前に連なるのは、高さ十丈を超える堅牢な城壁。石を積み上げて造ったか――それにしては継ぎ目も見えない。
 生半の砲撃では傷もつかぬだろう堅壁が、視界を右から左に横切っているのだ。
 城門と思しき箇所には、人が並んで十人は通れそうな扉が備わっている。こちらもまた、攻城戦を想定してか、鋼を存分に用いて造られていると見えた。

「……こりゃあ、俺もちょいと考えてなかったぞう。どっから登れってんだ」

 数間前方では、先に行った筈の薊が立ち止まって、首を傾け城壁を見上げている。
 この城壁を見て、退こうという考えが浮かばないのは、やはり功を急ぐ思考が故だろうが――然しこればかりは、攻め手の一つも見つからない。

「大陸の城に良く似てるね。巨大な城壁を連ねて、居住区域を丸ごと囲んでしまう。必然、住民全てを兵士に出来るし、住民全てを守れるって訳だ」

「あんたは向こうに行ってたんだっけ? 経験者さんに聞きたいけどよ、それじゃあどーすりゃ良いのよ俺達」

 火縄のうち二丁を城壁に向け、八島は瞼を絞り、見えぬ敵に狙いを付ける。そうしながら問うのは、攻城の策というよりも、此処からの行動方針である。
 現在の位置から見える城壁の高さ、角度、加えて頭に叩き込んだ地形図を鑑みるに――恐らくこの城壁は、集落一つを囲むだけの広さを持っているだろう。つまり、城壁の無い場所まで歩くというのは、非現実的な案となる。
 かと言って、飛び越える乗り越えるというのは、飛翔を得手とするものならば可能だろうが、卓越した術者はそう居ない。単身で城内に乗り込めば、矢の雨で剣山が関の山だ。

「どうするにもこうするにも、味方を待つ他は無いだろう。多勢に無勢にも程がある。……村雨、友軍の臭いは?」

「えーと……ん、近くには……すいません、分かりません」

 村雨の鼻には、戦場の変化が感じ取れない。
 四方八方に人間と鉄の臭い、敵味方の区別が付かないのも無理は無い。
 〝自分達〟と〝それ以外〟の種族の争いならば良い。同種間の、大規模な殺し合いは、野生が好むものではないのだ。人間同士の闘争で、彼我の区別を付けられる程には、村雨はまだ人間に馴染んでいなかった。

「してどうする、わっぱどもよ。此処ならあれらの矢は届かんが、俺らの刀も届かんぞ」

 遠い城壁を指さして、老人は緊張感の無い口調で言う。言葉とは裏腹、さして困りもしていない風情である。
 誰も答えは返さないが、取るべき手は決まっていた――待つか、退くかだ。
 敵が出撃してくるか、自分達の味方が追い付くかを待つ。或いは後ろを向いて、真っ直ぐに山を駆け下りる。何れも能動的に攻め上がるものではなく――

「まどろっこしい! 俺が一っ走り、あの扉をぶち割れば良い。城内に踊り込みゃあ独り舞台よ!」

「あの扉を? ……貴方の図体なら出来るかも知れませんね、確かに」

 好戦的な二人は、それを良しとしなかった。
 城壁の上には、きっと弓兵も並んでいるだろう。後方の援護を期待できぬまま、飛び込んでいくのは自殺行為にも等しいが――薊と離堂丸の二人に、その様に冷静な判断は出来ない――しようとも考えない。各々獲物を構えたまま、固く閉ざされた城門へ近づいていく。
 五十間の夜の平地を、二人は真っ直ぐに走って行き――妨げには、終ぞ出会わない。あと三十歩という距離に迫った所で、城門は向こうから口を開けた。
 城内は煌々と松明が灯っているのか、昼と見紛う明るさだ。刀身や鎧が跳ね返す朱色を後光に、一人の少女が進み出た。

「あっ……!」

 村雨は、思わず声を上げる。懐かしいと言う程親しくは無かろうが、それでも久方振りに見た顔――礼を言わねばならぬ顔だった。
 あまり背は高くない。離堂丸より手の平一つ、薊と比べれば幼子にさえ見るような体躯で、線も細い。
 然し、眼光は強かった。左目の黒は夜に紛れるが――右目の紅は、紅玉よりも尚赤く、これから見るだろう血を、既に映しているかのようだった。

「……女首は、手柄としちゃ弱えんだよなぁ」

「ひとかどの首なら、男も女も関係ないでしょう。そこの人、お名前は?」

 眼前の二人は、自分を殺そうとしている。知らぬ訳ではなかろうが、そしらぬ顔で煙を吐いて、

狭霧さぎり 紅野こうや。喜べ、大将首だよ」

 長槍一振りをひゅうと鳴らして、何がおかしいのか、ふふと笑った。








 成程、大将と自ら言うだけはある。狭霧紅野は戦場ながら、見事な女伊達を見せていた。
 槍の柄は八尺、背丈より三尺近くも長い。そんなものを箸か何かの様に、重さも感じさせず振り回す。
 靴も脚絆も小袖まで、白一色の死に備え。重ねた羽織がただ一つ、派手に緋色に染められている。
 腰に吊るした煙管は、先程まで吹かしていたと見えて、煙が未だに漂ったまま。その煙より白い長髪は、頭の後ろで束ねられ、額を広くさらけ出させていた。

