烏が鳴くから
帰りましょ

群れのお話

「誰だ。いや、覚えているぞ」

 弾かれた大鋸をまだ振り翳したまま、狭霧兵部和敬は、憤怒を残して残忍な笑い方をした。

「〝九龍〟が連れていた糞餓鬼だろう。知ったような口を利いて、その実は何も考えていない獣だ。良くも俺の前に、その無様な面で現れたものだな」

 罵りつつも、狭霧兵部は動かない。
 意の向くままに、無礼者の斬首をするなど珍しくもないこの男が、少女一人に斬りかかっていかないのだ。
 遠巻きにしている兵士達がどよめくも、その剣撃を弾いた少女――村雨は平然と、殴られて腫れ上がった顔で立っていた。
 松風左馬との殴り合いから、半月程にもなる。その時の負傷は、殆ど完治している。どうにもその後でまた、どこぞで怪我を増やしてきたらしかった。
 そして、その横にもう一人立つ少女――此方の顔を見ると、狭霧兵部は尚更に、唇を歪に歪めて目を吊り上げる。

「そこの毛唐。お前もまた、良くものこのこと顔を出せたものだ。あの肉団子共と同じに、眼球に釘を打たれるか、それとも腹に鋸を当てられたいか」

「どちらもご勘弁を。私は心を入れ替えまして、彼女のお手伝いをしたんですよ」

 然し、役者という事であれば、もう一人の少女――ルドヴィカ・シュルツも大したものである。威圧を受け、内心でどれ程に怯えていようとも、それを顔に出す事はしていない。
 動作、口調、声の抑揚が、普段より幾分か大袈裟になっているのが、自分への鼓舞であるのだが、彼女を知らぬものから見れば、大した度胸の女と映るのである。

「何をしに来た」

「さっき言った通りです」

 黒太刀『斬城黒鴉(ざんじょうこくあ)』――本来なら雪月桜の背に有る筈の刀を、蝶番式の鞘に収めながら、村雨は答える。

「呼ばれていないのに来た、と」

「はい。お金が無くなってきたんで、ちゃんと雇って貰いたくって」

「金の無心なら『錆釘』にしろ。お前はそこの所属だろうが」

「あっちだと、立場も不安定ですし。また前線に立たされて、死にそうになるのは嫌ですから――」

 村雨は、意識して礼を払わずに居た。
 周囲の兵士や、数人ばかりいる将格の者達が、このやりとりに不穏なものを感じて、身を固くしている。
 殆ど全ての者は、また一人、子供が殺されるという陰鬱な心地で立っていた。
 狭霧兵部の狂熱と、相反する冷徹さは、彼等全ての骨髄にまで染み渡っているのだ。
 然し――またある者は、まるで別な事を考えて、己の持つ得物を強く握りしめていた。
 この少女は、暗殺者の類では無いか?
 正面から堂々と入り込み、武器を携えて、兵部卿の前に立った。このまま飛び掛かり、首を落とそうという腹積もりでは無いか?
 そういう、二つの思いだけが不平等に広がる群を、村雨が見回した。
 ぐるうりと、右から左へ。
 その目に威圧的なものは無かったが、殴られて腫れた顔でありながら、全く辛そうな表情をしない。寧ろ、これが己の化粧であると誇っているような感さえある。
 それで、幾人かたじろぎ、兵士達が為す列が乱れると、村雨は満足気に頷くのである。
 そうやって周囲を見る過程で、村雨の視線は幾度か止まった。そういう時、村雨が見ているのは、大体が回りより軍装の豪華な、将格の者達であった。

「――誰かと変わってもらおうと思って」

 そう言いながら、村雨はとうとう、一か所に視線を固定した。
 村雨が見ているのは、狭霧兵部の軍中でも、際立って華やかな衣装の男であった。
 西洋風の脚絆に、革の脛当てと膝当てを重ねて、腰の周囲には金属板を繋いだ草摺を、胴でなく脚絆の帯にぶら下げる。
 履物は、これも獣の革で仕立てられた靴。爪先は分厚く、木槌で打つ程度ならば耐えて見せるのだろう。
 翻って上半身は軽装。小袖も襦袢も無し、素肌の上に羽織を重ねるだけという、奇妙と伊達の間の男である。
 名を冴威牙(さいが)という。村雨とも因縁の有る男であった。
 短気というも生易しい気性の冴威牙は、己に向けられた目と、言葉の意味を理解した。
 お前の立場に、私が取って代わる。
 村雨の言い分を端的に纏めると、そういう事になるのだ。

「……すっげ。チビに喧嘩売られてんじゃん、俺」

「犬が相手なら、楽かなって」

「ふうん」

 ずちゃっ、
 ずちゃっ、
 冴威牙の足音は重かった。
 背丈がまず、村雨より一尺は高い上に、腰から下の重装備である。全て合わせた総重量は、村雨の倍近くも有るのではないか。
 何より、冴威牙の気性は、狭霧兵部より性質が悪い。
 冷静に利益を計算できるのが狭霧兵部であるなら、感情を最優先し、怒りを暴力で発散するのが冴威牙である。
 侮られた、その一点だけを持ち、冴威牙は少女を嬲ろうと決めていた。
 双方が、引き寄せられるように歩いていく。
 場にいる誰もが、それを動かずに見ていた。
 一歩、二歩――互いの間合いに入って、止まる。

「……ぶち犯してやらぁ」

「喰いちぎるよ?」

 そうして二人が、顔を変えた。
 瞳孔の拡大、眼球強膜の変色。歯列の尖鋭化。
 目を丸く見開きながら、破顔する。
 首を、腕を、背を、脚を、冴威牙は赤茶色の、村雨は灰色の体毛が覆う。
 奇しくも二者の変化は、同質のものであった。
 片や猟犬。
 片や人狼。
 亜人である。

「おい、餓鬼と毛唐」

 その横から、狭霧兵部が声をかける。

「お前達の望みはそれだけか」

「そうですね、それから――」

 村雨が顔を横へ向け、答えようとする。
 その瞬間、冴威牙の右爪先が、火の粉が弾けるような唐突さで、村雨の後頭部目掛けて振り上げられた。
 ひゅっ、と音を立てて、その足が空を切る。
 村雨が身を沈め、蹴りを躱していた。
 躱しながら、蹴り返す。
 右足刀による、左膝への押し蹴り。
 蹴り足が地面に戻る前に、軸足を潰そうという魂胆である。
 冴威牙の脚を蹴った村雨は、巨木に足を打ち込んだかという錯覚に襲われた。防具もそうだが、骨と筋肉が分厚いのだ。
 然しその程度なら、恐れるまでも無い。
 姿勢を低くした村雨の頭へ、冴威牙は右踵を振り下ろす。
 ぞっとする程の速度で落ちてくる足である。
 村雨はそれを、両腕を交差させて、前腕二つで挟むように受けた。
 受けた瞬間には、右手が滑り、冴威牙の右足甲を掴んだ。加えて左腕が滑り、冴威牙の左膝裏へ収まっていた。

「やっ!」

 右手で爪先を引き下ろしながら、肘で思い切り、膝裏をかち上げる。
 重心が急激に持ち上げられる――並みの武芸者であれば、間違い無く後方に倒れ、或いは後頭部を地面に打ち付けたやも知れない。
 冴威牙は、並みでは無い。然し、後方への重心移動が間に合わず、地面に左膝を着いた。。

「うぉっ!?」

 間髪入れず、顔面狙いの蹴り。
 これも爪先で、顔のど真ん中――鼻を狙っている。
 靴の爪先での蹴りは、素足の蹴りに比べ、貫通性が極めて高い。それでいて、衝撃は落ちぬのである。
 しかも狙いが真ん中過ぎて、すれすれで躱そうものなら、目でも歯でも持っていかれそうな蹴りである。
 冴威牙は、両肘を合わせるようにして、両腕で村雨の蹴りを受けた。
 地面に膝が触れたまま、村雨の倍は有る重量が、地面に線を残して後退した。

「ぉお? なんだなんだ、マシになってんじゃん?」

「そう? そりゃどーも」

 間合いが開いて、両者とも、改めて立ち直す。
 呼吸の乱れは無い。負傷と呼べる負傷も無く、まだまだ、幾らでも動き回るのだろう。
 だが、この攻防で双方とも、互いの力量の一端は把握した。
 そればかりでなく、周囲の兵士が、この二者の攻防を見てしまった。
 困惑と、幾らかの昂揚と、そういう空気が広がっている。
 冴威牙という荒くれ者の力は、本陣守護を任されるような兵の間には、十分に知れ渡っている。
 その傍若無人な性格も、悪行の程も、同様にである。
 敵対する事は無いだろうが――敵対する事を考えたくもない。そういう生き物が、冴威牙である。
 そんなものと、短い攻防では有るが、互角にやりあう者が出たのだ。
 それも、少女である。
 どうにも見た限り、悪人面では無い。
 背負っている得物は、見紛う事も無く、〝黒八咫〟の愛刀では無いか。
 あの少女は何者だ――謎が好奇心を呼んで、そして期待を生んでいる。
 勝てるのではないか?
 いいや、勝てるとまではいかずとも――
 例えばでかい顔をしているあの荒くれを、少しでも大人しくさせたりは出来ぬものか。
 行き過ぎた無道を、抑えられはせぬものか。
 そういう思いを、大なり小なり抱えている兵士達が、次第にどよめきを大きくしていくのである。

