最早残兵に非ず
夜が来る。
月の美しい夜だった。
丸く、一つとて欠けた所の無い月が、雲の無い紺色の空に浮かんで、白い山を見下ろしているのだ。
風は緩やかで、静かである。
虫は雪の下で眠り、鳥は洞で翼を休め、獣は木陰に息を潜める。洛中の北方、神山は、気配に満ちながら静まり返っていた。
その、頂上に近いが、少し開けた所に、一人と一頭が向かい合っていた。
山の序列の二番に立つ亜人と、一番に立つ人間である。
二人は数間の間を開けて、雪の上に立っていた。
「良い夜だね、村雨」
「はい」
「酒が美味くなる夜だ」
「付き合いますか」
「お前じゃ駄目だ、直ぐに潰れる」
村雨は冗談めかして言い、松風 左馬もまた、笑いながらその言葉を受けた。
ほがらかに笑いながら、左馬は雪の上に手を置いた。
柔らかく、軽く、だが重なれば圧縮されて重みを増す雪。人の足が届かぬ山では、膝を過ぎるまで雪は積み重なっている。
その硬さを、左馬の指が探っていた。
同じように村雨が、足裏の感覚で、雪の強度を見ていた。
「書いてきたかな、遺言は」
「いいえ」
「そうかい、お前が筆不精だとは知らなかった」
足場は酷いものだった。
このような場所で、敵を迎え撃つなど、考えたくも無い悪条件。
並の脚力ならば、走る事さえまま成らぬ雪。
その上を、左馬は、まるで空に道を掛けたかのように、予備動作の無い跳躍で、村雨へと寄った。
同時に村雨は、足元の雪を爆ぜさせて、後方へと逃れていた。
「……字を書くのは苦手だけど、だからじゃない」
「へえ、生意気を言うようになった」
始めより、少しだけ狭まった二者の間隔。
村雨が、雪に両手を触れさせて――堰が切られた。
投石よりも固く重い拳が、矢継ぎ早に飛ぶ。
その全てが、村雨の顔面を狙っている。
人間の顔は硬いし、歯が指を傷つけると、手が酷く腫れあがる事もある。素手で顔面を殴るのは得策でないが――それは無論、常識人の範疇の事である。
松風 左馬は常人では無い。
巨木も自然石も、或いは鎧さえ打ち砕く拳は、人骨の強度などまるで問題にしない。左馬の本気の拳が、最良の距離で命中したら、人の頭蓋は砕けるのである。
村雨は、両腕を前方へ思い切り伸ばし、腕で拳を払いながら、落としきれぬ分は体を左右に振って避けている。
然し、数が多すぎる。
始めはある程度の余裕を以て受けていた打撃が、次第に村雨の腕を痺れさせ、反応を遅らせて行く。
このままでは被弾する――ならば、先に当てる。
左馬の拳の嵐の中に、矢のように、村雨の右拳が割り込んだ。腰の高さから、振り上げるように撓る、独特の軌道の拳である。
乱打では無い。狙い澄まして一閃する、磨き抜かれた太刀筋が如き拳である。そして、繰り返す事を前提にせぬ分、単純な速度と重さならば、左馬の拳一つよりは上を行く。
左馬の左頬に、村雨の拳が当たった。
――手応えが。
左馬の首が、ぐりんと横を向いた。
手応えが無い。拳が触れる瞬間、首を拳と同じ向きに回して、衝撃を逃がしたのである。
見切れる速度の拳なら、村雨も同じ事は出来る。だが、左馬の拳は、一つをそれで逃がしても、次が直ぐに飛来するのだ。
首だけで流すのは無理だ。払うか、体ごと射程の外へ逃げるか、何れかしか無い。村雨は後者を選び、右足をほんの少しだけ後ろへ引こうと――
「らあぁっ!」
「!?」
その足を、左馬が踏んだ。
頑丈な靴底で思い切り、村雨の足の甲を踏みつけたのである。
雪と村雨自身の靴が緩衝剤とはなるが、寸拍、村雨の足が地面に縫い付けられる。
既に体重は後方へ動いていた――姿勢が崩れ、踏み止まろうと、左足が咄嗟に後ろへ出る。
計算された動きの中の歩では無く、止むを得ず取らされた不利な姿勢を、左馬は見逃さない。大きく踏み込みながら、右手を村雨の頭へと伸ばした。
――危ない。
村雨は、踏み止まる足を自ら外し、雪の上に倒れ込んだ。
左馬が何をしようとしたか、村雨は重々理解している。
あれは、髪を掴んで引きよせようとしたのだ。
頭髪は存外頑丈なものであり、一束も掴めば、それで人間を容易く引き寄せられる。しかも部位の構造上、指に絡めて保持し易く、また引き寄せた時は相手が、自らへ頭を垂れる姿となるのである。
膝で顔を潰しても良い。
後頭部に肘を落としても良い。
逆の手で目を抉るのも、そう難しい事ではあるまい。
童同士の喧嘩でさえ使われる技術ながら、恐ろしい技でもあるのだ。
それから逃れて仰向けになった村雨の腹目掛け、左馬は踵を振り下ろした。
膝で防ぐ――痛みより先に、痺れが骨の内側に染み渡る。
踵も、また必殺の打である。
体重を乗せて踏めば、稚児とて大の男を殺し得る。まして左馬の踵であれば、人のはらわたを潰すなどは容易かろう。
雪を分けて転がり、手を付いて半分立ち上がりながら、村雨は師の用いる技に戦慄した。
――殺す気だ。
そもそも向かい合った時、あの目がそう言っていた。
この月の満ちた夜――己が最も不調となる夜を狙い、この師は自分の命を奪おうとしている。
まだ一撃さえ受けずとも痛む腹を抑え、手を雪から浮かせようとすれば、再び踵が、後頭部を踏み潰さんと振り下ろされた。
仰け反り、躱す。
「『噴』ッ!」
落下した足が、雪に触れた刹那、軌道を変えて再び跳ね上がる。下腹目掛け、硬い爪先が、突き刺すように打ちだされた。
「ぁ――あっ」
これも村雨は防いで見せた。
然し、交差した両腕が下腹部に触れていた。衝撃は腕を抜け、村雨の腹に浸透する。
「っ、ぁ、あ……!」
雪上をのたうちたくなるような、異種の鈍痛が村雨を襲う。口が勝手に開いて、音にならぬ声を、やけに喉に絡む唾液と共に吐き出させた。
だが、動きを止める事は許されない。
左馬の右拳が振りかぶられて、ごう、と風を引き攣れて走った。
上段右鉤打ち。
村雨の左側頭部目掛けて、名に偽り無き鉄拳が飛ぶ。
間に挟んだ左腕ごと、村雨の体が雪から引き抜かれ、倒木のように横倒しになった。
「っは、あ……はっ……!」
短い攻防――左馬が息を荒げている。
己の拳を受け、雪に身を半分も埋めた村雨を見下ろしながら、肩で息をしている。
戦場でさえ呼吸を乱さぬ女には、有り得ぬ事であった。
どうしたのかと、村雨は思わず問いそうになった。
――どうしたというなら、全部だ。
村雨は、良く分からぬまま、山の頂上まで歩かされた。そして、左馬と向かい合った。
その時に初めて、左馬の言葉は戯れでもなんでもないと、自分を殺したいのだと理解した。
然し、その理由が分からない。
疎ましくなったのなら、蹴り出せばいい。
ただ殺すなら、他に手は有るのだ。何故、こうして、自分に抵抗の余地を与えたのか。
鍛錬の趣向の一つかと、村雨も思わないでは無かった。
然し、目の中に浮かぶ憎悪は、決して偽りで帯びられるものでは無い。
「……立つな」
左馬が、そう言うのが聞こえた。
普段と逆の事を言っていると思えば、命を狙われているというに、村雨は少しばかり笑みを浮かべてしまう。
普段の左馬ならば、村雨に散々の無理を強いた後、それでも立てと言うのだ。
思えば、好き放題に殴られ蹴られる所から、村雨の修行は始まった。
防ぎ、躱し続けて、痛みから逃れる術を体に刻まれて、それからやっと技術を学んだ。
だから村雨の武の根幹には、防御という巨大な根が通っている。
「立つな、二度と……!」
左馬の呪詛を受けながら、村雨は立った。
拳は受けたが、片腕を間に挟んだし――着弾の瞬間、拳と逆方向に、僅かにでも跳んだ。多少視界は揺らいでいるが、致命打にはなっていない。
「……師匠、なんで」
村雨が問うも、答えは無い。
代わりに左馬が、雪を蹴立てて迫って来た。
駆け寄る速度を乗せた、右拳。形よりも重さを重視した、潰す為の打撃。
これは防げない。上体を低く沈めつつ、村雨は左拳を打ち返す。当てる場所は何処でも良い、当てて後ろへ押し返せればそれで良かった。
だが、その拳を左馬は、更に体を接近させる事で、距離を潰して威力を殺した。そして、村雨の首を、上から脇に抱え込もうとした。
「ぅわわっ!」
――折られる。
死を予感させる首への接触。
村雨は全力で首を引きながら、右足を思い切り振り上げ、左馬の顎を狙った。
左手越しに、その蹴りは当たった。然し左馬は、膝を揺らしもしない。崩れた姿勢と、足場の悪さが、蹴りに本来の威力を与えなかったのである。
そして、雪の中で、左馬の右足が進んだ。
雪の下にある土を、靴底で噛むようにして踏み込み、足首が回った。
膝が回る。
腰が回り、胴が回り、胸が回る。
肩が、肘が、手首が回る。
全ての旋回が拳に結集し、積もった雪を巻き上げ、渦となった。
刹那に村雨が感じ取った幻想やも知れないが、兎角、左馬の拳は吹雪を固めたかの如く吹き荒れた。
それが、村雨の胸の中心を、強かに叩いた。
――眠っていた。
どれ程の時間だろう。
いや、時間が経っていないのは分かっている。自分の体がまだ浮いているからだ。
下が雪なのはありがたい。痛みは幾分か抑えられるし、俯せになれば殴られた箇所を冷やせる。
けれども、落下の間隔は、どれだけ経っても慣れないものだ。
そうら、落ちるぞ落ちるぞ。
どさっ。
「ぐっ……!」
背への衝撃。元々空になっていた肺は、これ以上吐き出すものも無いが、それでも声だけは漏れた。
仰向けに落ちて、空を見るのも、もう幾度目になるのだろうか。
立ち上がって打ちかかれば、また転がされて、空を見て――そういう事を幾度も繰り返して来た。
自分は強くなったと思っていたし、いや実際、かなり強くはなったのだ。
このまま続けていれば、もう少し強くなれる筈だ。
けれども、そのもう少しは、何処まで伸びている道なのか。
――変な事を考える自分だ。
見える所に上限など有るものか。目の前の女でさえ、強さの底が見えやしないと言うのに――それ以上の化け物と、旅を共にしてきたのだ。
それでも、限りに届かずともようやっと、あの化け物と並んで歩けそうな気がする、それまでは鍛えた。
昔ならば、今の拳だけで動けなくなっていただろう。
今ならば、立てる。それだけでなく、まだまだ戦える。
至福の中に、戦いはある。如何に血を忌もうとも、翻って受け入れようとも、純然たる事実は変わらない。
――私は、戦うのが好きだ。
村雨は月を見て独白する。
自分はどうしようも無く、血みどろの争いを好む性質に生まれて、その性質を一切矯正できぬままに育った。
抑えれば抑える程に、血を望む本性が空腹を増す。己は生粋の人殺しである。
そう生まれた自分が、自分をさえ意思の侭にする道具こそ〝強さ〟なのだと思い、それを求めて師を定めた。
然し、どうにもそれは、終わりにしなければならないらしい。
倦みが見えた。
あのまま留まって、ゆるゆると力を積み上げるのは、きっともう、無益な事なのだ。
誰が為にも、終わらねばならない。
誰の為にも、終わらせねばならない。
きっと師匠も――左馬も、それを嗅ぎ取ったから、ああなったのだ。
自分は嫌われていた筈だ。それが何処かで、そうでなくなり始めた。
私を嫌えなくなった事を、きっとあの偏屈も、何処かで気付いてしまったのか。
本当の所は、何も分からない。
それでも、何も困らない。
今、自分は殺されようとしているが――
「っ、はは、っははは、あはははっ、あははははははっ」
楽しい。
たのしい。
「――死ぬ気がしないね」
拡大する瞳孔。
水色を帯びる、眼球の強膜。
関節の可動域が増し、周囲の腱が、筋肉が太く強く、加重を凌ぐ強度になる。
咥内に並ぶのは、歯では無く、牙。
心拍数が増大し、四肢の隅々まで、大量の酸素を供給する。
首を、腕を、足を、灰色の体毛が覆った。
何時かの夜、兵士三人を惨殺した、あの時の姿をそのままに、
「師匠! 悪いけど、私が勝ちます!」
心は鎖に繋ぎ止めて、村雨は雪の中へ両手を付いた。
凍土の王者、最強の狩人――人狼が、月下に目を覚ました。
「……やっと出たか、半獣め」
「その呼び方、嫌いなんですけど!」
両手を地面に触れさせ、腰を僅かに浮かせ、顔を獲物へ向ける。獣の構えをした村雨へ、吐き捨てるように、左馬は言った。
雪の中に在ると、何を狙うにもやり辛い構えである。
横からの打が、雪にぶつかり、僅かにでも速度が落ちる。十全の威力をぶつけるなら、正面か、もしくは上から打つしかない。
そしてこの構えの利点を、村雨自身も、勿論知っている。上や正面からの打撃は、普段以上に警戒しているとなれば、そう容易く痛打は与えられない。そして打ち下ろすとなれば、拳を自分の腰より低くへ放つというのは、力を乗せづらいものなのだ。
だが、最大の脅威は――
「しゃあっ!!」
両脚に、両腕までを加えた、『四足歩行』の踏み切りである。
それこそ、先に倍する速度で、村雨は左馬目掛けて跳びかかった。
打撃では無く、体全体でぶつかりに行っただけだが、速度が尋常では無い。
「ぐっ!」
左腕で受けながら、右拳で殴り付けようとした左馬であるが、衝撃は予想以上――片腕で支えるのは難しい程。固めていた拳を開き、左腕の後ろに当て、村雨の体重を推し留めた。
――腕が塞がったなら。
右膝で、受け止めた村雨を打とうとする。
高く膝が上がる。
然し村雨は、その膝を踏み台にして、左馬の後方へと跳んでいた。
「このっ!」
振り向きざまに左裏拳と、左後ろ蹴り。村雨が立っていれば、喉と鳩尾に突き刺さったのだろうが、これは村雨の頭上を過ぎる。
ざがっ。
雪が、大量に舞い上がった。
両手を雪に突き刺し、思い切り腕を振り上げただけだが、周囲も白銀、視界に飛び込むのも白雪。ほんの一瞬、左馬は距離感覚も、方向感覚も失った。
それでも、村雨が再び攻撃に転じていれば、その気配を迎撃する事は出来ただろう。然し村雨は、左馬に打ちかかるのではなく、更に構えを低くして、積雪の中に身を潜り込ませたのである。
――稚拙な雪遊びだ。
正しく。雪があと一尺も有れば良かったが、この量ならば、体全てを雪に埋めても、背中の高さが目立ってしまう。
だが、それは日中ならばの話だ。
月こそ美しいが、夜である。
雲が流れてくれば光も翳るし、他に光源など有りはしない。村雨の体毛も、夜の雪に紛れるには都合の良い色で、見分ける事を難しくする。
時間とするなら、瞬き二つ分だけ、所在を掴むのが遅れる。
それだけあれば、この二人の戦いには、長すぎる程である。
村雨が、姿を消した場所から、ほんの二尺だけずれた所に飛び出して、左馬へ打ちかかった。左手――いや、左前足を拳にしての、膝狙いの打撃である。
脛を上げて受け、殴り返せば、眼前から村雨が消えている。
一瞬ならぬ二瞬後、見つけた時には、また村雨が先手を取って殴りかかって来た。
左馬は、防御を捨てた。
右膝を殴らせる代わり、拳を振り落とし、村雨の肩を打った。
腹を殴らせる代わりに、胸に肘を打ち込んだ。
頬を殴らせる代わりに、頬を殴りつけた。
一撃に対して、一撃を返す。
一撃に対し、一撃しか返らない。
まるで二人の実力が拮抗しているかのような、互角の打ち合いが行われていた。
――何だこれは。
殴り合いながら、左馬は、己が演じている芝居を、観客の目で見ていた。
――筋書が壊れている。
十数年を武に費やした女が、たった二か月鍛えただけの子供と、互角に殴り合っている。
拳の重さは、左馬が上だった。
拳の速さならば、次第に村雨が勝り始めた。
雪を隠れ蓑に、片時と止まらずに馳せ続ける村雨。疲れなど知らず、寧ろ動きは増々速度を上げて行く。
幾つか良い手応えが有るのに、動きが鈍らない、仕留められない。
それが左馬には、我慢がならなかった。
元より殺す気で殴っていたし、殺しても良いと思っていた。拳は間違い無く、全力で振り抜かれている。
だが、目の前の獣は死なない。
武芸者も職業兵士も、何人も殺せるだろう技をぶつけて、死なないどころか動き続け、殴り返して来る。
――こいつは、
左馬は、己の心が、己の望ましく思う形に凍り付いていくのを感じていた。
一つ殴り、一つ殴り返される度、要らないと思っていた感情が抜けて、吐き出す呪詛に真実が混ざるのだ。
立つな、とはもう言わない。
寧ろ立ち上がり、そして打ちかかって来いとさえ祈る。
こんな温い打で倒れるなら、積み重ねた妄執の一切を、何処へ逃がせば良いのか分からなくなるのだ。
顎を打たれ、膝が揺れた。
――こいつは、嫌いだ。
左馬の中に、己が戻った。
整った顔立ちに、酷く醜い笑みを浮かばせて、左馬は跳躍していた。
高く、遠く――近くに立つ巨木の、太い枝の高さまで跳んで、
「ねえ、村雨……」
枝に、逆さに釣り下がる。
初めて村雨がこの山に登り、その前で桜と左馬が殴り合った時も、村雨はこの姿を見た。
人間が蝙蝠にでもなったかのように、枝の一本から逆さに下がる光景――満月の灯りを糧に、村雨はその種を見た。
左馬は靴を脱ぎ捨て、足の親指と人差し指の二本だけで、己の体重を保持していたのである。
「……やっと、お前を殺せそうだよ」
笑っているのか、泣いているのか、腹を立てているのか。
どれとも付かぬ程、混然となった悍ましい顔が、月の逆光で影を纏う。
「嬉しいです、師匠」
雪より激しい寒さに襲われながらも、村雨は、笑みだけを空に返した。
松風 左馬は、獣になりきれなかった人間だ。
情を振り払う為、どれだけの暗示を己に掛けて、やっとあの技を引き出したものだろう。
村雨は、人になりきれない獣である。
全力の感情をぶつけられるのが、堪らなく心地良くてならなかった。