「大将首が女か……ちっ、安く見られちまわぁな」

 不満を口にしながら、薊は大刀を、高く大袈裟に身構えた。巨体の利を全て用いる攻撃的な型――手心を加えるつもりなど、まるで無いのだ。

「そうか? 値踏みするのは兵部卿だろう。あれは聡いよ、何せ私の親父だ」

 言葉で侮られようと、最上の礼は伝わったものらしい。紅野は槍の穂先を、薊の喉へ向けて構える。

「ならば」

「ああ、来なよ」

 互いに殺す価値有りと認めた――これよりは一対一の殺し合い。そう決めていた二人の間に滑り込み、離堂丸が紅野に斬りかかったのは、まさに一瞬の事であった。
 〝十連鎌〟――農耕用の鎌と金属の棒を、鎖の様に交互に繋いだ奇妙な武器。普段は輪にして運んでいるそれを、一本の鞭状に伸ばせば、射程は優に三間にも及ぶ。中程を受け止めても、残りが撓って回り込み切り付ける――厄介な凶器を、紅野は地に伏せて回避した。

「ふふ……ずるいですよぉ。二人だけ恋仲みたいに分かり合って、見せつけて……妬いちゃいます」

「おい、女は下がってろ。俺の手が――」

「向こうも、女でしょう。つり合いは取れますし、何よりも」

 空を切った鎌が戻ってくる。器用に左手で受け止めながら、離堂丸は背後の薊に、艶やかな流し目を向けた。

「あの髪、ざっくりと切りたいのです……駄目?」

「ぐ……っ、かぁっ!」

 何故やら、薊が吠えた。巨躯をひん曲げて狼狽する薊の顔は、面白い様に赤く茹で上がっている。
 妨げる者のいなくなったのを良しとして、離堂丸が跳ねる。足首を返すだけの僅かな動きで高々と跳躍――優に二間は跳ね上がっただろうか。その頂点から、十連鎌を振り下ろした。
 腕の動きに従って、連ねられた凶器は波を打つ。それは、巨大な蛇が鎌首をもたげるにも似た有様で――だが、届かない。
 紅野は槍の石突を地面に突き刺し、体を後方に突き飛ばす様にして大きく交代していた。三間の間合から丁度逃れて、髪一筋を切らせる程度の距離。紅野は瞬きもせず、凶器を振り回す狂人を観察していた。
着地に合わせて横薙ぎ、右から左。紅野の左脇腹目掛けて、草刈り鎌の刃が迫る。
槍の柄で受ければ、連なる残りの刃が回り込み、肉を抉る。体ごと避けねばならぬのは明白だが――紅野はこれを、敢えて体に当てさせた。

「あら……? 細かい悪戯をしますね」

「そりゃなぁ、〝そのまま〟で戦地には出られないよ」

ぎん、と音がして、鎌の刃は弾かれる。軽く棚引く緋色の羽織は、その実、鋼の鎧の如き防御を誇っていた。
 防がれた離堂丸も、然して意外そうな顔はしない。予想していた訳でもなかろうが、この程度で驚愕を見せないのは、彼女自身が魔術師であるからだ。
そう、手品の種はやはり魔術。羽織の布を瞬間的に変質、硬質化させ、鎌の刺突を防いだのだ。
 離堂丸が十連鎌を引き戻そうとする――鞭上の重量物は、手の動きに僅かに遅れて戻る。
それを見逃さず、紅野は一直線、離堂丸の懐へ飛び込んだ。
僅か一足にして三間の間合を詰める脚力もさる事ながら、眺める者の意表を突いたのは、長柄の武器を用いる彼女が、刀さえ翳せぬ距離に踏み入った事であった。

「ふふっ……真っ直ぐな手ですね」

「馬鹿正直とも言う、ってか?」

 当人同士には、全く意外など無かった。長大な武器を用いる離堂丸は、懐に潜り込もうとする敵など、それこそ何百と殺して来た。紅野とて、殺人狂が手招きしているのに気付かない程、のんきに生きてはいなかった。
 離堂丸の靴が、紅野の腹を蹴り上げる。爪先が鳩尾に届いたが、やはり金属的な音に防がれて無益に終わり――そう思う間も無く、爪先が爆ぜた。
 目を焼く灼光、耳をつんざく轟音。範囲を極限まで狭め、一寸足らずの空間に威力を集中させた魔力爆発。強化された羽織が皮膚を守ったが、紅野の体が浮かぶ。
 浮いた相手が地に着く前に、離堂丸は再び跳躍し、間合を広げた上で、今度こそ十連鎌を手元に引き戻す。それから、手元の鎖と先端の鎌をつなげ、十連鎌を円状の形態に切り替えた。

「あー、くそ痛……お。なんだ、逃げるのは諦めたか」

「……貴女の口振り、なんだか嫌いになって来ましたねぇ」

 離堂丸が武器の形状を切り替えたのは、接近戦が避けられないと悟ったから――つまりは、速度において紅野が己を上回ると認めたからである。図星を突かれて離堂丸は、目に見えて不機嫌な顔をした。
 先手を取る側が入れ替わる。紅野の長槍が唸りを上げて、離堂丸の心臓を狙った。
 切っ先が届く前に、刃の横っ腹を蹴り飛ばそうと、離堂丸の靴が迫る――槍の穂先は翻り、狙いを下腹部に変える。それを弾けば今度は、喉を目掛けて切っ先が突き出され、離堂丸は身を仰け反らせて避けた。