「やめろ、冴威牙」

 そのどよめきを掻き消したのは、狭霧兵部であった。
 このまま戦わせて、己に益は無いと、獣より利く鼻で嗅ぎ付けていた。
 あと少しでも、この声が遅かったのなら、再び攻防は始まっていた。そうなると冴威牙も、言葉一つでは止まらなくなるのだろう。これ以上は拙いという気配を、読み切った声であった。

「おい、『錆釘』の餓鬼。名は堀川の狐から聞いた、村雨というらしいな。俺は一度見た顔は忘れぬ、覚えているぞ、お前が〝黒八咫〟と共に居た事を」

「はい」

 糾弾の響きさえある狭霧兵部の言葉を、村雨は肯定する。
 自分は反政府の勢力であったと認め――だが村雨は、堂々としていた。
 最たる理由は、まずいとなった時、自分は此処から逃げ切れると確信している為だ。
 兵士の数が最も少ない方角――狭霧兵部の居る側へ走り、兵部の横を走り抜け、そのまま何処かへ行けば良い。
 どれ程の軍勢が居ようと、完全な包囲網が敷かれておらず、手が届く場所にいないのなら、恐れるまでもない。
 寧ろ、敵の大将の喉元へ喰らい付ける自分こそが優位に有るのだと――そういう打算が有った。

「昔の事は、昔の事です」

「ならばこれからは、比叡攻めの軍に入るか」

「いいえ。前線は嫌です」

 そして村雨は、我儘を通す。
 戦場で何を言うかと、色めき立つ兵士も少なからず在った。だが、彼等が、この少女は駄目だと見切りを付けるより早く、

「赤心隊の隊長職を頂きたいと思います」

「んだとこらぁ!?」

 まず、冴威牙が吠えた。それから十数人ばかり、赤備えの若い兵士が、同じように喚いた。
 赤心隊――冴威牙を隊長とする、狭霧兵部の完全な私兵である。
 無道、無法を免じられる特権を――公的では無いが黙認という形で――与えられ、洛中をのし歩く彼等は、真っ当な人間ならば、例え兵士であろうとも関わりたがらない存在である。
 男は殴り、女は犯す。一言で言うと、そういう連中である。
 その長に立たせろと、村雨は言ったのだ。
 一触即発の空気が流れる。このままならば冴威牙の部下が、一斉に村雨に襲いかかるだろう。
 然し、その空気をまた、散らす別なものが飛び込んだ。

「ああ、いやいやごもっとも、成果の無い人間を高い官職に着けるなんて、五指龍の帝国の故事がいいところですよね? そういうお声もあると知っておりまして、わたくしちゃあんと取材はして参りましたとも」

 ルドヴィカ・シュルツの、道行く人間を呼び止めるような、賑やかに良く通る声である。
 声量で場の注目を引いた瞬間、ばさっ、と何かを投げ、周囲に散らばらせた。
 それが何なのかと、場が意識を奪われた時には、それを兵士達から見える位置にも、これ見よがしにばら撒いたのである。
 写真。
 遥か西の大帝国でも、ここ十数年ばかりでまともに使えるようになった近代技術の粋。
 白と黒の濃淡のみではあるが、風景や人の姿をそっくりそのまま切り取って、一枚の絵にしてしまう不思議の業である。
 それに映っていたのは、村雨と、それから幾つかの道場であった。
 看板通りの風景である。

「さーあ拾った拾った、『つぁいとぅんぐ』も今日ばかりは無料ですよ! 天地無双流、古甲斐流、仙山流に貫槍流、名だたる武芸者が軒並み療養所送りと来たもんだ! 誰がやったかって? そりゃあもうお察しの通り!」

 ルドヴィカが並べ立てたのは、何れも看板通りでは名高い道場の流派である。
 どういう事か――その答えは、ばら撒かれた写真が述べている。
 白黒の絵に映り込んでいるのは、殴り倒された道場主と、真っ二つに圧し折られた看板。そして、勝ち誇った村雨である。
 無論、無傷では無い。四種の写真の内、特に一種では、顔が酷く腫れて、片目が塞がり掛けている。
 だが――道場というものは、一対一で戦って、勝てば良いというものでもない。
 道場破りとは、基本的に、相手方の面子を潰してはならない。
 道場とは敵地であり、その中へ単身乗り込むのであれば、つまり袋叩きにされても文句は言えないという事だ。
 そうならぬように、道場主の顔を立て、程良く負けるのが処世の術である。
 三本手合せをして、一つ勝ち、二つを取らせ、参ったと言って頭を垂れる。いや腕利きであった、いやそなたこそと互いに称え合って、道場破りに銭をやるなり逗留させるなりして、八方丸く収めるものなのだ。
 看板を圧し折るなど、言語道断。まして打倒した相手を晒し者にするなど、常識としては有り得ぬ事である。
 それをやってしまっているのが、村雨とルドヴィカであった。

「ちょっと、あんた!」

「ん?」

「ん? じゃねえわよ! 考えが有るって言うからその通りにしたけど!」

 いや、どちらかと言えばルドヴィカも、巻き込まれている側である。
 耳打ちというには大きな声で、村雨に苦情をぶつけるが、村雨はどこ吹く風という所。
 よもや、一日で道場を四つ潰して、その次の日に戦の最中の本陣へ乗り込もうとは、ルドヴィカも思っていなかったのである。
 何はともあれ、はったりは存分に利かせた。
 村雨に取って幸いなのは、彼女自身の外見が、決して強そうには見えない事。
 小柄な少女としか見えぬ姿と、それに反する力という二面性が、どれだけ人を畏れさせるか、村雨は良く知っている。
 この機だ、と村雨は思った。
 今、この時、もう一度言葉を――

「良し、良いんじゃあないか」

 再び狭霧兵部が、一種の軽薄ささえ伴って口を開いた。

「紫漣、お前をこの場で降格する。そこの餓鬼を後任として、赤心隊の副隊長とし、また横の毛唐も合わせて赤心隊の所属とする。良いな?」

 淡々とした口調であったが、その声に含まれた意思は絶対であった。
 これを揺るがす事は出来ないだろうという確信を、誰にも抱かせる声――或いは天性の将才なのやも知れない。

「……ほー」

 本当は村雨も、この辺りで要求を撤回し、別な要求を突き出そうかと考えていたのだ。
 例えば、そこそこの適当な部隊に加わるなり、或いは特に所属も無く、飽く迄『錆釘』よりの出向という立場を保って、街の警護に当たったり、と。
 前線に出されなければ――桜と敵対するような場所に立たないのならば、それで良い。だが、政府軍の懐には入って行きたい。村雨が現状で考えているのは、それだけだった。
 だから、狭霧兵部の提案を、蹴る理由も無い。

「よもや異論は有るまいな、餓鬼。気に入らんというなら、捕り物の続きだ。鬼殿と俺と、二人を相手にして勝てぬと思い上がる程の愚者でも無いだろう」

「……ごもっともで」

 然し、飽く迄今回は、狭霧兵部がそう決定し、そう任命したという形では有るのだ。
 何処の誰とも知れぬ少女に強請られ、役職を与えた訳では無い。
 飽く迄も普段の気まぐれの延長で、適当な人事を行った――額面としてはそういう事だ。

「兵部卿……そんな、何故! 私に落ち度があるなら――」

 意を唱える者は一人。背から翼を生やした女――紫漣という女である。
 冴威牙の部下では、唯一の女。翼は飾りでなく、実際に空を飛んで、桜に打ちかかった事も有る。
 赤心隊の副隊長という役職は、つい先程までは、どうやらこの女が勤めていたらしかった。

「お前は弱い。それ以上の理由が居るか、痩せ鳥」

 これ以上、誰の諫言も受け取らぬ。狭霧兵部はそう言わんばかりに、紫漣の言葉に被せて断言する。

「さ……冴威牙様……?」

「………………」

 紫漣は、すがるような目で冴威牙を見た。冴威牙は何も言わず、首を左右に振るばかり。
 狭霧兵部の決定は撤回されないと、良く理解している為だ。

「何をしている、愚図共! さっさと被害報告に移らんか!」

 空が茜でなく、確りと青になった頃合い。狭霧兵部の命に、溜まっていた伝令が揃って動き出す。
 人の群が、戦後処理の為に方々へ散る間、村雨はその光景を、じっと目に映していた。

「……やってやろうじゃない」

 敵は巨体に過ぎて、何処に噛み付けば良いかも見えない。
 だが、そういうのが堪らなく楽しくて、痛む唇を歪め、村雨は笑うのであった。








「という訳で、今日からあなた達の上司になった村雨です、宜しく。あと横のこいつはあなた達の同僚ね」

「ルドヴィカ・シュルツです。悪行三昧はバッチリ取材して歴史に残して行こうと思うので、悪しからず」

 その日の昼過ぎには、村雨は、赤心隊の隊舎に居た。
 隊舎とは言うが、二条城の一室である。荒くれ者という事で、城の重要な機能からは遠ざけられ、端も端の、倉庫のような場所に位置した部屋である。
 畳の枚数にして三十畳とそこそこの広さでは有るが、二十人近い荒くれを囲うのに十分な広さかと言えば、否であろう。
 ともかく、そういう所で村雨とルドヴィカは、これからの同僚達に挨拶をしたのである。
 無論、不平の声が、ぐわっと立ち上がった。

