烏が鳴くから
帰りましょ

蝶のお話

 比叡山城の三重門が口を開き、荷駄部隊が雪崩れ込む。
 本来、遥か西国から手配されたよりは幾分か数を減らしていたが、それでも比叡城には、恵みとも言うべき兵糧である。
 これまでの戦では、その九割以上を損失していた荷駄部隊だが、この夜は勝手が違った。

「どれだけ残ったぁ!?」

「十両に四つは!」

「上等だ、蔵まで運び込め! 車両はバラして材木にしろ! 輸送兵は後で振り分ける部隊を決める!」

 狭霧紅野は、返り血を拭いもせず、槍も手に持ったまま、戦後処理に入っていた。
 既に日は昇っている――比叡山を覆う防壁は力を取り戻し、政府軍の侵攻は止まっている。
 これから一月は戦が無い。
 その間に、また防御を固め、たった一晩を乗り切る用意をせねばならない。
 思うだに気の遠くなる道程ではあるが、これまでよりはまだ、希望が見えている。

「被害は」

「まだ報告を受けていない。が……前よりは少ないだろうよ、あんたのおかげだ」

 民兵や救護兵が走り回る中を擦り抜けるようにして、雪月桜が、紅野の隣に立った。
 返り血という事であれば、紅野の倍も浴びたのか、黒い衣でさえ赤が目立つ程。
 桜自身は、手傷を負っている様子は無い。然し目の光は、常程の力は見えなかった。

「疲れたか?」

「……少しな。何人殺したか、途中で数えていられなくなった」

 脇差『灰狼』、呪切りの刀『言喰』、何れも名刀、刃毀れは無いが――二振りの刃は、幾人もの命を奪った。
 人を殺すのは、初めてでは無い。殺人行為に生理的な嫌悪を抱く段階も、とうに過ぎてしまっている。
 慣れている事を、幾度も繰り返すだけだと、桜は思っていた。
 だが、数か月ぶりに人を殺して感じたのは、言いようも無い不快感――胸の奥に鉛の如く留まるわだかまりである。

「あいつは、嫌な顔をするのだろう」

「……戦争なんてそんなもんさ。諦めようや、お互いに」

 城内に積もる雪を手に取って、水の代わりに髪を洗う。
 自慢の三尺の美髪までが、人の血をべったりと浴びて、地獄もかくやという様相を呈している。
 掬い上げた時は白かった筈の雪が、髪に触れさせてみると、赤黒く染まって溶けて行く。

「この赤に、何が溶けているのだろうな」

「………………」

「命か、後悔か。何れにせよ……嫌な気分だ」

 それが戦争だと、紅野は繰り返した。








「――すると、残りの兵糧は」

「このまま何事も無ければ、み月は持つだろうね。僕達の奮戦が功を奏したという事だ!」

「荷駄もまだ来るだろうしな……寧ろ問題は、武器か」

 比叡山城の一角――本来ならば、本堂として僧侶が集まっているだろう空間で、紅野は部下を集め、評定(ひょうじょう)を開いていた。
 部下とは言うが、殆どは町人である。
 戦の事など何も分からぬ為、物資の管理であったり、個人間の揉め事の調整であったり、そういう任に携わるものばかりだ。
 彼等の前で、敢えて戦に関する話題を出す理由は、平等感の演出である。
 共に苦しむ間柄、仲間であるという共通認識が、最も欲しいものであるのだ。

「これから、槍や刀は拾い集めて来る。死者を辱めるようで気は進まないが、十分な数にはなるだろう。けれど鉄砲や火薬ばっかりは、この僕の力をもってしても方策が――」

「お前に期待はしてないよ、狩野。……とは言っても、確かに手が必要だな……佐伯、どうする?」

 戦闘が終わったのは、日の出の頃。この評定は、日が中天を過ぎてから行われている。
 その間に、破損した武具の数を報告させていたものか、紅野は、数値があれこれと書き込まれた紙に目を落としながら、部下に意見を求めた。

「……佐伯?」

 答えが無い。
 紅野は顔を上げ、長い付き合いの部下を探す。
 直ぐ右手に、狩野という、少し軽薄な雰囲気のある男が座っている。
 左手――そこに、佐伯が居る筈であった。
 然し、無口だが情に厚く、そして常に多くに気を配っていた部下は、佐伯はそこにいなかった。

「ああ……そうか、そうだっけ……」

 その時、紅野はやっと、佐伯が自分の目の前で、数本の火矢を受けて死んだのを思い出す。
 もう居ない男の名を二度も呼ぶ姿は――それが、傷も塞がらぬままの少女の声だった事もあり、評定の場を悲痛な空気で満たした。
 天井を仰いで、両目を手で覆い、ほんの数瞬。再び正面を向いた時、紅野の傷だらけの顔には、何の表情も浮かんでいなかった。

「火薬は後で考えよう。それより、今は先の戦いだ。
 分かってるとは思うが、このまま囲まれ続けてたんじゃあ、遠いか直ぐかの違いだけで、何時かは皆で飢え死にする。かと言って全員で打って出ようにも、政府軍と正面衝突してたんじゃ、命がどれだけ有っても足りない。
 ……これまでは、大胆な手に出られなかった。けれど、此処からは違う」

 違う――何が?
 戦力が、違う。
 評定に集まった者達は、壁を背凭れにして立っている桜へと、一斉に目を向けた。

「桜。あんた、どこまで一人で戦える?」

「……さあて、考えた事も無い」

 戦の疲れか、物思いか、眠たげな目で桜は答えた。
 然し――この女の力は、此処に集まる皆が知っている。
 一人で万軍に匹敵する怪物であると、その勇戦を見て、知っているのだ。

「……その人に、兵部卿を殺させたらええんやないかな」

 そしてとうとう、一人が言った。

「暗殺者の真似事、か?」

「……それが出来たら、この戦も終わるやろ。違うか!?」

 桜の言葉が非難と取れたものか、発言者はやけに語気荒くなる。
 後ろめたさは有る。
 女一人に、敵の中へ斬り込ませ、大将の首を取らせようというのだ。自分達が負うべき戦の全て、他人に押し付けてしまおうというからには、罪悪感を覚えぬでも無い。

「そりゃあ無理だ」

 然し、その案を否定するのは、他でも無く、狭霧紅野であった。
 紅野は煙管を取り出し、桜が土産にした葉を詰め、火を着けて煙を楽しんでいた。
 み月ぶりの煙が肺に堪えたか、一度咳き込んでから言葉を続ける。

「うちの親父を舐めるなよ、あいつは逃げるなら国の外まで逃げるぞ。桜一人で首を取りに行かせたら、二条城を爆薬で吹き飛ばしてでも逃げる。城一つに収めた火薬と瓦礫で、人間一人殺そうとするような男があれなんだ。
 お前達に一つ言っておく。此処までの戦は、狭霧兵部にしてみたら、ただの遊びみたいなもんだ」

 ざわ、と評定の場が揺れた。
 これまでに幾人も死に、生き残ったものも疲れと餓えに苦しんだ、この戦を遊びとは。
 言葉の響きに対する反発が一つに、その意を推し量りかねての動揺が一つ。町人上がりの幹部の、不安に揺れる目を数えながら、紅野は無情の言葉を止めない。

「狭霧兵部が私に戦術を叩き込んだ時、口癖のように言ってたのは、『火薬と兵器は湯水のように使え』だった。戦の前には必ず、それを十分に掻き集めて、初動で一気に敵を叩き潰せってな。
 あいつはそれと全く逆の事をしてる。
 火薬も兵器も、虎の子の精兵も後ろで休ませて、どうでもいい弱兵を前に立たせて死なせて、私らと政府の兵が、どっちも苦しむのを愉しんでるんだ。……が、それももう、終わりさ」

 がん、と音が鳴った。
 紅野の槍の柄が、手近な柱を叩いた音であった。

「腹を括れ! 次は向こうも本気だ、ひと月の間に決めろ! この城に残るか、あの狭霧兵部に降って首を落とされるかだ!
 どちらも地獄だぞ、ただし向こうの地獄は永い。楽に殺してはもらえないで、死後は仏敵の誹りが着いて回るんだ」

 荒々しさなど、何処にも無かった。
 紅野の声に、表情に交じるのは、苦痛を噛み殺した果ての空虚さ。

「……それが嫌なら、私と一緒に苦しんでくれ……頼む」

 深々と頭を下げる狭霧紅野の体は、何時もより一回りも小さく見えた。








 そうして、評定は終わる。
 あの後、紅野が発表したのは、『少数精兵を用いての野戦』と『籠城戦』の併用という策だった。
 いや――策とは呼び難いやも知れない。
 城門の前に、腕利きの者を配備し、城壁の上から弓矢や銃、砲、或いは魔術や投石による支援を行い、政府の兵を城に近づけさせないというだけの事だ。
 だが、これまでは、それさえ選べなかった。
 兵士の数でも質でも負けている比叡山軍では、寡兵を城外に置いた所で、一呑みにされるばかりだったのだ。
 然し雪月桜の加入で、紅野は、無茶とも取れる采配を振るうに至る。
 即ち、桜を単騎で、西門の前に。
 自分と、側近である狩野の二名で、南門の前に。
 東門は、『錆釘』より寝返った老兵を将として一団を置く。
 北門は流動的に、その都度兵を回すのと――此処には砲を特に多く配備する。

「……難しかろうなぁ」

 桜は、右瞼を爪の先で引っ掻きながらひとりごちた。
 自分達の優位は一つ。ひと月の間に攻撃を受けるのが、朔の夜だけである事だ。
 たった一夜、攻勢を防ぐだけであれば、確かに自分ならば、城門の一つなど守り通す自信が有る。
 然し、他の兵の力はどうか。
 紅野の読みの通り、これから狭霧兵部が兵員を惜しまず投入してくるというなら、果たしてたった一晩さえ、城門を守り抜く事が出来るのか。
 そもそも桜は、この戦を何故、戦わねばならぬのかさえ分からなくなりかけていた。
 比叡山には、比類無き防御を誇る魔力障壁――神代兵装『別夜月壁』が有る。外から内側へ対する干渉の絶対排除という、もはやどのようにして生まれたかも分からぬ代物を、狭霧兵部が奪い取ろうとしている。
 それを渡すまいと仏教徒が反発するのを見越して、先んじて狭霧兵部は洛中にて虐殺を行い、為に仏教徒が比叡山に結集、抵抗を続けている。