「ああ、苛立たしい、楽しい、楽しい……ふふっ」

 皮膚を風が撫で、思わず離堂丸は身震いする。躊躇わず急所から急所へ、絶えず狙いを変え続ける槍は、変幻自在を冠するに相応しい。気を抜けば体に風穴を開けられそうだ。
 然し、恐れるには足りない。ただの達人であれば、如何様にも欺き殺す手を、離堂丸は身に着けていた。
 金属棒と鎌の輪を、体の周りで激しく回転させながら、離堂丸は自ら攻め込む事を捨てた、後屈気味の構えを取る。回避行動の合間、ほんの刹那ばかり心臓を開けた防御を取り、そこを槍が狙うように仕向けた。
 瞬き一つで命を奪い合う攻防、その中に生まれた致命的な隙だ。紅野は見逃さず、そこへ槍を突きだし――

「……取った!」

 槍に絡み付く十連鎌。鎖が槍の穂先を包み込み、鎌の刃が鎖に引っ掛かり――結果、紅野の槍の先端は、芋虫が蛹でも作ったかのような有様に変わった。

「うお、っちゃあ……」

「いらっしゃいませ、此方へどうぞ……!」

 刺突武器が鈍器に化けた。これでも人は殺せるだろうが、殺傷能力は数段も落ちる。何よりも――手で掴めるようになる。離堂丸は槍の先端、鎖で覆われた部分を素手で引っ掴むと、思い切り自分の方へと引いた。
 身長の差故に、体重差も大きい。紅野はあっけなく引き寄せられ、離堂丸の両腕に強く抱きしめられる。

「おいおい、当世じゃ流行りはこういうのか? 黒八咫といい、あの狼といい、全く……」

「冗談の言い納めがそれも味気無い……『往ける者よ、彼岸に往ける者よ、菩提よ』」

 軽口を叩きながらも、紅野は渾身の力を込めて腕から抜け出そうとする。だが、離堂丸の腕はまるで緩まない。
 鋼の如き強度で喰い絞められた両腕は、捉えた敵を抱き殺そうとするかのように、愈々万力染みて閉ざされる。

「『捧ぐ。血肉の赤を受け取りたまえ――呪拝唱しゅはいしょう!』」

 離堂丸の詠唱が完了した瞬間、ゴキン、と鈍い音が響いた。何か、硬質の物体が砕け散ったかのような――
 つまりは、抱き潰されたのだ。女の細腕では到底適う筈も無い芸当であったが、戦場に如何なる不思議も無い。狭霧紅野の細い骨は、内臓ごと砕け散った――かに、見えた。

「ふっ、ふふふふふうふふふふふうふ……ああ、いい感しょ――くぉっ!?」

 紅野の右膝が、離堂丸の股間を強く蹴り上げた。薄い肉の上から骨盤を強打――女だろうが、痛い物は痛い。緩んだ腕から紅野は抜け出し、離堂丸の足を払った。
 破壊音を上げたのは、彼女の骨ではなく、硬化の術を掛けた羽織。中の紅野は、両腕を軽く突っ張って、離堂丸の腕を押し留めていた。

「ぅ、あ、が……ひぐ、うぅ、……ぅ」

「おーやだやだ、強姦魔はこれに限るなぁ――よいしょ」

 股を抑えて蹲った離堂丸を、足で押し倒し馬乗りになる。この体勢になってしまえば、勝負は決まったも同然だ。
 拳が三つ、顔では無く喉に落ちる。呼吸を阻害して動きを止め、決して抵抗できぬ様にした上で、腰から短刀を一つ引き抜く。逆手に構え、底に手を添え、心臓目掛け振り下ろし――

「ぬがああああアアアァッ!!」

 薊の大刀が突風を連れて、紅野の胴を両断せんと振るわれた。
 紅野は猫のように身を捻って、大刀の下を潜りぬける。離堂丸の体から転げ降りると、十連鎌を蹴り飛ばし、槍だけを拾い直した。

「ちっ、一騎打ちに横槍――いやさ横刀とは。つまらない男だな、名前は?」

 両手で槍を持ち、半身に。完全に正道の構えを見せる紅野。

「俺は薊、〝首飾り〟の薊! うつけだろうが武士ならば、聞いた名前の筈だろう!」

 離堂丸を拾って、味方の方へぽいと放り投げ。薊は地を揺らす程、太い声で吠えた。








 一騎打ちは戦場の華――されどその間、全てが静止している訳ではない。

「師匠、どうしましょうか……とと、と」

 薊に投げ寄越された離堂丸――未だに苦痛で動けない彼女を横たえながら、村雨は師に行動方針を問うた。

「さあて、ね。逃げるべきか、留まるべきか……お前の鼻はどう言っている?」

「……まだ、なんにも」

「そうか、では留まろう」

 豪傑二人の一騎打ちを遠目に見ながら、自分達が取るべき行動を探る。大量の人間と金属の臭いは、近づいてきているのは確かだが、それがどちらの味方かは未だに判断が付かない。
 近づいているのが味方ならば、流れに便乗して攻め上れば良い。敵であるなら、早々にこの場から逃れるべきだ。左馬の考えは単純で、可能と判断すれば即座に実行できる程度のものだった。
 然し左馬は、分からぬならば分からぬままで良いと、一騎打ちから視線を外さずに言うのだ。