「隊長! なんでこんな餓鬼が!?」

「そうだそうだ、しかもこいつはあの時の、酒屋に肩入れした異人の餓鬼じゃねえっすか!」

 反発は、かなり強い。元々、既存の風習に抗うのが趣味であるような連中なのだ。
 自分達の意思でなく、上から押し付けられた上司を認めろというのが、彼らには無理難題とも言えよう。
 然し、指差して直接謗られようと、村雨は涼しい顔をしていた。

「んー……ねえ、冴威牙だっけ」

「隊長様だぞー、敬えよ馬鹿」

「隊長様の冴威牙、この人達大丈夫なの?」

 少なくとも、形式上の上司を敬うそぶりは見せず、村雨はそう言った。

「大丈夫って、何が」

「だって、白槍隊って人達と比べると、なんだか弱そうだし……」

 白槍隊は、皇都守護の最精鋭である――つまりは日の本一の戦闘部隊である。
 それと比べれば、どの部隊だとて数歩見劣りはしようが、そういう事では無い。
 何かに比べてこの集団は劣ると、村雨ははっきり口にしたのだ。

「……お前、そういう事をなぁ」

 冴威牙が呆れるが、それより早く、赤心隊の隊員達が沸騰する。

「どういう意味だ!?」

「冴威牙はともかく、他の……えーと、ひのふの、二十人くらい? これだったら、私一人で勝てそう」

「んだと!?」

 沸騰した頭に、更に煽りを被せて行く村雨である。流石に、横に立つルドヴィカが不安になり、耳元に口を寄せた。

「あんた、今日は無茶を言い過ぎじゃないの?」

「……まあね、うん、自覚はしてる」

「もうちょっと猫被ってなさいよ」

「最初だからね、しっかり驚かせておかないと。最初で黙らせたら、後は何してても許されるもんだし」

 村雨とて、元々は大言壮語を好む性質では無い。
 だが、自分はそれだけの力が有るのだと、はったりでも良い、相手に信じ込ませる事が大切だとは知っている。
 そのやり方が少々、集団に合わせて荒っぽくなっているのと――

「それにまあ、勝てるとは思うし」

「……なーんかあんたむかつくわー」

 自分の力への信頼も、また理由の一つであった。
 隊員達が、怖い顔を作って威圧をするが、それに怯える村雨でも無い。平然と受け流し、相手を下に見るような言葉を返す。
 その内、幾人かが激昂して――

「よーし分かった! そんだけ言うならやってもらおうじゃねえか、副隊長様!」

「あ、おい、待てよ」

 ついに誰かが、村雨の望む言葉を吐いてしまう。冴威牙が止めようとしたが、もう手遅れだった。
 言った瞬間、ひょう、と風を斬る音。
 村雨の靴が床を離れ、真っ直ぐに、そう言った隊員の顎へと向かったのだ。
 かつっ、と軽い音がした。
 隊員の顔が天井を向いて、それからぴんと足を伸ばし、最後には棒切れのように傾く。
 彼が床に倒れるのと、村雨が弾かれたように走り出したのは、殆ど同時であった。

「あっ」

 誰かが、呆気に取られたような声を上げる。
 不意打ちで村雨が、一人を蹴り倒した――次の瞬間には、猛然と逃げ出していたのだ。

「待っ、待てこらああぁっ!」

 無論、黙っていられる程、血の気の無い連中でもない。
 手に手に、手近な武器を掴んで、村雨が走って行くのを追いかけはじめる。

「だーかーらー、お前達も待てっての……ああくそ、聞いてねえ」

「……冴威牙様、追わないのですか」

「追わねえよ……お前は追いかけてえのか?」

 動かないのは、冴威牙と紫漣、それから逃げ遅れたルドヴィカくらいのものである。
 やがて、廊下の向こうから、隊員達が城の者とぶつかって転倒したり、悪態を吐く音が聞こえて来て、

「……馬鹿連中が……してやられたな」

 冴威牙は、知らず知らずの内に、楽しげな口振りになっている。
 それを見る紫漣の目だけが、何にも増して冷たく凍り付いていた。








 隊員達は、村雨を追った。
 然し、何処まで探しても見つけられない。
 城の者の話を聞いて回ると、城の外へ出たのかも知れない。
 だが、城の外で話を聞こうとすると、ろくな情報が見つからないのだ。
 無論、赤心隊が鼻つまみものであるというのも、目撃情報集めの障害にはなっているが――

「あの餓鬼、何処に行きやがった!」

 隊員の一人、磯貝という男が悪態を吐く。
 昼過ぎから追いかけはじめて、気付くと日が山の向こうに沈んでいる。茜色の空がじわじわと、黒に取って代わる時間である。
 侮られ、仲間を蹴り倒された。その落とし前は、しっかりと着けねばならない。
 世間から爪弾きにされているからこそ、仲間内での結び付きは強いのである。逃げ出した村雨が、例え少女であろうとも、一切の加減無く、手酷い目に遭わせてやらねばと、磯貝は考えていた。
 とは言うものの、やはり何処を探しても見つからないのである。
 この時間から、また洛中を歩き回るのも大変だと、磯貝は路地を通って二条城へ戻る最中であった。
 不意に、磯貝の体が後ろへ反り返る。

「……っ!?」

 叫ぼうとするが、声が出ない。首に、腕が巻き付けられているのである。
 恐ろしく強い力だ――指を割り込ませる隙間も無い。
 そして、きっちり気道も血管も、どちらも押さえつけているのだ。
 呼吸が出来ない。
 血が脳に回らない。
 あっという間に、磯貝は落ちた。
 その体が、地面に叩き付けられないように、村雨は後方から両脇を抱えて持ち上げ――

「よし。ルドヴィカ、こいつお願いね」

「はーあ……はいはい、分かったわよ」

 これで二人目と、指を負って数える。
 物陰に隠れていたルドヴィカは、写真機を構えて立っていた。








「た、たた、隊長! 隊長ってばぁ!」

「んだよ、煩っせえな……俺は昼寝中だっての」

「冴威牙様、もう夜ですよ。そろそろ起きてくださいませ……もう」

 隊員の中でも特に若い、まだ少年と呼べるような顔の一人――津桐が隊舎へ駆け込んできた時、冴威牙は紫漣に膝枕をさせて、眠そうな目を擦りながら天井を睨んでいた。
 紫漣が、冴威牙の額や頬を撫でている。起きろとは言っているが、手は裏腹に、甘やかすようにして、自分の膝の上から逃がすまいとしている。
 そういう所へずかずかと上り込んできた津桐は、かなり息を切らしていた。

「いっ、磯貝が!」

「病気でも貰ってきたか?」

「やられたんっすよぉ!」

 途端、冴威牙の上体が、打ち出されたような勢いで起き上がる。

「今、こっちに運んでますから、良いから見てくださいよぉ! ああ、ちくしょう、ちくしょう……」

「……生きてんのか」

「生きてますけどぉ!」

 荒くれ者という事もあり、殴った殴られたは日常茶飯事の赤心隊である。
 にも関わらず、津桐は随分と取り乱しているように見えた。
 異常である――そう感じた冴威牙は、羽織を肩につっかけ、廊下を早足で歩いて行く。三歩遅れて、紫漣が、それを追う。
 廊下は、いやに静かであったが、夜ならば平常の事かも知れない。
 寧ろ、静寂を奇妙であると考えてしまう、自分達こそがおかしいのではないか――そんな事を冴威牙は思った。周囲に違和を感じる時は、大概、何かが起こっている時なのだ。
 そうして廊下を歩いて行くと――戸板に乗せられて、運ばれてくる男が有った。

「……おんや、まぁ」

 冴威牙は気の抜けた声を発していた。
 戸板に乗せられているのは、磯貝という隊員――短気な男である。
 それが、褌一丁にされて、気絶しているのだ。
 目立った傷は無い。首に少し痣があるが、その程度である。
 だが、揃いの軍装は全て剥ぎ取られて、褌だけにされた姿は、かなり滑稽であった。
 始め、冴威牙は、口を開けてそれを見ているばかりであったが、

「……っくく、くくっ……ぶふっ、ひ、ひ……」

 やがて、堪え切れない笑いを零し始める。
 口を手で抑えているが、それで封じ切れるものでは無いのか、手の隙間から笑声が漏れ出す。
 そして、その内に抑えるのも面倒になって、とうとうげらげらと大声で笑い始めた。

「ぶあっはっはっはっはっはっは! やっべえ、やられてんじゃん! やっべえ!」

「隊長、笑いごとじゃないでしょう! 舐められてんですよ俺達はぁ!」

 腹が立つのも行き過ぎたか、津桐は、半泣き半怒りの顔で叫ぶ。
 それでも冴威牙は、笑うのを止めない。腹を抱え、床の上でのたうちまわり、足で床板を幾度も蹴り叩いた。
 隊員達も、何を言えばいいのか分からず、おろおろと見ているばかり。
 たった一人、違う表情をしているのは、紫漣くらいのものだろうか。褌以外を剥ぎ取られた磯貝に、侮蔑と憎悪の入り混じった目を向けているのである。正確に言うと、磯貝を通して、その向こうの誰かに、そういう感情をぶつけようとしているようであった。