 ――宝一つに、其処までの価値があるものか。

 理屈の上では、価値は理解している。それを自由に持ち出せるものならば、戦争に於いてはまさに切り札ともなろう。
 狭霧兵部の如き悪辣な男がそれを手にすれば、無道、蛮行の度は増々悪化していくだろうとも、容易く想像できる。
 だが、初戦は道具だ――そういう思いも、桜は拭えずに居る。
 道具の為に苦しみ、死人を産む。その道理は果たして、何処にあるというのか。そうして後生大事に、命と引き換えにまで守るような代物なのか。
 戦う事は好きだったが、桜は、この戦に早くも倦んでいた。
 気を紛らわそうと、城壁の内側を歩く。
 よくも張り巡らしたと感嘆する程の高さと広さで、空を見上げる分には、閉じ込められたという実感も薄い。
 何処を目指すでも無く歩いていると、負傷兵を治療する為の、板張りの平屋に辿り着いた。

「………………」

 平屋の中を覗き込むと、意外な程に人は少なかった。
 単にもう、皆が治ってしまったのか。それとも、負傷し、それでも生き残った者が少ないのか。
 この中で、ひと月後の戦いに出られるものはどの程度いるのか――

「……お?」

 思考の最中、腰の辺りに、横からどんと飛び付いてくるものがいた。四尺四寸と、背丈の割に背は低いが、目の勝気さだけは大人顔負けの――奥州から連れて来た、さとであった。
 戦場を抜ける間は片腕に抱いていて、切り抜けた後は手近の兵に預け、それから顔を見ていなかったと思い出す。

「おお、起きていたか」

「もうお昼だし」

「そうだな……眠れたか?」

「………………」

 さとは無言で、桜の腰に回した腕に力を込めた。ぎゅうと腕を狭めても、幼い少女の細腕では、桜は痛みも感じなかったが、

「そうか、怖かったか」

「……馬鹿ぁっ!」

 少女の涙声は、少し胸を痛ませた。
 泣いたものか、さとの勝気な目は、すっかり赤くなっていた。目の下の隈を見るに、昨夜から一睡もしていないのだろう。まだ小さな体を桜が抱き上げると、手足を使ってしがみ付いてくる。

「せめて、何か言ってから行きなさいよ……! 知らない所に一人で残されてっ、これで、あんたが死んでたらっ……! あんな、血塗れで帰ってきて……!」

「すまんな……分かってくれ、そういう場所だ。だが次は、極力善処する」

「善処じゃなくてっ!」

 ずずっ、と大きな音が、桜の腕の中で鳴った。何事かと思い、視線を下へ向けてみると、なんとさとは、桜の服で思いっきり鼻をかんでいたのであった。

「……お前」

「ふんっ」

 どうせ返り血で酷い事になった着物ではあるが、身に付けた衣服で鼻をかまれるという経験は、流石の桜も初めてである。両眉とも端を下げて、少し情けない顔になった。それを見届けて鬱憤が晴れたものか、さとは桜から手足を離し、城中の雪の上に着地する。
 少し離れて、その時に桜は気付く。さとの手に、何か赤いものが付着しているのである。

「怪我をしたか?」

「え……?」

「その手」

 城中で戦闘は無かった筈だ、負傷させたとなればそれ以前か――桜は雪に膝を着いて、さとの手を掴む。
 確かに、付着しているのは、血だ。然しさとの手に、目立った傷は見つけられない。昔に少し切ったか、古く細い傷があるぐらいで、それが開いたという事も無かった。

「私の血じゃないわよ! ……なによ、大袈裟に騒いで。治療所の手伝いをしたの」

「手伝いを? ……ああ、なるほど」

 良かった――それが桜の、最初の思いであった。連れて行けと望んだのはさとだが、それを預かったのは自分だ。恩人でもある彼女を傷つけさせたとなっては、二度と北の地に顔向けできぬと思ったのだ。

「初めての場所で、戦の最中で、自分が出来る事を探したか……良くやったな、えらいぞ」

「……別に、他の子もやってたし」

 安堵した桜は、そのままさとの頭を撫でてやった。姿勢を低くしていると、丁度真正面から、さとの顔を覗き込む形になる。あまり率直に褒められると居心地が悪いのか、さとは視線を左へ反らして、もごもごと濁すように言った。
 他の子――始め、そう聞いても、桜には今一つぴんと来なかった。此処は戦場であるのだから、戦えぬ者が居る筈が無いと、短絡的に考えたのである。
 実際、そうではない。桜自身がさとを連れて来たように、この山には、戦えぬ者が居る。狭霧兵部の魔手から逃れた仏教徒の、例えば妻であり、老いた父母であり、子である。
 考えが其処に及ぶのと、殆ど同時の事――治療所の中から、どたどたと騒がしい足音がして、子供ばかりが10人も転げ出て来た。内幾人かは、以前に山に匿われた時、ちらと見た顔でもある。

「ねーちゃん、強いんやってな!? おっちゃん達に聞いたで、政府軍の真ん中走って来たって!」

「む? お、おう」

 その子供達の中でも、もしかすれば年少なのだろう少年――平太という名であった――が、桜を真っ直ぐに指差して、脈絡も無く言った。
 なんと答えれば良いのか分からず、応とだけ返した桜の周囲を、他の子供達もぶわあと散らばって取り囲む。蜘蛛の子のように散らす訳にもいかず、桜は未だ、下がった眉を元の位置に戻せずに居た。

「あの様子やと、すっかり治ったはるみたいやねぇ。どう? 調子良い?」

 そして、子供達から暫し遅れて、結い曲げの、歩く度にじゃらじゃらと音を鳴らす男――医者の風鑑が、桜に問うた。音の原因である刃物や針は、以前に比べて減っているように、桜には見えた。

「うむ。世話になったな、これよりは万人力だ」

「助かるなぁ。八龍権現さん、元気しとった?」

「……知り合いだったのか?」

「何十年か前に、すこうしね。いや、良かった良かった、ちゃんと治ったんやねぇ」

 黒々とした髪、眉、皺の少ない肌――今一つ年齢の定かでない男である。然し、この男の知識と腕に、桜は助けられたのだ。
 そう、助けられた。
 改めて考えてみるに、桜は思っていたより、自分も助けられて生き長らえて来た事に気付いた。
 治療を行った風鑑も然りであるし、この山に舞い戻った理由である狭霧紅野も、倒れた桜を救う為に傷を負った。さとと、その姉のさき、兄の富而は、桜に刀を届ける為、禁忌を破って夜の山に入った。身を蝕む呪いを解いたは、八龍権現――八重の力である。

「……ふむ」

「……どうしたん?」

 指折り数えて行くと、桜は、何故だか急に心が軽くなっていくのを感じた。一人、合点が行って頷くと、平太が背伸びをしながら、桜の顔を覗き込もうとする。

「いや、なあに」

「わっ!? っおー、高え……!」

 その平太の脇に手をやって、ぐいと高々く持ち上げて、

「なあ、風鑑よ」

「ん?」

「細かい事は考えぬのも、やはり健康の為か?」

「……ふふ、せやね」

 桜はそう言って、唇の端を少しだけ上げた。
 宝一つ守る為にと思っていると、戦う心は萎えるばかりであった。
 だが――誰かの為になどと考えれば、胸中にまた火が灯る。
 成程、戦いの理由などを思うのは、雪月桜という人間には似合わぬのかも知れない。考える頭は持ちながら、広く見渡す目を持ちながら――近くにあるものを壊さない為に。それだけで刀を振るえば良いのかも知れない。
 暫し桜は、子供達と戯れながら、彼等が口々に、てんでばらばらに話すのを聞いていた。
 何を自分から言うでもなく、ただ聞いて、相槌を打って――それだけの事を、楽しんでいた。








 さて、翌日の事。
 桜は狭霧紅野に頼まれて、練兵の手伝いをする事となった。
 元より桜の剣は、師もそうであったのだが、類稀な身体能力に任せたものでもある。これを教えるのは難しかろうと一度は断ったのだが、刀の構え方、槍の持ち方を見るだけでも良いからと言われて、それならと応じたのだ。

「其処! 動きが堅いぞ、まずは息を吸え!」

 そして――実際の所、桜の教えは、役に立っている。
 桜が受け持っているのは、外部から比叡山城に逃れて来た、所謂〝新兵〟に当たるものだとか、本来は後方に置かれるべきだが敢えて志願している女、子供達である。
 これらはまず、〝技〟を教える段階に無いのだ。
 武器はどう持って、どう振るい、どうやって身を守るか――基本的な挙動に関してであれば、常道の剣術を用いぬ桜であっても指導は出来る。速い話が、当たり前の事を良い、そして正しい形になるように口出しをすれば良いのだから。
 幸いにして、戦った相手は星の数程。過去の記憶から、真っ当な剣術、或いは槍術はどう構えるかは、確りと頭に入っていた。

「それにしても……どうしたものかな」

「弱くて、かい? 仕方がないよ、私らと違ってみんな、戦いなんかと切り離されて生きてきたんだから」

 紅野は、汗を袖で拭いながら言う――こちらは兵士上がりの者達に訓練をつけているので、そこそこに動き回っている。
 この国の大きな乱は、直近でも五十年程前となるか。余程の老人以外、直接に参加して戦った者は無い。そして、それ以来、職業としての兵士の在り方が定まって来たが為、農民や町人が調練を受ける事は少なかったのである。

「違う、見ていたら私も動きたくなったのだ」

「はっは、そりゃ我慢してくれ! あいつらじゃ何百人でも、勝負にならないだろ?」

 数百人が、刃は付いていないとは言え武器を翳し、攻防の動作を行っている――桜はそれに、どうにも昂ってしまっているらしかった。
 確かに、武術の道場めいた光景であるし、体は鈍らせないに越した事は無い。
 が――問題は、この場で桜の相手を務められるものが居ないという事であった。

「お前ならどうだ? お前とてこいつら相手では、槍も存分に振るえまいに」

「あんたとやりあうとかまっぴらごめんさ、私が三人に増えてから相手してくれよ」

「ふん、二人も居たら首が取られるわ」

 そう言って桜は、拗ねたように頬を膨らますのである。
 人斬り働きの後は、柄にもなく沈んでいた桜であったが、その反動だろうか――これはこれで柄にもなく表情が多彩である。そんな顔が出来るのかと、紅野がつられて笑っていると、

「ならば、この僕がお相手仕ろう!」

 ずしゃあっ、と雪を蹴り飛ばして、白い衣の裾をたなびかせた青年が進み出た。

「狩野……お前なぁ」

「副隊長、挑まれて答えぬのは我ら白槍隊の名折れ! そして女人が無聊を持て余しているからには、慰めるが男の勤めだろう!」

「……愉快なやつが出たな」

 狩野 義濟(ぎさい)――紅野の、白槍隊時代からの部下である。桜が比叡山軍に加わった夜の、荷駄部隊を迎える為の出撃の折も、紅野の横で戦っていた男だ。
 眼光は強い。自信に満ち溢れ、希望を決して見失わない、ぎらぎらとした光を放つ目である。顔立ちは整っている部類なのだが、その目の為か、表情は非常に暑苦しい雰囲気を醸す。そして何より、声がでかい。