「見ておけ、村雨。ああいう殺し合いもあるんだ……ああ、そそるなぁ」

 照明は星明りと、遥か城壁の上に設置された松明ばかり。常人の目に映すには、光源が不足した戦いだ。だとしても、人外たる村雨の目は、薊の大刀の軌跡を、紅野の槍の穂の白銀を、確と捕捉している。
 薊の技は、巨体の利を最大限に生かしたもの。大上段から振り下ろし、振り上げる――単調とも取れる。ただ受けようとするだけならば、目を瞑っていても軌道に槍の柄を割り込ませられるだろう。
 だが、紅野はそうしない。体ごと全て、大刀の軌道から逃れさせる。そうせねば槍ごと自分の体を、真っ二つに叩き割られると知っているからだ。
 誰にも受けられぬ怪力で、尋常ならざる切れ味の武器を、並みの兵士の数倍の剣速で振るう。もはやそこに些細な技など必要は無い。体力は無尽蔵、疲労で倒れるのは必ず、必殺の剣撃から逃げ惑う敵。これが薊の、必勝の手立てであった。

「どうした大将首、命が惜しいか!」

「当たり前だろ、煙管が吹かせなくなる……はっ!」

 対する紅野は、槍の射程のぎりぎりから、踏込と同時の突きを繰り返す。
 狙いは正確無比に急所から急所。離堂丸を相手にしていた時より尚も速度は上がり、ひゅおうひゅおうと風が鳴く程である。
 然し薊は、獣の如き反射神経だけでそれを避け、或いは鎧の端に掠めさせながら、自分が一方的に攻勢を続けるのだ。

「……凄いですね」

「腹立たしいが、確かに。ああいう奴は居るものだ、お前の連れも似たようなものだろう」

 剣術には疎い村雨だが、薊の凄絶さには見覚えが有った。
 化け物じみた身体能力に任せ、他者の技術を捻じ伏せる様は、桜の剣術にも似ている。違う所は、桜は持てる技術を敢えて用いず、薊はそもそも技術を必要としていない点だ。

「どんな世界にも、何人かああいう奴が出る。体格も、力も、目も、生まれつき良いものを持って居る奴が。あの隆々たる双肩を維持する為の訓練なんて、きっと薊には必要が無いんだよ」

 ついに、紅野が捕まった。
 真っ直ぐ振り下ろされた片刃の大刀。横へ避け、心臓を狙って踏み出した紅野の右側頭部を、大刀の峰が狙った。渾身の踏込を上回る暴風の剣――防がんと翳した槍の柄が、飴細工の如く砕け散った。

「っふ、はっはぁーぁあ!」

「うおっ……! かぁ、また折れたか……」

 八尺の槍は半ばから圧し折れ、破片も散って、紅野の手に残ったのは三尺少々の短槍。数歩飛び退りつつ継戦の意思を見せる紅野だが、もはや勝敗は明らか――後は結果を為すだけであった。

「終わったな。見るんだ村雨、これからあの女が首を取られる」

「っ、!? ……は、はい」

 この夜だけで、人が死ぬのは幾つも見た筈の村雨だが――仮に麻痺していたとしたら、それは見てきた死が、〝どこかの誰か〟のものだった事に尽きる。
 恐怖に涙しようが震えようが、所詮はここまで見た死人は、全てが赤の他人。同情など瞬き程の時間で忘れる。
 対して、これから死ぬ筈の少女は――桜と村雨を助けた、数日とはいえ深い恩の有る相手だ。看過できる筈が無い。村雨の本心は、止めさせたいと叫んでいる。
 だが――それが許されない理屈など理解している。ここは戦場で、狭霧紅野は敵だ。味方が敵を殺すのを邪魔する――それは単なる裏切りに過ぎない。そんな事をするなら、最初から戦列に立たねば良いのだ。

「……良いんだね?」

「私は……、私は、逃げませんでしたから……!」

 逃げる時間を与えられた。それでも留まったのは自分の意思だ。誰に文句を言う事も出来ない。歯をガチガチと鳴らしながらも、丸い目を更に見開いて見届けようとして――すうと歩いて行く、老人の姿を目に止めた。
 老人――名前を聞いていなかったと、村雨は思い出す。呼び止めようとしたのだ。だが叶わず、彼はすうと滑るように夜の戦場を歩いて――いや、歩くかの如く静かに馳せている。
 老境とは思えぬ健脚。刀一振りで戦地に立ち、戦う姿を見てはいたが、やはり彼も達人であろう。感心してしまったのは、本当に束の間の事であった。
 左馬が老人を追う。二歩も行くより早く、老人は抜刀し、薊の左腕を切り落とし――

「お――お、ぉ?」

 何が起こったか分からぬまま、薊は大刀を取り落とす。次の刹那、紅野は折れた槍を投擲し、薊の胸を貫いた。
 巨体がゆっくりと傾いて――己の鮮血に、薊は顔を沈めた。








 背後から傷を受けて死ぬなど、戦場では珍しい事でも無い。古来より前例は腐る程有るだろうし、この夜も何百の兵が、逃げ傷で死んだ筈だ。
 だが、一騎打ちの最中、背後から切り付けられた者は――決して、多いとは言えないのではないか。

「老人、ふざけが過ぎるぞ!」

 左馬が嚇怒する。八尺の鉄杖を振りかざし、薊の腕を切った老人の、頭蓋目掛けて打ちかかった。
 今更、老人が味方だなどとのんびりした考えはしない。口にした言葉も、それこそ戯れのようなものでしかない。確実に打ち殺すと誓った一打に――老人は背を向けて、全力で走って逃げた。

「待て!」

「三十六計逃げるに如かぁず! お前達も逃げた方が良いぞ、若い衆!」

 逃げ足の速い事と言ったら、野鼠か兎以上。老人が向かう先は、固く閉ざされた城門だ。
 城壁には弓や鉄砲、或いは大砲まで備えられているやも知れないというのに、老人を狙う飛礫一つ無い。城壁の上に立つ兵士達は、短期間ながら良く訓練された者であるらしかった。
 左馬はその背を追えなかった。老人と自分とを繋ぐ直線状に、狭霧紅野が入り込んだからだ。