満月の夜空を仰ぎながら、雪月 桜は、京の北を歩いていた。
一度、比叡の山から東へと旅立って、奥州まではるばる向かい、立ち返るまでにふた月と半。かの地の雪を見ていれば、この地の積雪など、如何程のものにも見えない。
街は、暗い。
家々は早々に灯りを消して、しんと息を殺して眠っている。
その中を抜けて、桜は夜の道を、神山へ向かっている。
村雨が、奥州への同行を拒んだ時、予感は有った。あれは自分より強く成ろうと言うのだ。
それが叶う場所は、洛中には一つしかない。
松風 左馬の亜人嫌いは、桜も知る所である。生まれついての強者である亜人は、積み重ねて来た左馬とは、決して相容れないのだと。
だが、引き留めはしなかった。
もはや桜に取って、村雨は、一方的に庇護し愛玩する相手では無い。一個と一個の命として、向かい合うべき存在であるのだ。
村雨がそう望み選んだ道は、今、どう伸びているのか。
それが知りたくて、桜は、足早に歩いていた。
夜の山は、雪灯りの他に、何も光を放たない。風も弱く、木々が揺れる様さえ見えぬ、山の静かな夜である。
「土産が無いな……構わんか」
普段なら美酒の一つも持って行くのだが、洛中に入った時点で、既に日が暮れていた。酒屋を無理に開けさせるのも気が引けて、手ぶらのままで桜は山を登り始めた。
すると、直ぐに何か、奇妙に気付く。見たというよりは、音やら空気の流れやらで総合的に計る、経験則の一種である。
立ち止まり目を細めると、山の上から少女が一人、こちらも早足で山を降りてきた。
「お……? おうい、どうした、そこの」
まだ遠い内から、桜は少女へ呼び掛けた。
見覚えの無い顔で、また武芸者のようにも見えない。この山にはとても似合わぬ姿だ。
静かな山であり、呼び掛ければ直ぐに向こうも桜へ気付く――と、足を更に速めて来る。
「お、お……? おい、どうした。お前のような知り合いは――」
「助けて! 誰か、お願いです、助けてっ……!」
山を降りて来たのは、みつであった。
村雨より低い背で、雪を掻き分けて――街まで出ようとしていた。
異常を桜は知り、膝を曲げ、みつと目の高さを揃える。
「……何が有った」
「殺されちゃう、む、村雨さんが――」
其処までを聞いて、桜は、雪を爆ぜさせて走っていた。
みつは、その場に置き去りにしたが――抱えて行くよりは余程優しいのだろう。
雪も、木々もまるで異に解さず、桜はただ真っ直ぐに突き進む。枝が圧し折れる渇いた音は、直ぐに遠ざかって、みつには聞こえなくなった。
樹上より逆さにぶら下がる左馬は、拳を解いていた。
戦意の喪失では無い――用いる技の段階を、一つ上にしたという事だ。
手首から先で放つ打撃には、多数の種類がある。
まず、誰もが思いつく、原始的なものが、拳。
手を痛めない為に用いる技としては、手の平――掌底。これは硬い部位を打つのに良い。
指先を揃えて突けば、脆い部位へ突き刺す貫手。
曲げた指で引き裂く虎爪。
更に指を深く曲げて、手の平と指の甲を打ち付ける熊手。
指を解き放つだけで、狙える箇所と方策は無限に増える。
左馬は、それらを全て解放した。
枝にぶら下がったまま、膝を縮める。重心が持ち上がり、枝がぐわんと撓んで――逆方向、地面へ向けて撓り返す。
その時、左馬が、地面へ向けて跳んだ。
「――っ!?」
枝の反発、重力、跳躍。全てを乗せた速度は、普段の踏み込みの比では無い。
突き出す右手は虎爪――五指全てを緩やかに曲げて、その先端を村雨へ向けている。
村雨は、咄嗟に後方へ飛んだ。前髪にかすらせて、それこそ紙一重、雷槌は雪に突き刺さった。
「ひゅっ――」
息を吸って、吐いた。左馬の口から発した音だ。
左馬は足を付かず、寧ろ片腕で体重を支えたまま、両脚をごうと振り回した。
頭、肩、胸。立て続けに三度、爪先で刺すような蹴りを放つ。
これまでとはまるで軌道の違う蹴りに、さしもの村雨も、全て防ぐ事は出来なかった。
「くっ……!」
右肩を酷く蹴り付けられながら、自らも蹴りを打ち返す村雨。
然し、その蹴り足の上を、左馬は片腕で跳躍して超えた。
後方へ一歩退いて、そこからまた跳躍――先とは違う木の枝に下がる。
――これが、師の技か。
頭上からの攻撃へは、反撃が難しい。
加えて、落下の速度を己の打撃に乗せられる。
地上に立っているのなら、どれ程の技量が有れども、十割の体重は、拳に乗らない。足が必ず地上に接しているからだ。
左馬の秘拳は、重量を全て腕に乗せ、敵へとぶつけられる。
反動は、無論、極端に大きい。並みの鍛錬であれば、肩も肘も手首もいかれてしまう。
それを左馬は、易々と衝撃を吸収し、寧ろ腕だけで跳躍さえやってのける。
もはや人の域の技に在らず。
松風 左馬は、人外への憎悪を糧に、人外の域へと踏み込んでいるのだ。
また、次が降る。
先と角度を変えて、村雨の首筋を狙い、右手中指を付き出しながら、左馬は自らを地面へと打ち出した。
「か……このっ!!」
村雨は、迎撃を優先した。左腕を掲げて盾としながら、右拳を振り上げる。
振り上げの拳は、真横へ打つよりは、威力が劣る。接近の速度も有り、最適の間合いでは当て難い。頭へ拳は命中したが、左馬が怯む事は無かった。
手で着地し、手で跳躍し、足で殴りかかる。
跳躍してから着地するまでの間、三つも四つも、村雨目掛けて打が繰り返される。
頭と言わず、腹と言わず、滅多矢鱈に蹴りが繰り返され、村雨の防御を打ち崩さんとする。
重い、そして止まらない。
打ち返せると思った時には、左馬は上空へ逃れている。
落下。胸を指先が狙った。
蹴撃。次第に打撃の質が、その場で痛めつける事では無く、互いの間合いを突き放すべく、押し飛ばすような蹴りへと変わって行く。
跳躍し、逃れる。
同じ事の繰り返しだ。
だが、決して破れぬ技が、延々と繰り返されるのは、受ける側には恐怖でしか無い。
――何処で打ち返せばいい!?
その機が、無い。
「……は、ぁ……ふっ」
数間向こうで漸く、左馬が両足で地上に降り立った。
息は荒いが、殴り合いが始まった頃より、落ち着いているようにも見える。
今しかないと、村雨は雪上を、四足で馳せて左馬へ迫った。
「おおおぉっ!」
迎撃もまた、乱打。
拳では無い、ありとあらゆる手形を用いて、左馬は村雨を打つ。
尖鋭にして、重厚。
凶暴にして、精密。
防ぐ腕そのものを壊し、また腕を擦り抜け、その向こうの体に突き刺さる指。
殺意の伝わる強度である。
死ね、死ねと、一打ごとに呪詛を込めて繰り出されるようであった。
具象化した殺意が、村雨の身を削ぐように突き刺さって行く。
防ぎきれるものでは無い。
腕の隙間を縫って、胸へ、腹へ、始めは中心線より随分外であったが、繰り返される度に正中線に近づいて行く。左馬の指先は刃物の如く、衣服も皮膚も、小さく刻む。
灰色の体毛に、白い雪に、赤い血が滲んで染まり始めた。
赤くなった雪を蹴立てて、村雨が蹴りを放った。左馬は高く高く跳んで、幾度目か、樹上へと逃れた。
――こうして、死ぬまで刻み続けるのか。
痛みは薄い――傷が浅いからだ。
これが、繰り返される毎に傷が広がって、深まって、流れる血の量が増える頃、左馬は降りて来なくなるのだろう。
血が流れ尽くすのを、高みから見下ろしながら待つ。
執念深い狩りのやり方は、過去に村雨がぶつかった敵とは、まるで異なる在り方だ。
「……師匠」
「軽々しく呼ぶな、半獣」
地上と樹上で、二人は視線を重ねる。
「楽しいですね、師匠」
村雨はまた、笑って言った。
この言葉が左馬を抉る槍になると、分かってそう言ったのだ。
だからこそ浮かべた笑みは、真からのものでなく、恣意的なものである。
「……ふざけるな!」
案の定、嚇怒が返る。
怒気が左馬を狂わせていた。
「ふざけるな、お前のような半獣が……生まれただけで強くなるような、いかれた人殺しの獣如きが! 楽しいだと!?
私は必死だ、負けたくない……誰にも負けたくないと、それだけで強くなった。なのにお前は、生きているだけで!」
膨れ上がる憎悪と殺意――霞む理性。左馬は、己が忌みながらも羨む、獣の領域に心を堕とした。
「良いか村雨、良く覚えておけ! 喧嘩に負けたくないだけで、私はお前みたいな餓鬼を殺せるんだ……ああ、殺せる! 殺してやる!」
枝が撓み、左馬は身を縮める。樹上から狙いを定め、右手を腰にまで引いた。
余興でも無い。食欲でも無い。義務でも無い。
生まれて初めて浴びる、憎しみによる殺意を浴びて、
「……こっわぁ……っははは」
村雨は頬を引き攣らせて、だが目を見開き、左馬を見た。
狂気に満ちた顔――正気ならば顔を背けたくもなろう、悍ましさに満ちた表情。
それを村雨は、正面から待ち構えて、
――行こう。
跳んだ。
村雨は高く、左馬よりも高く跳んで、高所の枝に立った。
そして、左馬が地面に手から着地し、両足で立とうとした瞬間、樹上より左馬へと跳びかかった。
「なっ……!?」
高所より振り下ろされる、村雨の踵。
避けて飛び退き、樹上へ逃れようとする左馬へ、村雨はぴたりと追いかけてまた跳躍した。
左馬が、枝の一つに、逆さにぶら下がる。
その時には村雨が、左馬のぶら下がる枝の上に立っている。
速度を上げ、跳躍し、また降りる事を繰り替えしても、村雨を振り切る事は出来ない。寧ろ、己に勝る強者を見つけた悦びが、村雨の力を増してさえ居た。
枝から枝へ、二人が移る。
時に離れ、時に近づきながら、己がより高みを奪おうとする。
そうして、位置取りを繰り返し、最も高い木の一つを上りきった時――
「――やめましょう、師匠」
村雨が突然、跳躍を止め、地上へ降りた。
左馬は丁度、一度地上へ降りて、もう一度舞い上がろうとする直前であった。
静かに呼び掛けられてさえ、渦巻く憎悪が収まる事は無い。
だが、歩いて近づいて来る村雨から、逃れようとはしなかった。
「これじゃあ、朝日が昇っちゃいますよ」
背丈と腕の長さに差はあれど、一尺も違う訳では無い。村雨と左馬が、最大の力で打ち合える間合いは、殆ど変らない。
その距離に、村雨が足を止めた。
足を開き、腰を落とし、示したのは一歩と動かぬ意思。
「……はっ」
怒りに頬を歪めながら、左馬もまた、同じ構えとなった。
互いに、左足を前に、右足を後ろに。右利きの人間が、全力で相手を殴る為の構えである。
「村雨」
「はい」
「私は、お前が大嫌いだ」
「私は、師匠に感謝してます」
その会話が、始まりの合図となった。
互いに振るった右拳が、互いの頬を打ち、首を横へと曲げさせた。
嬉々として村雨は、左の拳をまた振るう。
怒りを抱いたままに、左馬が左拳を振るう。
全てが全て、望む侭に命中する。
全て、渾身の打撃である。
村雨の拳が、左馬の顎を打った。
左馬の指先が、村雨の腹部に沈んだ。
忽ちに互いの血が、互いの手に付着した。
痛みの上に痛みが積み重なり、疲労が、四肢の機能を鈍らせていく。然し二人は、足を止めたまま、何処へも逃れようとはしなくなった。
だからこそ、差が浮き彫りになる。
全て削ぎ落とし、全く同じ条件に立って武を競えば――優位に立つのは、やはり松風 左馬であった。
次第に、村雨の拳が届かなくなる。
村雨の体に傷を刻みながら、同じ手で拳を払い落とし、左馬の手は休む事無く、翻り、吹き荒れた。
ひょう、ひょう、と風が鳴った。拳速に煽られて、積雪が花と散り、煌めく。
月夜に在ってこの殴り合いは、もはや幻想的な趣さえ有り、
「――おお」
それを見て、呻き、眩暈さえ感じた者が居た。雪月 桜であった。
割って入る為に山を馳せた筈の桜は、今、二者の争いに介入出来ず、音を殺して近寄るばかりであった。
――どうした事だ。
松風 左馬は、桜の古い友人である。二者が友人たり得る理由は、互いの力を認めているからである。
武器を持てば桜が勝ち、素手で争えば左馬が勝つ。何れも、相手に勝らぬと知っているからこそ、何時か超えんとしながら、互いを尊重して並べるのだ。
桜は、左馬の力に、絶対の信頼を抱いている。
この国でただ一人、己に勝る存在。それと村雨が――最愛の女が、正面から打ち合っているのだ。
止めるべきやも知れなかった。
数歩の距離まで近づいて、見て、分かる。左馬の目には殺意が浮かんでいる。桜自身が人を殺す時の、無造作な目では無い。こいつを殺してやると、絶対の意思の元に技を振るっているのだ。
既に死んでいても、おかしくない。
とうの昔に屍となっていても、おかしくなかった。
だが、村雨は生きていて、今、こんなにも楽しそうに戦っているのだ。
――強くなった。
桜の予想を遥かに超えて、強く、強く。
桜を恋に焦がれさせた、美しい獣の姿のまま、村雨が望んだ、人の理知を抱いた顔で。
血を流そうが、顔を腫らそうが、止める事などは出来ない。
汗の雫が飛ぶ距離、気付けば桜は立っていた。殴り合う二人は、桜の顔を見なかった。
「しゃああぁっ!」
「おおおおぉっ!」
雄叫びを上げて、二人は打ち合っている。
決着は間近であろう――この侭ならば、左馬の勝利でだ。
然し、そうまで追い詰められても村雨は、何時かの夜を思い出していた。
弟子として扱われて、一月も経った頃だろうか。
左馬は気分屋で、新しい酒が舌に合った時など、特に上機嫌になる事が有った。
そういう夜に、村雨は、左馬に連れ出されて、神山の一画へ足を運んだ。
「此処なんかが良い、此処にしよう」
その日、左馬は、昔語りをした。
桜と知り合ってから、互いの技を見せ合ったり、互いに教え合ったりをした時の話だ。
その中で、打撃の質に関する話題が有った。
左馬の用いる打撃と、桜の用いる打撃は、種類が違うという話だ。
村雨がその説明を求めると、左馬は意気揚々と、太い樹が生えている所まで歩いて来た。
「いいかい。桜が打つ拳は、こう」
そして左馬は、木の一つへ、思い切り振りかぶった拳をぶつけた。
打撃点を中心に、すり鉢状のへこみが、樹皮へと刻まれる。
破城槌で殴りつけたとて、こうはなるまいという威力である。
「あいつがやると、これでこの木が折れる。馬鹿力に任せて圧し折る――潰す、砕く。そういう種類の打ち方だ」
それから、次の木を選ぶ。
先に殴ったより、一回り太い樹である。
「私がやると、こうなる」
全ての関節を連動させ、起点から直線的に放つ拳。
左馬の拳が、手首まで、樹皮を貫いて幹へ埋まった。
引き抜けば拳痕の断面は、刃物で削ぎ落とされたが如き鋭さであり、
「私の打は、刺すものだ。速度と拳の強度で……貫くんだよ、人間を。防ぐ腕を、あいつは砕く、私は斬る。自慢じゃないけどね、人間の腹に指を刺して、腸を引きずり出した事だってあるよ私は。いやあ、あの時は手が熱かった。人間の腹の中は熱くて、熱くて――」
酔人特有の饒舌を振るいながら、更に一つ、左馬は別な木を選んだ。
その木に背を向けると、一歩、また木から離れたのだ。
そして、左回りに振り向くと、虚空に右拳を走らせた。
外から回しこみ、横へ薙ぎ払うが如き拳――それに続き、左裏拳がやはり、虚空を打つ。
村雨がその時に見たのは、勇壮に振りかざされる拳では無い。左拳が空を薙いだ瞬間、木へ向かって滑り進んだ左足であった。
その左足が、軸となった。
右足が地面を蹴り、左馬の回転が、更に加速した。
始めの右拳で半回転、次の左裏拳で四分の三だけ回転――最後の半回転が、ただ殴るばかりではあり得ぬ速度を生む。
身体全ての部位が、たった一つの目的の為に連動する。
届かせる事。
貫く事。
人域の外に有る速度を纏い、槍にも勝る指先が、樹木の中央へと突き刺さった。
いや――刺さって、突き抜けた。左馬の腕は、直径が二尺も有りそうな樹木へ、肩まで突き刺さっていた。
「これなら、桜も殺せる」
左馬はそう笑って、圧し折れる木を見ていた。
村雨は、左馬から遠ざかるように後方へ跳ねのき、左馬へ背を向けた。
左馬がそれを追い、がら空きになった後頭部へ、肘を叩き込もうとした。
振り向きざま、放たれる右拳――鉤突き。
側面から頭蓋を打ち抜かんとする拳は、左馬の左腕に払い落とされる。
――重量、速度とも申し分無しながら、不足。
この一撃では倒されない。余裕を以て左馬は迎撃し、右手の指で、村雨の喉を刺しに行った。
その手を、村雨の左手が払った。体を回転させながらの裏拳である。
二度の回転で、村雨の体は、恐ろしいまでの速度を得ていた。
――これは。
左馬が気付いた。気付き、そして、怒りよりも恐れよりも、驚愕だけが有った。
――出来るものか!?
――真似など出来る技か!?
形ばかりなら出来るだろう。然し――いや、惑うべくも無い。
左馬は必死で腕を引き戻し、肩と腕を上げ、頭をその影に庇った。
見栄えを捨て、優雅を捨て、実利だけを求める形。
「あああああぁぁっ!!」
拳であった。
人狼の全ての筋力が、速度に転化して放たれる、最速再重量の右拳。
防ぐ腕の外からでさえ、左馬の頭は激しく揺さぶられた。
視界が乱れ、景色の中に星が乱れ飛ぶ。空を見ているのか、地面を見ているのか、それさえ暫しは分からなくなった。
然し、何をされたかは分かる。
震える足で踏み止まりながら、左馬は歯を食い縛って、
――殴ったのか。
疲れ果てた体を動かす、怒りを更に湧き立たせた。
――こんな、紛い物の技で。
本来ならば、指を伸ばし、人体を刺し貫く技である。
村雨の指ならば、それが出来る事も、左馬は良く知っていた。
此の期に及んで村雨は、己より技量で勝る左馬を気遣ったのだ。
――私を!