「洛中の夜を羽ばたいた黒八咫よ、白槍の誉れは伊達では無いぞ! 白槍隊にその人有りと謳われた狩野 義濟の、数多の美技を味わうが――」

「ああ、分かった分かった」

 口上を全て言い終える前に、桜はもう、笑みを浮かべながら武器を構えていた。
 変な奴だが、楽しそうだ。そう思わせる程度には、体つきも、覇気も、力を備えている。
 狩野が手にしているのは、一丈もの長槍――の、穂先を落としたもの。それに対して桜もまた、六尺の槍を構えたのである。

「む!?」

「槍使いなのだろう。合わせてやる、来い」

 刀を振るう時には、これと言って定まった形を持たない桜だが、槍は随分と真っ当な構え方をした。
 左足が前の半身――つまり、後方に置いた右手で槍に力を与え、相手を突く、基本の形である。
 口数こそ多けれども、狩野もまた腕利き。桜が尋常の相手でないとしり、口元引き結び、

「ぃやあっ!」

 初撃は、真っ直ぐであった。
 真っ直ぐ胸の中心を突く軌道――穂先が無いとは言え硬い木の棒であるが、狩野は加減をしなかった。加減こそ無礼となる相手と理解しているのである。
 桜はそれを、己が持つ槍の柄で横から小突いてずらそうとし――

「ふん!」

 狩野の槍が翻る。
 桜の胸を狙っていた槍は一度引き戻され、それに倍する勢いを以て、喉目掛けて突き出された。

「おおっ」

 桜の想定より、数段上の速度である。思わず感嘆が唇から零れる。
 上体を反らして避ければ、次は腹、次は膝、兎角休まず槍は向かって来る。
 それを、後方に下がったり横へ動いたり、避け続けながら、桜は改めて狩野の顔を見た。
 成程、口を閉じていれば中々の美男子。暑苦しい目も、槍を携えていると、やや凶暴にも見えて心地良いものがある。狩野はまるで加減も遠慮もせず、桜を叩き潰そうとしているのだ。

「楽しいな、狩野とやら!」

 然し、役者が違う。桜は笑いながら、喉を狙って突き出された槍の柄を掴んだ。
 握り潰さぬように、力を緩めて。
 だが、逃がしはしない程度に雪を踏みつけ。

「む――ぬ、くっ!」

 狩野がもがこうと、桜が掴んだ槍はびくともしない。
 そして桜は、掴んだ槍を思い切り、狩野の体ごと引き寄せた。あまりの勢いに、狩野の脚が浮かぶ程である。
 高速で向かって来る体――その顔面を、桜は左手で、正面から掴んだ。

「むがっ!?」

 顔面を掴む片手のみで、狩野は吊り上げられていた。指先で頭蓋骨の凹凸を引っ掛け、手の平で鼻や口を覆う掴み方である。
 手にした槍の柄で桜を打つも、桜はまるでけろっとした顔で、時々はその柄を右手で払いのける程度。
 元々桜は、戦うのも好きだが、それ以上に強者を蹂躙するのが楽しみの一つであるのだ。
 暫し吊り上げていた狩野を雪の上に投げ捨て、桜は満ち足りたような笑顔を見せた。

「良いな、続けてくれ」

「ふ……ふふふ、ふっふっふ……良いだろう……! 今度ばかりは油断したが次こそは――」

 狩野は笑いながら不敵に立ち上がる。一丈の長槍は、流石にこの間合いでは振るえないので、一歩大きく飛び退いて――

「次こそは、なんだ?」

 それより数段も速く、桜が狩野の懐に飛び込んでいた。
 初動を見せぬ踏み込み。棒立ちになったまま、瞬時に転送されたが如き、奇怪な歩法であった――少なくとも狩野と、それから脇で眺めていた紅野にだけは、そう見えた。

「おっ!?」

「……ふむ、思いつきだが、そこそこの真似事には出来たか」

 驚愕し、反応も出来ぬ狩野の喉元に人差し指を押し当て――これが短刀ならば命を奪えただろう。桜はようやっと体が温まり始めたのか、愈々笑みを深めていた。
 桜がやってのけた技は、俗には〝縮地〟などとも言われるが――それを、少し違う形で実現したものである。
 事実、見ていたものの内で、桜が〝消えて〟〝現れた〟ように思ったのは、紅野と狩野に、あと数人ばかり。他の者は全て、〝桜が恐ろしい速度で踏み込んだ〟としか分からなかったのだ。
 人は案外、己の経験で、それから先の動きを予測し生きている。特に武の道に於いては、向かい合った距離から跳ぶ拳の全てを、見てから落とす訳にはいかない。間に合わないからだ。
 だから、肩や腰、或いは視線の動きで次の行動を予測するのだが――桜はまず、〝一歩も進もうとしないような〟そぶりを作った。それがあまりに見事であった為、武に長けた者は、〝動くまい〟と無意識に思い込んだ。だから、初動を完全に見落としてしまい、不意に消えて現れたような錯覚を受けたのである。

「器用なやっちゃなぁ~……」

 紅野は思わず、両手を打って称賛していた。その称賛の意味が本当に分かっているのは、やはり数人しかいなかった――言い換えると、数人はいた。
 その内の一人は、既に嬉々として刀を抜き、桜の背後に迫っていたのである。

「――っ!」

 振り向きざま、桜は、脇差を抜いて横一文字に振るった。桜の背後に忍び寄っていた者は、刀を抜いたまま、三間も飛び退いて着地する。
 気配は、有った。だが、桜が気配を察した瞬間、まるで一時も躊躇わず、その気配の主は刀を抜いていたのである。
 思い立ち、動くまでに躊躇が無い。腕もそうだが、心構えが戦地にある者と感じられて、桜は愈々愉しみの絶頂に入る。
 何者かと見てみれば、白髪白髭の老人であった。指は太く、背筋は真っ直ぐに伸び、老いを感じさせぬ若々しい肉体を誇っている。然し顔に浮かべた飄々とした感、敵を見定めようと細められた目は、やはり老獪の風も醸し出す。

「そういえば、互いに名乗りもしていなかったか」

「わっぱの名は知っておる。俺は高虎(たかとら) 眼魔(がんま)よ、この皺首を見知りおけぇい!」

 高虎――『錆釘』より離反し、構成員である薊の腕を斬り落として比叡山城へ寝返った老人は、その凶行に似合わず、邪気無く名乗った。
 刀を鞘に納め、軽く前傾姿勢となる。右手は胸の前に、開いたままで浮かせて――これだけで、構えが完成している。
 手にしているのは真剣だ。まさかこの老人は、真剣で桜と手合せを望んでいるのか。

「……酔狂な爺だ」

「酔ってこその老い先よ」

 然り。高虎は嬉々として、桜に切りかかった。
 剣撃、鋭絶。
 抜刀と同時の斬――居合である。
 ひょうと空気を裂いて、老剣客は桜の首を狙う。
 桜はそれを脇差で受け、弾き、返す刀で老人の頭蓋を狙った。
 老人は受けず、体ごと避けながら、再び刀を鞘へ戻す。
 そして、何処かへ散歩に出るような足取りで前へと進み――雪に沈むように身を低くしながらまた居合を放った。

「よっ」

 桜は、刃すれすれに跳躍して、老人の左肩に蹴りを放とうとし――

「甘いわぁっ!」

「なんのっ!」

 ――翳した右足を瞬時に引き戻す。老人の刃は何時の間にか、桜の足の下から抜けて、蹴り足を切り捨てようとしていたのだ。咄嗟に桜は脇差を差し入れ、老人の斬撃を防いだ。
 地に足を着け、斬。
 胴、首、頭、首、頭。桜は只管に、急所を狙って斬撃を放った。
 老人はそれを、受け流し、或いは避けながら、同じように胸へ、腹へ、或いは膝へ、肩へ。即死か、或いは間をおかずに死ぬだろう部位への斬を繰り出した。
 二人の間に火花が飛ぶ。刀身と刀身が打ち合わさって、衝撃が熱を産むのだ。
 刃の軌跡は、常人の目には追えない。瞬き一つの間に、三つも四つも衝突音を響かせる。
 ぎゃがっ。
 刀二つが奏でるには、分厚すぎる音。
 ぎしっ。
 これは、桜の身の内から鳴った軋み。戦地でも行わぬ程の激しい動きで、異常なまでの強さの筋肉が、骨と腱を軋ませたのだ。
 この軋みも、もう暫くで消えるだろうと桜は確信していた。やはり自分は、酷く鈍っていたのだ、とも。
 数十合の剣閃の応酬を経て、体に力が戻って行く。戦場一つ駆け抜けても戻り切らなかった力が、指先にまで満ちて行くのを感じ――

「ぜ、ぇ、ぜぇ――ぇえやぁっ!」

「……おい、爺」

 ――愈々興に乗った所で、正気に戻った。
 老人の剣を受け止めながら、桜の表情から愉悦が抜けて行く。
 高虎眼魔は肩で息をしていた。手傷は一つも負っていないが、目の前に桜が居なければ、今にも雪上に膝を着きそうな程である。

「ああー、もう、ほら、爺さん! 若くないんだから無茶すんなって!」

「お、おのれぃ……二十年前なら俺が勝っているものを……」

 間に紅野が割って入ると、老人はしぶしぶ刀を引いた。それを見届けた桜も脇差を鞘に納めるが、こちらは息一つ乱さず、やっと汗を掻き始めたという風情であった。

「いーや、五十年前だろうが私が勝つだろうよ。腰を痛めるぞ、無理をせずに縁側で寝ておれ」

「けえっ、小生意気な餓鬼め……」

 成程、技で競えば互角やも知れない。速度も同等であろう。
 が――老いの悲しさ、体力で劣るのに加えて、力ならば桜が数段も勝る。良い手合せであると満足はしたが、桜に取っては、命の危機を感じる程のものでは無かった。

 ――これが、この城の戦力か。

 桜も、城内全ての人間を見た訳では無いが、参陣の夜を考えるに、紅野の他の腕利きならばこの二人が上がるのだろう。
 確かに良い腕だが、桜の敵では無い。政府軍の中にも、この程度の腕利きならば居る事だろう。
 戦力比を考えると、絶望的な差が有る訳だ。

「ふむ。……気張らねばならんなぁ」

 額の汗を拭いながら、桜は一人、呟いた。
 そこで、ふと目を周囲へ向ける。そういえば今は調練の時間であったと、やっと思い出したのだ。
 驚愕を主とした、様々な色の感情が向けられているのに気付く。
 その中でも特に、子供達や女達から注がれる感情の色合いは――

「ねーちゃん、ほんまに凄いんやん! ほんまやった!」

「信じて貰えたようで何より」

 憧憬、尊敬、その他もろもろの、好ましいもの。
 平太――子供達の中でもひときわ背の低い少年――など、やはり纏わりつくように近づいて来て、子供の手に合うよう削られた木剣を振り翳すのである。
 桜は、子供は嫌いではない――言葉が通じる程度にまで成長しているなら、と但し書きが付くが。

