烏が鳴くから
帰りましょ

明ける

 遡る事十数日。西洋の暦で言うならば、一月一六日、満月の夜。
 村雨は松風左馬と立ち合い、左馬が教えずに伏せていた技を受け、雪の上に倒れた。
 意識は有るが、立ち上がれない。
 それを抱きかかえ、左馬を静止したのが、雪月桜であった。

「……桜か、お前」

「他の誰に見える。目が霞む歳でもあるまいに」

 気付いていたのか、居なかったのか。何れにせよ左馬は、初めて桜を視界に収め、その名を呼んだ。
 立ち上がろうとする――喉元へ、更に刃が近づく。

「どういうつもりだい、桜」

「終わりだ、終わり。これ以上やられては、本当にこいつが死ぬだろうが」

 疲労困憊、動けぬように見えたとて、何を仕出かすか分からない相手――桜は左馬を、そう認識している。故に刃は引かず、そのままで村雨を腕に抱いていた。

「村雨、久しいな」

 そうして、呼び掛ける。
 桜の腕の中で、村雨は薄く目を開き――目が腫れて大きく開けないのだが――桜の顔を見た。

「……だね、久しぶり」

 どれ程、離れていたかと思う。
 実際の所は、み月ばかりの事である。そう長い時間でも無いのだ。
 だが、それを言うならば、桜と村雨が共に過ごした時間も、それと然程変わらない。
 縁とは、時間を理由にせぬものである。
 僅かにみ月――然し二人には、長い永い時のようでさえあった。

「探してたものは……?」

「確かに見つけた。お前はどうだ」

「私は……あはは」

 村雨は、未だに刃を突き付けられている左馬を指差した。それだけで桜には、十分な答えであった。
 自分はこうまでなった。村雨はそう言っているのだ。
 おおよそ素手の争いというなら、日の本でも、並ぶものはそう居ない女を相手に、村雨は戦ったのである。

「積もる話はあるが、暫く寝ろ。全て、後はそれからだ」

「うん……」

「それから、街に下りよう。買いたいものも、食いたいものも、幾らでもある」

「うん……」

 頷きながら、細くなった目が、更に細く閉じて行く。疲労の限界にあった村雨は、桜の腕の中で寝息を立て始めた。
 軽く揺さぶっても目を覚まさないと見てから、桜は漸く刀を引く。
 その頃には、左馬の疲労は幾分か回復し、両脚でふらつかず立てるようになっていた。

「終わってみれば、見事なものだ。殺さず、壊さず、倒したか」

 桜は、朋友の戦いぶりを称えた。
 技量を競うならば、村雨はまだ到底、松風左馬には及ばない。
 寧ろ人外の身体能力を、人の身であしらった左馬の技量こそ、本来ならば超人的とさえ言うべきものである。
 だが、左馬の顔は、勝者のそれでは無かった。
 いいや――勝ちはしたが、己がそれを良しとせぬ顔なのである。

「……狙える場所は、全て狙った」

「ほう」

「耳、鼻、目、臍も脇も、尻もほとも、指で狙える場所は全て狙ったよ。あいつは、そういう場所だけは守って、避け切った。受けて良い部分だけで、私の拳を受け切ったんだ」

 出し惜しみは、しなかった。
 無論、全ての技を用いた訳では無い。腕を用いる技でさえ、手形や角度により、数百も数千にも別れるのが、武の技である。
 だが、その時々に応じて、使える技を躊躇いはしなかった。
 目を狙えると思ったなら、眼球目掛けて指を突き出した。村雨はそれを、完全に避ける事は出来ないながら、目では無く頬骨に当てさせて避けたのだ。
 他の技も同様。直撃だけは避けた。打撲や切り傷は無数だが、それは全て、治る怪我であった。