左馬の足が、地鳴りする程に地面を踏みつけた。
「がああああああああぁっ!!」
そして、左馬の体が宙に舞った。
短い距離を、予備動作も無く――そして地を離れた瞬間には、既に回転が始まっていた。
先に村雨が見せた技とは、軸を直角に交わらせる、縦回転。
渾身の打を放ち、姿勢を崩した村雨の頭へ、左馬の両踵が落ちた。
跳び前転踵落とし。
何時か村雨が、片谷木(かたやぎ) 遼道(りょうどう)へと用いた技は、奇しくも左馬がもう一つ、村雨に見せず隠していた技と同形であった。
雪の上に、左馬は膝を着いた。
立っていられない――視界は未だに揺れている。左馬でなければ、跳ぶばかりか、一歩と歩くさえ出来なかった筈だ。
それでも、村雨もまだ、意識は有る。俯せに崩れながら、手が地面を探り、体重を支える場所を探している。
――とどめを。
這うように進む左馬の前に、黒い影が割り込んだ。
「……そこまで!」
刀の切っ先が、左馬の喉へと向けられる。
雪月 桜は、抑えきれぬ歓喜に満たされながら、片手で村雨を抱き上げていた。
比叡山に仏教徒が結集し、政府軍がそれを囲んでより、四度目の朔の夜であった。
長く続く戦闘に反し、比叡山、政府軍共に、兵の数は増える一方であった。
政府軍は、国内の何処からでも徴兵出来る。職業として正規兵を選んだ者とて、万を超える数が居るのである。
だが――何故、比叡山側の兵士が増えるのか。
それは、狭霧兵部の悪辣な軍運用にあった。
月に一度、比叡山を守る魔力障壁〝別夜月壁(よるわかつつきのかべ)〟が力を失う夜、狭霧兵部は比叡山の包囲網を、一箇所だけ緩めた。
緩める箇所は、その時に応じて違ったが、何れもが、仏僧の援軍の来る方角である。
僧兵は古より権力者の手を焼かせたが、芯から戦の為だけに鍛える兵士に、数でさえ劣るとなれば、勝る道理は何処にも無い。にも関わらず狭霧兵部は、彼ら援軍をほぼ素通りさせ、比叡に築いた城に篭る、反政府の兵と合流させた。
然し、荷駄は許さなかった。
数十の兵士を殺すより、米俵一つを奪い、焼き払う事を優先した。
自軍の囲まれた兵士を救うより、荷車の車輪を砕こうとした。
狭霧兵部は、己が知る、最も悍ましい死を与えるつもりであった。
干し殺しである。
「どうだ、今宵は」
「娘御殿は門を閉ざしたまま、表立っては攻めて来ませぬ。然し我らが動くを見越し、伏兵は既に仕込んでいるかと」
「そんなものは当然だ。俺が聞きたいのはだな、鬼殿よ。あの城の内がとち狂って、そろそろ無益に死にに来ていないかという事なのだ」
狭霧兵部和敬が、政府軍の本陣に在って、絢爛を誇る美食を味わっていた。
おそらくは洛中の料亭から、最良の腕利きばかりを借り出したものだろう。金額にすれば数十両――独り者なら十年も生きられよう金額になる筈だ。
肉も魚も、有り余って居る。一人の胃袋に収まる量では無い。
それを、食材一つに箸先を一度付けた程度で留めながら、狭霧兵部は比叡の山を睨んでいた。
「美味いなあ、あそこには飢えた連中が居るのだ。奴らが飢えれば飢える程、俺の飯は美味くなる。鬼殿、一つ摘まんでは見んか?」
「結構。戦場で体重が変われば、馴染んだ動きが出来ぬようになり申す」
白槍隊隊長、波之大江(なみのおおえ) 三鬼(さんき)は、口を真一文字に引き結んで立っている。
胡座で座す狭霧兵部と比べれば、高さは四倍もあろうかという巨躯に、ざんばら髪から覗く二本の角――鬼である。刃が子供の子供の体よりも巨大な鉞を担ぎ、源平時代の骨董品の如き大鎧を纏う姿は、最早生物では無く、仏像に魂が宿って動き出したが如き有様である。
その鬼は、ほおずきのように赤い目で、様変わりした戦場を睨んでいた。
反政府軍は、表立って打っては出ない。地形の理こそあれ、正面から政府軍とぶつかれば、装備の質も兵の練度も、蓄積した披露も、まるで違うと分かって居るのだ。
だから、散発的な奇襲に頼る。
森を抜けて、包囲網を形成する兵士へ奇襲を掛け、また城内へ戻る事を繰り返し――状況が外から変わるのを待っていた。
「そう気を張るな鬼殿よ。元よりこの戦に、俺達の負けなどあり得ぬのだ」
「……いかにも」
不遜なようでもあったが、狭霧兵部の言に、過ちは無かった。
山上の城を、数と質で勝る軍が囲み、更に補給も滞ってはいないのだ。
兵が疲れたら休ませれば良い。死ぬなら、次を送り込めば良い。そうして、比叡山の備蓄全てを吐き出させ、座主が飢えて死ねば、政府の勝ちとなる。
何もせずに待つだけで良い。それで、城の中に餓鬼道地獄が生まれ、城門は自ずと開かれる。
「信仰と、肉親が飢えて痩せゆく様と、何れが耐え難いかなど、俺は良く知っている。あの顔は楽しいぞ、己の肉を食わせようにも、骨と皮しか残っていない母親の顔は。なあ?」
贅を尽くした晩餐を前にしながら、茶碗に飯を盛って、狭霧兵部はかっ喰らう。その横には、鉄兜の側近が立って、狭霧兵部の言葉に、幾度も深く頷いていた。
「和敬様、今宵は風向きが良いです。この西本陣から、東へ向けて吹いています」
「ほう。ならばどうするね」
「少し遅いですが、飯を炊き、肉を焼きましょう。大鍋で味噌汁を沸かし、菓子もたんと作りましょう。上等の酒を開け、城門が見えるまでに運び、そこで音曲に耽りましょう」
「ふむ、俺好みだ。ならば槍を林に見たて、酒池肉林の再現などどうだ。城壁から覗き見る連中、涎と涙を流して悔しがるだろうよ」
戦とは、人の命を奪い合う行為である。
決して戯れに起こし、戯れながら続けてよいものでは無い。
然しこの主従は、戦の中にある残酷さだけを愛で、今も城壁の内に潜む者を、如何に苦しめるかだけを求めていた。
時折走り込んでくる伝令も、状況は変わらぬと続けるばかり。もはやこの戦場は、狭霧兵部和敬の掌中に有った。
だが――狭霧兵部が、四十にもならずして兵権を握ったには、訳が有る。
理屈では無い、直感の領域で、この男は危険を嗅ぎ分けるのが上手かった。
誰が、己に牙を向くのか。
誰が、己より強いのか。
誰かが己に恨みを抱いた時、その策謀が成るより先に嗅ぎ付け、踏み躙ったからこそ、狭霧兵部はこうして行きて居るのだ。
その直感が、この夜はやけに騒いだ。
直感というのは、何も超自然的な技能ばかりでは無い。周囲全ての、意識的・無意識を問わず収集した情報からなる経験則も、その一つである。
「…………」
「和敬様?」
他者の不幸を糧に美味を楽しみながらも、晴れぬ心。空にした茶碗を投げ捨て、叩き割りながら、兵部はこう言った。
「……〝目〟を飛ばせ! 全て、俺に繋ぐのだ! 奴らの陣は良い、本陣に普段の倍の目を向けろ!」
〝目〟――視覚共有の魔術に長けた術者達である。
彼らを櫓に登らせたり、あるいは大凧に括り付けたり、飛翔のすべを持つ者に担がせたりと、兎角高所に配置する。
そして、見ている情報全てを、本陣に座す狭霧兵部へと送り届けるのだ。
無論、数十人の見る情報全てを、同時に視界に移す事は叶わない。だから狭霧兵部は、一つの〝目〟につき、数秒も留まらずに切り替える。
高所より数十の目を用い、数百数千の兵士が群れなす戦場を、一歩と動かず俯瞰する。
そうして、見つけた。
「おい。あれは、何だ」
「は……?」
目を閉じ、瞼の裏に戦場を映しながら、狭霧兵部は虚空を指差した。
「本陣西、仰木が崩された! あれは何だ!」
未だ、誰の目にも見えぬ姿を指差し、狭霧兵部は憎悪に満ちた顔を晒した。
その理由は、側近にも、また三鬼にも計り知れないのだが、仰木という名前は知っている。
忠義と生真面目が強みの老将で、本陣近辺の守護を任されている。言うなれば、狭霧兵部の私兵が敷く最後の防衛線を、もう一枚、外側から取り巻く兵の長である。
それが、崩されているという。
三鬼が顔色を変えて、大鉞を手に、ずうんと足を広げて立った。八方何れから来ようとも、ただの一振りで断滅する構えである。
配下の槍持ち達が揃って、穂先をまだ見ぬ敵へ向けた。
矢をつがえる。
石を拾う。
幾人かの魔術師は、戦地に有り余る魔力を、己の身体が許容する限界にまで取り込んだ。
そこへ、女は現れた。
まだ幼い少女を、左腕に抱えた女であった。
夜の帳の中、松明の火を浴びて揺らめく姿は、緋の衣に覆われていた。
修道女の、くるぶし丈のトゥニカである。
頭巾も赤く、燃えるような、夏に大きく咲く花のような鮮やかさが有った。
腰に結ぶ紐は、穢れを知らぬ白である。
然し修道女は、十字架を携えていなかった。腰から吊り下がるべきロザリオを、彼女は何れにも身につけていないのだ。
足取りの中に、力が有った。
優れた絵描きは、作品ばかりでは無く、筆を操る姿さえ美しいと言わんばかりに、女が秘めた機能は、歩む事だけで美を産んだ。
足跡さえ、足音さえ、優美である。
だのに女は力に満ちていた。
夜の中に浮かんだ赤は、ただ、静かに歩いた。
誰を害する意思も無く、誰に害される恐れも持たず、修道女は戦場を歩いていた。
「……殺せ」
狭霧兵部が、思いついたように言った。
「殺せ!」
怒り狂いながら、愉悦の予感を得て、歯を?き出しに笑って言った。
全て、つがえられた悪意が、女へと向けられた。
数十の矢、数十の石、炎も雷も、刃も、無差別に、女へと向けて放たれた。
爆薬を一息に炸裂させたが轟音と粉塵の中に、鏃が、礫が吸い込まれて行った。それは、一個の人間を殺すには、過剰とも言える力であって――
「鼓に交わり讃えよ、鐘に合わせて主に歌え。詩歌賛美を我らが主に奉じ、崇め御名を呼び求めよ。
そは戦神、魔手を挫くもの。蛇の舌を剣で刺し止め、我が道に灯りを共し、威光を以て我を陣幕へ導きたもう」
歌うような、声がした。
爆ぜた火が散った後には、炎の壁がそびえ立っていた。
矢も、石も、魔術も、全てを防ぎ焼き尽くす壁の向こう――炎が消えた時、女は化けていた。
「かの人ら、西に在り」
濡れ羽の髪に黒備え、雪月 桜がそこにいた。
女として高い背は、五尺と七寸。
袴も小袖も黒だが、堅苦しい肩衣は無し。身分など知らぬ自由人である。
帯までも、黒。
さばかりか、袖を繋ぐ縫い糸までも、黒。
夏も冬も、ただ一色、こればかりを纏う女伊達。
然し、これ程に同じ色を集めたとて、彼女の髪には到底及ばぬのだ。
長さは三尺、光を受けずとも艶めかしい濡れ羽烏の黒髪。指を通せば根本まで、一度と止まらず手櫛を通せるのだろう。指に救えばさらさらと、せせらぎのように流れるのだろう。
だが、触れる事など能わぬのだ。
右手には脇差、左手には少女。後方には脱ぎ捨てた緋の修道服。眼光鋭く、唇には諧謔。
幾百の兵を前にして、威容は寧ろ、軍勢を呑む。
「かの人ら西に在り、地に群れ無して在り! 川に堰となり、丘陵には蝗となり、山林を焼き、若人を刃にかけ、乳飲み子を地に打ち、幼子を貨と贖い、乙女を奪わんと我らに告げたり!」
「……黒八咫。やはり、生き延びていたか……!
三鬼が大股に、兵士を幾人か跨いで進み出た。
この場で桜に勝るのは、かつて力でねじ伏せた己以外に無い。
「止まれぃ! 刀を捨て、縛につけば良し。ならぬとあらば拙者、此度こそはそっ首を、兵部殿への手土産とせねばならん!」
警告――無用無価値と知っている。
ごう、と振り上げた鉞を、桜の首目掛け、三鬼は万力込めて振るった。
まともに当たらずとも良い。柄でも触れれば、人骨は砕ける。鬼とは、理由無き強者である。
「……ははっ」
桜は目を見開き、真っ直ぐに、三鬼目掛けて走った。
鉞の刃が、首へ迫る。
桜は、戦場に立つのは初めてであったが、この時に浴びた殺意には、寧ろ懐かしささえ感じた。
――見ていろ。
桜は、鉞の柄に飛び乗った。
首を飛ばさんと、鬼の剛力で振るわれる高速の、長柄の得物へと、少女を抱えたままで飛び乗ったのだ。
そのまま、馳せる。
柄の上を走り、三鬼の手へ迫り――
「む、ぬううっ!?」
手首、肩。二か所を踏み台に、桜はまた跳んだ。
三鬼の右腕を手酷く蹴り付けながら、数間も距離を引き剥がして、振り返りもせずに走ったのだ。
三鬼の後方には、数百の兵士が、各々の得物を携えていた。
然し、二の矢をつがえる暇は与えられない。
一歩毎に、積もった雪を爆ぜさせて走る桜は、兵士達の中央へと突き進んだのだ。
「皆、捕えよ! 縄を掛け、鎖を絡め――」
「殺せ!」
追い付けぬ。三鬼はそう知って、鐘よりも響く大音声で、部下達に命じた。然し、それを塗りつぶす命を、狭霧兵部は続けて与えた。
槍が、刀が、桜へと殺到する。
そうして、火花が無数に散る中を、桜は速度を変えぬまま走り続けるのだ。
――なんだ!?