「ようし。少しばかり剣でも教えてやろうか」

 そう言ってやると、子供達は皆、それこそ鬼ごとを誘われたかの如くに沸き立った。
 桜も、一人一人の顔と名を覚えようと、膝を追って目の高さを合わせ、名を聞いて行った。
 そんな中に、周りより一歩だけ後ろに立って、はにかむように笑っている少女が居た。
 最後まで名前を答えようとしなかったが、平太が強く促すと、『蝶子』と答えた。
 何処か暗い目をした彼女の事が、桜は少しだけ気になった。








 何事も無く、半月が過ぎた。
 桜は変わらず、朝から夕まで、調練の手助けをしていた。
 武器の持ち方を教えたり、膂力の鍛え方を教えたり、場合によっては兵士に武器を持たせて、自分に打ち掛からせたりもする。桜の技量であれば、素手で槍と対峙しようと、町人上がりの兵士に傷つけられる事は無かった。
 然し、桜の体力は無尽蔵だが、比叡山軍の兵はそうではない。
 為に、数日に一度は必ず休養日が設けられており、その時は桜も休むのだが――

「ようし、次、三吉!」

「はいっ!」

 その休みの日、桜は、城中の子供達と戯れていた。
 子供達に望みの武器を持たせ、自分も棒切れを持ち、打ち掛かってくるのを受け止める――つまりは調練で行っているのと同じ事をするのである。
 三吉なる少年は、槍を構えて真っ直ぐ突っ込んでいくが、丸い穂先をついと反らされ、勢い余って転びかけた。

「踏み込む時に目を反らすな、却って怖くなるぞ」

「はい!」

「向こうが何をしたいか分かれば、案外に怖い事など無くなるものだ。次、小竹!」

「はーいっ!」

 子供達の集団の中には、少女も混ざっていた。こちらは短い木剣を、思い切り高く掲げて突っ込んでくる。
 薩摩藩の剣術にも似た構えで、年の割には打ち込みもなかなかの強さではあったが、やはり子供の技。容易く受け止めて、打ち返す代わりに、そっと頭に触れた。

「もっと強く、もっと速くだ。その剣はつまるところな、一撃で勝つ技だぞ。次、さと!」

「ええりゃああああぁーっ!」

 さともまた、この集団に混ざって、桜に打ち掛かっていた。
 身の丈に比してやや大きすぎる木剣を片手に、もう片手には脇差大の木剣――誰の真似事であるかは一目瞭然だが、その恰好で桜に打ち掛かって行く。
 洛中で育った子供に比べれば、農作業やら雪掻きやらで、元々体力は仕上がっているのだろう。両手に得物を持ちながら、重さに負ける様子は無い。これを桜は、数合程素直に受け止めてやり、その後は少しずつ横へ動いて軸をずらし、流すように避ける。横へ横へと逃げていく桜を追って、さともまた走り回り、両手の木剣で同時に打ち掛かろうとした瞬間、額を指で弾かれた。

「ようし、一端此処まで! 汗を冷やすなよ、少し休んだら続けるぞ!」

 この半月ばかりの間に桜は、子供達の体力の程度を掴んでいた。
 子供というものは、一見無尽蔵の体力を有しているようにも見えるが、実際の所はぎりぎりまで動きが鈍らないという、ただそれだけの事なのである。
 疲れが浮かんできたと見えるより、少し先に休ませてやる方が、娯楽の一巻としても鍛錬を続けられる。桜はどうにも、友人に比べて、師としては優しい部類であるらしかった。
 さて、休憩の間も子供達は、てんでに動き回ったり、着替えに戻ったりしている。その間に桜は、集団から少し離れた所で、じっと鍛錬を眺めている少女の元へ歩いて行った。

「ぁ……」

「おう、こらこら、何故逃げる。咎めるつもりは無いぞ」

 桜が近づくと、少女は、ささっと物陰に隠れようとする。小動物めいた動きがおかしくて桜が笑うと、少女は何故か申し訳なさそうに足を止めるのである。
 その少女の歳の頃は、さとと同じ程度だろう――十一か、十二か。そろそろ背の伸びが止まって、体付きが丸みを帯び始める頃合いであった。
 穏やかで、良く見ずとも愛らしい顔立ちをしている。華やかというのではないが、素朴で、然し地味というのでもない。露骨さが無い容姿なのだ。
 名を、蝶子というらしい。
 集団の近くには居るのだが、その中に混ざって何かをしている事は少ない――ただ、其処に所属しているだけという事が多い少女であった。
 足を止めた蝶子の目の前にまで歩いて行って、桜は膝を曲げ、顔の高さを合わす。此処へ来てからというもの、子供達と話す時に、すっかりこの動作が馴染んでしまっていた。

「お前は混ざらんのか?」

「…………」

「軽い木剣も有るし、なんなら短刀大に削ってもやるぞ。じっとしていては気も晴れぬ、なんであれ動くのは良い事だ」

 桜が声を掛けても、蝶子は視線を横へ反らすだけ。これも何時もの事なので、桜はじっと、視線の高さを合わせて待っていた。

「……私は、体が弱いから、その」

 やっと答えた蝶子は、それだけ言って下がろうとする。
 例えるなら鹿が、熊だの狼だのに遭遇して、顔の向きを変えぬまま後退するのに似た動きである。あんまりおかしいので桜は、膝を曲げたままの姿勢で追いかけて行く。

「ちぇっ、いっつもそれやんか!」

「ひぇっ!?」

 すると、蝶子を挟み撃ちする形で――つまりその背後に、平太が立っていた。
 蝶子は跳び上がる程に驚いて、おまけに腰を抜かす。それを見下ろしながら、平太は続けて言うのだ。

「鍛えないから体が弱くなるんや! ほれ、これ持って行くで! ほれ!」

「えー……?」

 根性論である。
 平太が蝶子に押し付けようとしているのは、大人用に丈を合わせた木剣。平太には大きすぎるし、蝶子も手に余すようなものであるが――

「ほれ!」

「う、うん!?」

 勢いに押し切られて、それを掴んでしまう。
 そうなったが運のツキ――正面で桜が、実に良い顔で笑うのを見た。企みが思わぬ形で適ってしまったのを、心から愉しむ顔であった。

「ようし、休憩終わり! 行くぞ!」

「え――あれ? え? ……あれぇ!?」

 蝶子はどうにも、流されやすい娘のようであった。








「ようし、もう一本! 形は気にするな、とりあえず振り上げて振り回せ!」

「ぅー……えええいっ!」

 暫し後。結局のところ、蝶子は子供達の調練に加わる羽目になっていた。
 やらせてみれば、案外に筋は良い。まるで武術を未経験という訳でも無いのか、立ち方が安定しているのだ。
 これまで調練に参加していなかった事もあり、他の子供より少し多い本数を打ち掛からせていたが、本人が言う程に体力が無い訳でも無い。
 たった一つ、問題を上げるとすれば――

「……お前なぁ。私が怪我などすると思うか?」

「でも……うーん」

 気性がどうにも、優し過ぎるという事であった。
 桜に打ち掛かる時も、頭では無く肩を狙って振り下ろそうとするので、打の軌道が不自然になる。突きは体に届く前に止めようとするから、無理な動きでつんのめる。
 桜にしてみれば、本気で蝶子が打ち掛かって来たとて容易く捌けるのだから、加減などせずとも良いと再三言うのだが、それで改められないのが蝶子であるらしい。

「こら、蝶子! 本気でやらんかい! 俺達かて真面目なんやぞ!」

 一番小柄ながら、子供達の大将的な地位にあるのか――平太がそう言って、桜へ全力で打ち掛かれと命令する。
 無論、それだけで出来るなら苦労は無い。調練の間、蝶子は一度も、桜の肩や腕以外を狙おうとはしなかった。
 そうして夕が過ぎ、日が完全に落ちた所で調練は終了になった。
 子供達の大半は、親に連れられてこの山へ来た。各々が、各々の家族の元へと戻り、休むのである。
 比叡山城は、山の中に城壁を張り巡らしたものであり、城壁の内側には質素な長屋が幾つも並んでいる。そこが〝一般の〟兵士達の家代わりとなっていた――紅野や桜、或いは町人の中でも幹部扱いのものは、もう少し良い環境を与えられている。
 食事は一日に二度、朝と夕。贅沢では無いが、餓える事は無い程度の量――事前の蓄えが相当に多かった上に、荷駄部隊を引きいれられたのが利いている。このままでも数か月、もう一度荷駄部隊を引き込めれば更に数か月、兵糧は持つ算段であった。
 その、美味いとも不味いとも言い難い夕飯を、桜は一人で取っていた。共に喰う相手がいないのだ。紅野は大概の場合、町人衆と何事か相談しながらの食事であるし、余所の家族の団欒に混ざるのも居心地が悪いという事らしい。
 本来なら僧侶が詰めるであろう本堂の一角で、一人夕食を終えて、何気なく外を見る。冬の日は落ちるのが速く、もう空には星が浮いていて――月は日に日に細く変わって行く。
 あの月が消える夜、また戦が有る。その夜はこうして静かに飯を喰らう事も出来まいと、感傷に耽ろうとしていたその時であった。

「……まだ、居たのか」

 桜が夕食に箸を付ける前から、本堂の外に二つばかり気配が有った。それがまだ、外をうろついているのを感じて、桜は気配の主を物陰から覗く。
 夜の暗がりに紛れるようにして、外を歩いているのは――片方は、蝶子。そして、それを平太が追いかけ回しているように見えた。

「……だから! 飯食うくらいええやん! 早う行くで!」

「でも……」

「でも、やないわ!」

 二人の声量があまりちぐはぐなので、始めは聞き取るのが難しかったのだが、どうやら何処で夕食を食べるでもめているように聞こえた。基本的に、配給を受けた後、それを何処で喰うかは自由。屋外で握り飯を喰らおうが、畳の上で喰らおうが、城壁から出なければ良い。
 平太は確か、殆ど何時も、周りの子供達の誰かと共に食べていた筈だ――そういう話を聞いていると、桜は思い出していた。

「なんでそんな嫌がるん? そんな俺達が嫌いか!?」

「そ、そうじゃないけど……」

「なら、ほれ!」

 平太が蝶子の腕を掴んで、灯りの有る方へ――つまりは長屋の方へ引っ張って行こうとする。
 体格だと、蝶子の方が一回り大きい。加えて、蝶子は自分の言う程に非力で無いのか、傍から見るにびくともしない。無理に引いていこうとする平太が、目に見えて疲弊していた。