「……腹が立つなぁ、連中は」

 左馬は、雪の上に胡坐を掻いて、そう呟いた。
 桜もまた、村雨を腕に抱いたまま、その正面に座って、そして何も言わずに聞いていた。

「私がどれだけの時間を、この拳に捧げてきたのか、村雨は知らないだろう。私がどれだけ負けて来たのかもだ。私は村雨に、勝つ姿しか見せなかったからね。
 だけど私は、結局は背もこれで止まったし、骨格だって限界がある。魔術での身体強化だってね、そうしてやっと、そいつに追い付けるかどうかっていう所なんだ。
 力も、持久力も、柔軟性も、跳躍力も、みーんな村雨のが、私より上だ。腹が立つのも仕方がないだろう?」

 松風左馬は、まだ、亜人が嫌いだ。きっと生涯、その思いが変わる事は無いだろう。
 彼等は生来、力に恵まれている。
 きっと、人間が猿より知性に優れるのと同様、亜人は人間より優れた生き物なのだろうと、左馬は気付いている。
 だからこそ、認められない。
 ただ生まれただけで、己より強者である存在を、認めて良い筈が無い――そう思い、左馬は生きてきたのだ。

「負けたくない……」

「……そうか」

「負けたくないんだよ、私は」

 その声は、悲痛な慟哭のようでさえあった。

「十四の餓鬼を全力で殴っても、それで目を潰しても、殺しても……そんな事をしてもいいから、私は喧嘩に負けたくないんだ。幼児だって、赤ん坊だって、その為だったら私は……っ!」

 負けたくない。
 単純にして明快な、たった一つの意思。
 それに村雨が、弟子という形で割り込んで、松風左馬という人間は揺らいだ。
 然し、二十年以上を掛けて形成された人格を、今から変える事など、左馬自身が出来なかった。
 自分は村雨に、殺せる程度の技を向けた。
 だのに、殺さずに済んだ自分を侮蔑しながら、同時に安堵さえもしていたのだ。
 もはやどうしてよいのか、左馬には分からなかった。
 雪の上でひたすら、負けたくない、負けたくないと喚き散らして、それを桜がじっと聞き続けた。

「……破門だ。これ以上、教えてやる義理は無い」

 やがて左馬は、雪を蹴立てるように立ち上がると、斜面を下り始めた。

「何処へ行く?」

「何処かへさ。二度と弟子は取らない、赤の他人を強くしてやるつもりはない。置いてあるものは、好きに使うといい」

 小屋へも寄らず、荷も持たず。身一つで左馬は、山を降りて行く
 十数歩も離れてしまえば、その背は、何時もよりずっと小さく見える。桜はそれを見送った。
 何処かへ行くのか、知らない。
 きっと左馬でさえ、何処へ行こうとしているのかなど分かるまい。
 ただ、此処ではない何処かへ。

「……強くなりたいんだ」

 何処までも松風 左馬は、曲げられぬ女であった。








 そうしてあるじを失った小屋で、桜は村雨を腕に抱き、座していた。
 夜が明ける。
 日が昇り、その光が戸の隙間から差し込んで、桜の黒髪を照らしている。
 山を歩いて、風が吹きつけた雪の粒が、その光を受けて眩く煌めいている。
 空気が暖まり、小屋の外で動く生き物の気配が増えて――山が目を覚ます。

「村雨」

「……なあに?」

 村雨もまた、目を覚ましていた。
 だが、動こうとはしない。自分を包む体温に身を委ねて、疲れた体を休めている。

「よくやったな」

 灰色の短い髪に指を通し、桜は村雨の頭を撫でた。
 心地良さそうに目を細め、村雨はその手を受け入れる。
 み月ぶりに出会った二人は、それだけで満たされていた。
 多くの言葉を交わす必要は無い。
 互いが傍にあり、そして触れているだけで良い。
 無言こそが二人の交流であるかのように、桜も、村雨も、眠るように其処に在った。

「……顔、今、凄いよね」

「ん?」

「私の顔。まだ鏡とか見てないから」

「ああ、それか」

 村雨は、ふと、そんな事を言った。
 酷く殴られ、或いは蹴られて、村雨の顔には痣が出来ていれば、腫れ上がってもいる。
 成程、年頃の少女がするには相応しくない面相であるが、桜はその顔に笑い掛けて、