「皺首なんか欲しいのか? それより私と一戦、どうだよ?」

「……疲れ知らずだね、見事、見事」

 一人を退け、一人は手助けを受けながらだが仕留め。一騎打ちを三戦連続始めようとしながら、紅野の息は上がっていない。左馬も思わず称賛する程だ。
 然し、槍は圧し折れて投げ捨て、見る限りでは他の得物も持たない紅野は、どうして戦うつもりなのか――答えは見て直ぐに分かるだろう。

「足運びで見えるよ。これ、あんたの流儀だろう?」

 左手の拳を鳩尾の前に、右手の拳を顎の下に。徒手格闘を誘う相手に、左馬は頬をぐにゃりと曲げた。

「上等。だが、下策だ」

 怒りと笑みの入り混じる顔。酔狂な敵を得た悦びと、格闘で己に勝てると過信する愚者への苛立ち。双方を織り交ぜ、左馬もまた、重心を高く置いた構えを作る。
 ざ、ざ、と一定間隔で土を蹴り、体を上下に揺らす。日の本の武術にはあまり見られない、鎧を考慮しない動の型。今にも踏み込まんというその時――

「師匠、集まって来てます! ……敵です!」

 村雨が叫んだ。胸を貫かれた薊を助け起こしながら、その声は寧ろ、自分が助けられたいと懇願するようでもある。

「何故分かる!?」

「もう見えてます! 後ろに!」

 城の明るさと対照的な、朔の夜の暗さ。常人の目では見得ずとも、人外の目は、後方に迫る兵士の姿をようやっと捉えた。
 まず見えたのは、間違いなく友軍。政府軍の旗を掲げ、揃いの兵装に身を包む。数は恐らく――数十という所だろうか。
 だが、彼等は必死で逃げている。恐怖に歪む顔、幾人かは武器を投げ捨てたのか徒手空拳。追われてここまで来たのだろうが――明らかに、敵の土俵に追い込まれただけだ。
 その後方、自分達が抜けてきた森に、幾つか見える槍、刀。それを持つ彼等は、とても政府軍が身に着けているような、揃いの立派な兵装では無かった。
 眼光は強い。勝ちに乗るのだから当然ともいえるだろうが――それ以上に、餓えた獣の目をしている。彼等は勝たねば先が無く、ただの一度も負けは許されない、背水の陣の覚悟を決めていた。
 恐らく比叡山側は、敵の攻勢が緩やかだろう北側に、最大の戦力を用意していた。山の地形を利用し、或る程度まで侵攻した所で、周囲から取り囲めるような配置に。至って単純な伏兵策だが、兵力で押し潰す事だけを前提にしていた政府軍には、きっと有効だったのだろう。
 飽く迄、推測でしかない。だが事実、ここに辿り着いた友軍は数十――大して敵方の兵士は、ざっと見てその十倍は居るのだ。

「……これは」

 村雨に告げられても、ただの人間である左馬には、まだその姿は見えていない。だが、一つ一つの呼吸音が束ねられた騒音は、次第に耳を浸す様になり――

「まずいかも、な」

 ぐおうと地面を揺らし、ときの声が鳴った。








 村雨は軽度の混乱状態にあった。
 裏切りが当然だと割り切れる程、経験は多くないし冷静でもない。数百の敵意に晒された事も無いのだ。
 まず何をすべきか――分からない。手に余る事態が多すぎる。
 遮蔽物の無い平地。背後には十丈の城壁、前方には敵兵の群れ。逃げなければならないが、唯一の逃げ道は前方だ。
 白旗を掲げるか? きっと受け入れられまい。降る兵を飼う余裕は無いだろうし、そもそも乱戦の中で降伏を申し出て、誰が冷静に受諾するのだろう。

「……師匠、どうしたらいいんですか!?」

 左馬は紅野に殴りかかっている、助言は何も得られない。村雨はこの急場を、自分で判断しなければならなかった。
 薊の巨体は大地に横たわったまま、胸から血を流し続けている。身を捩って心臓への直撃は避けたらしいが、それでも胸に空いた穴には、未だに圧し折れた槍が突き刺さっている。
 もう一人、痛打を受けて動けない者――離堂丸もいる。二人抱えて走る事は出来ない、どちらか一人は、村雨以外の誰かに任せねばならない。
 その誰か、とは……? 左馬は紅野と戦っていて、八島は既に逃げ去っている。何処にもいないのだ。
 あてどなく逃げ惑う友軍が、背後からの矢に刈り取られていく。遠くの事で現実味も無い。村雨は今、眼前の危機だけに意識を向けていた。

「おい、チビよ……あれは、知り合いか……?」

「――っ! 薊さん、まだ……!」

 生きてたのかと、村雨は問おうとした。時間の問題だと気付いて、結局は口をつぐむ。瀕死の薊は、虫の羽音の如き声で、だが一声一声を強く吐き出しながら、紅野の姿を指さした。