「ああ、悪い悪い。こいつもほっときゃ起きるだろ、起きたら適当な服をくれてやれ。……おい、紫漣!」

「は、はいっ!」

 やっと笑いが収まったと見えて、冴威牙は涙を拭きながら立ち上がる。呼吸を整えると、恐ろしい目をしている紫漣の後ろに立ち、名を呼びながら肩を叩いた。

「飯喰いに行くぞ!」

「はいっ! ……はい?」

 反射的に返答してから、紫漣は、冴威牙の言葉の自由さに気付いた。
 この状況で、食事に出るという。然も名を呼んだのは、紫漣だけである。
 隊員が襲撃されている状況で、果たして何をしようというのか――
 だが、紫漣にとって、最も重要なのは、其処では無かった。

「あっ、あのっ、冴威牙様。それは、つまり、私だけを……?」

「おう。他の連中は、あの狼探しで手一杯だろ? だからお前だけ連れていく。何か用事でもあんのか?」

「いっ、いえ! 決してございません!」

「うっし、決まり!」

 紫漣の注意はこの時、〝同行者が居ない事〟だけに向いていた。
 僅かにでも知を巡らせられる人材が、この時、赤心隊から消失したのである。
 そして、心此処に在らずの紫漣の手を引いて、冴威牙は意気揚々と城の門へ向かう。

「隊長! 何処行くんすか、隊長!?」

「明後日の昼くらいには帰るからよぉ、留守番頼むわ!」

 頬を化粧も無しに赤く染めながら、上の空の紫漣を連れて、冴威牙は夜の洛中へと消えてしまった。
 こうして赤心隊の面々は、己等のみで、襲撃に備えねばならなくなったのである。








「いいか、必ず二人一組で動くんだぞ! 見つけたらまず、誰かに知らせろ! いいな!」

「おうっ!」

 二条城の外――赤心隊の隊員達が、気勢を上げている。
 磯貝が襲撃された場所から、円を広げるように進んで行って、村雨を狩り出そうというのだ。
 この時の不幸は、彼等を指揮できる者が、誰も居なかったという事に尽きるだろう。
 ばらばらと散らばって行く隊員達は、とても統率が取れているとは言い難い。

「……しめしめ、良い感じに散らばってくれたじゃない」

 彼等が散らばって行く様子を、村雨は、二条城の屋根に上って見ていた。
 黒い布を頭からひっかぶり、瓦屋根の曲線に応じて身を伏せれば、とても地上から見上げて発見できるものではない。
 そうして、赤心隊の面々が、城から全部出払ってしまうのを待っていたのである。

「お腹もそろそろ空いたしなー……ここのご飯ってどんなんだろ」

 すっかり赤心隊が離れて行ってから、村雨は地上に下りて、二条城の正門から城内へ入って行く。
 磯貝から剥ぎ取った羽織と、村雨自身の灰色の髪は、十分な身分証として機能していた。








「……くそっ、何処にもいねえ! お前達はどうだった!?」

「こっちも見つけられねえ……ちくしょう、腹ばかり減ったぜ……」

 暫く時間が過ぎて、もう城内でも幾人かは就寝に入る頃合い。
 赤心隊の面々が、二人、或いは四人と、少しずつ戻ってきた。
 まだ全員は戻っていないが、もうじき揃うだろう。差し当たっての彼等の問題は、極まった空腹である。
 何せ昼過ぎから、延々と村雨を探して走り回っていたのだから無理も無い。疲労も溜まっているし、眠気も有る。
 睡眠は交代で取るとして、まずは食事だ。一人が廊下を走って、賄い方に、なんでもいいから食えるものを出せと要求に行った。

「米ぐらいは残ってっかなぁ……?」

「俺達が喰ってねえんだ、残してるだろ」

 隊舎とは名ばかりの大部屋に、今の時点で戻っているのは十一人。一人が食事を用意させに行っているので、城に戻っているのは十二人。あと六人ばかり、これから戻って来る筈だ。
 成果は無く、疲労ばかり――今日の収穫を考えると、余計に空腹が際立つ。そういう所へ、走らされた隊員が戻って来たのである。

「おい、ふざけてやがるぜ!」

「どうした?」

「俺達の分の飯は、もう片付けちまったとかほざきやがる!」

「なんだと!?」

 空腹は病と同じ、耐え難いものである。十二人は連れだって、廊下をどしどしと踏み荒らしながら、賄い方まで向かった。
 竈の火は落ち、調理器具も全てが丁寧に洗って仕舞い込まれ――この日はもう、これ以上の作業は行えまいという有様。成程、これなら片付けは済んだと見える。
 然し、それで収まらぬのが彼等でもある。片付けを済ませて帰ろうとする、初老の男に喰ってかかった。

「おい、おやじ! 俺達に食わせる飯はねえってのか!?」

「うん。そう聞いとるからね」

 初老の男は、さも当たり前のように言い返す。

「どういう事だ!?」

「あの羽織の女の子、おたくの新人さんなんだろ? あの子が来てね、今日は外で演習やって、そのまま食べてくるから、皆のご飯は要らないと。だからあの子の分だけ用意して食わせてやったよ」

「はあ!?」

 つまり、村雨の兵糧攻めである。
 堂々と城内に入って、自分の立場を悪用し、赤心隊が夕飯にありつけないようにした。
 やっている事は地味だが、然し、してやられた当人達としては、怒り心頭に発するものであった。

「お腹が空いてるなら、明日の朝飯は大盛りにしとくよ。お休み」

「ぐ、ぐうう……!」

 初老の男はそう言って帰って行く。
 赤心隊とて、流石に城内の台所事情を一手に仕切る男が相手では、それ以上強く出る事も出来ない。怒りは当然、策を弄した村雨に向けられる訳であるが――

「……おい!」

 隊員の一人が、顔を青ざめさせて言う。

「どうした?」

「先崎はどうした!?」

「あいつなら――」

 先崎――やはり、隊員の一人である。早い段階で二条城に戻り、待機していた十二人の内の一人だ。
 当然、賄い方へ文句を言いに出た時も、彼等と共に廊下を走っていたのである。
 廊下で横に何人もは並べず、確か一番後ろを着いてきていた筈だが――

「……居ない?」

 その姿が見えない。
 嫌な予感に駆られて、彼等は再び廊下を走って、大部屋まで戻った。
 開け放して出てきた筈の襖が、隙間なくぴっちりと閉ざされている。それを、手で開けるのではなく、足で思い切り蹴り破った。

「先崎……!」

 そこには、やはり褌一丁にされた先崎が、大の字になって泡を吹いているのであった。
 彼が、他の隊員の視界から外れて、それから今まで、どれ程の時間が有ったのか。
 少なくとも、遣り口は同じ裸締め。嘲笑うように衣服を剥ぎ取るのも、同じである。

「城内だ! 探せえ! 引きずり出してやらあ!」

 結局、彼らはまた、休む機会を失った。
 眠りもせず、飯も食わぬまま、夜を徹して村雨を探し回る。
 だが、村雨を見つける事は、ついぞ出来なかった。

「んー……後は明日でいっかぁ」

 一人だけ飯をたんと喰った村雨は、天守閣の屋根を寝台代わりに、夜空を天蓋に、すやすやと眠っていたのであった。








 翌朝――赤心隊の面々は、意識を失っていた者を覗いて、此処まで一睡もしていなかった。
 城の外へ出ていた者も戻ってきて、今動けるのは十九人。いずれも、喧嘩ならば自信が有るが、兵の指揮のいろはも知らぬ連中である。
 それでも最低限、集団で行動をし、常に周囲に目を向けるという事だけは怠らなかった。
 寧ろ怠らなかったこそ、皆が揃って寝不足であるのだが、今は一つでも多くの目と手が欲しい彼等である。加えて、〝してやられた〟ままで高鼾もかけないのが、彼等の精一杯の見栄でもあった。

「どうする……?」

「どうするってもな……」

 だが、彼等に出来るのは、防御の姿勢を取る事だけ。
 村雨の攻め口は、山の獣と同じ。自分が自由に動ける領域に陣取って、敵の不意を突き、着実に仕留めるものだ。
 山の獣を狩り出すには、熟練の猟師が必要だ。彼等に、その技法は無いのである。

「……まず、飯だ! それが最初だ……!」

 彼等とて人間、食わねば持たぬ。二人ばかりが重い足取りで、賄い方へ赴こうとした矢先であった。
 拳大の石が、障子を破って、大部屋に飛び込んできたのである。
 それも一つ二つでなく、矢継ぎ早に幾つも。そのうち二つばかりは、障子の木枠が格子状になっている部分にぶつかり、見事にへし折った。

「何しやがんだこらァ!?」

 隊員の一人が、がらっ、と障子を開けた。
 障子の向こうは、広々とした庭園のようになっている。本丸の内は、城であろうと、風流に飾られるのが洛中なのだ。
 その庭園の、大きな丸石に、村雨が腰かけていた。
 足元には、どこから掻き集めて来たものか、拳大の石がごろごろと転がっている。