「私は気にせんよ」

「本当に?」

「うむ。寧ろこのまま、お前を抱きたいくらいには」

「またそういう事を……」

 ぺしん、と村雨の平手が、桜の顔を打った。
 呆れたように溜息を吐きながら、村雨は左右に首を振る。
 桜はまるで堪えぬような顔で、それを受けた。

「いやいや、冗談では無いのだぞ。なんなら証拠でも――」

 ごつっ。
 村雨の服の裾から、胸へ手を伸ばそうとした桜の顎を、村雨が肘で思い切り打ち上げていた。
 首が捩じられ、顔が天井を向かされる、強烈な一撃。油断を適確に突き刺し、割り込む肘であった。

「――おおう」

「自業自得」

 軽い眩暈に襲われる桜を見て、村雨は、顔の痛みに堪えながら笑った。
 懐かしい――そう思ったのも、笑みの理由の一つ。だが、そればかりではない。
 もはや自分も、愛玩される犬ではない。隙あらば喉笛に喰らい付く狼であるのだと、己の手で知らしめた事も、笑顔の理由の一つには有った。

「これからは、どうするの?」

 村雨が聞く。
 村雨は、何処へでも行くつもりであった。
 だが――そうならぬだろうことも、もう分かっていた。
 そういう気性の女を選んだのだ。

「……すまん、村雨」

 村雨がそう思った通り、桜は、詫びた。

「謝らなくていいよ。比叡に行くんでしょう」

「……うむ」

 桜の命を救ったのも、村雨を一時匿ったのも、今は比叡山の城に立てこもる、狭霧紅野である。
 兵部卿、狭霧和敬の娘にして、桜を斬った狭霧蒼空の姉。紅野は、血を分けた肉親に槍を向けている。
 その結果、比叡の山は、政府の大軍勢に包囲されている。
 〝神代兵装〟と呼ばれる、どのように作られたかも分からぬ魔術的防壁、〝別夜月壁(よるわかつつきのかべ)〟が無ければ、比叡山はひと月も持たずに落城していただろう。防壁は朔の夜にのみ力を失い、軍勢は月にたった一度、その時にだけ、山を駆け上がる。
 ただ一晩ならば、大軍勢を相手にしても、狭霧紅野は耐えてみせた。だが、これが三度となり、四度となり、五度となったら、どうなるか。
 桜は、紅野の恩に応えようとしている。
 そして、それは、例え桜の力を以てしても、決して勝ち目のない戦に身を投じるという事でもあった。
 兵数で負け、外からの援軍も多くは望めぬのならば、包囲が解かれる事はあるまい。
 如何に雪月桜が怪物であろうと、幾万とも知れぬ軍勢に、一人で勝つ事は出来ない。
 その事を、桜自身も良く知っていたし、村雨もまた、その考えに辿り着いていた。

「お前に、任せる」

「うん」

 村雨を抱く腕に、力が籠った。応えるように村雨もまた、桜の背に腕を回す。

「どうすればいいか、私には分からん。私に出来るのは、真っ直ぐ進んで、敵を打ち払う事だけだ。
 だから、お前に任せる。あの山に籠る者を、救う手立てを探してくれ」

 桜の腕は――本人も気付かないだろう程、僅かにだが、震えていた。
 恐れている。
 己の死では無い。村雨に、重荷を背負わせてしまう事を恐れているのだ。

「任せてよ、桜」

 だが、村雨は、腫れた顔で笑って言った。
 震える桜の頭に腕を回し、胸に抱き寄せる。
 赤ん坊にそうするように、桜の頭を横に、耳が胸に重なるように抱いた。

「最初も、そうだったね。私が探そうとしたのは、刀だった。あれだって、場所は簡単に見つけたよ。
 あなたは大雑把で、細かい事は考えられる癖に面倒臭がって、探し物なんて全然似合わない性格をしてるけど、でもそれでいいの。なんでもかんでも出来るんだったら、私が居る意味が無くなっちゃうもん。
 あなたは安心して、紅野の手伝いに行ってよ。その間に私が、外から、どうにかする手を見つけるから……任せておいて」