「はぁ……何をしているか、お前達」

 じれったくなって、桜もつい、動いてしまった。
 引っ張り合いを続ける二人の元まで歩いて行き、横から呼びかけて初めて、二人は桜に気付いた様子であった。

「あっ、ねーちゃん! こいつなぁ、俺達と飯喰うのが嫌や言うて――」

「そんな事は言ってないのに……」

「ああ、分かってる、聞いていたからな……全くお前達、少しは落ち着かんか。特に平太、お前は女の口説き方がなっておらんな」

 とりあえず二人を引き剥がし、桜はその間、雪の上に胡坐で座った。
 武に生きる者の常、桜の視野は存外に広い。常に多くの物を見て生きているので――気付いていた事もある。

「……寂しくなるものなぁ」

「はぁ?」

 しみじみと言った桜に、平太は、何を言うかと言わんばかりの声を挙げた。桜を挟んで反対側、蝶子は――暗い目を、更に暗くして、何時ものように視線を逸らした。

「いや、私もな、覚えが有るのだ。仲の良い者の集まりに、一人だけ外様のように混ざっていると、仲間外れにされているような気がしてな。向こうがその気が無くとも、どうにも居心地が悪くて、結局逃げ出してしまうという――」

「そんなの、ただの思い込みやん!」

「おう、鋭いぞ、平太」

 平太がそう言うと、桜は平太の肩に手をやって、まるで寺子屋で教える先生めいた顔をした。

「そうだ、思い込みだ。だがこの思い込み、簡単には晴れてくれんぞ……何せ自分の腹に根付いている。周りが共感の安請け合いをした所で、当人としてみれば、『お前に何が分かるか』という気になるばかりだ。まぁ、拗ね者の根性だな」

 それから桜は、いきなり、左右に立つ二人を、両脇に抱き寄せた。桜の胸の前で、平太と蝶子の頭がぐっと寄せあわされて、その上に桜の顎が来るような形である。冬の夜ゆえに厚着はしているが、それでも衣を通して、人の熱は互いの体に染み渡る。

「なぁ、蝶子。羨ましくてならんものなぁ」

「……っ」

 桜が何処を見るとも無く言った言葉が、蝶子の喉を詰まらせた。

「父が居て、母が居て、兄や弟や、姉や妹が居る。そういう家を見ると、羨ましくてならんからなぁ……私もだ、私もそうだった」

 何処を見ていると言うなら、桜が見ていたのは、昔々の自分の姿だろうか。
 蝶子は自分と同じ、親の無い子供なのだ――本人は何も言わないが、誰もが気付いている事だ。然し、それに触れたのは桜が初めてだった。
 桜は思い出していた。
 雪の降る土地の、人里から少しだけ離れた低い山の中。師と二人で小屋の中、黙々と食事を摂っていた。父のような、然し父では無い人との食卓は、気遣われていると知っていても、うら寂しいものだった。
 寧ろ、誰かと共に居る程に、自分が独りなのだと思い知らされるようで――同じ境遇の者が居ないかと、近くの里まで出向いては、何も見つけられずに山へ戻った。そんな記憶を、雪の寒さで思い出していた。

「お前だけやない!」

 追憶を掻き消したのは、平太の叫び――桜に頭を抱き寄せられたままの声は、直ぐ近くで聞かされた蝶子の目を白黒させた。

「そんなんお前だけやないわ、阿呆!」

「……平太、お前もだったなぁ」

 突如の大声にもたじろがず、桜は平太を腕の中に、すっぽりと納まるように抱き寄せた。

「蝶子、お前は知らんだろう、あまり周りと関わらんからな。平太もな、どうやら私達と同じだ。親がおらんで、独りでこの山に居る。が――まぁ、こいつの強い事、強い事」

「……平太も?」

 蝶子が、直ぐ近くにある平太の顔をまじまじと見る。
 戦の辛さを微塵も感じさせぬような、普段の陽気さが影を潜めて――蝶子のような暗い目をしている、平太。
 彼が食事を摂る時に、決まった場所は無い。遊び相手の誰かと、その家族と共に食べている事が多い。

「俺かて、父ちゃんも母ちゃんも居のうなってなぁ! 一人で飯食ってたんやぞ! 一人で寝てたんやぞ! けど、みんなと居るんや!」

 実際、そういう境遇の者は多いのだ。
 何も蝶子や平太が特別なのでは無い。家族を失って、身一つで逃れてきた者など、決して珍しくも無い。
 桜が声を掛けたのも、偶然に近くに居たから――それだけの理由である。

「お前一人だけやない、俺かて一緒や! ……お前一人、俺達から離れてる意味があるかい!」

「…………」

 全ての零れ落ちた者を、拾い上げるなど出来はしない。
 然し、敢えて誰か選んで手助けをするとしたら――こういう〝気骨のある〟者が良い。
 桜は平太少年を、中々に気に入っていたのであった。

「お前達、お互いに相手を知らんのだなぁ……いや、それだけではない。言葉も足りんぞ」

「うわっ!?」

「ひぇっ!?」

 桜は、蝶子と平太と、二人を纏めて抱え上げる。すると二人とも、計ったように同時に、頓狂な声を挙げた。

「な、何や、どこ行くん!?」

「妥協点にな」

 二人が揉めていた場所は、桜が与えられた部屋からそう離れていなかった。二人を抱えて戻る先は、其処である。
 桜はとうに食事を終えているが、その部屋の畳の上に、二人を無理に座らせて、

「まず、平太。お雨は素直でないなぁ……そういう時はこう言うのだ。『もっと自分達の近くに来い』と」

「う……」

「蝶子も、蝶子だ。何事もはっきり言わんから伝わらん。寂しくなるから、辛くなるからと、それくらい口にしても良かろうに」

「…………」

 軽い説教のような真似をしてから、もう一度二人を抱き寄せて、言った。

「暫く、家族の真似でも試してみるか? 寂しい者同士でな」

 二人が直ぐには、否とも応とも言わぬのを見て、

「良し、決まり。飯は此処で喰え、寝るのも此処だ、それ以外は好きにしていいぞ」

 桜は一方的に善意を――或いは己の望みを押し付けて、かかと笑ったのであった。








 また、十日ばかりが過ぎた。
 一風変わった集団生活も、十日目という事である。

「ちょっとー、さーくらー!」

 部屋の外、障子を開いて飛び込んできたのは、さと。早朝というにもまだ早い、日が昇るか昇らぬかの時間である。

「何だ、騒々しい……」

「何だじゃないわよ、さっさと起きろ!」

「……朝から元気なものだなぁ」

 ここ最近、さとは少々不機嫌な事が多い――桜を取られたとでも思っているのだろうか。
 兎角、何かと理由を付けて桜に近づいては、ぎゃんぎゃんと叫んで去るのである。
 桜は音も無く立ち上がると、襦袢姿からあっという間に、普段の小袖姿に着替えてしまう。左右で眠っている平太と蝶子を起こさないようにとの配慮である。

「……その二人も起こしてやろうかな」

「こらこら、やめてやれ」

 桜が窘めなければ、実際にさとは、そうしかねない雰囲気であった。そんなさとを部屋の外に押しやりながら、桜も雪の上に降り立った。
 一人が抜けて、少し広くなった布団の中で、平太と蝶子は安らかに寝息を立てている。
 最初は二人とも、慣れぬ為に寝付きが悪かったのだが、今では此処が昔からの宿であったかのように馴染んでいる。
 桜の気まぐれに付き合わされた形とはなったが、少なくとも蝶子が独りでいる時間は減ったし、平太もあちこちで食事をするような事は無くなった。
 家族関係の真似事のような――桜が姉で、蝶子が次女で、平太が末弟とでも言おうか。心安らぐ時であった。

「で、さと。お前はどうした」

「どうしたもこうしたも!」

 何用かなど、桜も重々理解している。浮かべた笑みもそれを物語――そんな桜へ、さとは、背中に隠した棒切れで殴りかかった。
 所謂、剣術の修行である。蝶子と平太を傍に置いたのを、さとがずるいと言い立て、それを宥める為に、特別に剣を教えると言った。それ以来、ことあるごとにさとは、桜へ打ち掛かってくるのである。
 木の棒の打撃を平手で打ち払いながら、桜は空を見上げた。藍色が薄れ、水色に変わりゆく最中の空だ。

「おお、良い天気だ」

 しみじみと、桜は言った。








 調練も終わり、夕刻。
 桜の教え方は、誰に対してもあまり厳しいものではない。それでも、武器の持ち方も知らぬ者達が、構えだけでも立派に見えるようになった
 伸び幅でいうなら、やはり子供達が際立っている――大人の五分の一だった力が、半分程度にまでは伸びた。
 特に強いと言うなら、第一はさと。体力が元より有ったし、桜に直接学んだ時間も長い。立ち位置としては、一番弟子のような扱いで、他の子供達にも一目置かれている。
 平太も、一番小柄だが、動きのすばしっこさはずば抜けている。子供同士で打ち合わせると、殆ど負ける事は無い。
 この二人が一番、二番として――それから少し間を開けられているが、その次に強いのが、なんと蝶子であった。

「いやあああーぁっ!」

「おおりゃああああっ!」

 調練が終わった後も、平太と蝶子は、二人して打ち合っている。
 木剣を互いに一本ずつ持って、足を止めずに動き回りながら、がつがつと木剣をぶつけ合っているのだ。
 数日ばかり前に始めた、言わば独学のような鍛錬であるが、確実に二人の勝負勘は伸びている。

「おー、おー、頑張ってるもんだ」

 二人の打ち合いを、桜は座って眺めていて――そこへ狭霧紅野が、ふらりとあらわれて声をかけた。
 こちらはこちらで調練の後。腕利きの兵を鍛えてきたばかりと見えて、冬だが軽く湯気が立ち上る程、体は暖まっている様子であった。

「中々のものだろう? 私の指導も伊達ではあるまい」

「資質の問題だろうね。平太は元々走り回る性質だし……蝶子もあれで、何かやってただろ」

「……柔術でも、剣術でも無さそうだがなぁ。さて、何やら」

 桜も紅野も、武の達人である。体つきやら動きやらを見れば、その相手が、どういう技術を持っているか、なんとなく分かる。
 蝶子の動きは、完全な素人のそれとは明らかに違うのだが、然し二人の知る武の何れとも、また違うのだ。