「おはよー、良く眠れた」

 健康そのものの顔で、村雨は言った。
 無論、隊員達の徹夜明けの心を、余計にささくれ立たせる言葉であった。

「ふっ――ざ、けん、なぁっ!!」

 大部屋から中庭に、草履を突っかける暇も惜しんで、隊員達は飛び出した。すると村雨は、丸石から飛び降り、くるりと踵を返して走るのである。
 隊員達は、全員で追う。だが、追いつけない。
 元より、平地で人狼と、駆け競べをしようというのが無謀である。まして空腹に疲労、寝不足に裸足と、悪条件が揃っている。
 寧ろ村雨は、引振り切ってしまわぬように、後方を確認しながら馳せて――遂に庭園を走り抜け、本丸の塀に飛び乗った。
 塀の向こうには内堀がある――冬の事でもあり、表面には氷が張っている。水面と塀の頂点との距離は、低く見積もっても三間はあるだろう。庭園側から見ても、塀の高さは七尺ばかり――そこへ村雨は、一飛びに登ったのである。

「おーにさーんこーちらー、こーこまーでおーいでー」

 子供同士でしかやらぬような、あっかんべぇ。舌を出す村雨に、ようやっと一人が追い付き、塀に飛び付いた。

「この餓鬼……逃げんなよこら! くそ、このっ……!」

 身の丈よりもうんと高い塀だ。中々、一息には登れない。それでも、腕を引っ掛け、足を持ち上げ、やっとこ体を半分も持ち上げた、その時であった。

「よっ」

 村雨が塀の上から、その隊員の腕を掴んで、思い切り引き上げたのである。
 いや、引き上げただけならば良い。隊員の足が塀の上に乗っても、村雨は体を後方に傾け、足を突っ張ったままであった。
 繰り返しになるが、時節は冬。内堀にはうっすらと氷が張るほどの寒さであるし、塀の頂点から堀までの落差は、少なくとも三間。
 塀の上で、追ってきた隊員一人をがっしりと捕まえて、村雨は微笑み、

「はい、どーん!」

 そのまま、落ちた。

「な、長倉ぁーっ!?」

 後方から走ってきて、やっと他の隊員が追いついた時には、村雨は長倉隊員を抱え、真冬の堀の中へと飛び込んでいたのである。
 さしもの恐れ知らずの赤心隊とて、数間の高さを飛び降りて、堀の水に入るというのは堪らない。

「くっ……回り込め、逃がすな!」

「逃がすな、あの餓鬼が出たぞ、追え! 追えーっ!」

 場内を走り、本丸の門を出て、内堀に沿って走る。
 ようやっとたどり着いた時には、ずぶぬれで羽織を剥ぎ取られ、そしてやはり首を絞められて意識を失っている長倉隊員の姿があった。
 村雨の姿は見えない――雪に足跡さえ残っていない。

「水中か!?」

 誰か一人がそう言って、堀を覗き込んだ時、彼のすぐ近くでうずたかくなっていた雪山が蠢いた。
 中から、手が突き出る。
 堀を覗き込んでいた隊員の、襟を掴む。
 足が雪山から出てきて、隊員の尻を蹴った。

「痛えっ――あ、お、おうわあぁっ!?」

 ばしゃあん、と盛大な音を立てて、その隊員も堀の水へ落下する。
 村雨は、雪の中に隠れていたのである。

「ほらー、こっちこっち! もうちょっと付き合ってよ!」

「うぐうう、ぐううっ……! こん餓鬼ゃああああぁっ!」

 村雨はどこまでも、赤心隊をコケにする事だけを考えているようであった。
 再び突風のように駆け去る村雨。追いつける者がある筈も無く、また堀に落ちた仲間を引き上げねばならない。

「ひぃ、ひぃ……寒ぃ、さみぃよう、さんびぃ……!」

「馬鹿っ、引っ付くな、濡れる、冷てえっ……ちっきしょおおおっ!!」

 爽やかな冬の朝に、叫ぶ声がこだまして、だがそれだけ。
 結局この日も、村雨を捉える事は適わず、そして何人かが絞め落とされては、羽織を奪い取られたのである。








 そうして、また次の日になった。
 この日、赤心隊は、大部屋に篭って動かなかった。
 二日の徹夜で疲労が限界に来た為、半分は眠り、半分は見張りに徹しているのである。
 効果は有ったのか、朝から、被害はまだ出ていない。
 然し、少女一人に大の男が、二十人近くも、篭城を決め込まされているのである。
 もはや面子はずたずたで、一矢報いてやろうという気概も萎えかけている。
 まずは負けない事、叩き伏せられない事を第一目的としての篭城である。

「……なっさけねぇ」

 そんな風に呟く者もいたが、どうにもならぬことであった。
 重苦しい沈黙は、暫く続いた。
 すると、大部屋の襖が、がたっ、と音を鳴らして動いた。
 隊員達は皆、ばね仕掛けの玩具のように立ち上がる。

「よっ、帰ったぞーう」

「た、隊長ォ!」

 上機嫌で戻ってきた冴威牙は、寝起きそのまま、髪も寝癖で乱れたままであった。
 余程に飯が美味かったのか、血色良く、心なしか肌のつやまでが良い。疲れは無く、背筋がしゃんと伸びている。
 その三歩後ろには、未だ夢見心地の顔で、紫漣が続く。

「……ぱらいそは有りました」

「何言ってんですか姐御」

 翼を動かさずとも浮かび上がっていきそうな紫漣に、隊員の一人が思わず釘を刺してから、

「……じゃねえんすよぉ! 聞いてくださいよぉ、このままじゃ俺達の立つ瀬がねえ!」

「どうにかしてくれよ隊長!」

「隊長!」

 大の男達がわらわらと、餓鬼大将にやられて親に泣き付く子供のような顔をする。

「あー、お前達、もう散っ々にやられてんのな。だっせー」

「笑いごとじゃねえんですって!」

「いーや、あそこまで行ったら笑うしかねえって。なぁ、紫漣?」

 何やら含みを持たせ、冴威牙は言った。その間も、抑えきれぬ笑いを、無理に噛み殺しているような様子である。

「……?」

「なんだ、紫漣。お前、あれ見てねぇのか……しゃーね、見に行くぞ、おら」

「あ……待ってくださいよ、隊長!」

 その言葉の真意を取れる者はいなかったが、冴威牙は紫漣の手を引いて、再び廊下の方へと引いて行く。
 赤心隊の隊員達が追って行くと、冴威牙は本丸の門を出て、其処で振り返り立ち止まっていた。
 視線は、高くを向いている。
 門の上に何か有るのかと思ったが、それよりもまだ上――かなり首の角度が急だ。
 紫漣も、同じく顔を上空に向け、だがこちらは酷く強張った顔をしている。

「なんっすか、もう!? あんな所に何が――」

 隊員達も追い付いて、同じ所へ目をやった。
 門より上、更に高く高く、天守閣の屋根の上に――

「――ある、って、て……てめえええぇっっ!!」

 真っ赤な旗が、翻っていた。
 いや、旗ではない。布ではあるが、旗として作られたものでは無いのだ。
 それは、羽織である。
 赤心隊の、気絶した隊員から剥ぎ取られた羽織が、物干し竿に括り付けられて、旗のように風を受けていたのだ。

「ひい、ふう、みい……なんだお前ら、半分もやられてんじゃん。まじだっせえ」

 冴威牙は、旗の本数を指差し数えて笑っている。
 よくよく気付けば、笑っているのは彼ばかりでなく、通りすがりの城中の兵士やら、役人まで笑っている。
 傍若無人、決して良くは見られていない赤心隊が、散々に馬鹿にされている。それが面白くてならないという風に、口こそ手で抑えているが、明らかに笑声が零れだしていた。

「これ以上続けるー? どうするのー?」

 天守の屋根の上から、村雨が叫ぶのが聞こえた。
 羽織の旗を一つ掲げて、誇らしげに振っている。顔の腫れも引いていて、勝者らしい姿である。
 続けると答えれば、また何処かに隠れるのだろう。そうして、隊員達が諦めるまで、不意打ちを続けるに違いない。
 赤心隊には、酷く分の悪い戦いである。

「ひっはははははは……ぁあーあ、こりゃお前らの負けだ、負け! 認めねえと駄目だろ、なぁ?」

「冴威牙様! どうしてあのような小娘に!」

 案外に冴威牙は、短気な気性とは裏腹、愉快そうに笑うばかりであった。
 それが気に入らないでか、紫漣が、金切り声を張り上げる。

「だってよ、あいつ、俺に喧嘩を売ってんだぜ? しかも殴り合いじゃなくて、どっちが群の上に立つかって所で喧嘩やってんだもんよぉ。俺がこいつらに味方して、あいつに蹴り掛かってみろよ。俺たちゃ指差されて笑いもんだろ?
 それに、俺はいっつも言ってんだろ。偉い奴が偉いんじゃなくて、強い奴が偉いんだってよ」