 己への信頼が――それを支えるだけの、武という裏づけが、今の村雨には有った。
 何より村雨は、応えられぬ事の恐れなど打ち消してしまう程、深い安堵に満たされていた。
 居場所が離れているのは、些細な事だ。
 共に在る。
 同じ想いを抱いて、同じ空を見ているならば、何も恐れる事は無いのだ、と。

「……村雨」

「なあに?」

 村雨を抱く腕が、少しだけ緩んだ。
 腕の震えは収まっていて、小さな声で、桜が呼び掛ける。四つも年下ながら、母親のような顔で応じる村雨は、

「……胸が、育っておらんな」

「このやろう」

 胸に抱きかかえた頭を突き飛ばしつつ、その頭へ、渾身の拳を放ったのであった
 そうしても、桜はもう一度、村雨の胸へ顔を埋めようとする。村雨は村雨で、万力込めて引き剥がそうとする――そういうやりとりを繰り返していると、何か、視線を感じた。
 柱の陰に身を隠しながら、みつが、村雨へ、なんとも言い難い視線を向けていた。
 寂しさというのか、悲しさというのか。
 或いは、疎外感と呼ぶのが相応しいかも知れない。
 自分では取って代われない――それを知ってしまった嘆きが、呆然と立ち尽くすみつの表情に浮いていた。
 村雨は、声を出さず、唇の動きだけで言葉を伝える。

 ――ごめんね。

 相手の気持ちは知っていた。
 ほんの、一時の迷いなのだろうとも気付いていた。
 それでも、もう少し穏便に、何事も無く自然に諦めさせたかった――そういう意を込めて、村雨は、みつに詫びたのである。
 それから、目を背けた。小さな足音が、玄関口に走っていって、雪の中へと踏み出して行く。

「追わんのか?」

「何処で泣いてるかは、直ぐに分かるから。……錆釘に預けて、後はみつ次第かな」

「そうか。……私のつれも、実は先に預けてきてあってな。ものはついでだ、拾って送って行くか?」

「つれって、誰よ」

「浮気では無いぞ、預かった子供だ」

「馬鹿」

 日は昇った。それでも、動きたくは無かった。
 手放し難い暖かさ――生きた体温を、二人は腕の中に留め続けた。
 その手が、服の裾を超えて、直接に肌に触れても、村雨は逃れようとしない。
 殴られ、蹴られ、痣の残った体は、撫でる程度に触れられても少し痛んだが、その痛みさえ心地良さそうに喉を震わせる。
 やがて床に組み敷かれ、胸に桜の重さを感じた時、村雨は自ら、纏う衣を脱ぎ、それから桜の着物の帯を解いた。
 冬の寒さをも忘れる熱。
 触れ合う肌ばかりでなく、心の芯にまで火が灯ったように、熱が滲み出してくる。
 村雨の肩に、桜が口付けた。
 唇が痣をなぞるように、鎖骨を滑り、胸を伝い、脇腹へ、脚へ、と巡る。
 足の指までを口に含まれて擽られ、じれったさそうに擦り合せた内股を、桜の手が開かせて、舌を這わせた。
 芯に近づく桜の頭に、村雨の手が重なる。
 黒髪を掻き乱す指は、拒むのではなく、寧ろ受け入れるように力を抜いていた。
 村雨の嬌態を、桜は笑った。
 言葉よりも、息がそこへ触れるのが耐え難くて、村雨は両脚を、桜の肩に乗せる。
 腿で頭を挟まれながら、構わず桜は、村雨のそこへ口付けた。
 日が暮れ、再び夜になるまで。
 そして、その夜がまた明けるまで、村雨は鳴き続けた。