「……あれが見えた時、お前……知った様な顔をしたな、確か……なら、丁度良いい」

「丁度良いって何が――いや、喋らないで、血が余計に……!」

 言葉を発すれば、薊の喉から血の泡が噴き出す。喋らせずとも死ぬだろうが、口を閉ざせば、死は僅かでも遠ざかる筈だ。

「煩え、お前が黙れ……黙って、っぐ……、聞け」

 然し、薊は己の延命を考えず、焦点が合わぬ目を村雨に向けた。

「大将ってのは、味方の前じゃ……立派でなきゃ、なんねぇ……分かるか? 残酷か、寛容か……どっちかで、なきゃぁ……だから」

 途切れ途切れに吐き出される音に、村雨はしがみ付くように耳を傾ける。何でもいいから助かる道が欲しかった。

「だから、降れ……あれに、直接、掛け合って……そうすりゃ、五分五分だ……」

 それでも尚、提示されたのは博打のような案。勝てば裏切り者、しくじれば死人――どちらに転んでも悲劇だ。
 どうしたら良い――? 答えは誰も授けてくれない。薊の体温は下がり続け、腕に伝わる鼓動も弱まっている。

「でも、え……?」

 過去に一度、助けられている。手土産を持って下れば――怪我人一人は捕虜扱いにして、左馬も説き伏せれば――確かに、迎え入れられる公算は高い。
 何よりも、他に逃げる道が無い。
 逃げ込んできた友軍は何時の間にか、一人も残さず刈り取られていた。数百の敵兵の包囲網を、真っ直ぐに突き破るなど――

「……師匠……師匠!」

「何だ!?」

 徒手格闘による一騎打ち――もはや近代戦と真逆の戦いは、やはり左馬が優位。然し押し切れず、振るう拳に浮かぶ苛立ちを、声にも載せて左馬は答えた。

「降伏しましょう!」

「……はぁ!?」

 村雨は――諦めた。
 弟子の言葉に耳を疑って、左馬は足を止める。紅野はさも当然という顔で、その様子を手も出さずに眺めた。

「もう、もう無理ですってば! これじゃ逃げられない、殺されちゃう、だったら――」

「こいつの首を取り、士気の落ちた敵中を突破する、それだけだ! お前は荷物を担げ、無駄口叩くな!」

「だって、だって――あの数の兵士を! どうやって!?」

 半分は泣き喚く様に、村雨は迫り来る敵軍を指さした。幾百もの凶器が、明確な殺意を以て向かってくる恐怖――冷静で居られる筈が無かった。
 左馬も、或る意味では怯えていたのかも知れない。冷静に判断するなら、こうなる前に自分だけで逃げれば、十分に逃げ切れる可能性は有った。呑気に一騎打ちに興じたが為、もはや三方は敵兵、一方は城壁。道は閉ざされた。
 然し、応とは答えない。左馬は一層、眼前の敵の殺害だけを目的と定める。村雨は茫然と敵兵の群れを見ながら、自分だけでも降伏を認められるにはどうすれば良いかを考え始め――

 ――思考を断ち切る水音。比叡の兵の頭上に、ざあと赤い雨が降り注いだ。








 数百の兵が為す、乱雑にも見えるが固く組み上げられた方陣形。それが、縦一線に断ち切られた。
 首がごろり、上半身がごろり、切り捨てられて転がって、自分の死も気付かず夜空を仰いでいる。降り注いだ赤い雨は、数十の兵士が斬られて吹き上げた、致死量の鮮血の総和であった。
 顔を濡らす血の雨に、怯え、怒り、あらゆる感情を以て狂う兵士達。彼等を遥か後方に置いて、たった一人、真白の振袖で駆ける者が居た。
 右手には血刀、左手には鞘。然し彼女の体には、返り血の一滴たりと触れていない。血の雨を潜って来たにしては、奇妙な格好であるのだが――そこには何ら不思議が無かった。
 刃が肉に沈み、血を吹き上げるより先に、獲物から離れる――彼女がしたのは、たったそれだけの事。それだけの絶技であった。

「……あれは何だ、〝あれ〟は」

 左馬が茫然と呟く。〝ひと〟を示す言葉とは受け取れぬ響きである。事実、松風左馬は、これを何らかの〝現象〟だと誤認さえしたのだ。
 白衣の少女は、刀を軽く振るった。艶紫の刃、鮮やかな妖刀は、己を濡らす血を啜ったかのように一滴の赤も残さず、自らを天下の見参に入れた。
 この少女が死を運んだ――幸運にも刃を向けられなかった者達は、皆、一時に悟った。そして同時に――決して覆せぬ順列を、肺腑の奥まで刻まれた。

「お城、作ったの……? いいなー……紅野、ちょうだい」

 細い声だが、静まり返った戦場には良く響く。わらわの戯れ事の如き懇願――蒼の瞳には、意思の力が欠けていた。
 彼女の目的はなんだろうか。きっと、自分自身の目的など存在しない。行けと言われたから戦地に出向いて、難しい事でも無いから敵を切った、それだけなのだろう。
 己の指向性を持たぬ凶器――狭霧 蒼空そうくうは、眠たげに目を擦り、欠伸をしていた。

「え……あれ、これは……」

 村雨は暫し、血の匂いに酔っていた。鉄臭に混ざる死臭を感じて目を覚まし、亡霊よりも気配の薄い、蒼空の姿を目に止めた。

「……助かった、助かる……?」

 直感的に、嗅ぎ付けた。
 彼我の強弱を知るのは、野生の獣に必須の技能だ。あれは――この場の誰よりも強い。数十、数百の兵士を足したより、ずっとずっと強いのだと知った。
 村雨の体は指示を待たず駆け出そうとして――足首を掴まれる。振り払おうとしたが、それが薊の手だと直ぐに気付いて首を向けた。