 実際の所、村雨と冴威牙が正面から戦った場合、何れが勝つものか――互角では無いだろうか。
 冴威牙には技術という概念が無く、村雨は武を僅かなりと身に付けたが、それだけで大きく差が着くものでもない。
 何れかが死ぬまでやれば、もう一方は重傷を負う。その程度には拮抗しているだろう。
 然し村雨は、勝ち負けの基準を、別な所に置いた。
 互いに獣であるならば、無視は出来ぬ形。かつ、自分が有利に立てる競い方である。
 端的に言えば、器の勝負。村雨が成果を挙げて、認めるかどうかは冴威牙に委ねる。
 そういう事が出来る雌であったかと思えば、冴威牙には、鷹揚に構える他は無かったのだ。

「……納得できません!」

 冴威牙の笑声を遮るのは、紫漣のつんざき声であった。
 一対の白翼が背に伸びて、それが虚空を叩き、風を巻き取る。
 忽ちにその体は、天守の屋根まで舞い上がり、村雨の正面に立った。

「お久しぶり。何時以来だっけ」

 この二人も、過去に一度、対面している。
 商家に預けられた娘であるみつが、赤心隊に捕らわれ、村雨がそれを助けようとした事が有る。その折、村雨もまた捕えられたが、白槍隊の長である波之大江三鬼に救われた。
 三鬼と冴威牙は、行動の是非で口論となり、ではどちらの言が正しいかと、みつが隠れていた小部屋を改めた。
 元々は、仏教の経典等が散らばっていた部屋である。現在の洛中では、仏教徒は即ち反逆者であるとして、理由無しに捉え、断罪する事が許されている。
 この時は、商家の店主が、事前に部屋の本類を摩り替えていた為、大事には至らなかった。
 然し、たった一つ見落としがあった――小さな仏像だ。
 それを見つけた紫漣は、そっと振袖の裾に隠し、何も言わずに居たのである。

「……あの時、追い払うだけでなく、殺しておくべきでした……!」

 情では無い。打算であった。
 紫漣がそのような事をしたのは、己が為である。
 冴威牙と赤心隊の面々は、捉えた女を嬲りものにする悪癖持ちである。故としては、娯楽としての意が一つ、見せしめの意が一つ、そして当人の心を抉る為が一つだ。
 紫漣は、それを内心、嫌っている。
 良心が為では無い――極論、隊員達が女を犯すのは、どれだけやってくれても構わない。日の本中の女にそうしたとて、紫漣は微笑みを崩さずに居られるだろう。
 だが、冴威牙が自分以外の女に触れるのが、紫漣には我慢ならない事であるのだ。
 止めろと言って、聞く男でも無い。
 それ以前に、自分の言葉で、冴威牙の行動を制限したくない。
 紫漣は冴威牙に、もはや狂信に近い程の懸想を抱いている。
 だから、村雨とみつを冴威牙から遠ざける為に、仏教徒である証を隠して、庇いだてのような真似をしたのだ。
 然し、今となれば、それは間違いであったと、紫漣は思っている。
 ほんの一時、己が耐え忍べば、冴威牙とその部下が嘲笑される事は無かったのだ、と。
 己の失策は、己で償う。
 紫漣の目には、死鬼が如き怨念が籠っていた。

「死ねえぇっ!」

 懐に手を入れ、抜く。
 紫漣の手には、錐を幾分か太くしたような凶器が握られていた。
 胸に刺せば心臓まで届くだろう、貫通性の極めて高い武器。
 それを紫漣は、村雨の眼球目掛け突き出していた。

「はいやっ」

 村雨は、左手で軽くそれを打ち払っていた。
 軌道を反らし、入れ違いに右手を突き出す。
 人差し指と中指だけを伸ばし、紫漣の顔へ――眼球に届く手前で、寸止めにした。
 睫毛に指先が触れている感触は、僅かの手違いで、目玉二つが奪われていたと如実に示しており――

「くっ……う、ううっ!」

 呻きながら、今一度。次に紫漣が狙ったのは、村雨の喉である。
 然しこれも、単調に突き出すだけの攻撃。人狼の目で、見切れぬものではない。
 やはり左手で払いながら、今度は手首を掴んで引き、姿勢を崩させて、右手を振るう。
 親指の腹で喉に触れ、ほんの少しだけ押し込んで、止めた。

「うっ……!? っく、けほっ、こほっ」

 紫漣が咳き込み、背を丸める。
 立っている村雨に、後頭部を無防備に曝け出す姿勢である。
 だが――紫漣は、此処で殴ったり蹴ったりという攻撃が来ない事は読んでいた。
 そうまでするのは〝やり過ぎ〟だ。他の隊員達からの反発が、抑え込めない所まで高まってしまう。
 だからこの時、こうして背を向けている間は、何もされず――自分が呼吸を整える時間として使える。
 数度の呼吸で、心臓が落ち着く。

「――やあああぁっ!!」

 そして紫漣は、翼が生む推進力も合わせ、眼前の村雨向けて思い切り、体を伸ばすように飛びかかった。
 狙う位置は、腰から下――下腹部の、何処でも良い。手での防御がやり辛い位置だ。
 立ち位置が近すぎて、足を持ち上げるのにも自由が利かない、そういう場所である。
 それも、空振りする。
 紫漣の視界から、村雨が消失していた。

「……っ!?」

 何処に行った――探すまでも無い。
 後方から腕が伸びてきて、紫漣の両手首を掴み、動きを抑え――

「ひゃううぅ!?」

 紫漣が頓狂な声を上げ、腰を抜かした。
 村雨は後方から、紫漣の耳を食み、耳孔を舌で擽ったのである。
 へたり、動けずに居る紫漣を置いて、村雨は屋根を一段ずつ伝い、地上に下りた。
 真っ直ぐ冴威牙の方へと歩けば、その間に立つ隊員達が、ざあと二つに分かれて道を開ける。

「お前、何処で覚えたよ?」

 そう言いながら冴威牙は、村雨に手を差出した。
 取れるかと、言外に聞く、握手である。

「ないしょ」

 そう答えて村雨は、冴威牙の手を握り返した。
 手に力は籠められていたが、同じく力で握り返す。
 そうしながら、どうという事も無いと言うように、村雨は平然とした顔を見せた。
 自分の意思を、自分の力だけで通した――すがすがしさが、そこには有った。








 さて、また日が変わり、村雨が大立ち回りを演じた翌日となった。
 詰所代わりの大部屋には、小さな机が一つ運び込まれている。村雨が、自腹で買い求めた机である。
 その前に朝から座って、村雨は何やら、紙に筆で示していた。

「ねえ、こんな感じでいいの?」

「問題は無い、と思われるが……」

 その文面を横から覗き込む者が居る。
 先程まで、いやその表現は改めるのが良い、いやその字は間違っていると、あれこれ校正に口出していた者でもある。

「そう? 良かったー……じゃあ、これで行って見る?」

「……然し、何故拙者を呼んだ」

 なんとその男は、巨体の鬼であった。
 身の丈は一丈二尺八寸、体重二百四十七貫。座っていても、村雨が立つよりまだ巨体――白槍隊の隊長、波之大江三鬼である。
 清廉潔白の精兵部隊である白槍隊と、狭霧兵部の私兵として専横する赤心隊は、決して仲が良くはない。為に、赤心隊隊員の目は、かなり刺々しいものが有った。

「政府軍の人で、知り合いがいないんだもん。あなたは二回会ってるし……それに、親切だったからね」

「親切、とな」

「あの時は助けてくれてありがとうございました」

 冴威牙に捉えられた折、村雨は三鬼に助けられている。礼も言わぬままであったと思いだし、仕上げた書状を畳みながら、数か月遅れで村雨は感謝を言葉にした。

「……礼には及ばぬよ。こやつらの蛮行、拙者には些か思う所が有ってな」

 赤心隊の隊舎の中に居ながら、三鬼は堂々と、彼等への悪感情を口にする。その裏には、彼等全員が敵に回ろうと、己一人で捻じ伏せられるという自信も有るのだ。
 だが、無双の剛力を誇る鬼であろうと、あまり正面から好意を向けられると気恥ずかしくなるものか、顔を横へ背けながらの謙遜であった。

「……それに、打算も少し」

 三鬼が首を向けた方へと回り込みながら、村雨は言葉を続ける。

「ほう、申してみぃ」

「あなたの口添えが有ったら、この申請が通り易かったりしないかなーって」

 片目を瞑り、悪戯っ気を押し出すような表情を、村雨は作ってみせる。
 その言葉は、三鬼には余程の不意打ちであったのだろう。言葉の意を取ろうと、暫し間抜けな顔のままで居た。

「……口添え?」

「そう。私だとまだ実績も無いしさ、通らないんじゃないかなーって思って。あなただと、ほら、ちょっと怖い顔したらなんでも通りそうじゃない?」

 邪気無く、村雨はそういう事を言った。
 子供が上手い事を思い付いて、それを父親に自慢しているような口ぶり――とでも言えば良いのだろうか。自身も父親である三鬼には、堪らない声音である。
 村雨が作っていたのは、赤心隊の兵員増強に関する申請であった。
 羽織などの軍装に加え、月給、賄いなど、現隊員と全く同等の待遇を得られる者を、幾人か。
 だが、追加する人員の名前は空欄。これから村雨が、己の目で選ぶという事であるらしい。
 数十や数百という規模では無く、たかだか十数人の枠が欲しいという内容では有るが――成程、ただ村雨が提出したのでは、あっさりと却下されるだろう。