殆ど全ての兵が、計り知れぬ事態を、ただ見る事しか出来なかった。
桜の斬撃は、おおよそ肉眼で捉えられるものでは無かったのだ。
身に迫る槍の穂先、刀の刀身、全てを全て、皮膚ばかりか髪にさえ届かせる前に、神速の斬撃で斬り落とした。
鎧も、兜も、併せて割っていた。
然し、血は、ほんの一滴も零れてはいないのだ。
「殺せ!」
四度目の号令に、白備えの兵士達に割り込む、異装の集団が有った。
これがまた、見事な赤備えの、若い兵士達である。
規律を問うならば、先の兵士達に著しく劣る。だが、戦地を恐れぬ事であれば、彼らが勝る。
彼等は、鎖の先に鉄球が取り付けられた凶器を、十数人がかりで保持し、そして一人が振り回していた。鎖で絡め取り、全員で引き倒す、馬でさえ縊り殺す兵器である。
人の頭蓋より二回りも巨大な鉄球が、桜の顔目掛けて放たれた。
「然して我らが全能の主、女の腕以て彼等を退けたり!」
目に影さえ写さぬ速度で、脇差は鞘へ帰った。そして桜は、飛来する鉄球へ、右拳を真正面から叩き込んだ。
ただの一撃。
鋼の塊が砕け散り、破片が飛散する中で、桜は鎖を掴み、右手に巻き付けた。
それでも、走る事は止めない。
鎖のもう一端を掴む十数人の、横を駆け抜けても、止まらない。
数歩を行き、鎖が伸び切った。それでも、桜は止まらなかった。
「う、わあああっ、あああああっ!?」
「なんっ、止まらねえ、クソがぁっ!!」
ほんの一時と、踏み止まる事は出来ない。
桜は十数人の男達を、立ち上がる暇も与えない程の速度で引きずった。
石や木の根との摩擦で、男達の鎧が削れ、陣羽織が千切れる。三十間も行く頃には、鎖を掴んでいた者は、皆が皆、手の力を失って脱落していた。
「かっ――何してんだ穀潰し! くそ、止めろ!」
赤備えの兵士の中から、一際の異装が、桜を追いながら毒づいた。
赤心隊の長、|冴威牙(さいが)という、若い男である。
上半身こそ、素肌に十徳羽織を重ねただけの軽装であるが、腰から下は草摺に獣革の靴。脛も膝も、これも獣の皮革で守っている。そしてこの異相からも見えるように、脚が自慢の男であった。
た、た、たと、小気味よく音を刻んで、困惑する兵士の群を抜けて、冴威牙は桜を追いながら、
「紫漣(しれん)! あいつを止めろっ!」
「はいっ!」
上空、〝翼を広げて旋回する女〟へ叫んだ。
空色の振袖の背を、右肩から大きく切り込みを入れて、そこから白翼を広げている女である。
亜人でも有翼の種族は、日の元には珍しい。かつて、村雨とも浅く因縁を持った、紫漣という女であった。
さしもの桜も、翼には速度で劣る。正面へ、紫漣は容易く回り込んで、
「……あれを殺せば、褒めてくださいませね!」
錐にも似ているが、更に長く太く、鋭かろう凶器を構えて、桜の心臓目掛けて飛翔した。
ただ真っ直ぐに走る桜。その正面から、決して軌道を譲らず、加速して行く。
衝突。
いや、桜が上へ避けた。
「!?」
「お――紫漣!」
桜は、鎖を掴んだままで走っていた。
その鎖を、紫漣の頭上を飛び越える瞬間、翼と腕に巻き付け、瞬時に縛り上げたのである。
墜落、加速そのままに転がって、十数間も先で止まった。兵士の幾人かが血相を変えて、鎖を解こうと、転がったまま動かぬ紫漣へ群がった。
「てめぇ、このアマァッ!!」
遂に冴威牙が、桜に追い付いた。
追い抜き、二歩先へ行った瞬間、振り向きざまに放たれたのは、蹴りであった。
例えるならば、鋼の硬度と重さを持った、撓る鞭。人の首など容易く圧し折る類の、そして並の剣撃より余程速い蹴りである。
それを桜は、何事も無いように、右手で軽く払い落とした。
足を無理に地面へ落とされ、ほんの数瞬動けなくなった冴威牙の顔面を、桜の右手ががしりと掴んだ。
「ぐがっ!? ガアアアアァッ!!!」
「あれは、お前の女か?」
顔面を指で締め上げながら――ともすれば頭蓋が歪み砕けんばかりの痛みを与えながら、桜は戯れるように問い、
「ああいう女は、縛ると映えるな。間違い無いぞ」
答えが返らぬうちに、掴んだ冴威牙の頭部を、足下の地面へと投げ捨てた――装備を合わせれば二十五慣は越えそうな冴威牙の体が、毬のように弾んだ。一度では無く、二度、三度と弾んだのであった。
群が、ただの一人に、二つに立ち割られる。
正しく無人の野を行くが如し。誰も、立ちはだかろうとは思えぬ姿――人ならば。
ついで桜の眼前に現れたは、大口径の大筒であった。
口径、三寸。
48ポンドの砲丸を、爆薬の力で射出する、舶来の兵器――カノン砲。
砲手は絶倒の確信を以て、砲身の火口に注いだ火薬へ点火した。
試射の際は、家屋を叩き潰し、巨木を数本纏めて圧し折った。それを人体へ射出するのである。
轟。
耳鼻を震わせる爆音が、戦場に轟いた。
砲は、日の本ではまだ歴史の浅い武器である。然し砲手は、西洋の技術者を狭霧兵部が招き、その下で算術からを叩き込んだ、専門の兵士であった。
兵器と、兵に、なんらしくじりは無い。
ただ一つ、計算の外を上げるならば、敵は雪月桜――凶鳥、黒八咫であった事。そして、日の本の技術で扱えるのは炸裂砲弾でなく、重量をそのままに叩き込む実体弾のみということであった。
砲口へ向け、桜は右手を伸ばした。翳した掌へ、爆炎の速度を以って、砲弾が迫り――五指が、砲弾を包む。
桜は、高速の砲弾を片手で掴み取り、そのまま右手を後方に流しながら、左足を軸に回った。
その回転で、僅かにも砲弾の速度を殺した後は――力で、衝撃を押さえ込んだ。
歩みは止まった。その代わり、桜は、攻城兵器を素手で捩じ伏せたのである。
そうして、左足が高く上がり、右腕が降り被られた時、砲手は己の持ち場を投げ捨てて遁走していた。
「そうら、返してやる!」
おおよそ六貫の砲弾――砲丸を、桜は砲身へと投げ返した。最新鋭のカノン砲は、無残にも口から腹を貫かれ、鉄屑と成り果てたのであった。
最早敵するものも無い。敵本陣を一文字に裂いて、比叡の山の斜面を駆け上がり、様変わりした山上を見た。
反政府軍の唯一の生命線、分厚く高い城壁は、日々生物の如く膨れ上がり続けている。
城壁に用いられて居るのは、戦場に残る一切である。
即ち、残留した無色の魔力。
即ち、打ち捨てられた武具。
即ち、敵味方を問わず、屍の骨。
そういったものが、怨念と共に土に練り込められ、月に一夜の戦に備え、残る時間を注ぎ改修を続ける城であった。
その西門が、桜に呼応して、向こうから口を開けた。
便乗し乗り込もうとする者は居ない。
雪月 桜は、無人の野を行くが如く、比叡の城へ入ったのであった。
比叡山に築かれた城――便宜的に、比叡城と呼ぶべきであろうか。その城門は、三重の構造になっていた。
一つ門をくぐって入ると、また眼前に門が有り、その向こうにまた最後、もう一つ門が備わっているのである。
その門全てが、桜を迎え入れる為に開いて、今また、桜の背後で閉ざされた。
城壁の中には、小さな集落が広がっていた。
ボロ小屋と櫓が、幾つも入り混じって立ち並ぶ、寒村のようでもある。
ずっと向こうの方に、柵で区切られた区画があったが、そこは雪が溶けた後、畑にでもするつもりなのかも知れない。人が集まる所に壁を作っただけ――大陸風の、集落を内に取り込んだ城である。
城壁に屋根は無い。壁の内側は外と変わらず、雪が降り積もっている。その上に立っているのは、様々な年格好の、兵士には見えぬ者達であった。
彼等は、或いは彼女等は、槍や弓を持っている。武器を持つ姿が似合わぬ、幼い子供まで平等にである。
表情には疲れも、そして怯えも有った。内から城門を開けて迎え入れたとはいえ、素性も分からぬ女が、刀を携えて城内に居るのだから、無理も無い。
然し、一部には、動揺と高揚が、五分で混ざっている者も居た。櫓か、或いは城壁の上で、桜の疾走を見届けた者達だ。政府の軍中を、それこそ無人の野の如く駆け抜けた女が、よもや敵であろうとは思わなかったのだ。
そして、その安堵を更に広く伝播させたのは、桜より一つか二つ幼いくらいの、白髪を頭の後ろで束ねた、傷だらけの少女であった。
「よう、紅野(こうや)。怪我は無いか?」
「売る程も有るよ、半分くらい持ってけ泥棒」
狭霧 紅野。
兵部卿、狭霧和敬の長女にして、今は反政府軍の首領格を務める少女である。
得手とするのは槍。幾つも、幾つも、使い潰しては捨てているのか、真新しかろうに、既に傷の目立つ槍を携えている。
元より傷に覆われていた腕も、顔も――きっと衣の下も、ふた月半前と比べて、更に傷を増やしている。
世が世で、父が父ならば、奏楽や花と戯れていてもおかしくない歳で、またそれだけの家柄に在りながら、少女はどんな兵士よりも多く、また深い傷を、その身に残していた。
そうして紅野は、人を助けようとする。
己の身体に傷を残しながらも、誰かが傷つかなかった事を喜びとして、それだけを理由にして戦える少女である。
桜もまた、彼女に命を救われた一人であった。
「土産だ」
左腕に抱えたままの少女の、袂へ手を突っ込んで、桜は大きな紙包みを引き出した。それを、ゆるやかに紅野へ放ってやると、受け取った紅野は、その場で封を引き千切った。
「……煙草か!」
「煙管の中身も切らした頃だろうと思ってな」
ふた月半の籠城を経て、紅野の煙管は、久しく無聊をかこつ身の上であった。
今すぐにでもこれに火を着け、煙をぐうと吸い込みたいと言わんばかりに、傷だらけの顔一杯に喜色を浮かべた紅野であったが、
「桜、またすぐ走れるか?」
「ふた晩程ならば。それ以上は寝不足になる」
「頼もしいな。……なら、悪いがついて来てくれ」
「構わん。こいつに、誰か付けてやってくれるか?」
その葉を、また包みに戻して、近くの男に押し付けた。
今宵は、城壁に取り付かれてはおらぬといえ、戦である。如何なる手段で攻撃があるか、腰を落ち着けて待てる状況では無い。
そしてまた、立て続けに打って出るというなら、桜も子供連れでは戦えない。
包みを受け取った男がそのまま、少女の――さとの手を引いて行った。
「狩野、佐伯、五人ずつ選んで付いて来い! それから爺さん、あんたも頼む!」
「おう、やあっと俺が出られんのか。よしよし、荷車か、それとも人か、どっちじゃい」
「どちらも行きたい、今夜のうちにたんと欲張ろう。南門に向かうぞ!」
ぐわっ、と城内を歓声が埋めた。
これまで、只管に耐え続けた彼等。妥協し続けてきた彼等が初めて、小さくとも、勝利を得られるやも知れないという予感が、子供をさえ、拳を突き上げ叫ばせていた。
「南に、何か来るのか」
「援軍の僧兵と兵糧だ。……最悪でも、兵糧だけは城内に運びたい。そうしたら私達は、まだ暫くは戦えるんだ。
これまでは、輸送部隊を迎え入れるのに割ける手勢が限られていたけど……桜。あんたがいれば、融通が利かせられる」
そう言って紅野は、櫓の一つに駆け上がった。
槍を掲げ、人の目を集め、彼等の呼吸の周期が自分に揃うのを待って、
「西門側のお前達! 狭霧兵部はきっと、今夜、直ぐに此処は攻めて来ない! けれど、だからこそ此処の守備を、私が離れている間、完全に任せる!」
それは、兵士が戦場で利くには頼りない、少女の声であったかも知れない。
だが、比叡城に籠る彼等には、限りなく力強い声であった。
夜空へ高く、歓声が昇って行く。分厚い城壁さえ揺れるような音声(おんじょう)。
その中を紅野は、直ぐ右手に桜を、左手には老剣士を、そして後ろに十人少々の手勢を連れて歩いて行く。
南門もまた、三重構造の頑丈な作りである。
こちらは、大量の物資と兵員を招き入れる為、暫くの間、解放し続ける必要がある。
とは言え、紅野が打って出てから戻るまで、ずっと門を開けたままにしておけば、政府軍までなだれ込んでくる事になりかねない。
だからこそ紅野は、精兵だけを連れていく。
自分達が外へ出た時点で門を閉ざし、再び門を開くのは、周囲の敵兵を一掃した時。南門近くに敵兵の集団が有れば、どれ程に外の面々が追い詰められようと、救援は出さないし、出せない。
敵を倒せぬなら、そのまま死ぬ――そういう場所に紅野は、自ら出て行く。
「それが大将のやる事か?」
「こうしてるから、皆は付いて来てくれる。……開聞!」
城門が開き、紅野を筆頭とした十五人は、城壁の外へ出た。
政府軍の兵士は、かなり遠巻きになっている筈だが、それでも開けた道は抑えているに違いない。
荷車を通せるだけの道に、どれだけの兵が居るかは分からないが、その一部を蹴散らし、兵糧を迎え入れる。
積極的に、勝ちに行く戦いでは無い。負けを遠ざける為、少しでも長く耐える為の戦いである。
十五人の背後で、三重の城門が閉ざされた。
外へ出れば、走る。
荷駄の来る道へと、脇目も振らずに走る。
「おい、そこの娘」
「……? なんだ、そこの老人」
走りながら、老剣士が、桜に向かって呼び掛けた。
桜は知らぬ事だが、この老剣士は、かつて『錆釘』に所属していた。
そして、最初の朔の夜、政府軍側として出陣した果てに、薊という男の腕を斬り落とし、比叡山側へと逃げたのである。
元より老人は仏教徒であり、狭霧紅野とも内通していた――それだけの事ではあるのだが、その様を見ていた村雨を、混乱に陥れるには十分な事態であった。
「お前、何処かで俺と合ったりはしとらんかい」
その老剣士は、桜の顔を見て、首をしきりに傾げている。
「あまり軟派はされぬ性質だが、まさか祖父でもおかしくない年齢の相手にされたのは初めてだ」
「ばあか野郎、そういうのじゃねえよう」
桜が返した軽口に、老剣士は閉口してしまって、それ以上は何も言わなかった。
やがて、火が見えてくる。松明である。
道を照らす術として、魔術も確かに方法の一つだが、それより長く使われている、信頼のおける手段だ。
それだけではなく、自分が此処にいると、味方に知らしめる事も出来る。
だが――それはつまり、敵も近づいてくるという事だ。
既に敵兵の気配が、すぐ近くにある事を、十五人全員が感じ取っている。
「構えろ! 何時も通りだ、まずは近づいてくる奴だけをやれ! 飛び道具持ちを見つけたら、その都度仕留めに行け!」
「つまり行き当たりばったりって事だね副隊長!」
「ああそうだ、そういう事だよ狩野!」
副隊長――そういう呼び方をするのは、夜襲に似合わぬ、真っ白の衣装の男である。
狭霧紅野は、白槍隊。つまり政府最精鋭部隊の、副隊長を務めていた。
狩野と、それからもう一人、佐伯という男は、どうやらその頃からの部下であるらしい。
誰にも、怯えは無い。
だが、生きて帰れる保証など、感じていない。
「……桜、三つ聞きたい」
「なんだ」
「あの子供、なんだ?」
敵兵の気配が近づくのをひしひしと感じながら、紅野は唐突に、桜に訊ねた。
「あれは、私の恩人だ。私より丁重に扱ってくれ……丁重にな」
「戦争をしている城に連れてきて、丁重にって言うのはな……ちょっと、その、困る」
「私は千人分働く。それに、あれにも……さとにも、働かせる。あれは存外に骨のある娘だ。お前達がかくまっている子供と同じように、さとにも接してやってくれ」
「……まあ、あんたが良いなら良いが。子供を連れてくるような所じゃないよ、もう」
「だろうな。で、後の二つはなんだ」
言いながら、桜は脇差を抜いた。
万力込めて握りしめても、緩みもせぬ金属の柄。生半の刀であれば、桜の力に耐えられず、砕け散る。
そういう得物をがしと掴んだ桜は、まさしく戦場の鬼神である。
だが紅野には、僅かに憂いが有った。
「……殺せるよな、誰かを」
「………………」
そういう事か、と。何も言わずとも、桜は寂しげな目をした。それが十分に語っていた。
「あんたが走ってくるのを見てたよ。誰も殺さないで、見事に単騎駆けをやってのけた。ありゃあ凄いさ、私にしてからが見惚れちまった。
……でもな、それじゃ駄目なんだ。私達がやってる戦いって言うのは……」
「おい」
語る紅野を、桜が止めた。
前方から、幾本かの火矢が飛来したのだ。
紅野は槍で、桜は脇差で、あっさりとそれを撃ち落とす。
そうして、次の矢をつがえるより速く、二人はそれぞれ、別な射手に肉薄した。
紅野は、射手の頭を槍で貫き、一撃で命を奪い取っていた。
桜もまた、射手の頭を左手で掴むと、
「……さとに、返り血を浴びせられるか?」
「そうだな……案じるまでもないんだよな、あんたは。……悪い」
射手の首を、脇差で飛ばした。
それが合図になったかのように、岩陰やら木の陰やら、或いは草むらに伏せていた政府軍の兵士達が、わあっと声を上げて向かって来る。
荷駄部隊までの道を、桜は文字通り、切り開いて突き進んで行った。
赤い波が、幾度も幾度も、夜の空を彩った。
夜が明けて、兵士が撤退を始めてようやく、狭霧兵部は自軍の現状報告全てを受け取った。
相変わらず、被害は軽微である。
だが、その内容が、いつもと違う事に、狭霧兵部は苛立っていた。
「……これは、なんなのだ。これは!」
狭霧兵部が見ているのは、破壊された大筒やら、〝切断された〟刀やら槍やら――それに、無傷の兵士である。
本陣主語の兵士に、死者は殆どいない。
いるとすれば、癇癪を起こした狭霧兵部が、大鋸を振り回して首を落とした数人ばかり。
雪月桜は、敢えて本陣を一直線に断ち割って走った。
波之大江三鬼を飛び越え、数十の刀剣を切断し、赤心隊を一蹴し、大砲に至っては砲弾を掴んで投げ返した。それだけの大立ち回りを仕出かして、死者は一人も出ていないのだ。
つまりは、あしらわれただけだった。
狭霧兵部は、洛中の――つまりは皇国の兵権を預かる頂点である。即ち軍隊も、己の所有物であるとさえ考える。
その傲慢な思考が、兵士の敗北即ち、己の所有物の劣等であると結論付けた。
自分が、相手に劣るものを所有している――我慢のならぬ事であった。
「無能共が! 良くものうのうと生きていられるな! あの場で腹掻き切って死ね、不甲斐無い愚図共!」
今の狭霧兵部には、誰も近づけない。
鉄兜の側近さえが、大鋸の間合いの外に立ち、おろおろと周囲を見渡しているばかりである。
その間にも伝令が、十数人は、報告の為に集まっている。無論彼等も、近づけば両断されると分かっているから、何もする事は出来なかった。
陣幕を切り裂き、脇息を蹴立てて、憤怒の形相。並みの男ならばまだ良いが、ここで荒れ狂っているのは、道場を幾つか預かれるような剣の達人であるのだ。
「……冴威牙、止めて来なさい」
鉄兜の側近が、あっけなくあしらわれた一人である冴威牙に面倒を押し付けようとする。
地面にどっかと胡坐を組んだ冴威牙の、羽織の襟を掴んで、引きずって行こうとするのである。
「ふざけんなよ吉野さん、殺されちまうだろ……」
一方で冴威牙も、自分が鋸挽きされるのは堪らぬと、そこから動こうとはしないのだ。
もう暫くは、誰も狭霧兵部に近づけぬのだろう――そういう予感が、彼等には有った。