「待て、待て……」

「ごめん、出来ない」

 助けろという事かと受け取って――村雨らしくもなく、即座に否を叩き付けた。鎧を身に着けた薊の巨体――重量も然る事ながら半死人。担いで走るなど、出来る筈も無かったからなのだが。
 それでも、普段の村雨ならば懊悩し、苦しみながらその言葉を吐いただろう。他者の為に苦しむ事さえ、きっと余裕の必要な行為なのだ。

「違え……俺じゃあねえ、俺じゃ……あれだ……」

 震える指が、村雨の後方を指し示す――膝を震わせながら立つ離堂丸が居た。
 股間に膝蹴り、喉に拳を三つ。痛みはまだ抜けきらず、恐らく視界も定まらない。十連鎌を持つ手さえ、胸より高くは上がらないのだ。

「あれなら、細いだろ……っかあ、チビに任すのは癪だが、しゃあねえ……」

「余計なお世話です。私はまだ、全然足りない……殺したりないのですから……」

 虚勢を張り、離堂丸が一歩踏み出す。歩幅が狭い――足の力が足りていない。

「チビ、担いで走れ! 真っ直ぐだ!」

「っ……分かった!」

 霞んだ目にもそれが見えたのだろう、薊は離堂丸の言を無視した。
 怒鳴り付けられた村雨は、もはや一時と迷わず、離堂丸を腰から二つ折りにして肩に抱え上げる。そうしてから、蒼空に切り裂かれた陣列の隙間へ、脇目も振らずに駆け出した。
 肩の上で離堂丸が喚いているが、彼女の意見を斟酌することは出来ない。真っ直ぐに、赤く血塗られた草の上を走る。
 後方でまた、わあと声が上がった。勇敢な何人かの兵士が、槍を並べて蒼空に突きかかった。見届けようと振り向いた村雨だが、それが目に映ってから理解するまでに、幾許かの時間を必要とした。
 兵士達が近づくまで、蒼空は一歩たりと動かない。槍が繰り出される直前まで、欠伸を噛み殺しながら待ち構えている。そして、槍が突き出され、穂先が衣服に触れる寸前――蒼空は兵士達の後ろに居て、刀だけが血に濡れていた。
 夜風が身に染みたか、蒼空がくしゃみをした。それを合図とした様に、兵士達の頭が、首の上から滑り落ち、切断面が血を吹き上げる。

「さっき私が言った言葉、あれを訂正しよう」

 後ろに向けていた首を前方に戻すと、村雨を先導する様に、左馬が走っていた。

「師匠……!? 紅野はどうしたんですか?」

「私が逃げた――それはどうでもいい。さっき薊を指して言っただろう、ああいう奴は居るものだと。
 間違いではないさ。但し、それは飽く迄、常識の範疇での事だった」

 振り返らぬまま、左馬が言う。口調は常と変らぬが、声の震えが隠せていない。村雨はこの時初めて、自分の師はどちらかと言えば、真っ当な人間に近いのだと感じた。

「見えたか、あれが」

「……」

 村雨は首を左右に振る。左馬は無言を答えと受け取った。

「私もだ。足捌きも、刀の軌道も、初動に移る第一歩さえ――これだけ離れて、見えなかった」

 犬も猫も馬も、敏捷性を強みとする獣さえ、最初の一歩は遅い。制止した状態から最高速度で動き出せるのは、せいぜいが虫くらいのものだ。
 蒼空は人の身で、それを易々とやってのける。それが左馬には、己自身も体術の達人である彼女には――

「あんなもの、常識で測れるか。あんなものがごろごろ居てたまるか! ふざけるな、ふざけるな……!」

 ――恐ろしくて、ならなかった。
 理解を通り越した存在に対して、人が抱く感情は様々だ。崇拝であったり憧憬であったり、嫉妬であったり。左馬が抱いたのは、憎悪混じりの恐怖であった。

「……あれか、桜を切ったのは」

「はい、間違いないです」

「だろうね」

 多くを語るまでも無い。数語の会話で意図は伝わった。狭霧蒼空の他にそのような芸当ができる者が、日の本に二人はおるまいと、左馬は確信していた。
 もう一度、後方を見やる。城壁の上から二振りの槍が投げ落とされ、それを紅野が受け取った。遠目に見る彼女は嬉々として、蒼空に打ちかかって行った。

「逃げるよ、村雨。今宵はこれ以上、戦う必要を感じない」

「はい、師匠……」

 森へ駆け込み、山の斜面を真っ直ぐに駆け下る。脇目も振らず、足も止めず――二人は、ひた走った。








 そして、夜が明ける。
 〝別夜月壁よるわかつつきのかべ〟は力を取り戻し、外と内を隔絶させた。侵攻した政府軍は、死んだ者と重症の者を除き、全てが山外への退避を完了していた。
 この度の比叡山攻めで、政府軍が用意した兵力は六千。内、二千五百が西側に配置され、残り三方はそれぞれ、おおよそ千と端数が配置されていた。
 一晩の戦闘が終わり、死傷者が数えられている。記録担当の役人が、方々を走り回っていた。