「昔、親に習ったとは言ってたな。……何、とは言わなかったが」

「ふーん、あんたにそういう事を話すようになったか」

「あれで案外、色々話すものだぞ?」

 二人の打ち合いを見る桜は、顔を横へ向けぬまま、紅野に答えた。

「あんたも〝案外に〟が多い奴だよなぁ、桜」

「そうか?」

「どこぞの母親みたいな顔をしてるよ、今。自分で気付いてないだろ」

 そう言われて桜は、口元に手をやった。成程、軽く唇の端が浮いている。
 楽しい、ではなく、ほほえましいという感情――桜には滅多にない心の動きであった。

「おーい、ねーちゃん! そろそろ腹減ったぁ!」

「おう、そうかそうか。なら夕食とするか」

「俺、みんな分貰ってくるわ!」

 桜が自分の表情を自覚し、余計に笑みを深めていた頃――やっと平太が満足したようで、打ち合いを終え、桜の元へやってくる。
 朝も夕も、誰か一人が食事を運んで、皆で食べるというのが習慣として根付き始めた頃合いである。きっちり一言報告してから、平太は食事を取りに行った。
 蝶子も空腹になったか、袖で汗を拭いながら、食事という言葉に目を輝かせている。この瞬間だけは蝶子も、年齢相応というか、憂いの無い顔になる。

「いや然し、人見知りが激しかったのだな、お前」

「えっ?」

 桜は、蝶子の横に立って、そう言った。

「遠巻きに見ているばかりだったが、いざ近づいてみると、喋るし笑うし、眠い時は目も擦る。布団を蹴りもするし――」

「あ、あれはっ! あれはその……暑かったから」

「ああもひっつかれてはなぁ、暑かろうて」

 寝相もまた人それぞれだが、蝶子は眠っている時、近くに有るものを掴もうとする癖が有った。とある夜など、桜にがっちりと抱きついたまま、自分が被る布団は蹴り飛ばして眠っていた。
 目を覚ますのがその日は幾らか遅かったが為、一日中、桜と平太にからかわれる嵌めになったのだが――

「……まぁ、なんだ。楽しいか?」

「………………」

 桜は時々、そういう事を聞く。
 蝶子は決して、その問いには答えない。横を見るか、下を見るか――視線を逸らして押し黙るのだ。
 然し、押し黙る時の表情まで、桜は見ている。
 始めは本当に暗い目をしていたが、日に日にその表情が、憂いだけではなくなっていく。その過程がまた、桜には楽しくてならなかった。
 だが、楽しんでいるのは自分だけか――それが分からない。
 自分が楽しむのはそれとして、蝶子にも、平太にも、笑っていて欲しい。出会ってひと月も経たぬただの子供に、そういう感情を――或いは己の救いを求めているのかも知れないが――抱いていた。

「皆、優しくしてくれます。前もそうだったけど、今はもっと優しいです、桜さんも……平太くんも。だから私、多分、凄く嬉しいんだと思います……。
 時々……ううん、いつも。此処が何処だとか、自分が誰だとかまで、忘れそうになるくらいに……」

「ふむ」

 だから、蝶子が肯定的な言葉を吐けば、桜は言葉よりも、はっきり顔に浮かべて笑うのであった。

「けど……私、楽しんじゃ駄目だと……思います」

「そんな道理が有るか」

 軽く笑い飛ばした桜だが、蝶子の声に、戯れの色は無い。
 本当に、心の底から、自分は楽しんではいけないのだと信じている――そういう風に、桜には見えた。

 ――何時もこうだ。

 何を胸に隠しているのか、どうしても聞き出せない。
 僅か十日の縁で、それが聞き出せると思う事が過ちなのだろうか。過ちであるとしても、だが桜は、どうにかしたかった。
 具体的にどうしようというのではなく、ただ、現状を変えたいという願いであったが、

「駄目か、良いかではなくな。今は楽しいのか、で聞いているのだ。難しい問いでもあるまいに」

「………………」

「ああほら、また黙る」

 今日もまた、答えは聞けず終いか――そう思っていた桜ではあったが、違った。
 部屋へ戻ろうとした桜は、視界の端に、蝶子の姿を見た。小さく頷いた彼女の姿を、決して見逃しはしなかった。

「食べたら、今日もさっさと休むぞ。山で夜更かししてもろくな事は無いからな!」

「……はい」

「……少しくらいの昔話なら、してやらんでもない!」

「はいっ!」

 良し。
 満ち足りて、桜は食事にありついた。








 その日は誰の心をも映すように、晴れ空と曇り空が混ざり合う、色を名付け難い空であった。
 朔の夜まで二日――戦が近づき、比叡山城内には緊張が走る。
 調練の間も、皆の顔の強張りはきつい。
 此処数日は、子供達の調練は緩やかなものであった――加えて、桜もそちらは見ていない。前線で実際に戦う事になる可能性の有る者へ、生き残る為の技を教えていた。
 即ち、不意を突く技術。
 敵の武器を奪う為、敵の目を奪う為、どういう手段が有るか――死体やら、死体が手にしていた武器やら、何を使ってでも生き延びるにはどうしたらいいか。正道の剣でなく、生き残る為の邪道を教えていたのだ。
 その合間の、休憩中の事である。桜は適当な岩を、腰掛けの代わりに使っていた。

「おーい、ねーちゃーん!」

「お? おお、平太か」

 平太少年が、棒切れを持って走って来た。
 何処かで鍛錬をしていたものか、顔中汗をびっしりと掻いている。手にしている棒切れも、普段より少しばかり長いもので、中々に疲労の度合いも色濃さそうだ。

「相手をあまり酷く打つなよ、その得物では痛かろう」

「そんな事しぃひんわ! 加減くらい覚えたもん、俺!」

「おお、そうか」

 近づいて来た平太の髪を、がしがしと掻き乱してから、桜は平太を隣に座らせた。

「どうだ、近頃は?」

「どうって、見たら分かるやろ? 茶碗に山盛り三杯も元気や!」

「うむ、全く見当も付かんが、元気という事は分かった。が、そうでなくてだな」

 拳をぐん、と突き上げて健康を誇る平太だが、然し桜の関心事はそれでは無い。平太の頭を引き寄せ、耳元に口を運ぶと、

「率直に聞くが、蝶子との仲はどうだ?」

「なあっ――」

 率直にも程が有る問いであった。平太は口を開いたまま、顔を真っ赤にして硬直してしまった。
 いや、顔の赤さは運動の為も有るのだろうが、それだけが理由でないのは確かであった。
 桜は意地悪い顔をして、平太の肩をゆすぶりながら、なあ、なあ、と問う。

「隠さんでも……いや、お前の場合は分かり易過ぎるが。知っているぞ、お前があ奴を好いている事くらいなぁ……ふっふっふ」

「な、な、な――何言うてんねーちゃん! 俺はそんな、そういうんとちゃうし――」

 言い訳はしても、桜は訳知り顔である。実際、誤魔化せるものでもなかった。
 蝶子が独りで居たのを、皆の元へ寄せようとしたのは平太であった。
 子供達の中でも、平太は所謂、頭のような存在である。彼と、それから桜が親しくしている者を、周囲も邪見にする理由は無かった。そして一度輪に入ってしまうと、調練で見せる意外な腕――に加えて、見目も良い。人気が出るのに、時間は掛からなかった。さとなど、自分と同世代に同性という事で、平太と並んでちょくちょく腕試しを挑んでくる程である。
 それを桜は見ていたし、もう一つ。蝶子が別の誰かと話している時、平太の顔に嫉妬めいた感情が浮いているのも、桜はまた見逃さずに居たのである。

「――……あいつ、いっつも寂しそうやったもん」

「ああ、そうだな」

 平太は俯きながら、そして自分の言葉を気恥ずかしく感じている風に、ぼそぼそと言った。桜はその横で、じいっと平太を見ながら言葉を続けた。

「お前は良い事をした。二人ばかり助けたのだからな」

「……二人?」

「蝶子と、私とだ。一人で飯を食うのは……どうにも、寂しかった」

 桜は堂々と、自分の弱みを、平太に見せた。
 人に交わると、人が恋しくなる。平太や蝶子は、周りの皆を見て家族が恋しくなり――桜もまた、旅の伴侶を思い出した。
 家族の真似事をした十日間は、少なくとも、その寂しさは薄れていた。代わりに有ったのは、なんとも言えぬ心地良さ――暖かさであった。

「……もっとこうしてたい、皆で」

「そうだな」

 些細な望み。持たざるものには、尊い望み。

「朝に、行ってきます言うて、夜にはただいまって言うて、食べる時も寝る時も、誰かに、何か言いたい……!」

「ああ、そうしよう」

 平太は喉を詰まらせながらも、ただの一度も淀み無く、思いの丈を吐き出して行く。

「それで、それで……それを言うんは」

 こういう弱音は、滅多に吐かぬ子供であった。寧ろ、泣く仲間を窘めるような立場の、年少ながら強い子供であった。
 強くなければならなかったのだ。
 子供が弱みを見せられるのは、同じ子供にではなく、大人にだけである。
 平太には今まで、身近な大人が居なかった。
 洛中の動乱で平太が失ったのは、遠縁の親戚。両親祖父母はもっと前に亡くしている。物心ついてより平太は、親というものに触れず、だが他の子供には親というものが在る事を、ひしひしと感じながら育って来たのだ。
 そんな平太が、泣いている。そして、望むのは――

「蝶子と、ねーちゃんと……二人に、言いたい……!」

「……ああ」

 桜も、それ以上に多くの言葉は返せなかった。返せば自分まで泣いてしまいそうだったのだ。
 どうにも奥州を訪ねてから、涙腺が緩んだ気がしてならぬ。歳を取れば涙もろくなるというが、老いた自覚も無い。つまるところそれだけ、人と交わるようになったという事なのだろう。

「……そろそろ、戻る。お前も戻れ、平太」

「おう! また勝ってくるで!」

 空を見て、涙を抑え、桜は言う。一方で平太はもう、涙は頬に残ったままだが、すっきりと晴れ渡った空のような明るさを取り戻していた。
 ばたばたと平太が駆けだしたのは、子供達が集まりに使っている開けた場所より、少し違う方角。

「おーい、何処へ行くのだー?」

「ちょい兜借りて来る! 木剣なら壊さんやろ?」

「程々になー!」

 武器庫に、兜を取りに行こうというつもりらしい――本格的な事だと、桜は呆れたように笑った。
 背後に、遠ざかる足音。前方数十間先には、調練を再開した町人兵達。
 戦も近く、陰鬱な気持ちでは有ったが、桜はきっと、己は戦に耐えられると確信していた。
 まず、自分が生きる。外で待つ村雨の為に、必ず生き延びる。
 それから、さとを無事に生かす。生かして、日の本の広さを、余す所なく見せてやりたい。
 その二つに、もう一つ、望みが加わった。
 平太と蝶子の、行く末を見たい。
 戦が終われば、二人は何処かで、生業を選んで生きていくだろう。それから十年か二十年の後、あの二人は共に居るのか、それともそれぞれに伴侶を見つけているのか――それを見届けたい。
 平太はきっと、直情的だが、情け深い男になるだろう。
 蝶子は慎ましく、感情を示すのは下手でも、素直で芯の強い女となるだろう。