だが、そう思わぬ者が居た。
それはどうやら、政府軍の人間では無い様子である。
雪月桜は、兵士達のど真ん中を、力任せに断ち割って駆け抜けた。
一方で〝こちら〟は、ただ歩いているだけなのだ。
だが、兵士達は、それを避けた。
〝彼女達〟は、とりたてて危険を振りまいている様子は無いのだが、然し近づくなと警告するものが有る。
それは、片方が背負った、長大な太刀であった。
見事な黒塗りの柄と、鞘の目立つ太刀である。
太刀とは言うが、それにしても長すぎる。刀身は四尺も有るし、柄も拳二つで握って、まだもう少しは余る。
鞘も金属作りである為、傍から見ている以上の重量が有りそうだ。
そういう、はったりの利いた得物を背負った少女が、もう一人の少女に先んじて、狭霧兵部の方へ歩いて行くのだ。
「おっ――おい、てめぇ」
冴威牙が、少女を引きとめようとした。知らぬ顔では無かったのだ。
その静止が聞こえぬかのように、少女は、狭霧兵部の間合いに入る。
「かあぁあっ!」
少女が間合いに足を踏み入れた瞬間、狭霧兵部は少女の顔を見ぬまま、その首目掛けて大鋸を振るった。
と、少女も恐るべき速度で応える。
瞬時に、背の鞘の蝶番を外し、四尺の大太刀を抜く。
刃までが黒塗りの、分厚い太刀である。
それで、大鋸を、がっしりと受け止めた。
「……お?」
狭霧兵部は、不意に表情に理知を戻した。
自分の斬撃が止められた――そればかりならば、もう一撃を加えていただろう。
彼に取って重要なのは、大鋸を受け止めた黒太刀が、見覚えのあるものだったからである。
『斬城黒鴉(ざんじょうこくあ)』。
刀匠、龍堂玄斎の手による、頑強無比の太刀である。
「『錆釘』より、お呼びもございませんが――」
太刀が、大鋸を弾いた。
互いに手は届かず、だが声は届く距離に立ち、
「八咫の脚を手土産に、村雨、ただいま参りました!」
酷く殴られて顔を腫らしたままだが、この場の誰よりも、村雨は輝かしく笑っていた。
「ところで、紅野」
「あん?」
荷駄部隊を城内に迎え入れ、日が昇った。
これでまた一月は戦いが無い――奇妙な戦である。
然し城壁の裏側は、負傷者と、回収した死者と、外から迎え入れた兵とで、鍋を引っ繰り返したが如き様相となっていた。
桜も、紅野もまた、血塗れであった。
桜は返り血だけで、黒い衣服を赤に染めている。
紅野は返り血もそうだが、幾つかは己の手傷も有る。それでも、治療を急ぐ程では無い。
「質問、三つ目とはなんだ」
桜は紅野に、途中になっていた質問の続きを促した。
紅野の方はと言えば、自分の質問ながら、暫くは内容を思い出せずにいたが――
「……そうだ。背中のあれ、どうした?」
「背中の……ああ」
桜の背中、本来ならば黒太刀が背負われている筈の場所を指差して問う。
「取られた」
それだけを言って、はにかむように笑ったのであった。
月の美しい夜だった。
丸く、一つとて欠けた所の無い月が、雲の無い紺色の空に浮かんで、白い山を見下ろしているのだ。
風は緩やかで、静かである。
虫は雪の下で眠り、鳥は洞で翼を休め、獣は木陰に息を潜める。洛中の北方、神山は、気配に満ちながら静まり返っていた。
その、頂上に近いが、少し開けた所に、一人と一頭が向かい合っていた。
山の序列の二番に立つ亜人と、一番に立つ人間である。
二人は数間の間を開けて、雪の上に立っていた。
「良い夜だね、村雨」
「はい」
「酒が美味くなる夜だ」
「付き合いますか」
「お前じゃ駄目だ、直ぐに潰れる」
村雨は冗談めかして言い、松風 左馬もまた、笑いながらその言葉を受けた。
ほがらかに笑いながら、左馬は雪の上に手を置いた。
柔らかく、軽く、だが重なれば圧縮されて重みを増す雪。人の足が届かぬ山では、膝を過ぎるまで雪は積み重なっている。
その硬さを、左馬の指が探っていた。
同じように村雨が、足裏の感覚で、雪の強度を見ていた。
「書いてきたかな、遺言は」
「いいえ」
「そうかい、お前が筆不精だとは知らなかった」
足場は酷いものだった。
このような場所で、敵を迎え撃つなど、考えたくも無い悪条件。
並の脚力ならば、走る事さえまま成らぬ雪。
その上を、左馬は、まるで空に道を掛けたかのように、予備動作の無い跳躍で、村雨へと寄った。
同時に村雨は、足元の雪を爆ぜさせて、後方へと逃れていた。
「……字を書くのは苦手だけど、だからじゃない」
「へえ、生意気を言うようになった」
始めより、少しだけ狭まった二者の間隔。
村雨が、雪に両手を触れさせて――堰が切られた。
投石よりも固く重い拳が、矢継ぎ早に飛ぶ。
その全てが、村雨の顔面を狙っている。
人間の顔は硬いし、歯が指を傷つけると、手が酷く腫れあがる事もある。素手で顔面を殴るのは得策でないが――それは無論、常識人の範疇の事である。
松風 左馬は常人では無い。
巨木も自然石も、或いは鎧さえ打ち砕く拳は、人骨の強度などまるで問題にしない。左馬の本気の拳が、最良の距離で命中したら、人の頭蓋は砕けるのである。
村雨は、両腕を前方へ思い切り伸ばし、腕で拳を払いながら、落としきれぬ分は体を左右に振って避けている。
然し、数が多すぎる。
始めはある程度の余裕を以て受けていた打撃が、次第に村雨の腕を痺れさせ、反応を遅らせて行く。
このままでは被弾する――ならば、先に当てる。
左馬の拳の嵐の中に、矢のように、村雨の右拳が割り込んだ。腰の高さから、振り上げるように撓る、独特の軌道の拳である。
乱打では無い。狙い澄まして一閃する、磨き抜かれた太刀筋が如き拳である。そして、繰り返す事を前提にせぬ分、単純な速度と重さならば、左馬の拳一つよりは上を行く。
左馬の左頬に、村雨の拳が当たった。
――手応えが。
左馬の首が、ぐりんと横を向いた。
手応えが無い。拳が触れる瞬間、首を拳と同じ向きに回して、衝撃を逃がしたのである。
見切れる速度の拳なら、村雨も同じ事は出来る。だが、左馬の拳は、一つをそれで逃がしても、次が直ぐに飛来するのだ。
首だけで流すのは無理だ。払うか、体ごと射程の外へ逃げるか、何れかしか無い。村雨は後者を選び、右足をほんの少しだけ後ろへ引こうと――
「らあぁっ!」
「!?」
その足を、左馬が踏んだ。
頑丈な靴底で思い切り、村雨の足の甲を踏みつけたのである。
雪と村雨自身の靴が緩衝剤とはなるが、寸拍、村雨の足が地面に縫い付けられる。
既に体重は後方へ動いていた――姿勢が崩れ、踏み止まろうと、左足が咄嗟に後ろへ出る。
計算された動きの中の歩では無く、止むを得ず取らされた不利な姿勢を、左馬は見逃さない。大きく踏み込みながら、右手を村雨の頭へと伸ばした。
――危ない。
村雨は、踏み止まる足を自ら外し、雪の上に倒れ込んだ。
左馬が何をしようとしたか、村雨は重々理解している。
あれは、髪を掴んで引きよせようとしたのだ。
頭髪は存外頑丈なものであり、一束も掴めば、それで人間を容易く引き寄せられる。しかも部位の構造上、指に絡めて保持し易く、また引き寄せた時は相手が、自らへ頭を垂れる姿となるのである。
膝で顔を潰しても良い。
後頭部に肘を落としても良い。
逆の手で目を抉るのも、そう難しい事ではあるまい。
童同士の喧嘩でさえ使われる技術ながら、恐ろしい技でもあるのだ。
それから逃れて仰向けになった村雨の腹目掛け、左馬は踵を振り下ろした。
膝で防ぐ――痛みより先に、痺れが骨の内側に染み渡る。
踵も、また必殺の打である。
体重を乗せて踏めば、稚児とて大の男を殺し得る。まして左馬の踵であれば、人のはらわたを潰すなどは容易かろう。
雪を分けて転がり、手を付いて半分立ち上がりながら、村雨は師の用いる技に戦慄した。
――殺す気だ。
そもそも向かい合った時、あの目がそう言っていた。
この月の満ちた夜――己が最も不調となる夜を狙い、この師は自分の命を奪おうとしている。
まだ一撃さえ受けずとも痛む腹を抑え、手を雪から浮かせようとすれば、再び踵が、後頭部を踏み潰さんと振り下ろされた。
仰け反り、躱す。
「『噴』ッ!」
落下した足が、雪に触れた刹那、軌道を変えて再び跳ね上がる。下腹目掛け、硬い爪先が、突き刺すように打ちだされた。
「ぁ――あっ」
これも村雨は防いで見せた。
然し、交差した両腕が下腹部に触れていた。衝撃は腕を抜け、村雨の腹に浸透する。
「っ、ぁ、あ……!」
雪上をのたうちたくなるような、異種の鈍痛が村雨を襲う。口が勝手に開いて、音にならぬ声を、やけに喉に絡む唾液と共に吐き出させた。
だが、動きを止める事は許されない。
左馬の右拳が振りかぶられて、ごう、と風を引き攣れて走った。
上段右鉤打ち。
村雨の左側頭部目掛けて、名に偽り無き鉄拳が飛ぶ。
間に挟んだ左腕ごと、村雨の体が雪から引き抜かれ、倒木のように横倒しになった。
「っは、あ……はっ……!」
短い攻防――左馬が息を荒げている。
己の拳を受け、雪に身を半分も埋めた村雨を見下ろしながら、肩で息をしている。
戦場でさえ呼吸を乱さぬ女には、有り得ぬ事であった。
どうしたのかと、村雨は思わず問いそうになった。
――どうしたというなら、全部だ。
村雨は、良く分からぬまま、山の頂上まで歩かされた。そして、左馬と向かい合った。
その時に初めて、左馬の言葉は戯れでもなんでもないと、自分を殺したいのだと理解した。
然し、その理由が分からない。
疎ましくなったのなら、蹴り出せばいい。
ただ殺すなら、他に手は有るのだ。何故、こうして、自分に抵抗の余地を与えたのか。
鍛錬の趣向の一つかと、村雨も思わないでは無かった。
然し、目の中に浮かぶ憎悪は、決して偽りで帯びられるものでは無い。
「……立つな」
左馬が、そう言うのが聞こえた。
普段と逆の事を言っていると思えば、命を狙われているというに、村雨は少しばかり笑みを浮かべてしまう。
普段の左馬ならば、村雨に散々の無理を強いた後、それでも立てと言うのだ。
思えば、好き放題に殴られ蹴られる所から、村雨の修行は始まった。
防ぎ、躱し続けて、痛みから逃れる術を体に刻まれて、それからやっと技術を学んだ。
だから村雨の武の根幹には、防御という巨大な根が通っている。
「立つな、二度と……!」
左馬の呪詛を受けながら、村雨は立った。
拳は受けたが、片腕を間に挟んだし――着弾の瞬間、拳と逆方向に、僅かにでも跳んだ。多少視界は揺らいでいるが、致命打にはなっていない。
「……師匠、なんで」
村雨が問うも、答えは無い。
代わりに左馬が、雪を蹴立てて迫って来た。
駆け寄る速度を乗せた、右拳。形よりも重さを重視した、潰す為の打撃。
これは防げない。上体を低く沈めつつ、村雨は左拳を打ち返す。当てる場所は何処でも良い、当てて後ろへ押し返せればそれで良かった。
だが、その拳を左馬は、更に体を接近させる事で、距離を潰して威力を殺した。そして、村雨の首を、上から脇に抱え込もうとした。
「ぅわわっ!」
――折られる。
死を予感させる首への接触。
村雨は全力で首を引きながら、右足を思い切り振り上げ、左馬の顎を狙った。
左手越しに、その蹴りは当たった。然し左馬は、膝を揺らしもしない。崩れた姿勢と、足場の悪さが、蹴りに本来の威力を与えなかったのである。
そして、雪の中で、左馬の右足が進んだ。
雪の下にある土を、靴底で噛むようにして踏み込み、足首が回った。
膝が回る。
腰が回り、胴が回り、胸が回る。
肩が、肘が、手首が回る。
全ての旋回が拳に結集し、積もった雪を巻き上げ、渦となった。
刹那に村雨が感じ取った幻想やも知れないが、兎角、左馬の拳は吹雪を固めたかの如く吹き荒れた。
それが、村雨の胸の中心を、強かに叩いた。
――眠っていた。
どれ程の時間だろう。
いや、時間が経っていないのは分かっている。自分の体がまだ浮いているからだ。
下が雪なのはありがたい。痛みは幾分か抑えられるし、俯せになれば殴られた箇所を冷やせる。
けれども、落下の間隔は、どれだけ経っても慣れないものだ。
そうら、落ちるぞ落ちるぞ。
どさっ。
「ぐっ……!」
背への衝撃。元々空になっていた肺は、これ以上吐き出すものも無いが、それでも声だけは漏れた。
仰向けに落ちて、空を見るのも、もう幾度目になるのだろうか。
立ち上がって打ちかかれば、また転がされて、空を見て――そういう事を幾度も繰り返して来た。
自分は強くなったと思っていたし、いや実際、かなり強くはなったのだ。
このまま続けていれば、もう少し強くなれる筈だ。
けれども、そのもう少しは、何処まで伸びている道なのか。
――変な事を考える自分だ。
見える所に上限など有るものか。目の前の女でさえ、強さの底が見えやしないと言うのに――それ以上の化け物と、旅を共にしてきたのだ。
それでも、限りに届かずともようやっと、あの化け物と並んで歩けそうな気がする、それまでは鍛えた。
昔ならば、今の拳だけで動けなくなっていただろう。
今ならば、立てる。それだけでなく、まだまだ戦える。
至福の中に、戦いはある。如何に血を忌もうとも、翻って受け入れようとも、純然たる事実は変わらない。
――私は、戦うのが好きだ。
村雨は月を見て独白する。
自分はどうしようも無く、血みどろの争いを好む性質に生まれて、その性質を一切矯正できぬままに育った。
抑えれば抑える程に、血を望む本性が空腹を増す。己は生粋の人殺しである。
そう生まれた自分が、自分をさえ意思の侭にする道具こそ〝強さ〟なのだと思い、それを求めて師を定めた。
然し、どうにもそれは、終わりにしなければならないらしい。
倦みが見えた。
あのまま留まって、ゆるゆると力を積み上げるのは、きっともう、無益な事なのだ。
誰が為にも、終わらねばならない。
誰の為にも、終わらせねばならない。
きっと師匠も――左馬も、それを嗅ぎ取ったから、ああなったのだ。
自分は嫌われていた筈だ。それが何処かで、そうでなくなり始めた。
私を嫌えなくなった事を、きっとあの偏屈も、何処かで気付いてしまったのか。
本当の所は、何も分からない。
それでも、何も困らない。
今、自分は殺されようとしているが――
「っ、はは、っははは、あはははっ、あははははははっ」
楽しい。
たのしい。
「――死ぬ気がしないね」
拡大する瞳孔。
水色を帯びる、眼球の強膜。
関節の可動域が増し、周囲の腱が、筋肉が太く強く、加重を凌ぐ強度になる。
咥内に並ぶのは、歯では無く、牙。
心拍数が増大し、四肢の隅々まで、大量の酸素を供給する。
首を、腕を、足を、灰色の体毛が覆った。
何時かの夜、兵士三人を惨殺した、あの時の姿をそのままに、
「師匠! 悪いけど、私が勝ちます!」
心は鎖に繋ぎ止めて、村雨は雪の中へ両手を付いた。
凍土の王者、最強の狩人――人狼が、月下に目を覚ました。
「……やっと出たか、半獣め」
「その呼び方、嫌いなんですけど!」
両手を地面に触れさせ、腰を僅かに浮かせ、顔を獲物へ向ける。獣の構えをした村雨へ、吐き捨てるように、左馬は言った。
雪の中に在ると、何を狙うにもやり辛い構えである。
横からの打が、雪にぶつかり、僅かにでも速度が落ちる。十全の威力をぶつけるなら、正面か、もしくは上から打つしかない。
そしてこの構えの利点を、村雨自身も、勿論知っている。上や正面からの打撃は、普段以上に警戒しているとなれば、そう容易く痛打は与えられない。そして打ち下ろすとなれば、拳を自分の腰より低くへ放つというのは、力を乗せづらいものなのだ。
だが、最大の脅威は――
「しゃあっ!!」
両脚に、両腕までを加えた、『四足歩行』の踏み切りである。
それこそ、先に倍する速度で、村雨は左馬目掛けて跳びかかった。
打撃では無く、体全体でぶつかりに行っただけだが、速度が尋常では無い。
「ぐっ!」
左腕で受けながら、右拳で殴り付けようとした左馬であるが、衝撃は予想以上――片腕で支えるのは難しい程。固めていた拳を開き、左腕の後ろに当て、村雨の体重を推し留めた。
――腕が塞がったなら。
右膝で、受け止めた村雨を打とうとする。
高く膝が上がる。
然し村雨は、その膝を踏み台にして、左馬の後方へと跳んでいた。
「このっ!」
振り向きざまに左裏拳と、左後ろ蹴り。村雨が立っていれば、喉と鳩尾に突き刺さったのだろうが、これは村雨の頭上を過ぎる。
ざがっ。
雪が、大量に舞い上がった。
両手を雪に突き刺し、思い切り腕を振り上げただけだが、周囲も白銀、視界に飛び込むのも白雪。ほんの一瞬、左馬は距離感覚も、方向感覚も失った。
それでも、村雨が再び攻撃に転じていれば、その気配を迎撃する事は出来ただろう。然し村雨は、左馬に打ちかかるのではなく、更に構えを低くして、積雪の中に身を潜り込ませたのである。
――稚拙な雪遊びだ。
正しく。雪があと一尺も有れば良かったが、この量ならば、体全てを雪に埋めても、背中の高さが目立ってしまう。
だが、それは日中ならばの話だ。
月こそ美しいが、夜である。
雲が流れてくれば光も翳るし、他に光源など有りはしない。村雨の体毛も、夜の雪に紛れるには都合の良い色で、見分ける事を難しくする。
時間とするなら、瞬き二つ分だけ、所在を掴むのが遅れる。
それだけあれば、この二人の戦いには、長すぎる程である。
村雨が、姿を消した場所から、ほんの二尺だけずれた所に飛び出して、左馬へ打ちかかった。左手――いや、左前足を拳にしての、膝狙いの打撃である。
脛を上げて受け、殴り返せば、眼前から村雨が消えている。
一瞬ならぬ二瞬後、見つけた時には、また村雨が先手を取って殴りかかって来た。
左馬は、防御を捨てた。
右膝を殴らせる代わり、拳を振り落とし、村雨の肩を打った。
腹を殴らせる代わりに、胸に肘を打ち込んだ。
頬を殴らせる代わりに、頬を殴りつけた。
一撃に対して、一撃を返す。
一撃に対し、一撃しか返らない。
まるで二人の実力が拮抗しているかのような、互角の打ち合いが行われていた。
――何だこれは。
殴り合いながら、左馬は、己が演じている芝居を、観客の目で見ていた。
――筋書が壊れている。
十数年を武に費やした女が、たった二か月鍛えただけの子供と、互角に殴り合っている。
拳の重さは、左馬が上だった。
拳の速さならば、次第に村雨が勝り始めた。
雪を隠れ蓑に、片時と止まらずに馳せ続ける村雨。疲れなど知らず、寧ろ動きは増々速度を上げて行く。
幾つか良い手応えが有るのに、動きが鈍らない、仕留められない。
それが左馬には、我慢がならなかった。
元より殺す気で殴っていたし、殺しても良いと思っていた。拳は間違い無く、全力で振り抜かれている。
だが、目の前の獣は死なない。
武芸者も職業兵士も、何人も殺せるだろう技をぶつけて、死なないどころか動き続け、殴り返して来る。
――こいつは、
左馬は、己の心が、己の望ましく思う形に凍り付いていくのを感じていた。
一つ殴り、一つ殴り返される度、要らないと思っていた感情が抜けて、吐き出す呪詛に真実が混ざるのだ。