「……これが、戦争ですか?」

 防具を外した村雨は、地面に仰向けになっていた。腕で目を覆ったまま、近くに座っている左馬に聞いた。

「いいや、こんなものじゃないさ」

 左馬は、何処から確保したものか、酒を浴びるように飲んでいる。然し、未だに酔いは回っていない様子だ。

「こんなものじゃない。今宵の私達は、敵の居ない所ばかりを進んでいたからね。
 本当に最前線で、敵の中を突き進んだ連中は――ああ成るんだ」

 酒精の匂いを撒き散らしながら、左馬は遠くを指さす。村雨はそちらを見ようともしなかったが、そこに何が居るかは分かっていた。
 血と膿の悪臭、呻き声。負傷者と、これから死に逝く者と、死体になってしまったものが入り混じる、惨状が展開されていた。
 村雨達が留め置かれているのは、衛生兵を集めた簡易治療所。治療魔術を心得た者達が、重症の兵士から治療に当たっている。
 だが、治療魔術は難易度の高い技術だ。高度な治療を行える術者は少なく、開いた傷を幾らか塞ぎ、出血を抑える程度の施術に留まる者が多い。だから、助からぬ者も多かった。

「……『錆釘』の人達は、どうなりました?」

「それは――」

 左馬も、答えが無い。この混乱では、未だに何も分からぬのだ。
 ただ、被害が無い筈は無いとだけ、悲しいながら断言できる――己の目で、それを見ているのだから。

「本陣守護十人は、全員が生き残った――腕を落としたのが一人、膝をやられたのが一人ぐらいだ」

 丈の長い外套の、長躯の男が――葛桐が、そう言いながら歩いて来た。常に被っている鍔広の帽子は、火の粉が飛んだか、ところどころに焦げ跡が見える。

「葛桐……生きてたんだ、良かった」

「俺は、な。……見てきたが、三方さんぽうの遊軍も被害は少ねぇ。二十人の内、死人は二。八人ばかり大怪我だが、手足を無くしたのは一人しかいねえって話だ」

 首の回りや袖口から除く体毛――それにこびり付いた返り血を削ぎ落としながら、葛桐は村雨の隣に、胡坐で座り込んだ。

「知り合いかい? 丁度良かった、馬鹿弟子を頼む。酒が切れたんでね、代わりを取りに行くよ」

 入れ替わる様に左馬が立ち上がった――言葉は穏やかだが、表情には明確な嫌悪感が浮かんでいる。亜人嫌いの性根は、弟子を取った程度では変わらないのだ。
 酒の臭いが遠ざかるまで、葛桐は苦々しげな顔のまま押し黙り、それから漸く続きを言葉にする。

「……西側から上った連中は、三人しか戻ってねえ。お前と、お前の師匠と、お前が担いできた奴だ」

「いーや、四人よ。俺様も戻って来たもの……はー」

 溜息と共に、次に現れたのは八島陽一郎――火縄銃を九つも背に括り付けた男だった。

「八島さん……!? ね、ねえ、薊さんは――」

 その声を聴いて、村雨は跳ね起きる。彼自身に用件が有るのではなく――余所余所しく思われるかも知れないが――薊の生死を、知りたかったのだ。

「薊さん、は……」

 八島が何を言わずとも、村雨は答えを知って膝から崩れ、地面に伏した。八島の右手は薊の首を、頭髪に指を絡めて掴んでいたのだ。

「連れ帰った」

 軽薄な言葉使いの八島だが、この一言は重かった。葛桐は帽子を傾け、鍔で目を覆い弔意を示す。
 地面に伏して腕に顔を埋め、村雨は肩を震わせる。抑えても抑えきれぬ嗚咽が零れ、涙が袖口を濡らした。

「よしよし、もう泣いていーのよ。悲しいだろうし、辛いだろうし、ねえ……」

「……違う、違うの……」

 左手、血で汚れていない方の手で、八島が村雨の肩を叩く。村雨は首を振って、それから言った。

「……怖かった……こわかったよう……!」

 泣きじゃくる彼女は、死を好む獣では無く、ただの十四歳の少女だった。








 比叡山南側戦線。政府軍千二百名中、死者八十七名、負傷者二百九十六名。
 東側戦線。政府軍千二百名中、死者百四名、負傷者三百二十八名。
 北側戦線。政府軍千百名中、死者二百五十三名、負傷者六百一四名。
 西側戦線。政府軍二千五百名中――死者八八五名、負傷者九百六十八名。
 それが、この戦いの結果、政府軍が得られたものである。

「あー、ちょいちょい。離堂丸さんだっけ、これ受け取ってちょーだいな」

「私ですか……? 何故?」

「いーからいーから、ほい」

 八島は、一人洛中へ帰ろうとする離堂丸を呼び止め、小さな箱を投げ渡した。
 受け取った離堂丸は直ぐに小箱を開け、怪訝な顔をした。

「……指輪ですか? これは?」

「さーあね。俺も渡せって頼まれただけだし、理由もよく知らんのよ。まあ……指の保護と思って、身に着けとけばいーんじゃね?」

「まあ、貰える物なら貰いますが……」

 納得はしないながらも指に通して、上り始めた太陽に翳す。銀色の指輪は朝日を散らして、朱と黄金の中間の色合いを見せた。

「あら、綺麗。血の色が映えそうですね」

「……それでいいならいーのよ、俺は。んじゃ、渡したからもう行くぜ」

 やれやれと溜息を吐いて、八島は離堂丸に背を向ける。暫く歩いて着いたのは、比叡山の麓にある、一際大きな松の木の下。
 傍目には、何の変哲も無いように見えるだろうそこに、八島は胡坐を掻いて座り込む。懐から小さな瓶を――舶来の酒を取り出し、とくとくと地面に注いで――

「……難儀な女に惚れたねぇ、薊さん」

 残った半分は一息に飲み干すと、瓶だけそこへ投げ捨てて立ち去った。
 西洋の暦で言うならば、十一月五日の朝。誰の心情をも汲み取らず、晴れやかで、良い天気だった。