「……その頃、私は何歳だ……?」

 指折り数えてみると、些か憂鬱になる問題でも有ったが、然し美しく歳を重ねるのも楽しみの一つかと、己を騙す。生きる楽しみは幾らでも――そう、幾らでも有るのだと、桜は浮き上がるような気分になりながら、足を速めた。
 その時、であった。
 まず始めに桜は、世界が揺れるのを感じた。
 地震では無い。山が、大気ごと、大きく身震いしたのである。
 そして直ぐに、それは自分の錯覚であり、実際は馬鹿げて巨大な音が比叡山城内を駆け巡ったのだと悟った。
 音源は、後方。
 振り向くより先に、桜は、膨大な熱を首筋に感じていた。

 ――平太。

 心中で桜は、少年の名を呼んだ。
 桜が振り返った先では、天を突かんばかりの火柱と噴煙が――武器弾薬を収める倉庫から、ごうごうと立ち上がっていたのであった。








 距離にして数十間、桜の足であれば十も数える前に辿り着く。然し踏破した時には既に、蔵は二つ、焼け落ちていた。
 比叡山城の、城壁から離れた中央部。武器弾薬の倉庫は、幾つか並んで建てられていた。その、真ん中の一つが完全に崩れ落ち、桜から見て右手側の一つが、壁を半分も失って燃え上がっているのだ。
 先の爆音は、中央の倉から。
 収められていた火薬が爆ぜ、倉の壁も屋根も吹き飛ばしたのである。
 そして、爆風と破片の飛礫が、右手側に立つ蔵の片壁面を砕き――

「――止めろおぉっ!」

 桜は叫び、同時に、燃え上がる中央の倉へ〝斬りかかって〟いた。
 周囲にいた者達の内でも幾人か、事態を理解し、逃げる者、火を消さんと留まる者、人を呼びに走る者と別れる。
 倉には火薬が収められている。それが、壁面越しとは言え高熱を受ければどうなるか――倉の内の矢や弓、槍などが燃え、その炎が火薬に触れたならば。
 いや、中央の倉から飛んだ飛礫が、左右の倉にぶち当たっている。壁面をほぼ失った右手の倉は、既に外側の火が、直接に内の火薬に潜り込んでいて、

「誰か!」

 そして、触れた。
 爆ぜる。
 桜の声を掻き消し、再びの火柱が上がった。地が揺れ、倉とその内容物の破片が、熱風を伴って吹き荒れる。先程より音源に近かったが為、桜の耳は痺れ、暫し世界から音を失う。
 爆発の中心近くに居た桜は、己の〝眼〟――目視範囲中に炎の壁を産む力により、傷を負う事は免れていた。だが、既に気付いていた。
 視界の端に飛び散るものは、決して瓦礫ばかりでは無い。黒炭となって、或いは白い破片となって散らばっているが――

「――ぉおおおおおっ!」

 桜は、凄絶なまでの太刀筋を見せた。
 既に崩れ落ちていた瓦礫が、桜の剣閃により、更に細かく砕けて行くのである。
 もはや火種として燃える事もままならぬ破片となり、冬の大気に冷やされ、火勢を弱めて行く。
 然し、まだ有るのだ。
 桜が最初の一つ、恐らく火種となったのであろう倉を斬り潰した頃には、その右手の倉が火の頂を極めて、更に隣の倉を焼き――
 このままならば、全て燃えてしまうと、皆が思った。
 桜とてそう思ったし、何よりも――己の周囲に散らばる破片は、〝誰〟であったものかを想わずにはいられなかった。
 無論、心で何を想うたとて、体は動く。
 一つ倉を斬り潰し、炎に表皮を焼かれながらも、次の倉へ正対する。
 既に周囲には多くの者が、或いは雪を投げ、或いは桶で水を運び、魔術の腕に覚えが有るなら氷結、水流の術を用いて、鎮火に当たっていた。
 口々に叫んでいるが、その声に纏まりは無い。家族の名を呼ぶ者、恨み言を喚く者、様々に、思い思いにである。
 だから、桜も叫んでいた。

「何処だ、平太!」

 答えは、返らなかった。
 代わりにひょうと風を裂いて、一降りの槍が、桜の頭上を抜けて行った。
 槍は、燃え盛る倉の壁面に突き立ち、きぃと甲高い音を響かせた。
 刹那、大気が一層の冷たさを帯びる。
 孕んだ水分を瞬時に凍結させた大気が、白く眩く、美しく輝く程の冷気は――炎を〝その形のままに〟凍結させる。揺らぐ舌、散る火の粉、凶悪に鮮やかな朱の色までをそっくりそのまま、氷の内に閉じ込めてしまったのである。
 槍を放ったのは、白髪に数多の傷の少女――狭霧紅野であった。

「何が有った……?」

 そう、紅野は言った。
 最初のたった一声――それはまるで、泣き崩れる子供のように、力無く発せられた。
 目に映る全てを信じたくない。夢であれと祈りながら目を瞑りたい。せんない願いが、紅野の声に零れてしまっていた。

「知らん!」

 桜は、その声を聞いて、その意に寄り添う事はしなかった。
 半ば喚き散らすように言って、刀を鞘に納め、雪の上に座す。
 殴りつけるような声――紅野は直ぐに、己を取り戻し、もう一度、役目をやり直した。

「何が有った! 見ていた奴は!? 番兵はどうした!」

 勇ましく、大将らしく。幾千の軍勢にも怯えぬ将の仮面を被り直し、紅野は状況を把握せんと、辺りを見渡す。
 倉二つが爆ぜ、完全に燃え尽きた。
 その倉に納められていたのは、弓、矢、鉄砲、舶来の大筒、弾丸、そして火薬。その火薬が為に、倉が完全に吹き飛んだのだ。
 爆風に焼かれ、倉の破片の飛礫を受け、負傷した者も見える。一人か二人、不幸にして頭を飛礫に貫かれたか、雪の上に伏して死んでいる者が居る。
 惨状――そうとしか呼べぬ風景に、呼吸が止まるような錯覚を受けて、紅野は空を仰いだ。

「……番兵は、ここだろうよ」

 桜は、変わらず地に座して、地を眺めていた。
 倉や内容物、つまり木やら漆喰やら、鋼やら鉛やらの他にも、爆発痕に散らばっているものが有った。
 黒く焦げていても、形状を保っている部位は有る。或いは肉だけが剥がれたか、白さを保ち落ちているものも有る。
 人の骨。
 或いは、頭。
 顔こそ焼けただれて誰とも分からぬが、紅野が探している番兵とは、恐らくこれではあるまいか――彼等は武器倉の門前に立っていたが為に、恐らくは誰より近くで爆風を浴びたのである。
 一つ、また一つ、悲哀と絶望から嗚咽が零れだす。陰りが満ちた中で桜は、一つ、焼け焦げた腕を拾った。
 小さな――子供達と比しても、まだ小さな腕であった。

「……ぁ」

 桜は、嘆かなかった。
 拾い上げた腕を掴んだまま、後方より近づく気配を感じ取っていた。
 既に皆は、〝それ〟の顔を見て、どよめいていた。然し桜は動かない。
 雪の上に座して、焼けた小さな腕を抱いたまま、微笑みさえ浮かべているのである。
 だが、他の誰も――紅野でさえも、桜に寄れない。声を掛ける事さえ能わない。
 そして、〝それ〟は桜の背後に立つと、血濡れのクナイを逆手に持ち、振り上げた。
 振り下ろされた切っ先が、桜の首筋に届くより先に、桜はクナイを掴む手を、蝶子の背に捻り上げた。

「っはは、は……まさか、お前か……」

 桜は渇ききった目のまま、唇を歪に引き攣らせて、蝶子の持つクナイを奪った。

「お前が……!」

「……ごめんなさい」

 幾人かの真新しい血で濡れた凶器と、爆ぜた武器倉。敵わぬと知って尚、狙った首。
 雪の上に組み伏せられながら、蝶子はそれだけを言った。








「……悪いな、集まって貰って。もう皆、話は聞いていると思うから……まあ、細かい事は省略しよう」

 比叡山の本堂に、城内の幹部格の者を集めて、紅野は話を切り出した。
 誰にも、誰も、覇気が無い。議題を知っているからである。
 城内に、政府方の内通者が居た。その為に、生命線の一つとも言える武器倉を二つ――備蓄残量の四割も失った。
 たった一人の内通者で、四割である。

「〝別夜月壁(よるわかつつきのかべ)〟に頼りすぎたんや……もっと番兵を増やしてれば」

 幹部格の者の一人、西橋という男が言った。特に城内の者の争い事を仲裁する、体格の良い男である。
 あまりにも態勢が杜撰であったと言わざるを得ない。然るべき防備を取っていれば、防げた事態であったのだろう。
 然し起こってしまった――故に皆は、原因を求めていた。
 何か原因が有ったのなら、それを取り除けば、もう二度と、このような事態は起こり得ない。そういう〝建設的〟な行動を、少なくとも幹部格の者達は取りたがっているのである。

「おっと、そういう話は無しだ」

 紅野の目的は、違う。
 疲れ切った、強がりの中に諦観の混じる笑顔を浮かべて、紅野は穏やかに、西橋の言葉を遮った。

「犯人を捜すなら、一人は私にしてもらおう。それ以外の結論は禁止……いいな?
 元々、武器倉の守備なんて、私達のような戦屋がやるべきだった。〝子供の顔に騙されて闇討ちされるような〟奴を置いておくのが間違いだったんだ。采配を改めなかった私の原因さ」

 穏やかな声――言葉には棘が混ざっている。然し、咎める者は誰も居ない。

「役割を見直そう、調練は私が居なくても出来る。平時も城兵は私が直接指揮し、調練に関しては狩野に任せる。……今後一切、武器に関わる部分に関しては、私が認めた奴以外に触れさせないように。もう平等の真似は終わりだ、いいな?」

 そうして紅野は、何事も無いかのように、触れてならぬ所にまで触れた。

「……おいおい、お嬢。どういう意味や、それ?」

 西橋は、川の底石の如き目玉を、ぐうと細めて、低い声で言った。
 平等の真似――人が集まれば順列が出来る。紅野は、その力量故に比叡山の大将となっているが、敢えて戦いに疎い町人達までを幹部格に取り上げていたのは、平等感の演出であった。皆で等しく苦しみ、等しく手柄を上げるという名目の元で、実際は紅野を中心とした兵隊上がりの者達が、物資管理も夫人も、城壁修復の指示も、防衛の指揮も執っていたのである。

「これまで、あんた達とは、良く合議をしてきた。色々と参考になる意見も有ったけれど――悪いがあんた達、やっぱり戦の事には素人だ。
 今回の事で良く分かったが、常識が違う。番兵が白槍隊だったら、二人も居て、こんな子供にやられたりはしない。そもそもこいつだとか、あー……平太みたいな子供を、火薬の有る所に近づけさせない」