立つな、とはもう言わない。
寧ろ立ち上がり、そして打ちかかって来いとさえ祈る。
こんな温い打で倒れるなら、積み重ねた妄執の一切を、何処へ逃がせば良いのか分からなくなるのだ。
顎を打たれ、膝が揺れた。
――こいつは、嫌いだ。
左馬の中に、己が戻った。
整った顔立ちに、酷く醜い笑みを浮かばせて、左馬は跳躍していた。
高く、遠く――近くに立つ巨木の、太い枝の高さまで跳んで、
「ねえ、村雨……」
枝に、逆さに釣り下がる。
初めて村雨がこの山に登り、その前で桜と左馬が殴り合った時も、村雨はこの姿を見た。
人間が蝙蝠にでもなったかのように、枝の一本から逆さに下がる光景――満月の灯りを糧に、村雨はその種を見た。
左馬は靴を脱ぎ捨て、足の親指と人差し指の二本だけで、己の体重を保持していたのである。
「……やっと、お前を殺せそうだよ」
笑っているのか、泣いているのか、腹を立てているのか。
どれとも付かぬ程、混然となった悍ましい顔が、月の逆光で影を纏う。
「嬉しいです、師匠」
雪より激しい寒さに襲われながらも、村雨は、笑みだけを空に返した。
松風 左馬は、獣になりきれなかった人間だ。
情を振り払う為、どれだけの暗示を己に掛けて、やっとあの技を引き出したものだろう。
村雨は、人になりきれない獣である。
全力の感情をぶつけられるのが、堪らなく心地良くてならなかった。
満月の夜空を仰ぎながら、雪月 桜は、京の北を歩いていた。
一度、比叡の山から東へと旅立って、奥州まではるばる向かい、立ち返るまでにふた月と半。かの地の雪を見ていれば、この地の積雪など、如何程のものにも見えない。
街は、暗い。
家々は早々に灯りを消して、しんと息を殺して眠っている。
その中を抜けて、桜は夜の道を、神山へ向かっている。
村雨が、奥州への同行を拒んだ時、予感は有った。あれは自分より強く成ろうと言うのだ。
それが叶う場所は、洛中には一つしかない。
松風 左馬の亜人嫌いは、桜も知る所である。生まれついての強者である亜人は、積み重ねて来た左馬とは、決して相容れないのだと。
だが、引き留めはしなかった。
もはや桜に取って、村雨は、一方的に庇護し愛玩する相手では無い。一個と一個の命として、向かい合うべき存在であるのだ。
村雨がそう望み選んだ道は、今、どう伸びているのか。
それが知りたくて、桜は、足早に歩いていた。
夜の山は、雪灯りの他に、何も光を放たない。風も弱く、木々が揺れる様さえ見えぬ、山の静かな夜である。
「土産が無いな……構わんか」
普段なら美酒の一つも持って行くのだが、洛中に入った時点で、既に日が暮れていた。酒屋を無理に開けさせるのも気が引けて、手ぶらのままで桜は山を登り始めた。
すると、直ぐに何か、奇妙に気付く。見たというよりは、音やら空気の流れやらで総合的に計る、経験則の一種である。
立ち止まり目を細めると、山の上から少女が一人、こちらも早足で山を降りてきた。
「お……? おうい、どうした、そこの」
まだ遠い内から、桜は少女へ呼び掛けた。
見覚えの無い顔で、また武芸者のようにも見えない。この山にはとても似合わぬ姿だ。
静かな山であり、呼び掛ければ直ぐに向こうも桜へ気付く――と、足を更に速めて来る。
「お、お……? おい、どうした。お前のような知り合いは――」
「助けて! 誰か、お願いです、助けてっ……!」
山を降りて来たのは、みつであった。
村雨より低い背で、雪を掻き分けて――街まで出ようとしていた。
異常を桜は知り、膝を曲げ、みつと目の高さを揃える。
「……何が有った」
「殺されちゃう、む、村雨さんが――」
其処までを聞いて、桜は、雪を爆ぜさせて走っていた。
みつは、その場に置き去りにしたが――抱えて行くよりは余程優しいのだろう。
雪も、木々もまるで異に解さず、桜はただ真っ直ぐに突き進む。枝が圧し折れる渇いた音は、直ぐに遠ざかって、みつには聞こえなくなった。
樹上より逆さにぶら下がる左馬は、拳を解いていた。
戦意の喪失では無い――用いる技の段階を、一つ上にしたという事だ。
手首から先で放つ打撃には、多数の種類がある。
まず、誰もが思いつく、原始的なものが、拳。
手を痛めない為に用いる技としては、手の平――掌底。これは硬い部位を打つのに良い。
指先を揃えて突けば、脆い部位へ突き刺す貫手。
曲げた指で引き裂く虎爪。
更に指を深く曲げて、手の平と指の甲を打ち付ける熊手。
指を解き放つだけで、狙える箇所と方策は無限に増える。
左馬は、それらを全て解放した。
枝にぶら下がったまま、膝を縮める。重心が持ち上がり、枝がぐわんと撓んで――逆方向、地面へ向けて撓り返す。
その時、左馬が、地面へ向けて跳んだ。
「――っ!?」
枝の反発、重力、跳躍。全てを乗せた速度は、普段の踏み込みの比では無い。
突き出す右手は虎爪――五指全てを緩やかに曲げて、その先端を村雨へ向けている。
村雨は、咄嗟に後方へ飛んだ。前髪にかすらせて、それこそ紙一重、雷槌は雪に突き刺さった。
「ひゅっ――」
息を吸って、吐いた。左馬の口から発した音だ。
左馬は足を付かず、寧ろ片腕で体重を支えたまま、両脚をごうと振り回した。
頭、肩、胸。立て続けに三度、爪先で刺すような蹴りを放つ。
これまでとはまるで軌道の違う蹴りに、さしもの村雨も、全て防ぐ事は出来なかった。
「くっ……!」
右肩を酷く蹴り付けられながら、自らも蹴りを打ち返す村雨。
然し、その蹴り足の上を、左馬は片腕で跳躍して超えた。
後方へ一歩退いて、そこからまた跳躍――先とは違う木の枝に下がる。
――これが、師の技か。
頭上からの攻撃へは、反撃が難しい。
加えて、落下の速度を己の打撃に乗せられる。
地上に立っているのなら、どれ程の技量が有れども、十割の体重は、拳に乗らない。足が必ず地上に接しているからだ。
左馬の秘拳は、重量を全て腕に乗せ、敵へとぶつけられる。
反動は、無論、極端に大きい。並みの鍛錬であれば、肩も肘も手首もいかれてしまう。
それを左馬は、易々と衝撃を吸収し、寧ろ腕だけで跳躍さえやってのける。
もはや人の域の技に在らず。
松風 左馬は、人外への憎悪を糧に、人外の域へと踏み込んでいるのだ。
また、次が降る。
先と角度を変えて、村雨の首筋を狙い、右手中指を付き出しながら、左馬は自らを地面へと打ち出した。
「か……このっ!!」
村雨は、迎撃を優先した。左腕を掲げて盾としながら、右拳を振り上げる。
振り上げの拳は、真横へ打つよりは、威力が劣る。接近の速度も有り、最適の間合いでは当て難い。頭へ拳は命中したが、左馬が怯む事は無かった。
手で着地し、手で跳躍し、足で殴りかかる。
跳躍してから着地するまでの間、三つも四つも、村雨目掛けて打が繰り返される。
頭と言わず、腹と言わず、滅多矢鱈に蹴りが繰り返され、村雨の防御を打ち崩さんとする。
重い、そして止まらない。
打ち返せると思った時には、左馬は上空へ逃れている。
落下。胸を指先が狙った。
蹴撃。次第に打撃の質が、その場で痛めつける事では無く、互いの間合いを突き放すべく、押し飛ばすような蹴りへと変わって行く。
跳躍し、逃れる。
同じ事の繰り返しだ。
だが、決して破れぬ技が、延々と繰り返されるのは、受ける側には恐怖でしか無い。
――何処で打ち返せばいい!?
その機が、無い。
「……は、ぁ……ふっ」
数間向こうで漸く、左馬が両足で地上に降り立った。
息は荒いが、殴り合いが始まった頃より、落ち着いているようにも見える。
今しかないと、村雨は雪上を、四足で馳せて左馬へ迫った。
「おおおぉっ!」
迎撃もまた、乱打。
拳では無い、ありとあらゆる手形を用いて、左馬は村雨を打つ。
尖鋭にして、重厚。
凶暴にして、精密。
防ぐ腕そのものを壊し、また腕を擦り抜け、その向こうの体に突き刺さる指。
殺意の伝わる強度である。
死ね、死ねと、一打ごとに呪詛を込めて繰り出されるようであった。
具象化した殺意が、村雨の身を削ぐように突き刺さって行く。
防ぎきれるものでは無い。
腕の隙間を縫って、胸へ、腹へ、始めは中心線より随分外であったが、繰り返される度に正中線に近づいて行く。左馬の指先は刃物の如く、衣服も皮膚も、小さく刻む。
灰色の体毛に、白い雪に、赤い血が滲んで染まり始めた。
赤くなった雪を蹴立てて、村雨が蹴りを放った。左馬は高く高く跳んで、幾度目か、樹上へと逃れた。
――こうして、死ぬまで刻み続けるのか。
痛みは薄い――傷が浅いからだ。
これが、繰り返される毎に傷が広がって、深まって、流れる血の量が増える頃、左馬は降りて来なくなるのだろう。
血が流れ尽くすのを、高みから見下ろしながら待つ。
執念深い狩りのやり方は、過去に村雨がぶつかった敵とは、まるで異なる在り方だ。
「……師匠」
「軽々しく呼ぶな、半獣」
地上と樹上で、二人は視線を重ねる。
「楽しいですね、師匠」
村雨はまた、笑って言った。
この言葉が左馬を抉る槍になると、分かってそう言ったのだ。
だからこそ浮かべた笑みは、真からのものでなく、恣意的なものである。
「……ふざけるな!」
案の定、嚇怒が返る。
怒気が左馬を狂わせていた。
「ふざけるな、お前のような半獣が……生まれただけで強くなるような、いかれた人殺しの獣如きが! 楽しいだと!?
私は必死だ、負けたくない……誰にも負けたくないと、それだけで強くなった。なのにお前は、生きているだけで!」
膨れ上がる憎悪と殺意――霞む理性。左馬は、己が忌みながらも羨む、獣の領域に心を堕とした。
「良いか村雨、良く覚えておけ! 喧嘩に負けたくないだけで、私はお前みたいな餓鬼を殺せるんだ……ああ、殺せる! 殺してやる!」
枝が撓み、左馬は身を縮める。樹上から狙いを定め、右手を腰にまで引いた。
余興でも無い。食欲でも無い。義務でも無い。
生まれて初めて浴びる、憎しみによる殺意を浴びて、
「……こっわぁ……っははは」
村雨は頬を引き攣らせて、だが目を見開き、左馬を見た。
狂気に満ちた顔――正気ならば顔を背けたくもなろう、悍ましさに満ちた表情。
それを村雨は、正面から待ち構えて、
――行こう。
跳んだ。
村雨は高く、左馬よりも高く跳んで、高所の枝に立った。
そして、左馬が地面に手から着地し、両足で立とうとした瞬間、樹上より左馬へと跳びかかった。
「なっ……!?」
高所より振り下ろされる、村雨の踵。
避けて飛び退き、樹上へ逃れようとする左馬へ、村雨はぴたりと追いかけてまた跳躍した。
左馬が、枝の一つに、逆さにぶら下がる。
その時には村雨が、左馬のぶら下がる枝の上に立っている。
速度を上げ、跳躍し、また降りる事を繰り替えしても、村雨を振り切る事は出来ない。寧ろ、己に勝る強者を見つけた悦びが、村雨の力を増してさえ居た。
枝から枝へ、二人が移る。
時に離れ、時に近づきながら、己がより高みを奪おうとする。
そうして、位置取りを繰り返し、最も高い木の一つを上りきった時――
「――やめましょう、師匠」
村雨が突然、跳躍を止め、地上へ降りた。
左馬は丁度、一度地上へ降りて、もう一度舞い上がろうとする直前であった。
静かに呼び掛けられてさえ、渦巻く憎悪が収まる事は無い。
だが、歩いて近づいて来る村雨から、逃れようとはしなかった。
「これじゃあ、朝日が昇っちゃいますよ」
背丈と腕の長さに差はあれど、一尺も違う訳では無い。村雨と左馬が、最大の力で打ち合える間合いは、殆ど変らない。
その距離に、村雨が足を止めた。
足を開き、腰を落とし、示したのは一歩と動かぬ意思。
「……はっ」
怒りに頬を歪めながら、左馬もまた、同じ構えとなった。
互いに、左足を前に、右足を後ろに。右利きの人間が、全力で相手を殴る為の構えである。
「村雨」
「はい」
「私は、お前が大嫌いだ」
「私は、師匠に感謝してます」
その会話が、始まりの合図となった。
互いに振るった右拳が、互いの頬を打ち、首を横へと曲げさせた。
嬉々として村雨は、左の拳をまた振るう。
怒りを抱いたままに、左馬が左拳を振るう。
全てが全て、望む侭に命中する。
全て、渾身の打撃である。
村雨の拳が、左馬の顎を打った。
左馬の指先が、村雨の腹部に沈んだ。
忽ちに互いの血が、互いの手に付着した。
痛みの上に痛みが積み重なり、疲労が、四肢の機能を鈍らせていく。然し二人は、足を止めたまま、何処へも逃れようとはしなくなった。
だからこそ、差が浮き彫りになる。
全て削ぎ落とし、全く同じ条件に立って武を競えば――優位に立つのは、やはり松風 左馬であった。
次第に、村雨の拳が届かなくなる。
村雨の体に傷を刻みながら、同じ手で拳を払い落とし、左馬の手は休む事無く、翻り、吹き荒れた。
ひょう、ひょう、と風が鳴った。拳速に煽られて、積雪が花と散り、煌めく。
月夜に在ってこの殴り合いは、もはや幻想的な趣さえ有り、
「――おお」
それを見て、呻き、眩暈さえ感じた者が居た。雪月 桜であった。
割って入る為に山を馳せた筈の桜は、今、二者の争いに介入出来ず、音を殺して近寄るばかりであった。
――どうした事だ。
松風 左馬は、桜の古い友人である。二者が友人たり得る理由は、互いの力を認めているからである。
武器を持てば桜が勝ち、素手で争えば左馬が勝つ。何れも、相手に勝らぬと知っているからこそ、何時か超えんとしながら、互いを尊重して並べるのだ。
桜は、左馬の力に、絶対の信頼を抱いている。
この国でただ一人、己に勝る存在。それと村雨が――最愛の女が、正面から打ち合っているのだ。
止めるべきやも知れなかった。
数歩の距離まで近づいて、見て、分かる。左馬の目には殺意が浮かんでいる。桜自身が人を殺す時の、無造作な目では無い。こいつを殺してやると、絶対の意思の元に技を振るっているのだ。
既に死んでいても、おかしくない。
とうの昔に屍となっていても、おかしくなかった。
だが、村雨は生きていて、今、こんなにも楽しそうに戦っているのだ。
――強くなった。
桜の予想を遥かに超えて、強く、強く。
桜を恋に焦がれさせた、美しい獣の姿のまま、村雨が望んだ、人の理知を抱いた顔で。
血を流そうが、顔を腫らそうが、止める事などは出来ない。
汗の雫が飛ぶ距離、気付けば桜は立っていた。殴り合う二人は、桜の顔を見なかった。
「しゃああぁっ!」
「おおおおぉっ!」
雄叫びを上げて、二人は打ち合っている。
決着は間近であろう――この侭ならば、左馬の勝利でだ。
然し、そうまで追い詰められても村雨は、何時かの夜を思い出していた。
弟子として扱われて、一月も経った頃だろうか。
左馬は気分屋で、新しい酒が舌に合った時など、特に上機嫌になる事が有った。
そういう夜に、村雨は、左馬に連れ出されて、神山の一画へ足を運んだ。
「此処なんかが良い、此処にしよう」
その日、左馬は、昔語りをした。
桜と知り合ってから、互いの技を見せ合ったり、互いに教え合ったりをした時の話だ。
その中で、打撃の質に関する話題が有った。
左馬の用いる打撃と、桜の用いる打撃は、種類が違うという話だ。
村雨がその説明を求めると、左馬は意気揚々と、太い樹が生えている所まで歩いて来た。
「いいかい。桜が打つ拳は、こう」
そして左馬は、木の一つへ、思い切り振りかぶった拳をぶつけた。
打撃点を中心に、すり鉢状のへこみが、樹皮へと刻まれる。
破城槌で殴りつけたとて、こうはなるまいという威力である。
「あいつがやると、これでこの木が折れる。馬鹿力に任せて圧し折る――潰す、砕く。そういう種類の打ち方だ」
それから、次の木を選ぶ。
先に殴ったより、一回り太い樹である。
「私がやると、こうなる」
全ての関節を連動させ、起点から直線的に放つ拳。
左馬の拳が、手首まで、樹皮を貫いて幹へ埋まった。
引き抜けば拳痕の断面は、刃物で削ぎ落とされたが如き鋭さであり、
「私の打は、刺すものだ。速度と拳の強度で……貫くんだよ、人間を。防ぐ腕を、あいつは砕く、私は斬る。自慢じゃないけどね、人間の腹に指を刺して、腸を引きずり出した事だってあるよ私は。いやあ、あの時は手が熱かった。人間の腹の中は熱くて、熱くて――」
酔人特有の饒舌を振るいながら、更に一つ、左馬は別な木を選んだ。
その木に背を向けると、一歩、また木から離れたのだ。
そして、左回りに振り向くと、虚空に右拳を走らせた。
外から回しこみ、横へ薙ぎ払うが如き拳――それに続き、左裏拳がやはり、虚空を打つ。
村雨がその時に見たのは、勇壮に振りかざされる拳では無い。左拳が空を薙いだ瞬間、木へ向かって滑り進んだ左足であった。
その左足が、軸となった。
右足が地面を蹴り、左馬の回転が、更に加速した。
始めの右拳で半回転、次の左裏拳で四分の三だけ回転――最後の半回転が、ただ殴るばかりではあり得ぬ速度を生む。
身体全ての部位が、たった一つの目的の為に連動する。
届かせる事。
貫く事。
人域の外に有る速度を纏い、槍にも勝る指先が、樹木の中央へと突き刺さった。
いや――刺さって、突き抜けた。左馬の腕は、直径が二尺も有りそうな樹木へ、肩まで突き刺さっていた。
「これなら、桜も殺せる」
左馬はそう笑って、圧し折れる木を見ていた。
村雨は、左馬から遠ざかるように後方へ跳ねのき、左馬へ背を向けた。
左馬がそれを追い、がら空きになった後頭部へ、肘を叩き込もうとした。
振り向きざま、放たれる右拳――鉤突き。
側面から頭蓋を打ち抜かんとする拳は、左馬の左腕に払い落とされる。
――重量、速度とも申し分無しながら、不足。
この一撃では倒されない。余裕を以て左馬は迎撃し、右手の指で、村雨の喉を刺しに行った。
その手を、村雨の左手が払った。体を回転させながらの裏拳である。
二度の回転で、村雨の体は、恐ろしいまでの速度を得ていた。
――これは。
左馬が気付いた。気付き、そして、怒りよりも恐れよりも、驚愕だけが有った。
――出来るものか!?
――真似など出来る技か!?
形ばかりなら出来るだろう。然し――いや、惑うべくも無い。
左馬は必死で腕を引き戻し、肩と腕を上げ、頭をその影に庇った。
見栄えを捨て、優雅を捨て、実利だけを求める形。
「あああああぁぁっ!!」
拳であった。
人狼の全ての筋力が、速度に転化して放たれる、最速再重量の右拳。
防ぐ腕の外からでさえ、左馬の頭は激しく揺さぶられた。
視界が乱れ、景色の中に星が乱れ飛ぶ。空を見ているのか、地面を見ているのか、それさえ暫しは分からなくなった。
然し、何をされたかは分かる。
震える足で踏み止まりながら、左馬は歯を食い縛って、
――殴ったのか。
疲れ果てた体を動かす、怒りを更に湧き立たせた。
――こんな、紛い物の技で。
本来ならば、指を伸ばし、人体を刺し貫く技である。
村雨の指ならば、それが出来る事も、左馬は良く知っていた。
此の期に及んで村雨は、己より技量で勝る左馬を気遣ったのだ。
――私を!