「ねー、もう一回だけ手伝うと思ってさー」

「……子供と思えば、とんだ悪党にござった」

「悪党上等、これでも『錆釘』でやってきたんですー。これが通れば、いろんな事が出来ると思うからさー」

 額に手を当て、厄介な子供に捕まったと呻く三鬼だが、村雨は殊更に明るい声を保って、その顔を更に覗き込む。
 江戸に居た頃から、中年の男には受けが良い村雨である。自分の取り柄を最大限理解して、三鬼に強力をねだるのであった。

「〝いろんな〟とは、どういう」

 頭を抱えたまま、三鬼は問う。

「例えば、戦争を止めたりとか?」

 その問いに村雨は、何も気負う事なく、軽く投げるように答えを出した。
 あまりに軽く発された為、何一つ聞き逃しはしなかったというのに、三鬼は己の耳を疑った。
 顔を上げて見れば、村雨は何か特別な顔をするでも無く、ただ、中年受けが良くなるように朗らかな顔を保っているばかりであった。

「……その言、真実にござるか」

「具体的な方法は、まだ何も見つけられてないけれど……でも、私一人より、人手が多い方がいいでしょう?
 正直ね、私は運が良かったと思う。良い人にばっかり出会えたし、強くなれた――三鬼さんにだって助けて貰えたしね。だからこそ、〝運が良かっただけ〟で終わらせたくない。折角の運を全部使い果たすのが、私のやるべき事だって思うの」

「願いが通ったならば、まず、何をする」

「もっと、もっと人を集める」

 三鬼は座り、村雨は立ち――これで顔の高さが、やっと同じ。額を突き合わせて、二人は話している。
 肉の重量ならば、三鬼は村雨の十倍も、二十倍も有る。それに比例するだけの重圧も備えている。
 だが、この時、会話の主導権を握っているのは村雨であった。村雨が、鬼を、意気で呑んでいた。

「人に会うと、その繋がりが、また別な人に合わせてくれる。そうやって繰り返して行けば、何時か、手がかりが見つかるかも知れない。
 兵部卿より偉い人に会えて、その人から戦争を止めてくれるように命令してもらえるかも知れない。何処かの凄い軍を持ってる人に会えて、比叡山の包囲網を突き破れるかも知れない。
 どんな方法が有るかは分からないけど――とりあえず、動いてみたいの、その為に」

 三鬼は、最後までその言葉を聞かなかった。ぬぅと立ち上がり、天井に頭を擦らせながら、障子を開け放つ。
 二条城の庭園は、雪の為にその造形美は隠されているものの、広さと白さが眩い。その上を、鬼灯の如き目で睨んで、三鬼は暫し立っていた。

「……娘御。改めて問う、名は」

「村雨」

「良い。村雨、拙者に着いて参れ」

 ずん、と重い足音を立てて歩き始める三鬼。その腕に飛び付くようにして、

「ありがとう、おじさん!」

「……おじさんは止めてくれぬか」

 村雨は最後まで、子供のような振る舞いを忘れなかった。
 目的の為なら、少々の良心の呵責は押し殺す。
 厚かましく図太く、成長したものであった。








「さーって、と。こっちは終わったしー……ルドヴィカ、そっちはどう?」

 書類を提出し終えた村雨は、休みもせず、練兵場まで走った。
 練兵場――政府軍の兵士達が、集団行動や武器術を学ぶ為の場である。
 二条城から見て北に、広い土地を確保して作られているが、多い時には数千の兵士が一度に集まり、調練に励む。
 ルドヴィカ・シュルツは写真機を首から下げて、手に何枚もの写真を持っていた。

「終わってるわよ! ……ったく、私を雑用係みたいに使いやがって」

「上司だからねー。私のおかげで犯罪者じゃなくなったんだから感謝するように」

 ルドヴィカも立場上は、赤心隊の隊員である。赤い羽織が支給され、それを常の衣服の上に重ねている。
 元々、政府の公認誌として文章を書いていた所が、政府の――というよりは狭霧兵部の意向に背いた文章を書き、為に追放されていたのがルドヴィカである。追放後も洛中に潜み、取材と称して非合法の瓦版を売り歩いていたが、村雨が持ちかけた計画に乗ったのだ。
 即ち、政府の中から、内乱を見る事。
 村雨は、戦を止める為。そしてルドヴィカは、戦を己の目で見て、文献として残す為。その為に、白昼堂々と、政府の目の届く所を歩ける立場が欲しかったのだ。
 そして、今の所、その計画は上手く行っている。上手く行っている間はルドヴィカも、文句は言いつつも、村雨に協力はするつもりであった。

「……それが?」

「ええ、動きが良い奴って注文だったから、これくらい撮っておいたわ」

「ふぅん……ちょっと貸して」

 ルドヴィカは村雨に、手に持っていた白黒の写真を渡した。
 写真は何れも、かなり近くから撮影したものである。
 訓練の最中と見えて、手足は動き、ぶれているが、顔だけは確りと映っている。
 併せて数十人分――成程、精悍な顔立ちの男、或いは女ばかりである。

「ん、ありがと! この人達、どの辺に居るか分かる?」

「……あんた、まさかあの人数の中を探して回るつもり? 別に呼んであるわよ」

「あれま」

 あの人数――今日は少々少ないが、それでも千人近くが鍛錬に励んでいるのだ。そこから、白黒の写真を頼りに探すのは一苦労だろう。

「どうせ、引き抜きでも掛けるんでしょ。たっぷり赤心隊の特権乱用して、教官から命令させて、そっちに待ってて貰ってるわよ」

「ルドヴィカ、やるねー。ありがと、ちょっと行ってくる!」

「はいはい、私は適当にぶらついてるわよー」

 ルドヴィカが指さした方向――屋根もある、休憩所のような場所である。
 本来は、練兵を視察に来たお偉方が休む為に設けられた場所だが、その為にやたらと広い。百人ばかりは収容できそうな空間である。そこに兵士達が、数十人ばかり待機していた。

「こんにちはー、集まって貰ってごめんなさいね」

 村雨がその部屋へ入って行くと、兵士達は無言で姿勢を正す。
 一つ一つは小さな足音が集まって、ざん、と大きな音になって、村雨を叩いた。

「……うわお、格好良い」

 規律正しい、真っ当な兵士――数日ばかり赤心隊のちんぴら崩れを相手にしていた村雨には、新鮮に感じられるものである。
 一糸乱れぬ彼等の佇まいを、心地良いものと見ながら、村雨は彼等の間を歩いた。

「ちょっと、失礼するね」

 兵士達の間を擦り抜けて、左から、右へ。
 それからもう一度、右から左へと、抜ける。
 全ての兵士の横を、一度は必ず通るようにして、村雨は歩き――三人の肩を叩いた。

「ん、良し。皆、訓練の邪魔してごめん、ありがとう。もう戻ってくれて大丈夫だよ」

 そう言って村雨は、休憩所を出る。
 兵士達も、何故集められたのかは分からぬのだが、良しと言われた以上、留まっている理由も無い。皆、ぞろぞろと休憩所を出て、また練兵場へと走って行った。
 村雨は、彼等を見送ってから、また休憩所へと戻る。
 其処には、村雨に肩を叩かれた兵士が三人、思い思いの恰好で残っていた。
 一人は、床に胡坐を掻いている。
 一人は、寝そべっている。
 そして残る一人は、壁に寄り掛かって立っている。
 彼等三人は、村雨が戻って来るや、分かり易く好奇の目になった。

「や、悪いね、残ってもらって」

 村雨はそう言いながら、片手を上げるだけの、肩肘張らない挨拶をする。それから、胡坐を掻いている一人の前に、同じ格好で腰を下ろした。

「なんであなた達を選んだかは、まぁ……多分、分かって貰えてると思うんだ。だから用件なんだけど――」

 そこまで言うと、村雨の正面に座る兵士が、手を伸ばして言葉を静止した。

「待遇次第だ。働く場所はどうなる?」

「赤心隊の隊員、かつ私の直属の部下。……まぁ、あの兵部卿の直下の部隊って事だから、割と大事にされるんじゃないかな?」

「赤心隊か……」

「前は本陣守護だったし、平時はどれだけ休んでても起こられないし。休日取り放題、勤務時間に外出し邦題だよ」

「ひっでえ」

 座る兵士は、提示された待遇を笑い飛ばしながら、制止の手を引っ込める。
 胡坐を解き、正座に変えて頭を下げた――村雨の言を受け入れたのである。

「お給料は?」

 次に訊ねたのは、壁によりかかった男だった。

「うちの娘が育ちざかりで、可愛い着物を着せてやりたくって」

「お給料は良いみたいだよ……というより、兵士のお給料が安すぎるだけかも」

「頭も技術も無い輩が、最後に稼げる手段がこれなんだって。嫁さんに逃げられちゃってさー……」

「あちゃー……うん、今の倍くらいにはなるんじゃない? 赤心隊、正直貰い過ぎな所もあるからね」

「気に入った!」

 その男は立ったまま、左の掌で、右手の拳を包んだ。
 大陸風の礼ではあるが、こちらも良しと認めたのである。
 さて――残るは一人、寝そべったままの男。
 村雨は、寝そべる男の近くにまで赴き、膝を曲げて屈んだ。