 その誤魔化しを、辞めようという。

「これからあんた達は、食事の分配と、身内の揉め事だけに気を払って貰う。兵糧倉は私の指揮で守らせるから、その中身を上手く使う事を考えてくれ。仲間内の喧嘩で、誰かが死んだりしないように気を付けてくれ……それだけだ」

「納得いかんな、お嬢」

 西橋が立ち上がり、紅野に詰め寄る。
 頑固な男だ――良くも悪くも曲がらない。だから紅野も、この男には信を置いていた。

「それだけ、やと? 阿呆が、お嬢が二人も三人もいるんかいっちゅうんじゃ。お前は一人やろうが、五人分も働けるかい!」

 それを突然にお役御免、後は自分でやると言い出す暴挙――流石に誰も騙されなかった。紅野の独裁宣言が、どういう意図で発せられているものか分からないで、小集団と言えど幹部格に取り立てられる事は無いのだ。
 確かに紅野は、平等という欺瞞を取り除いて、自分を頂点とした命令系統を作りたがっている。
 だが、人数として多数派である町人達を、彼等を纏める幹部格の者達を、その命令系から外す事は出来ない。
 紅野は、服従しろと言っているのだ。
 自分の命じる通りに戦い――或いは、命じる通りに死ね、と。全ての史資に残る功績は、その上に狭霧紅野の名を冠する物にせよ、と。
 その代わりに、全てを負うつもりでもいる。籠城の苦しみ、戦の痛み、餓えによる怨嗟も全て、自分に向けさせようと。
 〝皆で決めたから〟こう動くというのは、もう終わりにする。
 〝狭霧紅野が決めたから〟という大義名分と、憎悪の理由を与えようと言うのだ。

「悪いが戦の事だったら、私一人で、あんたらの五十人分は働けるさ。
 ははっ、何も恰好付けて言ってるんじゃない。私は多少の無茶くらい耐えられる人間だし、この戦はあんたらに噛ませられるものじゃなくなった。……いいか、お前達」

 二人称が、変わった。
 同格の者として、親しげに接する事を捨てて、上から下へ一方的に言葉を押し付けるような、高圧さを滲ませる。

「私の親父を舐めるなよ、死ぬぞ」

 奇しくもその口振り、声の冷たさは、彼女の父親である狭霧兵部和敬に瓜二つであった。

「ああ、確かに私の身体は一つだとも。あんたらに、私の部下になる義理は無く、どんな勝手をする権利はあるだろうとも。
 だが舐めるなよ? 政府軍の頭は、誰あろう兵部卿――私の親父だ。それが本気になっちまった以上、私らが想定する地獄より、必ず上を行く最悪を用意してくるに決まってんだろうが!
 あいつはな、一人の人間を苦しめる為に、十人を無駄死にさせて笑っているような奴だ。暗殺者にわざわざ子供を選んで、殺す事より、私らを抉る事ばかり考えてくるような奴だ! 武器庫が燃えた煙くらい、あいつは見届けただろう。桜の暗殺なんか失敗するに決まってると、笑いながらこの山を見てただろうよ! そんな人間にあんたらみたいな素人を立ち向かわせたら、針の先程の希望まで潰れちまうんだ!」

 紅野は、槍を手に立ちあがっていた。武器には愛着を抱かぬ性質であるのか、無銘の、一平卒が使うのと同じ槍である。
 その動きを合図として、紅野の腹心である狩野が、蝶子を本堂の中心へ投げ出した。
 踵の腱は、左右とも切っている。跳ぼうとすれば、人の頭上を飛び越えかねぬ少女である。
 桜も紅野も、他の誰も、この少女の技量を見誤ったは――ひとえに彼女が、欺く事に長けた者だからであった。
 忍び。
 人の間に紛れ、夜に伏せる者。古くには情報の奪取や武将の暗殺など、影の任に携わった者だが――狭霧兵部は、その一派を掌握していた。
 最も、掌握とは言っても、酷く乱暴な形では有ったが――

「蝶子……本名か?」

「はい」

 畳の上に転がされた蝶子へ、紅野は槍の穂先を向けた。
 心の動きを見せぬ淡々とした声で、蝶子は短く答える。

「お前は、自分がした事を分かってるか?」

「はい」

 短く言い、蝶子は、手で体を起こして胸を張った。

「番兵は二人いました。脚を見せて誘ったら、槍を置いて近づいてきた――喉を抉りました。それで倉庫の中に入ったら、平太くんが兜を選んでいました」

「……殺したのか」

「はい」

 集まる者達の中から、呻き声が漏れる。幼い少女があまりに簡単に、人の命を奪ったと認める――異常であると感じずにはいられなかったのだ。

「先に殺したのか、それとも爆発で殺したか」

「先に殺しました。抱きついたら戸惑ってたから、そのまま首の後ろを刺して殺しました。血は後ろに向かって吹き出したから、私が隠し持ってた油紙は濡れません。油紙は十分に長かったので、倉の入り口から火薬の所まで導火線にして、火を着けて直ぐに走って逃げました。死体が砕けるのは見ませんでしたけど、誰かが巻き込まれるのは――」

「もういい、分かった。……狭霧兵部の算段か?」

「はい」

 腱を斬られて立ち上がる事も出来ず――麻酔は無い、酷く痛むだろうに。それでも蝶子は、自分の行為を何一つ隠さず、それどころか広く知らしめようとするかのように言葉を続けた。
 その言葉が一つ発せられる度、居並ぶ者の憎悪と困惑が強まる。
 何故、このような子供を使ったか。
 十一か、十二か、まだ背も伸び切らぬ子供に大事を任せたか――

「……兵部卿は、これが成功したら、姉さんを助けてくれると約束しました」

 ――扱いやすいからだ。
 この言葉を聞いた瞬間、紅野は顔を右手で覆って、柱に凭れ掛かり座り込んだ。

「私の姉さんは、私と同じ技を習ってました。けど……一度、何かの時に、大きな失敗をしてしまったそうです。殺されてもおかしくない程の。……それで、私が選ばれました。
 命令されてたのは三つ。武器倉庫を焼き払って、桜さんと、それから座主様を殺す事でした。……一つでも成功して戻れば、姉さんを助けてくれるって」

 父も母も無い――だが、姉ならば居た。
 確かに蝶子は孤独な身の上であったが、たった一人、血を分けた姉妹があった。狭霧兵部はそれを盾に使ったのである。
 蝶子に、他に選ぶ道は無かった。
 やれといわれ、否と答えたら、狭霧兵部は蝶子も殺していただろう。だが、運良く成功して帰れば、二人揃って生き延びる目も有る。
 洛中の動乱に乗じ、比叡山に逃げる人の群に混ざり、機を窺う。何か月を掛けてでも、或いは何年を経てでも、目的を果たす――〝忍ぶ〟のである。
 そして今――その策は、成った。もはや蝶子に、残す悔い、秘すべき事実などは無いのだ。

「……ごめんなさい、みんな」

 然し、たった一つ、悔いでは無く、言葉を残すなら。

「ごめんなさい、騙して……! 寂しい子のふりをして、みんなに同情させたりして、大事にしてもらって……なのに私、何人も殺しちゃった……ごめんなさい……!」

 蝶子は、安らぎに満ちた笑みと、涙を同時に浮かべながら詫びた。
 堰を切ったように、蝶子は謝罪を繰り返した。

「本当は私、ずっと待ってたんです! 皆が私を、暗くて嫌な奴だと思って、見向きもしなくなる時を! でも、一人ぼっちのふりをしてたら、逆にみんなが優しくなって……すっごく楽しかった、懐かしかったから……! こうやって楽になれるのを、ずっと、ずっと!」

 その言い分は、酷く身勝手なもの――と、立ち切るのは容易かろう。
 だが、この理屈を吐いたのは、十二にならぬ少女であった。
 父も無い。
 母も無い。
 たった一人の身内と引き剥がされて、数か月を、敵の群の中で過ごした。
 そんな娘が涙ながらに、全てを諦めて吐く言葉なのだ。
 誰も、何も言えず、動けもしなかった。

「……私は、どうなるんですか……?」

「それは――」

 その答えを、紅野が言おうとした、その時であった。
 全てを遮るように桜が立ち、本堂の中を真っ直ぐに、蝶子の元へと歩み寄った。
 両腕を広げ、何時かのように――
 例えるなら、夕食を三人で食べようとした時のように、か。
 それとも、一つの布団にぎゅうぎゅうと入り込み、身を寄せ合って眠る時のように、か。

 蝶子は、ほんの十日ばかりの事を思い出していた。
 たった十日でも、数か月の孤独を埋めるに足りる日々だった。
 人のぬくもりが有った。
 人の声が有った。
 そして、それを甘受する時はいつも――

「桜、さん」

 ――この、慈母の如き微笑みが有った。
 桜は両腕の中に、蝶子の小さな体を迎え入れた。
 冷え切っている――身も、心までもきっと、冷たく凍えたのだろう体を、

「――おやすみ」

 別れの言葉と共に、桜は強く、強く、抱きしめた。
 異音が響いた。
 巨木を束ね、一息に圧し折るが如き異音。
 肋が、背骨が、腕が、肩が――蝶子の体が、砕ける音であった。

「こ、ひゅっ」

 蝶子の口から、血が溢れた。
 体を潰され、臓腑の悉くを引き裂かれ――蝶子は最後に一度、咳き込むように体を震わせた。
 それでも桜は、蝶子を強く抱き続けた。
 痙攣が止み、拍動が消え、体から暖かさが抜け落ちるまで――桜は蝶子の体を、軋む程に抱き続けた。

「……要は、殺せばいいのだろう」

 それから、桜は言った。

「これよりは、狭霧紅野が我らの大将。その命に従わぬもの、背く者、悉く」

 抱き、絞める腕が――指先が遂に、蝶子の骸に突き刺さる。皮膚を破り、肉に沈み、遂にその体を貫いて――背から胸へ、桜の腕が突き通る。

「悉く、このように殺せば良いのだろう?」

 無残な屍を掲げて、桜は吠える。
 桜は氷の面貌を取り戻し、恐らくはこの場の誰よりも冷静に――己の役目を、之と定めた。

「ああ」

 狭霧紅野が、その言葉を引き継ぐ。

「今日、この日から、全ての決定に合議は不要だ。私が決めて、私達が実行し――死にたくないお前達が従う。いいな?」

 否、の声は上がらなかった――上がらせなかった。紅野は既に槍を構えていたし、彼女の側近たる狩野も、他に白槍隊から流れ落ちた兵士が幾人か、その手に武器を構えていた。
 こうして比叡山城の全権は、極めて穏やかに――加えるに、従となるものの同意さえ経て、狭霧紅野の手に渡る。
 集合体としての全ての機能を、戦の為だけに。
 一匹の蝶を生贄に、この日初めて比叡山城は、戦の備えを完了した。