左馬の足が、地鳴りする程に地面を踏みつけた。
「がああああああああぁっ!!」
そして、左馬の体が宙に舞った。
短い距離を、予備動作も無く――そして地を離れた瞬間には、既に回転が始まっていた。
先に村雨が見せた技とは、軸を直角に交わらせる、縦回転。
渾身の打を放ち、姿勢を崩した村雨の頭へ、左馬の両踵が落ちた。
跳び前転踵落とし。
何時か村雨が、片谷木(かたやぎ) 遼道(りょうどう)へと用いた技は、奇しくも左馬がもう一つ、村雨に見せず隠していた技と同形であった。
雪の上に、左馬は膝を着いた。
立っていられない――視界は未だに揺れている。左馬でなければ、跳ぶばかりか、一歩と歩くさえ出来なかった筈だ。
それでも、村雨もまだ、意識は有る。俯せに崩れながら、手が地面を探り、体重を支える場所を探している。
――とどめを。
這うように進む左馬の前に、黒い影が割り込んだ。
「……そこまで!」
刀の切っ先が、左馬の喉へと向けられる。
雪月 桜は、抑えきれぬ歓喜に満たされながら、片手で村雨を抱き上げていた。
比叡山に仏教徒が結集し、政府軍がそれを囲んでより、四度目の朔の夜であった。
長く続く戦闘に反し、比叡山、政府軍共に、兵の数は増える一方であった。
政府軍は、国内の何処からでも徴兵出来る。職業として正規兵を選んだ者とて、万を超える数が居るのである。
だが――何故、比叡山側の兵士が増えるのか。
それは、狭霧兵部の悪辣な軍運用にあった。
月に一度、比叡山を守る魔力障壁〝別夜月壁(よるわかつつきのかべ)〟が力を失う夜、狭霧兵部は比叡山の包囲網を、一箇所だけ緩めた。
緩める箇所は、その時に応じて違ったが、何れもが、仏僧の援軍の来る方角である。
僧兵は古より権力者の手を焼かせたが、芯から戦の為だけに鍛える兵士に、数でさえ劣るとなれば、勝る道理は何処にも無い。にも関わらず狭霧兵部は、彼ら援軍をほぼ素通りさせ、比叡に築いた城に篭る、反政府の兵と合流させた。
然し、荷駄は許さなかった。
数十の兵士を殺すより、米俵一つを奪い、焼き払う事を優先した。
自軍の囲まれた兵士を救うより、荷車の車輪を砕こうとした。
狭霧兵部は、己が知る、最も悍ましい死を与えるつもりであった。
干し殺しである。
「どうだ、今宵は」
「娘御殿は門を閉ざしたまま、表立っては攻めて来ませぬ。然し我らが動くを見越し、伏兵は既に仕込んでいるかと」
「そんなものは当然だ。俺が聞きたいのはだな、鬼殿よ。あの城の内がとち狂って、そろそろ無益に死にに来ていないかという事なのだ」
狭霧兵部和敬が、政府軍の本陣に在って、絢爛を誇る美食を味わっていた。
おそらくは洛中の料亭から、最良の腕利きばかりを借り出したものだろう。金額にすれば数十両――独り者なら十年も生きられよう金額になる筈だ。
肉も魚も、有り余って居る。一人の胃袋に収まる量では無い。
それを、食材一つに箸先を一度付けた程度で留めながら、狭霧兵部は比叡の山を睨んでいた。
「美味いなあ、あそこには飢えた連中が居るのだ。奴らが飢えれば飢える程、俺の飯は美味くなる。鬼殿、一つ摘まんでは見んか?」
「結構。戦場で体重が変われば、馴染んだ動きが出来ぬようになり申す」
白槍隊隊長、波之大江(なみのおおえ) 三鬼(さんき)は、口を真一文字に引き結んで立っている。
胡座で座す狭霧兵部と比べれば、高さは四倍もあろうかという巨躯に、ざんばら髪から覗く二本の角――鬼である。刃が子供の子供の体よりも巨大な鉞を担ぎ、源平時代の骨董品の如き大鎧を纏う姿は、最早生物では無く、仏像に魂が宿って動き出したが如き有様である。
その鬼は、ほおずきのように赤い目で、様変わりした戦場を睨んでいた。
反政府軍は、表立って打っては出ない。地形の理こそあれ、正面から政府軍とぶつかれば、装備の質も兵の練度も、蓄積した披露も、まるで違うと分かって居るのだ。
だから、散発的な奇襲に頼る。
森を抜けて、包囲網を形成する兵士へ奇襲を掛け、また城内へ戻る事を繰り返し――状況が外から変わるのを待っていた。
「そう気を張るな鬼殿よ。元よりこの戦に、俺達の負けなどあり得ぬのだ」
「……いかにも」
不遜なようでもあったが、狭霧兵部の言に、過ちは無かった。
山上の城を、数と質で勝る軍が囲み、更に補給も滞ってはいないのだ。
兵が疲れたら休ませれば良い。死ぬなら、次を送り込めば良い。そうして、比叡山の備蓄全てを吐き出させ、座主が飢えて死ねば、政府の勝ちとなる。
何もせずに待つだけで良い。それで、城の中に餓鬼道地獄が生まれ、城門は自ずと開かれる。
「信仰と、肉親が飢えて痩せゆく様と、何れが耐え難いかなど、俺は良く知っている。あの顔は楽しいぞ、己の肉を食わせようにも、骨と皮しか残っていない母親の顔は。なあ?」
贅を尽くした晩餐を前にしながら、茶碗に飯を盛って、狭霧兵部はかっ喰らう。その横には、鉄兜の側近が立って、狭霧兵部の言葉に、幾度も深く頷いていた。
「和敬様、今宵は風向きが良いです。この西本陣から、東へ向けて吹いています」
「ほう。ならばどうするね」
「少し遅いですが、飯を炊き、肉を焼きましょう。大鍋で味噌汁を沸かし、菓子もたんと作りましょう。上等の酒を開け、城門が見えるまでに運び、そこで音曲に耽りましょう」
「ふむ、俺好みだ。ならば槍を林に見たて、酒池肉林の再現などどうだ。城壁から覗き見る連中、涎と涙を流して悔しがるだろうよ」
戦とは、人の命を奪い合う行為である。
決して戯れに起こし、戯れながら続けてよいものでは無い。
然しこの主従は、戦の中にある残酷さだけを愛で、今も城壁の内に潜む者を、如何に苦しめるかだけを求めていた。
時折走り込んでくる伝令も、状況は変わらぬと続けるばかり。もはやこの戦場は、狭霧兵部和敬の掌中に有った。
だが――狭霧兵部が、四十にもならずして兵権を握ったには、訳が有る。
理屈では無い、直感の領域で、この男は危険を嗅ぎ分けるのが上手かった。
誰が、己に牙を向くのか。
誰が、己より強いのか。
誰かが己に恨みを抱いた時、その策謀が成るより先に嗅ぎ付け、踏み躙ったからこそ、狭霧兵部はこうして行きて居るのだ。
その直感が、この夜はやけに騒いだ。
直感というのは、何も超自然的な技能ばかりでは無い。周囲全ての、意識的・無意識を問わず収集した情報からなる経験則も、その一つである。
「…………」
「和敬様?」
他者の不幸を糧に美味を楽しみながらも、晴れぬ心。空にした茶碗を投げ捨て、叩き割りながら、兵部はこう言った。
「……〝目〟を飛ばせ! 全て、俺に繋ぐのだ! 奴らの陣は良い、本陣に普段の倍の目を向けろ!」
〝目〟――視覚共有の魔術に長けた術者達である。
彼らを櫓に登らせたり、あるいは大凧に括り付けたり、飛翔のすべを持つ者に担がせたりと、兎角高所に配置する。
そして、見ている情報全てを、本陣に座す狭霧兵部へと送り届けるのだ。
無論、数十人の見る情報全てを、同時に視界に移す事は叶わない。だから狭霧兵部は、一つの〝目〟につき、数秒も留まらずに切り替える。
高所より数十の目を用い、数百数千の兵士が群れなす戦場を、一歩と動かず俯瞰する。
そうして、見つけた。
「おい。あれは、何だ」
「は……?」
目を閉じ、瞼の裏に戦場を映しながら、狭霧兵部は虚空を指差した。
「本陣西、仰木が崩された! あれは何だ!」
未だ、誰の目にも見えぬ姿を指差し、狭霧兵部は憎悪に満ちた顔を晒した。
その理由は、側近にも、また三鬼にも計り知れないのだが、仰木という名前は知っている。
忠義と生真面目が強みの老将で、本陣近辺の守護を任されている。言うなれば、狭霧兵部の私兵が敷く最後の防衛線を、もう一枚、外側から取り巻く兵の長である。
それが、崩されているという。
三鬼が顔色を変えて、大鉞を手に、ずうんと足を広げて立った。八方何れから来ようとも、ただの一振りで断滅する構えである。
配下の槍持ち達が揃って、穂先をまだ見ぬ敵へ向けた。
矢をつがえる。
石を拾う。
幾人かの魔術師は、戦地に有り余る魔力を、己の身体が許容する限界にまで取り込んだ。
そこへ、女は現れた。
まだ幼い少女を、左腕に抱えた女であった。
夜の帳の中、松明の火を浴びて揺らめく姿は、緋の衣に覆われていた。
修道女の、くるぶし丈のトゥニカである。
頭巾も赤く、燃えるような、夏に大きく咲く花のような鮮やかさが有った。
腰に結ぶ紐は、穢れを知らぬ白である。
然し修道女は、十字架を携えていなかった。腰から吊り下がるべきロザリオを、彼女は何れにも身につけていないのだ。
足取りの中に、力が有った。
優れた絵描きは、作品ばかりでは無く、筆を操る姿さえ美しいと言わんばかりに、女が秘めた機能は、歩む事だけで美を産んだ。
足跡さえ、足音さえ、優美である。
だのに女は力に満ちていた。
夜の中に浮かんだ赤は、ただ、静かに歩いた。
誰を害する意思も無く、誰に害される恐れも持たず、修道女は戦場を歩いていた。
「……殺せ」
狭霧兵部が、思いついたように言った。
「殺せ!」
怒り狂いながら、愉悦の予感を得て、歯を?き出しに笑って言った。
全て、つがえられた悪意が、女へと向けられた。
数十の矢、数十の石、炎も雷も、刃も、無差別に、女へと向けて放たれた。
爆薬を一息に炸裂させたが轟音と粉塵の中に、鏃が、礫が吸い込まれて行った。それは、一個の人間を殺すには、過剰とも言える力であって――
「鼓に交わり讃えよ、鐘に合わせて主に歌え。詩歌賛美を我らが主に奉じ、崇め御名を呼び求めよ。
そは戦神、魔手を挫くもの。蛇の舌を剣で刺し止め、我が道に灯りを共し、威光を以て我を陣幕へ導きたもう」
歌うような、声がした。
爆ぜた火が散った後には、炎の壁がそびえ立っていた。
矢も、石も、魔術も、全てを防ぎ焼き尽くす壁の向こう――炎が消えた時、女は化けていた。
「かの人ら、西に在り」
濡れ羽の髪に黒備え、雪月 桜がそこにいた。
女として高い背は、五尺と七寸。
袴も小袖も黒だが、堅苦しい肩衣は無し。身分など知らぬ自由人である。
帯までも、黒。
さばかりか、袖を繋ぐ縫い糸までも、黒。
夏も冬も、ただ一色、こればかりを纏う女伊達。
然し、これ程に同じ色を集めたとて、彼女の髪には到底及ばぬのだ。
長さは三尺、光を受けずとも艶めかしい濡れ羽烏の黒髪。指を通せば根本まで、一度と止まらず手櫛を通せるのだろう。指に救えばさらさらと、せせらぎのように流れるのだろう。
だが、触れる事など能わぬのだ。
右手には脇差、左手には少女。後方には脱ぎ捨てた緋の修道服。眼光鋭く、唇には諧謔。
幾百の兵を前にして、威容は寧ろ、軍勢を呑む。
「かの人ら西に在り、地に群れ無して在り! 川に堰となり、丘陵には蝗となり、山林を焼き、若人を刃にかけ、乳飲み子を地に打ち、幼子を貨と贖い、乙女を奪わんと我らに告げたり!」
「……黒八咫。やはり、生き延びていたか……!
三鬼が大股に、兵士を幾人か跨いで進み出た。
この場で桜に勝るのは、かつて力でねじ伏せた己以外に無い。
「止まれぃ! 刀を捨て、縛につけば良し。ならぬとあらば拙者、此度こそはそっ首を、兵部殿への手土産とせねばならん!」
警告――無用無価値と知っている。
ごう、と振り上げた鉞を、桜の首目掛け、三鬼は万力込めて振るった。
まともに当たらずとも良い。柄でも触れれば、人骨は砕ける。鬼とは、理由無き強者である。
「……ははっ」
桜は目を見開き、真っ直ぐに、三鬼目掛けて走った。
鉞の刃が、首へ迫る。
桜は、戦場に立つのは初めてであったが、この時に浴びた殺意には、寧ろ懐かしささえ感じた。
――見ていろ。
桜は、鉞の柄に飛び乗った。
首を飛ばさんと、鬼の剛力で振るわれる高速の、長柄の得物へと、少女を抱えたままで飛び乗ったのだ。
そのまま、馳せる。
柄の上を走り、三鬼の手へ迫り――
「む、ぬううっ!?」
手首、肩。二か所を踏み台に、桜はまた跳んだ。
三鬼の右腕を手酷く蹴り付けながら、数間も距離を引き剥がして、振り返りもせずに走ったのだ。
三鬼の後方には、数百の兵士が、各々の得物を携えていた。
然し、二の矢をつがえる暇は与えられない。
一歩毎に、積もった雪を爆ぜさせて走る桜は、兵士達の中央へと突き進んだのだ。
「皆、捕えよ! 縄を掛け、鎖を絡め――」
「殺せ!」
追い付けぬ。三鬼はそう知って、鐘よりも響く大音声で、部下達に命じた。然し、それを塗りつぶす命を、狭霧兵部は続けて与えた。
槍が、刀が、桜へと殺到する。
そうして、火花が無数に散る中を、桜は速度を変えぬまま走り続けるのだ。
――なんだ!?