「……どおらっ!」

「わっ!」

 するとその男は、いきなり両脚を振り回して、村雨の頭を狙ったのである。
 村雨は咄嗟に飛び退くも、何か身構えるというような事はしない。両手をだらりと垂らして、ただ、立っているだけである。

「……あなたの望みは、聞かなくても分かっちゃった気がする」

「そうだ、強い奴に俺は従う」

「やっぱり? あなた、〝熊〟なのに気性が荒いんだね」

 男は立ちあがり――姿を変えた。
 男の肩と腕が、倍程にも膨れ上がり、体を針金の如き体毛が覆う。
 体毛の色は、黒。下手な刃物なら弾いてしまいそうな、分厚く硬そうな毛である。
 手も変わる。ごつく、節くれだち、爪は長く鋭く、そして湾曲する。
 亜人――熊の亜人である。
 一般的に熊の亜人は温厚かつ臆病な者が多いが、この男はそうでは無いらしかった。

「ぅうおおおおぉっ!」

 巨木の如き腕が、村雨の胴体目掛けて薙ぎ払われる。
 直撃すれば、家の柱でさえ圧し折りかねない腕である。
 また、速度も恐ろしい。
 あまりにとんでもない速度で振り回されたが為か、爪が笛のように、ひぃと音を鳴らした程だ。

「ほぉおおお……熊、すごい」

 だが――村雨はそれを、感嘆しつつも避けていた。

「……んが!?」

 村雨は、振り抜かれた腕の上に飛び乗り、爪先を、男の顔の手前で止めていたのである。
 靴の爪先が、眼球に触れる一寸手前――まさに寸止め。
 お前の目を奪えていたと、暗に警告する一手であった。

「へー、あんたは熊か。その図体だと、腹も減るでしょ?」

 壁に寄り掛かっていた男が、動けずに居る熊亜人の後ろまで歩いて行き、そう言った。
 日の元の人間、特にある一定の線より上の年齢層は、亜人を好まない者が多い。
 然しこの男は、寧ろ朗らかになって話しかけるのである。

「ちなみに俺は、こういう感じ。嫁さんもそうだったんだけどねー……なんで逃げられたんだろ」

 寄り掛かっていた男が口を開くと、その奥から、二股の舌が顔を覗かせた。
 見れば、瞳孔の形状も何時しか変質し、縦に長く化けている。
 手の甲に浮かぶ緑のものは、鱗であろうか――この男は〝蛇〟であった。

「……やっぱそういう事か。なら、俺達の大将は何なんだ?」

 正座に切り替えてそのままだった男は、全身がぐうと巨大に膨れ上がる。
 どうにも、人と獣の間の姿というものが、かなり獣に近い性質であるらしい。
 腕の形状はさておき、手首から先は完全に前足に化け、また衣服の隙間から尾が伸びた。首から上は完全に、虎のそれに変わってしまった。

「冴威牙の事? あいつは多分――」

「違う、違う。あれが亜人だってのは知ってるんだよ、有名だ。そうじゃなくて、俺達の大将」

「つまり、お嬢ちゃん。あ、お嬢様ってお呼びした方が良い?」

 虎男が言い掛けた言葉を、蛇男が冗談めかして繋ぐ。
 この二人は既に、村雨の提示した条件下で働くつもりでいるらしく――

「俺達ばっかり種明かしはねぇだろ……だろ?」

 熊亜人も、腕に村雨を乗せたままだが、重そうな顔一つしないでそう言った。
 三人に促された村雨は、にぃと笑ってみせると、服の袖を捲り上げる。
 その腕が、灰色の体毛に覆われる。
 首も、衣服に隠れて見えないが背中も脚も、同様に変わっているのだ。
 眼球強膜の変色、瞳孔拡大、歯列の形状変化、関節可動域の拡大――冴威牙に言わせれば〝美人に化けた〟姿で、

「私は村雨、狼。人狼なんて呼ばれ方の方が多いかもね」

「……ひゅう。思ってたより怖いお嬢様でございました」

 蛇男が茶化すように口笛を吹いた。
 村雨の計画の一段目――それは、亜人を集める事であった。
 兵士が数千も居るならば、その中に何人かは混ざっているだろうと、村雨は推測していた。
 果たして推測の通り、臭いが明らかに違うものは居たし、それは容易く嗅ぎ分けられたのである。
 ルドヴィカに、兵士の中でも動きが良いものを選別させる。
 その中から村雨が、更に亜人だけを選び、部下とする。
 何故、亜人だけを選ぶのかは――これも幾つか、理由が有る。
 大なり小なり、亜人は、人間社会で疎外感を覚えている者が多い。だから、同じ亜人である自分に与する者は多いだろうというのが、一つ。単純に身体能力が高い者が多いのも、一つ。加えて、臭いが独特である為、村雨が後から探そうとする時、人の群れに混ざっても見つけやすいというのが一つである。
 もう暫く村雨は、この選別を繰り返すつもりで居た。
 練兵場は、全ての兵士が、少なくとも五日に一度は訪れる。つまり五日間張り込めば、洛中方面に居る、全ての政府軍兵士を見られる事になる。
 そこからの一次選別は、ルドヴィカの目に全てを任せる――人を見て値付けする事に慣れた目だ。
 最終的に、十数人も集まれば良いと、村雨は考えている。
 それ以上では、今の自分には扱い切れない。少なすぎれば力を発揮できない。きっとその線が限界であろうと考えていた。

「で、俺達はどうするんだ。赤心隊って言われても、なんか気に入らないぞ」

「じゃあ、村雨組はどうだ。いかにも悪党みてえでいいんじゃねえかな」

「え……なんかやだ。私は正義の味方でありたいんだけど」

 虎男がそう言うと、熊男が、思いついた案をそのままに口にする。残念ながらその案は、村雨によって一蹴される。
 呼称はさておき、兵部卿の私兵である赤心隊の中に、更に村雨に傾倒する一派が、これから出来上がって行くのだ。
 数日――僅か数日で、詰め所代わりの大部屋は様変わりするだろう。
 その光景が楽しみでならず、村雨は、三人と硬い握手を交わした。








「……冴威牙様。どうして何も言わないでいらっしゃるのです!」

「だーかーらー、言っただろ? 買わなきゃねえ喧嘩も有るんだって!」

 その大部屋の中では、寝そべる冴威牙を、紫漣が揺り動かしながら、強く訴えていた。
 元は紫漣が、赤心隊の副隊長であった。
 それが、狭霧兵部のたった一言で座を追われて、挙句後任の村雨は、何やら勝手に動いている。
 村雨が上げた申請は、赤心隊の隊長である冴威牙の元へも、勿論知らされている。申請の書面さえ、原本に目を通しているのだ。
 書面は、村雨と、波之大江三鬼の連盟で提出されていたが、冴威牙はそれに、自分の名まで書き加えて再提出したのである。

「信じられません……貴方が、冴威牙様が、私達の王なのです! それなのに、あんな小娘に好きにさせるなんて……」

 紫漣は、もはや半狂乱という有様で、髪を振り乱し、冴威牙に縋り付く。
 然し冴威牙の目は、紫漣も、他の隊員の誰をも見ず、何処にも焦点を合わせないで虚空を彷徨っていた。

 ――群れの長として、挑戦されている。

 冴威牙は、犬の亜人である。
 冴威牙は幼い頃より、群を為すのが好きだった。
 種族の為も有るのか、そういう気性に生まれついてしまっただけなのか。数歳年上の子供まで、喧嘩で叩きのめし、従えて歩いたものである。
 だが、日の本で、亜人は蔑まれる存在であった。周囲の子供が、そういう〝分別を弁える〟歳になると、冴威牙は生まれた土地を離れ、あちらこちらと彷徨い歩いた。
 然し、生き方は変わらない。
 力を見せ、叩き伏せれば、力に餓えた若者は、例え亜人にだろうと従う。生まれなど、力の前では霞んで消えるのだという確固たる信念が、冴威牙を支える柱となった。
 狭霧兵部和敬の部下として、膝を屈している今も、何れ力で勝ってやろうという気概は衰えていない。
 そういう男が、群の長としての力量で、勝負を挑まれたのである。
 挑んできた相手は、まだ子供のような、然も雌の狼である。
 それが、殴り合いの喧嘩の術を学んで、自分の部下をあしらって見せた。
 最も信頼している側近まで一蹴して、今また、自分の群を作ろうとしているのである。
 その動きを阻害するのは、村雨が作る群を恐れていると言うのも同じ事。
 即ち、群の長として――従える者として、劣っていると認めるに等しい事なのだ。
 少なくとも、冴威牙の価値観の中では、そうなっている。

「紫漣よぅ」

「………………」

「拗ねるなって。俺は、あのチビより良い男だろ?」

「当然ですっ!」

 不貞腐れ、頬を膨らましながらでも、紫漣はそう言った。

 ――そうだろう、その筈だ。

 群と群を比べて、勝つ。
 兵士と兵士を、副官と副官を、そして大将同士を比べて、勝つ。
 そういう喧嘩を売られてしまったなら、群の長として、退く訳にはいかない。
 真っ向から受け止めてやろう――何も妨害などせず、ただ牙の鋭さだけを競うのだ。
 冴威牙は何処までも獣として、獣である村雨の挑戦を受け切るつもりであった。