殆ど全ての兵が、計り知れぬ事態を、ただ見る事しか出来なかった。
桜の斬撃は、おおよそ肉眼で捉えられるものでは無かったのだ。
身に迫る槍の穂先、刀の刀身、全てを全て、皮膚ばかりか髪にさえ届かせる前に、神速の斬撃で斬り落とした。
鎧も、兜も、併せて割っていた。
然し、血は、ほんの一滴も零れてはいないのだ。
「殺せ!」
四度目の号令に、白備えの兵士達に割り込む、異装の集団が有った。
これがまた、見事な赤備えの、若い兵士達である。
規律を問うならば、先の兵士達に著しく劣る。だが、戦地を恐れぬ事であれば、彼らが勝る。
彼等は、鎖の先に鉄球が取り付けられた凶器を、十数人がかりで保持し、そして一人が振り回していた。鎖で絡め取り、全員で引き倒す、馬でさえ縊り殺す兵器である。
人の頭蓋より二回りも巨大な鉄球が、桜の顔目掛けて放たれた。
「然して我らが全能の主、女の腕以て彼等を退けたり!」
目に影さえ写さぬ速度で、脇差は鞘へ帰った。そして桜は、飛来する鉄球へ、右拳を真正面から叩き込んだ。
ただの一撃。
鋼の塊が砕け散り、破片が飛散する中で、桜は鎖を掴み、右手に巻き付けた。
それでも、走る事は止めない。
鎖のもう一端を掴む十数人の、横を駆け抜けても、止まらない。
数歩を行き、鎖が伸び切った。それでも、桜は止まらなかった。
「う、わあああっ、あああああっ!?」
「なんっ、止まらねえ、クソがぁっ!!」
ほんの一時と、踏み止まる事は出来ない。
桜は十数人の男達を、立ち上がる暇も与えない程の速度で引きずった。
石や木の根との摩擦で、男達の鎧が削れ、陣羽織が千切れる。三十間も行く頃には、鎖を掴んでいた者は、皆が皆、手の力を失って脱落していた。
「かっ――何してんだ穀潰し! くそ、止めろ!」
赤備えの兵士の中から、一際の異装が、桜を追いながら毒づいた。
赤心隊の長、|冴威牙(さいが)という、若い男である。
上半身こそ、素肌に十徳羽織を重ねただけの軽装であるが、腰から下は草摺に獣革の靴。脛も膝も、これも獣の皮革で守っている。そしてこの異相からも見えるように、脚が自慢の男であった。
た、た、たと、小気味よく音を刻んで、困惑する兵士の群を抜けて、冴威牙は桜を追いながら、
「紫漣(しれん)! あいつを止めろっ!」
「はいっ!」
上空、〝翼を広げて旋回する女〟へ叫んだ。
空色の振袖の背を、右肩から大きく切り込みを入れて、そこから白翼を広げている女である。
亜人でも有翼の種族は、日の元には珍しい。かつて、村雨とも浅く因縁を持った、紫漣という女であった。
さしもの桜も、翼には速度で劣る。正面へ、紫漣は容易く回り込んで、
「……あれを殺せば、褒めてくださいませね!」
錐にも似ているが、更に長く太く、鋭かろう凶器を構えて、桜の心臓目掛けて飛翔した。
ただ真っ直ぐに走る桜。その正面から、決して軌道を譲らず、加速して行く。
衝突。
いや、桜が上へ避けた。
「!?」
「お――紫漣!」
桜は、鎖を掴んだままで走っていた。
その鎖を、紫漣の頭上を飛び越える瞬間、翼と腕に巻き付け、瞬時に縛り上げたのである。
墜落、加速そのままに転がって、十数間も先で止まった。兵士の幾人かが血相を変えて、鎖を解こうと、転がったまま動かぬ紫漣へ群がった。
「てめぇ、このアマァッ!!」
遂に冴威牙が、桜に追い付いた。
追い抜き、二歩先へ行った瞬間、振り向きざまに放たれたのは、蹴りであった。
例えるならば、鋼の硬度と重さを持った、撓る鞭。人の首など容易く圧し折る類の、そして並の剣撃より余程速い蹴りである。
それを桜は、何事も無いように、右手で軽く払い落とした。
足を無理に地面へ落とされ、ほんの数瞬動けなくなった冴威牙の顔面を、桜の右手ががしりと掴んだ。
「ぐがっ!? ガアアアアァッ!!!」
「あれは、お前の女か?」
顔面を指で締め上げながら――ともすれば頭蓋が歪み砕けんばかりの痛みを与えながら、桜は戯れるように問い、
「ああいう女は、縛ると映えるな。間違い無いぞ」
答えが返らぬうちに、掴んだ冴威牙の頭部を、足下の地面へと投げ捨てた――装備を合わせれば二十五慣は越えそうな冴威牙の体が、毬のように弾んだ。一度では無く、二度、三度と弾んだのであった。
群が、ただの一人に、二つに立ち割られる。
正しく無人の野を行くが如し。誰も、立ちはだかろうとは思えぬ姿――人ならば。
ついで桜の眼前に現れたは、大口径の大筒であった。
口径、三寸。
48ポンドの砲丸を、爆薬の力で射出する、舶来の兵器――カノン砲。
砲手は絶倒の確信を以て、砲身の火口に注いだ火薬へ点火した。
試射の際は、家屋を叩き潰し、巨木を数本纏めて圧し折った。それを人体へ射出するのである。
轟。
耳鼻を震わせる爆音が、戦場に轟いた。
砲は、日の本ではまだ歴史の浅い武器である。然し砲手は、西洋の技術者を狭霧兵部が招き、その下で算術からを叩き込んだ、専門の兵士であった。
兵器と、兵に、なんらしくじりは無い。
ただ一つ、計算の外を上げるならば、敵は雪月桜――凶鳥、黒八咫であった事。そして、日の本の技術で扱えるのは炸裂砲弾でなく、重量をそのままに叩き込む実体弾のみということであった。
砲口へ向け、桜は右手を伸ばした。翳した掌へ、爆炎の速度を以って、砲弾が迫り――五指が、砲弾を包む。
桜は、高速の砲弾を片手で掴み取り、そのまま右手を後方に流しながら、左足を軸に回った。
その回転で、僅かにも砲弾の速度を殺した後は――力で、衝撃を押さえ込んだ。
歩みは止まった。その代わり、桜は、攻城兵器を素手で捩じ伏せたのである。
そうして、左足が高く上がり、右腕が降り被られた時、砲手は己の持ち場を投げ捨てて遁走していた。
「そうら、返してやる!」
おおよそ六貫の砲弾――砲丸を、桜は砲身へと投げ返した。最新鋭のカノン砲は、無残にも口から腹を貫かれ、鉄屑と成り果てたのであった。
最早敵するものも無い。敵本陣を一文字に裂いて、比叡の山の斜面を駆け上がり、様変わりした山上を見た。
反政府軍の唯一の生命線、分厚く高い城壁は、日々生物の如く膨れ上がり続けている。
城壁に用いられて居るのは、戦場に残る一切である。
即ち、残留した無色の魔力。
即ち、打ち捨てられた武具。
即ち、敵味方を問わず、屍の骨。
そういったものが、怨念と共に土に練り込められ、月に一夜の戦に備え、残る時間を注ぎ改修を続ける城であった。
その西門が、桜に呼応して、向こうから口を開けた。
便乗し乗り込もうとする者は居ない。
雪月 桜は、無人の野を行くが如く、比叡の城へ入ったのであった。
比叡山に築かれた城――便宜的に、比叡城と呼ぶべきであろうか。その城門は、三重の構造になっていた。
一つ門をくぐって入ると、また眼前に門が有り、その向こうにまた最後、もう一つ門が備わっているのである。
その門全てが、桜を迎え入れる為に開いて、今また、桜の背後で閉ざされた。
城壁の中には、小さな集落が広がっていた。
ボロ小屋と櫓が、幾つも入り混じって立ち並ぶ、寒村のようでもある。
ずっと向こうの方に、柵で区切られた区画があったが、そこは雪が溶けた後、畑にでもするつもりなのかも知れない。人が集まる所に壁を作っただけ――大陸風の、集落を内に取り込んだ城である。
城壁に屋根は無い。壁の内側は外と変わらず、雪が降り積もっている。その上に立っているのは、様々な年格好の、兵士には見えぬ者達であった。
彼等は、或いは彼女等は、槍や弓を持っている。武器を持つ姿が似合わぬ、幼い子供まで平等にである。
表情には疲れも、そして怯えも有った。内から城門を開けて迎え入れたとはいえ、素性も分からぬ女が、刀を携えて城内に居るのだから、無理も無い。
然し、一部には、動揺と高揚が、五分で混ざっている者も居た。櫓か、或いは城壁の上で、桜の疾走を見届けた者達だ。政府の軍中を、それこそ無人の野の如く駆け抜けた女が、よもや敵であろうとは思わなかったのだ。
そして、その安堵を更に広く伝播させたのは、桜より一つか二つ幼いくらいの、白髪を頭の後ろで束ねた、傷だらけの少女であった。
「よう、紅野(こうや)。怪我は無いか?」
「売る程も有るよ、半分くらい持ってけ泥棒」
狭霧 紅野。
兵部卿、狭霧和敬の長女にして、今は反政府軍の首領格を務める少女である。
得手とするのは槍。幾つも、幾つも、使い潰しては捨てているのか、真新しかろうに、既に傷の目立つ槍を携えている。
元より傷に覆われていた腕も、顔も――きっと衣の下も、ふた月半前と比べて、更に傷を増やしている。
世が世で、父が父ならば、奏楽や花と戯れていてもおかしくない歳で、またそれだけの家柄に在りながら、少女はどんな兵士よりも多く、また深い傷を、その身に残していた。
そうして紅野は、人を助けようとする。
己の身体に傷を残しながらも、誰かが傷つかなかった事を喜びとして、それだけを理由にして戦える少女である。
桜もまた、彼女に命を救われた一人であった。
「土産だ」
左腕に抱えたままの少女の、袂へ手を突っ込んで、桜は大きな紙包みを引き出した。それを、ゆるやかに紅野へ放ってやると、受け取った紅野は、その場で封を引き千切った。
「……煙草か!」
「煙管の中身も切らした頃だろうと思ってな」
ふた月半の籠城を経て、紅野の煙管は、久しく無聊をかこつ身の上であった。
今すぐにでもこれに火を着け、煙をぐうと吸い込みたいと言わんばかりに、傷だらけの顔一杯に喜色を浮かべた紅野であったが、
「桜、またすぐ走れるか?」
「ふた晩程ならば。それ以上は寝不足になる」
「頼もしいな。……なら、悪いがついて来てくれ」
「構わん。こいつに、誰か付けてやってくれるか?」
その葉を、また包みに戻して、近くの男に押し付けた。
今宵は、城壁に取り付かれてはおらぬといえ、戦である。如何なる手段で攻撃があるか、腰を落ち着けて待てる状況では無い。
そしてまた、立て続けに打って出るというなら、桜も子供連れでは戦えない。
包みを受け取った男がそのまま、少女の――さとの手を引いて行った。
「狩野、佐伯、五人ずつ選んで付いて来い! それから爺さん、あんたも頼む!」
「おう、やあっと俺が出られんのか。よしよし、荷車か、それとも人か、どっちじゃい」
「どちらも行きたい、今夜のうちにたんと欲張ろう。南門に向かうぞ!」
ぐわっ、と城内を歓声が埋めた。
これまで、只管に耐え続けた彼等。妥協し続けてきた彼等が初めて、小さくとも、勝利を得られるやも知れないという予感が、子供をさえ、拳を突き上げ叫ばせていた。
「南に、何か来るのか」
「援軍の僧兵と兵糧だ。……最悪でも、兵糧だけは城内に運びたい。そうしたら私達は、まだ暫くは戦えるんだ。
これまでは、輸送部隊を迎え入れるのに割ける手勢が限られていたけど……桜。あんたがいれば、融通が利かせられる」
そう言って紅野は、櫓の一つに駆け上がった。
槍を掲げ、人の目を集め、彼等の呼吸の周期が自分に揃うのを待って、
「西門側のお前達! 狭霧兵部はきっと、今夜、直ぐに此処は攻めて来ない! けれど、だからこそ此処の守備を、私が離れている間、完全に任せる!」
それは、兵士が戦場で利くには頼りない、少女の声であったかも知れない。
だが、比叡城に籠る彼等には、限りなく力強い声であった。
夜空へ高く、歓声が昇って行く。分厚い城壁さえ揺れるような音声(おんじょう)。
その中を紅野は、直ぐ右手に桜を、左手には老剣士を、そして後ろに十人少々の手勢を連れて歩いて行く。
南門もまた、三重構造の頑丈な作りである。
こちらは、大量の物資と兵員を招き入れる為、暫くの間、解放し続ける必要がある。
とは言え、紅野が打って出てから戻るまで、ずっと門を開けたままにしておけば、政府軍までなだれ込んでくる事になりかねない。
だからこそ紅野は、精兵だけを連れていく。
自分達が外へ出た時点で門を閉ざし、再び門を開くのは、周囲の敵兵を一掃した時。南門近くに敵兵の集団が有れば、どれ程に外の面々が追い詰められようと、救援は出さないし、出せない。
敵を倒せぬなら、そのまま死ぬ――そういう場所に紅野は、自ら出て行く。
「それが大将のやる事か?」
「こうしてるから、皆は付いて来てくれる。……開聞!」
城門が開き、紅野を筆頭とした十五人は、城壁の外へ出た。
政府軍の兵士は、かなり遠巻きになっている筈だが、それでも開けた道は抑えているに違いない。
荷車を通せるだけの道に、どれだけの兵が居るかは分からないが、その一部を蹴散らし、兵糧を迎え入れる。
積極的に、勝ちに行く戦いでは無い。負けを遠ざける為、少しでも長く耐える為の戦いである。
十五人の背後で、三重の城門が閉ざされた。
外へ出れば、走る。
荷駄の来る道へと、脇目も振らずに走る。
「おい、そこの娘」
「……? なんだ、そこの老人」
走りながら、老剣士が、桜に向かって呼び掛けた。
桜は知らぬ事だが、この老剣士は、かつて『錆釘』に所属していた。
そして、最初の朔の夜、政府軍側として出陣した果てに、薊という男の腕を斬り落とし、比叡山側へと逃げたのである。
元より老人は仏教徒であり、狭霧紅野とも内通していた――それだけの事ではあるのだが、その様を見ていた村雨を、混乱に陥れるには十分な事態であった。
「お前、何処かで俺と合ったりはしとらんかい」
その老剣士は、桜の顔を見て、首をしきりに傾げている。
「あまり軟派はされぬ性質だが、まさか祖父でもおかしくない年齢の相手にされたのは初めてだ」
「ばあか野郎、そういうのじゃねえよう」
桜が返した軽口に、老剣士は閉口してしまって、それ以上は何も言わなかった。
やがて、火が見えてくる。松明である。
道を照らす術として、魔術も確かに方法の一つだが、それより長く使われている、信頼のおける手段だ。
それだけではなく、自分が此処にいると、味方に知らしめる事も出来る。
だが――それはつまり、敵も近づいてくるという事だ。
既に敵兵の気配が、すぐ近くにある事を、十五人全員が感じ取っている。
「構えろ! 何時も通りだ、まずは近づいてくる奴だけをやれ! 飛び道具持ちを見つけたら、その都度仕留めに行け!」
「つまり行き当たりばったりって事だね副隊長!」
「ああそうだ、そういう事だよ狩野!」
副隊長――そういう呼び方をするのは、夜襲に似合わぬ、真っ白の衣装の男である。
狭霧紅野は、白槍隊。つまり政府最精鋭部隊の、副隊長を務めていた。
狩野と、それからもう一人、佐伯という男は、どうやらその頃からの部下であるらしい。
誰にも、怯えは無い。
だが、生きて帰れる保証など、感じていない。
「……桜、三つ聞きたい」
「なんだ」
「あの子供、なんだ?」
敵兵の気配が近づくのをひしひしと感じながら、紅野は唐突に、桜に訊ねた。
「あれは、私の恩人だ。私より丁重に扱ってくれ……丁重にな」
「戦争をしている城に連れてきて、丁重にって言うのはな……ちょっと、その、困る」
「私は千人分働く。それに、あれにも……さとにも、働かせる。あれは存外に骨のある娘だ。お前達がかくまっている子供と同じように、さとにも接してやってくれ」
「……まあ、あんたが良いなら良いが。子供を連れてくるような所じゃないよ、もう」
「だろうな。で、後の二つはなんだ」
言いながら、桜は脇差を抜いた。
万力込めて握りしめても、緩みもせぬ金属の柄。生半の刀であれば、桜の力に耐えられず、砕け散る。
そういう得物をがしと掴んだ桜は、まさしく戦場の鬼神である。
だが紅野には、僅かに憂いが有った。
「……殺せるよな、誰かを」
「………………」
そういう事か、と。何も言わずとも、桜は寂しげな目をした。それが十分に語っていた。
「あんたが走ってくるのを見てたよ。誰も殺さないで、見事に単騎駆けをやってのけた。ありゃあ凄いさ、私にしてからが見惚れちまった。
……でもな、それじゃ駄目なんだ。私達がやってる戦いって言うのは……」
「おい」
語る紅野を、桜が止めた。
前方から、幾本かの火矢が飛来したのだ。
紅野は槍で、桜は脇差で、あっさりとそれを撃ち落とす。
そうして、次の矢をつがえるより速く、二人はそれぞれ、別な射手に肉薄した。
紅野は、射手の頭を槍で貫き、一撃で命を奪い取っていた。
桜もまた、射手の頭を左手で掴むと、
「……さとに、返り血を浴びせられるか?」
「そうだな……案じるまでもないんだよな、あんたは。……悪い」
射手の首を、脇差で飛ばした。
それが合図になったかのように、岩陰やら木の陰やら、或いは草むらに伏せていた政府軍の兵士達が、わあっと声を上げて向かって来る。
荷駄部隊までの道を、桜は文字通り、切り開いて突き進んで行った。
赤い波が、幾度も幾度も、夜の空を彩った。
夜が明けて、兵士が撤退を始めてようやく、狭霧兵部は自軍の現状報告全てを受け取った。
相変わらず、被害は軽微である。
だが、その内容が、いつもと違う事に、狭霧兵部は苛立っていた。
「……これは、なんなのだ。これは!」
狭霧兵部が見ているのは、破壊された大筒やら、〝切断された〟刀やら槍やら――それに、無傷の兵士である。
本陣主語の兵士に、死者は殆どいない。
いるとすれば、癇癪を起こした狭霧兵部が、大鋸を振り回して首を落とした数人ばかり。
雪月桜は、敢えて本陣を一直線に断ち割って走った。
波之大江三鬼を飛び越え、数十の刀剣を切断し、赤心隊を一蹴し、大砲に至っては砲弾を掴んで投げ返した。それだけの大立ち回りを仕出かして、死者は一人も出ていないのだ。
つまりは、あしらわれただけだった。
狭霧兵部は、洛中の――つまりは皇国の兵権を預かる頂点である。即ち軍隊も、己の所有物であるとさえ考える。
その傲慢な思考が、兵士の敗北即ち、己の所有物の劣等であると結論付けた。
自分が、相手に劣るものを所有している――我慢のならぬ事であった。
「無能共が! 良くものうのうと生きていられるな! あの場で腹掻き切って死ね、不甲斐無い愚図共!」
今の狭霧兵部には、誰も近づけない。
鉄兜の側近さえが、大鋸の間合いの外に立ち、おろおろと周囲を見渡しているばかりである。
その間にも伝令が、十数人は、報告の為に集まっている。無論彼等も、近づけば両断されると分かっているから、何もする事は出来なかった。
陣幕を切り裂き、脇息を蹴立てて、憤怒の形相。並みの男ならばまだ良いが、ここで荒れ狂っているのは、道場を幾つか預かれるような剣の達人であるのだ。
「……冴威牙、止めて来なさい」
鉄兜の側近が、あっけなくあしらわれた一人である冴威牙に面倒を押し付けようとする。
地面にどっかと胡坐を組んだ冴威牙の、羽織の襟を掴んで、引きずって行こうとするのである。
「ふざけんなよ吉野さん、殺されちまうだろ……」
一方で冴威牙も、自分が鋸挽きされるのは堪らぬと、そこから動こうとはしないのだ。
もう暫くは、誰も狭霧兵部に近づけぬのだろう――そういう予感が、彼等には有った。
だが、そう思わぬ者が居た。
それはどうやら、政府軍の人間では無い様子である。
雪月桜は、兵士達のど真ん中を、力任せに断ち割って駆け抜けた。
一方で〝こちら〟は、ただ歩いているだけなのだ。
だが、兵士達は、それを避けた。
〝彼女達〟は、とりたてて危険を振りまいている様子は無いのだが、然し近づくなと警告するものが有る。
それは、片方が背負った、長大な太刀であった。
見事な黒塗りの柄と、鞘の目立つ太刀である。
太刀とは言うが、それにしても長すぎる。刀身は四尺も有るし、柄も拳二つで握って、まだもう少しは余る。
鞘も金属作りである為、傍から見ている以上の重量が有りそうだ。
そういう、はったりの利いた得物を背負った少女が、もう一人の少女に先んじて、狭霧兵部の方へ歩いて行くのだ。
「おっ――おい、てめぇ」
冴威牙が、少女を引きとめようとした。知らぬ顔では無かったのだ。
その静止が聞こえぬかのように、少女は、狭霧兵部の間合いに入る。
「かあぁあっ!」
少女が間合いに足を踏み入れた瞬間、狭霧兵部は少女の顔を見ぬまま、その首目掛けて大鋸を振るった。
と、少女も恐るべき速度で応える。
瞬時に、背の鞘の蝶番を外し、四尺の大太刀を抜く。
刃までが黒塗りの、分厚い太刀である。
それで、大鋸を、がっしりと受け止めた。
「……お?」
狭霧兵部は、不意に表情に理知を戻した。
自分の斬撃が止められた――そればかりならば、もう一撃を加えていただろう。
彼に取って重要なのは、大鋸を受け止めた黒太刀が、見覚えのあるものだったからである。
『斬城黒鴉(ざんじょうこくあ)』。
刀匠、龍堂玄斎の手による、頑強無比の太刀である。
「『錆釘』より、お呼びもございませんが――」
太刀が、大鋸を弾いた。
互いに手は届かず、だが声は届く距離に立ち、
「八咫の脚を手土産に、村雨、ただいま参りました!」
酷く殴られて顔を腫らしたままだが、この場の誰よりも、村雨は輝かしく笑っていた。
「ところで、紅野」
「あん?」
荷駄部隊を城内に迎え入れ、日が昇った。
これでまた一月は戦いが無い――奇妙な戦である。
然し城壁の裏側は、負傷者と、回収した死者と、外から迎え入れた兵とで、鍋を引っ繰り返したが如き様相となっていた。
桜も、紅野もまた、血塗れであった。
桜は返り血だけで、黒い衣服を赤に染めている。
紅野は返り血もそうだが、幾つかは己の手傷も有る。それでも、治療を急ぐ程では無い。
「質問、三つ目とはなんだ」
桜は紅野に、途中になっていた質問の続きを促した。
紅野の方はと言えば、自分の質問ながら、暫くは内容を思い出せずにいたが――
「……そうだ。背中のあれ、どうした?」
「背中の……ああ」
桜の背中、本来ならば黒太刀が背負われている筈の場所を指差して問う。
「取られた」
それだけを言って、はにかむように笑ったのであった。